日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:豊臣秀吉

新装版 島左近 石田三成を支えた義将 (PHP文庫)

新品価格
¥1,080から
(2018/10/14 06:36時点)



1600年9月15日、関ケ原の戦い・・・!!
勇名をとどろかせたのは島左近!!
石田三成の軍師として知られた天下の猛将です。
その有志は、戦場で対峙した敵からも称賛されました。
しかし、左近の実情は謎多き人物です。

江戸時代に囁かれた言葉・・・
 
三成に過ぎたるものが二つあり
         島の左近と佐和山の城

と、天下の猛将として後世に知られた知られた島左近。
どうして左近は三成に仕えることとなったのでしょうか?
ある時、秀吉は4万石の大名となった三成に、「さぞ、多くの家臣を召し抱えたであろう。」と聞いたところ・・・。

「島左近ひとり召し抱えました。」by三成
「左近は、世に聞こえたる者・・・
 そちの元に少禄でどうして奉公することができようか。」by秀吉
「4万石の半分を分かち、2万石を与えました。」by三成
これには秀吉も驚いたといいます。
三成の軍師として知られた島左近。
左近の実情は資料が少なく、これまで知られていませんでした。

しかし、2016年大きな発見あがりました。
左近の直筆の書状が大阪で発見されたのです。
名前が嶋左近清興と、実茗が分かっただけでも大発見でした。
1590年7月・・・北条氏滅亡直後に書かれた島左近の書状です。
佐竹義久に宛てた手紙には・・・
検地の実施、兵糧米の長州などの統治方法が記されていました。
緻密な政治的折衝までやっていた・・・左近の姿が、初めて明らかになりました。

豊臣秀吉によって北条氏が滅亡・・・
代わりに関東に転付したのが徳川家康です。
豊臣政権最大の領地を有する家康・・・その抑えを期待されたのが常陸の大名・佐竹氏でした。
早い段階から家康対策として、佐竹氏を味方にしておく・・・。
家康を抑え込むことが大問題で、早くからその問題を意識していました。

関ケ原の戦いの2年前・・・
1598年8月18日、左近と三成の運命を大きく動かしたのが、豊臣秀吉の死去でした。
この時、秀吉の後継者・秀頼は僅か6歳・・・
豊臣政権の実力者・徳川家康と石田三成は日に日に対立していきます。
初めて左近は、家康攻略を三成に進言します。

左近の家康戦略①
石田の家を悪む人々が、徳川に心を寄せている・・・
敵の勢力が大きくなる前に討つべし!!と。
左近の作戦は・・・
家康の領国は関東で、兵を動かすのは難しい。
一方、三成に味方する人々は畿内に多く、兵を動かしやすい。
上杉や佐竹と組み、家康のいない関東を攻撃すれば・・・家康打倒など容易い!!と。

しかし、三成は次期尚早と、左近の策を採用しませんでした。

左近は、「どんなに卑怯な手を使ってでも勝ちたい!!」場合によっては暗殺も辞さなかったのです。
しかし三成は、豊臣政権の重鎮であり、卑怯な手段で敵を倒すのは如何なものか??と、思っていたようです。

三成と家康・・・二人の対立の発火点となったのが、1599年閏3月の七将襲撃事件です。
豊臣政権の重鎮、前田利家の死んだ夜、不満を募らせていた加藤清正をはじめとする7人の武将が大坂の石田邸を襲撃!!
三成は大坂から伏見に逃れ、九死に一生を得ます。
しかし、この事件の責任をとり、三成は居城・佐和山城に逼塞を命じられたのです。
三成失脚!!
しかし、左近は、家康攻略の好機と見ていました。

左近の家康攻略②
左近の作戦は・・・
三成の失脚で家康は油断している・・・
この機に乗じて、佐和山城の兵8000を率いて、家康のいる伏見城に攻め上ります。
家康邸を包囲し、一気呵成に攻めれば、攻略など容易い・・・

しかし、またもや三成は左近の策を却下!!

左近の家康戦略③
1600年6月、家康は上杉討伐のために大坂城を出陣!!
この時、家康は東海道で江戸に向います。
左近は、家康は近江の要衝・水口に宿泊・・・夜討ちをかけようと進言します。
これに応じた三成は、すでに長束正家と申し合わせ討つ手はずである・・・と。
長束正家は、三成と同じ五奉行のひとり・・・
この機を逃してはならない!!
左近は3000の兵を率いて出陣!!
しかし、攻略を事前に察知していた家康たち一行は、水口に泊まらず通過していました。

畿内脱出を果たした家康が江戸に到着したのは7月2日。
同じ日、近江・佐和山で大谷吉継らと共に挙兵!!
そしてここから左近の新しい家康攻略が始まろうとしていました。

上杉討伐に出陣した家康の好きを狙って挙兵した石田三成。
この時、三成の戦略とは・・・??
家康は背後に上杉、佐竹という敵を抱えている。
僅か3.4万の兵で上方へ20日かかる道を上洛するのは難しい・・・
例え上洛しても、尾張と三河の国境で討ち取れる・・・
これは、天が与えた好機である!!と。

三成は、西軍を尾張と三河の国境付近に配し、ここで上洛する東軍との決戦を構想していました。
8月8日、佐和山城を出陣した三成は、大垣城、岐阜城を攻略、美濃の大名集を味方につけることに成功!!
後は、清須城の開城が急務でした。
清須城の城主は、三成を襲撃していた福島正則でした。
正則は、上杉討伐のために留守で、留守を預かる老臣は、会場要請に応じず説得工作は難航!!
そのため、三成は清須城に近い大垣城に本陣を構えました。

この時・・・左近には秘策がありました。
”今度の合戦 尾張の熱田を本陣にして、某が先手となり 一戦仕るべく候”
左近は三成に本陣を熱田に置くべきだと進言したのです。
熱田神宮の門前町として栄えた熱田・・・
江戸時代、東海道最大の宿場町でした。
東海道のルートは、熱田から桑名までが唯一の海の道・・・七里の渡しでした。
当時、熱田の辺りは干潟でした。
当日の潮の流れは・・・干潟を徒歩で渡る100㎝を下るのは、午前7時から10時までに限られています。
もし、熱田に布陣すれば、干潟が自然の防御となり、西へ向かう敵の大軍勢を食い止めることができるのではないか??
しかし、左近の進言は、またしても三成に採用されませんでした。

三成が大垣城に本陣を構えた8月11日、東軍は岡崎に到着。。。
難所とみられた熱田を過ぎ、清須城に入城します。
東軍が清須城に入ったことで、三成の東軍迎撃策は崩れてしまいました。
東軍の進軍を迎撃する西軍・・・しかし、各地で撃破され・・・岐阜城も陥落・・・
東軍には、島津や宇喜多が集結・・・!!
杭瀬川を挟んで布陣します。
9月14日、西軍に衝撃が走ります。
東軍本陣の赤坂に、金色の扇を模した馬印が・・・家康が到着したのです。
東軍総大将・家康の突然の登場に、揺れる西軍・・・
左近は最期の戦いに・・・!!

関ケ原の戦いの前日・・・9月14日正午・・・
西軍本拠地・大垣城の4キロ先の赤坂に家康が着陣!!
動揺が広がる中、軍議が開かれました。
そんな中、左近は・・・。
「このような時には、戦を致し、兵に勇気をつけなければ、味方は敗軍に及ぶべし」と。
これこそ、左近の究極の家康攻略でした。
そして、三成は、左近の進言を受け入れます。
左近は500の手勢を率いて大垣城を出陣!!
目指すは家康本陣の赤坂!!
その間には、杭瀬川が流れていました。
この川を境に両軍が布陣・・・杭瀬川の戦いです。

埼玉県行田市にある忍城・・・
城内には、不思議な関ケ原合戦図屏風があります。

sekigahara
全国でも極めて珍しく、こちらは「杭瀬川の戦い」です。

どうして、関ケ原の戦いと同じ大きさで書かれているのか??
この戦いこそが、その後を決める大切な合戦だったのでは??



 sekigahara2






「杭瀬川の戦い」では、右上に家康本陣の赤坂、左下には西軍陣地が書かれています。
左近は、杭瀬川を渡ったところで、東軍を挑発!!
東軍が突撃開始!!
いったん退却する左近!!
西軍陣地へ攻め込む東軍!!
これこそが、左近の狙いでした。
河を渡ってきた東軍を待っていたのは、西軍の一斉射撃でした。
左近が猛攻をかけます。
この時、東軍の名のある武将、30人余りを討ち取ったとされます。
慌てた家康は、家臣の井伊直政、本多忠勝に撤退を命じます。
戦線の拡大を恐れたためともいわれています。

天下分け目の前日に行われた「杭瀬川の戦い」・・・。
既にこの時、関ケ原の戦いは始まっていたのかもしれません。
ひとまず勝った左近・・・次の一手は・・・??

