佐渡広場

佐渡をコンセプトとし、貴重で、面白い、懐かしい、元気が湧く情報集になることを目指しています。

歴史スポット74:1950年代両津子どもの遊び(11)加茂湖での遊び

 こんにちは!自在業の櫻井です。
1、はじめに
 唐突であるが、いま入院中。ブログはこの8月21日(月)の入院時からタブレットを病室に持ち込み、昨日2枚の写真とそのコメントを残し仕掛かり記事をほぼ終了し、新たな書き込みに着手。(2枚の写真は同級生から自宅に郵送され、病室で拝見、ケータイに撮って自宅のパソコンに転送、病院から返送。退院後追記し記事完了予定)
 なお、昨年7月大腸ガン検査で結腸と直腸の 2ヶ所にガンが発見、8月新潟県立がんセンター新潟病院で再確認検査で確定(結腸ステージ2、直腸ステージ0)、9月23日同院に入院しそして手術(患部2ヵ所とその間の50僂鮴攴)、12月7日人工肛門を付けた状態で退院。人工肛門を外すには6カ月経過の検査結果による。
 (16年12月10日号「話題・出来事2:入院体験」)
 今回、その 人工肛門を外すための手術(小腸人工肛門閉鎖術)を行うため8月21日(月)入院・翌日手術。当初退院は手術後1週間の8月29日(火)予定がうまくいかず、腸炎にかかり腸閉塞の症状も見られるとのことで30日CT(胸・腹・骨盤部)検査、翌日大腸内視鏡検査受診。結果腸閉塞状態に近く、人工肛門をつけた元の状態に戻す手術もあり得るとのことだった。9月に入り良い状態となり(体温の安定低下、傷口等痛み減少、腹部の張り緩和、食べた後や藥飲んだ後の吐き気・戻しなし、食事の残しなし、血液検査値良好、血中酸素濃度90%以上持続、便・ガス・尿の安定排出)、それに伴い尿の管・点滴外し、食事開始(流動食→3分粥→5分粥→7分粥→全粥→ごはん)と推移し、昨日は17日(日)昼食後退院に決定。
 但し、それで完全に治ったわけでなく、排便の回数は平均的に6か月後1日5回くらいに下がり、2年後は2〜3回ということである。
 参考データ:現在身長177
        体重 最大血圧 最低血圧  備考
16年9月手術前:85圈150以上 130以上 70歳
 〃10月27日 ;73    121    56     〃
17年9月13日朝:73   108      65     71歳
 〃  〃15日夕:74   120    74     〃
(現在まだメタボ・高血圧・心臓に不正脈ありだが、近年再会が大学時代以来のクラスメイトが前はスマートだったと決まって言っていたように 20代〜35歳時は身長180僉β僚65 〜68圓任△辰)
 さて、今回のテーマは、これまでの 海と異なり、湖での遊び。
  (加茂湖の概要については、07年1月2日号「佐渡の風景7:加茂湖」)
 小学2年の時海辺の旭町から加茂湖に近い築地に引っ越し、高校時代まで過ごした。 
 (夷本町5ノ町から「(おもちゃ屋の)ツル屋の坂」又は「山角(呉服店)の坂」を降りると築地と飲食街の神明町通りに出、更に行くとホテル・旅館街の八郎平衛町通りがあり、次は加茂湖で通りはない)
 海での遊びに対し湖(といっても、海水の混じる汽水湖)ではどう違うか、それをどこまで正しく、多く・細かく記せるかが課題。
 なお、これまで多くの人からの取材によって得られた貴重な話を再掲するほか、さらなる情報源及び資料拡大に努める。

2、内容
 屬討鵑押廚僚遊び
1)「てんげ」は1人が櫂を漕いで進む木造の小舟で、漕ぎ手以外に4人又はそれに相当する物を乗せるスペースがある。
 a、主な用途は、磯漁、輸送、交通手段。
 b、「てんげ」の活用例
  ア、1833年天保地震(庄内沖地震)による津波のとき夷から加茂へ陸路だけでなく「てんげ」(以下、舟)で加茂へ避難させることもあった。
 (08年6月16日号「佐渡の生物3:村雨の松」。なお、村雨の松が遭遇した大きな出来事に、1959年伊勢湾台風とあるが、1961年第二室戸台風の間違い)
  イ、明治(又は大正)期能の宝生流家元が本間家能舞台で公の演に来た時舟を使った。
  ウ、湊から排出される魚の腸(はらわた)などは、肥料として国仲の農村部での利用のため、舟で輸送。
  エ、戦後湊の漁業関係者が朝早く海岸通りの両津魚市場行くのに加茂湖側にある船小屋から舟で両津橋の下をくぐってセリに行った。リヤカーやトラックより便利で効率的だったからだろう。
2)「てんげ」は稼ぎに使うためのものであるが、桟橋等に休めておくと子どもの遊びの対象となる。【これ、法則的】
3)具体的にどんな遊びをしたか?これは、童心に還って想像を働かせる必要がある。今更、事実を確認するまで記述を控えなければならい性格のものであるまい。
 a、まず舟に乗る(複数の子ども想定)。舟にしっかりつかまってゆっくり乗る者もいれば、桟橋から飛び乗る者もいるだろう。
 b、舟から水中を覗き見する。湖底の様子は?魚や貝やヒトデ等々は?舟の中の場所を変えて見る。
 c、舟の左右に縦に置いてある櫂をそれぞれ左右の舷取り付け、両手又は片手で漕いでみる。舟は綱に繋がれているが、少し進めたり戻したりして舟を動かす。
 d、誰の所有か知らないが舟を漕ぎたく綱を外し、桟橋を離れる。
 e、1人だけ櫂をもつのでなく、他の者にも参画すべく左右どちらか受け持ってもらう。3人いれば、1人が舟が真っ直ぐ進むよう左右の漕ぎ手に指示。または、1人漕ぎ手・1人指示者・1人見物者となふねって役割を代わり番こに担当し、楽しむ。
 f、舟の旋回、舟の歳高速度、舟の急停止させる仕方などいろいろ試す。
 g、自分の家の舟を親の許可・暗黙の承認を得ている場合時間の許す限りどこへでも行ける。例えば湊の場合は椎崎・潟上・湖鏡庵方面、夷の場合は秋津・潟端・樹崎方面。
 h、他人の舟の場合、長く使ったがために見つかってしまうことのないよう、目標点(例:一番近い養殖カキ筏、終了時刻)を決め、達したらやめ舟を元に戻す。
4)舟を漕いだことあるかについてはっきり記憶にないが、感触は残っているつもりだから体験したとして間違いないだろう。
 いつ頃のことかはわからないが、加茂湖であることは間違いなく、牡蠣筏まで自分でそこまで漕いだわけでないが、行ったことは事実。
 a、櫂をしっかり水中へ入れ力負けせずに漕がないと、櫂が宙に浮き空振りしてしまう。
 b、左右同じペースで漕がないと、真っ直ぐに進めない。
 c、漕ぎ手は、一人乗りの場合進行方向が見えないから、ぶつからないよう常に周囲に気を配ることが必要。
 以上ここでは「てんげ」だけ取り上げたが、「タライ舟」もあったことは、お盆の15日築地の生まれで10歳年下の藤木則夫氏(1956年生)から聞いて知った。質問内容は、小さいとき「てんげ」で遊んだかどうか?「浮御堂(うきみどう)は知っているか?あったか?」である。
 吉田屋ホテルの前の湖畔に「てんげ」が置いてあり(たらい舟もあった)、こっそり沖に出して遊び、また浮御堂はあったとのこと。〔浮御堂は、伊勢湾台風(1959年)で倒壊したと思っていた。とすれば氏が3歳の時で知っているはずないと思って調べると、1961年第二室戸台風の間違いと分かった。この場合氏は5歳で、私自身は中3の時と思っていたことと一致。その時は夜になって大型台風が通過中のはずなのに静かだった気象が夜8時突如強風に変わった。翌日と思うが通学途中にある両津カトリック教会の大木が折れていたのに驚いた。浮御堂がつぶれたことを聞いたが驚きはなかった。
 夷の名木・樹齢300年はある村雨の松(御番所の松)が、今は枝葉が疎らで支柱で支えられ、衰えが目立つのは、第二室戸台風による影響だろう。2008年写真(前掲「村雨の松」)と1956年写真(要拡大:「(08)岩場遊び」)との比較で明らか。
 なお、国指定天然記念物 推定樹齢1300年以上の羽吉の大桑も中央の幹枝が折損、だが支柱によって毎年花を咲かせている。
 (08年08月02日号「佐渡の生き物10:羽吉の老木」
  15年10月15日号「佐渡の風景128:羽吉」)
 浮御堂と周辺での遊び
1) 「浮御堂」は、年代は確かでないが1957年頃〜1961年まで湖畔に建っていた。しかし、1961年第二室戸台風で倒壊し、以後再建はなかった。
 a、こじんまりしたユニークな湖上の木造平屋の建物で 陸との間に半円状の橋が架かっていた。窓ガラスはなく、戸は締め切っており内部はわからない。一度見たような気がするが、中は空っぽ。奥は大きな窓ガラスから成って、270度の視界が見えてもよさしうだが、景色を目的にしてない意味不明の構築物でもあった。
 b、所有者は、、医者と聞いたことがあった。両津の人であればもっとわかるはずだが、そうでないからよその人だろう、。
 c、当時地元で呼んでいた「うきみどう」を調べると、ウィキペディアに「満月寺浮御堂」として次のようにあった。
 ア、滋賀県大津市堅田 琵琶湖畔の臨済宗大徳寺派海門山満月寺にある湖上に突き出た仏堂で、近江八景「堅田の落雁」で名高い。
 イ、伝えによれば、源信(惠心僧都)(942〜1017)が比叡山横川から琵琶湖を眺めると毎夜その公明たるを怪しみ、網でこれを掬いとらせると1寸8分の阿弥陀仏像であった。よって魚類殺生供養のために阿弥陀仏像1体を造り、その体内にこれをおさめ、千本の阿弥陀仏像をも奉安し、浮御堂を創建。
 ウ、堂は1934年室戸台風によって倒壊、現在の堂は1937年に再建されたもの。
 (源信について、10年4月7日号「係わりの地51:比叡山延暦寺」)
 およそ、両津で呼んでいた「うきみどう」とは意味するとことは異なる。
【参考】近江(琵琶湖)八景と加茂湖八景
 近江八景      加茂湖八景
(ウィキペディア)  (前掲「佐渡の風景7:加茂湖」)
 石山秋月     米山の秋月
 瀬田夕照     両津橋の夕照  
 粟津晴嵐     鳥島の青嵐
 矢橋帰帆     椎崎の帰帆
 三井晩鐘     湖鏡庵の晩鐘
 唐津夜雨     五月雨山の夜雨
 堅田落雁     籠米の落雁
 比良暮雪     北山の暮雪
  加茂湖について1889年来島した尾崎紅葉は、「この湖の如きは佐渡一国の面目であり、またいやしくも北陸の勝たるべき者なる」と評す。加茂湖遊覧の予定あったが、その時に限り風が強く2回となり、舟遊びは果たせなかった。(06年10月19日号「尾崎紅葉と佐渡(2)」)
 (参考は、以上)
2) 「浮御堂」及び周辺での遊び
 浮御堂は、建物の周囲が回廊になっているものでなく、長さ4、8m・幅0、9mくらいの橋が架かっているだけのもの、遊び場といっても橋の欄干部分と水際部分くらい。それでも築地町内の4〜5人の子どもがそこへ行って遊んだことは確かで、周辺にも遊び場があったからだろう。
 どんな遊びをしたか?はっきり記憶になくても、こんなことはしたはずの観点で挙げてみる。
 a、橋の欄干からの湖中探索・生き物観察
 b、   〃   タモすくい
 c、   〃   ハゼ釣り
 d、舟遊び:乗る・動かす・離岸・カキ筏到着・加茂湖l遊覧
 e、水泳
 f、潜水
 g、湖底砂起こし:アサリなどの貝がないか
   h、クラゲやヒトデとの戯れ
アサリ採り
1)アサリの生態
 a、軟体動物門・二枚貝綱・マルスグレガイ科・アサリ東亜科・アサリ種
 b、日本・朝鮮半島・台湾・フィリピンまで広く分布。地中海・フランス・ハワイ諸島・北アメリカ太平洋岸に移入。
 c、汽水(淡水と海水の混合)状態を好み、成貝は海岸の潮間帯から干潮線下10mほどまでの浅くて塩分の薄い砂や砂泥底に分布。
 d、冬を除く通年産卵し、受精卵は浮生幼生となり、植物プランクトンを餌とし、稚貝・成貝は珪藻類・デトリタス(有機懸濁物)を餌としている。
 e、日本で古くから食用とされ、貝塚などから数多くの貝殻が出土。
2)両津橋の下を流れる境川の東宝ホテル(前は橋本座)から櫛屋鉄工所辺りの川底に沢山のアサリが生息。
 a、子どもが川に入って足で川底の砂をえぐってアサリを表面に出し、潜って採った。私自身経験は、1〜2回。
 b、業者が子どもの採ったアサリを買いに来ていた。
 c、アサリは、小遣いになった。なかにお金を貯めて自分たちの野球チームのユニフォームを新調したグループがいた。
3)現在、加茂湖でアサリを採る子どもの姿はない。おそらく加茂湖漁業協同組合の漁業権のためもあろうし、湖水の汚染が進みアサリが減ったこともあろう。
 a.09年9月24日号「佐渡の風景77:加茂湖(17)お盆時期の草花・昆虫」
  8年前両津橋から加茂湖の奥の吾潟の湖畔で、原付の船を停止させ、1人の漁師(おそらく本業は農業)が網の籠の付いた竿を湖中に入れて上下左右に動かして砂泥ごと掬い上げて船に載せ、選別していた。岸で見て何をしているのか尋ねると、アサリ採りとのこと。アサリは海近くとは限らず、海から離れた川の近くにもいるということだ。 
 b.2017/03/28読売新聞「佐渡の加茂湖 アサリ復活 自然再生活動 一定の成果
 「加茂湖(佐渡市)の「こごめのいり」と呼ばれる入り江で、湖で数を減らしていたアサリが復活しているのが見つかった。付近では市民団体や漁協が自然の再生に取り組んでおり、一定の成果が出ていることがわかった。
 今月18日、市民団体「佐渡島加茂湖水系再生研究所(通称・カモケン)」が「こごめのいり」(秋津)で貝の採取を行った。親子連れら約30人が湖に入って熊手でかき上げると、次々にアサリが見つかり、子供たちが歓声をあげた。ほかにも、高級食材で知られるマテガイが加茂湖で初めて確認されたほか、豊かな生息環境の指標とされる「サツマクリイロカワザンショウ」と呼ばれる小さな貝も見つかった。県水産海洋研究所佐渡水産技術センター(同市)の佐藤修さん(49)は「『こごめのいり』の環境は確実に改善されている」と語る。
 カモケンは、生物多様性が失われつつある加茂湖の自然再生を目指し、コンクリート護岸となってゴミの不法投棄の目立った「こごめのいり」で2010年からヨシを植える事業に取り組んでいる。
 昨年秋、減少していたアサリが次々と見つかった。これを受け、加茂湖漁協は県と協力して、アサリの稚貝が生息する「アサリ垂下施設」を設置し、アサリの養殖実験に取り組んでいる。
 湖の漁業はカキの養殖が中心だが、カキ養殖漁業者の伊藤剛さん(44)は「湖の再生をさらに進め、アサリの養殖も成功させたい」と期待を込めていた。
 つ爐
1)淡水湖だった加茂湖はコイ、キンブナ、テナガエビ、スッポン〔コイとキンブナは島外から持ち込まれたと考えられている〕の他に、淡水でも海水でも生きられるボラ、ワカサギ、シロウオ、カマキリ、ウグイ、クロダイ、スジエビ、サドシジミ(ヤマトシジミの亜種)が棲息していた。
 1901年の河口開削により海水魚介類(カキ、アサリ、アカガイ、ゴリ、スズキ、タイ、コノシロ等々)が、棲息するようになった。
 (資料:佐渡島加茂湖水系再生研究所)
 《参考》ボラ
  1)ウィキペディア
  a.全世界の熱帯・温帯の海に広く分布し、日本では北海道以南で広く見られる。
  
b.河口や内湾の汽水域に多く生息。基本的には海水魚であるが、幼魚のうちはしばしば大群を成して淡水域に遡上。水の汚染にも強く、都市部の港湾や川にも多く生息する。体長が同じくらいの個体同士で大小の群れを作り、水面近くを泳ぎ回る。
  c.釣りの際の撒き餌に群がるなど人間の近くにもやって来るが、泳ぎは敏捷で、手やタモ網で捕えるのは困難である。
  d.海面上にジャンプし、時に体長の2-3倍ほどの高さまで跳びあがる。跳びあがる理由は周囲の物の動きや音に驚いたり、水中の酸素欠乏やジャンプの衝撃で寄生虫を落とすためなど諸説あるが、解明に至っていない。
  e.食性は雑食性。水底に積もったデトリタスや付着藻類を主な餌とする。

   f.天敵は人間の他にスズキ、ダツ、大型アジ類などの肉食魚、サギ類やカワセミ、アジサシ、ミサゴ、トビなどの魚食性の水鳥がいる。【『佐渡島鳥類目録』(日本野鳥の会 佐渡支部発行)によれば、サギ・カワセミ・アジサシ・ミサゴ・トビは、佐渡の湖に生息】
  
2)08年7月8日号「佐渡の生物7;加茂湖の生態系」
  a.「7月3日(木)朝5:00に加茂湖・吾潟の遊歩道を散歩し、カキ小屋の中の船置き場に来た時、バチャッという音がした。小屋の中まで湖水が来てそのまま湖と通じ、そこは浅瀬になっている。おそらく、突然の珍客に驚き、大きなボラが逃げたのであろう」」
  b.「加茂湖の漁師さんから、この数週間前に聞いている、「今は、ボラを釣って食べる人は殆んどいなくなった。今の若いもんは、骨の多い魚を食べなくなってしまった」」
  c.加茂湖での食物連鎖例:「カキ→カラス貝(養殖筏付着)・フジツボ(カラス貝にも着生)→[デトリタス・海藻]→ボラ→サギ」
 〔補足:「サギは、川や水田〔や汽水湖〕などを餌場とし、魚や両生類、爬虫類、更に哺乳類や鳥類も捕食」(ウィキペディア)、一方カキは、植物性プランクトンを食べる。〕
 (参考は、以上)
2)1950年代、主にハゼ・カタベ〔イシダイ〕・チンデー(クロダイ)を釣った。ヤスも利用。((04)山田昭夫氏)
 なお、ハゼと言っても、加茂湖にはウロハゼ〔汽水域や内湾の砂底-砂泥底に生息、肉食性で甲殻類・多毛類・小魚など小動物を捕食〕・マハゼ〔汽水域に生息、肉食性で多毛類・甲殻類・貝類・小魚などを捕食、天敵はサギなど〕・スジハゼ〔肉食で、プランクトン、多毛類、甲殻類、小魚などを捕食〕がいる。(資料:カモケン)
 参考:加茂湖にいる甲殻類(マメコブシガニ、アカテガニ、イソガニ、ヒライソガニ、クロベンケイガニ、コビナガホンヤドカリ。
3)現在は大人の釣りが主で、スズキ=シーバス〔海岸近くや河川に生息、食性は肉食性・小魚や甲殻類などを捕食〕、クロソイ、イイダコ、アオリイカが釣れる。漁協関係では、ナマコも捕れる。 
タ絮
1)吉田家ホテルから花月ホテルの間は、湖底が砂利と砂のため、そこでよく海水浴をした(前掲山田氏)
2)旭町に入た時は家の裏がすぐ砂浜で海に入って遊んだが、築地に移った時泳ぐには加茂湖が近かった。築地通りの伊藤材木店の角から一筋加茂湖側に吉田家ホテル、同じくゆたか屋旅館角から加茂湖の辺りに花月ホテルがあった。
 勿論、その加茂湖で泳いだが、海水になじんでいたため違和感があった。違和感とは、塩分濃度の関係から泳いでも重いという感じがあり、また水のきれいさでは何と言っても排水量の少ない海であった。そのため、泳ぐなら少し歩くが、海辺であった。
3)水泳とは関係ないが、小正月(1月15日)のどんど焼は、築地地区はゆたか屋旅館の奥の加茂湖湖畔の空地で行った。〔「どんど焼」:正月の松飾り・注連縄・書き初めなどを家から持ち寄り、一箇所に積み上げて燃やす正月行事。一般には、田んぼや空き地に竹や木、藁(わら)、茅(かや)、杉の葉などで作ったやぐらや小屋を組み、正月飾り、書き初めで飾り付けをした後に燃やし、残り火で竹にさした団子や餅やスルメイカを焼いて食べ、1年の無病息災を祈る。また、焼けた棒きれを持ち帰って、屋根に投げて置くと火事に遇わないと云い伝えられた。これは、子どもの参画する遊び兼神事と言える。
 また、その辺りに一時期低い屋根の小屋があって、屋根に上って適当な所から木の皮が敷いてあってクッション代わりになっている床へ飛び降りる度胸試しをやった。相当勇気がいったが、これも遊び。

3.まとめ
,海5年くらい加茂湖の早朝散歩は、年取ったためか億劫になってしなくなったが、白鳥はじめ水鳥を見ることと湖底を覗き込んでどんな生き物がいるか発見するのが楽しみであった。天王川の河口の前にあった湖面すれすれにまで堆積した砂洲ーいろいろな水鳥たちの憩い・遊び場で、干潮の時はそこに立っているのが見えるーを浚渫(しゅんせつ)したため無くなってしまったことも理由としてある。
 水鳥たちの遊び場と共に年寄りの楽しみ=遊びもなくなったので、散歩に出る気もなくなった。調べると11年11月5日号「佐渡の風景104:加茂湖周歩(1)潟上」〜同11月23日号「109:(6)両津」の記事以来、加茂湖をテーマにすることはなかった。
 今回「遊び」を契機に、加茂湖が久々にテーマに挙がった。
∪こε環境問題を解くキーワードは、生物多様性(biodiversity:生物学的多様性 (biological diversity)」を意味する造語)で、大袈裟に言えば世界的な研究モデル地区とも充分なり得る加茂湖。
1)地球環境問題
 環境開発と環境破壊、核開発か地球温暖化か、在来種滅亡と外来種繁殖による生態系破壊、生態系の中の一種一員にすぎない人類の周りに環境問題が発生しており人類に未来はあるか?その在り方が問われる時代となった。
 ァ.1992年リオデジャネイロの地球サミット(環境と開発に関する国際連合会議)で承認された生物多様性の定義:「すべての生物(陸上生態系、海洋その他の水界生態系、これらが複合した生態系その他生息又は生育の場のいかんを問わない。)の間の変異性をいうものとし、種内の多様性、種間の多様性及び生態系の多様性を含む」
 ィ.2008年(平成20)日本で「生物多様性基本法」公布・施行。(資料:ウィキペディア)
 顱亡慙△垢詼[Г箸靴憧に、「絶滅のおそれのある野生動植物の種の保存に関する法律」(1992年制定)、「鳥獣の保護及び狩猟の適正化に関する法律」(2002年制定)、「特定外来生物による生態系等に係る被害の防止に関する法律」(2004年制定)等あるが、基本法はより包括的に野生生物の種の保全・自然環境の保全を目的としている。

 髻棒己多様性について、「生態系の多様性」、「種(種間)の多様性」、「種内の多様性」の3つと定めている。
 
鵝棒己多様性の保全と持続可能な利用について基本原則を定め、国、地方公共団体、事業者、国民及び民間の団体の責務を規定。 
 堯棒己多様性戦略の策定について定める。国による「生物多様性国家戦略」策定の義務付け、および地方公共団体による生物多様性地域戦略策定の努力義務を規定し、国および地方公共団体の施策について定める。
 
)生物多様性の保全の観点から、従来の環境アセスメントよりも早期の事業計画の立案段階からの戦略的環境アセスメント(SEA:Strategic Environmental Assessment)の実施について、国による措置を求めている。

 ゥ.名古屋議定書(「生物の多様性に関する条約の遺伝資源の取得の機会及びその利用から生ずる利益の公正かつ衡平な配分に関する国際文書)が、2010年名古屋市で開催された生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)で採択。

2)「世界的な研究モデル地区とも充分なり得る加茂湖」の根拠
a.限られた区域に包括的・体系的サンプルが豊富にある可能性が非常に高いと思われること。
 ァ.佐渡は対馬暖流が流れている関係から対岸の越後と違って冬も比較的暖かく、竹・ビワ・ミカンなど温暖系植物が生育。
 ィ.周囲17km・面積4.9k屬慮个忙慨嵎震酩瑤ら東・西・南・北計6つの川が流れ込み、海と繋がっている川(「境川」)は毎日2回満潮時には海水が湖に流入、干潮時には汽水(海水と淡水が混じった水)が海に流出。
 加茂湖と7つの川(『吾潟郷土史』)
 加茂湖 川2
b.上記より「生態系の多様性」は明らかで〔川は同じでも環境は微妙に異なる〕、長い間に「種内の多様性」が現れ、「種(種間)の多様性」への進化が期待される。
     参考:生物進化論の推移(資料:「FNの高校物理」サイト)
 顱法崚景冀楼枩癲廖淵ュビエ):天変地異が地質時代を通じて幾度か繰り返され、そのたびに前の時代の生物群は殆ど死滅し地球の片隅に残存した生物群が新たに広く分布したという説。同時代のラマルクの進化論に反対。
 髻法嵳冑塒兩癲廖淵薀泪襯:1809年「動物哲学」、1815年「無脊椎動物誌」)
 鵝法崋然淘汰による適者生存説」(ダーウィン1859年「種の起源」)
 堯法岾嵶ダ癲
  a)ワーグナー(1868年)地理的隔離
    大陸の移動、陸橋の水没や隆起、気候の変化、砂漠化、氷河の発達に因る地理的分断、海流・風による孤島への隔離
  b)ロマーニズ(1885年)生殖的隔離
    生態学的環境、行動学的環境、すみわけ
 )「定向進化説」(アイマー 1885年):進化は環境と無関係に生物の内的要因により一定方向へ進む。
 )「突然変異説」(ド・フリース1901年):オオマツヨイグサの野生集団から遺伝性の変異種が出現を発見。  
 )「総合進化説」(ネオダーウィニズム1930年頃):変異の原因を「突然変異」で、変異が種内に広まり固定して行く原因を「自然選択」で、そして一つの種が様々な
 種に分化していく原因を「地理的・生殖的隔離」で説明。

   )「棲み分け理論」(今西錦司1949年『生物社会の論理』)
   「可児藤吉と共同でおこなったカゲロウの生態学的研究と植物相に関する生物地理学的な研究を通じ「棲み分け理論」を提唱した。1933年に、川の流速に対応して生活形が分離することが、川岸から流心にかけて種ごとに異なる分布を形成することを加茂川で発見」「棲み分け」は種同士の社会的関係を表す概念である。たとえばカゲロウ類の幼虫は渓流に棲むが、種によって棲む環境が異なると同時に、異なる形態をしている」(資料:ウィキペディア)
 )「中立的突然変異浮動説」(木村資生1968年、キング、ジュークス 1969年):内容は定向進化説だが、分子遺伝学と集団遺伝学(数学的、統計学的に遺伝を研究)の発展を待って説の展開が可能になった。
 )「現在の進化論」;種が様々な生態学的な環境〔?:「生態学的な」は用語として不自然で、単に「環境」が自然で正しい〕の中で生存競争と適者生存の原理(自然選択)により存続と絶滅が決まる。

c.進化や棲み分けは、「共生」と「変性」と「競生」によって説明できないか。進化での「突然」の解説は科学でない。1秒も1億光年も宇宙規模では大して変わらない。
 共生は、字の通り同種間でも異種間でも互いにプラスに作用しあって共に生きること、
 変生は、それぞれの内部で異なるものが生じること、
 競生は、同種間であろうと異種間であろうとプラス・マイネスをめぐって争い、捕食・被食関係、宿主・寄生体関係、片利片害関係、上下関係、中立関係など安定した関係を築く。
c.ダーウィンの進化論の発見は、ガラパゴス諸島のチャタム島に到着したことが決め手。当初は理論上の矛盾に直面し葛藤したが全く新しい発想を生み出す機会となり、時間も費用もそれほど掛けず「離島研究」モデルが画期的な進化論の構築に功を奏した。
 「ダーウィンは自伝で、〔1831年イギリス海軍の測量船ビーグル号に乗船した5年間の〕航海で印象に残ったことを三つ書き残している。
 一つは南米沿岸を移動すると、生物が少しずつ近縁と思われる種に置き換えられていく様子に気づいたこと、
 二つめは南米で今は生き残っていない大型の哺乳類化石を発見したこと、
 三つ目はガラパゴス諸島の生物の多くが南米由来と考えざるを得ないほど南米のものに似ていることだった。つまりダーウィンはこの航海を通して、南半球各地の動物相や植物相の違いから、種が独立して創られ、それ以来不変の存在だとは考えられないと感じるようになった。またダーウィンは、航海中にライエルの『地質学原理』を読み、地層がわずかな作用を長い時間累積させて変化するように、動植物にもわずかな変化があり、長い時間によって蓄積されうるのではないか、また大陸の変化によって、新しい生息地ができて、生物がその
変化に適応しうるのではないかという思想を抱くに至った」
 「ダーウィンはガラパゴス諸島滞在時〔1835年9月15日〜10月20日〕にはゾウガメやイグアナ、マネシツグミにより強い興味を示した。しかしまだ種の進化や分化に気がついていなかったので、それは生物の多様性をそのまま記載する博物学的な興味だった。鳥類の標本は不十分にしか収集しておらず、それらが近縁な種であるとも考えておらず、どこで採取したかの記録も残していなかった。ガラパゴス総督から諸島の生物の多様性について示唆を受けたときには既に諸島の調査予定が終わりつつあり、ダーウィンはひどく後悔している。鳥類標本については後に研究に際して同船仲間のコレクションを参考にせざるを得なかった。また標本中のフィンチ類やマネシツグミ類がそれぞれ近縁な種であると初めて発見したのは、帰国後に標本の整理を請け負った鳥類学者のジョン・グールドだった」
生物多様性は「棲み分け」あってこそで加茂湖が生物多様性のモデル。遊びにも「棲み分け」・多様性があり、存続がはかられている。
1)概ね3歳範囲の年令階層別
 6・3・3の学制とも関係するが1950年代の子ども・ベビーブーム世代が典型。(少子化時代ではそうはいかない)
2)学内・学外での違い。
 例:学校には一般に卓球台があるが学外には無いので、ボールをラケットの真ん中で頭の高さくらいに何回上げれるか競ったり、2人同士で羽根突き遊びのようにラケットを羽子板に見立て、ボールを鳥の羽を差し込んた羽根(木製の小球)として打ち合い、打ち損ねることのないよう競う遊びなど。
3)遊び場・経験の違い。
 例:キャチボール、やわらかボール野球、ソフトボール野球、軟式野球
4)個人別・団体別対抗遊び
 団体戦には主に星取り戦形式と勝ち抜き戦形式があり、
 前者は、全体の勝敗差で勝ち負けを決める形式で、決められたオーダー同士で試合を行うが、強豪同士で星を潰し合うよりも確実に勝てる相手に白星を取ることを意図した戦略的なオーダーを組むこともあり、
 後者は、勝者となった者が次の対戦相手とも対戦する権利を持ち、対戦相手全員に勝つことで勝敗が決まる形式
 である。
 以上 2017、9、21
 



歴史スポット73:1950年代両津子どもの遊び(10)築港での遊び

こんにちは!自在業の櫻井です。
1.はじめに
|杞(ちっこう)は、一般には字の通り港を築くこと、両津では防波堤のこと。
 他所で初めて「築港」に接したのは06年7月小樽港でのことで、JR小樽築港駅があった。新潟港から北海道行き朝のフェリーに乗り、翌早朝小樽港に着いた。
 (06年7月5日号「北海道と佐渡(1)船旅」)
 大阪港訪問の時も「築港」という標識を見た。”chikko”という添え書きが印象的であった。
 (09年11月6日号「係わりの地41:大阪(堂島、大阪港、大阪城)」)
 なお、同日大阪港よりも数時間先に訪問した神戸港の場合、「第一突堤〔=波止場〕、第二、第三・・・」があり、「築港」はなかった。
 新潟港の場合、両津の築港に当たる言葉は「突堤」。信濃川の海への長い誘導口で東と西の突堤が平行して走っている。
築港は、下の写真に見るように60余年(戦後70年と言ってよい)の間に大きく変化。
1)築港も1950年代は2つの呼び名があった。「沖の築港」と「へたの築港」。また、後者は防波堤でなく防砂堤であるが、それも単に「築港」と呼んでいた。私の場合、「へたの築港」は呼んだり聞いた覚えはない、。佐渡国仲方言に「へた」は端の意味とのこと。一般には「下手(へた)」を指すが、下(しも)の方をもある。
2)要確認だが、岩から成る防砂堤は灯台のある沖の築港に向けて旭町の南に造られ、その後 北の春日町にも防砂堤が造られ、やがてそれが防波堤となって沖の築港へ向け延びていった。1952年は、まだまだ互いが離れていた。
3)その後元からあった防砂堤は撤去された。北の防砂堤から発した防波堤が灯台のある沖の築港と繋がった。
 a、春日町の浜から灯台まで歩いていけることを意味。高校1年頃といえば1962年、来島したある人を見送るのに普通は岸壁からであるが灯台からも手を振った話(旗なども揚げたのであろうか)を聞いた。
 b、高1の時の夏休み、幼稚園時代大の仲よしの渡辺正弘氏(小学3の時、親の都合で東京へ引っ越し)が佐渡へ遊びに来たということで同じく大の仲よし岩田秀夫氏(高校は違った)が一緒に来た時、みんなで築港へ行った。また、大学1年の時は奈良出身の友人が佐渡へ来た時築港を案内。
 c、築港は、両津の観光コースに入ってないが、知り合い等を案内するのに格好の場所であった。
4)2015年の写真では、築港は非常に複雑になっている。この7月フェリーで両津港に入る前 おけさ灯台のあるところへは歩いては行けませんので、写真を撮られる方は今のうちに甲板へ出て云々のアナウンスがあった。
     築港の変遷
昭和初期両津町夷全景

(東京朝日新聞社撮影)
 昭和初期夷全景(東京朝日新聞社撮影)
1901年(明治34)夷町・湊町・加茂歌代村(一部)が合併し両津町となる。1917年(大正6)夷港を両津港と改称。沖の築港(防波堤)はカギ形(直角に曲がった形)、コンクリートでなく捨て石で構築、陸に続いていない。(写真左端真ん中の上に)南防砂堤(「へたの築港」がわずかに見える)
なお、加茂湖寄りには、湊では学校の長い校舎、夷では加茂湖から2筋目(写真では下寄り)にカトリック教会の高い塔が、相川本線の沿道・浜田地区には均質の長い建物が見える。(明治末頃、から後に両津町長となる土屋六右衛門(屋号:俵屋)が貸し家からなる新市街地を開発したので「俵屋町」と呼ばれた)
1952年(昭和27)10月30日撮影       1955年(昭和30)1月撮影
DSC09899両津防波堤と防砂堤2       
 北防砂堤は防波堤(築港)として         向きを変えた防波堤は沖の築港       
直角に向きを変える。               に接近、やがて繋がる。
夷3ノ町の海岸から見たら築港と防砂堤 (写真:岩原淳一氏提供)
 1953年(昭和28)頃                      1954年(昭和29)頃
築港防砂堤33ノ丁2
3ノ町前の海岸埋立前            同 埋立準備
 テトラポットなし                                 テトラポット設置           
1969年(昭和44)頃の両津全景     2015年の両津港
(同刊行『両津町史』の巻頭写真)    (カラー写真:新潟県HP「交通、運輸」)
両津全景2両津港全景 アイポートあり
子供の遊び場としての築港を次の3つに分け、詳述する。
 海中探索、釣り・採集(見物含む)、水泳。
 課題は、経験中心にどこまで正確に覚えているかにある。

2.内容
ヽっ翆戯     
1)潜水作業見物
a、海中探索は、海水がきれいなところであれば築港に限らず岩場や砂浜などこでも楽しめる。その中の私が築港での遊びに繰り入れた潜水作業見学は、築港ならではであり、全国的にも極めて稀な例だろう。
b、遊びができた背景
 ア築港(北防砂堤+防波堤)改修延長工事は、長期であった。
 イ捨て石からコンクリート製箱形構造物(土木用語で「ケ ーソン」。鋼製箱形も同じ)へ交替。歩行楽。
 ウ海面よりやや高い位置にケーソンを下から支える台磐がありそれがいわば1階通路で ケーソンの上へ上れる階段がある。
 エ潜水作業は、海上海中作業で陸から見る分については何の邪魔にもならなかった。 
c、よく見た潜水場所は
 北防砂堤の内側真ん中より少し沖側。1955年写真からは縦長長方形の右上角際に近い所で、船が着いているのが見える。そこに限らず場所はいくつかあるはずだが、他での記憶はない。
d、潜水作業見物の印象深いシーン 
 ア、築港のある地点に繋がれた作業船に潜水夫に酸素を送る空気ポンプが設置され、2人のオバさんが対面してそれぞれポンプを休みなく同じ速度で上げ下げしている。
 空気供給設備=空気ポンプは、現在ではほとんどエンジンまたはモーターを動力としているが、古くは手押し式・手回し式など人力によるポンプであった。
 空気の入ったタンクを装着して潜るスクーバダイビングは、1950年代現れて普及し、やがて主流となった。
 それまでの1950年代は空気供給ホースと繋がったヘルメット潜水が、水中土木の花形であった。
 イ、潜水用具の大きさ等
 潜水夫は、丈夫で重そうな防水服を着け、首から頭はガラス窓のある金属製ヘルメットを着ける。〔着けるというより、ヘルメットを含む防水服の中に籠(こも)ると言った方が的確〕
 防水服とヘルメットの接合部分(金属枠の円周)は、いわば大きなネジのように、防水服に籠った潜水夫(首にはタオルを巻いていた)の首・頭をまん丸の大きなガラス球のヘルメットに入れ、同じ円周の金属枠どうしを噛み合わせ、ヘルメットをゆっくり回しながら締める。(この時は、ヘルメット内で呼吸できていなければならない)
 潜水服の総重量は、防水着・ヘルメット・空気供給ホース、それに水中安定姿勢・安定歩行維持などのため重い鉛の錘(おもり)を靴や胸や背中に付着させるため、80〜90圓砲覆。
 ウ、潜水服を装備した潜水夫
  一人で船の甲板に立ことはできない。自力で水中へ飛び込むことはできない。人の介添えで、水中に沈んでいく。当然、命綱は船と結ばれている。
 エ、空気がポンプからヘルメットだけでなく水中へ入ったことによるものだろう(ヘルメットからも炭酸ガスなどが水中へ吐き出されなくてはならない)、空気は水に溶けないから、水中で球を作り浮上し、破裂する。
 不気味で大きな音(例:ブクブク、ゴボゴボ、グォー、グォー・0ー、ガバー)を立てる。
 オ、水中での潜水夫の動作は、非常に緩慢。
  時々泡を出す。
  作業場所の水深は、感覚で3〜4m。
  潜水夫の動きを船上から監察している人はいない。無線でやり取りしているのであろう。
  水中作業としては、水底の岩石を移動させているのを見たというはっきりした記憶はなく、何かを調査している様子が大半だった。
2)内側通路から探索:まだ北防砂堤からの築港が沖の築港に繋がっていない時代を想定
 a、当時水中には、カタベやコウグリが群をないて泳いでいたり、水底にはハゼやバクトウ、アブラメなどが姿を現わした。カレイもいた。
 b、釣りをも含めて、どんな魚とであうか、釣糸を沈めたり、タモを泳がせたり、餌を投げたりもした。 
 c、捨て石を敷いた防砂堤と違って、新しいコンクリート製の構造物を土台に用いてせいで海藻は多くないが、水底の見透しは好かった。
⊃絮
1)築港へは専ら岩場の南防砂堤の先端から泳いで渡った。距離は時代によって変わる、20〰30m。
a、自力で渡れれば一人前と見なされ、それが課題であり、目標であった。「夷の子」なら誰しもそうであった。それは、湊の場合は当地の海でもいくつの島まで泳げたら「湊の子」として認められるのと同じ(「遊び(05)」)。
b、防砂堤の先端〜防砂堤に面した築港の先端との間の連続往復にも挑戦。
2)築港での泳ぐ場所は、サザエ・アワビの貝捕りは別として内海(うちうみ:築港の陸側)に限られた。
 a、外海(そとうみ)=沖へ出るこは、泳ぎ上手でも非常に危険という雰囲気があった。小さい時から浜辺で泳いでいれば、波は岸に寄せるばかりではなく、人をも沖に連れ去ることを多かれ少なかれ経験していることあるだろう。
 b、沖の築港と北防砂堤防からの築港とが繋がっていない時代、その間や近くを泳ぐことは危険に感じた。万一沖へ流される可能性があるからである。
3)水泳について築港が他の泳ぎ場所とは大きく違う所は、泳ぎと潜りの楽しさが一体化していること。潜って海中を覗いて楽しむために水中メガネがある。
 a、場所によって海底の深さや構造の違いなどを知ることができる。
 b、海中にある大小様々な形の岩や岩に生えた海藻、岩にくっついたいろいろな貝の様子がわかる。
 c、岩や海藻の陰に魚やサザエ・アワビ・ウニを発見することがある。
D爐蝓Τ捕り
1)釣り
a、築港での夏の一般的な出で立ちは、ゴム草履、海水パンツ、水中メガネ、釣竿又はタモで、他にバケツ・餌箱など。                          
 ア、現代での海水浴に必要な物の1つにビーチサンダルが挙げられるが、当時の両津での海の遊びには鼻緒のついたゴム草履は必須。〔昔はサンダルといえば鼻緒無しであったが、今日では曖昧になっているようであり、個々に要確認〕
 ・砂浜では砂の熱さから また砂利浜の場合尖った石から足を守り、岩場では滑ったり転んだりすることから体を守るからで、草履であることで足を固定し安全度が強い。
 ・ゴム草履は丈夫で、水泳や釣りに限らず、普通の道を歩くのに使った。砂利道は、小石とのぶつかりをクッションで吸収し、歩行がスムーズ。
 夷や湊から築港へは、殆どの子どもがゴム草履を履いて行ったと思う。
 ・子どもだけでなく大人が仕事する上での履き物であった。夏は、素足で簡単に履け、重宝された。
 イ、釣竿
 ・子どもの竿は長さ固定の竹竿で済んだ。
  何本かの竿を継いで使用する継ぎ竿や中空になった竿の中に細かい部品が仕込まれ引っ張り出して組み立てる振り出し竿やリールの付いた竿は、ほとんど無かった・使わなかったといってよい。
《参考》「庄内竿」:ウィキペディア
 庄内竿は、山形県庄内地方に伝わる地元で産出される竹を使った釣竿で、紀州竿や江戸和竿のような継ぎ竿でなく延竿(一本竿)。長さは5尺(1、5m)〜4間(7、2m)を超えるものまで多様。
 1707年松山藩の藩主酒井忠予が温海地方で磯釣りをしたという記録が、温海組大庄屋・本間八郎兵衛の覚え書きにあり。
 1716年庄内藩士・豊原重軌の日記に、「秋一日安倍兄弟の誘いによりて加茂に釣りに行く。かしこにては宅右衛門宅といえる者宅に一日宿す。翌日も釣りに出て夜になって帰る」とあり。
 (「加茂」について、 09年11月29日号「係わりの地48:鶴岡(善宝寺・加茂港)」)
 1718年庄内藩主・酒井忠真自ら温海地域で釣りを行った。
 1802年庄内藩から出された覚え書:家中の面々が折り節鳥刺や釣りに行くが、希に遠方へ歩行。これは武用の一助にもなる。
 1810年の庄内藩軍事師範・秋保親友の日記に、「以前は3間(4、4m)の美竿を持つ者はかったが今は多くの人が持つようになった」とある。なお、何年の日記か不祥だが、「名竿は、名刀より得難し。子孫は粗末に取り扱うべからず」の記述。
 1827年庄内藩主・酒井忠器の触れ書:釣りを武門の嗜みとして奨励。但し、海に落ちないこと。
 庄内竿は庄内藩士によって作られ、以後竿師によって隆盛。竹竿は1955年(昭和30)頃からガラス繊維強化プラスチック製〔グラス竿〕が普及、1975年(昭和50)頃から炭素繊維強化プラスチック製〔カーボン竿〕が出回り、高価の竿はかったが需要減少。竹採取から竿完成まで5年かかると言う技術の継承が危惧されている。
 (参考は以上) 
b、今日主流の「擬似エサ釣り」(ルアー釣り・サビキ釣り)は当時なく、「エサ釣り」。但し、「エサ無し釣り」は皆無でない。
 ア、竹竿に針と餌と錘(もり)を繋いだ糸を海中に垂らして海中を見ながら魚を誘き寄せ(魚の目の前に釣り糸を置く)、魚が餌に食らいついたところで釣り上げる方法=「見ながら釣り」が大半。
 魚は、餌に近づいても付け方がまずく針があるとわかれば相手にせず、あるいは簡単に餌だけ取って逃げられたりし、あるいは狙いの魚でなくフグなどの雑魚が寄ってきて食べて行かれたりもする。
 イ、餌は、築港にはフナムシがたくさんいて手で捕まえ、釣り針を頭から尻に通し餌とした。なお、どの餌がどの魚に適しているは当時眼中になく、餌無しよりましという認識。
 ウ、餌は、夷の金子釣り道具屋で販売。買ったことはなかったが、スナムシが売られていた記憶はある。スナムシは、ミミズのような幼虫で茶褐色。小箱の中に木材おが屑のようなものと一緒に入っていた。
 餌を買ってまで釣りする子どもは、周囲にいなかった。餌は御飯粒でもよかったし、イカの足の部分で足りたからだろう。
c、海面から20〰30儿發つ模では「見ながら釣り」「タモ釣り」、ケーソンの上からは陸に向かって「投げ釣り」「浮き釣り」。沖に向かっての釣りのは、防波のためのテトラポットが数多く敷設されたため、その隙間をぬうしか出来なかった。
 ア、「見ながら釣り」は、海がきれいで透明度がよいから可能。
 「見ながら釣り」の妙味は、狙いの魚を見つけたら餌をさりげなく近づかせて安心させて食欲を刺激し、餌に食らい付いたと同時に竿を挙げる。掛かった瞬間竿の先端が魚の重さで海に引き込まれようとする感触が、釣り人にとって堪らない。
 また、狙いの魚を見つけて動くだけでなく、居そうな場所を予想して釣り糸を垂れる。変化なければ上下動させたり移動したりして、現れる機会を広げる。現れたらしめたもの。
 基本は「見ながら釣り」だが、すべて観ながらでなく、見えない所へも誘い出し、アタリで釣る。大魚や高級魚・珍魚となれば、それこそ醍醐味。
 イ、「タモ釣り」は、海がきれいで底まで見えること・その見える範囲が条件。
  特徴は、網漁の一種で個人持ち、餌不要、1回の掬いで複数の魚を獲ることが可能、 にある。
 「タモ入れ」のコツ・方法の解説はあるが、「タモ釣り」はない。もっとも自分で勝手に作った用語だから。タモ入れのコツに、「タモは魚の頭から入れよ」「タモは海中に浸けておかず(魚が怪しいと思って逃げ暴れる)、瞬間海中に入れて一気に掬え」というのがあるが、なるほどと思い思い出した気がした。事前に、タモを海中に入れた場合、どれだけの速さと受ける重さを感じ取ることが大事。 
 海面に集まってくる小魚は、簡単に掬えるとして、海底に棲むハゼなどは容易でないだろう。
d、釣った魚は、余り食べなかった。  
 ア、ハゼやバクトウやアブラメやイシダイを釣って、家で食べたという話は聞いたことがない。
 イ、漁師町であり、魚が豊富にあった。佐渡人が、川魚を好んで食べないのと同じ。渓流釣りもしない。
2)貝捕り
 専ら築港の外海側、テトラポットなど消波コンクリート製品や捨て石のある所を潜って探し当てて捕った。
a、サザエ
 ア、夜行性で昼間は3m以上の深さにいつが、夜になると潮間帯・岩の上に上がってくる。両津大川の新米の頃の収穫祭にはサザエやシタダミの入った炊き込み御飯が振る舞われる。夜餌を食べに岩場に上がる貝の習性を利用した「夜なり」と呼ばれる漁で捕ったものが神に捧げられる。大川の住民は、この日のために沢山の貝を捕って集めるという。
 なお、証明が必要だが、築港にサザエやアワビなどの貝類が多く捕れるのは、築港に大川の岩石が使われたからという説あり。これは、一理ありで何かに使える。
 イ、海底の岩と岩の隙間に隠れているので、潜った場合息の関係で見つけるのに何回も海上へ出て空気を溜めなければ。なければならない。見つけたと思ったのはよいが、採ろうとして潜り直したとき、場所がわからなくなった経験はあったよう思う。
 ウ、潜って捕った経験はあるが、それを食べた経験はない。余りにも小さかったからだろう。
 それなりの大きさがあり食べるとしたら、築港のコンクリート床か壁にサザエを投げ付けて硬い貝殻を砕いて、丸い蓋にくっついった身と肝を取り出し、肝(酒のつまみに絶品とされるが塩漬けにするなど加工してのこちで当時はそんなことは知らず、生で食べると腹を壊す恐怖が先)は手で身と離して棄て、口と呼ばれる苦い部分も切り離し、身だけを海水に浸け噛んで食べる。はっきりしないが、経験した感じもする。
b、アワビ
 ア、岩への吸着力が非常に強く、サザエのように素手では捕れない。そのため釣具店に「アワビ起こし」という道具があるようだ。
 イ、記憶では、中学・高校の先輩たちは数が極めて限られるが、ドライバーを使ってこじあけていたと思う。
 また、せっかく大きいアワビを仕留めたのだが、海上に持ってあがる途中で落とし100%手中にしたのを捕り損なったという話を聞いたことがある。海の中では、息を止めておかねばならないから、すぐ追い掛け簡単に取り戻すわけにはいかない。
 ウ、アワビの天敵はタコで、タコに見つからないようウニの後ろに潜めてていることが多いという。また、アワビの貝殻は、付着した岩と同じ色・柄になるため見分けにくいが、6つの穴があるかでわかるらしい。
c、ウニ
 ア、ウニは棘(とげ)を動かし管足を使ってゆっくり移動するが、普段は岩に張りついていたり、岩のくぼみに入り込んでいたりする。海藻やデトリタスを食べ物ちする。
 イ、当時両津での貝類の価値は、アワビ・サザエ・アサリが高く、ウニは捕れるのは捕れるが、小さく食用にならなかったせいもあり低く見られた。
 ウ、ウニの棘を剥がして滑らかにし、真ん中から丸く割って腸(はらわた)を抜き乾燥させた殼作りや所有は、用途や楽しさの中身ははっきりしないが、遊びには違いない。
d、シタダミ(但し、要調査)
 ア、10年余り前の8月姉夫婦と子ども夫婦が佐渡の私の家で滞在していたとき大勢ぢて金井の料理屋で昼御飯を食べに行った。その時前菜用に出されたのが、姉もそうだったが昔夷の海岸(当然築港)で見たこと大いにあるが、食べたことも名前も知らない沢山の貝の煮物で、食べ方を教えてもらって食べたところ余りの美味しさに驚いた。聞くとシタダミと言うもので両津の海岸で捕れるとのこと。
 イ、シタダミは、カタツムリのような巻き貝で、楊枝で貝殻から渦を巻いた薄茶色の腸がきれいに取り出せる。最初カタツムリを食べるようで気持ち悪い感じがしたが、食したところあっさりした味と歯触りがよく、すぐこれは珍味ということになった。
 それは、例えば昔両津ではブリを捌いたとき、アラ(魚の身以外の頭・背骨・尻尾・鰭(ひれ)などの部分)やカマ(魚の鰓(えら)の下から胸鰭までの部分)は棄てていたのに類似。そういうことはないと思うが、魚は身以外は人の食べるもんでなく、せいぜい肥やしにすればいいという考えがあったとも言える。
 (株)加島屋(新潟市)HPサイトより「昭和30年〔1955〕代食事をとる時間もなかった商いの忙しい合間に手早く食べられるようにと先代の母が鮭の中骨についた身を焼いてほぐして食べさせてくれたのが美味しかったことから商品化され、以来お客様から長年愛される続ける加島屋の看板商品となった」のが「さけ茶漬」。
【お客様用にある身に対し鮭の中骨についた身は、捨てるには勿体ない身内用に使える残り原料であるが、焼いてほぐすと本来の身を原料にしたものより手間はかかるが美味しいことを発見し商品化したことが、地区のおかず屋から全国を商圏とする企業へ発展する契機となった】
 ウ、シタダミは、大川地区で盛んに利用されていることから、大川の岩石を利用したという築港は、シタダミが多くいても不思議でない。

3.まとめ
1950年代築港の延伸工事が進められたことは、目的は両津港湾整備であるにせよ子どもであった我々とって、遊び場拡大と種類増加につながったことは大きい。
 内容は、潜水作業見物、水泳、釣り、タモ釣り、釣り見物、潜り、貝類捕り、築港散歩など。
 当時の子ども人口は今の4倍と推定(佐渡の総人口は当時12万人で、今の2倍以上からの類推)。
2009年度の8漁港をはじめに佐渡市の管理する防波堤(島内の県営も同様)は立ち入り禁止(禁止柵設置)となり、築港での遊び場はなくなった。
1)理由は、問い合わせてないが財政難のため管理施設内での関係者以外の事故の責任まで負えないためだろう。
2)一般的風潮として公共施設内で事あれば施設の管理責任者がやり玉に挙がる時代となっている。
 もっとも子どもの遊び場縮小反対と主張しても子ども人口は減少、更にスマホなどの安全な室内遊びが主流のため影響はない。あるとすれば、釣りなどを趣味とする大人とその関係業者。
3)関連して「日本のマチュピチュ」「天空の城」と呼ばれて人気が高まった竹田城跡は、安全に問題とのことでロープで立ち入り規制区域が設けられ、そのため景観が損なわることになった。一方、アメリカのグランドキャニオンではメイン場所以外には安全柵はなくそのため転落者は絶えないが、柵は設置されないようだ。フランスのある観光地では、ここは危険が多いと告知しても入ることは禁止せず、起きた事故は当人が責任を負うと表示しているという。5年以上前になろうかナイアガラの滝見物で日本の女子大生が海外から大勢の観光客も見ている中で、写真を撮ろうと柵に上がった拍子に舞い上がり、滝に落ちて死亡する事故が起こったが、日本では現地の安全策を問題にしなかった。なお、この種の事故の議論(第一とすべきは景観か安全か、責任を負うべきは施設か自己か等々)はいろいろされてが、ここではコメントしない。
庄内藩・藩士の釣り及び釣竿に関する記録は大変貴重で、色々な事を窺い知ることができた。
1)庄内藩はなぜ藩士に釣りを奨励したか?
a、行政・治安に関わって給料を貰うばかりでなく自らも稼ぎ人となる力量を備えること。年貢(米)は、凶作の年もあるから、それに依存はできない。
b、延縄(はえなわ)などの網漁は、魚を一網打尽で捕るため地元半農半漁百姓の漁業権を奪うので問題になるが、釣りなら一本釣りのため影響はない。その点鳥刺し(鳥捕り)も同じ。
c、藩士に自由な休みも取らせ、リフレッシュの機会を与えることも必要。釣りは、趣味と実益も兼ねるから、藩士の奨励に一石二鳥三鳥の効果をもたらす。
2)藩士にとって釣竿はどんな意義を持ったか?
a、「大切なことは、捕った魚を食べさせることにあるのでなく、魚を捕る方法を教えることにある」の通り、釣竿の扱い方がポイントで、大切に扱えば代々使っていける家宝としての価値も増す。
b、庄内竿は、大小ある。これは、大人から子ども用まで揃っていること(長さ5尺(1、5m)〜4間(7、2m))、親子が一緒に釣りを楽しめ、釣り方の伝授、その他コミュニケーションの場作りし意味している。
c、藩士の家の生活道具としての釣竿=親から子へ受け継がれる家宝=家の安泰
【類似例】
 ア、杖(つえ)
 9年前温暖系植物であるビワの群生(新潟県指定天然記念物)が豊岡にあるということで行ってみた。
 ある所でこれがビワの木が確認するため近くにいたお婆さんに聞いたら、そうだと言い、「ちょっと待ってくれー」と言って家から2本の杖を持って来て、「わけー時はどこへも歩き回ったが、今はこーせんとのー」と言いながら案内。
 それがビワであったかどうかはわからいが、後日ウィキペディアで調べると昔からビワに木は杖や剣道の木刀に使われているとあった。
 一般には杖は年を取って歩くのが不自由になって使うものだが、その都度新調するものでなく、代々使い継がれていったものだろう。ビワ乾燥したものは縁起物として「長寿杖」と言われている。ビワは佐渡のどこでもあるわけでなく対岸の越後にはないことから、お婆さんの使っている杖は豊岡産と見てよいだろう。杖は、消耗品ではない、永代物。
 (08年12月16日号「佐渡の生き物50:大木等(31)豊岡のビワ」)
 イ、半纏(はんてん)   
 羽織を簡略化した丈の短い上着で、江戸時代町民や職人の日常生活で着用され、職人の正装であった。
 9年前三川祭りを見に行ったとき、ある地元の人から話を聞いた。着ている半纏は、地域でとれる麻を織ったもので3〜4世代続き100年以上経っているという。触ってみるせといかにも丈夫で300年は持ちそうであった。
 (08年4月18日号「鬼太鼓12:三川まつりと腰細鬼太鼓」)
 ウ、まとめ
 杖は、若いときは男子はせいぜいチャンバラごっこに使い、女子は嫁に来てあるのはわかったが用はなく、年取ってその有り難さがわかり、半纏は仕事着や祭り着など着れる年齢になって伝統を受け継ぐ責任意識を高揚させる。荘内竿含め、数世代わたって家宝のように受け継がれる点で三者共通。
3)鶴岡の善宝寺の五重塔にはなぜ魚鱗の文様がちりばめているか?
a、建設資金調達の趣意書(佐渡の漁村にあり)
「魚鱗一切の供養」の塔(五重塔)建立の目的
  漁業者の大漁満足
  航海人の海上無難
  商売の
  家門栄昌災難消除
 等の利益拡大を祈願
 その上で魚類一切の供養を行う祈念の塔とする。
b、1873年(明治06)発起、1883年(明治16)着工、1893年(明治26)竣工。
   (前掲「係わりの地48」)
 善宝寺参りは、佐渡の漁村では今も続いている。
  以上 2017、9、12

歴史スポット72:1950年代両津子どもの遊び(09)海での遊び

 こんにちは!自在業の櫻井です。
1.はじめに 
 砂浜・岩場の次は、海での遊び。
 海水遊びと言っても様々であり、ここでは大きく浅瀬遊び・泳ぎ・潜(もぐ)り の3つに括(くく)り、習得または難易度順に論理展開したいが、それ自体客観的理論が出せるはずなく不毛・徒労に終わるのはほぼ見えている。それより自らの経験を基に、それをも多少意識した上で自分流にまとめていったらどうか。それなら、やりがいは大いにある。
 なお、海での遊びについては他も同様であるが、一般論で語り尽くせるものではない。課題は、どこまで昔の遊びを正確に記述し、分かり易く区分し、それぞれの遊びの真髄を記せるかにある。

2、内容  
(1) 浅瀬遊び
/紊け
 特に説明するまでもなく、2人以上が浅瀬に入って両手で海水をすくってそれを相手に向けて掛けるもので、掛け合い競争になるのが普通。ダメージと言えるほどのものでない(だから「遊び」となる)が、敢えて言えば浴びた海水量と頻度。
 追いかけて主導権を握る方が優位。他方、逃げる・かわす・一瞬の隙をつくという手もある。
∪瀬での走り競争
1)陸上での走り競争に勝つ者が、浅瀬でも必ずしも勝つとは限らない。環境が違うからである。水と空気の抵抗の違いがあり、浅瀬といっても深さと互いの身長によっても違いが出てき、海底が砂地か砂利か等によっても変わる。
2)面白くするため、年下や走りの遅い者は水際近く、年上や走りの遅い者は沖の方というハンディをつけて各々楽しむ等やり方はいろいろある。
G箸箸竜困
1)波とのぶつかり競争
 大きく高まった波が崩れ落ちる辺りまで海に入って待機し、崩れる瞬間に体を張って波にぶつかり、びくともしないか波に倒されるかをいわば競うもの。
2)波との速度競争
 両津湾が時化ぎみの場合そうでない時でも崩れ落ちた波は、怒涛のように一気に砂浜へ打ち寄せるのであるが、崩れた地点から渚(なぎさ)のある地点まで波と人間どちらが早く着くか。
3)波乗り
 力を使わず、打ち寄せる波に乗って砂浜に至る遊び。
 初心者の場合、浮き袋を利用。
ぅ魯鵐リ乗り
1)ハンギリとは、小木ではワカメやアワビ・サザエなどの採集に使う大きな桶で これに乗って出かけ箱メガネで海底を覗きこみながら長いヤスで漁をする。タライ舟は観光として有名だが(船頭を含め大人3人は乗れる)、本来は磯漁に使うもの(この場合大人1人が普通、計2人は乗れる)で、小木地域ではハンギリと呼んでいる。
2)今は無くなったかもしれないが両津でハンギリと呼んでいたのは、スケトウダラの内蔵や骨等食べない部分を抜き取り、商品価値の高い「身の部分」を容れるのに使ったハンギリは、小木で言うハンギリに比べ底が浅く且つ小型の丸い桶。全国的には寿司店で出前などに使われる鮨桶をハンギリと呼んでいるが、よれよりは遥かに大きい。
 a、なぜ、底の浅い小型の丸い桶かは、魚を捌く際数人が一ヶ所に集まって一斉に行うのであるが、四方八方から捌いた魚を投げ入れ易いからだろう。長四角の魚箱だと地面に落とす可能性が高い。
 b、旭町にいた時は、土間で近所のおばさんに来てもらい魚捌きを手伝ってもらったりした。だから、ハンギリはそれなりにあった。
 c、ハンギリは常時使用するわけでなく、その時だけで寝たままが多い。裏は砂浜で遊びに使わない手はない。
3)両津言うハンギリは、海に浮かべて子ども1人乗っても底が浅いからバランスを保つのが難しく、水が入りそのまま沈んだり、ひっくり返ったりする。
 a、どれだけハンギリに乗っておれるかが、遊び及び競争の焦点。
 b、2人で乗ることもあった。この場合、すぐに水が入って浮かんでおれず沈むことが多い。
 c、海が穏やかであることが条件で、波が立っている状況の下ではできない。
タ綯翊渓
1)遊びとしては単純。
2)海に入り沖へ進み、海水が胸に達する辺りで海底をベースに跳躍すると体がゆっくりと浮上、水面が腹以下にまで下がり、そしてゆっくり元に戻る。
3)ゆっくりと上がったり下がったりで、陸上では味わえない今日表現すれば宇宙船か宇宙に居るような無重力状態と似た体験を楽しめる。
ξてる限界点までの到達
1)前掲の水中跳躍とも関連する。どこまで立てるかは、次第に慎重で小刻み跳躍
2)基本的には目視で海底を見ながら、どこまで沖へ行けるか判断。
 所によってはこの先すぐ深くなり立つことはできず、泳げなければ危険。まだまだ立てるにしてもスガモなどが生い茂ることになれば、足で踏んで行くのは気味悪く躊躇せざるを得ない。
3)遊びの要素としては、競争よりも限界点の調査・見極め・発見の楽しさに求められる。
(2) 泳ぎ
\瀬でのバチャバチャ泳ぎ
1)表記の言葉があるのか確かなことはわからぬが、泳ぎの初段階を感覚的に表現。
 a、まず泳ぐ前に自分の体を少しでも浮かせるようにすること。
 b、浮力のつけ方というより、浮くには手を拳(こぶし)状態でなく平手で且つ5本指を互いに隙間ないようにくっつける。

 c、同時に浅瀬の底にある足を蹴って体を浮かせる。
2)体が沈まないよう両手でバチャバチャさせる。
3)更にバチャバチャさせながら移動。
浮き輪利用
1)子ども用浮き輪について、「本来は浮き輪がなくても溺れない水深でのみ子供に使わせるものであるが、このルールを守らないことに起因する水の事故が発生し続けている。泳げない幼児をビニール製の浮き輪だけで遊ばせることは、リスクが高い」(ウィキペディア)。「子ども用の浮き輪は浮力があまり強くなく、体重30kg程度までしか浮かすことができないため注意が必要」(「スポランド」サイト)
2)1950年代の浮き輪は、主にビニール製(中にゴム製もあった。この場合大きい)で、体を輪の中に入れ、両脇か両腕で体を支え水中に浮かぶ。今は、イルカやシャチ、バナナや水上バイクなどを模した浮き輪の上に跨ることで浮遊感を楽しむなど、いろいろな浮き輪がある。
3)浮き輪を使って泳いだという経験があって当たり前だがそれほど記憶にない。浮き輪に2人でつかまり遊んだ憶えはある。また、茶色のゴム製の大きな浮き輪は大人の遊び用であろう。子ども数人がつかまっても大丈夫という記憶がある。
B膺佑慮利用
 遠いところや深い所へ行く場合、大人の両肩につかまり、両足を交互にばたつかせるか、開閉するかして泳いだ。
ぅエル泳ぎ・平泳ぎ
1)バチャバチャ泳ぎから進化した泳ぎ方。
2)泳ぎ方は、公式水泳競技種目と違い、各人各様いろいろ。
 a、本当は、その「いろいろ」を進化・難易順に論理的に展開したいところだが、そのために時間をかける程の価値はないと見て止めた。
 b、泳ぐ方は、どんな泳ぎ方であろうと楽しめればよい。 
3)09年5月9日号「佐渡の風景57:田植え」より
 「田んぼの中にカエルがいるのを数十年ぶりにみた。すぐに人に気づいたのか、「カエルの泳ぎ」の様子がよく見れた。平泳ぎは、カエルの泳ぎ方を真似れば、もっと速くもっと速く泳げるのではないかと思ったりもした。記録を更新できる新しい水着が注目されたのは、去年のことだった」
 随分生意気なことを記しているが関心したのは事実。「去年のこと」とは2008年北京オリンピックだろう。
ノち泳ぎ
1)立ち泳ぎは、水面に対し体が垂直になっていて頭を出して浮いたまま沈まないように立っていること。これができると、足のつかないところでも、顔を真っ直ぐにしたまま水の中でとどまることができる。
2)足の裏で交互に水を底の方へ蹴り、その反動で身体を浮かせる。特徴は、手の力をほとんど必要とせず足だけで行うこと、前進だけでなく、留まった状態で水に浮いていられること。
3)いつ頃立ち泳ぎが出来るようになったか思い出せないが、これで一人前になったと実感した覚えはある。泳ぎが堪能な人でも立ち泳ぎが出来ない人もいるとのこと。するとひょっとして、小学高学年か中学になってからかもしれない。
Σ1砲
1)体を横にして泳ぐ方法で、平泳ぎ・立ち泳ぎ同様、顔をあげて泳ぐ。
2)水面で横になった時の体の上と下の手と足をそれぞれ動かして進む。
3)あるサイトに「女性やお年寄りでも楽に泳げる泳法といえるでしょう」とあるが、子どもにとっても然り。海の中で他の泳法をして疲れた時は、横泳ぎをしたものだ。個人差あって当然だが、平泳ぎは勿論クロールよりも速いと実感したことが何度もある。
背浮き(仰向け)
1)背浮きは、いわば海面を枕に仰向けになって浮くこと。
2)浮くには、全身の力を抜いてリラックスする、腕と足を広げ大の字になるようにする。
3)手足を動かさず浮いているだけだから、楽である。泳ぎ疲れた時、陸に上がって休むが、海水に浸かって休むこともある。腕と足を広げなくても、出来た。
背泳ぎ
1)仰向けの姿勢での泳法。
2)足の動かし方は、膝を真っ直ぐに伸ばして下に蹴り浮力を生むダウンキックと上に向かって軽く蹴り上げるアップキックを連動させ、
 水をかくための手の動き(ストローク)には、、腕を頭の耳の後ろまであげてから真横に腕を下ろしてももにつけるストレートプルと腕をさらに頭を超えて水中の奥まで入れ、そこから円を描くようにして水をかくS字プルがある。
3)泳ぎについては、家の裏が砂浜で海ということから、誰に教わったわけでもなく見様見真似で自然にできるようになった。背泳ぎについてはその典型で百人百様のやり方があると知り、なるほどと思った。
 足をばたつかせるやり方もしたが、下へ交互に蹴って推進。クロールより速いんじゃないかと思ったことがあった。
速泳(はやおよぎ):資料:ウィキペディア(次も同じ)
1)クロールのこと。両手で交互に水をかき、両足を交互に上下に動かして泳ぐ。
2)歴史:もともと南アメリカやオセアニアではクロールに近い泳ぎをしていて、19世紀インディオが非常に速く泳いでヨーロッパ人を驚かせていた。19世紀後半アーサー・トラジオンが、南アメリカに旅行した際見た原住民の泳ぎにヒントを得て、片方ずつ腕を掻く泳法(左右1回で1ストローク)で、平泳ぎよりも速く泳げることを発見(「トラジオン・ストローク」)。20世紀に入り、オーストラリア原住民がカエル足ではなく、バタ足で泳いでいるのを見たキャビルによってそれが改良され現在に近い泳ぎとなった。
3)1950年代は、両津では「クロール」でなく「速泳」で通っていたのでなかったか。「1940年(昭和15年)、日本水上競技連盟(現在の日本水泳連盟)が、「平泳ぎや背泳ぎ同様に、クロールも日本語名があるのが望ましい」という声が挙がったことを受けて、『クロールの日本語名』を全国を対象に懸賞として応募を行った。全国からの応募の結果、日本水上競技連盟は294票で1位の票を獲得した『速泳(はやおよぎ)』を選出して命名した」
バタフライ
1)両腕は同時に前後に動かし、両足は同時に上下に動かして泳ぐ。
2)歴史:当初、平泳ぎの泳法規定は「うつぶせで、左右の手足の動きが対称的な泳法」と定められており、1928年アムステルダムオリンピック開催時にドイツの選手が、現在のバタフライに似た手の掻きと平泳ぎの足の掻きを組み合わせた泳法で平泳ぎ競技に出場し銀メダル、その後1936年のベルリンオリンピックで数名の選手がこの泳法により好成績を収めると、1952年ヘルシンキオリンピックの平泳ぎで、ほとんどの選手がバタフライの手の掻きを用いるようになった。そこで国際水泳連盟は、1956年のメルボルンオリンピックから、独立した種目として扱うようになった。が、この時ある選手が膝を痛め平泳ぎの足掻きが出来なくなり
、両足を上下に動かす現在の足の動き(ドルフィンキック)を考案。
3)個人的にはいろいろある泳法のうち やるのが最も遅かった。
 a、理由は、見よう見まねで試したが体を浮かせるのが難しく、すぐに疲れ永続きできず面白くなかった。
 b、よくやるようになったのは高校時代から。両腕と両足の動かし方のコツを自転車乗りと同じようにある日突然つかんだことによる。
 c、バタフライをやっていると注目され、私自身注目。泳ぎのステータス。やり方いかんによって、速さにおいてクロールと遜色ないと感じたことあった。
(3) 潜り
\り方
  1)海中を潜る遊びといえば、大人の遊びに入るが今日では空気を詰めたタンクを使っての比較的深い海中を遊泳するスクーバダイビングやシュノーケルという水中で呼吸を行える呼吸器(子ども用あり)を使っての水面や浅い海中で遊泳するシュノーケリングが連想されるが、1950年代にはそのようなものはなかった。
 2)スキンダイビング (skin diving) =素潜り(すもぐり)は、太古の時代からの潜水方法でスクーバなどの水中呼吸装置を使用せず、息を止めて水中遊泳する
¬簑螳媼院Гい頂△ら水中メガネなるものが現れた?
1)陸からヤスやタモで獲るのは別として、それまでは息を大きく吸って海中に潜り、裸眼で魚貝や海藻の在りかを突き止め採取。
 a.倭人=日本人の生業については、前号「(08)岩場遊び」に記述。
  西暦200年代後半成立の「東夷伝倭人条」に、「魚やアワビを捕るのを好み、〔水が深い・浅いに関係無く〕皆が潜る(好捕魚鰒、水無深淺、皆沈没取之)」「今、倭の漁師も好んで水にもぐって魚や蛤を捕り、魚やアワビを捕るのを好み、皆が潜る(好捕魚鰒、水無深淺、皆沈没取之)」
 b.海人(あま)について〔ウィキペディア〕

  ァ.「海人は、海に潜って貝類や海藻を採集する漁を(専業あるいは兼業で)職業とする人。古くは漁師全般を指していた」

  ィ.「『万葉集』などで、讃岐国〔香川県〕、伊勢国〔三重県北中部〕、志摩国〔三重県東部〕などで潜水を行う海人の記述が確認できる」「『万葉集』では真珠、鮑などを採取するために潜ることをかずくかづくかずきなどと呼ぶ。現在これらの表現する地方は、伊豆、志摩、及び徳島の一部の海女であり、房総ではもぐる、四国では、むぐる、九州ではすむと呼ぶ」
  ゥ.「現在ダイビング器材を使用せずに素潜りで伝統的に海女漁が行われているのは、世界中で日本と韓国のみ」
 c.関連:佐渡相川の「海士町」は、江戸初期人口急増の鉱山都市の区画整理で漁師が集まった漁師町。
  ァ.金銀産出が低下し、中国の貿易赤字=金銀流出を抑えるため、幕府は金銀に替わる銅の増産と共にナマコの生産を全国的に奨励・義務づけた。
  ィ.佐渡もナマコ生産に寄与。
     ゥ.当時のナマコ採りは、放射状に突き出たカギ針〔タコ掛け〕やタモ網もあったであろうが、多くは潜水によって、しかも裸眼でであろう。
  d.磯〔=水中〕メガネ(ウィキペディア)

 顱棒水用メガネは、「明治20年〔1887年〕ごろから使われ始める

 髻法それまでは、「スメ(素目)(メクラサグリという)で海に潜り、春から夏場まで潜ると目が真っ赤に充血し、腫れ上がることも頻繁にあった。スメモグリの時期になると、手で海草を掻き分けて、岩の裏や割れ目を探るためにウツボに噛まれて手がささくれるなどの危険が多かった」

 鵝法海女にとって磯メガネは最大の技術革新でもあり、発明された当時は海が見え過ぎて、獲物を多く獲り過ぎた為に使用禁止にした漁村もいくらかあった」

1950年代両津での潜り遊び

1)泳ぐ場合は特に潜らなくとも水中メガネを着けるのが常識であった。海に入る前に手・足・首の関節を含む柔軟体操を行い、両耳に唾を付けた。耳栓も後で出回ったように思うが、利用した覚えはない。唾を付けると水が耳に入りにくいと教えられた。今の時代そんなことは迷信とされているが、耳に水が入った時もっとよく唾を付けて耳の中に膜のようなものを作りよくしたような経験がある。
2)水中メガネは、右と左の枠それぞれが紐で結ばれたものが当初は圧倒的に多かったが、その後左右一体枠の広角な水中メガネが現れた。
3)経験としては、
 a.どれだけ潜っていられるか競争したり、
 b.どれだけ潜って遠くまでいけるか競争したり、
 c.サザエやウニやアワビを見つけるため探したり(岩と岩の隙間、海草の陰等)、
 d.水中メガネをつけずに海中で目を開けて海底の様子を見ようとしたり(目が痛く、続かない)、
 e.どこまで深く潜れるか試したり(水圧で頭や体が圧迫)、
 した。
【備考:個人としての海遊び場の変化】
 1)旭町の浜辺沖〜防砂堤付近:小6の頃まで
  小3か4の夏旭町の浜の海で泳いで遊んでいた時、潜って浮び上った時心臓に近いところに腹が裂けているのにビックリ。痛みは全然ない。そういえば潜って進んでいる時その部分何かにが触った感じはした。人はカマイタチだと言った。早速、夷新の医院へ行き、傷口を縫ってもらった。
  ↓
 2)湊・城ノ腰海岸・築港(防波堤):中学時代
  旭町の浦が砂浜でなくなり且つ防砂堤が撤去されたためだろう。
   海水浴は湊、釣りなどは築港。
  ↓
 3)住吉海岸・北平沢海岸:高校・大学1.2年時代。釣りはしなくなり、水泳が専ら。
  a.高1の時全校の海水浴行事の一貫として住吉海岸へ行って泳いだ。高校からは湊の方が遥かに近いが砂浜でなく、且つ狭く数百人が泳げる場所でないため。なお、1度あったきりで高校行事としての海水浴はなくなったと思う。
  b.北平沢は同級生の家の前が砂浜。水泳後は屋根に設置された太陽熱温水器によるシャワー(本来は風呂の湯が目的)を浴びた。住んでいた夷築地から歩いて30分くらいの距離。
 (備考は、以上)

