佐渡広場

佐渡をコンセプトとし、貴重で、面白い、懐かしい、元気が湧く情報集になることを目指しています。

係わりの地105:近江今津(滋賀県高島市)

 こんにちは!自在業の櫻井です。
 今回5泊6日の近畿・山陽山陰旅行最終地は、近江今津。
1.はじめに
‖膤1年時在籍した法学部6組(J6)クラス会出席のため。従来は毎年1月は東京、4月は京都で日帰りであったが、前年新たに「J6in函館山山荘」が出来、今回私は初めて。
 会場は、近年A君(京都市在住)が購入した別荘で、琵琶湖や伊吹山などが眺望できる函館山(標高600m)スキー場にも近い別荘団地の一画。
 アクセスは、電車でもマイカーでもJR今津近江駅が要所。
 佐度とは、直接関係があった地ではないと思われるが、わずかな間接情報の中で どこまで体系的に整理できるかが課題。
 
2.内容
(1)旅程
11月25日(土):JR快速敦賀行き大津京発14:57・近江今津15:35着。タクシーで別荘。
 本来ならそこでみんなと一緒に宿泊だが、私の場合手術退院後2ヶ月余りしかなく体調に不安があり、万が一迷惑をかけることを心配し、駅近くの旅館を事前に予約し宿泊。
 11月26日(日):旅館前の海岸散歩、タクシーで今津港経由、近江今津駅着。姫路行き新快速近江今津発9:07・京都着9:55、大阪(伊丹)空港行きリムジンバス京都八条口発10:35・伊丹空港着11:20、伊丹空港発12:20・新潟空港着13:20。
(2)近江今津
 近江今津は琵琶湖の西北に位置。当駅で下車すると、ひんやりした感じが心地よかった。大津から40分ほどの北上で温度差を感じたのは、不思議であった。どこからか「琵琶湖周航の歌」のメロディーが流れてきた。なるほどと気が付き 思い出した。歌詞の中に
 「波のまにまに 漂えば 赤い泊火 懐かしみ
  行方定めぬ 波枕 今日は今津か 長浜か」 
とある。
 〔駅構内に観光マップのポスターを見ると、今津の向かいの沖にある竹生島を間にした対岸は、長浜。歌について、これまでカラオケに行けば決まって調子に乗ってそれを歌うだけであったが、今になって初めて意味が分かった〕

 近くのコンビニで日本酒・つまみ類を購入し、タクシーで別荘のある梅原団地へ向かった。
 別荘からは琵琶湖・竹生島・伊吹山が眺望でき、今なら暗くなってないから写真が撮れることに安心し大いに期待。だが、近づくにつれ別荘は函館山の山頂近くでなく山麓と判った。もっとも、標高600mもある山頂に別荘があるわけなく勝手な勘違い。道路を上るにつれ「〇番通り」表示の番数が増え、左右に小路があって少し入ると山側と湖側に2階建別荘がゆったりとしたスペースを保ち、並んでいる。事前にメールで教えてもらった道順を運転手に伝え、順当に辿って16:30頃「函館山山荘」に着いた。
(3)J6in函館山山荘

 贖罪

 某女性代議士の不倫問題→主婦のやっかみ・マスコミの取り上げ・騒ぎ過ぎ→フランスでは議員の不倫などは問題にならない(本人はフランスから年金を貰っている)→中国のエリートたちは自国内で好きなことは一切言えず、日本に観光を含め来ることが抑圧・不満のはけ口となっているキライあり〔成程、親日を敵視し国家間の合意を反故にしようする韓国政府であるが、韓国人観光客もここは同じ。〕
 一人独裁の習体制はいずれ崩壊し、諸民族の独立運動が各地に起こり、分裂状態になる可能性もある。

 


 琵琶湖湖畔の光景
DSC00225
 遠くに見えるのが、竹生島。
近江今津港
DSC00228
 竹生島定期遊覧船が午前・午後それぞれ2回、計4回出ている。

  今津について「紀行写真」サイト(旧若狭街道 ぶらり徒歩の旅)には、近世までは若狭の小浜に陸揚げされた米や海産物は陸路を辿り、ここ今津で再び船に積み、大津へ運んだ。塩を腹に詰めた生鯖〔サバ〕などは陸路で、小浜⇀今津⇀保阪(ほうさか)⇀朽木(くつき)⇀大原⇀京都が鯖街道と言う」旨のことが記されている
 なお、小浜・鯖街道について、係わりの地:若狭・小浜と佐渡」に記述。

 1813年(文化10)『海陸道順達日記』(佐渡廻船商人の西国見聞記)より
 5月5日敦賀を出発し京都へ向かう。
 「ここに上方と江戸との追分あり。某〔3人〕共は、やはり上方道、都路さして海津道之方へかかりまいりし処、程なく疋田(ひきた)と申駅(しゅく)え出でけり。折しも、けふは五月之五日なりければ、何国(いずく)も男の節句とて、時分之国にあるならば上下(かみしも:裃)を着し、諸礼御祝儀をも説(悦)し可申に、他び(旅)はういもの道中をぞ致すとて、つぶやくつびやきここに成る茶店にやすみけり。折節、今日之殊(こと)なれば、勝手もいそがしげにぞ見えけり。則御酒差出だされしを、其等盃をとりて、先ず節句之御祝儀をぞ致しけり。ここなる御袋〔多分、おふくろ:女将〕口の出で給ひて申せしは、旅衆方是を御あがり遊ばしとて、いま珍敷きちまきをぞ出だしけり。某をはじめ何れも是をせいくわん(賞玩)せしとなり。時々道中馬方の通りけるを見て、節句之説(悦)しい・・・、旅人筆をとり発句しけるは、
  旅の空に駒を引(疋)田のちまきかな  皐月 」
 「・・・海津へ出申候。・・・チナイ(知内)村と申す所・・・此処にチナイ川と云あり。かたわら街道之きしに茶店あり。各暫〔しばら〕くここに足を休すめ、幸ひ此村には水海〔湖〕より取上げたる鯉の魚あり。其魚をあまた箱ぶねに生き乍ら、其チナイ川にいけてつけ置けれ。・・・1匁6分を出し、相応の鯉を買ひもとめて、則此茶店に相頼み是をあら汁にぞいたし、各々はじめて鯉の魚をぞ給(た)べけり。其味ひたら(鱈)の如くにして、少しうまみあり。またかる(軽)ふしてぜいひん(上品)の魚なりとぞ思われけり。夫より暫く道中しければ、無程両慶村」と申へ掛りて、夫れより今津と申す駅あり。此処へ着岸す。」
 【参考:上の文から、前号により琵琶湖のシジミが環境汚染で激減していると同様、琵琶湖の鯉は聞いた事ないから居なくなってしまったか、少なくても工場や世帯数の多い琵琶湖南部にはいないという仮定の検証のため、以下調べた。
 a、ウィキペディア
 ァ、コイは、比較的流れが緩やかな川や池、沼、湖、用水路などにも広く生息する淡水魚である。
 ィ、食性は雑食性で、水草、貝類、ミミズ、昆虫類、甲殻類、カエル、他の魚の卵や小魚など、口に入るものならたいていなんでも食べる。
 ゥ、生命力は強く魚にしては長寿の部類、平均20年以上でまれに70年を超す個体もある。長寿のほか、汚れた水にも対応する環境適応能力あり、水から上げてしばらく水のないところで置いていても、他の魚に比べ長時間生きられるようである。
 ェ、コイは大昔に中国から移入された「史前帰化動物」とされたこともあったが、琵琶湖など各地に野生のコイが分布し、第三紀の地層から化石も発見されていることから、古来日本に自然分布していたとされる。

 ォ、コイによる生態系の破壊問題もある。一般には「コイが棲めるほどきれいな水域」という安直な趣旨で自治体レベルで川やダムなどに放流されることが多いが、という単純な見方への否定説あり。
 「コイはもともとBOD値の高い湖沼や河川を好んで住処とする種で、低酸素環境に対する高い耐性がある。これは、生物界における一般的な基準からすると、他の生物の嫌う水質の悪い水域にしか生息できないことを意味する。実際、逆に水質がよい小川の堰の内部に放流したニシキゴイが餌の問題から大量に餓死する例も報告]されており、「コイが棲める=きれいな水域」という図式は成立し得ないことがわかる」
 ヵ、 食材としての鯉は、福島県からの出荷量が最多〔福島民報サイト18.1.13日によれば17年は本県養殖鯉の出荷量が700トンに激減し2位に転落。原発事故の風評被害も依存としてある〕。
 鯉こく(血抜きをしない味噌仕立ての汁)、うま煮(切り身を砂糖醤油で甘辛く煮付けたもの)、甘露煮にする。
 顱乏いら離れた地域では古くから貴重な動物性タンパク源として重用。山間部で冬は雪で覆われる上杉藩(山形県米沢市)上杉鷹山〔1751〜1822〕は1802年に相馬(福島県)から鯉の稚魚を取り寄せ、鯉を飼うことを奨励。各家庭の台所排水用の小さな溜め場で台所から出る米粒や野菜の切れ端を餌にして蓄養。現在の養殖では、主に農業用の溜め池が利用されるほか、長野県佐久地域では稲作用水田も利用されている。
 髻鵬馗堵諭癖‥膰会津若松市)も同じ。会津で鯉がよく食べるようになったのは、会津藩家老の田中玄宰が1787年天明の大飢饉対策がきっかけ。各家庭にある庭に池を作り、鯉を飼うことを推奨。何かあったとき鯉を食すようにした(資料:「電車で会津の旅」サイト)。
 鵝妨駑鼠を初めて食べたのは30年前 福島県会津の隣 新潟県旧村松町。そこは、村松藩が置かれ、村松城が花見で有名。海の魚しか殆ど食べてこなかった者にとって淡水の魚に若干の違和感があった。
 ㇰ、食生活の変化から需要の減少と共に全国の生産額は年々減少し、1998年3億6000万円が2008年1億5000万円に減
 b、「空中写真のすき間」HPの「コイ在来型(琵琶湖)」
 ァ、日本には在来のコイもいますが、コイ外来種の侵入により交雑が進み、いまや純系の在来コイは琵琶
湖、霞ヶ浦、児島湾、四万十川など大規模水塊に限定的に残存するのみとされています。このことが判明したのは比較的最近のことです。2003年頃からコイヘルペスによるコイの斃死が問題となりましたが、この際の調査により、在来コイと外来コイがいることが明らかになりました。
 ィ、コイ在来型は、長期間飼育しても警戒心は強い。人が飼育池を覗き込むと一斉に口を開けて近づいて来るが、餌をあげないと1分ほどで陰に隠れて出てこなくなる(滋賀県水産試験場私信)。深くて広い琵琶湖では、こうした警戒心の強さにより外来型と棲み分け、交雑を免れてきたのかもしれない。
 c、琵琶湖の鯉が少なくなっているのは事実のようだが、鯉の漁師もいるし、大津や草津などの南岸では鯉釣りの場所取り(釣り竿を6本も垂らすことを含む)や通行によって釣りが邪魔されることへの脅迫が問題になるなど、鯉が多く釣れること、釣り人が多くいることを物語っている。さらには、鯉料理のフルコースを出す旅館もある。】
 (参考は、以上)

 「此湖の古歌に、さざなみや玉もに遊ぶ鳰〔にお:カイツブリ〕の海の 霞のひまははる風ぞふく
 右海津之駅より今津迄道のり3里〔12km〕。今宵此処にとまりけり。今日の道のり凡10里〔40Km〕余有之。宿今津之駅油屋八兵衛。・・・さて、海津より今津迄行く間に、此のみずう海の沖の方に竹生嶋見へて見事にてぞありけり」



3.まとめ

係わりの地104:大津(滋賀県)

 こんにちは!自在業の櫻井です。 
 近畿・山陽山陰の旅 7番目の訪問地は、大津。
 11月25日(土)大津市までの旅程は、次のとおり。
 鳥取行き快速大田市発07:06 米子着08:25、岡山行特急やくも米子発09:22・岡山着11:38、山陽新幹線岡山発12:16・京都着13:16、湖西線京都発13:41・大津京駅着13:56。

1.なぜ大津か?
➀旅行は、大学時代3〜4年のゼミ会(11/21)と1年のクラス会が、それぞれ京都と近江今津で開催ということによる。
往復飛行機で行き21日(火)新潟発伊丹着11;10、帰り26日(日)伊丹発12:30(以降の便取れず)。その間をどう過ごすか、いろいろ選択肢はあった。
26日午前がすき間。活かすには、宿泊地の近江今津か伊丹空港に近い場所が時間的に安心。その中で、大津も閃いた。佐渡との関係?
1)新穂の日枝神社・4月14日山王祭りとご縁のある日吉大社は坂本(大津市)。大社は日吉訪問済み。大社の山王祭4月14日には御神輿幸行があり坂本の湖岸で船に乗せ船渡御を行う場所はどうかと思った。
2)他には、足利政権の時 新穂にある荘園を園城寺に寄進したという史実を思い出し、園城寺はどこかウェブ地図で調べた。すると、意外にも琵琶湖の近くにあり、大津港があり、琵琶湖疏水の取水口が近くにあることがわかった。
3)アクセスは、JR大津京駅から近い。それで決定。
 なお、大津は旅行最終日26日8〜9時前までを予定していたが、境港訪問が1日早くなった分 余裕ができ、25日に行ってしまおうということにした。
 追記:「真野」の地名は、大津と佐度にしかない。
 
2.内容
 大津京駅で降り、駅前でタクシーを拾って運転手に行き先3ヶ所を告げ、順路はお任せすると言った。
 ̄狆觧(三井寺)
  山門前の大きな石碑は「園城寺」、山門に吊り下げられた提灯は「三井寺」。
  観光客も観光バスもそれなりにいた。
  境内に入ってないが、外観からは堂々としていて歴史と風格ある寺院との印象を感じさせた。
  タクシー運転手さんいうには、秋の紅葉よりも春の桜の方が有名とのこと。
園城寺
1)園城寺(=三井寺)(資料:ウィキペディア)
 a、天台寺門宗の総本山。妙法蓮華経を根本経典とする。山号:「長等山(ながらさん)」。開基(創立者):大友与多王、本尊:弥勒菩薩。
  ァ、高祖は中国南北朝時代から隋の時代の天台大師智據538〜597)、宗祖は平安時代の第5代天台座主の智証大師円珍(814〜891)。
 【参考】
  顱法崚径翅膸嫦哄據廖天台宗は、中国から伝教大師最澄によって伝えられ、比叡山延暦寺を総本山として日本中に広がりました。この中国天台宗の開祖が、隋代第一の学匠、高僧として知られる「天台大師智據廚任后E径翅膸佞蓮天台山(淅江省)の最高峰「華頂峰」で修行を積まれ、法華経の教理を学び、悟りへと至る実践行を完成され、この教観二門を兼備した総合的な教え「天台宗」を確立されました。
隋の煬帝は、ことに天台大師に帰依され、「智者大師」の称号を贈りました。ここから天台では、「高祖天台智者大師」と尊称し、一般には「天台大師」とお呼びしています。」(「天台寺門宗」サイト)
  髻法崔匸畋膸娜瀋繊廖845年役行者の後を慕い、修験道の発展に寄与。846年延暦寺の学頭となる。853年新羅商人の船で入唐、途中暴風に遭い台湾に漂着。858年唐商人の船で帰国。その後、比叡山の山王院に住し、868年延暦寺第5代座主となり園城寺(三井寺)を賜り、伝法灌頂の道場とした。後に、比叡山を山門派が占拠したため、園城寺は寺門派の拠点となる。
  鵝法峪殻臟匹隼門派」:天台宗の2派。比叡山延暦寺の天台座主3世円仁と,5世円珍との仏教解釈の相違からその末流が対立,993年円仁派が比叡山の円珍派坊舎を焼き払ったため,円珍門流は山を下り園城寺に入って独立,寺門派となり,円仁門流は延暦寺に拠って山門派と称した
(以上、ウィキペディア)
 (参考は以上)
  ィ、観音堂は西国三十三所観音霊場の第14番札所。近江八景の1つ「三井の晩鐘」でも知られる。
 b、三井寺の起源についての伝承。
  ァ、大津京を造営した天智天皇〔626〜672〕は、念持仏の弥勒菩薩像を本尊とする寺を建立しようとしていたが、生前にはその志を果たせなかった。天皇の子の大友皇子(弘文天皇)も壬申の乱〔672年〕で25歳で没している。大友皇子の子の大友与多王は、父の菩提のため天智天皇所持の弥勒像を本尊とする寺の建立を発願。壬申の乱で大友皇子と敵対していた天武天皇は朱鳥元年(686年)この寺の建立を許可し「園城寺」の寺号を与えた。
 「園城」という寺号は、大友与多王が自分の「荘園城邑」(「田畑屋敷」)を投げ打って一寺を建立しようとする志に感じて名付けたものという。
 「三井寺」の通称は、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから「御井」(みい)の寺と言われていたものが転じて三井寺となったという。
 現在の三井寺には創建時に遡る遺物はほとんど残っていないが、、金堂付近から奈良時代前期に遡る古瓦が出土。大友氏と寺との関係も史料から裏付けられることから、以上の草創伝承は単なる伝説ではなく、
ある程度史実を反映したものと見られている。
 c、三井寺は平安時代以降、皇室、貴族、武家などの幅広い信仰を集めて栄えたが、10世紀頃から比叡山延暦寺との対立抗争が激化し、比叡山の宗徒によって三井寺が焼き討ちされることが史上度々あった。近世には豊臣秀吉によって〔理由諸説あり〕寺領を没収され、廃寺同然となったこともある〔秀吉は自らの死の直前に三井寺の再興を許可〕。こうした苦難を乗り越えその都度再興されてきたことから、三井寺は「不死鳥の寺」と称されている。
2)佐渡との関係
 a、古文書
  ァ、天台寺門宗「歴史・年表」より:「1344年(康永3:興国 5)11月16日、佐渡の数庄を園城寺に寄す(後鑑二六)」。   

  ィ、「新潟県立図書館・越後佐渡デジタルライブラリー」サイトより:1344年康永3興国5「足利尊氏,佐渡の青木保などを園城寺に寄進する[(5)4204」
  ゥ、あるブログに、「康永3年(1344)、足利尊氏は佐渡国のうち、青木、大野、加茂、梅津、津浦、浦川の地を近江園城寺に寄進している。そのことからすると、鎌倉幕府の滅亡とともに、渋谷氏も没落してしまったものと思われる」とあり。青木に限らず、具体的地名がいくつかあるのは参考になるが、出典欠如は致命的で、要確認。
 b、園城寺への領地寄進の意味
  ァ、南北朝の内乱時代、園城寺は足利尊氏側に立った。
  顱紡臘纏堽鮖貿酳館サイト「企画展‐南北朝内乱と大津市」より:「後醍醐天皇は、天皇親政をめざして鎌倉幕府を倒し、建武新政」「その政策に反発した足利尊氏が、北朝の天皇を奉じて室町幕府を開き、各地の武士たちは南北両朝に分かれて、全国的な戦乱となった」「戦いは、主として京都の争奪をめぐって展開され、隣接する大津はながくその戦場・・・延暦寺(後醍醐天皇方)と園城寺(足利尊氏方)という経済・軍事力を備えた大寺院が、両朝の軍事拠点の一つとなった」「源氏ゆかりの寺院として足利氏が崇拝した園城寺には、足利氏が事あるごとに軍事的要衝「勢多橋」の警固を命じた古文書や、足利尊氏発願の「大蔵経」などが伝来」
  髻冒扱如嵶鮖法η表」より
   1336年;1月16日、園城寺衆徒、足利氏に応じ、北畠顕家新田義貞の二軍と戦い、義貞に破られ、山徒に焼かれる(続史二〇、三井九、寺撮六、他)11月26日、尊氏、石見、安芸、美作の地を園城寺に寄す(三井九)
   1337年;2月4日、尊氏、園城寺衆徒の与力をたたえて、造営料として近江山賀庄を寄す(三井九)。
   1343年:8月10日、園城寺衆徒、幕府の命を受けて、勢多橋を警固す(天野文書)。
   1344年:11月16日、佐渡の数庄を園城寺に寄す(後鑑二六)。
  ィ、足利政権・室町幕府の確立に軍事面、当然資金面でも貢献した園城寺が、佐渡のいくつかの荘園を寄進されたが、、佐渡の波紋についての一端 『佐渡 安照寺史』(梶井照雄/著)より。
 1221年承久の乱後佐渡は鎌倉幕府(北条氏)の支配下におかれ相模から守護代の本間氏を中核とする他3人の地頭(藍原氏・渋谷氏・土屋氏)が赴任・定住し、島内各地を統治。その後、北条氏が滅び足利氏の時代となる。「康永3年(1344)足利尊氏は、佐渡国のうち賀茂、梅津、津浦、浦川、青木、大野の地頭職(年貢米などの得分を認められた土地)を近江の園城寺に寄進しています。(園城寺文書)この園城寺への寄進は飛騨国の所領の替地〔かえち〕として与えられたものでした。・・・園城寺に寄進されたことにより両津湾北部の北条氏側の港が取り上げられることになります。こうして、足利尊氏によって力を失った渋谷氏は、これを機に後退し、代わって国中〔くになか〕から本間氏が進出するきっかけとなります」
 c、単なる偶然と思うが 「真野(まの)」の地名・町名は、佐渡と大津にしかない。
  (詳細は、係わりの地74:比叡山延暦寺:東塔・南光坊」)
  大津の真野は、旧滋賀郡真野村で、古代に真野臣(おみ)が当地を支配。古くから「真野の入江」と呼ばれ、詩枕として知られた。

  「うづらなく真野の入江の浜風に尾花波よる秋の夕暮れ」(源俊頼〔1055〜1129〕、金葉和歌集巻3)
   〔金葉和歌集は、平安後期1124年に完成された勅撰和歌集〕
 1221年承久の乱で鎌倉幕府より佐渡へ流された順徳上皇〔1197〜1242〕が佐渡で詠んだ歌、
   「思いきや雲の上をば余所に見て真野の入江に朽ちはてんとは」
琵琶湖疏水
 運転手さんが、絶好の場所へ。車をつけてくれた。
 橋からは琵琶湖が見え、反対側には京都に貫けるトンネルが見えた。
 毎年桜の時期になると、ここから水路・トンネルを通って京都・蹴上〔けあげ〕に至る舟が出るとのこと。このことは、初めて知った。
疏水取水口琵琶湖疏水
  (疏水取水口)             (疏水水路)
1)16年05月15日号「係わりの地93:京都(姉小路・三条通り・蹴上)」に「琵琶湖疏水」について、次のように記していた。
 a、琵琶湖疏水〔水路〕は、第1疏水(琵琶湖(大津市)⇀蹴上⇀鴨川と疏水分線(蹴上⇀南禅寺⇀北白川⇀一乗寺⇀下鴨⇀堀川:1890年完成)と第2疏水(電灯や工場動力の急速な普及への対応と、市中の衛生状態の悪化で伝染病が頻発し上下水道の整備も急務となった。第2疏水は、第1と並行してあるが、ほとんどがトンネル。
琵琶湖から蹴上て第1疏水と合流、発電と上水道用に分水。1912年完成)総称。
 b、水運は、琵琶湖と京都、京都と伏見宇治川を結んだ。落差の大きい蹴上と伏見にはケーブルカーと同じ原理のインクラインが設置され、船は線路上の台車に載せて移動。かつて線路は水中に水平にも据え付けられた。
2)
橋のたもとにあった案内表示
  「琵琶湖疏水は、大津市美保が関で取水し、三井寺の山下を通り、京都市蹴上へと流れる人工の水路です。延長は約9キロメートル。京都の飲料水、発電、物資輸送、農業用水など多目的利用のために立案されました。
 第1疏水は明治18年(1885)、青年技師田邉朔郎の指導のもとに着工、同23年に開通。第2疏水は明治45年(1912)に完成。
 工事は、国家的レベルの事業であったことを示すように隧道の名洞門には伊藤博文を始めとする著名人が揮毫した扁額が掲げられています。
 桜シーズンに見られる水と桜による美しい風景が評判です。
     大津まちなか元気回復委員会  」  
 なお、琵琶湖疏水取水口に関心を持ったのは、前年京都・蹴上へ寄ったことで琵琶湖疏水について記事にしたからである。
  (16年05月15日号係わりの地93:京都(姉小路・三条通り・蹴上)」)
B臘店
  琵琶湖を近くまで行って見たのは、前年彦根で泊まった際で同じく遊覧船がいた。
   (係わりの地94:彦根(滋賀県)」)
    ちょうど遊覧船が着岸し、小学生が下りてきた。船名は「うみのこ」。書き込みながら、普通の客船とは、又チャーター船でもなく少し違うと思って調べると、次の記事と出合った。
 「1983年に・・・滋賀県が小学生の学校教育の一環として建造した琵琶湖の湖水専用客船で、滋賀県の小学校5年生がほぼ全員参加する基本一泊二日の研修航海を行います。大人の乗船は原則として出来ないそうです」。

大津港
1)概要
 かつては琵琶湖湖上水運の拠点として栄えた。鉄道網の整備に伴い斜陽となった後は、遊覧船の発着拠点となっているほか、官公庁などが運航する各船の拠点にもなっている。また、併設のマリーナや公園として整備された緑地など、多用途のレジャーに利用されている。

施設は滋賀県が管理しているが、港湾施設などは琵琶湖汽船が、マリーナは関西メンテナンス滋賀が指定管理者となっている。
2)歴史

 a、古代 - 大津京の主要港として整備され、湖上運送の拠点になる。

  《参考》大津京(近江大津宮) (ウィキペディァ)
  ァ、概要:近江大津宮(おうみおおつのみや)は、飛鳥時代に天智天皇が近江国滋賀郡に営んだ都。天智天皇6年(667年)に飛鳥から近江に遷都した天智天皇はこの宮で正式に即位し、近江令や庚午年籍など律令制の基礎となる施策を実行。天皇崩後に朝廷の首班となった大友皇子(弘文天皇)は天武天皇元年(672年)の壬申の乱で大海人皇子に敗れたため、5年余りで廃都となった。
 1974年以来の発掘調査で、滋賀県大津市錦織の住宅地で宮の一部遺構が確認され、「近江大津宮錦織遺跡」として国の史跡に指定されている。
  ィ、大津京史
  顱貿愀

   斉明天皇6年(660年)百済が新羅と唐に攻められて亡ぶ。倭国(後の日本)にとり百済は同盟国で国外にある防波堤でもあり、当時の倭国の政治指導者・中大兄皇子(後の天智天皇)は、百済復興を支援しようと朝鮮半島へ出兵。しかし、天智天皇2年(663年)白村江の戦いで倭・百済連合軍は唐・新羅連合軍に惨敗、百済復興に失敗。国外に脅威を抱え、そのため北部九州から瀬戸内海沿岸にかけ多数の朝鮮式山城や連絡施設を築く共に大宰府に水城という防衛施設を設置、防備を固めた。
   髻遷都

    以上の状況下で、天智天皇6年(667年)中大兄皇子は都を近江大津へ遷した。翌年1月、称制(しょうせい:君主死後次の君主が即位せず政務を執ること)7年にわたったが、中大兄皇子は即位し天智天皇となった。日本で最初の律令法典となる近江令(おうみりょう)が制定されたといわれる。 なお、遷都理由はよく判っていないが、国外の脅威に対抗しうる政治体制を構築するため抵抗勢力の多い飛鳥からは遠い大津を選んだとする説が有力。また、大津を選んだ理由は、対外関係上の危機感が強く働いていたとされる。大津は琵琶湖に面し、陸上・湖上に東山道や北陸道の諸国へ向かう交通路が通じており、西方へも交通の便が良いためとする説あり。日本書紀によるとこの遷都には民衆から大きな不満〔朝鮮出兵失敗と遷都に伴う費用負担と不便増〕があり、昼夜を問わず出火があったという。
    鵝廃絶
     
天智天皇10年(671年)天皇が崩御すると、子の大友皇子が近江朝廷の首班となった。生前の天智天皇から皇太子に指名されていた大海人皇子は近江朝廷に反旗を翻し、天武天皇元年(672年)6月に吉野から東国へ脱出。美濃国を拠点に軍兵を徴発して近江へ進軍し、同年7月、近江朝廷軍を破って大友皇子を自殺に追い込んだ(壬申の乱)。勝利した大海人は即位して飛鳥に浄御原宮を造営したため、大津宮は僅か5年で廃都となった。跡地は「古津」と呼ばれるようになるが、794年桓武天皇(天智天皇の曾孫)の詔により「大津」の呼称に復された。
 (参考は以上)
 b、中世

   794年 - 平安京遷都により都の外港として栄える。
  
1586年 - 豊臣秀吉により大津城が築かれ、大津港は水運の要衝として栄える。 翌年、秀吉の意向を受けた大津藩浅野長吉が、湖岸諸藩の船を大津に集めた。これが後に大津百艘船となり、大津港の荷役などに関する特権を代々の支配者から受けていた。
 【参考】「琵琶湖水運の歴史」(資料:「北淡海・丸子船の館 」サイト)
  琵琶湖は古来より、京阪神への水源であると同時に重要な交通の要衝。日本海で取れた海産物や北国諸藩からの物資を敦賀で陸揚げ、深坂峠を越えて塩津港へ、再び船積みして湖上を大津・堅田へ運び、陸揚げして京都、大坂へと運送(北から南への荷物を「下り荷」:ニシン・海藻類・生魚・馬の鞍木」。大坂・京都から若狭方面のルートの荷物は「上り荷」:「綿・飴・醤油・酒樽・着物・反物・煙草」
  琵琶湖主要48浦の中で大津・塩津が、琵琶湖水運の中心。
  平安時代に瀬戸内の水運を支配した平清盛は息子の重盛に命じ、塩津(琵琶湖)〜敦賀(日本海)との運河を作ろうとしました。
  1569(永禄12)年頃、琵琶湖水運を織田信長が支配し始め、廻船行の継続を保証します。後の天正年間(1573〜1591)には、秀吉が湖上権を掌握し、大津七浦・坂本・堅田・木浜で「大津百艘船」を組織。
  しかし江戸時代初期(元禄時代)に、幕府の命により河村瑞賢(1617〜1699)が「東・西回り航路」を開拓し、衰退。

  (参考は以上)
 c、近代
  
1869年3月 - 日本初の湖上蒸気船「一番丸」が、大津-海津間に就航。大聖寺藩(大津汽船局)が運営した。 「一番丸」就航以降は様々な運営主体による汽船が就航し航路も増加。また、南湖のローカル航路運営者や航路も暫時増加。
  
1878年 - 東海道線大津まで開通。
  
1883年 - 前年に鉄道が開通した長浜との間で鉄道連絡を開始。

  1889年 - 東海道線が全通。鉄道網整備の進展とともに、湖上運送が衰退。
  
1894年 - 湖上定期遊覧船が就航、湖上観光び拠点港として復興。
  
1951年 - 玻璃丸が就航する。 
  
1972年 - 琵琶湖総合開発特別措置法施行。これにより琵琶湖の水位が約2メートル下がるとされ、桟橋や船舶の更新が必要とされ、順次更新がはじまる。
  
1981年- ミシガンが就航する。【「ミシガンは、1982年(昭和57年)4月29日に就航した、びわ湖を代表する遊覧船です。滋賀県と友好姉妹都市である、アメリカ・ミシガン州との国際親善を祈念して、ミシガンと命名されました」(琵琶湖汽船HP)。後部には幅の広い大型水車(プロペラ)が船の進行方向に設置され、その回転で水を湖中から空中へかき上げそれを推進力に航行】
  
1993年 - 現在の使用している旅客ターミナル竣工。
ぢ臘纏
  記述は、「まとめ」に入るつもりであったが、大津についてコンテンツが以上では貧弱、機会損失。よって、ウィキペディアから「大津市」の要点を抽出。
1)大津市は、滋賀県の南西端に位置する市で同県の県庁所在地中核市に指定。 
  人口341,187人(17年10月1日推計人口)
2)市域は、琵琶湖の主要な港湾である大津港を擁し東海道の宿場であった大津を中心に、膳所〔ぜぜ〕藩の城下町であった膳所、比叡山の門前町や港湾として栄えた坂本、湖上交通の拠点であった堅田、近江国庁のあった瀬田などからなる。
 参考 崛圭衄諭廖Ф畊召任鷲Ш藩と同じ譜代藩で、藩政安定のため漁民を保護し、シジミ〔淡水域、汽水域に生息〕の豊漁を奨励。このため膳所はシジミの宝庫となり、戦後まで京都で一泊すれば朝食にシジミ汁が出るほど有名となった。
 参考◆屮札織轡献漾廖琵琶湖にしか生息していない固有種。昭和40年代頃まではたくさんのシジミが生息し、水辺に楽しむ子どもたちが足で貝をつかんで持ち帰り晩ごはんのおかずにしていた。セタシジミは、琵琶湖漁獲高の50%以上を占めていたが、1957年の6,072トンをピークに減少、2007年はピーク時の1/120の52トン。近年は琵琶湖の環境保全のシンボルとしてセタシジミは位置付けられ、資源の復活が強く望まれている(「滋賀県」HP)。
 参考「琵琶湖の環境問題」(資料:NHK for School):滋賀県の1/6の面積 京阪神の水がめとしての琵琶湖は昭和30年代後半湖畔に多くの工場が建設され、工場排水や家庭排水(特にリンを含む合成洗剤)も琵琶湖に流れ込み、湖の汚染につながった。1977年琵琶湖に初めて赤潮が発生。1983年にはアオコも発生。住民は合成洗剤やめ粉石けんを使う運動開始。リンを含む合成洗剤の使用を禁止する条例も施行。その後も下水道の整備を進め、湖畔に水質浄化の役割を果たすヨシを植えるなど、琵琶湖の水質を良くする取り組みが続けられている。
3)世界文化遺産の延暦寺・園城寺(三井寺)・日吉大社・石山寺などの古社寺をはじめ、多くの文化財や史跡、名勝が現存。市町村単位での国指定文化財保有件数は、京都市・奈良市に次いで、国で3番目に多い。

3.まとめ
“琶湖就航の歌にある「滋賀の都」とは、大津(京)のことかと大津テーマによって初めてわかった。
大津京は、考古学上はっきりしない点多いが、内政・外交の問題解決方向が大津京遷都になって現れ、それが混乱を生み出し、大化の改新(これも1967年従来の学説を覆す木簡が掘り出され、学界・学説は簡単に修正または混乱:天皇家の蘇我氏(複数の有力豪族から勝ち上がった豪族)からの政権奪取、天皇家内部の後継・権力闘争の結着がポイント)によりヤマト王権という確固たる中央集権国家が確立されるまさに前段の地であった。
 「671年に天智天皇が崩御すると、天智天皇の同母弟である大海人皇子(後の天武天皇)と天智天皇の庶長子である大友皇子とが不和となり、672年に壬申の乱が起こる。大海人皇子が皇位継承権争奪戦に勝利し、大津宮から飛鳥浄御原宮に遷都して即位した。天武天皇は改革をさらに進めて、より強力な中央集権体制を築くことになる」(ウィキペディア)
4超保全の象徴・指標としての大津のセタシジミは、佐度で言えば加茂湖のカキ(牡蛎)である。
 以上 2018 01 09

係わりの地103:鳥取県境港

 こんにちは!自在業の櫻井です。
 11月24日(金)
 最初の予定は、浜田から境港で宿泊。ところが、ホテルが満室で大田に泊ることになり、境港へは翌朝向かうことにした。だが、当日大田に午前中着いたが、午後の時間を活かすため まず境港に行き戻ってくれば明朝はゆっくり旅ができるということでそのようにした。
 結果 旅程は、次のとおり。
 浜田駅発10:12→大田市駅11:05着・11:45発→米子13:03着・13:05発→境港13:22着・15:19発→米子→大田市駅着17:35着。
 
1.なぜ境港か?
 「何となくのイメージ」であったが、当ブログでは取り上げたことのない鳥取県であることが後押ししたことは確か。
  山陰の訪問は、近年は山口県萩( 係わりの地72」)。今回浜田(島根県)は第一候補で確定。山陰の港といえば境港が有名で、佐渡とも関係ありそう。調べれば境港は鳥取県、これで決まり。

2.特記内容
➀境線(米子ー境港)(JR西日本)には、境港市出身の漫画家水木しげるの作品『ゲゲゲの鬼太郎』(以下、「漫画」)にちなんだものが多くあった。
 1)ホームに、漫画モニュメント。
 2)車両は、外装・内装に漫画イラスト。
 3)全駅名には、漫画の出て来る妖怪の愛称名がある
  例;米子駅=ねずみ男駅、博労町駅=コロポックル駅、河崎口駅=傘化け駅、米子空港駅=べとべとさん駅、中浜駅=牛鬼駅、境港駅=鬼太郎駅
 4)車内放送は、「鬼太郎」と「猫娘」がアナウンス(鬼太郎列車)。
⊇点の境港駅で下車へ改札口へ向かう途中、大型フェリーが近くに見えた。
1)これ幸いと思い、港へ向かった。風はあり、小雨が降り、寒い。
2)港は、公園になっているが、悪天候で人影はない。
3)ジェットフォイル(JF)が接岸。日本最初の米国ボーイング社の水中翼船JF就航は佐度汽船の新潟-両津航路で、10年前九州の博多港で見た時と同様「ここにもあった」。日本初就航は、1977年(昭和52)であるから40年経過。その間離島航路を中心に普及、ボーイング社は製造ライセンスを川崎重工業に売却。JFは、ボーイング929の旅客船の登録商標であるが、ここはJFとする。
 JFのその前方にはフェリーが待機。隠岐へ行く船と直感し、「隠岐汽船」という名が浮かんだ。JFもフェリーも佐渡汽船と同じくらいの大きさであった。
 a、隠岐汽船:フェリーしらしま:【  】は佐渡汽船ときわ丸
 総トン数 2,343トン【5,380トン】 ●全長 99.35m【125m】 ●全幅 16.00m【最大幅21.8m】
●最大速力(時速) 20.45ノット(37.87km)【19.1ノット】
●航海速力(時速) 18.90ノット(35.00km)
●出力 6,619kw ●就航日 1995/03/01〔建造2016/03〕
●客室定員 856名【最大1,500名】
●車輌積載台数 8トントラック20台、普通乗用車26台【大型バス28台+乗用車8台又は乗用車168台】
 b、同上  :高速船レインボージェット:【  】は佐渡汽船JF(ぎんが・つばさ・すいせい3隻共に同じ)
●総トン数 173トン
●全長 (翼アップ時)30.33m  (翼ダウン時)27.36m
●全幅 (型幅)8.53m  (最大幅)9.14m
●最大速力(時速) 約45.40ノット(84.08km)【47ノット(87km/h)】
●航海速力(時速) 約40.00ノット(74.08km)
●出力 5,588kw ●就航日 2014/3/1
●旅客定員 256名【250人】
4)港は、大きな運河か水道に沿ってあり、隠岐へは左・右どの方向かはじめは全く見当がつかなかった。
5)漁港は、別の所にあると察知。駅の向かいにいるのに、タクシーの姿が見えない。幸い地元と思われる人が散歩していたのに出会い 尋ねたところ次のことがわかった。
 a、タクシーが通らないのは、たまたま今の時間帯出払っているためで、タクシーは余り多くない土地柄。
 b、漁港は、港とは反対方向で車で10分くらい。
 c、ホテルは境港に、1軒あるだけ。
6)丁度、隠岐行きフェリーが、出港する時刻と重なった。
DSC00198

DSC00200
 白い煙をはいて離岸し、右へ旋回。写真に、JF〔高速船レインボージェット〕が写っている。
車内での名所案内放送
1)宍道湖〔しんじこ〕:大田市駅−米子駅間の米子駅寄り。
 全国で7番目に大きい湖。周囲47km。汽水湖でシジミが有名。新潟のデパ地下に島根県産シジミとあるのは、宍道湖産だろう。
2)大山:米子から岡山行きの電車で。
 標高1,729m、中国地方で最高峰。伯耆〔ほうき〕富士とも言う。電車からは山の姿がいろいろ変化する。
(大学3年時代10月頃島根出身の友と登ったことあり。その時は大学の学生寮(多分、鳥取大学)で泊まった。山頂まで行かず尾根を歩き、途中で引き返し。自分の姿が向こうの霧に映る不思議な体験をした。(ブロッケン現象)
せ駑繊淵Εキペディア他)
1)境港市
 a、境港市(さかいみなとし)は、中国地方の北部、鳥取県西部の市。日本海側の重要港湾として栄えてきた街である。〔山陰では、石見の温泉津と並ぶ北前船の主要寄航地、浜田と共に第3種漁港に指定〕

 b、白砂青松の続く弓ヶ浜半島は東南にそびえる大山を背景に風光明媚な景観を呈しており、「日本の白砂青松100選」や「日本の渚100選」に選ばれている。
 c、県内の中で最も人口が少ない市〔33,431人(17年10月1日)〕であるが、中国地方、山陰地方と県内の中で最も面積が狭く、人口密度は山陰最多。

2)境漁港:特定第3種漁港

 ベニズワイガニの漁獲水揚量は全国の60%をしめる。

  • 組合員数 - 258名(2001年)
  • 漁港番号 - 3430110
  • 水揚量 - 110,000t(2004年)【全国6位】
  •  主な魚種