この機を逃さず夜襲をかける??
しかし、百戦錬磨の家康も夜襲を警戒しているであろう・・・。
関ケ原へ転進する・・・??

1600年9月14日夜・・・
西軍最後の軍議で、左近は主張しました。
「今夜、夜襲をかけるほかない!! 
 敵に勢いをつけさせぬうちに、敵をたたくことこそ肝要である!!」
しかし・・・三成は関ケ原への転進を決断!!
そこには、小早川秀秋の動向が大きかったと思われます。

三成が大垣を出て関ケ原へ向かったのは、秀秋の謀反が露呈したため、その動きを封じるため・・・と!!
秀秋が裏切れば、大垣城が危ない・・・左近は、三成の意見に従い、関ケ原への転進が決定します。
9月15日未明・・・西軍は、無事に関ケ原へ転進。
それを追い、東軍も移動!!
東西両軍15万!!
いよいよ天下分け目の合戦の幕開けです。
左近は三成の先鋒大将として最前線で奮戦!!
左近の戦いを目の当たりにした者たちはいう・・・

左近が率いた兵士たちは、皆えりすぐりの物ばかりで、槍を合わせるとさっとのき、追撃するものを陣近くまで引き寄せ一気に殲滅するという手立てであった。
今思い出しても身の毛がたち、冷や汗の出る思いである・・・と!!

しかし、左近は乱戦のさ中、銃弾を負って重傷。
これによって左近の隊が崩れます。
これを見逃さなかったのが、松尾山の秀秋です。
島左近の陣が崩れると、秀秋は、かかれ!!と命じました。
此の一撃がきっかけとなって西軍は総崩れ・・・。
史上最大の合戦、関ケ原の戦いは僅か半日で終了したのです。
西軍は敗れ去りました。
最前線で戦った島左近は、関ケ原の戦場に散ったのです。
享年61歳でした。
そして、その凄まじい戦いぶりは、後々まで語り草となりました。

左近は本当に関ケ原で戦死したのでしょうか??
京都教法院には、島左近の墓があります。
そこには寛永9年6月26日没と書かれています。
これによると、関ケ原の後生き延びて、32年後に亡くなったことになります。

左近が生き残ったという伝説は、全国各地に残っています。
江戸時代を通じて武士の鑑と称えられた島左近。
左近の対する人々の想いは伝説となり、今もなお生き続けているのです。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

某には策があり申す 島左近の野望

新品価格
¥1,620から
(2018/10/14 06:36時点)

左近―影武者徳川家康外伝 コミック 全4巻 完結セット (トクマコミックス)

中古価格
¥1,570から
(2018/10/14 06:37時点)

ペンブックス6 千利休の功罪。 (Pen BOOKS)

新品価格
¥1,620から
(2018/9/9 21:57時点)



雷鳴轟く京の町で・・・1591年2月28日、一人の茶人が切腹して果てます。
茶聖と称えられた千利休です。
その首は橋のたもとに置かれ、無残にも木造の足で踏みつけられるようにさらし者にされました。
命じたのは天下人・豊臣秀吉です。
しかし、もともと利休を寵愛したのは秀吉でした。

1522年、千利休は堺の魚屋の長男として生まれます。
幼名は与四郎といい、父・与兵衛は海産物の取引をする傍ら、倉庫を貸し付けることで財を成した堺屈指の豪商でした。
しかし、もともと千家は武家で、祖父は室町幕府8代将軍足利義政に仕え、書画や陶磁器などの目利きをしていた唐物奉行で、利休の心理眼はこの祖父を受け継いだものかもしれません。
利休が生まれた堺は、南蛮との貿易で繁栄・・・戦国大名の力に頼らず、町衆という商人たちが自ら治める独自の統治体制を形成していました。
その町衆の中で流行していたのが茶の湯でした。
社交や商談の際に必要な素養の一つだったのです。
そこで、交易で巨万の富を築いた商人たちは、「名物」と呼ばれた中国の高価な茶道具を買いあさるようになります。
商人の子・利休も、幼いころから茶の湯を嗜み、19歳の時には当代随一の茶人・武野紹鴎の弟子となり茶の世界に没頭。
更には、茶の心に通じるとして南禅寺で禅を学び、宗易という名をもらいます。
1540年父が死去・・・家督と家業を継いだ利休は、商人としても生きることとなるのです。
利休は、堺の豪商たちと頻繁に茶会をし、交流を深めます。
それによって、地位を固め、政治経済、文化を問わず、人脈を広げていきます。

そんな利休に大きな転機が訪れたのは・・・1568年47歳の時でした。
天下布武を掲げた織田信長が、美濃から上洛!!15代将軍足利義昭を擁立し、畿内を掌握!!
その信長が目をつけたのが堺でした。
商人たちに矢銭2万貫・・・今のお金にして500億とも1000億ともいわれる金額を献金するように命じます。
堺には、冨だけでなく他にも魅力がありました。
鉄砲の産地だったのです。
町衆の自治が盛んなので、自治的な部分を押さえたかったのもあります。
この堺とのパイプを強固なものにするために、茶の湯を・・・!!
商人でもあり、茶人でも名を馳せていた今井宗久・津田宗及・・・三番手として千利休を「茶頭」に起用しました。
信長は利休を茶頭として3000石で抱えます。
それだけ茶人がキーマンだったのです。

しかし、1582年、利休が61歳の時、運命を大きく変える事件が起きます。
本能寺の変です。
天下取り目前で、織田信長が命を落としてしまいました。
信長の死から10日余り・・・山崎の合戦にて、豊臣秀吉が謀反人・明智光秀を討ち取ります。
これによって、天下取りの第一歩となった秀吉が、直後に近づいたのが利休でした。
山崎に城を築き、政務を行っていた秀吉は、そこに茶室を作って利休に茶会を催すことを命じます。
利休はその時の心のうちを、茶人仲間に宛てた手紙に書いています。

「近頃迷惑なことを任ぜられて、久しく山崎に逗留している。」

こうして、信長の三番手だった利休は、秀吉の筆頭茶頭となったのです。

秀吉が利休を優遇し、取り込んだ理由は・・・??

①信長の継承
信長は、茶の湯を政治利用していました。
茶道具の銘品を、堺の町衆から強制的に買い上げ、武功をあげた家臣たちの恩賞にすることで、人心を掌握し、強い主従関係を築くことに役立てていました。
土地をもらうのが一番の恩賞でしたが、あげ続けることはできません。
土地の代わりに茶道具うを与えたのです。
そして、手柄を立てたものに茶会を開く権利を与えるという茶道御政道を行ったのです。
茶の湯は武家の儀礼の一つとなり、いつしか茶室は政治の場となっていきました。
そのやり方を秀吉は継承したのです。
そして、秀吉は、利休を筆頭茶頭に格上げしてまで取り組みたい理由がありました。

②情報力
3人の茶頭は、堺の商人です。
堺には情報が集まってきました。
家業が貸倉庫業だったので、利休のもとには、全国の情報が集まってきていたのです。

1584年3月、秀吉は敵対する勢力織田信雄・徳川家康軍と戦います。
小牧長久手の戦いです。
この時、利休は、京や堺から頻繁に戦場の秀吉と書状を交換し、秀吉の支持を周囲に伝える役目をしています。
また、秀吉が大坂城に戻ってからは、高山右近や古田織部らと密に連絡を取り、秀吉に戦況を伝えます。
右近と織部とは、茶の湯を通じて交流があり、利休は師と仰がれていました。
利休はこうした茶人ネットワークを使って、戦が終わるまで情報集めに奔走。
秀吉の天下取りに貢献することで信頼を勝ち取っていくのです。
どうしてそこまで一生懸命になったのか・・・??
茶頭は、権力者の後ろ盾が必要だったからです。
二人は運命共同体だったのです。