3.まとめ
 海が近くにある両津の子どもたちにとって、夏は夏休みもあり遊ぶのに最高の季節であった。
 昼飯時に家に帰るだけで一日中海で遊んだというのは、何も珍しいことでなかった。それだけ海での遊びは、豊富にあり楽しんだということである。
  以上  2017.08.21

歴史スポット71:1950年代両津子どもの遊び(08)岩場遊び

 こんにちは!自在業の櫻井です。
1.はじめに

 「砂浜遊び」の次に来るものとして「岩場遊び」は、個人として必然。旭町の家の裏は砂浜で北へはずっと続くが、南は2〜3軒あってそこで砂浜が切れ、海が迫る細い道を通り抜けると大きな岩石から成る防砂堤があった。家の裏からで近くにあるから見えた。防砂堤の先端は海で 築港(防波堤)の先端に向かっていた。
  「砂場遊び」同様に防砂堤の「岩場遊び」も泳げなくても、泳がなくても楽しめる。防砂堤は、第ニの遊び場だったと言える。
 小1(1953年)の頃だろう。防砂堤傍の砂浜で大きなタコが打ち上げられ、大勢の子どもが見ている中でタコに向け盛んに砂を投げつけていた大人がいた。タコ壺には到底入らない大きさであった。
 また、タコといえば、我が家の裏の浜から防砂堤へ行く間の海岸でタコ釣りをしている人がいた。タコは、前日餌の入ったタコ壺を海底に沈め、翌日上げて捕る方法が一般的だが、竹竿の先に太い数本からなる針をつけ、周辺にタコを刺激する紅白の布切れを付けて海中に入れ、ヒラヒラさせながらタコをおびき寄せようとした。確かに海中で泳いでいるタコを見たが、タコは誘いに乗らず逃げてしまった。なお、タコに針を見られるとまずいと聞かされたのは、覚えている。はっきりとは思い出せないが、自らも試みたことあったに相違ない。
 さて、岩場遊びといっても旭町に近い防砂堤周辺でのことで(「磯遊び」とも言うが、ここは「岩」を強調)、いろいろあるが、分類すれば、「海中・海底見物」「生き物との出合い」「生き物採取」の3つになる。
 当時の資料がほとんどなく且つ個々の呼び名・記憶もはっきりしてない中でどのようにまとめられるか、が問題であった。

2、内容
ヾ箴譴任粒っ罅Τつ豸物
1)防砂堤は、今となっては記憶が定かでなく自信を持って言えないが、叩き台としてあえて記せば、大きな岩が南北に3〜4個並び、それが沖(東にある)の築港に向け言わば3〜4列縦隊で70〜80m延びていた。徐々に延長し最終的には繋がった(築港までの海の距離は、昭和20〜30年代30〜20mあった。陸と築港の距離100m(いずれも推測)が前提)。
2)防砂堤の南側は海底は比較的浅く砂地、北側は深く海底は瓦礫で青白かった。東の築港へも海底は瓦礫・岩で深く、スガモなどが繁っていたように思う。
 【追記:08月05日】
 防砂堤・防波堤の写真(資料)不足を痛感し「両津港 画像」を検索していると思わぬ画像に出合った。事実が明確になり発見もあり、己の記憶の確かさか判定できた。ここに至って 見る・見ないとでは雲泥の相違ありを痛感。
1952年(昭和27)10月30日撮影      1955年(昭和30)1月撮影
 方位:写真上は「北」、下は「南」      方位:写真上は「南」、下は「北」
DSC09899両津防波堤と防砂堤2
(山田昭夫氏写真提供:再掲)      (第九管区海上保安本部新潟航空基地)
 《1955年写真の1952年との違い》
 1.北の防波堤(当初は防砂堤だったであろうが、旭町時代は直角に向きを変え防波堤になっていたので「築港」とも呼んでいた)の先端が、かなり離れていたものが、沖の防波堤(「沖の築港」)の先端に近付いている。
 2.海だったところに砂浜が北の防砂堤の先の方へ拡大。
 3.広がった砂浜に何艘かのテンゲ(船)などが見える。なお、1月の撮影のためだろうがスルメ(イカ)・カタセ(スケトウダラ)の天日干しの様子はない。
 1956年(昭和31)10月撮影(第九管区海上保安本部新潟航空基地)         
両津防波堤と防砂堤3両津防波堤と防砂堤
 《1956年写真の着眼》
 (左写真)
 1.北の築港と沖の築港は繋がった(右写真でもわかる)。
 2.防砂堤は沖の築港から遠ざかった(同上)。(次第に近づいたという記憶は間違い)。
 3.写真の縦・横真ん中にある白い大きな建物は、両津中学校。拡大で、校舎・体育館・グラウンドが見える。
 4.加茂湖湖畔に船小屋のようなものがいくつか見える。
 5.写真左下寄りに御番所の松(村雨(むらさめ)の松)・白いコンクリート造の両津郵便局・平屋の旧税関・道路向かいに両津町役場が見える。樹齢300年とされる松は、その頃はまだ青々としていた。税関は業務を行っていた。
  08年6月16日号「佐渡の生物3:村雨の松」より史跡「夷港税関跡」案内
 「明治政府は、明治元年(1868年)夷港(両津港)を開港し、翌2年沿海貿易のため設けられた番所の跡に税関業務を行う新潟運上所両津出張所を設置しました。同運上所は翌明治3年から夷税関と称するようになりました。その後たびたび名前が変わりましたが、昭和42年東京税関の両津監視署を最後に廃止されるまでの長い間人々から夷港税関として親しまれてきました。平成元年五月 東京税関」
  現在は、細かく言えば国土交通省 海上保安庁 第九管区〔新潟・富山・石川の3県〕海上保安本部 新潟海上保安部 佐渡海上保安署となり、海の安全を守っている。
   《参考》海上保安庁の業務
 「警備救難業務」:巡視船艇や航空機等による領海警備、内偵捜査、陸上捜査を含む麻薬・拳銃などの密輸の取締まりや、密航・密漁等の取締まり、不審船・海賊対策、航路哨戒、海難事故の救助、船舶火災・石油流出事故等への対応、工場排水を含む海洋汚染の監視取締りなど。
 「水路業務」:海象観測・海洋調査、潮流・流氷などの海洋情報の管理・提供、水路通報・航行警報による工事・自衛隊や米軍の演習・障害物などの情報提供など。
 「交通業務」:巡視艇、灯台見回り船や航行援助センター等で航路の安全確保や灯台や航路標識などの維持管理、無線電話・テレフォンサービス・FAXなどでの気象通報。
 「その他の業務」:離島や洋上の漁船などからの急患輸送、情勢不安地域での邦人救出、北方領土周辺などでの日本漁船の拿捕防止、大規模イベント開催時やゴールデンウィーク、年末年始などのフェリーへの警乗、ボート天国・各種講習会での安全指導など。
  (参考は以上)
 (右写真)
 1.陸続きだった防砂堤は以前に比べ短くなりて陸と離れ、長靴でも渡れないように変化。
 2.防砂堤の陸への延長は、そのまま海岸線で砂浜は僅かのすペースしかない。
  a.タンクのようなものが見える。これは、思い出した。
  b.白く一定高さで横長の建物らしきものが見える。まさか、魚箱が積んであるものではないと思うが、不明物体。
  c.防砂堤のあった海岸は、造成で敷地拡大。
  ァ.中学時代(1959〜1961年)は、ボールかソフトボールか軟式野球を遊び・練習、町内対抗・非公式試合を含めそこでやった。期末テスト期間中本来は遊んではならないのに、承知でやったことは覚えている。
  ィ.その後両津魚市場等の水産施設が出来た。以下は魚市場周辺写真。
 1971年(昭和46年)頃                1975〜84年前半(昭和50年代)
  (「佐渡の昭和」)                                (「佐渡の昭和」)   
両津魚市場S46頃両津魚市場550年代
   《旧魚市場周辺写真の着眼》
  ァ.右写真(昭和50年代)86の左上に見える鉄筋コンクリート」造の建物が、1972年頃できた佐渡水産会館。かってはその辺りから防砂堤が防波堤に向かって延びていた。
  ィ.右写真で、佐渡水産会館・旧魚市場・数棟の倉庫・駐車場を含む敷地は、1957、58年頃までは海であった。
  ゥ.その後、干拓によって砂地となり、土で地盤が固められやがて建物ができるまで子どもの遊び場となった。
 (「1956年写真の着眼(右写真)2」に続く)
 3.海岸通りの岸壁に沿って三角屋根の長い両津魚市場(昭和12年加茂湖から移転。前身は夷魚市場)が見える。両隣に漁船がそれぞれ複数碇泊。
 4.佐渡汽船の乗降口のある両津埠頭
  a.北側岸壁には貨物船が碇泊。小4か5(1956,7年)の頃築地町内の同年代の子ども有志が集まって高橋信一先生引率の下で船等を写生。
  b.船がいない南側岸壁は、佐渡汽船の発着所。
  c.南側岸壁先のすぐ沖に小さい橋が2本架かる人口島があったとは、知らなかった。
  d.写真では建物裏のため分かりずらいが、拡大で埠頭南側・道路を挟んだ向かいに尖がった三角屋根の建物が旧佐渡汽船本社。2階に大きな大きな窓ガラスが3つ並んで見える。昭和初期の建物で、当時としては非常にモダンな洋風建築を採り入れたとされる。
 5.埠頭の出入口にある高くて白い構築物は広告塔を兼ね、大きな字で「佐渡観光案内所 新潟交通株式会社」と書かれていた。周辺の空地は観光バスの待機場。テープレコーダーのない時代、船が到着し乗客が通るのに合わせ女性職員がマイクで、「皆様ようこそ佐渡へおいでくださいました」と案内放送行っていた。
 参考写真:2015年の両津港(新潟県HP「交通、運輸」より)
 両津港全景 アイポートあり
 《着眼》
    a.旭町の位置は、拡大で白いタンクが数基みえる島の向かい側、陸続き地点から南(写真では右)へ海岸線で概ね2/3の区域。道路をはさんで白い建物が佐渡水産会館。その傍の海岸に沿って建っている旧両津魚市場建物跡は白く光ってよく見えない。佐渡水産会館に近い海に、防砂堤があった。
  b.2015年開業の「あいぽーと佐渡」(佐渡インフォメーションセンター)が見える。
  c.両津港南埠頭には、カーフェリーが接岸しているのが見える。船首部分が湾曲しているから、やや尖ったおけさ丸ではなく、ときわ丸だろう。
  17年8月新潟〜両津就航カーフェリー 
           おけさ丸  ときわ丸
   総トン数  :5,862トン  5,380トン 
   全長    :  135m    125m
   最大幅   :  21m     21.8m
   旅客定員  :1,705人  1,500人
   乗用車積載: 290台    168台
   最大速力 : 23.4ノット   19.1ノット
   建造年月 :1993年4月 2014年3月
  d.写真拡大でカーフェリーの右方向・緑で囲まれた一帯が「みなと公園」、その中の白い長方形の建物が「おんでこドーム」。
 (追記は、以上)
3)海中・海底見物は、なぜ遊びになるか。
 a.海中・海底は、そこで生活できずほどんど見たこともないから未知の世界。知らない世界を自分の意志で知りたい・見たい・経験したい好奇心は、人間の本性。
 ァ.07年08月15日号「佐渡の風景24:真野新町海水浴場」より
  「5年前〔2002年2度目となる〕ハワイ旅行したとき、オプション・ツアーで潜水艦で海中見物をした。そのとき、飛行機2機が海底に沈んでいる辺りを潜水艦が回った。海藻が繁茂し、いろいろな魚が泳いでいるのを目のあたりにした。機体の狭い箇所は、小さな魚の隠れ場所となる。
 最初聞いた時は飛行機はなぜ沈んだのか疑問であったが、これは観光資源開発の一環として古くなった飛行機を沈めたものであることがわかった。
 その時思い起こしたのは、同じく小さい時であったが 旭町近くの沖に「らん丸」という木造船が沈んでいた。海岸からはそれほど遠くはなく、子どもでも泳いでいける距離。なぜ、そうした舟があったのか理由は知らないが、海藻や魚の棲み家になっていたという記憶がある」
  その観光用潜水艦について、「ワイキキ沖に沈められた船や飛行機は、海の生き物達の住処となり、これまで見たことがないような驚きと感動に満ちたハワイの海の世界が広がります」と今日コマース。
 ィ.記事にしなかったが、08年8月佐渡の達者で海中透視船に乗り海の中で泳いでいる魚や海底の様子を見た。
 ゥ.潜水艦も海中透視船にも料金払ったのは当然で、普通では見れない深い海底や魚の泳ぐ様子が身近に堪能できた。だが、遊びという面では お金を払って、所定コースを所定時間内で回って、遊んだ・遊ばされたということで、主体・自立で遊んだわけでない。

 b.海中・海底見物で稼ぎ、それで生計を立てようとするわけではない。子どもの場合、海中・海底見物の記入が夏休みの宿題とされれば、もはや遊びといえなくなるだろう。言うなれば、課せられての義務はなく、やってもやらなくても進学・出世・生活に影響しないことが遊びの本領。
 c.「海中・海底見物」は、楽しいこと・楽しめることが固定化・標準化できないほど数多く、その人なりの発見・初体験する可能性は多い。
 意図されて作られた楽しさでなく、子どもの時以来の本来の楽しさを味わった例は、私事ながら次のとおり。そこには発見・驚き・感動があった。
 ァ.07年1月2月朝7時過ぎ両津の佐渡魚市場の岸壁で防波堤にはさまれた海を見ているとマンボウに出遭った。関係者は、最初サメでないかと言ったが、マンボウが有力。私にとって画期的出来事(同1月4日号「佐渡の風景8:魚市場」。海中を泳いでいる写真掲載)
 顱棒堋覇以亜門・条鰭綱・フグ目・マンボウ科・マンボウ属・マンボウ
 髻マンボウはクラゲや動物プランクトンを食べるということは知られているが、胃内容物からは深海性のイカやエビなどの残骸も発見。「これまでマンボウは海中を受動的に漂っているだけと考えられることが多かったが、これらの餌を捕食するにはある程度の遊泳力が必要となる
  鵝縫泪鵐椒Δ蓮△そらく半世紀前は南方の魚と思っていたが、おそらく両津の漁業者であろう、「これはマンボウだ。刺し身にすると美味しい」の言は、珍しくもない魚であることの証左。
 ィ.海中でないが、加茂湖の例。
  号「佐渡の生物7:加茂湖の生態系」 :ヒトデ等との出遭い
  
岩場での生き物との出合い
1)節足動物門
   軟甲綱・十脚目(エビ目)・エビ亜目・カニ下目・イワガ二科・イワガ二
    〃  ・     〃     ・  〃  ・ヤドカリ上科・ヤドカリ
   甲殻綱・ワラジムシ目・フナムシ属・フナムシ
   顎脚綱・鞘甲亜綱(フジツボ亜綱)・フジツボ亜目・フジツボ
     〃 ・      〃          ・ミョウガガイ亜目・カメノテ属・カメノテ
2)刺胞動物門
   花虫綱・六放サンゴ亜綱・イソギンチャク目・イソギンチャク
       〃  ・     〃     ・イシサンゴ目・キサンゴ科・キサンゴ
   ヒドロ虫綱・十文字クラゲ綱・箱虫綱・鉢虫綱・クラゲ
3)棘皮動物門
    ウニ綱・ウニ
    ヒトデ綱・ヒトデ
4)軟体動物門
    腹足綱・古腹足目・リュウテン科・サザエ亜属・サザエ
      〃 ・原始腹足目・ミミガイ科・アワビ属・アワビ
      〃 ・ 異鰓上目・ウミウシ
5)魚類
  脊椎動物亜門 から四肢動物を除外した動物群。以下は、その例。
 a.イシダイ(佐渡では「カタベ」又は「シマダイ」)
 ァ.脊索動物門・条鰭綱・棘鰭上目 ・スズキ目・イシダイ科・イシダイ属・イシダイ
   
ィ.暖流に面した浅い海の岩礁域に生息。成魚は海底の岩陰や洞窟に潜んだり、海底付近を泳ぎ回る。食性は肉食性で、甲殻類、貝類、ウニ類などの底生生物を捕食する。もっと具体的記述は、イシダイは「サザエやウニ、フジツボなどを食べる」
 ゥ.防砂堤では、幼魚が数匹固まって泳ぐのが見られた。白い肌に7本の黒い縞が鮮やか。
 b.サヨリ
 ァ.脊索動物門・条鰭綱・ダツ目トビウオ上科サヨリ属 ・サヨリ
 
ィ.海面上を群れをなして泳ぎ、動物プランクトンを捕食したり、浮遊する海藻の断片を摂食する。 

 ゥ.防砂堤からも海面すれすれに泳ぐのでよく見つけられた。
c.カレイ
 ァ.索動物門・魚上綱・硬骨魚綱・カレイ目 ・カレイ科・カレイ
 ィ.体は平たく、両目は主に体の右側の面に集まっている。両目のある側を上にして海底に横向きになり、砂や泥に潜るなどして潜む。目のある側は黒褐色・褐色。特有の斑点を持つものもある。この体色は体表にたくさん散らばっている色素細胞の大きさを変えることにより、周囲の環境に合わせた保護色となる。両目のない側は白色。主に肉食性で、小魚や海底の無脊椎動物を食べるが。
 ゥ.海底の砂地を岩からじっと覗いているとカレイが潜んでいるとわかるときがあった。見つけられたと気づいたのか、海底に沿って遠くへひらひら泳ぎで移動し砂の中に潜るように着地。
 d.アイナメ(佐渡では「アブラメ」「シジュウ」)

 ァ.脊索動物門・条鰭綱・カサゴ目・アイナメ亜目・アイナメ科・アイナメ属
 ィ.昼行性で、岩礁帯やテトラポッド、防波堤などの陰につき、小魚や甲殻類、多毛類〔例:ゴカイ、イバラカンザシ〕など捕食。 

 ゥ.「アブラメ」といわれてもどういう魚か忘れたが、名前はしっかりと覚えている。当時の感覚では、高級魚にランクされ、どこでも居て釣れる魚とは格が違った。
 e.オニオコゼ(一般に「オコゼ」で通用)
 ァ.脊索動物門・条鰭綱・新鰭亜綱・棘鰭上目・カサゴ目・フサカサゴ科・オニオコゼ属
 ィ.関東以南の太平洋と新潟県以南の日本海、および東シナ海に分布。浅海性で、生息範囲は沿岸から水深200mまで。通常はあまり泳ぎ回ることなく海底に潜み、砂や石に擬態食性肉食性で、小魚などを捕食。背鰭の棘条に毒腺を備え、刺されると激しく痛む。
   ゥ.オコゼについては、子どもの頃怖い魚として話しの種になった。
  顱望3か4年の頃防砂堤防堤でどんな魚がいるかを独りで探していると、小岩と小岩の狭い間の水面から浅い斜面に見たこともない小さいが鮮やかな赤い皮膚のオコゼのような魚がじっとしているのに遭遇。一瞬、ギョッとしたのを覚えている。オコゼ同じく毒もったミノカサゴの幼魚かと思った。
  髻忘甘呂任蓮▲潺離サゴの話は聞いた事なかったが、棲息はしていただろう。
 
 〔ミノカサゴ:
   ァ)脊索動物門・条鰭綱・フサカサゴ科・ミノカサゴ亜科・ミノカサゴ属
   ィ)日本では北海道の南部以南の沿岸部に生息する〔「北海道〜九州南岸の日本海・東シナ海沿岸」など(「市場魚介類図鑑」)〕。夜行性で、昼間は珊瑚や岩場の影に潜んでいる。
   
ゥ)背鰭を中心に毒を持つ。腹鰭の間にある剣にも注意。
 f.ハゼ

 ァ.脊索動物門・条鰭綱・スズキ目・ハゼ亜目
 
ィ.世界の淡水域、汽水域、浅い海水域等あらゆる環境に生息し、もっとも繁栄している魚のひとつ。都市部の河川や海岸にも多く居て、多くの人々にとって身近な魚。発見されている種類数は、現在2100種類を超えるという(ウィキペディア)。

 ・675年に天武天皇の詔勅(しょうちょく:天皇の命令)が発せられた。内容は、4月1日から9月30日まで、稚魚の保護と牛・馬・犬・猿・鶏(にわとり)の食用を禁止するもの

 ・その時以来、近世に至るまで食べない習慣があった。なお食用の鳥としては、野鳥に限られていた。雁(かり)・鴨(かも)・雉(きじ)・鷺(さぎ)など。
 (佐渡を記した人23:川路聖謨(5)食文化
 【奈良時代(708〜710)前の飛鳥時代には既に、牛・馬・犬・猿・鶏の食用制限だけでなく稚魚の保護を詔勅せざるを得ないところまで 乱獲競争が社会問題となったことを意味】

 鵝縫ワカマス:淡水魚。アムール川水系を中心にサハリンからバイカル湖にかけて住む「アムールパイク」という種がある。

 堯縫Ε哀ぁД灰ぬ椒灰げ淵Ε哀ぐ_覆吠類される淡水魚。一生を河川で過ごす淡水型と一旦海に出る降海型がいる。降海型は北へ行くほどその比率が増す。
 ゥ.怪魚「イトウ」:「11月結氷が始まり季節が変わり水温が下がるにつれ耐えられる水温域を求めてときには千キロ以上も移動し厳冬を耐え忍び草原が花の群落で溢れる6月頃には生まれ育った川を溯って来ます。若いイトウは結氷凍結を逃れ、餌と最適な水温を求めて移動しますが10年を超える大物はあまり移動をしないで深みにじっと潜んで鱒などを捕食しながら春を待ちます。平均の寿命は5〜8年、体長は30−100センチにもなります。これが大物クラスですが記録では2メートルにもなるそうでネズミ、蛇、信じられないが中には鋭い歯と尾鰭で浮遊する小鴨や渡河中の子羊まで餌食にすると聞いています」
  《着眼》
  a)モンゴルにいる回遊魚は、カラフトマス。ウグイも降海型だろう。
    アムール川河口を出入り、アムール川を上流〜下流を行き来する。
     ァ)オノン川は、モンゴル国ヘンティー山脈のブルカン山を源流とするアムール川の支流。山脈の北東を流れ、ロシア国境を越えてシベリアザバイカリエ地方へ入り、1,032kmを流れた後にシルカ川に合流。
  ィ)アムール川は
モンゴル高原東部のロシア中国との国境にあるシルカ川アルグン川合流点から生じ、ロシアのハバロフスク付近で北東に流れを変えロシア領内に入り、オホーツク海アムール・リマンに注ぐ。リマンとは川の河口を指し、リマン海流日本海を流れる海流
  ゥ)アムール川は、上流部の支流を含めた全長4,368kmは世界8位〔日本一長い信濃川は367km〕。

  b)モンゴル人は魚を「神の使い」と崇めているから魚は食べないとの記述をどこかで見たが、それも一部正しいだろう。最初の頃モンゴルから相撲取りになるために何も知らない日本に来て相撲部屋に入って魚の入ったチャンコ鍋を食べざるを得ず悔しい思いをしたと語った力士がいた。
  〔ウィキペディアによれば、「魚は宗教的に禁忌とする地域もあるが、モンゴル国北部では燻製にする」とある〕
  ァ)日本では、基本的に牛や馬は食べなかった。
  顱傍蹐和臚如来の使いという信仰説がある。佐渡では、牛が大日如来を背負って両尾(もろお)という海岸に着いたという伝説があり、これが佐渡牛の起源説になっている。
   (佐渡の神社20:大日堂」)
  髻貿呂蓮⊃税呂箸いμ召あるように神様や天皇が乗るもので「絵馬」があるように幸運を運んでくる縁起物としてあり、食べるのはもっての外とされた。 
  鵝傍介類でもある種のものは食べない集落があった。次の例も伝説・信仰に関係。
   「羽黒神社の氏子は、アワビを食べないという。それは、羽黒の分霊が出羽から佐渡に遷る際アワビに乗って来られたことによる(「佐渡風土記」)。あるいは、途中で船に穴があいたがそこにアワビが貼りつき穴をふさいで助けたためとされる」
   (
  ィ)実際は背に腹はかえられず、こっそり食べていたというのが本当だろう。
   1つは、食べ物不足のまま飢え死にするわけにはいかないから
   1つは、牛馬についての史料はないが、美味しいから
  (フグは江戸幕府は武士に禁じたが、フグ大好き人間の多かった加賀藩では江戸の藩邸でも故郷からこっそり取り寄せ食べた形跡がある。
 超真面目人間の長州萩藩の吉田松陰は食べて万一当たって死んだ場合、不名誉が永遠に残ることを避け、食べなかった。松陰を師とした伊藤博文は、フグの調理の安全性確保の見返りに規制緩和・許可制とし、日本海の萩沖で獲れるフグを下関のフグとして暗にPR、地域経済発展に貢献。日本初代の内閣総理大臣に就任。今日でもフグといえば山口県、下関が名産イメージがある。
   」)
  c)魚にはいろいろある。モンゴルにも生息するイトウ(𩹷=魚偏に鬼)は、体長が1m 以上になり、カエルやヘビ、ネズミ、水鳥のヒナ等を食べることもある。
 b.平成 22 年度自由貿易協定等情報調査分析検討事業「モンゴルにおける農林水産業と農林水産政策等の調査・分析」(「農林水産省」HP)
 ァ.モンゴルには水産業と言えるものはほとんどなく、いくつかの湖や河川で食用や観光用として若干の漁業が行われているのみ。
 顱房舁廚糞場は、「西部のウーレグ湖、アチト湖、トルボ湖、バヤン湖及び東部のブイル湖」、
 髻房腓糞は、「スズキ、鯉、フナ、マス、ナマズ等」
 ィ.漁獲規制は、「各県・湖では自然・観光省により漁獲の上限が定められている」
 ゥ.モンゴルには水産業と呼べるようなものはほとんどなく、湖や川で漁獲された魚がそのまま自然に冷凍されて市場やスーパーで売られている程度で、モンゴル経済における重要性も低い。
 c.モンゴル出身オユンさんの話(モンゴルで生まれ育ち、来日し新潟大学卒・現在新潟市内の会社に正社員として勤務)
 この4月20日(木)早川氏と定例懇親会に同席。その前の2月は、ブログテーマ「歴史スポット62:文永の役と日蓮」(公開しているが8月12日現在工事中)に取り組み中で、モンゴルについての関心が高まっていた。氏のグループ会社に勤めている彼女(前に会社グループのイベント見学に行った際会っている)に休憩時間中に会社訪問し2、3質問したい旨を述べると、後日メールが入り次回はオユンさんも同席してやりましょうということになった。
 懇親会当日のこと。
モンゴル語3モンゴル1
 会う前に名前を忘れないよう      オユンさん自筆による名前
バスの中で試しにキリル文字で     左が父の名(日本の「姓」に当たる)
手帳に書いた「オユン」           右が本人の名「オユン」 
 モンゴル語は、ロシア語と同じくキリル文字(=ロシア文字)を用い、アルファベットと同じようにローマ字読みすることは、近年何かで知っていた。「ユ」をどう表現するか一瞬戸惑ったが「Ю」が浮び「」も続けたのは、自分にとって大正解。考えて見れば、第二外国語が終わった大学3年以降50年「Ю」と接したことなかった。10年前小樽港でロシア文字に接したくらいのもので、その時は「鳥海丸 酒田市」とあったこともあり鳥海山は秋田・山形に跨がる山であることから「チヨウカイ マル」と読めた。
  (06年7月14日号「北海道と佐渡(8):小樽(2)」)
 ァ.モンゴルに魚がいることは知っていたが、ロシアや〔北〕朝鮮からも〔回遊魚が〕来ることに驚いた。
 ィ.モンゴルの歴史記事にはモンゴル草原でなくモンゴル高原と出てくるが、「高原」はモンゴル民族の生活史が表現できてなく、「草原」が草を求めて羊と共に移動する遊牧民の姿をずばり表現する旨を話すと、「高原」より「草原」の方が実際上正しいと同調。〔モンゴル史の学者が「高原」という呼び名について疑問を持たないとしたら不思議〕
 ゥ.モンゴルは末子相続(相続の優先順位は長男でなく末子)と歴史書にあったが現在でもそうかについて、今は違うとと。
岩場は遊びの宝庫。旭町近くの防砂提は、その例。
1)論拠
 a.一定場所で海辺の景色、波の変化、個々の岩の形、海中・海底の様子を楽しめる。
 b.一定場所でいろいろな生き物と出合える。
 c.一定場所で遊び方はいろいろある。
2)「いろいろな生き物と出合える」の突っ込み
 a.個々の岩場には、それぞれ固有の生態系がある。生命の起源は、海中。
 b.「海と船なるほど豆辞典」(日本海事広報協会))とウィキペディアを参考にして作った
      生態系と食物連鎖の連関図
                落葉・糞・死骸(有機肥料)
                      ↾↓
        大気中へ酸素放出➡植物➡動物
                      ↾
      (光合成=糖類+酸素生産)
海中:植物プランクトン➡海藻類
      (光合成=糖類+酸素生産)
     ↾       ↓                  
     ↾  海中へ酸素放出➡動物プランクトン➡小魚➡大魚  
     ↾                              ↓
  〃 増殖  ← 栄養塩 ← (海洋バクテリア:分解) ← 糞・死骸
   (植物プランクトン栄養源) 
3)関連事例
 a.子どもは隠し絵の絵本が大好き。
 b.本の中にいろいろな人物や動物などがいて、思わぬところからその挿絵が飛び出してくるからだろう。
 c.いなくなった挿絵を捜すのも面白さの一つで、また全て知っているわけでなく新発見もあるかもしれない。
 d.この8月に入り娘夫婦と3歳半になる孫が新潟の自宅に来たので、何か遊び道具と思いデパートへ行っていろいろ探して買ったのが、隠し絵の絵本。
   これは、好評だったようだ。2歳頃から私を意識しつつも敬遠したが、プレゼント翌朝会った時無愛想な様子でなかったのでジャンケンと言ってチョキを出すと園で知ったのかこれに応じ、一緒にジャンケンほい・アイコデショーした。家に来て4日目の出来事、孫との遊びらしい最初の遊びは、ジャンケンであった。
 以上  2017.08.14










歴史スポット70:1950年代両津子どもの遊び(07)砂浜遊び

 こんにちは!自在業の櫻井です。
1.はじめに
 子どもの遊びについて、まだまだ多くの人から聞きたいと思うが、切りがない面もある。
 取材は貴重・重要として自身で経験・見聞したことを記すことが、ここでは第一。
 知ってるつもりでも書くとなると曖昧さが明らかとなる。それも視野拡大の機会。
 最初に、「砂浜遊び」を取り上げた。 
 生まれ育った両津夷旭町の家の裏は今とは違って砂浜。海に向かって左は大佐渡(北端:弾崎)、右は小佐渡山脈(北端:姫崎)の稜線が海に落みその間に広い両津湾がある。沖は佐渡海峡、水平線の向こうは本州。
 夜は、築港の灯台、右手彼方に姫崎灯台(「水津の灯台」と呼んだ)、左手の遥か彼方に弾崎灯台(「鷲崎(わっさき)の灯台」と呼んだ)の光が、周期的に点滅していた。正しくは、光源が一定速度で回転しているから 同じ場所からは点滅しているように見えるということだろう。
 点滅時間は規則的でそれぞれ異なるから、ある瞬間2つの灯台の光が一致することがあり、例えば築港の灯台が後何回で水津の灯台と一致するかを予想し楽しんだことがあった。3つの灯台の光が同時となる時はあったはずだが、記憶に残ってない。
 朝日は、時期によって姫崎に近い水平線から昇る場合と小佐渡の山裾から昇る場合が、地球の自転と太陽との位置の関係である。余談だが、水平線から朝日も夕日も見られる場所は日本に3ヶ所しかないそうで、2ヶ所はわからないが、1ヶ所は佐渡の藻浦。但し、年中見れる訳ではない。
 丁度10年前の7月藻浦の民宿に泊った時、7月8日夕刻地平線に沈む夕日と7月9日翌早朝地平線から昇る朝日を完全でないが(雲が水平線にかかった)写真に収めている。
 (07年7月11日号「佐渡の風景19:鷲崎(2)藻浦」、同12日号「同鷲崎(3)藻浦〜二つ亀」)
 最初の遊び場は家の中に決まっているが、物心ついた時の遊び場は家の裏に広がる砂浜に間違いない。
  
2.内容
  まず、6月12日号「序文」の中で列挙した「砂浜での遊び」順に記し(「ハンギリ乗り」は別分野に変更)、その後他に見つけたものは追加。
〕遒箸祁
1)少なくとも1955年頃までは旭町ー春日町(谷地)ー舟場町ー平沢の海辺は、砂浜であった。バスが通る道も海岸近くに沿ってあったが、平沢方面の人は、夷へ行くのにバス道路を通らず、砂浜を歩いた人も多くいたように思う。
 バス道路といっても当時は、多分1台やっと通れるくらいの道幅で砂利道。歩道はない。車が余り通らないといっても注意が必要。
 その点、砂浜は歩くには不便だが、車は通らず安全、広々しているため荷物を持って運ぶのにもよかったのかもしれない。
 子どもは、そこにつけこんだ。グルよりも個人が多かったように思う。
2)作り方
 a.人がよく通る砂地に狙いをつけ、両手で円形の穴を掘る。
 b.掘り進むと海水が一定の所で溜まってくる。そこが、限界。
 c.掘った砂地の所にに細い木か竹の棒を格子状に組む。
 d.その上に新聞紙を被(かぶ)せる。
 e.被せた新聞紙の上に掘り出した砂などを敷き、更に周囲と同じ砂を巻き、落とし穴であることをわからなくさせる。
3)楽しみ方
 a.落とし穴にうまく落ちる人を遠くから見て待っている。
 b.落ちた人も実際いた。片足の一部が穴に入るだけで、大事になることはなかった。
 c.出来栄がよいと落とし穴はどこか見分けつかず、作った当人が落ちることもあった。
∈獣鳥辧未世鵑粥佑龍さ比べ
1)ここで言う「砂団子」は、公園などの砂場で作る「だんご」(一般に「泥団子」と言われているもの)と作り方は基本的に同じ。但し、作って大きさや形の良さなどを競うだけでなく、硬さ・強さを競うことがその真髄であることが相違点か。
2)作り方
 a.波打ち際にある海水に浸かった砂を砂浜に運んでくる。あるいは、海に近い砂浜を深く掘れば、海水に浸かった砂を取り出せる(公園などの砂場ではできない)。 
 b.湿った砂で団子をこねる。
 c.丸く〔球に〕なったら、砂浜にある乾いて白くなった砂を何度もかける。
 d.強くするには、しっかり絞って水分を抜き、且つ完全な球形状態にする。
 e.その上で、湿った砂を一面にかけて大きくし、しっかり絞って水分を抜くと共に球形を保持する。
3)楽しみ方
 砂団子をどちらかが自分の砂団子を相手の砂団子にぶつけ、割れた方が負け。この場合、ぶつける側とぶつけられる側の優位性の差はないと思う。
城づくり
1)城といっても城壁くらいで建物づくりまでにはいかなかったように思う。
2)城壁は海水を含んだ砂で作るため、海からは遠からず、一方波が来て壊されないよう近からずの場所選びが重要。
3)時間をかけて仕上げたという誇りと間もなく壊れるというはかなさも実感する中で、子どもはそれでも作る。
け寝呂鼎り
1)海水を受入れると共に自動的に海に戻すシステム。
2)海水の受け入れは、砂だけでは不可能。はじめから藁〔わら〕で補強していたように思う。
3)打ち寄せて来る海水を運河に沿って壊れないよう遠くまで通し且つ戻すかが、遊びの妙味。
ダ佚蠅押福嵜綫擇蝓廚箸發い。全国的には川が一般的で、海では非常に少ないようだ)
1)旭町時代の砂浜は、沖に築港が平行して延びているわけでなく、水平線の見える海。且つ漁船などが近くを通ることはない。従って、砂浜から海に向かって、石を思い切り投げても人に当たる心配はない。
 石投げは何よりも、小石がなかったら遊べない。形がギザギザで変形した小岩は勿論 片手で持てないくらい大きな石もダメ。幸い、砂浜にはいろいろな小石が豊富にあった。
 平べったい、まん丸い、細長い、赤い、青い、白い、黒っぽい、胡麻に入った、色々模様の入った、等々。
2)競争形態
 a.石をどこまで遠くの沖に投げられるか
 b.投げた石が海面を何回飛び跳ねるか
  比較的小さくて平べったい石が適している。
 c.投げた石を海面に滑走させることができるか
  比較的大きくて平べったい石が適している。
 d.上記を総合すると 石をどれだけ長く海面上に保つか
3)砂浜で適当な石を見つけるのに不自由した覚えはなかった。それほど多種多様の石が浜辺にあった。荒波の寄せた後は、いろいろな物が浜に上がったという覚えがある。海藻・木の破片・藁など。石もそうであろう。
   《参考》「水切り遊び」(資料:「熊谷水切り倶楽部」HP)
 a.「水切り遊び」は、「石切り」「石投げ」「跳ね石遊び」「水面石飛ばし」など呼び名は様々。
 b.「水切り」は、国際的な遊び。以下は、外国の呼び名例。
  ァ.中国:「打水漂」〔直訳すれば、石を水に打ち漂(ただよ)わす。何となくわかる〕
  ィ.ミャンマー:「チャウッケーピエー」=小石が走る。
  ゥ.タイ:「レンパーヒン」=石を投げる。
  ェ.英語:stone skipping〔「 水切り, 水きり, 飛び石, 飛石」(英和辞典Weblio辞書)   
  ォ.フランス:Ricochet 「リッコシェー」=波及。〔語源はフランス語。「跳飛 《弾丸・石などが平面や水面に当たって斜めに跳ね返ること》」(英和辞典Weblio辞書)〕

 c.世界水切り協会(International Stone Skipping Federation)、日本水切り協会があるとのこと。
  承認された記録としてジャンプ38回があり、04年Kurt Steinerという人が40回の新記録、07年Russell Byarsが51回でギネス新記録。13年は65回から88回へKurt Steinerが更新。 

ε粥θ鹽乾好ラップ拾い
1)浜辺には、いろいろな機械・器具部品や板やアングル(形鋼)の切れ端が波によって打ち寄せられていた。
 波打ち際の他、海に近い砂地にあり、離れたところにもあり、砂の中にも埋まっており、掘れば出て来た。
2)何の部品・端材か・何に使われたのか、どうして(例:廃棄処理か、難破船によるものか)、何処から来たのか皆目分からないが、素材としては主に3種類。
 a.「くろがね」(鉄)、「あかがね」(銅)、「しんちゅう」(真鍮:銅と亜鉛と合金。黄色で錆びにくく鋳造・加工が容易で機械器具・日用品などに使用)。アルミとかステンレスとかの名は当時聞いたことはないように思う。
 b.浜で拾い集めた金属スクラップは家に保管し、定期的に巡回して集めに来る業者に出し、
その場で秤で重さを測ってもらい、指定された値段で売り小遣いにした。
  金属ごとの堙り値段は、今と変わるわけないが鉄〈真鍮〈銅 だったように思う。
 c.測定は、分銅を使った竿秤(さおばかり)が主であったが、
  重量物は竿秤では重すぎて測れず、その場合は家にある魚の重量をはかる業務用の台秤を使ったように思う。
  今はデジタル台秤は常識であるが、昔は重しを重いものから軽いものの順に載せながら平衡になるように測っていた。
3)北平沢出身の同級生へ電話取材情報
 a.小学校時代までは砂浜で金属類を拾って買いに来る夷の業者に売っては小遣い稼ぎをした。
 b.当時は、銅線が高く売れた。
 c.集落に5歳年上のガキ大将がいて、仲間で古金(ふるがね)採りをした〔旭町の場合、個々で行った〕。
 d.番屋〔漁師の作業小屋、船小屋〕へ入って、使い道のなさそうな古い金属類を盗んで業者に売ったことあり。
  〔5分足らずの取材であったが、貴重な情報が得られた〕
 (「平沢」は、15年11月03日号「佐渡の風景129:梅津(平沢)」に記述)
 (追加)
防波堤づくり
1)難しさから言って本来なら「運河づくり」や「お城づくり」の先に来るべき
 といえるが後で気づいた。だが、改めるまでもなく体制に影響しない。
2)作り方
 a.波が殆ど来ないような所に砂の防波堤を作っても面白味はない。かと言って波が頻繁に打ち寄せる所に作ってもすぐ壊れて面白くない。
 b.感覚的には3〜5分に必ず波が打ち寄せて来る辺りに作る方が、スリルがある。
 c.寄せて来る波の力を和らげるため
  ァ.防波堤を直線でなく馬蹄形にする。
  ィ.砂の防波堤を強くするため藁を敷き、その上を砂で固める。
  ゥ.波が防波堤に寄せるその前に大きな穴を掘り、海水の侵入による打撃をかわす、あるいは弱める。

3)一人で作って耐久時間と耐久力を個人で楽しみ、複数人が同じ位置に作って誰が長持ちするか競う楽しみもある。   
池づくり
1)「落とし穴づくり」「運河づくり」「防波堤づくり」と共通する面多いが、別物とした。
2)作り方
 a.砂を掘るのにスコップやシャベルや補助のバケツは不要。素手で行う。
 b.場所は、波打ち際〜遠く離れた砂浜
 c.海から離れた砂地でも深く掘り進めば、砂の下から海水が浸み出て来る。そのままにしておくと、池の土手(砂)が崩れる。そうならない為に更に深く掘り且つ池を広げる。
3)いかに長い時間池を保つかが遊びの要素。この場合、事情がここに異なるので競争には向かない。
波との戯れ
1)波とのいろいろな遊びを「波との戯れ」とした。
 フランスの作曲家ドビュッシーが1905年に作曲した交響詩『海:La Mer』(管弦楽のための3つの交響的素描』)に、「海の夜明けから真昼まで」「波の戯れ」「風と海との対話」いう3つのタイトルが付されている。この場合「波の戯れ」の主体は「人」でなく「波」。詩人・文人好みの客観願望に基づく擬人表現と解釈。
2)では、「波との戯れ」の実際やった遊びは?
 a.波の引く際は出来るだけ遠くまで追いかけ、寄せて来る時は出来るだけその場にいて、そのままでは危ないと思った瞬間逃げる。ギリギリまで居て、波を揶揄(からか)うところが妙味。
 b.波の引いている間に砂地に字や絵を書き、次に来る波に耐えられるかどうかを試す。
 c.沖の波の様子からやがてやって来るだろう大波に対し、どこまで砂浜に到達するか予測。
 d.沖に見えるどの波が大きくなって遠くまで打ち寄せるかを予想。
 e.海水パンツ付きであるが、打ち寄せる波から逃げるのでなく、むしろ突進しぶつかっても倒されず、安定を保つ。
3)「波との戯れ」としたが、砂浜・海水浴での人身事故を一度も聞いたことはない。それは、海や波の怖さを親や大人や上級生などからさんざん聞かされ、また実際の泳ぎの経験から察知してのことだろう。
砂かけ
1)砂浜に頭と顔だけ出した砂人間をつくる。
2)砂の上に仰向けになった者あるいは座った者の上に頭や顔を除いた部分(首以下に)砂をかけ、胴体や手足を砂で覆う。
3)砂人間は、一般には希望した者がなる。泳ぎ疲れた時、浜辺にいては冷たい潮風吹いて寒く身体を暖めたい時など、非常に気持ちがよい。砂は、海に入ればすぐとれる。これも、気持ちよくてよい。その感触は経験した者でしか味わえない。

3.まとめ
〆修牢篝个覆匹風化したものと一般に見られているようだが、直感的には岩石と共に最初からあった。
 理由は素人考えで、そうでないと砂が増え続け何億年かの後に砂だけとなってしまう。また、砂は土になるのではないか。また、砂は海岸や海底に集中し平野部は少ないことの説明が、「岩石の風化」ではできない。
1)ウィキペディアでは「砂」は、次のように解説。
 a.「は、砕屑物のうち、礫とシルトの中間(粒径が2〜1/16mm (62.5μm) の粒子)のものをいう。岩石が風化・浸食・運搬される過程で生じた岩片や鉱物片などの砕屑物(砕屑性堆積物)から構成され、サンゴ・貝殻などの石灰質の化石片を含むこともある。河川の下流、河口、海岸、海底など、様々な堆積環境下で観察される」

  ィ.砂が丘状に堆積する地形を「砂丘」と呼ぶ。
  ゥ.砂が海に堆積してできる、くちばし型の地形を「砂嘴」と呼ぶ。

  ェ.砂が海に細長く堆積して出来る地形を「砂州」と呼ぶ
∋劼匹發陵靴咾蓮並膺佑發修Δ世)、石切りに見られるように人類共通が多いのに驚いた。
 石切りは海だけと思っていたが、一定の川幅の広さを要すが川でも海以上に行われ、すると池もあるだろう。
  以上 2017.07.30

歴史スポット69:1950年代両津子どもの遊び(06)小池荘一郎氏語る

 7月17日(月)午後アイポートで夷本町の小池荘一郎氏(1937年生)にお会いし、子どもの頃の遊びについてお聞きした。
1.はじめに 
 氏については、9年前鬼太鼓に関心を持っていた時、鬼太鼓に関する写真を撮らせてもらうなどいろいろお世話いただいた。当時、両津鬼太鼓組(前身は「夷七ノ町オンデコ」)の組長をしていた関係からだろう。
 (08年4月15日号「鬼太鼓11:自主運営(その2)」「2.両津夷鬼太鼓」、同年5月10日号「鬼太鼓19:装束と道具(両津鬼太鼓組)」)
 そして、昨年12月渡辺和弘氏から有志で「夷を記す会」を始めたという知らせを頂き、「佐渡人名録」サイトを辿ると昔の貴重な話の記事が載っており、その中に氏の名前もあった。
 取材については1時間という限られた時間もあり、主に防砂堤・築港での遊び、どんな魚介類がいたか・捕ったかを主とした。

2.遊び
(1)防砂堤
/絮法
1)昔は大きな岩が並んで敷かれた防砂堤の先端と「沖の築港」の防砂堤に向いた先端は繋がっていなかった。その間は30m位あり、沖の築港へは泳いで渡るしかなかった。
 a.そこは、一日の中で海の流れが変わり、水泳するには危険区域であった。幼い時は渡れず、大半が羨ましいと思った経験があったに違いなく、私でも充分心当たりはある。
 b.一方で、自力で泳いで渡れれば一人前と見なされた。それが出来れば、どこでも泳げた。
  なお、途中で人が立てるような岩があったとのこと。それは、知らなかった。
 c.途中で、「スガモ」が、海底で鬱蒼とした森のように繁っていた。怖いため海の底を見ないように努め、その上を急いで泳いだものだ。そこにはオコゼがよく棲んでいるとかの話も聞かされたこともあり、怖さが増幅。毒をもち、刺されると激しく痛むのは本当のようだ。
2)南側防砂堤
 a.比較的浅く砂地で、泳ぎに安全。 
  「らんまる(蘭丸)」という木造船が、沈んでいた。
 b.岩にはべコタコ(ウミウシ:軟体動物門腹足綱後鰓類)が至るとことにいて気味悪かった。クラゲ(刺胞動物)もいた。氏は、それを「ランベイ」と呼んでいたが、一般には半透明の色をしたのが「クラゲ」。クラゲとは異なり海底の砂地に巣くっていた茶色のフワフワした直径5冂の円盤形ーというより生卵を割ってフライパンに置いた時の黄味部分ーのものが私の言う「ランベイ」。
 c、沖の方へ行くと「スガモ」が海底の砂地に繁っていた。
3)北側防砂堤
 a.海底は深い。青白く、岩が多いように見えた。少し遠く離れれば、底は深くて見えない。
 b.波はやや荒かった。「春日町からの築港」と「沖の築港」がまだ繋がっていなかったからであろう。沖からの波をもろに受けた。
 c.南側と違ってその近くで泳ぐ人は余りいなかった。私自身、そこで泳ぐのは上級生と一緒でも不安を感じた。1回泳いだのはハッキリ憶えているが、他は記憶がない。
魚貝の発見・釣り・採集
1)南側防砂堤
 a.サヨリが集団で泳いでいるのを見かけた。
 b.岩の間にハチメ(メバル)、アブラメ(アイナメ)、シジュウ(ウサギアイナメ)などがいた。〔いずれも、浅い岩礁域に生息〕
2)北側防砂堤
 不詳
(2)沖の築港
\勝蔑Α紡
1)水泳
 専ら防砂堤との行き来のみで、築港の岸壁に沿って泳ぐことは余りしなかった。
2)釣り等
 釣りは盛んであった。
  顱縫魯次他所よりも大きいのがいた。
  髻縫丱トウ(キュウセン、ベラ):「佐渡の海岸に多く見られるのは、ホンベラとキュウセンであり、キュウセンは釣り人達にバクトウ、デバとも呼ばれている。砂地には見られず、磯やテトラポットの周り、又は水深数十メートルの岩礁地帯に生息している。体形はやや細く、体側と各鰭に赤や青などの美しい斑点や帯状の線があり、派手な色彩の持ち主である」「磯に多い魚で釣り人にはおなじみである。ベラ類は夜砂の中に体を埋めて眠り、朝太陽が昇ると起き出して活発に餌をとる」「ベラ類中、キュウセンは最も美味で塩焼きにすると良い」(「お魚豆知識」サイト)。「(キュウセンは)岩礁の点在する砂礫底や砂底に生息する」(ウィキペディア)
  鵝縫タベ(イシダイ):グループで泳ぐ〔多分、幼魚だろう〕。「体色は地に7本の太い横縞が入り」「幼魚や若魚ではこの横縞が明瞭で」「この時期は特にシマダイ(縞鯛)とも呼ばれる」「ただし成長につれて白・黒が互いに灰色に近くなり、縞が不鮮明になる」「食性は肉食性で、甲殻類、貝類、ウニ類などのベントス〔底生生物〕を捕食する」(ウィキペディア)
  堯縫灰Ε哀蝓淵Ε泪泥薀魯、カワハギ):今の方が昔より多い。
    今年5月のあるブログに「佐渡の鮮魚コーナーの虜!ハタハタコウグリの肝、メカブにハマる」の写真付き記事あり。コウグリのポップは、次のとおり。
   「煮てよし焼いてよしフライもうまい!両津産 今が旬!! むきこうぐり 100g当り98円(税別)」
  冷蔵ケースに陳列してある写真を見ると1パック3〜4尾入り。
  両津湾で多く獲れていることがわかった。
   漁獲方法は底引き網、定置網などの方法が一般的、釣りは餌取りが上手いので嫌がられることがある(ウィキペディア)。
東(沖)側
  テトラポットがたくさん置いてあった。

1)水泳は、ここでは殆どしない。海が荒い・底が深い・休む場所がない・波にさらわれて沖に流されたら戻って来るのは難しい。
2)釣りは、投げ釣りが大半。
3)アワビ・サザエは、岸壁近くの岩の間に水中眼鏡を付けて潜って探し、採っていたように記憶。
〔小5、6年頃(1957、8年頃)と思うが、大きな岩にくっ付いている海藻を採り、そのまま海水に浸けて食べた経験がある。絶妙な味。名前はわからないが、黒褐色で長さは6〜8cm位か 細い茎が数本枝分かれしていた。
(3)加茂湖
.▲汽蟶里
1)ホテル東宝〔前は橋本座があった〕脇から昔あった櫛谷鉄工所脇の辺りまでの加茂湖で〔昔は、両津湾に繋がり「境川」と呼んだ所。月と地球の引力と互いの円運動による遠心力によって一日の中で2回流れ(潮目)が湖→湾、湾→湖へ変わる〕でアサリを採った。
 (具体的な場所は、6月12日号「(1)序文」に掲載されている1920年代の両津市街図参照。橋本座と櫛谷鉄工所の位置が明確にわかる)
 (「境川」について、09年10月5日号「佐渡の風景85:河川(8)境川」)
2)採り方
 a.足で川の砂を掻く。
 b.川の中で砂が舞い上がる。 
 c.川の流れで砂が移動し、川底の様子がハッキリ見えてくる。
 d.水中メガネを着けている状態ですかさず潜り、川底を見回しアサリを採る。
 e.1回潜れば、10個くらい採れる。
3)買い手
 a.佐和田から毎日バスに乗って子どもが採るアサリを買いに来る魚商売しているお婆ちゃんがいた。
 b.一升桝にいくらで買って行った。アサリを桝から溢(こぼ)した方が多かった。〔一々拾いあげて、入れることはしなかった。子どもにとっては、その方が得する〕
 c、業者からの仕入であると高くなるが、子どもであれは安く買っても喜ばれる。
4)売った代金の活用例
 (軟式)野球チームのユニフォーム新調した。
 a、ユニフォームは紺色のカラー。〔オーダーメイド故、高価であったに違いない〕
 b、氏は、そのユニフォームは処分せず、蔵にあるとのこと。
  【ここでの大事な事は、
  ァ.遊び仲間が貯めた金銭=金融資産は、個人に等分・分散せず、
  ィ.使い方は、個人の所有資産で、究極処分自由であるを前提としたもので、
  ゥ.チーム資産としての誇り高い価値を持ち、
  ェ.利用者・受益者最多で 満足最大になるものとして
  ォ.貯まった金銭を野球チームの個人別ユニフォームに換えた
  ことにある。】
(4)その他
ヽご澡瓩でビルのように積み上げられている魚箱の遊び
1)一番上に登って真ん中辺(あたり)から組み合わさった箱を次々退(ど)かし下へと進む。
2)下に達したら、横の箱を退かしていき出口を作る。
3)高度なものは、迷路にする。〔隠れ部屋を作ったような記憶もある〕
4)上からも下からも通れる。
◆屮僖鵝廚陵靴喨
  遊び方について02号・03号に色々な例を記しているが、他のやり方もあった。
1)相手のパンは、小さな台の真ん中付近に置く。 
2)相手のパンの外周から最短距離(10〜20cmか)の所に、自分のパンを台から半分程はみ出た所に置く。
3)相手のパン目がけて自分の手のひらでパンを突き出し、命中させる。
4)ぶつけられた相手のパンが、台から出て落ちると相手側の負け。 
 〔複数人でも遊べそうだ。複数のパンが台に載っており、まず落としやすいパンが狙われる。ぶつけられて落ちなかったパンは、それでも台の中を移動し、やがて四辺のどこからか狙われて落とされる。または、別のパンとの接触によって、かえって安全性が高まったりする。そこが、希望も持て面白いことだらう。絶望だけで死を待つばかりではない。思わぬ助太刀が現れたりする。安全有利な位置にいても決して油断・安心できず、また窮地に至っても大逆転も起こり得る。〕
 山辺へ遊びに行った。
 5〜6人くらいで 例えば梅津の真法院とか堤(つつみ)へ行った。
 〔真法院といえば順徳上皇ゆかりの梅で有名。小学高学年か中学までの頃と思うが、それを見に行ったとは考えられない。夷七ノ町からだと60分で行ける範囲。ゆっくりできる所でもあるから、一応の目標地点となったのかもしれない。途中には佐渡では大きい梅津川があり、梅津橋が架かっている。私も築地時代の中学の時、近所の3、4歳下の一人を連れて、梅津川まで遊びに行ったことがある。
 築地の場合は、梅津方面は橋のある梅津川や道は違うが羽黒山で、真法院の名は聞いたことなかった〕

3、まとめ 
\僂濔紊欧△覽箱から上と下に通じる通路や中に隠れ部屋をどうして作ったか、わかる人は今ほとんどいないだろう。
 子どもは、知恵を働かせればどんな物でも遊びに使える好例である。
△澆鵑覆撚圓い瀬▲汽蠅里金は、それぞれの小遣いにせず、野球チームのユニフォームを買ったという話は、学ぶべき点多い。なお、子どもの採ったアサリは、引き取った店が繁昌・発展する元となったとの噂もあったようだ。
M靴咾蓮鬼ごっこやパンなどのように捕まえられたり、損を蒙るなどのリスクがあるから面白いのであり、窮地に立っても助っ人が現れる・状況が急変するなど逆転劇も稀にあったり、逆に現状に安心・油断すれば奈落の底へ落ちることもあるという面白さがある。いろいろな人生体験が模擬的できる意義は、果てしなく大きい。
 以上  2017.07.25





  

  







歴史スポット68:1950年代両津子どもの遊び(05)北 治之氏語る

 こんにちは!自在業の櫻井です。
 7月17日(月)海の日9:00佐渡汽船両津港ターミナルにやや近いアイポートで湊の北 治之氏と会って、子どもの頃の遊びについて話を聞いた。前もって依頼した古い写真集も持ってきてもらった。
1.はじめに
 これまでの「子どもの遊び」の取材対象者は、夷の人で湊はいなかった。夷と湊は橋を隔てた隣同士で非常に近いといっても、何か違いがあるだろう。それを知れば、意外な発見ができるかもしれないと思っていた。
 そこで、湊に生まれ育ち大学進学以外は島外へ出ず家業を継いでずっと湊で暮らした氏に 同級生(1946年生まれ)ということもあり 白羽の矢を立てた。 
 前日のアポ取りで、17日は孫を保育園に迎えに行く3時前までなら何時でも大丈夫(すぐに、当日祝日で休みとわかり、何時でも可能に訂正)、6時のフェリーで行くので佐渡汽船前の喫茶店で早朝からやっているとこがあるかを尋ねると、橋を渡ったところに出来たアイポートを指定。
 氏は現在、佐渡観光協会の「まちあるきふれあいガイド」の担当者の一人として活躍。ガイドは、4月〜9月の期間毎日両津港佐渡汽船ターミナル2Fの佐渡観光協会両津港観光案内所(☎0259-23-3300)予約(1名から20名まで)により、港から1時間又は2時間コースで歩いて戻れる近くの名所を案内。
       《2時間コース例》
 佐渡観光協会両津港観光案内所→両津大橋→旧佐渡魚市場→夷本町→カトリック教会→両津橋→若宮神社→北一輝生家→おんでこドーム→みなと公園→佐渡観光協会両津港観光案内所
  (料金:一人1,000円。2017.06.08更新さど観光なび(佐渡市公式観光情報サイト)による。要事前確認)
 昨年は50回務めたという。中に、九州の観光客で福岡(フライト)→新潟(ジェットフォイル)→両津→(佐渡2泊3日)→両津→夷「村雨の松」→(9時過ぎのジェット)→新潟(フライト)→福岡 のお客さんを案内。
 氏とは、今年3月の「古希を祝う会」で一緒になり、拙著『佐渡広場』がガイドの役に立っているとのこと。最近では、5月28日「佐渡國鬼太鼓どっとこむ」の際おんでこドームで会って以来。

2.遊び
(1)海岸

 砂利と小岩で家々から海までの間は狭い。
湊4
  1955年頃(推定)湊海岸(写真:北 治之氏提供) 
湊海岸
南埠頭竣功〔1970年〕前の湊海岸(写真:「なつかしの佐渡」湊風景(土屋千秋))
/絮
1)海底に「波ごろし」といって直径2mくらいの足場のようなものが海岸に近い方から沖の方へ等間隔(3〜4mくらい)に設置されていた。
 a、多分、打ち寄せてくる大きな波を小さくするためのもの。湊には夷と違って沖に防波堤がなかった。
 b、海底は、砂地もあり大きめの石もあった。
 c、陸に近い方から「1の岩」「2の岩」と呼び、「4の岩」までは認識している。
2)上級生が、下級生に挑戦目標を決め泳ぎを教えた。
  【学年別泳ぎ等の目安】
 a、「1の岩」は、小学2〜3年生が足をついて立てるくらいの所にあり、1〜2年が泳いでいった。陸から3〜4mの距離。
 b、「2の岩」は、小学2年生の大体が泳ぎに行けた。そこまで出来ると一人前として認められ、一緒に泳げる仲間に加えられた。出来ないものは、「ずくなし」とバカにされた。
 c、「4の岩」は、潜って水中メガネからやっと確認できる深いところにあった。
3)「一人で泳ぐな」は、徹底して言われた。
 a、集団で遊んで何かあれば、一番上の子の責任となることは、当然としてあった。
 b、陸にいる大人や上級生は、海で遊んでいる子どもに向け常に目を光らせていた。
泳いで一時休憩のため陸へ上がると干してあるイカの足を「がめて」(盗んで)腹ごしらえした。
サザエ・ウニの採取
 海底の石・小岩をひっくり返して見つけた。
つ爐
1)ハチメ〔メバル〕・カタベ〔イシダイ〕・ベラ〔浅海性で岩礁やサンゴ礁、その周辺の砂泥底に棲み、小形の底生動物を主食。昼行性の魚で夜は海底の砂の中・岩陰・海藻の根元などに隠れて眠る〕など。
2)カタベは、ヤスで突いた。
3)「ガスナゲ」と呼んでいた魚は、普段は浅瀬の石の間に潜っていた。海岸に干してあるスルメイカを失敬し足の部分を海中に入れると、すぐ寄って来て食らい付き、銜(くわ)えたら口から離さないため、そのままイカの足を持ち上げるだけで簡単に捕れた。
ゼ分たちで捕った魚を海岸で火で調理し試食
1)海の傍の岩を利用してで火を起したから火事の心配はなかった。
2)そこで魚を焼いて食べた。
3)気の利いた子は、家から鍋を持って来て煮た。
4)醤油や味噌など調味料は不要、目の前のきれいな海水で煮たり焼いたりして味付けできる。
潜り競争
1)潜りの長さを競った。
2)海に入って陸と並行に潜って進み、その距離を競う。個人対抗もあり、グループ対抗もあった。
3)陸と並行に潜って進むことによって、沖の方へ出て行くのとは違って安全性が高いだけでなく、どちらが長いか客観的にわかる。
А屬茲Δ亮臓彭緩い之發噌腓い瓦辰
1)湊の隣りの原黒や住吉の海岸に生えている直径2cmくらいの細い竹を採って来て、「ようの実」鉄砲を作った。
 a.作り方・使い方
 ァ.」竹の節のない部分を15兪宛紊猟垢気棒擇蝓⊆,砲修療の中に丁度入る芯棒(竹を利用)を作る。
 ィ.最初にようの実を一つ押し込む。
 ゥ.芯を抜いて、別の実を入れ真ん中あたり までゆっくり入れる、
 ェ.一気に芯を押し込むと、パァーンという音と同時に実が飛び出す。
 b.当たっても痛くない。但し、「顔に向けてはいけない」。
2)湊の海岸の岩陰などに隠れながら、撃ち合いっこして遊んだ。
夏休みは、宿題もろくにせず昼飯時に家に帰るだけで、一日中海で遊んだ。
(2)加茂湖
仝佝覆妊魯篠爐蝓
1)湖底の小石に張り付いているのが、湖水を通して見える。
2)コンクリートの湖岸にフナムシ(船虫)がたくさん居る。それが餌。
3)釣り糸をハゼの目の前に垂らすとパクっと喰いつく。すかさず釣り上げる。
4)湊のもんは〔夷もそうだが〕ハゼなんか食わん。新潟のもんが、ハゼは佐渡んもんは食わんことにたまげながら、これ幸いとばかり たくさん釣って喜んで持って帰っていった。
◆屬討鵑押廖杢ァ未い〕で漕ぐ舟〕の舟遊び
1)加茂湖遊覧は、江戸時代からあった。
 a.1841年佐渡奉行川路聖謨は、佐渡在勤日記に記している。3月12日「御蔵・御番所を見て回り、加茂湖を船で巡覧。いつもは、ここに網引かせ、漁師に鴨など捕らせて見たとのこと。湖水の中央まで乗り、引き帰らせた」
  (08年02月26日号「佐渡を記した人23:川路聖謨(6)佐渡巡見 廖
 b.明治の文豪尾崎紅葉来島の時は、たまたま強風で湖水の波が高く中止。紅葉の『煙霞療養』より。
 .「加茂湖は古名を越の湖(うみ)と称(とな)へて、周囲四里廿三町、十個村その水をめぐって、南北に長く、東西に窄(すぼま)りて凹凸(おうとつ)し、大佐渡の諸嶺(しょれい)その鑑中(かんちゅう)に入りて、春秋の容(かたち)を粧(よそお)い、朝暮(ちょうぼ)の雲を洗ふのである」

 「金北の山の聳(そび)えたるよりなお目を驚(おどろか)して、ここに漫々(まんまん)たる水の一望の外に溢(あふ)るる碧(みどり)を畳(たた)みて、逢山方得地。見月始知天とも謂(い)わば謂うべき大いなる者を得たる、是(これ)一奇(いっき)」

 「この湖の如きは佐渡一国の面目(めんぼく)であって、又いやしくも北陸の勝(しょう)たるべき者なる」

 翌日10日も、風強く舟遊はまた見合わせとなる。
  (06年10月19日号「尾崎紅葉と佐渡(2)両津」)
 c.大正期に女性ガイド付きの発動機遊覧船があった。
 湊6
  上は大正10年(1921)頃の写真。焼玉エンジンといわれたいわゆるセミディーゼルエンジン 頭部をバーナーで焼き始動する発動機船は当時の花型 大正モダンガールの柄の長い日傘、遠くに椎崎の森が見える(『佐渡の百年』)
 当時、日本は第一次世界大戦(1914〜1918)景気に湧いた。〔主戦場は欧州。日本は日英同盟を口実に参戦勝利。中国山東省のドイツ権益継承〕。その後1923年関東大震災、1929年ニューヨーク発金融恐慌(ウォール街株価大暴落)が起こり、日中戦争、太平洋戦争、第二次世界大戦 そして敗戦。
 d.遊覧船は途絶え、1990年前後バブルの一時期チャーター船はあったが、現在営業用はない。
 下は「てんげ」に乗った舟遊び写真(北氏提供:多分1955・6年頃)
湊2  

1)湊の加茂湖側は、船小屋が多くあり私設の桟橋も作られた。無届で加茂湖の造成もし、スルメやカタセなどの干し場とした。
湊1
 加茂湖岸壁イワシ〔鰯〕水揚げ)(写真:北氏提供)
2)加茂湖側は漁船の発着・魚の水揚げ・魚の網解〔ほど〕き・網の整理乾燥・魚の加工・魚の天日乾燥の場で、大人の重要な仕事場であった。
 【加茂湖側は、海側に比べ子どもが遊べるような〔≒悪い事もできるような〕場はない。多分、大人が子どもたちが居るのを見たら疑いの目で見、「何しに来た!」と問うたかもしれない】
3)その他特記事項:海岸干しと湖岸干しでは、スルメやカタセの味が異なる。
 a.湖岸の方が味が良い。
 b.理由は、湖岸の方が乾燥がよく効いているから〔そういえば、湖岸は西側で西日が強い〕。潮風に当たらないこともあるかもしれない。
 (3)街中
 崢廟廖
1)遊び方
a.チームを 追いかける方・逃げる方の2組に分ける。
b.お宮さん(湊の場合、八幡若宮社)集合場所とし、行動範囲を決める。例:縦は吉郎兵衛小路、横は本町通り加茂湖側。
c.「用意ドン」で 追いかける方は100まで数える。逃げる方はその間いろいろな所へ隠れる。
d.追いかける方は、見つけるだけでなく捕まえる。捕まった者は、お宮さんの所へ連れられ、そこでじっとしている。
e.全員捕まると、立場が入れ替わる。
2)逃げ方の要領
a.本町通りは、遮る物がなく見通しよく遠くまで筒抜け。
b.逃げ道がない場合、要領の良い者は知らない家でも、「通して下さい」と行って家の中の通路を通り抜けて逃れる。それが言えない者は捕まる。
3)湊の家の構造
a.本町通りを中心に加茂湖側の家の通路は向かって左側、海側の家は向かって右側にある。従って、本町通りで向かい合った家は、それぞれの家の裏から裏まで一直線。
b.造り
 ァ.玄関ー土間ー「おえ」(お家:客間)ー居間ー座敷ー「つぼのち」(坪の内:中庭)・台所−土蔵・蔵
 ィ.上記は各家皆同じ。
 ゥ.「つぼのち」(中庭)には、必ず池を造った。石を組み、築山を築いた。この池があるから、湊は夷と違って大火がなかったとされる。
        《参考》夷町大火

 1928年(昭和3)10月18日:焼失戸数556戸、死者1名、負傷者20名。夷新町の上手から出火、夜9時半頃火の手が上がり、8時間燃え続け夷全町を焼く。
 1947年(昭和22)4月17日:焼失家屋438戸。 
 1955年(昭和30)8月2日福浦大火:焼失家屋87戸。
  【夷旭町時代、同築地時代は、造りは湊と変わらないが、中庭あっても池はなかった】
 【比較:夷の「追跡」
  逃げる方は、逃げた方向が分かるようにその都度チョークなどで矢印を書き、追いかける方はそれを目当てに追いかける。矢印は、電信柱に書いたり、捨ててあった板などに書いて裏返して置いたり、地面に書いたりした】
縁台将棋
1)夏は至る所、涼みがてら縁台将棋が盛んに行われた。
2)上級生がやっているのを見て、自然に覚えて行った。小学低学年で将棋ができた。
4甼颪僚作り
1)小学校の工作の時間に舟作りをした。
2)玩具屋にいろいろな大きさのプロペラ(スクリュー)が展示してあった。
3)一杯にゴムを巻いて絞って、一斉に進水させ、速度と航行距離を競い合った。
づ澆陵靴
1)スケート
 a.本町通りで滑った。
 b.夜は、車も人も通らないからスケートに絶好だった。
 c.トラックやバスの後ろに捕まって遊んだが、それがが見つかり怒られたことがよくあった。
2)竹スキー・ソリ
 a.本町通りから加茂湖側の若宮通りへは下り坂になっていて、それを利用して竹スキーやソリで遊んだ。
 b.よく使った小路は、大上(おおかみ)小路・大屋小路・吉郎兵衛小路小路の3つであった。
3)加茂湖寄りの若宮通りは、両津湾寄りの本町通りに比べ、〔北東の〕沖からの強烈な潮風を受けてないせいか暖かく雪はあってもビチャビチャでスケートは勿論、スキーにも適さなかった。
(4)原黒果樹園
1)時季になると果樹園の多い原黒へ10人前後して果物を採りに行った。
 梨、柿、トウガキ(イチジク)など。
2)中学時代は、部活で近くで合宿した時トマトを失敬。水の出るところへ持っていき冷やしておいて食べた。先生も暗黙の了解、自らも食べた。
3)ある時、果樹園のオーナーが、見るに見かねて大きなシェパード犬を見張り用として飼って果樹園に置いた。
 シェパードは今もそうだが当時としては、非常に高価で買える人は滅多にいない。
 今日でも、番犬・警察犬・麻薬探知犬・軍用犬・災害救助犬として活躍。
 それからというもの犬に恐れをなし、果樹園には行かなくなった。
4)一方、ヨモギやワラビ・ゼンマイ・ウドなどを採りに農村へ行かなかった〔夷のように〕。
 a.湊のもんは、「葉っぱ」・草類は人が食べるようなものでないという意識があったらしい。人は米と魚と果実ということか。
 b.茶粥について(湊は昔から朝食は茶粥の習慣。夷よりも強い)、確認のため問うと 茶粥は今も変わりないようだ。参考まで私が佐渡で泊まる時は、正月に限らず茶粥餅を食べると情報提供。湊のもんからすると特に驚くような事ではなかった。

3.まとめ
[渉纏劼匹發陵靴咫崢廟廖廖柄扱如α姐罅砲妨る夷と湊の遊びの共通点と相違点
 【「追跡」は、鬼ごっこ・かくれんぼの一種。「鬼ごっこ」の基本型は、「鬼」とその他に多数の「子」がいて(最初ジャンケンで決める) 「鬼」はスタート直前目隠しされ一定数(10又は100)を数える間に 「子」は決められた範囲(例:お寺の境内)の或る場所に隠れ、鬼に見つからないないようにする遊び。「追跡」も、隠れた子を次々見つけ捕らえるもの】
1)「追跡」は、鬼ごっこ・かくれんぼの一種であるが、「鬼ごっこ・鬼遊び37種類まとめ」サイトの各詳細を調べても、「追跡」と似たものは見当たらなかった。場合によっては、全国的に類を見ない夷・湊の固有の遊びもかもしれない。
 a.夷と湊の「追跡」は、2グループ(いわば「鬼組」と「子組」)に分かれて行い、鬼が一人で残りは子であるのと異なる。もっとも、「鬼ごっこ」と言っても 鬼と子が入れ替わったり、鬼がどんどん増え続けて鬼だけとなったところで遊びは一段落したり、パターンはいろいろある。
 b.夷・湊共通の「追跡」は、普通の「鬼ごっこ・かくれんぼ」と違って逃げ隠れの範囲が、自分の町内全域とか隣も含むとか 広いことにある。町内といっても小路や空地や倉庫・空き家があり、隠れ場所は多くある。
 だから、一人の鬼でなく(これだと一人探す範囲が広すぎる)、グループが担う。
 従って、スケールが大きく、参加する子どもの年齢も幅広く多く動員し、遊べ楽しめる。
2)夷と湊の「追跡」の相違点(といっても全てを知り通じているはずないが)
 a.夷はチョークを使う。逃げる「子」が角にさしかかった時、真っ直ぐか右か左か決めたら どこかに印をし居た場所を暗に示すルールがあったと思う。そうでないと、見つけようとする「鬼」はどこへ行けばよいか皆目見当つかず面白くない。逃げる「子」は、教えたことが鬼に場所を嗅ぎつかれ一網打尽にされるかもしれないというスリル感がある。【鬼の「もーいいかい」に対し、子はまず「まーだだよ」と言い、隠れる所が見つかって隠れたら「もーいーよ」と言うことと同じ】
 b.湊は、目印を暗示するチョークは使わない。湊の場合、見つけるだけでなく捕まえることが必要だから、たとえ見つかっても逃げればよいから希望がある。見方によっては、
 ア、湊の「追跡」の方が夷より力づく・要領・機重視でダイナミック
 イ、夷は、湊より決断力・察知力重視でスマート
と解釈できる。
  参考:『佐渡四民風俗』記事(編集:佐渡奉行所。1840年追加)
 a.「夷、湊両町は高40石余宛にて皆畑の所に候へば、百姓の業は纔〔わずか〕ながら繁昌の勝地に候事は、海猟多き上に又潟池〔加茂湖〕猟有之。相川表迄魚鳥売り出し候体、其上国仲村々より前浜筋、内海府方への通路に候へば、万の商物捌け宜敷故に候。但此所碇掛り宜敷湊にては無之候へ共、荒磯に無御座候故、中春より中秋頃迄は、越後船地船の往来不絶売買多く依之20、30年以前とは格別有徳の者も出来候由、此所造酒等も味宜敷方に候。或は近郷の塩焼共え仕入を致し、塩商も多く有之候。鍛冶細工も当所は優れ、包丁を打 煙管〔きせる〕を張り、印を彫り、又は漁猟の釘鉄を仕出し、或は原黒村辺にて作り候茶の新葉を取、湊町より売出し候、是は他国中品の茶に不劣程に御座候」
 b.「夷町、湊町は橋を隔て候迄にて人心格別夷は宜敷、湊は野卑体に有之由申触し候」
⇒靴咾蓮⊂綉蘋犬ら見よう見まねで学び、一緒に遊んで見守られ 認めてもらって上達・成長した。
1)新潟県長岡市出身・連合艦隊司令長官 山本五十六(1884〜1943)の言葉。
  やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。
  話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。
  やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。
2)上級生は、遊びでは下級生への面倒見がよかった。

