日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

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タグ:高野山

沙門空海唐の国にて鬼と宴す 巻ノ一~巻ノ四 映画カバー合本版【電子書籍】[ 夢枕 獏 ]

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平安時代の仏教界に一人の大天才が出現します。
日本における真言密教の開祖・空海です。
中国の人をも驚嘆させた、空海の超人的な能力・・・。
ある時には雨を降らせ、ある時には杖を刺したところから温泉が・・・
さらには5本の筆を同時に使いこなすとか・・・
超人空海はいかにして誕生したのでしょうか。

774年讃岐国の豪族・佐伯家に生まれました。
幼いころから神童とよばれ、将来は都で役人に・・・と思われる逸材でした。
親族の期待を一身に背負って、空海は18歳の時に役人を養成する大学に・・・エリートコースを歩み出したのですが・・・。
しばらくして、大学を止め、山林修行者として山野を放浪するようになります。

若き空海に何があったのでしょうか?
「三教指帰」によると、大学で学業に励む空海の前に一人の僧が現れ・・・
”虚空蔵求聞持法”を教えてくれたと記されています。
修行によって無限大の記憶力を獲得し、全ての経典を暗記できるという秘法です。
しかし、これを会得するためには、虚空蔵菩薩の真言を100万遍唱えるという壮絶な修行が必要でした。
空海が大学を辞めたのは、この修行に専念するためだったと言われています。
徳島県阿南市・・・舎心ヶ嶽・・・実際に空海が修行したと伝えられています。
空海は、一歩間違えば滑落死といわれる高さ600メートルをこえる断崖絶壁によじ登り、自らの命を危険にさらしながら一心不乱に真言を唱え続けます。
日に日に体は痩せおとり、体力の限界に・・・。
ところがある日、不思議な体験をします。
それは、土佐国室戸岬での修行の時・・・
明け方、空海がいつものように真言を唱えていると・・・空の明星が明るさを増したかと思うと空海の口の中に飛び込んできたのです。
この体験が、空海のその後の人生を変えることとなります。

当時の唐は、世界の先進国で、最新の文化や技術を誇っていました。
なにより唐の都・長安では、最新の仏教が隆盛を極めていました。

「唐なら自分の疑問を解く、本物の仏の教えがあるに違いない」

空海は、唐に渡りたいと考えるようになります。
当時、日本から唐に渡る手段は一つ・・・遣唐使の一員に選ばれることでした。
空海には、その可能性がありました。
語学が完璧で、チャンスをつかんだ空海は、804年、遣唐使船に乗船することになります。
空海31歳の時でした。
この時、別の遣唐使船に・・・乗っていたのは、後に天台宗の開祖となる最澄でした。
最澄は当時、仏教界のエリート中のエリートで、朝廷の絶大な信頼を受け、看病禅師として、天皇家の人々の病気治療にあたる特別な僧でした。
そのため、最澄は還学生として乗船・・・これは、国のお墨付きの留学生で、費用は国の負担、通訳付きの期間は短期なもの・・・1年後には、帰国が決まっていました。

一方、空海は、何の肩書もない留学生で、莫大な費用は自費で・・・期間は最低20年というのが義務となっていました。
そんな空海に試練が・・・嵐に巻き込まれました。
空海の乗った遣唐使船は、1か月ほど海上を漂流・・・明州からおよそ700キロ離れた赤岸鎮にたどり着きました。
ところがここで空海が天才的な才能を発揮・・・
上陸しようとしたとき、遣唐使の大使が地元の役人に上陸の許可を得ようとしますが・・・嵐で国書を失くしていたので、遣唐使と認められず上陸させてくれません。
困り果てた大使が空海に・・・
「そなたの名文で、実情を陳述してもらえぬか」と。
空海は、自分たちが正式な遣唐使であること、嵐で国書を失くしてしまったことなどを書き記しました。
この書の、達筆さと文章の巧みさに驚嘆し、すぐさま上陸を許可しました。
空海一行は、陸路と水路を利用して、およそ2000キロを踏破し、長安にたどり着きました。

長安に入った空海は、仏教を学び始めます。
当時、長安では西遊記のモデルと言われる玄奘三蔵が」広めた法相宗や、達磨がインドからもたらした禅宗など、様々な宗派(三論宗・三階教・天台宗・法相宗・華厳宗・律宗・禅宗・浄土宗・・・)がありました。
空海の心を掴んだのが、当時最先端の仏の教えと言われ、日本ではまだほとんど知られていなかった密教でした。
密教を学び始めた空海は・・・
密教を学ぶために、インドのサンスクリット語を猛勉強!!
僅か3か月でマスターしてしまいました。

密教と他の仏教の違いは・・・??
他の仏教は、悟りを開くまでに膨大な時間がかかります。
密教は、即身成仏・・・生きたまま身体で悟りを開き、仏になることができるとされていました。
仏になる・・・仏と同じ力を持つことができる・・・とされていました。
最澄は、密教が盛んであった長安には行かずに帰国したので、本格的な密教を学ぶことができませんでした。
この差を埋めることができずに、運命は大きく分かれていくことに・・・。

唐に渡って密教を極めることとなった空海にとって、会わなければならない人物がいました。
長安にある仏教寺院・青龍寺の高僧・恵果です。
密教の正当な継承者として1000人を超える弟子を持ち、皇帝から国師として仰がれていた人物です。
無謀にも、会いたいと青龍寺の門をたたいた空海・・・。
すると・・・恵果は、面会を許したばかり・・・
「汝がここに来ることは、すでに知っていた。
 長い間待っていたぞ。
 今日、会えたのは、なんと喜ばしい事よ。」と、歓迎したと言います。
さらに恵果は、近いうちに灌頂を授けると言いました。
密教における灌頂とは、頭頂部に水を注ぎ、種々の戒律や資格を授けて正当な継承者とする儀式の事です。
つまり、恵果は、初対面でしかも日本人の空海を自らの後継者として認めたのです。