1585年、秀吉が関白に就任。
姓を豊臣と改め、本格的に自らの政権をスタート支えます。
すると、秀吉は、弟・秀長と同じく利休を側近とします。
利休64歳の時でした。

1586年4月、秀吉のもとへ一人の武将が訪れます。
豊後の大友宗麟です。
九州で勢力を伸ばす島津義久の侵略に脅かされていると助けを求めて大坂城へとやってきたのです。
これに対応したのが豊臣秀長でした。
「内々のことは宗易に、公儀のことは宰相がすでに存じておるため悪いことはないはず・・・」by秀長
豊臣政権では、外交は秀長が、内政は利休がすべて任されていました。

利休は、どうしてこれほどまでに権力を持っていたのでしょうか?
そのカギは秀吉の弟・秀長にありました。
秀長は、大和・紀伊・和泉に100万石を所有していました。
秀吉からの信頼も厚く、No,2として豊臣政権を取り仕切っていました。
その秀長に利休は近づきます。
一説には、大和にあった秀長の郡山城には、相当な金銭が蓄えられたと・・・それは、利休が相当な経済援助をしたからだ・・・とも言われています。
秀長と親密な関係を結び、政権の中枢に入り込んだ利休・・・。
温厚で人望の厚い秀長は、利休の良き理解者で、秀吉との緩衝材にもなりました。
そのため、利休は、関白・秀吉にまで意見のできる力を持つことができたのです。
さらに、利休には秀長に取り入ったもう一つの理由がありました。

秀吉は、この当時まだ子供がおらず、甥の秀次を後継者としていました。
利休の秀長への接近は、秀吉死後の自らの地位を確立するためだったのです。
政治の世界で秀吉に引けを取らないほどの力を手に入れた利休でした。

農民出身と言われる秀吉は、天皇の威光を利用しようと朝廷に接近します。
そして、1585年10月、禁中に参内し、正親町天皇に茶を献じることにします。
秀吉にとって重要な日・・・当然筆頭茶頭の利休に取り仕切らせるつもりでした。
しかし、問題が・・・利休は一介の町人で、官位がなかったため、禁中に入ることができなかったのです。
そこで、利休は僧侶になることを考えます。
僧侶ならば、身分に関係なく禁中に入ることができました。
そして、利休居士となるのです。
この時64歳、千利休の誕生です。

北野天満宮・・・
1587年10月1日、ここで、北野大茶湯が行われることとなりました。
茶会開催に先立ち、京、奈良、堺などに高札が立てられます。

”10月1日から10日間の日程で、北野杜で茶会を催す
 秀吉秘蔵の名物茶道具を残らず飾り、拝見に供する
 茶の湯が好きな者なら身分不問”

この時、秀吉が身分の隔てなく平等に参加を許した理由は・・・
平和の世になった・・・武士、公家などの支配者階級だけでなく、一般庶民まで平和になったことを広く知らしめようとしたのです。
秀吉が天下人であるということを知らしめる重要なイベント・・・
利休は、堺の商人たちに参加を促す手紙を書くなど、茶会成功に尽力します。
利休の取り仕切った北野大茶湯とは・・・??
組み立て式の黄金の茶室が大坂城から運び込まれます。
800の茶席が設けられ、訪れた客は1000人を超えたと言われています。

世紀の大茶会から4年・・・秀吉と利休の蜜月は終わりを告げます。
1591年2月13日、利休は秀吉から突如言い渡されます。
「京を出て堺で謹慎せよ!!」と。
すると、秀吉の正室・北政所らが利休のもとに密使を遣わし、真意を伝えます。
関白様に謝罪をするように・・・しかし、利休は頑なに謝罪することなく淀川を下って堺に帰ってしまいました。
これにたいして怒りが頂点に達した秀吉は、2月26日、京に戻るように利休に命じ、3000もの上杉の軍勢で屋敷を取り囲み、利休を逃げないようにし・・・
2月28日・・・切腹を命じられます。
秀吉側の言い分は二つ。
その一つは、たった一体の木像でした。

①利休の木像 
京都大徳寺は、利休が修行した大徳寺派の本山で、秀吉が信長の葬儀を行った寺でもあります。北野大茶湯の後、利休は大徳寺に自費を投じて山門を寄進しました。
その壮麗な佇まいから、利休の当時の財力が伺えます。
山門は金毛閣と名付けられました。
この山門の寄進に感謝した大徳寺は、山門の楼上に利休の木像を置きます。
しかし、その木造が問題となったのです。
雪駄を履いていたことが秀吉の逆鱗に触れた・・・??
「山門の下を通るたびに、利休の足の下を潜れというのか・・・??」
しかし、これは調べればすぐにわかることで、口実に利用されただけです。

本当の理由は・・・??

②利休の着服
利休は当時、自ら製作した茶道具を売るなどして莫大な財を築いていましたが、これを秀吉側は不正行為としたのです。
無価値なものを高値で売買したり、名物の唐物と交換することは、茶道具の相場をくるませる恐れがある・・・と。
実際、利休を売僧の頂上と悪徳僧だと罵倒する者もいました。
しかし、天下人の茶頭の地位を利用して高値で売り付けていたわけではなく、その利休の茶道具の素晴らしさが人々に認められて高値になっていたのです。

どちらも表向きの理由・・・??

では、切腹させた要因は何だったのでしょうか?

利休切腹の要因①朝鮮出兵
天下統一を成し遂げた秀吉は、国外に目を向けます。
狙うは大陸進出です。
朝鮮出兵は、利休切腹の翌年ですが、かなり前から予定されていて・・・利休がそれに反対したために、秀吉の怒りに触れたのでは??というのです。
利休が反対していた資料は残っていないものの、堺商人である利休にとって博多の商人が潤うことは争いとなるからです。

利休切腹の要因②石田三成の陰謀
1591年1月・・・利休切腹2か月前のこと・・・利休の絶大な支持者だった秀長が死去・・・。
これによって秀長と利休の政権システムが崩壊・・・。
反利休派の勢力が台頭します。
その反利休派が石田三成を筆頭とする五奉行でした。
太閤検地を担当し、外様大名たちに影響力を持っていた三成が、利休に代わって政権を担うようになったのです。
三成にとって、諸大名と通じている利休は厄介な存在でした。
しかし・・・追い落としたという証拠はありません。
秀長が死んでいなければ、利休は切腹させられていなかったのでは・・・??

利休切腹の要因③茶の湯の好みの違い
利休は秀吉の茶頭となってから、茶の湯の革新に取り組んでいます。
それまで大名たちが有難がっていた高価な唐物の茶器ではなく、身近な雑器を見出していったのです。
さらに、自らの理想を追求する為に、職人に命じて茶器を作成。
「利休好み」という茶道具を生み出すなど、侘茶を大成させていきます。
これに対し、黄金の茶室など秀吉は派手好み・・・
二人は合わなくなり、利休は切腹させられた・・・??
しかし、黄金の茶室は利休の設計です。僅か三畳のその中には、利休の侘びの精神が詰まっていたといいます。

真の理由とは・・・躙り口??
躙り口は、誰もが身を屈んで頭を下げて入らなけれbなりません。
武士は刀も邪魔になるので、外に置いていかなければなりません。
これは、茶室は誰もが平等を表しているのですが・・・。
僅か2畳のまで膝を突き合わせるほどの狭い空間こそが、侘びの精神の舞台だと考えました。
共に天下取りに邁進してきた秀吉と利休・・・。
その間に大きな溝ができたのは、1590年小田原討伐が終わった頃からでした。
秀吉の考えが変わったのです。
この頃から秀吉は身分制度の確立を考えるようになってきていました。
下剋上を凍結させようという目的があったのです。
そこに、平等を唱える利休は邪魔な存在となっていました。
そしてこの頃から、堺の商人も没落し、堺の役目も終わっていっていました。
秀吉が新しい社会秩序を建てるのに、最も目障りだったのが利休だったのです。