 以上 2017.07.21



歴史スポット67:1950年代両津子どもの遊び(04)山田昭夫氏語る

 こんにちは!自在業の櫻井です。
  6月7日(水)午後夷神明町の「再会」で山田昭夫氏にお会いし、子どもの頃の遊びについて話をお聞きした。
1.はじめに
 5〜6年前氏から佐渡の自宅に手紙が送られてきた。拝見したのは、佐渡へ帰ったときであった。
 内容は、「前略 いつも隣の再会で『佐渡広場』を楽しんで読んでいます。諏方神社について参考まで別紙送ります」「次々と発行されますよう楽しみにしています」として資料が同封されていた。
 「再会」の隣りというから、私が築地時代住んでいた家から歩いて1〜2分の距離。知っていて当然のはずだが、神明町という隣の町内であったためか「山田」という苗字は思い当たらなかった。遅ればせながら、お礼の電話は差し上げた。
 その後3年頃前の正月初め渡辺和弘氏と「再会」で話をしていた時入って来られた。お互い馴染みの間柄だったようで親しく挨拶を交わし、紹介いただいた。
 見覚えなかったが氏は覚えている様子で 古稀に間近な私を見て、「えらくなったものだ」と言われた。
 昨年末頃は渡辺氏から 「夷を語る」会が結成され「佐渡人名録」サイトにその内容が掲載されていること聞き、拝見。メンバーに氏の名があった。それぞれ貴重な話がされていて、非常にためになった。そういう事から、氏に是非遊びの話をお聴きしたかった。
 取材に際し、誕生年をお聞きすると昭和11年とのこと。私と丁度10歳違う。それでは一緒に遊ぶことはなかっただろうし、名前を覚えてないのも無理からぬことで、内心安堵。

2.遊び
.好院璽
1)長靴の下に金具(スケートのブレード)をゴムバンドで張って取り付けた。金下駄(かなげた)と違って高さがあるためバランスをとるのが難しく、慣れない頃は歩くのさえ大変だった。
 金下駄は、足駄(あしだ)に付いている前後二本の歯を外し、ブレードをつけた。確かブレードの左右には薄い金属板が付き、ネジで固定。
2)スケートは高価であったから、お金のない子は出来なかった。
3)本町通りの斉藤薬局のある辺りは、砂利道でなくアスファルトであったから滑りやすかった。
 a.これは、私も経験あるがスケートを履いたままでトラックの後ろの荷台につかまりそのまま走って行った。なお、バスがバス停に止まった時に後ろのバンバーにつかり滑って行く者もいた。
 b.夜はツルツルに凍る時があった。商店街であったから夜8時頃までは明るく、車の通行も昼間ほどでなく、スケートする人が多く集まり、それが更に路面を凍らせ恰好のスケートリンクとなった。車道を通るのにスケートでなければ、歩いてはかえって滑って危ないことを実感した記憶がある。
竹スキー
1)ほとんど自分で作った。
2)一定寸法の長さの竹の一方の端近く(先頭部分)の裏側を削って薄くし、火に炙(あぶ)って直角近くまで曲げた。
3)竹スキーは、硬い雪や氷でなくやわらかい雪の上。従って、本町通りでなくツルヤの坂や裏通りが適している。
そり(橇)
1)そりは、本来は雪道の人力による荷物運搬用具で、子どもの冬の遊び道具ではない。それを大きさに応じて1人用、2人用、3〜4人用と遊びとして開発したのは、他ならぬ子どもたち。
2)金具のついたソリは余り無かったが、滑りがよかった。竹を付いた手作りのソリもあった。それらは荷物運びが主で遊び用具でなかった。
3)遊んだところはツルヤの坂とか、本間牛乳の坂。他には中野の坂とか、電話局のすぐ向こうの登ると三辻さんの家のある所からも滑って来た。たまにタクシーやトラックが通るくらいで車はなかったと同然。ソリでいろいろ所へ行ってみたが、急でない坂は面白くなかった。
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1)回っている相手の駒を真上からやっつける「てっぺん」という技術があった。
2)大勢が同時にコマを回し、だれの駒が一番最後まで回っているか、「息の長さ」を競った。個人戦は勿論、団体戦もあったかもしれない。
 〔書き込み中思い当たったが、「息の長さ」を競うやり方・技術として、確かコマを回した紐で自分のコマを高速回転している芯棒(木製より鉄製が多かった)に軽く触れながら移動させ、相手のコマと接触させ、相手のコマの回転をl急速に弱め、早く倒したりした〕
3)コマはツルヤの他に城の腰の小川屋に売っていた。
 《参考》コマ(独楽):ウィキペディア
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 a.コマは世界各地でみられる。極めて古い歴史を持つ。
  ァ.エジプトでは紀元前1500年ごろの独楽が発見。木製で円柱の下を逆円錐に削ったもので、ぶちゴマ〔叩きゴマとも言い、独楽の胴体の側面を、鞭のようなもので叩いて回すもの〕と考えられる。
  ィ.古代ギリシャにもぶちゴマやひねりゴマに関する記述が見られる。

  ゥ.ヨーロッパでは17世紀頃から投げゴマに関する記述や絵が見られるようになる。
  ェ.19世紀末からは、工業の機械化や加工技術の進歩によって、より複雑な独楽が工夫されるようになった。コマの性質を工学的に応用したジャイロスコープ〔物体の角度(姿勢)・角速度・角加速度を検出する装置で船や航空機やロケットの自律航法に使用〕もこの頃実用化。

 b.日本のコマの歴史
  ァ.6世紀頃ぶちゴマのような出土品。平城京跡や奈良県藤原宮跡などから7〜10世紀頃と思われる独楽、または独楽型の木製品出土。

  ィ.日本でも江戸時代に「独楽が大進歩」。博多では精密で長く良く回る独楽が作られた。博多ゴマと呼ばれ、現在まで伝わる曲芸ゴマの始まりとなった。

  ゥ.江戸の子供たちは巻貝を加工した小さな独楽の回しっこをしていたことが伝えられており、これが明治中期に金属となって現在のベーゴマになった。
  「ベーゴマも当初はぶちゴマであったらしいが、次第により強く回せる投げゴマに変化」。ぶちゴマは江戸中期に次第に投げゴマに取って代わられ、昭和後期には皆無に近く、投げゴマが日本では独楽の標準となった。この形の独楽は永く残り、昭和末まではどこの駄菓子屋にも置いてあった。

  ェ.昭和末期より投げゴマはすたれ始める。
  顱望学生は1981年(昭和56)1192万4653人をピークに減少。
  髻1983年(昭和58年)に任天堂より発売されたファミコンを初めとする家庭用ゲーム機がバブル期にかけ広く普及。
  鵝縫丱屮觀糞い砲茲辰読堝飴魂然覆上昇し、子供が遊んでいた空き地が減った。
  堯紡眠杙匆阿妊灰泙山をなした風景は現在では見られず、機械式の回転装置をもつ室内遊戯のコマに代わった。 
  c.現代のコマの話題
  ァ.1999年「ベイブレード」(カラ/タカラトミーから発売されている現代
版ベーゴマ)が出て子供の間でブームになった。投げゴマでない。室内玩具で、「ベイブレードで外で遊ぶ子はほとんどいません(ヤフー知恵袋)」

  ヵ.2011年から全国の中小製造業が自社の誇りを賭けて作成したコマを持ち寄り、一対一で戦うコマ大戦が行われ、2012年2月2日には、横浜みなとみらい21地区「テクニカルショウヨコハマ2012」にて、第一回全国大会G1が開催。優勝したコマは、(株)由紀精密のコマで、レプリカモデルが販売。コマ大戦にて使用されるケンカゴマは直径20mm以下、一円玉より小さいコマで、その小さなコマを製造業が設計し、切削機や旋盤などのプロの機械を用いて自社の持てる技術を全て注ぎ込み作成。
 競いコマ:「曲芸ゴマ」「賭けゴマ」は略。
 1)回転する時間を競う

   同時に回して、早く倒れた方が負け、〔最後に残った方が勝ち〕といったものである。
 2)ぶつけ合う
   土俵を決めてそこで回転させ、互いのコマをぶつけてはじかれたら負け、といったもの。
 3)技を競う
  a.投げゴマの技
   特定の場所を決めて投げる、いったん遠くへ投げつけておいて手元に引き寄せる、自分の手のひらの上に投げる、綱渡りなど。
  b.空中ゴマの技
   投げ上げる、他人との間で投げ合う、綱渡り、紐昇りなど。
 (参考は、以上) 
ス眥靴
 皆で足作って棒立てて高跳びし、誰がどれだけ跳んだ競った。
拾い物
1)両津橋の下や橋本座(映画館や劇場であった)の加茂湖側に鍋などが捨ててあったので広い集めて小遣いにした。
2)当時は、今日のように環境規制がなく不要なものはどこでも捨てた。〔要確認だが、魚の不要な腸(はらわた)などは、昭和30年代までは加茂湖に捨てていたとか。あるいは、自然に特定の場所が「捨て場」となっていたかもしれない〕
Р談亳个任陵靴
1)ハゼ、チンデー(「チンダイ」:イシダイ(若魚は「シマダイ」)、「カタベ」ともいう)釣り。
 ヤスでも突いた。
2)アサリ採り
 a.小学高学年〜中学の頃(昭和25年)
 b.採ると買いに来る者がいた。
3)海水浴:吉田屋ホテルから花月ホテルまで湖畔は砂利と砂であった。
築港での遊び
1)サザエ・アワビ採り
 a.7〜8人で採りに出掛けた。
 b.それぞれが採ったものをバケツに入れた。
 c.たくさん採った者、少ししか採れなかった者いろいろだが、それを小さい物から順に並べた。
 d.ジャンケンで取る順番を決め、勝った者から先に取っていった。ジャンケンに勝った先の者が、最初小さなサザエやアワビを手にしていくが、最終的には得するようになっているとのこと。
 【誰一人 仲間外れにはせず全員が参画し、必ずしも実力主事でなく 公正なルールの下 公平に競う合って遊びを楽しむ】
2)水泳と潜水
 a.子どもが大勢して海で泳いだり潜ったりしたが、親が心配して見に来ることはなかった。
 b.暗黙の中でガキ大将が、責任を持った。
 c.何か起これば、少しのことでもすぐに町中伝わるのだが、事故は全くなかった。
ヘタでの築港〔防砂提〕での遊び
1)水泳、潜水
2)べコタコへのいたずら、ランベイとり
3)魚貝捕り
   小さいウニがたくさんいた。
昔の佐渡汽船の埠頭での遊び:竹の輪を利用したかくれんぼ
1)昭和25〜6年頃北海道向けの口径の広い大きな竹の輪が束ねて佐渡汽船の岸壁にそれぞれ積み上げてあった。
 【追記07.19: 「佐渡国中方言集」サイト「てんぎり」より

 櫓で漕ぐ舟の総称(たらいぷねも含む)。
 〔佐和田では昭和30年代まで北海道船と言う大きな舟が来て、竹製品、特に鰯等で肥料を作るための大樽のたがに使う割いた竹の半製品を買いに来たが、港の桟橋に着けず、『てんきり』で運んだとの事] 】
2)高さは、小学後半か中学1の子どもくらいで、いくつかの竹の輪の一つに隠れ見つからないよう移ったりして遊んだ。
農村へ行っての遊び:植物採集
1)例
 a.ヨモギ:草餅用
 b.笹:笹団子用。笹でくるんだ草餅の中に餡が入っている。
 c.ワラビ
 d.ゼンマイ
 e.ウド
2)近所の仲間4〜5人で、川内〔外城橋の西側〕や加茂〔外城橋の東側〕へ採りに行った。

3.まとめ
ゞ畚蠅了劼匹睛靴喀乎弔離汽競─Ε▲錺唳里蠅諒け前・分配のやり方について大変勉強になった。
1)子ども集団といっても上級生も下級生もいて、同級生にも泳ぎ上手と泳ぎ下手、潜り上手と潜り下手等いろいろいて、収穫も多い者・少ない者いて当然。
2)分配は成果に応じて差をつける当9然だが(例:成果ゼロの者はゼロ)、これを実力でなくジャンケンで決め誰もが分け前に与れる仕組みになっている。
 a.「結果的には、やってもやらなくても収入同じ=貢献した者がバカをみる」平等を説く共産原理(旧ソ連憲法に「働かざる者は食うべからず」の条文あり、各国共産党綱領の規範となった)、
 b.「働かざる者は食うべからず」とまでは標榜しないがいわば弱肉強食の市場原理
とも異なる。
 ◆屮灰沺∋劼匹發陵靴咫廚鮓〆していたら、フランスの作曲家ビゼーの『子供の遊び』が出て来た。私事だが、これはクラシック音楽との出合い人生の中で大きな出来事に数えられるかもしれない。
1)まさかビゼーに、この曲があたったとは知らなかった。ドイツのシューマンの『子供の情景』、フランスのドビュッシーの『子供の領分』、イタリアのレスピーギの『ローマの松』「第1部 ボルゲーゼ荘の松」(作曲者自身による説明:「ボルゲーゼ荘の松の木立の間で子供たちが遊んでいる。彼らは輪になって踊り、兵隊遊びをして行進したり戦争している」)ならわかる。
 20世紀旧ソ連のショスタコービッチ『交響曲第15番第1楽章』については「01」号に記述。なお、チャイコフスキーの『クルミ割り人形』を調べたが、遊びと関係なかった。
2)曲の『遊び』内容(後掲)をみると、フランスのしかも1800年代の遊びでありながら 1950年代の両津(当然日本も)の子どもの遊びと何ら変わらない。
  参考:ビゼーの『子供の遊び』(ウィキペディア)
 ジョルジュ・ビゼーが作曲したピアノ連弾のための曲集、および管弦楽組曲である。管弦楽版の題名は小組曲『子供の遊び』である。

 1871年にピアノ連弾のための曲集として作曲された。翌1872年、ビゼーは全12曲のうちから5曲を選んで管弦楽のために編曲し、「小組曲」とした。「小組曲」は1873年の3月2日にパリのオデオン座でエドゥアール・コロンヌの指揮によって初演された。

 元々は全10曲の予定であったが、後に第7曲「シャボン玉(ロンディーノ)」、第8曲「隅取り鬼ごっこ(スケッチ)」が追加された形で、現在の全12曲からなる曲集として出版された。ビゼー自身、「隅取り鬼ごっこ」を一時は終曲にと考えたことがあり、また、同曲を管弦楽版の終曲にと管弦楽編曲も行ったことがあったが、作曲者自身は最終的には同曲を現在の第8番にし、管弦楽版「小組曲」に入れることも見送った。

編曲に際して曲順も入れ替わっており、順に元の第6曲、第3曲、第2曲、第11曲、第12曲となっている。
   ピアノ連弾:全12曲
 1ぶらんこ(夢想)
 2こま(即興曲)
 3お人形(子守歌)
 4回転木馬(スケルツォ)
 5羽根つき(幻想曲)
 6ラッパと太鼓(行進曲)
 7シャボン玉(ロンディーノ)
 8陣取り鬼ごっこ(スケッチ)
 9目かくし鬼ごっこ(夜想曲)
10馬とび(奇想曲)
11小さな旦那様、小さな奥様(二重奏)
12舞踏会(ギャロップ)
   管弦楽版(小組曲):全5曲
 1ラッパと太鼓(行進曲)
 2お人形(子守歌)
 3こま(即興曲)
 4小さな旦那様、小さな奥様(二重奏)
 5舞踏会(ギャロップ)
3)何故こうも同じか?究明すると面白い結論ー場合によっては大発見ーが出てくるかもしれない。
M靴咾詫靴咾忙澆泙蕕、物の活用、資源再活用、理論構築・技術開発が含まれていた。
1)ソリは雪上運搬車。使ってないときは、子どもの遊び用具になる。大きな竹の輪の束は商品として船に積まれるまで埠頭に置かれ、かくれんぼの遊びに利用もされる。それによって別に傷が付くわけでなく、品質が落ちるわけでもない。
2)海岸などに古鉄や鍋などが捨てられている。これを子どもが拾い集め業者に引き取ってもらう。野に生えるヨモギやゼンマイなども子どもが採って、人の役に立てている。
3)サイコロ遊びから確率論やゲームの理論が生まれた。コマ遊びからジャイロスコープが生まれ、ロケットや航空機や水中翼船ジェットフォイルの自律航法に役立っている。
 以上 2017 07 17

歴史スポット66:1950年代両津子どもの遊び(03)渡辺和弘氏語る

 こんにちは!自在業の櫻井です。
 「子どもの遊び」についての取材2回目。
1.はじめに
 6月7日(水)新潟から朝6時のフェリーで両津に渡り、事前申し合せの通り渡辺和弘氏が車で迎えに出ていて、喫茶店「再会」へ直行、いろいろ話をお聞きした。
 氏は夷出身、私より1つ若い昭和22年生まれで、ウェブで「佐渡人名録」を開けばわかる通り 佐渡の民謡・風俗・歴史、佐渡人及び佐渡と関係ある著名人など広範囲に編集し(現在も編集中)、過去だけでなく現在との繋がりも知る。今回のテーマ「子どもの遊び」について 氏を外せないのは当然。

2.内容
(1)遊び場関連
^按は、戦後できた。
1)正月2日に会ったとき、旭町はいつから出来たか問題にしていた。
2)歯医者さんで両津町長を一期務めた松瀬教五郎の時で、「松瀬町」にする話があった。
 (なお、「旭町」の名は、私の父の案によるものと、小さい時父から聞いたことがあった。朝日のように輝き栄えるという願いと、当時は築港はなかったから両津湾の遥かかなたに水平線が見渡せ、朝日が昇るのが見えた。今日では既に、かっての築港は岸壁が高くなり且つ長く繋がり、更に一部は沖へ造成されて視界が遮られ、水平線は見れないはずだ〔前号の画像参照〕)
 参考:松瀬教五郎について
 a.『佐渡名鑑』(高尾次郎 昭和13年刊)より。
 明治22年両津町生まれ。県立佐渡中学校卒業 東京歯科医学校に入学 資格を得両津町に松瀬歯科医院を開設 昭和6年県会議員に推され佐渡」選出県議として活躍をはじめ両津町議両津消防組織両津信用組合会長海洋少年団長等に就任 両津町に於ける中軸人士の第一人者。
 【注;昭和13年の刊故、まだ町長経歴は触れられてない】
 b.「佐渡雑楽69:昭和天皇と朱鷺と両津高校(5)」(渡辺和弘/著)サイトより
  戦前の佐渡には7つの旧制中等学校ー佐渡中学・相川中学・佐渡農学校・羽茂農学校・佐渡女学校・河原田女学校・相川女学校ーがあった。すべて佐渡の西側で東側になかった。「地元〔両津〕に中等学校を!」の声。松瀬町長、佐渡高等女学校教諭橋本喜一(劇場「橋本座」経営、後の初代両津高校校長、両津市長)、両津国民学校訓導岩原一雄の3人が中心となって新潟県へ高等女学校設立許可申請をした。
 だが、財務基盤弱体等の理由で却下。
 そこで彼らは、直接文部省へ直談判。この時高橋与平(東京御徒町で「吉池百貨店」等を経営する実業家)が、大きな役割を果たす。高橋の養嗣子〔ようしし:民法旧規定で家督相続人となる養子〕が岩原の実弟係吾、高橋は元教員で、教え子に当時の経済担当大臣石黒武重がおり、石黒は高橋を恩師としてずっと慕っていて、この石黒に仲立ちで急転直下、物事が進展。
築港(防波堤)
1)大正5年から昭和12年まで両津町町長を務めた土屋六右衛門の次女が建設省の役人と結婚。築港づくりは、大川の石で築いた。大川に石碑がある。(要確認。以下、同じ)
 参考:土屋六右衛門(資料:「佐渡人名録」サイト)
【生没】1868一1937 明治元年十二月十九日、夷町(現両津市夷)小池佐太郎と母このの次男として生まれ、同町土屋六右衛門(屋号俵屋)の養子となった。幼名辰之助・諱正利、明治三十八年(一九○五)家督を継いで、六右衛門を襲名し二六と号した。七歳の時若林玄益の門に入り、漢学を学んでいる。明治二十九年、養父の佐渡銀行創立の運動に加わり、同三十八年、後を継いで専務取締役となった。明治四十四年、佐渡で最初の佐渡水力電気株式会社を創設、大正二年(一九一三)、島民資本による佐渡商船株式会社を設立して社長に就任、越佐航路の改善に尽力した。大正八年所有船の遭難や戦後不況の影響で佐渡銀行の取付事件が起こったため、職を辞し、私財を投じて整理に充てた。政治家としては、国権党から民政党に移り、明治四十四年から三期県会議員に当選した。大正五年から五期二○年にわたって両津町長をつとめ、この間、両津港の築港加茂湖の埋立て、水産講習所の開設・水産加工品の改良、蠣〔牡蠣:カキ〕の養殖などに努めた。また、浜田地域に新市街地を開設したため、町民はここを「俵屋町」と呼んで、その恩恵を称えた。町長及び県会議員在任中の昭和十二年三月十七日、新潟で病没した。
【関連】佐渡銀行(さどぎんこう) 【参考文献】『両津町史』・若林万吉『二六土屋正利先生追懐録』 【執筆者】石瀬佳弘 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
 〔両津町長であった土屋六右衛門が亡くなったのは1937年、在職中島外旅先でのこと。この年夷海岸通に夷魚市場ができた。大正4年から始まった両津築港改修工事は22年かかって、同年10月完成した〕
2)『本間組80年史』(2015年刊)の年表によれば(当日取材後佐渡支店へ寄ってコピーをいただいた。前日問い合わせ済)、主な受注工事/土木として1947年(昭和22)「両津港修築工事(新潟県)」があり、当社関連事項として1948年(昭和23)06月01日両津出張所開設(後の佐渡支店):両津市夷旭町47」とある。
 a.体制には影響ないが、昭和23年に旭町に事務所開設というのがおかしい。
  ァ.旭町にあった我が家は昭和28・9年に築地へ引っ越し、その後すぐにではなかったが替わりに本間組事務所が出来た。
  ィ.氏の「佐渡雑楽」(前掲)の中に次の記事がある(ウェブ「佐渡人名録」参照)。
  顱法崗赦27年頃、大川集落で故郷の美しさと人情を歌に託したいという話が出たとき、本間組勤務の林さんが職場の上司に作詞を依頼。所長であった保科義夫さんは畑野の出身で、佐渡在住ながら西条八十に師事、歌謡曲の作詞家として知られ始めていた」
  髻法崑臉遒砲亘楷崛箸旅事現場があり、所長としても深い愛着があった」。沢根出身の高名な作曲家鎌多俊與とのコンビで『大川小唄』が作られた。
   a)「恋の坂々見返り峠旅のつばめも振り返る」「紅の架け橋朝日に映えて港繁盛の鎮守様」
   b)「現在集落を見下ろす「見返り峠」に大川小唄」の立派な案内板が立つ」
  鵝法嵋楷崛箸賄時わが家のはす向かい、私は保科さんから可愛がられたことを覚えている。父はよく、『あの人は偉い先生なんだ・・・』と話していた」  
 b.大正5年〔1916〕生まれの保科さんは、戦時中は海軍で活躍、戦後本間組に勤務。
  ァ.大川での発破事故で大怪我し足が不自由になった。これは取材時に初めて聞いた。保科さんについて、私も小さい時から知っていた。足が不自由で杖を付いて歩いていたが、非常に堂々としていて偉い人という印象があった。娘さんは、小1年から6年まで私と同じクラス。中1の途中で転校。もしかしたら、中1の時も同じクラスだったかもしれない。
  ィ.両津港修築工事(築港工事を含むだろう)には、大川の岩石が必要であった。
  なお、旭町の海岸道路の傍に大きな殉職者慰霊碑が、旧魚市場と両津漁港防波堤に向かって建っている。
 それは、5月27日梶井照雄氏の取材時に供養塔が旭町の浜側 前魚市場の所にあると聞いたもので 終わった後、現地へ行き写真に収めた(下の2画像)。文字ははっきり読めない部分あるが、両津漁港修繕工事竣功 昭和34年 本間組とあり、裏面に殉職者9人の名が彫られていた。
DSC09749DSC09744                              
  後日、山田昭夫氏にその事を話すと、片野尾の採石現場で土砂崩れ事故があったとのこと。
 昭和34年竣功は、中1の時。子どもにとって海だったところに道路や魚市場が出来たことよりも、2〜3年は建物が建たない広場(画像では見れない)が出来て遊び場となったことは大きい。築地からは海岸通りの広場へは10分足らずで、町内間の対抗野球などして遊んだ。
(2)遊び 
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1)竹とんぼは、竹さえあれば小刀1本でできるとあるが、作った記憶はない。そんな教科があったかもしれないという話だが、小学校の工作の時間に作ったかもしれない。
2)原理としては、竹のプロペラと竹ひごを心棒として取り付けたもので、心棒を両手の手のひらでこすり合せるように回転させ、プロペラの揚力で空へ飛ばす。競うのであれば、飛距離や滞空時間がある。
3)古くは奈良時代後半頃の長屋王邸跡から類似の木製品が出土、平安時代や鎌倉時代の遺跡数からの出土例もある。
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1)1本の紐の両端を結んで輪にし、主に両手の指に紐を引っ掛けたり外したりしながら、特定の物の形に見えるようにする遊び。
2)日本には一人でと二人で行うものがあるが
、世界には多人数で行うもの、紐をくわえたり手首や足も使うものがある。あやとりは、全世界に存在。
3)2人で交互に行うあやとりは、対戦形式で行われ、一人がまず両手の間で簡単な型を作ると、次の人はその型から両手でいくつかの糸を取り、相手の手から外して自分の手の中で張ってみせる。この時形が崩れたりほどけてしまったら負け。
「馬」「跳び馬」:名称は「長馬」「胴長」「馬乗り」等全国いろいろ、ルールもいろいろ。
1)馬チームと馬跳びチームに分かれる。(一般には、ジャンケンで勝ったチームが「馬跳び」、負けたチームが「馬」になる。一般に4,5人ずつがよいとされる。
2)広場の傍らの寄りかかれる太い木か柱か壁で行う。
3)馬側の1人がそれを背に広場に向って立つ。「馬の首」となる。
4)一番目の馬が、その立ってる子の股に首を突っ込んで下を向いて踏ん張る。立ってる子の足を両手でしっかり抱えると安定する。
5)二番目の馬は一番目の馬の尻の後ろから首を突っ込んで、同じく前の馬の足を抱えて踏ん張る。
6)以降、同じ。こうやって馬の首以外はすべて馬になる。
7)馬の首が、馬の状況を見て、「いいぞう!」と宣言。
8)馬跳びチームの子は、馬の最後尾側から小走りに走って、跳び箱のように跳んで1回だけ馬の背中に両手をつき、「馬の首」に向かってポーンと乗る。できるだけ「馬の首」のそばまで跳んで、次に跳ぶ子のスペースを確保する。
9)「馬」、特に最後尾は左右に揺れたりして「馬跳び」が乗りにくいようにした。
10)「馬跳び」が失敗して馬から落ちたら「馬跳び」の負け。跳び乗られて誰かの馬がつぶれれば「馬」の負け。全員が跳び乗り、馬もつぶれたりしなければ、「馬の首」と最後の「馬跳び」がジャンケンする。勝った側が次にどちらになるか選ぶ。一般には勝てば「馬跳び」。
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1)全国的に行われていた。大きさもいろいろあった。絵柄は人気のスポーツ選手や漫画のヒーロー。
2)大きく二つの方法。 
 a.みかん箱等の上にベニヤ板などを乗せ、平台の上で行う。
  ァ.板の上にある相手のパンを下に突き落とす、又はひっくり返すと勝ち。
  ィ. パンの端を少し折り曲げたり、唾をつけて固めたりした。
  ゥ. インチキな方法に「手スリ」があった。自分のパンを斜めから打ち付けながら相手のパンをわからないようにはねのけるやり方。
 b.地面の上で行い、自分のパンを打つ時に起こした風力で相手のパンをひっくり返す。  
  ァ.湊辺りから遠征して来る者もいて、そんな人を「ショーベー〔商売〕」と言った。勝つだけ勝って短時間に帰る人を「勝ち逃げ」と言った。
  ィ.上級生が中に入るとと荒されるので、嫌だったが「おそげー(恐ろしい)」から断れなかった。遠くからやってくるのを見て、一斉に逃げた。
3)インチキな方法とは違って誰が見てもわかるいわば公認の「油パン」があった。
 パンにエンジン油のようなものを付けると、重くなって扇がれても簡単にひっくり返らず、逆にそれで扇ぐとものすごい風を出せる。
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1)パンの小さいもの(直径2,5cm位)を使って遊ぶ。
2)10枚、20枚位のものが蝋でくっついて一個として売られていた。
3)遊び方は二種。共に親指と人差し指の間に挟んで、両指を強く閉じ反発力で突き飛ばす。
 a.線を引き、その内側から遠くに弾き飛ばして距離を競う。
 b.壁に向けて飛ばし、跳ね返り位置の遠いものが勝ちとなる。数人で行い順位をつけた。
子どもの稼ぎ
1)浜辺などで拾った金属部品・製品等の販売 
 a..旭町時代の経験では鉄製部品の欠片(かけら)や銅や真鍮〔しんちゅう〕などの非鉄屑が砂浜に打ち上げられ、あるいは砂の中に埋まっていたのを拾い集め、定期的に回ってくる業者に出して、目方を測ってもらい〔分銅を使った竿秤(さおばかり)か〕、指定された値段でお金をもらい引き取ってもらった。
 b.その業者というのは古金屋〔ふるがねや〕か鋳掛屋(いかけや)か、それとは別かは不詳。
  ァ.戦前から夷に古金屋はあった。昭和4年頃の両津の写真(『佐渡の百年』)に「古金屋商店」の看板あり。夷4ノ丁第四銀行の斜め向かい。「古金屋」は古くなったり壊れた鍋・釜などの金属製品の回収業。
  ィ.鋳掛屋も夷にあった。(要確認)

   鋳造された鍋、釜などの鋳物製品の修理・修繕を行う職業。「鋳かけ」「鋳鐵師」の表記もある
 江戸時代から昭和にかけ鍋・釜は主に鋳鉄製であったが、当時の技術では鬆(ス)〔穴〕が入りやすく、また、ひび割れ等により穴が開くことがあった。鍋釜を含む金属類は当時相当の貴重品で、穴が開いたとしても容易に捨てたり買い換えるわけにいかず、完全にダメrになるまで補修を繰り返しながら使っていた。これを請け負う修理業者が鋳掛屋。
 町中や村々を呼び巡り、声をかけられたら仕事をした。道具箱のなかにふいごを持参しているのが普通。融点の低い鋳鉄で鋳造された当時の鍋・釜の穴やひび割れを直すために鋳鉄片を溶融しうるだけの熱量は、この程度の簡易な装備でも確保できた。

2)魚を入れる木箱作り
 (魚箱についてウキペディアは「トロ箱」として次のように解説:
 「海産物を入れる箱のこと。魚を入れる輸送するための魚箱。水産業者などが、海産物を出荷する際に用いられる」「(トロール漁で)大量に漁獲した魚を箱に詰める必要があったことから、大量生産できる特殊な箱が用いられるようになった。その後、漁の手法を問わず、魚箱の全てがトロ箱と呼ばれるようになった」「以前は木製(臭いの移らない素材であるナラ、ブナ、トドマツ等を用いる)であったが、現在では、発泡スチロール製のものがほとんどである)
 a.魚市場に小さな小屋があり、そこで大人が魚箱を作っていたが、子どもも1つ作るといくらということで手伝った。
 b.私の場合家が魚屋だったこともあり、旭町時代釘と金槌、釘抜き(失敗した場合に使
う)を用意して作った覚えがある。小遣い稼ぎが目当てでなく、また目標をもったり無理に時間をかけたりでなく 気ままに作ることが楽しみの遊びであった。
 ァ.箱の材料は、縦・横では長さは違うがそれぞれ同じ寸法の長い板が底面に4枚、向かい合う側面に2枚の計6枚、もう一方の向かい合う側面に短い板が2枚、合計8枚に釘を打ち付けて箱を作る。(以上の数値は後掲の写真などによる推定。魚箱の寸法は、大と小の違いはあってもある程度は標準化されていたと思う)
 ィ.板は幅が狭い(多分7〜8弌砲らその中に釘を真っ直ぐ刺し込まなければ、板から釘が飛び出してしまう。その場合、釘抜きを使ってまづ釘の頭の部分を引っ掛け釘をこじ開けるようにして引き抜く。
 ゥ.魚箱には、所有者がわかるよう箱の側面に屋号(商号)を墨で塗った(屋号をくり抜いたブリキの板の空白部分に墨を付ける)。ちなみに、我が店は、「〇」の中に「さ」の字。
 魚箱の画像【掲載例として不適切だが、よいのが見つかるまで仮掲載】
 (『佐渡の百年』)
魚箱1
魚箱
 顱棒里狼箱は水産業者には不可欠。魚がたくさん獲れ、運搬に必要だった。
 髻望談徂覆任發△辰燭ら、どんどん作る必要があった。在庫を相当数確保しておかないと大量安値仕入チャンス=大量相場販売チャンスを失ない、売上・利益を他に取られてしまう。各漁業協同組合、個別組合員とも必要。
 鵝傍の水揚げは非常に減少したとは言え 新潟県一の漁獲量を今に誇る佐渡の重要産業である漁業を支えきた要因は、漁獲量はさることながら、「魚箱」を抜きには語れない。
 魚箱の恰好な樹木は、ナラやブナというから佐渡では事欠かない。
3.まとめ
[渉鼎糧展は、築港と加茂湖の造成。(資料:『両津町史』(昭和44年刊)「両津港の歴史」(「佐渡人名録」サイトから引用))
(両津港の構築)
 明治以後であって、最初に加茂湖の流水口に築いた防波堤は、出入船舶には影響がなく、かえって、湖水の吐口を狭めて、湖面の水位を高め、湖岸の耕地や宅地に水害を起すという副産物を生じたので、十数年で破損し、形を残さぬようになってしまった。しかし、湖水の吐口付近は、砂州でなく、かなりの水深があったようで、天保四年(一八三二)の大川の津神社文書によると「同年十月二十六日の大地震に、津波が襲来し、夷御番所の松並木に碇綱で堅く縛り付けていた、鍵屋の七百石積みの大船が、夕刻川口に打ち込まれて破損した。」というのである。
 開港後の出入船舶の輻輳と、移出入貨物の増加にともなって、築港の必要を力説し、町民多数の協力を得て実行に移したのは、夷町斉藤八郎兵衛である。斉藤は夷町長から県会議員に当選し、明治三十二年野沢卯市の協力を得て、当時の県会が山党(道路)河党(河川)に別れて対立している中を、もっぱら夷港の修築のために努力した。かくして、明治三十四年の県会で工費四万一千二百円で夷港に一大防波堤を築くことが議決され、直ちに着工、同三十六年に、湖口の北岸から東方に向って、延長百二十八メートル、幅七メートル、水面上一メートルの弓形防波堤が先ず完成されたのである。
 しかし、その後被覆水面の狭いことや、海底の変動が激しかったことなどによって改築の必要に迫られ、明治四十二年「夷港修築期成同盟会」が発足し、さらに大正四年「夷港築港期成同盟」と改称され、挙町一敦の運動が展開されて、同年の通常県会の決議により、翌五年から県費支弁の継続事業として大工事が施行されるようになった。
 経費は当初十八万四千百円であったが、その後幾度か追加され、大正六年から昭和六年まで十四ケ年間に六十一万八千四百〇三円の巨額に上り、さらに、昭和七年からは年々国庫補助を受けるようになり、昭和十二年に完工したのが現在の両津港である。
(斎藤八郎兵衛)
 明治三十一年から二年、同四十一年から四年と再度町長に選ばれたが、その間に、築港と加茂湖の浚渫について、次のとおり多くの請願をおこなっているのである。
明治四一年 八月 湖口浚渫工事請願
 〃      燈台建設請願
 〃 一〇 加茂湖竣沫に付利害得失に関する意見
  四二、一一 湖口切壊浚渫並に橋梁改造護岸工事施行請願
  〃      港湾調査に関する請願
  四三、一 湖海連絡に関する請願
  四三、二 湊護岸工事施行願
  四三、三 湊護岸工事施行追願
      〃 夷港突堤改造及河口浚渫追願
  四三、四 夷港突堤改造及河口浚渫並護岸
         工事施行に関する追願
 それから、築港については三十七年に築造した防波堤が破壊されたこと及び湊地区に築いた小突堤が波浪のため破壊されたことによって、さらに大規模な改修を要望しなければならぬこととなり、次の建言をせざるを得なくなったのである。     
(夷港設備に関する建言書)
(一)夷港は七港の一(七港の一となったのは明治三十二年)開港場として新潟港の補助港たり。果して、開港場としての設備を有するや否や。
(二)三面山岳を負い、海水深く湾入して優に大船舶を呑吐する天与の良港たるに相違なきもただ夫れこれを放任して、人工の加設を相倹つに非ざればいずくんぞ天与を全うすることを得んや。
(三)今や夷港の位置は年々歳々その真価を高め日本海唯一の避難港として将来中継港たる資格を有することは、苟(いやしく)も海事に意を注ぐものの常に認むるところなり。
(四)夷港は天与の良港なりと錐も、東北の強風及び方言「寄り廻り波」と称する渦浪を生ずるときは、海岸に激する高浪のため貨客を上陸せしむる事能はず、止むを得ず、数哩の沿岸を航して小木湊に避難し波が稍(ようやく)平らかなるに至りて辛じて上陸せしむることあり。客は危険を免れて上陸はするもののこの地点は、疎々たる漁村に過ぎざれば元より宿すべき家もなく、加ふるに両津は数哩を隔てて、船中困憊の身を以て、尚且徒歩にて長途を両津町へ行かざるべからず。
(五)郡外の客にして新潟港より度津丸に塔し、来郡するものあり、皆その風景を望んで無趣味なる越佐間横断の航海を慰籍せざるなし。その言に日く、新潟は風光明眉なりと、然る後に桟橋を一見するや、その不完全なるを嘲笑し或は本船の桟橋に着せずして艀を使用するや、その不親切を怒り、或は桟橋の鉄製を用いざるを以て一に其の責任を両津町に帰するものあり。
(六)然れ共、桟橋は越佐汽船会社の所有にしてその完否は両津町の関する所にあらず、仮令その桟橋をして完全ならしむるも海岸の寄州は年々に付着して、その延長を短縮するを以て、桟橋も亦、歳々延長せざるを得ず。然れ共一朝風浪に逢わんか船体動揺の為近着する能はず、桟橋は夏季僅か二、三ケ月を利用するに過ぎず。抑も桟橋は、本来防波堤内に設ける利用物にして全く海面に突入して、築くものに非ず。然るに此の如き桟橋に向つてその完否を云云するは云云するものの誤解なり。
(七)新潟港は、今や其の水戸口を浚渫して築港の期間中にあり、然るに殆んど其の効力を疑はざる浚渫船も今日に及んで其の効能を実現し得ず、小柴土木監督署出張所長は日く、浚渫事業は元来容易の事に非ず。大河津開鑿工事浚渫後着手するをもって、正当の順序とすと。大河津開鑿は、二十年を要す、信濃川河口の流水工事は所謂百年河清を待つと云うべし、開鑿と浚渫が容易ならだる事業とせば、今日その補助港を設備して貨客の便をはかること、最もその当を得たるものと信ず。
(八)然らば云う、何が夷港をして、天与の全きを得せしめんか。日く突堤を改築するにあり、日く鴨湖を利用するにあり、日く湖口を拡大するにあり、是実に刻下の要目なり。
(九)夷港現在の突堤は延長七十間ありと雖も、中腹より湾曲して真の堤端は大字湊地区の小突堤と約四十間を隔て相対するを以て風浪の際は云うに及ばず平時と雖も船舶はその道路を釣曲して鴨湖に入らざるを得ず、其の不便甚だしく、加ふるに、此湾曲の為め、海水巻込み、砂礫堤内に流入するを以て、水深を保ち難く為に湖口の竣沫もその効を失ふ。これ突堤改築の心要ある所以にして、即ち現所を直線に改築して、延長一〇〇間となし、尚湖口数間を開鑿して両津橋を改造し、開閉自由なるを得るに於ては、汽船と錐も容易に鴨湖に出入するを得るを以て、其の便益至大なり。蓋し匹儔を見ざる良港となるべし、若しそれ山紫水明にして、周囲五里を有する鴨湖上、汽笛の、喨々たるを聞かんか、万里の波涛を航して無柳に苦しみたる遠来の客は心胸、始めて快活して此に慰安の楽土に逢着したるを喜ばずんばあらざるべし、加之湖岸繋船の辺設くるにプラットホームを以てせば陸に於ける鉄道停車場の如く、客の乗降、貨物揚卸の至便なる亦その此を見ざるべし。
(十)丹羽永産試験場所長嘗て夷港に遊び、鴨湖口を拡大して、突堤を改造せば漁船の出入頗る平安にして、日本海に於ける漁港の資格十分なり、漫々たる鴨湖の水、渺 々たる日本海の波、淡鹹両水を一地域に併有して、斯界に貢献する所莫大なれば他日試験場の移転を欲せざるに非ずと。
(十一)夷港を観察せられ、有司に諮問し設計を作り予算を編して県会に発案せられ以上建言に適する設備の完成を見るあらば、海運業者の満足するのみならず、−般航海来郡者の幸福延ては国家の福利を増進すること昭々乎として火を賭るより明らかなり
 明治四十三年十月二日 両津町長斉藤八郎兵衛
  新潟県知事伯爵清棲家教殿
 これより先き明治三十三年、日本郵船、大阪商船、大東汽船の三大会社は神戸小樽間の東回り航路を政府より命令され横浜、神戸、尾道、下関、宮津、敦賀、七尾、伏木そして冬季には夷、船川を経由することになつていて、町には山、力、丸小、喜多、丸サ、岩原伊三次、伊藤清右衛門、信濃屋、白山屋、山形屋、野村等の諸店の大部分が旅館兼回漕問屋を営み、敦賀行き、小樽行き等の看板が沢山掲げられてにぎわいを呈した
 越佐航路の安全のためには、汽船の大型化とともに、港湾の整備が急務である。それに漁船の遭難は、毎年繰返されたし、一軒蒜の家から三つの棺がでるなどの悲劇が続いた。大型汽船の打ち上げも稀ではなかった。(明治四十一年春、汽船神王丸二、四〇〇トンが浜上げしているなど)湊天田正右衛門は遭難船を救助すること五十数回に及び功績顕著なりとして五十回賞を授けられている。
 斎藤は、湖水を港湾として開発し、両津橋を開閉橋とし、湖岸に繋船場と桟橋を造り、その裏に倉庫を連ね、さらに、その背後に遊廓を設ける計画であったその後、完成した湖岸の埋立工事も、この大計画の一部と見てよいようであるが、加茂湖の港湾化は遂に実現しなかった。
 (昭和七年両津港)
 第二種重要港湾に指定され、時局匡救土木事業計画に編入され、国庫補助を以て、毎日三百名が就労する大拡張工事が続けられた。こうした港湾の整備が進むにつれて、船付場が問題になり、桟橋は明治十九年日本郵船が西廻航路を開始するや夷港に倉庫その他と共に設備したが、重なる廻船業者は自家用の桟橋を持っていて、沖がか〔りの〕基本船から辟船で貨客の揚げおろしをしたが、桟橋のない業者や船客は、多額の船賃を支払わなくてはならず、不便極りないものであった。明治四十年日本郵船が西廻航路を廃止することとなり、同社施設の桟橋が本間金五郎の所有となったが(今の埠頭の近所にあった。)本間は佐渡郡に寄付したので、越佐航路定期船の発着所となり、非常に便利になった。だが小規模であったためその後度々修築を加えられたが、大正六年大破したので、大正十年(一九二一)税関下にー現在の場所ーに四間幅の桟橋を築造した。しかし、これも矢張り木造であり到底時代の進運について行けないので、昭和八年県会で防波堤古米延長案とともに桟橋改築案を議決し、十二間幅鉄筋コンクリートの埠頭を建設することとなったが、なお、荷物置場の心要ありとして八万円が追加されほぼ今日のものの原型が昭和十一年完成した。
そこで、昭和七年以降の国庫補助による築港であるが、これは夷海岸の中央から東方へ百七十三メートルの一文字防波堤を出し、その南方海岸の岩壁から約九十メートルの沖合に長さ四百九メートルの「く」の字形防波堤を構築するもので、被覆面積は四万三千平方メートルとなったのである。
しかし、これも、また不便が多いので、昭和六年以降、さらに、三十二万円の工費を投じて、くの字形防波堤を除去して、中央から出た堤防の突端から南東に向って四百メートルの直線防波場を築いたのである。
 【『町史』の「両津港の歴史」の中に、1916年(大正6)から1937年(昭和12)まで5期20年にわたって両津町長を務め、この間両津港の整備と築港・加茂湖の埋立てなどに尽力した土屋六右衛門(前掲)について全く触れられていないのは問題。見方によっては、「重要なことが記述されない=歴史への偽り」に相当】
(夷港から両津港)
 夷港は、大正六年三月二十七日、水和路部告示第二十三号で両津港と改称され、現在は平均水位は二十メートル、底質は細砂で船舶の碇舶に適し、東からの暴風以外は通年絶対安全であり埠頭は数万トンの巨船も投錨が可能である。
 夷上町に倉庫会社が延長七十メートルの桟橋を築いたが、その後大正三年に長さ七十三メートル、幅六メートルの木橋桟橋を御番所裏に築いて、百七十二トンの第一佐渡丸が横付けするようになり、多年使用したハシケにょる連絡という不便から解放された。続いて、長さ三百三十八メートル、幅六メートルの荷揚場岩壁が構築されて、貨物船がここへも横付け出来るようになったのである。
(築港は続行中)
 突堤は、その後、幾度かの改修補強工事がおこなわれ、さらに、商港と漁港に分れ、湊海岸、春日町海岸の埋立工事が施行されて今なお工事は続行中である。
 そして、出入船舶は昭和六年に 汽船 三千五百三十六隻 三十一万九千四百二十ニトン だったのが、昭和四十年には汽船 一万一千七百二十四隻 百三十七万二千五百九十九トン 機帆船 二千九百十九隻 六万一千六百五十八トンに達しているのである。
 なお、両津港開港百年間に、両津港を基点として新潟港との連絡に活躍した船舶は次のとおりである。
 (船 名)
  神通丸 二○トン 明治十三年
  相川丸 三五   〃 十五 
  三吉丸 三二      十六 
  改進丸 二四   〃 十七
  魁 丸 四一   〃 十八
  度津丸 不明   〃 十九
  両津丸 六二   〃 二十二 
 第三大成丸 八二  〃 三十九
 坂田丸 八二    〃 
 第十五度津丸 九九 〃 四十二 
  国東丸 九八   〃 四十四 
  大成丸 一五〇  大正 二 
  永田丸 一五〇   〃 
 第一佐渡丸 一七二   〃 五
 第二佐渡丸 一九九   〃
 第八佐渡丸 三五〇   〃 十二
  睦丸   二三八  昭和 六
 おけさ丸  四八八  〃  七
 こがね丸  六〇〇  〃 二十四
 ゆめじ丸  七九七  〃 三十一
 なみじ丸  八〇六  〃 三十六
 おけさ丸  九五八  〃 三十九
 さど丸   三五〇  〃 四十二

⇔渉店創兩鞍・加茂湖造成は、島内の人間力総動員及び岩石等資源活用、説得力による公的資金調達による。
 再掲:「〔両津港築港〕経費は当初十八万四千百円であったが、その後幾度か追加され、大正六年から昭和六年まで十四ケ年間に六十一万八千四百〇三円の巨額に上り、さらに、昭和七年からは年々国庫補助を受けるようになり、昭和十二年に完工したのが現在の両津港である」。大正6年から昭和12年までの両津町長は、土屋六右衛門。
これらの整備は、図らずも両津の子どもたちに遊び・成長の場を提供した。

 以上 2017.07.14



歴史スポット65:1950年代両津子どもの遊び(02)梶井照雄氏語る

 こんにちは!自在業の櫻井です。
 「1950年代両津(夷+湊)の子どもの遊び」について、これから具体論に入ります。
1.はじめに
 テーマ設定等のきっかけ・経緯について前号のとおり。
 5月27日(土)同級の安照寺住職梶井照雄氏から子ども時代の遊びの話を聞くためアポを取り訪問した。
 そもそも「子ども時代の遊び」への関心・きっかけが、それだけではないが昨年7月氏の発行している「安照寺だより」(A3リーフ)の中の記事によるものであることに間違いはない。だが、その時はそれほどの関心に至っておらず、その時のリーフを失くしてしまった。またそれを見たいというのが目的の一つでもあった。

2.内容
 最初に氏にこの度の「1950年代こどもの遊び」テーマと趣旨について話すと大賛成、昔のことを知る人は古希に達した我々の世代くらいになり、いいところここ3年が勝負とのこと。
 人生80年の世だから後10年くらいは何とかあると思っていたが、よく考えればそれは「平均寿命」の事で、その時までも物がよく見え、よく聴こえ、よく覚え、よく話し、更にはよく歩き、よく調べ、よくまとめ、よく書ける保証はなく、可能性は少ないとみる方が普通だろう。
 昨年の「安照寺だより」の記事について尋ねると、『佐渡 安照寺史』(梶井照雄著)に載っているとのこと。同書は、氏から頂いている。
 後日、開くと「昔の遊びと思い出」という項目があり、次のように記されていた。
 「テレビもまだ普及しない昭和30年代の初め、子供たちの遊びというと外での遊びが盛んでした。男の子は野球、相撲、それに釘立てなどがあり、女の子はゴム跳びなどに興じていました。また男子、女子とも一緒に遊んだ石ケリ、缶ケリ、ビー玉を使っての遊びなどがありました。
 以下、書籍にあることと当日新たに聞いたことをまとめて記す。
 お寺の境内は広く、地蔵堂角の入口から表の県道までの参道の敷石の上で、石蹴り、缶蹴りでよく遊んだとある。
➀石蹴り
 敷石に大きな円を書き、それを何等分かしてその中に近くにある置物や建物の名前を書き、ある一定の場所から石を滑らせるように投げ、自分の石がどこに滑り込んだかを確認し、最後の人が投げ終わると、自分の投げた名前(場所)目がけてよーいドンでスタート、最初に戻ってきた人が一番、最後の人が負け。
缶蹴り
 同書に内容・ルールは記してなく、私は忘れてしまったので、調べて略記する。但し、やり方は多種多様あることに留意。
  缶を蹴るポイントに円を描き(地面が砂や土なら足で、アスファルトならチョークで)、ジャンケンで鬼を決める。鬼以外の子どもの誰かが、思い切り遠くまで空き缶を蹴り飛ばす(缶が描いた円周を超えない場合蹴った者が鬼になる)。その缶を鬼が拾いに行って円の中に戻す(この場合、手を使ってよいのと足で缶を運ばなければならないものとがある)までの間に子どもたちは一斉に隠れる。鬼に見つかった者は缶のある場所付近の決められた場所に捕われる。そうやって隠れた子どもをオニが順に捕まえに行く。しかし、全員を捕まえる前に鬼が離れたスキに隠れた子どもに缶を蹴られると、捕まった子どもが逃げられてしまう。缶を蹴られず無事全員を見つけると鬼の勝ちとなる。
ジャンケン
 県道までの長い参道の敷石の上で、互いにジャンケンしてグーで買った場合、グリコといって3歩前進、パーで勝った時はパイナップルといい、チョキで勝った時はチョコレートといってその歩数だけ前に進み、往復を行き来して遊ぶ。
なさがし
 境内にある英霊の記念碑、特に斎藤八郎兵衛翁の碑と偲巽堂前にある太田鐡蔵の碑との間で行われた。碑の周囲の石の窪みに宝を隠し、早く見つけた方が勝ちという遊び。
(以上が、お寺の境内での遊びの例)
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       (梶井照雄氏所蔵)
1)板の上にある相手のパンを下に叩きつけて裏返したり、板から突き出したりして競った。
2)「油パン」は、パンを強くするため、油に浸して黒く重くしたもの。
3)「ぱんは外でも家の中でもできましたが、本堂内に机を持ち出して熱中したあまり、先代(父親)にから叱られた」
4)学校では「ほんこ」=賭け事は禁止であったが、「ズボンのポケットにぱんを忍ばせて行き近所の空き地で真剣勝負をした」
ゥ廛蹈泪ぅ錨の収集
1)昭和30年代(1955〜)当時流行したのは、プロ野球チーム選手のカード集めや大相撲の花形力士のプロマイド収集。
2)その商品の大半は、夷5ノ町の玩具店ツルヤで買い求めた。
3)「力士プロマイドは、紙質の悪い新聞紙の中に1枚ずつ包まれクジになっていて、当たりがでればもう1枚引くことが出来るというもの」「ひいき力士の写真を収集するのに友達と交換したりして」楽しんだ。
 なお、氏は当時初代若乃花の大ファンだったようで、力士プロマイドは600枚あると言っていた。
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      (梶井照雄氏所蔵)
Ε咫雫摸
 氏との話の中では余り話題に上らなかったが、ビー玉類を持ってきてくれた。その時活用方は忘れてしまっていた。平べったい小さな円のガラス玉も入っており(画像に2個あり)、昔どうして遊んだかに興味を持った。
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    (梶井照雄氏所蔵)
1)ビー玉遊び
 a.遊び方はいろいろあるが、多くの場合、自分のビー玉を弾〔はじ〕いて相手のビー玉にぶつけ、ぶつけられた玉はぶつけた者の所有となる。玉を取られた方は、新たな玉を出して再戦。これを繰り返し、玉のやりとりが行われる。数人加わることも可能で、4〜5人で遊ぶ場合もある。
 b.ビー玉の歴史は古く、紀元前の古代エジプトやローマの遺跡からも出土。日本では、平安時代の「銭打ち」と呼ばれる賭博遊戯がルーツ。江戸時代になると「穴一〔あないち〕」と呼ばれるようになり、子供の遊びとして発展。明治時代になると泥玉が作られ、明治30年頃から大阪でガラスのビー玉が出回り出した。(資料ビー玉|日本文化いろは事典」)
2)「おはじき(お弾き)」:ガラス玉を調べたら「おはじき」に行き着いた(ウィキペディア)。
 a.おはじきは、ガラスでできた平たい玉が一般的で、直径は1cm〜1.5cm程度。ガラス玉では、透明色のもの・小さい模様の入ったもの、さらに大きさにも大小あり、種類は多い
 自分のおはじきを一つずつ相手のおはじきへはじき当てるのが一般的で、はじき当てた場合は自分のものとなり、最終的に手に入れたおはじきの数を競い合う。
 b.おはじきは中国から伝わった遊びとされ、日本に伝わったのは奈良時代に入ってからのこと。それ以前は貝殻や小石、また植物の実などを利用して遊ばれてきた。現在のおはじきのほとんどはガラス製だが、それが使われだしたのは明治時代後期に入ってからのこと。
釘刺し
1)地面に打ち込まれて立っている相手の五寸釘に自分の五寸釘を打ち込んで弾き倒し、倒れた釘を自分のものとする遊び。数人同時に行える。
2)どこまで敵に脆さを見せず自分の釘を地面深く垂直に立てられるかが勝負のポイント。
3)砂地やコンクリートのような固い地面ではできない。粘土質の地面が最適。
┸惻茲蝓Г笋衒はいろいろ。ウェブ情報によると
 例1:釘刺しの応用で、地面に円や四角の領域を設けて、人数分の基本陣地を手の親指を中心に円を描くように決め、交互に陣地を広げていく遊び。
 例2:2人ぐらいから4人ぐらいで遊ぶ。ジャンケンで勝った者から順番に地面に左廻りに釘を打ち込む。前と次のところを直線で結び、他の人の釘を自分の線で囲み、出られなくした人が勝ち。
チャンバラ
 竹の棒を使った。
紙鉄砲
 日本が世界に誇る紙工作の一つで、振り下ろすとパンッ!と音がなる手作り玩具とされるが、覚えていない。
紙飛行機
 市販の折り紙だけでなく、新聞紙でも作った。
手作りボールで野球
  海藻やゼンマイの綿や紙を丸めて作ったボールで野球
トンボ取り
 蜘蛛(クモ)の糸を利用
植物採取
1)「ようのみ」(多分、「佐渡弁」でなく「夷弁」:「ようのみ」という言葉は子ども時代聞いた)
a.「よの実鉄砲」の弾に使う。竹を切って、紙玉や、よの実を弾代わりにして鉄砲を作る子どもの遊び」(「佐渡弁(相川弁?)をなつかしむ」サイト)
b.「内径2mm位の竹筒に杉の実を入れ、細い竹ひごで突くと紙鉄砲と同じ原理で弾が飛ぶ、秋の子供の遊び道具」とある。(「新潟県南蒲原郡田上町の方言」サイト)
2)ヨモギ〔蓬〕 
a.毎年6月頃だったと思うが時期になると近所の子どもと一緒に田舎へヨモギ採りに出かけた。
b.用途は草餅にするためと思ったが、調べるといろいろある。(ウィキペディア)
 ァ.葉は、艾葉(がいよう)という生薬で止血作用がある。
 ィ.葉を乾燥させ、裏側の綿毛を採取したもぐさ(艾)は灸に使う。

 ゥ.若い芽や育ち始めた若い株は、干しておいたのちに煎じて飲むと、健胃、腹痛、下痢、貧血、冷え性などに効果がある。
 ェ.ヨモギ湯。香りと効能から古くより入浴剤として利用されてきた。腰痛はじめ痔に効果があるとされる。菖蒲湯にヨモギを入れる場合も多い。
 ォ.よもぎ茶。
c.古典に登場。平安時代の女流作家 清少納言〔966頃〜1025頃〕の書いた『枕草子』より
 ァ.「五月ばかりなどに山里にありく」(二〇八段)に、新緑の季節牛車で出かけたとき。清少納言は牛車の車輪に踏まれた蓬(ヨモギ)の芳香が漂ってくるのを「をかし」(=趣がある)」と、
 ィ.「節(せち)は」(三七段)に、「菖蒲、蓬のかをりあひたる、いみじうをかし」
 とある。(くすりの博物館「薬草に親しむ」サイト)

3)ノビル採り
a.ノビル採りは、ノビルの名前も知らなかった。
b.日本では「畦道や堤防上〔河原の土手〕など、丈の低い草が生えているところによく自生」「積極的に栽培されることは少ないが、野草として食用にされ、タマネギに似た香りと辛味があり、アサツキ等よりも鮮烈な香味を持つ」「生食も可だが、軽く茹で酢味噌等の味付けで食されるほか、味噌汁の具や薬味としても用いる。一般的に春が旬であるとされる」
c.『古事記』〔序に和銅5年(712年)の年代がある〕に応神天皇の歌がある。

  いざ子ども 野蒜〔ノビル〕摘みに  蒜〔ヒル:ネギ・ニンニクなど〕摘みに  (b・c資料:ウィキペディア)
4)栗拾い・採り:近所の子どもによる集団的行動が大半。
a.栗林のある所へ行き、一般には茶色に熟し木から道端に落ちている毬栗〔いがぐり〕を見つけ、靴で踏みつぶして、包んである「いが」を剝し、中に入っている栗を取り出す。公道に落ちているものを拾ったのであるから、法律違反にはならないだろう。
b.毬栗が青くて木に付いている状態は未熟で渋みが強く美味しくないが、中には茶色になっても木に付いているものもある。その時は、それを棒で叩いて落としたこともある。あるいは、木によじ登って確かトンボとり用のタモを使って揺さぶって中に落としたような憶えがある。それらの場合泥棒に該当し、所有者に見つかって怒られ、すぐ止めたこともあった。

5)アケビ採り
a.仲間で採りに行った覚えあり。
b.子どものおやつとしてあった。
6)柿採り
a.築地時代、坪の内(中庭)に柿の木があった。
b.小学4年の頃か 柿を盗むためある2〜3人して夜暗い中 隣町内の家の裏にある柿の木に登り採ろうとしたが大人に見つかり、枝につかまったままじっとしていると、その人はしばらく見上げていたが、やがて何も言わず帰っていった。多分、怒鳴りつけると夜のことでもあり 慌てて木から落ちることを心配してのことだったと思う。
 柿の木から落ちると一生だめになるいうことを小さい時から聞いたことがある。その意味は、柿の木は枝が多くて登りやすいためと、柿の木は枝の付け根から折れるためのようだ。高所からの思わぬ転落が大きな事故となる。

3.まとめ
〇劼匹發陵靴咯譴箸靴討寺の参道・境内、またお寺の参道・境内ならではの遊びがあった。それを発見し、開発し、あるいは導入し、楽しむのは、子どもである。

⇒靴咾砲蓮ゞチ茲あって勝者・強者・投資者(=リスク・損失 自己責任負担)が得する制度・システムがルールとしてあり、それが生育・成長の自然・社会要因となる。

0个了劼匹發蓮⊇佞判は植物採集に遠征した。出稼ぎ要素もあるが、直感では遊びに変わりない。
!)子どもの遊び場は、無限。今はIT技術によってスマホ1つで、独りでどこにいてもいろいろな人とゲームを競い楽しむことができ、知りたい場所の家並みや道路が見れ、交通機関・宿泊施設予約を含め旅行計画が立てられるようになっている、
 なお、近い将来、世界各地の家並み、人の動き 更に表情まで映し出され、会話できるようになるだろう。
 以上 2017 07 09


歴史スポット64:1950年代両津子どもの遊び(01)序文

 こんにちは!自在業の櫻井です。
 今回のテーマは、子ども時代どんなことして遊んだか。それを一つ一つ記していけば最低10以上の記事になる。そのため第1回は、番号(01)「序文」とした。テーマの完了は長期が予想され、その間タイミングと編集上の点から別のテーマが途中入ることになるだろう。

1.テーマ設定
 いつ頃から何がきっかけでそんな発想が生まれたか?我ながらそれを追いかけ、突き止めるのに興味。
 時期は、去年8月の盆の帰省時、カーフェリーのイベントホールの椅子に座っていた時気付いたのは、ケータイやスマートフォン、タブレット(以下、代表して「スマホ」)を見ている人が多いこと。男女の差がなく、特に70歳以上のお年寄りまでそうであることに驚いた。ちなみに大雑把であるが数えてみると、その時ホールには80人くらいの人が椅子に腰かけていて、24人がスマホに見入っていた。30%、約3人に1人の割合。16年8月12日の手帳に記してあった。中学生と思われる2人組が、オンラインゲームを楽しんでいた。いつ頃からあったのか尋ねると、10年くらい前からとのこと。自分もそうだがみんな周囲や外の風景には関心持たず、スマホばかりに目を向けゲームを楽しんだり、ニュース見たり、書き込みしたり、メールを送ったりしている。自転車や車の運転はもってのほかだが、歩道を歩きながら見ている人も稀にいる。スマホ所持は現代の子どもから大人までの風物詩であり、拡大解釈すれば世代を超えた遊び道具・玩具である。
 それ以前の7月と思うが、我が家の菩提寺 真言宗豊山派 安照寺から「安照寺だより」が郵送され、昔は境内への道端でいろいろな遊びをしたという記事に関心を持った。その時はおそらくいつかテーマにしようと思うほどのものでもなく、捨てたのであろう 机の中を捜したがなかった。
 住職の梶井照雄氏とは同級。この3月26日(日)両津南中学校同期会「古稀を祝う会」出席の際、いつか子ども時代の遊びについて話を聞きに伺うと話していたから、その時はテーマにすることは決めていた。「鬼太鼓どっとこむ」の前日 5月27日(土)をチャンスと見て事前にアポ取りし訪問。話だけでなく資料があれば写したり写真に撮ることも重要。
 道端でいろいろな遊びをした話は、『佐渡 安照寺史』(平成19年〔2007年〕発行)に載っているとのこと(後日掲載)。その本は貰っている。なお、拙著『佐渡広場』は初巻〔2007年刊〕ほか数巻を寄贈、更にこの度の訪問で『佐渡広場后戞2015年刊)を謹呈した。
 さて、以上から「子ども時代の遊び」というテーマ決定について時系列に見ていくと、発端は昨年7月頃の「安照寺だより」の中の「昔の遊びと思い出」、次に8月お盆帰省時カーフェリー船上での子どもから大人・お年寄りまでの「スマホ」の普及とその「遊び」用具としての機能・娯楽性の発見。
 その次にもステップがあるはずで、それは何かを追及すると次のことに尽きる。
 昨年12月17日に夷の渡辺和弘氏から佐渡広場にコメントをいただいた。そこには、同月から月一度くらい集まって「夷を記す会」を始めたということ、会のメンバー同氏を入れて3人はいずれも私が存じている方々、最初は特にテーマを設けず昔話をし、それを分野別に振り分ける方法をとり、先ずは第一回分を載せたので、「佐渡人名録」の「夷を記す」を開いていただき、「間違いや、こんなこともあったあんなこともあったと言うような」アドバイスを願いたいというもの。 
 翌朝、コメント欄に次のように返信。「忘れ去られるような人・事を思い出させ、あるいは「そうだったのか」を認識させ、非常にいい企画と思います。(例:築地の中村そろばん屋、両津中学新校舎) ぜひ、小さい時の「遊び」もテーマに。本になる分量になるのでは」「その際、「佐渡雑学」も拝読し、特に「くわがらや」に関心。正月帰った時、昔と変わっていない建物写真を今のうちに撮り、いずれテーマにしたいと思っています。正月の時 また逢いましょう」 
 【その時点」では、「ぜひ、小さい時の「遊び」もテーマに」とあるように会の情報収集・まとめに期待した面があり、また氏の「佐渡雑学」「くわがらや」から小学2年の途中まで住んでいた夷「旭町」に関心が甦った】

2.どんな遊びがあったか 
 さらに決定的なことは、12/31付けで今年の手帳(昨年12月12日(月)からの欄あり)に「子ども時代(s21〜36)の遊び」として、次の遊びを思いつくままに記していた。(後日多少の加筆・文字の修正はしている)
 なお、遊びと言っても、幼稚園・保育園や学校や公園での遊び、主に女子の遊びはここでは想定していない。
 01.カン蹴り(缶)
 02.陣取り(クギ:釘) 
 03.追跡(矢印・チョーク)
 04.ぱん(メンコ:大と小)
 05.ミニぱん(親指と人差し指で飛ばす):後でわかったが「ちー(小せー)ぱん」のこと。
 06.カンの竹馬:正確には、左右2つの缶を下駄替わりにし手で紐をつって乗って歩く。
 07.かくれんぼ(材木屋の倉庫)
 08.かまくら(雪)
 09.ぎっしりと積み上げられた魚箱からの箱を抜いての住み家作り
  (砂浜での遊び)
 10.落とし穴
 11.砂団子でのつぶし合い競争
 12.砂で城づくり(波が来ても壊れないよう丈夫に)
 13.運河づくり( 〃 )
 14.石投げ
  a.沖にどこまで遠く投げられるか
  b.投げた石が海面を何回飛び跳ねるか
  c. 投げた石が海面を飛び跳ねず滑走させるか
 15.ハンギリ乗り:ハンギリは、たらい舟の1/4くらいの高さの底の浅い桶で、魚の内蔵部分や骨などを取り除いた魚の身をどこからでも投げ入れ易いよう丸型になっている。海の上にハンギリを浮かべそれに乗って遊ぶのだが、ほとんどは重さで海水が入って沈む。何分まで持つか、あるいはどちかが長持ちするかの競争だろう。また2人乗りもやった。なお、旭町に入た時は近所のおばさんたちをアルバイトに集めて魚の不要部分を取り除く作業をしていたから、ハンギリは多く有った。
 16.真ちゅうや鉄くず採り。古金屋などが旭町の家々を訪れ、秤で重さを測って値段を決め、それで売って小遣い銭を得た。

 17..釣り
  a.築港:ハゼ釣り他。名前は知らないが岩に付いた海藻を採ってその場で食べた。
  b.防砂堤(大きな石で構成):
  c.海岸通りの旧魚市場の岸壁:フグ釣り
  d.旭町の海岸:タコ釣り(私は釣ったことないが、泳いで沖に逃げていくのを見たり、大きなタコが打ち上げられ、大勢の子どもが周りを囲んで見ていたのを憶えている。
  e.羽吉浜漁協前の今日のように埋立造成されてない時代の海に小さく透明なエビがたくさん泳いでいて、手で掬ってそのまま食べた。
 18.プロマイド集め
 19.作ったもの・加工したもの
  a.舟(木を加工、プロペラ、ゴムで巻く)
  b,凧
  c.竹スキー
  d.竹げた
 20.植物採取
  a.栗
  b.柿
  c.イチジク
  d.ヨモギ
 21.加茂湖での遊び
 22.椎崎へ行っての遊び
 23.鏡が岡へ行っての遊び
  【「重要メモ」5/27】
   「重要メモ」は、「遊び」について今後取材していくためのもので、使ってない2015年手帳(16.4×8.3cm)を利用。午後梶井氏と話をすることになっている。多分新潟発6:00のフェリーの中で話を活発にするため再び列記、最初のメモとなる。なお、当然16年12/31付け(前述)と重複するが、そのまま記す。
 01.陣とり(くぎ)
 02.追跡(チョーク)
 03.かくれんぼ
  a.材木屋
  b.魚箱の積んだところ
 04.くぎ倒し 
 05.空き缶で下駄代わり
 06.金(かな)ゲタ。冬
 07.竹ゲタ
 08.竹スキー
 09.浜で落とし穴
 10.砂遊び
 11.砂団子。つぶし競争
 12.石を海へ遠く投げる。
 13.海面で石を跳ねさせる
 14.砂で丈夫な家づくり
 15.砂で堤防
 16.舟をつくった
 17.たて〔?〕をつくった
 18.パン(メンコ)
  a.裏返しにする
  b.油につけ重くする〔簡単に裏返しされ負けないように〕
  c.土俵に出す 突く あおる 
 19.ちーパン(小さいパン)
  a.蝋で5枚くらいをまとめて売っていた。
  b.親指と人差し指の指先に挟み、一挙に絞ってその反動で遠くに飛ばす。
 20.釣り
  a.フグ:タモですくって獲った。
  b.ハゼ等
  c.タコ。赤い〔赤・白の〕布切れを〔竹ざおの先端に釣り針と共に付け海の中に入れ、ひらひらさせてタコをおびきよせる。タコ壺を使った人もいた。いれも防砂提に近い旭町の狭い海岸〕
 21.水泳〔水遊び・海辺遊び〕
  a.潜り
   ァ.〔砂地の海底に〕ランベエ
   ィ.防砂提と並行して木造船「らんまる」が沈んでいた。魚の宝庫。
  b.半ギリ遊び
  c.べコタコ(ウミウシ)〔海底の岩等にくっ付いていた。ヤスで突いて落とした。紫色の体液を出した。〕
 22.〔少年月刊雑誌〕『漫画王』『冒険王』〔『少年画報』『三年生』などあった。たくさんの付録、「続き」のためどうなったか見るのが楽しみ〕
   丸屋、石川書店〔夷の本屋。販売時期 船が着いて店頭に並ぶのを大勢して待ったものだ〕
 【6/14追記】遊びについて、当たり前すぎて書き漏らしているもの、5/27以降梶井照雄氏、渡辺和弘氏、山田昭夫氏への取材の中で聞いたもの・それがヒントになったものなどその追記。番号は5/27午前時をベースにし、今後も同様】
 23.コマ
 24.凧揚げ
 25.カルタ
 26.トランプ
 27.ボール〔ゴムまり〕投げ(柔らかボールでグローブ不要)、ボール野球
 28.ソフトボール
 29.軟式野球
 30.バトミントン
 31.スケート
 32.手つなぎ
 33.サザエ・アワビ獲り
 34.竹トンボ
 35.トンボとり
 36.セミとり
 37.紙飛行機
 38.ビー玉【以下、6/16以降そのつど思い付いたり知っした時追記】
 39.双六(すごろく)・サイコロ
 40.なわとび
 41.まりつき
 42.ドッジボール 
 43.花札
 44.どの手に隠した?当てあてごっこ
 45.宝物探し
 46.シャボン玉
 47.雪道で落とし穴
 48.面白い顔づくり
 49.笑わせごっこ:互いに面白い顔して先に笑わせた方が勝ち
 50.鬼ごっこ
 51.電車ごっこ
 52.こちょこちょ遊び
 53.お医者さんごっこ
 54 ままごと
 55 チャンバラごっこ
 56 自転車乗り
  a、四輪車
  b、 三輪車
  c、二輪車
 57.積み木
 58.雪そり
 59.じゃんけん
 60.目隠し
 【7/5メモ:「白ズボン」:
 遊びと直接関係ないが、1955〜6年頃から小4以上男子の暑い時期の普段着として白ズボンを買ってもらい着るようになった。遊びの時バンドを締める必要なく手軽でよく着た。当時小学高学年のステータス・シンボルとして流行したような気がする。
 白ズボンで小学校へ通ったりしなかなかったと思うが、体操の時間などには着替えたのでなかったか?】
 61.おはじき
 62.腕相撲
 63.指相撲
 64.将棋:小3頃まで「はさみ将棋」。本格将棋の動かし方は、小4でわかり同年齢層と対戦したことあり。
 65.積み将棋(将棋の駒をいかに倒れずに高く積むか)
 66.将棋倒し(将棋の駒を使った遊び。ドミノ倒しよりも遥かに古いとされる)
 67.五角形の将棋の駒を逆さまにして三角の一方の角でどれだけ立たせるか。
 68.しりとり

【さてどんな遊びがあったか?30近く列記した時点で気づいた。
 一人で思い出し列記したところで洩れがあり、遊びの名前は知っていてもやり方・ルーがどうであったか忘れてしまい、わかっているようでハッキリ言えないものも多く、多くの人から聞くことが必要で、その方が間違いが少なく、収集が楽で早い。
 もう一つは、幼少の時住んでいた夷「旭町」のことをテーマにしたいと思い、今年元旦に行って街並み等の写真を撮った。関心の中心は、造成地で旭町の名は父が発案して決まったとされるが、造成はいつ頃か、築港(防波堤)がどんどん長くなっていったのは知っているがいつから始められたのか、昔は砂浜で一夜干しイカやカタセ(「すけと」(学名;スケトウダラ)を開いて塩漬けにして干したもの)を干していたが、いつ頃まで続いたか等を明確にしておきたいこともある。
 それらの事と「子ども時代」の遊び及び遊び場が不可分の関係にあることに気付いた。同じことがその後引っ越した夷「築地」に言える。当然遊び場は、いろいろあった。主な道端以外にも海沿いの旭町に対し築地は加茂湖に近いから加茂湖畔やイカやスケトを天日干ししていた中沢仲助商店の広い敷地、さらには「しっつぉ」と呼んでいた
伊藤〔七蔵】材木店の木材倉庫など重要な遊び場であった。
 以上から 現時点(6/14)遊びを論ずる上で 次の8要素が必要との結論に至った。
 「遊び」の構成項目
  ー臑
   1)性別
    a.男子
    b.女子
    c.共通
   2)人員
    a.一人遊び
    b.二人遊び
    c.三人以上遊び
   3)単位
    a.グループ内
    b.グループ対グループ
     ァ.個人競技
     ィ.団体競技
   4)同士の属性
    a、親子
    b、兄弟姉妹
    c、近所の子ども
    d、同年齢の友達 
    e、
  道具
   1)不要:じゃんけん、木登り、
   2)必要:自作、一部加工、部品組立、購入。代用
  材料:木、竹、紐、新聞紙、釘、チョーク、缶  (今日ではペットボトル・
  ぞ貊
    1)屋内:居間、土間、倉庫
    2)屋外:道端、空地、境内、海、湖、池沼、川、木、叢(くさむら)、森林、山
  セ期
    1)通年 
    2)四季:春、夏、秋、冬
    3)月(例:集落の祭の時期になっての固有の遊びないか?!)
    4)時間帯:朝、日中、夕方
  θ疇
   1)いたずら
   2)どろぼう
   3)競争
   4)腹(空腹)の足し
   5)小遣い稼ぎ
   6)手伝い
  目的・目標・成果:区分・詳述は、掲載遊びの内容把握が必要。
  ┘襦璽襦Ф菠・詳述は、同上。
        《参考》 遊び (資料:ウィキペディア「遊び」)
 a.「遊び(あそび)とは、知能を有する動物(ヒトを含む)が、生活的・生存上の実利の有無を問わず、心を満足させることを主たる目的として行うものである。基本的には、生命活動を維持するのに直接必要な食事・睡眠等や、自ら望んで行われない労働は含まない。類義語として遊戯(ゆうぎ)がある。