恵果には、もともと後継者がいましたが、早くに亡くなっていました。
そこに現れたのが、空海だったのです。
さらに、恵果に残された時間もあまりありませんでした。
病に伏せっており、最後のチャンスとして空海を迎え入れたのです。
そして、空海もまた、それにこたえるだけの力を持っていました。

こうして空海は、恵果の弟子となって青龍寺で直接教えを乞うこととなります。
僅か3か月で、密教の最高位・阿闍梨を授かり、密教の後継者のひとりとなったのです。
やっかみや嫉妬までも打ち破る能力が空海にはありました。
恵果は、密教の全てを空海に教え、法具や袈裟などを授けました。
そして、自らの役目を終えるかのように死の床に就くと・・・空海に遺言します。

「汝に伝法し、もはや心残りはない
 汝はすぐに故国に帰り、この密教を転嫁に広めよ。」by恵果

二人の出会いから、僅か半年後の事でした。
空海は、恵果との約束を果たすべく、帰国しようとします。
凄まじい勢いで経典を集め、持ち帰れない経典があれば寝る間を惜しんで写経します。
そして・・・806年、空海、460巻を超える膨大な経典と共に、唐から帰国。

806年10月・・・帰国した空海・・・しかし、20年間留学期間を2年で切り上げてしまったことが重罪と、九州の大宰府に止め置かれ、京に上ることはできませんでした。
それに対し、空海は、帰国報告として自分が唐から持ち帰った経典などを目録として提出し弁明します。

「罪は死んでも償えませんが、得難い真理の教えを生きて持ち帰れたのは、実に良かったと心の中では喜んでおります。」

自分が凄いものを唐から持ち帰ったという絶大な自信がありました。
そして、唐でいかに自分が高い評価を得ていたのかを・・・!!
しかし、朝廷は空海の弁明を黙殺!!
朝廷には、目録に書かれている価値をわかる者はおらず、一介の留学僧が貴重な書物を持ち帰れるはずがないと思っていたのです。
待つこと3年・・・諦めかけていた時、突然京の都に上ることを許されます。

空海が記した目録に驚愕したのが・・・空海と同じ時期に唐に渡り、一足早く帰ってきていた最澄でした。
価値が解っていたのは、最澄だけだと思われます。
空海より先に帰国していた最澄は、806年比叡山延暦寺を精緻に天台宗を開宗。
仏教界の最重鎮として天皇家から益々厚い信頼を得ていました。
そんな最澄が空海に手を差し伸べたのか・・・空海の実力を認めただけではなく・・・もう一つの思惑が・・・。
最澄の後ろ盾であった桓武天皇が、唐の最新の密教の存在を知ると、密教による国家の鎮護を強く望みました。
ところが、その思いを果たせずに崩御・・・
最澄も、唐で密教を学んだとはいえにわか仕込み・・・。
桓武天皇の遺志を継ぐためには、どうしても本格的な密教を修めなければなりませんでした。
そんな時目にしたのが、空海の目録でした。
最澄は驚きました。
学びたかったのに、学べていなかったものがそこにあったからです。
帰国から3年、ようやく今日に上ることができました。
空海が唐から持ち帰ったものは、経典だけではなく・・・
有名なのは、高野豆腐・大和茶・金山寺味噌・・・食や暮らしの向上に大きな貢献を果たした人物でした。

809年7月、京への許可が下りた空海は都の北の高雄山寺に入り、密教の更なる編纂に努めます。
そんな空海の元に、最澄の弟子が手紙を携えてやってきました。
その手紙には、唐から持ち帰った密教の経典を借用したいという申し入れが書かれていました。
空海にとって最澄は、九州に止め置かれたときに京の都に呼び戻してくれた恩人・・・
その言葉に応じ、経典を貸し出します。
こうして、二人の交流が始まったのです。

仏教界のTOPである最澄が・・・
「どうかあなたの弟子にしてほしい」と、空海の弟子になりたいと言いました。
それは、最澄が密教をどうしても教わりたいという決意の表れでもありました。
最澄の想いを受け入れ、弟子のひとりとします。
これによって、空海は密教の日本における第一人者となりました。
二人の立場が逆転したのです。
最澄は確立した地位にありました。
その超エリートが、弟子になるというのは驚くべき事でした。
空海の名は、一気に広まり、次々と空海の元を訪れる人が・・・。
当時は親密な子弟関係を築いていた最澄と空海でしたが、しかし、二人の間に溝が・・・

「密教の最高位である阿闍梨を授けてもらえぬか」by最澄

「そのためには3年の修行が必要ですぞ」by空海

最澄は、比叡山に天台宗を開いた仏教界のTOPとして多忙を極め、3年もの修業はできません。
そして、二人の関係がさらなる悪化を・・・
813年11月、比叡山に戻った最澄は、弟子を通じて空海に書物の貸し出しを求めます。
その書物は、密教経典の注釈書でした。
密教を極めようとする最澄にとって、難解な経典を正しく解釈するためには、どうしても注釈書が必要でした。
そんな最澄からの依頼に対し・・・注釈書の貸し出しを拒否しました。