ついにその日が訪れました。
2月28日・・・
利休は、京の自宅で切腹を見届けるために来た武士と人生最後の茶の湯を催し、介錯人を頼んだ弟子にこう告げます。
「すぐには介錯するな。
 手を挙げたときに首を討て!!」
表では雷鳴が轟いていました。
秀吉の怒りか・・・利休の悔しさか・・・!!
そして、利休は腹を十文字に切ると腸を引き出し、そこでようやく首を討たれたといいます。
壮絶な最期でした。

本当は磔・・・しかし、北政所がとりなして切腹となったのです。
秀吉は持ち込まれた首を見ることもなく、京の一条戻橋に柱を立て、利休の首を鎖で括りつけると山門の木像の足で踏みつけるようにしてさらし者にしたといいます。
あまりにもひどい仕打ちでした。

しかし、秀吉はこの後、大政所に手紙を書いています。
「昨日利休の作法で食事をしましたが、趣がありました。」
4年後に、利休の子孫に千家再興を許可しています。
利休の死を悔やんでいたのでしょうか?
優れた商人であり、稀代の茶人、そして政治家でもあった千利休・・・
波乱に満ちた70年の生涯でした。
その最期は壮絶なものでしたが、利休が大成させた”侘びの美”・・・その日本人独特の美的感覚は、今も私たちの心の中に生きています。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

接客は利休に学べ

新品価格
¥1,512から
(2018/9/9 21:58時点)

千利休の「わび」とはなにか (角川ソフィア文庫)

新品価格
¥907から
(2018/9/9 21:58時点)

決定版 大坂の陣 歴史検定公式ガイドブック

新品価格
¥1,599から
(2018/5/15 20:33時点)



戦国の世を生き抜き、齢62にして天下人となった徳川家康。
それからおよそ10年・・・天下統一の総仕上げとする最後の戦いに挑みます。
大坂の陣です。
難攻不落の大坂城を2度にわたる合戦で攻略・・・豊臣家を滅亡へと追い込むのです。
しかし・・・炎に包まれたその城には、家康最愛の孫・千姫がいました。
その生涯は悲劇に満ちていました。

徳川家康の孫娘・千姫は1597年4月11日に京都伏見で生まれます。
父・秀忠、母はお江です。
誕生の地・御香宮神社には、貴重な品が・・・贅を尽くした神輿が残っています。
これは、千姫の初節句に寄進したものです。
その重さは2トン・・・江戸時代から昭和35年まで、祭りで実際に担がれ、人々に親しまれてきました。
そこに込めた父・秀忠の思い通り、健やかに育った千姫・・・。
しかし、千姫の行く先には数々の悲劇が待ち受けていました。

①政略結婚
千姫が生まれた頃、天下を治めていたのは豊臣秀吉でした。
祖父・家康は五大老のひとりとして豊臣政権を支える一大名にすぎませんでした。
そんなある日・・・病に伏していた秀吉に、家康はこう言われます。

「徳川殿の孫娘を秀頼の正室に迎えたい。」

秀吉は、秀頼との婚姻を持ちかけたのです。
そこにはある思惑がありました。
秀吉は、秀頼と千姫を結婚させることで、自分が死んだ後も家康を豊臣家に従わせようとしたのです。

二人の婚礼を待たずに・・・
1598年8月18日、秀吉死去。。。
その後を狙って天下取りに動いたのが徳川家康でした。
豊臣家に忠義を尽くす石田三成と激しく対立!!
そして・・・秀吉の死から2年後・・・関ケ原の戦いが起こります。
戦いに見事勝利した家康は・・・3年後に・・・1603年に征夷大将軍となります。
これによって、豊臣家の五大老から天下人へ・・・!!
徳川の世が訪れたのでした。
そんな中、家康は秀吉との約束を果たすのです。

孫娘・千姫と、豊臣秀頼との縁組です。
この時、秀頼11歳、千姫は7歳になっていました。
どうしてここに来て千姫を豊臣家に嫁がせたのでしょうか?
家康は、秀吉との約束を守ることで、豊臣家を尊重しているとアピールしたかったのです。
淀の方・・・豊臣家に忠誠を誓っていた大名たちの多くが、徳川家はまだ豊臣の一家臣だと思っていました。
彼等は、秀頼さまが成人すれば、家康は政権を返すと思っていたのです。
そんな豊臣恩顧の大名達を納得させるためにも、
豊臣家と良好な関係を保っていると見せたかったのです。

1603年7月28日、千姫、伏見から大坂城に向かいます。

この時、千姫にお供した船は、1000艘以上・・・
前田利長、細川忠興、黒田長政が警護を務めるなど、盛大な輿入れでした。

祖父・家康の思惑で、僅か7歳で豊臣家に嫁いだ千姫。
嫁ぎ先の大坂城の暮らしは・・・??
姑となった淀の方が教育しました。
豊臣家にふさわしい最高の教養を身に着けるために・・・!!
我が子のように幼い千姫を養育しました。

しかし・・・千姫の幸せは長くは続きませんでした。
祖父・家康の思惑は・・・??
家康は・・・上洛した際に、秀頼に二条城にまで来るように要求・・・
秀頼が求めに応じて対面します。
久し振りの秀頼に驚きます。
19歳になった秀頼は、身長190㎝以上の聡明な男に成長していたのです。
この時、家康70歳。。。!!
徳川家安泰のために、豊臣家を潰しにかかります。

1614年11月大坂冬の陣!!
この戦いが千姫の運命を大きく変えるのです。

②夫・秀頼との死別
秀頼を総大将とする豊臣方は、全国から寄せ集められた浪人を含め15万!!
対する徳川方は20万で大坂城を包囲!!
兵の数では劣りながらも善戦する豊臣軍!!
徳川方は、巨大な堀を前に攻めあぐねていました。
そこで・・・和睦に持ち込もうとしますが、豊臣方がこれを拒否!!
徳川方が放った砲弾が淀の方のいた御殿を直撃!!
お付きの者が死傷したことで、淀の方がおびえだし、一転して和睦を受け入れるのです。
和睦の条件は、秀頼の領地を安堵する代わりに、大坂城の堀の一部を埋めるというものでした。
しかし、家康の策略により、堀の殆どを埋められてしまいました。

すると家康は、防御力が落ちた大坂城を一気に攻め落とそうとします。
1615年5月大坂夏の陣!!
総勢5万5000の豊臣方。
それを15万という兵力で大坂城を包囲!!
数の上で一方的に勝る徳川軍が、豊臣方の武将を次々と討ち取っていきます。
そして豊臣方の立て籠もっていた城が炎上!!
中の千姫たちに危険が・・・!!
落城寸前!!
千姫は、火の手を避けるために、秀頼や淀の方、お付きの者たちと糒櫓に避難します。
侍女たちは、この時、櫓から千姫を逃がそうとしていました。
それを察してか、淀の方は千姫の振袖を膝で押さえていたといいます。

が・・・大野治長が、秀頼と淀の方の助命嘆願の為、千姫を家康の元へ向かわせたといいます。
豊臣家のために城を出たのです。

夫秀頼らの助命嘆願のために、大坂城を出て茶臼山に向かった千姫・・・。
豊臣家の命運は、千姫に託されていました。
千姫は、徳川方から攻撃されないように葵の御門入りに衣を身にまとっていました。
そして、二の丸を出たところで・・・徳川方の坂崎直盛に出会います。
この坂崎の護衛によって家康のいる本陣に・・・!!