 遊びは、それを行う者に、充足感やストレスの解消、安らぎや高揚などといった様々な利益をもたらす。ただし、それに加わらない他者にとってその行動がどう作用するかは問わないのであり、たとえ他者への悪意に基づく行動であっても当人が遊びと認識するのであれば、当人に限ってそれは遊びとなる(むろん、他者はそれを容認しない)」
 b.「遊びは、それ自体が人間(社会にあるヒト)にとって楽しい自己充足的行為の典型であって、それゆえ古くから多くの遊び論が叙述されてきた。なかでも、オランダの歴史家ヨハン・ホイジンガとフランスの思想家ロジェ・カイヨワによる研究が古典的な論考として重要視される
]。また、遊びはさまざまな面において「人間性」ないし「人間性の本質」と関連づけて扱われる傾向がみられる」
 c.ロジェ・カイヨワはホイジンガ『ホモ・ルーデンス』から大きな影響を受け、『遊びと人間』
[を執筆し、遊びのすべてに通じる不変の性質として競争・運・模擬・眩暈を提示。「カイヨワによれば、「遊び」とは以下のような諸特徴を有する行為。

  1. 自由意思にもとづいておこなわれる。
  2. 他の行為から空間的にも時間的にも隔離されている。
  3. 結果がどうなるか未確定である。
  4. 非生産的である。
  5. ルールが存在する。
  6. 生活上どうしてもそれがなければならないとは考えられていない。」
 人はなぜ、どうしてもしなければならないわけでもない「非生産的なこと」をわざわざやるのかということに対する答えとしては、自身の有する技術的・知的・身体的・精神的能力を最大限に無駄遣いしたいためであるという説明がなされる。そしてカイヨワは、これは人間が慢性的にエネルギー過剰の状態にあって、生存するのに必要不可欠な量を超えた過剰なエネルギーを発散する必要があるためであるとし、こうしたエネルギーの無駄遣いから遊びが生まれ、さらにそこから人間の文化が生まれてきたのだと唱えた」
 【上述の「遊び論」に違和感あるが、ここはコメントしない】

3.遊び場の前提となる両津(夷+湊)の地形の変遷
 子ども時代の遊び以前に遊び場とその変化を把握が大事と言うわけで、資料を収集し時系列に整理した。
1842年(天保12)両津絵図:佐渡奉行所絵図師・石井文海/筆
  (梶井照雄氏提供)
 (1枚の絵を都合上 夷と湊の写真に分けテ撮った)
   石井文海について、
  15年3月14日号「佐渡の画廊37:石井夏海・文海の絵画・絵図」)に記述。
 (両津南・湊町側)           (両津北・夷町側)
両津港6夷湊絵図1
1)湾岸と湖を繋ぎ、夷と湊を結ぶ境に「境橋」が見える。
 また、両津の象徴「御番所の松」の付近に「御番所」「御米蔵」「大筒台バ〔=「砲台場」「お台場」か!〕」とある。
 a.1840年7月から翌年5月まで佐渡奉行を務めた川路聖謨の日記に橋は触れてないが、次なるものがある。

 1)御蔵・御番所を見て回り、加茂湖を船で巡覧。いつもは、ここに網引かせ、漁師に鴨(かも)など捕らせて見たとのこと。湖水の中央まで乗り、引き帰らせた。

 2)「夷町は、北に金北山あり、東南に海・湖水あり、咏(ながめ)よきのみならず、地理ことによろし」

 3)「ここの本間という泊まった本陣は、佐渡の国主の本間の末裔(まつえい)で、今でも豪家」

 4)「夷町・湊町にて高百石ばかりにて、人口3千に余れり。回船等の入津もなくて、かくの如し。豊かなること、思うべき也」

  「ここにて夜、按摩(あんま)の笛を聞く。髪ゆい床などあり」
  (佐渡を記した人23:川路聖謨(6)佐渡巡見 廖
 5)3月13日夷町を出発して湊町の浄土真宗勝広寺と日蓮宗妙法寺、その後久知河内(くじかわち)村の真言宗長安寺を訪れそれぞれ古文書に接し、河崎村へ出て船に乗って水津へ。
  (佐渡を記した人23:川路聖謨(7)佐渡巡見◆廖
 b.1852年来島した20歳の吉田松陰が橋で、
  「3月3日大風、或るは霰(あられ)、或るは雹(ひょう)。道路泥濘(でいねい)にして行歩頗(すこぶ)る困(くる)しむ。先ず湊・夷の間の橋に上り、湖海を眺望するに煙霧濛々(もうもう)として咫尺(しせき:一寸先)も弁ずべからず」と記している。
 (係わりの地72:萩(山口県)」
 c.1877年(明治10)フランス人カトリック教徒レゼー(神父1849〜1930)が佐渡への布教のため夷・築地に居住し最初に布教への足がかりの有力者と出合った場所。
  ( 佐渡を記した人21:レゼー神父(1)布教への足がかり」)
  「9日目の朝、8時頃外出して町を散歩し、夷(えびす)と湊(みなと)の中間の河に架けてある橋の上に立って夷の湖水と其の周辺にある山、格別金北山の美しい景色を眺めて居った
  後ろから「何方(どなた)です」と威張った声で呼びかけた人がいて、振り返ると50歳位の老人で、背が高く髯(ひげ)を蓄(たくわ)えて風采(ふうさい)卑(いや)しからぬ人であった。(当時、髯を蓄えるのは漢学先生か医師のみ)彼は、傲然(ごうぜん)として首を上げている。
  「佐渡は景色が良いと聴いて見物のために来ました。・・・」と答えると、彼は「左様(さよう)私は夷に生まれたもので医者です」と言った。・・・・」
 d.1899年(明治32)来島し1ヶ月余滞在した明治の文豪・尾崎紅葉の紀行文『煙霞療養』より。
    (佐渡を記した人:尾崎紅葉と佐渡(2):両津」)
  「風は強いが暑く、両津橋の税関署〔昔は番所〕は涼しいとのことで、町の見物かたがた出かける。
  ァ.「この港は夷町、港町の二箇町から成って、その境に両津橋が架かる。

   港欄干橋は 真ん中から 折れよと 船で通ても 止めりやせぬ

 と、夷甚句(前々からですが、現在の「両津甚句」)に唄ふものすなわち是で。町は南北に長く亘って、東に両津湾、西に加茂湖と、かたちあたかも眼鏡の玉の如く両様の水を湛へて、橋下に通ずる一道の流は、海と湖を結びつくるのである」

  ィ.「夷欄干橋の欄干に題す
    湖海(こかい)をつつむ 橋の袂(たもと)よ 汗拭(あせぬぐい)    」

  ゥ..「税関署に来て、「趣(おもむき)のあるのは、ここに一株(いっしゅ)の老松が幾百年の翠(みどり)濃(こまやか)に枝を交えて、税関署をその下におおいつつ、風に狂じ、波に塩たれて立つのである」

  ェ.「税関署の署員 鎌原氏がその松の名の命名を求めてきた。

 「佐渡は謡曲の最も行はるる処であるから、村雨(むらさめ)の松など可(よ)かろう。浪の飛沫(しぶき)に濡れぬ日とてもあるまいと、それを村雨に見立てた」

2)海辺には砂浜が広がり、家々の裏から海までの幅が広い。特に夷の方が気持ち湊より広い。広い砂浜が平沢まで続いていたことがわかる。
3)加茂湖は江戸時代から夷・湊の境に橋が架かり海と通じていたことが絵図からわかるが、明治の中頃まで淡水湖であった。
 a、1997年(明治年30)佐渡地区大豪雨により加茂周湖辺でも住宅や田んぼに大きな被害に遭ったことにより、1903年(明治36)夷・湊の間にある境川の川口の開削がなされた。これが川開きり、それを記念する祭りが両津川開きとして今日に至っている。
 b、境川の開削によって、海水が加茂湖に多く流入するようになって汽水湖となり、今までなかった海の魚は勿論カキ(牡蛎)の生息もみられ、特に加茂湖ではカキの養殖が盛んに行われるようになり、佐渡を代表する産業の一つとなっている。
 【参考:
 夷側の絵図上部に記されている文字(右より)
          〔参考:方角表示〕
      方角        
  夷御番一竿
  大尚其〇〇〇
  測量
  粟シマ 卯九〇     【現、新潟県岩船郡粟島浦村】
  飛シマ 寅〇〇     【現、山形県酒田市】
  鳥海山 寅三〇     【山形県と秋田県にまたがる標高2,236mの活火山】
  瀬波 アラ川 〇四〇 【瀬波は村上市、アラ川は村上の南を流れる荒川のある荒川町(現、胎内市)があった】
  大川野城 寅九七口  【両津湾小佐渡側の先に近い大川とその先端の野城、方角の中心地ははっきりしないが、夷旭町の海岸から両津湾を見て右の端の方角≒「」にあるのは、納得。
  浦川 子 七五     【「浦川」〜「松崎」〜「和木岬」まで両津湾大佐渡側。「子」は真北の方向、すると直感的に絵図に記された文字は読み取れないものが多くある中、「夷一ノ町」が基点・基軸とするといろいろなことが解ける気がした】
  平澤〇子        【〔夷〕⇁平澤⇁白瀬⇁松崎〔「北松ヶ崎」だろう〕は地理上合うが、白瀬の北が和木で 
さらにその先】
  白瀬鼻子五三
  松崎 子七二
  和木岬 子七〇
  宇賀〇〇五三
1903年( 明治36)当時の両津港の防波堤・桟橋の様子
(注)「点線は第三次整備計画による昭和45年(1970)ころの港の様子」  
 (『両津市誌下巻』1989年刊。以下『市誌』)                                 
両津港1
1)1900年代初めは防波堤といってもまだ岩石を敷き積んだもので水面上1m・長さ128m。
 a.日本郵船と渡津丸用のそれぞれ36mと55mの桟橋があった〔コンクリート造の埠頭でない〕。
 ァ.日本郵船の桟橋があるのは、
 顱忙杏が日本の海運の先駆的存在で財閥を築いたこと〔「1876(明治9)年、三菱会社(当時は郵便汽船三菱会社に改称)の活躍でわが国の海運会社は、内外航路に自由に配船できるようになった。1877(明治10)年の西南戦争の際、郵便汽船三菱会社は軍事輸送の主役を務め、信用と利益を得ると同時に、海運事業を飛躍的に発展させた:「日本郵船の歴史〕サイト〕、
 髻法〔声0歐契府は1869年(明治2)に佐渡金山を官営化し、その後1896年(明治29)三菱合資会社に生野鉱山と大阪製煉所と合わせ一括払い下げ佐渡金山をから一括払い下げとなった〔「三菱広報委員会」サイト〕、
 ことと関係しよう。
 鵝乏け振箸砲ける三菱の先進・ダントツ事例
  a)富山県伏木港について、「明治初期、廻船問屋の藤井能三ら地元の先駆者の努力により伏木港の近代化が進められた。1875年(明治8):岩崎弥太郎の三菱商会の汽船定期航路の寄港地となる」
   (
  b)河原田出身本間泰蔵が明治初期に増毛で商売、天塩國(現旭川市・留萌市・名寄市・富良野市・士別市を含む)随一の豪商と呼ばれた「旧商家丸一本間家」について、「明治20年(1887)海運業に進出。〔理由は〕当時、小樽を拠点とする日本郵船が日本海沿岸の海運をほぼ独占し、割高な運賃に加え、欠航も頻繁。冬は物価が数倍にもなったり、日常の米・味噌にも事欠く状態であった」
   (
  c)「明治13年〔1890〕頃、この夷港に三菱会社所有の船が大坂から北海道小樽を経由する、いわゆる西回り航路の寄港地となり、その頃三菱会社と競争していた共同運輸会社〔明治15年〔1882〕設立〕もこの所を寄港地とし、やがて船舶出入りが櫛の歯を引くように盛況を呈し、山茶花〔さざんか〕港の異名はこの有様を称してのもの」(『佐越航海史』橘法老箸)

 下の画像は、1917年(大正6)の両津港。「(乗合自動車よりもまだ)多くの乗合馬車が待つ沖には、北海道航路の大きな煙突を持つ蒸気船が積荷するハシケ〔艀〕がいそがしくいきかっている」(『ふるさとの百年』)。北海道航路の船であれば、小樽へは必ず行き、大きな蒸気船は日本郵船の船に間違いなかろう。
 この頃の防波堤は、岩石が敷き並べられている。
  6年
【湊出身で明治時代小樽で事業に成功し小樽商工会議所会頭などで名を成した磯野進・磯野商店資料】
 a)『佐渡安照寺史』梶井照雄/著より
  ァ)磯野商店の夷町本店と小樽支店の封筒の裏の印刷(年月不詳)
   東京海上保険株式会社夷港代理店  佐渡夷港
  米穀海産商 官塩元賣捌 金山味噌製造元 委託販売       
           磯野進本店
            電話(11番)
   小樽市色内町5丁目1番地
  米雑穀 魚油問屋 海産肥料
           磯野商店
         電話800番 2233番
  ィ)1926年(大正15)4月18日小樽市色内心5丁目の磯野進本人から安照寺住職宛名の小樽支店専用封筒に見る営業項目
  米雑穀海産肥料委託賣買 各国縄莚藁工品卸賣 佐渡味噌 官 元賣
  銘酒菊正宗特約販賣 鉄砲火薬 ダイナマイト 過燐酸肥料特約店
  b)『佐渡広場』より
      ァ)
  「明治5年(1872)生まれの磯野は、中央大学を卒業して明治30年に小樽へ出て、海産物を扱って磯野商店を興し、佐渡の味噌、縄・莚(ムシロ)、新潟の米の販売に成功し、小樽の有力な商店となった
  (1)明治32年の小樽での区制実施とともに区会議員となり、また商業会議所議員もつとめる。大正2年(1903)には第5代の小樽商工会議所会頭、さらに同14年(1925)、再び第9代会頭に就任するなど地元財界の実力者
 (2)富良野の北大沼に広大な磯野農場を持つ不在地主でもあった。大正11〜15年に40数人の小作人が争議を起し問題となった。小林多喜二の『不在地主』のモデルとなる」  
 (3)「唯一現存する磯野商店倉庫」「創建当時は3階建てで、1階には佐渡味噌、2階にワラやムシロ、3階には家財道具等が格納された」
 ィ) 係わりの地45:小樽・旧磯野商店倉庫」
  「『おたる再発見』第2部「会頭の系譜(二)」(北海道新聞社/編集・発行)より。小樽商業会議所(現商工会議所)の歴代会頭・・・六代目は海陸物産商 磯野進。磯野は大正2年(1913)に会頭就任。・・・(九代の後)同14年(1925)再び会頭となった。市制施行(同11年)の小樽の伸張時、商才力量抜群とうたわれた磯野への待望論が強かったのだろう。同14年8月、磯野は北海道会議所連合会のロシア視察団団長として1ヶ月間、極東ロシアを視察。帰国後の10月、東京の華族会館で革命後のロシアについて講演した」
 「北のウォール街」と呼ばれた銀行街。日本銀行旧小樽支店やその向かいの旧三井物産小樽支店、道の両側には旧北海道銀行本店、旧第一銀行小樽支店、旧三菱銀行小樽支店、旧北海道拓殖銀行小樽支店などの建物が並んでいる。それら建物の大半は、今は他の会社ビルやホテルや資料館に変わり、歴史的建造物となっている」
 【参考】東京海上保険株式会社(ウィキペディア「東京海上日動火災保険株式会社」)
 東京海上ホールディングス(株) 傘下の完全子会社。三菱グループの一員で三菱金曜会と三菱広報委員会に加盟。2004年合併以前の旧会社は、東京海上火災保険と日動火災海上。
 東京海上火災保の「前身・東京海上保険は日本最初の保険会社(海上保険会社)〔1879年(明治12)設立〕であり、売上高では、日本の損害保険業界トップ。かつての三菱財閥、2016年現在の三菱グループに所属する会社として発足」
 (参考は以上)

 ィ.渡津丸
 顱1872年(明治5)新潟港ー夷港に新潟丸就航
 髻1885年(明治18)越佐汽船創立、渡津丸運航48トン
 鵝鉾崎紅葉の紀行文『煙霞療養』より
    (佐渡を記した人:尾崎紅葉と佐渡‐(1)佐渡行き決心・(2)両津」)
   1899年(明治32)7月8日来島
 「信濃川の波が高く〔艀(はしけ)で汽船に乗るまで1時間要し〕汽船に乗るまで30分遅れの7時に新潟港をやっと離れた状況」」「6時間この波にもまれてさへ耐(たま)らぬと思うに」「汽船は、越佐汽船会社の度津丸(わたつまる)50トン」「(両津)湾内も波荒く桟橋(さんばし)に着けず、艀(はしけ)を出し・・・途中で『危ない、危ない』の一幕も・・・疲れ果て桟橋で横たわる乗客も」。
   画像:木桟橋と2隻の蒸気船、
   両津港桟橋
 木桟橋は1921年(大正10)竣工、画像左の船は1923年(大正12)就航の第八佐渡丸、右は1903年(明治42)就航の第15渡津丸(推定)(『佐渡の百年』)
1911年(明治44)竣工 夷八郎平町・須寿喜町埋立地(資料:『両津町史』)
八郎平町1
1)夷町町長斎藤八郎兵衛は、次の大方針を樹て1896年(明治29)夷町会を動かし町の事業として満場一致で加茂湖の湖岸土地造成への起工を決議せしめた。大方針とは、
 「日本海における従来の港湾は、航海術の進歩にともなわず、敦賀、伏木、酒田等の諸港は皆振るわず、ひとり我が夷港のみ北海にある故を以て、幸に、日本海航路の安全を保つことを得るのみ、されば港内出入の船舶は益々その数を増加し、従って商業日々に繁栄を極め、市中のにぎわいは国中第一たり。もしかのパナマ運河にして開通の暁を見んか、東洋の貿易は日本海に於て行われんこと、また期して待つべきなり。この時に当りて、本港の隆盛や炳(へい)として明らかなるべしと雖も、如何せん当町の地たる湖海の間に勺在せる細長の一砂州に過ぎざるは、土地狭隘にして当時の需要にさへ応じ難き程にてあれば、将来の発展を期するが如きは到底望むべくもあらず。誠に慨嘆に堪えざるなり。ここに於いて余は湖岸埋立工事を起して以て他日の発展に支障なからしめんことを欲す」
2)その後実地踏査」・書類作成に手間取り認可が下りない間に明治34年湊町・加茂歌代村(一部)との合併で夷町が両津町になり、町はこれを放棄。
 斎藤は仕方なく町会の承認を得て単独事業として行うことになり、湖口より湖岸に沿い福浦流し場川地先に至る3万余坪(≒10万屐頬篶の事業を出願したが、県は適当な資本を得ざる限り許可しないとした。
3)これ以後の経過。斎藤の回想録によるとある。
 a.明治35年10月新潟港日本郵船会社支店長浜政弘が、11月22日資本家並び共同者たる契約を結んだので県知事に上申。
 b.加茂村有志の反対陳述がある。
 c.小林本部書記、市橋藤蔵加茂村長の仲裁で明治36年2月8日この騒動は一応やんだ。
 d.加茂歌代有志が福浦地先に対して埋立の請願をした。この区域の埋立地権を加茂歌代有志に譲る。明治36年11月4日付埋立が許可された。
 e.日露戦争〔1904(明治37)2月8日〜1905年(明治38)9月5日〕に差し掛かり経済界の変動が激しく細民の失業者が多くなったので、県は細民救済のためにも3ヶ月以内に起工せよと厳命。
 f.浜氏〔新潟港日本郵船会社支店長〕に交渉したが浜氏は、1ヶ年延期説で如何ともし難く、遂には38年冬浜氏から契約破棄を言い渡された。
 g.佐渡郡前郡長吉田愛信等の好意によって新潟市在住の布施幸蔵が明治40年4月出資することを承諾したが、その後布施氏に家政上困難な事情ができ、新津の長井条助、村松の樋口次郎三郎及び田巻堅太郎等の援助を得た。
 h.明治41年着工したが一時中止。
 I.加茂歌代斎藤国蔵、本間太郎八らが土砂採掘の便を供した。
 j.明治42年再工事、4月第一期工事竣工式をあげた。造成された土地は無代払下となり、35年間免税の取り扱いを受ける。
 k.「埋立方法は、現在の栄町の土を鉄路を敷いてレールの上を、箱車(トロッコ)にのせて運んだ」
  「明治29年〔夷町会での事業決定〕から第一期工事成功の明治41年11月まで13年を要した。第二期工事は明治43年9月21日に着工し、翌44年11月竣工した」
  「はじめは夷湖岸から直接加茂歌代外城川北岸まで5,6万坪の計画であったらしいが、結局1万坪弱(≒33,000嵳勝砲遼篶造成に終わった。そして第一期埋立地を八郎平町、第二期埋立地を須寿喜町、両地をつなぐ橋を田巻橋と称した。
 この造成土地は、久しくそのまま放置されていたが、特に昭和3年の大火後、なお両津港築港、護岸工事の進展にともなって、主に漁業者が移転して、夷町の幅広い発展に寄与した」
1913年(大正2)竣工 湊・加茂湖水面埋立工事図
湊加茂湖造成
1)湊町の湖岸埋立について夷より早く明治12年に相川町の入桑正平、同24年新潟市中野平弥が出願」したが、波浪激甚、湖面1m程増水等難工事のため認可無効。同36年水井常次郎、藤井新太郎他45名が官有湖面埋立請願書を提出。願書は、
 一、位置:湊289番より336番までの地先官有湖面
 一、埋立面積:2,263坪8合7勺(≒7,500屐
 一、埋立目的:宅地海産物その他乾そう場
 一、着手期限:認可月より
 一、成功期限:満5ヶ年
 一、埋立法:「別紙設計書の通り」
2)6年目に町役場から返付・同年藤井新太郎ら42名連署許可願い提出・3年目の明治45年新潟県知事から許可。大正2年「代表者、藤井新太郎、三国吉次郎、三国武吉、藤井米蔵、塚本決治等に、自営工事(鴨湖水面埋立工事)竣工届(工費1,835円98)を知事宛て提出し竣工。なお、大正12年頃にも、これらの人々は湖面埋立てを続行し土地造成をしている」
1920年代の両津市街図 
 (1925(大正14)年9月発行「両津市街略図 名所及各営業案内」)
1)全体画像
DSC00122
  画像真ん中右に見える両津橋を基軸として
 a.上(概ね東)が両津湾・海側    
 b.下(概ね西)が加茂湖・湖側
 c.左(概ね北)が夷
 d.右(概ね南)が湊
2)夷中心部拡大画像
DSC09579
 a.橋の通りが夷本町通り。橋の袂から北へ七ノ町、六ノ町、五ノ町、四ノ町・・・一ノ町へと続く。湊の場合も橋の袂辺りは城ノ内でそこから南へ湊本町通りが5番町、4番町、3番町・・・1番町と続く。
 a.両津湾側
 ァ.「埋立地」表示の右(南)の道路は「桟橋(さんばし)通り」とあり、その向かいの敷地の端から斜めに海に走っているのが桟橋。
 ィ.「埋立地」の真上(北東)=沖に 「築港」(=防波堤:岩石)が平行して設置。 
 ゥ.画像で「埋立地」とある真ん中の道の左角に1937年(昭和12))夷魚市場が、加茂湖畔とは別に出来た。
夷魚市場夷魚市場遠景
  顱法愃甘呂良看』に、「前年まで加茂湖畔にしかなかった魚市場だが、新岸壁ができると資金を出し合い、この場所でこの市場を新設した」とある。
  大きな三角屋根の矢切り面に、「合資会社夷魚市場 電話32番」とこれまた大きな表示の看板。市場関係者60人余が勢ぞろいの記念写真。それを契機に魚市場の主力が海側になったのは当然だろう。
 髻鳳上は、昭和初期の両津港木造桟橋から海岸通りを撮ったもので、左端に佐渡汽船事務所、右端の4軒目くらいの所に三角屋根の魚市場が見える。〔とすれば、撮影は「昭和初期」でなく、昭和12、3年頃と見るのが妥当か〕
  海岸通りに6m幅の道路ができたのは大正10年〔1921〕(『佐渡の百年』)、両津築港について大正4年〔1915〕から行われた改修工事は、22年の歳月、人員延100万人、工費120万円をかけて昭和12年(1937)10月に完成した。埠頭工事は前年に終わった(『ふるさとの百年(佐渡)』)。
 鵝砲修了埔豬物前の道路の海沿いが岸壁。漁船が発着、魚が水揚げされ、セリが行われた。
  1954〜55年頃小さいフグが大量に魚市場の岸壁に集まり、いちいち釣るまでもなくタモで掬い上げ、バケツ一杯になるまで入れた。別に後で食べるわけでなく、適当に一匹ずつ手にし、口元に空気を送って体を膨らませ、それを地面に捨て 足で踏んで破裂させて遊んだ。
   ェ.「埋立地」の左端の向かいから「築港」に向けて防砂提:岩石)が延びている。但し、築港と繋がって(=海流を塞いで)おらず、海水が両津湾ー築港ー桟橋ー防砂提ー両津湾とどちらからでも循環するようにしている。
 「埋立地」「防砂提」の左は、後年さらに造成され昭和20年頃新興住宅地として12軒が建ち並ぶ旭町ができるのであるが、大正末の市街図にはそのような雰囲気は全く見られない。
 b.加茂湖側
 ァ.本町通りから一筋下が、左へ八ノ町、神明町通り、築地の通りと続き、その一2筋下が八郎平町などの通りで、さらに下は加茂湖。
 ィ.当時魚市場は海側にはなく加茂湖側にあった。
  顱鵬晋里は、防波堤・防砂堤の設置など港湾整備が進んでいなかった時代、加茂湖の方が漁船の発着・魚の水揚げ、魚の捌き(セリ=売買、保存加工、保管)面で遥かに安全性・利便性に優れていたことによる。
  髻乏搬膕菫では加茂湖湖畔は左に向かって、
   佐渡物産倉庫、松田造船部工場、夷魚市場、運送会社倉庫、同じく運送会社倉庫、信濃屋倉庫との表示が見える。なお、画面上の夷魚市場のある並びは1950年代に民家が軒を並げ、小学1〜4年まで同じクラスの友達の家がって、築地時代はそく遊びに行った。彼の家は木造船の造船屋で、家の奥は造船場で加茂湖に通じていた。
  【現時点のgoo地図では、松田造船所があり道路をはさんで加茂湖漁業協同組合〔おそらく元夷魚市場があった場所〕がある。なお、築地のゆたかや旅館も同じ場所で今も営業。1925年から起算すると92年経過】  
 ゥ.築地時代の冬に雪の積もった時の遊び場は、画像からは本町通りの或る両角に鈴木雑貨店(業種は当時は知らぬが、後のおもちゃ屋)と新屋(アタラシ家:業種不詳)があり、そこから加茂湖側へ下る坂道、通称「つる家の坂道」。
 顱1950年代当時は既に鈴木雑貨店は(玩具屋の)つる屋」(同級生がいて姓は「鈴木」)で、新屋には「山角(やまかく)呉服店」が入った。築地の場所等を示すのに「山角の角」とよく使ったのは、当時として珍しい3階建ての建物で目立ったからだろう。
 髻某群函覆△燭蕕群函砲話戮ても50年代早々には拡大画像上「〒夷局」とある辺りへ移っていた。
  幼稚園時代は、旭町にある家から築地の海星幼稚園(通称「キンダホール」)に通っていたが、築地の叔母さんが帰り迎えに来てくれて築地の家へ寄り、いつ頃からかそこから独りでつる家の坂道を上って本町通りに出て、おもちゃ家の「アタラシ家」のハイカラなショーウィンドーからいろいろな玩具を覗いて見るのが楽しみであった。これも子供の遊びの一種に違いない。
  これを書き込んでいるとき、旧ソ連の作曲家ショスタコーヴィッチ(1906〜1975)の最後の交響曲第15番(1971年作曲)の第1楽章出だしとそれに続くロッシーニ作曲の「ウィリアムテル序曲」の一部引用のメロディー、購入したCDに付いていた第1楽章の「解説」(幼い頃おもちゃ屋のショーウィンドーで見た時の雰囲気をロッシーニの有名な序曲から引用して表現)を思い出した。「解説」を捜したが英語等で日本語は失くし 以下はさわり部分。
 The most often-quoted is ・・・・that the first movement represents a toyshop and that the whole symphony is a birth-to-death piece.given that toyshops,
in the world of literature of the cinema for instance,・・・・
  やはり、” the first movement represents a toyshop ”とあった。
 a)ウィキペディアには、「作曲者自身は、深夜のおもちゃ屋さんをイメージしたと述べている」「息子で初演者のマクシム・ショスタコーヴィチ〔1938年〜〕は、幼少の父が最初に好きになった曲であることに由来すると説明」とり。ここでは、「幼少の父が最初に好きになった曲」以外は、期待内容から外れた。
 b)脱線するが、ちなみに私が聴いてメロディーを覚えている最初のクラシック音楽曲はチェコの作曲家ドルドラの『思い出』。幼稚園時代昼のお寝んねの時間に蓄音機で聴かされたもの。そのことを思い出したのは、確か小4の時で音楽の時間にレコードを聴き、すぐに思い出した。以来 曲は聴いてないが、作曲者と曲名は覚えている。
 今年5月頃どういう訳かユーチューブの検索で初めて聴いた。計算すれば小4の時以来60年ぶり。この6月26日(月)新潟の自宅から歩いて近い音響装置抜群の店「もみじ屋」で初めてリクエスト。
 なお、「最初に好きになった曲」は、私の場合モーツァルトのトルコ行進曲(ピアノソナタ第11番イ長調 K.331第3楽章)。多分小5の音楽の時間レコード鑑賞。余りの感動で以降 朝学校へ行く前ラジオのダイヤルをグルグル回し、やっているかを探した。確率はゼロに等しくそれが何十日続いたかわからないが、曲の途中を含め2・3回当たった。
  鵝法嵶詭攣┣濺后廚函屏夷局」の間と下は、空白になっている。画像上「鈴木雑貨店」の隣りに後述する中沢仲助商店、さらに他数店並ぶが、その頃はまだ民家だったのかもしれない。下の空白の半分くらいは、1950年代は子どもの遊び場にもなった(後述)。
 c)脱線追加:06年1月11日号「鶴岡と佐渡(その1)」記事。
 「・・・実質、鶴岡と佐渡しか残っていない建造物があります。それは、パピノ神父によるカトリック教会天主堂です。鶴岡カトリッ教会天主堂は、フランス人ダリベル神父の全財産と寄付により明治36年(1903)に建築。「設計は、佐渡の両津教会や京都の旧ザビエル教会(現在は明治村に移築)など日本の教会堂を数多く手がけたパピノ神父」「明治ロマネスク様式建築の傑作としての国重要指定文化財」と「鶴岡観光」サイトに記されています。

 私事になりますが、鶴ヶ岡城跡の鶴岡公園付近(公共機関・銀行等が集積)に訪れるたびに何となく気になっていた(遠くから時々顔を覗かせる)赤い三角帽子の屋根との関係が、今回はっきりしました。 近づくと、教会に隣接して「マリヤ幼稚園」があり、佐渡と同じだという好奇心が高まりました。敷地中に入って目に留まったのは、マリア像。思い起こせば、園児の頃、室内に掲げられたマリア様の画像の下で遊んでいたし、向かいにある教会周辺(記憶では鬱蒼として怖い場所)にマリア像の祠があったのでないかという想いがします。小四の頃と思いますが、音楽の時間に、ドルドラ(チェコの作曲家)の『想い出』という曲を聴いた時、この曲は園児の時に聞いた曲ということを判ったのをはっきり覚えています。今となって記憶はハッキリしませんが、多分「お昼寝」の時間に入るときに、聴いた(聴かされた)のでないかと思います。 多分、蓄音機で・・・。」                  
1952年(昭和27)10月30日両津
     (山田昭夫氏写真提供)
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1)写真上方(北)の防波堤(通称「築港(ちっこう)」)は、南の防砂堤の先端から南東へ長く延びる築港と当時は繋がっていない。
 a、築港の陸と繋がった部分から南の防砂提へ弧を描いた砂浜(逆に北へ行くほど広い)になっているのがわかる。途中にある白い四角は、通称「れーとー(冷凍)会社」(現(株)セイヒョー(新潟市:前は「新潟製氷冷凍(株)」)の建物。1948年佐渡工場開設)。昭和26年の時化で専用岸壁崩壊(要確認)。
 そこから海に沿って防砂提までの約半分までが、当時としては新興造成地の旭町、残りは現在羽吉浜漁業協同組合の事務所兼倉庫(要確認)。

 b、防砂堤の先端と南東へ長く延びている築港の先端は当時繋がっていない。
 ァ.防砂堤はたくさんの大きな岩石で出来ていた。岩伝い築港の突き出た岸壁(人が泳いで渡って上がれる)に面した先端まで行った。そこで魚やサザエを獲った。魚は、釣り竿よりタモの方が多かった。2〜5本の尖ったヤスも中にあった。築港同様にバクトウ(ベラ、キュウセン)、アブラメ、コウグリ、サヨリ、ハゼ等がいて魚の宝庫。
 顱貌鄲Δ、比較的浅瀬で海底は砂地。当時「らんべえ」と呼んだフワフワした茶色で直径3〜5僂らいの丸型の軟体動物が、至るところに巣を作っていた。
 a)らん丸という壊れた木造船が沈んでいた。魚の棲みかであった。
 b)多様な形態といろんな色をした「べこたこ」(学名:アメフラシ)が、たくさん岩にくっついていた。子ども心には大変気味の悪い存在で、見つけると棒などで突いて岩から落とした。その際、紫色の液体を出した。これまた、気持ち悪かった。そう言いながらも、遊びであろう。
   ウィキペディアに次のようにある。
 アメフラシは、腹足綱後鰓類無楯類 (Anapsidea, Aplysiomorpha) に属する軟体動物の総称」「アメフラシにつつくなどの刺激を与えると、紫汁腺とよばれる器官から粘りのある紫色(もしくは白色や赤色)の液体を出す。この液は、外敵に襲われた時に煙幕になり、あるいは液が外敵にとって不味いためそれ以上襲われなくなるのではないかと考えられている」
 c)ハゼやヒラメ、サヨリなどがいた。
 髻頬迷
 a)南側よりはるかに深く、海底は砂地でなく石や岩が多く敷き詰められている感じだった。流も激しく、余り泳げない人には危険、浮き輪が必須。
 b)海中に潜ってサザエやアワビが岩と岩の間などで採れた。
 c)オコゼ、シマダイ、チンダイ(クロダイ)などがいた。
  【なお、築港も東側(沖の方)と西側(陸の方)では、当然海の深さ・波の荒さの違いもあり魚種(海藻含む)は若干違う】
 ィ.防砂提と築港の間は20mはあったと思う。夏になると小学の高学年であれば大抵泳いで築港へ渡ったが、小学1〜2年の頃までは怖くて渡れなかった。せいぜい大人の肩にしっかり捕まり渡ったものだ。小3の夏と思うが、ある時思い切って単独で決行。やってみれば、どうっていうことなく簡単・楽に渡れた。
2)防砂提の写真左(西)側部分から下(南)へ下って突き出た部分までの港岸道路が、海岸通り。
3)湊。
 a.海岸は、夷に比べ浜辺部分が極めて少ない。
  また、南北を走る道路が本町通りと加茂湖側の若宮通りの2本しかない。
 b.加茂湖側に広い敷地があるのが、両津小学校と両津中学校のグラウンド。
 校舎は、3棟並んでいるのが見える。
 c.加茂湖に無数の白い点が見えるのが、夷もそうだがカキの養殖筏〔いかだ〕。
 ァ.『両津市誌』によれば「終戦(昭和20年)後の10年間が最盛で1斗樽に一つが、米1俵の値段に相当し、かき成金のことがば生じた」とある。また、県水産課の指導で、全体の筏台数を3700台、一台の坪数十坪に制限したときもあった。(『吾潟郷土史』)。
 ィ.2015.1.23 水産多面的機能発揮対策支援事業事例報告会の「佐渡島加茂湖の環境保全」資料サイトより、加茂湖のカキ養殖業の変化
             1970年頃   現 在
 カキ筏の台数:   3000     600
 養殖業者の数:    200      60
1969年(昭和44)頃の両津全景(同年刊行『両津町史』の巻頭写真)
両津全景2
 【1952年の写真(前掲)との違い】
1)築港の北側は砂浜だったものが、造成されている。現在、佐渡魚市場はそこに所在。
2)2つに離れていた築港が、繋がっている。
3)防砂堤が無くなっている。
4)北側の築港から南の防砂堤までやや湾曲した砂浜は無くなり、直線になっている。(後掲「旭町の現在の海岸」写真参照)
5)海岸通りの北端から東の防砂提へ行く道の部分が広がっている。【写真からは北から南西に向かう築港が角度を南南西へと変えた辺りが防砂提が接近していた所で、前の写真と比較する敷地が南へ延びているのがわかる】。確か小学5,6年〜中学時代(1958〜1961)は砂地で広い空地、時々魚箱が高く積んであったりで、子どもの遊び場であった。そこでボール野球をしたり(非公式・遊びの町内対抗あり)、隠れ家を作ったりして遊んだ。
6)湊側では両津港南埠頭が造成中。1974年共用開始。現佐渡汽船両津ターミナルビル、カーフェリー・ジェットフォイル発着所。南埠頭に対し夷側の旧埠頭は北埠頭という。
第三次港湾整備5ヶ年計画による新しい両津港の姿(以下、『市誌下巻』)
 1970年(昭和45)5月「両津市政だより」
両津港9
1)画像左端 防砂提が延びていた所は「昭和35〔1960〕年埋立〔完了〕」とある。
2)「〔昭和〕41年度〔1966〕以降港の利用状況は人員・貨物共に激増したため中央埠頭は手狭となり、港の整備拡張の必要に迫られ、第三次港湾整備5ヶ年計画が作られ、43年度〔1968〕から工事が始められた」。1969年カーフェリーおおさど丸1865t就航。
3)1971年第四次整備計画に引き継がれ、1972年4月南埠頭共用開始。港は、72年・73年人員・貨物共増加。 1972年カーフェリーこがね丸3026t就航、1973年カーフェリーおとめ丸3495t就航。
第五次港湾整備計画案(1974年2月「広報りょうつ」)         
両津港5
1)計画が立てられたのは、1974年。
a.上越新幹線の1982年開通に対応し、百万人観光を目指す広域観光ルートの拠点港となるため。
b.「計画目標は、昭和60年〔1985〕船舶乗降客数392万人、取扱貨物量535トン」。
2)1976年から着手したが、「石油ショックによる不況で、乗降客・貨物共に伸び悩んだため、54年に計画を一部修正し(第六次)整備が続けられた」
第七次湾整備計画図(10年後の両津港)(『市誌』)
  1986年(昭和61)2月「広報りょうつ」
両津港⒑
1)「昭和60年〔1985〕に第七次計画案がまとめられた」
  昭和70年〔1995〕の完成を目指し、10年計画で工事が進められる。
2)計画決定には、利用客が伸びていない・貨物も停滞しているなどで縮小すべきの意見もあったが、
  専用貨物埠頭がない・今後佐渡観光の拠点港として大型客船の寄港が期待される・高速交通時代に対応できう港湾施設が必要であるなどを訴え、「この計画案を県にまとめてもらった」(「広報りょうつ」)。
3)「この事業費は百億円余りが見込まれている。完成すると6000t級の大型船の着岸が容易となるほか、幅17mの臨港道路や緑地、駐車場の整備などで、「あすの日本海をひらくまち両津」にふさわしい躍進の港となることが期待されている」

4.夷時代の遊び場例
 以下、子ども時代を過ごした夷旭町時代(1946〜1954年途中)と夷築地時代(1954年途中〜1959年の中学までが対象))に区分して記述する。
(1)夷旭町(両津湾側)
1949年頃の浜辺
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(下の写真は、昔旭町にあった我が家の裏付近から2017年元旦に撮ったもの)
旭町2017元旦旭町1917年元旦1
1)古い写真は1949年頃(3歳頃と推定)。家々の裏から海までは10m以上ある砂浜であったことがわかる。また、防波堤(「築港」と呼んだ)がまだ延びておらず、浜の向こうは波を遮るものはないそのままの海だったことがわかる。
2)遊びと直接には関係ないが当時の竹製の乳母車(うばぐるま)、今でいうベビーカーの中に入って立っているのが見える。写真右の近所の「くわがらや」(屋号)の兄ちゃんから砂浜で体を高く持ち上げられ砂地にゆっくり降ろされるの繰り返しで構ってもらった憶えがある。(これも、大人と幼児との間の一種の遊びに入るだろう)
3)落とし穴を作ったり、いろいろな砂遊びしたり、沖に向けて石投げしたり、真ちゅうや鉄くずを拾ったりした場所。
◆嵶渉渡僂茲螳按を望む」(資料:『佐渡の今昔』)
 1951年(昭和26)           2005年(平成17)
旭町15旭町17
下は、2017年元旦旭町の浦から撮った写真。
1)「昭和18年〔1943〕頃両津町から宅地造成した土地が旭町の町名で12戸の家が建った」「昭和26年(1951)11月の時化により〔写真〕右端の製氷会社の足元の地面が波にさらわれている」〔画像では右端に近い入母屋造りの大きな建物が扇屋旅館、道路をはさんで写真では見えないが製氷会社〕
 a.1951年の大波のことはよく憶えている。当日夜、ヒューヒューという屋根や建物のすき間をぬう風とドドーンドドーンと岸辺にぶつかる波の音を聴きながら家族全員が家の奥(海に近い方)の土間(炊事場・小上がりで飯台の置いてある食事場・風炉場・便所)に魚箱かリンゴ箱か石油缶の上に腰かけ嵐が過ぎ去るのを待った。そのに小屋があってすぐ砂浜。まずは小屋に波が打ち寄せてさらわれないかを心配した。
 ァ.昭和26年の時と資料から知り、すると5歳の時とわかった。
 ィ.この時、「製氷会社」(子ども時分は「レート―(冷凍)がいしゃ」と呼んでいた。現(株)セイヒョー(新潟市)、前は新潟冷蔵)の桟橋が潰れたとどこかの資料にあった。そこは、当時子どもの遊び場ではないが蓋がしてあったタンクがあり、蓋を少し挙げると腐った魚のガラが一ぱい入っていて強烈な臭いがした。これも遊びに入るだろう。当時、何でこんな汚く臭いもんが貯めてあるのか、疑問・関心持たないまま半世紀過ぎた。それが貴重・高級肥料=魚肥と知ったのは2008年の時。
  (「08年01月24日号「歴史スポット31:自給自足(7)肥やし」)
 ゥ.翌日、多分幼稚園から家に帰ってきて裏の浜へ出るみると、大きな水たまりが出来ていた。これは、確かにあっただろう。
 b.画像には、道路と道路の間に12軒並んで建っているのがわかる。左から3軒目が我が家。
 ァ.砂浜の家の近くに多分内蔵などを取り除いて2つに開いたスケト(「佐渡魚」)(学名:スケトウダラ)がカタセとして干されているのがわかる。
 ィ.朝起きたら海が広がって見える浜へ行く。当然清々しくでいい。
 顱貿箸硫擦癲△修了の海上の天候によって変わる。そういえば、波音には、周期・リズムがあり、強弱は勿論、喜怒哀楽のような質の違いもある。
  a)話は脇道にそれるが、太宰治の紀行小説『佐渡』にこんな文があった。両津の旅館で泊まったときのこと。
 「明朝は、相川へ行ってみるつもりである。夜半、ふと眼がさめた。ああ、佐渡だ、と思った。波の音が、どぶんどぶんと聞える。遠い孤島の宿屋に、いま寝ているのだという感じがはっきり来た。眼が冴えてしまって、なかなか眠られなかった。謂わば、「死ぬほど淋しいところ」の酷烈な孤独感をやっと捕えた。おいしいものではなかった。やりきれないものであった。けれども、これが欲しくて佐渡までやって来たのではないか。うんと味わえ。もっと味わえ。床の中で、眼をはっきり開いて、さまざまの事を考えた。自分の醜さを、捨てずに育てて行くより他は、無いと思った。障子が薄蒼くなって来る頃まで、眠らずにいた」
  b)紀行文によれば、新潟高等学校で講演した日に学生と共に新潟の浜辺へ行き、そこで偶然佐渡を眺めて興味を持ち、翌日(昭和15年11月17日)佐渡へ観光のため渡った。
  c)両津のどこの旅館かであるが、波の音が聞こえたとすれば、当時からあったとすれば旭町の今は営業してない「扇屋旅館」(画像には見える)が最有力、次には同じく当時からあったとして現在も営業している旭町から一本奥の道に面した「まるか旅館」(当時は、海の近くだったかもしれない)、三番目は、今はないが夷の老舗旅館江戸時代佐渡奉行の泊まる本陣宿「本間旅館」。裏の合い向かいに町があり、その向かいが旭町で、果たしてそこでも波の音が深とはいえ、聞こえただろうかという難点がある。そこでも聞こえるとすれば、文化人が泊まる格式から言って最有力〔『島根のすさみ』より「ここの本間という泊った本陣は、佐渡の国主の本間の末裔で、今でも豪家」(08年2月26日号「佐度を記した人23:川路聖謨(6)佐渡巡見➀」)〕。それだけでなくその当時からあったかどうかわからぬが海岸通の今は営業してない「富山館」も可能性としてある。多分大正期に加茂湖側にあった魚市場が海岸通の造成によって移転、当時沖での築港増設が進んでいれば、波が「どぶん、どぶん」と聞こえるはずはない。
  【追記:7月7日。先日渡辺和弘氏(前掲)との電話の中で扇屋旅館は戦後間もなく神明町から旭町に引っ越したとのこと。そのため、本間旅館が確実になった】
  髻縫縫錺肇蠅量弔声が、あちこちから聞こえて来た。コケコッコーと一方がいうと、必ずどこからかコケコッコーと返ってきた。当時、多くの家でニワトリを飼っていた。
  a)我が家も飼っていてある時は七面鳥もいた。普通のニワトリと違って茶色っぽい大きい卵を産んでいたように思う。
  ァ)七面鳥はクリスマスに丸焼きにして食べる習慣があったことを思い出し調べると確かにそうであった。父は、家で飼っていた鳥は食べないと言っていたのを思いだす。七面鳥のことに違いなかった。
  ィ)その七面鳥は、誰かに売ったか贈ったか、1年たらずでいなくなったように思う。それを憶えていたのは、近所では見かけない珍しい鳥であったからだろう。
  b)「チャボ」と呼んでいた小型で茶色っぽい色のニワトリも飼っていた。その「チャボ」を両手で持って砂地を歩き海に向け投げて驚かせ、必死で陸に逃げるのを面白がった記憶がある。これも遊び。
【「からかう」とは、ジャンルが若干異なる。
 例:猫が捕まえたネズミを食べる前に玩(もて遊)ぶのと似ている。旭町時代から捨て猫の雌の三毛猫が住み着くようになり父は追い払うに忍びなく飼い猫にした「タマ」が、築地に移転した時も当然一緒で、そのタマがネズミを捕り弄〔もてあそ〕んで食べるのはよいとして、遊び過ぎてうっかり逃がしてしまったことがあった。
 イルカにも〔人間も同じだが〕同じような残虐姓がある。ウィキペディアに次のことが載っていた。
 イルカは、「コミュニケーション能力あかは高く、人間のようないじめも行うこともわかっており、魚などを集団で噛み付き弱らせ弄んだ挙句食べずに捨てる小さな同種のイルカや弱ったものを集団で噛み付くなどして、殺すなど集団的な暴行行為も行う」。海中から獲物(あるいは、イルカの赤ちゃんか)を何度も突き上げて空中へ飛ばして遊んでいると思われる哺乳類は、イルカだろう。食べられずに傷だらけで死んでいる赤ちゃんイルカが何匹も浜辺に打ち上げられている事実は、よく知られているようだ】
1951年(推定)旭町時代。
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1)上の写真で気づいたことは、当時の主な遊び場は、家の前の道路より家の裏庭・浜辺。なお、この時代家の前の道路を馬が通ることもあった。
2)二輪車ならぬ後部左右に輪が付いているいわば四輪車。
 a.付属の2つの輪に頼らず、二輪で運転できるようになっている。
 b.自転車のサドルにまたがっても何とか足が地面に付くくらいに成長した時の写真
3)小1か2の時、大人が乗る自転車をこいだ。
 自転車の左に立った位置から両ハンドルを両手でしっかりと握り、右足を右側のペダルに載せ、瞬間左足を上げて左側のペダルにのせ同時に回すもので、タイミングと身体と自転車との左右のバランスを要し、普通立って自転車に乗るよりもはるかに難しい。
1952年頃海星幼稚園
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1)左画像からは名前は忘れたが半円鉄棒・すべり台、右の卒園記念写真からは紙て作った西洋風お城・セルロイド人形が見える。
2)当時の幼稚園には、今もそれほど変わらないと思うが、他にブランコ・鉄棒・シーソー(ギッタンバッコン)・砂場・ジャングルジムがあった。
(2)夷築地時代((加茂湖側)
 築地時代の画像:中沢仲助商店(当時、通称「仲助」)の魚干し場の子どもたち
 1956年(推定)頃の写真:根拠は、2歳上の「ちー坊(ちせい:漢字不詳)君」、1歳上の「しゅん坊(俊三)君」がいて、一般に中学になると、小学生と遊ばなくなり、小学生も嫌う。私が小4の時とすれば最年長が小6で合う。
 なお、同年齢の「まさ(雅介)」、2年下の「よし坊」(2人いて漢字は違う)、4歳下の「しんじ」と「たんこう(たか坊)」、もう一人(吉野家の子どもと思うが、呼び名は思い出せない)。
 【目上には「〇〇坊君」と呼んだ。同級には名前の最初の漢字名を呼んだ(例:睦義は、「むつ」)、年下は「〇坊」(中には母親も我が子をそう呼んでいた。夕方になると母親が家の前から仲助広場に向け大きな声で、例えば「よし坊、たか坊」と呼んでいた。他に一人通れるくらいの狭い小路を入った所に少しばかりの空地があってそこも遊び場になっていた。】
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1)子どもたちが並んでいる前は道路から5m程隔てている。
 a.魚干しはそこまでは使わず、空いていることの方が多く、恰好の遊び場だった。
  ァ.干していたのは、イカ(スルメ)が主で、他にスケト(カタセ)。
  ィ.魚箱を前と後ろの台にし(画像右端に見える)、その上に同じ長さの長い角棒を左と右の端近くに並行して置き、その上に巻いていた簾(すだれ)を広げ敷く。
  ゥ.簾の上に内蔵や口や軟骨を抜き取って開いて塩水に浸したイカを一枚一枚、無駄なすき間がでないよう丁寧に置いて干す。(1匹のイカの足の先端部分に2匹のイカの耳が入るようにすれば、有効に場所が使え見た目も均整がとれて綺麗。
  ェ.築地の一本加茂湖よりの道路の八郎平町には旅館が多く、浴衣姿で通りがかりの観光客が物珍しそうにその風物を見ていたものである。当時は街中といっても本町1本裏の裏(浦)街通りは車が余り通らないから、排気ガスで困るようなことはなかった。
  ォ.イカ干しはウェブで調べると 全国的には吊るして干す(中に2〜3段で)のが多かったと思われるが、佐渡の場合、簾に横に並べて干すのが通常。浜を含めて場所が広かった(広い浜辺で海から比較的遠く離れ、家の裏から近い)・風が強く吹かない場所があった(例:加茂湖畔)ということであろう。
 b.子供たちの後ろの建物は、干した魚の保管倉庫。夕方になると、従業員2人が前と後ろになって角棒を両手に持ち上げ倉庫に運び、そのまま順次積み上げた。角棒によって簾=イカと簾=イカに空間ができ、倉庫内でも乾燥が進む。
 c.その倉庫もかくれんぼの隠れ家になった。
2)仲助広場での遊び
 a.ボール投げ・キャッチボール。魚干しの簾と箱がいたる所になければ、柔らかいボール球で野球。
 b.上記の空きスペースでは、ボール投げ、パンやこま、縄跳び等いろいろ。50年代終わり頃からはバトミントンも。また、紙芝居屋が来てその空地を利用。
 c.店のオーナーにはさんざん迷惑かけたと思うが、今から思えば相当な人格者でなければ出来ないこと。お蔭で道路遊びの事故は近所で聞いたこと全然なく、みんないっちょめーに成長出来た。この年になって今やっとそのことに気づいた。既に手遅れだが感謝。現在も営業している。5年程前新潟のある会社の副社長と話をしていた時、銀行マン時代佐渡へ出張した折の土産は中沢商店のスルメイカと決まっており、この前夷の街を久々に通った際 店へ寄りスルメを買ったがやはり美味かったとのこと。なお、少なくても1955年までは蒲鉾も製造していたのははなかったか。
 d.現在の光景(2017年6月7日撮影)  
  魚干し場(かっての築地の子どもの遊び場の一つ)は、目測で概ね20×20mと知った。     
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 3)現在の築地の通り(2017年6月7日撮影)  
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1)左画像:築地と神明町の間の通り
 a.かっての材木店が角にあり、道路沿いの2〜3棟の建物の奥に材木倉庫があり、遊び場になった。主な遊びは、かくれんぼ。
 b.画像左端に見えるのは、加茂湖。画像で見える湖畔部分の丁度真ん中辺に、いつ頃からか浮御堂があった。そこに架かるほんの小さな橋があり、そこも遊び場。そこから湖中の魚の様子を見たり、タモをもって掬ったりして遊んだのであろう。数年間はもった。そして、いつか忘れたが台風にやられそれっきりになった。
 c.道端でゴムボールの野球をよくやった。アンダースローが多かったが、大きくなるとオーバースローでやったものだ。柔ら内ゴムボールであったから、窓ガラスにぶつかっても割れる心配はない。
 ァ.中学へ入る前後からグローブを使って軟球でキャッチボールをした。場所は、画像で駐車している自動車のいる側とその当たり。3年は上の先輩で中学で野球部のピッチャーをしていた人が隣の神明町にいて、その先輩相手にキャッチャーの相手をしたものだ。ミットは持ってなかったからグローブを使ったと思うが、スピードボールをヒヤヒヤしながら受けたことを憶えている。また、痛かった。
 ィ.中1か2の時だったと思うが私が投げたボールが大きくバウンドして当時木造の吉田屋旅館(画像では5,6Fのコンクリート造建物)のガラス製の大きな案内看板にぶつかり壊してしまったことがあった。勿論、親が弁償。
2)右画像:築地の通り(なお、画像右端角にあった仲助広場は築地でなく「本町」、同じく遠くに正覚寺とお墓が見えるところは「夷新」に入る)。
 a.いつから取り付けられたのか、1976年(昭和51)頃築地から吾潟へ移ったからわからないが、両津料飲店組合の歓迎ゲートが目立つ。
  画像で説明すると、画像左に加茂湖があり、湖畔にホテル・旅館街が形成。その建物前の通り(八郎平町通り)が築地通りと並行していて、料飲店街は築地通りに続く神明町通りにあり、その通りのいわば玄関口に設けられた。
 b.築地の通りでは、あまりゴムボールなどでの野球やキャッチボールはしなかった。思うに、  
  ァ.本町商店街とは並行して走っている道のため車の通行量が上記の道に比べはるかに多かった、
  ィ.仲助広場を使わない手はないということだろう。
 c.夏は、家々の前に縁台を出し、大人も子どもも涼んでいた。子どもはしてなかったと思うが、縁台将棋をやっていた。バトミントンは、野球に比べ家の前でよくやっていた。
  冬、雪の積もった頃は、竹スキーなどをやった。一人乗りのソリに2人乗りして遊んだ。雪が積もった時は、車が殆ど通らないか徐行運転のため、わざわが上記の神明町との間の道路へ行かなくても、家の前の道路で充分遊びができた。なお、本町から築地へ下る「((おもちゃ屋)つる屋」の坂道は、雪の積もったときは最もよく利用した。スキーやソリのスピードが増すからである。

5.まとめ
〕靴屬茲螻悗屬大事は常識。結論はまだ早いが、「学ぶ(勉強する)より遊びが先」の結論になる予感がする。もっとも、どこまでの哺乳類の生態を知っての論か?、人間であればどの年齢層を対象にしての論か?の設定が必要。
◆嵳靴咫廚砲蓮非常に深い意味が隠されている。これも直感。
1)「遊び」の類似語。(資料:ウィキペディア)
 a.「シュミレーション」
  「シミュレーション(英: simulation)は、何らかのシステムの挙動を、それとほぼ同じ法則に支配される他のシステムやコンピュータなどによって模擬すること。「模擬実験」や「模擬訓練」とも」「例えば、社会現象などにおける問題の解決方法を探る時など、(悪影響があるので実社会ではとりあえず試せないので)実際の社会と似た状況を数式などで作りだし、コンピュータ等を用いて模擬的に動かし、その特性などを把握するのに用いる。例えば・・・経営に関する様々な事象を数学的なモデルに置き換えてみて、様々な数値を入力したり変化させることで、結果を推定する。
 b.「ゲームの理論」
  ァ.「
経済社会における複数主体が関わる意思決定の問題や行動の相互依存的状況を数学的なモデルを用いて研究する学問である数学者ジョン・フォン・ノイマン経済学者オスカー・モルゲンシュテルンの共著書『ゲームの理論と経済行動』(1944年) によって誕生した。元来は主流派経済学(新古典派経済学)への批判を目的として生まれた理論であったが1980年代の「ゲーム理論による経済学の静かな革命」を経て、現代では経済学の中心的役割を担うようになった。
  ゲーム理論の対象はあらゆる戦略的状況 (
: strategic situations)である。「戦略的状況」とは自分の利得が自分の行動の他、他者の行動にも依存する状況を意味し経済学で扱う状況の中でも完全競争市場独占市場を除くほとんどすべてはこれに該当する。さらにこの戦略的状況は経済学だけでなく経営学政治学法学社会学人類学心理学生物学工学コンピュータ科学などのさまざまな学問分野にも見られるため、ゲーム理論はこれらにも応用されている」
 ィ.「ゲーム理論が誕生する遥か以前、経済学の祖
アダム・スミスは主著『道徳情操論』(1759年

)において人間社会を「偉大なチェス盤」に喩えていた(第6部「有徳の性格について」)
 c.「確率論」

  偶然現象に対し数学的模型(モデル)を与え、解析する数学の一分野。「もともとサイコロ賭博といったギャンブルの研究として始まった。現在でも保険投資などの分野で基礎論として使われる」

 ァ.古典的確率論:「確率論は16世紀から17世紀にかけてカルダーノパスカルフェルマーホイヘンス等によって数学の一分野としての端緒が開かれた。イタリアのカルダーノは賭博師でもあり、1560年代に『さいころあそびについて』(: Liber de ludo aleae)を執筆して初めて系統的に確率論を論じた」「18世紀から19世紀にかけて、ラプラスはそれまでの確率論を統合する研究をおこない、1814年2月に『確率の哲学的試論』を著し、古典的確率論と呼ばれる理論にまとめた」
 ィ.
公理的確率論:現代数学の確率論は、アンドレイ・コルモゴロフの『確率論の基礎概念』(1933年に始まる公理的確率論である。他の現代数学と同様に、この確率論では「確率」が何を意味しているのかという問題は取り扱わず、「確率」が満たすべき性質をいくつか規定し、その性質から導くことのできる定理を突き詰めていく学問である。この確率論の基礎には集合論測度論ルベーグ積分があり、確率論を学ぶためにはこれらの知識が要求される」「また、確率論は統計学を記述する際の言語や道具としても重要である」
2)「遊び」についての名言
 a.ニュートン:「アイザック・ニュートン 名言集」サイト 
  ァ.「目の前には手も触れられていない真理の大海原が横たわっている。だが、私はその浜辺で貝殻を拾い集めているに過ぎない」
  ィ.「私は、海辺で遊んでいる少年のようである。ときおり、普通のものよりもなめらかな小石やかわいい貝殻を見つけて夢中になっている。真理の大海は、すべてが未発見のまま、目の前に広がっているというのに」
  ゥ.「諸物の多様さと混乱のうちにではなく、つねに単純さのうちに真理は見出される」
  ェ.「一生を振り返ると、わたしは砂浜できれいな貝がらをひろって喜ぶ小さな子供にすぎない」
  ォ.「天体の動きなら計算できるが、群集の狂気は計算できない」
 b.ジョージ・バーナード・ショー:「新人のための名言集 遊び(10)」サイト
  私たちは年をとるから遊びをやめるのではない。
  遊びをやめるから年をとるのだ。
 c.セコム創業者 飯田亮:「遊びの名言:みんなの名言集」サイト
  遊びが足りないから仕事ができないんだ。
  もっと遊べよ。遊べば、もっと仕事ができるようになる。
「遊び」の本質的意味・意義は、これから。
 以上  2017.07.07


佐渡の祭り57:佐渡國鬼太鼓どっとこむ2017

 こんにちは!自在業の櫻井です。
 5月28日(日)久々に「佐渡國鬼太鼓どっとこむ」を鑑賞。その都度「佐度広場」の記事にしている。調べると4年ぶり6回目で、初めて見た07年から丁度10年。なお、「どっとこむ」自体は、2002年開始から16回目。 
                  記
  07年5月30日号「佐渡の祭16:佐渡國鬼太鼓どっとこむ」
  08年5月26日号」「鬼太鼓22:オンデコ写真集」
    〃5月29日号「佐渡の祭22:佐渡國鬼太鼓どっとこむ08年」
  09年5月26日号「鬼太鼓23:鬼太鼓どっとこむ09年写真」
  10年5月25日号「佐度の祭30:佐渡國鬼太鼓どっとこむ(1)屋内光景」
    〃 5月26日号「佐度の祭31:佐渡國鬼太鼓どっとこむ(2)屋外光景」
    〃 5月27日号「佐度の祭32:佐度國鬼太鼓どっとこむ(3)加茂歌代鬼太鼓」
    〃 5月28日号「佐渡の祭33:佐渡國鬼太鼓どっとこむ(4)鬼太鼓」
    〃 5月30日号「佐度の祭34:佐渡國鬼太鼓どっとこむ(5)佐度芸能」
    〃 6月05日号「佐度の祭35:佐渡國鬼太鼓どっとこむ(6)湊鬼太鼓」
   13年 5月31日号「佐度の祭50:佐渡國鬼太鼓どっとこむ2013」
  17年 6月01日号「佐度の祭57:佐渡國鬼太鼓どっとこむ2017」
 《参考》 2017年どっとこむ「企画書」(「佐渡國鬼太鼓どっとこむ」公式サイト)より
  事業名:佐渡鬼太鼓どっとこむ   
  日  時: 平成28年5月22日(日) 午前9:00〜午後4:00 
  場  所:オンでこドーム (両津港みなと中央公園)
  主   催: 佐渡國鬼太鼓どっとこむ実行委員会
  参加予定:700人(芸能25団体550人 、物産20団体100人 、スタッフ50人)
  目標来場者:18,000人(内 島外:8,000人)
 【2017年「趣意書」より:「佐渡島内の芸能団体の1/4に当たる25を超える団体が芸能を披露」「毎回1万人を超える来場者」「〔観光客は〕全来場者の3割を超える」】 
  事業内容
   1)島内各地に根ざした郷土伝統芸能の上演   
      2)佐渡の自然に育まれたスローフードをテーマとした特産品の直販・PR  
      3)各種体験教室          
   4)佐渡観光及び特産品等のパンフレット配布    
      5)ホームページからの情報発信        
   6)その他、特別イベント     
 今回の「どっとこむ」への期待は、今まで観たことのない鬼組と出会えるか 多分出店するであろう大崎そばに久しぶりにありつけるかにあった。
 また、佐渡広場の「どっとこむ」記事は数えると今回で11回目になるが、果たしてどこまで初体験や自分なりの発見等々新しいことが書けるか問題意識としてある。なお、おんでこドーム滞在は、概ね9時半〜12時。

1.祭り内容 (案内チラシによる)

  伝統芸能祭 佐渡國鬼太鼓どっとこむ  
   芸能披露 佐度特産品販売 各種体験教室
  5月28日(日)午前9時〜午後4時 入場無料・雨天決行 
  両津港 おんでこドーム
(1)プログラム
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 出演時間         演目     出 演 団 体
 9:00〜         木遣り    湊木遣保存会 

               開会式
 開会後〜09:25   獅 子    湊壱番・七番・十番獅子組         

 09:20〜09:38  鬼太鼓  下久知鬼太鼓保存会
 09:38〜09:58  鬼太鼓  春日鬼組

 09:58〜10:16  鬼太鼓  和泉鬼太鼓

 10:16〜10:32  大黒舞  畑野大黒舞保存会
 10:32〜10:52  鬼太鼓  市立加茂小学校4年「加茂っ子鬼組」
 10:52〜11:12  鬼太鼓  三瀬川青年会
 11:12〜11:30  鬼太鼓   河原田諏訪神社氏子会

 11:30〜11:48  お囃子  住吉うしお樽ばやし・姐樽

 11:48〜12:06  鬼太鼓  岩首余興部

 12:06〜12:24  鬼太鼓  小倉物部神社若者

 12:24〜12:42  鬼太鼓  加茂歌代鬼太鼓組

 12:42〜13:00  芸妓舞  両津商工会女性部芸妓舞保存クラブ

 13:00〜13:18  鬼太鼓  畑野熊野神社祭典青年鬼組

 13;18〜13:36  鬼太鼓  住吉うしお会鬼太鼓

 13:36〜13:54  鬼太鼓  秋津鬼太鼓保存会

 13:54〜14:10  大黒舞  新穂大黒舞愛好会

 14:10〜14:28  鬼太鼓  沢根 白桜会

 14:28〜14:46  鬼太鼓  鷲崎鬼太鼓保存会

 14:46〜15:04  鬼太鼓  青木青年会

 15:04〜15:22  民 謡   県立羽茂高等学校 郷土芸能部
 15:22〜15:40  鬼太鼓  福浦鬼組
 15:40〜16:00  鬼太鼓  若松会鬼組
 16:00〜       閉会式
▲汽屐Ε好董璽
 出演時間       出演団体

 10:50〜11:00   湊木遣保存会

 11:00〜11:20  岩首余興部

 11:20〜11:35  沢根 白桜会

 11:35〜11:55  両津商工会女性部芸妓舞保存クラブ 

 11:55〜12:15  春日鬼組

 12:15〜12:35  青木青年会

 12:35〜12:55  住吉うしお樽ばやし・姐樽

 12:55〜13:10  新穂大黒舞愛好会

 13:10〜13:30  サブスペ(クイズ税ゼミナール)

 13:30〜13:50  和泉鬼太鼓

 13:50〜14:10  畑野大黒舞保存会

 13:25〜13:45  橘獅子・太鼓組

 13:45〜14:10  県立羽茂高等学校 郷土芸能部

 14:10〜14:30  小倉物部神社若者

佐渡汽船待合室

 11:40〜12:00  鷲崎鬼太鼓保存会

(2)前夜祭 

 内容:佐渡民謡・鬼太鼓、地酒・甘酒サービス
 日時:前日午後8時20分〜午後9時頃              

 会場:おんでこドーム

 主催:おけさと芸能の宝島佐渡実行委員会

(3)主催・協力団体

ー膾邸Ш甘國鬼太鼓どっとこむ実行委員会

共催:湊若松会・両津商工会青年部・両青会OB会・湊商店会・NPO法人みなと昭和館・両津商工会・(公益社団法人)佐渡法人会青年部会・NPO法人佐渡芸能伝承機構・(一般社団法人)佐渡観光協会・(一般社団法人)茶道裏千家淡交会佐渡支部・48.6工+

6┿拭Ш甘狼チァ奮堯法新潟交通佐渡(株)・キリンビールマーケティング(株)・佐渡大商(株)・(株)広瀬組・(株)本間組・大和産業(株)・三井住友海上火災保険(株)・両津南埠頭ビル(株)・両津南埠頭ビルシータウン商店会・新潟県佐渡海洋深層水(株)・アイマーク環境(株)・佐渡北雪会・佐渡酒造協会・佐渡海洋物産(株)・コカ・コーライーストジャパン(株)セールスセンター

じ絮隋Э軍禪・(公益社団法人)新潟県観光協会・佐渡商工会青年部協議会・佐渡市・佐渡青年会議所・日本郵政(株)両津郵便局・佐渡地区郵便局長会・首都圏佐渡連合会東京両津の会・関東小木会・関東畑野会・関東羽茂会・首都圏佐渡金井会・首都圏佐渡吉井会・首都圏佐和田会・首都圏新穂会・首都圏真野人会・東京相川会・東京赤泊会・東京河崎会・佐渡ロータリークラブ・佐渡南ロータリークラブ・佐渡ライオンズクラブ・新潟県自動車整備佐渡地域協議会・佐渡農業協同組合・羽茂農業協同組合
ソ馥散力:北越高等学校・北越高等学校書道部
ζ段牟┿拭С式会社 大庄   オフィシャルビール/キリンビール

2.祭り光景  
[習
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1)おんでこドーム前でリハーサルを行っていたのは、加茂歌代鬼太鼓組。4年前の時も同じ時間帯であろう同じ場所で行っていた。
 a.同鬼組の他に無い特徴は、太鼓2基・鬼2匹が競演するオンデコであること。今回撮った画像によってハッキリ認識。
 ァ.裏打ち太鼓は、それぞれが全く同じテンポ
 ィ.鬼と提灯持ちの構えも同じ
 b.〔裏打ち太鼓師(交代要員含め)2人+鬼1匹+提灯持ち左右両側合わせ2人=〕5人×2組=10人の呼吸が揃うことが必要。そのため出番は調整を要すため、正午過ぎと遅くならざるを得ない。前の時も、午後であった。
2)湊の子ども鬼太鼓も以前と同じような場所にいた。太鼓山車〔やま〕は、「どっとこむ」最終の若松会鬼組の出番まで不動。それまで若松会の鉢巻をつけた子どもたちが入れ代わり立ち代わり練習。5月5日の湊祭りでは子ども鬼太鼓が活躍した。 
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1)春日鬼組
 a.旧両津町夷の鬼組といえば商店街の夷七ノ町が有名であったが、現在は春日町と福浦しか残っていない。話題性等によるものであろうが、いつしか夷のオンデコといえば春日町が代表となっている感じがする。
 b.特徴は、裏打ち師は太鼓山車に乗って行い、鬼に立ち向かうのは左右の提灯持ち。
 c.「オンデコは気合の芸能」(これほど痛快なものは他にない。但し、演技者すべてに気が入っていると感じさせることが条件)との持論が確認できた。鬼よりも2人の提灯持ちの目線と動作に目をやり、気合の大さ・タイミングに傾聴していたが、隙のない演技に感服。
2)加茂小学校4年「加茂っ子鬼組」
 a.過去07年、08年、09年、10年、13年と5回「どっとこむ」を見て来たが、当イベントで小学生以下だけというのは初めて。湊祭りには「子ども鬼太鼓」があり、五十里田中白山神社祭りには「子ども豆まき太鼓」(13年4月22日号)」がある。
 b.画像では5人の子どもが演じているが、開始前は舞台一杯に数十人の男子女子が並んで元気な声で挨拶、数組に分けて次々に演技を披露。
 c.佐渡人であればどの集落でもオンデコがあり、継承。このような住民に根差した芸能というのは、そうあるものでない。外国人にも関心を持つ人が多く現れ参画するようになっている。おんでこドームで、今まで意識に無かったことだが、多くの外国人を見かけた。超ローカル芸能がグローバル芸能に化ける可能性はある。
3)和泉青年会鬼太鼓(画像なし)
 a.これまで観た「どっとこむ」のプログラムの中に名前は見当たらず、今回が初めて。調べると「どっとこむ」への初登場は2014年。
 b.金井の新保八幡宮祭(新保まつり)は、地元鬼太鼓4組が競演しながら奉納することで有名。和泉鬼太鼓もその一つと思い念のため調べると、新保八幡宮は、新保・西方・大和田の三集落の産土社(うぶすなしゃ)で鬼太鼓は新保から2組と西方・大和田から各1組の計4組。
  ァ.和泉は、荒貴神社。「佐渡の社」によれば、旧和泉村の社は荒木大明神で次のようにある。
 「元享3年〔1323〕本間氏建立、社地7反1畝20歩、米6石余、反歩2町7反余。現存(荒貴神社)と思われる。社人は和泉の本間丹後、下矢馳の本間刑部、牛込の小野豊前の3家であった」
  ィ.祭りは4月15日。荒貴神社にて御祓いを受け、5:30打ち出し。150軒門付けする。
 c.特徴・特記事項
  ァ.鬼は赤鬼(雄)と白鬼(雌)、2つのの提灯のそれぞれとの睨み合いあり、2匹の獅子のそれぞれとも睨み合う。獅子にあっては鬼に向かって大きな口を開け歯をカンカン打ち鳴らして威嚇、黒い尻尾は逆立って動いている(獅子の操作2人のうち後ろが尻尾に似せた長い髪のようなものを頭に着けて立った状態で頭を動かす)
  ィ.鬼は太鼓の前で左右片足ずつ交互に旋回。面をつけているから足腰が強く平衡感覚がある。
  ゥ.それぞれの動作(前進、横向き、身構え等)において相手と目配せなどの合図は無く、おそらく太鼓の音で自分で判断しタイミングとポジションをピタリ決めているのは見事。但し、必ずしもメンバー全員がそう言えるわるけではない。
  ェ.一つ一つの動作にメリハリと一人一人が主役を感じさせる鬼太鼓で印象深い。
  ォ.14年5月東京秋葉原駅で鬼太鼓を披露するなど活動範囲を広げている。
4)河原田諏訪神社氏子会
 a.同鬼組の鑑賞は初めて。目新しさを感じなかったのは 国仲系の鬼太鼓であったからだろう。むしろ、これが河原田のオンデコであったことに驚いた。
 b。メンバー構成は、白髪(銀髪ではない)の白鬼と茶髪(黒髪に近い)の赤鬼、獅子2匹いて提灯なし。
 c、4月27日諏訪神社例大祭(万燈祭り)には門付けを行い、8月11日の佐渡の盆 獅子ヶ城まつりには、沢根白桜会・窪田青年団と共に3鬼太鼓の競演をする。
5)岩首余興部
 a、岩首鬼太鼓は前々から名前は知っていたが、鑑賞は調べると意外に初めて。
 b、これが前浜系オンデコだと再認識。
  ア、2匹の鬼が共演=組踊。(但し、すべてが鬼同士でなく人(素顔)と鬼、又は人と人(子どもの場合、面は被らず全て素顔)
  イ、ソーラ・ヤーレ ソーラ・ヤーレの掛け声。
  ゥ.4名以上からなる笛囃子あり。
  ェ.獅子・提灯なし。
  ォ.滑稽なひょっとこ面(口または鼻から上部分)を被った「ローソ」(門付の先導役。各家の玄関内で祝言と玄関前で祝儀ご頂戴を述べ演技に入る)がいた(画面に入っていない)。
 c.埼玉県「入間万灯まつり2016」に出演し大喝采を受けた。
  なお、佐渡市と入間市とは姉妹都市。わかる範囲では、13年の「どっとこむ」には入間市から野田清和会が演技を披露。埼玉県入間市は、佐渡市と姉妹都市。
 07年8月10日号「佐渡の祭19:両津七夕・川開き」には、「応援にかけつけた十数名の黒須囃子保存会の皆さんによるお囃子・踊りが、夷中心街と両津支所前で披露された。威勢のよい笛・太鼓の囃子(はやし)に乗って、堂々とした仕草の非常にユーモアに満ちた舞いであった」と画像付きで記していた。