  • アジ類 - 2002年陸揚量全国第1位
  • イカ類 - 2002年陸揚量全国第4位
  • サバ - 2002年陸揚量全国第5位
  • カレイ- 2002年陸揚量全国第5位
     主な漁法
  • まき網漁業
  • かご漁業
  • 釣り(イカ釣り)
  • 沖合底引き網漁業
     2016年(平成28)全国主要漁港水揚げ量・金額
  •      数量(千トン)   金額(億円)

    1、銚子 276     焼津 465
    2、焼津 155     福岡 457
    3、長崎 126     長崎 329
    4、釧路 114     銚子 261
    5、境港 107     八戸 234
    6、枕崎 106.6    根室 220
    7、八戸  99     境港 209
    8、石巻  95     三崎 200.0
    9、松浦  80     下関 199.6
    10 気仙沼 76    気仙沼 199.3
     2016年(平成28)境漁港主要魚種水揚げ量
                        数量      金額
                          千トン(%)    百万円(%)                   
    1、さば          24,275(23) 1,663(8)
    2、あじ          20,517(19) 1,808(9)
    3、まいわし        15,953(15)  815(4)   
    4、ぶり類          15,132(14) 3,496(17)
    5、べにずわいがに 8,214(8) 3,015(14)
    6.うるめいわし   4,391(4)  236(1)
    7、かたくちいわし  3,365(3)  170(0.8)
    8、くろまぐろ           1,417(1) 1,526(7)
    9、するめいか    616(0.6)    336(2)
    10ずわいがに         570(0.5) 1,467(7)
     その他             13,023(12) 6,359(30)
     合   計   107,473(100)20,892(100)
    3)隠岐汽船(株)(島根県隠岐郡隠岐の島町)
    フェリーしらしま(総トン数2,343.0トン、全長99.50m、幅16.00m)。
    a、フェリーは、隠岐(西郷港)まで直行便で2時間半。
    b、隠岐 - 本土間の航海時間は、1984年初の高速旅客船「マリンスター」の就航により約100分、1993年超高速旅客船「レインボー」の就航により約60分。

    3.佐渡との係わり
    [渉徹个療亙嬾孫飴瓩らの情報(ブログ・コメント及び18年1月2日の取材)
    1)近所(夷一ノ丁)の白須先輩(親は漁業関係の人)の話によれば、中学の頃まで境港に住んでいて他にも境港には佐渡の人が何人もいたとのこと。
    2)湊・城ノ内の川口新聞店の川口孝さん(親父さんは、佐渡の人で佐渡へ帰って新聞店を開いた)は境港で育ち、境高校1年までいた。そこでは野球部に所属し、後のプロ野球の大投手米田哲也〔歴代2位の通算350勝を記録:出身は米子市、高校は境高校〕と一緒だったがとても歯が立たなかったとのこと。その後新潟商に転校し活躍。
    3)福島さんの話によれば、佐渡のイカ釣り漁法が全国ナンバーワンだった当時、湊城ノ内の伊藤弥助さんの先先代かその前の方が、講師として中国地方の日本海岸沿いの諸漁港に頻繁に講習に出向いていたとのこと。
     参考佐渡のイカ漁技術:「烏賊と電脳のホームページ」より
     「小規模に行われて居たスルメイカ漁が、産業的規模に發達したのは明治時代で、重要な沿岸漁業と成り、其の中心地は佐渡地方で有った。佐渡では、手釣りで底層(60乃至105米)のスルメイカを釣り乍ら上層へ誘う天秤状の『ソクマタ』、竿(1.2米程度)に釣絲(15乃至23米前後)を附け其の先の群鉤錘1箇で、中層のスルメイカを表層へと誘い乍ら釣獲する『トンボ』、全長約1米の二股の竿先に夫々れ釣絲と群鉤錘を附けた表層釣り用の『ツノ』の3種の釣具が、スルメイカの遊泳層の深淺に應じて使用された。此等佐渡地方の烏賊釣漁業技術は全國各地に傳わり、隠岐島周邊、富山灣を中心に、五島列島、陸中海岸、凾館地方で盛んに行われた
     北海道では明治以前から烏賊漁が行われたが、明治10年代に佐渡を初めとする北陸地方からの入稼漁民が『ハネゴ』(佐渡地方の『ツノ』に相當する)や『トンボ』釣漁法を凾館地方に傳え普及。」
        (係わりの地70:八戸(青森県))
     【佐渡と境港の関係の接点はイカ漁で、両津の漁業者がイカの漁場のある隠岐に近い境港に来てイカ漁を中心とした商売をした〔現実的には技術を買われての雇われ稼ぎが大半だろう〕と見ることができる】
     参考∈甘呂了唆反橋戎篆兵埓郛經濤〔かんとう〕について(資料:『金井を創った百人』)
      「和木に移住した賢吉〔川上喚濤〕は、スルメ専門の水産技師河原田盛美について指導を受け、1889年(明治22年)内海海産会社設立。改良スルメの製法の研究と販路拡張に取り組んだ。 
     また、この頃から佐渡のイカ釣り技術の教授のため石川・京都・鳥取島根・長崎・宮崎・青森の各府県へ実業教師を派遣し始める。」
     (事業・産業41:イカ加工業」、佐渡の風景123:和木」)

    近年境港を本社とする会社が、佐渡で事業所を開設
    1)「弓ヶ浜水産(株)佐渡事業所
     「弓ヶ浜水産 株式会社〔 鳥取県境港市〕:「佐渡事業所〔佐渡市和木〕は、平成27年〔2015〕7月に弓ヶ浜水産株式会社の事業所として新潟県佐渡市に立ち上がり、当社主力商品の一つ「活〆佐渡サーモン」の養殖を行っております」

    2)2016年5月18日「ニッスイ(日本水産)」HP

     「日本水産株式会社(代表取締役 社長執行役員 細見典男、所在地:東京都港区)の連結子会社である弓ヶ浜水産株式会社(代表取締役社長 鶴岡比呂志、所在地:鳥取県境港市)は、新潟県佐渡市で養殖したギンザケ「活〆(かつじめ)佐渡サーモン」を5月23日より出荷を開始します。

     弓ヶ浜水産は、本社所在地の境港市を拠点に養殖ギンザケの孵化・育成と加工を行っており、2015年3月に本社工場が完成し、4〜5月に「活〆境港サーモン」を初出荷しました。
     同社では養殖ギンザケの供給量をさらに拡大するために、ニッスイグループ会社である山津水産株式会社の協力も得て、第二の生産拠点として2015年7月に新潟県佐渡市に佐渡事業所を設置、同月にギンザケ稚魚の淡水での養殖に着手、12月より海面養殖を行っていました。
     初年度の今年は、水揚げ開始より6月下旬までの約1カ月間、2生簀分の200トンの出荷を予定しています。今後は2018年をめどに10生簀分1,000トンの出荷を計画しています。
     佐渡市は境港市より水温の上昇が遅く、出荷時期が境港市より約1カ月遅くなるため、佐渡サーモンの導入により弓ヶ浜水産として養殖ギンザケの供給期間の拡大が可能となります。
     水揚げしたギンザケは、活締めした後、ラウンド、ドレス、加熱用フィレに加工、出荷します。
       「活〆佐渡サーモン」商品概要 

  • 製品仕様…ラウンド、ドレス、加熱用フィレ5kg定貫
  • 流通温度帯…チルド
  • 販売先…関東甲信越をはじめとする全国の量販店や外食店
  • 生産工場…弓ヶ浜水産佐渡事業所佐渡工場     」
    3)みなと新聞17年12月29日「弓ヶ浜水産が養殖ギンザケ増産へ 18年 境港2400トン、佐渡700トン
     「日本水産グループの弓ヶ浜水産(鳥取県境港市、鶴岡比呂志社長)は来年、国内養殖ギンザケの生産を3200トン弱(ラウンドベース)まで引き上げる計画だ。境港で生産する「活〆境港サーモン」は今年比5割増の2400トン(120万尾)、新潟県佐渡市沖で養殖する「活〆佐渡サーモン」は700トンを計画。稚魚から成魚まで淡水のみで育てる「大山湧水サーモン」は今年並みの70トンを見込む。」
     〔参考:17/6/17 日本経済新聞サイト:「同社は11年の東日本大震災以降、銀ザケ養殖の拠点を宮城県から日本海側に移した。佐渡沖での事業育成を急ぐほか、新潟市の傘下企業を通じて新潟県での拡販にも注力する」〕

  • 4.まとめ
    ゞ港と佐度との接点は、烏賊〔イカ〕漁。
    1)1221年の朝廷が鎌倉幕府からの政権剥奪を図った承久の乱で順徳上皇は佐度へ父の後鳥羽上皇は現在境港からの定期船が航行する隠岐へ流されたこと、江戸期西回り航路開発で境港や佐度小木は北前船の主要寄航地であったもあるが、このレベルでは、単なるつじつま会わせ。
    2)本質は、イカ漁の繋がり。
     a、江戸初期に石見国の漁師が佐度に移住し延縄等の漁法を教え普及させたとある一方、推測であるが明治に入り、イカの圧倒的漁獲量並びにイカ釣り技術に長けた佐度〔両津〕漁師の指導が、境港で歓迎され雇用された。
     b、イカが獲れなくなるイカ漁の衰退は、1960年代後半から佐度や隠岐など全国的に始まっている。漁獲技術が発達し乱獲とも言われた。
    3)近年境港を本社とする会社が、佐度でギンザケの養殖事業に乗り出している。なぜ佐渡か?突然・偶然でなく、何かの係わりあってのことと見るのが自然。佐渡事業所を両津湾内にある和木にしたことも何かの縁を感じる。
    渡辺和弘氏のコメントと取材なしでは、コンテンツ貧弱で通りいっぺんに終ったこと間違いなし。
     以上  2018.01.03
     
     






    係わりの地102:島根県大田(石見銀山、大田漁港)

     こんにちは!自在業の櫻井です。
     日付は11月25日(土)だが、これまでの一連の旅ブログ同様 写真や「下書き」してあった資料を当日またはその翌日短文を添えて「公開」したもので、記述は遅れ遅れで 当号の本格的な書き込み着手は12月19日(火)。

    1.はじめに
     11月24日(金)浜田駅発10:12山陰本線快速アクアライナーで、大田市駅(おおだしえき)着11:05。
    電車から降り集札口に向かうと 上に「ようこそ石見銀山へ」の表示。電車の時間帯のためだろう観光客は殆ど見かけなかった。切符を渡すとすぐ観光案内所があり、入り口には、
      「知ればなっとく たのしみふえる・・・・ 
      大田市駅観光情報コーナー
      世界史を変えた・・・・石見銀山の魅力」
    とあった。端的な表現に、なるほど世界遺産に登録されただけのことはあり、 表現力の見事さに感じ入った。
     外に出ると石見銀山行きの定期バスが待機。利用者は、地元の人と感じた。人が並んでいれば目を見張ったが、駅前は閑散。
     観光案会所に入ると、一人の女性担当と一人の年配の女性観光客がいて、物部神社(もののべじんじゃ)についての話をしていた。物部神社なら佐渡にもあり親しみを感じ、また同社は「石見一宮」であるという説明に大田は、古くは石見の中心地で、もしかしたら石見神楽も発祥の地でないかと思ったりしながら聞いていた(後日調べると益田が本家本元のようである)。
     その女性は、遠くから来たらしく執拗に物部神社の事やそこへ行く方法などを聞いていた。
     私の要件は、チャックインにはまだ早すぎるが予約したホテルがどの辺りかを尋ねること所内にあったパンフレットに昔廻船問屋街があって賑わったという港の場所について尋ねることにあった。
     実は、大田で宿泊するつもりはなかったのだが、希望していた鳥取県境港のホテルは当日は満室で予約できず、近い松江や出雲のホテル数軒にも電話したが同様。大田では和室ならありますというホテルがあり、そこに決めた。
     大田と言えば世界遺産に登録された石見銀山だがそこに関心はなく、むしろ徳川家康からの信望厚く石見銀山奉行(1601年拝命)・佐渡奉行(1603年拝命)・伊豆金銀山奉行(同年拝命)を兼務した大久保長安ゆかりの場所。例えば、長安が1605年建立したという大安寺と逆修墓〔生前に建てた墓のことで功徳が大きいとされる)で、それは、佐渡相川にもある。
     だが、よく調べると駅前から銀山行きのバスで30分、歩いて10分の距離で大安寺は今はなく、逆修墓は墓標があるだけ。そのためわざわざ行く気になれず、旅程ではパス。
     案内所の所員に先客との話が済んだ後、予約ホテルの場所を教えてもらい、大久保長安とゆかりの場所が街中にないか、廻船問屋があって賑わったという港について尋ねると、ゆかりの場所は銀山しかなく、廻船問屋街の場所は「温泉津(ゆのつ)」という所でここから相当遠く離れており(タクシーで30分以上と言ったか)、今は問屋はなく面影はないとのことであった。
     駅の前に再度立って通りを見ながら、この後どう時間を過ごすか(せいぜい図書館と市の商工観光課か)を考えていると、明日朝早く境港に向け出発するなら これから境港へ行って戻りホテルに泊まってはどうかということを思いついた。所員に尋ねると 丁度間もなく入って来る米子行き11:45発特急に乗り、そして境港行きの電車に乗り換える。但し、夕方までに大田に戻って来れるか今調べているる時間がなく即答できないとのこと。よし!ということで、特急に飛び乗った。
     戻って来たのは17:35。実質的には、境港駅発15:19⇀大田市駅着17:35。既にあたりは暗かった。結局、大田は、大田市⇀境港への一回分余計な交通費(大田市⇀境港乗車券¥1,940+大田市⇀米子特急券¥1,180と時間を=¥3,120)と時間を費やし泊っただけに終わりそうであった。
     18時過ぎホテルに着き早速 近くのお薦め食事処を女将さんに尋ねると、わざわざ電話し、席はあるか確認してくれた。歩いて10分足らずと方向を教えてもらったが、暗くて寒いのでタクシーを呼んでもらった。
     そこでの飲食メモ書き:「1500(刺し身盛り合わせ料金だろう)、刺し身に食用菊・各種海草」、箸袋には女将さんから聞いて書いた「まぐろ(こども)、ヤガラ、かんぱち、まいか、鯛、キツネガツオ、ホウボウ 2切れ」とある。どれも、新鮮で、非常に美味かった記憶がある。「お会計」は、¥3,780。
     余り聞かない魚について、調べると次のとおり。
     ヤガラ(資料:「市場魚貝類図鑑」サイト)
    生息域:北海道〜九州の日本海・東シナ海・太平洋沿岸、瀬戸内海、屋久島、沖永良部島、沖縄。
    漁法:漁法 釣り、定置網
    基本情報:古くから椀ものなどに使われる上等な魚とされている。割烹料理などに使われるもので、一般的に知られている魚ではない。刺身、焼きものなども味がよよいが、歩留まりから考えると超高級魚といえる。
     なお、「ヤガラ 大田港」で検索すると、「なつかしの国石見」(島根県西部公式観光サイト)ページに、「・・・この日の丼はヤガラ・鯛・スズキ・バトウ・ブリがのっていました」の記事があった。
     ハガツオ:「キツネガツオ」は地方名の一つ。(資料:「市場魚貝類図鑑」サイト)
    生息域;北海道〜九州南岸の日本海・東シナ海・太平洋沿岸、屋久島、琉球列島。
    漁法:釣り、巻き網、定置網〔「日本では一般的に本種を狙って漁獲することはなく、サバ、カツオ、マグロなど他の魚との混獲で水揚げされる」(ウィキペディア)〕

    基本情報:サバ科のなかではあまり漁獲量が多くない。そのため意外に手に入らない魚のひとつ。産地などでは味のよさから好んで食べられているが、消費地では知られていない魚でもある。
     (資料は以上)
     大田は銀山イメージが強かったせいか、漁港が多く漁業が盛んとは想いも寄らなかった。元気のいい女将さんから、海に面しているから漁師は沢山いて漁業盛んは当たり前と諭された。近い港は、「和江漁港、10分くらい」と記した。
     思わぬ発見で大田へ来た甲斐があり、訪問先が翌朝になるが見つかった。
     帰りのタクシー運転手さんに話をし 翌朝ホテルを出発し和江漁港へ行って写真を撮り、そのまま大田市駅発7時過ぎの電車に間に合わせるには、6:30出発で充分ということで来てもらうことにした。
     
    2.光景:和江漁港
    〜當の様子
    大田港1大田港2

    大田港4大田港3
     前々日の浜田漁港と違い、風と波は穏やか。漁船が、浜田に比べはるかに少ないのは、多くは出漁したからだろう。セリには早すぎる時間帯なのかもしれないが 準備などで人がそれなりにいてもいい時間帯なのに、市場に人影はない。遅ればせながらこれから出る準備をしている2隻の船があった。1隻につき漁師4人か、皆30〜40代 若いと感じた。
    大田漁港
    1)大田市には、現時点11の漁港がある。
     a、内訳:第2種3港ー和江・仁万・温泉津、第1種8港ー波根東・柳瀬・鳥井・友・湯里・日祖・湯戸・今浦〔福浦〕。
     b、「大田市漁業の概要」大田市公式HPより
      「本市には21の港〔島根県HPによる漁港一覧表では11港、大田市‐わがマチ・わがムラ‐H29年度漁港データも11港〕があって、ここを拠点として、小型底引き網、まき網、一本釣り、はえなわ、採貝藻、定置網などの漁業が行われています。年間の漁獲量は、カレイ、アジ、タイ等を中心に年間8,000トン、30億円の水揚げがあります。本市の漁業は、朝出漁して、夕方帰ってくる日帰り操業が中心で、鮮度の良い魚が水揚げされるのが特徴です。水揚げされた魚は夕市にかけられ、その日のうちに関西や九州に出荷されます。」〔更新年次不詳〕
    2)大田の漁業の特徴
    (水産庁ホームページ「浜の活力再生プラン」別記様式第1号 別添[PDF]〔H26年度(2014)文書だろう〕)
     a、島根県中央部に位置する「大田市」の基幹漁業は小型底びき網漁業。「平成25年の属人水揚量約6,200トン、水揚金額約24億1千万円のうちの約2/3を占めている」
     b、「大田市における小型底びき網漁業は、早朝出港して夕方に帰航する日帰り操業が主であり、鮮度の良いカレイ類、イカ類、アカムツ、ニギス、タイ類等が水揚げされている。現在では、43隻が操業しており、各船で3〜4人の乗組員が就業しており、地域の重要な雇用の場となっている。
     c、他に、一本釣り、まき網、定置網、いか釣り、採介藻漁業等の沿岸漁業も盛んに行われ、大田地区では多種多様な魚種が水揚げ。
     d、平成25年9月には、JFしまねが市内4カ所の卸売市場(久手、和江、五十猛、仁摩)を和江漁港に統合・新設した高度衛生管理型市場となる「JFしまね大田水産物地方卸売市場」を開設しており、大田地区で水揚げされる水産物の付加価値向上が期待されている。
     e、新市場で水揚げされた水産物は、朝市だけでなく大田地域特有の夕市により仲買人を介して大田市内外へ流通すると共に生鮮品並びに水産加工業の原材料として利用。また市場統合後、水産物直接取引が拡大されると共に大手量販店バイヤーが常駐し、買付高の増加、魚価向上に成果が出ている。」
    O孫承港(わえぎょこう)
    1)概要:島根県HP「浜田水産事務所」
     「和江漁港は、島根県中部に位置し、国立公園「三瓶山」に源を発する静間川の河口東側の砂浜地に建設された漁港である。
     当地区の漁業は、小型底びき網漁業、まき網漁業(シイラ漬け)を中心にして行われており、その経営は比較的安定している。
     漁港整備の歴史は明治の中頃に遡り、第3次計画から本格的に整備しているが、漁港の基本施設は未だ不足しており、小型底引き網漁業の漁獲物の一部を、特定第三種浜田漁港へ陸揚し、その後本港へ陸送している現状にある。
     平成23年現在、港の西側に係留施設、泊地、施設用地を増設し、島根県中部の拠点漁港として漁業活動エリアの充実を図る方針で整備を進めている。」
    2)「大田の伝統漁法全国PR 一日漁で新ブランド」「日本海に夕日が沈み始めた師走の午後5時過ぎ、大田市静間町の和江漁港で、小型底引き網漁船から新鮮な魚が水揚げされた。旬のカレイやタラ、アンコウ――。船員やその家族らが忙しそうに魚箱に敷き詰める。「エテカレイ、箱2500円!」。間もなく港に威勢の良い声が響き、競りが始まった。

     早朝に港を出て、近海で漁をして、夕方に港に戻って水揚げする「一日漁」。夕方の競りは「晩市(ばんいち)」と呼ばれる。大田市に古くから伝わる操業方法だ。

     午前中に海を泳いでいた魚がその日のうちに競りにかけられるので、新鮮で色やつやが良く、身の締まった魚を消費者に届けることができる。

     「全国に売り込みたい」。伝統の方法で取れた魚介類を大田市の新しいブランドに育てようと、水産物加工品販売店を営む岡田明久さん(62)は昨年8月、鮮魚の仲卸業者らと10人で「おおだ一日漁推進協同組合」を設立。自ら代表理事に就いた。

     一日漁はかつては全国で行われていた。1960〜70年代になって冷凍技術が発達すると、大型船を使った沖合漁業に取って代わられた。取れた魚を船内の冷凍施設で保存しながら、沖で1週間ほど漁をした方が効率がいい

     しかし、大田の漁師たちは、鮮度にこだわって一日漁を細々と続けてきた。

     運搬に便利な道路網が整備された今、地元の大きな武器になった。近場に限られていた出荷先は、関西や九州にまで広がった。

     今は和江、久手、仁万、五十猛の4漁港の小型引き網漁船約50隻が漁に出る。市によると、市内の2011年の漁獲量は7588トン、漁獲高は27億2900万円。その大半が一日漁で取れたノドグロやアマダイ、白イカ、アジなどだという。」
    ぅ織シー運転手さんが話したこと
    1)竹島問題について(当方が聞き出した事柄ではない)
     竹島はイカ・ワカメの産地で、古くから日本人がそこで加工していたという記録がある。
     朝鮮民族は、明治に日本に統合される前は識字率30%が示すとおり昔の文書が乏しい上に文書を証拠資料として認めない文化を持つ民族なので困る。
     【これには、思い当たることあった(後述)。韓国との領土問題は、勿論日本国だが島根県で深刻。過去の石見銀山と佐度金銀山との鉱山技術・漁業技術等の関係でなく、現実問題を気付かせたことで、大田に来た甲斐は大いにあった】
    2、佐度出身で新潟から来たと言うと、「昨日物部神社に祭があったようで、新潟からおばあさんが来た」とのこと。「もしかしたら!」であった。

    3.佐渡との係わり
    1595年石見国の山師が坑道掘りの技術を導入
     (歴史スポット57:佐渡金銀山講演会(1)鶴子銀山調査成果報告」)

    「2.〔佐渡・沢根〕鶴子銀山の歴史
     1)1542年(天文11)銀山発見。百枚平周辺開発。

     2)初期開発期に露頭掘りひ押し掘りという採掘技術がとられる。

     ( 露頭掘り:地表に露出している鉱脈を掘る方法。ひ押し掘り:鉱脈に沿って地下へ向かって掘り進む方法)

     3)1589年(天正17)上杉景勝の佐渡攻め。上杉氏の銀山経営。

     4)1595年(文禄4)石見国の山師が坑道掘り(横相:よこあい)の技術を導入。この頃までに灰吹法も導入?

     (坑道堀り=横相:鉱脈の方向を予め調査し、鉱脈の方向に直行するよう横から坑道を掘って坑内で掘り当たった鉱脈を堀り進む方法。「ひ押し掘り」の場合、深く掘るにつれ地下水が湧き上がって来たり、新鮮な空気が地下深く送り込めず作業が不能になるが、「横相」は排水を兼ねた水平坑道で坑内にたまった地下水が処理できるようになり、また空気の送風も自然風が利用でき ひ押し掘りとは作業性の面で格段に違った)」

    1603年初代佐渡奉行に就任した大久保長安が、石見から漁師を呼んで延縄などの漁法を普及させた

     (資料:新潟県HP、水産業、「姫津」)
    1)慶長年中(1596〜1615)の1603年佐渡に派遣された大久保石見守長安は佐渡銀山(金山)に鶴子から代官屋敷を移し、食料増産のため石見国の三人の漁師「徳左衛門(とくぜむ)、与左右衛門(よそえむ)、九八(きゅうはち)」を呼び寄せ、達者湊の北にある姫崎先端の澗(たに)を開発、「姫津」と命名し一村を開き、鑑札を与えて専ら海漁に当たらせ、島中どの浦方でも勝手次第に漁を許した。
     「上杉平定前の天正6年(1578)開基といわれる薬師堂には慶長7年(1602)の棟札が残っており、石見漁師が来る前から村の基盤があったことが知れる」
    2)石見の漁師によってもたらされた漁法は鯳(すけと)延縄・サメ網・鱪(しいら)づけ漁などの西国技術で、次第に島内に広まった。集落の6割が石見姓、櫓は当地だけが左櫓であることから、西国との関連を窺わせる。
    3)寛永5年(1628)廻船掛かり澗に指定され、廻船相手の船宿経営も有力な収入源となった。大坂、越前、加賀、和泉、唐津が得意先。
    4)真言宗智山派万福(まんぷく)寺旧蔵の弘化3年(1846)の御案内帳によれば、高15万石3斗余は全て畑。家数126、ほかに毛頭(もうど)11、人数806、沖漁船67艘、烏賊漁船31艘。
    L簑蠱經
     石見から山師や漁師が 来て佐渡に来て、それぞれ技術を伝えたとされるが、石見のどこからか?
    1)石見銀山山師の佐渡への想定候補地
     (資料:世界遺産『石見銀山遺跡とその文化的景観』(「島根県」HP)
     a、石見銀山遺跡の世界遺産は14資産、大きくは「銀鉱山跡と鉱山町」、「港と港町」、「街道」の3つの分野に分類、うち「港と港町」は鞆ヶ浦大田市仁摩町馬路〔まじ〕)、沖泊・温泉津(大田市温泉津町温泉津)の計3ヶ所。
     ァ、鞆ヶ浦(ともがうら):「16世紀前半から中ごろにかけて銀。銀鉱石を博多に積み出した港。船の保留用に自然の岩盤をくり抜いた鼻ぐり岩などが中世港湾を彷彿とさせる」
     ィ、沖泊(おきどまり):「主に16世紀後半の約40年間、銀の輸送や、石見銀山への物資補給、軍事基地として機能した港。二つの城跡や鼻ぐり岩などが往時を偲ばせる」
     ゥ、温泉津重要伝統的建造物群保存地区「石見銀山の外港として発展した温泉のある港町。江戸時代以来の町割りをよく残し、町屋、廻船問屋、温泉旅館、社寺等の伝統的建造物がよく残る」
     b、上記資料からは、銀や銀鉱石がどの港に運ばれたか(下関・瀬戸内海経由の兵庫の港か、日本海を東へ丹後の港や小浜か敦賀か)が、見えてこない。
     c、銀の輸送は江戸期になって海路でのリスクを極力避けるため、中国山地縦断街道が開発されたとある。「1601年、銀山の初代代官に着任した大久保長安は、安全な陸路でより大量の石見銀を運ぶため新たに尾道道を開発し、尾道港から瀬戸内海を経由するルートを確立」「石見銀山から尾道まで130キロ。日程は3泊4日。九日市宿(島根県美郷町)、三次宿(広島県三次市)、甲山宿(広島県世羅町)に宿泊した。記録によれば牛馬280頭、人足400人。銀の輸送ルートになった沿道の村々には、馬の貸し出しや人手の提供などの助郷(すけごう)の賦役が課せられた」(山陰中央新報ニュース「銀山街道・尾道道 安全な銀輸送の新陸路)
     d、以上の資料からは、石見の山師がどこから佐渡へ来たか見当つかない。石見の銀・銀鉱石がどこの港の運ばれ、どこで精錬又はそのまま売買されたかに関心あり。
     ア、博多へというのは理解できる。大陸(朝鮮・中国)に近く、交易手段として銀は必須。
     イ、上記資料は博多しかないが、江戸期前から大陸と交易していた福井県敦賀(小浜も推定同じ)が最有力。
     顱吠^羝史:天平勝宝四年(七五二) 九月二十四日、渤海使〔ぼっかい国の使者〕慕施蒙ら七五人が越後国佐渡嶋に来航した。
     髻縫Εキペディア「敦賀」:「804年渤海使が訪れ、交易が行われた。松原客館が置かれる(10世紀初期まで)。10世紀から13世紀にかけて港湾都市として栄えて日宋貿易の拠点となった。
     鵝

     ウ、小浜は、1420年代能の大成者で時の室町幕府によって佐度流罪となった世阿弥が舟に乗った港で、江戸期佐渡金銀山の坑道での植物油の移出港でもあった。
      (佐渡と係わりの地:若狭・小浜と佐渡」)
    2)石見漁師の佐渡移住への想定候補地

    a、資料
     aー1、「[PDF]
    佐渡島へ渡った石見の漁師たち−それは400年も昔−村 上 英 明」シリーズ」
     ァ、「私は島根県西部・石見地方に住んでいて、この事実〔今でも佐渡島には石見地方から渡って行った
    という人々の子孫が多く生活していて、それをかなり詳しく言い伝えており、昨今、先祖の出身地を捜しに島根県に来られる方々もある〕に強く関心を持っているものである。
     ・・・・・
    佐渡市相川町姫津の石見姓
     この町内に姫津という206戸ほどの漁師町があり、ここに石見姓の家が76軒ある〕」〔PDF文書はこの辺までで切れている〕【年次を含め出典不明。なお、手持ちデータの09年3月末住民基本台帳によれば、姫津は人口376・世帯数136。数値に隔たりが大き過ぎる】
     ィ、「佐渡島へ渡った漁師たちの人選  
     48人の漁師たちの顔ぶれは、どういう人たちであったろうか。もちろん書き物も言い伝えも残っていないので、推定するほかはない。老人や子供を含めた家族が全員で行ったとは思えない。なぜなら、当時でも粗末とはい
    え家や中には田畑などを持った家族もあったであろう。先祖の墓もあり、先祖伝来の家と墓は守らなければならないとする考え方も強かったはずである。したがって先祖からの家や田畑をいっさい処分して未知の国であった佐渡島へ全員で渡った家族があったとは考えにくい。・・・石見の国の広い範囲の漁村から、若くて元気な次男や三男の漁師たちが選ばれたと考えるのが適当であろう。」
     【佐渡の史実では、移住は3人の漁師。48人ともなれば、確かに石見国挙げてとなる大きな出来事。地元の郷土史家であれば、ここで突っ込み入れて当然。だが、素通りした感ありで明記無し。史料不足等で証明できなければその旨を記せば、科学する探究心が強くその人は分かっている人となるのであるが】
     ゥ、「『佐渡相川郷土史事典』には、佐渡の石見さん一族がスケト延縄(はえなわ)漁を佐渡へ伝えたと明記してある。しかし、その出身地である石見の国には、スケトウタラの漁獲はまったくないのである。ほんとうに石見の漁師たちは、この漁法を佐渡へ伝えたのであろうか。第1回目でふれた佐渡の名物「石見ガタセ」とともに、佐渡の石見さん一族を語る上において、非常に大事な点であるので、この疑問を避けて通るわけにはいかない。
     これを児島俊平さんが見事に解明された。当時の石見の漁師を知る上で非常に参考になるので、長くなるが次に引用させていただく。
     『ところで、私は約40年近く浜田の県水産試験場に勤め漁業調査に当ってきたが、魚市場でタラの水揚げを見た記憶がないのである。石見沿岸では前述の通りタラの棲息水域(水深200メートル)が沿岸から100キロ以上も沖合にあるから、漁業として成立しないし漁獲されない訳である。
    1−1、因幡国へ出漁した馬路村漁民
     天正年代(1573―91)に因幡国へ出漁し、移住したのは石見国邇摩郡馬路村の漁民であった。その経緯を以下に述べる。
     鰍(イナダ)とはブリ若魚(全長20〜30センチ)のことで浮遊物に集まる習性がある。その習性を利用して漬木に集まった魚を釣獲したのである。この漁法はシイラ漬漁法の原型で古くから行われていた。(この7行は同書の別の項から引用した)天正初期の5月頃の事であろう。イナダ漬け漁に沖合へ出ていた馬路村の舟数艘が天候の急変から遭難し、漂着したのが因幡国岩美郡田後(たじり)であった。田後地区を地図で見ると鳥取県と兵庫県の県境に位置し、馬路村から海路約300キロの距離にある。海岸は山陰海岸国立公園に指定されるほどの磯浜地帯で、浜辺には渓谷が迫り竹木が」(以下「PDF」文書切れ。結論不詳)
     ェ、
    「『山陰地方漁業史話』の中に児島俊平さんは、かなりのページをさいて石見漁民の出身地は何処かについて述べられている。引用させてもらいたいが、あまりに長くなるので、
    その要点だけをまとめさせていただく。
    児島〔『山陰地方漁業史話』の著者児島俊平〕さんご自身が大田市仁万(馬路に隣接する漁港)に育ったが、馬路に言い伝えが残っているという田中〔圭一〕説の根拠には、その信憑性に大いに疑問を持っておられ、池田哲夫さんの調査結果は当然だろうと思われている。
    しかし、天正初期から馬路村の漁民が因幡〔いなば:現鳥取市及び周辺〕の国の田後へ出稼ぎしている事実があること、そこで石見の国にはいない鱈を漁獲する方法を開発し、あわせてそれを加工する「石見ガタセ」の加工法を開発したこと。しかも年末には大森代官所にその干物を献上し、因幡の国への出稼ぎの状況を報告するのを定めとしていたこと。
    近隣には半農半漁の漁村が多い中で、馬路村は漁業に頼る割合が飛びぬけて高いこと。
    を詳しい数値をあげて論証され、佐渡島へ渡った石見の漁師たちの出身地は大田市馬路であろうと結論づけられている。
     まことにそのとおりであり、私もこの馬路説を支持するものである。が、先人たちの調査や論証では、どうも馬路一村が出身地のように読る。確かに馬路の漁師が多かっただろうと思うが、私にはもっと広い範囲の漁村から行ったのではないかと思われてならない。したがって、私としては先人たちの調査を引き継がせてもらいながら、さらにもっと別の方法で佐渡島へ渡った石見の漁師たちの出身地を調べたいと考えるのである。
     つづく
     話はいよいよ終盤に入りました。次回は、佐渡島へ渡った漁師たちの出身地について私が調べたことを述べたいと思います。
     今回の参考文献
    『佐渡相川郷土史事典』相川町史編纂委員会編
    『山陰地方漁業史話』児島俊平著
    「わが国銀山開発に於ける石見人の役割」『第3回石見銀山歴史文献研究会報告書』田中圭一
    「和船」和船模型館発行(模型製作;大下 匡)」
     〔以下「PDF」文書切れ。次回〔6回〕結論を述べるとがあったが、続く(7)文書に果たせなかったとあり、それも途中切れ不明。以下の通り〕
     ォ、「佐渡島の姫津で発表と上映 1−1、前回で終りにできなくなった
     前回までの6回で、一応この論文の区切りにしようと思って「おわり」と書いた。ところが、またまた佐渡の斎藤本恭さんにお世話になって、昨年10月末に佐渡島の姫津で、今までの私の研究発表と映画「波路をこえて」の 上映をさせていただけることになった。夢のような幸運であった。そこでは新しい事実もわかったし私の論文の間違いも発見された。今回は、その発表会の様子を報告し、間違いについても知っていただきたく、この続編を発表するものである。前回までをお読みいただいた方は、ぜひとも最後までお読みいただきたい。〔途中切れで結論不明〕」

    aー2、nikkeiBPnetセカンドステージ:「大久保長安と石見銀山」(石見銀山編その2)」(同net:17年11月30日サイト閉鎖)

     「佐渡金山の経営では「佐渡の魚は勝手たるべし」と漁師たちに自由に漁をさせた。鉱山技術伝承のため石見から渡った人たちが佐渡の漁師にはえ縄漁を伝授し、干物の作り方も教えた。石見ではアマダイだが、佐渡ではスケトウダラを獲った。それを干物に加工して鉱夫たちの冬のタンパク源にすると同時に、特産品として全国に売り出した」」
     〔文章は、石見の鉱山技師が佐渡の漁師にアマダイに代えてスケトウダラの延縄漁法や干物の加工法を教えた等間違った記述がされている。石見の鉱山技師が漁法等にについて佐度の漁師に教えられるはずは常識から考えて有り得ず、石見漁師が佐渡に移住する以前から佐渡ではスケトウダラやタラを干物にしていた史実は佐度にある。夷町小物成納方覚(白瀬 臼杵家文書)より
      「        夷町小物成納方之覚
         一、干鱈      412枚      銀納  
         一、干鯳     2,640枚     銀納
         一、烏賊     9,600枚     銀納

      是は84,5年以前迄は夷町は久地殿之御持に而猟役とて鱈烏賊など生肴に御取被成候処に其後川村彦左衛門殿田中清六殿吉田佐太郎殿中川主税殿四奉行にて当国御支配之砌より干鱈干鯳干烏賊にて納来申候を50年許以前鎮目市左衛門様御持之時御訴訟申上銀納に相成只今迄来候由申伝候
         一、銀  110匁2分  械役

       是は景勝様御代より猟船之役として納来り候由申伝候年数之儀者久敷事に御座候故不奉存候但年々船之過不足に付高下御座候右之通御座候 以上

      寛文10年戌〔1670〕10月

        夷町名主 源右衛門 印  町年寄 藤 四郎 印  同 新 兵衛 印  同 儀左衛門 印  同 九郎左衛門 印  惣町中

      御奉行様 」
     (佐渡の味覚26:スケト」。出所『両津市誌』)
     
    文中の「84、5年以前迄」とは1585年頃のこと、それまで生魚で納税していたのを干鱈〔タラ〕干〔スケト〕干烏賊〔イカ〕に換えて納めた。人間が魚を干して食べたことくらいは、太古からあって当然で、そんな事は私の体験では猫でもわかっている。
     (10年04月30日号「佐渡の風景96:片野尾の海岸線」)
     また、「石見カタセ」〔干しスケト=カタセのことだろう
    〕の言葉が佐渡にあるようだが、要調査〕

     a−3、「大日本地名辞書中巻二版」より「佐度國」「姫津」

     「相川町と北狄の間なる漁村なり、続風土記云、魚鹽〔えん:塩 〕の利は海国の要なれども、昔は其事に疎かりしを、慶長九年〔1605〕甲辰の春、石見国の海浜の民を移して、姫津の浦と云ふ所に置き、国の内にて漁業を業にし、土人にてあまねく見ならはしむ、天和中〔1681〜1684〕に至りて越前の漁民をも移すと云へり、又相川の南の郭門の外に海士町と云を置き、鰒(あわび)を捕ることを業とせしめらる」
       参考:「大日本地名辞書」(ウィキペディア)
     ァ、明治後期に出版された地名辞典。日本初の全国的地誌として、在野の歴史家吉田東伍個人によって13年をかけて編纂された。
     ィ、吉田東伍は越後国の地主の出で、10代より地元安田藩の地誌『安田志料』を著すなど歴史に関心を持ち、上京後は読売新聞の記者として活躍していた
     ゥ、明治28年(1895年)、日清戦争の従軍記者から帰国した後、大叔父小川心斎による未完の『日本国邑志稿』を継ぐことを決意。
     ェ、市島徳次郎の資金援助を受け根津藍染町に家を構え写字生を置いたが、居宅を転々とする中、資料を帝国図書館や知人に借りるなどして独力で編纂を続けた。明治33年(1900年)刊行が開始し、明治40年(1907年)脱稿。
     ォ、吉田は執筆中の明治32年(1889年)より東京専門学校講師を務め、完成後の明治43年(1910年)この業績をもって文学博士に叙位された。
     b、石見から何人の漁師が移住したかについて、史実では3人と出典不明の48人説(その論者は石見の広範囲説ながら大田市馬路説にも賛同しブレている)があり大きな開きあり。この程度の単発情報(往々にして自分に都合のよい情報を当て付けただけと受け止められてやむを得ない)では、現大田市の漁村からとも判断できないことは明らか。

    4、まとめ
    .織シー運転手の事実に裏付けられた朝鮮民族の特性についての話は、思い当たることもあり参考になった。
    1)運転手が「しきじりつ(識字率)」という言葉を使ったのには、驚いた。私自身そんな用語を使ったことはないが、何のことか確認しなくてもすぐに見当ついた。
    2)「識字率」で検索をすると目に止まった見出し・文章は、「世界が驚嘆したしき識字率世界一の日本」。
     内容:「江戸時代の幕末期においては、武士はほぼ100%読み書きができたという。庶民層でも男子で49〜54%は読み書きができた。同時代のイギリスでは下層庶民の場合、ロンドンでも字が読める子供は10%に満たなかった」【出典ないから鵜呑みにできないが、吐き捨てるにはもったいない。幕末日本を訪れた幾人かの西欧の知識人の書の中にその旨のことが記されている】