しかし、その判断は、秀忠に任せると家康は言い出しました。
父・秀忠の岡山砦に向かう千姫。
そして、秀頼と淀の方の助命嘆願をしますが・・・。

「なぜ、秀頼と共に自害しなかったのだ??
 夫を置いて一人城を出るとはどういうことじゃ!!」

と、激怒しました。

千姫の助命嘆願が受け入れられることはなく、5月8日秀頼と淀の方は大坂城の中で自害・・・豊臣家滅亡。
燃え上がる大坂城が見えた千姫・・・二人の自害を聞いて、ただただ泣き崩れたといいます。

家康は、徳川家が権力を掌握するためには、豊臣家を滅ぼすしかないと考えていました。
豊臣家と運命を共にしようと思っていた千姫は、自分だけが生き残ってしまったことに苦しみます。
病に伏せる千姫・・・。

大坂の陣の後、江戸に戻った千姫は、江戸城北の丸にあった御殿で暮らし始めましたが・・・。
夫・秀頼を救えなかったことで心に大きな傷を負い、病に伏せるようになります。
家康は・・・再婚相手を探すことにしました。
候補に挙がったのは・・・
大坂城から千姫を連れ帰った坂崎直盛。
家康は、千姫を助けたものには、千姫を嫁にやると言っていました。
ところが・・・この約束を反古にしてしまいます。
1616年正月・・・鷹狩りに出かけた家康は突然病に・・・駿府城で床に伏せっていました。
多きの見舞客の中には、孫娘・熊姫も・・・熊姫は、息子・本多忠刻とやってきていました。
忠刻は、桑名藩主・本多忠政との間にできた嫡男で、眉目秀麗と評判でした。
そんな忠刻に・・・家康は忠刻の祖父・忠勝(徳川四天王)を思い出しました。
坂崎直盛は、豊臣家五大老・宇喜多家の出身でした。
対して本多忠刻は徳川四天王・本多忠勝の孫・・・。
坂崎よりも、長く忠義を果たしてくれている本多家に嫁ぐのが幸せだと・・・千姫と忠刻の縁談を進めることにしました。

当時は夫に離縁されない限り結婚はできませんでした。
秀頼は、九州まで遁れて生き延びたという噂まで出ていましたが・・・。
このままでは再婚できない・・・と、家康は・・・。
満徳寺・・・妻が満徳寺に弟子入りすれば、夫と離縁できる習わしとなっていました。
家康は、千姫を満徳寺に入れることで、秀頼との縁を切ろうとしたのです。
千姫の場合、特別に撃場である刑部卿局が寺に入り、千姫は江戸城で修業するという形がとられました。

家康は、4月17日75歳の生涯を閉じました。
再婚する千姫の姿を見ることはなく・・・。
5か月後、千姫は本多忠刻と再婚。
桑名藩主となった本多家が、翌年姫路藩15万石の藩主となり、千姫も姫路城へと移りました。
本多家に結婚祝いとして10万石が与えられました。
忠刻は、姫路城西の丸に二人の御殿をもうけ、それを囲むように日本一の櫓を建てるのです。
夫の心遣いに癒された千姫は、長女・勝姫、嫡男・幸千代を授かります。
ようやく訪れた心の平安・・・しかし、不幸が襲います。

③相次ぐ家族の死

幸せな暮らしをしていた千姫・・・
1621年幸千代、3歳で夭折。
千姫はもう一度子宝に恵まれるようにと、城の傍に天満宮を建て、羽子板などを奉納します。
そして、朝に夕に櫓から見える天満宮に祈りました。
しかし・・・流産を繰り返します。
そんな千姫が、藁をもすがる思いで頼ったのが、占いでした。
それによると不幸の原因は、秀頼の祟りだというのです。
驚いた千姫は、秀頼のために仏像を彫らせます。

その願いもむなしく・・・子が生まれることはありませんでした。
そんな中、1626年参勤交代で江戸から戻った夫・忠刻が病に倒れてしまいました。
介抱するも・・・この世を去ってしまいました。
またしても夫に先立たれてしまった千姫・・・。
そして・・・熊姫、お江の死・・・。
愛する人々を次々と失った千姫は、この時30歳。
娘・勝姫を連れて失意の中江戸へ・・・。
天樹院となり、仏門に入ります。
そんな千姫を気にかけていたのが弟である三代将軍家光でした。
千姫には、江戸城の竹橋御殿で暮らし、500石が与えられました。
ここで、娘・勝姫と何不自由なく暮らすことに・・・
千姫は、家光の子・綱重の養育を任されたことで、大奥にも影響力を持つようになっていきます。

1628年千姫に嬉しい出来事が・・・
娘・勝姫が、鳥取藩主・池田光政と結婚。
二人の夫婦仲は良く、5人の子供に恵まれました。

千姫にはもう一人守りたい人が・・・
古都・鎌倉・・・東慶寺。
ここに千姫が守り続けた人物・東慶寺第20世住持天秀尼でした。
かつての夫・秀頼が側室との間にもうけた一人娘です。
秀頼は千姫との間に子は出来なかったものの、一男一女をもうけていました。
二人の子は、大坂の陣で大坂城から逃げだすものの、徳川に捕まってしまいました。
そして、豊臣家の血を絶やさねば・・・と考えていた家康によって、息子・国松は市中引き回しの上、京都・六条河原で斬首刑に・・・。
この時、国松は8歳でした。
娘もどうなるのか・・・千姫が家康に懇願します。
「秀頼殿の娘を、私の養女にさせてもらえぬでしょうか?」
そんな千姫の必死の嘆願に折れた家康。
娘は家康の命により、東慶寺に入れられて出家し、生きていくこととなったのです。
出家させて結婚できなくさせることで、処刑せずとも豊臣家の血を絶やすことができたのです。
千姫は終生天秀尼の事を気にかけ、何通もの手紙で強い絆で結ばれていきました。

天秀尼のいた東慶寺も縁切寺で、天秀尼はそこで夫と離縁できずに駆け込んでくる者たちの保護に努めていました。
千姫も縁切寺で救われた一人・・・。
千姫は、不幸な女性を天秀尼の寺で救いたいと思うようになります。
東慶寺の縁切り・・・二人は、東福寺の「縁切寺法」を幕府に認めてもらうため動きます。
その思いが通じ、東慶寺は幕府公認の縁切寺となり、その後200年以上、女性を守り続けました。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ 

家康の遺言

新品価格
¥1,728から
(2018/5/15 20:33時点)

ここまでわかった! 大坂の陣と豊臣秀頼 (新人物文庫)

新品価格
¥864から
(2018/5/15 20:34時点)

歴史REAL織田信長 一族と家臣から迫る信長軍団の全貌 (洋泉社MOOK)

価格:1,296円
(2018/5/7 05:21時点)
感想(1件)



戦国の世、天下を手中にすべく、尾張の国から突き進んだ織田信長。
非道ともいわれる行為を尽くし、自らを魔王と名乗った男が恐れた武将がいました。
越後の龍・・・上杉謙信です。
そんな二人が同盟を結びますが、最初にして最後の戦いを迎えることとなります。
そんな二人の関係とは・・・??

織田信長と上杉謙信・・・対照的な武将です。
自らを魔王と名乗り、天下を取るためなら比叡山焼き討ちなど、手段を選ばなかった織田信長。
片や、毘沙門天の化身と名乗り、関東管領として義の戦いを繰り広げた上杉謙信・・・。
二人が激突するのが1577年手取川の戦いです。
信長軍と謙信軍の最初で最後の戦いとなりました。

1534年尾張の国で生まれた織田信長・・・
1560年桶狭間の戦いで海道一の弓取りと言われた今川義元を討ち取ります。
隣国美濃への侵攻を進め、戦国時代の主役に躍り出ようとしていました。
上杉謙信は、信長よりも4歳年上・・・
1530年越後の守護代の家に生まれた謙信は、下剋上で守護の座を勝ち取り、1560年には大軍を率いて関東に侵攻。
翌年には、小田原城を包囲し、関東管領に任じられます。
1561年の第四次川中島の戦いでは、北に領地拡大を目指す武田信玄の軍に強烈な打撃を与えました。
天下統一・・・その偉業に最も近いものが上杉謙信でもありました。

謙信と信長の交流が生まれたのは、1560年のこと。
信長の方から接近しました。
信長は、息子を養子に差し出し申し出をしています。
それを受け入れてくれた謙信に対して・・・
「大変ありがたい事です。
 これからも御指南をいただきたく、ご相談させてください。」と徹頭徹尾へりくだっています。
どうしてへりくだる必要があったのでしょうか?