6)住吉うしお樽ばやし・姐樽
 a.同樽ばやしは、地元・住吉の祭りといえばこれまでのように男子だけでなく、女子も参画するため考案され平成5年(1993)に結成され活動が開始された。当時は少女(小学4年以上〜高校生)が対象であったが、成人になっても継続できるように「姐樽」が平成20年(2009)に結成。成人の姐樽に対し、少女組は「小樽」と呼んでいる。
 b.共演であるから、表現として「樽ばやし・姐樽」より、「樽ばやし小樽&姐樽」のほうが分かりやすい。
  姐樽は、両津や羽茂などの祭りや佐渡市の地産地消フェスタのイベントなどに呼ばれ活躍している。
 c.一糸乱れぬ小樽&姐樽連携の演奏・演技は、圧巻。
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1)大崎そばは、待つのに時間がかからぬよう11時頃注文。500円。麺は思ったより黒っぽく、汁が暖かいと味が損なわれるので若干心配したが、共に冷えていて非常に美味かった。
2)サザエ弁当(サザエ炊き込みご飯)が他所では珍しく、美味そうで 安く感じ(1個300円)て2個購入。1個は船内での昼食用、他は土産用。試食すると、サザエは、普通の大きさ1個分くらいがのサザエの身が細かく切って入っていた(新潟の食品売り場の場合、サザエの普通サイズ1個当り150円以上(2個入りが普通で、350円以上が相場)。中身が早く知っていたら5個は購入しただろう。
3)実演販売では、もち豚串焼きが人気。なお、無名異焼物の轆轤(ろくろ)を回したり、お好み焼きならぬコブダイ・朱鷺を象った「コブちゃん焼き」「朱鷺めき焼き」などがあった。
 (「コブちゃん焼き」について、13年10月07日号「事業・産業65事業・産業65:米作農業(2)6次産業への取組」に記述)
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1)おんでこドーム入口近くは、丸テーブルに同町内・集落の同年齢同士や同家族・親類の子どもからお年寄まで飲食しながらの芸能鑑賞。
2)おんでこ関係当事者の休憩場
3)たらい舟に乗って楽しむ
4)裏千家茶道 立礼棚でのお点前〔てまえ〕
 a.これまで5回「どっとこむ」を見に行き、野点の光景写真は07年・08年・10年に撮っているが、無料(私の経験(料金表示を見ただけ)では全国的に茶菓子付き500円が相場)にもかかわらずお点前頂戴したことなかったが、4年ぶりに茶道を見るということもあって今回初めて茶席についた。お運びが、懐紙に載った茶菓子を持ってきたのには、予想もしなかったことで内心驚いた。
 b.07年の時は、一畳くらいの畳の小上がりで亭主が茶を点てたが、08年からは御園棚を使った立礼(りゅうれい)となった。立礼は裏千家十一代玄々斎(1810〜1877)が明治4年(1871)考案した椅子点前。明治の文明開化の動きの一つであろう。なお、07年の「どっとこむ」記事に次のように記述していた。
 「最近裏千家の現家元が胡坐(あぐら)を組んだ状態で茶をいただく作法の考案をしたことが新聞に載っていた。明治初期に外国人のために椅子に腰掛けた状態での作法(立礼)が考案されて以来のことだとされる。茶道をもっと身近なものにという意図がうかがわれる」
 そこでの「現家元」とは、2003年家元となり十六代宗室を襲名した坐忘斎(斎号)であろう。
 c.客席は、10年の時までは10基ほど置かれた縁台に赤い毛氈(もうせん:緋毛氈〔茶席などで使う赤い和風カーペット〕)を敷いていた。いつから変わったか分からないが椅子が並んでいた。
 d.写真を撮るため最前列の真ん中の椅子に腰かけた。亭主〔一般用語で「お点前さん」)と半東〔はんとう:亭主の補佐。本格茶事の場合は別だが大勢の客人が集まる茶会では先生格が半東を務める〕を一緒に写真に収めたこと、御園棚に並べた各茶道具の或る瞬間の位置や向き(水差の蓋・棗(なつめ)・茶椀・蓋置・茶杓)、半東の腰掛け姿勢と目線は参考になった。
 ァ.40年前頃ーということは1975年頃ー正月初め新潟市の明治7年創業の老舗レストラン兼ホテルのイタリア軒で御園棚を使ってのお点前を行った憶えがある。勿論、茶道用羽織袴(参考までに「自己所有」)姿でである。
 【私が習っていた裏千家清水宗泉社中に近いということもあって、依頼したのであろう。目的は、当ホテル利用のお客様に正月の雰囲気を和やかなものにしていただくためと老舗としての格調の高さを印象付けるためであろう。お客に抹茶をどうぞの特別企画でなく、社中に対しお茶の練習としてさりげなく使ってもらうことだろう。やる方にとっても、正月三が日の日程には抵抗ある人もあろうが、出番があって決して悪い事ではない。私の場合、正月は佐渡だから困った。元旦は辞退したが2日には出たと思う。
 また、野点は4月新潟縣護国神社の境内の芝生のある一角に毛氈を敷いて行ったことあり。その時は魔法瓶のお湯を使っての略盆点と茶箱の点前(卯花点)であったろう。野点傘まではなかったように思う】
 ィ.面白いことに撮った画像を見て 茶を点てる前だったか仕舞う段階だったかか、ハッキリ分からないことに気付いた。長年完全に遠ざかっているは言い訳、とにかく調べると、仕舞う段階だろうとおぼろげながら確信。
 顱肪禺櫃鮴兇瓩討い觧 茶せんが茶碗の中にあり、釜の蓋が蓋置に・水差の蓋が水差手前に置いてあるから後片付け段階。
 髻砲茶を点てる前段階の茶杓を清める時点は、釜の蓋も水差の蓋もそれぞれ閉じたままになっている。
 ゥ.私事にすぎないが、茶道を復習する・思い出す機会となった。
 e.鬼装束の人が、茶席について野点を楽しむ光景は、日本・世界広しと言えども「佐渡國鬼太鼓どっとこむ」しかないであろう
    《参考》野点(資料:ウィキペディア)
  顱北点(のだて)とは、屋外で茶または抹茶をいれて楽しむ茶会のこと。
  髻僕獲茲論鏐饂代の武将が遠征の途中で、あるいは江戸時代の大名らが狩りの傍ら、戸外での休憩をかねて茶を楽しんだこと。なお、茶を点てるのに湯が必要。沸かすための燃料も野に求めた場合、箱崎茶会の逸話〔下記〕が示すように思わぬ発見もある。
  
【箱崎茶会(1587年6月14日)は、豊臣秀吉が九州平定の後、筥崎宮(はこざきぐう)に滞在して博多の町割りを行っていた折催した茶会。箱崎にある松林で千利休が茶を点てた。松葉を燃料に湯を沸かした際、煙となって立ち上る芳香〔「ふすべ」〕が茶会に風情を添えたとされ、利休はこの茶会を記念し筥崎宮に灯籠を奉納したという】
  鵝北酖世聾由阿燃擇靴犢坡擇陵夕阿箸靴涜限海掘花見や紅葉狩りのような行楽の一部として、または野点を主体として庭園から完全な野外に至るまで様々な場所で催されている。
  堯肪稙擦砲ける野点は、余りこれといった作法は無い。茶道の指南書である『南方録』に「定法なきがゆえに定法あり」とある。また『南方録』によれば、場所の選定は、「その土地で「いさぎよき所」(「清々しい場所」の意味)を選ぶ他、使用する器物(茶道具)は水で濯いで清潔にすることを第一とするなどの心得が示されている。その一方で、元より形式外のものであるため、上等な道具を使うことを良しとしながらも、その場に応じて執り行うべきだともしている」。
  【『
南方録』:博多の立花家に千利休の秘伝書として伝わった古伝書。ただし、同時代を著した書籍としては内容や用語等に矛盾点が多数指摘され、現在、研究者の間では元禄時代に成立した偽書として認知されている。かつては、「わび茶」の概念の形成に大きな影響を与えたと考えられてきたが、現在では実際の成立年代である、江戸期の茶道における利休回帰を裏付ける資料として捉えられている。」】

3.まとめ
2017年佐渡國鬼太鼓どっとこむの出演団体26組、来場者数約1万2千人(主催者発表)。
 1)出演団体内訳:獅子3、鬼太鼓17、大黒舞2、樽ばやし2(姐樽と小樽1)、芸妓舞1、民謡1。
 2)来場者数約1万2千人は、17年6月1日現在佐渡市人口56,937人(佐渡市HP)の21.1%。
 3)1か所で地域の芸能団体26組による演技がそれぞれ見られ、地域の5人に1人に相当する来場者があるイベント祭りは、他にはないのでないか。
鬼太鼓は、鬼組ごとにやり方異なり、子どもからお年寄りまで、近年では男女を問わず参画。鬼が金棒やまさかりを持って踊るのでなく、撥(ばち)を待って両足を地面につけたままで舞い且つ太鼓を打つ。このような芸能は、他にはないのでないか。
    《参考》ユネスコ

無形文化遺産 日本の登録物件一覧 

2016年まで) 
         名 称         登録年  地  域
01 能楽             2001年
02 人形浄瑠璃文楽      2003年
03  歌舞伎                         2005年
04  雅楽                            2009年
05  小千谷縮・越後上布        〃   新潟県
06  日立風流物                     〃       茨城県
07  京都祇園祭の山鉾行事    〃   京都府
08  甑島のトシドン                 〃   鹿児島県
09  奥能登のあえのこと     〃    石川県
10  早池峰神楽                      〃   岩手県
11 秋保の田植踊         〃   宮城県
12   チャッキラコ                    〃   神奈川県
13   大日堂舞楽                    〃   秋田県
14   題目立                           〃   奈良県
15   アイヌ古式舞踊               〃   北海道
16   組踊:沖縄の伝統舞踊   2010年 沖縄県
17   結城紬:絹織物技術        〃   茨城・栃木県
18   佐陀神能                      2011年   広島県
19   壬生の花田植                  〃        島根県
20  那智の田楽                    2012年   和歌山県
21  和食              2013年
22  和紙             2014年 島根・岐阜・埼玉県
23  山・鉾・屋台行事     2016年 18府県計33件〔新潟県なし〕
  (注)「日立風流物」「京都祇園祭の山鉾行事」は単独登録であったが、「山・鉾・屋台行事」にまとめて数えられ、2016年時点日本の無形文化遺産登録件数は23件でなく21件となった)
 (以上「ウィキペディア」)
   ユネスコ無形文化遺産について 2017年5月現在(文化庁HP)
(1)条約の概要
 2003年 無形文化遺産保護条約 採択 〔2004年 日本締結(世界で3番目), 2006年 発効〕
  世界遺産条約【有形遺産】(1972年採択,1975年発効)
 【目 的】
 ■ 無形文化遺産の保護 ■ 無形文化遺産の重要性及び相互評価の重要性に関する意識の向上 等
 【内 容】
 ■ 「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」(代表一覧表)の作成 ■ 「緊急に保護する必要のある無形文化遺産の一覧表」の作成 ■ 無形文化遺産基金による国際援助 等 締約国数:172
(2)登録までの流れ
 ■締約国からユネスコに申請(毎年3月)
  〔毎年,各国1件の審査件数の制限〕
   2018・2019年は2年に1件の審査保障
   無形文化遺産の登録のない国の審査を優先
 ■評価機関による審査
 ■政府間委員会において決定 (翌年11月頃)
   記載(inscribe)
   情報照会(refer)⇒ 追加情報の要求
   不記載(not to inscribe)
(3)登録基準:無形文化遺産保護条約運用指示書(抜粋)
 ■ 申請国は,申請書において,代表一覧表への記載申請案件が, 次のすべての条件を満たしていることを証明するよう求められる。
  1.申請案件が条約第2条に定義された「無形文化遺産」を構成すること。
   (a)口承による伝統及び表現
   (b)芸能
   (c)社会的慣習,儀式及び祭礼行事
    (d)自然及び万物に関する知識及び慣習
   (e)伝統工芸技術
  2.申請案件の記載が,無形文化遺産の認知,重要性に対する認識を 確保し,対話を誘発し,よって世界的に文化の多様性を反映し且つ 人類の創造性を証明することに貢献するものであること。
  3.申請案件を保護し促進することができる保護措置が図られていること。
    4.申請案件が,関係する社会,集団および場合により個人の可能な限り 幅広い参加および彼らの自由な,事前の説明を受けた上での同意を 伴って提案されたものであること。
  5.条約第11条および第12条に則り,申請案件が提案締約国の領域内 にある無形文化遺産の目録に含まれていること。
 (参考は、以上)
1)あるブログ記事に ユネスコが2014年に和紙を無形文化遺産に登録した理由は、和紙の原料となる「コウゾ(楮)の栽培を地域で進めたり、教育現場で手すきの体験活動を行ったりして、世代を超えて伝統的な知識・技能が受け継がれ、地域社会のつながりを生んでいることのよう」とあった。
 鬼太鼓はまさにそれを地で行き、上を行く。
 a.どっとこむ会場で「鬼太鼓の森」をご存じですか?のチラシをもらった。それによると、
  ァ.「鬼太鼓の森」は、林野庁が推進する「木の文化を支える森づくり活動」の一環として、、「鬼太鼓の森づくり」協議会と下越森林管理署の協定締結により、太鼓やバチの材料となるケヤキ(欅)を植樹し、将来その木で作られた太鼓の音が島内に響き渡ることを願い、平成19年(2007)に佐渡新穂の国有林に造成。
  ィ.「鬼太鼓の森」には、太鼓の原料となるケヤキ、トチノキの他、バチの材料となるホオノキ、ヤマザクラ、シナノキ等が植栽。毎年、協議会が中心となって下草刈りや野ウサギによる食害対策等の森林整備活動を実施。
  ゥ.「鬼太鼓の森」では、今秋に植樹イベントを開催。植樹する樹種は、ケヤキの大苗100本予定しており、ボランティア募集中。「鬼太鼓の森づくり」協議会
 b.「教育現場の活動」は、加茂小学校4年「加茂っ子鬼組」の出演が該当し、「世代を超えた知識・技能の伝承」は集落ごと鬼組があり子どもも参画し、「地域社会のつながり」では、神社と係わりを持ち神社の祭に鬼太鼓は欠かせない。五穀豊穣・家内安全・無病息災を祈願し、各家の門付けを行う。

2)能楽・人形浄瑠璃文楽・歌舞伎は無形文化遺産に登録されているが、佐渡にも能楽・人形浄瑠璃・歌舞伎がある。主張できることは、次のとおり。
 a.能楽
  ァ.能舞台は、「日本の能舞台の3分の1に相当する30以上の能舞台が残されている」(佐渡市公式観光情報サイト「佐度ナビ」)。
  ィ.江戸時代狂言諸派の中で最も栄えた鷺流(さぎきゅう)狂言は、大正時代は家元が絶え滅亡したとされたが、佐渡に残っていて復興している。
  ゥ.2017年の佐渡の演能開催18回予定。
         2017年演能スケジュール
       日時      名称           場所            演目      料金
4/18(火)14:00〜 大膳神社例祭奉納能  大膳神社能舞台   西王母     無料

5/06(土)19:30〜 天領佐渡両津薪能    椎崎諏訪神社能舞台  羽衣他  千円

6/03(土)19:30〜    〃           〃           船弁慶    〃
6/04(日)19:00〜大膳神社薪能・鷺流狂言 大膳神社能舞台  西王母   無料
6/12(月)19:00〜 牛尾神社宵宮奉納薪能  牛尾神社能舞台  枕慈童  〃

6 /15(木)19:00〜草苅神社薪能         草刈神社能舞台   胡蝶    〃

6 /17(土)19:30〜春日神社能舞台公演   春日神社能舞台     葛城       有料

6 /17(土)18:30〜正法寺ろうそく能           正法寺本堂           田村          〃

7/ 01(土)19:30〜天領佐渡両津薪能 椎崎諏訪神社能舞台    半蔀   千円

7/ 03(月)14:00〜日野公忌例祭奉納能    阿仏房妙宣寺    羽衣   無料

7/ 30 (日)10:00〜本間家定例能     本間家能舞台     胡蝶・三輪 〃

8 /14(月)18:00〜いこいの村まつり海洋薪能  多田漁港     経政     〃

8 /17(木)19:00〜 春日神社能舞台公演  春日神社能舞台  未定    有料

8 /19(土)18:00〜二宮神社薪能        二宮神社能舞台   鵺     無料

8 /21(日)10:00〜 世阿弥供養祭       金井能楽堂     半蔀    〃

8 /27(日)18:30〜加茂神社夜能                加茂神社能舞台   未定         〃

9/09 (土)19:30〜 天領佐渡両津薪能    椎崎諏訪神社能舞台   清経       千円

10/ 7(土)  〃 〜    〃              〃        敦盛    〃
 以上能舞台18回の内訳:(屋外15)神社13〔実質7〕・私設1・仮設1、(屋内3)寺院本堂2・私設1。
 b.人形浄瑠璃
    ァ.佐渡には、人形芝居が3種類ー説教人形・のろま人形・文弥人形:いずれも国重要無形民俗文化財ーあり、人形芝居の座は2009年時点各地に座が人形芝居が9座あり、うち8座は文楽より古い古浄瑠璃の文弥人形。
    佐渡の人形芝居の座(2009年時点)
  以下は、2009年08月11日号「文弥人形18」)より第22回佐渡人形芝居発表会での発表順(なお、猿八座は当日なし)。途中特別出演の「八王子説教節の会」(東京・八王子市)を除く)。
      1.窪田の松栄座
      2.野浦の双葉座
      3.入川の文楽座
      4.新穂の広栄座(説教人形・のろま人形)
      5.吉岡の真明座
      6.大崎の大崎座
      7.羽茂の大和座
      8.平清水の常盤座
      9.猿八の猿八座 

 c.歌舞伎
  ァ.佐渡には片野尾集落で歌舞伎が存続。片野尾歌舞伎という。2年に1回片野尾ふるさと館で公演がある。
   過去記事
    2010年04月19日号「特定地区芸能1:片野尾歌舞伎(1)」
    2010年04月27日号「特定地区芸能2:片野尾歌舞伎の復活と運営」

  ィ.片野尾歌舞伎の一般の歌舞伎との違いは、
   プロはいない・子ども歌舞伎がある・国や自治体の補助金や興行収入に頼らずで料金無料・集落住民総出の地区芸能。「特定地区芸能1」に「出演者30人。少なくても延べ人数80人以上が歌舞伎に係わっている。この数は、幼児・お年寄りを含めた人口の45%に当る。地元総出で、舞台に出る人・裏方で手伝う人・見る人・演技ぶりを評価する人など歌舞伎を楽しんでいる」とある。
佐渡國鬼太鼓どっとこむは、世界に誇れる鬼太鼓の祭典。
 欲を言えば、小木・羽茂方面の言わば「二人太鼓」、沢根・相川・外海府方面の「豆まき」がなかったこと、
 心配は、どのオンデコもそれぞれ個性があって味わいがある故に、人口減のためやる人おらずで消滅する所も出てくる来ること
 にある。 
 来年は、鬼太鼓とその祭り・イベントの面白さをもっと広く味わい、さらにはもっと深めることが楽しみとなる。
 以上  2017・06・12


佐度の画廊47:人間国宝 無名異焼 伊藤赤水、伊藤栄傑

 4月29日(祝)真野の佐渡歴史伝説館で佐々木象堂の蝋型鋳造作品を鑑賞してから、相川に向かった。伊藤赤水氏の作品を観る為である。
 氏について、これまで佐渡広場で何回も取り上げているが、4月12日(水)付新潟日報記事に、「NY発 人間国宝・五代伊藤赤水さん(佐渡) 個展好評で会期延長 無名異焼”美の本場”魅了」という見出しがあった。
 、「米ニューヨーク(NY)で開催中の個展が好評だ。1日までの開催期間は3週間延長され、ギャラリーには目の肥えたコレクターらが連日訪れる」
 展示作品は、「練上」など独自技法を使った無名異焼や佐渡の岩石を砕いて作る「佐渡が島」など27点。「9日時点で半数以上の買い手が付いた。ギャラリーの外から作品を見たコレクターが感動し、すぐ購入するケースもあっという」。NYで大人気の理由について、〔日本の現代工芸を扱うギャラリーのオーナで、今回NY個展の企画運営者の〕大西さんは「『わびさび』のような一般的な日本の美しさとは異なり、自然素材の大胆な使い方などにインパクトがある。常に新しいものに挑戦している赤水さんの姿勢が現地の人にも伝わっているのだろう」と語る」
 私にとって たまたま「佐度の画廊」シリーズの最中で、話題性にかこつけて記事にするため訪問しようと思った。その時期待したのは、「佐渡が島」のその後の作品を観ること 相川街中の店舗はこれまで覗いたが伊藤赤水作品展示館にこの際行ってみることにあった。
 事前に展示館へ電話し撮影の可否確認。「佐渡ヶ島」はここに無く本店にあるかもしれないとのこと。同館は相川からバスで外海府へ行く途中に案内表示があるのを見ているが、バス停を尋ねると下相川と小川の間ということで、後でウェブで確認。バス停からどれくらい要すか不確かでバスの便が行きも帰りも限られ時間に制約されるので、妹の車で行くことにした(結果当日の行程は、自家用利用で両津⇁真野⇁相川⇁両津)。
 相川の店には奥さんがいて、承諾を得て写真を撮らせてもらった。期待の「佐渡が島」は無かった。氏は不在とのことで名刺をお渡しした。『人間国宝 伊藤赤水の世界 土と炎に挑む』(著者:伊藤赤水、編者:尾嶋 静、発行所:新潟日報事業者、発行:2004年)があったので購入(以下『土と炎』)。
 伊藤赤水作品展示館は、そこから車で5分余りで着いた感じがする。外海府の方へ走行し「弁慶のはさみ岩」と「鎮目奉行(しずめ)奉行の墓」を通過して間もなく右手に案内表示があり、上がって行くと小高い丘の上に出て所の建物がそうであった。
 (岩と墓について、09年9月21日号「佐度の風景59;海岸(1)相川・吹上浦」)
 カウンタ―に女店員が一人いた。来館者名簿と毛筆ペンが置かれ、小さな丸い文鎮の乗った見開きを見ると7〜8名の記帳がされていた。大阪、京都、東京からで番地まで書かれいずれも達筆、且つ氏名と住の各欄にピタリ文字がおさまっていた。それぞれ2〜3人のグループでマイカーかレンタカーで訪れたのであろうが、客層の違いを感じた。
 展示作品を観たが事前に聞いてのとおり「佐渡ヶ島」がなく、本店同様目新しさが感じられなかった。ある作品の前で歩みが止まった。見入っていると、店員さんが「その作品はご子息さんの作品です」とのこと。そして、ここコーナーの作品は(4〜5点くらいあったか)すべてそうですと教えてくれた。いくつくらいかと問うと40歳くらい〔後日関西の工房HPに1977年生まれとあった〕、赤水さんと一緒に仕事してますとのこと。店員さんに 赤水さんへは名刺を渡しているのでご子息さんへということで名刺を託した。ご子息さんの名前を問うと、難しい漢字のため、紙に書いてくれた。「英傑」と書いて「ひでたけ」と読むとのこと。ご当人について書き込み中に調べてわかったが、10年前の佐渡広場記事に載せていた(後述)。しかし、「栄傑」の名も別のウェブにあった。
 【追記:5月17 日新潟三越の展示会でご当人にお会いし確認すると、「英」は間違い「栄」が正しいとのこと。前に店員さんに名刺を託したが、今度は名刺交換。それには、
  日本工芸会正会員 無名異陶芸 伊藤栄傑 
 とあった。なお、細かくは「傑」の中の右「桀」の下の字は、「木」でなく「ホ」と見た。】
 なお、過去の無名異焼と伊藤赤水についての関連記事は次のとおり。
  06年08月14日号「佐度 焼きもの展」
  06年08月26日号「佐渡の窯元(2):相川 
  09年01月16日号「歴史スポット39:鉱物(5)無名異焼」
  09年03月31日号「佐度の陶芸5:伊藤赤水の無名異焼」
  09年09月20日号「佐度の陶芸6:人間国宝 伊藤赤水展」
  15年03月21日号「佐渡の画廊38:人間国宝 伊藤赤水の作品」
 今回は、『土と炎』を主力に過去記事も参考に無名異焼とその技法、並びに赤水氏と新たに栄傑氏の作風への理解を深めることを目標とする。

1.無名異焼(むみょういやき)
〔橘尚曄覆爐澆腓Δぁ
1)無名異は、相川の金山で採掘される酸化鉄を多量に含んだ赤土。
2)無名異の効用を最初に発見・着目した人が、鉱山勤務した古川友八。
 a.友八は、寛政10年(1800)生まれ。祖先は奈良・高取藩士の子孫で 佐渡にわたり古川家の6代、文化13年(1816)に中尾間歩(まぶ:坑道)の帳付(鉱山事務監督者)となり、代々この仕事に従事。
 b.切り傷や火傷の際の止血剤としての効用に着目。中尾間歩が無名異の主要産地であったため古川家では鉱山から採掘権を買い取り、販売を始めた。古川家では、原土を明治の終りに至るまで一手に販売。
3)無名異を焼物の貴重な原料として活用するようになったのは、伊藤甚平が弘化年間(1844〜48年)の初め金山から出る無名異を使った楽焼(赤焼)を始めたことによる。
 a.甚平は、1670年頃加賀(石川県)から佐渡に来て羽口(金鉱石の精錬過程で炭に空気(酸素)を送るパイプ〔鞴(ふいご)の〕部品)を焼くことを生業とした羽口屋の七代目。
 (以上09年01月号「歴史スポット39」。以下もあり)
 b.鉱山用だけでなく人口増加によって日用の茶道具需要も旺盛で、無名異を楽焼の茶器作りに生かすようになった。それが、相川をはじめ佐渡の窯元全体に広がり、佐渡といえば無名異焼と言われるようになった。
 (09年03月号「佐度の陶芸5:伊藤赤水の無名異焼」)
4)『土と炎』より
 a.広辞苑:「佐度に産する赤色の粘土で、硫化鉄の酸化したもの。中国では呉須〔ごす:磁器の染め付けに用いる藍色の顔料。主成分は酸化コバルトで,ほかに鉄・マンガンなどを含む〕の別称」との解。
 b.あの土を「無名異」と呼んでいるのは、佐渡と石見(島根県)だけ。鉄分を含んだ赤い土なら日本のあちこちにある。佐渡ではそれを「ムミョウイン」と言っていた。
 c.無名異と混入する土として何を選ぶか?その混ぜ具合はどうするか?これは作り手がどう考えるか?の問題。
¬橘尚枉
1)無名異の楽焼(赤焼)から無名異焼へ。
 明治10年代(1877〜86)に三浦常山と伊藤赤水が相次いで高温で焼成した硬質の無名異焼つくりに成功。
 a.初代三浦常山は、無名異を高温焼成して中国の朱泥焼に劣らぬ美術品にしたいと研究を重ね、明治10年(1877)に成功。脆(もろ)く壊れ易かった赤焼を強くできた。
 b.伊藤甚平系譜の伊藤富太郎(初代 伊藤赤水)も、同じ頃に高温焼成の無名異焼を手がけ成功させた。
2)無名異焼の特徴〔多分、湯呑み茶碗のこと〕
 a.丈夫であること。床に落としても壊れない。
 b.叩くと、金属音を発する。
 c.使うほど光沢が増し、落ち着いた趣がでる。
 d.漢方薬的効能があるとされる。
  明治の文豪 幸田露伴(1867〜1947)は明治25年(1892)24歳の時 佐渡を訪問し 相川の店で無名異焼を見たときのことを紀行文『易心後語』に記している。
 「この地の名産なる堅き石の肌につける赤き粉の無名異といふ品をもて焼ける陶器を売る店につきて見た」
 「昔は底に鬼の面をつけ、内面(うち)には〇(お多福)の面を描きて、鬼は外福は内の意を寄せたる猪口(ちょこ)のみに定まりしものなれど、今は様々のものを製して時好に媚ぶるも商売なれども咎(とが)むべくもなし」 
 「飲食の具に朝夕用ひば、諸毒を消して溜飲などの患(わずらい)を去る由(よし)、覚束(おぼつか)なき話なれども気は心 されば、一つは母上の為、一つを我が料にと購ひ帰り、明日は行くべき鉱山の絵図などを見ながら眠りける」
 (以上、09年「歴史スポット39」)
3)『土と炎』より
 a.広辞苑:「弘化(1844〜48)年間、佐渡の相川で伊藤甚兵衛が無名異を陶土に入れ盃・茶椀などを焼いたもの」との説明。
  相川町教育委員会がまとめた「佐度における陶器の歴史」では、「甚兵衛は陶土に無名異を混じて楽焼を始めた。これは佐渡無名異焼の始発とも言うべきで、ただ、今日の無名異焼のように堅知でなかったことは事実である」
 b.無名異という土は粘着力が弱く、手の平に乗せるとパラパラと指の間から飛び散ってしまう。だから、焼き物を作る時粘土などと混ぜる。
 c.今の時代、赤い肌がツルツルしていて硬質感もある焼き物を、ひっくるめて無名異焼とい思っている人が多いようだが、そういったタイプが無名異のしでてでなく、”赤くてツルツル”は一つのパターンに過ぎない。そのパターンは、明治になってから中国の朱泥焼を志向したした先人たちがつくった。それがマーケットに支持され、大正・昭和と流れてきている。
  朱泥焼は青磁、白磁などと同様、焼き物を分類していく上での一つのジャンルであって、無名異焼も朱泥焼の中に包含されるとみていい。
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 窯変:無名異焼に使う無名異は鉄分を含んでいるので窯で焼くと黒く変色したりする。
1)窯変は、中国の朱泥焼を目標とした明治以降の「赤」を見せたい無名異焼にとって邪魔な存在で、無名異の「赤」をみせたいのに黒が出てきて・・・不良品として扱われたりしていた。
2)1966年(昭和41)京都工芸繊維大学を卒業し佐渡に帰ったが、赤土の無名異に発展性の限界を感じ それに代わる素材を探し求めて回った。いろいろ遍歴を重ね、元の無名異の赤に行き着いた。

 a.無名異の弱点は、酸化鉄を含んでいるため黒い斑点ができること。その黒を生かしたらどうか、すると赤も生きるのではないか。「従来、マイナス要素と見ていたその黒を美しいものとしてとらえ、作品に生かしていけないか」。それで手掛けたのが「窯変」。(「窯変は昭和43年ごろから始め、ずうっとつくり続けてきております」(『土と炎』)

 b.黒が炎となって赤全体の一部を覆って紋様ができる。試行錯誤でやっているうち、その紋様は、偶然でなく意図した紋様が作れるようになった。
 c.窯変で焼く作品の主流は壺。「窯変を生かす形はやはり壺かなあ、と思う」
3)これが、無名異窯変となった。
  1972年(昭和47)日本伝統工芸展初受賞。

  1980年(昭和55)日本伝統工芸展奨励賞受賞。
  翌年、米国ワシントン・国立スミソニアン博物館、英国国立ビクトリア・アンド・アルバート美術館での「日本現代陶芸展」招待出品。
ぬ橘尚枉椴上(ねりあげ)
1)練上
 a.(ウィキペディア):「アガートウェア(英語版)(瑪瑙焼き)は色の違う胎土を、個々の色が失われてしまわない程度に混合して作られる。複数の色彩の帯もしくは層が渾然一体となった石英鉱物である瑪瑙 (agate) から名付けられた。独特の縞模様や斑模様を持つ。「アガートウェア」はイギリスのものを指す言葉である。日本では「練上げ(手)」と呼ばれる。中国では唐代よりこの種の焼きものが作られておりmarbled ware[訳語疑問点]呼ばれる。アガートウェアを作る際に用いる胎土の選定には細心の注意が必要で、熱移動特性が釣り合っていなければならない」。
 歴史について、「「絞胎」「攪胎」と中国で呼ばれる練上は、宗時代〔?:「宋」なら解るが〕定窯や磁州窯系統の窯に見られ、次いで朝鮮の高麗朝の窯にその技法が伝わりました。」(「にっこう生活館」サイト)がある。
2)((『土と炎』)作り方:「いつもこんな風に説明しています。まず、色の違う粘土を重ね合わせて、押しつぶしたりして、巻き寿司あるいは金太郎あめ状のものをつくる。どこを切っても花紋なら、同じ花紋が出てくる棒状のものをつくる。それを切って切断面を見せるように、皿なら皿になるように並べ、形を整えていく・・・」「花紋を散りばめた皿をつくる場合は、あらかじめ別に焼いておいた皿の上に、切断した”金太郎あめ”を重層に組み、乾いたところで皿から外して焼く・:・」「変化わざが必要となるが、浜紋入りの壺をつくる場合も基本的な手法は同じ」「土は日ごろ工房で使っているものに島内、島外から取り寄せた土を混ぜ合わせてつくる。赤・白・黒の3色が基本となります」
 a.練上を手掛けたのは、昭和59年(1984)。昭和55年の日本伝統工芸展での窯変の壺が奨励賞となり、その間4年間「次は・・・」と試行錯誤の結果、辿り着いた。練上は、”異なる土を合わせてつくるもの”というぐらいしか知らなかった。(以上、『土と炎』)
 b.「無名異窯変で評価を受けるようになったが、ぼんやりしていると2〜3年はすぐ経ってしまう。何かをしなければならないと思っていた」「無名異の赤から白に至る20〜30種に及ぶ色の粘土を順次組み合わせた練上という技法を開発。経験を重ね、複雑な紋様を作り出すことが可能となった」(09年03月号「佐度の陶芸5」)。
 c.練上を展覧会に出したのは、昭和60年の第8回日本陶芸展。出品した鉢がグランプリ(最優秀賞)になった。先輩たちから、「変わったことをやったときは賞をもらうか、落選するか、だ」とひやかされた。その1年ほどの間に、何点かは形にしてた。

  「以降、日本陶芸協会賞受賞、国際交流基金「現代日本陶芸展」(世界各国巡回展)招待出品、米国バーク・コレクション「現代日本の陶芸展」出品、英国国立ビクトリア・アンド・アルバート美術館の「日本のスタジオクラフト・伝統と前衛」に招待出品、NHK衛星放送「やきもの探訪・伊藤赤水」収録・放送、NHK主催「やきもの探訪展」出品など国内外で認められる(前掲「佐度の陶芸5」)。
3)練上の進化。
 a.最初は、線をベースにしたデザインで 「ストライプ」「線紋」と呼んでいるもの。
 b次は花紋。「ストライプ」をやっているうち何かあきたらなくなった。
  ァ.テーマは、魚でも蝶でもよかったが、作品に合うのは何かということで花を選んだ。
  ィ.更に同じ花紋でも、奥行を感じさせる遠近感のある花紋。
 c.「いまやっているのは、3つ目のパターンということになります」

2.佐度ヶ島
  《解説》
(1)09年03月号「佐度の陶芸5」より

「。横娃娃糠1月 日本橋三越本店での「人間国宝 無名異 五代伊藤赤水 作陶展」で「佐渡ヶ島」を発表。

 2月に新潟大和で「新潟の生んだ人間国宝展」に新作を期待して見に行った。東京での作陶展で買い手が早速現れ 現物はないとのことで、写真パネルによる説明となった。

 ⊃刑酘圧 А崕蘓瓦傍△蠢悩爐芭篭さが感じられるような作品を制作したい。そこから無名異にこだわらない佐渡の岩石を使って今までにないような質感を出したい」

 作陶思想:「『佐渡にいてもできること』『佐渡でしかできないこと』を考えながらやってきた。それこそが、グローバルであると思っている。第三ステージは始ったばかりだが、現状否定で何かを求めている。仕事が、その何かを教えてくれる」」
(2)上記の補足:15年03月号「佐渡の画廊38」より
 「2)従来の平滑な器面の「無名異焼」からは離れ、器の表面は小振りな岩石を貼り付けた様な凸凹な 肌をしている。Т錙覆擦辰)で、釉(うわぐすり)は掛かっていない。
 〔Т錙半磁器、焼締めとも呼ばれる。陶器と磁器の中間的な性質を持つ焼き物で、1100〜1250℃で焼成。世界各地にあり普通は施釉や絵付けせず、地肌が賞玩。堅牢で耐水性があり、瓶、壺、水差、茶器、花器など日用品から装飾品まで幅広く作られる〕
 5)作品例
  「佐渡ヶ島角壺」「佐渡ヶ島香爐」「佐渡ヶ島水差」「佐渡ヶ島花入」 」

3.五代 伊藤赤水の作品

〔橘尚柩卻冱
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1)壺は、口元を含め丸くて滑らかであるのが常識。
2)赤水さんの窯変の壺は、一般に窯変が滑らかで丸い壺の口(口縁)周辺を地に向けて表面積の概ね半分くらい占め、形はまちまちで、水平でない。当作品は、窯変部分が全体の約1/3で水平に近く均整がとれているが、表面は不定形な溝が不規則にあること、口には壊れたような部分が僅かにあるのが特徴。
3)それによって鑑賞に堪え得る芸術品として、円満さ・円滑さを各々表・現する球体に ピリッとした締りと言うか緊張と言うかアクセントを感じさせる。
¬橘尚柩卻儿痼
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1)香炉は、固体状の香料を加熱し、香を発散させる目的で用いる器で、仏具では灯明燭台)・花瓶(花立て)とともに三具足の一つ(香炉1、灯明一対、花立一対の場合五具足)。構造は、上面または側面に大きく開口した筒、椀、箱、皿状の容器で、ほとんどのものが脚を備え、なければ熱が直接床に伝わらないよう皿など下敷き板を置く。穴の空いた蓋(火屋)を備えたものも存在するが、香道で用いる聞香炉は、蓋を持たない。火気を使用する関係上、材質には不燃性、耐熱性が求められる。そのため、陶磁器や金属、石材などで作られていることが多い。
2)当作品は、陶磁器に属するに拘らず表面が、ザラザラしており、且つ脚が無く かと言って敷板もない。
3)たとえ鑑賞用香炉であるとしても、香炉の概念・常識から逸脱した画期的作品と言える。また、店に於置いてあったリーフには、「無名異窯変香爐」とあるが、岩石を砕いて固めて造形したようで「佐度ヶ島」の感じがする。
L橘尚枸上花紋皿
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1)練上は、異なる種類と色の土を交互に積み上げて文様を作り基本的にはロクロは使わず手びねりで成形するから時間がかかり(成形に1〜3 ヶ月)、しかも異なる土同士のものであると容易にくっつかず後で接着部分に傷や割れが生じること多く、作陶は難しいとされる。
2)作品は、大皿。花がほぼ一面に咲いている。
 a.色は、赤水さんの場合いわば真っ白から真っ赤までの20〜30段階の色の土を重ね合わせ、色が連続的に変化するグラデーション(gradation)を作り、自然な花びらを表現。
 b.花は大小2種、更にそれぞれ遠近があり、赤が主・白が主の違いがある。
 c.大は、特に各花弁に遠近があるのがわかる。小は、赤白どちらが主であるか色の違いだけでなく、パターンが2種ある。
3)この大皿の中に花紋がいくつあるか?数えればわかることであるが、大小合わせて100以上はある!
 これほどの数があって、種類があり、しかも濃淡・遠近感のある花紋の大皿を作るには、集中力と根気を要し、相当な難しさを感じさせる。
ぬ橘尚枸上花紋鉢
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1)原理的には、金太郎飴や花などを象った巻き寿司のように大・小、赤・白の花紋の入った数種類の筒状粘土をつくり、それえお一定規則に配列し意図した全体文様となるようしっかり練り合わせ、そしてそれを一定の厚さに下からスライス・輪切りにして数〜十数枚の板をつくり、個々の板は皿か鉢か壺か等々所定の器の型に被せて成形。型は、器の外用・内用2種ある。
2)画像は、上からだけでなく側面からも撮っている。全く同じ花柄が、上からも横からも〔下からも〕見えるということが練上技法の特徴。鉢の内と外の境にある口縁のある部分に花柄が内・外で連続しているのがわかる。
3)日本工芸会サイトに、次の記事があった。(「無名異練上花紋鉢」の検索で開ける)
 無名異練上花紋鉢 重要無形文化財保持者 伊藤赤水

 受賞: 高松宮記念賞
 出品: 平成9年 第44回日本伝統工芸展
 分野: 陶芸

 佐渡の無名異の赤い土と信楽の淡黄色の土と混ぜ合わせて、 赤から黄に至るさまざまな段階の色調をそなえた土をつくり、それらを練り込んで 多くの花紋を組んで合わせている。そのため文様は表から裏へとおっていないが 花紋の色調や構成が複雑になるとともに、装飾全体に深みが増して、豊かな魅力をうみ出している 練上にあらたな表現の世界をひらいた見事な作品である。
 〔この時の作品は、赤〜白でなく赤〜黄で、生地となる粘土の板に被せ、かなりの日数をかけ接着させたものだろう〕
ヌ橘尚枸上花紋壺
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1)原理としては、輪切りにした花紋の一枚を皿や鉢でなく 壺に成形したもの。
2)画像からは、表(外)と裏(内)が繋がっているのがハッキリ見える。
3)作陶の困難度は、素人感覚では皿⇀鉢⇀壺の順に難しいと思うが、それぞれ他に無い固有の難しさがあるに相違ない。また一般には大きなものほど、作陶に時間がかかり欠陥部分が大きさに比例して増すから 難しいであろう。
μ橘尚枉椴上線紋壺
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1)5月13日に新潟三越から、「新潟の技と美展」(5/ 17(水)〜22 (月))開催の案内ハガキが来た。
 a.裏面は以下の通り。上段の写真に、「伊藤赤水(重要無形文化財保持者) 無名異焼練上線紋壺 縦12.0×横20.0×高16.4cm」とある。形は相川で観たものと若干違うが、紋様は同じ。ハガキには「線紋」とあったので、それで作品名が確信できた。
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 また「会期中は下記の日程で作家が会場におります」とあり、5月17日に伊藤栄傑氏の名があった。それで行くなら、その日と決めた。
 b.ハガキ表の下半分は、次のように記されていた。
   伝統工芸 新潟の技と美展
 5月17日(水)〜22日(月)
 新潟三越7階美術特別会場
  主催 日本工芸会東日本支部新潟研究会
  後援 新潟日報社 BSN新潟放送 NST
     TeNYテレビ新潟 UX新潟テレビ21
   〈ギャラリートークのご案内〉
  5.17(水)午後2時から「ニューヨーク個展を語る」伊藤赤水氏(重要無形文化財保持者)
  5.20(土)午後2時から 徳永健一氏(前新潟県立近代美術館館長)&中津川英子さん(アナウンサー)
   〈伝統工芸と華道の競演〔?:共演〕〉
 いけばな陽花とうつわとの麗しい調和をお楽しみください。
     同時開催「伝統工芸を支えた作家特集」
2)赤水氏の無名異「線紋」(ストライプ)は、ここずっと拝見してなかった。主流の赤・白・黒から成る花紋パターンでなく、青・白・橙色系統の線紋に斬新さを感じた。
3)「練上」となっているが、ここでの練上は器の外と内は連続していないようだ。
無名異焼練上花紋水差
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(注)「佐渡が島」の画像は、この記事にはなく09年03月「佐度の陶芸5」、09年09月「佐度の陶芸6」、15年03月「佐渡の画廊38」に掲載。

4.伊藤栄傑の作品
(1)作家の略歴
 06年08月「佐度 焼きもの展」の記事に、下記のとおり掲載していた。これは、同年8月佐渡博物館で「佐渡現代作家シリーズ 第5回 無名異の島 佐渡のやきもの展」を見学に行ったことで、8月11日(金)付新潟日報佐渡版に「父を乗り越え新風吹き込め」「無名異展に20代2世作家3人初出品」の見出し関心を持ったことにある。
                     記

 /祐峭駟伊藤赤水の長男で、龍谷大学(哲学)卒業後、滋賀・石川の両県で陶芸に関係する実学を学んで3年前に帰島。

 日本伝統工芸展・伝統工芸新作展で入選し、連続入選の記録更新に挑戦。「佐渡の自然をモチーフに、立体的な作品を更に立体的に装飾した作品を作りたい」
 追記:過去のあるウェブ情報によれば 「伊藤英傑作陶展」が、2013年9月3日(火)〜9日(月)「新潟三越」6階陶芸サロンで開催された。
(2)作品
A.4/29伊藤赤水作品展示館にて
〔橘尚朶飮
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1)小さな佐渡(佐度特選)2011年10月09日 | 広告 サイトに

 「伊藤赤水先生の息子さん、伊藤栄傑(ひでたけ)初の個展開催のご案内です!!

  会期 | 平成23年10月26日(水曜日)〜11月1日(火曜日)
  会場 | 日本橋三越本店6階美術サロン  」
 とあり、伊藤栄傑作陶展の案内チラシに上と同じ丸皿が載っていた。

2)当館で見入った作品で店員さんがご子息さんの作品と教えてくれた。そうでなかったら 間違った解釈にムダな時間をかけたかもしれない。
3)なぜ見入ったか?以下は感覚、根拠・立証・解析はここは無用。ウィキペディア参考。
 a.金色と墨色と橙色の3色(実際の色はそんな単純なものでなく、また色は周囲の明るさ・光の向きによって変わるが、敢えてそうした)。
 b.大小の橙色の曲線が様々に交錯。それが金色・墨色の交互に擬似三角〜六角形〔最多は六角までか〕の島を形成。不規則であるように見えて、規則があるように見える幾何学文様(直線・曲線・円・点の組み合わせ)を形成。
 c.文様は、日本的(江戸時代以降)でも中国的(宋代以降)でもないがどこか東洋的な雰囲気で、正倉院の御物にありそうな文様。メソポタミア・エジプトへと連想が進み、時代的にそれより新しいと思われるが距離的に日本からは更に遠いギリシャに関係すると見た。幾何学の発展はギリシャと思った。
  《ギリシャ雷紋(らいもん)》
  ァ.「小アジアを曲流するマイアンドロス川(メアンダー川)の名に由来し、メアンダー、メアンドロス模様、・・・ともいう」、新石器時代にバルカン地方のドナウ川流域のトリポリエ文化・ディミニ文化において土器の装飾文様として始まる。やがてアッペンニーノ山脈文化に引き継がれ、ギリシアの幾何学紋様として開花」「ギリシアでは建築装飾、ローマでは絵画やモザイクと、建築・工芸において主に用いられた。タピスリーや陶器、家具にも見られる」
               ギリシャ雷紋の例
   ギリシャ雷紋
  (画像:ロードス島の街路にあるギリシア雷文の敷石(ウィキペディア))
  ィ.「ギリシャ雷紋」は、直線文様。曲線になっているように見えるが直線〔「己」状の連続文様あり〕。曲線・円型が意外にない。日本では馴染みの中華料理の丼鉢や大皿にある文様と酷似。
 d.「東洋的な雰囲気」とはどこから来ているか調べると、「古代オリエント」がピタリ感。
  ァ.「オリエント」の語源はラテン語で「日が昇る方角」、古代ローマから見て東方にあるアナトリア、シリア古代エジプト、古代メソポタミア、ペルシアなどの世界。
  ィ.「幾何学の起源は、古代オリエント、現代のエジプトにおけるナイル川の定期的な氾濫をめぐる土地測量の手法にまで遡ることができる。ナイル川氾濫後、復興のため土地測量が必要になったことが古代ギリシャの歴史家ヘロドトスによって記録されており、原始的な幾何学は必要上の問題から誕生したといえる」「とくに古代エジプトやバビロニアでは5000年も昔には既に現代ではピタゴラスの定理として知られている定理が経験則として知られていたことが判明している」〔ピタゴラス(紀元前582〜同496年):古代ギリシアの数学者、哲学者〕
  ゥ.
古代オリエント(Ancient Orient)は、「現在の中東地域に興った古代文明である。これには、古代エジプト、古代メソポタミア(現在のイラクやシリア)、古代ペルシア(現在のイランやアフガニスタン)などが含まれ、時期としてはシュメールが勃興した紀元前4千年紀から、アレクサンドロス3世(大王)が東方遠征を行った紀元前4世紀頃まで」
 e.円型文様
  ァ.アラベスクは、「モスクの壁面装飾に通常見られるイスラム美術の一様式で、幾何学的文様(しばしば植物や動物の形をもととする)を反復して作られている。幾何学的文様の選択と整形・配列の方法は、人物を描くことを禁じるスンニ派のイスラム的世界観に基づいている(シーア派ではムハンマドを除いて描くことは認められている)」。〔見た限りアラベスクは規則性のある厳格で綺麗な文様で、一つの円が他と交錯しない〕

 ィ.「〔幾何学文様・魚文など施した美しい彩陶土器が現れた〕中国の新石器時代は、紀元前5000年から紀元前1500年を中心に各地域で特色ある諸文化を形成し、その遺跡は中国全土に及んだ。特に華北の仰韶(ぎょうしょう)文化は美しい彩色土器を生みだし、それに続く龍山文化では、黒陶を特徴とする土器を生みだした。彩陶は西アジアの系統をくむものと考えられ、中国の美術交流で非常に重要な東西の関係を表す最も早い例である。これらの文様は多種多様で直線・曲線・円・点などを組み合わせた幾何学模様の他に、人面文や魚文が描かれることもある」
      中国仰韶文化の幾何学文様器物  
器物3器物1
      (画像:ウィキペディア「中国文様史」)  
 ゥ.唐草模様は、「葉や茎、または蔓植物が伸びたり絡んだりした形を図案化した植物文様の、日本での呼称」

複数の曲線や渦巻き模様を組み合わせることで、つるが絡み合う様子を表す。写実的なものもあるが、図形的に描いたものでは、左右対称の渦巻き模様などに簡略されたり、多種多様の唐草模様が存在する。

古代ギリシアの神殿などの遺跡でアカイア式円柱などに見られる草の文様が唐草文様の原型であり、メソポタミアやエジプトから各地に伝播したと考えられている。日本にはシルクロード経由で伝わったとされている」
【ウェブでいろいろ文様見たが、当「丸皿」そっくりなものは現時点見当たらない。直線→曲線は進化でその完成が円。中心の同じ同心円は規則正しい整然とした文様、異心円でも直径・方位が同じなら一定の文様が形成するが、当作品はそれらとは異なるユニークな世界を構築】

 エ、「和柄、和模様、和のデザイン(丸・円・曲線」(「夏貸文庫」HP)
  丸・円:七宝、七宝繋ぎ、星七宝、青海波、一つ巴、二つ巴、三つ巴。
  曲線 :観世水、立涌、網目、分銅繋ぎ、徳利網代、露芝、了霞。
4)古い歴史がありそうな、あるいはどこかで見たような文様であるが、つきつめれば誰も描いたことのない文様かもしれない。
¬橘尚枉椴上線紋鉢
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 L橘尚枅般耡
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1)この壺は、文様(デザイン)・形状(フォーム・フォルム)が今風(モダン)かと思った。
2)表面の揺ら揺らした細い帯(中に〇印が入っている)と細い赤の線の文様(「波紋」と称すようだ)は、後日ウェブで異なる形状の作品に見られた。新潟三越の工芸展にもあった(後掲)。

B.5/17新潟三越「伝統工芸 新潟の技と美展」(新潟三越7階 美術特別会場)にて
 氏と初めて同会場で会った。挨拶し写真撮影の許可をいただいた。特定コーナーに氏の作品が数点あるのをその前に見ていて知っていたが、他にもありますとのことで生け花・花入コーナーにある作品場所を案内してもらった。
_崙A
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花入B
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L橘尚枩紋水差
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ぬ橘尚枅般羚痼
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ヌ橘尚枅般耡
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μ橘尚桿沁悄未呂覆澄Δ罎Α揚
 〔縹(はなだ)=「明るい薄青色」
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(3)上掲の作品に見る特徴点
〇疇伴のものであろう波紋が、いろいろな形状の壺、香爐に使:われている。また、垂直の線紋・帯状紋が、花入・水差に見るように一筋ごと色が微妙に違うなど個性的である。
壺や鉢(花入れもその1種)口やは胴などに湾曲・歪み等の立体変化がある。それも個性や主観を強調するものでなく、一定の規則性がありそうな自然表現。さりげない手作り感のある曲線美。相当でないと出来ない「わざ(技・業)」。
e沁悄覆呂覆世罎Α。最初花入Aを観たとき青磁と思ったが、縹釉というものが入ったものと知った。もっと知りたく「用語」検索するとトップページ2番目に「赤水窯 伊藤栄傑」の名があり、無名異縹釉の長・コーヒーカップ・ぐい呑みなど庶民向け作品が通販会社から紹介されていた。
 五代赤水が無名異の赤の追究から始まって独自の境地を切り開いたのにに対し当たっているかどうか知らぬが氏は薄青の追究。

5.まとめ
‥擺鏈遒蠅ら始まる陶芸は、少なくとも2万年の歴史がある。
  (資料:ウィキペディア)
1)現時点での最古の土器は、
 「北京大学、米国などの研究チームが世界最古(約2万年前)の土器片を発見したと発表。場所は中国・江西省の洞窟で、調理に使用されていたと見ている」。日本では、「北海道の大正遺跡群の調査によって土器が最初に料理に使われたのは1万4000年前であるとされている」
 【「北海道・大正遺跡(帯広市大正町):1万4000年前のものと推定される土器が発見。「口縁部に隆帯が巡らされ、その下に爪形文や刺突文、へら状の押引き文などの文様が付された尖がり底の特異な土器片が数百点出土」「土器に付着した焦げかすを分析したところ、海産物成分が見つかった。炭素の年代測定値では、1万4000〜1万4500年前のもので、煮炊きに使った土器では世界最古のものであることが分かった。海産物成分は、川をさかのぼったサケ・マス類の可能性が高いと言われている」】
2)縄文土器

 a.北海道から沖縄諸島を含む日本列島各地で縄文時代(年代は流動的ながら、約1万6000年前〜約2300年前とされる)に作られた土器。
 【縄文時代に作られた土器は、縄文〔縄目文様〕とは限らず無文もあり多様な文があり、縄文でないものは縄文土器でないとは言えない。この辺が日本の考古学者・歴史学者が今も曖昧にしているところで、縄文土器の次は弥生土器の時代というのは決まっているが、時代区分の元になった弥生土器と縄文土器との違いは明確でなく、弥生土器というものが全国に広く普及していたという立証が出来ていない(次には古墳時代が来ることになっている)。これは縄文後期とか弥生前期などの推定も大事だが、それだけでは学術的価値はなく 放射性炭素年代測定による推定年代の割り出しによってはじめて一応の科学的根拠にはなる。但し、対象は動植物の遺骸があるに限られ無機物及び金属のみでは測定出来ないようだ】

 b.使用目的
 多様な大きさと器種・装飾的な文様などさまざまなものが存在し、用途として食料の調理・加工・盛り付け、祭祀目的が考えられている。
 【食料の調理以前の問題として岩塩が殆ど無い日本では、海水を煮詰めて塩を取り出す製塩土器は海岸地域においては必須。土器の断片は、各種の重石、漁労では漁網や釣り糸の錘(おもり〕に用いられたとされる。
 なお、製塩土器に関連して11年6月20日号「事業・産業43:製塩業(4)製塩業史(縄文
〜平安時代)」に次のように記述。
 a.「世界最古の土器は、日本の縄文土器という見解あり」として、「北海道から九州の日本列島全域で出土され、年代が古く、数が多いことが、他の国にはない特徴」「外国の研究者が、『なぜ日本人は、世界最古の土器を自慢しないのか』と不思議がる話もあるという。1970年大阪万博のシンボル「太陽の塔」を制作した芸術家岡本太郎は、『日本が世界で通用するのは、縄文土器だけだ』と言ったという。
 b.各国最古の土器
 ァ.「青森県大平山元遺跡の縄文土器はBC14,000。岩手県新大町遺跡では、草創期の爪形文土器,早期の押型文・沈線文土器群が大量に出土」

 ィ.「ロシア・シベリア地域アムール川流域のグロマトーハ遺跡からBC13,000、中国・湖南省でBC16,000の土器が出土の報告あり(最古級の土器が出土したロシアの場合、土器は防寒や調理に使う「魚油」をとるために魚を土器で煮ていた可能性の指摘がある)」

 ゥ.「南アジア・西アジア・アフリカの最古の土器はBC7,000、ヨーロッパでBC6,500年」
 ェ.「ヨーロッパ北東部の櫛目文土器文化(くしめもんどきぶんか):現在のヨーロッパロシア北部とフィンランドを中心とする地域に広まった文化で4,200頃〜2,000BC頃まで続いた。櫛の歯で擦ったような文様を特徴とするためこの名がある。集落は海岸・湖岸に集中し、生業は漁労・狩猟・採集。土器は丸底または凸底の壷形土器。墓は集落近くに作られ上に赤土がかけられた。特徴的な製品として土偶や、熊など動物の頭の石像がある」
  ついでに、芸術家岡本太郎の縄文土器への逸話を紹介する。(09年2月5日号「歴史スポット45:佐渡の縄文遺跡」より)
 「画家・陶芸家の岡本太郎(1911〜1996)が衝撃を受けたのは、偶然博物館で見た火焔型縄文土器。

 a.40歳のとき、東京国立博物館に展示されていた火焔土器をみて、その芸術性の高さに衝撃をうけ、翌年「縄文土器論」を発表している。

 「激しく追いかぶさり重なり合って、隆起し、下降し、旋回する隆線文、これでもかこれでもかと執拗に迫る緊張感、しかも純粋に透った神経の鋭さ、常々芸術の本質として超自然的激越を主張する私でさえ、思わず叫びたくなる凄みがある」

 b.その後、25年以上経った「画文集・挑む」に当時の感動を、著わしている。

 「偶然、上野の博物館に行って、考古学の資料だけを展示してある一隅に何ともいえない不思議なものがあった。ものすごい、こちらに向かってくるような強烈な表現だった。何だろう。

 ・・・縄文時代。それは紀元前何世紀というような先史時代の土器である。驚いた。そんな日本があったのか。いや、これこそ日本なんだ。身体中に血が熱くわきたち、燃え上がる。すると向こうも燃え上がっている。異様なぶつかりあい。これだ!まさに私にとって日本発見であると同時に、自己発見でもあったのだ」
  】
3)特徴
 a.縄目文様は撚糸(よりいと)を施文原体とし、これを土器表面に回転させてつけたもので、多様な模様が見られる。しかし実際縄文土器の形には縄文を使わない施文法や装飾技法も多く土器型式によって様々。

 〈縄文土器の形〉
   粗製深鉢形

   精製深鉢形
   浅鉢形
   有孔鍔付土器
   注口土器

   火焔土器
 〈縄文土器の文様の種類〉
   縄文土器

   無文土器
    〔例:大平山元
軌篝廖弊朕晃外ヶ浜町))にある縄文時代草創期の遺跡。「石斧や石核、石鏃などの石器も発掘されている。ほとんどの石器の材料は地元の川から採れる頁岩からできているが、中には青森県鰺ヶ沢から運ばれてきた黒曜石からできている石器もある。土器はすべて小破片で形の分かるものはないが、文様はなく平らで角張った底の土器である。土器の内側には炭化物が付着しており、食料の煮炊きに使ったものであることが分かる。 これは世界でもっとも古い煮炊きの後と言えるだろう」〕」

   押型文土器

   条痕文土器
   圧痕文
   刺突文土器
   沈線文土器
   磨消縄文土器

   隆線文土器
    (「口縁部や胴の上部に粘土帯をめぐらせる手法で、北海道や南西諸島を除く縄文時代草創期初頭の一群の土器をいう」「器形は丸底や平底の屈曲のない深鉢形をしており、いずれも小型である。この系統の土器群には、豆粒状の粘土粒を貼り付けたもの、粘土紐を口縁部に直線的や曲線的に巡らせたもの、ヘラ状の道具を用い横方向に引くことによって同じような効果を出すものなどがある」「放射性炭素年代測定法によれば、〔長崎県〕北松浦郡吉井町福井洞穴の隆起線文土器はBP1万2700±500年、愛媛県上黒岩陰遺跡の細隆起線文土器はBP1万2165±600年」)

 b.縄目文様以外の施文法として爪形文、ササの茎・動物の管骨などを施文原体とする竹管文、貝殻を施文原体とする貝殻条痕文などがある。

 ァ.縄文土器は表面を凹ませたり粘土を付加することが基本で彩色による文様は少ない。しかし、文様が変化に富み多く用いられ、装飾は時には容器としての実用性からかけ離れるほどに発達した。
 ィ.この特徴は、日本周辺の土器にはみられない。 【参考:宇宙人を思わせる遮光器土偶で有名な亀ヶ岡石器時代遺跡(青森県つがる市にある縄文時代晩期の集落遺跡)から出土した土器の精緻な文様は、年代ともに三叉文⇀羊歯状文⇀雲形文⇀工字文⇀変形工字文へ変化したとされる。また、漆による赤彩などもあり精製土器として「亀ヶ岡式土器」の名がある】
 c.縄文土器の形は深鉢が基本で量的にも多い。 
 ァ.特に前半の時期は深鉢以外の器形は希。
 ィ.中頃から淺鉢のような器形が現れ、続いて注口付き、香炉形、高杯、壺形、皿形など様々な形が現れた。とくに東北地方晩期は器形の変化が多様であった。

 ゥ.窯を使わない平らな地面あるいは凹地の中で、やや低温(600℃〜800℃)の酸化焼成のため、赤褐色系で、比較的軟質である。胎土は粗く、やや厚手で大型のものが多いが、用途や時期によっては薄手、小形品、精巧品も作られている。
 【縄文土器の形状等について、ウィキペディアでは肝心要「定義づけられるほど簡単でない」が見逃されているから例で補足する(「亀ヶ岡土器 画像」サイトによる)。

   亀ヶ岡土器(縄文晩期)の形状等
    高杯
    皿型土器
    台付き鉢
    台付き深鉢
    注ぎ口土器
    漆塗り彩文土器
    凹凸文様からなる壺
    胴から高台裏まで凹凸文様のある壺
    人面文様のある壺
    炉型土器
    透かしの文様からなる鉢
    胴体に3層からなる異なる文様の壺
    2色の同じ文様からなる徳利と盃の酒器
    注ぎ口と取っ手のあるヤカン土器
    陶磁器のように艶のある壺
  重要なことは、縄文時代の貴重な土器というより 芸術性・工芸性において現代の陶芸と遜色なく、現代における陶芸の あればの話だが行き詰まり・課題を解き 未来を切り拓くヒントとなる。】
   《参考》(ウィキペディア)
  1.縄文土器(縄文時代)の年
区分
  草創期:約16,000年前〜(ただし、縄文文化的な型式の変遷が定着するのは草創期後半から)
  (「大平山元I遺跡(青森県外ヶ浜町)」「土器はすべて小破片で形の分かるものはないが、文様はなく平らで角張った底の土器である。土器の内側には炭化物が付着しており、食料の煮炊きに使ったものであることが分かる。 これは世界でもっとも古い煮炊きの後と言えるだろう」)
  
早期:約11,000年前〜  
  前期:約7,200年前〜

  中期:約5,500年前〜
  後期:約4,700年前〜 
  晩期:約3,400年前〜(ただし、晩期から弥生時代への移行の様相は地域によって相当に異なる)

 上記の年代は放射性炭素年代測定を較正した暦年代観に従っているが、いずれにせよ精度の高い推定は難しく、現在でも研究途上である。
 
「縄文土器の出現はどうやら氷期が終了する前の事であり、世界的にみて非常に古いものだが、大陸側の極東地域には同時期の土器文化の存在が知られ、東アジア一帯で世界最古期の土器が同時並行的に出現したとみられており、相互の関係が注目される。
 
現在までに知られている日本列島最古の土器は青森県大平山元I遺跡や茨城県後野遺跡・神奈川県寺尾遺跡などから出土した文様のない無文土器であり、大平山元I遺跡から発見された土器の年代測定の算定は16,500年前(暦年較正年代法による)とされている。また、愛媛県久万高原町美川の上黒岩岩陰遺跡の最下層の第9層から細隆起線文土器、第6層から薄手の無文土器、第4層から押型文土器と厚手の無文土器が出土している。その中でも細隆起線文土器は約1万2000年前のもので、日本最古級の土器の一つである。
 
日本列島最初の土器は次の4段階をたどると考えられている。まず最初の第1段階は無文土器]を特徴とし、第2段階は豆粒文土器と隆起線文土器群であり、第3段階は爪形文土器群であり、第4段階は多縄文土器群である。
 ちなみに、弥生時代になってからも、東日本では縄文土器の伝統を反映した
弥生土器、北海道では縄文土器の直系と言える続縄文土器、沖縄諸島では貝塚時代前半の系統を引く土器が作られた」
 
2.縄文土器の画像(例)
縄文土器1         縄文土器2
円筒形土器 縄文前期          把手付甕形土器 縄文中期 
青森県八戸市是川一王寺貝塚出土  長野県伊那市宮ノ前出土 
東京国立博物館蔵            東京国立博物館蔵

縄文土器3        火焔土器
深鉢形土器 縄文中期           深鉢形土器(火焔型土器)縄文中期  
東京都あきる野市二宮大塚出土      新潟県長岡市馬高出土
東京国立博物館蔵              東京国立博物館蔵

縄文土器4                 縄文土器5
人形装飾付壺形土器 縄文後期        注口土器 縄文晩期 
青森県弘前市十腰内出土        青森県つがる市亀ヶ岡遺跡出土  
東京国立博物館蔵            ギメ〔東洋〕美術館〔フランス・パリ〕蔵

■暇年の歴史のある陶芸において 煙を偶然ではなく意図する美(術)にまで高めたのは五代伊藤赤水。人類陶芸史上 大発見と言って過言でない。
  以上  17.06.01





  


佐度の画廊46:人間国宝 蝋型鋳造 佐々木象堂

 こんにちは!自在業の櫻井です。
 4月29日(土・祝)。新潟発6時のフェリーで佐渡へ帰った。佐渡の画廊シリーズの一環として真野の佐渡歴史伝説館内の佐々木象堂(ささきしょうどう)記念館にある鋳金作品を写真に収めるためである。
勿論、事前に撮影・ブログ掲載の可否を確認の上でのこと、不可なら無料でも行かない。館内撮影はすべて自由との即答があり即決。これで「佐渡の画廊」は連続第4弾となり、シリーズとしての体裁はできた。 
 当日はいつも通り午前3時頃に起き机に向かったが、いつもだと朝6時の船に乗るのに5時半に家を出れば5分足らずで大通りに出てタクシーが容易に拾えるのだが(佐渡汽船へは早朝6〜7分)、今回はGWのスタート日で そうはいかないという予感がし、4時くらいになって珍しくタクシー会社に5時半に来てもらうつもりで電話。すると今すぐならよいが、5時以降は予約が入って難しいとのこと。ならばということで他の2社に電話するも同じ。ならば、大通り出れば個人タクシーも通っており、10分も歩けば古町にはタクシーが待機、そこまで行かなくても途中で拾えるとの読みはあったが億劫。5時頃になって最初にかけたタクシー会社に電話、居場所と行き先を述べると伺えるということになった。
 なぜ、佐々木象堂か! これまで佐渡出身の人間国宝(工芸技術部門)について無名異焼の伊藤赤水、青磁の三浦小平二について取り上げた(赤水は06年8月26日号「佐度の窯元(2):相川 廚鮖呂瓩箸靴涜真堯⊂平二は06年8月27日号「佐度の窯元(3):相川◆廖砲、佐々木象堂については触れておらず、画廊シリーズの今がチャンスと見た。なお、佐渡蝋型鋳金(ろうがた・ちゅうきん)や創始者の本間琢斎は、記事にしている。
  10年3月13日号「佐渡の画廊17:佐渡蝋型鋳金」
  15年4月21日号「佐渡の画廊41:佐渡蝋型鋳金 本間琢斎歴代作品」
〔参考:「人間国宝」は、文化財保護法に基づき文部科学大臣が指定した重要無形文化財の保持者として各個認定された人物を指す通称。同法において無形文化財とは、演劇、音楽、工芸技術その他の無形の文化的所産で我が国にとつて歴史上又は芸術上価値の高いものをいう。なお、2016年9月までに認定された工芸技術部門(陶芸、染織、漆芸、金工、金工(刀剣)、人形、木竹工、諸工芸、和紙の重要無形文化財保持者(各個認定)は、死亡により認定解除された者を含め延べ175名(実人数は172名)。1960年保持者に認定された佐々木象堂は、2017年現時点金工蝋型鋳造分野で唯一
 今回は、それらを踏まえ より内容充実を図っていく。

1.蝋型鋳金

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1)鋳造方法はその技法により次のように分類されている。
 1.蝋型 2.込め型 3.挽き型 4.ガス型 5.石こうロストワックス法 6.遠心鋳造7.金型鋳造
2)一品一作の蝋型鋳金は蝋そのものを加工し、出来上がった蝋製品の全体を型材でくるみ、外部から熱を加えて中の蝋製品を溶かし気化させ、蝋製品と同一の空洞化させた型の中に、溶融化させた金属を流し込み、型と金属が冷却したところで型を壊し、中に出来た金属製品を取り出します。
3)一品一作ですので、蝋型鋳金の製品は同じものがありません。蝋型の原型は一回限りの使用ですので、デザイナーの個性が遺憾なく発揮されるとともに、細部にわたり忠実に作品を再現してくれます。
4)基本的には蜜蝋〔みつろう〕と松脂〔まつやに〕を煮合わせたもので造形して、原型にバインダー液とアルミナの粉末を混ぜた液を作り、砂を幾層にも吹き付ける。これを乾燥して焼いて型を作る。熱で蝋が溶けて出来た隙間に銅合金を流し込むと、造形した原型そのままの作品が出来る。
5)この方法は香炉、置物、花瓶、文鎮などによく用いられ、国指定の伝統的手法となっているところもある。蜜蝋と松脂の混合比率は使用目的、使用場所などによっても異なりますが、大体4:6〜5:5〜6:4の割合です。
6)この鋳型法は、蝋の味が生きた鋳肌が特長で、原型の繊細な部分までそのままに再現され、着色はおはぐろ色、煮色、青銅色など伝統的な方法で行われています。伝統的な着色法としては、酒石酸、硝酸、硫酸などの酸類と食塩、塩化アンモニウムなどの混合液に浸けることにより行われます。
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 古代オリエントにおいて、紀元前六千年頃から銅器文化が起こり、紀元前四〜五千年にはエジプトにも銅器文化が起こった。
 中国では紀元前一千六百年〜一千年頃の殷・商の時代に青銅器文化が栄えている。日本では紀元二〜三百年のころに銅剣、銅矛、銅鐸、銅鏡などの制作に使われたが、石製の鋳型を用いる方法で蝋型鋳金とは異なっていた。
 飛鳥時代に入り、百済から仏教が渡来するようになってから、銅型鋳型が多く作られるようになり、更に奈良時代に入ると佛教関係の鋳造が多くなってきた。それに伴い、蝋型鋳金の技法も開始されるようになった。この時代の代表的な蝋型としては、鶴林寺の聖観音(兵庫)、薬師寺の薬師三尊(奈良)などがあげられる。

 (資料:以上´△蓮▲魯螢涓柔グループHP「パインケミカル‐06.蝋型鋳金と松脂(ロジン)」サイトによる)
佐渡蝋型鋳金
 (資料:佐渡市HP「佐渡蝋型鋳金」(参考文献:佐和田町の文化財ー平成15年度改訂版ー(佐和田町教育委員会))
 「佐渡の蝋型鋳金技術は、初代本間琢斎(ほんまたくさい)が弘化4年(1847)に佐渡奉行中川飛騨守より委嘱されて、沢根の鶴子で大砲を鋳造し、砲身の模様を蝋型で鋳造したことが始まりと言われ、以来沢根を中心にその製法が広まりました。中には人間国宝となった佐々木象堂氏などが活躍しました。
 蝋型鋳金は、蜜蝋(みつろう)を主体とする練り合わせ蝋で作品の原型を作り、それを土で塗り覆います。土が乾いたら湯口を下にして窯の中で蝋を溶かして土より流出させて、空洞になったところへ溶かした銅合金(銅・鉛・錫・亜鉛)を注入します。この後仕上げ着色の工程を経て完成する一品製作の美術品です。着色工程では、使用する薬品により、古銅色、青銅色など数種類の色を引き出しますが、なかでも代表的なものに斑紫銅(はんしどう)色という特別な技法があり、この技法を編み出した初代の本間琢斎より代々引き継がれています。
 昭和53年(1978)、佐渡の蝋型鋳金技術として新潟県の無形文化財に指定されました」

2.佐々木象堂
(資料:『佐渡の百年』「人間国宝・佐々木小象堂」(山本修之助箸 1972年刊)。渡辺和弘編「佐度人名録」サイトにあり)
1)出生
 象堂は、本名は文蔵として1882年(明治15)河原田に生まれた。
 父は垣根や庭園の手入れなどした日雇い、母も雇われ人で仕立て物や蒲団づくりをしていた。両親とも器用な人であったといわれる。
2)暮らし・奉公と学業
 a.家は貧しく河原田尋常小学校4年の時同町の中山商店へ奉公に出た。
 b.たいていの教科書は友だちから借り書き写した”私製教科書”を使っていた。「2〜3冊がいまも佐々木家に保存されている」。その一冊「万国地理」は和紙40枚ほどで全部毛筆で描いている。ことにさし得の地図は正確をきわめ色彩までつけている。また、表紙に「幾何画・佐々木文蔵」という横とじのものが残っている。これは、エンピツで描いた用器画(コンパス、定規などを使って描いた幾何学的図形)である。先生の点数も書きつけてあるが、みんな90点とか95点。
 c.その頃各地に月市がたち、奉公先では必ず出張販売していた。自動車・自転車のない時代、朝早く起きて店の品物を山のように積んだ荷車を引いて往復10〜16劼寮个海軻擦鬚△襪い拭
 d.中山商店ではひそかな楽しみがあった。土蔵には古書画や美術品が多数収蔵されていた。「文蔵が見えない」と店の者が捜す時は、いつも土蔵の中にいて、小窓からさし込む薄い光の中で書画や美術品見とれ、時にはこっそりその画を模写することさえあったという。
3)画家を志望し挫折、そして鋳金への道
 a.美しい絵を画く人にないたいと思うようになった文蔵は、その頃四条派の画家として有名な東京の野村文挙〔のむら ぶんきょ〕へ長文の手紙を出したが、何の返事も来なかった。だが、中山家の主人の実兄のあたる宮田藍堂〔みやた らんどう〕の紹介状もらうことができ、主人や両親の許しを得て上京。1900年(明治33)文蔵18歳の時。一ヶ月経ったとき師匠に呼ばれ、「お前の近視はとても度が強く将来画家として立っていくことは困難。せっかく佐渡からはるばる来たのであるが、このさい画家志望は捨てた方がようだろう」と言われ、佐渡に帰りまた中村家の番頭として働くことになった。
 b.主人は藍堂に相談、絵を画くことも鋳物を造ることも同じ芸術の道、しばらく自分のところへよこしてみてはということになった。主人の勧めで心を決め、1901年五十里の宮田藍堂の元へ入門することになった。文蔵は、最初「象雲」と名乗ったが、後で「象堂」に改号(1913年の作品は、まだ「象雲」)。
 【参考:初代 宮田藍堂(1856〜1919)
  明治-大正時代の鋳金家。本間琢斎に蝋型鋳金の技術を学び、4年間の修行を経て上京。諸氏を訪れていた際に東京美術学校〔東京藝術大学の前身〕に招かれて、岡崎雪声の助手として楠公銅像製作に寄与。
 〔参考:「岡崎雪声(1854〜1921)」(ウィキペディア)

  1889年パリ万国博覧会に出品した作品が2等を射止め並行して各地の古仏像の調査研究を鋳造の面から研究し名を高めたことで岡倉覚三(天心)の知己を得て1890年東京美術学校鋳金科の教師となる。1892年作の「執金剛神」像がシカゴ万国博覧会出品に選ばれた」皇居外苑の楠木正成像の制作の際はその巨大な像を鋳造するための技術を習得するために単身自費で渡米し、日本で初めての分解鋳造法による鋳造を行ったことでも知られる〕
 明治35年(1902)帰島して開業。弟子に人間国宝 佐々木象堂がいる。
 二代藍堂は初代の三男として生まれ、実と称した。「父の高弟佐々木象堂を訪れ、2年の修行を積んだ後帰郷して開業しました。帝展、文展、日展を通じ入選作が多数あります。勲五等瑞宝章、ソ連文化賞、第四銀行賞(功労賞)などを受賞」「三代藍堂は二代藍堂の長男として生まれ、宏平と称しました。東京美術学校(現在の東京芸術大学)工芸科鋳金部に入学し、卒業後東京で開業しましたが、手腕を認められて母校で教鞭をとり、子弟の育成に励みながら、新感覚で蝋型鋳金や斑紫銅色の技術を活かして、他の金属(金、白銅、錫、アルミニウム、ステンレス)を素材とした新しい分野の開発に取り組んできました。父の死後平成6年(1994)11月3日に三代を襲名しました」「平成19年(2007)に亡くなりますが、そのあとを息子の昌平(長男)、洋平(次男)が後を継いでいます」(前掲『佐和田町の文化財』)。
 初代の作品は)島内には聖観音像等が残されているが、金井の明治紀念堂の敷地内にある銅柱は初代藍堂作。07年6月14日号「佐度の風景15:明治紀念堂」】