    3)「韓国 識字率」検索で目に止まった見出し・文章は、「なぜ日本は韓国から漢字をとりあげたのですか?」(出所:ヤフー知恵袋)
     ベストアンサー:韓国の支配層である両班(ヤンパン)は、漢字を、国民に教えることは、自分たちの存在を脅かす存在になることを恐れたのです。国民は、馬鹿のままであった方が、良かったのです。中国の属国であった時代、支配者である両班は、識字率を低く抑えることで知識の独占を行い、支配構造を強化しました。(両班、平民、奴婢)
     韓国政府は、中国の属国だった哀れな歴史を国民に隠し、捏造した輝かしい歴史を教え込んで、民族的自尊心を高揚させています。韓国の歴史教科書が国定教科書の1種類しかないのも本当の歴史を国民から隠すためとも思えます。
     ハングル〔文字〕は、李氏朝鮮第4代世宗大王が学者を集めて1443年に「訓民正音」として完成しました1446年に公布された文字です。ハングルは、元の皇帝が、チベット僧につくらせたパパス文字の影響が強い、といわれています。もともとは、1886年に、井上角五郎が漢字とハングルの混合文を、新聞に用いたことでハングルが普及しました。日本が、朝鮮を統治する以前の朝鮮は、ほとんどの民が文字を書けませんでした。明治維新後(1868年後)、日本が李氏朝鮮の実態を知ったとき、あまりに、文字の読み書きができない人が、多いことを知ったのです。明治維新後(1868年後)、日本が李氏朝鮮の実態を知ったとき、あまりに、文字の読み書きができない人が、多いことを知ったのです。これでは可哀想だと、福沢諭吉や彼の弟子らがハングルを広めました。日本人の善意なのです。
     漢字を含んだものでは、この国を急速に、意思伝達文字に普及させることが、非常に難しかった
    ∈甘戮箸侶犬錣蠅砲弔い涜臈弔 郷土史家や石見国歴史家(但し、一般でなく特定)は、調査不充分で史実不足のまま誤ったことを書いていることが、おうおうにして見られる。
    佐度の金銀山の世界遺産登録は、今年も成らず。
    1)その理由は、個人見解として営業やマーケティングを知らない学者による記述で、審査員に何を主張したいのかわからなくしているのではないかと推察。
     それは、当初金山と直接関係のない能や鬼太鼓の芸能をPRしたこと(審査員は余り知らない)でボケてしまい、相川だけでなく佐渡にはあれもこれもの金銀銅鉱山あったで訴求力喪失。
     学者は必要だが、優秀営業マン・事業家からアドバイス受けるべしが自論。「世界遺産」であるからには、世界でそこしかない事や世界との係わり・世界への影響があったことが当然求められる。
     登録に向けた申請文を公表すべきと思うが、公的HPに見あたらない。これでは広くPRできず、知恵も集められない。
     自論は、新しい事でもなんでもなく次の点を強調すべき。(参考:ウィキペディアなど)
     顱法嶌甘篭盒篁魁廚任覆「佐渡相川鉱山〔この場合「金銀山」でもよい〕は、1601年の発見から1989年の採掘中止までの389年間稼働、その間坑道距離400辧⊃綽300mまで掘り進んだ。産出記録では、金78 トン・銀2,330 トン。最盛期は、慶長から寛永年間にかけ年間金400kg・銀が40トン以上採掘され、「当時としては、世界最大級の金山」。
     髻剖は生糸などの輸入代価として中国などに大量に輸出され、佐渡産出の灰吹銀はセダ銀と呼ばれた。
     鵝帽掌祐にオランダ技術を導入、幕末から明治にかけ西欧から鉱山技術者を雇用。例:イギリス人のガワー(火薬、トロッコ使用)・スコット(西洋の機械類運転)、アメリカ人のジェニン(水銀を使っての金銀製錬)、ドイツ人のレー(垂直坑道(大立竪坑)で大量の鉱石を運び上げ) 。
     堯帽掌祐の「佐渡金銀山絵巻」は、西欧にもある(イギリス、ドイツ、アイルランド)。佐渡に来た鉱山技師が、持ち帰ったものとされる。なお、1617年ローマ製地図には、rgenti fodinae(銀鉱山)として、佐渡、石見の鉱山が記されている。
     )幕末期日本の金銀比率が西洋標準に比べ銀が高いので、佐渡へ来た水夫たちも銀を換金し、帰国して換銀(前記鬚箸盍愀検法
     )明治・大正・昭和期の世界に冠たる産金施設・技術
      西洋式大立堅抗、搗鉱場〔とうこうば:低品位の鉱石を粉砕し水銀を用いて金を回収〕、鉱石・砂利運搬用ロープウェイ、北沢浮遊選鉱場、鉱脈の濃縮機「シックナー」など。これらの設備で1940(昭和15)年に佐渡金銀山の歴史で最も多い年間1,537圓龍發鮴源此
    2)佐渡金銀山の世界遺産登録には、次に掲げる「石見銀山の国際的分野において果たした役割」(島根県HP)が参考となろう。
     「1)銀輸出の歴史的前提
     朝鮮王国の記録によれば、15世紀後半から16世紀初頭の石見銀山の開発以前に、日本は既に東アジアにおける銅・鉄を中心とする金属資源の供給国であった。この供給経路に乗って、石見銀山の銀が東アジアへと搬出されて行った。
      2)朝鮮王国への石見銀の大量流入
     1526年に石見銀山が本格的に開発され、銀が増産されると、1530年代末頃には朝鮮王国との交易手段として銀が大量に用いられるようになった。
      朝鮮王国にもたらされた銀は、同王国と直接行う公貿易において綿布と交換された。戦国時代の日本においては、綿布は軍用品として需要が高かった。一方、朝鮮王国内に持ち込まれた銀は中国から輸入される唐物など高級品との交換にも用いられ、中国北東部の遼東を経て中国へと流入していった。
      当時、日本から朝鮮王国に流入する銀の量は膨大で、1542年には日本国王使が一回に約1,350kgもの銀を持ち込んで交易を求めている。この銀の量は、東アジアを除く当時の世界の年間銀産出量の推計90,200kgであったことと比較しても、相当の量であることがわかる。その当時、日本国内において本格的に稼働していた銀鉱山は石見銀山だけであったから、朝鮮王国に持ち込まれた銀のほとんどは石見銀であったことが窺える。
      3)西欧人の日本来航とキリスト教伝来
     1540年代になると、中国の福建省・広東省・浙江省の船が日本へと来航し、日本銀が中国南部へと流出するようになった。中国船の来航に伴い、香辛料を求めて1510年にはゴア、1511年にはマラッカへと到達していたポルトガル人が、1543年に日本の種子島へと到達した。
     さらに、1549年にはイエズス会の宣教師であったフランシスコ・ザビエルが日本に到達し、東アジアの東端の地においてキリスト教の布教を開始した。
      4)銀王国日本を代表する石見銀山
     1552年、インドのゴアに滞在していたザビエルは、ポルトガルのシモン・ロドリゲス神父に宛てて、スペイン人が日本のことを「銀の島」と呼んでいると書き送っている。当時、品質の良かった石見銀は銀山が所在する佐摩(さま)村の名にちなんで「ソーマ銀」と呼ばれ、東アジアの交易においては最も信用度が高かった。
      実際に、16世紀半ばから後半にかけて、欧州で作成された「バルトロメウ・ヴェリュ世界図」、「フェルナン・ファズ・ドラード日本図」、「オルテリウス=ティセラ日本図」などの東アジア地図の中には、記入されている数少ない地名として、石見銀山を「銀鉱山王国」又は「銀鉱山」と図示したものが見られる。当時の西欧人が日本を「銀王国」と見なした背景には、石見銀山から産出する大量で良質の銀が存在したことが窺える。
      5)東シナ海交易=倭寇(わこう)世界への西欧人参入
     16世紀の対中国貿易では私的な貿易が禁止されていたが、東シナ海域では密貿易集団である倭寇を中心に中国や琉球(りゅうきゅう)の商人が活躍し、これに新たにスペイン・ポルトガルの商人が参入することとなった。
      6)中国による日本銀の吸収
     中国における銀需要は既に15世紀から高まっており、中国国内では慢性的に銀の価値が高くなっていた。
     その背景には、15世紀前半に江南地域から土地税の銀納化が進展したこと、官俸・軍俸の銀支給が開始されたこと、これに伴って1442年には北京に全国の銀収益を管理する太倉銀庫ができたこと、1421年の南京から北京への遷都の後に中国の北部地域と南部地域の経済が一体化し、遠隔地取引が発達展開することにより、決済手段として銀が用いられるようになったこと、などの情勢があった。このように、銀を基軸として政治・経済体制が整備されることにより、中国国内の銀需要は急速に増大した。
     しかし、中国国内における銀生産は一般に低調であった。このような事情の下に、16世紀には石見銀山の開発が契機となり、日本の銀が大量に中国へと吸収されることとなった。
      7)海禁政策及び16世紀〜17世紀中国における銀経済への影響
     16世紀半ばまでの中国では、貿易を独占するために、政府が海禁政策をとって貿易活動を制限していた。銀の流通を介して著しく盛んとなった交易活動に対して、1550〜1560年代にかけて中国が海禁政策を強化すると、日本人や中国人のみならずスペイン人やポルトガル人の一部も加わって構成された倭寇の海賊活動が最盛期を迎える。その結果、1567年に中国明朝は展海令を発し、海禁令を解除するに至った。

     その結果、さらに多くの銀を吸収した中国においては、広大な領域内における遠隔地取引、税制、強大な官僚制など、政治・経済の体制が銀本位制によって支えられることになり、これが明朝(1368〜1644)から清朝(1644〜1912)へと引き継がれていくこととなった。
      8)東アジアにおける金銀比価の平準化と銀の道の形成
     16〜17世紀初頭の東シナ海を舞台とする交易において、日本は中国の生糸・絹織物・銅銭・陶磁器など高度に発達した手工業製品を輸入し、中国・朝鮮に対して銀・金・銅・硫黄などの鉱業産品を輸出した。また、東シナ海域では東南アジアの香木・香料・胡椒・砂糖などが取引されるなど、交易圏が東アジアから東南アジアへと拡がりをみせていた。
     大量の銀の流通は、金に対する銀の価値を相対的に低下させるとともに、銀高であった中国と他の東アジア諸国との間における金銀比価の平準化をもたらした。
     また、このような16世紀後半の東アジアにおける交易の発展は、アメリカ大陸から太平洋を越えてもたらされる新たな銀流入の経路をも形成した。
     以上のように、16世紀における石見銀山の開発と石見銀の流出は、日本〜朝鮮〜中国、日本〜中国の間に「銀の道」を形成する契機となり、東アジアにおける銀という経済的価値の交流と共有をもたらしたのみならず、異なった東西の文明を結びつける宗教や芸術などの文化的な価値の交流をも促した

     以上 2017.12.29
     

    係わりの地101:島根県浜田(漁港・水揚げ場・浜田港)

     こんにちは!自在業の櫻井です。
     大阪、京都、広島に続いて4番目の訪問地は、島根県浜田市。
     11月23日(木)14:50発広島駅新幹線口前から高速バスに乗り、17:20浜田駅前着。電話予約しておいた駅前ホテルは容易にわかり、投宿。
     ラウンジに無料パソコンがあり、有り難かった。1日目は旅館でパソコンは最初から期待せず、2日目はホテルだったが、有料貸出も無し。携帯したタブレットでは資料の貼り付け出来ないので1時間くらい利用させていただき、それから食事に出た。なお、タブレットでの写真張り付けは、当日昼前原爆ドームを撮っていたとき急に動画に変わり、直し方がわからぬまま後はデジカメでの旅行となった。
     ホテルで居酒屋兼食堂のお薦め処4番手に紹介された店で飲食。「一般食堂」と聞いたが酒・肴もあるという。決め手は、ホテルの斜め向かいにある(外は風が強くて寒かった)上に地元の人が多く入るとのこと。
     刺身盛合せ1000円。内容は、ブリ、タイ、サーモン(各2枚)、アオリイカ。薬味は食用菊(瀬戸内海に多かったレモンはない)、微塵切りワカメ。飲んだ燗酒の銘柄は「白雪」。

    1.なぜ浜田か?
    1700〜1810年代まで佐渡で名を成した廻船業浜田屋の先祖は、石見の浜田出身。
     浜田屋の主人・笹井秀山の旅日記は貴重な記録が豊富で、「佐渡広場」で度々取り上げ、今回の旅行でも「佐度との係わり」で、既に大阪・京都の記事において引用している。
    浜田市について事前に調べると(ウィキペディア)
    1)「旧石見国の中心地であり、島根県の西部地方の代表的な市でもある」「浜田漁港(特定第3種漁港)」、「人口56,598人(17年10月1日)」。目ぼしいものは、これだけ。
     佐渡との係わりでは、徳川家康の信任を得て石見銀山の奉行になった大久保長安は、相川の佐渡金山の発見で鉱山経営能力を買われ佐渡奉行に任命された。当時相川ゴールドラッシュによる人口急増(1600年代前半には相川だけで4〜5万人いたとされる)で米などの食料不足、物価高騰。それを緩和するため、長安は石見から漁師を居住地や漁業権を保証することで招き入れて移住させ、延縄(はえなわ)漁法を普及させた。
     (現在でも、相川近郊に「石見」姓6割の集落がある)
    2)「浜田漁港」で調べると、
     a、(ウィキペディア)
     特定第3種漁港。 通常の競りとは違い、上着の内側に手を隠して競り落とす、独特の「懐競り」を行う。15年前のデータであるが、全国で陸揚ベスト5に入る魚が5種あるから相当の漁港。
         漁獲陸揚量
  • カレイ - 2002年度陸揚量全国1位
  • アナゴ - 2002年度陸揚量全国3位
  • サワラ - 2002年度陸揚量全国3位
  • アジ類 - 2002年度陸揚量全国5位
     これで、浜田訪問は自信を持って決まり。
     b、(「浜田市役所」HP)
     ァ、「浜田漁港は県内唯一の特定第3種漁港で、昭和27年に第3種、昭和44年に特定第3種漁港に指定されました。
     本地区の漁業は、古くから底魚資源を対象とした沖合底曳網漁業と、浮魚を対象とした中型まき網漁業が基幹産業です。
      その他、一本釣、定置網漁業があり、陸揚げされる魚種は多岐にわたっています。
     浜田漁港に水揚げされる主な魚種は
      ・沖合底曳網漁業 (かれい類、のどぐろ、あんこう、いか類等)
      ・まき網漁業(あじ、さば、ぶり類、いか類等)
      ・一本釣漁業(いか類、ぶり類、貝類等)
      ・定置網漁業(ぶり類、あじ、いか類、さわら等)
    などがあります」
     ィ、浜田市にある漁港
      顱貌団蠡茖骸鏥港:浜田漁港
      髻紡茖下錙唐鐘漁港・須津漁港
      鵝紡茖閏錙津摩漁港・折居漁港・今浦漁港・福浦漁港・古湊漁港
     c、(「浜田港振興会」サイト)
     「浜田港は1896年明治29)に外国貿易の開港指定を受け、島根県唯一の国際貿易港として、古くから木材輸入を中心に発展を続けてまいりました。
     平成13年には、韓国釜山港との国際定期コンテナ航路が開設し、島根県の国際経0済交流の拠点となっております。
     浜田港では、環日本海時代を迎え国際物流の拠点としての発展を目指し、ハード、ソフト両面にわたる港湾施策を図るため、平成6年2月に島根県・浜田市・会員企業出資により、浜田市長を会長とする浜田港振興会が設立されました。
     浜田港振興会では、大規模港ではできない、きめ細かいサービスを目指し、関係行政機関、港湾関係機関・企業との連携を図り、ポートセールス活動を推進しております。」

    3)更に突っ込むと、
     a、浜田港の歴史は、戦国時代から始まっている(ウィキペディア)
  •   ァ、1425年;鬱陵島に逃亡した者を捕らえるため朝鮮官船が日本海に出向いたところ暴風に遭遇。生き残った10人が地元領主の保護を得て1ヶ月ほど滞在、無事朝鮮に送還。このことで朝鮮は、翌年使者を遣わし礼物を与えた。これがきっかけに通交。江戸期に入り、幕府の鎖国政策で港の貿易は途絶えた。
      
    主な通交品

      顱僕入品 :紬・綿布・虎皮・豹(ひょう)皮・人参・松子(しょうし)・清蜜など

      髻僕⊇佗 :刀剣・朱椀・漉漆(ろくしつ)・蝋燭(ろうそく)・丹木・胡椒など
      ィ、現在は、
     おもに、ロシアなどからの木材輸入と、セメント、石油類ならびに砂利・砂の国内移入が中心。
     2001年に定期コンテナ航路が韓国・釜山港と間に開設:韓国定期航路(週1便、運航会社:南星海運)。
     b、現在は、西側の長浜港と東側の福井港の二つに分かれている。浜田漁港は福井港のさらに東側にある。コンテナ航路は福井港、木材輸入は両方を使用、油槽所は長浜港。

     
    2.光景
     11月24日(金)朝9時チェックアウト。タクシーで浜田漁港と魚市場へ向かった。前日と同じくその日も強風。
    ”妖諜港
    DSC00181
    1)漁船が多く停泊しているのにびっくり。さすが山陰有数の漁港と瞬間思った。運転手さん言うには、波が荒くて出漁出来ず係留しているとのこと。それにしても壮観。
    2)写真中央遠くに見える細長の空洞の構築物は魚の水揚げ場、右のカマボコ屋根はJFしまね浜田支所〔浜田漁協〕〕倉庫か。
     佐渡で言う「魚市場」に行くと、佐渡魚市場と同じくらいの長さの屋根の欄間〔らんま〕に「4号上屋 浜田市漁業協同組合」とあった。4号とあるから他にもあって4倍の規模と思った。〔地図には「6号上屋」が、近隣にある〕
    ⊃緲箸仮
    DSC00184
    1)訪問地としてセリの行われる「魚市場」を指定し案内されたが、多分強風で出漁なくセリも人影のなく殺風景で写真撮らず(上の写真と浜田水産物地方卸売市場を地図で照らし合わせると場所は明らかに異なる)。そこで、佐渡で言えば魚の水揚げ場兼水産物卸市場へ行って写真を撮った。
    2)水揚げ場の向こうに大きな橋が架かっているのが目立つ。相当の工事費がかかったに違いない。調べると、「浜田マリン大橋」、厳島神社のある瀬戸ヶ島に架かっている。浜田市観光協会公式サイトには、「1999年浜田漁港に国内の漁港施設としては最も長い斜張橋(305m)として開通しました。以来、海と漁港とのふれあいと水産業の発展をめざして水産都市浜田のシンボルとなっています」とあった。
    I妖長疏慣

    DSC00190
    1)運転手さんから漁港全体や日本海が見える場所はどうですかいうことで案内してもらった。道の駅「ゆうひパーク浜田」というところ。
    2)冬の日本海の荒波を防ぐ防波堤が、4重に設置されている。
    a、一番遠い防波堤には波が被って白くなっているのが見えるが、2番目からはない。
    b、3つの防波堤の端は、灯台がある。
    c、古くからの港であったことは、小島が多く大波を緩衝していたことによるものだろう。
     ァ、写真左に見える尖端箇所は、「赤島鼻」。
     ィ、他に、「大島鼻」「万年ヶ鼻」「夷ノ鼻」の名がある。
      ウ、「鼻」地名は、浜田市に7ヶ所、佐渡市13ヶ所あり。「鼻」は「崎」とは違い 海岸線のギザギザの尖端を示す。
    3)写真左の遥か沖合に大きそうな島が見える。「高島」で、隣の島根県益田市に属す。

     高島は、益田市北部の沖約12kmに浮かぶ現在は無人島。(ウィキペディア)

     最盛期の1960年に125人の島民が暮らし、島内に益田市立鎌手小学校・益田市立鎌手中学校の分校があった。しかし、過疎化の進行に加え、1972年の集中豪雨災害などで大きな被害を受けたため、1975年3月に全住民が対岸の益田市土田町に集団移住して無人島となった。現在は磯釣りスポットとなっている。
     島民が暮らしていた時は、海藻類・貝類・ウニ類の採取や船を出してのイカ・イサキ漁のほか、南東斜面のわずかな平地を集落や段々畑に利用してムギ・豆・サツマイモや野菜を栽培して生活。本土との連絡は月4便の市営渡船が運行されていた。

    タクシー運転手さんの話
    1)漁港に漁船がたくさん碇泊していることについて、今日は波が荒いため出漁できず船は休んでいる。地元では三角波と言って波が三角形になると、漁に出ないことになっている。今は昔ほど魚がとれなくなり、漁船も少なくなっている。
    2)浜田は石見の中心であったことについて、松平家の城があった。
     江戸時代密貿易をやった地元商人がいて地域振興に役立ったが、幕府に見つかり処刑された。
    3)私が佐度から来たと言ったことに対し、
     昔は佐度から漁に来ていた。冷凍設備のない時代であったから獲った魚は、浜田漁港で水揚げされ市にかけられた。

    3.佐渡との係わり

    (1)佐度沢根の廻船問屋浜田屋の祖は浜田出身

     号「歴史スポット佐渡商人旅日記(1)」に日記の著者・笹井秀山に関連する事柄として「浜田屋」について記述。

     「\郛絽∈険厂臈3人が石見の浜田より出国し佐渡国へ来た。権左衛門は相川で山師の商売をした。その頃、沢根は特別に船が多く入り繁栄したので問屋商売をし、沢根に浜田屋を興し、その後佐々井(笹井)次郎兵衛を婿にもらい、一緒に暮らした。(寛政9年(1797)、笹井新屋(浜田屋分家) 伊助(秀山)の書いた「笹井氏先祖由来」)

     1)「銀山が盛んなって伊豆、石見両国より銀山巧者を呼び寄せ、銀山を預けた。その人数36人、銀山採掘36ヶ所、1人1ヶ所預けた・・・」(『佐渡風土記』慶長9年(1604)の条「相川府中開発之事」)。その36人の山師の中に、佐々井九之助の名がある。佐々井家はのち笹井と書くようになる。

     2)本格的に廻船業に乗り出したのは天和年間(1681〜83)(新屋家所蔵「大福船玉勘定」)

     ⊇┿海領垢靴進顕州隠闇(1813)には、浜田家本分家の船は、大黒丸・大徳丸・明神丸の3艘。

     明神丸(500石船)は1791年相川の者より買い入れ、「佐渡路を放つより否や、風よろしければ直ぐに沖梶(おきかじ)にて下関へ、4日目あるいは5日目に着して、大坂・堺・瀬戸内を駆け回った」とある。(船玉勘定帳)」
    ∧簑:歴史スポット50:佐渡・廻船業と千石船」より

     1)「1677年、佐渡の廻船業として既に名高い船渡源兵衛と鮭・筋子・粗鉄・千割鉄などの取引が始まり、その後も米・大豆・鉄などの取引を続けている。

     a.本家は鉄の産地石見の出身、分家・新屋は日本海物流の中心地で鉄などが集まる敦賀がある越前の出身。浜田屋が鉄屋といわれていたのは、そういった関係からである。

     b.沢根には鶴子銀山、隣は相川金銀山があって鉄製品の需要は高く、背後は米どころ国仲平野で農工具作りや修理など鉄の需要が高い。自然、近くに鍛冶町が形成された。現に沢根に鍛冶町があり、鍛冶とは仕事上不可分な関係にある炭屋町の町名がある」

     2)「元禄年中(1688〜1703)沢根・上町から沢根・下町に移転、やがて沢根町名主となる。川上から佐々井(笹井)に名前が変わる(浜田屋新屋)。1717年三代浜田屋権左衛門没。浜田屋が町を代表するまでの繁昌を築き上げた」

     3)「寛政〜化政(1789〜1829)にかけ家業の隆盛期は、大乗丸・幸徳丸・大徳丸が活躍」
    (2)根岸鎮衛の『耳袋』にある浜田屋
     根岸鎮衛(ねぎししずもり:1737〜1815年)は、佐渡奉行・勘定奉行・南町奉行を歴任。
     『耳袋』は、全10巻1000話からなる珍談・奇談で、佐渡奉行在勤(1784〜87年)の頃から古老などから聞いた話を書き集めて置いたもの。

    「人の貧富人作に及ばざる事

     佐州沢根湊は廻船等を以て家業とする者多し。浜田屋某とて至って吝嗇(りんしょく:けち)にて追々家富みける。外の草きりの問屋共の内にも身上相応の者あれども追々衰へしもの共有りしが、かの浜田屋が吝嗇を土地の者も憎みて、浜田屋が船は難船にもあへかしと思ふに、外々の者の船は難船などにて大きに損失あれど、浜田屋が船は其の憂もなし。土地の者共浜田屋が諸差引金銀貸方等のいらひどきを憎みて、或時夜に入り若き悪者共申し合わせ、浜田屋に損分をかけ候積りにて、掛けて置きし船の帆柱を2つ3つに切りて心よしとて忍び帰りけるが、翌日聞きしに浜田屋の帆柱と思い切りしに浜田屋の持船にはこれなく、近年衰へし外廻船持の帆柱にて有りしとや、土地の者語りける由。」

     (

     「明治22年(1889)以降多くの(イカ釣り)指導者が全国各地に派遣されている」「明治23年頃には、北は青森、南は長崎まで各県の要請に応じてイカ漁法の指導員を派遣したり、他県からの伝習生や冬イカ漁師のための宿舎を建てたりして、佐渡スルメの評価を一段と高めた」(資料:『両津市誌』)

     以上  2017.12.18


     
     
     

     

    係わりの地100:広島(広島球場、原爆ドーム)

     こんにちは!自在業の櫻井です。
     11月22日(水)JR京都駅15:10発新幹線に乗車、広島駅16:50着。
     広島は初めて。昨年4月1日ゼミ会で四国松山道後温泉へは、瀬戸内海を船で渡るという珍しさもあって広島港からが当初の予定であったが、出発間近になって高速バスで尾道からに変わった。
      (16年4月15日号「係わりの地88:尾道(広島県)」)
     今回は、山陰の浜田(市)を訪れるには広島からが速くて頻繁ということで決めた。

    1.広島の光景
    (1)JR広島駅南口
    ―亳を出た上にあった表示
     改札口を出ると北と南の方向に分れ、駅員に宿泊ホテルの名を告げ方向を尋ねると南口というので、その方向へ進んだ。出口の上の壁に、
     「カープ感動をありがとう」(今年もセ・リーグ優勝を果たしたが、日本シリーズへの出場権を決めるクライマックスシリーズのファイナルステージでDeNAに敗れ、日本一にはならなかった)
     「ようこそ広島へ」の日本語・英語・中国語・ハングル語(提供:広島市、(財)広島観光コンベンションビューロー)
    が、印象的。
    ∀面電車
    1)広島電鉄(株)の電車で、広島駅前からは広島港行き・宮島口行き・江波行きの電車がある。
    2)電車が着くたびに人が大勢下りてきた。辺りは薄暗く、夕方ラッシュの始まりにぶつかった。
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    1)駅前であるが見当たらない。前の大通りを渡れば視界が広がるのにどう行けばよいかはっきりしない。なんとか横断歩道を見つけて渡ったが、すぐに橋があり川があるのに驚いた。広島は、川が多いとは聞いていたが、耳学問と経験は大違い。
    2)交通関係者に宿泊ホテルのことを尋ねると、駅前といっても古いのは駅から右へ行った所にあり、新しいのは川向うにあり、どちらが近いかというと古い方だろうと言う。
    3)ケータイでホテルへ確認したが、応対者の声が遠く何回も大きな声でと催促したがはっきり確認できないまま、近い方と思い右へと探して進んだ。やっと、看板が見えた。裏通りで改装中であった。
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    1)お酒は地元産を中心にいろいろあるがメモにあったのは、賀茂鶴(東広島市)、そして飲んだわけでないが純米吟醸・九頭龍(福井県)。
    2)数匹入った小鯵(アジ)天ぷら。
     a、一口で食べれる。
     b、薬味は、レモン・辛子大根・桃色の塩。
     c、刺身(単品各700円):タイ・カンパチ・サワラ・スズキ・水イカ
    (2)JR広島駅北口
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    1)翌日11月23日(水)南口からタクシーを拾って市内見物しようと思っていたが、タクシー乗り場が見つからない(南口にもあったのだが、わかりにくい)。歩いている人に尋ねると、北口にあることのこと。繁華街の南にないのは不思議と思いながら階段を上がっていくと、南北自由通路〔2F:12年からの着工で今年開通、それまでは地下道〕の出入口に広島東洋カープの健闘を称えた大きな看板があった。
    2)2F北口からタクシー乗り場はすぐに見つかった。タクシーでの市内見物(写真を撮るだけ)は、事前候補として 広島港・広島城・広島市民球場・広島ドーム・川が多い広島らしさを現せる撮影スポットがあった。
     タクシー運転者に尋ねると、広島港はタクシーで20分要す、広島城1958年以降の建築(原子爆弾投下によって倒壊されたからと教えてもらった)、広島市民球場は2010年閉鎖・解体され今は跡地である
    ということで取り止めた。
    3)北口には、浜田行き高速バスの発車場で切符の自動販は売機もあり、場所確認ができ安心。
     東側は改修工事中。トイレまで200mの表示が50mごとに後150m、100m!・・・と表示しているのは有難い。なお、広島駅はトイレットペーパーの器具が切り取った場合次の人が引き出し易いように金属蓋(近年は樹脂製でギザギザのもの有り)の中央部分に出っ張りがあるのも同様。普通は次の人の便宜のためペーパーを逆三角形にするのがエチケットだが、不要となる。大袈裟な表現すれば、メカ自体に心遣い。
    (3)MAZDA Zoom-Zoom スタジアム
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    .織シー運転手言うには、毎年11月23日は、カープのお客様感謝デーで球場前は混雑しているしているかもしれない。25日は、応援感謝優勝パレードが行われるという。
     その時、なぜ11月23日か不思議に思った。(昼食時に駅に戻って食事するため構内にある飲食店街を回るとどこも満員には驚いた。(広島東洋)カープの日にこんなに大勢人が来るのかと思いながら考えていると今日は勤労感謝の日であることに気付いた)
      マツダスタジアムには、外野席の部分であろうか多くの人の姿が見えた。
    ◆2017カープファン感謝デー:広島東洋カープ公式サイトより
     開催:11月23日(木・祝)9:30〜15:30
      ※小雨決行 ※中止となった場合の振替開催なし
     内容:
     【当日抽選当選者のみのイベント】
       ・選手とキャッチボール ・サイン会 ・選手と記念撮影会 ・ベースランニング
     【その他イベント】
       ・選手トークショー ・お楽しみ抽選会 ほか
    E日11.23日同付けサイト
     「延べ32,000名と多くのお客様にご来場いただきました」
     「最後は2018年キャッチフレーズの発表と、スタンドへのサインボール投げ込みを行い、ファン感謝デーを締めくくりました」
    (4)原爆ドーム(資料:「広島市 原爆ドームトップページ 」)
    原爆ドームと川
    仝暁ドームは、タクシーから降りるとすぐに見えた。
    1)大通り沿いにありながら そこは鬱蒼とした感じで、建物は爆風と長い歳月に耐えながらも 今にも崩れ落ちそうな感じであった。
    2)近くには児童が20人くらい集まって学習している様子であった。写生会もあるらしい。また、外国人観光客がドームを背に記念写真を撮っていた。
    3)川の入った写真を撮るため、相応しい場所に移動してもらった。写真手前の川が太田川、原爆ドーム(当時、広島県産業奨励館)の斜め向こう約160mが爆心地。(昭和20年(1945年)7月25日米軍航空撮影(米国国立公文書館所蔵) 写真の中の図から推定)
    原爆ドームの歴史
    1)もとの建物は、チェコ人のヤン・レツルの設計により、1915年広島県物産陳列館として竣工。
     a、一部鉄骨を使用した煉瓦造の建築で、外装は石材とモルタル。全体は窓の多い3階建て、正面中央部分は5階建ての階段室、その上に銅板の楕円形ドーム(長軸約11メートル、短軸約8メートル、高さ4メートル)が載せられていた。
     b、館の業務は県内の物産、他府県からの参考品の収集・陳列、商工業に関する調査及び相談、取引の紹介に関する図書・新聞・雑誌の閲覧、図案調製等。
    2)館の名称は、1921年広島県立商品陳列所、1933年からは広島県産業奨励館と改称。
    3)しかし、戦争により産業奨励に重点を置いた運営がなされるようになり、さらに戦争が激しくなると、館内の展示も縮小の一途。1944年館業務は廃止。内務省中国四国土木出張所や広島県地方木材株式会社など、官公庁や統制組合の事務所に使用。
    4)1945年8月6日一発の原子爆弾で広島市街の建物は一瞬倒壊。「産業奨励館は爆心地から北西約160メートルの至近距離で被爆し、爆風と熱線を浴びて大破し、天井から火を吹いて全焼しましたが、爆風が上方からほとんど垂直に働いたため、本屋の中心部は奇跡的に倒壊を免れました。当時この建物の中にいた内務省中国四国土木出張所や広島県地方木材株式会社・日本木材株式会社広島支社・広島船舶木材株式会社等の職員は全員即死しました」
    5)戦後、旧産業奨励館の残骸は、頂上の円蓋鉄骨の形から、市民から「原爆ドーム」と呼ばれるようになった。
     a、当時、原爆ドームについて、記念物として残すという考え方と、危険建造物であり被爆の悲惨な思い出につながるということで取り壊すという二つの考え方があった。
     b、原爆ドームは、1953年広島県から広島市に譲与。ほぼ被爆後の原形のまま保存されていたが、年月とともに周辺には雑草が生い茂り、建物の壁に亀裂が走るなど傷みが進行、小規模な崩壊・落下が続いて危険な状態となった。そのため、1962年以降周囲に金網がはられ内側への立ち入りが禁止。
     c、保存を求める声が高まる中で、市は1965年から広島大学工学部建築学教室に依頼し原爆ドームの強度調査。翌昭和41年(1966年)、広島市議会が原爆ドームの保存を要望する決議を行い、これを踏まえ、広島市は保存工事のための募金運動開始。国の内外から6,620万円の寄附金等が寄せられ、1967年第1回保存工事が行われた。
        参考:(昭和41年7月11日)原爆ドーム保存を要望する決議
    「広島市は昨年、100万円の調査費をかけ、原爆ドームの保存方法について調査を完了した。
     その結果、補強によって保存に耐えるとの報告をうけている。
     核戦争阻止、原水爆の完全禁止の要求とともに、ドームを保存することは被爆者、全市民、全国の平和をねがう人々が切望しているところである。
     ドームを完全に保存し、後世に残すことは、原爆でなくなられた20数万の霊にたいしても、また世界の平和をねがう人々にたいしても、われわれが果たさねばならぬ義務の一つである。
     よって、このドームの保存について万全の措置をとるよう決議する。広島市議会」     
     〔最近の保存工事:地震による損傷を低減させるため、平成27年度(2015年度)から平成28年度(2016年度)にかけ、地震対策として第4回保存工事を実施〕
     d、平成8年(1996年)12月原爆ドームの世界遺産登録決定。

    2.特記事項
    々島は太田川デルタ地帯にあり、川と橋が多い
    1)予備調査で知っていたが、中心街の至る所に川と橋に出合った。運転手に聞くと6つ川があるという。勿論それなりの川のことで、そういう都市は全国余りないと思った。
    2)調べると、「デルタ6川」といわれる太田川・天満川・元安川・旧太田川(本川)・京橋川・猿猴川のことで(他にも川は多くある)、長さ2m以上の橋は約2,600。
    3)昔映画で「原爆の子」を見たが、被爆者水が欲しいと言って次々に川に入り亡くなっていったシーンの印象が強く残っている。
    日清戦争時〔1894〜95年〕臨時の首都機能を担ったことがある。
     「
    明治時代に入ると、陸海軍の拠点が集中する軍事都市となり、特に日清戦争時には広島大本営が置かれて明治天皇が行在し、第7回帝国議会は広島市で開かれる」(ウィキペディア)
    9餾殃刃楕顕重垰
     1982年当時広島市長荒木武の呼びかけにより設立された平和首長会議は日本で始まり、現在150を超える国から4600以上の自治体が加盟。同会議は、核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)の国際提携組織の一つでもある
    っ羚顱四国地方で最大人口:人口1,198,555人(17年10月1日現在)、中国地方の中枢都市:中国地方高等裁判所・中国財務局・中国経済産業局・日本郵便(株)中国支社・中国電力等の所在都市。

    3.佐渡との係わり
    〆甘呂塙島との係わりは殆どないと思っていたが、昨年3月ブログ佐渡広場に次のコメントが入った。
     「私は天湯津彦命と阿岐国造の裔で田所恒之輔と申します。今度佐渡を訪ねて、佐渡本間家様に佐渡国造等の情報について、ご指導を仰ぎたくメールを致します。」
    1)大変な方からと思い、「阿岐国造」をウェブ(「日本辞典」HP) で開くと
     「阿岐国造〔あきのくに・みやつこ:国司〕は阿岐国(現・広島県西部)を支配したとされ、国造本紀(先代旧事本紀)によると成務天皇(13代)の時代、天湯津彦命(あまのゆつひこのみこと)の5世孫である飽速玉命、飽速玉男命)を国造に定めたことに始まるとされる。古事記には阿岐国と記載され、大化の改新後は阿岐国の領域そのままに安芸国が設けられた。国造氏族は佐伯氏と伝えられ、厳島神社の佐伯鞍職が初代神主となって以来、一時藤原家に神主職を奪われたが、佐伯氏が代々世襲で厳島神主を務めているという。また現・田所明神社宮司の田所氏は阿岐国造家であった佐伯氏の末裔であるといい、速谷神社は初代国造・飽速玉命を祭神としていることからも、安芸の祖・安芸津彦命(あきつひこのみこと)は天湯津彦命と同一視されている・・・」  
    2)ご氏名を検索すると、「地域の歴史と文化の学習 ―古代・中世における安芸国の土地をめぐる紛争― 安芸国の歴史と伝統文化を伝える会 会長 田所 恒之輔」サイトがあり、その中の項目「天湯津彦命と阿岐国造と田所氏 」に次の記述があった。
     「先代旧事本紀によると天湯津彦命阿岐国造〔広島県西部〕の遠祖とされ、同じく阿尺国造〔福島県郡山市〕、思国造〔不詳岩代国? 〕、伊久国造〔宮城県角田市・伊具郡周辺〕、染羽国造〔福島県双葉郡周辺〕、信夫国造〔福島県福島市・伊達市〕、白河国造〔福島県白河市・西白河郡・東白川郡及・石川郡)〕、佐渡国造、怒麻国造〔愛媛県今治市西部〕、波久岐国造〔山口県山口市・宇部市・防府市の一部〕等は阿岐国造同祖で天湯津彦命を遠祖と伝られる。
     安芸国は『古事記』では阿岐国と記載され、大化の改新後は阿岐国の領域そのまま安芸国(上国)が設けられた」   
    3)「佐度国造」を調べると次のようにあった(前掲「日本辞典」HP)。
     「佐渡国造は佐渡国(現・新潟県佐渡市、いわゆる佐渡島)を支配したとされ、国造本紀(先代旧事本紀)によると成務天皇(13代)の時代阿岐国造と同祖で久志伊麻命の4世孫である大荒木直(おおあらきあたい)が国造に任命されたことに始まるという。佐渡国は雑太郡一郡のみの国であったが、721年に雑太郡・加茂郡・羽茂郡の三郡に分かれ、後に佐渡郡一郡にまとめられた。古くより遠流の地であったこと、金山・銀山に恵まれた土地柄から独特の文化を形成したという。平清水の荒木大明神は現・荒貴神社と考えられており、国造・大荒木氏の氏神とも伝えられている」
     【文中「古くより」から「独特の文化形成」までは、佐渡国造の説明になっておらず 字数を稼ぐだけで解説文としての未熟さを示している】
      参考 崟務天皇」(景行天皇14年 - 成務天皇60年)は、『古事記』『日本書紀』に伝えられる第13代天皇(在位:成務天皇元年1月5日 - 同60年6月11日)。日本全国の数多くの国造を任命したと伝わる。・・・。日本書紀では国造や稲城の設置、国郡の境を定めたとされている。 『記・紀』に載せる成務天皇の旧辞部分の記事は、他の天皇のそれに比して極端に文量が少なく、史実性には疑いが持たれているものの、実在を仮定すればその年代は4世紀半ばに当たると考えられている(ウィキペディア)
     参考◆峭啜神社は、1323(元享3)年本間兵衛太郎相共が勧請」(参考「佐渡人名録」HP「珍しい苗字」:「同じ読みで別漢字」の例荒木・荒貴・嵐城・嵐鬼

    係わりの地99:京都(八坂神社、堺町・柳馬場界隈)