信長の狙いは、謙信の強さを恐れていました。
当時、関東管領の謙信と良好な関係を築くことは、武田の甲斐・信濃をけん制するという意味でもありました。
信長は、謙信にへりくだりながら、謙信の宿敵・武田信玄にも度々書状を送り高価な贈り物を届けていました。

一体誰がこの戦国の世に終止符を打ち、天下を治めるのか??
武将たちがしのぎを削る中・・・三好家家臣・松永久秀らが、室町幕府第13代将軍足利義輝を殺害しました。
間一髪で脱出した弟・義昭は、各地を転々とし、将軍の座に就こうと上洛を画策します。
この時義昭が頼ったのが、上杉謙信でした。
義昭は、上洛する為に、力を貸すように求めます。
しかし、当時の謙信は、武田、北条と戦いが続いていて、西に兵力を割くことができません。
義昭の要望に応えることができませんでした。
そんな謙信に代わって、義昭を上洛させたのは、誰あろう織田信長でした。

1568年、信長は義昭と共に上洛を成し遂げようと動きます。
この時、信長は謙信に書状を送り、義昭を奉じての上洛を説明しています。

「公方様御入洛の供奉の儀うけかい申す」

自分は義昭の上洛を請け負っただけとし、天下のために謙信殿も奔走されることを希う・・・と、謙信への配慮をしました。
自分の抜け駆けではなく、謙信に代わって室町幕府のために成したと弁明しています。
しかし、謙信が領地争いに忙殺されている間に、自分が一気に京都を抑えてしまおう・・・
謙信は、心の底では、悔しがっていたのではないか??

信長は、足利義昭を15歳将軍に就任させ、天下取りに向けて謙信に一歩先んじることとなります。
しかし、謙信を警戒・・・そこには理由がありました。
生涯の戦歴を比べると・・・
信長・・・214戦154勝48敗12分・・・負けない確率78%
謙信・・・108戦64勝7敗37分・・・・・負けない確率94%
この驚異的な数字は、信長が謙信を恐れた理由でした。
当時、周囲が敵だらけの信長にとって、謙信は絶対的にしてはならない相手だったのです。

どうして謙信は強かったのでしょうか?
負けない戦をする・・・軍略は自身が最前線で戦い統率力があったこと、兵士がお金で雇われたものではなく越後のために同意を得た民兵であったこと・・・が挙げられます。
信長は、戦に強いイメージがありますが、苦戦、敗戦が多く、信長は戦の人ではなく外交の人でした。
そして、戦う目的が違いました。
信長は自分の領土拡大のために戦いましたが、謙信は助力を乞われて・・・”義”のための戦いだったのです。
そんな欲のない戦いをする謙信に恐れを抱いていたのかもしれません。

足利義昭を奉じて上洛した織田信長・・・強引な手法がアダとなったのか、様々な困難に直面します。
その一つが、将軍・足利義昭との亀裂でした。
京を実質的に支配した信長は、義昭の実権を奪う五か条の要求をします。
その内容は・・・

天下の儀は信長に委任されたし
信長の添え状なしに、諸侯に書状を出してはいけない
今までの義昭殿の命令はすべて無効

などといったもので、義昭を名ばかりの将軍にしようとしたのです。
義昭は・・・将軍としての権力を保とうとして反発し、二人は対立することに・・・
義昭は、信長に対抗する為に、各地の大名に檄を飛ばします。
本願寺・筒井・浅井・朝倉で、信長包囲網を作り上げます。
そこには手ごわい敵も・・・大名以上に力を持っていると言われていた比叡山延暦寺も・・・
比叡山は、浅井・朝倉と連携し、苦戦を強いられた信長は、講和を申し入れますが聞き入れられなかったため、最終的には焼き討ちに・・・僧兵だけでなく、信者たちまで殺戮します。

信長は延暦寺に続いて、一向宗・・・石山本願寺との戦いに挑みます。
ところが本願寺との戦いに大苦戦!!
信長は、全国の一向宗門徒を敵に回すことに・・・。
遂に、友好関係にあったはずの武田信玄が将軍義昭の檄によって、二部長包囲網に参加。

1572年、西に向けて進軍開始!!遠江に侵攻・・・ここは徳川家康の領地・・・家康が負ければ、次は信長の領地です。
この瞬間、信玄は川中島で戦っていた謙信だけではなく、信長の敵となりました。
そこで、11月、遂に信長と謙信は、信玄に対抗すべく同盟を結ぶことに・・・!!
しかし、それでもなお信玄は西に進軍を止めようとはしません。
迎え撃った信長・家康連合軍は、三方ヶ原の戦いで大惨敗!!

信長は絶体絶命の窮地に・・・!!
ところが武田軍は、進軍を中止し甲斐に・・・
信玄が戦いのさ中、死去したのです。
天運によって危機を脱した信長・・・しかし、新しい畏れが・・・謙信の上洛です。

信長は謙信の上洛を恐れていました。
それは、自ら実権を握るというのではなく、室町幕府の復権を望んでいたからです。
武田信玄の宿敵の為、上洛できなかった謙信・・・
しかし、信玄の死によって、上洛のチャンスが・・・!!

もし、謙信が上洛するとなれば、信長との戦いは避けられない・・・。
信長包囲網も勢いづいてしまう・・・。

そこで信長は、謙信へ贈り物・・・「上杉本 洛中洛外図屏風」です。

応仁の乱で荒れ果てていた街並みが復興した京の町を一望する視点で描かれています。
京の夏を彩る祇園祭の山鉾・・・朝廷の貴族・・・武士・・・子供達・・・
描いたのは、当時随一の絵師・狩野永徳。
将軍家の御用絵師だった永徳は、足利義輝の死後、信長が新しい後ろ盾となっていました。
絵を送られた謙信は、喜んだといいます。

洛中洛外図は信長が描かせたものではなく、足利義輝が謙信に贈るために書かせたものだと言われています。
将軍が贈ってくれるはずだったものを、代わりに贈ってくれたことが、嬉しかったのです。

謙信は信長包囲網に加わることなく、越後を動くこともありませんでした。
そして・・・この屏風には、謙信の心を打つメッセージが・・・

義輝は、どうして永徳に絵を描かせたのでしょうか?
室町幕府足利将軍邸に年始の挨拶にやってきた行列・・・
輿に乗って将軍に挨拶にやってきているのは、謙信だといわれています。
江が完成した1656年、謙信は、この時すでに2回目の上洛を果たしていました。
将軍義輝に際し、全面支援を約束していました。
そんな謙信に対して・・・もう一度京の都に来てほしい・・・そして、将軍を中心とした秩序を取り戻そうではないか・・・
義輝から謙信へのメッセージが隠されていました。
この屏風に深い思い入れを感じたことでしょう。

しかし、二人の同盟は長くは続きませんでした。
織田信長は天下統一を目指して、しかけます。
信長包囲網の首謀者である足利義昭を京都から追放!!
越前・朝倉、北近江・浅井を攻め、一気に滅亡へと追い込み領地を拡大!!
越前の上杉謙信の近く・・・加賀まで侵攻して来ようとしていました。
そんな時、同盟を結んでいた謙信が思いもよらない行動にでます。
信長との同盟を破棄!!
この時、二人の緩衝地帯は能登・加賀・越中でした。
どうして謙信は同盟を破棄して信長と戦う決断を・・・??

信長と戦ってきた石山本願寺が、謙信に和解を持ちかけてきたのが大きなきっかけでした。
謙信が越後を離れられない大きな要因に、一向一揆がありました。
越後の隣、越中と加賀に立ちはだかっていたのです。
しかし、対立していた石山本願寺と和解したことで、一向宗が謙信の味方となり安全なルートが確保されました。
謙信にとって、朝倉家を滅ぼして、越前までやってきた信長は、脅威となっていたのです。

1577年閏7月、謙信は畠山家の本拠地である能登・七尾城に進軍!!
この時、畠山家は城主の春日丸が幼かったので、実権を握っていたのは重臣の長綱連と遊佐続光でした。
謙信の侵攻に直面した二人の意見は対立!!
信長に援軍を求めるのか?謙信に下るべきか??
意見がまとまらない中、長綱連は安土城の信長に援軍を求めます。

信長は、今こそ能登を手中に治め、謙信をたたく好機として北陸軍の派遣を・・・柴田勝家を総大将に任命します。
1577年8月、5万の大軍が北庄を出陣します。
信長も後を追う準備を・・・!!
絶対に負けられない・・・総大将・柴田勝家、滝川一益、丹羽長秀、前田利家、羽柴秀吉!!
しかし、信長はまだ安心できなかったのか、出羽・伊達輝宗に使者を送り、越後の反謙信勢力である本庄繁長と連携!!
背後を脅かすよう申し入れます。
万全の体制!!信長軍の負ける要素なし!!