 ァ.河原田の自宅から藍堂の家まで3辧△匹鵑覆謀卦いよくても雨傘を片手に持ち、高下駄をはいているというのが沿道の人びとの話題になった。
 高下駄は歯を取り換えれば長く使えるという理由のほか悪い道には晴雨にかかわらず便利という点、傘は「雨はいつ降ってくるかわからない」というのが答え。
 ィ.象堂は酒もタバコも口にせず、ただ一途に蝋型鋳金の道に精進。読書家で仕事の手順で少しでも時間があればかたわらの書物を開き読みふけった。論語、唐詩選、万葉集、良寛歌集、樋口一葉の小説など。そして、うつも辞書を傍に置き、少しでもわからないことあれば、すぐに辞書を引いた。
4)鋳金作家人生
 a.1907年河原田の自宅に鋳金工房を建て、独立。
 b.1913年再び上京。しばらく鋳金家大島如雲の仕事を手伝い、生活費をかせいだ。同年10月日本美術協会展で銅牌、宮内省買い上げ。
 〔参考:「大島如雲」(デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説)

  1858−1940 明治-昭和時代前期の鋳金家。
 父大島高次郎に鋳造技法をまなび,精巧な蝋型鋳造を得意とした。明治14年の内国勧業博覧会に「竜神」を出品。33年パリ万国博覧会に出品した「稲穂群雀」で金賞受賞。〔明治〕23年から昭和7年まで東京美術学校(現東京芸大)でおしえた。江戸出身。本名は勝次郎。別号に一乗軒。代表作に「濡獅子図額」など。 〕
 c.翌年、同郷のタケ(真野合沢の羽生家の三女で長岡女子師範学校を出て真野小学校の先生、明治40年河原田のキリスト教会で互いに知り合った)と東京千駄ヶ谷のキリスト教会で結婚式を挙げた。新しい世帯を持ったが貧乏は相変わらず。タケは朝早く割引電車で深川の小学校に勤め、帰ると家事全部を切りまわし、作品の売り捌きに駆け回った。生後70日で死亡した長男の葬式費用のため作品を売りに行って断られた夜もあったという。
 d.その後作品が次々展覧会に入選し受賞するようになり、地位も上がった。
  1927年帝展出品の「鋳銀孔雀香炉」が特選、宮内省買い上げ。
  1929年同「金銅鳳凰置物」が特選。
  1931年第12回帝展審査委員を委嘱、6回続く。
  1934年新潟県の工芸作家の研究団体「越佐工芸美術会」を創立
  1935年53歳のとき、「帝国美術院参与という美術界最高の地位についた。 
  1938年新潟市に「新潟陶園」を創設、「越路焼」名づけた。
  1944年象堂夫妻は、夫人の郷里真野町合沢へ疎開。
  1947年新町に「真野陶苑」を興し「真野山焼」を始め陶芸の指導に当たる。この間も鋳造活動は続け、「日展」に依嘱出品はしていた。
  1956年「鋳銅瑞鹿置物」は仮宮殿用として宮内庁買い上げ。
  1958年第5回日本伝統工芸展出品「鋳銅瑞鳥置物」は、文化財保護委員会委員会長賞受賞
  1959年日展出品「鋳銅菜花置物」は、高松宮日本工芸会総裁賞受賞
  1960年人間国宝(重要無形文化財保持者)認定
  1961年1月26日79歳の生涯を閉じる。
   1月29日真野町では名誉町民第一号として町葬。2月22日勲四等瑞宝章が授与。
 
3.象堂の鋳金作品
|鯑次‐儺(しょうぎょ) 1960年作
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1)「粧魚(しょうぎょ)」をグーグルで検索しても見当たらず、「粧魚(しょうぎょ) 意味」とすると「しょうぎょ【椒魚】 サンショウウオの別名」や「しょうぎょ【松魚】 カツオの異名」と出て来た。だが、どれにも該当しない感じだ。
2)1960年作といえば亡くなる前年78歳の時の作品にもかかわらず、また重々しい鋳銅作品でありながら 躍動感があり生き生きしている。2匹並んでいるから特にそう感じさせるのだろう。おそらく魚の親子。そうとすれば相当意味深い。
 追記17.5.5:あるブログより、当館での説明文
 「東宮御所の装飾用としてつくられたものである。2尾の魚が水中深く入っていこうとする一瞬の姿をとらえている。魚体は青銅色に仕上げられ、極端なほどのデフォルメが加えられている」
金銅 鷺(さぎ)香炉 1925年作
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1)サギは長い脚と首と嘴を持ち、白鷺は真っ白い羽が特徴。川や水田などを餌場とし、魚や両生類、爬虫類、更には哺乳類、鳥類までも捕食。佐渡では加茂湖の筏に待機しているのが見られる。田んぼではトキ(朱鷺)と一緒に探餌しているのが見られるという。サギはペリカン目サギ科、トキはペリカン目トキ科で互いに同目の仲間。
2)作品の鷺は、よく見かけるスマートな白サギでなく、幼鳥のような感じもする。背中がずんぐりしているのは、中にお香を入れる蓋がかぶさっているからか。空気穴のようなもの見えるから間違いない。香道では香を「嗅ぐ」のでなく、「聞く」と表現。そして、香木の香りを聞いて鑑賞する聞香(もんこう)と香りを聞き分ける遊びの組香(くみこう)の二つの楽しみがあるという。
6眛次/霙止醢А覆困い舛腓Α,んろ)1932年作
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1)「瑞鳥」は、コトバンクに「めでたいことの起こる前兆とされる鳥。鶴(つる)・鳳凰(ほうおう)など」とある。着物、焼き物、茶道に使う棗(なつめ)、屏風などの文様に使われ、ホテルや結婚式場などには「瑞鳥」を冠した室名がある。
 「薫炉」をウェブで調べても、「燻製炉」は出て来る以外は殆んど見当たらず、辛うじて正倉院の宝物「銀薫炉(ぎんくんろ)」の説明あるのみ。
 a.「屏風花氈等帳〔正倉院に保管されている五巻の献物帳のうちの一巻〕に記載の、衣服に香を焚きしめる道具。銀鍛造、透かし彫りの地に毛彫りで文様を表現。〔球形で転がしても重力の関係で中に入っている重い〕火皿を常に水平に保つ仕掛けあり」(ウェブリロ)   
 b.「純銀で作成された球形の香炉である。球形の真ん中で上下に割れ、上が蓋、下が実とされる。特徴はその大きさで直径18cmである。国外を含めこれ程大きな球形香炉は例がない。全体に精巧な透かし彫りを施されており、その技術は極めて高い。しかし1300年前のオリジナルは蓋の方であり、実は明治時代の復元品である」(ウィキペディア)
 また、中国のサイトには、「元末明初〔元の末期・明の初期〕 龙泉动物燻炉」「作品分类:陶瓷>元代以前陶瓷」とあり、画像を見れば陶器。
2)前記の鷺香炉との違いは、
 a.背中部分に香をしまう蓋が付いているのがわかるが、ずんぐりしておらずほぼ水平でスマート
 b.羽を高く広げ、透かし彫りになっていること
 c.嘴、頭、首、胴、足が直線で均整がとれていること(前記の場合 曲線)。
っ鯑次“天置物(ひてんおきもの) 1934年作
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1)「飛天」
 a.起源はインドと言われるが、オリエントの有翼天人像がシルクロード経由で伝わったものともされ、はっきりと分からない。

 ァ.ペルシャを起源とする有翼天人はゾロアスター教で空中から飛来するとされる精霊を象ったものとされ、古代ペルシャ遺跡にその姿が見られる。 これらの表象はエジプトやメソポタミアにも波及、イスラエルの天使やギリシャのエロス、ニケといった有翼神像にも影響を与えた。

 ィ.仏教の飛天は、それらオリエントの神々と異なり翼を持たないことが特徴。しかしガンダーラから西域では有翼像が見られている。多くは天衣(はごろも)をまとった女性像として描かれるため「天女」とも呼ばれる。

 ゥ.阿弥陀如来などの仏を中心に、花を散らし楽を奏し香を薫じるなどして優雅に舞う〔仏をたたえる天人の〕姿が一般的に見られる。ガンダーラ美術にはすでにその姿が描かれており、インドではアジャンター、中国では敦煌や雲崗の石窟寺院にその優美な姿を数多く見せている。 日本では法隆寺金堂壁画や薬師寺東塔水煙、平等院鳳凰堂後背、法界寺阿弥陀堂壁画などにその作例が見られる。(以上、ウィキペディア)
 ェ.天人が持つ楽器に、琵琶や笛が見られる。
 b.飛天置物には、素材として木彫り仏像、陶器、和田玉置物〔「和田玉(ほーたんぎょく)」=中国新疆ウィグル自治区のホータン地区(和田地区)で採取されるヒスイ〕、仏画色紙などがある。

2)当作品は、天人が宙に浮き笛を正しく手にして口にあて まとった羽衣をなびかせながら、舞うようにして奏でている様子を表している。金属を素材としながらも、あたかも紙が空に舞うように鋳造することは簡単に出来るものではなく、原型づくはおそらく試行錯誤の連続で相当の時間を要したと推定される。
ッ鯑次|媚卩蕨塞愾(ちしめろうふぞう)1957年作

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1)「稚子」は、「おさなご」「稚児(ちご)」。「稚子馬郎婦像」は、調べても「馬郎婦」のことしか出て来ない。
   文化財オンラインより「馬郎婦」
 小林古径(1883−1957)KOBAYASHI,Kokei
 馬郎婦(めろうふ)Merofu: The Goddess of Mercy Incarnate
 1943(昭和18)年紙本彩色・額装 72.0×89.5僉\鏨聾デ偲検閉觴芝酳館表慶館1944)
             記
 「馬郎婦」は馬郎婦観音の略称。三十三観音のうちの一観音。仏教を広めるため、美女に姿を化して現世に登場した観音。美女ゆえに、現世の求婚者が多かった。多くの求婚者のなかに、法華経を誦する者がいる。馬氏の郎、であった。馬氏の郎への美女の嫁入りが決まる。が、婚礼の夜、美女が、急死。悲嘆に暗れる馬氏の郎に、美女の由緒を老僧が説く。美女を埋めた墓を開けてみる。すると、美女は、黄金の骨、と化していた。本図は、以上の説話に由る。美女を、唐俑に擬し、線描も色彩も苦心し、馬郎婦の高貴さを的確に表わす試み。
2)エピソード:前掲『佐渡の百年』
 昭和34年(1959)6月東京タキシード・クラブの一行が佐渡観光に来て、「真野陶苑」を訪問。一行には河野一郎や永田雅一(大映社長)がいた。陶器を見たあとなにか鋳金を見せてもらいたいといったので象堂は「稚子馬郎婦像」を持って来た。永田は河野に「この顔はあんたに似ている。この像はあんたがもつべきだ」と、からかった。河野もしばらくながめていたが、心が動いたとみえて、象堂に「これをわけてもらえますか」と尋ねた。
 耳の遠い象堂は、これはてっきり値段をまけよと言ったものと思い、大きな声で「いや、それはまけるわけにはゆきません」と答えた。すぐ聞き間違えたということがわかったので、一同大笑いとなった。
 〔この像に接した時、親しみあって何となく誰かに似ていると思ったが、「河野一郎」とも関係したことで「なる程そうだ」と納得し、悦にいった〕
 【参考「河野一郎(1898〜1965年)」(ウィキペディア)
 a.日本の政治家。副総理、日本自由党幹事長、自由民主党総務会長。昭和中期の政界実力者の一人。河野派会長、領袖。
 
b.自由民主党の党人派の代表格として権勢を誇り、その政治行動は「横紙破り」と呼ばれた。農林大臣、建設大臣、特命相、五輪大臣、副総理、国務大臣(筆頭無任所大臣)を務めた。また、地元神奈川県県政にも強い影響力を持ち、県は「河野王国」とも呼ばれた。栄典は従二位勲一等旭日桐花大綬章。
 
c.参議院議長をつとめた河野謙三は実弟。衆議院議長外務大臣自由民主党総裁新自由クラブ代表をつとめた河野洋平は次男。衆議院議員河野太郎は孫にあたる。】
Χ眛次 ̄鴦(おしどり)
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1)オシドリ:鳥綱カモ目カモ科オシドリ属に分類。
 a.日本では北海道や本州中部以北で繁殖、冬季に本州以南(主に西日本)へ南下し越冬する。厳冬期には数十羽から数百羽の群れをつくることもある。
 b.仲が良い夫婦を「おしどり夫婦」と呼び、夫婦和合の象徴とされている。だが、オシドリは冬ごとに毎年パートナーを替え、抱卵はメスのみが行い、育雛も夫婦で協力することはないようだ。

 c.全長オス48cm、メス41cm。翼長オス21-24.5cm、メス21.7-23.5cm、体重オス0.6圈▲瓮0.5圈(以上、ウィキペディア)
2)平成19年国指定小佐渡東部鳥獣保護区指定計画書(環境省案)資料によれば、オシドリは当該地域で一般的に見る鳥獣には該当しないが、記されているのは確か。
  作品は、金銅製であるが生き生きとしたリアルがあり、同館社員の隠れた計らいによるものだろうが夫婦仲抜群の配置となっている。雑で粗い配置では、効果は半減する。

Ф眛次々雀置物
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1)クジャク(孔雀)はキジ科の鳥類、中国から東南アジア・南アジアに分布するクジャク属2種(通常のクジャク)とアフリカに分布するコンゴクジャク属1種から成る。
a.オスは大きく鮮やかな飾り羽を持ち、それを扇状に開いてメスを誘う。
b.羽は工芸品に広く分布されてきたほか、神経毒に耐性を持つためにサソリ等の毒虫や毒蛇類を好んで食べることから、益鳥として尊ばれる。そのため邪気を払う象徴として「孔雀明王」の名で仏教の信仰対象にも取り入れられた。
c.日本では、推古天皇6年(598年)に新羅がクジャクを送ったという記事が『日本書紀』にある。江戸時代、大大阪に孔雀を見ながら茶が飲める茶店があり、「孔雀茶屋」と呼ばれた。(以上、ウィキペディア)

2)孔雀置物としては、いろいろ観ると 大半が陶器製では色鮮やかに羽を開いた、あるいは木の枝に止まって長い羽を地に着くまで伸ばしたもの、ガラス製では開いた羽の部分部分が真っ白い花火の玉のように高く広く連なったものとなっている。当作品のような金属製は、珍しいといってよいのではないか。羽を開かず、木の枝に止まらず立っていることで、その特性を遺憾なく発揮している。

鋳銅色絵 駃騠(けってい)1941年作
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1))駃騠(ケッテイ)は、雄のウマと雌のロバの間に生まれるウマ科の雑種動物。外見は、雄のロバと雌のウマの間に生まれたラバと似ている。ケッテイは、ラバよりわずかに小型。頭はラバ以上にウマに似ており、耳はウマより長く、またラバよりもウマに似たたてがみや尾を持つ。(ウィキペディア)
 漢字辞典オンラインでは、「駃騠(けってい)は速く走る馬。また、騾馬(らば)のこと。雌馬と雄ロバの雑種」とあり、ウィキペディアとは解説が異なる。

2)作品は、太い前脚・後脚がバランスを保ってすくっと立ち、顎を上げ、目は前方やや上を見、耳と鬣(たてがみ)をピンと立て、尻尾は後ろへ張り出し いかにも駿足馬であることを彷彿とさせる。それぞれの部位がわずかなズレも許せないような絶妙な均整がとられている。
鋳銅 蝶文鏡 (ちょうもんきょう)1955年作

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1)銅鏡は、合金製の中国、朝鮮、日本の遺跡から発掘される青銅製の鏡を指すことが多が、古代エジプトで青銅製の鏡を用いた事例あり。西洋よりガラス鏡が伝来普及するまで一般に広く使われていた。
a.製作は、鋳型に
鋳造したのち研磨メッキ、研磨という手順で作られる。
b.特徴
 ァ.中国では
戦国時代〔紀元前403〜同221年〕から時代〔618〜907年〕に主に製作された。形態は円形が多く(まれに方鏡もある)、直径は数十cm程度。磨かれた鏡面の裏側には中心に鈕(つまみ)があり、その周囲にさまざまな画像や文様が鋳出されている。
 ィ.日本では、
弥生時代〔紀元前10世紀〜紀元後3世紀中頃〕から古墳時代〔3世紀中頃 – 7世紀頃〕の遺跡で多くの銅鏡が発掘されている。出土する鏡は、大陸からの輸入品の舶載鏡とそれを模した国産の仿製鏡(ほうせいきょう)に分類。 種類としては、北部九州の弥生遺跡から出土する方格規矩鏡(ほうかくきくきょう)や内行花文鏡(ないこうかもんきょう)、大和を中心として全国各地の前方後円墳から出土する三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)などがある。
 顱剖世
神道の信仰の対象。日本神話に登場するものとして、三種の神器の一つの八咫鏡や日像鏡・日矛鏡などがあり、鏡を神体として社に祀っていることがある。

 髻吠唇損代以降、鏡面に仏像を線彫りにして信仰礼拝の対象とした「鏡像」(きょうぞう)が盛んに製作され、これは後に銅板に半肉彫りの彫像を取り付けた「懸仏」(かけぼとけ)に発展。(以上、ウィキペディア)
c.蝶文について(「着物の文様辞典」サイト) 
 揚羽蝶文:「緑黄地に黒い筋や斑紋(はんもん)のある大形の華麗な蝶を文様化したもので、鳳蝶(ほうちょう)とも呼ばれています。平安中期以降になって、蝶文が流行し、平家ゆかりの家々の家紋となり、今日に受け継がれています。牡丹や撫子〔なでしこ〕などと共に小袖に描かれていましたが、現代でも、振袖や留袖に好んで用いられています」

2)作品は、
a.鈕(つまみ)を軸にした小さな円周があり、それを囲む大きな円周がの枠があり、その中に2匹の蝶の造形があって且つ一部円周外にも飛び出し、8枚の花弁の枠内に納まっている。
b.何の花かを「野の花図鑑」サイトなどで調べたが、現時点これだと言えるものなし。
c.文様は、曲線で形を作っているが、高さ(凹凸)も一様でなくなだらかな山形を描き、
 概して簡略化された中に精巧さが見られる。
鋳銅色絵 鸚哥(おうむ)置物 1940年作 
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1)セキセイインコ(背黄青鸚) は、オウム目・インコ科・セキセイインコ属に分類。オーストラリア原産は、小型でペットとして人気が高い。
 成鳥の体長は18-23cm程、スズメより少し大きい。野生個体の成鳥は頭部が黄色、頭上から後頭部にかけ細かい黒の横しま模様が入るのが一般的。背中と
は黄色の縁取りがある黒い羽毛が生えるものが多い。胸から腹、腰までは黄緑色の羽毛に覆われ、尾羽は緑または青も多い。和名は日本に最初に来たセキセイインコの背が黄と青だったことに由来。
 雄と雌はほぼ同じ体色、雛の時は雄・雌区別が付かないが、成鳥になるとくちばしの根本の鼻孔を包む蝋膜(ろうまく)という柔らかい皮が、雄は青、雌は褐色になり、鼻孔の中や周りが白っぽくなり区別できる。(ウィキペディア)
2)置物としては、顔料で色彩の豊かさを発揮できる陶器が主流のようだが、鋳銅もある。当作品は、体色はほぼ全体赤、鼻の部分は金色、尻尾は一部が黒の計3色で簡略、止まっている場所が小枝でなく湾曲した古めかしい青銅の柵で且つ脚を見せてないことがかえって斬新性を主張。オウムの赤と青銅の青が互に色の鮮やかさを引き立てている。

黄銅 柳文花瓶(りゅうもんかびん)
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1)花瓶の素材として、主に陶器・ホーロー・ガラス・木等があるが、銅器は少なくその中で今日では富山県高岡市産の高岡銅器が圧倒的に多い。「花瓶 銅器」で検索すると「高岡銅器」の名(社名であっても調べると高岡銅器)が数ページに渡り連なっている。5年以上前に高岡を訪れた時、タクシー運転手から高岡は、銅器で有名であることを聞いた。(10年12月19日号「係わりの地55:伏木」)
2)当作品について
 a.「柳文」花瓶は、陶器や青磁ならウェブで複数点観ているが、銅器ではお目にかかってない。
 b.花瓶だから細長いのが普通だと思うが、平べったく円盤のようである。
 c.その円盤は上・下にそれぞれ仕切りがあって分かれていながら、柳の文様は連続している。
  以上より、相当な画力と発想と技術を必要とする作品に違いない。
鋳銅 両耳香炉 1950年作
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1)「両耳」とは、耳のようなものが付いていることで花瓶などにも見られる。香炉に足が付いていれば、例えば「三足香炉」などと言う。
2)当作品は、帽子をかぶり(お香を入れたり出したりする蓋の取っ手に当たる)、両手を上げ、両目があり、鼻があり、左右に開いた口があり(それぞれ空気穴)、体つきは卵型でふっくらとして豊かさがあり、両足揃えて一本足のように立っているに人間のように見える。
 アイディアとユーモアに満ち満ちており、和風でなく洋風の雰囲気を漂わせている。68歳の時で、しかも佐渡にいて創作した作品とは思えない。
蝋型鋳銅 瑞鳥(ずいちょう)1958年作 レプリカ
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1)「瑞」の字は、「しるし」、「吉祥」、「めでたい」という意味を表わす。「瑞鳥」は、徳の高い高貴な人が生まれたり王位につく時、現れるという伝説上の鳥。
2)当作品は、
 a.文化財保護委員会委員会長賞受賞作品
 b.皇居新宮殿の棟飾りに採用され、昭和天皇御在位60年記念切手(「日本郵便」発行)の図案に採用。
 c.瑞鳥は、幸運をもたらす最高の鳥であるから絵画や染め物や陶器に見られるように鮮やかな色彩と精緻な文様が必要とされるはずだが、瑞鳥の造形を抽象化・簡素化の限界にまで推し進めた。

4.まとめ
〆甘藁鮖謀狙盍曚里海
1)先程佐渡歴史伝説館へ電話で前身の「朱鷺の郷のオープンは昭和何年か問い合わせると図星昭和50年(1975)。そして4月29日かと問うとその通りであった。それは、同館帰り小さな石橋(今昔橋)を渡る際、竣工月日は偶然にも訪問日と同じ4月29日という記憶ははっきりしていたことによる。年は確か昭和53年とあったのでは、そうだとすれば辻褄が合わないと思い確認の電話をしたもの。
 〔4月29日は、昭和天皇の誕生日で今は「昭和の日」。その日は我が71歳の誕生日でもあるから、月日だけは鮮明に覚えたいた〕 
 a.佐渡汽船入社は昭和49年1月新潟勤務(当時は下大川前通6が所在地)。その時、翌年真野に「佐渡の新名所」として観光施設「朱鷺の郷」をオープンする準備が行われた。名称は、その地域にその昔朱鷺がよく飛来した事にとって「朱鷺の郷」とし、人間国宝佐々木象堂の作品などを展示した資料館と錦鯉の泳ぐ池を巡らせた桃山時代風の庭園、それを眺めながら飲食できるレストランや土産物店を備えているのが売り物。にしたPRとしてリーフレットの制作を担当。宣伝物制作は初めての仕事であった。
 b.事業の運営担当は、当時佐渡汽船グループで最優良企業の(株)新潟県観光物産で、社長は津野 務氏。リーフ作製に当たってはご指名頂き、馴れない仕事で多分にイライラさせと思われるが、一応完成をみた。
 c、当時会社2階にある独身寮に居て そこからは乗船客が建物の中へ入る様子が見えた。朝6時発の便に乗るべくお客が佐渡汽船前の車の通る道路にも並んでいて、津野社長がリーフを持って一人ひとりに手配りしていたのを見たものだ。
2)今は、「動く・光る・語る・舞う 佐渡歴史伝説館」に名前を変え、リーフレットには「佐渡に配流された順徳天皇、日蓮聖人、世阿弥に会えます」と謳ってあり、佐渡の伝説コーナーには、「安寿伝説」「夕鶴伝説」「おけさ伝説」、そして「酔っぱらいおじいちゃんといねむりおばあちゃんのユーモラスな語り口で、佐渡の伝説をご案内します」と写真付きで載っている。
  「動く」というのは人形で、当時のことをリアルに再現。
 また、日本中で名前を知らない人は少ないと思うが、ジェンキンスさんも目玉の一つ。当館HPに次のように出ていた。
  「毎年当館の売店で勤務して頂いておりますジェンキンスさんですが、本年の勤務についてのお問い合わせのお電話も頂く様になりましたので、本年の勤務についてご案内をさせて頂きます。

    【期 間】 4月28(金曜日)〜10月30日(月曜日)                              
    【出勤日】 偶数日                                        
    【時 間】 9:00〜16:00

 なお上記は予定であり、ジェンキンスさんの体調や用事等の都合により出勤日が変更となる場合もございますので、予めご了承下さいます様お願い致します。これからも皆様に温かく見守って頂き、励ましや応援をして頂けましたら幸いでございます。今後とも宜しく宜しくお願い致します。」
3)創業42年。
 a.「会社の寿命は30年」が、有名になったのが1983年9月19日号「日経ビジネス」誌がきっかけ。
  ァ.それは、売上高と総資産額の上位100社ランキングに入った会社の平均年数は30年というもので、本来の寿命とは異なり、繁栄期間が30年というものである。
  ィ.「設立後3年以内に約4割の会社が消えていき、設立後10年以内に消えていく会社は6〜7割」というのがあるが、どこの機関の・何を基にしての・何年の調査か 明らかにしてないので鵜呑みにできない。
  ゥ.東京リサーチのサイトに、2014年「倒産企業の平均寿命」調査というのがある。
   「2014年の倒産企業の平均寿命は23.5年。前年より0.1年短縮し、4年ぶりに平均寿命が短くなった。2014年に倒産した業歴30年以上の老舗企業は2,647件で、前年(3,051件)より404件減少した。倒産件数(8,642件)に占める割合は30.6%と、前年より1.0ポイント低下し、4年ぶりに構成比が前年を下回った。一方、業歴10年未満は2,062件(前年2,242件)で、構成比は23.8%と3年ぶりに上昇した」
  顱法崚飮佐覿箸亮命」調査だからはっきりしているが、廃業や吸収合併や組織変更などによって無くなってしまう形態もあるから、欲をいえばそれを含めて寿命何年か知りたいものだ(実際は、長さが難しいと思う)。なお同調査では、業歴30年以上を「老舗」企業と定義。
  髻飽貶、同社の全国「老舗企業」調査には、「2017年に創業100年以上となる老舗企業は、全国で3万3,069社あることがわかった。前回調査(2012年8月)より5,628社(20.5%)増加した」「本調査は東京商工リサーチが保有する企業データ約309万社から、創業年が1917年(大正6年)以前の企業を対象に抽出した。本調査では、創業100年以上を「老舗企業」と定義した」とある。
 b.興亡の激しい観光施設業において、創業42年はそれほど多く存在しないだろう。
  佐々木象堂の作品が個人所蔵だと散逸する可能性が高くなるだろうが、同館で大切に保管され且つ撮影自由であることは有り難い。
∈粥耕攵歹欧砲弔い萄酩覆ら感じたこと
 a、一言では、
 国指定重要無形民俗文化財 佐渡の文弥人形の遣い手名手・浜田守太郎〔1900〜1998)の言葉、「伝統芸術とは難しいんだ。基本も勉強せんうちに勝手に個性を入れたらいかん。文弥人形芝居には、2000年の歴史がつまっとるんだ」(07年10月28日号「文弥人形15;人形道」)を借りて、
 「佐々木象堂の作品には、6000年の古今東西の歴史がつまっとる」である。 
 b.「グローバル」という言葉は、特に1990年代から盛んに使われ出したが、感覚的にはそんなスケールをはるかに超え、「ユニバース&エターナル」を感じさせる。より具体的「永遠」「不滅」と簡単にすまされず、「悠久」と呼ぶにふさわしい広さ・深さ・重さ・味わいがある。
 c、お陰で20分ほどの滞在にも拘わらず、広大・深淵・悠久の世界を堪能できた。
  以上 2017.5.8





佐度の画廊45:園児の雛人形

 こんにちは!自在業の櫻井です。
 3月25日夷本町商店街の「ふれあいギャラリー」に展示されている両津地区の保育園児による雛人形を観に行った。なお、翌日は午後から椎崎温泉のホテルで両津市立南中学校第二回卒業同期会「古稀を祝う会」があり、佐渡で前泊するのに丁度よかった。
    佐渡両津ひなまつり
 開催期間:平成29年3月1日(水)〜3月26日(日)
 展示会場:佐渡市両津地区
 公開時間:10:00〜17:00
 入場料:無料(一部イベントは要参加費)
 お問合せ:佐渡観光協会 両津港案内所(TEL:0259-23-3300)
         
<関連イベント>
   ■つるしびな展示
 開催期間:平成29年3月1日(水)〜3月26日(日) 9:30〜17:00(最終日は16:00まで)
 展示会場:あいぽーと佐渡
    ■ おひなさまの竹かざり展示
 開催期間:平成29年3月1日(水)〜3月26日(日)
 展示会場:両津夷商店街
    ■貝殻びな製作体験教室
 日時:平成29年3月1日(水)〜26日(日)の土・日曜 9:30〜16:00(最終日は15:00まで)
 会場:あいぽーと佐渡
 参加費:500円(先着100名)
    ■つるしびな製作体験教室
 日時:平成29年3月12日(日) 13:00〜16:00
 会場:あいぽーと佐渡
 参加費:2,500円(予約制。定員10名)
  ※つるしびな展示会場にて事前予約が必要。
   開催:3月1日(水)〜26日(日)
  会場:両津夷周辺店舗、旅館、アイポート佐渡
 昨年は行かなかったが、「ふれあいギャラリー」に入ってるすぐに気付いたのは、いつもあるはずの私の母校ならぬ母園である私立海星幼稚園の園児〔学校教育法では「幼児」、ここでは「園児」とする〕の作品がなく、あったのは夷保育園と湊保育園のみ。後日電話すると、同園では春休みに(早く)入るので22日に撤収したとのこと。そういえば、これまでは3月早々に行ったものだ。
 なお、園児の雛人形と言っても 10年3月最初に観た時 園や年代によって異なるがパターン化された台紙に目や鼻や口などを描き入れただけのものでワンパターンで面白味なく、記事には値しないと思ってやめたが、翌日気を取り直し再び行って写真に収めた。そして記事にすべく書き込みしているといろいろ発見あって、これは面白いということになった。同年10月に海星幼稚園作品展があることを知って観に行った。
 園児の絵は、非常に面白い・大人では到底描けない発想・ユニークさがあると思った。その時の記事のまとめに、次のように記している。
 「歴史に残る有名画家や著名画家の作品展があれば、何としても見に行きたいという趣味は、はじめから無い。ところが、佐渡で園児の絵画展があることを知れば、何よりも優先して見に行きたくなるのは間違いない」
 (10年11月19日号「佐渡の画廊24:園児の絵」)
 そのことは、今でも変わっていない。一昨年11月初め海星幼稚園に問い合わせたことあったが、すでに終わっていた。開催は10月下旬のようだ。
    《ひなまつりに関する過去記事一覧》
  07年02月26日号「ひなまつりイベント」
  10年03月11日号「佐渡の画廊16:園児の作った雛人形」
  10年11月19日号「佐渡の画廊24:園児の絵」
  13年03月16日号「佐渡の画廊32:雛人形」
  15年03月26日号「佐渡の画廊39:園児の画いた雛人形」
 さて、園児の雛人形について今回どんな新たな切り口での分析と発見ができるか!?
  
1.雛人形
_菫A
ひな2
1)男雛(お内裏様)・女雛(お雛様)一対の一段飾り(親王飾り・平飾りともいう)。男雛を向かって左に飾るのが関東風、右に飾るのが京都風、佐渡は関東風。
2)それぞれの特徴は、
 上部左は、鼻と口が画像からは有るのか無いのかはっきりしないが、絵になっている。目は青の丸とすれば睫毛(まつげ)がある。それは、他にない。
 真ん中は、両方とも舌を出している。特に女雛の目がユニーク。
  上部右は、まつげ。
 下部は、大きな赤い頬っぺた
画像B
ひな1
1)目の描き方がいろいろ。
 ギザギザ、ニコニコ目、丸い目、驚き目、閉じ目、四角い目、菱形の目
2)口もいろいろ。
 口無し、舌出し、双方四角で大きな口
2菫C
ひな3
1)ここでの場合、上段と下段がつながり2段飾りのひな人形に近い。
 a.ひな壇は、最上段に内裏びなの男雛(お殿さま)とお雛様の女雛(お姫さま)が飾られ、二段目には、「三人官女」が並ぶ。
   b.三人官女は、それぞれお酒を入れて注ぐ道具を手にしているが、ここでは何も持っていない。
2)それぞれの作品の特徴
 a、上段の「貴人」
 ア、向かって左:それぞれ口が大きく、エクボがある。
 イ、向かって右:女雛が男雛に寄り添っている。
 b、下段の「三人官女」

 ア、左:段位は三人同じ。髪の毛は長く、前後左右の広がりが見られる。。
 イ、右:段位は二つに分かれる。髪の毛は、三人それぞれ乱れがなく均整が取れている。
げ菫D
ひな5
1)左:総じて異様。
 a.貴人夫婦間に睦まじさが感じられず、互いに無関心の感じあり。それはそれぞれの、目線から察せられる。
 b.官女はそれぞれ座っている高さの位置が異なり、それぞれ個性が強く 連携プレーがないことを感じさせる。決定的なのは、それぞれ顔はにこやかであるものの口が長くVの字を描いており不気味。
 c.園児ならではの雛人形、いろいろあって面白い。
2)右:総じて円満。
 a.貴人は、それぞれ目が穏やか。男雛は、隣を意識か。
 b.官女は、三人とも可愛らしく(髪型が微妙に違う)、 それぞれ位置のバランスが取れ、お互い仲良しと感じられる。
 c.それぞれの人形自体大人しく落ち着きがある。園児というより児童の描いた雛人形のようである。園では、年長組の作品だろう。
ゲ菫E
ひな6
1)左:目に特徴。
 a.貴人雛は、目が大きくメガネを掛けているととれる向きもある。特に男雛は宇宙人か縄文時代の遮光器土偶を思わせる。女雛は、驚き目か。お互いくっついて並んでいるからではあるまい。
 b.官女にも大きい目をした者がいる。口が真っ直ぐに長く伸び存在感がある。
2)右:オール・ニコニコ。
 a.貴人は、互いに間隔があるが隔たりを感じさせない。それぞれの笑顔のせいである
 b.官女は、それぞれにこやかでそれぞれの髪の毛が手つなぎしている感じを与えている。
Σ菫F
ひな4
1)2段飾り雛:この場合、これまでの平面でなく立体。
 a.作品では、すべての人形に眉毛があるのが特徴。
 b.「三人官女」が手に持つものは、通常は
 ァ.真ん中の官女は、「三方〔さんぽう」〔三方の上に盃を載せる、または盃そのもの〕
 ィ.向かって右は、「長柄(ながえ)」〔白酒を注ぐ道具で、柄が長いので「長柄」という〕
 ゥ.向かって左は、「提子(ひさげ)」〔鍋とよく似た形の金属製の 白酒を入れる器:酒を入れて杯につぐための注ぎ口と持ち手のある蓋付の器〕
  また、三人の間にそれぞれ桜餅や草餅を載せた高坏(たかつき)が入るが、場所が狭いためそこまで至っていない。

2)官女の持ち物の配置について、一般と異なるがそんなこと園児にとってどーでもいいだろう。

Р菫G
ひな7
1)三人官女の持ち物配列は、左・右共 向かって左から 提子ー三方ー長柄 で一般的な決まりに則っている。
2)左・右の特徴
 a、目
 ア、左:貴人・三人官女とも描写は同類。
 イ、右:5人5様。それぞれの官女に茶目っ気あり。
 b、鼻
 ア、左:貴人共に三角形。官女は「くの字」。      
 イ、右:鼻は貴人・官女どれも無し。目と口の魅力が、それを不要としている。

2.まとめ
 ̄犹のひな人形については4回目で、三人官女は今回が初めて。それも何も手にもっていない作品と決まったものを持っている作品とがあり、複雑なものへと発展しているのが分かる。
 なお、器の持ち方について それが正しいかどうかいろいろ調べてみたが、これといった解説にお目にかかってない。
当然のことではあるが、同じような顔立ちの人形はなくそれぞれ特徴・個性があり園児らしいところ。特に目の描き方が、いろいろあって面白い。
次はどんなものが出てくるか楽しみである。
 以上  17.5.2






佐度の画廊44:第24回浜梅津むら展

 こんにちは 自在業の櫻井です。
 「佐渡の画廊」シリーズ第2弾は、「第24回浜梅津むら展」。一昨年に続き今回で2回目となる。むら展の時期が来たと思い出したのは1月下旬。2月の佐渡イベント・カレンダーを調べるとやはりあった。開催日は、以前と同じ2月1〜7日で曜日は関係なし。
         浜梅津むら展
  開催:2017年2月1日(水)〜7日(火)9:00〜17:00(最終日15:00)
  会場:浜梅津文化センター(浜梅津公民館)
 念のため問合せ先へ電話し、期間の指定時間中はいつでも開いているかの確認(結論は大丈夫)と出展作品数と地区別出展者数を知りたいことを伝えた。新潟から観に来るということにたまげている様子だった。
 むら展に関する過去の関連記事は、次のとおり。
  13年3月16日号「佐渡の画廊31:瓢箪工芸」
  15年3月07日号「佐渡の画廊36:浜梅津村展」
  15年4月28日号「佐渡の画廊42:村の陶芸家作品」
 2月6日(月)新潟発12:40発のフェリーで佐渡へ行き、妹の車で会場へ行った。(当初新潟発9:20・両津着11:50を予定していたが、急な出来事処理で間に合わず、11:30発のジェットフォイルは海上時化で欠航、そのため予定していた裂織鑑賞はキャンセル。フェリーも時化のため両津到着予定15:05が15分遅れ15:30となった)
 会場玄関前には、青地に白抜きに赤で「浜梅津むら展」とある色鮮やかな2本の布地の旗が立っていた。なお、旗には浜梅津出身の版画家高橋信一氏(1917〜1986)の大空を飛ぶ2羽の朱鷺を描いた版画が染められていた。妹には写真を撮るだけで20分以内に終わると伝え玄関の戸を開けた。
 部屋の中に入ると奥に数人の関係者らしき人が談話しながら待機していたので名前を名乗り、事前に電話して調べを依頼した件を尋ねると通じていた。
 歩み寄って来た人が、前に陶芸について取材したことがある陶芸を趣味とする高橋孝夫氏とすぐにわかった。ご自身の作品について案内いただいた。また、もう一人の方も見覚えがあり、名前はその時はっきり覚えていなく「佐渡汽船関係?」と問うとなずいてくれた。佐渡汽船グループ・新潟県観光物産の経営幹部で、(株)新潟ふるさと村の元社長渡辺正之氏。同社は1991年旧新潟県運転免許試験場跡地を新潟県の肝入りで県を象徴する観光拠点施設として整備し、「ふるさと」に対する県民の意識の高揚と観光・物産の振興を図り、地域活性化を推進させることを目的に1988年設立された第三セクター(主要株主は2016.3月末時点新潟県)。最初新潟交通が運営主体となったが業績が思わしくなく、佐渡汽船が担当することになった。佐渡汽船では業種との関係からも新潟県観光物産を当事会社とし、経営トップにそのナンバー2に白羽の矢を当てた。氏は就任後ふるさと村の改革を行い、経営を軌道に乗せ再建を果たした。なお、氏との再会は20年以上ぶりであろう。2年前に高校の同級(隣集落の北平沢出身)と何かの折氏の名前が出て浜梅津の出身と聞いたのを覚えている。会った時すぐ察したのは、そのためだろう。
 どなたかから記帳を求められた。1頁5名、見開きで10人書ける帳面がある。住所を佐渡市にしようと思ったものの 本籍はそうだが現住所は新潟市。事実 新潟から来たのだから新潟市にした。担当も、その方を歓迎。なお、見学者は300人を超えていて、明日の最終日は50人以上来るから、350人は間違いないとのこと。

1.展示作品
(1)書道
むら展1
”敢个虜酩
 100歳の人の作品がありますと案内していただいた。
1)2年前に来た時 確か98歳の人の書ですと教えもらった記憶があり、その人だろうと思った。
2)15年3月07日号「佐渡の画廊36:浜梅津村展」の画像に、
 「卒寿観青史余世楽 百寿託神佛天命候 九十八歳乙年 岳仁書」 とあった。 
 自分なりの解釈は、
  「卒」は「卆」で「九と十」から成る「90」の齢、青史(=歴史:人生か)を観れば余生は楽しい、100歳の祝を迎えるかどうかは神仏に天命を託すのみ。98歳の年 岳仁書す」
 99歳の時は何であったか関心を持ったのは確か〕
 今回は、
 「百寿生誕万物感謝 平成廿九年元旦 岳仁書」 
 〔解釈:100年生きた。万物に感謝。平成29年元旦 岳仁書す〕
3)一般に高齢者(80歳以上を想定)が墨をたっぷり含んだ大きな筆を震えずにしっかり持つという平衡感覚といい、「止め、跳ね、払い」という筆遣い・筆運びに際しての強弱・緩急の瞬間的なコントロール感覚といい、大きく画いたそれぞれの文字の縦・横におけるバランス感覚といい、また時の心境を8字に込めた堂々たる詩作内容といい、これほどの書は、心身共に健康で且つ漢詩の素養が無ければ、到底成せる業でない。脱帽。
90歳の作品
「高橋保一書」の表示から瓢箪(ひょうたん)の工芸作家のあの人とすぐわかった。
 1)4年前取材にお邪魔し(13年3月16日号「佐渡の画廊31:瓢箪工芸」)、2年前のむら展でもご自宅が比較的近いこともあり、どなたかの知らせで会場へお出でいただきお会いした。
 2)15年「浜梅津村展」の画像は、
 「山川万里 二〇一五 八八歳 保一書」。
  今回は、
 「浜梅津むら展 偕老同穴 平成二十九年 高橋保一書」。
 脇には「偕老同穴」の説明書き:「若かった夫婦が老いて共白髪となり、やがて同じ穴に納まる。高橋保一」。
  ウィキペディアは、「共に暮らして老い、死んだ後は同じ墓穴に葬られること。転じて夫婦の信頼関係が非常にかたいことを意味する」と解説。
 3)筆遣い・筆運びについて、字自体が大きいこともあり、特に穂先の動きに魅かれ、次の事を調べることで書道の真髄を認識し、醍醐味を堪能できた。
  a.「点画(てんかく)」
   ァ.漢字は、点と線から成る点画と呼ばれる8つのいわば部品(横画・縦画・折れ・左はらい・右はらい・そり・曲がり・点)で構成。
   ィ.すべての点画で、筆の穂先の向きは常に左ななめ上、45度を通る。
  b.「永字八法(分解)」
   ァ.漢字の「永」の字には、書に必要な技法8種が全て含まれている。側(ソク、)、勒(ロク、横画)、努(ド、縦画)、(テキ、はね)、策(サク、右上がりの横画)、掠(リャク、左はらい)、啄(タク、短い左はらい)、磔(タク、右はらい)の八法
   ィ.「永」の字一字を習得すれば、この一字を持って千字・万字に応用できる。
  c.上記a・bは、穂先の動き・働きが大きい。
   「偕老同穴」の4文字それぞれには、穂先が空を切っても筆勢からその軌道がわかる。いわば筆の穂先が離陸し弧を描いて着陸し、止まるか跳ねるで一文字が完了する。ここに面白さ・凄さがある。
 画像からは、書の傍らに氏の瓢箪作品の一部が見えるが、90歳になっても創作、アイディア・ユーモア創出への情 熱・熱意は少しも変わってことを示している。なお、瓢箪作品が集まったコーナーが、別に設置(後記)。俳句も画像から見つけた。氏は、20代から50代まで絵画をやっていたことは、取材の時にお聴きしている。
千字文
1)千字文の事は今まで知らなかった。今回目に止まり意識。 
 素人考えで、次のように思った。
 a.漢字一字一字の意味、漢詩・漢文の一句・一節の意味、全文を通じての真意の把握が必要だろう。
 b.1000字の内1字でも間違いや出来の悪い字があったら、やり直しになるのでは。
 c.書き終えるのに、精神力、体力、時間を要す。
むら展2
2)千字文(ウィキペディア)
 「子供に漢字を教えたり、書の手本として使うために用いられた漢文の長詩である。1000の異なった文字が使われている」
 「
天文、地理、政治、経済、社会、歴史、倫理などの森羅万象について述べた4字を1句とする250個の短句からなる韻文である。全体が脚韻により9段に分かれている」
 「梁 (502–549) の武帝が、文章家として有名な文官の周
興嗣 (470–521) に文章を作らせたものである。周興嗣は,皇帝の命を受けて一夜で千字文を考え,皇帝に進上したときには白髪になっていたという伝説がある。文字は、能書家として有名な東晋の王羲之の字を、殷鉄石に命じて模写して集成し、書道の手本にしたと伝えられる。完成当初から非常に珍重され(敦煌出土文書にも千字文の手本や習字した断片があり、遅くとも7世紀には普及)以後各地に広まっていき、南朝から唐代にかけて流行し、宋代以後全土に普及した」
 日本には「正倉院文書にも千字文を習字した断片があるので、8世紀には習字手本として使用されていた。山口県山口市の吉田遺跡では、8世紀前半の千字文の音義木簡が出土」

むら展3
た緞浪
1)前々回の画像には、「墨絵」と表示された作品が4点載っていた。今回は、撮った画像には2点共「水墨画」とある。この際、違いがあるのかないのか調べてみた。
 a.ウィキペディア
 「水墨画(すいぼくが)とは、「墨」一色で表現される絵画で、墨線だけでなく、墨を面的に使用し、暈〔ぼ〕かしで濃淡・明暗を表す。墨絵(すみえ)とも言う」

 b.ヤフー知恵袋ベストアンサー
  「水墨画と墨絵は同じですか? 」「水墨画は、墨一色で表現される絵画です。墨を面的に使用して、暈かしで濃淡・明暗を表す。墨絵(すみえ)とも言います」
 c.「墨絵カレッジ」HP

  「「墨絵」というと、皆さん、墨の濃淡のみで、ささっと抽象的に描かれた絵を思い浮かべるのではないでしょうか?でも、実はそれは、墨絵の技法ほんの一部に過ぎません。色を取り入れた作品や、精密に描かれた作品も多く存在します。様々な見解がありますが、おおざっぱに言えば墨や顔料を使い、東洋の目線・視点・考え方によって描かれ、日本画の様に厚塗りではない絵は墨絵のカテゴリーに入ります」
 【的確な解説は、「墨絵カレッジ」HP。前々回の「墨絵」には橙色の顔料が入っているいるのが分かる。今回の「水墨画」は、墨一色でぼかしもある。ウィキペディアもヤフー知恵袋も水墨画=墨絵で、肝心な本質的違いの説明ができていない】
デ亢腓判顱扮咾瀛等に間違いがあるかもしれない)
 日めくりよ 老いし者を なぜせかす
 銀嶺に 一片の雲 影〇す
   〔「俳句 高橋保一」とある〕
(2)絵手紙
むら展13
1)以前の記事には絵手紙の説明がなかったので記す。(資料;ウィキペディア)

 a、絵手紙は、手紙の一種で「絵のある手紙をかき送ること」。

 b、「絵のある手紙」自体は古くからあるが、「絵手紙」というジャンルが確立されたきっかけは、書道家の小池邦夫1978年〜79年に芸術誌「季刊 銀花」(文化出版局)へ綴じ込み企画として、6万枚の直筆絵手紙を発表したこととされている。
 c、基本的な道具は、
顔彩画仙紙はがき。 はがきに花や野菜など、身近にあるものをかき、絵手紙を送る相手に最も伝えたい気持ちを短い言葉で添える。 テクニックよりも、自分らしさがハガキの中に出ているかどうかを大切にする。 「手紙」という性質上、絵は添え物で言葉(かき手の気持ち)の方を重視する。
2)画像にある絵手紙の作品を観る限り、次の事が言える。

 a.絵手紙といっても相手に向けもあるが、自分向けメッセージもある。
 自分好みの名言を座右の銘として色紙などに自分で書くか購入するかして自室に飾る人も想定されるが、絵手紙の絵手紙たるゆえん・真髄は、「自分の思いを、自分の言葉で、自分で絵図を考案し、自分で描いて、自分で墨書する」であろう。
 b.ハガキの枠や形式に余りわれず、自由奔放的。
 c.筆と墨、絵又は図形がどの作品にも共通してある。
 d.絵画の要素も取り入れているが、心情を言葉で表現することに重きを置く点では書道に近い。
(3)繊維工芸
,気辰海蝓蔑織:古着のを細かく裂いて麻糸などと共に織り上げた再生織物)、タペストリー(壁掛けなどに使われる室内装飾用の織物)、バッグ、ぬいぐるみ人形等
むら展4
柿渋染:クッションカバー
 「柿渋染」とあるのを見た瞬間、浜梅津には柿を栽培している農家があるのを思い出した。

むら展7
1)柿渋・柿渋染めについて
 a.「ウィキペディア」
  柿渋は、染色にも用いられ、出来上がりの茶色の色合いが柿渋染めとして好まれる。
柿渋(かきしぶ)は、渋柿の未熟な果実を粉砕、圧搾して得られた汁液を発酵・熟成させて得られる、赤褐色で半透明の液体。柿タンニンを多量に含み、平安時代より様々な用途に用いられて来た日本固有の材料。
 衣類に使用したのは、平安時代の下級の侍が着ていたがその始まりとされる。また民間薬として、火傷や霜焼、血圧降下や解毒などに効くとして盛んに利用された。
 b.「みつる工芸」HP
 ァ.渋柿染めとは?
柿渋は古くから庶民の生活の中で日常的に用いられました。高い防水・防腐・防虫効果を持ち、漁網、醸造用絞り袋、染色用型紙や、渋団扇、紙衣,和傘などあらゆる日用品に塗られていました。柿を未熟な青柿のうちに採取し、粉砕・圧搾して得られる渋液を冷暗所で何年も熟成させます。渋取をした時は黄緑色ですが、時間がたつにつれ茶色にかわります。その柿渋を何回も塗り重ねると鮮やかな「柿渋茶」を発色し、化学染料にはない独特の風合いになります。また、柿渋は漢方薬としても知られ、タンニンが血圧降下、火傷、二日酔いなどに効くといわれています。古くからの染料柿渋を、大原の良い水と環境のもとに一つ一つ手作業で染め上げました。
 ィ.渋柿染めの特徴
 顱砲匹鵑匹鷽味が強くなる
   柿渋染めの最大の特徴はどんどん色味が強くなる事です。これは柿渋の主な色素成分であるタンニンが年月とともに縮合重合するからなのです。だから使い込むほど、また古くなるほどイイ色になっていくのです!

 髻防水効果
   柿渋は塗り重ねる事によって一種のタンニンの皮膜のようなものを形成します。そしてタンニンは縮合重合する性質がありますので、タンニンの皮膜はどんどん丈夫になり防水効果が得られるようになります。昔の番傘に柿渋が塗られていたと聞くとその防水効果は一目瞭然ですね。

 塗布物を堅牢に
   柿渋の成分で忘れてはいけないのがペクチンです。このペクチンは接着性が強く、一閑張りなどはその性質を利用したものと言えます。縮合重合とともにペクチンは次第に不溶化傾向となり、塗布物は丈夫になります。
 ゥ.柿渋の用途
 顱棒鏡〆
   江戸時代以降、日本酒の製造工程で柿渋を塗った袋が使用されていました。これは酒袋と呼ばれていました。この酒袋でもろみを搾って酒の中のいらないものをこしとっていました。酒が機械で作られるようになった今でも柿渋は、そのタンパク質を固める効果を利用した清澄材として使われています。
  供健康に:血圧降下・整腸作用など
    柿渋は昔から脳卒中の民間療法として、また中国では漢方薬として飲み継がれてきました。そのほかにも効用として血圧降下や二日酔い、やけどやしもやけ打ち身に至るまで様々な説があります。
  鵝法
一閑張り」に:和紙で容器が作れる

   柿渋を和紙に塗布しその上に和紙を貼り・・・この作業を繰り返して一閑張り(いっかんばり)ができます。柿渋の塗布物を丈夫にする効果を利用した民芸品です。古くより農家では収穫したもの(豆など)を入れていたとか。    

  堯砲修梁勝Ю色用型紙(防水効果)、建具(防虫・防腐効果)、染(奥ゆかしい色目)。説明略。
2)多分家の畑か庭先に生っていた柿を染色用に採って渋液にし、それを蔵に何年も熟成されたものだろう。
 同じ茶系色でも違いがいろいろあって面白い。図案になっている。非常に落ちついた色で高齢者家庭のクッションカバー・その他壁掛け・敷物などインテリアに合いそうだ。
 なお、「渋い」は、いろいろな意味に使われる。渋柿を食べたようなしぶれるような味、にがりきった・不機嫌な表情、出し惜しみ・ケチ、派手でなく落ち着いた趣、地味で深い味わい など。
  なお、110年程前大学時代のゼミ会でI君に自分の持ってる株を話すとある銘柄に対し「渋い」と言ったのを憶えている。その時 地味で目立たず安定着実と解釈。
2菫にない繊維作品:刺し子(布地に糸で幾何学模様等の図柄を刺繍して縫ったもの)、刺繍、生地図案、布(高田縞、亀田縞)、帽子、吊るし雛、縫いぐるみリースなど。

(4)和紙工芸
^豐彡
むら展5
1)一閑張(資料:ウィキペディア)

 a.名前の由来
  明から日本に亡命した飛来一閑(ひき いっかん)が伝えて広めた技術なので一閑張になったという説、農民が農閑期の閑な時に作っていたものなので一閑張と呼ばれるようになったという説、一貫の重さにも耐えるほど丈夫なのが由来なので漢字の書き方も一貫張という地方 もある。
 b.作り方
  
で組んだ骨組みに和紙を何度も張り重ねて形を作る。また、木や粘土の型に和紙を張り重ねた後に剥がして形をとる方法もある。形が完成したら柿渋や漆を塗って、色をつけたり防水加工や補強にする。
 c.用途
  食器や笠、机などの日用品に使われたが、現在はあまり一般的に使われていない。人形やお面などにも使われている。
食器は高級料亭等でお皿として現在も利用されるが、日用品としては高価で一般に普及することがあまりない
    《参考》和紙原料(資料:「和紙の博物館」HP)
  ァ.和紙の代表的な原料
   顱縫灰Ε勝▲潺張泪拭▲ンピ
   髻僕由
 繊維(せんい)が長く強い、繊維にねばりけがあり繊維同士がからみやすい、繊維がたくさん取れる、栽培をするなど原料の入手がかんたんにできる(ガンピは栽培できない)、他の植物にくらべ、紙にしやすい、できあがった紙がきれい、できあがった紙が使いやすい等
 などなど
  ィ.その他の和紙原料(但し、主にコウゾやミツマタなどに混ぜて使われる)

   顱縫ぅ諭Ц気話羚颪濃箸錣譴呂犬瓠日本では鎌倉時代に山梨県で使われていた。書画用紙。
   髻縫織院Д織韻盡気話羚颪如⊆腓縫泪瀬韻筌魯船が使用。繊維が堅く紙にするのに時間と手間がかかるため生産量は少ない。書画用紙。
   鵝縫汽技罅北海道の幌加内町では、チシマザサの繊維100%で紙を漉いている。
   堯縫ジノキ(クワ科):コウゾと見分けにくい植物。障子紙・傘紙・提灯紙)など。
   )その他:パルプ・ムギ・バナナ・故紙・クワ・スギ・ヒノキ・クズなど。
       
   ゥ.基本的には、植物であれば紙にできるが、向き・不向きがある。
2)一閑張は、柿渋とも係わりがあるということで、柿渋染めと同様確認してないが柿産地であるご当地と大いに係わりあることを期待したい。
 a、作品は、皿、茶托、お盆、ザル、お椀、花入れ、壺など 生活実用品。
 b、器の底は、茶色が基本の中で部分部分に濃淡の変化をつけ図案にしているものとか、顔料を施し絵にしたものとかいろいろで。ここにも個性の発揮が見られる。ある作品には、「ザルに和紙を張り、模様をつけ、柿渋を塗ります」という説明書きが添えられていた。
 c.一閑張は、手作り故に同じものはなく、用途開発・デザイン開発など独創性を発揮でき、実用品でもあるため心身及び生活に役に立っていることは間違いない。
下げ紙(画像はない)
1)正月に神棚や床の間、鏡餅の下、門松などに下げるお正月飾り。「前垂れ」「はかま紙」などとも言われる。佐渡や越後では正月飾りには欠かせない。販売目的や頼まれて作るところでは11月頃より作り始めるようだ。様々な縁起の良い図柄の型紙から習字紙・半紙(縦35cm・横25cm前後の和紙)に切り出して作る。
 「半紙」の由来は、平安時代の「延喜式」細則に和紙の規格の記載があり、寸法は横尺三寸(70cm)、縦一尺三寸(39cm)で、半分に切って使ったことによる。

2)作品には、「賀正」と切り抜いた文字とニワトリの親と子の切り絵を合わせたもの、滝を上る鯉やニワトリの図案の下げ紙があった。ニワトリは、今年の干支の鳥。

(5)木工芸
   《参考》佐渡の木材:「佐度の木材図鑑」
  (資料:「新潟県佐渡地域振興局農林水産振興部(林業)」サイト)
.ぅ船ぁ憤谿漫櫟:イチイ科イチイ属):彫り物等小物類や天井板等の建築材料。国見山のイチイ(両津地区)は佐渡市の天然記念物に指定。
▲ヤ(栢・榧:イチイ科カヤ属):風呂桶等の水回りや碁盤・将棋盤。「徳和集落(赤泊地区)はカヤの産地として有名で、現在でも佐渡市の天然記念物に指定されている「大椋神社の大榧」等の巨木が残っています」
アカマツ(赤松):梁等の建築材料や船舶)、スギ(柱材や板材等の建築材料。
ぅ好(杉):柱材や板材等の建築材料。「かつては舟山杉(相川地区)や川茂杉(赤泊地区)といった天然杉が有名でしたが、現在ではほとんどが人工林となっています」
ゥ劵離(檜:):日本産樹種で建築材料として最上とされ、社寺の柱等に利用。
Ε▲謄咫福弁磧Д劵離科アスナロ属):アテビは佐渡の地方名で、「佐渡市の木」に指定。青森ヒバ・能登アテと同種。水に強く古くは風呂桶・土台等に利用、柱材等建築材料に活用。
Д屮福併殻嘶亜橅):家具・スキー板・楽器。「佐渡では市の天然記念物に指定されている安養寺のブナ林のように特異的に低地にも生育していますが、ブナは本来標高の高いところで育つ樹種であり、大佐渡山地の標高600メートルを超える地点からまとまってみられるようになります(小佐渡山地には天然分布していません)」
┘潺坤淵蕁平綟蝓Д屮焚淵灰淵藺亜法А屬そらく佐渡ではシイタケのほだ木や薪炭としてしか利用されていない」。かつては北海道の材が高級家具材として主にヨーロッパに輸出
コナラ(小楢・枹:ブナ科コナラ属):「シイタケのほだ木や薪炭としての利用が主」(推定)。「県の天然記念物に指定されている杉池の広葉樹林(両津地区)は、コナラを主体とした森林で巨木が林立」。
クヌギ(椚・櫟・橡:ブナ科コナラ属);材質は堅く、建築材や器具材等のほか、シイタケのほだ木。
アカガシ(赤樫):ハンマー・鍬等の道具類の柄。「落葉樹のナラ類よりも暖かいところを好み、佐渡では標高の低い地域で見られます」
クリ(栗):家の土台や枕木等
ケヤキ(欅・槁):「日本産の広葉樹材では最も珍重される木材」
ホオノキ(朴):、彫刻材・版木・家具等
オオヤマザクラ(大山桜):家具材・楽器等、樹皮は樺細工の工芸品、香りが良いことから燻製用チップ
哀ハダ(黄檗・黄肌):床柱や家具材、樹皮の黄色い部分は、生薬(整腸剤)、染料
吋魯螢リ・セン(針桐・栓):家具材・下駄材等
殴キ(柿):床柱や茶道具に使われる他、ゴルフのウッドヘッド。「佐渡島は羽茂地区を中心にカキの一大産地ですが、おそらく木材としての利用は皆無だと思います」
灰リ(桐):家具材・下駄材・床材等。「小規模ですが、佐渡島内でも造林されています」
  (参考は以上)
\膺輿〔仮称〕 収納箱付
むら展12
1)キリ(桐)材について(資料:ウィキペディア)
 キリは、古くから軽くて、湿気を通さず、割れや狂いが少ないという特徴があり、良質・高級木材として重宝され下駄、箏(こと)、神楽面、箱、特に箪笥の材料として用いられることが多く、桐箪笥といえば高級家具の代名詞。かつて日本では女の子が生まれると桐を植え、結婚する際その桐で箪笥を作り嫁入り道具にする風習があった。また、家紋や紋章の意匠に取り入れられてきた。発火しづらく金庫の内側に利用。日本各地で植栽されていたが、需要の高まりや産業構造の変化で北米、南米、中国、東南アジアから輸入されることも多い。
2)展示作品の素材は、人物や踏み台はともかく収納箱は桐に違いない。金箔の菊花紋も桐だろう。
 a.桐は佐渡にも造林。作った人は業者やプロでなく趣味人のはずだから、外材をはじめ島外産の桐を購入してまでして作るは考えられない。その他の部位も同様。浜梅津産でなくても佐渡産であることは確実だろう。そうでなければ、厳しい言い方すれば芸はなく、民芸という資格はない。
 b.人物の踏み台は2段あって、いずれも広く安定感がある。上の段は下の2.5倍の高さ、仙人像の頭のてっぺんから天井まで同じくらいの高さ・空間があり、それがユトリ感を醸(かも)し出し、全体として均衡のとれたバランス感を与えている。
 c.収納扉の上に付けられた菊紋は、花弁16の「十六菊紋」。格調の高さを伝えている。
⊂棋盤(将棋台)

むら展11

1)将棋盤・碁盤の木材
 a、棋盤・碁盤の材木に新カヤ、カツラ、イチョウ、ヒノキ、ヒバなどがあるなか本榧(ほんカヤ)は、「碁盤・将棋盤の最高峰で、美しさ・打ち味(指し味)・打音・香りと、全てにおいて榧に勝るものはありません国産榧の産地は、本州・四国・九州(屋久島まで)に分布し、主に暖帯林中に散生します。その中でも宮崎県の「日向榧」と高知県の「大正榧」で作られる盤が最高のものとされる。良い碁盤を製造するためには最低300年以上の樹齢の榧が必要で、国内の榧は絶滅に近い状態〔外材に依存〕」(前川榧碁盤店HP)」
  カヤは、「本州(宮城県以南)の太平洋側、四国、九州に自生しています。(佐渡島・対馬・屋久島などにも自生していますが、大木は伐られてしまったり、伐採禁止になっています。)」(「大久保碁盤店」HP)
 b.08年12月14日号「佐度の生き物49:大椋神社の大榧(カヤ)
 「➀徳和は、昔からカヤの産地
 1)明治になってから編集された徳和村誌に、「羽茂郡徳和村 榧材 子実とも称して名産とす」とある。
 2)「もとは徳和はカヤ山であった。カヤの林の中に家々があった」(古老)。徳和山寺集落の背後の東斜面一帯は、明治の末期まで800突召料柑海天然のカヤの森林でおおわれていた。”カヤの木山”
 その実は”生(な)っても百俵、生らでも百俵”と語りつがれ、明治36年に伐られたカヤの夷木(えびすぎ)は、目通り幹まわり8.8m、直径2.4m、切り株には筵(むしろ)が6枚も敷けたという。
 3)「カヤの碁盤」の産地として、徳和の名が知られていた。
 4)1973年、赤泊村は村の木としてカヤを指定し保存に乗り出した。
 ▲ヤと地元の人々
 1)”メギ(雌木)とオギ(雄木)があって、オギには実がならん。二レー(代)をつくってから実を落とす縁起のよい木だ”
 2)秋になると実が落ちる。9月15日の徳和祭りの前後から実が落ちる。
 a.昔は、カヤの木の下草を刈って拾いやすくしておいた。1本の木から5斗俵で5俵もとれたカヤもあった。村全体で、年に500石も拾った。
 b.大正末頃までは、カヤの実を仲買人に渡し、その代金で塩・魚・衣料などの購入にあてた。
 3)”米よりカヤの値段がよかった。米のゼニよりカヤのゼニの方が多い家もあった。実が売れんようになって、カヤの木をおこして柿を植えた。カヤの実で、うまいのはカシガヤ、まずいのをザコガヤ。煎ったカシガヤを砂糖にまぶし、かたくり粉をつけた「コロモガヤ」は、カントウマメ(落花生)より、よほどうまい。実は、虫下しにもなるし、体があたたまり、寝小便にも風邪にも効く。高血圧、糖尿病にも効く。マメガヤ、オオガヤ、タカノツメ(楕円体)、ツナギガヤ(くびれ)、ヒダリガヤ(種皮に左巻きのよじれ)と木によって形も違うし味も違う。カヤ餅も作ったし、実から油もしぼった”(二人のお婆さんの話)
 4)”カヤの木風呂”は、金持ち長者の風呂であったと古老は語る。
 5)初冬、雉(キジ)が里へ来てカヤの実を啄(ついば)む。腹をさくと、胃袋はカヤの実が、詰まっている。赤泊のキジ肉は美味い。カヤの実の油が肉にのっている。
 (資料:『佐渡山野植物ノート』(佐藤邦男/著))」
     《参考》将棋盤(資料:前掲「前川榧碁盤店」、ウィキペディ
 ァ.木取り
  原木から盤材を切り取ることを木取りと呼ぶ。
 ィ.木目:木取りには、大きくは天面〔てんめん:上から見た表面〕の木目〔もくめ〕によって柾目〔まさめ〕と板目〔いため〕がある。高級な順から天地柾、天柾、木裏、木表となる。
 顱頬鑢(まさめ):木目は天面からは真っ直ぐ平行・等間隔に伸び、反りや狂いに強い木取り。柾目は高樹齢(本榧〔ホンカヤ〕は樹齢300年以上)の大樹が必要なため、貴重・高価。
 a)四方柾〔しほうまさ〕:大木の芯から45度の木取りのため盤の四方〔対局面の「木口(きぐち)とその両側面=木端(こば)〕が柾目模様はとなる。木材の大きさ・木取り・性能からして最高級品に位置。
 b)天地(てんちまさ):芯を横に位置するよう木取りし、天面の柾目が裏面まで通ったもの。よほどの大木でないと製作できない。
 c)天柾(てんまさ):芯を角に位置するよう木取りし、天面が柾目となるもの。天地柾に次ぐ高級品。同じくよほどの大木でないと製作できない。
 d)追柾(おいまさ):基本的には柾目の木取りであるが、盤の端に板目が現れた木目
 髻鉾通(いため):木目は天面もしくは、裏面が芯側となるため、山型や不規則な波型の模様が現われる。
 ゥ.盤の表と裏
 顱北變◆覆うら):原木から切り出した木材の、木の中心〔年輪の芯〕に近い方の面が天面になる盤。
 髻北敝宗覆おもて):原木から切り出した木材の、樹皮に近い方の面が天面になる盤。
 〔将棋盤の価値は木裏側の方が木表より高い〕
 ェ.将棋盤の大きさ(脚のない卓上将棋盤でなく脚付き盤)
 顱紡腓さは縦1尺2寸〔≒36cm〕・横1尺1寸〔≒33cm)・厚さ(脚を除いた高さ)は、脚付き盤で2寸〜9寸〔≒6〜18cm〕程度まである。

髻望棋タイトル戦では、6寸〜7寸〔≒18〜21cm〕のものが多く用いられているという。
 ォ.9×9マス線
 顱望棋盤の天面には、漆〔うるし〕でマス目を示す線が引かれる。
 髻望棋タイトル戦に使用する盤などは、日本刀に漆をつけて線を引く技法の盤が用いられているそうだ。
 2)出展作品
 a.素材は、カヤで且つ佐渡産と期待したいが果たしてどうか。
 b.天面から見ると木目が概ね真っ直ぐに平行・等間隔に伸びているから柾目で、対局の際正面となる面で年輪が見える木口(こぐち)から見ると、年輪の芯が天面の角にあるから木裏。但し、天面の柾目がそのまま裏面まで通っていないから天地柾ましてや別格の四方柾でなく、天柾で木表よりグレードの高い木裏。

 c.駒台は、木目が平行でなく山形・波形であるから柾目ではなく板目を使用。
 〔以上は、木材や将棋盤について全くの素人ながら、基本知識の応用として試した。毎日曜のNHKテレビ将棋を定石も知らないくせに見ること多いが、これで視点・楽しみが広がる〕
2菫にはないが、ガラスケースに納められた天狗面と大きな一本歯下駄が展示されていた。

(6)陶芸
  以下は、高橋孝夫氏の作品。
|聾気悩亮茲靴薪擇悩遒辰親器
むら展10

1)市販・通販されている陶芸用粘土を購入して使うのは便利であるが、誰でも同じで・どこにでもある作品になってしまい個性からは遠ざかる。また、土なら何でも陶芸にできるものでなくそれに合った土がある。また、地元で採取した土といっても所有者がいるから、誰でも自由に採るわけにはいかない。土の所有者は、県市町村・森林組合・グループ・個人でそれぞれ許可が必要だが、氏の場合梅津森林施業組合の役員というのも大きい。
2)陶芸の釉薬(ゆうやく・うわぐすり)は、主に石の粉と石灰や粘土、そして植物灰を調合して作る。今回出展した作品に使っているかどうかはわからないが、以前取材時に見せてもらったのが柿灰釉(かきばいゆう)で創った茶碗。
 a.植物灰は、木灰(薪ストーブ・薪を使った焼成窯などから得た)・藁灰(20世紀末期からコンバインを用いる農家が増え藁を稲刈に連動させて田に還元してしまうため入手が困難。このため陶芸家の中には、農家と契約し安定的に藁を供給してもらっている者もいる)を加えたもので、灰や粘土の中に含まれる金属成分により色が付いていた。現在では、あらかじめ金属成分を溶かしいれ、絵具のように用い素焼きの陶磁器に模様を付け(「絵付け」)。
  (資料:前掲「佐渡の画廊42:村の陶芸家作品」)
 b.灰釉薬は原料の入手が難しく、品質も安定しにくいが、深みのある肌が得られるとされる。柿灰釉は、柿の木の灰で、ものにするのにテストの繰り返しを要すようだ。

 陶磁器を創るのに 粘土といい釉といいこだわりあってのことだ。

¬滴天目に挑戦
むら展0
1)油滴天目茶碗について
 a.天目茶碗
 ァ.
天目茶碗(てんもくぢゃわん)とは、元は茶葉の産地だった天目山一帯の寺院に於いて用いられた天目山産の茶道具で、天目釉と呼ばれる鉄釉をかけて焼かれた陶器製の茶碗のこと。長石と石灰岩、鉄イオンを原料とする釉薬を使用。
 ィ.天目茶碗の代表的な物として、現在の福建省建陽市にある建窯で作られた建盞(けんさん)と呼ばれるものや、江西省吉安県にある吉州窯で作られた玳皮盞(たいひさん)/鼈盞(べつさん)が挙げられる。前者からは「曜変天目」(ようへんてんもく)・「油滴天目」(ゆてきてんもく)・「灰被天目」(はいかつぎてんもく)・「禾目天目」(のぎめてんもく)、後者からは「木葉天目」(このはてんもく)、「文字天目」(もじてんもく)、「鸞天目」(らんてんもく)が派生した。(以上資料:ウィキペディア)
 ゥ.茶碗の底に付けられた高台(こうだい)と呼ばれる円環状の台部は低く小さく、茶碗の安定性を保つため、天目台あるいは貴人台と呼ばれる専用の台に載せて使われる(「藤田美術館」サイト)。
  茶道の点前(てまえ)の一つに台天目があるが、これは天目茶碗を畳の上に直に置かず黒塗りの専用の台に載せたまま行う作法。
 b.油滴天目(資料:「国立博物館所蔵国宝・重要文化財」サイト)
 ァ.〔茶碗の底部ぬある〕高台周辺を除いて全体に掛けられた漆黒(しっこく)の釉(うわぐすり)、その内・外
面の黒い地に銀色に輝く斑紋(はんもん)が浮かび上がる。「油滴」の名はその美しさが油の滴のようであるところからという。現在では油滴天目茶碗と呼ばれるが、室町時代には「油滴」、「油滴天目」と呼ばれていた。中国福建省北部の水吉鎮にある建窯で焼かれた碗である。
 ィ.建窯で焼かれた黒い釉薬の掛かった碗は「建盞(けんさん)」の名で呼ばれる。中国で喫茶(きっさ)の碗として最高のものとされ、日本でも既に鎌倉時代にはその名が文献に現れている。建盞は黒い釉地に細く短い線状の模様が現れ、これをイネ科の植物の禾(のぎ)に見立てて「禾目(のぎめ)」の名で呼ばれる。そうした建盞の中で、釉内の鉱物が再結晶することで斑紋として現れたものが油滴であった。
 ゥ.室町将軍家の座敷飾(ざしきかざり)のマニュアル書で、その当時の価値観を知ることのできるものに『君臺観左右帳記(くんたいかんそうちょうき)』がある。前半には床を飾る絵画に関連して、画人の評価と得意とする画題が記されている。後半に「書院之次第」として、そこを飾るのに用いる唐物(からもの)の茶入や喫茶の碗などについての記述がある。そこで「土之物」という項目が立てられ、喫茶の碗の中で磁器ではないもの、現在で言う天目、天目茶碗についての記述がある。それによれば、土之物の中で最高とされるのは、曜変。これに継ぐものとして挙げられているのが油滴であった。
2)「油滴天目」とあるのを見て思い出した。昔茶道をやったことがあるからで、「油滴」と言えば「曜変」もあり、いずれも見たことはある。
 イメージとしては、油滴天目は誰でも作れるものでなく制作が大変難しく希少で高価値の茶碗。油滴は油のような班紋があり、曜変は茶碗に湯を入れると色が変化することに由来。天目茶碗といえば、お点前では台天目でよく使ったように覚えている。
 過去の許状類を出してみると
  「許状 今日庵」を開けると、「茶道就執心今般入門之儀今許〇如件 
   昭和50年〔1975〕2月10日 裏千家今日庵 利休居士15世 千 宗室 」とある。
   中級に属す茶通箱(さつうばこ)や唐物や台天目はやっているが、許状が見当たらない。
   昭和54年12月10日付は、「〇〔おそらく「行」〕之行臺子〔行之行台子(ぎょうのぎょうだいす)〕伝法 今日庵」
   昭和56年7月1日付は、「大〇〇〔多分「大円草」か〕伝授 今日庵」
  とある。なお、茶道は昭和57年秋頃から仕事で時間が取れなくなったため習うのをやめた。真之行台子(真台子をもって行うもの)まで習ったと思ったが、許状が見当たらなかった。
ユニーク作品
むら展8 
1)展示作品には「飲みやすい湯飲み」と画像はないが「味がわかるカップ」があった。
2)氏について 今回は趣味人でもこだわりの面の他にプラスして発想豊かで楽しさを創る「村のアイディアマン・発明家」の面を拝見。