密教の真理、奥義は、修行を通して心から心へと伝える・・・
文字はがれきのようなもので、それで最高の真理を伝えられると思ったら大間違いだと、空海は言っています。
修行を実践しないとダメということです。
最澄は、かなり悔しかったようです。
最高の審理でも、勉強すれば何とかなると考えていたようです。

「最近売り出し中の某人物は、文字によって仏の真理を伝えるという麗しい伝統を断ち切ってしまった。」

と書いています。

愕然とした最澄・・・
加えて、自分が一番期待していた弟子が、空海の元から帰って来ないという現実が・・・。
それまでも見解の相違があったものの・・・書物の貸し借りや、弟子のトラブルによって決別したようです。

真言宗の寺院では、今でも空海が伝えた護摩祈祷が行われています。
これは、護摩の炎によって、煩悩を焼き払い、清らかな願いへと成就させるよ言う密教の儀式です。
1200年前の密教も、この祈祷が重要視されていました。
平安時代初期の日本は、地震などの天変地異が次々と起こり、干ばつや飢饉が人々を苦しめ、朝廷では平城上皇に重用されていた藤原薬子らが上皇の天皇返り咲きを狙って、嵯峨天皇の失脚を目論んで失敗した薬子の変など権力闘争が勃発・・・それらはすべて、怨霊の仕業とされていました。
怨霊は、非業の死を遂げた人の魂がこの世に残って悪さをする・・・
それは、特定の人に及ぶのではなく、天下国家に祟る・・・その怨霊を何とかしなければ、日本を平和にすることはできない・・・そのための仕事を密教僧が担っていたのです。

空海は、密教界の第一人者として嵯峨天皇に国家を鎮護する為に仏の力によって怨霊を鎮めるべく願い出て行います。
これをきっかけに空海は、嵯峨天皇の信頼を得、交流を深めていきます。
権力と上手く付き合っていかない限り、教えを広めることはできない・・・。
空海は、宗教面だけではなく、文化の面でも唐の最新を伝えるところがありました。
当時の日本は中国を手本としていたので、その中国の文化や文明をもたらしてくれる・・・それは、朝廷の文化を高めるうえでも貴重な存在でした。
嵯峨天皇と空海の関係は、権力者と宗教者だけでなく、文化を通じた友のところもありました。
天皇との関係を深めた空海は、嵯峨天皇に真言密教を開くことを許されると、日本全国に新しい教えを広めていくこととなります。

全国には、空海の伝説が数多く残っています。
空海が杖を突きさすとお湯が出たという・・・空海開湯伝説22湯
様々な言い伝えが残っていますが・・・
空海は唐で、密教だけではなく、科学技術も学んでいました。
土木、鉱山、薬学、医学・・・すべて、マスターして帰ってきました。
全国を行脚することで、水源を発見・・・温泉を発見・・・鉱脈を発見・・・そうなる伝承の素地はあったのです。

嵯峨天皇の絶大な信頼を得、新しい大事業へと進んで行きます。
真言密教をこの日本に・・・!!
恵果との約束・・・

「故国に帰り、この密教を転嫁に広めよ」by恵果

816年、空海は、恵果との約束を守るために、嵯峨天皇に高野山を真言宗教の修行の場としたいと願い出、その地を賜わります。
高野山は、当時何もない山岳地帯でした。
それこそが、空海が求めた場所でした。
多くの弟子を育て、心身の修行を必要とする密教の奥義を、弟子たちに伝えるために、都から離れ俗世間から隔絶したこの地を修行の場に決めたのです。
空海は、多くの弟子たちと共に空海にのぼり、標高900mの山の頂に、東西およそ5キロ、南北2キロにわたる真言密教の聖地を造りました。

金剛峰寺を中心とする幽玄の世界。。。
この聖地に、大宇宙を意味する真言密教の本尊・大日如来を置き、命あるもの全てに無限の慈悲を広げていく密教の世界を出現させました。
ここを拠点に、更なる真言密教の普及に努めました。
高野山に総本山を開いておよそ20年後・・・空海は、自らの役目の終わりを悟り弟子たちを集めてこう述べました。
「私は永遠に高野の山に帰る
 弟子たちよ、悲しんではならない」
その後の布教を弟子たちに任せました。
数日後、空海は、真言密教の究極の修行に入るために、835年・・・奥の院山道の最も奥不覚の御廟に入定しました。
空海はこんな言葉を残しています。

「この宇宙が尽き果て、人々が尽き果て、悟りの境地が尽き果てることがあるのならば、私の願いも尽き果てよう」

空海は、その時まで瞑想し続けるというのです。
空海は、今でも御廟で世の中の平和と幸福を願っていると信仰されています。
1200年の間、1日2回の食事が絶えることなく運ばれています。

高野さんで修業をした僧は、高野聖として空海の教えや空海の奇跡を広めるべく、諸国を行脚します。
それによって空海は、日本で最も有名な僧のひとりとして尊敬を集めています。
空海が入定してから1200年経った今も、人々は空海が修行で廻った道をお遍路として歩いています。
空海は、今も人々の心に生き続けているのです。

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千年の都・・・京都・・・ひときわ目を引くのが東寺の五重塔です。
東寺は平安時代の幕開けに際して建てられた特別な城です。
その役割は、様々な災いから新しい都を護るためにありました。
この寺を、天皇から直々に託された人物こそ、弘法大師・空海です。

空海が生きた奈良~平安は、日本は激しく動いていました。
天皇位を脅かす僧、跋扈する怨霊、天変地異・・・降りかかる禍に・・・
ときの桓武天皇は、10年で2度の遷都を余儀なくされます。