     こんにちは!自在業の櫻井です。
     11月21日(火)は、大阪訪問後京都へ行き宿泊。
    1.はじめに
     ゼミ会は、昨年は4月1日四国松山市の道後温泉、今年は1回おきとなる京都。会場は祇園八坂神社に近い旅館。これまで2年おきの開催が、昨年から毎年になった。
     出席は10人中体調不良の1人を除き、今年も出席者9人。
     万年幹事の島田氏には、頭が下がる。私含め面倒見が悪いというか出来ない者ばかりというか、リーダーシップや企画運営の能力がないというか、受け身で依存心が強いというか、狡(ずる)いというか解釈いろいろあるが、氏なくしてゼミ会はなかったことは確か。
     近年京都をテーマにした記事。(注)記事と訪問月日にズレあり。
      (◎:ゼミ会宿泊、〇:クラス会日帰り)
    10年04月11日号「係わりの地52:京都四条河原」◎(花見小路・新町前通りの旅館。地域として祇園に入るようだ)
    14年12月06日号「〃73:京都・吉田周辺」◎(ゼミ会とは別に先に萩へ行き、京都でゼミと異なる旧友に逢い、その後比叡山の延暦寺会館でゼミ会)
    15年05月15日号「〃82:京都(智積院、東・西本願寺)」〇 
    16年05月15日号「〃93:京都(姉小路・三条通り、蹴上)」〇
    17年11月21日号「〃99:京都(祇園八坂神社、堺町・柳馬場界隈」◎(祇園町南側の旅館)
             今回スケジュール
      1.日程   2017年11月21日(火)——22日(水)
      2.宿泊場所 
        東山区祇園町南側499 (円山公園、南側徒歩3分)
      3.宿泊予約  大橋会(幹事:島田)
      4.宿泊費用  2部屋予約、1泊2食。明細略
      5.集合   11月21日(火)のpm3時から5時に現地集合。
         4時までに集合された方で、鴨川・四条通・円山公園を散策して5時に戻る。
         夕食は6時からの予定。
      6.その他(抜粋)
        21日の夕食後、紅葉のライトアップで有名な高台寺へ。
        22日朝は、永観堂、哲学の道を経て京大に。
        昼は、pm1:00〜京大の時計台下にあるレストラン。
        昼食後は、北野天満宮または二条城またはどこかを見学。
      (私は体調等の関係で、夕食後の高台寺、翌日午前の散策・昼食後見学に参加せず)
     今回私なりのテーマは、宿泊が祇園だから八坂神社(余裕あれば円山公園)、そして三度目の正直として江戸期に佐度人が泊まった三河(三川)屋などがあった界隈巡り。

    2.内容
    (1)旅程
    。複丗膾絮悗ら新快速で約30分くらいで京都駅。
    ∋團丱垢望茲蟲星狠紂所要時間20分前後が、15:40発に乗り16:20頃下車。仲間にも40〜50分かかったと言っていた者がいた。交通は渋滞・交通信号の切り換え時間が他所より非常に長いと感じた・バスは観光客やその後降りる人無しの学生などの乗車ですし詰め状態で京都の夏の蒸し暑さを想い起こさせた。清水ではそれなりの人が降りた。四条通に面した八坂神社西楼門から南楼門を通って旅館へ。
    M眛9時過ぎいったん仲間と別行動。八坂神社南楼門→西楼門→四条通に出てタクシー→堺町姉小路界隈徒歩→京大時計台レストラン→JR京都駅→広島駅→駅前ホテル(泊)
    (2)光景
    “坂神社
      西楼門                            南楼門
    20171121_16255620171122_095216
    1)16時半前に旅館へ行く道で境内に入った。観光客が多い。着物・浴衣姿の若い男女が歩いているのが目立つ。石段や門のところで写真を撮ったりしている。
    2)境内にある本殿・舞殿・絵馬殿をさっと回ったところで辺りは暗くなってきた。祇園の業者らしき人がいたので旅館への道を尋ねると、「〇〇はんなら、少し行ったすぐ左です」と教えてくた。
    3)翌朝は、昨日同様南楼門の鳥居をくぐった。まだ9時過ぎというのに屋台は開いており、人出もそこそこあった。
     店は、「京はしまき」(「どんどん焼き」か。「九条ねぎ・京湯葉入り」と書いてあった)、違いはわからなぬが「京風おでん」、「焼き鳥」「蟹肉棒」「フランクフルト」「チキンケバブサンド」「もちもちポテト」、そして「北海道じゃがバタくん」の店まであった。
     山門では朝から着物姿での記念撮影はそれぞれ楽しそうであった。
     野外音楽堂とか坂本龍馬・中岡慎太郎の石像等々思い出のある円山公園には体調はよいが不安もあるため寄らなかった。
    4)八坂神社の前 東山四条角にコンビニがあった。最高の店舗立地で家賃ベラボーと思うが、社会貢献大。
     《資料1》八坂神社(資料:ウィキペディア)

     a、八坂神社は、京都市東山区祇園町北側にある神社。二十二社(神社の社格)の一社。旧社格は官幣大社、現在は神社本庁の別表神社。〔二十二社は、国家の重大事・天変地異の時などに朝廷から特別の奉幣を受けた。平安時代後期・白河天皇の1081年に制度として確立したとされる〕
     慶応4年(9月8日に1月1日に遡って明治元年に改元)の神仏混交禁止により「感神院祇園社」の名称を「八坂神社」と改めた。

     b、全国にある八坂神社素戔嗚尊(すさのおのみこと)〔明治以前は牛頭天王〕を祭神とする関連神社(約2,300社)の総本社。通称「祇園さん」とも呼ばれる。
     ( 牛頭天王(ごずてんのう)は日本における神仏習合の神で釈迦が説教を行った祇園精舎の守護神。「蘇民将来説話の武塔天神と同一視され薬師如来の垂迹であるとともにスサノオの本地ともされた。京都東山祇園や播磨国広峰山に鎮座して祇園信仰の神(祇園神)ともされ現在の八坂神社にあたる感神院祇園社から勧請されて全国の祇園社、天王社で祀られた」)

     c、社伝によれば、斉明天皇2年(656年)、高句麗から来日した調進副使・伊利之使主(いりしおみ)の創建とされる。
     d、祭神
      ァ、現在
       中御座:素戔嗚尊 (すさのおのみこと)、東御座:櫛稲田姫命 ( (くし(い)なだひめのみこと)‐素戔嗚尊の妻)、西御座:八柱御子神 (やはしらのみこがみ‐8人の子どもの総称)
      ィ、明治の神仏分離令以前
        中の座:牛頭天王(ごずてんのう)、 東の座:八王子(はちおうじ) 、西の座:頗梨采女 (はりさいにょ・ばりうねめ)

     e、祇園祭は、貞観11年(869年)に各地で疫病が流行した際に神泉苑で行われた御霊会を起源とするもので、天禄元年(970年)ごろから当社の祭礼として毎年行われるようになった。
     f、「現在の山鉾巡行の原形は、鎌倉時代末期の『花園天皇宸記』元亨元年7月24日(1321年8月18日)条の記述からうかがえる。それによれば、鉾を取り巻く「鉾衆」の回りで「鼓打」たちが風流の舞曲を演じたというもの」
     g、「かつては、旧暦6月に行われていたが、現在ではグレゴリオ暦7月行われている」
      《参考2》祇園祭の起こりと近年(資料:ウィキペディア)
    1)起こり
     a、864年(貞観6年)富士山大噴火、溶岩が大規模に流出して山麓に達す。869年(貞観11年)陸奥で貞観地震、津波によって多数の犠牲者が出る。
     全国的に地殻変動が続き、社会不安が深刻化する中、全国の
    の数を表す66本のを卜部日良麿が立て、その矛に諸国の悪霊を移し宿らせることで諸国の穢れを祓い、神輿3基を送り薬師如来を本地とする牛頭天王を祀り御霊会(ごりょうえ)を執り行った。この869年(貞観11年)の御霊会が祇園祭の起源とされる。
     b、元慶元年(877)京都で疫病が流行。占ったところ東南の神の祟りとされ、そのため各社に祈り奉幣が行われたが一向に治まらず、さらに占ったところ、東山の小祠の祟りとわかり勅使を発遣、祈ったところ疫病の流行が止んだ。
     c、元慶3年(879)陽成天皇より堀川の地十二町が神領地として寄進。円融天皇は、天延3年(975)6月15日走馬・勅楽・御幣を奉られ、これ以後、祇園臨時祭が6月15日に継続執行されるようになったと考えられている。

     d、御霊会が生まれた直接の背景は、「平安京がもともとが内陸の湿地であったために高温多湿の地域であったこと、建都による人口集中、上下水道の不備(汚水と飲料水の混合)などにより、瘧(わらわやみ=マラリア)、裳瘡(天然痘)、咳病(インフルエンザ)、赤痢、麻疹などが大流行したこと。その原因が、先に大水害により挫折した長岡京遷都工事中に起きた藤原種継暗殺事件で無実を訴えながら亡くなった早良親王ら6人の霊の仕業との陰陽師らによる権威ある卜占があったこと、など」「さらに1世紀後の970年安和3年)からは毎年行うようになったとされる」
    2)戦後から今日
     a、戦後京都の中心部もドーナツ化現象が進み多くの山鉾町の居住者が減少し、運営に支障。そのため曳き手をアルバイトに頼ったり町内にある企業に応援を依頼が増えた。
     b、その後町内にマンションが建ち、新しく転入した住民は「新住民」などと呼ばれ山鉾保存会に入会できなかったが、1986年以降各山鉾町は順次新住民の保存会加入を認めるようになり、現在では新しく建つマンションの居住者に保存会加入を勧めるところが多くなっている。
     c、以前多かった呉服商などの減少とそのあとに多く建てられたマンションにより、多くの山鉾町が保存会会員不足から脱している。
    江戸期佐渡人の定宿(じょうやど)のあった堺町通姉小路界隈

    1)堺町通
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    2)柳馬場通

    柳馬場六角柳馬場六角2
     a、祇園から佐度人の定宿巡りでタクシー運転手に指定したのは、「柳馬場六角下る」。地図では祇園から一番近く、後は歩く範囲にあるからである。
     b、ところが、鴨川添いの三条・二条を通り越し、御池通りまで出てしまった。問うと、一方通行で回り道せざるを得ないとのこと。その時とっさの判断に堺町で降りればよかったが、そのままにした。
     c、柳馬場六角から三条を経て姉小路は徒歩5分、柳馬場から堺町は同3分。六角〜姉小路は5分。佐度人の定宿は、堺町姉小路から10分未満にあったことが判明。
       ↽   御 池:   →
          ↑       高倉 堺町 柳馬場 富小路
         烏 姉小路:            ◎
            三 条 :   
         丸 六 角 :       〇  〇
          ↓
    (3)メモ
    |緤姿の観光客が多いことについての記事。
     「祇園四条を歩いていると浴衣や着物姿の人が多いことに気付きます
     最近は、祇園四条に着物レンタルのお店が大変多く、着物を気軽に着て京都散策を楽しむことができます。

     少し小径に入ると寺院や古い町屋が建ち並ぶ祇園四条エリアでは、奥ゆかしい着物が大変似合います。
     自宅から着物を着ていくとなると荷物も着付けも大変ですが、着物をレンタルするこことで気軽の和装体験をすることが可能です。
     祇園四条駅周辺には、ざっと検索しても20件以上の着物レンタル店があります。
     最近では、ネットで気軽に事前予約ができますし、男性用のも用意されカップルで和装大変できるところも多いの人気の理由です。
     お店によって、半日・1日とレンタル時間を決めることができるので、日帰りの方でも宿泊でのんびりの人でもご自身の時間の都合に合わせて利用することが可能。
     価格もお一人3000円くらいからとお手頃です。

     また、せっかく着物を綺麗に着付けてもらえるので、自撮りだけでなくプロのカメラマンに本格的に撮影をしてもらえるプランも人気があります。
     八坂神社や建仁寺、花見小路など撮影ポイントなど実に沢山あるので、素敵な写真が撮れそうですね。」
    京都は近年観光客で賑わっていることについて たまたま乗ったタクシー運転手の言。
    1)昔の京都の観光業者にとっては、閑散期である冬の観光をどうするかが課題であったが、今は年中多くて忙しい。
    2)この状態は更に高まり東京オリンピックでピークとなるが、今のうちに道路の拡充等自治体や政府が対策を講じなければ 大変なことになる。
    3)オリンピック後のお客からのしっぺ返しが、怖い。
     【京都は、既に一部あるいは一定の日本人から観光面で敬遠され、飽きられていると感知ないし察知しているらしいのは、さすが。問題は、どこまで予測される問題に対し対策を立てているかにある。道路はじめ交通網整備は、今からでは間に合わない面がある】
    4儻バブル
     今回の一連の旅から帰って来た翌日家内が京都旅行に出かけた。帰って来て言うには、京都の地価は坪200万円以上とのこと(中京区と下京区は該当)。調べてわかったことは、以下。
    1)「京都市の最新公示地価は平均30万8879円/m2(2017年[平成29年])、坪単価では平均102万1087円/坪で、前年からの変動率は+9.28%
     中京区の17年の地価:平均86万1,425円/屐閉效渦284万7,685円/坪)・前年比12.48%。(「土地代データ」サイト)
    2)「京都府が〔9月〕19日に発表した府内の基準地価は、京都市を訪れる訪日外国人観光客(インバウンド)の急増で宿泊施設の需要が高まり、同市の商業地の上昇率は政令指定都市で全国1位」「背景には、宿泊施設の建設ラッシュがある。特に、広い面積を要しないゲストハウスや「民泊」などの簡易宿所が京都市内で急増しており、2016年3月末の約700カ所から今年7月末には約1800カ所に増えている」(2017年09月20日「京都新聞」サイト)
     「賃貸ビルを取り壊してホテルに衣替えするケースもあり、市内ではオフィス不足が深刻化。企業は物件探しに苦心している」(2017年07月03日「京都新聞」サイト)

    3.佐度との係わり
    “坂神社
     1)潟上の牛尾神社に伝わる宝物についての文書に次のものがある。(資料:『吾潟郷土史』)
         相渡申一礼之事
      一、十六番神、大般若
      一、石の花
      一、翁の面並三番面
      一、五対之御朱印
      右之品々、従先現代々親出雲預り置候分、出雲隠居仕候ニ付、氏子重立寄合 (略) 以上
      寛政3亥年〔1791〕4月  潟上村 牛頭天王八王子権現 神主 土屋因幡 印
        氏子重立 中 
        潟上村下組名主 忠右衛門殿
        仝 村 上国名主 惣左衛門殿
     【京都八坂神社の前身「感神院祇園社」と祭神は同じ。牛尾神社は当時は「牛頭天王八王子権現」で、「潟上の天王さん」と呼ばれている。
      「佐渡3郡時代には、各郡に1社ずつ中心になる天王社があり、羽茂郡には羽茂本郷の草刈神社、雑太郡には長石の長石大明神、加茂郡の場合は、「潟上の天王さん」(牛尾神社)であった」「毎年6月13日は、牛尾神社の例祭「天王まつり」が、開催」(08年8月7日号「佐度の神社3:牛尾神社」)
     また、羽茂まつりは6月15日であるが、1960(昭和35)年以前は6月12日の天王祭り(菅原神社)6月15日の八王子祭り(草刈神社)があった。(13年7月6日号「佐渡の祭り52:6月15日羽茂まつり」)】
    祇園祭:「祇園祭」は全国にその名があり、名前は違ってもやり方が伝播され地域独自の祭りを形成。
    1)草刈神社の場合、祭神は牛頭天王で京都の祇園社と同系統。当社が関係すれば「三つ巴」であったはずだ。  祇園祭といえば、屋台の山車(羽茂では「棚」と呼ぶ)が象徴的。棚について、1734年からの棚組の記録が残っている。草刈神社は羽茂祇園さんともいわれた。
     それぞれの集落の棚には独自の出し物が用意され、賑やかな競演が繰り広げられた。その代表が、寺田や村山のつぶろさし、仮屋の芝居。木戸の棚には春駒とつぶろさしの道具、仮屋の棚には3人遣いの人形が残っている。
     大石の惣代文書より、草刈神社例祭屋台順序

     「1番西方、2番小比叡、3番村山、4番大石、5番清士岡、6番飯岡、7番木戸、8番大谷、9番仮屋、10番天沢。仮屋、天沢は1年交替のこと。獅子、船、春駒、白刃以上番外。各屋台揃えは午前10時のこと。右の通り6月1日に決定相成り候に付、無洩御告示被下度候。此段年迄候也 明治34年6月5日」
    2)羽茂のつぶろさしは、2つとも京都の祇園祭から習ってきたといわれる。
     a、寺田のつぶろさし(菅原神社に奉納)の由緒伝説
      昔、葛西三四郎という羽茂城の茶坊主が、殿様の言い付けで茶道の修行に行き習ってきた。殿様はこれを一族の子孫繁栄と郷内の一粒万倍(豊作)祈願のために、城中の荒神宮に奉納し定着したものという。
      今の太神楽つぶろさしの獅子頭に、「八王子牛頭天皇御祭獅子頭、寺田組、寛政7〔1795〕乙卯6月、世話人関口庄次郎、大工藤井久兵衛、塗師堀尾伊兵衛」と添書きがある。
     b.鬼舞つぶろさし(草刈神社へ奉納)
      「文禄のころ(1592〜95)榊原藤七という者が、京都の祇園祭か習い覚えてきて伝えた。祇園祭の多くの屋台の中に、特に目を引く一台があったのでしばらく泊っていて習ってきた。そのときの説明によると、吉野山開山の祝いに奉納されたもので、前段は吉野開山の鬼踊り、後段は岩戸神楽の一部という説明であったという」
     (資料:『近現代の羽茂』)
    3)江戸期の祇園祭の一端を佐渡廻船商人が克明に日記に記している。
     『海陸道順達日記』(佐渡廻船商人の西国見聞記)』1813年(文化10)浜田屋・笹井秀山の旅日記)より。
       【当然ながら祇園祭は、新暦7月でなく旧暦6月】
     文化10年(1813)6月6日「・・・明日は京と(都)の7日祇園御神事なりければとて、此辺なかば繁しく人通りこそ有りて、くんじゆ(群衆)致候。今晩、何れも烏丸〔からすま〕辺え参り、段々祇園祭り之山ほこ(鉾)之かざり一見仕り候処、山ほこ(鉾)の廻りに数拾てうちん(提灯)掛かり有りければ、其見事なる事いわん方なし、上へにはゆわゆるぎおん(祇園)ばやしをぞいたせり。殊にぎわしふぞ見へけり。各かうじ(小路)を出で、通り丁之間にも所々に山ほこ(鉾)有之候故、人々くんじゆ(群衆)をぞ致しけり。彼是いたし宿所へ帰りければ、九つ(11時)前にぞなりにけり。
     6月7日「・・・今日は誠〔まこ〕と祇園祭りに御座候処、やはりあけ7つ頃よ雨ふり出し申候よりよりいなや、今日中大雨ふり続き、其上へ夜に入候てもやまずと也。次第に大雨して」諸人難儀之躰なり。・・・祭りは4つ頃より始まりて、暮7つ時に相すみ候。猶又、京都之町之家ごとに同じせい〔背〕の高はり(張)を立てる事珍敷候。紋所、丁ちん(提灯)の高さよく揃ふたり。さて、丁ちんには紋所2つあり。一つはくわ(桑)の内にき京(桔梗)、一つは祇園牛頭天王の御紋とて三ツ巴なり。何れも紋赤くして平家のじだい(時代)をりやく(略)しぬ。其くわの内にき京とは、則〔すなわち〕信長公之御紋也。是を京と(都)にて用ゆる事は、むかし世みだれし頃、やや久しく祇園祭りのすた(廃)りけるを、再び織田信長公の興し給ひて、又ぞろ祇園え(会)を行ひしものゆえ、如斯、其例を以町人うやまい奉りて、せめては信長公の御紋にてもとて、京中如此ぎおんえの丁ちんにはもつこふ(木瓜)と三ツ巴なりけるぞかし。是は信長久しく打たえし京の祭りを興せしものなるがゆえ、其恩を謝して、京中家ごとに表紋はくわの内にき京(桔梗)、裏紋は三ツ巴なり。尤町内家々にまく(幕)打廻し、みす(御簾)を掛け、店先に金銀の屏風を張り廻らし、下には緋毛氈を家毎ひきならべければ、いなかもの(田舎者)も是には恐いりけり。猶、四条通りには祇園大明神の御たび所有之。是へ14日迄御逗留なるよし也。今日は雨ふりやまず候得共、近国より之人之、猶近在之見物人夥〔おびただ〕しくぞ出けり。・・・
     さて、都図絵にも有りける事(如)くにて、京都祇園会之祭或は毎年之6月朔日〔1日〕に鉾之稚児祇園参りより、乗りもの或は馬上等にて其日行列華麗をつくし、誠や大名の往来に似たり。又5日には鉾の引き初めなり。6日早天には、六角堂において山鉾行列前後の䦰(くじ)どりあり。其日之夕方には、宵宮かざりとて山ほこを祭日之如くにかざり立て、提灯かずかず掛けつらねて、夜更る迄囃子有り。是を祇園ばやしと云ふ。貴賤くんじゅ(群衆)いわんかたなし。7日は祇園会とて、卯之刻より京極を引ひて、それより南松原を西え引き渡すなり。此日、かぐらの祭礼は、未(ひつじ)の刻にして感神院より御旅所え神幸あり。・・・」
    佐渡人の定宿、本質は佐渡商人のいわば京都出張所。
    1)昔の宿屋は、問屋・倉庫・運送業者が兼務。
     業務内容;地元・地方の商品需給状況・相場等の情報提供、商品販売と仕入、商品保管、取引先紹介、商取引の斡旋、商談場提供、故郷等からの文書授受・故郷等への文書委託、同郷人との情報交換等々。
    2)前掲『海陸道順達日記』より。祇園祭の前。
     (1813年)5月8日「今朝は此大津観音前を発足し・・・京都三条通りへ出て申候」「堺町姉ヶ小路上カル処、三河屋へこそは尋ね行きけり」。
     宿(呉服問屋であろう)の源右衛門殿と初めて対面、国元からの書状を数通差出され、礼を述べた。「幸ひここに佐州の仁、〔相川〕4丁目風間源七殿〔おそらく呉服問屋〕にも此程御逗留(とうりゅう)被成る候て、・・・」
     9日「今日は染めもの分何かと調べ、宿元源右衛門殿へぞ引渡し注文えぞ致しけり」
      (10日以降の日記は、京都見物の事柄)
    14日「早朝より雨天」。宿の職員に頼み、「ふくろ〔袋〕物など取り寄せ、・・・・小買い注文等相調候。なお、染物帳面・裾〔すそ〕模様帳・小紋形、いろいろ取り寄せ、宿元源右衛門殿並風間源七殿殿えも相談の上、染屋の方へぞ引き渡しけり」
    15日:「今日は少々の小注文かた、宿源右衛門風間氏同道いたし、京都小買もの相調申候」。岡部源左衛門殿が大坂から尋ねて来て久しぶりに面談。国元の事など話し合い、大坂相場等を承ったところ〔佐渡産〕干しイカの仕切りなど取り出し見せてもらったので、敦賀の干しイカの件で桑名屋旦那からの書状を差し出し、敦賀辺の様子などを話し合った。
    16日:(三河屋滞在)風邪で宿にて休む。
    17日:六角下ル所の扇屋何某の館(やかた)で、文左衛門殿、夷の和三郎殿、古城代右衛門殿に逢った。いずれも昼立って敦賀へ行かれるので、書状などお願いした。同町の近江屋嘉兵衛と申す旅籠屋(はたごや)へ佐渡・間ノ山の風間氏が用事あって立ち寄ったとのことで行ったが不在。その後鐙屋(あぶみや:佐渡出身者が経営する宿で、中京区柳馬場六角下ルにあった)へも立ちより、新穂の喜平次殿と対面した。なお、案内していただいた宿主の源右衛門殿とは蛸薬師東洞院まで見送っていただいた。三条通りから伏見への道のりは3里。伏見で1人前銀1匁・ふとん代24銭出し、淀川を大坂へ下る船に乗った。

    4.まとめ
    〆2鶺都で驚いたのは、観光客の多さと交通渋滞。
    1)これまで京都を訪れ、驚くことは無かったと思うが、2年前にあった。
     JR京都駅に電車で着いて烏丸通りを歩いていると、本来は前方向こうに東本願寺の大きな建物・長く続く塀が見えて来るはずであるが白い巨大な洋風箱型建造物が目に入った。その時のことを、「異様な感じがし、不思議にも『サティアン』という名前が出て来た。まさか財政難でどこかの団体や国に売り渡すはずはなく、お坊さんの建築センスがここまで現代風になったのかとも思った」、そして「真宗本廟阿弥陀堂御修復」工事(2011年着工、15年末竣工予定)と判ったと記した(15年5月15日記事)。
     今回の場合は早とちりでなくて現実。
    2)観光客の多さが、バブルを呼んでいる。
     a、京都市の2017年の総平均地価 (公示地価、基準地価の総平均)は坪107万円でピークの1990年(平成2)坪486万円の22.0%の水準に過ぎないが、近年の前年比推移は
     13年:0.33%⇀1.83%⇀2.94%⇀3.40%⇀17年:9.46%と年々急激に高まっている。
     b、ホテルやゲストハウス・民泊など簡易宿所の宿泊施設の建設・開設ラッシュ。
     ァ、事例;16年08月のブログ記事「速報!! 京都 烏丸通 ホテル建築ラッシュ!!」(京都在住の不動産マニア)より。
     顱鳳┫殤讃鬚陵夙校建物をホテルに転換:16年11月開業予定。建築主:小田急電鉄
     髻法(仮称)烏丸五条ホテル計画:10階建・完成H30年8月末。建築主:(株)ユニホー(東京都)〔北隣に東横インあり〕

     鵝法(仮称)京都四条烏丸ホテル」:9階建・完成H30年3月末。建築主:三菱地所
     堯法(仮称)〔烏丸三条西側〕両替町通姉小路計画」:9階建・完成H29年9月末。建築主:東急スティ(株)
     )『(仮称)ソラリ西鉄ホテル京都建築計画〔烏丸御池東の木屋町〕:5階建・完成H28年7月20日。建築主:西日本鉄道
     ィ、最近の状況(2017年07月03日「京都新聞」サイト)
     a)市中心部の空きオフィスは減少の一途。オフィス仲介大手の三鬼商事(東京都)によると、JR京都駅(下京区)から丸太町通までの烏丸通周辺に立地するビルの平均空室率は、米リーマン・ショック後の世界同時不況で2010年後半に12%を超えたが、直近は2%台まで低下し、満杯に近い状態

     b)背景の一つには、近年活発化しているホテルやマンション開発に伴う地価の高騰。賃貸ビルを運営する地元企業の担当者は「土地の取得費に見合う賃料収入を得るのが難しくなり、市中心部ではこのところ新規の賃貸ビルが建っていない」と説明。

     さらに、景気回復でオフィスの拡張や新拠点の開設が増えていることも、需給をひっ迫させている。三鬼商事大阪支店は「家賃を値上げするビルも出始めており、空室の不足が強気の価格設定に表れている」とみる。

     c)京都駅近くの賃貸ビルに入居していた公的団体も今年2月、貸し手側から半年以内の退去を求める通知を受け取った。ビルを取り壊し、再開発するという。職員は「確認していないが、おそらくホテルだろう」と話す。周辺で移転先を探したが、賃料と広さが同じ水準の部屋は見当たらず、前より賃料が高い中京区のビルに引っ越した。

     d)職員は「最近はホテルばかりできるが、オフィスビルがなければ事業所が減り、税収にも響くと思う」とこぼす。空前のホテル開発ラッシュでミニバブルの様相を呈する京の中心部で、「オフィス難民」問題も顕在化しつつある。
    京都祇園祭を1467年の応仁の乱後復活させたのは、「京の町衆」というのが地元での常識・通説だが、佐渡の廻船商人の日記からは、織田信長が決定的。勿論、当人の説でなく京都の定宿の主人(町衆でもある)から聞いた話であろう。
    1)祇園祭の提灯に、「三つ巴紋」と信長に敬意を表し織田家家紋の「木瓜紋」が対になっているということに説得力がある。
     a、「織田家の家紋の読み方」記事より。「木瓜紋は外郭の数により、木瓜、五瓜、六瓜と図案のバリエーションが多く、織田家の家紋はこの内、五瓜の中の一つに当たります」「八坂神社を始め、全国の祇園社で神紋として使用されており、格式高い紋であると言えるのではないでしょうか」
     b、「町衆」一般では、統率・統一が容易でない。祭りは、一面で町内間の競い合いで だからこそ進歩するが、スムーズに行かないのも現実。
    2)祇園祭に山鉾を繰り出す町内の信長の影響を伝える例
     a、33基の山鉾それぞれに紋があり、長刀鉾の場合は「長」。町内の古老の口伝によると、信長が長刀鉾町内に何かを寄進した時、自筆で書いたとされる「長」を使うようになったという。しかも、信長が左手で書いたものと伝えられている。
     b、「重要文化財 小袖 綾地締切蝶牡丹模様片身替」は、信長から拝領したものと芦刈山町内では伝わっている。京都の祇園祭の山鉾に残る衣装の中で最古のものであるとされる。
    ゼミ会
    1)皆「古稀」通過の年齢になっている中、10人中9人が集まった。
     a、大学卒業後47年経ったゼミ会の出席率90%は長寿社会の現代でも稀でないか!下手な駄洒落だが「古稀」ならぬ「現稀」(=元気)。しかし、たとえ本人は元気でも例えば身内(介護、孫の世話等)や地域活動(町内会・趣味会の行事等)に事情あればそちらを優先させざるを得ない場合も多いだろう。
     c、毎朝の犬の散歩やトレーニングセンターで軽い運動をしたりして1日8000歩を意識している者や(血圧や体重測定は毎日欠かさず)、又あと20年は健康状態で生きると宣言した者、車の運転免許証を返納した者もいた。
    2)宴会での話題
     a、東芝問題から原発問題(福島の場合基本技術はGE(ゼネラルエレクトリック社)任せでGE自身は米国に無い地震・津波は想定外のため問題が拡大、政府は政治・経済配慮から隠していることは沢山ある等々)、日本の米国技術依存問題(米国は基本技術は日本に絶対教えない:そういえば、国産ジェット旅客機がまだ完成できず、今年1月5度目の納入延期発表)・北朝鮮からの核ミサイル防衛問題。
     b、趣味のパチンコ話(前々から月次・年次決算をしており趣味の域逸脱)と当業界斜陽論。
      株
     c、海外駐在
      イランに駐在期間中は所得税を同国へ支払っていたとか今でもイギリスから年金が月にして十数万円送金されてくるという話〔その間日本からで無いだろうから、大した額でない〕、
     大学時代彼女との交際自慢話、
     d、株の自慢話は出なかったが、出席者9人全員 程度の差こそあれ皆それなりの株を持ち運用しているようだ。
     e、2部屋あって、早く休む方は夜11時前には隣の部屋で寝て、後の方は0⃣時半過ぎまでやっていたようだ。翌朝7時行って見るとまだその部屋の全員が寝ていた。
    3)来年は、仙台から大分まで候補地がいろいろ出た中で 有馬温泉(神戸市北区)に決定。
     以上 2017.12.10

    係わりの地98:大阪(心斎橋、道頓堀)

     b、大阪市の北の玄関口梅田と南の玄関口難波を船場・島之内経由で結ぶ、全長4,027m、幅43.6m、全6車線の幹線道路で、日本の道100選のひとつ。

     c、沿道は銀行や企業の本支店が集中するビジネスの中枢。
     d、両側には約970本のイチョウが植えられている。読売新聞社選定の「新・日本街路樹100景
    」の一つで大阪市のシンボルとなっている。
    土佐堀川に架かる淀屋橋
    DSC00141
    1)遠くから見ると 橋の欄干や袂〔たもと〕で大勢の人が動かずにいる。何となく異様に感じ 近づくと皆スマホを見ていた。昼休み時間帯には少し早く、40〜50代と思われるビジネスマンが大半。写真を撮っていると、瞬く間に少なくなった。
    2)8年前の09年大阪を訪れた時、淀屋橋の中ほどから土佐堀川沿いに並ぶオフィスの写真を撮っていた。そして御堂筋を歩き伊藤忠大阪本社前を通った。同社について場所を調べると11年8月「本町からJR大阪駅ノースゲートビルディングに移転いたしました」とあった。
      《参考》「中之島」(ウィキペディア)
    a、中之島は、大阪市北区にあり、堂島川と土佐堀川に挟まれた、東西約3km、面積723,266m2の細長い中洲
    b、
    開発は、「大坂の陣」後〔江戸幕府と豊臣家(羽柴宗家)との間で行われた合戦。大坂冬の陣1614年・大坂夏の陣1615年〕、大坂の豪商・淀屋常安により1615年に開始。淀川(現・旧淀川)本流の中洲であることに加えて、大阪湾から遡上する二大航路の安治川と木津川の分岐点でもある中之島には諸藩の蔵屋敷が集中し、全国各地の物資が集まる「天下の台所」大坂の中枢を担った。明治になると、諸藩の蔵屋敷は払い下げられ、大坂の商業やビジネスの中心としての役割だけでなく、国の重要文化財大阪府立中之島図書館や大阪市中央公会堂(中之島公会堂)等の文化施設や大阪帝国大学(現、大阪大学)や病院が、市民の寄付などで建設され、近代商都大阪における情報と文化の発信地であった。
    c、近年は高層ビルへの再開発が進み、ダイビル本館・中之島ダイビルをはじめ中之島フェスティバルタワーが竣工、「住友不動産による住友中之島ビルの超高層ビルへの建替え、京阪電鉄大林組による外資系ホテルを誘致しての複合高層ビル(中之島四丁目再開発)も計画されている」
    大丸心斎橋店
    御堂筋 大丸本店大阪大丸
    1)大丸の沿革(ウィキペディア)
     1717年(享保2年)下村彦右衛門正啓、京都伏見の生家に古着商「大文字屋」開業。(大丸創業)

     1726年(享保11年)大坂木挽町北之丁(現・中央区心斎橋筋一丁目)に大坂店(おおさかだな)「松屋」を開店、現金正札販売をはじめる(現・心斎橋店所在地)。
     1728年(享保13年)名古屋本町四丁目に名古屋店(なごやだな)を開店、初めて「大丸屋」を称する。

     1736年(元文元年)京都・東洞院船屋町に大丸総本店「大文字屋」開店。経営理念を「先義後利」と定める。
    (「義」は「商売における正しい道」「公共のために尽くす気持ち」を意味し、「顧客第一主義に徹すれば、利益は自ずからついてくる」。下村は毎年冬になると貧しい人に食べもの、古着やお金を施し、人の集まる寺社に大丸マークつきの灯籠や、手ぬぐいを大量に寄付する等利益を社会還元していた)
     1743年(寛保3年)江戸日本橋大伝馬町三丁目に江戸店(えどだな)開店。
     1837年(天保8年)大坂の大塩平八郎の乱〔天保大飢饉→百姓一揆→豪商米買い占め〕に際し、富豪は焼き討ちに遇ったが、「大丸は義商なり、犯すなかれ」の命で焼き討ちを免れたと伝えられている。
          ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
     2007年 3月大丸と松坂屋ホールディングスが経営統合に関して基本合意。同9月設立。同11月J.フロント リテイリング(株)が松坂屋ホールディングスを吸収合併。
     2010年同社傘下の百貨店事業会社が合併し(旧松坂屋を存続会社として、旧大丸を合併)、新しい百貨店事業会社「株式会社大丸松坂屋百貨店」が発足。大丸(だいまる、英称:DAIMARU)は、J.フロントリテイリンググループの百貨店の屋号。
    2)大丸、今年創業300周年。大丸心斎橋店では、これを記念していろいろな催しが開催されている。
    3)大丸についての記憶は、初めてレコードを買ったのが京都時代の初年四条通りにある大丸で1964年の時。目当ての盤(ベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」。指揮ブルーノ・ワルター)が、
    そこにあった。多分先に交通便利な四条河原町通り角の高島屋に行ったはずだが、そこになかったということだろう。

    F仔榾
    道頓堀橋
    1)写真は南北に走る御堂筋に架かる道頓堀橋からの東方向への眺め。向かいの橋の延々と続く人の波に目を見張った。向かいが戎橋。写真左が北(キタ)、右が南(ミナミ)。
    2)絵画ブログに載っていた自作風景画にあるグリコの看板が見えた。まず写真を撮ってから描いた位置の見当がついた。
    【「絵画ブログ」とは、「スーラ・ウタガワの『画家ごっこ雑記帳』」で私がよく拝見しているブログ。管理人自己紹介には、関西の名所を油絵で描いており、目標は100景とある。ウェブ上での関西名所図絵美術館の館長で、現在美術館には、
      第1室:大阪南部
      第2室:大阪北部
      第3室:大阪湾岸部
      第4室:神戸地区
      大5室:京都地区
    がある。
     グリコ看板が見える絵は「大阪南部」に入り、「昼下がりの戎橋」「夜の戎橋ー1」「夜の戎橋ー2」、大丸南館を描いた「冬の心斎橋」などが展示】
     a、道頓堀(「OSAKA INF」サイト)
     「松竹座にカニ道楽、そしてグリコの看板などによって象徴される道頓堀は、大阪・ミナミの代表的な繁華街。道頓堀の名は、慶長17年(1612)に私財をなげうって川を開削した安井道頓(やすい・どうとん)の名前に由来。その後、幕府の都市計画によって道頓堀の南側に大坂中の芝居小屋が集められ、47軒の水茶屋が許可されて長らく日本の芝居の本場として栄えた。芝居に大勢の人が集まってくると、食べ物屋も自然に繁盛した。現在、芝居小屋は戎橋〔えびすばし〕近くの松竹座だけが残っているが、飲食店は道頓堀通りの北側にさまざまなジャンルの店が軒を連ね、一年中賑わいを見せている。また近年では、川面の遊歩道・とんぼりリバーウオークも人気を集めている」
     b、「道頓堀5座」(ウィキペディア)
     ァ、戎橋南詰から東側にかつて存在した浪花座・中座・角座・朝日座・弁天座の五つの劇場のことで、1653年1に芝居名代5株が公認されたことに始まる。「五つ櫓」とも言う。道頓堀を代表する劇場群で、近代に至るまで、歌舞伎や仁輪加(軽演劇)、人形浄瑠璃などが賑々しく興行された。
     
    ィ、昭和初期までにこれらの劇場はすべて松竹の経営に移り、一部は映画館に転向。第二次世界大戦後、朝日座が東映に売却され大阪東映劇場(後に道頓堀東映と改称)となる。弁天座は文楽座と改称され、人形浄瑠璃の常打劇場となるが、やがて人形浄瑠璃は松竹の手を離れ、朝日座と改称。角座は演芸場に転換、演芸ブームで隆盛を誇ったが、漫才ブーム終了後に失速。いずれも昭和末期に閉鎖された。
     
    ゥ、平成に入りバブル崩壊で、松竹は残った中座(松竹新喜劇の本拠地)、浪花座(松竹芸能の本拠地)を相次いで閉鎖し、角座も含めてことごとく敷地を売却。ここに、道頓堀五座は事実上一旦消滅した。現在商業演劇や歌舞伎の定期公演などは大阪松竹座で行われているが、道頓堀五座とは別個の劇場である。
     ェ、2013年、松竹芸能が角座跡地の所有者であるケンズネットワークスから賃借する形で、お笑い劇場「DAIHATSU MOVE 松竹芸能 道頓堀角座」を開場。五つ櫓の一つである角座が復活した。
    た敢惷橋據戎橋筋

    心斎橋筋戎橋筋
    1)心斎橋筋は、御堂筋のひとつ東側の筋で 船場・島之内を南北に縦断する道路。区間は淀屋橋駅付近の土佐堀通との交点から道頓堀川に架かる戎橋までの約2.5kmで、戎橋以南は南海難波駅に至る戎橋筋に接続する。
    2)戎橋:「大阪ミナミの繁華街の中心に位置」「北詰は心斎橋筋の南端で心斎橋筋商店街が長堀通まで南詰は戎橋筋の北端で戎橋筋商店街が難波駅前まで伸び、人通りが多い。とりわけ南西袂にあるグリコサインは有名で観光スポットにもなっており、1日平均20万人(休日は35万人)が戎橋を通行している」(ウィキペディア)

    (3)メモ
    仝翔俺擇蓮▲ぅ船腑Δ見頃であった。タクシー運転手が言うには、1週間前が見頃。黄色い葉が風に飛ばされ、街路は落葉だらけになったとのこと。毎年のことながらが清掃する人は、大変だと言っていた。市の管理であろう。また、11月20日から年内は御堂筋の木々にイルミネーションがともされるとのこと。
    13時過ぎの遅い昼食は、入り口に「日本料理」と暖簾に染めてあったビルの2階の店(中央区西心斎橋)。
    1)いつものようにお酒燗ならぬアチ燗2合800円注文。
    2)つまみは湯豆腐600円。コンブ(昆布)が目測8×6cmもあるのに驚いた(馴染みの新潟の店はその半分)。
     a、コンブの江戸時代からの流通ルートは北海道→敦賀(福井県)で加工→大坂・京都。敦賀は、コンブ保存技術が発達。列車の窓から「敦賀の昆布」という広告を見たことあり。
      (08年11月2日号「越前・敦賀と佐渡」)
     b、コンブは、食べてしまうのはもったいなく何かの出汁に使うためいつものように紙に包んでポケットにしまった。
     c、佐渡でもコンブは採れるが、現時点コンブの産地と言われるほどの規模ではない。
    3)終わりに「蕎麦類」と言ったが「うどんなら」ということでメニューを持って来た(成程、大阪は関西でうどん、大阪のキツネうどんは有名で発祥地は大阪と言われている)。見れば、メカブうどん・玄米うどん・椎茸うどん・備長炭うどん各800円とあった。備長炭うどんについて尋ねると備長炭の粉末を入れたもので黒いうどんだそうだ。話の種にあると思ったが、旅行の初っ端で胃でも壊したらと思い、同店自慢の1200円のうどんにした。すると黒っぽいうどんが出て来た。食べ終わる頃「蕎麦湯」とつい言ってしまった。きょとんとしていたのですぐ物事を知り訂正。
    心斎橋筋と戎〔えびす〕橋筋は、火曜平日13時というのに大勢人が通っているのに驚いた。日本人がその時間帯に多くいるはずない。
    1)多くはアジア系観光客と見た。若者が多い。
    2)外国人観光客については、8年前の09年にも大阪城で多いと感じた。
    3)絵画ブログで見たグリコの看板が、俄然旅を面白くした。