しかし・・・思わぬ事態が・・・
最強の信長軍団が・・・
秀吉が勝家の指揮に異論を唱え・・・無断で陣を解いて引き上げてしまいました。
秀吉と勝家の間に何が・・・??
この時の二人はライバルで・・・勝家が、秀吉軍が活躍できないように後軍に回しました。
秀吉としても、活躍しても、それは勝家の活躍となってしまう可能性があったので・・・。

悪いことは二人の亀裂だけではなく、進軍が困難を極めます。
その頃、七尾城内では異変が起こっていました。
信長派の長一族が謙信派の遊佐一族に皆殺しにされたのです。
9月15日、七尾城開城。
謙信に開けわたされました。
この事実を知る由もない勝家・・・。
手取川を越えて、松任城まで兵を進めたものの、七尾城との連絡は途絶えたまま・・・。
謙信はさらに能登南端の末森城を攻め落とし、加賀を南下。
七尾城を目指して進軍する織田軍の動きを察知した謙信は動じることなく命じます。

「一騎一卒も活て返す事 有べからず」

そして高らかに次の春には、自らが上洛すると宣言するのでした。

織田軍と上杉軍との戦いで戦局のカギを握っていたのは七尾城・・・
しかし、上杉軍に取り囲まれ、謙信の手に落ちていました。
そうとは知らない織田軍の総大将・柴田勝家は、陣を構えた松任城で、大きな決断を迫られていました。
このままやみくもに進んで勝ち目はあるのか??
百戦錬磨の勝家は、撤退をすることに・・・!!
漆黒の闇の中、5万の織田軍が南へと撤退を始めました。

9月23日夜・・・加賀国・手取川・・・退却する織田軍に突然大軍が襲い掛かります!!
謙信率いる上杉軍でした。
上杉軍が奇襲をかけると追い立てられた織田軍は手取川へ・・・!!
川を渡って逃げようとするも・・・川は連日の雨のために増水し、荒れ狂っていました。
万事休す!!
この機を逃してなるものか・・・!!
猛追する謙信!!
討ち取られた織田軍は1000人余り!!
数えきれないほどの兵が激流に流されて溺死してしまいました。
しかし、これは偶然ではなく、謙信が手取川に来るまで待って増水した川を利用した・・・謙信の作戦勝ちでした。

さらに織田軍の敗退にはもう一つ理由がありました。
上杉軍は一向一揆を味方につけていたので、織田軍の動向が手に取るように解っていたのです。
謙信を手助けしたのが、加賀・一向一揆の門徒たちでした。
上杉軍の動きを悟られないように、織田軍に情報封鎖を行い、織田軍の動きを逐次上杉軍に伝えていたのです。

上杉に 逢ふて織田も 名取川(手取川)
       はねる謙信  逃るとぶ長(信長)

上杉軍とぶつかった信長が、まるで飛ぶように逃げ去ってしまった・・・と。

実際には、信長は手取川にはおらず、到着する前に負けてしまったと考えられています。
しかし、上杉軍はそれ以上織田軍を追うことはなく・・・
春日山城に帰っていきました。
季節はまもなく冬・・・本拠地である越後は雪なので、謙信は、地元に帰って春を待たなければならなかったのです。
もしかしたら・・・これが、謙信最大のミス・・・??雪国の宿命だったのかもしれません。
あまりにあっけない勝利に、謙信はこう書き残しています。

「案外に手弱の様体 この分に候わば
 向後天下までの仕合わせ 心やすく候」

織田軍の弱さを皮肉ったうえで、上洛は難しいものではないと豪語したのです。
謙信の上洛が実現することはありませんでした。
手取川の戦いの半年後・・・1578年3月9日、謙信は、居城春日山城で突然病で倒れ、4日後に49歳という生涯を閉じることとなったのです。

もし、二人が直接対決していたら・・・??

外交戦略では信長の方が上、戦いそのものは謙信の方が上、武将としての力量は、謙信の方が上??

信長軍を破った越後の龍・謙信の突然の死・・・
天は信長を見放してはいませんでした。
実の子がいなかった謙信の死によって、上杉家は後継者争いを招き、能登をわずか3年で信長に明け渡すことに・・・
謙信という最大のライバルがいなくなった信長は、勢力を伸ばし、天下取り目前まで突き進んでいきます。
しかし・・・手取川の戦いから5年後・・・1582年、本能寺の変で明智光秀によって無念の死を遂げ、その夢を絶たれたのです。
その時信長49歳・・・奇しくも謙信の亡くなった年齢と同じでした。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

三好一族と織田信長 「天下」をめぐる覇権戦争 (中世武士選書) [ 天野忠幸 ]

価格:2,700円
(2018/5/7 05:21時点)
感想(0件)

上杉謙信の夢と野望 (ワニ文庫) [ 乃至政彦 ]

価格:779円
(2018/5/7 05:23時点)
感想(0件)

週刊 絵で知る日本史 7号 姉川合戦図屏風

中古価格
¥1,099から
(2018/5/4 09:55時点)



桶狭間の戦い・・・この合戦で、織田信長は歴史の表舞台に躍り出ました。
弱小兵力の信長が、起死回生の奇襲作戦で、東海の雄・今川義元を討ち取る大金星を挙げたのです。
それから10年・・・信長は、運命を左右する一戦に・・・姉川の戦いです。

戦いの舞台は、現在の滋賀県東北部、姉川沿い・・・浅井・朝倉との戦いでした。
これまで伝えられてきたたのは、巧みな陽動作戦によって信長が大勝利を収めるというものですが・・・。
ところが、姉川の戦いで信長は窮地に追い詰められ、命を落としかねない状況であったことが解ってきました。
逆桶狭間の危機に陥っていたのです。
信長の首を狙ったのは、北近江の武将・浅井長政。
信長の同盟者であり、義理の弟・・・長政が裏切り、最大の敵として立ちはだかったのです。
戦いの直前、信長は大きな過ちを犯していました。
それが、長政に付け入る隙を与えたのです。

1560年、織田信長の名前を天下に轟かせた桶狭間の戦い・・・。
しかし、大大名・今川を討ったとはいえ、信長はまだ尾張の小大名にすぎませんでした。
同盟を・・・と、隣の徳川家康、北近江の浅井長政と結びます。
隣国でもない長政とどうして同盟を結んだのでしょうか?
この時の敵は、美濃・斎藤家でした。
斎藤氏は、南近江の六角氏と結んでいました。
敵の敵は味方・・・斎藤氏けん制のために、長政と同盟を組んだのです。
浅井氏の居城・小谷城・・・北近江支配の拠点であり、当時有数の巨大な山城でした。
山全体を覆うように作られた曲輪。。。
軍事力に優れた浅井氏の力のほどが伺えます。
城の中でも際立つのが、中腹に作られた大広間です。
大きな空間が山城の中にあり、小谷城は戦国時代屈指の巨大山城であったことを証明しています。
城跡から出土した中国製の白磁や青磁・・・天目茶碗・・・浅井氏の経済的裕福が伺えます。
さらに小谷城を拠点に、横山城、佐和山城・・・独自の防衛ラインを築き、琵琶湖の水上交通を支配していました。
信長にとって浅井長政は軍事的、経済的に頼みとする武将だったのです。
同盟締結に、信長は妹・お市の方を嫁がせています。
この同盟にかける期待の大きさが伺えます。
天下への野心をあからさまにしていく信長・・・
1568年9月、美濃平定した信長は、次期将軍候補・足利義昭を担いで上洛を果たします!!
その翌月、義昭・征夷大将軍に就任。
信長は新将軍から”武勇天下第一”と称えられただけではなく、御父ともよばれました。
信長にとって、最大級の賛辞です。
この将軍の権威を背景に、信長は畿内周辺の諸大名に上洛を命じる書状を出します。

”おのおの上洛ありて
 御礼を申し上げられ
 馳走肝要に候
 御延引あるべからず”

これをはねつけたのが、朝倉義景でした。
かつて足利義昭の後ろ盾となっていた越前の雄です。
信長の上洛勧告に、朝倉はこう答えます。

「これは上意に非ず
 信長の謀略である」と。

京を中心に畿内の覇権を図る信長にとって、朝倉はまさに目の上のコブでした。
1570年4月、朝倉討伐!!3万の軍勢を引き連れて、京を出陣します。
目指したのは、今の敦賀市・・・陸上交通と北国海運の要です。
朝倉氏にとっては畿内への玄関口でもありました。

1570年4月26日、金ヶ崎の戦い
ところが・・・落城させた直後に、信長に驚愕の知らせが・・・!!
浅井長政が裏切ったのです。
長政裏切りに際し、信長は・・・「虚説たるべき」・・・裏切りを嘘だとして報告を信じませんでした。

「浅井はれっきとした縁者であり、その上、北近江一体の支配を信長が許しているのだから不足などない・・・」と。
「浅井は近年、信長の家来となり、心の隔たりなく付き合ってきた。」と。
長政には、十分な所領、北近江半分を与えている・・・お市の方を嫁にしているではないか・・・!!
別格の待遇なのに・・・??