そんな中・・・大陸から最先端の密教を持ち帰った空海・・・
その法力で、都を護ることを託されたのです。
しかし、本来空海は、この時日本にはいない人物でした。
遣唐使として唐に渡った空海・・・
科せられた留学期間は20年・・・しかし、僅か2年で切り上げて帰国!!
死罪にもあたる選択でした。

空海生誕の地として知られる香川県善通寺市・・・
ここで語学にもたけた空海の発見がありました。
佐伯直氏の墓には・・・その石室内に、国内でも僅か数点しか出土していない青銅製の冠帽がありました。
日本でなく、朝鮮半島で製作されたと思われています。
別の古墳からは外洋船の壁画が・・・
この地域には、長らく渡来人が暮らし、彼らを支配下に置いていたのが空海の祖先・佐伯直氏と思われます。
空海は、中国の言葉や文章に秀でていました。
人間・・・空海の姿とは・・・??

奈良時代後期、日本は激動の時代を迎えていました。
桓武天皇は、2度の遷都・・・異例の政治を余儀なくされました。
70年の奈良の都を捨てた桓武天皇・・・
その原因の一つが奈良の仏教界でした。
6世紀半ば・・・朝鮮半島から日本にもたらされた仏教・・・
以来天皇は、仏教によって国家の安寧を願う鎮護国家を政策としてきました。
しかし、8世紀になると、全国の国分寺の建立や、東大寺の廬舎那仏造営など、財政を圧迫するようになってきます。
さらに、天皇の庇護を受けた奈良の仏教僧達が、政治介入を始めていたのです。
その象徴が弓削道教。。。
称徳天皇に仕える僧侶の身でありながら、天皇の政策に大きな影響力を及ぼし、自ら天皇になろうとしました。
こうした奈良の仏教界の僧は、五代にわたって天皇を出していた天武天皇系と緊密に結びついていました。
新たに天武天皇系から出た桓武天皇は、奈良の仏教勢力を政治から切り離したいと考えていました。

784年11月、桓武天皇は平城京から北におよそ40キロ離れた長岡京への遷都を決断します。
この時、桓武天皇は、異例の詔を発していました。
「私的な寺院を移転、新設することを禁ずる」
これによって、奈良の仏教勢力は、寺院を新たな都に移転することを阻まれました。
しかし・・・ほどなく軋轢を生みます。
785年9月、桓武天皇の右腕として長岡京造営を任されていた公暁・藤原種継が暗殺されます。
犯人を捕まえ尋問すると、桓武の退位を企てるクーデターが露見!!
その首謀者の一人として名が挙がったのが、桓武の弟・早良親王でした。
早良親王は11歳の時に東大寺で出家した元僧侶・・・
奈良の仏教勢力と深いかかわりを持ち、桓武天皇に反発し、自分たちを中核中軸とする勢力をもう一度取り戻そうとしていました。
背景に、奈良の仏教勢力がいたことは、まぎれもない事実でした。
桓武天皇は、早良親王を流罪とし・・・しかし、その道中、早良親王は無実を訴えて憤死!!

その後、桓武天皇で次々と異変が・・・
788年~二人の妻と母が次々と亡くなり・・・息子の安殿親王が病に臥し・・・
792年8月・・・大水害・・・
桓武天皇は恐れおののいていました。
全ては早良親王の祟りではないのか・・・??
そして、僅か10年で長岡京を離れ・・・

794年10月平安京遷都。
二度の遷都は、奈良の仏教界と早良親王の怨霊から逃れるため・・・止むに已まれぬ行動でした。
平安ではない歴史的な事実があったから、平安京と名付けたのです。
平安京という新しい都を守護するには、奈良仏教とは違う新しい仏教が必要!!
この頃、20年に一度の遣唐使が計画されていました。
遣唐使に唐から最先端の仏教を期待します。

その頃・・・31歳の空海は、山野で修業に明け暮れていました。
18歳で都の大学に進学、高級官僚への道が約束されていたにもかかわらず僅か1年余りで中退し、仏の道を歩み始めていました。
修行中に触れたのが密教・・・
密教とは、インドで生まれた仏教の一種で、様々な呪文や神秘的な儀式をとり行う最先端の教えでしたが、日本には本格的には伝わっていませんでした。
「理解できないところがあり、質問をしてもわかる人もいなかった。」by空海
日本で密教を学ぶには限界がある・・・と、唐に渡ることを画策します。
一介の無名の僧でありながら、遣唐使に選ばれます。
朝廷から命じられた留学期間は20年・・・
この時、同じ遣唐使として桓武天皇の期待を一身に受けていた僧が最澄でした。
後に、天台宗の開祖となる最澄・・・すでに新しい仏教の担い手として桓武天皇の寵愛を受けていたのです。
朝廷が最澄に定めた留学期間は1年・・・すぐに帰国してほしいと考えていたからです。
日本を出発した空海は、半年後長安へ・・・いかにして密教を学ぶのか・・・??