    3.佐渡との係わり
    (1)交易
    ‖膾箍米(09年3月9日号「歴史スポット50:佐渡廻船業と千石船」)
    1)「1690年佐渡奉行に就任した荻原重秀による増税策で年貢米に余剰が生まれ(金銀山がピークを越え人口減少と人口増に対応した新田開発効果が加勢)、増米分=佐渡余剰米=他国御払米=大坂廻米を大坂市場で販売するようになった。これを「御蔵米」と呼び、換金化される必要があった。1695年船渡源兵衛船が、買い取った御蔵米を大坂へ運んだ。松ヶ崎の菊地喜兵衛、沢根の浜田屋も同様で発展の機会を得た。

    2))佐渡奉行所により1750年羽茂・大石に大坂へ廻す米蔵ができ大石港が開かれ、1751年には佐渡産物の他国出し解禁となった。」
    ◆愕のζ蚕臙F記』(佐渡廻船商人の西国見聞記)』1813年(文化10)浜田屋・笹井秀山の旅日記)
    歴史スポット51:廻船の航海と商い」。追記あり)

     大坂の宿は、久宝寺屋。今回旅の目的の一つである息子・岩之助の痔の治療で紀州の華岡青洲の所へ治療に行くことは宿屋も知っており、道中の案内人を雇ってくれた。当宿は浜田屋廻船の船乗りが年々ここを利用するようになり、宿屋にとって良い得意先であった。「宿元にもひとしお喜悦之様子にぞありける」。当節、ここ道頓堀芝居(歌舞伎)が来て興行し紀州に行った帰りでは見れないかもしれず、旅の疲れがないようであれば芝居見物に行きましょうと誘われたので出かけた。
     【「久宝寺屋」の「久宝寺町」は大阪市中央区にあり、御堂筋の淀屋橋南の本町と心斎橋の中間にあり、船場の中の「南船場」に位置。宿屋のそこにあったのだろう】
     《参考》「船場」(ウィキペディア)
     大坂の町人文化の中心となったところで、船場言葉は江戸時代から戦前期にかけて規範的・標準的な大阪弁とみなされていた。 
     範囲:船場は河川と人工の堀川に囲まれた(囲まれていた)四角形の地域。

    東端 - 東横堀川 (阪神高速1号環状線南行き)
    西端 - 西横堀川 (阪神高速1号環状線北行き。1962年埋立)
    南端 - 長堀川 (長堀通。1964年埋立)
    北端 - 土佐堀川

      の東西1km、南北2km。江戸時代の町組の名残で、本町通の北を北船場、南を南船場と呼び分け。東は上町、南は島之内、西は下船場、北は中之島に接する。
     船場の街並み:街区は基本的に40間四方の正方形・街路は碁盤目状に直交。大坂城の西に位置することから
       東西方向竪(たて)の街路を通(とおり)と称し計23本
       南北方向横(よこ)の街路を筋(すじ)と称し計13本。

      南船場には北久宝寺町通、 南久宝寺町問屋街として知られる南久宝寺町通がある。

     (参考は以上)
     1813年5月17日「大坂ハ又京都などト違ひて、都(すべ)て繁昌の土地なり」「此辺かぢばた(河岸端)に茶店多し。、、、ここは川々多きが故、幾らといふかずもしれぬほど、大橋小橋を通ふりて後ち、それより九之助橋筋へ出、南詰久宝寺屋へ七ツ時に参り候」「亭主利兵衛殿之かさねて被仰候(おおせられそうろう)には、当事此辺のどうとんぼり(道頓堀)、此程幸ひ取組芝居有之。人々くんじゅ(群集)最中に候」

     5月18日の朝、佐渡・寺尾与三左衛門殿の取引先 大坂船問屋・鍵屋の使いが来た。鍵屋の番頭の案内により、再び芝居を見に行った。

     6/26:大坂の宿に逗留のところ、佐渡人が宿に尋ねてきた。伊勢で世話になった河原田定八と申す人が荷物を担ぎ、佐渡・斉藤作兵衛ご夫婦と一緒で今夜は道頓堀の宿屋に泊まるとのこと。そのご夫婦は、5/9佐渡を出発し江戸に出、東海道を京都へ上り、伊勢を参宮して大坂に来られた。小生は宿の店員と河岸端を通って太物町で木綿や縞木綿などを注文。心斎橋の大丸の大店では袖縞などを見て小買した。「大丸も相応大きなる店方なり。手代小者共800人余りも有るよしなり」。沢根・金子氏に要望された真鍮(しんちゅう)大矢立て等をこの辺りで買い、宿へ帰った。
     6/27:昼頃宿の主人同行で本家の注文の茶瓶等古道具屋で注文し、瀬戸物屋でも皿鉢など小口注文して帰った。晩に葛野氏(浜田屋本家)が来られた。また、宿屋の番頭の振る舞いで大坂港・荷役衆の浄瑠璃の好者6〜8人が来て佐渡人に見せてくれた。「大坂の浄瑠璃、いやはや恐れ入り申し候」
     7/13:「夷かぎや(鍵屋)北次郎船、今朝於ニ宿の久利(久宝寺屋利兵衛)ニいか〔烏賊〕商い被致候」。我々が出発を申し出ると宿の主人が酒肴をとりあえず持ってきた。初めての難波の津(大阪湾)に上り、特別に歓待していただき「予も悦(よろこ)ひのまま愚なる筆をとりて、涼しさや久利之庭の朝あらし  

     岩之助 初に来て種々の馳走に逢坂〔大坂〕の関とて出(いず)る難波津の空 

     宿之御亭 久利殿の返歌 まんまるう治まる君の御代とてもなおおしまるる旅の空哉 」

    川路聖謨著『島根のすさみ』(佐渡奉行在勤日記)1840年9月24日
     「きょう、〔佐渡奉行所の〕庭よりみるに、500石積計の船、大坂より帰り来たりて、2艘かかり居る。物あぐる声、いとかしまし。望遠鏡をもてみるに、竹に虎の旗あり。米俵を小船にのせ、岸へあぐる也。間も無く浜より訴あり、俊蔵並びに目付役荷上検使として参る。右の米ごときものは、帯の破れ、てがらのちぎれたる迄を集めて俵にせし也。夫(それ)を此国の田舎へ遣し、洗いさきて織りて、前にも記す半天のごときものとなして、賎(しず)が衣とはなる也。さき織は裂織なること、初てしりたる也。」
    (2)芸能
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    1)日本大百科全書(ニッポニカ)
     岡本文弥が創始した浄瑠璃(じょうるり)の一派。岡本文弥(?―1694)は山本角太夫(かくたゆう)の門下と伝えられる。大坂道頓堀の伊藤出羽掾(でわのじょう)で、おもに角太夫や井上播磨掾(はりまのじょう)の語物(かたりもの)を演奏、1670年代(延宝年間)以降その曲風が流行した。哀調のある曲節に特徴があったようで、「文弥の泣き節」とよばれた。義太夫節にも多数の旋律型が取り入れられたが、現行の曲節から文弥節の特色を抽出することはむずかしい。1702年(元禄15)ごろに2世文弥が現れたものの、義太夫節に押されて、ほどなく廃れた。近年まで石川県や鹿児島県でも文弥人形の音楽として演奏されたが、現在は佐渡の郷土芸能として伝承されている。
    2)「(宮崎県)山之口の文弥人形」サイト
     「文弥節」とは、延宝【えんぽう】〜元禄【げんろく】頃大坂の伊藤出羽據座【いとうでわのじようざ】で活躍した太夫「岡本文弥【おかもとぶんや】」の創始したとされる浄瑠璃で、義太夫節以前の古浄瑠璃の一つである。その感傷的な節付けで「泣き節」「愁【うれ】い節」ともよばれ、『竹豊故事【ちくほうこじ】』(宝暦六年刊)に「伊藤出羽據座の文弥節は諸国の浦々隅々迄もはやり、遠国辺土【おんごくへんど】の西国巡礼の衆中、京都にては御内裏様、大坂へ来ては出羽據の芝居を見て帰らねば西国したる甲斐もなく、死ては閻魔大王の前にて言訳の無様【なきよう】に有難がつて持賞【もてはや】しける」とあるように、一時は全国に流行したが、十八世紀後半以降は次第に義太夫節に押されて衰退した。
    3)「佐渡広場」
     a、07年9月18日号「文弥人形6:文弥節」」
     「寛永末年(1640)頃、虎屋源太夫の弟子伊藤出羽ジョウが、大坂道頓堀に出羽座の櫓(ろ)を上げた。従来は京都からの出張興行だったものが、これが本格的な大阪浄瑠璃の始まりと云われている。
     岡本文弥は、大坂の出羽座 伊藤出羽ジョウの弟子であったが、文弥の哀調ある語りは、延宝から元禄(1673〜1704)の間人気を博して「文弥節・泣き節」といわれ、師の出羽座を継承した。しかし、元禄期を過ぎると文弥節は飽きられ廃れていった」「今日全国に4ヶ所あるのみとなった。現存しているのは、北から
      /軍禪佐渡市 文弥人形

      ∪仞邯白山市東二口 文弥浄瑠璃 でくの舞い

      5楮蠍都城市 山之口 麓文弥節 人形浄瑠璃

      ぜ児島県薩摩川内市 東郷文弥節 人形浄瑠璃」

     b、08年8月20日号「文弥人形17:佐渡人形芝居鑑賞会」
      「文弥人形は、明治時代に始まった。

     a.佐渡の文弥節は江戸期は盲人だけが語ることになっていたが、明治になってからは興行として誰でもできるようになった。

     b.文弥節が初めて人形芝居として演じらたのは、明治3年(1870)。この時、文弥節太夫で盲人 伊藤常盤ノ一(沢根)と(説教)人形使い 大崎屋松之助(小木・大崎)とのコンビによる

     その背景は、盲人の特権であった「座語(ざがた)り」が撤廃されたことによる稼ぎが少なくなる危機感、説教人形の本領が合戦物ばかりで飽きられ人気が薄れたことによる危機感が相互に結び合わさって、新しいものが生み出された」
    げ良餞
    1):『佐渡年代記』慶長17年(1612)
     「佐渡銀山近年繁盛し京大坂の遊女歌舞伎群集し国々より踵を継ぎて来たれる商客金穿の夫里に耽り財産皆尽きて故郷に帰ることを得さるによって必佐渡へ往ものは本国にて3年を限りて帰るへし其期を過は死没すと思ふへしと父母妻子に告て離別すと聞ゆ」
    2)12年12月15日号「片野尾歌舞伎(続き)」
     「(小木の金刀平(ことひら))座)を興した役者は浅尾森之介といって、大阪は道頓堀の「浅田屋」を名乗る二枚目役者だったという。事情あって諸国流浪中越後路をうろついていたのを、相川の料亭「壽鹿(すしか)」の主人が連れてきた人だとか。だが、相川に逗留したのはほんのわずかの間で、ほどなく小木へ移り住んだのが明治23年ごろのこと。ここで弟子を取り「ことひら座」を興したといわれる。小木には、市川恵美之介という一座もあって、後で新穂村で田野沢歌舞伎を興した市川紋三郎や、真野村竹田の徳兵衛といった弟子がいた。」

    4.まとめ
     大阪の旅は、賞味3時間足らずであったが充実。
     既述の絵画ブログの絵画での記憶と予期せぬ描かれたものとの出会い、反対に(近くに)あったのに見逃したなど、面白さを膨らませた。
     以上  2017.12.04




    係わりの地97:横浜(横浜港、横浜中央卸売市場)

    工事中

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    DSC00091DSC00088















    係わりの地96:静岡県御殿場市(神山復生病院・復生記念館)

    工事中

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      『神山復生病院の100年』(『120年の歩み』かもしれない)に載っていりレゼー神父の経歴
     「ドルワール・ド・レゼー師
     嘉永2年(1849)4月27日フランス・ダケルク市に生まれる。
     明治6年(1873)6月司祭に叙用、同年8月来日。以来 新潟、佐渡等を巡回宣教 仙台、麻布、松本教会等を経て東京関口教会を担当。大正7年(1918)1月11日神山復生病院長に就任、昭和5年(1930)11月3日、神山復生病院にて帰天(82歳)」
     

     

    係わりの地95:東京(表参道新潟館ネスパス、庄や目黒408店)

     こんにちは 自在業の櫻井です。
     これまでの「子どもの遊び」シリーズを一時中断し、「係わりの地」に変更。それは、6月の事柄が来年になるのが明らかなため。
     6月12日号「(01)序文」の冒頭に「テーマの完了は長期が予想され、その間タイミングと編集上の点から別のテーマが途中入ることになるだろう」と記していたが、そのタイミングとみた。
     6月18日(日)上京のきっかけは、両津高校の同窓会「石楠花会」関東支部会の開催案内で、ここ数年出席してないので久し振りに出て見ようということにした。調べると、11年に出席だから6年ぶり3回目の出席となる。
     (11年 
     ついては、1泊して他のところも訪れることに決めた。

    1.東京表参道新潟館ネスパス
    /軍磴諒産店舗ネスパスは、上京すれば訪れることが多い。佐渡のどういう物産が陳列されているか関心あるためで、直近では12年5月1日訪問で、5年ぶり。
     ( 
     なお、ネスパスの概要は、次の通り。
      「N'ESPACE(ネスパス)」の「N」は新潟とネットワークの「N」、「ESPACE」はフランス語で空間やスペースを意味する。

     ネスパスは、東京・表参道から“食”を中心とした新潟県産品の販売・イベント、観光情報、Uターン就職情報の提供により“にいがた”の新鮮情報を発信するアンテナショップとしてある。
     1997年(平成9)新潟県が出店。土地建物は賃貸。運営は、(財)にいがた産業創造機構。財団の運営資金は、県からの補助金など。職員は、県からの出向と現地採用とからなる。物産販売は、新潟県内の事業者(テナント)に委託。
     ( 
    ∈までなら原宿駅から徒歩10分だが人工肛門付けての退院から7ヶ月経過ということと、11:30目黒で開催の石楠花会には最初から間に合わないが、出来るだけ早くということで往復タクシー利用。
     着くと、「20周年誕生祭」の横幕や看板があり、新潟の地酒の振る舞いがあった。
    5年ぶり訪問の期待は、時間が余り無い中 米や地酒やイゴネリ等の定番品はいいとして どんな新しい佐渡産品が陳列されているか見つけることにあった。もっとも、売り場面積が変わらない中その裏で消えていく商品もあるだろう。
    1)オヤッと思う製造元が発見できた。例えば、店のPOPに「新商品」としてあった「飛っきり(姿焼き) サドテクノ株式会社」。農業分野への本格取組みということで13年取材に訪れた電子部品製造のセイデンテクノ(株)と関連していると思った。隣の新商品「さどえもん かにっこ」もそうだろう。どこかに「さどえもん(テクノサド)」とあるのを見た。
     ( 
    2)購入目的で行ったわけでないが、「あごだし魚粉」を購入。製造者「佐渡市松ヶ崎」、「マルキ菊池商店」に惹かれての衝動買い。日持ちが良く嵩張らないでポケットに入る。新潟で見たことなくて、東京で見た。
    3)見落としかもしれないが、佐渡名物の一夜干しイカはなかった感じがする。そういえば、近年は全国的にイカが不漁
     調べると農林水産省「海面生産統計調査」では、200海里水域制限が始まった1977年以降でも1996年に40万トンを超える漁獲量があったが、その後減少し続けて、2012年以降からは年間20万トン未満、15年12万9000トン、16年は約7万トン(暫定値)に激減。17年は更に酷くなる見込み。逆に、佐渡では11月に入って寒ブリが好調。
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    2.庄や目黒408店:第48回石楠花会関東支部総会・懇親会

    〆2鶺廖垢寮估鏖峅颪任隆待・楽しみは、同期の誰に遇って懇親を深めることができるかにあった。
     この3月26日(日)佐渡で南中第二回卒業同期生「古稀を祝う会」があり、東京や新潟や関西からも同期が集まった。
    会場は、私は初めての庄や目黒408店。従来は、庄やグループのジョン万次郎アトレヴィ信濃町店だったが、今回変わった。なお、10年前までは目黒で主に開催。
    2饐譴貌った時、既に総会は終わり懇親会が始まっていた。席は、概ね卒業年次ごとのテープルになっている。
    1)当日配布のA4冊子の中の「参加者名簿」によると、79人の氏名が卒業順に載っており、4回生〜43回生まであり、昭和21年4月生まれの私は16回生で同期は5人。番号順では39〜43番で、参加者では70歳の人間が真ん中くらいに位置。
    2)「石楠花会「総会・懇親会」の歴史」の一覧表〔回、開催年月、会場、参加人数欄あり〕には、90名とある。ちなみに、前回47回は85名・46回80名・45回99名。「昭和32年〜平成5年までの記録不詳」と印刷。
    ぜ‖
       第1部 総 会(11:30〜)
     開会の辞                  司 会:北澤尚文(23回生)
     1.関東支部支部長挨拶        支部長:大倉  剛(16回生)
     2.本部 会長挨拶            会 長:小松徳蔵(33回生)
     3.ご来賓挨拶   東京新潟県人会名誉顧問:平  辰( 9回生)
        ご来賓紹介
     4.議   事
     (1)報告事項 会計報告              加藤和夫(14回生)
               会計監査報告           藤井 勲(13回生)
     (2)新役員の紹介                  北澤尚文(23回生)
     5.その他
     (1)「佐渡の石仏」刊行について           荻原光之(13回生)
     (2)「両津七夕まつり」について           磯野和也(16回生)
       第2部 懇親会(12:30〜)
     司会者
     1.乾杯           東京両津の会 会長:白根四男也(8回生)
     2.酒の陣・物販について         幹事長:祝 憲史(17回生)
     3.余興
      .泪哀躄鯊離轡隋次                 ‐韻簗楾408店
      ¬木遣り                    東京湊木遣り愛好会
      7鬱諺藩戮蝓蔑渉顛啅隋法       ‥豕両津芸妓踊り愛好会
      ず甘鰐瑛悄蔑渉顛啅隋佐渡おけさ・相川音頭)      若波会
      イ澆鵑覆罵戮蹐Α蔑慷戮蝓忘甘呂けさ             〃
      Δ澆鵑覆捻瓦う(両津高等学校校歌・応援歌)       全 員
     4.中締め(水産節)                田中長寿(30回生)他
     5.閉会挨拶                  幹事長:祝 憲史(17回生)

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       《献立》
     前八寸:いごねり 胡瓜・海老・ゴマ味噌 至純寄せ豆腐 
          サーモンオイル漬け 山葵菜 トレビツ レモン 若鶏香り焼き 枝豆     
     凌〔しの〕ぎ:椀子そば 鱚〔きす〕天婦羅
     お造り:鯵姿 紅ずわい蟹 烏賊 甘海老
     焼 物:勘八利休焼 甘唐辛子浸し
     煮 物:人参 ゴボウ こんにゃく 焼豆腐 赤カマボコ いんげん 焼肉
     お食事:鮪〔マグロ〕握り
     お 椀:飛魚団子汁
     銘 菓:栃餅
    テ探事項は湊出身で中学3年は同級だが相川高校卒なのに竹村(旧姓:阿部)義則氏がいたこと。
    1)関東支部長が同期の大倉君で、彼から誘いの電話があり、動員を増やしたいためらしい。
    a、余興の終わりの中で、相川高校卒であることに触れず湊出身で佐渡から来たという挨拶をし、その時誰が言ったのかどこからか「湊は永遠なり」という言葉が発せられ、拍手喝采を受けた。冊子をよく見ると、「ご来賓」9人の中に入っていた。
    b、人口減少・学校統合の中で「両津高校・石楠花会」と言っておれず、「佐渡中等学校教育学校」の名も加わった。近いうち、やれ両津高校、佐渡高校と言える時代はなくなると語り合った。
    2)いい齢を過ぎても、「てっちゃん、てっちゃん」と辺り構わずに呼ばれた。
    3)この3月佐渡での「古稀を祝う会」には東京から来て久々に逢った。その前は、5年前の12年で事前に下呂(岐阜県)への旅行を連絡した際、氏の本拠地である長野で逢うことになり、1泊した。
     (関係・経緯については、12年10月10日号「係わりの地60:信州善光寺」)
    4)今回も氏の郷土愛を痛烈に感じた。おやっと思ったのは次の3点。
     顱¬瑛悗粒擺錣妨(つづみ)が入るのは佐渡しかない。〔能楽が盛んなことからの帰結〕
     髻∈甘呂曚匹い蹐い蹐壁鳥のある地域はない。〔全国各地から佐渡へ来て定住〕
     鵝∩蠕遒砲楼曚覆辰芯名が100以上あり、それほどの所は全国にはない。〔江戸時代初期は人口4万人はいたとされる全国有数の都市〕
      (鬚琵鵑砲弔い討蓮∩蠕邱盥算代に先生が言っていたとのこと)
     a)苗字について、年初に渡辺和弘氏から氏の調べた『佐渡の苗字いろいろ』の資料をいただいたことがある。それは、「難読」「奇名」「4文字」「鬼がつく」「同じ読みで別漢字」「同じ漢字で別読み」「地名漢字」「全国の佐渡地名の苗字」からから成り、例えば「地名苗字」には次のものがある。
     ・石見 ・伊豆 ・播磨 ・伊勢 ・大阪 ・和泉 ・秋田 ・明石 ・茨城 ・三木 ・小杉 ・和倉 ・菊池 ・臼杵etc
     (なお、氏の「佐渡人名録」に『珍しい苗字』2015-02-23に元となる全容が掲載されていた)
     b)相川に町名が多いことに気付き調べて驚いたことについて、
        に記述。
       その後、進めて整理しているのは、
       

    3.まとめ

     いろいろな視点からの佐渡の過去・現在の一端を知る機会となった。
     以上 2017.11.19


    歴史スポット78:1950年代両津子どもの遊び(16)度胸試し

     こんにちは!自在業の櫻井です。
    1、はじめに
     前号のテーマ「野球」は、圧倒的多くの人が知り遊んだりもしたお馴染みの遊び・スポーツに対するものとして次は目立たず隙間の「木登り」を考えていた。経験少ないが、両津という街中でも面白い経験談が収集できるのではないかと期待する面があった。しかし、それ故に中身が単純で内容が乏しいのではないかと思うようになった。それでも捨てがたい。
     そこで思い付いたのは、「度胸試し」の括(くく)りで捉えたらどうか。有り得る項目を考えると次のものが挙がってた。自分自身思い当たるものがある。
     高い木に登る
     高いところから飛び降りる
     遠く又は深い所まで自力で泳ぐ・潜る 
     夜墓場を独りで歩く
     ヘビなどの生き物を捕まえる 等
     本来、楽しむことが遊びなのに怖いことに耐えるあるいは平気でいることを楽しむ面が子どもにある。度胸試しは、強要されてでなく自主的に楽しみを求めてやる以上は、遊びになる。
     度胸試しの追究していくと、遊びの本質が見えてくることが期待される。
     現時点「木登り」をメインに4名の方の取材を本日・翌日予定していたが、「度胸試し」にして我ながら一段と面白くなってきた。
     新潟発6:00両津行き佐渡汽船「あかね」船内〜同両津待合室にて。

    2、取材
    (1)山田昭夫氏
    〔訖戚青から近所の子どもが集まって、一人ひとり税関の大きな村雨(むらさめ)の松を回って帰ってくることをした。
    1)当時街中でも夜8時過ぎれば街灯も消え本町外れの税関辺りは真っ暗。
    2)夕食が終わった8時頃近所の子ども10人くらい集まって、肝試しをした。
     a、近所は自営業が多く、夕食はみな遅かった。
     b、男子の子ども2〜3人の家が自分の家含め4〜軒あり、それが普通であった。
    3)不正がないよう途中で見張りをつけたと思うが、その他ルール的なものについてはっきり覚えていない。
    ◆屬悗燭涼杞(防砂堤)」から「沖の築港」への距離にして20mの水泳
    1)小学1年で行ければ立派、遅くても2年で渡れることが、当時の常識。
    2)中学生に「責任持つから行け」と言われた。
    3)途中に立てる石があった。
    C杞舛ら海への飛び込み
    1)築港の天辺(てっぺん)は、海面から約2mの高さ。
    a、海面から20僂人が歩ける通路。
     そこから天辺へは背の高い人が手を高くあげて何とか届く高さで、両手を天辺に付け他人が当人を持上げて上へ上がれた。
    b、一定間隔で、5〜6段からなる石段があり、通常はそこから築港の天辺に上がり、灯台まで歩いて行けた。
    c、ある所から海面に沿った通路はなくなり、天辺のすぐ下は海。
    2)立ち飛び込み
    a、どの高さから飛び込めるか度胸を競った。
    b、最低は通路から海面へ、次は階段の所で何段目の高さから飛び込めるか、最高は築港の天辺から(この場合、通路等障害や危険のない場所)。
    3)頭からの飛び込み
    a、小学5、6年くらいから挑戦。
    b、場所と度胸比べの段階は、立ち飛び込みと同じ。
      《参考》水泳飛込競技
     飛び板飛び込み:1m・3mの飛び込み板から跳ねあがって飛び込む。
     高飛び込み:5m・7.5m・10mの台から飛び込む。
    げ談亳亳佝覆らカキ養殖筏への泳ぎ、更に対岸への游ぎ
    1)小学高学年の時になると吉田屋の湖畔から一番近い筏まで泳いで渡れるいうになければならなかった。
     みんなが、筏に乗ると重さで筏が沈んだ。背丈より深くはいかないものの最初は恐怖。
    2)そこで休んでから、度胸あるものは対岸のアシの繁った所や今ホテルが建っている辺りまで泳いで行って帰ってきた。
    【海や湖での泳ぎは、陸の上で歩いたり走ったりするのと違って度胸を要する面が多い。それは、木登りなどとも共通】
    タ真紊量誼濃藩
     夏築港などで泳いだ帰り。近くにシャワー施設などはなく、所有者に見つかると怒られるかもしれないが身体を洗うのに丁度よいものがあったので使用。 
    1)築港へ入る道の傍にある冷凍会社((株)セイヒョー)のところに貯水槽があり、金網もかかっておらず、飲む水ではなかったが真水であったので、海水着のままそこへ入り、塩水を流した。
    2)家の近くの角に雑貨屋の末広屋があり、そこに井戸のポンプがあった。身体が小さいからポンプの水が出るところに身体を縮めて洗った。
    (2)渡辺和弘氏
    ^仍佑猟の辺りの海岸から築港への泳ぎ
    1)当時防砂堤付近に造船所があった。
    2)昔の「富山館」前の海にそこで建造された「らん丸」という木造船が廃船として築港に向かって沈んでいた。〔海底は砂地で、船底部分が残っているのが見え、魚の宝庫と感じた。小2〜3年(1954〜5年)くらいの時か〕
    3)廃船「らん丸」には死体が沈んでいたとか亡霊が出るとかのあらぬ噂があり、その上を泳いで行くのは怖く勇気がいった。
     《追記》渡辺氏からの追加情報(「コメント」欄より)
    「 嵒抻慨曄(現スーパーキング)の裏がすぐ海辺で、大きな岩で組んだ築港が沖に向けて出ていた。横3m長さ10m位あった。この先の深い所にらん丸が沈んで居た。両津造船所(社長は後に湖山窯を始めた田中湖山氏)で国策事業として造った「蘭丸」船で、進水後間もなく暴風で沈没した。
    この築港の端から沖の堤防(セメント製)に向かって泳ぎ切るのが当時の小学校中学年の目標だった。この堤防は、夷1裏から沖に長く伸び、そして夷海岸とほぼ平行に伸び、最後はまた沖に向かい灯台に至る。この中程に夷海岸に向かう出っ張り(5m位)があり、ここと岩組の築港間を泳いだのである。この間に蘭丸が沈んで居たことになる。泳ぎきるのは中学生は簡単に、小学校中学年が半分位が出来たと思う。泳げる先輩たちが泳げない子を指導して居たものだ」
    築港灯台の先端へ上がる梯子から海へ飛び込み
    1)小学6年から中学生の有志が、梯子段の3分の1くらいの高さの位置からやっていた。
    2)両津高校水産科藤原悦男先生の若い時の話として梯子段の天辺から海へ飛び込んだということを聞いた。みんな尊敬し、武勇伝になった。
    水中潜水時間競争
    1)どれだけ長く潜っていられるかにかけては、同期の春日町の柴田君と夷1の大場賢次(後 榎) 君は東西の横綱と呼ばれダントツだった。潜ってから40以上ゆっくり数えても海面には出て来なかった。
    2)もともとは、サザエ・アワビ採りで鍛えたらしい。
    a、アワビを採るには、岩から更にその深くにある岩へと手でしっかり掴みながら潜って行く。
    b、見つけたら、ドライバーで根本のところを一気に突き刺し、刺したままにして すぐ浮上し海面へ出る。
     ァ、アワビは、危険を感じると岩にしっかりくっ付くから、一気に突き刺さなければならない。
     ィ、ドライバーをしっかりと刺さなければどこかへ深く行ってしまい、取れなくなる。
     ゥ、一度でアワビは採れないから、すぐに海面へ上がる。
     ェ、アワビは、意外に動きが早い。ゆっくりしていると、逃げられ見失う。
    c、呼吸を整え空気をよく吸って、元の場所へ戻り、アワビに刺さったドライバーで剝ぎ取って帰る。
    3)なお、両人は、目的はアワビ採りで競争したわけでない。〔見ている方は長い潜水に対し度胸を感じ、どちらが長く潜れるか度胸比べを見たい面もあったに相違ない〕
    ぅ織嚇陲
    1)築港の海岸側に漁業者であろうタコ壺が仕掛けられていた。目印に浮きがあり、そこから紐でタコ壺に繋がっている。〔昭和28年頃か築港の対岸の造船所のあった辺りの海でタコが泳いでいるのを見たことがあり、砂浜では大きなタコが打ち上げられ、子どもたちが周囲で見ていたのを覚えている〕
    2)近所に中学2年のガキ大将がいて、小学生に泳いで行ってタコ壺を取って来いと言われた。皆にとって一人前かどうか試され評価される面がある。拒否すると仲間外れにされる。盗むことで大人(所有者)に見つかったらどうなるか怖かったが、大将言うには「壺に入ったタコを取るだけのことで壺は元に戻す。タコはまた壺に入ってくるから盗みと違う」。
    3)タコは足が手にくっついたら離れないから、小学生が直接扱うのは危険で難しいらしい。頭の部分を瞬間掴んでひっくり返すと10本足がだらんと下がる。〔なるほど、猫の後ろ首を掴むのと同じで、タコの特徴について思い出した〕
     壺1個にタコ1匹入っている。計5〜6匹くらい大将が抜き取り、壺は皆で返しに泳いで行った。〔話を聞き、鵜飼の鵜を思い出した〕
    グ鵝淵ぅ錺掘砲梁膩欧涼罎悗糧瑤唸み
    1)築港に長さが5〜10cmくらいの鰯の大群が現れることがあった。その時は、海が真っ黒になる。
    2)ガキ大将が子どもらに、「痛いけもそこへ飛び込んでみろ」と言い、自分を含め数人が度胸を評価してもらうため、飛び込んだ。
    3)身体全体が鰯にぶつかり、後で身体が真っ赤になりブツブツができる酷い目に遭った。
       《追記》渡辺氏からの追加情報(「コメント」欄より)
     「この鰯は大人も捕っていた。ござ〔茣蓙〕を鰯の進行方向に沈めて二人で端を持ち、魚群が上にくると、築港に放り上げた。大量の鰯がセメントの上ではねた。何に使うのかはわからなかった」
    νΦい亡郷瓦靴震襪凌絮
    1)夜8〜9時頃小学高学年くらいの子ども2〜3人が、湊の海岸から築港の灯台近くまで泳ぎ、そして戻って行くのを目撃したことがある。
    2)灯台の光は、海面を明るく映し出す。
    3)1回に限らず何回もしていた。
    Дエルの解剖
    1)近所の中学生が小さい子を集め、見たくはなかったがカエルの腹を切って内臓を見せ威張っていた。
    2)当人は、特に理科が好きで蝶などの生物を採集したり標本づくりをしていたわけではない。
    3)子どもながら「俺は度胸がある」ことを辺りの小さい子に見せびらかしていたような気がする。猫も解剖するぞと宣言していたのを覚えているが、それは遂にしなかった。
    (3)梶井照雄氏
    〔襪諒莨譴任涼嵎捜し
    1)近所のガキ大将が夜5〜6人集まったところで、或るお墓に何か置いたから、それを見つけて取って来るよう言われた。
    2)暗い中を一人ずつ行って、捜して帰って来た。
    3)中に怖くてどうしても行けない子がいたが、「半人前」と言われバカにされた。
    ▲悒咾諒畭
    1)境内などで遊んでいると時にヘビに出合うことがある。
    2)誰か捕まえるもん(者)おらんかとなる。
    3)おそ(怖)げーて捕まええんもんが殆どの中で平気なやつ(奴)がいた。
    N渉斗鶸涯兇らの飛び込み:小池荘一郎氏の話
    1)欄干橋が木造の頃〔昭和30年以前は木造〕、橋の上から海と湖をつなぐ境川に飛び込んだ。
    2)当時、飛び込んだら一人前とされた。
    3)境川は、今日でも加茂湖側に船小屋があるため漁船が橋の下を通る。従って、今はそんな子どもはあり得ないが注意しないと危険であった。
    ぅメ梨盗み
    1)「ガメ梨」とは、手入れされてない梨の木に生っている梨で夷に所々あった。
    2)ガキ大将から盗って来る度胸のある者おるかと催促された。
     (4)北 治之氏
    〔擇謀个辰討竜船着岸見物
    1)中学2年の頃までは湊のお宮さんの隣りに湊魚市場があった。
    2)お宮さんには大きな松の木が3本あった。その木の上から見下ろすと、漁船が市場への出入りする様子が見えたりしていい眺めであった。
    3)親〔漁業関係者〕に木に登っているのが見つかるとこっぴどく怒られるから、ヒヤヒヤしながらも木に登っていた。
    ¬擇ら木への綱渡りならぬ「跳び渡り」
    1)お宮さんの裏に防風林のための植樹がされ、5年経ったと思われる直径20cmくらいになった木が10本以上約1mの等間隔で並んで立っていた。
    2)小学生の頃、次のような遊びを行った。
    a、木の幹につかまった子が、隣の木へ落ちないように跳び移る。落ちれば、アウトで評価されない。早く跳び移ろうとしたりすれば落ちる確率が高まり、落ちれば怪我するリスクが高まる。
    b、5〜8人くらい集まると、2組に分かれて競争する。
     先に木から木に移った組の後に続いて別の組が追いかける形態をとる。追いつかれたら先の組の負。追いかけられる方も追いかける方も必死になるから慌〔あわて〕る。いずれにせよ躊躇せず素早く跳び移れるかにかかっている。そこで度胸が試される。
    (5)望月迪洋氏:追記11.16。
     氏はS21年生まれ。特に取材したわけでないが、「昔の子ども時代」で出てきた話。
     ̄撚茣曚悗海辰修蠖入し映画鑑賞
    1)小学3〜6年まで夷のカトリック教会の斜め向かいにある中村算盤塾に平沢から通った。通り道に両津会館(主に映画上映)があった。
    2)集落仲間が一人ずつ会館奥のトイレからコッソリ忍び込み映画を見た。遊びのボスがいて、それが出来なければ仲間として認められずせざるを得なかった。
    柿や栗などの泥棒
    1)栗はどこにでもあったが実が小さいものが圧倒的に多い中で「丹波栗」という大きな実の栗を育てている農家が数軒あった。半農半漁の平沢の子どもの狙い目は、大きな「丹波栗」
    2)ボスの命令で、子分の子どもが当人含め盗みに登った。ボスは見ているだけ。ある時農家に見つかって、一斉に逃げたが、何もしてないのにボスも一緒に逃げた。
    3)果物が子どもによって盗まれるので、ある農家はシェパードを果物畑に放し飼いにした。それ以降、怖くてその畑には行かなくなった。
    J莨譴吠を置いて来る・置いてあるものを取って来る肝試しもした。
    《メモ》
     a、冬両津高校へ上る坂道は、竹スキーやソリで賑わい、そのため坂を歩く人が滑ったりして危なかった。当時、車がほとんど通らなかったから、安全だった。〔考えれば長い坂道で、夷からも来る子もいて当然〕後で、それが、学校・地域で問題となり、以降禁止。
     b、小学低学年の頃は、馬に荷車を付け夷へ行く農家があって後ろに乗せてもらって、加茂小学校に行ったことがあった。
     c、小さい頃夷へは玩具屋のアタラシ屋と金子釣道具屋などへ行った(店は夷へ行くしかない)。また、場所ははっきり覚えてないが確か貸本屋があったと思う。また、1日いくらで貸していたか知りたいが、不詳。
      『漫画王』や『冒険王』や『ぼくら』などの全盛期で、借りに行った。それを仲間で回し読みした。
     〔渡辺和弘氏にその場でケータイで問い合わせると、調べるということで、その後にわかったことは、次の通り。
      (コメントによる「(名前)間違い部分」は訂正済、「不足分」は、「  」で追記転載)。
     丸屋書店の御主人がその後でたまたま訪れたので伺うと、玉崎の後藤利一という人が教養のある人で少年雑誌からなにから本を読むのが好きで買っていた。沢山になったので、夷三ノ丁で貸本屋ではなく古本屋の店を開いた。但し、古本も貸出していたかも知れないが、それについてはハッキリしたことはわからない 
    「・後藤氏は玉崎の人で昭和2年頃の生まれで読書好きのインテリ。
     ・佐渡関係古書やその他諸々の古本を売っており、貸本もあったと思う。
     ・店名は「志摩屋」で夷三の角地(寺島越中屋の所にあった。
     ・戦後〜昭和30年初期まであった。」〕
     d、加茂小学校を越えると敵地に入ったという感じがした。〔この感覚は、築地での小学時代の私が夷新を通るのが嫌と思ったのと一致。具体的なことは覚えてないが、田舎や他所の町内の弱々しい子どもが挨拶もなく通ることへの反発嫌がらせや脅しあったに違いない。【考えれば、不良の多い子どもの町内を数人して通るのでなく独りして通るのだから、相当度胸がいる】
     e、近隣の複数集落からパンをポケットに沢山つめて、稼ぎに来る子どもがいた。〔夷と湊の間でも同じで、普遍性あり〕
     
    3、現代の子どもの度胸試し
    (「子どもの遊び 度胸試し」ウェブ検索による)
    ‘本:「道路への飛び出し」「わざと車やバイクの前への飛び出し」が、小学生の間で流行っている記事がページの大半。それらの中に 理由は「お金貰える」、結果に死亡事故がある。
    海外の例(20代若者含む:日本に無い事もないだろう)
    1)韓国:10歳前後の子が自転車をこいで跳躍台を飛躍、その方向の地面には子が仰向けに寝ている。(自転車乗ってる子・地面に寝てる子、それぞれ度胸が要る)
    2)インド:線路の枕木間に並んで身を伏せ、そこに列車が通過する遊び。
    3)ロシア:地下鉄電車の後部や側面の取っ手にへばりつき駅から駅へ行く。自分撮り(セルフィー)による死亡事故(例:銃を持って自分へ誤射・鉄橋によじ登って感電死・手榴弾で爆発死)
    4)アメリカ:10代の少年が消毒用アルコールを自分にかけ火をつけて2度のやけどを負い、病院で治療を受けていると報じられた。この行為の目的は「ファイアー・チャレンジ」と呼ばれる危険な度胸試しに挑戦した動画をユーチューブ(YouTube)やフェイスブック(Facebook)に投稿することだったという。
    5)ドイツ:フェイスブックで流行っている「冷水チャレンジ」参加男性が、掘削機の下敷きになって死亡。男性グループに浴びせるため数千リットル分の水が入ったスコップを高く持ち上げていた掘削機が転倒、うち1人死亡、5人負傷。「冷水チャレンジ」は以前死者複数。