(7)瓢箪(ひょうたん)工芸
むら展6
1)瓢箪工芸について、2013年3月12日号「佐渡の画廊31:瓢箪工芸」に作品と内容を記述。
 例えば、作品は瓢箪の栽培から行い(瓢箪の種もいろいろある)、形は成長段階で首に紐を巻いておくと渦巻き状になる等いろいろな形を想定して瓢箪作りををするとか、1人の瓢箪人形をこしらえるのに4個の瓢箪を使っている等々。
2)今回の瓢箪作品は、アラビアンナイトの世界を連想させる。瓢箪から作ったとは思われない程色鮮やか。更に90歳の人の作品とは到底思われない斬新さ・若々しさに驚き。
(8)その他
 粘土細工、アケビ細工(アケビの蔓〔つる〕で編んだカゴ)、サザエの殻細工(サザエの殻を利用した人形)、ガラス細工、絵画、写真等。

2.参考データ
(1)浜梅津地区の人口・世帯数の推移(住民基本台帳による。佐渡市役所)
         2007年3月末 12年3月末 17年2月末(3月未経過)
 世帯数       37       35      33
 人 口        98       85        71
 世帯当たり(人)  2.6       2.4      2.2
(2)出品(訪問当日聞いたもので公式でなく且つ経過数値に留意)
 ―佗兵圈  。僑疑
  うち浜梅津居住者数 その時点不詳。
  浜梅津以外では、駒坂、平沢、舟場町、春日町、夷、長江、椿など。その場合 浜梅津が実家など関係があるとのこと。
 ⊇佗平堯 。隠苅古澄
(3)見学者数
 ヽ催6日目の2月6日(月)は、15時前時点で300人、明日は最終日で見学者の総数は350人に達するのは確実とのこと。
 期間7日間で試算上は1日当たり50人が来訪していることで、集落人口の71.4%が毎日訪れていることに相当する。 

3.まとめ
”庸瀋鼎爐蘚犬鮗分なりに次のように意義付けた。
 1)むらの人びとが、年齢・男女・職業問わず
 2)むらでの暮らしに必要なもの(個人の道楽含む)を自分の手で
 3)むらにあるもので作り(書・絵・写真等は別))
 4)むらの公民館に一斉展示し、むらの人はじめ多くの人に来てもらい楽しんでもらい
 5)むらの人同士及び外部の人との交流を深め合う場
 である。
具体的には

1)出展応募者
 出品について浜梅津の住民でなければならない決まりはなく(但し、村と何らかの関係があり村の人の申し出と承認が必要だろう)、また年齢制限などはなく 現に90歳の人・100歳の人が出品している。このことだけでも全国に数ある市町村・集落でも極めて稀なケースと言えよう。年齢制限なくても(これはフツウ)、90・100歳の人の作品が展示されているという事実の方がはるかに重要・貴重。
2)「地産地消」ならぬ「地産地活」:「暮らしに必要なものを」「むらにあるもので」作る
 例ヽ舛虜惑櫃坊腓せない柿の木の枝の剪定や摘果(柿の実の間引き)によりいわば不要物の再資源化・再活用。
  一つは柿の木の枝を果樹灰にし柿灰釉を作り、茶碗等の制作に生かす。柿色を出すため市販の化学顔料の柿釉とは異なる。
  一つは渋柿の実から柿渋をとり、
   a.各種模様の柿渋染めの生地を作り、それを基に例えばクッションカバーとして利用。
   b.柿渋を塗った和紙を張り重ねることで丈夫な一閑静張の皿、茶托、お盆、ザル、お椀、花入れなど。
 例▲▲吋咾量◆覆弔襦砲鰺用したかご・手提げかご・皿等。
3)公民館の活用
 a.文部科学省は、公民館を地域住民の最も身近な学習拠点で 集える拠点と位置づけている(後掲)が、当集落では既に「浜梅津文化センター」と位置づけ、毎年むら展を開催。 本質・核心は、学習は大事だが、そこから更に創作という自己実現=生きがい・やりがいの場を設けることにある。
  具体例として、
 ァ,普段は寝たきりのあるお年寄りがいて むら展が近付くと何か協力せんけりゃならんということで起き出し、一日は何を書くか考え一日は書くことに集中し、その後はまた寝たきりになるとのこと。
  この場合、生き甲斐・やる気、さらには健康を保つ源泉は、むら展にあるといって過言でない。
 ィ.地域住民のための公民館であることが基本であるが、島内の他地域はおろか島外からもむら展を観に公民館にやって来る。これは、意図してできるものでなく従来の公民館活用の枠にとどまらない重要なことを伝えている。
      《参考》公民館の振興(資料:「文部科学省」HP)
 「公民館は地域住民にとって最も身近な学習拠点というだけでなく,交流の場として重要な役割を果たしています。平成23年10月現在,全国の公民館数は1万4,681館となっています。
 公民館においては,住民の学習ニーズや地域の実情に応じた多様な学習機会の提供が行われています。さらに,今後は,社会の要請に的確に対応した取組や,子どもや若者,働き盛りの世代も含めて,地域住民全体が気軽に集える,人間力の向上などを中心としたコミュニティー(地域社会)のためのサービスを総合的に提供する拠点となることが期待されています」

4)むらの人同士及び外部の人との交流の核心は、互いの自己啓発・相互啓発
 a.展示室の続きの畳の部屋には石油ストーブとテーブルがいくつかあって村の人何人かが待機、来客にもお茶と菓子が用意され、くつろげる場となっている。
 b.動画で見たが、岩首の著名人=棚田おじさんが見学に来て(車で多分1時間)、地元瓢箪工芸作家の高橋保一氏と歓談。高橋氏の写真入りの瓢箪資料を見ながら手ごろな形の瓢箪(植物)の作り方や器のコルク=栓(せん:木製)は自分で作ったものか等々聞いていた。思う形の瓢箪は種の栽培から始めて途中で仕掛けをしないと作れないこと、器の栓は木工旋盤があるので自分で作ること、竹の栓を考えている事からからさっき玄関口で竹の杖を見たが氏が作ったものかを問うとそうとの応答で、今度は棚田おじさんが東京銀座にあるグッチ〔イタリアの服飾・革製品メーカー〕のバッグの持ち手は竹であることについて情報を提供【グッチの代表的なモチーフは“バンブー(竹)”で、ハイヒールや香水やネックレスや時計や財布にも使われている(但し、本物の植物の竹でないだろう)。また、佐渡の竹の産地は岩首】
 c.鑑賞者は作品を観て感動し、何らかの刺激を受け啓発となる。作者にとっては鑑賞者のズバリ評価を知りたく、それが啓発になるようだ。
    例:私がよく訪れるブログでの経験
 ァ.1月下旬同ブログ管理人が所属する地域の油絵サークルの方々の第21回大阪を描こう展(17年1/4~9日開催)入選作品を拝見。その中で特に感動した作品について 佐渡もんCという名でコメント。
    見飽きない絵:瀑布(箕面大滝)

 滝の絵といえば、普通は上から下へ落ちる全体が描かれ、一般に縦長表現。当絵は、途中からで横長。ウェブで箕面大滝お写真(春夏秋冬、全体でなく部分あり)を見ると、一枚の絵にするのは非常に難しいと痛感。そこを思い切りよく「瀑布」に絞り細かいところの描写を可能にした。滝には、川だけでなく瀑布や雫や滴もある。岩の色には、白・灰・土・茶・濃茶・黒(光の加減と遠近に影響)があり緑の草も生えているのが見え、樹木や水面(樹木が映る位置に影響)も色彩や陰影の変化がある。
 今回の一連の絵画展〔大阪を描こう展入選作品〕では、構図と陰影の難しさの気づきと面白さ(例:参道にある宣伝物は描く絵からは邪魔だからカット)を味わうことができました。
 ィ.管理人さんよりRe:
  絵でも写真でも自分の表現したいところを中心にモチーフを切りとります。特に絵の場合はおっしゃるとおり、いらない物は整理したり省いたりし、必要と思えば付け加えたりして自分の世界を構築します。そこが制作者の醍醐味というものなのです。「瀑布」の作者にも佐渡もんCさんのコメントを伝えておきます。(わざわざ言わなくてもこのコメントをご覧になると思いますが・・・)きっと喜ぶと思いますよ(^O^)
 ゥ.作者さんよりRe:(〇〇先生のブログをお借りして‥‥‥)
  岩壁は、私の一番気にいっている部分です(^^♪ 
 しぶきが飛んで表面がザラザラしている所は、モデリングペーストを下地に使って、それらしさを表現致しました。褒めて?下さって、とっても嬉しいですヽ(^。^)ノ 家族や近しい人は「エエやん!」って言うてくれましたが‥‥
  佐渡もんCさんが私の意としたところをくみ取って下さって 嬉しくて、嬉しくて嬉しくて嬉しくて嬉しくて嬉しくて
嬉し過ぎて、うれしくて嬉しくてうれしくて嬉しくて もう〜(#^.^#)どうしよう〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜(^_-)-☆
 ェ.ご両人への感謝のRe後の管理人さんからRe:
  再度のコメントありがとうございます。
 HKさんも感謝の気持ちが伝わり、また喜んでいると思います。この作品は彼女が出品のため1年間近くも制作していた作品なのでいろいろ思いがあり、それを少しでもわかっていただけたことで舞い上がっているのではと思います。
 絵はどこが終点か不明で、画家とは不安で孤独なモノですから、ちょっとでも感動していただける理解者の存在はとてもありがたいのです。(失礼ながらそれが素人と謙遜される方でも・・・)これで、彼女も次の作品にとりかかる元気をいただけたと思います。改めてコメントありがとうございました。
    (例は以上)
 この経験をしたため、むら展の記事を8割くらい書き込んだ辺りで「佐渡広場」を知っている高橋孝夫氏にその旨をお伝えした。
 なお、鑑賞時間は短かったが帰る際 前に見覚えのおばさんから玄関のところで「来年も来てください」という言葉をもらい、渡辺氏からは雪の残る外に出て来て自分の乗った車を見送ってもらったのが印象に残った。 
  以上 17.4.28























佐渡の画廊43:東京国際キルトフェスティバル展


 こんにちは!自在業の櫻井です。
 本格的書き込みは、3月になってしまったが、同級生(小学校入学時席が隣り合わせ)のキルト作家 鎌滝津江子君(以下「女史」)のキルト作品を取り上げようと思ったのは1月下旬、高校で同級のK子君(以下「彼女」)のブログ「まい、ガーデン」の「キルト展」記事で6枚の部分画像を見たのがキッカケ。冒頭に、「佐渡の同級生が出品しているので、首都圏在住の仲間7人と見て来ました。大作」とあった。
 女史の作品はこれまで佐渡広場に2回記事にし、直近は6年前の11年6月新潟朱鷺メッセでの鑑賞。その時のことを次のように記した。
 「^篤皀魯キにある写真などを観るのと実物を前にして観るのとでは、迫力が違う。
 1)これは、絵画に限らず音楽の場合CDやDVDを通して聴くこととの違いで、何にでも言えることであるが、ことキルトについては、それが大いに当たっている。何しろ、縦横2mもある作品が標準サイズであるからだ。
 2)そのことは、鎌滝女史からも言われたことがあり、実際経験すればよくわかる。作品を前にして、写真では見えなかったもの・知らなかったことがわかって来る。専門家であれば、継ぎ目・縫い方まで鋭く鑑定するはずで、写真頼りや遠くからでは正しい判定ができるはずはない。
 3)例えば「鬼太鼓」の場合、鬼の髪の毛の色と髪の流れがそれぞれ異なり、目線は違っても互いに相手を意識しているという面白さが伝わってくる。また、胸当てはじめ生地面の膨らみを楽しむことができる」
 さて、今回の東京国際キルトフェスティバル展での出展作品は、佐渡の北小浦に棲息するコブダイが主役。画像を観てだけであるが、これまで以上の迫力を感じ取った。
 そのため佐渡広場の記事に是非と思い女史にケータイメールし私のパソコンに送ってくれるよう依頼。当人はパソコンには馴染まないようで後日妹さんを通じて3枚の画像が送られてきた。
 だが、期待したより数が少なく、また生地の縫い合わせ目が分かるのものがあればと思っていたが、これがキルト(芸術)だと主張できるような精緻・精巧さが伝えられる画像でなかった。なお、キルトは陶芸と同じく工芸であっても、中には絵画のように美術に属すものもあると認識していた。
 彼女の撮った写真は、私の期待水準を超え、感激・驚嘆に近い水準であることは確か。自分自身でもそこまで巧くは撮れない。
 それでそれら画像をブログに転載したく、彼女にコメント欄を利用して意向を伝え(アドレスは、昨年妙高でのクラス会で写真を送ってもらったのだが消失)、女史にもケータイメールでその旨を伝え、それぞれ了解を得た。 
    参考:「第16回東京国際キルトフェスティバルー布と針と糸の祭典ー」

 会期:2017/01/19 (木)〜25(水) 9時30分〜18時00分
 会場:東京ドーム
 主催:東京国際キルトフェスティバル実行委員会
   (NHK、読売新聞社、東京国際キルトフェスティバル組織委員会)
 後援:外務省、経済産業省、東京都、アメリカ合衆国大使館、NHK出版、NHK文化センター   
 企画運営:NHKエデュケーナル、NHKアート、株式会社 東京ドーム
 入場券(税込):前売1,900円、当日2,100円
 特別協力:JAPAN AIRLINES
 協賛:KEYCOFFEE、東京ケーブルネットワーク、東京ドームスポーツ、東京ドームマーチャンダイジング、フコク生命、松戸興産

 応募総数:1,385点(海外40点)の中から入賞・入選作品322点が展示。
 展示部門名:
  トラディショナル部門、創作部門、和の部門、額絵キルト部門、バッグ部門、ジュニア部門 

   佐度に関係した出展作品
 作品名:「故郷佐渡の海掘廠い蝋啌ぁ廖 ]造良門 (以下「当作品」)
 作者:鎌滝津江子 

  佐渡市両津夷生まれ。両津市立両津南中学校・新潟県立両津高等学校家庭科・東京家政大学服飾美術学科卒業。
  中高等学校家庭科教員歴有。日本手芸普及協会講師指導員。国内外キルトコンテスト入選入賞。ロンドン、シアトル、韓国にて国際交流キルト展に出展。
  最近は和布のキルトを制作発表。東京家政大学博物館、佐倉市酒蔵元ギャラリーにて個展開催。

 【関連過去記事〕 私自身出展作品の理解と味わいを深めるためのもの。

(1)10年03月06日号「佐渡の画廊12:コブダイ写真」
     参考:コブダイ(取材:エス・ウァルド(株)藤井徳三氏、資料:ウィキペディア)
\限区域
 日本海側では佐渡以南、太平洋側は下北半島以南で沖縄県を除く海域と朝鮮半島、南シナ海に見られる。浅海沿岸の海藻の茂る、潮通しの良い岩礁域とその周辺に生息。(氏の話では、佐渡では北小浦の海域のみ生息)
∪限
 1)ベラ科の属し国内のベラ科の中では最大級で、体長1m以上・体重15圓砲發覆襦
 2)食性は肉食。強力な顎と硬い歯でサザエやカキ、カニなどをかみ砕き、喉の奥の咽頭歯で更に砕いて中の肉を殻毎食べてしまう。(氏の話では、イカの切り身を持って潜るとコブダイが寄ってくる。その他、小魚を食べる)
 3)幼魚は体色がオレンジ色で、体側の中央に白い縦帯があり、尾鰭と尻鰭・背鰭に黒い斑紋もあるが、成長に従い斑紋は変化していく。
 4)雌から雄へ性転換する。
  a.コブは成長した雄だけにあり、下顎も同時に厚くなる。
  b.雌のコブは雄ほどではなく雄をコブダイと呼ぶのに対し、雌は別の魚としてカンダイと呼ばれていた事もあり、地方によってはカンダイと言う名で通っているところもある。
  【追記:コブダイは、性別がメスからオスへと変わる「雌性先熟(しせいせんじゅく)」の魚。「すべてメスとして生まれ、群れの中で体が一番大きくなった1匹だけがオスに性転換する」とあるが、実際は一匹だけでなくライバルが存在する。生き物は競争社会。それによってこそ個体が増えすぎも無くなりもせず、種の保存が保たれている】
 5)雄は、縄張り意識が強い。
  a.他の雄が侵入すると、激しい争いをする。(氏の話では、縄張りは一つの岩を岸側と海側に二分して持っている。他者が入り込んで争いになっても、結局は元からのコブダイの方が勝つ公算が大)
  b.産卵は晩春に行われ、雌雄が円を描くようにして海面へ上昇しながら産卵と放精をする。
J振兌命は、不明。(氏の話では、20年以上付き合っている個体がまだ居るから、20年以上の寿命はある)た用
 一年中釣れるが、旬は冬で磯臭さが抜ける。晩春から夏の産卵期にかけては磯臭く、味が落ちる。肉は白身で柔らかく、塩焼きや煮付けで食べるのが美味しく、旬の冬には刺身でも食べる事ができる。
 (佐渡の場合、佐渡スキューバダイビング協会と北小浦地区漁業者との間で、餌付けした魚を漁師は捕獲しない・協会は地区に対し受け入れたダイバーの数に応じた協力金を支払うとの協定がある。当然、コブダイも捕獲対象にならず、互いの協力により守られている)  
(2)10年11月21日号「佐渡の画廊25:キルト作品」「2.キルトについて」より
 「5)女史の使用する生地は、大正時代の人々が若い頃着ていた着物の古布で、正絹(しょうけん:絹糸)で織った縮緬(ちりめん)とその中の一種である錦紗(きんしゃ)。
 a.正絹は希少で高価品。
 ァ.絹(きぬ)は、蚕(かいこ)の繭(まゆ)からとった天然繊維。英語でシルク(silk)。独特の光沢を持ち、古来より珍重されてきた。なお、正絹に対して人絹(化学繊維)がある。
 ィ.絹何十%というのが、呉服の高級度を示す尺度となっている。絹100%が最高級。
 b.縮緬は、「丹後ちりめん」(京都府)・「浜ちりめん」(滋賀県長浜市)などが有名。
 c.正絹生地は、今日全国どこにでもあって容易に入手できるというものでなく、歴史からも関西地方に多くあるとのこと」
  (まとめより)「(1)手作りキルトの驚きは、古くなって着れなくなった衣類や使わなくなった生地や捨てられる運命にある端切れを実用品や装飾品などに変え、再生・再活用・再活性化できるという点であり、いろいろな意味がある。

 1)時代遅れになった衣服も、端材にし組み替えによって別の物に変え、新しい価値を生み出すことが可能となる。

 2)衣類の端材でも、同じもの同士や他のものとの組み合わせによって別物に変え、前より価値あるものに変えることが可能となる。

 3)端材の縫い合わせで、いくらでも大きな作品に仕立てることが可能となる。一つ一つ縫い上げるのであるから、相当の手間・時間を要す。」
(3)11年08月03日号「佐渡の画廊27:佐渡を描いたキルト」

  一部、冒頭に紹介。
 以上前提に記述。

1.キルトとは
 (資料:ウィキペディア「キルト」。過去記事にある)

.ルト(quilt)は、表地と裏地の間に薄い綿を入れ、重ねた状態で指し縫い(キルティング)したもの。日本では、多色の布を縫い合わせたパッチワークキルトが主流。
布に綿をはさむ技法や、端切れを一枚布に仕立てる技法などは世界各地に存在、古代エジプトですでに用いられていたとされる。
  各地のキルト(例)
1)ヨーロピアンキルト:キルトはヨーロッパの寒冷地で発祥したといわれ、保温のために布地に綿をはさんだのが始まりといわれている。十字軍の遠征に伴って、保温着としてヨーロッパ各地に広まり、上流階級の女性の手芸としてさまざまな技法が編み出された。その後、清教徒のアメリカ移民とともにアメリカに伝わった。

2)アメリカンキルト:布地の有効利用のために余った布や端布をつないで作ったのが始まりと言われている。当時は布の利用に主眼がおかれ、モチーフなどの制作は行われなかった。産業革命以降キルトにも装飾性が求められ、様々なモチーフが考案された。1800年代半ばから、『キルティング・ビー』と呼ばれる多人数で一枚のキルトを制作する会が催されるようになり、女性の主要な社交場となった。1900年代女性の社会進出が一般化するとキルトは一時衰退するが、1970年にキルト研究家ジョナサン・ホルスタインがコレクションを公開するとアートの一つとして再評価された。

3)ジャパニーズキルト:刺し子〔布地に糸で幾何学模様等の図柄を刺繍して縫いこむこと。保温・補強等のため麻布や木綿布に木綿糸で補強したものが始まりとされる〕を『日本のキルト』と呼ぶ場合もあるが、日本のキルト』と呼ぶ場合もあるが、通常はキルトに含めず、日本的な感性で配色されたキルトや和の素材を使用して作ったキルトを『ジャパニーズキルト』と呼ぶ場合が多い。
 a.1975年資生堂の主催で開催されたキルト展でジョナサン・ホルスタインのコレクションが公開されたことから徐々に『キルター』と呼ばれる愛好家が増え、アメリカに次いでキルトが盛んになった。
 b.当初はパッチワークキルトが主流だったが、トラプントやスラッシュキルト、クレージーキルトなどさまざまな技法を取り入れ、発展している。 しかし、「日本においてキルトは趣味の範囲にあり、生活に根ざしたものとなっていない」

   技法(例)
1)パッチワークキルト:布をはぎ合わせて一枚の布にしたものを、トップ〔表布のことだろう〕にして作ったキルト。
2)アップリケキルト:土台布の上にモチーフを縫い付ける技法(=アップリケ)でトップが作られているキルト。
3)トラプント:イタリアで考案された技法。中綿を入れた状態でキルティングを施し、さらに裏からモチーフ部分に綿や毛糸をつめる。
4)スラッシュキルト:16世紀にドイツで考案された技法。 数枚の布を重ね、0.5cm - 2cm 間隔で縫い、縫い目と縫い目の間に切れ込みを入れて水にさらすと切れ込みの部分がほどけ、起毛し、リボンやモールを連ねたような作品が仕上がる。格子状に縫い目を入れて×字型に切れ込みを入れる場合と、バイアス方向に直線上に縫い目と切れ目を入れる場合とがある。
5)クレージーキルト:19世紀に盛んに作られたキルト。ベルベットなどの綿以外の上等な布を多用し、刺繍やレースなどで装飾を加えたものを、ヴィクトリアン・クレイジーキルトと呼ぶ。通常、中綿は入れない。使用するパーツの形状や配置、配色に制限がない。
2.出展画像

 以下は、いわばバラバラの部分画像を自分なりにストーリーになるよう編成。
ヽぞ紂Τぬ漫Τっ罎陵融
コブダイ5

1)空と海が色分けされている。朝焼け時か、クリーム色の空に赤紫の帯も一部にあり、水平線の上には薄っすらと山影が連なり、スケールの大きな構図になっている。画像拡大すれば細かい膨らみが連続してあるのは、キルトならでは(「表地と裏地の間に薄い綿を入れ、重ねた状態で指し縫い(キルティング)」)のものだろう。離れて全体を観ることによって 布同士に親和性があり溶け合い繋ぎ合わせたという不自然性がなく、まさに絵画。
2)海面の波と海中の波の違いが巧みに表現されている。黒・茶・紺・青・白などの多彩な生地の色柄が縫い合わされ、変化に富んでいる。糸のような青い筋は存在感があり、海の中が生き生きと流動している様が描かれ、リアル。
 【この辺りの書き込みで、フランスのモネの代表作の一つ「ラ・グルヌイエール」の絵を思い出した。そして細かく調べると新しい絵画技法を生み出したということで、キルトの装飾技術とも関連性が大いにあることがわかった。その事について、別途項目を設ける】
3)海水中で生息し浮遊生活をしているクラゲをすべて傘=頭を上にし 太くて長い触手を足のように表現することによって火星人のように描いている。つまり、海中は人類にとってまだまだ未知の世界で、その点宇宙とも言える。タイの形をした魚が泳いでいるのが2匹見え、茶色の筋は海流というよりムカデのようなウミヘビではないかと思わせるものもあって、面白い。
  ここで、潜水業で且つ潜水服製造業の会社を創業した南中同期生の藤井徳三君(前掲)から教えてもらったのを思い出した。(前掲「コブダイ写真」記事のまとめに記述)

 「宇宙はどこまで行ってもゼロ気圧で地球の地上は1気圧。海の中は10m潜る毎に1気圧ずつ増し、水深20mならば3気圧の世界。従って、多様な宇宙がある」
⊂魚たちの遊泳

コブダイ1

1)魚の鰭(ひれ)には、口を左に背を上にして横にした状態から時計回りに背鰭、脂鰭(あぶらびれ)、尾鰭、尻鰭、腹鰭、胸鰭の6つがあるが、脂鰭はサケ科やハダカイワシ科などの魚類にはあると言うように必ずしも揃っているわけでない。
2)上の部分画像には似てはいる(特に目の部分)が、体色が若干異なる2匹の魚が見える。そlれぞれ背鰭・尾鰭・尻鰭・腹鰭または胸鰭が確認できる。しかも鰭にはそれぞれ筋が入っており精細、且つ平面でなく腹鰭または胸鰭に立体になっているのは、キルトならではか。
3)海流が横≒水平でなく、上下に描かれ波にことが海中での激しい動きを表現し迫力を生んでいる。生き物にとっては命がけの世界でfスリルを感じさせる。

コブダイ「弁慶」登場(弁慶のライバル「ゴル」かもしれないが、便宜上「弁慶」と見なす。
コブダイ7
1)コブダイは、体色が鯛と同じピンクで、雌が成長して雄になり、頭にコブがつき、体長1m以上になる。食性は、肉食。強力な顎と歯でサザエや岩ガキ・カニなどをまるごとかみ砕く。軟体のイカやタコも好みのようだ。
 その点どう猛で人をも襲う怖い存在に見えるが佐渡の北小浦の沖に20年は棲息したコブダイは、人懐っこくダイバーを見つければ、目玉が動いているのがわかるほど近づいて来たという。餌を期待してのことらしい。
 大きなコブが頭巾をかぶった武蔵坊弁慶に似ていることから島内外のダイバーから「弁慶」という名で親しまれたコブダイが、主人公であることに間違いない。
2)着目
 a.白地のうねりが数層からなる海流にアクセントをつけている。
  色は、青系・緑筋・茶系・クリーム系
  帯は、太い・細い・糸状
 があって、長短がある。
  様々な色柄の生地を組み合わせ 海中の様子をリアルに表現。
 b.顔の部分にしても胴体の鱗の部分にしても繋ぎ目がどうなっているかわからないほど精密。
  頭は灰色系、胴は赤色系。
  各々数十個の断片生地(例:鱗)を相互に縫って絵画の世界を創製。画用紙に絵具を塗ったり、ノリで貼り付けたりしたものではない。
 c.尾鰭が生地全体からはみ出ているのは、規格違反かもしれないが、それが逆にキルト芸術の迫力・凄さを訴えている。
  その画像は、後掲・一番下の画像同様 展示会場で撮ったものでない。多分、女史のアトリエ(制作場)で当人が撮ったもの。本番の会場でのバックは、濃いグリーン壁。バーに諸作品が並んで吊り下げられている(或るブログ記事から判明。なお、一番上の画像からも、緑のバックとバー一部が見える)。
 e.画像から、最低6匹のクラゲ、列をなした5匹小魚を目撃できる。小さな空間・領域にそれだけの数の生物がいる。見逃し・見離されるような細かい部分にも作家の工夫や情熱を感じ取ることができる。
3)生地は正絹だろうが、画像を拡大してパーツである端切れ一つ一つに注目するも飽きが来ない。
 それは岩場や岸壁や舟の上から海の中に何かー珍魚等ーを発見できるかもしれないため覗き込むのと同じ。海は資源で、知らない・資源化できないだけで宝庫であることに違いはない。
だ楸
コブダイ3
1)画像拡大によって顔と胴と鰭の各々が色・柄・形が異なる数十の布生地パーツから構成されていることが明白になる。アバウト数えで顔部分50枚、胴体の鱗部分80枚のそれだけで約130パーツから成る。
 これらのハサミで適当な形にした布を組み合わせ、針と糸で縫い合わせてコブダイを描く。
2)色はその為に部分を染めたり絵具で塗ったり、ベースとなる生地に糊付けしてして一段と本物らしくなるよう手を加えはいないだろう。
 胸鰓の右上部分が少し捲(めく)れて」いる。この方がかえって自然。糊付けではやがて剥(は)げ落ちてしまうであろうし、左端を縫っているからこそである。
 また、胸鰓自体、8種の横長の帯で縫い合わされていることが、画像拡大でわかる。
3)コブダイは呼吸器官である鰓(えら)が大きく、他の魚類と同様蓋(えらぶた、さいがい)を開閉させることで、水流を起こして水中の酸素を多く水に溶け込ませて吸入し、内部にある不要な二酸化炭素を放出、つまり呼吸して生存を保っている。
 当作品は鰓がエリマキトカゲのようになっているが、あくまでコブダイのような魚(コブダイとは言ってない)を図案化して登場させた美術工芸品で真偽より愛嬌が物を言い価値がある。
ズ農楸
コブダイ9
1)前の作品「故郷佐渡の鬼太鼓」(11年08月03日号「佐渡の画廊27:佐渡を描いたキルト」:後掲に画像」)とは異なる顔の部分の特徴。
 a.当たり前のことながら鬼面という人工物に対し生きた顔が絵の中心で、従ってあたかも生きているように描かれなければならない。鬼太鼓の場合は、全体としての鬼である。
  ァ.一般には、人工物を含む静物画より生き物の絵、特に人物画は難しいとされる。外観だけでなく感情など内面を表現するものでなければならないからである。但し、鬼太鼓は生き生きと演じるコトが本質であるから鬼面や装束を写生することが目的ではない。
  ィ.近年の話題に、「モナ・リザ」の微笑みの謎がついに解明される!」があった。英国紙によるもので大学研究者たちによって判明したとのこと2015.09.08「知的好奇心 トカナ」サイト)
  なお、「モナリザ」は、パリのルーブル美術館で観たことがあり、日本と違って写真を撮るのは自由で写真に収め記事に載せている。なお、ローマのバチカン美術館のミケランジェロの絵画なども自由。
   (07年10月01日号「フランス(3)パリ紀行」、同10月5日号「イタリア(2)ローマ紀行」) 
 b.鬼の顔は、赤一色の中で 目は金色で吊り上がり、鼻は輪郭が巧妙な曲線で膨らみがあるように描かれ、歯は一本一本がびっしり並んでいるのに対し、コブダイは目も口の歯も単純なで中で、顔はいろいろな色・形の布から構成。
鬼太鼓の面
κ朷弔離薀ぅ丱襦屮乾襦彭仂
コブダイ6
1)コブダイ雄同士の縄張り争いは激烈。毎年夏になると顔に傷がつくほどになる。
 a、09年フランスのドキュメンタリー映画「オーシャン」に激しい縄張り争いをする様子が紹介。
 b、10年にはNHKも取り上げる。NHK ONLINEサイト「ダーウィンが来た」‐命あふれる日本◆峙霏腟コブダイ 王座決定戦!」10年10月24日(日)午後7時30分〜)
 「生物多様性に富んだ日本の自然を紹介する「命あふれる日本」シリーズ第2弾。舞台は日本海・佐渡。海底の岩山に「弁慶」と名付けられたコブダイがすんでいます。弁慶は体長1mを超す巨大なオスで、長年、岩山に来るメスを独占してきました。弁慶の王座を狙うのが20年来のライバル、ゴル」
2)顔の色が画像イ妨る弁慶と異なり赤みがかっている。同色でないことで個性を出させている。胸鰭も同様。また、描いた位置がの斜め向きに比べ真横のため、鋭利さが一本一本に表れている。画像イ両豺腓眄橘未剖瓩ぐ銘屬任盪由僂任覆尖っているから鋭利さを感じさせることでは同じ。見る角度で形が異なるから変化があり飽きない。
3)小魚と一緒に遊泳。画像イ瞭更の魚に対し細長。
 a.餌にしようようと歯をむき出しにして追っている様にも見える。
 b.画像Δ砲5匹の小魚が見える。うち、尻尾の部分だけが2匹。
 c.小魚といっても背鰭・尾鰭・胸鰭等省略されず丹念に生地の色柄を選び、切り、組み合わせ、縫われている。
鉢合わせ
コブダイ2
1)コブダイ同士の縄張り争いの戦いの基本は、顔面対決。互いに近寄って出っ張った顎を相手の顎に向け、口をいっぱいに開けて威嚇し、競い合う(画像では、互いに顎と大きく開けた口を接触させる直前を描いている)。
2)これまで掲げた個別の部分画像から幾分全体的画像へと戻った。すると、個別では見えなかったものが見え出汁、分かるようになって来る。
 a.コブダイが海中で同じ深さでなく上・下に位置して対峙していうのがわかる。縄張り争いは映像からその両方が見られるが、上・下から睨み合う構図の採用は、その方が変化に富み 海の中らしさを表すのに効果的であるからだろう。
 b.小魚の尻尾の部分だけの画像と違って、全体が見えるようになった。また、小魚たちが、左右に行き交いしている様子もわかる。
 c.海中にも何層からの海流が流れていることを生地の色柄の組み合わせによって伝えている。
3)双方小魚を狙っていると思われたものが、コブダイの雄同士の縄張り争いが本質的。
─岾い蝋啌ぁ彖澗硫菫
コブダイ8
 これまでの1枚1枚の画像では判らなかったものが、当画像で作品全体が判った。だが、その全体画像1枚だけで当作品の意味の厚さや広さや深さが判るわけでない。それらを同じく備えたパーツあってのものである。

3.当キルト作品から思い出した絵画・調べて知った画法など
ヽい涼罎粒のの描写からモネの作品「ラ・グルヌイエール」と絵画技法「色彩分割」=「筆触分割」
1)「ラ・グルヌイエール」
モネ ラ・グルヌイエール
 1869年作  | 75×100cm | 油彩・画布 | メトロポリタン美術館(ニューヨーク)
 a「印象派最大の巨匠クロード・モネ1860年代を代表する作品のひとつ『ラ・グルヌイエール』。本作に描かれるのは実業家スーランが興した、パリに程近いブージヴァル近郊セーヌ河畔の新興行楽地であった水上のカフェのある水浴場≪ラ・グルヌイエール≫で、1869年夏に友人であるルノワールと共に同地へ赴き、画架を並べ描いた作品としても広く知られている。「蛙の棲み処」という意味をもつラ・グルヌイエールの中央には、「植木鉢(又はカマンベール)」と呼ばれた人工の島があり、本作にもその島に集う人々が描かれているほか、画面右部には水上カフェを、画面下部には水上を行き交う小船を確認することができる。この頃(おそらく)サロン入選を目指していたと推測されていたモネとルノワールは当時、ラ・グルヌイエールで水面に反射する陽光の効果と表現の研究に没頭しており、光によって変化する色彩を、画面上に細かい筆触を置くことによって視覚的に混合させる≪筆触分割≫と呼ばれる表現手法を『ラ・グルヌイエール』の製作によって生み出した。このような点から現在では、近代的な画題(本作では新興行楽地ラ・グルヌイエール)を新たな表現手法(筆触分割)で描くという、所謂≪印象主義≫が本作によって誕生したと位置づけられており、画家の作品の中でも特に注目すべき作品のひとつである。なお本作は残される書簡から習作である可能性も指摘されている。」(資料:Salvastyle.com - ++ All Rights Reserved.)
 b、写真では絵画ほど湖面の波紋を波立っているように表現するのは難しく、だからこそ絵画の価値があるとモネの当作品から確信。25年ほど前(現在の東京都庁舎の落成式が1991年3月というからその1〜2年後くらい)息抜き・娯楽用にある書店でカラー画像付き西洋美術史の文庫本を購入したことでモネの存在を知った。その後東京出張の帰り余裕時間あったの銀座に行ってたまたま三越に入り、たまたまモネの睡蓮の絵画展をやっていたので鑑賞。その時にモネが日晩年視力が衰え色彩感覚がなくなったこと、日本風好み(ジャポニズム)の持ち主であったことを知った。
2)色彩分割
 a.「モネをはじめ、印象派の絵画の特徴のひとつには、「 色彩分割 」 とか 「 筆触分割 」 とか言われる技法があります。
 光の三原色は、青・赤・緑の三色。 それに比して色 ( 絵の具 ) の三原色は、青・赤・黄となります。カクテル光線と言われるように、光は三原色が混ざれば白く輝きますが、絵の具は三原色が混ざればグレーに濁って、暗い色になってしまいます。光は混ぜれば混ぜるほど明るく輝きますが〔「加法混色」〕、絵の具は暗く沈んでしまう〔「減法混色」〕のです。
  色彩分割とは、絵の具を混ぜて中間色を作ろうとするとどうしても濁ってしまうので絵の具を混ぜずに澄んだ色のままキャンバスに乗せ、隣接する部分に本来混ぜようとする色を乗せ・・・とすることで、あくまでも塗る色自体は澄んだ色・・・ 一筆ごとに澄んだ色を乗せることで、画布全体としては明るく澄んだ色の集合体とするのです。そうしてそこから発せられる光を観者の目が捉えるときに、観者の目の中で混ぜて、本来画家が表現したいと考えた色に合成して観てもらおうというものです。( だから印象派の絵は、数メートル、時には10メートル以上離れて観ると、実に深い味わいになりますね )」 (資料:ironim.tumblr.com/)
 b.「色彩分割 」  「 筆触分割 」は、上記より字の通り色を分ける=色を混ぜ合わせないというの特質と解す。    既存の色柄を縫い合わすキルトの有す美術的要素もそれに含まれる。従って、対象物から離れて観るもよし、また美術だけでなく工芸技術の優秀性を堪能する面からも位置を変えて接近して観るもよしである。
▲灰屮瀬い隆藾澗里らピカソの」「泣く女」
泣く女
「泣く女」:パブロ・ピカソ、1937年作、油絵、所蔵:テイト・ギャラリー(ロンドン)
  (資料:ウィキペディア)

その他の画法
1)点描
 a.「点描(てんびょう、: pointillism)は、絵画などにおいて線ではなく点の集合や非常に短いタッチで表現する技法である。点描画点描法点画スティップリング(Stippling)とも言う。

印象派による鮮やかな色の配列の視覚混合を、フランスの画家、ジョルジュ・スーラがさらに追求し、点描主義(新印象派)を確立。ポール・シニャックカミーユ・ピサロらを生み出した。

  水墨画では、米芾米友仁による、水墨の点を集合させて表現する米点法があり、その作品を米法山水と言う。コンピュータグラフィックスにおいては、フィルターを使用し、写実的な画像や写真を点描に変換することができる。科学におけるスケッチでは、陰影を着けるための技法である。(ウィキペディァ)
 b.色の付いた点の集合に対しいろいろない色の布パーツの集合という点で点描は、キルトに通じている。
2)ちぎり絵
 a.「ちぎり絵は、ちぎった
を台紙に貼って表現した作品のこと。貼り絵ちぎり紙とも言う。

主に和紙を使用し、手でちぎって台紙に貼って作成する。紙のちぎれた部分の質感などが独特な雰囲気を演出する。ちぎり絵の作家としては山下清、亀井健三が有名」(ウィキペディァ)
 b.キルトと異なり素材は布でなく色紙で、「縫う」でなく「貼る」。
  10年3月21日号「佐度の画廊21:ちぎり絵」、13年3月22日号「佐度の画廊33:和紙ちぎり絵作品展」
ちぎり絵 加茂湖和紙ちぎり絵 加茂湖
     加茂湖 臼杵キヌ              加茂湖 中川 妙      
3)裂き織り
 a.裂織並びに作品について、13年31日号「佐度の画廊35:裂織展」、15年2月29日号「佐度の画廊35:裂織展」に記述。
 b.キルトの「縫う」に対し、和服・洋服の生地や草杢の茎などを経糸・緯糸にして「織る」。
裂き織りィ裂き織りァ
     たちばた(高機)織          ねまりばた(地機)織
4.まとめ
 一つのキルト作品かあたかも数十点の優れた絵画を観たに匹敵するよう情報・感動・娯楽を享受。
 東京国際キルトフェスティバル展入賞・入選作品をウェブを通し複数の記事から100点以上は拝観したが、観た限りでは図案が大半(悪いことでは断じてない。図案も広くは絵画)。絵画のような作品があっても断面を捉えた風景画や静物画で、当作品のようにストーリー性があり、時間をかけて楽しんだ作品は、正直見当たらなかった。但し、これは当然個人の感覚的基準・好みに過ぎず、普遍的・公的・標準的基準でない。
 本質は、1枚の全体画像でなくて(作品自体縦2m・横1.5mあり展示会場で全体を撮るのは困難)細かい色柄の生地から成ることが分かる6枚の部分画像を観たことが幸いした。さらに画像より直接作品にせするのがよいに決まっているが、同級のブログを見なかったら、良さを見逃し記事にしなかった可能性は大。そして後で作家によって送信された全体画像からストーリーが生まれ、部分と全体の関連でいわば旧知の楽曲が連想され、まとめに入れる構想が浮かんだ。
 抽象表現とだが、キルトおける布パーツは、音楽おいては楽器のパートに相当。
 音楽の視点でキルトを考えれば、キルトの持ち味・凄さの認識が一層深まり、楽しさを満喫できる。
 そのモデルが次の2曲で集約される。
              記
1) 『青少年ための管弦楽入門』The Young Person's Guide to the Orchestra
 a.イギリスの作曲家ブリテンが1945年に作曲した管弦楽曲。英国放送協会(BBC)が制作した音楽教育映画 "Instruments of the Orchestra" (オーケストラの楽器)のために作曲された。
 b.曲は、17世紀イギリスの作曲家ヘンリー・パーセル(1659〜1696)の劇付随音楽『アブデラザール』の「ロンドの主題による変奏曲とフーガで、トゥッテイ〔全ての奏者が同時に奏すること:フル楽器奏者演奏〕とアンサンブル〔2人以上が同時演奏〕からなる主題提示部、変奏とフーガからなる展開部、再現部、結尾部の4つから構成。

 変奏曲のそれぞれの変奏にオーケストラで使用されるさまざまな楽器の独奏を配置するという形式をとり、それぞれの変奏にはナレーター(解説者)による解説が付き、オーケストラの各々の楽器を紹介する形になっている。
〔曲について 始めに部分楽器で奏され、最後は全楽器の総動員で締めくくられる音楽のモデルと思っていたが、正解は全体→部分楽器群→個別楽器→部分楽器群→全体であった〕
 c.曲の構成
  
主題の提示:パーセルの主題が、編成を変え順に提示される。
   トゥッテイ→木管合奏→金管合奏→弦楽合奏→打楽器合奏→トゥッテイ
  変奏:主題がオーケストラの各々の楽器で変奏される。
   木管楽器(フルートとピッコロ →オーボエ →クラリネット→ファゴット)
     ↓
   弦楽器(ヴァイオリン→ ヴィオラ →チェロ→コントラバス→ ハープ )
     ↓ 
   金管楽器(ホルン →トランペット →トロンボーンとチューバ )
     ↓
   打楽器 (ティンパニ→大太鼓とシンバル→タンブリンとトライアングル→小太鼓とウッドブロック(木魚)→シロフォン(木琴)→カスタネットとタムタム(銅鑼)→むち)
  フーガ
   
ブリテンのオリジナル主題
     ↓
   展開部(変奏において紹介された楽器の順でフーガを形成)
     ↓
   再現部(パーセルの主題)
     ↓
   結尾部(ブリテンの主題とパーセルの主題の二重フーガに移行し全楽器の総動員で壮大に終わる)
2)組曲『展覧会の絵
 a.ロシアの作曲家ムソルグスキーが1874年に作曲したピアノ組曲。建築家で画家であった友人ハルトマンの遺作展を訪れて鑑賞し、印象に残った10枚の絵を音楽にした。その後、今日に至るまで古今東西の多くの音楽家によりさまざまな楽器を使った編曲がなされている。
 例:管弦楽(リムスキー=コルサコフ版、ラヴェル版)、ピアノ協奏曲、室内楽(室内オーケストラ、オルガンと打楽器アンサンブル、木管五重奏)、吹奏楽、マンドリンオーケストラ、器楽曲(チェロとピアノ、トロンボーンとピアノ、ギター独奏、アコーディオンロック、ジャズ、その他(冨田勲シンセサイザー版、彭修文(ペン・シュウェン版(中国民族楽器大合奏)、甲田潤版(全曲に歌詞をつけた混声合唱)
 〔『展覧会の絵』は、絵画と音楽との関係を示す例として念頭にあったが、個々の絵画からの印象から成る組曲でしかも原曲はピアノ独奏のためキルトのような部分と全体との係わりを示すには適切な例と言えないということで敬遠。ところが、ピアノだけでなくいろいろな楽器に使われていること、水墨画のように墨一色でも絵画のような多様な色・形ー雲・
霧・雨・雪、川・滝・波・雫ーを表現でき、むしろ適例と言うことになった。3年ほど前くらいかたまたまNHKテレビ日曜夜9時からの「クラシシック音楽館」(普段は床についている時間帯で存在も知らず見たことはない)で来日した若い外国人のピアノ独奏を聴き、これまでの『展覧会の絵』はスケールから管弦楽に限るとの先観念が消え、ピアノだけの演奏も迫力あって凄いと感じ入ったのを思い出した。そのため、パソコンでユーチューブから管弦楽でなくピアノ独奏のものを探すと、イギリスのピアニスト フレディ・ケンプの『展覧会の絵』を見つけて視聴。オーケストラに引けを取らず、むしろそれを上回る迫力のある演奏に接し再認識。この4月10日には半年ぶりに新潟の自宅近くにある名曲スナック(完全防音・大画面・大音響装置、スクリーン・ステージ・カラオケも有り。予約制)へ行き堪能。それは、ピアノの指使いー終曲のある部分では10本すべての指が鍵盤を叩いているーを確認することも大きな狙いでもあった〕
 b.曲は、「プロムナード」〔「散歩道」の意〕という短い間奏曲が曲と曲の間を繋ぎ、あたかも一つの絵の鑑賞を終え次の絵へt移移動する様子が変奏形式でく繰り返し表現される。
 c.曲の構成
  第1プロムナード                                         変ロ長調
  1.小人(グノーム )変ロ長調              変ホ短調
  第2プロムナード変ホ短調                変イ長調
  2.古城  変イ長調                    嬰ト短調
  第3プロムナード                      ロ長調
  3.テュイルリーの庭-遊びの後の子供達の口喧嘩   〃
  4.ビドロ(牛車)                      嬰ト短調
  第4プロムナード                      ニ短調
  5.卵の殻をつけた雛の踊り                ヘ長調
  6.サムエル・ゴールデンベルクとシュムイレ     変ロ短調
  7.リモージュの市場                   変ホ長調
  8.カタコンベ - ローマ時代の墓             イ短調
    死せる言葉による死者への呼びかけ       ロ短調
  9.鶏の足の上に建つ小屋 - バーバ・ヤガー     イ短調
 10.キエフの大門                      変ホ長調          
  (最後は、10本の指を使って終わる)

 『青少年ための管弦楽入門』及び『展覧会の絵』の締めくくりは、全楽器か10本指全部をピアノの鍵盤に働かせている。
  当ブログ記事での驚きは、たった一つのキルト作品「故郷佐渡の海掘廠い蝋啌ぁ廚ら古今東西・人類の歴史を感じさせたことにあろう。
 テーマはローカル・ミクロの世界であるがそれ故日本というマクロ枠を超え、生存競争の激しい適者生存のグローバル世界への進展を感じた。
   以上   2017.4.11

《メモ》
  キルトと刺しゅうの祭典「キルト@ステッチショー2017」東京・新潟・大阪開催
  新潟開催
   会期:2017年10月25日(水)〜10月27日(金)

   会場:新潟市 朱鷺メッセ

   主催:UX新潟テレビ21
   共催:公益財団法人日本手芸普及協会、株式会社日本ヴォーグ社     

   協力:ヴォーグ学園

    以上

  追記:新潟三越キルト展(女史からのケータイメール)
  開催:6月21(水)〜26日(日)
  展示点数は30点くらい。
  案内チラシの写真が、「故郷の佐渡の海軍い蝋啌ぁ廚坊萃蠅箸里海函
    以上 4.11

  










歴史スポット63: 公卿・歌人 京極為兼


 記事予約

歴史スポット62:文永の役と日蓮

 こんにちは!自在業の櫻井です。
 前々号の歴史スポット61「承久の乱と順徳上皇」の次に同62「文永の役と日蓮」が来るのは必然。同60「正中の変と日野資朝」から続いている。
 共通点は、
  1)鎌倉時代であること
  2)日本中を揺るがす大きな事件であったこと
  3)時の政権から政治犯として佐渡へ流されたこと
 の3点。
  文永の役については、前々号にも若干触れているが、今回は元の日本攻略の狙いと日蓮の係わりのを中心にまとめる。日蓮についてはなぜ政治に関心を持ったか、なぜ鎌倉幕府から睨まれ佐渡配流となったか、日蓮の思想が佐渡配流前と後で変わったとされるがどの部分でなぜか、今日の日蓮宗の全国・佐渡での位置 がどこまで判るかが課題。
 (資料:「Weblio辞書」、「世界史の窓」、「日本史のとびら」、「ウィキペディア」、『蒙古襲来と徳政令』(筧雅博著))  

以下、工事中!

1.平安後期〜鎌倉時代日本を取り巻く東アジアの情勢
(1)中国・宋(960〜1279年
〃国
1)宋は、五代十国時代最後の王朝・後周(951〜 960年)の宋州(河南省商丘県)節度使の趙匡胤(ちょう きょういん)が、皇帝から禅譲を受けて建国。通常、北宋960〜1126年:首都・開封)と1127年女真族の金に華北を奪われ、南下した南宋(1127〜1279年:首都・杭州)とに呼び分けている。
 【参考】
1「五代十国時代」:唐の滅亡(907年)から宋の成立(960年)までの50余年間、黄河流域を中心とする華北では5つの王朝(五代後梁・後唐・後晋・後漢・後周が交替、その他の華北と華中・華南では呉越・南唐・前蜀・後蜀・呉・閩(びん)・荊南・楚・南漢・北漢の10王朝(十国)が興亡した争乱の時代。中国の歴史では・・・→周→秦→漢→三国〔魏・呉・蜀〕→晋〔西晋→東晋〕→南北朝〔北魏(北朝439年〜)・陳(南朝〜589年)〕→隋〔581〜618〕→唐〔618〜907〕→五代〔十国〕→宋(北宋→南宋)→元→明・・・に位置。
2「節度使」
 1)前身は、辺境警備のため置かれた都護府。前漢時代紀元前59年に設けられた西域都護府(長官名:都護)が始まり。唐代では第2代太宗期(在位:626〜649)に領土を広げ、広範囲に都護府を配置。
 a.唐代での都護府
 顱飽太湘垳酩棔В僑苅闇。タリム盆地(シルクロード天山南路の守備及び突厥〔テュルク系民族遊牧国家〕・吐蕃〔とばん:チベット民族国〕からの防衛。787年吐蕃に滅ぼされる)
 髻頬鳴軼垳酩
:640年。ジュンガル盆地(シルクロード天山北路方面の守備)。790年吐蕃に占領される)
 鵝飽陀姪垳酩棔В僑苅掲。外モンゴル
 堯肪頴嘉垳酩棔В僑毅闇。内モンゴル
  〔主なモンゴル系民族:東胡〔匈奴によって国家滅亡〕、烏桓〔匈奴の攻撃から烏桓山に逃れた東胡の残存種族は匈奴の臣下となり、紀元前85年 - 同68年代以降叛服を繰り返すようになり、匈奴が北と南に分裂し北匈奴の滅亡などで勢力が衰える後漢の時代になるとその臣下となり、後漢の国境警備に当った。なお、残された南匈奴は後漢に服属し辺境守備に当たった〕、鮮卑〔(前述の烏桓に対し鮮卑山に逃れた)鮮卑も前漢時代は匈奴に服していたが、後漢時代になってから後漢に対して叛服を繰り返すようになり、北匈奴の西走後のモンゴル高原を占拠し、大帝国を築いた時代があった。その後部族が分裂し、五胡十六国時代南北朝時代をもたらした〕、柔然、突厥、契丹〔満州から中央アジアの地域に存在した半農半牧の民族。10世紀に王朝「遼」を築く。1004年北宋と澶淵(せんえん)の盟を結び、北宋から遼へ莫大な財貨が毎年送られてきた〕、奚、豆莫婁、室韋(三十姓タタル)
 )濛池都護府:658年。中央アジア(西突厥阿史那賀魯討伐後に設置)
 )昆陵都護府:  〃       〃
〔「西突厥」:突厥から582年東西に分離した西の勢力。版図は、東はアルタイ山脈、南はタリム盆地,西はカスピ海東沿岸。「657年、西可汗の阿史那賀魯が唐に捕らえられて以降、西突厥は唐の羈縻〔きび〕政策下に入った」
 「羈縻政策」:中国の王朝による周辺異民族国に対する統治政策、領域化(内地化)・覊縻(きび)・冊封(さくほう)で従属関係堅持。「古くは漢の時代にみられるが、唐の時代に最も巧みに利用」
 ・領域化(内地化):占領地・支配地に内地と同じ州県を設置し、中央から官僚を派遣し、現地民を中国の国法下に置き支配する。
 ・覊縻:支配地の管理者には中国・漢人寄りの首長を選んで都督・刺史・県令などに就け、彼らがもともと有していた統治権を中国の政治構造における官吏であるという名目で行使させた。羈縻とは,「羈」が馬の手綱,「縻」が牛の鼻綱で,つなぎとめる意味。ある程度の自由は与えて〔懐柔して〕暴れさせず統制する。
 唐における羈縻州は、その初期には辺境の都督府が管掌し、漢人官僚の下に首長など辺外部族の有力者が組織されたが、領域が広がるにしたがって新たに都護府が設けられ、これによって統括されるようになった。都護府では長官である都護をはじめ主要な職員はすべて漢人あるいは漢化した異民族が当てられた
 ・冊封:称号・任命書・印章の授受を媒介として中国「天子」と近諸国・異民族の長が取り結ぶ君臣関係(「宗主国」と「朝貢国」)を伴う外交関係。周辺民族・国家の首長に王や侯といった爵号を与え、中国支配下に組み込む。

 )安東都護府:668年。朝鮮半島(高句麗を滅ぼし平壌に設置。満州も管轄)
 )安南都護府:681年。東南アジア(前身は622年設置の交州〔ベトナム〕大総管府)

b.府兵制
ァ.府兵制は、中国北部遊牧騎馬民族・鮮卑族の拓跋氏が386年華北を統一して建国した北魏が後に東西に分裂して成立した西魏〔存立535〜556年〕が農耕民を軍事力に組織する制度として始まり、隋・唐に継承〔6世紀半ば〜8世紀半ば〕された兵制で、均田制〔土地の国有が原則、給地・給田するが収穫時に税を課し、定年または死亡時国へ返還。北魏の485年に始まる〕・租庸調制と共に律令制度国家を支える三本の柱の一つ。
ィ.唐の府兵制〔要調査〕
 顱肪男(21〜59歳)を対象に3人に1人の割合で折衝府が徴兵。農閑期年間3ヶ月の軍事訓練年1〜2回30日衛士として首都警備在任期間中3年間は防人として辺境地での防衛

 髻棒涵徂椶蓮∩換駝鵤僑娃哀所に設置〔うち辺境は200〕。兵力(人)により上(1000〜1200)・中(800〜1000)・下(600〜800)管内の農民〔府兵〕の徴集・訓練・派遣を司った。

 鵝防槓爾蓮∪涵徂椶涼屬れた州(軍府州)の均田農民から徴兵。兵農分離に対し兵農一致、募兵制に対し徴兵制、支給に対し武器・食糧自給(租庸調は免除)。府兵は、折衝府の置かれた州(軍府州)の均田農民から徴兵し、租庸調は免除されたが武器・食糧は自弁。遠征軍「行軍」を編成するときは兵を募集、その場合官給。
 〔参考:唐の均田制〕
 ・丁男(21歳〜59歳)・中男(16歳〜20歳)に一律に口分田80畝、永業田20畝の計100畝を給田。(唐の100畝≒5.5ha≒5.5町〕。妻や奴婢は給田されない。
 ・口分田は60歳で半分
返還、死ねば全部返還。永業田は世襲できる。
 ・口分田の班給は毎年行われる(日本の班田収受法は6年に一度)。
 ・官吏には公田として職分田、公廨田(くがいでん)、官人永業田が支給された。
 ・口分田受給者に対し、租庸調・雑徭その他の税兵役の義務が課せられる。

ゥ.唐の600年代後半から均田制の崩壊と共に府兵制の崩壊が進行。 

 顱2代目太宗期(626〜649)の領土拡大による辺境警備の必要性の高まりと農民負担の増加〔華北地域では秋耕定着で農作業の通年化〕による徴兵忌避、人口増加と土地私有化が進んで未授給の欠田戸が増え、武周期〔690〜705年〕には窮迫した農民が本籍地から逃亡する逃戸・逃亡先で定着した客戸浮戸とも呼ぶ〕・小作人である佃戸が増える。

 髻防霏天期〔=武周期690〜705〕から玄宗期〔712〜756〕にかけ「佃戸の増大〔荘園増大・安史の乱〔755〜763年〕以降は藩鎮が経営する営田の増加〕により、租庸調の収入は激減」「唐中期から租庸調とは別立ての税が出てくる」「安史の乱〔755〜763年〕以後には財政の悪化も影響し、税目が非常に多岐」「内容も非常に複雑で不公平になりやすい」「乱以降に割拠した藩鎮勢力はこれらを恣意的に取り立てて自らの財源として扱い、不公平はますます酷くなった。この不公平が更に逃戸を生み出し、それがなお財政の悪化をもたらすという悪循環」、780年に複雑な税制を夏二つに纏[まと]める両税法〔6月夏税(対象:絹・綿・麦)と11月冬税(対象:稲・粟)」〕が施行され、均田制は実質消滅。

 鵝法嵒槓疾では外敵の動きに対して機敏に対処することが難しく、唐政府は常備軍を欲するようになり、府兵に変わって行軍が主に使用されるようになる。辺境でもそれは同じであり、羈縻州に対して都護府が設置され、その下に募兵による行軍がいた。儀鳳年間(676年 - 678年)に軍制の改革が行われ、軍鎮と呼ばれる組織が辺境防衛に当たることになる。しかし、この軍鎮の統制が難しくなり、各地方で強力に軍鎮を統制する節度使が登場」「これらの兵士たちは全て募兵であり、生活を国家からの支給で賄う職業軍人であった。ここに至り、唐における兵農分離が完成し、府兵制は完全に消滅した」
2)都護府に代わる節度使の設置
.「唐の中期以降、均田制の崩壊に伴い、府兵制による辺境の防備が出来なくなると、唐王朝は募兵制に切り替え、地方有力者の子弟を募集して募兵とし、軍鎮をおいた。そして、一定地域の軍鎮を統括する藩鎮を置き、その募兵集団の司令官として節度使を任命した。節度使は律令の規定にない令外官であり、それまでの都護府に代わり辺境の防備に責任を持つとともに行政権も与えられ、強大な地方権力に成長するようになる」
ァ.節度使設置は玄宗(在位712〜756)の時の710年代に始まり十節度使が設けられた。唐代には40〜50に及んだ。
 節度使は安西・北庭
・平盧の長城外節度使とそれ以外の長城内節度使に分けられる。長城外節度使には武人や蕃将(異民族出身の将軍)が就けられ、長城内節度使には中央から派遣された文官が付くのが当初の方針であり、節度使は宰相へと登るためのエリートコースとされていた。しかし玄宗に重用された宰相李林甫は政敵の出現を恐れて、宰相になれない蕃将を積極的に節度使として登用した。安禄山も玄宗の寵愛を受け、平盧節度使となり、更に范陽・河東を兼任した。
 設置年  節度使名 治所       設置目的         兵力:人

  710年   安西  亀茲  天山南路の防衛、西突厥  24000
  710年  河西  涼州   吐蕃と突厥の連携阻止   73000
  711年     河東     太原        突厥                              55000
  711年 嶺南五府経略使  広州     夷獠                       15400
  712年     北庭     庭州      天山北路                         20000
  713年     范陽     幽州         奚・契丹                        91400
  713年     隴右     鄯州        吐蕃                              75000
  714年     剣南     成都       吐蕃・吐谷渾(とよくこん)   30900
  719年     平盧     営州        室韋・靺鞨(まつかつ)      37500
    靺鞨:隋唐時代中国東北部(現ロシア・沿海地方)に存在した農耕漁労民族。
  721年      朔方     霊州       突厥              64700
 ィ.
「節度使は駐屯軍の将軍とその地方の財政官を兼ね、任地の税収を軍の糧秣と兵士の雇用に使う」 

 ゥ.「有能な節度使は、管轄下の数州の軍事・民政・財政の権力を握った。安史の乱後 節度使は辺境のみならず、国内も置かれるようになり、唐代には40〜50に及んだ。唐末から五代にかけ多数の藩鎮が分立。唐の滅亡から五代十国の建国者は多くこの藩鎮であった」





 鵝法峭陳襪らの禅譲」

 a.五代で随一の名君とされる後周第2代皇帝柴栄(さいえい:世宗)は、唐の滅亡以来の中国再統一を目指し北漢、後蜀、南唐、遼を攻めて領土を広げたが、遠征の途中38歳で病死。
 b.7歳の息子が後を継いだが、幼帝に不安を抱いた軍人たちは、遠征に派遣された軍中でその司令官であった殿前都点検(近衛軍長官)の
趙匡胤を擁立した。ほとんど抵抗を受けずに開封に入った趙匡胤は、恭帝から禅譲を受けて

を立てた7歳の息子が帝位に即いたが、翌960年北方の大国・遼の軍勢が侵攻してきたとの知らせを受けた後周の朝廷は、殿前都点検・趙匡胤を国防の総帥に任じ、遼軍への対処を委ねた。

中国統一を目指すが志半ばで急死、弟が跡を継いだ


南唐を抑えた柴栄は、次に軍事的に最強の敵である北の契丹とその衛星国である北漢を相手取り、959年に燕雲十六州のうち、南寄りの2州を奪取した。

さらに軍を北上させようと幽州へと入るが、柴栄はこの陣中で病に倒れ、開封へ引き返し、間もなく死去した。享年39。
契丹(きったん、キタン、キタイ、拼音: Qidān)は、
4世紀から14世紀にかけて、満州から中央アジアの地域に存在した半農半牧の民族10世紀初頭に現在の中国の北部に帝国を建国し、国号をと号した。しかし12世紀に入り次第に勢力を強める女真と結び南下し、挟撃された遼は1125年に滅ぼされた。契丹人の多くは女真に取り込まれ、一部は中央アジアに逃れて西遼(カラ・キタイ)を建てた。

 


 b.建国当初より太祖の方針もあり文治主義。このため常に周辺諸国の軍事的脅威に晒され財物を下賜し平和を買った(朝貢貿易)。
 ァ.1004年軍を率い南下を始めた遼〔契丹]と盟約〔澶淵の盟〕。内容:国境の現状維持(宋から遼に年間20万匹・10万両を送ること〔遼は初め、領土割譲を求めたが強い宋の拒否で金品で妥協]
  「この条約による平和は1世紀以上続き、宋の経済や文化の発展の基礎になった」

 ィ.1042年宋が、たびたび西夏に手を焼いているのを見た遼は、宋に対して再び領土割譲を求め、絹・銀双方を10万ずつ上乗せすることで妥協した。
 ゥ.1038年李元昊が中国北西部に建国した

西夏は、たびたび宋の領内に侵入を繰り返し、撃退に手を焼いた宋は1044年、西夏と慶暦の和約を結ぶ。これにより宋を君、西夏を臣と位置付け、宋は毎年銀5万両、絹13万匹、茶2万斤を贈ることなどが約され、和議が成立した。 また宋と西夏との争いに乗じて遼が宋に領土の割譲を求めたが、支払う財貨の増額により両国は妥結した。
 エ、 海上の盟は、1120年北宋の間で(契丹)を挟撃するために締結された軍事同盟。
 

 現在の内モンゴル自治区の東南部、遼河の上流域にいた契丹族の耶律阿保機(太祖)が907年、契丹可汗の位について勢力を蓄え、916年に天皇帝と称し年号を神冊と定めたのが遼の起こりである。太祖耶律阿保機は西はモンゴル高原東部のモンゴル族を攻め、926年東は渤海を滅ぼして東丹国を建て、満州からモンゴル高原東部までに及ぶ帝国を作り上げた。

さらに2代耶律徳光五代後晋から華北北京大同近辺(燕雲十六州)の割譲を受ける。この時に渤海旧領とあわせて多くの農耕を主とする定住民を抱えることになった。このため、遼はモンゴル高原の遊牧民統治機構(北面官)と南朝式の定住民統治機構(南面官)を持つ二元的な国制を発展させ、最初の征服王朝と評価されている。

太宗は燕雲十六州の奪還をもくろんで、北伐軍を起こしたが、遼は撃退した。しかし遼の側でも、この時期には皇帝の擁立合戦が起きて内部での争いに忙しく、宋に介入する余力はなかった。6代聖宗は内部抗争を収めて、中央集権を進めた。1004年、再び宋へ遠征軍を送り淵の盟を結んで、遼を弟・宋を兄とするものの、毎年大量の絹と銀を宋から遼に送ることを約束させ、和平条約を結んだ。これにより、遼と宋の間には100年以上平和が保たれた。

その後は宋から入る収入により経済力をつけたことで、国力を増大させ、西の西夏を服属させることに成功し、北アジアの最強国となった。また、豊かな財政を背景に文化を発展させ、中国から様々な文物を取り入れて、繁栄は頂点に達した。しかし遼の貴族層の中では贅沢が募るようになり、建国の時の強大な武力は弱まっていった。また服属させている女真族などの民族に対しての収奪も激しくなり、恨みを買った。

女真は次第に強大になり、1115年には自らの王朝を立て、遼に対して反旗を翻した。遼は大軍を送って鎮圧しようとするが逆に大敗し、遼弱しと見た宋は金と盟約を結んで遼を挟撃し、最後は1125年に金に滅ぼされた。このとき、一部の契丹人は王族の耶律大石に率いられて中央アジアに移住し、西遼(カラ・キタイ)を立てた(他に王族の耶律淳北遼13世紀に成立した旧王族耶律留哥東遼などもある)


 
2)平氏政権が滅亡し鎌倉幕府が樹立した後も日宋間に正式な国交は開かれていなかったが、私的な貿易や僧侶・商人の往来など、両国の通交は盛んに行われていた。


 a.日宋貿易は、10〜13世紀(平安中期〜鎌倉中期)朝鮮半島高麗を含めた三国間で行われた。
 b.