805年唐の都・長安に滞在していた空海は、密教の師を探していました。
当時、長安の南東にあった青龍寺・・・空海がこの寺で出会ったのが、恵果でした。
恵果は、インドから伝わった密教の正当な流れを受け継ぐただ一人の僧・・・
歴代皇帝から篤い信頼を得、1000人の弟子がいたと言います。
空海と初めて会ったとき・・・
「私はあなたが来るのを長い間待っていました。」と言ったといいます。
恵果は多くの弟子を差し置いて、空海に密教の全てを伝授します。
その証となるのは・・・空海が経過自身から授かった五鈷鈴・五鈷杵・・・ともに、密教儀式で使われる法具の一種です。
他にも、巨大な曼荼羅や、密教経典を授かります。
しかし・・・出会いからわずか半年でこの世を去ってしまった恵果。
恵果は空海に遺言を残していました。

「すぐに帰国し、密教の教えを国家に奉り、国中に広めてほしい。」

しかし、空海に課せられた留学期間は20年・・・未だ1年4か月・・・どうする・・・??

「奈良の仏教の教えは、苦しむ患者を前に、病気の原因や薬の効能をただ論じるようなもの。
 密教の教えは、薬を調合し、服薬させ、病を取り除くことができる。」

古代では、宗教的な力、霊的な力を以ても、安全保障をしなければなりませんでした。
しかし、奈良仏教は、学問仏教的な色彩が濃く、儀式や儀礼、修行という面では未熟だったのです。
その未熟な部分を密教は完全に補完できるというイメージが空海にはありました。
密教は奈良の仏教よりも実行力に勝る!!
新しい都に相応しい!!

しかし、任期は20年・・・天皇の命に背いていいのか・・・??
死罪になれば、今までの教えが水の泡・・・。
唐に留まるべき・・・??恵果阿闍梨亡き今、20年もどうやって過ごす??
天竺に行く・・・??

進むも退くも、いばらの道・・・??

806年、空海は唐の皇帝に向けて手紙を認めます。
「私は20年で売るべき成果を、1年で体得することができました。
 密教こそ、桓武天皇の勅命に対する答えなのです。」by空海

日本に向かう船に乗り込む空海。
恵果の遺言に従って、直ちに日本に戻ったのです。

2年ぶりに祖国へ・・・しかし、処遇に困った朝廷は、3年も都に入ることを許しませんでした。
この頃、日本の政治状況は変わってきていました。
空海が帰国する半年前・・・806年3月、桓武天皇が病に倒れて死去。
そのあおりを受けたのが、空海よりも先に帰国していた最澄でした。
桓武天皇の庇護のもと、天台宗を開いていた最澄でしたが、後ろ盾を失ったことで、奈良の仏教勢力との対立が表面化!!
810年9月、追い打ちをかけるように・・・時の上皇・平城太上天皇の変(薬子の変)・・・再び都を平城京に移すと挙兵したのです。
時の天皇・嵯峨は、すぐにこれを鎮圧!!
桓武の政策を引き継ごうとしていましたが・・・死罪を含む多くの処罰者を出すことになります。
この事件が空海の密教の力を示すこととなります。
天皇の許しを得て、国家安寧を祈願する密教儀式を執り行ったのです。
812年最澄が空海から灌頂を授かります。
空海は、鎮護国家の要として嵯峨天皇の信頼を一身に受けることとなります。
823年、空海は嵯峨天皇の勅命によって、一つの寺を下賜されます。
東寺の平安京の中、天皇の命によって建てられた寺は東寺と西寺。
そのうちの東寺が都を守護する寺として、空海に与えられたのです。
空海は、ここで、唐にもなかった新しい密教世界の表現を試みます。
大日如来を中心に鎮座する21体の仏像・・・それまで平面だった曼荼羅を立体の世界へ・・・!!
桓武天皇が願って止まなかった奈良仏教に代わる新しい仏教の招来・・・。
それを空海は、目に見える形で平安京にもたらしたのです。

ここ東寺から日本の仏教が始まる・・・
空海のオリジナルの仏教が・・・!!

唐から帰国して10年・・・朝廷に願い出て、高野山に密教道場を開きます。
都から遠く離れたこの地で、自分や弟子たちが修行に専念できる場所を作ったのです。

「唐から帰国して多年を経たが、いまだ密教の教えは広く流布していない。
 縁のある方々の力添えによって経典を書写し、教えを広めたい。」

そこで空海は、日本各地の仏教僧たちに経典の書き写しを依頼、その一人が東北地方を中心に活躍していた僧・徳一。
徳一は、奈良の仏教勢力出身でしたが、天台宗・最澄と教えを巡り対立し、論争は5年・・・
しかし、空海は、奈良の僧とも積極的に交流し、関係を深めていました。

更に民衆にも布教・・・しかし、障壁が・・・!!
当時の僧は、生活の全てを国が賄っている公務員!!
その仕事は国家の安寧を祈る事であり、民衆への布教活動は固く禁じられていました。
しかし空海は・・・??
唐で学んだ土木工事などを行い民衆たちに伝えます。
理屈ではない、まず苦しんでいる人を救うのが仏教!!
実践こそがすべて・・・!!
それを体現したのが、弘法大師・空海でした。

最晩年の言葉
「すべての生きとし生けるものが悟りを得るまで私は祈り続ける。」
空海の教えは、今も救いを求め続ける人々に生き続けています。

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2000とも3000ともいわれる伝説とともに生き続ける・・・空海。
杖でたたくと温泉が出た伊豆・修善寺、柄杓が杉の木となったと言われる高尾山・・・
伝説とともに川崎大師や成田山、四国八十八カ所等でも有名な・・・弘法大師・空海です。

平安時代高野山を中心に新しい教えを広めました。
「人は生きながらにして仏になれる」という密教の教え。。。
死後の世界より、現世に重きを置く密教!!
その奥義を極めた空海は、世の中に広めていきました。
現在の法事の原型を作り、貴族を思いのままに・・・天皇さえも弟子とした。
空海は、「56億7000万年後、人々を救済するため再びこの世に現れる」と言ったとか。。。

今から1200年前、原生林を切り開き密教の聖地が生まれました。
高野山です。
1000㏊の巨大な土地に117の寺院、600人の僧が暮らすこの山は、密教の修行者にはまさに聖地。。。
2004年には世界遺産に登録されました。
この一大拠点を築いたのが空海です。
エリート官僚を目指していた空海・・・どうして官僚の道を捨てて中国へ・・・??