    4、関連資料
    .泪譟爾亮匆馘動機(資料:「科学事典」HP)
    1)アメリカの心理学者H.A.マレー(1893〜1988)は、人間の行動を欲求ー圧力という動機づけの過程によって説明。
     a、生存に不可欠な生理的欲求を一次的欲求(臓器発生的欲求)
     b、社会生活を営む上で必要な社会的動機を二次的欲求(心理発生的欲求)
    として分類した。2)マレーは二次的欲求である社会的動機を細かく分類し、下記のような動機リストを作成。(「社会心理学へのアプローチ | 北樹出版」マレーの社会的動機リストよりの抜粋 )   
     遊戯動機…楽しさや面白さを求める。緊張をやわらげ、冗談やゲームを好む。
     理解動機…理論的な考えを求めたり、物事の仕組みを理解しようとする。
     変化動機…新しいことを好み、流行に敏感で変革を求める。
     秩序動機…安定、秩序、伝統、などを大切にする。整理、整頓、正確さを目指す。
     達成動機…努力して高い目標をやり遂げる。才能を生かし自尊心を高める。
     親和動機…好きな人の近くにいたい、助け合いたいと思う動機。友情を重視する。
     屈辱動機…自分を責め、非難や罰を受け入れたいと思う。敗北を認める。
     攻撃動機…言葉や力を使って相手を屈服させたい、反対を克服したいと思う。
     自律動機…束縛、強制、横暴な権威、因習を嫌い、自由と独立を求める。
     支配動機…人の上に立ちたい、説得や命令によって人に影響を与えたいと思う。
     服従動機…優れた人の命令に従い、その人の言う通りにしたいと望む。
     顕示動機…目立ちたい、人を驚かせたり、楽しませたりして印象づけたいと思う。
     援助動機…弱い者、困っている者などを助け、慰め、励ましたいと思う。
     依存動機…甘えたい、助けてもらいたい、愛されたい、同情されたいと思う。
     異性愛動機…異性を求め、恋愛関係や性的関係に関心を向ける。
     屈辱回避動機…失敗して軽蔑されることを避けたいと思う。自己防衛的な思い。
    ▲泪坤蹇爾陵澣5段階説(資料:ウィキペディア)
    1)マズロー(1908〜1970年)は、アメリカの心理学者で、人間の自己実現を研究対象とする「人間性心理学」の最も重要な生みの親とされており、欲求の5段階説(欲求のピラミッド)を主張したことで知られる。
    2)人間は、一定段階での欲求が満たされるとより高次の段階への欲求を求める。
     第一段階:生理的欲求 (Physiological needs)食事・睡眠など生きていくための基本的・本能的な欲求。
     第二段階:安全の欲求 (Safety needs)危機を回避し安全・安心な生活への欲求。
     第三段階:社会的欲求 (Social needs )集団・仲間の一員として認められたい。
     
    第四段階:承認(尊重)欲求 (Esteem)他人から尊敬されたい・特別評価されたい。
     第五段階:自己実現の欲求 (Self-actualization)自分の望んだ通りの事を実現したい。
     なお、マズローは晩年、5段階の欲求階層の上に、さらに「自己超越」という段階があると発表。これは、純粋に目的の達成だけを求め、見返りなどを求めず自我を忘れて没頭するというような領域であるという。
    ディズニー絶叫系アトラクション、怖い順ランキングベスト8!!(資料:17.11.14「にっこりっか」サイト)

    1位 タワー・オブ・テラー(ディズニーシー)
     「ディズニー最怖のアトラクションといえば、ダントツでタワー・オブ・テラーではないでしょうか?フリーフォールタイプのアトラクションで、しかも、バックグランドストーリーがホラー要素が強いミステリー。ただのフリーフォールじゃなくて、落ちたり上ったり予測不能な感じも恐怖。落ちるときの稲妻や叫び声でさらに恐怖増っ!!しかも、このタワー・オブ・テラーはここ数年、年明けから3月にかけては特別バージョンにて運営しています。いつもより多めに落ちちゃうので、よりスリルを求めたい方はぜひこの時期に乗るのがオススメですよ〜」
    2位 センター・オブ・ジ・アース(ディズニーシー)
     「ディズニーシーのシンボル的存在のプロメテウス火山の中を疾走する「センター・オブ・ジ・アース」は、ディズニーリゾートの中で最もスピードが出るアトラクションなんですよ!最高時速は、なんと、75kmっ!!!そして、速いだけじゃなくて、落下もします。しかも、結構落ちます(怖)
    落ちるときは写真撮影があるので、怖くてもしっかり顔作ってうつりましょう!」
    3位 スプラッシュマウンテン(ディズニーランド)
    「ディズニーランドで1、2を争う人気アトラクションの「スプラッシュマウンテン」。
    これはもうお馴染ですね!丸太のボートに乗って、うさぎどんと冒険をしながらアメリカ南部の沼地を進んでいきます。楽しげな音楽とちょっと可愛いキャラクターが登場するのに、最後はザブーンっと滝つぼに落下します(怖)最前列はびしょ濡れになるので、濡れたくない人はポンチョでカバーするか、頭を下げて対策しましょう!」

    5、まとめ
    |蠑歸だが、子どもは自身の持つ生命力と親の保護下で成育し、取り巻く自然を含む社会環境での経験を積んで成長する。
    1)成育過程について、これまで年に2回は横浜から我が自宅で1週間は滞在する11月で4歳の孫の例を挙げれば、次のとおり。以下は、自分なりに印象にある事(爺(じじい)の体験)を記したもので、正確な記述は専門サイトに限る。
    a、自然力:
     仰向け・寝たきりが多い→ひっくり返って腹ばい状態→両手を立て体を起こす→片手だけでもできる→四つん這いできる→這って動く→手招きすると2階や玄関口に行こうとする→椅子やテーブルの足を掴む→椅子かテーブルを支えに立つ→2本足だけで立つ→歩く→部屋の戸を開ける→階段を上り降りする→・・・・
    〔各段階は大袈裟に言えば未知への挑戦で個人差大きいとして それなりの意欲・勇気を必要とし、壁を乗り越えてきた〕
    b、爺との関係
     抱っこされても泣かず、笑顔するが緊張するのか硬い→這うようになって手招きすると階段を上がろうとしたり玄関に下りようとする→朝「今日は!」の挨拶に意味わからないためだろう無表情・無反応→次に来た時に私の顔を見た途端ママの傍へ逃げ隠れた→翌日に私の部屋に入りパソコン・マウスを「こわい、こわい」と言いながらいじった。たまたま、怪物の登場する動画であった。夢中になりそうなので消して帰した→次の半年後に来た時は不機嫌さを露呈しママの傍で紙で作った刀を私に向け振りかざした・顔を合わせれば急に黙る→玩具を買ってやるなど接触・会話機会増やす→何かの時愛想が良いと見て「ジャンケン」を持ち掛けると乗ってきた〔保育園で教わった〕→この9月新潟で一泊した時「これから新幹線で横浜のパパの家へ帰る」「さよなら」と進んで話すようになった。
    一人前への登竜門は、度胸試し。
    1)男子たるもの小学生になれば、試される。
    2)当時1家庭4人の子どもは普通で、男子は半分の2人として向こう3軒両隣の計6軒に12人の試算となり、高校生や乳幼児を除けば全体の2/3に当たる8人が一緒に遊ぶ単位と言える。
     こじ付けであるが、8人というのは遊びに重要な単位で2等分して互に競って遊べ、更にペアでそれぞれと競える。
    3)最年長のガキ大将がいて、組織をまとめる。仲間に命令はするが、何かあった時は責任がかかることは、多かれ少なかれ自覚。世間もその目で見ている。
    4)子どもの間の競争。
    a、自分より年下が出来て、自分が出来ないでは大恥。出来ても、劣るようでは恥。
    b、同級には負けられない。一段上の度胸試しに挑戦。
    c、自分より年上に勝ることで、仲間の上位に立つ。
    N渉鼎了劼匹發療拔算遒靴瞭団А
    1)海に関係するものが多い。
    2)目標点まで泳げるか、どの高さから飛び込めるか、どの深さまで潜れるか等。泳ぎに関しては一定年齢での目安があり、それを達成しなければ一人前と認められなかった。
    3)ガキ大将は、無謀なことはせず・させなかった。だからからか子どもの遊びによって起きた重大事故は聞いたことがない。
     以上 2017.11.17












    歴史スポット77:1950年代両津子どもの遊び(15)野球

      こんにちは! 自在業の櫻井です。

    1.はじめに
     「子どもの遊び」シリーズ15回目 テーマを「野球」(三角ベース・ソフトボール含む)とした。これまでとの違いは、遊びを特定見地からの区分での記述でなく、個の遊びに正面からスポットを当てたことにある。
     野球に関し9月21日号「街中での遊び」の中に「キャッチボール(ゴムボール、ソフトボール、軟球)」「野球(ゴムボール)」といった小項目を設けたり野球経験の一端を記しているが、今回は主役。今回取り上げた野球は、硬球や軟球やソフトボール野球ばかりでなく、当然ゴムボール野球も含む。
     私自身が子ども時代の遊びの筆頭に挙げるとするならば、野球と断言できる。関心を持ったのは小学高学年からであるが、中学時代は盛んに行った。高校・大学時代はそれぞれ年・数年に1度のペース、会社では軟式キャッチボールを1回やったことを覚えており、プロ野球の順位はその後50年近く経った今でも多少関心は持っている程度。
     やった遊びとして野球は、最も長かったと思っている。だが、細かい点になると覚えていないのが現状で どこまで思い出し・調べ出し・聞き出して事実を集め出せるか課題。
     
    2.内容
    (1)取材
    〇垓興喃郢瓠複鵤横映生まれ)
    1)三角ベース野球〔二塁がなく本塁・一塁・三塁の三角形の野球遊びで、グローブやバットがなく素手〕を近くの道路や空き地でして遊んだ。
    a、ボールは、柔らかく「やこ球」と呼んでいた。
    b、ルールは、リーダーがその都度みんなを集めて決めていたように思う。例えば、打った球が決められた木にぶつかったらアウト、塁に向けて走っても、守りが投げた球が当たったらアウトなど。
    c、仮想走者があったかどうか等は覚えていない。
       《参考》三角ベース野球
     a、「ウィキペディア」より
      ァ、子供の遊びの一種で、狭い空き地などで少人数で遊ぶために工夫されている。
      
    ィ、少人数なので、キャッチャー、ピッチャーその他野手を置かないケースや、敵味方の区別なく、参加者全員が順番でバッターになるケース他、様々な特殊ルールがある。
     b、子どもの遊びポータルサイト「ミックスじゅーちゅ」より
      
    ァ、その場にいる人を2チームに分けて遊ぶ。人数が少なくても、同じ人数のチームにならなくても遊べる。
      ィ、バットやグローブは使わず素手で遊ぶ。
      ゥ、ピッチャーは、アンダースローで打ちやすいボールを投げ、バッターは手でボールを打つ。
      ェ、ランナーの体にボールを当てるとアウト。
      ォ、人数が少ない時、走者なのに打順が回ってきた時「透明ランナー」と宣言してベースを離れ、透明の人間が塁にいると仮定して、バッターボックスに入る。次の塁にいる走者の進塁に押される形で、透明ランナーも進塁。
      ヵ、得点表を地面に描いてその都度点数をつけ、5回までもしくは6回までのゲームを楽しむ。
    2)ソフトボールは、ほかの球遊びに比べ普及しなかったように思う。〔小学校の時、学校で試合があったのを覚えていなかった〕。バットは、軟式野球用と違い細かった〔それは、私が覚えてなかった〕。出塁者は、ピッチャーがバッターに向かって投球する際、球が離れるまでベースから出てはいけないなど野球と違ったルールがあり、最初面くらった。
    3)軟式野球は、お宮さん〔諏方神社〕の参道の空き地で小学高学年〔5,6年〕から中学生がやっていた。
     打った球が、屋根にあがったらホールランというルールがあった。
    ∋嚇直蕊彁瓠複鵤隠映生まれ)
    1)野球用具は、購入せずあり合わせのもので代用した。
    a、ボールは、ボロ(襤褸)切れを丸めて作った。
    b、グローブは、テントのような生地で5本指が入るように母親から縫ってもらって使った。球はテニスボールに似た柔らかなもので元々必要なかったが、本物の野球を真似たいためにそうしたのだろう。
    c、バットは、竹の棒を利用。
    2)野球場所
    a、道でやり、両津小学校・加茂小学校のグラウンドや砂浜へ行ってやった。砂浜は、造船所のあったところ〔旭町の南、防砂堤付近〕。
    b、行けば、他からの者もやっていて互いに気が合えば試合をした。
    E亙嬾孫飴瓠複鵤横嫁生まれ)
    1)柔らかボールの「三角ベース野球」は、小学1〜4年までは1塁ベースだけの野球で 小学5年の高学年になった頃からやった。
     つまんでボールを投げるとドロップになり、カーブさせるやり方もあった。
    2)野球用具
    a、グローブは以前は布の綿を詰め込んだものが主流だったが、革製が出て来て半々くらいの頃が小学5年(1958年)くらいの時であった。その時父親からグローブを買ってもらった。
     〔当然革製であろう。私も小学6年の頃買ってもらった。革の匂いがステータスのようで何とも言えないくらいよかった。また、グローブをパンパンと手で叩き柔らくして球を取りやすくした。革用の油を塗って遊び仲間に見せびらかしたものだ。書き込みしながら分かって来たが、革用の油を買ってきてまでしたのは、見せびらかしもあるが、本質は機能強化にあった。バットも買ってもらった。当然軟式ボールもそうだろう〕
    b、バットは、竹。
    c、柔らかボールは、力のある者が打つと遠くへ飛びそうだが、高く上がるだけのことが多くバカにされた。一方、力が強いのでパンクする球もあった。
    3)ソフトボール
    a、小学5年の時小学校のグラウンドで櫻井先輩がサードで川島先生から盛んにノックを受けていたのを見て、 立教大学の砂押監督がサードの長嶋に激しいノックで厳しい守備練習をさせていたように、羨ましいと思った。
     〔川島先生によるノック練習は覚えてないがサードを守ったことがあることを思い出し、クラスと先生たちとの試合でたまたまレフトを守っていたとき川島先生の打ったボールを後退しながらジャンプして捕球したことは覚えている。その頃の小学野球は 外野へ飛んだ球は野手がエラーし長打になるのが普通だった〕
    b、小学4年〔1957年〕の時小学校のグラウンドでオール両津チームと進駐軍が数回ソフトボールの試合をやっていた。先方は本格的なボールのスピードある投球に対し、オール両津は従来の柔らか球を投げる雰囲気の投球のため、歯が立たなかった。知っている中学1年の女子が見に来ていた。英語を教科で習い始めた段階なので、勉強もあった。
    c、両津高校のグラウンドで来島した女子社会人ソフトボールチームとオール両津が試合したのを見に行った。〔私も、見に行っている。この時オール両津は、負けた〕
      《参考》日本のソフトボールの歴史
     米国に倣って日本で「ソフトボール」の名称が採用されたのは1946年(それ以前は、インドアベースボール、プレイグラウンドボールと呼ばれた)で、日本軟式野球連盟の中に「ソフトボール部会」が置かれた。当初はもっぱら女性の競技として扱われていた。
     1949年に「日本ソフトボール協会」として独立し、日本体育協会に加盟。この年、「第1回全日本高校女子ソフトボール選手権大会」と「第1回全日本一般女子ソフトボール選手権大会が開催。1950年国体正式種目(但し、女子のみの競技)
     男子は、1955年全日本一般男子選手権が開催、国体での採用は、1957年より。
     (資料:日本体育協会監修「最新スポーツ大事典」大修館)
    4)軟式野球
    a、軟式は小学6年〔1958年〕頃からやり始め、中学時代は盛んにやった。
    b、当時神明町に風間塾という中学・小学高学年対象の学習塾があり、野球好きの塾長が塾生有志を募って野球チーム=風間チームを結成していた。
     ァ、チームメンバーは、20人はいた。
     ィ、試合相手には、町内にある子ども有志のチームのほか佐渡汽船とか佐渡トラックなどの社会人野球チームもあった。
     ゥ、だが、風間チームのメンバーには ピッチャーが塾長、両津高校野球部出身者もいた。一般に、草野球はピッチャー・キャッチャー・一人の野手の3人がしっかりしていれば、何とかなる。
     ェ、自分が高校の時にもあったから10年は続いたと思う。
    c、自分は、中学時代同じクラスメート有志のチームに入って野球をやった。
     ァ、野球するには他には、学校の野球部に入る、拘束されず町内仲間が集まれば参加するのパターンがあった。
     ィ、利用したグラウンドは、両津小より加茂小。広いからであった(近くの船場町や春日町の空き地も利用)。
     顱吠課後・日曜は学校野球部の専用ないし優先であったが、隅っこの空いた所で野球した。
     髻乏惺擦寮萓犬蓮▲哀薀Ε鵐匹了藩僂砲弔い篤辰貌曜なら事前許可が必要であると思うが、使用を黙認してくれた。 
    に漫ーG兄瓠複鵤横映生まれ)
    1)「三角ベース」を湊では「柔らかい球」を略して「やか球」と呼んでいた。
    a、当初は素手で打ち、そのうち竹の棒になった。
    b、場所は、湊保育園の空き地やお宮さん〔若宮神社〕の境内、他空いた所あればどこでもやった。
    2)軟式野球は、昭和30年〔小学3年:1955年〕頃から両津小学校の裏の空き地でやった。
    a、勿論、グローブとバットを使用。
    b、9人チーム同士で試合した。審判(アンパイア)は、試合から外れた子が担当した。
    c、「ピッチャーで4番バッター」が、皆の憧れであった。
    d、みんなピッチャーになりたがっていた。
     ァ、特に速球に自信のある子がそうであった。
     ィ、基本ができていないから、球のスピードの速い者は、実際の試合ではボール球ばかりで塁に歩かせ役立たず。かえって球の遅い者の方が コントロールがよくて長持ちした。
    3)小学5〜6年〔1957〜58年〕頃から遊びでは野球が中心となった。放課後や学校が休みの時は野球をしていた。
      小学校のクラブ活動に野球部があった。他校との試合はしてなかった。
    4)中学1年の時クラブ活動では野球部に所属、2年の時に辞めた。〔私は1年で辞めた〕
    a、理由は、2年の時に両津中と加茂中、吉井の一部が合併し南中学となり〔新校舎が出来るまで加茂中利用〕、さらに団塊世代が入ったことで大所帯となり野球部員100人を数えた。平均すれば1学年の野球部員30人以上、これでは、球拾いばかりで順番が回ってこない。
    b、加茂中のグラウンドで球拾いしていると、近くの田んぼへ球が落ちることがある。田んぼは両津中の場合もあったが、加茂の田んぼは深くて 泥に浸かっては球を取った。農家に見つかり酷く怒られた。家の親からは、野球してユニフォームを汚すのは有るとしても いつも泥がついてるのは何事かと不審がられた。
    (2)雑記
    /景垢鯑匹爐茲Δ砲覆辰燭里肋学6年(1958)からで、プロ野球記事を見るため。
    1)当時新聞は、両津に11時半着の船で着いて家に配達されたのは午後1時くらいだったろうか。
    2)前日の試合結果〔特に巨人〕(スコア、個人成績データ、解説)、セパ・リーグ勝敗表(順位・勝率・勝差)、打撃成績・投手成績上位表、今日の試合予定など
    3)プロ野球に興味を持ったのは、小学5年(1957)からだろう。
     a、小学5年の時桃組に同級の八木君がいて「巨人」の事を話していたら、「巨人じゃない。ジャイアンツだ」と言われ口喧嘩となった。3年上の兄貴(両津中学校でピッチャー)がいて、本人も小柄ながら野球はうまい。当時は、それくらいの認識レベル。
     なぜ巨人ファンだったかは、周囲がすべてそうであったこともあるが、強かったから。なるほど子どもは、強い者を尊敬し憧れる。(なお、大人になると、カバン(資金)や看板(名門)で強い者を入団させそれで勝つのは当たり前でそれで負ける方がおかしいと思う人やアンチ巨人も出てくる)
     b、長嶋茂雄が巨人に入団したのは1957年(昭和32)。その時、大ニュースになったのを覚えている。当時最高の1800万円で読売ジャイアンツと契約〔ウィキペディア:3,000万円と思っていたが記憶違いか〕。
    ▲謄譽咾良甬擇般邉綯羞冏崛
    1)テレビが佐渡で見れるようになり、それなりの家に現れ始めたのは、1957年頃か。
    a、当時はテレビのある家の内・外に子どもたちが、たむろした。私も、あそこにテレビがあるというので本町などへ出かけて行って、外からあるいは土間に入って覗いてみた。
    b、狭い路地向かいにある隣の家に早くから8インチか何インチか忘れたが大型テレビが入っていた。奥の部屋の上にある小窓を通してこっそり覗いて見た。我が家には私が高校卒業し島外に出るまで無かったが、
    c、テレビが普及した年を確認するため、最初の頃見たテレビ番組を思い出そうとしたとき、挙がったのは次のもトオリ。「月光仮面」、「ゼスチャー」、「ミゼットのCM」。以下、ウィキペディア解説抜粋。
     ァ、月光仮面:「KRテレビ(現・TBSテレビ)と宣弘社が制作し、『タケダアワー』第1作として1958年(昭和33年)2月24日から1959年(昭和34年)7月5日まで放送されたテレビ冒険活劇番組」
     ィ、ゼスチャー:「1953年2月20日から1968年3月25日までNHKで放送されたクイズ番組である。テレビの特性を生かし、その草創期を代表する番組である。テレビクイズ番組の草分けとして有名」
     ゥ、ミゼットのCM:「当時ダイハツがスポンサーとなっていたコメディドラマ「やりくりアパート」(1958年 - 1960年)の生CMに、ドラマの主役である大村崑を起用、番組終わりのCM枠では毎回、大村がギャグ混じりで「ミゼット! ミゼット!」と連呼した。これらの拡販策は大当たりとなり、ミゼットは一躍ベストセラーとなった」
     なお、右隣の家でも見た。ここは見に行ったというより私より1年下の子と勉強するため呼ばれたもので、ついでにテレビを見た。印象に残った番組は、「私だけが知っている」。但し、これは高1の時。本題から逸れているが、備忘のため。
     ェ、私だけが知っている1957年〜1963年3月NHKで毎日曜21;00頃放送。「番組前半で殺人事件などを題材にしたサスペンスドラマを放送した後、後半で徳川夢声扮する探偵局長、・・・・扮する探偵局員〔3人〕が真犯人を推理するという形式で進行」
    2)野球中継で印象的だったのは、1959年(昭和34)後楽園球場での巨人・阪神の天覧試合。
    a、この時は、左隣の家にお邪魔して観戦。
    b、4対4の同点で迎えた9回裏先頭バッターの長嶋が7回裏からリリーフの村山からホールランを打った。
    c、天皇・皇后両陛下がニコニコしてお帰りになられる様子がはっきり記憶に残っている。ギリギリのタイミング(お帰り制限時刻3分前)でサヨナラとなったことを今初めて知った。

    小学高学年から高校にかけ 遊び・余暇・スポーツといえば野球であった。
    1)学校から帰れば、
     a、新聞のスポーツ欄に目を通し、
     b、中学までは誰かいればキャッチボール、誰もいなければ素振りのバッティング練習
     c、高校以降はそれほどしなくなったが、夜は巨人の野球放送・放映あればラジオ・テレビでナイターに傾注
    2)中学時代、学校休みの時は、
     a、近所の有志で家の近くでの三角ベース野球のほか、三ノ丁の広場や両津小学校裏の広場へ行って野球。
     b、期末テスト期間中でも野球するといえば優先した。そのことを得意げに言ったものだ。
    3)両津高校の時にもクラス対抗の野球はあった。毎年はなかったようで、1度はあって試合に出たのは覚えている。
    4)高卒以降、
     a、大学1年の時ソフトボールボールであったと思うがクラス対抗試合に出、4年の時の11月4日にゼミ対抗の野球があり、その時練習の時うまいという事でピッチャーをやったが負け、
     b、社会人の時(下大川前通りにあった佐渡汽船新潟時代1975年の時だろう)、昼休みにキャッチボールをしたのを1回だけは覚えている。
    ち霑牢の野球史(ウィキペディア)
    1)野球の伝来:「1871年(明治4年)に〔お雇い外国人として〕来日した米国人ホーレス・ウィルソンが当時の東京開成学校予科(その後旧制第一高等学校、現在の東京大学)で〔英語などを〕教え、その後「打球おにごっこ」という名で全国的に広まった」「ウィルソンが試合を始めたのは開成学校に運動場が完成した明治6年8月以降」
    2)急速な人気の高まりで野球有害

    論争:「1911年に東京朝日新聞が「野球と其害毒」と題した記事を連載し、野球に批判的な著名人の談話などを紹介」「読売新聞などが野球擁護の論陣を張り、次第に野球に対するネガティブ・キャンペーンは沈静化」
     《参考例》野球の弊害四ヵ条。一、学生の大切な時間を浪費せしめる。二、疲労の結果勉強を怠る。三、慰労会などの名目の下に牛肉屋、西洋料理等へ上がって堕落の方へ近づいていく。四、体育としても野球は不完全なもので、主に右手で球を投げ、右手に力を入れて球を打つが故に右手のみ発達する
    3)中等学校(高校)野球:「1915年8月に大阪の豊中球場で第1回全国中等学校優勝野球大会が開催」「第3回大会からは兵庫の鳴尾球場で開かれたが、観客増により手狭になったため1924年からは阪神電車甲子園大運動場」「夏の大会の盛況をうけ、同年春からは名古屋市の山本球場で全国選抜中等学校野球選手権大会が開催

    され、翌年からは甲子園球場で行われた」
    4)ノンプロ野球:「1927年には企業チームによる都市対抗野球大会が明治神宮野球場で開かれた」
    5)プロ野球:「1920年、早稲田大学野球部OBらによって日本初のプロ野球チーム日本運動協会(芝浦協会)が、1921年には天勝野球団が創設されたが両球団とも後に解散。1934年、読売新聞社の正力松太郎によって大日本東京野球倶楽部が創設され、1936年には日本初のプロ野球リーグ日本職業野球連盟が設立」、現在のようなペナントレース(公式戦)が始まる。
    ザ畴の野球人気
    1)米国:「アメリカでの野球人気は中長期的に低落傾向にある。ギャラップの世論調査によると、1960年には最も人気のあるスポーツであったが、1972年にはアメリカンフットボールに抜かれ、2番人気に転落した。2013年には1番人気のアメリカンフットボールに対し、3倍近いポイント差をつけられている。伝統的に「国民的娯楽」と見なされていたが、2015年のブルームバーグの世論調査によると、アメリカ人の67%がアメリカンフットボールを国民的娯楽と見なしている一方、野球は28%に甘んじている」(ウィキペディア)
    2)日本
    a、2015年中央調査社が国内で行ったスポーツに関する意識調査
     ァ、人気のあるプロスポーツの1位は「プロ野球」(41.7%)、2位「プロサッカー」(29.0%)、3位「プロテニス」(22.4%)。
     ィ、プロ野球は、19年連続人気トップ。だが、人気度合いは下降傾向(2013年と比較で6.7ポイント減、2014年より1ポイント減)。プロテニスは前年13.5ポイント増。
    b、資料;2014/3/5ヤフー知恵袋「10年後の日本、野球とサッカー、どちらの方が人気?」ベストアンサー
    ァ、スポーツ財団の調査:既に競技人口でサッカー750万人、野球730万人とサッカーが抜いている。
    ィ、中体連による競技人口調査:平成25年サッカー253090人、野球243664人。昨年比較でサッカー増加・野球減少、サッカーが野球を逆転。
    ゥ、2011年学研による小学生1236人の「よくやるスポーツ」アンケート(複数回答):男子1位はサッカ(43.4%)・2位ドッジボール(28・5%)、野球(20・2%)は5位。
    ェ、2013年第一生命保険による全国の幼児・児童を対象としたアンケート「大人になったらなりたいもの」で男子の将来なりたい職業:3年連続1位「サッカー選手」(11.7%)、2位「学者・博士」「警察官・刑事」同率(6.1%)、4位「野球選手」。なお、「野球選手」は2004〜2009年は男子の一番人気で「サッカー選手」とトップの座を競っていたが、今回4位に転落。
    ォ、全日本軟式野球連盟によると小学生の野球チーム数は、昨年度〔?:2013年か〕全国で1万3914。

    過去30年の推移は、1990年度1万7,089がピーク、以降低下傾向。逆に、サッカーの小学生チーム数80年度約3千が、93年約8千(Jリーグ開始年)、昨年度8,568。

    3)世界で見ると野球の浸透度は、まだまだ低い。 
    a、盛んな国・地域:主に北米のアメリカ合衆国・カナダ、欧州(オランダ・イタリア)、中南米(キューバ・ドミニカ共和国・ベネズエラ・メキシコ・プエルトリコ・ニカラグア・パナマ・オランダ領アンティル、コロンビア)、東アジア(日本、大韓民国、中国台湾 以上16か国・地域。
     一方、国際サッカー連盟(FIFA)加盟は、208か国・地域 (2012年1月1日現在)。
    b、ワールド・ベースボール・クラシック(World Baseball ClassicWBC)は、2006年から開催(3年ごとから4年
    へ)。4回目の2017年出場国数は本選16か国、予選16か国の合計32か国。

    3. まとめ
    〔邉紊録裕ぅ好檗璽弔世、個人的には遊びとして一番長い。
    1)小学高学年から中学にかけては、野球は生活の中で中心的な位置にあったといっても過言でないだろう。
     野球する、しなくても見たり、聴いたり、話をしたり、新聞や野球雑誌(『ベースボールマガジン』、1958年4月からは『週刊ベースボール』)読んだり、そうしなくても気になったりした。
    2)今でも、それほど関心なくても新聞開けば野球欄に目は通す。
    3)多分、1950年代子どもであった男性であれば、大部分そうだろう。
    △覆柴本で野球が急激な人気を呼んだか?
    1)要因と思われるもの。
    a、明治の文明開化で日本古来の武術(剣術、弓術、柔術、馬術、相撲など)は時代遅れと見る風潮にあり、欧米流のスポーツが紹介・導入された。
    b、日本には、個人競技が主で団体競技は無いに等しかった。
     ァ、野球は、9人が一つのチームを組んで、それぞれピッチャー・キャッチャー・ファースト・セカンド・ショート・サード・ライト・レフト・センターの守備を受持ち、攻撃は全員一人ひとりが行って得点を競う。
     ィ、当時の日本人にとって個人プレーでなくチームプレーで競う競技は、非常に珍しく新鮮に映ったに相違ない。
    c、欧米流スポーツの中では米国からの野球の紹介が早かった。なお、欧州では既にフットボール(≒サッカー)があって大人気のため、野球は広がらない。
    d、米国人雇われ教師が学校の生徒に紹介し教えた。欧米人であるから素直に話を聴けて、受け入れられ、当時それなりの身分の子弟がする新しい競技として注目され、公立学校であったから運動場が整備された。まず、学生・生徒から。これが、中学校・尋常小学校の生徒、子どもの遊びに広がった。当時学校が全国各地に出来、教育・体育が盛んという点は、中国・韓国など他の東アジアと異なるであろう。
    e、社会人野球・プロ野球が生まれ、全国大会が開催され、野球中継が行われ、全地域・全世代に関心を集めた。
     中1の時(1959)と思うが巨人の長嶋・難波選手(多分広岡選手も)が来島し、体育館で全校生徒の前で挨拶し、質問を受け応えた。真っ先に1年上の女子生徒が難波選手に質問したのが、意外性あって(今流で言うヤラセと感じた)よく印象に残っている。内容は全く覚えていない。グラウンドへ出た選手たちを見て、テレビで見る印象とは違い 遥かに大柄でガッチリした体躯にさすがと感銘。
     スター選手の訪問は、特定球団だけでなく野球ファンづくりに大きな効果。
    今の子どもは 野球よりサッカー。一方、1950年代の子ども世代が、今の野球人気・野球文化・野球産業を支えていた。 
     野球産業を例にすると 昔好きな選手のサインをもらうため往復葉書を書いて投函することが流行っていた。スター選手によっては何百通の葉書が毎日のように来て大変だったであろう。私も小学6年の時、巨人のエンディー宮本敏雄選手に出して、サイン入りの返信葉書をもらったことがあった。産業例としてとるに足りない例であるが、子どもにとってそれで喜んだ時代があった。

     以上 2017.11.06







    歴史スポット77:1950年代両津子どもの遊び(14)工作

     こんにちは! 自在業の櫻井です。

    1.はじめに
     今回のテーマは工作。工作といっても ここでは自分の遊び用具を自分で作る。
     思い起こせば おぼろであるが幼稚園、小・中学校に図画工作の時間があり、絵を描いたり物を作ったものである。
     ここでは図画でなく遊びに使う工作が対象といっても工作と図画と区別は出来ても、具体的作品になるとこれは工作か図画かのどちらに該当するかと問われて、これが正解と即答できるような単純なものでない。
     当ブログの例で言えば 園児の雛祭り人形。これまで時季になるとよく記事に取り上げてきたが、テーマ名は「園児の画いた雛人形」が主であるが「園児の作った」をテーマ名にしたことがあった。工作と言っても間違ってはいない。ただ、冒頭で「遊びに使う工作」としたから、雛人形はこの場合、鑑賞用で「遊びに使う」ものでないから図画に該当。
     (参考:10年3月11日号「佐渡の画廊16:園児の作った雛人形」、15年3月26日号「佐渡の画廊39:園児の画いた雛人形」、17年3月27日号「佐渡の画廊45:園児の雛人形」とある)
     出だし早々 講釈ばかりしているが、そのことで何かを掴んだような感じもしている。
     さて、工作と言えば小学校時代の事で半世紀以上前の事。当時両津では何が流行(はや)り何を作ったか忘れたり、知ったつもりが間違って覚えていたり、間違っていなくても大事な背景に気付かないでいたりなど 多くあるに違いない。
     自分で思い出したりいろいろ調べてみるのは基本だが、いろいろな人から聞いたりすることが重要で視野を広げ情報量を多くするという点、客観性という点、効率という点で欠かせない。
     今回は特にどこまで生情報を得られるかが、ポイントとなる。

    2.内容
     内容は、今回取材順に夷一の渡辺和弘氏(s22年生まれ)の話をベースに、浜田の市橋俊博氏(s21年生まれ)、湊の北 治之氏(s21年生まれ)、神明町の山田昭夫氏(s11年生まれ)からお聞きした事、掲載済記事、その他ウェブを参考にした。なお、記述は取材・その他資料収集のたびに遂次追加。
    ‖(たこ)
    1)凧は、ツル家で買った。
    (山田氏の時代の場合、竹細工屋から竹をもらって竹ひごを作って組立て、和紙で貼り付けた)
    2)キットが出て来たのは昭和32〜34年頃、キットの中には糸や紙もあった。
     なお、市橋氏によれば 竹細工の小池かご家でも凧のキットを売っていたという。
    a.紙は、絵が印刷されたものもあれば、絵を描かなければならないものもあった。
    b、糸は、短く、弱くて切れるものが多かった。〔短くて切れやすいというのは、キット用は自分で組み立て自分で走りながら凧を上げるという目的で広く一般を対象にしたもので、大きな凧を高く遠くへ上げることを目的としたいわばマニア向け(その場合特注で高価)でなかったからであろう。
    3)凧揚げするからには、注目される格好よい絵でなければならない。小学低学年では、格好よい絵は描けない。幸い近所に絵を上手に描く先輩(いずれもs18年生まれ)が2人いて、描いてもらった。
     a、七夕祭の時も、七夕の提灯の絵も描いていた。その頃になると家に5〜7個の提灯があったのを思えている。近所の親たちが子のために依頼したのだろう。
     b、その2人はその後それぞれ看板屋とプロの画家になって活躍。
    4)凧の絵は、当時は漫画の主人公 剣道の赤胴鈴之助・柔道のいがぐり君・鉄腕アトム・鉄人28号が人気者、そのキャラクターの絵が多かった。ラジオ放送で人気番組「笛吹童子」〔1953年放送〕の翌年放送の「紅孔雀」の浮根丸(うきねまる)も同じ〔1955年映画化〕。なお、一世代前は忍者の児雷也・剣客の荒木又右エ門・武将の後藤又兵衛が、和凧の人気スター。
    5)凧の形は、長方形、六角形、奴凧などいろいろあったが、特にイカの形をした凧はイカの多く獲れた両津では人気があったように思う。【確かに、イカは耳に広がりがあう一方が、足が多く重心が下にかかってバランスがとりやすく、更に両津ではイカは非常に親しみやすく正月にはスルメイカを神前に飾り、小正月には焼いて食べる】
    《参考》「六角巻凧の歴史」(南三条ロータリークラブ(新潟県三条市)HP)
      六角巻凧は、700〜800年前に三条に発祥したと思われる。
    ◎イカかタコか

      凧と云う字は中国、韓国では無い。江戸時代に日本で作られた字である。鎌倉時代までは凧の日本名は無く、中国名の紙鳶(シエン)、紙老鴟(シロウシ)と呼ばれていた。室町時代になってやっと、イカノボリ、イカなどと呼ばれるようになった。

      江戸時代、町民の間で凧揚げが盛んになり、江戸でも、京、大阪でも大人が揚げ、喧嘩をし、凧によるケガ人や死者まで出るようになった。

    明暦元年(1655年)に幕府より、「町中にてのイカノボリを揚げることを禁ず」との禁止令が出た。ところが、翌明暦2年には「町中にてのタコ揚げを禁ず」と再度禁止令が出ている。

     これは、京、大阪の上方に対抗意識を持つ江戸町民が、幕府にも対抗し、イカでなくタコだと云って、江戸っ子の凧揚げがますます盛んになり、凧という漢字まで作った証拠ではなかろうか。

    三条でも、この禁止令が出されているが、町民の間でケンカ凧があり、1,600年頃より凧合戦があったと思われる。

    ◎ アメリカで発刊されている凧の専門誌「KITE LINES」に“SANJO ROKKAKU”として、三条の名が固有名詞で全世界の凧キチに知られている。知らないのは、三条人だけだった。

    世界のタコの発祥は中国、チベット、ネパールのあたり。紙の発見と竹の産地と云われているが、これが仏教と共に日本に伝わり、日本各地に種々の形の凧が創作された。その中で、三条の六角巻凧はよく揚がり、安定していて、操縦が簡単であり、機動性に富み、それに持ち歩きに便利なため、海のシルクロードを経てヨーロッパに伝わった。この六角凧を使って、1901年にマリコーニは無線の大西洋横断受信のテストに成功している。

    〔参考「イカ大集合」サイト」より:2016年10月に新潟県三条市で開催された秋季全国越後大会では、13回目となる凧大集合が開催されました。テーマはイカ。言うまでもなく、今回の全国大会開催地の越後地方では、凧をイカと呼びます。凧を指す古語のイカノボリという言葉が、いまだに生きているのです。そして日本海のイカ。この両方に掛けて大集合のお題を決めました。