ところが長政としては、信長の家臣ではない・・・
家臣扱いされることに対する自尊心が・・・!!
朝倉攻めを優勢にしている信長・・・しかし、長政の裏切りが本当ならば、形勢は一気に逆転してしまう・・・!!
四方を囲まれて袋のネズミとなった信長・・・。
金ヶ崎城の麓にある神社・金崎宮には一風変わったお守りがあります。
袋の両端を結ぶことで、信長の窮地を暗示した小豆袋・・・浅井裏切りの一報を伝えたのはお市の方だという逸話も残されています。
小谷城から敦賀までおよそ35キロ・・・本当に長政が兵を動かしたとするならば、一刻の猶予も許されない・・・。
この時信長は即断即決し、家臣に後事を託すと、一目散に駆け出しました。
京までおよそ200キロの道程・・・金ヶ崎の退き口です。
信長を京まで逃がすために、困難な殿を務めたのは、木下藤吉郎・・・豊臣秀吉や、明智光秀、徳川家康です。
信長は長政の支配下の琵琶湖周辺をさけ、山越えを選択。
若狭街道を南下し、京へ着いたのは長政の裏切り発覚から3日後の事でした。
この時信長に付き従ったものは、僅か十数人と言われています。

当時の宣教師によると・・・
「信長は、自らに加えられた侮辱に対しては、懲罰せずにはおかなかった。」

その言葉通り、岐阜城に戻るや否や・・・
6月19日、岐阜城を出陣!!

3万の大軍勢で、小谷城に進軍!!
いよいよ、姉川の戦いの火ぶたが切って落とされようとしていました。

信長は、浅井長政討伐のため北近江に侵攻しました。
姉川の戦いの始まりです。
この時、戦いの舞台となったのが、浅井方の城・横山城です。南北8キロに連なる横山丘陵に築かれた山城です。
1570年6月24日、信長・横山城を3万の大軍勢で包囲!!
横山城は小谷城と佐和山城の中間にあり、落とせば城の連携が遮断され、浅井の防衛ラインを崩すことができる!!
しかし、横山城は南北8キロに及ぶ長ぼそい丘陵・・・。
包囲することは非常に難しい!!
織田軍は、長い丘陵地帯の横山城を包囲する為に、軍を分散配置せざるを得ない・・・!!
この法線を担ったのは、秀吉や柴田勝家ら精鋭部隊だったと考えられます。
同じころ、朝倉の援軍8000が到着!!小谷城近くの大依山に陣を構えました。
一方、信長本陣は横山城北端の龍ヶ鼻、徳川家康は岡山に陣を構えました。
姉川を挟んで睨み合う形となったのです。

6月27日、大依山の浅井・朝倉勢が動きます。
大依山の軍勢が動いたので、信長の目の前から浅井・朝倉勢が見えなくなったのです。
この時信長は、敵の動きをこう読んでいました。
小谷城への撤退行動だと・・・!!
浅井・朝倉勢が撤退したとすれば、横山城攻略に専念することができる!!

長政の考えは・・・??
合戦を短期に決めてしまうには、信長の首をとるのが一番早い・・・。
一か八かで狙ったのが姉川の戦いでした。
長政は、小谷城に撤退したと見せかけて、密かに信長の本陣を突こうとしたのです。
この時、信長の周囲にいたのは、家康と馬廻衆などで大きな軍勢ではない。。。

6月28日午前5時ごろ・・・浅井勢、姉川に到達。
信長の本陣に近づいていました。
そして・・・1579年6月28日、姉川の戦い開戦!!
信長の虚をつく、乾坤一擲の奇襲攻撃でした。
浅井軍の猛攻に推される織田軍!!
敵は姉川を越え、信長の御手前へ差し掛かり、推しつ返しつさんざんに入り乱れました。

この時、信長の本陣は、陣杭の柳にありました。
そこには、浅井家家臣・遠藤直経の墓がありました。
信長にせまり、あと一歩のところで討ち取られた武士と記録されています。
本陣から墓まで300m・・・長政の奇襲攻撃で、信長本陣が大混乱を起こします。
信長は、今川義元になりかねなかったのです。

長政の奇襲攻撃によって、劣勢になった信長・・・
撤退する??踏みとどまる??

1570年6月28日、姉川の戦い開戦。
この時信長は、長政の奇襲攻撃で、大苦戦を強いられていました。
しかし、信長は戦場を離脱することなく戦場に留まりました。
味方の援軍を待ったのです。

乾坤一擲の奇襲攻撃にかけた長政・・・しかし、信長の首がとれないとわかると、小谷城に撤退したと思われます。
横山城を包囲していた織田の武将たちは、信長本陣に・・・追撃を開始しました。
浅井・朝倉勢が退却したことで、孤立した横山城は、退却を余儀なくされました。
信長は、横山城を奪取することに成功したのです。

織田軍は、横山城を浅井攻めの足掛かりとして小谷城攻略を進めていきます。
結果的に、姉川の戦いの勝者は信長であることが有力となります。
ところが・・・戦いの僅か3か月後、浅井・朝倉勢が挙兵!!
比叡山を抑え、信長の京への上洛路を遮断したのです。
3か月にわって信長を苦しめたこの戦いを志賀の陣といいます。
それだけの余力があれば、姉川の戦いで余力があったのでは??と考えられます。

信長の危機を招いた姉川の戦いによって、信長は長政に対して更なる復讐の炎を燃え上がらせていくのです。

信長と長政・・・戦いは膠着したまま事態は悪化の一途をたどります。
畿内一円で反信長の火の手が拡大したのです。
姉川の戦いの後、石山本願寺や長島一向一揆など、宗教勢力の挙兵。
足利義昭の寝返り・・・戦国最強の武田信玄が反旗を翻す・・・。
信長包囲網が出来上がります。
こうした四面楚歌に追い込まれた信長は、強引な方法で難局に対していきます。

1571年9月、比叡山延暦寺焼き討ち。
これによって、信長の上洛路を脅かすものは無くなります。
畿内周辺の敵を各個撃破、長政の小谷城を孤立させていきます。

1573年8月、朝倉滅亡。返す刀で小谷城を包囲!!
信長軍の猛攻に、遂に長政切腹・・・享年29の若さでした。
小谷城落城の際、信長の妹・お市の方や、娘たちは救出されます。
しかし、長政の長男・万福丸は許されず、極刑に処せられます。

さらに翌年、信長に刃向かった長島一向一揆を殲滅。
降伏した者たちを皆殺しにしたばかりではなく2万もの農民が焼き殺されました。
信長の残虐極まる行いが記されています。
金泥を施した浅井長政、朝倉義弘のしゃれこうべを肴に、酒宴が催されたのです。
信長は、何もかもが思いのままになってまことにめでたく上機嫌でした。

浅井・朝倉滅亡の後、畿内周辺から信長に敵対する大勢力が途絶えました。
これを機に、天下布武の元、信長は領土を急激に拡大させていくのです。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

朝倉氏と戦国村一乗谷 (読みなおす日本史)

中古価格
¥1,680から
(2018/5/4 09:56時点)

信長様に会いに行こう

新品価格
¥32から
(2018/5/4 09:57時点)

このページのトップヘ