1158年平清盛(1118〜1181)は、日本で最初の人工港を博多に築き貿易を本格化させ、1173年に大輪田泊(現在の神戸港の一部)を拡張し、正式に国交を開いて貿易振興策を行った。
 【これは、同じwiki(この場合「孝宗(宋)」)の「日本との関係では平氏政権の平清盛との日宋貿易を行なっている時期に相当するが、あくまで民間交流・貿易であり、正式な国交は無かった」と矛盾。「正式な国交は無かった」の解説は、本質的に間違い。解説者は「正式な国交」を難しく考えているようであるが、国が相手国と自国の民間人から何の税金も取らず取引を自由にさせるはずはない。当時宋銭が後述の通り日本で通用していたことは事実】 
 c.鎌倉時代博多は多くの宋人が住み国際都市となり、宋の商人は越前敦賀へも来航した。一方、宋銭(銅銭)の大量流入で日本に貨幣経済が発達し、物価が乱高下するようになった。
 〔北宋時代に鋳造された「宋銭は、や西夏、東南アジア、遠くはペルシア・アフリカ方面にも及んだ」【銅貨は消滅するものでなく、流通にはモンゴル帝国・後の元も絡んだに相違ない】。南宋時代になると「経費が嵩む銅銭の鋳造が減り、紙幣〔「会子」〕

を発行し銀と共に取引に使用されるようになった」。「最古の紙幣は1023年から北宋の政府紙幣として流通した「交子」で一種の証書・手形」。(wiki) 「係わりの地85東京(日本橋・金座・銀座)(その2)まとめ」。
3)勢力を中国に伸ばしてきたモンゴル帝国と対立。
 a.1233年モンゴル帝国は金の首都開封〔かっての北宋時代の首都]を陥落、南に逃げた金の最後の皇帝を宋軍と協力して追い詰め、1234年金は滅びた。

 b.1235年宋軍は北上して洛陽・開封を回復したが、これはモンゴルとの和約違反でモンゴル軍と戦闘状態に入る(モンゴル・南宋戦争)。長江流域を挟み一進一退を40年余り繰り返した。
 c.1235年、宋軍は北上して洛陽開封を回復したが、これはモンゴルとの和約違反であり、モンゴル軍と戦闘状態に入る(モンゴル・南宋戦争)。暫くは長江流域を挟み一進一退を繰り返すが、クビライ襄陽を陥落させる頃には最早内部崩壊により抵抗する力は無く、1276年、モンゴルのバヤン臨安を占領されて事実上宋は滅亡した。南走して徹底抗戦を続けた一部の皇族・官僚・軍人らも1279年広州湾の兒海埜儀海坊睫任気譟∩廚牢袷瓦北任咾拭兒海寮錣)。クビライが襄陽を陥落させる頃には抵抗力は無く、1276年モンゴルに臨安を占領され事実上滅亡。

モンゴル帝国勃興と世界侵攻
1)モンゴル高原(モンゴリア)〔「草原」の方が本質表現〕は、モンゴルからトルキスタンまで広く勢力を張っていたウイグル可汗国〔遊牧民族の君主国]が840年キルギスによって崩壊されて以降 統一国家が存在せず、南モンゴリアは遼〔契丹人(キタイ人:半農半牧民族)の耶律氏(ヤリュート氏)の征服王朝]と金〔女真族の完顔部から出た阿骨打が1115年遼に反乱を起こして独立王朝を建国〕が支配し、北モンゴリアは遊牧民の諸部族〔モンゴル部族はその一つ〕が連合を形成し 互いに抗争していた。

  チンギス・ハン誕生前の東・中央アジア主要部族・国家の勢力図 


 
        〔バイカル湖・東南にブルカン山〕      
               モンゴル      タタール 
      ナイマン    ケレイト     オングート
〔カスピ海〕   カラ・キタイ(西遼)   西夏    金   高麗
                              (北宋)
         ホラズム    吐蕃(チベット)   南宋   日本(鎌倉幕府)
           〃      ゴール朝(インド)   大理(東南アジア)
〔アラビア海〕                 〔ベンガル湾〕


  「モンゴル系民族」モンゴル部」(wiki) 
 「モンゴル」名の初出は『唐書』列伝で室韋」(しつい:610世紀まで中国東北部黒竜江流域に存在していた民族モンゴル系民族の源流と考えられている)の一部族として「蒙兀室韋」「蒙瓦部」の漢字名で表示。11世紀には「萌古国」で『遼史』に登場し遼に朝貢していた。〔遼は、内モンゴルを中心に中国北辺を支配した契丹人(キタイ人)征服王朝(916〜1125年)]このころのモンゴル部族はバイカル湖畔に住んでおり、1125年女真族のが遼を滅ぼした頃、モンゴル国の初代カン(王)となったのはカブル・カン。彼は金に朝貢した際に罪を犯したり、タタル部族と抗争したりした事を次代のアンバガイ・カンが罪に帰せられ、処刑された。後継のクトラ・カンは、その仇を討つべくモンゴル諸氏族を率いて金に攻め入り、多数の略奪品を持ち帰ったという。その後モンゴルのカンは空位となったが、代わってクトラ・カンの甥にあるイェスゲイ・バアトル〔チンギス・ハンの父〕が、キャト氏族とニルン諸氏族をとりまとめた。
 (イェスゲイは、12世紀中頃にモンゴル高原の北東部で活動したモンゴル部のうちボルジギン氏〔12世紀頃モンゴル高原北東部で一大勢力を築いたモンゴル部の有力氏族で全モンゴル部族を初めて支配したとされるカブル・カン輩出以来モンゴル部のカンを独占〕系キヤト氏の首長のひとり)

1)チンギス・ハン(幼名:テムジン)によるモンゴル部族・モンゴリア地域の統一
 a.モンゴル部族のボルジギン氏系キヤト氏の首長の一人イェスゲイを父、モンゴル部族の一
つコンギラト部族のオルクヌウト氏族の娘ホエルンを母とする長男のテムジン=チンギス・ハンは、幼い時父がタタール族に毒殺され苦労するが、成人するにつれ指導者として頭角を現した。

  【参考】チンギスの同母(ホエルン)兄弟一覧
   長男:チンギス(1162〜1227年)
   次男:ジョチ・カサル(1164?〜1213?) 
     三男:カウチン(1166?〜?)
    四男:テムゲ・オッチギン(1168?〜1246)
      長女:テムルン(1171?〜?) 
 b.東方のタタール、ケレイトなどモンゴル系部族を制圧し、1204年モンゴル高原の西南部を支配していたナイマン王国〔モンゴル部族と同系統のナイマン部族国家]を討ち、モンゴル高原の覇権を確立。
 c.モンゴル帝国の樹立


  モンゴル系部族を統一したテムジンは、1206年クリルタイ(部族長会議)で全モンゴルの君主としてハン(カンとも表記する)に推戴され、チンギス=ハン(チンギス=カン)と称することになった。モンゴル民族の統一国家が成立。

 d.帝国化の推進
 ァ.1206年チンギス・カンは西南の西夏に親征〔君主自ら軍を率いて遠征・征伐に出る〕。1209年まで3次に亘り西夏出兵し、服属。〔西夏は1216年チンギス・カンの出兵要請に拒否したため第4次西夏遠征]。1211年西ウイグル王国がモンゴルに帰順、その後モンゴリア西方のオイラトトメトカルルク西遼などの周辺諸国に遠征軍を送り帰順か征服を遂げ、南シベリア・中央アジアまで勢力を広げた。

 ィ.1211年から東南の金朝に遠征。中国東北地区(満州)と華北を席捲。金朝皇帝宣宗は先代衛紹王主〔皇帝の娘〕をチンギスに嫁がせ和睦を結んだ。金は、1214年河南開封へ遷都し河南のみを支配する小国に転落。

 ゥ.1218年から中央アジアのオアシス農業地帯に対する大規模な遠征軍を発し、中央アジアから西アジアまで広がる大帝ホラズム・シャー朝に侵攻、サマルカンド・ブハラ・ウルゲンチなど中央アジアの名だたる大都市に甚大な被害を与え、壊滅させた。
 顱縫船鵐ス・カンの本隊は、ホラズム・シャー朝の王子ジャラールッディーンを討伐するためアフガニスタン方面へ進軍。だが、バーミヤーンでチャガタイの長男が戦死、アフガニスタン中南部パルワーンでは駐留していたボルテの養子の軍が壊滅させられた(パルワーンの戦いは、チンギス・カンの西征でモンゴル軍が唯一敗れた戦い)
 髻縫船鵐スは
トルイを殿軍としてホラーサーンに駐留させ自らの本軍とジョチ、チャガタイ、オゴデイ率いる諸軍を引き連れ、ジャラールッディーンをインダス川のほとりまで追い落とし捕縛出来なかったが撃退に成功(インダス河畔の戦い)。

 鵝縫スピ海まで逃げた君主アラーウッディーンを追ったジェベスベエテイ率いる別働隊はアラーウッディーンの捜索を続けアゼルバイジャンからカフカスを抜けロシアに至り、ルーシ諸公(キエフ大公国の分列期から、ロシア・ツァーリ国(1547年イヴァン4世がツァーリの称号を帯びて以後1721年ピョートル1世がロシア帝国建国を宣言するまで用いられていたロシア国家の公称)、ポーランド共和国の成立までの期間に誕生したルーシの諸公国をまとめたもので、各公国は主としてロシア・ウクライナ・ベラルーシ、一部はポーランド、ラトビア等に存在)を破った(1223年カルカ河畔の戦い)。

 ェ.チンギスのモンゴリアへ帰還後、
 顱帽大になった領地を分割し、長男ジョチには南西シベリアから南ロシアの地まで将来征服しうる全ての土地、次男チャガタイには中央アジアの西遼の故地、三男オゴデイには西モンゴルおよびジュンガリアの支配権を与えた。四男末子トルイにはその時点では何も与えられないが、チンギスの死後に末子相続により本拠地モンゴル高原が与えられる事になっていた。

    《参考》末子相続
 相続は、農耕民族をはじめとして長子相続が一般であるが、遊牧民族では末子相続。息子が成人すれば親は、順次馬や羊を与えて(一般の遊牧民に財産としての土地はない)独立支援、最後に残った財産は末子が受け継ぐ。支配階級では、領民・領地が財産として分与。なお、家督相続は末子相続と一致しない。
 【wikiに、「モンゴル内部では末子相続の慣習に従ってオゴデイの弟でチンギスの末子に当たるトルイを後継者に求める声があった」とあるが、伝承でよいからその事をより詳しく知りたいものだ。食うか食われるか・服従するか抵抗するかの油断ならない時代や国柄で、末子ということだけで末子を皇帝にする=末子に国を託すことは、常識からしてあり得ない。「末子相続」という言葉からの思い込み・勘違いであろう】
 c.
 チンギスの後継は第3子のオゴタイ。中央アジアから北西インド・南ロシアまでにまたがる大帝国をつくりあげた。
 

1)オゴデイは、父に引き続いて積極的な領土拡大を行なった。
 a.1229年大ハーン就任後オゴデイは、トルイと協力して金遠征を図る。1232年金を滅ぼした。

 b.モンゴル帝国は定まった都を持たず天幕で移動していたが、1235年モンゴル高原の中の豊かな草原地帯に宮殿・城壁を築き首都カラコルムを建設。
 ァ.ここを中心に帝国各領内に通じる幹線道路網の建設が進められ、街道10里ごとに駅伝(ジャムチ:人馬提供可能な宿駅)が設けられた。
 ィ.同地でクリルタイ開催。南宋方面とキプチャク草原からルーシ・東欧に至る西方遠征の二大遠征、朝鮮半島の高麗、インド北部・パキスタン北東部の国境付近にひろがる山岳地域のカシミールへの遠征計画を決議。
 顱貌酳遠征(モンゴル・南宋戦争1235〜1279)。時期によって、第1次(オゴデイ治下のクチュの南征:1235〜1241)、第2次(モンケ治下のクビライの南征:1253〜1259)、第3次(南宋滅亡:1268〜1279)に分けられる)。
  
総司令として中央軍を三男クチュに任じ、次男コデン率いる西路軍を陝西・四川方面へ派遣し、征服させた。しかし、南宋に送り出した遠征軍はクチュが陣中で没し、指揮命令系統が混乱し泥沼戦争に陥った。
 髻1236年から西方遠征。チンギスの長男ジョチの次男・ジョチ家当主のバトゥを総司令官とし、功臣スブタイを宿将としつつ長男グユクやトルイ家の当主モンケなど各モンゴル王家の後継者クラスの王族たちを派遣し、ヴォルガ・ブルガール、キプチャク、アラン諸部族、カフカス北部、ルーシ諸国、ポーランド王国、ハンガリー王国など東欧の大半を制圧。
 ゥ.首都建設以降オゴデイはカラコルム周辺の草原に留まり、遠征は配下の軍隊に委ねられた。
  カラコルムには第3代グユク・第4代モンケまでハン(皇帝)が住み、モンゴル人・中国人・イスラム教徒の他、ヨーロッパ人も住んでいたという。またヨーロッパのローマ教皇から派遣されたプラノ=カルピニ、フランス王ルイ9世の派遣したルブルックが来訪。
 顱縫廛薀痢瓮ルピニ

  1241年モンゴル帝国の征西軍とヨーロッパ遠征軍とポーランドドイツ連合軍が激突したワールシュタット(ドイツ語で「死体の山」)の戦いを契機に東欧・西欧にモンゴル軍の脅威が忍び寄ると1245年の第1リヨン公会議(カトリック教会の公会議で教皇が召集で議題となり、モンゴルへの使節派遣が決定。モンゴルとの交渉役としてヴェネツィア共和国のカルピニらの修道士が指名され、東欧に勢力を拡大していたモンゴル帝国のバトゥの元に派遣。派遣団は、通過する諸侯達に護衛や召使を数名つけてもらう程度で、教皇使節としては少規模。面会したバトゥはグユクの元へゆくよう命じた。カルピニはバトゥが建都していたサライの状況などを見て、バトゥのことを部下に対する思いやりがあり同時に大変恐れられているとして「サイン・ハン」(偉大なる賢君)と賞賛の一方でバトゥほど残酷なものはなくまた抜け目なく狡猾と言っており、バトゥの侵略によって徹底的に破壊されたキエフの状況を見て、「バトゥは偉大なる君主であるが、都市を容赦なく破壊する暴君でもある」と評価。さらにモンゴル帝国の首都であるカラコルムにまで交渉に赴き、到着直後の1246年8月24日モンゴル帝国のハーンとなるグユクの即位式のクリルタイに列席。この時、カルピニ一行はグユクに会見してローマ教皇の親書を手渡して和睦交渉を行なったが、グユクは和睦ではなく教皇をはじめとする西欧諸国の臣従を望んだため、果たすことはできなかった。そのため帰国後は一時教皇の怒りを買ったが、彼が記した『モンゴル人の歴史』という史書・報告書が高く評価され、怒りを解かれてダルマチア大司教に任じられた。

 髻縫襯屮襯奪
 フランスのフランシスコ会修道士。1253年フランス国王ルイ9世の命を受けモンゴル帝国に派遣された。使命は、十字軍への協力要請とキリスト教の布教。翌年カラコルムを訪れ、第4代モンケに謁見。その時の見聞にもとづき、モンゴル・中央アジア各地の地理・風俗・宗教・言語などを伝える旅行記「東方諸国旅行記」を書いた。
 〔wikiの「ルブルック」の解説は一貫性に欠け曖昧性を残し物事を不明にさせるが、次の文は出典が知りたいところだが真偽はともかく 参考にはなる。

 「これに(十字軍への協力要請)ついては、以下のな逸話が残っている。1248年、キプロス島に上陸した十字軍のもとに、モンゴル軍司令官イルチガタイからの使者がやってきた。熱心なネストリウス派信者であったイルチガタイは、「協力して聖地を奪還せん」とルイ9世に提案したのである。この話に惹かれたルイ9世はグユク・ハン宛てに返答の使者を派遣し、ルイ9世はさらにルブルックを派遣した。ルブルックと会見したモンケはイルチガタイの使者の正当性を否定し、モンゴルによる世界制覇の野望を伝えたというものである。
 しかし実際にはこの逸話の使者はルブルックではなくドミニコ会修道士アンドルーである。アンドルー修道士は、1249年2〔月〕にアンドルー他総勢7名で出発したが、グユクが既に死去していた為、グユク妃である
オグルガイミシュバルハシ湖南東イミル河畔で謁見し1251年に帰国した。使節はオグルガイミシュの返書を携えて帰国した。その返書には同盟どころか貢納を条件とした和平が高飛車に記載されていてルイ9世を失望させたというものである。ルブルックの派遣は十字軍の協力要請ではなく、バトゥの息子サルタクがキリスト教徒である噂が広まっていたことと、モンゴルから帰国したカルピニがパリでルイ9世に面会した際、ルブルックも同席していて、ルブルック自身がモンゴルへの布教に興味を持ったことにある。

そこでルイ9世はサルタクへ書簡を送ることとし、使節にルブルックを派遣した」【文面からは、ルブルックの場合自発的なモンゴル布教旅行で、wikiの記す公的な「派遣」ではない。ルイ9世が一国の元首でもないバトゥのしかも息子のサルタクへの書簡を送る事自体不自然。但し、モンケに会えたことは事実。

 『東方諸国旅行記』は、ベニスの商人マルコポーロの『東方見聞録』や修道士オドリコの旅行記の先がけとなった】〕 

2)内政の充実
 a.書記官僚(ビチクチ)の重用。
  背景:武官だけでなく有能な文官の充実が必要となった。
  父の時代からの功臣・ウイグル
人財務総監チンカイ(文書行政機構(中国史料の中書省)の最高責任者)、ホラズム出身でムスリム(イスラム)系財政官僚マフムード・ヤラワチ、金の元官僚で出自は契丹人の耶律楚材らを重用。
  例:耶律楚材は、華北の大平原を無人にすれば遊牧に適した土地になるから捕虜(漢人)を皆殺しにするというモンゴル軍人の進言を押し止め、捕虜たちを「万戸」と呼ばれる3つの集団に分け、万戸ごとに農民・職人など職業によって大別した戸籍を作って課税する中国式税制を導入。それによりモンゴル帝国は定住民から安定した税収を得ることができるようになり、オゴデイはこれに感嘆し楚材を賞賛した。
 b.1229年に制度化したモンゴル帝国(および元)の交通通信網。ジャムチという駅伝制を導入し、領土が拡大した帝国内の連絡密度を高めた。主要道路に10里ごとにおかれる宿駅には人馬を提供する100戸が配置。
 c.農耕地、都市部の管轄のために中書省を設けた。〔「中書省は、中国で魏代から明代初期まで存在した中央官庁の名称。主に詔勅の立案・起草を司った」とあるが、オゴデイ時代の場合は地方行政のことのようで役割の説明がない。ハッキリしないが、「代では、中書省は、中央政府の統治機関となり、また、各地方にも同様の行中書省(行省)が設置された。そして、この行省が、今日みられる地方行政区画としての各省の起源となった」〕
 d.貨幣制度では、金の制度を引き継ぎ紙幣の交鈔を発行し銅不足に対応。
 中国の紙幣は、北宋の交子に始まり、南宋でも発行され、金で交鈔と言われて発展。モンゴル帝国は、金を滅ぼした後、金の貨幣制度を引き1236年交鈔を発行。金の領土を引き継いだがその領内には銅山がなく銅銭の原料に不足したため、と言われている。耶律楚材は、金の先例をふまえて交鈔の発行量を調整するよう提言、当初は1万錠(50万貫)が上限と定めらた。
3)内政・内政の不均衡・不統一が露呈
 a.「相次ぐ対外遠征や新首都建設などからの財政悪化、さらには急激に拡大しすぎた領土間の連絡が密に取れず、次第に帝国の一族間における分裂などが顕著になったこと、そして何よりも長男・グユクと「ジョチ家の2代目〕バトゥの対立が決定的となって一族間に不和が生まれた」(wiki)

 ァ.「財政悪化」はどういうことか?収入と支出、債権と債務の主な項目とそれがどのように変わったか知りたいところだが、「相次ぐ遠征」「首都建設」の資産科目だけで済ませては学の進歩はない(「財務」を云々するからには、何で資金調達したかが不可欠)。
 髻法嶇⇒蹐密に取れず」は、理由を「急激に拡大しすぎた領土」に求めるのでなく(そのため画期的な駅伝が設けられた)、本質は統率・統制・統治の欠如にあるはずが、そのモデル事例が欲しいところ。
 鵝飽貘牡嵒塹臓κ裂」は、「何よりも長男グユク〔オゴデイの長男〕とバトゥ〔チンギスの長男ジョチの次男でジョチ家の当主〕の対立が決定的」とあるが、具体的には次のとおり。
 a)「『集史』などによれば、〔オゴデイの〕後継者の最有力候補であった三男クチュが早世したため、オゴデイは父チンギスのように自分の息子から後継者を指名せず、クチュの長男のシレムンを後継者としていたという。しかし、シレムンは未だ若年であり、壮年の王族はオゴデイの息子たちはもとより、ジョチ家やトルイ家、チャガタイ家にも大勢いた。オゴデイは即位の時にオゴデイ裔に皇位継承権が固定されるよう各王家に誓詞を提出させていたという。

 1241年陣営深夜まで飲酒に興じ翌朝寝床で急死。『集史』や『元史』では過度の酒色で健康を害していたと述べられている。「生前、オゴデイはシレムン、あるいは甥にあたるトルイ家のモンケを後継者として考えていたらしい。しかしオゴデイの死後、皇后のドレゲネによる巧みな政治工作でグユクが第3代ハーンに選出された。」


オゴデイの第6夫人ドレゲネ(以下、「皇后」)は、オゴデイが後継者に指名していたオゴデイの三男クチュ〔早世〕の子シレムンを成人に達していないとの理由で後継候補から除外し、オゴデイ家で皇后の長男グユクを後継者に推した。

 b)これに反対のバトゥは、皇后の後継皇帝を決めるクリルタイ召集に応じず、以後5年モンゴル帝国は大ハーン空位のまま皇后による監国(摂政政治)時代が続いた。

 c)彼女の工作で1246年クリルタイが招集、グユクを大ハーンに即〔つ}けることに成功。チンギスを祖とする有力王家(例:オッチギン家、トルイ家チャガタイ家)代表らの参加・決議による。
 

 d)「ドレゲネの政治工作による強行的なグユク擁立は、特に東欧遠征中に反目を起こしていたバトゥやモンケなど、多くの人物から不満があがり、その後のモンゴル帝国分裂の一因になった。1248年4月、グユクも遠征途上で急死」 オゴデイ、それに続くチャガタイの急死に、オッチギン関与の疑惑存在。

 〔オゴデイが没すると、オッチギンはハーンの位を求め軍隊を率いてオゴデイのオルド〔宮廷〕に向かったがドレゲネに意図的を見抜かれ非難され、皇子グユクが征西から帰国した報告を聞くと、彼女にオゴデイの弔問に訪れた旨を伝え、軍を引き返した〕

グユクは帝位をうかがっていたテムゲ・オッチギンの審問を従兄弟のモンケとオルダに命じ、オッチギンの部下たちを処刑〔判決直後オッチギンも没〕。ドレゲネが摂政を務めていた間に乱発されたヤルリク(特許状)を廃止して諸王の権力の乱用を抑え、母の寵愛を得て専権を振るっていた重臣アブドゥッラフマーンを処刑した。父時代の功臣であるマフムード・ヤラワチチンカイチャガタイ家イェス・モンケチャガタイの五男)などを重用した。グユクの政策は父オゴ。

軍事面では南宋イラン諸地方・高麗に兵を送り、引き続き勢力の拡大に努めた。 また、ルーム・セルジューク朝の使節の告発を受けてスルターンカイカーウス2世に代えて王弟クルチ・アルスラーン4世を新たなスルターンに任命し[16]、王位の継承問題が起きていたグルジア王国を2つに分割した[17]

グユクはリウマチに冒されていた上、過度の酒色のために政務を執ることができず、大臣のチンカイとカダクに政務を委任していた[18]。グユクの家庭教師でもあったカダクはネストリウス派キリスト教徒であり、彼の影響もあってグユクの統治下のモンゴル帝国ではキリスト教は厚遇を受けた[18]

グユクは征西再開のため、1247年8月にイルジギデイを指揮官としたペルシア遠征軍先発隊をイランに派遣した。続いてグユク自身も私領(ウルス)であるエミル・コボク地方への巡幸を名目として、一軍を率いて西征へ出発した[19]。しかしグユクは1248年4月、遠征途上で自らの旧領であるビシュバリク方面で急死した[18]。この死は、かねてからの酒色で健康を害したための病死といわれている。しかし『集史』などでは、トルイ家のソルコクタニ・ベキ(モンケの生母)が、この巡幸はグユクによるバトゥへの討伐軍ではないかと危惧し、あらかじめバトゥに警戒するよう知らせていたことも記録されており[18]、犬猿の仲であるバトゥによる暗殺の可能性を示唆する説もある[20]

グユクの死後、その皇后であったオグルガイミシュ英語版が摂政監国として国政を代行した。しかし、バトゥとモンケらトルイ家の王族たちはオグルガイミシュの招請を拒否し、約4年の間モンゴル皇帝位は空席のまま決まらず、帝国全体の統治はまたしても混乱する事となった。

バトゥは独自にクリルタイを開催し、オゴデイ家の王侯はこの動きに抵抗したが[21]ジョチ・カサル家、カチウン家、テムゲ・オッチギン家の当主たちがバトゥとモンケの集会に参集したことに加え[22]、シレムンやグユクの子であるホージャ・オグルやナグの兄弟も参加を表明するに及び、モンケがバトゥの支持を得て第4代モンゴル皇帝として即位
犬猿の仲・バトゥによる暗殺説あり。
 ィ)


 c.チンギスの後継
 ァ.モンゴル帝国の統治者大ハンの地位は、チンギス=ハンの血を引く一族の優れた者が、クリルタイ全員一致の推戴によって就任することとなっていた。1227年にチンギス=ハンが亡くなると、その地位をめぐって息子間で争いが起こり、1229年には第2代にオゴタイが選出されたが、その後も内紛が絶えなかった。
 ィ.第3代はオゴタイの子グュクが継いだがすぐに死去(毒殺の疑いもある)。
 ゥ.1251年第4代にはトルイの子
モンケが即位した。
 モンゴルの国家はモンゴルでは
ウルスと言われ、全体のモンゴル国家は「大モンゴル=ウルス」と言われたが、分立した国家もそれぞれウルスといわれた。
  


1235年に開催されたクリルタイにおいてヨーロッパ遠征が決定されると、スブタイは軍事能力と長年にわたる従軍経験を評価され、遠征の総司令官を務めるバトゥの副官に任じられた。

1236年春にスブタイはブルガール地方を攻撃し、ブルガールの族長たちを屈服。1237年から1238年にかけ、遠征軍はリャザン旧リャザン)、ウラジーミルスーズダリトヴェリなどのルーシの都市を陥落させた。スブタイは略奪によって食糧を集めながら南下し、ドン河畔で兵士に休息を取らせた。モンゴルへの服従を拒むカフカスの民族が制圧された後に遠征軍は行軍を再開し、1240年キエフを破壊する。スブタイの軍はモルダヴィアを抜け、1241年ハンガリーに侵入したバトゥの本隊と合流した。モヒの戦いにおいて、スブタイはハンガリー王ベーラ4世が率いるハンガリー軍に勝利を収めた。同年にオゴデイが没するとヨーロッパ遠征は中止され、スブタイは東方に帰還した。

スブタイは帰国後にオゴデイ没後に開催されたクリルタイに参加した後、トゥラ河畔に与えられた遊牧地に居住し、1,100の封戸を有した。死後、河南王に追封された。


 チンギス・カンは、腹心の僚友(ノコル)に征服した遊牧民を領民として分け与え、これとオングトやコンギラトのようにチンギスと同盟して服属した諸部族の指導者を加えた領主階層を貴族(ノヤン)と呼ばれる階層に編成した。最上級のノヤン88人は千人隊長(千戸長)という官職に任命され、その配下の遊牧民は95の千人隊(千戸)と呼ばれる集団に編成された。また、千人隊の下には百人隊(百戸)、十人隊(十戸)が十進法に従って置かれ、それぞれの長にもノヤンたちが任命された。


テュルク・モンゴル系の騎馬軍同士の会戦(『集史』)

戦時においては、千人隊は1,000人、百人隊は100人、十人隊は10人の兵士を動員することのできる軍事単位として扱われ、その隊長たちは戦時にはモンゴル帝国軍の将軍となるよう定められた。各隊の兵士は遠征においても家族と馬とを伴って移動し、一人の乗り手に対して3 - 4頭の馬がいるために常に消耗していない馬を移動の手段として利用できる態勢になっていた。そのため、大陸における機動力は当時の世界最大級となり、爆発的な行動力をモンゴル軍に与えていたとみられる。千人隊は高原の中央に遊牧するチンギス・カン直営の領民集団を中央として左右両翼の大集団に分けられ、左翼と右翼には高原統一の功臣ムカリとボオルチュがそれぞれの万人隊長に任命されて、統括の任を委ねられた。

このような左右両翼構造のさらに東西では、東部の大興安嶺方面にチンギスの3人の弟ジョチ・カサルカチウンテムゲ・オッチギンを、西部のアルタイ山脈方面にはチンギスの3人の息子ジョチチャガタイオゴデイにそれぞれの遊牧領民集団(ウルス)を分与し、高原の東西に広がる広大な領土を分封した。チンギスの築き上げたモンゴル帝国の左右対称の軍政一致構造は、モンゴルに恒常的に征服戦争を続けることを可能とし、その後のモンゴル帝国の拡大路線を決定付けた。



 チンギス・カンに優秀な8人の最側近がいた。(『元朝秘史』に、「四駿四狗(ししゅんしく)=4頭の駿馬・4匹の狗」(dorben kulu'ud, dorben noγas)と讃えられた)
 四駿
.爛リ

 ジャライル部の人。1206年、モンゴルの左翼(東部)の万人隊長(万戸長)に任命され、チンギス・カンの金遠征でも活躍した。モンゴル高原東南部の5部族(ジャライル部、コンギラト部、ウルウト部、モンクト部、イキレス部)を配下につけられて中国の攻略を担当した。
▲椒ルチュ
 
アルラト部の人。チンギス・カンの最初の側近。『元朝秘史』によれば、少年時代のチンギスが馬泥棒にあったとき、チンギスに馬を貸して追跡を助けたとき以来の友人。チンギス・カンのモンゴル高原統一に功績をあげ、右翼(西部)の万人隊長に任命された。
チラウン
 
スルドス部の人。父ソルカン・シラは少年時代のテムジン(チンギス・カン)がタイチウトに捕えられたとき、チラウン父子は彼をかくまって逃がしてやったとされる。ソルカン・シラはタイチウト部がモンゴル部に滅ぼされた後チンギス・カンに迎えられ、千人隊(千戸)を与えられた。チラウンは数々の戦役に従軍して功をあげ、父の死後千人隊を引き継いだが、外征にあまり活躍することなく早くに没した。
ぅ椒蹈ル

 フウシン部の人。若くして数々の戦功をあげたが、1217年にモンゴル高原北東の森林地帯に住む狩猟民トマト部の討伐において戦死した。
四狗
.献Д

 ベスト部の人。はじめタイチウト部に属していたが、タイチウトがチンギス・カンに滅ぼされた後チンギス・カンに投降して仕えた。チンギス・カンの遠征において先鋒を務めて戦功を重ね、1218年には西遼を乗っ取ったナイマン部のクチュルクを討つ功績をあげた。ホラズム遠征ではモンゴルの侵攻を受けたホラズム・シャー朝第7代皇帝を追撃してイランに入り、そこからグルジアに出てカフカスを抜け、ルーシ(ロシア)まで達し、ルーシ諸侯の連合軍を破ったが、モンゴルに戻る途上で病死。
▲献Д襯
 
ウリヤンカイ部の人。弟のボオルチュとともにチンギス・カンに早くから仕え、側近として活躍した。タイチウトとの戦いでチンギス・カンが毒矢を受けたときは、毒を吸い出して看病したという逸話が伝わる。
スブタイ
 ウリヤンカイ部の人。ジェルメの弟で兄に続いてチンギス・カンに仕えた。兵数10分の1の完顔陳和尚の金軍に負けたこともあるが、数々の戦功をあげて勇士として知られ、ホラズム遠征ではジェベ(チンギス・カンの長男ジョチの次男。キプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)の実質的な創設者)とともにルーシまで達する別働隊を率いた。のちにバトゥのヨーロッパ遠征にも従軍した。

ぅビライ
 
バルラス部の人で、早くにチンギス・カンに仕えた。モンゴル統一に貢献して「四匹の狗」に数えられ、中央アジアのカルルクを討ち、オアシス諸国を帰順させる功をあげた。


チンギスの皇后のうち、大ハトゥンは5人いたとし、ボルテを第1位、クランを第2位、イェスゲンを第3位、公主ハトゥン (كونجو خاتون Kūnjū Khātūn) こと岐国公主を第4位、イェスルン(イェスイ)を第5位とする。一方、『元史』「后妃表」によると、ボルテ、クラン、イェスイ(イェスルン)、イェスゲンはそれぞれ大オルド、第二オルド、第三オルド、第四オルドを管轄していたという。

 ハトゥンは、中央ユーラシアにおいて主に遊牧国家の君主の后妃が名のる称号。同じく中央ユーラシアの遊牧国家の君主が用いるハーンの女性形に当たる。

  【参考】チンギスの4人の息子
 …甲縫献腑繊複隠隠牽粥〜1225)
  西方遠征で働きは抜群で優秀で1211年よりチンギスが金への遠征を開始したときは、同じく帝国の西部にウルスを持つ二人の弟チャガタイ、オゴデイとともに全体の右翼軍(西部軍)を率いる将領として参加し、数々の戦果を上げた。ただ後継についてチンギスの嫡子であるか疑念を与えた。諸史料によれば、チンギス・カンはこの頃(1219年からのホラズム・シャー朝遠征)、4人の嫡子のうちから後継者を選び、温和な3男のオゴデイを後継者に指名。このとき、チンギス・カンは諸子を集め自分の後継者に誰がふさわしいか意見させたが、ジョチとチャガタイが口論、二人がお互いをカンにふさわしくないと言い合ったので、次の弟で人望のあるオゴデイが立てられた。なお、ジョチは1225年父に先立って病没した。 
 ⊆|縫船礇タイ(1186?〜1223)は、長兄ジョチとは、ジョチの出生の疑惑などをめぐり険悪な仲であった。また、激しい気性気性の持ち主であったため、一族の和を重んじる父から後継者候補としては除外されていたという。法に対して厳格な一面があったため、それを父に見込まれ、モンゴル帝国の法律の管理を任され「ヤサの番人」の異名を取った。弟・オゴデイと仲が良く、父の死後はその遺言に従ってオゴデイの即位を支持。
  父に従って金討伐や大西征(1219〜1223)に従軍し戦功を挙げたことから、西遼の旧領を与えられ、後のチャガタイ・ハン国の祖となった。
 三男オゴデイ(1186〜1241)は、父・チンギスの金遠征と西域遠征に従った。その大西征においてホラズム・シャー朝の討伐で戦功を挙げ、ナイマン部の所領を与えられた。オゴデイにはジョチとチャガタイという2人の有能な兄がいたが、オゴデイは温厚で一族の和をよくまとめる人物として父から後継者として指名されていた。クリルタイでチャガタイやトルイの協力のもと、1229年第2代モンゴル皇帝に即位。


 せ傭縫肇襯ぁ 1192〜1232)
 「幼少時から英邁〔えいまい:特別な才知〕で武勇に優れ、人望も厚かったという」。1212年からの第一次金遠征で1219年に始まるホラズム・シャー朝遠征チンギス・カンの西征)、1226年第5次西夏遠征で諸戦役で父とともに各地を転戦して軍功を挙げ、その名を轟かせた。「1227年チンギスが没すると父の所有していた家産と直轄ウルスの101個千人隊に相当する部民、軍隊のすべてを相続」、「後継の大ハーン選出まで帝国の政務を代行する監国の地位についた。そして2年後、後継の大ハーンの選出にあたっては自身の即位を固辞し、父チンギスが生前に後継者に定める意向を示していたという兄オゴデイを第二代大ハーンに推し、即位させた。」

 オゴデイの即位に際し、4個千人隊のウルスしか所有しない兄オゴディに自身のウルスの大部分の指揮権を譲り一将軍に甘んじた。オゴデイを中心に金に対する作戦が再開されると、右翼軍の司令官として参戦し、1232年完顔陳和尚率いる金軍を破り金の主力を壊滅させる戦功をあげた。しかし、オゴデイの本軍と合流して帰還する途上、モンゴル高原に至ったところで急死。深酒のためとされるが、弟の人望と功績を恐れた兄オゴデイによる謀殺とみる説もある。
  《参考は、以上》


 「世界史の窓」
第4代モンケ=ハンの死後はハイドゥの乱が起こり、乱後は宗家フビライ=ハンが統治しモンゴルと中国を領土とする元帝国と、フラグの建国したイル=ハン国、バトゥの建国したキプチャク=ハン国、チャガタイを祖とするチャガタイ=ハン国の3ハン国(ウルス)とに分かれることとなった。しかし、あくまで元の皇帝が大元ウルスハン(カアンとも称した)は宗主権をもっており、モンゴル帝国としての一体性は維持されていた。
現在は「4ハン国に分裂」とは言わない かつてはイル=ハン国、キプチャク=ハン国、チャガタイ=ハン国と共に、オゴタイを祖とするオゴタイ=ハン国があり、「4ハン国」と言われ、またそれぞれが独立性が高くモンゴル帝国は分裂した、と説明されていたが、現在はオゴタイ=ハン国の実体は無かったとされ、3ハン国とする説が有力である。山川出版社の『詳説世界史』も06年度改訂版から、「4ハン国」と「オゴタイ=ハン国」の記述が消滅した。また、3ハン国は互いに対立したが、いずれも元を宗主国としているので、モンゴル帝国としての一体性は維持されており、これをもってモンゴル帝国の分裂とは言わなくなっている。 → モンゴル帝国(ウルス)の分立

「wiki」ブリヤート人

ブリヤート人はモンゴル族の一部であり、モンゴル先祖はバイカル湖から形成し始めてから草原地代へ進行する、モンゴル秘史に記載する蒼き狼と白い鹿がバイカル湖を横断して草原へ移動されモンゴル民族が発足する。バイカル湖周辺が人類文明の一原点であり、アルタイ諸民族の発祥地だとされる。

ブリヤート人も、バイカル湖の東に住む者と、西に住む者とでは、かなりの違いがある。東に住む者は、固有の文化を維持し、ロシア人との混血が進んでいないのに対し、西に住む者は、生活がロシア化され、ロシア人との混血が進んでいる。弥生人、もしくは縄文人の遺伝子に近い特徴を持つといわれ[1][2][3][4][出典不十分]、日本において、日本人のルーツの一つとして近年注目を集めている(「日本人バイカル湖畔起源説」を参照)。


話題・出来事2:入院体験

 こんにちは!自在業の櫻井です。
(追記:12月16日(金):
 表題の「入院体験」は、当初「歴史スポット62:文永の役と日蓮」の序文として記すつもりであったが、書き込んでいるうち記録として残すべき事柄が多くなって、「Δ泙箸瓠廚貌るほぼ直前記事として独立させることに決めた。結果、分類上「話題・出来事」が入って「歴史スポット」が3連続ならず。そのため11年3月11日「東日本大震災」を初とする2つ目のテーマとなって、記事としては9本目となった。
 文章構成は、気泙任播初通り。兇麓々譱りのため無し)

機テ院体験
 9月23日(金)9時半からの入院は、12月7日(水)午後2時で退院。数えると入院期間は約2ケ月半の76日間。(現在70.5歳の今、振り返ると入院は学生時代交通事故で頭をぶつけ3週間近く入院した以外1日たりともなかった)
 ブログはその間 書き込みした日は無くても文章や構想は練っていた。なお、病室に持ちこんだタブレットはある時変な所をタッチして修正出来ず1週間もウェブから完全に遠ざかったことがあった。
 タブレットでの記事の完成は不本意ながら初めて、1本目が9月23日の着手で入院した日。直前にパソコンで記事の表題を登録し、取りあえず撮った写真だけ貼り付けただけ。後日病床で書き込み。期間中病院で3本の記事をタブレットで書いたことになる。(もっとも、細かくは退院後、パソコンによる文字・記号・加筆修正している)
 タブレットはサムスン製GALAXY Tab4。今年8月Galaxy Note7の新発売後世界各地で発火・爆発事故があり、米・日での航空機内持ち込み禁止などにより製造販売中止・全品回収に追い込まれたものとは違う。 Tab4は14年製で古く、だから安全・安心ということになってしまう。背広の内ポケットに入る大きさという事で選んだが、文字入力はパソコンのようなボタン式でなく、慣れない・知らない・指が大きい・少しでも意図しない文字パネルに触れるとそれが現れ 意図した文字でも違う文字であったり、一発で決まら何度も直したりする。また、参考文章をコピー・貼付する際 書き込んだページを一旦保存して 閉じ、参考サイトを再び開いて紙に書き写し、元のサイトに戻って入力しまければならない。従って5倍、以上の時間を要すと思うが、やむを得ない。9月23日号などは、「まとめ」に近づいたところで、それまでの書きかけ記事をすべてをうっかり削除してしまった。嫌になったが、他にする事もないからやり直した。
 さて、前々号からの記述のとおり県立新潟がんセンター新潟病院で入院生活を送り、大変貴重な勉強と経験をさせてもらった。勿論、これで完治したわけでなく毎月1回の検査・通院があり、順調にいけば3か月後人工肛門を外す手術があり、その間自宅で自身による3日に1度の人工肛門袋(パウチ)の交換があり、1日4回(毎食後と寝る前)各1袋の下痢止め用薬(アドソルビン原末 タンナルビン)の服用がある。
  このタンナルビンは10月18日(火)からの開始で1日3回、2日後の18日(火)には寝る前が追加で1日4回となり、一番長く続いている。
 これまで一度に飲んだ最も多い薬の数は3種類(食前1種・食後2種)で10月5日(水)から。腸内の細菌を殺すバンコマイシン塩酸塩0.5g「MEEK」、腸内細菌のバランスを整える耐性乳酸菌散10%「JG」(エントモール)、熱を下げたり痛みを和らげるカロナール錠300咫頁髻法△修靴董崢砲せ 頓用」とあり「1回1錠・10回分・4時間以上時間をあける」と書いてある「とんぷく」。持ち帰った袋の中に6錠残っていることは、5日目の10月9日(日)には痛みもなくなり、必要なくなったということだ。
  なお、10月3日付け「輸血及び血漿分画製剤(特定生物由来製品)使用に関する説明書と同同意書の写しが手元にあった。輸血療法でヒトの血液や組織などを原料として製造した治療薬を使うともので、輸血療法
は、血液中の成分(赤血球、血小板、タンパク成分、血液凝固因子など)が不足した時や機能低下の時などに、その成分を補充するものとされる。
 一般に何でもそうであるが使用した場合は危険性もあるので(使用しない場合も同様)、使用には説明と同意が必要で、そのようになったと理解。手術も通常は同じで同意書が必要。
 私の場合は、アルブミン製剤(血漿中に最も多く含まれるたんぱく質で、血管中に水を保持する作用や薬物などと結合して運搬する働きがあり、低下すると血管から水分が漏れ出して血圧が低下したり、浮腫(むくみ)や腹水が出てくることがある)で、アルブミナー25%12.5/50ml。
 10月は体調が悪くなったと感じた時があったが、薬の種類の多さで示されて、快方に向かうに従い、少なくなっていく。
 11月19日(土)肛門周囲膿瘍に効.くレボフロキサシン錠500mg「DSEP」が7日分出された。当時、肛門から何か出そうな・出ている感じがすると頻りに医師に言っていた。実際は、気のせいか紙おむつのパット部分を見ても、看護師に見てもらっても出ていない。11月26日(土)以降飲む薬はタンナルビンだけとなった。
 
 今回のテーマに入る前に、忘れないように先ずその「貴重」であった入院生活についてこれまで記していなかった事柄及びその後の新たな経験を書き加える。
仝凝
 4時間以上にわたった手術から全身麻酔の中で目が覚めたとき、医師や看護師から口々に「頑張ったですね」と言われた。手術した翌日の事。ちょっと歩いて見ますかと看護師に言われ 看護師の注意を聞きながら、注射針が刺さった点滴のチューブに何かを引っかけないようそろっとベッドから起き上がり、ゆっくり両足を下ろししっかりと側の浅い靴のようなスリッパを履き、薬剤バックが吊り下がった点滴スタンド(キャスター付き)の真ん中にある取っ手を両手でしっかり握って身体のバランスをとって立ち上がり、足元・前方・左右をよく見ながら、ゆっくりと一足ずつ歩く。部屋から出れますかというので 看護師さんの見守る中で部屋から出て廊下を4〜5mくらい歩き、体力の限度と思われるところで引き返しベッドで休んだ。翌朝医師が回診にきて、「昨日は外の景色が見えるところまで歩いたようですね」と感心したように言った。それを聞いて オヤッと思った。
 どうしてそんな事まで知っているのか、どうしてそんな当たり前のことを言うのか、それを伝えたのは看護師に決まっており外の景色が見えるとろまでと具体的に伝えているが、それほど珍しい事で重要なのか。更に驚いたのは、見回りに来た他の担当医師や翌日担当の看護師まで知っていたこと。
 これが、同院の原点。
看護体制
 1)担当看護師は、患者ごとに昼間担当2人・夜間担当1人(この場合、昼・夜共担当は固定していない)がそれぞれ挨拶に来て、普通サイズの3倍ある名刺が入ったカードケースをテーブルに置いて、仕事に就く。
 〔上記は患者から見た場合で、同院ホームページでは日勤(8:30〜)・準夜(16:30〜)・深夜(0:45〜)7時間45分勤務の3交替制。そうでないと24時間体制は難しい〕
 2)受持ち看護師制度があり、1人の看護師が数人の患者を受け持ち、その勤務時間帯に予定されている患者の看護業務を全て担当する方式の看護体制をいい、作業効率は悪いが患者を総合的に把握しケアすることが出来るという利点があるとされる。
 a.入院中はそれほどの認識はなかったが、3日ごとに1回のストーマ(人工肛門)器具=パウチの貼り換え時には必ず付いて指導してもらった看護師がYさん。
 ァ.初めの頃は、浴場に一緒に入りパジャマ・シャツ・紙パンツ(中にパットあり)を脱いでパウチ・ベルトを外し、浴室に入ってシャワーを浴び、身体や髪を洗って、パウチを新しいものと交換に入る。
 (ある程度慣れて来るとここまでは看護師無しで自分で行う。古いパウチを剝す前に浴室内にあるナースコール・ボタンを押し看護師に来てもらう)
 ィ.皮膚とパウチの面板の間に指を入れ、皮膚を引っ張らないよう逆に皮膚を身体に押しながらすき間部分を作りって周りに広げ、そこに剥離剤(石鹸やお湯だけで間に合う場合も多い)をかけながら皮膚を傷つけないように優しく剝す。剝したパウチは、ビニール袋に入れる。ストーマと全身を洗い、ビニール袋を持って浴室から出る。そして、着替える。
 (そこまでが大きな一つのステップで、慣れてくれば一人でも出来、パウチ交換へのステップで看護師に見てもらう。
 ゥ.パウチの交換は、パウチ、パウチ用ベルト、パウチ用ハサミ、ストーマゲージないしモデル型紙、油性ペン、アダプト皮膚保護シール、剥離剤、ブラバ・パウダー、ガーゼ又はペーパータオル、鏡・屑入を準備、それぞれに扱い手順があり、熟練を要す。
 (退院後自分だけで行うことになり、一人でできないことないが万が一もあり、家族で手伝いできる人(一般に配偶者)が必要とされる。身内の人がパウチ交換をしている現場を数回見て、ある程度流れや必要器具などを知っていることが必要とされる)
 b.技術面の指導は、患者ごとに担当が決まっている受持ち看護師さんが行うから効果的。紙パンツのはき方・パットのつけ方、その処分の仕方、ウォッシュレットの効果的な使い方など何でも教えてくれた。なお、入浴時間は30分ごとの予約制で、交換日は決まっているから、希望があれば早目にその日担当の看護師さんに言っておけば、受持ち看護師さんの都合にも合わせ、時間を決めてくれる仕組みになっている。
 c.11月16日にトータルケア病棟に移る際もYさんが来て、私がまとめておいた荷物を持ってきた台車に載せ新しい病室まで運んでくれた。
 3)下記のような研修制度あり。
がん看護実務研修生の研修に協力:11月下旬〜12月初旬。
 この制度は看護師さんが、普段の専門的な看護業務とは別に私のような患者の心配事(退院後の家族の協力・在宅ケア等を含む)・困っている事・要望したい事などを聴いて何らかの対処・解決に当たることでより高いがん看護の実務向上に資すことが目的と理解。
 係わった期間は2週間、延べにして10日、患者の都合に合わせ実施。パウチ交換の日はシャワーから始末、交換まで付き添う。私のもとへH看護師が来た。
1)何でも相談では、分野が違い関係がない事と思っていたが、最近手の甲が荒れ少し痛みと痒みがあったが放っておけば治ると思ってそのままにしていたが、Hさんが手を見てこれはひどいということでいろいろ聞いてきた。よくよく考えれば、今までそういうことは無かったことで入院してからトイレを使うたびに石鹸水を使うようになったということを話すと、クリーニング業では洗浄で薬品を多量に使うから 水で手をしっかり洗わないと手が痛むとのことで、先生に話をしてよい薬をお願いしてみますとのことであった。
 その時内心、ここは消化器外科だから皮膚のことが分かる先生はおらず、そんな薬が置いてあるはずない・がんセンターに皮膚科はあっても日常的な病気への薬まではないに違いない・薬があったにしても専門医が他所の科の看護師から症状を聴いて薬を選定し承認印を押すのに時間要し、そこは薬剤師も同様で今日の午後に言って今日のうちというわけにいかないと思っていた。ところが、夕方病床にいるとHさんが薬を持ってきてくれた。「ヒルロイドソフト軟膏0.3%25g」という軟膏剤で、指示通りに塗っていたら4〜5日で治った。放っておいたら1ヶ月経っても治らなかったであろう。とんでもない勝手な間違った見方をしていた。
 消化器外科といっても皮膚の知識や処方を知らなければ専門医になれない。消化器官は皮膚で成っているではないか。そういえばパウチを剝す際ストーマ周辺の皮膚を傷つけ赤く腫れあがったことがあった。その時、私はたいしたことではないと思っていたが、看護師さんが心配し同科の先生に来てもらい見てもらった。結果、薬で治るということで、その日のうちに錠剤を出してもらい指示どおり毎夕食後に1錠飲んだところ1週間経たないうちに赤い腫れ物が消えた。
 〔追記:17年1月5日〕
 1ヶ月余り経つが、手のかぶれは完全に無くなったわけではなく、気にならない程度に僅かな部分残っている。昨日何を思ったのか、残っていた軟膏があるので寝る前患部に塗ってみた(軟膏は1日2回で、寝る前はコッテリとが記憶にあった)。翌朝その効果ははっきりした。ウェブで使用した薬を調べると、
 ・使われる疾患は、血栓性静脈炎・捻挫」・痔核・接触性皮膚炎・乾皮症・ケロイド・打撲傷など、
 ・「接触性皮膚炎」は「かぶれ」のことで、症状として、皮膚が赤くなる・ 熱を持ちほてる・ 腫れる・水疱ができる・ 膿む とあってピッタリ、
 ・接触性皮膚炎には2種あり、 「一次刺激性接触性皮膚炎」は、「物質に直接的に触れることで起こる皮膚炎」で、
 ・物質(例)は台所用洗剤・髪にパーマをかけるとき用いるパーマ液漂白剤など、また下着や衣服が肌に擦れたりすることで湿疹・赤みが出る場合も該当。原因も思った通りで納得。完全に治ってない状態で今後洗剤で手を洗う場合しっかり水で洗い落とせば治ると考えるのが普通であるが、薬を塗って治さなければいつまでも治らないというのが実感。
 〔追記は以上〕
2)ある時、私の体格測定・血液検査から見る(年齢・男女・身長・活動量で異なる)と、理想の体重は69.5圈蛋白質濃度は何%で標準値に比べ低く蛋白質摂取が必要と指摘。
 a.蛋白質は細胞を作るのに必要な養分で、不足していると傷口がなかなか塞〔ふさ〕がらないとの説明にピンと来るものがあった。この10月下旬尻から黒い血や白い膿のようなものが出たリ高熱が出たりしたのはそのためかも。当時担当医師は、一時的に傷口に炎症が起こることがあり、身体に悪いものを体外に出しているので、それが頻繁であったり多量であったりすれば別だが、心配いらないとは言われた。
 b.一般には、次のように解説されている。蛋白質は、筋肉や臓器を作る成分として重要。不足すれば体力・免疫力が低下し、老化を早める。過剰は腎臓によくない。なるほど、体力ということで思い当たることがある。朝食後や昼食後、ブログに30分ほど打ち込むと急に疲れが出てベッドにグダッと横になることが普通にある。体温や体重や血圧や酸素濃度のバランスはとれていても、これからの課題は体力の回復・増進。
 ァ.主食は、一時お粥からご飯になった時があり、その後体調悪くて食事が進まず、10月初め頃か吐き出した事があって以来食欲は11月に入って次第に回復したとはいえ11月中旬まで三食全てお粥。その方がよいのだと思っていた。話の中でご飯がよければ可能とのことで 退院も間近で普段の生活に慣れるためにもご飯に変えてもらった。「大」もできますと言われたが、まずは胃や腸を慣らすためにも普通盛りのご飯にした。同院では、流動食、3分粥〔米1対水20〕、5分粥〔米1対水10〕、全粥〔米1対水5〕、そして常食・ご飯がある。
 ィ.Hさんの栄養士さんへの働きであろうが、肉や魚の内容量が増えてきたように感じた。三度の食事は、個人の名前と食事の種類が印刷された小さな用紙の入ったトレーに載せてベッドに備えられたミニ・テーブルに運ばれる。おかずは同じでも、主食は個人の要望に対応。
 ゥ.同室の人がご飯に梅干し付きなのを知り、その点も尋ねてみると希望者に梅干が追加料金無しで付くとのこと。これまで歩くとふらつく感じがあり、貧血気味で塩分不足が原因のような気がしたのでお願いしてみた。すると早速夕食に梅干しが付いてきた。翌朝も付いてきた。個人名の入った、ミニ用紙に、「朝・梅干 夕・梅干」と印刷され該当部分にマークがされているから、間違えないように工夫されている。
 ェ.さらに驚き。
 顱忙前予約により昼の主食は、うどんか素麺ー暖かい・冷たいーができる。私は冷やし素麺の大を頼んだ。料金は同じ。大きな丼に開ければ食器台になる赤い蓋がしてあり、汁とネギの刻みで素麺一式。ミニ用紙に汁は薄味にしましたと印刷されている。非常に簡素で美味く味わい深く、出来るものなら退院しても食べに来たいと思ったものだ。
 髻烹隠卸遑憩(水)から11日(日)の5日間は、通常料金のメニューの他に希望者に+20円の特別メニューがある。毎月、特別期間が設定。私は、試しに特別メニューの温かい天ぷうどんにした。
  患者に食べる楽しみを与える病院食となっている。
 c.いくら栄養を摂っても、「リハビリ」=機能回復のための運動をしなかったら 体力がつくはずなく機能は衰える一方になることを痛感。11月28日だったと思うが、Hさんに付き添いで実施。その後も行った。
 ァ.リハビリというのはおこがましいが、記録を拾うと次のとおり。
 11月3日初めて病室のある5階から独りでエレベーターで他の階(2階)へ行き、レンタル・パソコンを40分位立って操作。手術後立ちっぱなしはこれまでせいぜい10分。背の高い椅子はあったが、尻に管があり痛くて座れないため。
 11月10日階段を初めて独りで上った。1F→2F(売店)26段=(13+0(踊り場))×2。売店に行くのに5Fからエレベーターに乗ったが、2Fボタンを押すのを忘れ1Fまで行ったため。手すりはしっかり握り、ややふらつき気味の中ゆっくり上がった。
 11月28日1F⇌6F。往復計240段=120段×2(但し、手すり依存)
  1ー2F:26段、2−3F:26段、3ー4F:24段、4−5F:22段、5−6F:22段。1−6F:120段
 11月30日 往復120段(但し、手すり依存)
 12月X日 6F⇌̠地下1F(1ー地下1F約20段)および3Fプロムナード往復。
3)患者=お客の一人として苦情も申し述べた。
 a.9月末頃〜10月初め頃病室内は真夏のような暑さの日があった。勿論、外の気温も38℃くらいの日もあったからだろう。汗かきのせいか汗を相当かいていた。看護師さんが汗に気付きシャツを替え、敷布まで汗で濡れているということで取り替えてもらった。(そのこと自体は非常に有り難かった。看護師女性2人で85圓竜霏痢覆修了は75圓妨困辰燭もしてないが)を動かし敷布の取り換え。終わった後に腰が非常に痛いと言っているのが聞こえた。まさに重労働。家内も以前から私が動けなくなったら(重い体を動かしたりの)世話はできないから飲酒はほどほどにして下さいと言っていたのを、その時思い出した)
 ァ.空調設備が利いていないと感じた。設備屋さんが来て音を立てながら工事して帰っていったが、少しも空調が効いている感じがしなかった。翌日か翌々日も来ていったが、変化が感じられなかった。古い設備のため」どうにもならなくなったのかと思ったものだ。暑いので家内から団扇・扇子を家から持ってきてもらい、頻りに扇いだものだ。特に暑がりでもないのだが、その時は非常に必要と思ったからだ。病院にいる入院患者が団扇を扇ぐとは、考えて見れば前代未聞かもしれない。非常に貴重な経験をした。
 ィ.暑いので上半身部分は毛布を外してベッドにいたところ ある看護師さんが来て、毛布を首の近くまで掛けそのままじっとしていてくださいとのことだった。暑くて汗を流しているのに変な感じがしたが、プロが言うのだからそれが正しいのだろうと思っていた。すると次第に苦痛ではなくなってきたのだから不思議である。脱水症の懸念があると言われたのはその後のことで、感覚が麻痺したのか私には自覚はなかった。
 (食欲が進まず吐いたことがあったり、夢でオランダへ行きオランダ人と話をし、ホテルで泊まった。。夜中起きた時オランダにいる自分が他人の部屋のベッドにいると思い 自分の部屋を探しに廊下を歩いた(点滴が付いている状態)。その際各部屋の表示はオランダ語ばかりかとヒヤヒヤした。なぜオランダかは、今年に入りそれほど本気でないが海外旅行するならオランダと思った時期が 今もそうだがあった。きっかけは、この6月YouTubeで偶然アムステルダム・バロック管弦楽団の演奏‐バッハの管弦楽組曲第3番とカンタータBWV140・147‐を聴いたこと。演奏はさることながらオランダ人の顔付き‐彫りが深く角張った‐に魅かれるものがあった。江戸時代から日本と縁がある。佐渡金山では、「天明2年(1782)には、フランカスホイという天秤式手押しポンプがオランダから導入された」(09年12月29日号「歴史スポット55:佐渡金銀山絵巻」)。明治には大規模な河川・港湾工事はオランダ人が来て指導にあたり、昭和に入っても八郎潟の干拓にもオランダの技術を借りている。
 明治時代オランダ人技術者デ・レイケは、淀川改修・・新大阪築港、三国港改修、木曽三川改修、吉野川改修、筑後川改修など、一方エッシャーは河川・港湾改修だけでなく道路・鉄道・橋梁などの土木技術の指導に携わった。
 (三国港:14年12月18日号「歴史スポット係わりの地55:三国湊(福井県坂井市三国町)」)
 【「脱水症状」を調べると、「軽度」は眩暈〔めまい〕、「中度」は嘔吐、「重度」は幻覚、認知症は脱水症の自覚なくなるとのことで、全く同じ!であった】 
 ゥ.ある看護師さんに病室には温度計がないのですかと問うと、きっぱりと「有りません」とのこと。余りにきっぱりなので、「必要ありません」という風に聞こえた。
 b.どの患者にとっても手術後絶対必要なことは百も承知しているが 嫌なのが注射。
 ァ.点滴は2日目に新しい注射針と替え(左右両手の場合もある)、また必要に応じて血液検査で採血が行われる。私の場合、更にあり得てなかったが輸血。
 ィ.嫌でも仕方ないのだが、もっと嫌なのが注射に失敗し繰り返すこと。2回で終わればこういうこともあり得るで辛抱できるが、3〜4回になると全くやりきれず最悪。怒鳴る患者もいて当たり前だが、私の場合それによってますます萎縮させ間違いが起こるのを恐れるから大人しくしており、これも運命と思いうまくいくよう念じている。
 ゥ.私の腕の血管は、細くて難しいというのを特定の看護師さんから聞いたことがある。看護師さんによっては、血管を大きくするため温めたタオルをしばらく腕に巻いてから注射したり、手首にある血管でもよいですかと聞いて行う看護師さんもいた。
 患者にとって注射が最も苦手で嫌いとするから 特に経験の浅い人の更なるレベルアップに期待したい。
た軍秬栂預膤愆埜邀愽瑤粒慇犬気鵤蛙佑亮唾聾学に協力
 12月6日朝 リーダー格の看護師さんがやってきて上記について依頼された。時間にして30分の質疑応答と明日の私のパウチ交換の実際見学で、当然快諾。
 なお、質問に対する回答について、これまで記事に載せている事柄以外について記述する。
1)看護師とは?
  病院で一番頼りとする人。
 a.いつ何時何かがあっても、必ず誰かがいて何らかの対応をしてくれる。特に点滴していて自由に動いたり歩けない状態の時、異常を知らせるナースコールが命綱で、必ずどこにあるか確認してから寝たものだ。
 (初めの頃は 痛くて体を動かせない、起き上がれない、歩けない。大きい声を出そうにも出ない。ただ、手の指は動かせる)
 b.11月24日夜中23:20頃に目が覚めた。再現すると次のとおり。
 ァ.お腹の辺りが濡れている。パジャマやシャツや僅かであるが敷布にもかかっているようだ。2日前私がほぼ独力で装着したパウチで明日は交換の日というのにここに至って便が漏れたとはショック。
 ィ.これは大変ということで電気を点け、起き上がり、ナース・コールを探して押した。しばらくして、「どうかしましたか」の声。「便が漏れました」。「おトイレでですか」「いや、袋からです」「そのまま待っててください」
 ゥ.やって来て確認。「そのまま横になって待ってて下さい」
 ェ.2人でやって来た(見てないが、パウチ交換に必要な道具は用意)。「パウチ雄ありか?」「今日納品されて来たパウチが、ここにあります。道具箱はこれです」「ストーマの型ありますか?」「サインペンありますか?」「大丈夫ですから、休んでいて下さい」で、共同作業でまたたく間に着けていたパウチを剝し、新しいパウチに交換。
 ォ.替えのパジャマ・シャツ・敷布を持ってきてくれて、復旧完了。0:40頃消灯し、安心して眠りについた。
 c.漏れの原因と教訓
 ァ.夜珍しくテレビを見ようとベッドで仰向けになっている状態でイヤフォンを取り出すため手を無理に伸ばした。腹の筋肉や皮膚もそれと同時に動き、同時にパウチの面板に歪み、ゆっくりとすき間ができ、やがてそれが広がり漏れ出した。と、最初思った。
 ィ.前に交換した時のことを振り返ると、幅の狭いアダプトで皮膚とストーマ面板を接着した時、細くて少し不安であったが僅かな部分でそのくらいいけると思い補填せずそのままにした所があった。問題はそこに改めた。翌朝、看護師さんにその話をすると、原因は接着幅の狭い箇所があってそこから漏れたのだろうと言っていたとのことで、私の考えと一致。
 ゥ.その時にもし漏れがなかったとしたら、これくらい大丈夫だったがまかり通り、いつか取り返しのつかない事が起きる。こういった大事に至らない経験をして非常に運が良く、教訓としてこれからも活かせる。熟練看護師さんがいたこと、私に合ったパウチを初めて注文し納品日がその日だったことも運というしかない。
2)手術後の痛みは?
 a.麻酔が効いているいるうちは痛みは全くないがきれると痛み出す。そんな経験はないのだが昔なら刀や鉄砲で内蔵が傷ついたようないろいろな所に痛みがあって、身体を動かしたくても痛くてできない状態となるのは想像できる。また、痛くて寝れないことが起こる。
 b.私の場合、痛みは幸いそれほどでもなかった。眼が冴えて夜寝れないことはあるが、痛くて夜寝れないという経験はなかった。当初は痛み止めの「とんぷく」を飲んでいたが、間もなく飲まなくてよいことになった。
3)入院生活で何もすることない等困ったことは?
 a.タブレットをも持ち込んでブログをやっていたので、退屈せずに過ごせた。
 b.環境をより快適にするために空調設備などの改善が必要では。(受講生は、頷いていた。但し、病院経営ということになる)
 c.集団生活なのでやむを得ないが、夜9時(部屋の天井の蛍光灯)消灯というのは、不自由。21時頃寝て23時頃起き、夜中1〜2時頃起きてもその後なかなか寝付けないこと多く、うつろの状態で病院は白山駅に近いから5時過ぎになるとJR越後越後線の電車の音を聞くことあった(新潟から吉田行きが5:05着・吉田から新潟行きが5:42着)。これは誰が・どこが悪いということでなく、あえて「困った」ということ挙げればということで、誰にもどこに居てもある。白山駅に比較的近いことでうるさいと思ったことは一度もなく早朝聞こえて来た方が時間を知らせてくれてよく(ブログできる時刻が近付いた)、またそんなことより便利の方がはるかに重要。
テ院生活での断面
1)大きな声で言えないが、ブログ生活を満喫。
 a.普段から手帳には、タブレットから時々の及び前日のアクセス数を記すのが、暇つぶしで趣味でもあった。
 9月23日(金)入院日は、次の通り。
  9:32‐41、13:03‐67、15:50‐80、17:00‐90、18:00‐102。日計145。ちなみに日計は、前日22日‐155、前々日21日‐142、3日前20日165。24日(土)の日計126。
 25日(手術は26日)から29日まで無記入。30日は13:30‐65、15‐81記入のみで。以降10月4日の11:46‐52(日計149は退院後記入)まで無し。10月7日「Pは断念」とあり14日14:18‐70まで無し(日計152は退院後記入)。16日からは、ほぼ毎日記入。
  【手術後体調不良やタブレット・トラブルがあり、本格稼働は10月17日から。概ね1日午前と午後の2回アクセス数を記入】
b.10月16日からはベッドでの8時の朝食、12時の昼食後はブログに打ち込むのが日課となってきた。
 ァ、ベッド上では、付属のテーブルは高くないし足を伸ばした状態での書き込みは不自由だが、電動リクライニング式で75度まで上げることができるので、何とかなる。
 ィ.朝回診に来られる5人の主治医からも注目。若い紅一点の主治医から「アッ!タブレットですね。どこの製品ですか?」と問われたので「サムスン」と答えると、「爆発しませんか、心配ですねえ」との言。「佐渡広場というブログに興じています」と説明。翌日、「見ましたよ。クラス会の事が書いてありました」。「この病院についての事も書いてありますからよく読んでください。いい事が書いてありますよ。余りいいことばかり書くとグルになっているのではないかと疑われますから、そこはほどほどに。ブログは、どんどん微妙に更新しますから、余裕の時に開いて見てください」
 c.11月3日手持ちのタブレットではPDF(Portable Document Format)が開けないので、2Fへ下りてコイン投入レンタル固定パソコンを50分活用(10分100円)
 d.病床では窮屈だから、談話室数基のテーブルと椅子・テレビ・図書・各種資料・電話ボックス・自動販売機や冷蔵庫・テレビ利用の千円券自動販売機・お知らせ・アンケート箱等あり)へ行き、テーブルの椅子に腰かけて行うことが普通になった。談話室は、オープンスペースで廊下からは屏風のような衝立(ついたて)があるくらいで、ほぼ丸見え。4人収容の病室の一室を公共空間にしたものだろう。
 ァ.概ね11月下旬以降の標準パターンは
 顱烹供В械虻談話室の蛍光灯が点くのでタブレットとケータイと手帳と大学ノートを持って談話室内へ入り8:00前までブログ書き込み。
 髻烹后В娃芦瓩〜12:00前までブログ。途中疲れて部屋に戻り横になる。
 鵝烹隠機В娃虻◆腺隠掘В娃芦瓩までブログが多い。11月から日没が早く12月は17時には部屋が暗くなる。テレビで大相撲九州場所をやっていた。
 イ、私が病室にいないと、看護婦は体温や血圧などの測定のため、主治医は回診のため談話室まで来ることがあった。
 顱紡定は部屋に戻って行う。看護師さんは、作業を中断させることになるため、申し訳なさそうに言ったのに対し、「測定の方が大事、ブログは遊びでそれに比べたらどうでもいいこと。そうでないと罰が当たる」と言ったものだ。当然のことかもしれないが、看護に係わる仕事は何より優先と言えるのは、実際を見ているからだ。
 髻紡牘ヾ峩瓩覆△詁、先生方がお揃いで回診に来たられた時、「悪いところないですね」に対し、「お陰様です。新しい記事のブログに書きましたからご覧になってください」と言ったところ、あるベテラン主治医が、同院のコミュニケーションについて記したのを覚えていて、「上下、左右、先後、斜めからのクイックレスポンス、クイックアクション」と言ってくれたのには驚き。
 書き込みしているところを女性主治医から「今、お仕事中ですね」と声をかけられることがたびたびあったが、そのたびに「価値あることは何もしてなく、単なる個人の趣味・遊び」と断固否定し笑わせた。
 e.特記事項
 ァ.『佐渡広場』の印刷会社からケータイ留守番電話が入っていることに気付き電話すると、佐渡の人から電話で 図書館で『佐渡広場』を閲覧したが1巻から3巻までの本を購入したいとの問い合わせがあり当社は印刷会社なので販売できないことを伝え、私の連絡先を聞かれたがそれはお断りしたとのこと。その事については今入院中で何も回答できない旨を伝えた。
 ィ.筑波大学の学生さんからコメントがあり、卒論のテーマが佐渡の鬼太鼓に関することで、知りたいことがあるのでメールを聞かせてもらいたいとのこと。
  【退院後、ご両人連絡とは連絡が取れている。入院時の偶然の出来事でどうでもよい事柄であるが、個人にとって捨てたものではない事となるのが面白い】
2)入院男性患者の振る舞いから 男は、弱くてだらしない。
 この2ケ月半に2つ病室に寝泊りしたが、驚いたりあきれたリしたことがあった。
 a.腰が90度近くに曲がったお婆さんが、毎日10時から15時くらいまで、80歳に近いお爺さんのお見舞いに 遠くからバスに乗ってやって来た。足は不自由そうであったが、杖を突いているのは見たことなかった。私が居てから2ケ月 子供さんは見舞いに来た様子がないから二人暮しに違いない。いつもナースセンターに元気な声で挨拶し(病室に近く且つ廊下側の部屋にいたから声が聞こえる)、そして時宜を述べて帰って行くから看護師さんには一目置かれていた。ご主人への気遣いが当然ながら声を通しして伝わってくるが、一方ご主人と言えば普段は静かに大人しくしているのに 「それ解ってない」、「もっとああせよ・こうせよ」、「この不器用目が」などなどいつも悪態の数々。その言葉にお婆さんはおそらく当然我慢・辛抱し言いたいように言わせ、応じず。そこは知らない看護師さんは、「お母さんが来るとお顔が(元気に)変わりますね」とからかい元気づけていた。
 その患者は、医師の回診から聞こえてきた事であるが、もう1ヶ月して体力が回復すれば次の手術が受けられることになっている。
 b.同院には」、リハビリテーション科があり理学療法士・作業療法士・言語聴覚士の専門技師がいて、各診療科を横断して 早期離床と社会復帰への支援から終末期患者の残存機能維持と不安や苦痛の改善まで行っている。一般に先生が付いて病室からに出て行うのがリハビリであるが、患者による自主リハビリがあり、また患者の病床でのリハビリ体操がある。現場は見てないが先生が掛け声を出してリズムをとっているのがカーテンで仕切った隣から聞こえたものだ。リハビリのカギは自主トレと言われるように、個々の体力に合った自主トレが奨励されている。
 同室にいるリハビリ中の50代と思われる男性患者の奥さんが、いつもの見舞いに来た時のことである。ある時、「リハビリをした方がいいですよ。一緒に出ませんか」と言ったところ、患者が「お前が外へ出たいから、そう言っているのだろう」との返事。奥さん「早く良くなってもらいたいから言ったのに、何を言うんですか。これじゃあ、病院に来た甲斐がありません」。「普段のお前の行動を見ていると、そう言えるから言ったまでだ」。「人の気持ちも知らないで勝手なことばかり言って、・・・」。
 【ちょっとした言葉から、病室内で夫婦喧嘩。言葉で傷つけあう不幸な夫婦もいる。そもそもの原因は、全く思いやりのない言葉。男は病気になると妻に対し妙に傲慢になる性質があるようだ。トルストイの言葉「幸福な家庭はすべて似ているが、不幸な家庭は皆それぞれに不幸である」を思い出した。そのトルストイ自身82歳になって家出、奥さんは未遂に終わったが自殺を図ろうとした。
 c.60後半と思われる男性患者が入ってきた。手術したばかりのようで、奥さんが付き添い。盛んに尿意がありトイレへ行きたいと盛んに言っている。それは私も経験済で、看護師にそのことを訴えたものだ。トイレが不要な訳は、尿道にカテーテルが全身麻酔中に挿入されていて膀胱に尿は溜まらず、カテーテルを通って排泄され蓄尿バッグに溜まる様になっており、尿をもよおしても膀胱が刺激されているだけで、真の尿意では無いとのこと。我慢するしかないのだが、当人はトイレへ盛んに行きたがり、奥さんに何とかならんか剣幕で、なだめるがやっと。看護師も来て説明したが、その時は大人しく聞いている。いないと、奥さんにあれこれ当りちらした。家へ帰らなければならないと言うと、「帰って何をするんだ。ここに泊まって看病せよ」と文句。「私だって帰ってやるべき事がたくさんあり、ここに泊まってばかりいては身体がもたなくなる」と言っていたがそれに従った。夕食前も夕食後も奥さんに向かって何やら不満をぶつけていた。夜に入って看護師さんが来て主人に向かって、「奥さんが泊まるんですか。私たちが夜中でも看護することになっているのに」と言って戻って行った。その後主人の小言が消え、静かになった。翌日から奥さんの病院泊りはなくなった。

3)備忘
 a.夜11時過ぎまで尻に管を通した治療の翌朝、N医師が早朝回診に来て、「昨夜は遅くまですみませんでした」と言った。別に医師チームの手術ミスからそうなったわけでは何でもないのであるが。
 b.医師は入院患者との接触は、通常は朝の回診のみ。私が最初に検診から始まり手術を決定したⅯ医師は、夕方も診に来ることがよくある。11月23日の17:30頃誰もいない談話室でブログ書きに興じていた時、回診にきた。その日は「勤労感謝の日」なのに。私の病状はここまで来れば特に悪いところはないと思うが、油断せず念のための確認目的もあろう。その頃の第一声は、私を見て「お元気そうですね」。
 それと関連して同室の患者にリハビリに毎日来ている先生が、ある時患者に「明日から一週間休み(多分「遅ればせながら、夏休み」と言っていた)を頂いていまして暫くいなくなりますが、代わりの者が来て同じように行いますので、よろしくお願いします」と言っているのが聞こえた。その時、勤労感謝の日とかけてゆっくり休まれると思った。
 c.痛みとの闘い
  (資料:「痛み止めの薬の知識Q&A」(国立がん研究センター「がん情報サービス」サイト)
  病室は消化器外科の病棟にあり、入った部屋は4人部屋。カーテンで仕切られ、真ん中にベッド・付属」テーブル、一方のサイドは、冷蔵庫、その上に引出し・テレビ、くくり付けの背の高い衣類・履物等収納ケース。消化器外科 といっても 食道、胃、大腸、肝臓・胆嚢〔たんのう〕・膵臓〔すいぞう〕に分かれるが部屋もそれぞれに分かれているのでなく、消化器外科として患者を収容。例えば大腸がんの患者ばかりの部屋でなく、あえて消化器科内のいろいろ分野の患者に分散させているのでないかと推測される。      
  【ある部門のチーム(どの分野か不詳)】

  毎朝 朝食時の8時前後に特定患者の回診に4,5人で訪れる。看護師の定時測定もそうだが、その場合決まって「痛みはどうですか?」と声をかける。「通じは?」「食事は?」「吐き気は?」もあり、具合を聞き元気づけて帰る。
 ァ.痛みを数値で表現している。患者は、2くらいとか、5とか、7〜8とかと数字で答える。
  顱烹亜腺隠阿泙任△蝓■亜痛み無し、1〜3:軽い痛み、4〜6:中程度・かなり痛い、7〜9:非常に痛い、10:耐えられないくらい痛い。
 ィ.痛みが下がれば喜び、中程度以上に上れば箇所・症状の程度・急にか徐々にであったかかをより具体的に聞き、また中程度以上がいつまでも変わらなければ対策を考え出さなければならないだろう。
 ゥ.どんな薬もそうだが副作用がある。痛みの段階に応じた薬があり、しかし患者によって適量・適不適があり、そこを間違えれば病状を悪化させる。
   第1段階‐弱い痛みの薬:代表例アスピリン
   第2段階‐強い痛みの薬: 〃  コデイン
   第3段階‐耐えられない痛み〃 : 〃 モルヒネ
 顱膨砲濟澆疚瑤良作用:第1段階の薬は胃腸障害、第2段階の薬は便秘、第3段階な薬は、便秘(使っているほとんどの患者がなる)・吐き気・眠気が起こりやすい。
 髻防村爾如崢未犬蓮」と聞いていたのは、「大腸」患者へは当然だが、大腸に限らず他の分野第で第大2・第3段階の薬の患者にも必須。
 鵝某事中食べ物を吐くのは普通の人でもあるが、食事とは違う時間帯にも吐く人が人がいた。必ずしも胃の中の食べ物を吐き出すのとは違うようだ。その場合は連続音。そういった表現があるかどうかわからないが、「咳き込む」ならぬ「吐き込む」。何も吐き出していない。また、食べ物だけでなく、薬を飲んで吐き出したり吐き込んだような音も聞こえた。
 ェ.ある時医師が、患者が飲みやすいよう飴玉のように舐(な)めれば効く薬を選んで与えた。ところが、「舐める」と言ったのに当人はうっかり飲み込んでしまった。しばらくすると激しく吐き込む音が聞こえた。その際、薬を吐き出したかもしれない。
 顱亡慙△靴銅,里茲Δ別瑤發△襦「オキシコンチン錠は体に入ってから腸の中で徐々に溶ける徐放剤です。かみ砕いたり、つぶしたりしてのむと薬が急激に吸収され、思わぬ副作用が出ることがあります。危険ですので絶対におやめください」。必ず服用法を確認してから飲む。

 髻忙温諭第3段階強い薬の形・効き始め時間等一覧
薬の成分   薬の形  薬の名前     効き始め迄時間 効き目継続時間
モルヒネ   粉薬   モルヒネ粉薬      10分        約4時間
         水薬   オゾン内服液       〃           〃
         錠剤   MSコンチン錠    1.5〜2時間    8〜12時間
        カプセル  MSツロイスロン錠    〃           〃    
         細粒   モルペス細粒       〃           〃 
         顆粒  カディアンスティック  1〜2時間       24時間
         坐剤   マンベック坐剤     約30分       8〜12時間
オキシコドン 錠剤  オキシコンチン錠    1時間以内      12時間
フェンタニル 貼り薬 デュロテップパッチ  12〜48時間      72時間
  a)痛みを止める「飲み薬」が使えなければ、尻から入れる「坐剤」、それが使えなければ「貼り薬」、更には「持続皮下注射」という方法がある。「これは細い注射用の針を体の表面に刺し、その針と細い管でつないだ携帯用のポンプから24時間、少しずつ痛み止めの薬を体の中に入れる方法です」

  b)痛み止め薬には、効き目が早く現れるが短時間しかもたないものと、効き始めに長時間要すが、効き出せば3日も続くものがある。
  c)モルヒネについて、「医師が決めた量と時間を守ってモルヒネを使っていれば、中毒になったり、癖になったりすることはありません」「覚せい剤、ヘロイン、マリファナ(大麻)やLSDを使うと、幻覚や妄想があらわれたり、依存性が強いためにやめることができなくなるだけでなく、人格が変わってしまうなどの精神障害を引き起こします。やめることができた場合にも、精神や体に障害が残ることがあります。これらの乱用薬物は医薬品ではなく、痛みの治療に用いられるモルヒネとはまったく関係のないものです」
  【私の全身麻酔の手術には、当然モルヒネが使われていたことだろう】

  【坐剤については、退院後に知った。同室に坐剤の患者さんがいたと思う。声だけであるが、ある時看護師さんが確か「お尻の中に注射します」(あるいは、「お尻に薬を入れます」だったかもしれない)と言っていたので、おやっと思った。「お尻に注射します」ならば何でもないのに 聞き耳を立てたほど刺激を受けたから間違いない】

 ォ.痛みがいつまで経っても下がらなかったり、ひどくなったりした場合、担当医は対策・処方を考え出さなければならない。
  顱北瑤領未鯀やす、服用法を変える、薬を変える等。目標を決め、実施する。
  第1目標:夜間ぐっすり眠ることができるようになる(痛くて目が覚めることがない状態)
  第2目標:静かにしていれば、痛くないようになる(テレビを見ていて笑ったりできるし、クシャミや咳をしたとき、大して痛くない状態)
  第3目標:歩いたり、体を動かしたりしても、痛くない(痛みがなく、普通の社会生活ができる状態)
  髻紡慮魁О綮佞、患者に薬に関しいろいろ話をし了解を求めているのが聞こえて来た。間違った表現をしているかもしれないが、例えばこんなふうであった。
  a)「Aさん、薬を増量しましたので痛みはとれるでしょう。それで変わらないようでしたらいつでも看護師に伝えてください」
  b)「今日からもっと強い薬で試してみます。副作用は多少あっても今のBさんの体力なら大丈夫。4〜5日それでやってみましょう」
  c)「薬をもう1種増やします。飲みにくい薬ですが、Cさんと同じ症状の患者さんに効果があることが実証されています」
  d)「D先生とも相談し、Eさんにはこれの方がいいという薬の調合を新たに決めました。明日からそれに変えてみます。痛みは、改善されるでしょう」
  e)「Fさん、ここ3日が勝負どころです。その間辛抱し頑張ってください」
 d.印象に残る医師・看護師の言葉・行為
 ァ.「おはようございます。昨日の血液検査結果はすべて良好でした。明日から点滴を外します。退院は近いうちにできそうです」(患者の知りたい・聞きたいことをタイミングよく、関連づけて伝えている)
 ィ.(人口肛門から下痢による)水便が続けて出ていることに対して、「心配いりません。このところ体温がずっと安定して低い状態ですから」(心配無用より常に患者の体温の動きを診ていること)
 ゥ.(夜になって体温・血圧を測りに来た看護師に尻から何か漏れている気がするとの問いかけに対し)「お尻から先に看ましょう。反対側に向かって真横になって下さい。お尻の中が見えるようにぐっと上げるようにして下さい。特に異常はありません。(尿取り)パットと紙おむつにも特に汚れはありませんし、取替の必要もありません。気のせいでよかったですね。どうぞ安心してお休みください」
 ェ.(3日に一度の人工肛門の交換実習訓練にて)「器用ですね(パウチの剝し・円型ハサミの使い方・アダプトの切り方等」「知恵がありますね(ストーマの下部へのパウダーのつけ方:他の看護師から教えてもらっていた。そういうことも知っていたはずだが)」「すごい自主性のある方ですね(基本的には家族を手かけず自分ひとりで全てできることを目指すとは言っていた)」。
 【誰が見ても器用でも知恵者でもなくその反対で家族はじめ当人自体そのように思っているのだが。「ダメね」「足りないね」「無理かもね」等のマイナス言葉は一切なかった。これも技術のうちと言えば、実は大変重要な技術。おだてに乗せられながら徐々に熟練を要す作業ができるようになってきたというのが実態。】
 ォ.私が試みたパウチが交換日の前日夜に漏れ後日再挑戦で交換した日の夜、当日夜担当の看護師が最後の体温・血圧の測定に来た。
 「今日は交換の日だったようですね。お腹見せて下さい。(いつものように外から見えないようにカーテンを閉め、パウチの中に入っている便を見て)便が硬く色もよく いい便してますね。(パウチ)周辺、しっかり貼られています。上手ですね。これなら、安心してお休みになれます」
 【当人は、パウチ交換に立ち会っていないのに今迄の件を知り、定例業務だけにすませず、そこまでの点検・看護を自主的に実施】

Δ泙箸
 まだ完治したわけでないのに結論づけるのは早計としても、世に多く宣伝・紹介されている最高の医療とは何かは知る由もなく論じてもはじまらないが(いろいろ調べはしたが、あっても月並みな抽象表現が目に付き、具体的にこれというものは見当たらなかった)、一患者から見て多分最高に近い治療・看護の医療現場に触れたことは貴重な経験であった。最高の医療設備・技術が、最高の医療でないと間違いなく断言できる。個々の患者・その家族にとってそれはどうでもよいことである。言葉・日常的行為が、治療以上の効果を及ぼすことは大いにある。
 以上


   



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