     今回は三三人の方がイカ凧を持って三条で開催された越後大会に参加して下さいました。〕
    (参考は以上)
    6)凧を揚げるのに、丈夫で長い糸を見つけ出すのに苦労した。普通の糸では当然ダメで、紐のような丈夫な糸必要だった。糸巻にグルグル巻いて揚げたものだ。
    7)凧揚げは、昭和34年小学5年の時くらいまで〔旧両津市立〕南中学校のグランド〔高台にある〕へ行ってやった。〔市橋氏の場合旭町の浜、山田氏の場合吉田家のある加茂湖湖畔とのこと〕
    a、電線や建物など遮る物がないため、近くの春日町や夷や加茂歌代からも来ていた。
    b、来る人は自信家で自分の凧を自慢すると共にこれはと思う他人の凧に関心を持った。
      どのようにして作ったか、紐をどっから持ってきたか、どこの子でどっから来たか等々情報交換。
    c、一定の間隔を取りながら凧揚げするが、風向きが変わったりすると互にぶつかり合い、飛んで行ったりして、喧嘩になることもあった。
    8)市橋氏によれば、凧の重心を低くし安定させるため尻尾(しっぽ)に紙テープを貼ったことがあるとのこと〔私の場合は、魚箱を縛る縄を付けた覚えがある〕。
     紙テープは、年次は不詳だが昭和45年頃までは両津港出港の際見送りに使われていたと思うが、港湾汚染・船の運航支障(スクリューに絡まる)ということで廃止になった。確かに、紙テープは赤・青・緑・白などのいろいろな色があり、凧に付けるのに便利。
    竹とんぼ
    1)夷には竹細工屋がそれなりにあって(一ノ町、六ノ町、築地)、竹はどこにでもあった。
     a、かご等の生活用品からおけさ人形等観光土産品、ブローチ・ペンダント・ネックレスなど細かいものまで手掛けていた。
     b、子どもにとって、竹細工は次々変化し形となっていくのに関心を持って見た。(幼稚園時代帰りに丁度その作業場があって眺めた記憶がある。小学時代は方向が反対だが行動範囲が広く歩いて5分足らずだから その時の記憶の方が多いだろう)
    2)道具では小刀とヤスリがあれば竹とんぼを作れた。
    3)竹細工の主人は子どもに寛容で、作業を見てても仕事の邪魔者扱いにはしなかった。
     a、欲しい竹の端材があればくれた。
     b、時間あれば、竹の削り方など巧いやり方を教えてくれた。
    4)竹とんぼで競争した
     a、滞空時間と飛距離を競った。
     b、中にはビューっと高く飛んで行ったと思ったら同じ位置に戻ってくるのに驚いたものもあった。
    「ようの実」鉄砲
    1)「ようの実」は、榎木(えのき)の木の実でそれを弾にしての鉄砲を作った。
     a、竹の筒の長さ10〜15cm、直径8mmくらい。
     b、筒の中に入る竹の芯棒を作る。
     c、片方にようの実を入れて飛ばす。
    2)飛んだ弾はスピードがあるわけでなく当たっても痛くはない。
    3)鉄砲の撃ち合いより、パァーンという音の大きさを競ったと思う。
    っ櫂好ー
    1)竹細工の店には、時季になると竹スキー用に切った竹が5〜6本置いてあった。
    2)欲しい人は、スキーの先端を曲げ方をどうするか等好みに応じて注文して買った。中には、材料だけ買って、後は自分で作った。
    3)スキーの裏側・雪に接する面を蝋燭(ろうそく)でこすって蝋を付けるを滑りがよくなることを先輩などから聞いてやった。
    【市橋氏言うには、「蝋は水分をはじくから雪がくっ付かないからだろう」とのこと。成程と思った】また、プロペラ舟も底のスクリュウーにある部分に蝋を塗ると速くなると言われており、みんなもやった。確かに速くなったと思う。
    ゥ廛蹈撻蕁魅好リュー〕船
     ここでは、プロペラで動く木船をいう。
    1)ツル屋で船のプロペラとそれ用のゴムが売っていた。
     動力源の要となるゴムは、大きく2つあった。
      太いゴムは、瞬発力あるがすぐ終る。
      細いゴムは、瞬発力無いが、長続きする。
    2)当時男子10人に2〜3人くらいはやったと思う。
    【私自身、船を持って一部加工した覚えはあるが、どこまで自分で加工したか(鋸や鉈や金槌等の使用)はハッキリしてない。プロペラを付ける部分に苦心したという記憶はある。】
    3)昭和32〜33年頃両津小学校のグランドに縦横3×5m・深さ0.5mの水槽があり、自分の手作りの船を浮かべて競争した。
     また、氏の家に近いお宮さんの参道に沿った所に防火水槽(縦横3×5m・深さ1.5m)があり、大人の目を盗んで落ちないように被せてある金網をはぐって、船遊びをした。金網は当然、深さが1.5mもあって子どもが遊んでいて落ちて死亡する例が全国に絶えなかったからだ。
    a、水道が無かった当時、街中での起きた火事の類焼を防ぐためそれなりの所に設置が義務付けられていたのではないか。
    b、遊んだ後は、勿論金網を元に戻した。後年、防火水槽がお宮さん近くに移すことになった時、溜まった水を抜いたところ、いろいろな玩具がたくさん出て来たとのこと。何故かは、ハッキリしていない。
    (以上は渡辺氏)
    4)湊の北氏
    a、家の近くに下駄屋さんがあり、桐の木の端材をもらって作った。
     ァ、桐の木は、杉もそうだが軽くて船を浮ばせ、且つ速く走らせるのによかった。
     ィ、松は反対に、重くてダメ。
    b、道具は、ノコギリ、カンナ、彫刻刀(彫刻刀は小学校の工作の教材道具に入っていた)。ノミは、まだ危なくて使わなかった。なお、学校では船は作っていない。
    c、スクリューやゴムなどは、中村書店(だんご家)で買った。また、夷の丸屋書店などの本屋にも売っていた。
    d、小学校で手作り船の競争大会が湊の海岸であり、参加した。これは、航行距離を競うもので、一般に太いゴムは速いが終わるのも早く、細いゴムはその逆。距離を長くするには、長いゴムを巻くことに限るが巻くのに時間がかかり大変だった。
    5)神明町の山田氏
    a、板や樽木などから切ったり削ったりして適当な大きさの船の形にした。
    b、プロペラやゴムは買ってきた。
    c、吉田家の前の加茂湖は砂・砂利で 膝あたりまで水に浸かって船を泳がせて遊んだ。
    Τ銅鑒行機
    1)紙飛行機
    a、記憶は薄いが、幼稚園から小学低学年の頃まで市販の正方形の色紙(折り紙)や新聞紙や包装紙(今日なら新聞折り込みチラシだろう)から作って飛ばして遊んだ。
    b、(渡辺氏より)小学校時代冬になると昼休み小学校の体育館で15人くらいが自分で作った紙飛行機を持って集まり、1・2・3で一斉に飛ばし、誰が一番長いか等々を競って遊んだ。また、遠くへ飛ばすか、滞空時間を長くするかによって、紙の折り方が違う。
    c、全国での例
     今日でも昨年26回を数える「折り紙飛行機大会」が開催されている紙飛行機の盛んな所がある。会場:青森県三沢市総合体育館、午前:折り紙ヒコーキ教室開催・午後:飛行機大会、参加費無料(「テイクオフみさわ」HP)。なお、三沢には、航空自衛隊唯一の日米共同使用航空作戦基地の三沢基地、そして国内最大規模の航空ミュージアム「青森県立三沢航空科学館」があることとも関係しよう。
    2)模型グライダー
    a、竹ひごと和紙のついたキットの他、少年漫画雑誌の付録に付いていたもので作った記憶がある。
    b、紙飛行機と同じく胴体の真ん中辺を手に持ち前方上目に向けて飛ばす。
    c、北氏より、
     ァ、手作りキットがあった。
     ィ、小学校の時 有志が校舎の小屋に上がって競ったことがある。
    3)模型飛行機 

    a、小学校低学年のときキットを買って、飛行機を作って飛ばした記憶はあるが、細かいことまで覚えていない。次の記事で思い出すことあったので転載する。

    「当時のゴム動力飛行機は、私も覚えがありますが、竹ヒゴを火で炙って曲げ、ニューム管で繋いで 主・尾翼に薄紙を貼り 霧を吹きつけて延ばし、指先で一頻り〔ひとしきり〕巻き上げたゴム紐を動力源に、上空へ手投げで押し出すものでした(日本航空協会 航空スポーツ室)」(資料:「航空と文化」こども模型飛行機教室 辻脇 健 2006.02.09)
     ァ.「竹ヒゴを火で炙って曲げ」:蝋燭を点けて曲げた覚えあり。
     ィ.「ニューム管で繋いで 」:覚えあり。
      「ニューム管」はアルミニウム製の細いパイプで、付録にあるのはパイプに縦に割れ目がある。竹ひご同士を中に入れて繋ぎ、セメダイン〔両津では「セメンダイ」と呼んでいた〕でくっ付け固定し、丈夫な翼にした。
     ゥ.主・尾翼に薄紙を貼り」:覚えあり。「霧吹きつけ」は、言われればそんな気がする。凧かもしれない。

    b、両津小学校で近隣の小学生も集めての模型飛行機の大会があり、その時学校の先生がストップウォッチをもって滞空時間を測っていた。(渡辺氏。北氏も飛行機大会があったことを覚えていた) 
    c、山田氏の場合、丸屋書店で一式〔キット〕買って組み立てた。
    Х邊少年漫画雑誌の紙製組立て付録
    a、時代背景
     ァ.子ども人口(15歳未満)はピークが1954年3,000万人〔2015年1,617万人〕、小中学生人口となるとその後が最高となる。小学生を対象とした漫画雑誌の市場は拡大。
     ィ.市場が拡大すれば参入企業も多くなる。少年雑誌に次のものがあった。「少年」「少年画報」「冒険王」「漫画王」「ぼくら」「小学四年生」等。
     ゥ、参入企業が多くなれば、競争激化。
      子どもの心を惹く為 豪華な付録。別冊付録漫画10冊は当たり前で子どもの好奇心・制作欲を刺激する紙製付録が盛りだくさんで、「15大付録付」さらに「20大付録」が出現。
     ェ、本一式は分厚くなり、輪ゴムやタコ糸でとめられた。
     ェ、当時の両津
     顱頬椶録軍磴ら昼着の定期船で来る。両津の子どもは、それから何時頃本屋の店頭に並ぶか大体知っていて、店の前にみんなして待っていたものだ。
     髻冒イ蓮貨物昇降装置のある貨客船で荷物は船首部分の船倉に置かれ、太い縄の大きな網に入れられ着船時にクレーンで吊り上げられて陸に移動、定位置に下ろされた。
     鵝頬棆阿蓮夷に丸屋、石川書店がありその後藤快書店も扱うようになり3店、湊に1店・中村書店あった。
    b、紙製組立て付録は、厚紙にカラー印刷されたパーツを切り取ったり、抜き出したり、折り曲げたり、のり付けしたり、はさみ込んだりして建物や乗り物や装置などを立てる。
     ァ、紙製組立てには、糊(ノリ)が重要であった。
     ィ、物不足の時代は、糊がなければ「ご飯粒」で代用。当時の組立ての解説に「ご飯粒」というのがあった。私自身それで間に合わせた経験は記憶にある。
     ゥ、当時の糊は小さなビンに入っていた。その後、チューブ式となり、そして今日のようにスティック式が一般化した。
    d、1950年代の紙製組立て付録例(資料:「昭和の名玩具100選」サイト、「雑誌の華」サイト他。1960年は入れる)
    昭和24年5月号「熱戦の後楽園球場全景」少年(光文社)
       〃  8月号「くみたてちんちんでんしゃ」幼年えほん(新生閣)
       〃 11月号「法隆寺パノラマ大模型」少年クラブ(講談社)  
        25年3月号「競争用飛行機」小学五年生(小学館)
        〃 11月号「学習スライド映写機」少年(光文社):紙箱製映写機に入った電球で、中にある川上選手などのスターのフィルムを映写。
       〃  〃  「豪華組立ヘリコプター」太陽少年(妙義出版社)
       26年4月号「タイプ式印刷器」小学五年生(小学館) 
       〃  7月号「国連ビル型はがき入れ」小学五年生(小学館) 
       〃  〃   「少年とうしゃ〔謄写〕版」  少年(光文社)
       27年10月号「100倍に見える天体地上大望遠鏡」〃
            〃 11月号「快適ヘリコプター」           〃
       29年新年号「天然色立体テレビジョン映画」 〃
          2月号「新案カメラ」小学四年生(小学館)
       30年新年号「プロレスゲーム盤」冒険王(秋田書店)。なお、その他付録に、「冒険・・・ゲーム投げ」「『1955 おめでとう 』年賀スタンプ」「人気者プロマイド」(当時の野球・相撲スター写真)あり。
       〃  6月号「もしもしでんわ」小学三年生(小学館)
       35年7月号「リモコン鉄人28号」少年(光文社)
       〃  9月号「ワイドテレビ(幻灯機)」日の丸 集英社

    3.まとめ

     自分の遊び用具を自分で作り、それを使って遊ぶことが今回のテーマであったが、驚くこと・再認識したことが多かった。
    1)戦後間もない物不足・小遣いもない経済復興時代の子どもは、遊び用具を自分で作った。
    a、材料調達では、木でも竹でも紙でも買うなら誰でもできるが、家にあるものを使ったり、落ちていたものを何かに使えると拾ったり、端材や不良品を貰ったり、他の物で代用したり等々。
    b、例        

     ァ.凧:竹細工屋から竹をもらって竹ひごを作って組立て、和紙で貼り付けた。和紙は、おそらく当時どの家庭にもあった障子紙。貼り付けは、ご飯粒でしたのでないか。
     ィ、高跳用具:掲載済(7月14日号「子どもの遊び(04)山田昭夫氏語る」)で 一般的でないため触れてなかったが、工作の傑作として再度紹介。
     落ちていたか捨てられていた長めの木の板(推定例:当時板壁の家・建物が多く〔簡易倉庫・船小屋が典型〕古くなって剥がれて落ちた壁板)を使ってその両端に子どもの胸くらいの高さの木の棒を立て(板の裏から釘打ち)、細い竹が水平に上下して置けるようにそれぞれ釘を同じ高さに中途打ちしたもので、場所移動可能。これなどは、「走高跳用具」の代用。
    2)両津ならではの工作の特徴としては、
    a、竹細工屋多かったことでは、凧・竹トンボ・竹スキー・竹下駄
    b、海と湖に囲まれているという立地では、プロペラ船・凧の尻尾
     が、挙げられる。
    3)月間少年雑誌の紙製組立付録は、人気漫画のつづき以上に子どもから期待される面があった。
     作らなければならないものでなく、それで損するものでもない。期待外れに終わったにしてもそれで終わりでなく、期待は続いた。
     以上 2017、10、31

     
     

    歴史スポット76:1950年代両津子どもの遊び(13)雪遊び

    こんにちは!自在業の櫻井です。

    1.はじめに
     遊びついてこれまでは通年か夏の遊びを取り上げてきたが、ここでは冬、といっても半世紀位前から「暖冬」という言葉が使われ全国的に雪が余り降らない時代に入った。調べると、「地球温暖化」が深刻な問題として科学者の間で注目されるようになったのは1970年代、そして1985年初めての世界会議がオーストリアのフィラハで開催され、以来二酸化炭素による地球温暖化問題が大きくとりあげられるようになった。
     さて、冬と言えば雪が連想され、雪が降れば雪遊びができる。
     冬(12〜翌2月)の雪積量について両津の場合1950年代は感覚的には 雪が降れば5〜10cmくらい積もったと思うが、ここ40年間新潟市に常住し雪の量は両津と新潟とでは変わらないと認識。それに従えば、冬の3ヶ月間に雪が歩道に5cm以上積る日は延べ10日くらいしかないのでないか、近年新潟には雪は一段と少なくむしろ東京に雪が降り積もってことがあり多いといった異常気象の方が記憶にのぼる。なお、雪が5cm積もれば先方は「大雪」と言うらしいが、その点はその点当地とは感覚が異なる。
     今書き込み中 新潟でも両津でも子どもの雪遊びはひょっとしてここ数十年見てないのではないか?と思うほどの雪の少なさで、雪遊びは今やゼロに等しいのでないか!逆に、だからこそ「雪遊び」を取り上げる意義は大きいと自覚。
     豪雪といえば、昭和38年(1963)の三八豪雪(さんぱちごうせつ)を経験。この時は、雪下ろしの雪が中庭に積もり、平屋屋根と同じ高さになり、屋根へは雪を足場にして簡単に上がれたのを覚えている。喜々としたものである。田んぼ道を(誰から借りたかわからぬが)本格的なスキー靴を履いて歩いた経験もある。竹スキー・竹下駄では初めから通用しないし、長靴では雪に埋まって歩くのに不自由。
     だが、豪雪地域になるとこんなものではない。直接聞いた話だが、ある人が用があって家の前に駐車し、1時間ほど経って戻ったところ車が雪に埋もれ動かせなくなったこと、の屋根の雪下ろしは1日2回行う等々。
     <三八豪雪記録(ウィキペディア)>
      最深積雪量:新潟県長岡市 318cm(1963年(昭和38年)1月30日)
      
    信越本線新津 - 長岡間全面運休:同年1月24〜28日
      
    運休列車(1月23日〜2月1日の10日間):旅客列車6,488本・貨物列車6,147本。なお、除雪列車8,760本運転。
     雪遊びと言えば、雪投げとかスキーとかいろいろあるが、ここでは一般的記述でなく、これまでの貴重な取材記事を参考にしつつも正確を前提に当時・当地ならではの固有名詞をどれだけ記せるかが、価値を決める。
     追記:資料『佐渡人名録』HP「両津の昔を記す」「遊び:2017-02-20」サイト(以下、『人名録』)

    2.内容
    |櫂好ー
    1)スキーといっても当時両津のスキーは、スキー場でのスキーとは違う竹スキー。
     スキー用具自体が違い、通常のスキー板のように自分の背丈以上の長さの板(中央付近にスキー靴を固定するビンディング具が取り付けてある)に乗り、2本のストック(杖)を握って雪原を駆け下りるのとは違い、竹スキーで家の前の雪道や坂を滑った。片道距離にして、100〜150mくらいなものであろう。
    a、竹スキーは、当時は自分で竹を用意して作っていたと思うが、自らはスキーの先端部分を火に炙(あぶ)り(熱すると油のようなものが出た)スキーらしくなるように曲げた覚えはあるが、手ごろな竹を取って(あるいは貰って又は買って)来て、鋸(のこぎり)で竹を適当な長さに切って、鉈(なた)で竹を真ん中から割いて、小刀で必要箇所を削って、竹の板を作った記憶はない。また、竹スキーは市販もされていたというが、その記憶も買ったという覚えもない。
     参考:『人名録』
     「(渡辺)竹を横5cm、縦40cm位に切って、前方を火に近づけて曲げて一本足スキーとして使う。長靴の下につけ、片方の足で走って勢いをつけ滑る。家で作った人も居たのだろうが、私は春日町の、今の(h29年)桧田整骨院辺りにあった竹細工関係の家に行って買っていた。火であぶって竹スキーを作る工程を、おじさんと話しながら見るのは本当に楽しかった。
    (山田・小池)自分達でつくったなあ。竹を伐って来て、スキーの大きさ(縦30cm、横5cm位)に割ってロウソクで熱を加えて先の方を曲げた。材料の竹は自分で伐ってきたんだか、親が伐ってきたんだか覚えてないが。
    (小池)当時は竹細工やってる家が結構あったから、そこ辺りで作って売ってたんだろうなあ。
    (現大黒屋さん談)夷6の「かごや」さんで竹スキーを製造販売してた。
    (渡辺)夷一の岩谷栄治さん辺りが最後まで竹細工やってましたねえ。」
    「(山田)あの頃の親は忙しくて子供にかもとる暇がないから、竹伐るのは手伝ったかも知らんけど、後は子供が全部やった。竹細工屋があったから、そこで丸太みたいにした竹を売ってたかもしらんなあ。竹をロウソクで曲げるのは、俺達は丸屋の裏の土間で一生懸命やった記憶がある。
     (参考は、以上)
    b、島外の竹スキーは1m以上あるが、両津の竹スキーの長さは30〜40cm程と小型。長靴がすっぽり雪に埋まるほど雪が多く積もるわけでなく、主に家の前の道路で雪遊びできるからだろう。長さが1m以上あるスキーでは小回りが利かず、道端ではかえって遊ぶに遊べない。
     幅は5cm程か。子どもの長靴がそれに収まることはなく、うまく雪の上に乗って滑っても すぐに靴が雪にぶつかって外れ雪に浸(つか)ることが多かった。
       竹スキーの例
     竹スキー
     (写真は、「PAZUのノスタルジックな道具」ブログ「野遊び道具」サイトによる。当時の両津の竹スキー写真が見つからず、ウェブに偶然同じような形・寸法のものがあったので、勝手に借用)
    c、全国各地でいろいろ工夫がされている例。
     ァ、幅の拡張
     顱膨招贈隠娃磽輙召蠅涼櫃4つに割き、前は1ヶ所、後ろは2ヶ所に錐(きり)で穴をあけ、前の竹2つは夫々穴に針金を通して結んでもう一方と縄で繋ぎ、バランスと操縦に使うものとし、後ろは〔穴から〕足板の板に釘を打ち付ける〔その場合は竹は割れにくい〕、
     髻冒阿噺紊量敞弔忘戮っ殀弔鮨枚併せてビス止めする。
     鵝肪櫃鬘海弔卜くが切断せず広げた状態にして竹板とし、先端部分を炙って湾曲にする。
     ィ、スキーに乗せる靴の固定
      スキーの前部分に靴掛け用の帯ベルト(例:農作業用のモーターに使うものを利用)を取り付けておき、滑る時に靴をベルトの輪に突っ込んでスキーを履く。
    2)冬の遊びの中で竹スキーは人気・普及において、築地は勿論両津でも筆頭に位置。
     a、夷も湊もいわば標高では一番高い本町通りを中心に加茂湖側・海岸側への小路は下り坂、次の通りまでの距離は短くもなし長くもなしで(そのためにさっと滑り降りて上がるにしてもそれほど「てーそ(大儀)」でない)、「竹スキー」を楽しむには恰好(かっこう)。
     b、専ら利用したのは、おもちゃ屋のツルヤの坂。本町通りに比べ車は頻繁に通らず、裏町通り(築地・神明町通り)に比べれば車は、そこそこ通る。従って、道路の雪は、本町のように硬く横ずれによって車と接触する危険性がなく、裏町通りのように車が少ないため新雪のように軟らかくスキーが雪の中に埋もれ進むのに苦労することはなく、竹スキーにもってこいの環境であった。 
     c、遊びには競争がツキモノだが、竹スキーに関しては、スピードを競ったり、他方みんなと歩調を合わせて楽しむわけでなく、マイペースに特性がある。但し、みんなが遊んでいる中にいるから、やり甲斐があると感じる。
     その本質は、(関心を持たれて)見られていることにある。これは、遊びの要素の発見に当たるかもしれない。
      《参考》スキーの歴史スポット
     a、「スキーの歴史は古くスカンジナビア半島では、紀元前2500年ごろの壁画に狩りをする人達のスキーを履いた姿が描かれているのが確認されている。また、10世紀から11世紀にかけて、ヴァイキングがスキーを軍用に用いたという記録が残っている」(「ヴァイキング」:ヴァイキング時代(Viking Age、800年 - 1050年)と呼ばれる約250年間に西ヨーロッパ沿海部を侵略したスカンディナヴィア、バルト海沿岸地域の武装船団(海賊))
     b.日本におけるスキーの伝来は明治時代後期の1890年代。本格的なスキー普及の第一歩は、1911年(明治44)新潟県高田町(現在上越市)でオーストリア陸軍少佐のレルヒが陸軍第13師団歩兵第58連隊の営庭を利用し連隊幹部らスキー専修員に技術を伝授したこととされている。上越市金谷山に「大日本スキー発祥之地」記念碑、日本スキー発祥記念館あり)。レルヒは、日本陸軍・長岡外史中将率いる第13師団の御用商人(高田町を本拠)五十嵐彌五八の経営する旅館「高陽館」に寄宿し、高田歩兵第58連隊に着任。
    また、五十嵐は自身が経営する「報国商会」を介して、スキーの製造・宣伝活動・スキー音頭や高田小唄を作り高田芸鼓連にスキー踊りを教えるなど、「スキー」の全国認知に積極的に活動した。特に信越・関東・東北・北海道のスキーの普及に大きく貢献したといわれる。
     【メモ】八甲田雪中行軍遭難事件
      
    1902年(明治35年)1月陸軍第8師団の歩兵第5連隊が青森市街から八甲田山の田代新湯に向かう雪中行軍の途中で遭難した事件。訓練への参加者210名中199名が死亡(うち6名は救出後死亡)するという日本の冬季軍事訓練における最も多くの死傷者が発生した事故であるとともに、近代の登山史における世界最大級の山岳遭難事故。(ウィキペディア)
     当時日本陸軍にとって、ロシアとの開戦を前に慣れない寒冷地での戦争を前提とした軍事訓練を行うことは緊急課題。見方によっては、どれだけの寒さの中で耐えられ進軍できるかの実験が必要であった。なお、日露戦争は1904〜1905。
     1911年高田連隊の場合、何を想定してレルヒ少佐を雇ったか。
     ウェブ記事に「日露戦争に勝利した日本は、ロシアが勢力を伸ばしていた満州に進出するとともに、日清戦争当時から軍隊を駐留させていた大韓を併合〔1910年〕した」「1910年に、日本が、韓国を併合しなければ、韓国は、ロシア帝国に併合されていました」とある。突っ込みはここまで。
     (メモは以上)

     c、佐渡にスキー場が2ヶ所ある。「佐渡スキー協会」サイトより。
      ァ、佐渡市営 平スキー場;金井新保2−75
       標高約400m、ハンガーリフト3基、総滑走距離750m、レンタル(スキー・スノーボード)あり
      ィ、ワンダーバレー佐渡スキー場:吉井本郷1818−1 

       標高約300m、ハンガーリフト4基、ソリフト1基、総滑走距離1600m、ナイター設備完備、レンタル(スキー・スノーボード)あり
    ▲愁(橇)
    1)当時ソリは、商売上なくてはならない運搬具。雪がなければリヤカーでよいが、雪の積もっている街中の商品配達にソリは欠かせなかった。
     a、人が乗るのがスキーで、どちらかと言えば物が載るのがソリ。
     b、現時点で当時のサンプル数は極めて少ないが、自前で作っていた店が普通で、雪に接して滑る部分は当時高価な金属よりはタダ同然の竹を使った。
     ァ、自作が多かったということは、
     顱謀垢砲茲辰堂拱の扱い量が異なり 丁度合ったソリは無いに等しい
     髻砲い局要となった時、近所等からの借用(そういった風潮はよそも同じだろうが両津にはあった)か人海戦術で何とかなる
      が理由として挙げられる。
     ィ、かってスキーメーカーは、全国に多くあった(輸出もした地方メーカーが存在)が、ソリ〔主体〕メーカーの名は、聞いたことはない。
      スキーと違って少量多種のためだろう。
     c、うろ覚えだが 当時のソリは、いわば木製リヤカー。長方形の荷台が縦・横 数本の角棒で成り立ち、雪の接触面は左右2本の滑らかな木の棒が荷台を支え、先端で左右繋がれた縄を引っ張って移動。自分ではないが、当時魚関係者がソリに魚の入った魚箱を縦横2×3列に並べ、それを2〜3段積上げ雪道を運搬していたような記憶がある。
      《参考》木製そり写:資料「北海道人」HP「子どもたちの雪遊び」「そり」。
     (参考文献:北海道開拓記念館監修『北海道の民具』1993年(北海道新聞社)、北の生活文庫3『北海道の民具と職人』1996年(北海道新聞社)、宮本馨太郎『図録・民具入門』1991年(柏書房)等)
     そり
      《参考》箱ぞり(ウィキペディア。写真含む)
     箱ぞり
     「箱ぞり(はこぞり)は日本の雪国で使われていた道具で、箱状の荷台にソリが付いたもの。北海道、東北、北陸、甲信越などの雪国では、雪が降ると箱ぞりを出して物を入れて運んだ」。
     【両津では見たことない。但し、ミカン箱では小さすぎるイメージあるが、スキー板(要の部分が竹か木か金属かの違いはあるが)を底に付けた箱に何人か乗って滑ったような記憶がある】
     d、当時のソリ
     ァ、遊んだソリは、小さなもので1〜2人乗り、大きなものは4〜5人乗ったと思う。元々は荷物運搬用だったのを、子どもが遊び用に使った。
     ィ、家にあったソリは完全な手作り。竹がついていて、主に荷物運びだった。
     ゥ、金具のついたソリは、当時は金具自体が少なく珍しかった。滑りは確かによかった。大きいのも小さいのもあった。どちらも荷物を運ぶものだった。
    2)主な遊び場
     a、「坂のとこで自分で押して勢い付けてポンと飛び乗った」
     b、「つるやの坂とか、本間牛乳の坂とかも行った」「他には中野の坂(本線の道路の出る手前で平らになりソリは止まった)とか、電話局のすぐ向こうの。登ると三辻さんの家のある。あそこから滑ってくるんだけど、車なんかなかったし、たまにはタクシーが通るくらいで時々トラックも来たか」。大した坂でないと面白くなく、「俺達は急な坂を欲しがった」
     c、「小学校の後半頃かなあ、両津高校の坂で滑ったこともあります。県道を横切って海の近くまで滑ったかなあ、勿論大きなソリです。ただ、車にぶつかる心配でなくスピードが出るんでひっくり返ったり、どこかに衝突すると怖いって気持ちがあったのを覚えて居ます」
    竹下駄
    1)直径10cm位はある竹を下駄の長さに切って二つに割り、それぞれに鼻緒をつけ下駄のように履いて雪の上を歩く。当時だから靴下でなく足袋を履いて下駄を履いた。
     【しっかり歩くのに(特に雪道、バランスが肝心)鼻緒だけでなく、左右の竹下駄の先に繋いだ丈夫な一本の縄を設け、乗る者がそれを両手で持って方向とバランスを取っていたと思う】
    2)下駄は道路を歩くための手段であるが、竹下駄も歩く手段に違いないが目的は子どもの娯楽=雪「あ・そ・び」。
    a、なぜ遊びかは、雪の上での下駄歩きと多分竹下駄を経験したことから言うならば、
     ァ、下駄の弱点
     顱棒僂發辰神磴鯑Г爐海箸農磴下駄の底にすぐにくっつくため進めず用をなさない
     髻貌Г鵑声辺の雪が足袋や足に被って濡れたりするため注意して着地を選ぶ必要がある
     鵝鵬実未蓮当時とすれば通年・どこでも・誰でも使っていて目新しさがなく、雪道を歩けば変人・馬鹿に思われるのが落ち。
      以上、総括すれば面白味がない。
     ィ、竹下駄の長所
     1、履き物の機能としては無いが、履いて歩いているだけで、注目。注目度は、遊びの要素。
     2、下駄や足駄のように雪が、上下の歯の間にからまって歩行を遮る度合いは少ない。竹の湾曲部分に足を乗せて雪の上を歩く新感覚が楽しめる。
     3、どこまで歩いたかは、自身の記録に残り話の種になり得る。
     《参考》竹下駄写真
     竹スキー5
     (写真は、「昔のスケート」のウェブ検索により発見。出所不明)
    ざ皺実漫福甓実漫β駄スケート)【佐渡用語だろう】
    1)金下駄(かなげた)は、下駄か足駄の底に金具・ブレード(氷と接する部分はエッジという)を付け足袋を履いたままスケートとして使った。
     「厚い下駄の土台に金具(スケートのブレード)を取りつけ、スケートとして使う。鼻緒があるので、靴下でなく足袋をはいたと思う。昭和30年代初期はまだ靴下を履く習慣はそれ程浸透していなかった」
       《参考》金下駄写真_実魅好院璽
         資料:「北海道人」HP「子どもたちの雪遊び」「雪スケート」
     (参考文献:さっぽろ文庫82『北の生活具』1997年(札幌市)、北海道開拓記念館『北海道の民具』1993年(北海道新聞社)、第46回特別展「冬の寒さと文化―北のくらしと技術」1998年(北海道開拓記念館)等)
       金下駄

    2)足駄(あしだ)=高下駄(たかげた)スケート
    a、足駄は下駄よりも歯が高く、主として雨天用の高下駄。草鞋→下駄(少しの雨なら通用)→足駄。女性は、一般には足駄というより高下駄は履かなかった。女性用足駄は当然あった。
    b、足駄の金下駄は、「横二本の両刃を外して、縦に金属の刃(ブレード)をつけた。刃には左右に薄い金属板がついており足駄の裏の両側面に釘かネジくぎで取りつけたんじゃないかなあ。石塚丈太郎さん辺りの鍛冶やさんで作って売ってたんと想う。結構売れたから作り置きしてたとか。その後の長靴に取り付けたスケートと違って全体が低いので安定していて滑るのは楽だった。靴下なんか当時はないから、裸足ではいたと思う。足袋履いたかなあ」
     《参考》金下駄写真足駄スケート
       足駄スケート
    〔下駄の土台が厚く且つ底が高い歯を支えられるよう山になっているから下駄でなく、高下駄=足駄〕
    ゥ好院璽
    1)スケートと両津で呼ぶ「金下駄」との違いは長靴用か否かの違いで、スケートには変わらない。
     ウィキペディアより「スケート (skate)、アイススケート(ice skate, iceskate)、氷滑りは、氷を張った面(スケートリンク)の上を、刃のついた靴(スケート靴)で刃の先を氷に当てて滑るスポーツ」。参考:スケート靴は、「氷上を滑走(スケート)する際に着用する履物で、ブーツ状の靴(アッパー)と、靴底につけられたブレード、その両者をつなぐソールからなる。ブレードが氷に接する面をとくにエッジと呼ぶ」
     《参考》スケートの起源(資料:ウィキペディア)
     a、スケートの起源は旧石器時代にまで遡る、とされる。スイスやイギリス、スカンディナヴィア半島などヨーロッパの広い地域でマンモス、シカ、ウシなどの骨を加工した獣骨スケートが見つかっている。このころのスケートはスキーやソリなどと同様に、物資を運ぶ手段として用いられたと考えられている。

     b、中世以降、オランダのフリースラント州やイギリスのケンブリッジシャー州付近などの沼沢地帯でスケートは発展。
      オランダでは、12世紀ごろから運河の建設が行われていたこともあり、17世紀には都市と都市とを網の目に結ぶほど運河が発達。
      ァ、運河が結氷するとアイスリンク代わりとなりスケートはあらゆる階層の人々の間で普及し発展。
      ィ、農民階級では目的地に向かってできるだけ早く到着することを重視、一方貴族階級では優雅さや芸術性を重んじた。

      ゥ、貴族階級の人々は、両腕を組み背筋を伸ばす滑走術を生み出し、それがヨーロッパ各地の貴族階級に広がった。(スケートのスピードスケートとフィギュアスケートへの分離)
     c、日本の起源には、いろいろな説がある。
      1877年(明治10)札幌農学校のアメリカ人教師ブルックスがスケート用具を日本に持ち込んだことを以って日本にスケートが伝わったとういう説の他に1792年(寛政4)ロシアの軍人ラクスマンが根室で滑走したという説、1861年にイギリス人トーマス・ブラキストンが持ち込んだという説、1890年頃、仙台在住の外国人がスケートを始めたとの記録等

     《参考》スケート靴の発展過程(資料:ウィキペディア)
     a、幕末期には下駄に竹や鉄を取り付けたソリ状の滑り下駄があった。
     b、明治に入り海外から新たにもたらされたスケートに影響を受け、下駄に金属製のブレードを組み合わせた
    下駄スケートが作られた。1908年諏訪湖で下駄スケートによるスピードスケートの大会が開催されている。
     c、「北海道では
    昭和30年代頃まで、金属製のブレードを長靴に革バンドで固定した雪スケートが子どもたちの冬の玩具として人気があった。」
      細かくは、靴の固定は「紐」→「ゴムバンド」→「革バンド」、靴の大きさに合わせたブレード台の寸法調整不可→可能 であろう。
     d、両津の場合、「革バンド」や寸法調整可能なスケートがあったかどうかは覚えていないが、金下駄に代わり普及したのは1955年(昭和30)頃で次のタイプであった。 
      ァ、長靴をブレードの台に乗せ、ゴムバンドで縛って固定させた。
      ィ、自分の長靴サイズに必ずしもフィットしたものでないため、スケートするのに苦労。
       顱法屮好院璽箸篭皺実未醗磴辰胴發気あったんで左右に揺れて、上手く滑るのに技術がいったなあ。立つというか、歩くのさえ大変だった」
       髻法崢昂い縫屮譟璽匹里弔い心鏘颪鯀着し、太いゴムを二か所で左右から絞めつけて安定させた。しかし、すぐに外れて長靴の横に来てしまったりしたうまくいかなかった」 
      当時を想い起させたスケート写真:「PAZUのノスタルジックな道具」ブログより 
       スケート昔2
      (注)写真は靴の幅が調整できるようになっているが、私が使ったのは「つま先」と「かかと」部分は写真にあるのと違って切れずに台が繋がっていたのは確かで、幅の調整はできず固定していた。

     (参考は以上)
    2)専らスケートした場所は、夷では本町通り。
     a、車の通行量が適度に多いため雪が硬く、スケートに適している。
     b、夜は車の量が少なく、気温は下がり車道は氷状態ともなり、スケートに最適。
     昭和30年頃(9〜10歳の頃)の冬の夜本町通りがアイスバーンのようなツルツルした状態の中で上級生が多く出てスケートをしていたのを覚えている。
     c、当時の様子
       ァ、「夜など、バスが来る時間帯になると沢山の子供がバス停の近くに集まってきて、バスが停まるや否やバスの後方バンバーに縄を巻きつけ、二、三人がつかまってバスについて滑った」
      ィ、「上町十字路からつかまって本町通りの夷5町目あたりまで行ったと思う」「原黒辺りまでついて行き帰りが困ったことを覚えて居る」
     d、湊の場合
      「本町通りで滑った」「夜は、車も人も通らないからスケートに絶好だった」「トラックやバスの後ろに捕まって遊んだが、それが見つかり怒られたことがよくあった」
    Δ修梁
    1)手形、顔形作り
     新雪に手のひらを押して手形をつくり、自分の顔を突っ込んで顔形をつくり、雪が深ければ大の字になったりで、複数人で楽しむ遊び。どんな形になるか、自分でもやってみないことには分からない。そこに、面白さがある。
    2)雪投げ・雪合戦
      a、雪を握り固めて球にし投げ合う遊び。非常に寒い地では雪がサラサラで、雪球を作るのは難しいという。
     b、古記録
      ァ、『源氏物語』「浮舟巻」に「雪ぶつけ」の記事があるという。(ウィキペディア)
     「当時、貴族の子女の間で、雪景色をめでる【雪見】や小さな雪の塊を転がして大きな玉に仕上げる【雪まろばし】が流行。雪合戦は【雪ぶつけ】と呼ばれ、雅な遊びとして広まった。『源氏物語』でも雪遊びをする童女を眺める光源氏と紫の上が描かれています。室町時代に入ると、大人数で雪合戦する様子が屏風図で好んでえがかれた」(2012年2月7日読売新聞夕刊:「丸餅大学」ブログ)
      ィ、新潟県魚沼市にある「雪合戦発祥の地」の石碑。それによると、越後守護の一族上条定憲と越後守護代長尾為景が争った際に、刀折れ矢も尽きてもなお、両者は戦いをやめず、雪を固めて投げ合ったことが由来とされている。
     c、「日本雪合戦連盟のルールに基づいてチーム対抗で行なわれるものはYukigassenの名で海外でも広まっている」(ウィキペディア)

    3)雪球キャッチボール
     この場合、長く続けられることが目的で連携プレーを要し、投球フォームはアンダースローが一般的にならざるを得ないだろう。持続時間は、球の硬さ・距離・速さ・球のチャッチに影響される。
    4)大きな雪玉づくり
     手で固めた雪球を平坦な雪の上で転がしながら大きくするか、山や丘の高い地点から斜面を利用して大きくする。
     直径2mを超える雪玉例は多くある。
    5)雪だるま
     a、雪だるまは、国際的。日本では「雪達磨」であるが、他では「「雪人」または「雪男」(英・独・仏など)、「雪人形」(伊・蘭など)などと呼ばれている」(ウィキペディア)。
     b、日本では、江戸後期の絵画、歌川広景(1797〜1858)の『江戸名所道戯尽』の一葉に雪だるまがある。描かれた雪像は、明らかに「だるま(人形)」で供え物が置かれ、「だるま」と同じく信仰の対象であった。

     c、基本形は、雪玉を大(胴)の上に小(頭)を載せた二段重ね。頭は木炭などで眉・目・鼻・口を作り、頭には帽子代わりにバケツをのせる。〔50年以上前ならどの家庭にもあった木炭は、今日では無い。その代用品は石ころはじめカラーテープなど探せばいろいろある〕 

    6)かまくら
     a、両津では、当時でもかまくらを作れるほどの雪が降ることは、ほとんどない。三八豪雪の時は、降りすぎてそれどころでなかった。子ども時代18年間でかまくらを作った経験は1度だけで、家の中庭。
     b、その時のかまくらの印象は、
      ア、内部は思ったよりも非常に暖かい、
      イ、外からの風や吹雪からは意外に護られている、
      ウ、内部が暖かいから直ぐに融ける気がしたが、そうでもないこと、ロウソクを灯しても内部の雪がどんどん融けていく状態ではない
     ことであった。
    7)雪上の足駄履きでの丈(たけ)くらべ
     a、足駄で雪道を歩くと、間もなく歯の間に雪がくっつき、立っている位置が高くなって重心のバランスが崩れ歩けなくなる。条件は皆同じ。
     b、そこから競争心が生まれる。どちらが長持ちするか等もあるが、どちらが背が高いかも一つ。
    8)雪山づくり
     a、積もった雪を一か所に集めて来て山=「人工雪山」を作る。
     b、規模によるが、人が上り下りするための階段や滑り降りるためのスロープ〔坂〕やかまくらと滑り台の複合設備を作ったりで、遊び方を広げることが可能。
     c、雪山づくりの経験はないと思ったが、三八豪雪の時家の庭から平屋の屋根に容易に上がれたのは、雪の階段による。自然にできたようなものであろうが、階段づくりに多少なりとも関係しただろう。

    3.まとめ

    〇劼匹發寮稷靴咾梁緝蹴覆任△襯好ーもソリもスケートも、起源は雪の上での移動・狩猟・運搬用具であった。その後の過程で軍事にも利用。
     a、日本でのスキーの発祥は、いつ:明治末頃(1911年)、どこで:新潟県高田で、誰が:レルヒ少佐によって。
      そこまでは凡そ知っていたが、考えることもないままそこで停止。何のためにが無い。
     b、それらの関連を結び付けようとすると、その程度の知識では説明できずつじつま合わない。