774年、空海は香川県で、豪族の三男として生まれました。
幼いころから成績優秀で、両親は将来は国の官僚に・・・!!と思っていました。
国の官僚になるには、都に一つしかない大学に入る必要がありました。
しかし、その大学に入学できるのは、ほとんど貴族の子弟・・・豪族にとっては狭き門でした。
その狭き門を突破し、入学後もひたすら勉強します。
しかし、空海は目の前にある壁に気付きます。
どんなに成績優秀でも、地方の豪族出身は・・・生涯下っ端だったのです。
やる気を失った空海は「虚空蔵求聞持法」・・・と唱えるものに出会います。
険しい道を修行しながら100日で100万回の呪文を唱える空海・・・。
その身なりは乞食でさえ目を背けたといいます。
そんな時神秘的なことが・・・
明けの明星が口の中に飛び込んできたのです。
この体験は何を意味するのでしょうか??

その答えを探すために、修行にのめり込んでいく空海・・・
遂に、100日で100万回の呪文を唱えることに成功!!
官僚の道を諦め、出家を決意します。

しかし、親族は反対します。
大学を卒業さえすれば、エリートでなくても中央官僚でいられるのです。
親族の声に反論したのが国宝「聾瞽指帰」です。
その中で空海は、仏教・儒教・道教を比較しています。
「それぞれ聖人の教えであるが、儒教より道教の方が優れている、その道教より優れているのが仏教である。
さらに親孝行という小さな高校より、人々に広く慈愛を及ぼす大きな孝行の方が大切である。
どうして目先のことにこだわらなければならないのか。」

名だたるあらゆる宗教の経典を読み漁る空海・・・
そんなある日、「大日経」と出会います。
そこには、曼荼羅、真言など、全く新しいことが書かれており、理解できませんでした。
もしかしたら・・・この大日経の教えの中に、あの神秘的なことの答えがあるかもしれない!!
しかし、当時、大日経を理解する者は日本にはいませんでした。

暗澹たる思いに駆られる空海は、明師を求めて中国に行くしかありませんでした。
当時・・・中国に行くなら遣唐使でした。
が、遣唐使になるには、朝廷の人脈、莫大な費用がかかりました。
空海は伯父に・・・船に乗れるように願います。
実家にも帰り、お金を出してくれるように頼みます。
留学僧には20年の滞在義務があり、そのお金が必要だったのです。
大学もやめてしまって放浪した上に、中国に行きたいのでお金が欲しい・・・
それでも父は、お金を工面してくれました。
804年、31歳で唐に出発!!

留学した僧に定められた滞在期間は20年・・・
中には、船が来なかったために30年いた者もいました。
ところが・・・空海はわずか2年で帰国します。
空海が唐の都・長安にたどり着いたのは、804年・31歳の時でした。
当時、唐は国際都市で、仏教以外にもイスラム教、キリスト教、マニ教・・・好奇心旺盛な空海は、色々な名だたる寺院を回りました。
こうした中・・・空海は、大日経が密教の経典であることを知ります。

それまでの仏教が死後の世界を説いていたのに対し、密教は現世利益を唱え、修行をすれば生きながら仏になれるという教えに加え、加持祈祷によって、病気を治し悪霊退散しました。
そのため人気を集め、信者が増えていたのです。
空海は密教の奥義を極めるために、大日経に取り組みます。
経典はサンスクリット語・・・古代インドの言葉”サンスクリット語”を理解しないといけません。
3か月でサンスクリット語を習得し人々を驚かせ・・・第一人者を訪問することに・・・!!
その人物は恵果。世界中から集まった1000人もの弟子がいました。
さらに、唐の皇帝三代(代宋・徳宋・順宋)を弟子とし「三朝国師」と呼ばれていました。

その恵果を尋ねた空海に・・・
「私はこの地に、あなたが来ていることを知っていて、長い間待っていた。
 今日、こうして会うことができてとてもうれしい。
 私は寿命が尽きようとしている。
 しかし、法を伝えるべき人がいなかった。
 早速、あなたに密教のすべてを捧げよう。」と言われます。

空海は待ち望まれていた人物だったのです。
恵果と一対一の公伝が始まりました。
わずか3か月で密教のすべてを学んだ空海・・・。
世界でただ一人の密教の伝道者としての位”伝法阿闍梨”の名をもらうのでした。
そして恵果から帰国を促されます。
「一刻も早く日本に帰り、この教えを国中に広め人々の幸せが増すように祈りなさい。
 そうすれば、世の中は平和となり、すべての人が心安らかに暮らせるでしょう。」
空海には自分も三朝国師なりたいという野心が生まれるのでした。

20年もいられない!!しかし、帰るすべはありません。
20年の留学期間が終わるまで、遣唐使船が来る予定はありません。
しかし、空海は諦めません。
20年分の留学費用のすべてをつぎ込んで、日本での布教に必要なものを買い漁り始めます。
密教の経典・法具・曼荼羅・・・日本にない物を・・・!!
そして奇跡が・・・!!
唐の新しい皇帝の即位を祝うために、日本から使者がやってきました。
唐に渡ってわずか2年、空海は日本に戻ってきました。

帰国した空海は、20年間修業をしなかった罰で九州に留め置かれます。
何とか都に戻りたい空海は・・・唐から持ち帰った経典や法具がいかに貴重なものかという御請来目録を書いて、朝廷に提出することにしました。

しかし、役人たちは見向きもしません。

ところが・・・この目録に驚いたのは・・・天台宗の開祖・最澄でした。
どうして関心を寄せたのでしょうか?
仏教界のエリート・最澄は、桓武天皇から比叡山を与えられるほどの信頼を得ていました。
そして・・・天台宗の教えを極めるために、空海と同じころに唐に渡りました。
が・・・特別扱いだったために、留学期間は1年!!
最澄は、天台宗の教えを修めた後、帰国する前の1か月間だけ密教を学んだのです。
桓武天皇は、最澄が密教を持ち帰っていたことを喜んでいました。
病床に臥せっていた桓武天皇は、この病気を怨霊の仕業と思っていて、加持祈祷によって病を治し、悪霊を追い払う密教は、天皇の望むものだったからです。
密教を深く知ることが必要だった最澄・・・その時目にしたのが空海の目録でした。
809年大宰府にいる空海を都に招いた最澄。
当時、最澄が空海にあてた手紙には、”下僧最澄”と書かれています。
最澄の望みで、最澄を弟子にした空海。
桓武天皇の寵愛を受け日本仏教界の第一人者が無名の僧に弟子入りしたことで、空海の名が一躍有名になります。
空海から経典を借り、密教への理解を深め4年が経ったある日・・・
最澄は、密教の最も重要な経典「理趣経」の注釈書である「理趣釈経」を貸してほしいと空海に頼みます。
しかし、空海は断りました。
「理趣経」は、タブーだった欲を肯定し、性愛でさえ清浄と解くもので、注釈書を読むだけでは誤った解釈をしかねなかったからです。
そして最澄に時間をかけて学びに来るように言います。
しかし、天台宗の開祖は度々比叡山を離れることはできませんでした。
結局、二人の興隆はありませんでした。

密教を広めるために活動を始める空海・・・それは、空海伝説の始まりでした。
空海の故郷香川県満濃池。
灌漑用のため池が決壊し、修復が進んでいませんでした。
この治水工事を・・・唐で最新の土木技術を学んでいたのです。
現代にも通じる方法で・・・。

これらを密教のおかげだとさせるために、現場で加持祈祷をします。
空海は、病気も治します。
唐で薬も勉強していましたが、ここでも加持祈祷は欠かしません。
このようにして空海は密教を浸透させていきます。
そして・・・各地に残る伝説は空海のカリスマ性によるものから出来上がっていきます。

空海は布教を始めたのは、奈良仏教が浸透していた時代・・・
そんな時代に空海はどうして密教を一気に広めることができたのでしょうか??
貴族の間に密教を広めようとします。
そこで供養に重きを置きます。
当時は、戦が絶えませんでした。
戦死した相手が祟りとなり呪う・・・そんな時代だったのです。
死んだ相手を供養すればよい・・・ということで、一周忌に加持祈祷、密教の抗議・・・
貴族たちを信者としていきます。
これは法事として現代に残っています。

そして・・・天皇に近づく・・・そのためには、貢物を利用します。
桓武天皇の息子・嵯峨天皇は、のちに三筆と呼ばれるほど書に秀でていました。
唐の文化に憧れていました。
そこで空海は天皇に直接手紙を書きます。
謙遜分の中に・・・密教を学んできたことと書を学んできたこと・・・それが嵯峨天皇をつる撒き餌だったのです。
唐から持ち帰っていた「書」を、何度も分けて送り続けたのです。
空海は、徐々に天皇の信頼を得ていきます。

そして・・・天皇と友達のような文章になっていきます。
パトロンは天皇・・・そして、823年嵯峨天皇を密教の継承者として認める灌頂を与えています。
天皇を弟子にすることをついに達成するのです。
唐から帰って18年・・・空海50歳の時のことでした。

仏教界の頂点に上り詰めた空海は、密教の拠点づくりに力を注ぎます。
高野山です。
どうして高野山に・・・??
ここを本格的な修行の場とします。
しかし街にも・・・東寺を教王護国寺としました。
密教がこの国には欠かせないもの・・・!!
立体曼荼羅を設置し布教に励みます。

高野山と東寺を行ったり来たりする日々・・・心理を追い求め、あらゆる手段を使って密教を広めます。
65歳の時に空海は食事も水も絶ち、高野山・奥の院の御廟に入定!!
空海はこう言い残します。
「56億7000万年後、人々を救済するため弥勒菩薩とともに再びこの世に現れる。」

四国八十八カ所を訪れるお遍路・・・自らの願いを叶えるために・・・供養のために・・・歩く・・・その白衣に記された「同行二人」の文字・・・それは、空海が常にそばで見守ってくれているという意味です。
空海の入定から86年後、醍醐天皇が弘法大師という名を贈りました。
その際、奥之院を開けると空海の姿は生き生きしていたといいます。

空海は今も生き続け、人々の幸福を願っているとされています。

「宇宙が亡くなり
 人間は誰もいなくなり
 悟りもなくなってしまうまで
 私の願いは尽きません。」


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先日・・・和歌山県の九度山町にある慈尊院へ行ってきました。

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この慈尊院は・・・??

空海が・・・嵯峨天皇から高野山の地を賜った際に・・・
高野山詣での要所に当たるこの九度山に・・・高野山への表玄関として伽藍を創建し、高野山一山の庶務を司る政所として高野山への宿所ならびに冬季避寒修行の場としました。

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高齢となった空海の母・阿刀氏は、讃岐から高野山を一目見ようとやってきましたが・・・
当時高野山は7里四方女人禁制となっていました。

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そこでこの慈尊院に滞在し、本尊の弥勒菩薩を篤く信仰しました。
空海は、ひと月に9度(頻繁に)母に会うために高野山の山道を20数km下ってきました。

だからこの辺りは”九度山”というのです。

空海の母が、この弥勒菩薩を熱心に進行していたので、慈尊院は女人結縁の寺として知られるようになり、”女人高野”と言われるようになったのです。

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さすが”女人高野”です。
おっぱいの絵馬が納められています。
女性の病気も治してくれる、女性に優しい慈尊院です。

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滋賀県近江八幡市は・・・近江商人発祥の地。
水郷と古き商家が立ち並ぶ・・・日本経済を築いた近江商人の城下町。
琵琶湖の東岸に位置し、江戸時代全国各地で商売を行った近江商人の城下町です。
商人たちの生活が垣間見ることが出来ます。

八幡山山頂にある近江八幡城。
今ではロープウェーで行きますが、標高285mの八幡山の頂に建てられたお城です。
現在天守は存在しておらず、石垣をみることが出来ます。

hatiman
















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この城を作ったのは、豊臣秀次・・・幻の天下人です。

秀次は、秀吉の甥で・・・
秀吉は、ゆくゆくは跡取りとして養子にしていました。
後継者として帝王学を学んでいきます。
18歳で近江の国の城主となり、24歳で関白宣下され・・・天下人となったはずでした。

秀吉の後継者として秀次しかいない!!と、誰もが思っていたのに・・・
秀頼が生まれてしまいました。
秀次は、関白を剥奪され、追放され・・・高野山へ幽閉されてしまうのでした。
切腹を命じられ・・・享年28歳でした。

しかも、一族は、女性から子供まで・・・すべて処刑され・・・
居城であった八幡山城まで廃城とされてしまうのでした。
秀吉は・・・秀次の存在をすべて消し去ろうとしたのです。

戦国の世にあまりにも理不尽に命を奪われた秀次・・・
しかし、秀次は、ここ近江の地に、偉大な業績を残していました。

秀次が近江八幡城をつくるときに最も大事にしたのが・・・経済の発展でした。

oumi

そこで、琵琶湖から商業船を入れるために、八幡掘を築きます。


琵琶湖から繋がって・・・琵琶湖に帰ることが出来る水路を作ったのです。


この八幡掘が、近江商人発展の基礎となるのです。




どうしてここから近江商人が発展していったのか???
それは、織田信長・豊臣秀次が亡くなったことが発展の理由です。
???
信長は、安土で楽市楽座を行っていました。
当時、商人が商売をするためには、領主に税金を払い・・・
商売をするための組合”座”に入らなければいけませんでした。
そして、”市”という商売専用の場所で商売しなければならなかったのです。
一部の豪商だけが儲かる制度でした。
そこで・・・誰もが商売で利益が出るように・・・座と市の制度を撤廃したのが信長だったのです。
座と市に縛られずに自由に商売が出来るということなのです。

ところが・・・信長が死に・・・安土の町は・・・???
安土商人や民衆を引っ越させ・・・招き・・・楽市楽座をやったのが秀次だったのです。
城下町の経済が発展していきますが・・・城下町が出来て10年余りで秀次は自害。。。
城主がいなくなっても自分達で盛り上げていこう!!
と、商人たちが自立し始めるのです。
力を身に着けるために・・・他国へ出ていき大きな商売をする!!
天秤棒を担いで諸国を渡り歩くようになったのでした。
全国へ名をはせる近江商人の誕生でした。

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赤コンニャク・・・
どうしてコンニャクが赤いの???
それには、織田信長が関わっているようです。
安土城下町で”左義長まつり”があり・・・そこではすべてが赤く・・・赤づくし!!

akakon
その赤い短冊を見て、「コンニャクも赤にしろ!!」と言ったとか。。。

安土からやってきた赤コンニャクが近江八幡に根付いたのです。

冠婚葬祭にも赤コンニャクは欠かせません。
赤コン君もいます。



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新町通りは、近江商人の店が立ち並び、国の重要伝統的建造物保存地域となっています。

一番古いのは・・・300年以上経つ旧西川家住宅です。
当時、大坂や京・江戸に店舗を持ち、蚊帳や畳表等の商売で財を成しました。
その西川家には、商売に繋がる様々なアイデアが隠されています。

現代のビジネスシステム・・・本店を近江に構え支店を全国に作るというシステムを作り上げた近江商人。
本拠地の商家は、幼い丁稚を立派な商売人にさせるエリートビジネス養成所でした。
商人の屋敷に住み込みで働きながら、礼儀作法から商売の基本まで、徹底的に教え込まれました。

親元を離れ、単身歯を食いしばりながら立派な商人になっていく若者たち。
近江商人は・・・
「先義後利栄」=義理が先、利益を後に考えれば自然に栄える
「好富施其徳」=富は好し、しかし其の徳を施しなさい
という考え方でした。

それが、莫大な富を生むことになるのです。

現代に通じる日本経済の屋台骨を作り上げた近江商人。
そんな彼らをはぐくんだ近江八幡には・・・損得勘定抜きで温かく迎えてくれる人たちが待っています。

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