      なぜ全国いくらでもある豪雪地の中でなぜ高田が発祥の地か?
      なぜ外国の軍人が高田に来て、スキーを教えたのか?
      何のため?日露戦争は1905年終結、スキーを教えたのは1911年!
     c、そこでわかりかけたのが、1909年ロシアが権益を持つ北満州のハルピン駅構内で前韓国統監・伊藤博文が朝鮮人安重根により暗殺される、ウェブ記事「日本が、韓国を併合しなければ、韓国は、ロシア帝国に併合」、 併合について「アメリカとイギリスは、このまま韓国を放置することは地域に混乱与えると考え、韓国併合に賛成した。その他、清国、ロシア、イタリア、フランス、ドイツといった当時の主要国からの反対も全くなかった。各国の賛成を得て、また〔大韓帝国の〕一進会も併合を望み、日本は韓国併合に乗り出した」(ウィキペディア。但し、「要出典」とあり)、1910年韓国併合。
     d、日本の雪合戦の発祥地が豪雪地の魚沼というのは傑作。戦国時代冬の合戦で刀折れ矢尽き、豪雪地だからなるほど石(合戦)という訳にいかず、雪を武器(=資源)に闘った。合戦というからには、それによって多くの犠牲者も出て勝利者が確定するのであるが、この場合深く考える必要はないだろう。
    ∋劼匹發寮稷靴咾、ビッグニュースになったり、やがて博物館や教科書などで取り上げられることは確実。
    1)要因
     a、車社会の進展で道路での遊びが出来なくなる。
     b、子ども人口が減った。
     c、子どもたちが集まって遊ぶ機会や場所が少なくなった。
     d、地球温暖化で雪が降らなくなった。
    2)子ども人口統計の着眼
              年齢3区分別人口割合推移
         (単位:万人。(  ):総人口構成比。総務省統計局)
            総人口   子供人口  労働人口  老齢人口
                   0〜14歳  15〜64歳   65歳以上              
    1950(昭和25) 8,320:2,943(35.4):4,966(59.7): 411( 4.9)
    1970(昭和45)10,372:2,482(23.9):7,157(69.0): 733( 7.1)
    1990(平成 2)12,361:2,254(18.2):8,614(69.7):1,493(12.1)
    2010(平成22)12,806:1,684(13.1):8,173(63.8):2,948(23.0)
    2015(平成27)12,691:1,617(12.7):7,725(60.9):3,349(26.4) 
     着眼 Щ劼匹眇瑤虜嚢發蓮1949年(昭和24)の3,000万余人(数値手元なしでグラフ目視)。出生数も最高で2,696,638人。2016年の2.76倍。総人口では、約0.65倍の水準であったにも拘らずである。
                             年齢3歳階級別子ども数
             (単位:万人。2015年4月1日現在)
               乳幼児(0〜5歳)  小学生(6〜11歳)  中学生
       合 計 :小計: 0〜2: 3〜5:小計 6〜8: 9〜11:12〜14歳
       1,617 : 624: 309:  315:645: 321: 325  : 347
     着眼◆年齢3歳階級別では、子どもの数が年齢が少ないほど減っており、今後も減り続けると読める。
      厚生労働省データでは、2016年の出生数976,979人、明治32年(1899年)本格的人口統計開始以来初めて100万人割った。
              各国における子どもの割合
       (単位:%。人口4千万人以上。調査年次等各国ズレあることに留意)
            日 本    12.7  アメリカ     19.3
            ドイツ     13.1   タ  イ      19.7
            イタリア   13.9  イラン      23.4
            韓 国   14.9  ブラジル   24.1
            ウクライナ 14.8   ベトナム    24.2
            スペイン  15.2   トルコ      24.3
            ロシア    15.9  ・・・・・・・・・・・・・
             中 国   16.5   ナイジェリア41.8
             イギリス  17.6  エチオピア 42.8
             フランス  18.6  タンザニア 44.4
     着眼:子どもの割合が世界一少ない国は日本。国の将来性と子どもの割合とはほぼ一致すると見れば、日本は既に人口減少が始まっており、このままでは今後加速度的に国内の市場・経済は縮小、国は衰退。
    《参考》第48回衆院選10月10日(火)公示・10月22日(日)選挙。各党の子ども政策
    A「自民党選挙公約2017」サイト
    1)総裁挨拶
     北朝鮮の脅威、そして少子高齢化。
    この2つの国難を前に、今、政治には、明日を守り抜く重大な決断と実行力が問われています。国民の信任なくして、前へ進んで行くことはできない。(略) 
     少子高齢化が急速に進む中で、日本が成長を続ける道は何か。
     アベノミクスは、2つの大改革で挑みます。
     ロボット、IoT、人工知能など最先端のイノベーションで生産性を劇的に押し上げる「生産性革命」。そして、人生100年時代を見据え、あらゆる人にチャンスをつくる「人づくり革命」です。いくつになっても学び直しとチャレンジの機会が保障される社会へ。
     子供たちの誰もが、どんなに経済的に恵まれない家庭に育っても、意欲さえあれば進学できる社会へ。
    幼児教育の無償化も一気に進め、全世代をあまねく支える社会保障制度へ、大きく舵を切ります。
     2019年10月から10%へ引き上げる予定の消費税の安定財源を活用し、従来からお約束していた年金、介護の充実に加え、子育て世代の暮らしを守り、そして子供たちの未来を切り拓くため、投資を大胆に進めます。

    この国を、守り抜く。全身全霊を傾け、国民の皆様とともに、私は必ずやり遂げます。
                                   自由民主党総裁 安倍晋三
     【なお、挨拶に年月日の記述なし。なぜか?突然に近い衆院解散総選挙に自民党内にも反発があったことは事実】
    2)「人づくり革命」の内容(自民党「政策BANK」サイト)

  • 子育て世代への投資、社会保障の充実、財政健全化にバランスよく取り組みつつ、「人づくり革命」を力強く進めていくため、消費税率10%への引き上げに伴う増収分などを活用した2兆円規模の新たな政策を本年末までにとりまとめます。
  • 幼児教育の無償化や介護人材の確保などを通じてわが国の社会保障制度を全世代型社会保障へ大きく転換するとともに、所得の低い家庭の子供に限った高等教育無償化やリカレント教育の充実など人への投資を拡充し、「人づくり革命」を力強く推進します。
  • 意欲と能力のある子供たちが経済的理由により専修学校や大学への進学を諦めることのないよう、授業料の減免措置の拡充や給付型奨学金の支給額を大幅に増やすことで、真に支援が必要な所得の低い家庭の子供に限って高等教育の無償化を実現します。併せて徹底的な大学改革に取り組みます。
  • 生涯を通して新たな知識と時代の変化にあったスキルの獲得が必要とされる人生100年時代を見据え、「いつでも、誰でも」学び直しと新しいチャレンジの機会を確保できるようリカレント教育を抜本的に拡充します。
  • 2020年度までに、3歳から5歳まですべての子供たち、低所得世帯の0歳から2歳児の幼稚園や保育園などの費用を無償化します。また、待機児童解消に向けて、「子育て安心プラン」を前倒しし、2020年度までに32万人分の保育の受け皿整備を進めます。
  • 「介護離職ゼロ」に向けて、2020年代初頭までに50万人分の介護の受け皿を整備するとともに、介護人材の更なる処遇改善を進めることにより、現役世代が直面する介護に対する不安を解消していきます。
     B「早わかり衆院選 主な争点別の各党の選挙公約」「経済政策」。ニューズウィーク日本版2017年10月10日
    〔注:「経済政策」「安全保障」「憲法改正」「エネルギー」の主要4分野のうち「子ども政策」は「経済政策」に含まれていた〕
    「自民党
     消費増税に伴う増収分の使途を変更。2020年度までに、3─5歳児すべての幼稚園・保育園の費用を無償化。「人づくり革命」へ2兆円規模の政策パッケージ策定。
  • 希望の党
     消費増税は凍結。大企業への内部留保課税を検討。ベーシックインカム導入も。日銀の緩和策は当面維持する一方、円滑な出口戦略を政府・日銀一体となって模索する。
    公明党
     消費増税に伴う増収分の使途を変更。2019年までに、すべての0─5歳児を対象とした幼児教育の無償化を実現する。給付型奨学金、授業料減免枠の拡充を目指す。
    共産党
     消費増税は中止。大企業や富裕層優遇の税制を抜本改革。幼児教育・保育の無償化と高校授業料の完全無償化。待機児童問題では30万人分の認可保育所の増設も。
    立憲民主党
     アベノミクスの成果は上がらず。将来的な国民負担の議論は必要だが、直ちに消費税率10%にはできない。児童手当・高校授業料無償化とともに所得制限を廃止する。
    日本維新の会
     消費増税は凍結。国会議員の定数・報酬の3割削減などの改革で財源捻出。幼児教育の完全無償化、大学授業料の無償化を掲げる。高齢者の学び支援に「クーポン」も。
    社民党
     消費増税には反対。税制や歳出面での改革などを通じて財源確保。年金、医療、介護の立て直しとともに子育て支援も充実。時間当たりの最低賃金1500円を目指す。
    日本のこころ
     消費税マイレージ制度(消費税を積み立てて将来還付する仕組み。還付率は所得や消費金額などで決まる)の導入を掲げる。消費意欲の喚起と安心の社会保障を目指す。」
     (参考は以上)
    9餡叛鑪上の課題は、憲法改正とか人づくり革命とか子どもの育成支援策とかなく、子づくり。抜本策をどう立てるか 金・人・物を何にどう投資するか 10年スパンで構築することである。
     少なくても30年以上前から承知している問題を先送りし、すればするほど後世に重い負担と難しい問題を背負わせる。政治家も役人もマスコミも学者・評論家・地元政治屋・有権者も それぞれの持ち場で今こそ将来の問題でなく喫緊の問題として取り組むべき役割を担っている。
     以上 2017.10.20


    歴史スポット75:1950年代両津子どもの遊び(12)街中での遊び

    こんにちは!自在業の櫻井です。

    1.はじめに
     これまでは海と湖での遊びを記してきたが、今回は小学2年の途中から高校時代まで住んでいた夷・築地を中心とした街中の遊びを 記す。
     一般に 街中といえば、商店や民家が建ち並び人や8車が行き交う所で、子どもの遊び場は無いに等しいが、かっての築地の場合、道端はどこも共通として他の町内に比べ恵まれていたのではないかと思う。
     もっとも、遊び場と言っても公共的施設や公認されている場所ではなく、個人の所有地や倉庫を自分はじめ近所の「どし」(同志・仲間)たちが勝手に使ったのである。
     例えば、「なかすけ(仲助)」と呼んでいた中沢商店のイカ干し場(スルメだけでなくスケト(スケトウダラ)を塩漬けして干したカタセも同様)、「しっつぉ」と呼んでいた伊藤(七蔵)材木店の木材倉庫、そして築地通りに人が1人通れるくらいの小路の奥にある路地裏(車は通れず限られた住人だけが主に利用する小路と空き地)がそれである。
     他にどの町内にもある道端(みちばた)と築地から遠征(せいぜい所要10分)しての遊び場・三ノ丁前造成空き地が挙げられる。 以下、遊び場ごとにどんな遊びをしたか、勘違い・間違いはあると思うが、思い出し思い付くまま記す。01号に掲載した築地の地図・写真を再掲。

    2.内容
    .ぅ干し場
    1)環境
     1925(大正14)年9月発行「両津市街略図」
    夷詳細図1
     a、夷の中心街本町通り五ノ丁から加茂湖の方へ一筋目の道が神明町・築地通り、その築地通りに沿って概ね330(=100坪)のイカ干場があった(掲載地図は空白)。
     さらに一筋加茂湖寄りがホテル街の八郎兵衛町通り(掲載地図の「カイタク」含む)。
     神明町には浴場があり浴衣姿の観光客が、スルメイカ干しに興味深く見ていた。
     b、イカ干場の左右両側には倉庫があり、その部分は中央部分と違いイカ等が干されることは殆どなく大抵は空き地同然で子どもの遊び場となっていた。小石が敷いてある広い中央と違って地面は土であったから、いろいろな遊びもできた。
    1956年頃のイカ干し場写真(左側部分)。倉庫を背にした子どものたちの手前は空き地=遊び場。
    DSC09871
    同上2017年6月7日撮影
    DSC09890DSC09891
           Aエリア     B1エリア     B2エリア       Cエリア
     左側部分〔Aエリア〕は1956年頃の写真と同じ場所。右側部分・カラーの建物〔Cエリア〕は当時は空き地で、奥に木造1F倉庫があった。
     c、前掲「1956年頃の写真」より:当時の家の子どもの数は、向こう3軒両隣ではないが、わが家(親戚から間借り)の場合男女(以下同様)5人、向かい4人、その右はイカ干場なので左4人、更に左2人、右隣は旅館なので左4人、更に左2人で5軒で子ども計24人、男女半々として5軒(5人組は江戸時代にあった)で男子12人、中に一緒の遊びの対象とならない高校生以上や園児以下もいるから8掛けすると9、6人=10人。
     【これだけの子どもの数は、現在は都市や農村部、新興住宅街地でも見られないだろう。それが、両津に限らず全国どこでもあったということである。半世紀余り前とは様変りで、こういう時代の再来は考えられないほどの歴史上稀なる時代であった】
    2)遊び
     a、釘刺し〔主にAエリア、又はその前の道端(赤土があった)〕
     範囲;場所は取らない。コンクリート・砂利でなく柔らかい粘土質の地面がよい。人数:2人〜5人。道具:5寸釘(≒15.15僉5寸×3.03僉法
      ァ.最初に10冂度の三角又は四角を描く。
      ィ.順番を決め、最初に描いた図の中に 釘を刺し、それを囲う様に刺していき刺さったところから、次に刺さった所へ直線を 引いていく。
      ゥ、失敗して刺さらなかったら交代し、次の者は線の間を縫うようにまた相手の行き先を邪魔するように刺していく。線は必ず直線でなければならず、釘が刺さっても他の線との交差はアウト。
      ェ、互いに相手の行く手を塞〔ふさ〕ぎ、 どんどん囲ってギブアップさせれば勝ち。  
      b、陣取り
      範囲:数メートル四方の場所。人数:数名。道具:近くにある小石
      ァ.地面に四角の枠を描き、角から手のひらを伸ばして半円を描き最初の陣地でスタート地点とする。
      ィ.適当な大きさで平べったい石を拾ってきて自分の陣地に置く。 順番を決め、自陣に置いた石を指ではじく。軌跡に線を引き、続けて石をはじいて 線を引き、さらにもう一回は最初の自分の陣地に石が戻るようにする。
      ゥ.前記以外の場合線は取り消され、うまく戻ると陣地が広がっていく。
     ェ.それを交代で繰り返していき、 最後に広い陣地を取った方が勝ち。
     c、パン(メンコ)
      範囲:場所は取らない〔AかCでやった〕。人員:3人以上で遊ぶ。対象:丸形の厚紙にキャラクターなどの 絵が描いてあるパン(メンコ)。
         ァ、パンを地面に置き、一人が自分のパンを持ち、 他人のパンに向け、ぶつけるように叩きつける。 
        ィ、他人のパンを裏返しにすると自分のモノになる。 失敗したら次の子が自分の置いたパンを持って同じように挑戦。
      ェ、取られた者は、自分の番になった時新たにパンを出して行う。
     d、コマ(独楽):3つの競い方(資料:ウィキペディア)

      ァ、回転する時間を競う
    同時に回して、速く倒れた方が負け、といったものである。
      ィ、ぶつけ合う
    土俵を決めてそこで回転させ、互いの独楽をぶつけてはじかれたら負け、といったもの。
     ひねりゴマでは相撲取りの模様をつけ、小さな土俵型の円盤で遊ぶ相撲ゴマ、投げゴマやベーゴマがそれである。佐世保独楽は木の塊の胴体に金属の釘を突き刺しただけの構造で、これを互いにたたきつけ合い、相手の独楽をかち割る。
      ゥ、技を競う
       例:投げゴマの技
        特定の場所を決めて投げる、いったん遠くへ投げつけておいて手元に引き寄せる、自分の手のひらの上に投げる、綱渡りなど。
     e、縄跳び〔主に、Aでやった〕
      ァ、一人でやる場合と複数人との場合があり、
      ィ、複数人の場合、
       顱飽貎佑縄の両端を両手でつかみ一部が瞬間地面に付くように回しながら飛んでいるのをもう一人がタイミングを見計らって輪の中に入り一緒に飛ぶものと、
       髻貌鷽佑相対して長い縄の端を持ちゆっくりと調子を合わせて右、左と地面に縄の一部が付きながらも半円を何回も描く場合があり、
      ゥ、最初に縄に引っ掛かった人やチームが負けとなる。
     f、凧揚げ
      ァ.部品セットを購入。
      ィ.凧を揚げるのに必要な重りは、尻尾に新聞紙で作った帯や縄を取り付けた。
     g、シャボン玉
      作り方・遊び方は、小学校で教えてもらったと思う。石鹸水などの入った藁などのストローを口にくわえて吹く。大きなシャボン玉かたくさんのシャボン玉か割れずに最後まで残ったシャボン玉を競う。
     h.竹とんぼ
      市販。ナタ・小刀・キリあれば手作りはさして難しくないとあるが、小学校の工作の授業でも作った記憶はない。飛ばしたことは、覚えている。
     i、紙飛行機
      手作り。自らが紙で作った飛行機で飛行時間や距離を競った。
     j、ゴム動力組立飛行機
      市販のキットを購入し組立。置物としての模型飛行機・手投げのグライダーや飛行機・ラジオコントロール(ラジコン:無線操縦)飛行機でなく、ゴムを動力としてプロペラを回し飛ばす飛行機。
     k、ゴムボール
      ァ.チャッチボール→バッティング付き→野球へ発展。
      (チャッチボール:ゴムボール→ソフトボール→軟式ボール)
      ィ.投球:アンダースロー→サイドスロー→オーバースロー。捕手:無→有。
       〔AとC〕
      ゥ.打撃:手→バッド。
      ェ.野手;0→1→2→3人。
      オ、ベース:1塁、2塁、ホーム
     【場所は、最近撮った左写真の左建物側の駐車部分が当初、その後右写真が投手、左が捕手の位置に広がる】 
     l、バドミントン〔A。Cに比べ溝がないのも同然だから〕
      ァ.「バドミントンが流行ったのは、野球よりはるかに遅く1961年(中2)頃からか」と最初記したが、1958〜59年のミッチーブームでテニス(スタイル)がバドミントンに乗り移ったと推察してのこと。実際の際立った普及はいつか調べると、手掛かりとなる事実は弱いものの1961年・1963年に新潟商業高校が全国高等学校総合体育大会バドミントン競技で男子の部優勝、女子は1963年の新潟女子工芸であったことで佐渡にも刺激か。なお、振り返るとバドミントンは当時小学生がやるものでなく中学になってからのものでなかったか、その中学生が団塊の世代と重なったことも関係は大いにある。
     なお、野球の場合は、1958年からルーキー長嶋茂雄が読売ジャイアンツで活躍、テレビの普及と相俟って野球人気が拡大、やる人も増加。男子であれば、相撲やドッジボールや卓球はしなくても野球しない者はいなかった。
      ィ、男子の野球に対しバドミントンは女子に人気があり(勿論男子も同じ)、ネットやエリアはなくても、男女の別なく一緒に行い楽しんだ。高3のある時 家の斜め向かいのAエリアでバドミントンをしたことは、はっきり覚えている。
    3)特記
     a、時代の変化及び子どもたちの成長と共にイカ干し場での遊びも、釘刺しやパンなどの小範囲から野球やバトミントンが多くなり遊び場の範囲が広がった。その点、イカ干し場が近くにあったことは意義が大きい。
      そこで仕事をしている人がいても、邪魔にならないようにして野球をした。ボールが、道路へ出ることも多くあったが、当時は交通量が少なく、ぶつかることはなかった。また、ボールが家のガラスにぶつかっても、柔らかい球のためソフトボールや軟式ボールと違って割るようなことはなかった。
     b、当時紙芝居業者が、自転車の荷台に紙芝居を乗せ、イカ干場の空き地(多分、無届・無許可)にも営業(街頭紙芝居)にもやって来た。子どもは、観るのに水飴など買わされたが歓迎。
     紙芝居屋の数は、1959年末に東京で約300人・全国で約1万人、1971年に東京で約30人、全国で約300人と減少。原因は1955年に登場したテレビ放送。(資料:「Spotlight」サイト(参考文献 加太こうじ著:「紙芝居昭和史」(立風書房))
    ∈猝攸匕
    1)環境
     a、近所の1年上の家の奥にある材木倉庫で、同級の家も間借りしていた関係から遊びに行ったとき他の近所の子どもを含め、遊び場に利用。
     b、倉庫にはいろいろな種類の木材〔原木を切断した原材料としての木〕や材木〔一定の長さや大きさに製材された用材〕がそれぞれ縦や横にきちんと整理され並べられてあった。
     大工さんも時々来ていた。
     c、関連して築地通りから福浦への通り道の加茂湖側に製材所があった。原木運搬は湖上を利用したに相違ない。その辺りは湿地で木の臭いが漂っていた。
    2)遊び
     a.かくれんぼ。以下は、一般的・基本的なルール。
       ァ、メンバーは、1人の鬼(親ともいう)と残りの子に分かれる。最初の鬼はじゃんけんで決めることが多い。
      ィ、鬼は子がどこへ隠れるかを見ないように壁や柱などに顔を向けて両手で目をふさぎ、決められた数を大声で数える。この間に子はそれぞれ自分の隠れ家を見つけて潜む。その範囲は、一般に鬼が数を数える声が聞こえる辺りまで。
      
    ゥ、鬼は、決められた数を数え終わると、「もういいかい」と、大声で尋ねる。子は、隠れ終わっている場合は「もういいよ」、隠れきっていない場合は「まあだだよ」と答える。
      ェ、これを繰り返し、「まあだだよ」の声が聞こえなくなると、鬼は目を開け捜査を開始。
      
    ォ、子の声や物音の届いた方向・距離を頼りに、隠れた子を見つけだす。子を見つけると、鬼は相手の名前と後に「見いつけたと言って、発見したことを宣言。こうして子が全員発見されると、最初に発見された子が新たな鬼となる。
     b.材木倉庫でのかくれんぼは、どんなルールで行われたか覚えていない(一般のかくれんぼのように「もういいかい」等の声の掛け合いはなく、また鬼1人とその他は子だけでなく鬼と子が2組に分かれて行った気もする)。
     c、倉庫(2階部分もあったかもしれない)にいろいろな材木があり、身を隠す場所・逆に探す場所はいろいろあった。
    3)特記
     理由はわからないが、かくれんぼ遊びをしている時、映画「喜びも悲しみも幾歳月」の主題歌を仲間と共に口ずさんだものだ。それは、1957年〔小5の頃〕木下惠介監督による映画の主題歌(歌:若山彰)で、映画と共に大ヒット。その頃が材木倉庫をよく利用したということでもある。
      (木下惠介について、06年10月9日号「木下惠介と佐渡」)
    O地裏
    1)環境
     a、「路地」(ウィキペディア)より
      「本来は「露地」と表記し、屋根など覆うものがない土地や地面を意味するが、狭義には密集市街地などに形成される狭い道や家と家の間の狭い道、通路などをいう。この為、茶室に付属する庭、門内なども露地(路地)と呼ぶ。露地(屋根のある建物以外全般の地面)に派生したもので、家屋の間に便宜的に設けられた通路である。狭さや薄暗さを強調して「路地裏」とも呼ばれる。主に歩行者やそれに順ずる者の交通に供され、自動車の交通はえてして考慮されない。いわゆる「横丁」はおおむね同じようなニュアンスがあるが、「路地」と表現されると更に狭く隣接する建物の関係者以外はほとんど利用しない道を示し、生活道路を含む自動車交通に対応した主要な道路とは別に、勝手口など重要ではない出入口から家屋に出入りするために利用される。都市の下町や漁村集落に多く分布し、洗濯乾しや地蔵や植木の存在とともに居住者の生活空間として活用され、コミュニティをつなぐ空間を成す」
     【ウィキペディアでは、「路地」解説のためか限定住民の便宜的置き場としての「路地裏」が欠如(もっとも、ウィキペディアに「路地裏」はなし)。ここでは、自分流解釈で「路地裏」を「事実上限定住民の便宜的置き場(自転車や洗濯物)や子どもの遊び場となっている準公共的空間」と定義】
    2)遊び
     a、釘刺し
     b、陣取り
     c、パン
     d、縄跳び等
    3)特記
     a、路地裏はある程度の場所を取り大空に向かうボール遊びに向かないが、いろいろな遊びが可能。男子ばかりでなく女子も多く利用。車は通らない・人は稀に通るだけで遊びの邪魔にならないところが魅力。
     b.築地の子どもの遊び場としては、イカ干し場に次ぐ。夕食時 親が子を呼ぶのはイカ干し場なら道路沿いにあるから行けばすぐ見つけられるが、路地裏は中へ入らなければならない。近ければ向かいの道路に向かって呼べば本人に伝わる可能性は高いが、反応がなければ路地裏へ行けば大抵は見つかった。これは経験則。
    道端
    1)環境
                築地の通り(2017年6月7日撮影)  
    DSC09889DSC09887
    左写真                 右写真
     築地は写真上右角から加茂湖 築地は、左角に沿い次の横断歩道を
    への2/3まで。奥は八郎兵衛町。 越えた奥(メインはその歩道)まで。
     向かいは神明町。         角の向かいはイカ干場(築地でない)、 
                          隣から次の横断歩道まで築地。
    2)遊び
     a、陣取り  
     b、釘刺し  
     c、ビー玉
      ビー玉の由来は、ポルトガル語でガラスを意味する「ビードロ」からきていると言われている。ビー玉は、古代エジプトやローマの遺跡から見つかっており、ビー玉遊びをしていたとされる。日本では、平安時代の「かけ事」が原点とされている。(資料:「昔のおもちゃアルバム」サイト)
      いろいろな遊び方あるが、「三角出し」の場合:基本は三角形の枠の中にあるビー玉を手玉で投げ当て、三角形から出すこと。(資料:「意外と知らないビー玉の正しい遊び方」サイト)
      ァ.地面に適当な大きさの三角形と基準線を描く。三角形と基準線の間隔は、概ね2〜3m。
      ィ.参加者は同じ数のビー玉を出し合って、三角形の中に入れて、適当に散らす。
      ゥ.ひとりずつ順番に、三角形内のビー玉めがけて自分のビー玉を投げる。見事当てて、外に出すことができたら自分のものとなり、プレーを続行できる。三角形内のビー玉を外に出すことができなかったり、外には出したが自分のビー玉が三角形内に残ってしまった場合は、自分のビー玉はそのままにして、次の人の順番となる。
      ェ、こうして三角形の中のビー玉がすべて無くなれば、ゲームは終了。
     d、パン(メンコ)
     e、手つなぎ(鬼)
      範囲:広範囲。人員:10〜20人。道具:なし。
      ァ、鬼を一人決め、その他の子は逃げる。
      ィ、捕まった人は自分も鬼になって、先の鬼と手をつないで子を追いかける。
      ゥ、鬼が増えても、両端の鬼しか子をタッチする(捕まえる)ことはできない。鬼が4人になったら、2人ずつに分かれるというルールでやることもある。
     f、追跡
       範囲;広範囲。人員:8〜10人。道具:チョーク
      ア、鬼ごっこのように追いかける方(鬼)と逃げる方(子)があり、追跡の場合は、それぞれが複数の2組に等分される。子の逃げられる範囲は、予め決まっている。
      イ、ある場所を基点として、鬼が例えば100数える間に子は一団となり、どこかへ逃げる。その際、道が幾つかに分かれる場合、どの方向へ行ったか矢印を分岐点周辺のどこか(例:電柱、家の玄関の板)にチョークで記しをつける。それを通った先々に付け、その間によい隠れ場所と思った者が隠れ、最終的には矢印がある所に全員が身を隠す。
      ウ、100数え終えた鬼集団は、矢印の発見を足掛かり手分けして辺りを探し、子を見つけていく。
      エ、全員見つけた段階で、役割チャンジ。
     g、缶蹴り
      範囲;広い公園や空き地。人員;3人以上10〜15人。道具:空き缶。
      ァ、鬼を1人決める。それ以外は子。最初に隠れられる範囲を決めておくことも多い。
      ィ、缶を置く場所を決め、缶を置く。 チョーク(または小石)で地面にやバツ印を描き、缶の置き場所を規定することもある。
      ゥ、鬼以外の誰かが缶を強く蹴る。 このとき、缶の周りに描いた円周を缶が超えない場合は蹴った者が鬼になる。
      ェ、鬼が缶を規定の位置に置き直し、いくつか決められた数を数え〔数を数えない場合もある〕終わるまでに鬼以外の者はどこかに隠れる。
      ォ、鬼は隠れた者を探す。見つけた場合、その者の名を大きな声で呼び、缶の所に戻って缶を1度または3度踏み付ける。見つかった者は缶の付近の決められた場所に捕われることになる。
      ヵ、鬼はまだ見つけていない者に缶を蹴られないようにしなくてはならない。缶をけられた場合、捕われていた者はまた自由になり、缶けりは振り出しに戻る。
      キ、鬼が隠れている全員を全て見つけるか、あるいは見つけられず皆が飽きてしまった場合、缶けりは終了となる。
     h、キャッチボール(ゴムボール、ソフトボール、軟式)
     i、野球(ゴムボール)
      ァ、野球は、仲助イカ干し場は別として、専ら加茂湖へ向かう道(左写真)で行った。車の量、人の通りが築地・神明町通りより少ないためだろう。
      ィ、中学2、3年頃は、神明町にいる4歳上の野球部のエースを相手にチャッチャーを務め軟式でチャッチボールをした。勿論、グローブを使ったがボールが速くて気が気でなかったこととチャッチャーミットでないため痛い思いをした。
      ゥ、中学の時同じ場所で近所の年下と軟式ボールで遊んでいたとき、投げた珠がバウンドして吉田屋ホテルの目玉となるガラス看板にぶつかって壊し、おやじさんが酷く怒られたことがあった。弁償は当然。
     j、バドミントン 
    セ哀涼海岸造成地
    1)環境
     a、五ノ丁の海岸沿いにあった両津漁港や魚市場が手狭になり、旭町に移転するに際し三ノ丁から旭町の海岸を造成・整備することになり、1954年頃から開拓準備に入った。
     b、三ノ丁前は一時的に広い空き地が出現。イカ干し場に利用されたと思うが、木製の魚箱=トロ箱がビルのように高く積み上げられていた。地面が、砂や小石でなく土であったからであろう。遊ぶにもよかった。更に車や人は、その外側を通っていたため、安心して遊べる広場となっていた。
     c、時代の流れからも、野球のボールやバドミントンのシャトル(羽根)を高く遠く飛ばし、キャッチし攻撃に転じる遊びにも合っている。
         積み上げられた魚箱(イメージ写真)
      (1964年新潟地震、両津魚市場に津波。資料:『佐渡の百年』)
          肴箱2
     【上の写真は、旧佐渡魚市場の構築物の脇の道路沿い魚箱が積まれているため幅が狭く倒れそうで非常に危ない感じがするが、三ノ丁前のものは場所は広いから 多分高い所から見下ろせば細長い四角でなく正方形型に近く、安定感があったに違いない。なお、高さは写真で見るのと同じ位の3m位か(試算は後述)】
     2)遊び
     a、積まれた魚箱の改造
     ァ、隠れ部屋づくり
     顱飽貳崗紊望紊って箱を剥がして下り(剥がした箱は上へ上げる)、ある所で横の部分を剥がして空間を作り人が入れる小部屋とする。
     髻帽垢法近づいた者でも部屋があることを見逃す秘密の部屋の考案が考えられる。
     ィ、迷路づくり
      顱棒僂泙譴慎箱の一番上から下へと掘り進み、下から外へ出る道を作る。逆に、下から入って頂上に登ることになるが 分かりにくくすることに工夫の余地がある。
        髻望紜下、下→上への単なる一方通行の通路でなく、一度入った者が道に迷う仕掛けにすることが創作側の妙技。但し、言うは易く行うは難し。
     b、非公式町内対抗野球試合
     ア、1959年頃から各町内で野球(ゴムボール、ソフトボール)が盛んになり5〜7人くらいのチームができ、近隣のチームに申し込んで試合をするようになった。3塁まであって、9人制という正式なもので必ずしもなく、選手不足であれば、どっかから借りてくるといった緩いもので、勝敗よりゲームして楽しむことに意義があった。
     イ、三ノ丁の場所は、築地チームにとって近くて都合よかった。他には、両津小学校の裏(加茂湖湖畔)の空き地で行った。他のチーム同士の試合もあるのだが、それぞれ同時に2試合はできた。
    3)三ノ丁の同級の話
     a、小さい頃は冬場は、魚箱作りを手伝った 
     b、野球をしている空き地からボールが飛んできて、窓ガラスがよく割れたりした(ゴムボールは別)
     とのことである。 
      《参考》魚箱=トロ箱
    〕囘
     漁船の漁倉から魚の入った大きな玉網(たも)をリフトで吊り上げ、水(陸)上げ用に設置した大きなプラスチック製の受け皿かびっしり並んだコンテナや魚箱の上に移動して袋を開け魚を落とす・既に船上で魚箱に詰めたものもある→魚箱で仕分け(魚種・大小別)→魚箱で定量入れ→魚箱に氷を入れ鮮度維持→セリ取引は魚箱単位→魚箱の集荷出荷運送→(加工場→配送→荷造り)→店頭販売
      参考写真:魚倉→仕分け前
    (2011年03月01日号「事業・産業37:水産物地方卸売市場」。佐渡魚市場にて) 
    事業95



    事業103





    魚箱の変遷
    木(臭いの移らないナラ、ブナ、トドマツ)→プラスチック→発泡スチロール
     【写真例】
    1)木箱:1975年築地市場
    魚箱3築地1975
    2)木箱:40212d70.jpg
      



    3)プラスチック・発泡:11日号「事業・産業32:東京築地市場」
    築地0築地10




    4)プラスチック: 
    事業84事業98




    5)発泡スチロール: 
    魚市場21魚市場38




    L敞△両楮戞蔑磧
    「トロ箱は大きく分けると発泡スチロール箱・薄箱・本箱の3種類になる。発泡スチロール箱は数え切れないほど様々な種類のものがあり、今やこれがトロ箱の主流となっている」
     薄箱(外寸)37.5×60.0×9.0僉∨榿◆奮粟)37.5×60.0×13.0僉平爾気世韻脇眄)。
    本箱はその深さが4寸3分(約13僉砲任△襪海箸ら四三箱とも呼ばれ底びき網漁のものは四三箱が標準、まき網漁などで漁獲された青物(アジやサバなど)は三八箱と呼ばれる深さ3寸8分(約12僉砲糧△標準。四三箱と三八箱は、内寸の深さだけではなく、幅も板の厚さ一枚分違っていて、三八箱の方が板一枚分狭く36.5×60.0×12.0僂箸覆辰討い襦〔板厚を1.0僂噺ているのは、妥当〕
     
      写真は、九州北部にある魚市場での早朝の風景。「真アジが三八箱に入れられ、上に重ねた箱に下の箱の真アジが潰されないよう、箱の上下の間に横棒を挟み何段にも重ねて積まれていた」
    (資料:「FISH FOOD TIIMES」平成27年8月号140 :(有)全日本調理指導研究所(福岡市)HP)
    L敞△寮僂濔紊科
    1)写真例(ウェブより)
     a、 横浜丸魚とある魚箱:多分、横浜市中央卸売市場でのものだろう。
    魚箱:横浜丸魚
     b、下関おきそこ〔下関漁港の沖合底びき網漁業〕サイト
    魚箱:下関おきそこ〔魚函〕
    c、(泉州)春木漁港〔大阪府岸和田市〕での積み方
    魚箱;春木漁港
    2)「ダンボールについて」のサイトより
     a、積み方の3要素
      効率性〔隙間なく積める〕、安定性〔崩れない〕、耐圧性〔重さに強い〕
     b、ダンボールの積み方の基本形
      ァ.ブロック積み:各段の積み付けの形と方向が同じ方向。効率・耐圧に優れているが、荷崩れや層割れをおこしやすい。
      ィ、交互列積み:段ごとに向きを90度変えながら積み上げて行く。レンガ積み:1つの段で物品を縦・横に組み合わせ、次の段では180度方向を変え交互に積み重ねる。
      ゥ、ブロック積みと交互列積みの組み合わせ:下のほうは耐圧に優れたブロック積み、上のほうは安定性に優れた交互列積みをする。
      ェ、レンガ積み:1つの段は縦・横方向を変えて積み、段を重ねるごとに向きを180度変えて積み上げる方法。熟練が必要とされるが、荷崩れを防止する効果が高いと言われている。
      ォ、ピンホィール積み(風車形積み付け):中央に空間を設けそれを取り囲み、風車形に積みつける。
      ヵ、スプリット積み:形状の異なるダンボール箱をレンガ積みした際に、相互間に隙間ができる積み付け方法。レンガ積み同様に荷崩れしにくく積み付けも簡単で、ラップ巻きやバンド締めもやりやすいために倉庫や運輸作業の現場でよく用いられている。
    3)前掲イメージ写真(新潟地震時の魚箱)より 
     a、両津の漁箱の大きさは、魚種により数種の標準形があったと思うが掲載写真からの最も多いと見られる標準形の目測推定値は、37.5W×75.0D×12.5H僉擅廖В帖В犯罅瓧魁В供В韻箸靴道郢察W=Width(横:幅)・D=Depth(縦:奥行き)・H=Height(高さ)】。なお、板厚はおそらく材料節約で、Dは0.5〜0.8cmと狭いが、WとHは1.0僂噺る。
     b、漁箱は20段余積んであるから高さ2.5m(=12.5cm×20段)。三ノ町での仮置きは、縦横それそれ高さの2〜3倍として5.0〜7.5mあったであろう。怪しげな数え方と試算方法だが、同じく道路に沿って75.0cm幅が概ね10箱あるから、同写真で見える長さは、既に75.0×10=750cm=7.5mと推測され妥当性がある。〔魚市場に並んだ写真は、道沿いだから細長く実際の長さはそれ以上ある〕
     c、積み方は、2段が一組になって積み重ねられ、ダンボールの基本形にはない積み方がされている。また、各地によって、魚種が異なり魚箱の大きさが微妙に違うことにもよるが、積み上げ方にいろいろな方法があるものだ。
     
    3.まとめ
     「追跡」と「魚箱」は、ここでは遊びの圧巻に位置。
    1)全国どこにでもある遊びに無いもがある。
     a、「追跡」は、かくれんぼの一種だが(湊の場合(08号に掲載)は、鬼ごっこに近い)、範囲が広く一町内全域 更には隣の町内に及ぶ。
     ァ.築地に近くに居た同年代に尋ねても意外に「追跡」を知らなかった。一方、湊は橋の向こう側であるがやり方は少し違ってもあった。ということは、環境が違えば無い遊びもあるということである。
     築地には路地裏があり、ある区画の4つ角を一周すると加茂湖側は八郎兵衛町でその築地寄りにも路地裏があり、その分隠れる場所が多くあった。従って、「追跡」に恵まれていた。
     イ、湊の場合、街及び家の造りから他人の家の表ー裏の通路をことわれば自由に往来できる文化があった(夷にも海岸側と加茂湖側で違いはあろうが、「他人の家の中を通らせてもらう」ことは普通にあった)。そこが、湊の場合、見つかっても行方をくるませる場で、大いに利用。
     b、木製「魚箱」の特性
     ア、魚箱遊びは、せいぜい10m四方の魚箱の積んでいる範囲内で部屋や通路を造って遊ぶものだが、決定的違いは、子どもの背丈より遥かに高い2.0〜2.5m位の高所に登ることもあり得、墜落の危険もあること。学校から公認されていない。【この辺が、教科にない遊びの特徴を表しているかもしれない】 
     イ、魚が沢山獲れる所での遊び。東京築地のように魚が沢山集荷される所ではない。魚が入った箱は臭いが残り、衛生面からも子どもの遊びの対象にならない。魚箱は消耗品で新鮮であることが前提。今日では木製魚箱は希少で、発泡スチロールやプラスチックが主流。かといって時代も違い、それらがかっての両津の魚箱のように遊びの対象とはならない。
     c.上記a・bからは、遊び場のスケールの大きさが挙げられる。
    2)遊びには相手に勝つという競争的要素がある一方、互いに楽しむという創造的・娯楽的要素がある。
     a、「追跡」(築地の場合)は、逃げる方は相手が思っても見ない隠れ場発見を前提に 行き先のヒントを相手に敢えて教えることでスリル倍増、追う方は相手が示したヒントの類推で隠れ場発見に意欲を燃やす。
     b、「魚箱」は、魚箱に関係する大人=漁業関連業者に見つからないよう積まれた魚箱の中に部屋や通路を造るのに工夫を凝らした。遊びを持続させるためであり、スリルと成果を楽しめる。
     c、上記a・bからは、遊びの先入観を覆すダイナミズムが挙げられる。
    3)遊びはそれぞれ試行錯誤からより楽しいもの発展させたものであろうが、どういう過程で築地あるいは湊ならではの「追跡」が考案され、また魚箱ではどうやって箱を抜き出し組み直して部屋や迷路を造ったか(案外、近くの子どもでなく他所からの子どもが始めたのかもしれない)、その創造力にはたまげる。
     以上 2017.10.03


     




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    歴史スポット74:1950年代両津子どもの遊び(11)加茂湖での遊び

     こんにちは!自在業の櫻井です。
    1、はじめに
     唐突であるが、いま入院中。ブログはこの8月21日(月)の入院時からタブレットを病室に持ち込み、昨日2枚の写真とそのコメントを残し仕掛かり記事をほぼ終了し、新たな書き込みに着手。(2枚の写真は同級生から自宅に郵送され、病室で拝見、ケータイに撮って自宅のパソコンに転送、病院から返送。退院後追記し記事完了予定)
     なお、昨年7月大腸ガン検査で結腸と直腸の 2ヶ所にガンが発見、8月新潟県立がんセンター新潟病院で再確認検査で確定(結腸ステージ2、直腸ステージ0)、9月23日同院に入院しそして手術(患部2ヵ所とその間の50僂鮴攴)、12月7日人工肛門を付けた状態で退院。人工肛門を外すには6カ月経過の検査結果による。
     (16年12月10日号「話題・出来事2:入院体験」)
     今回、その 人工肛門を外すための手術(小腸人工肛門閉鎖術)を行うため8月21日(月)入院・翌日手術。当初退院は手術後1週間の8月29日(火)予定がうまくいかず、腸炎にかかり腸閉塞の症状も見られるとのことで30日CT(胸・腹・骨盤部)検査、翌日大腸内視鏡検査受診。結果腸閉塞状態に近く、人工肛門をつけた元の状態に戻す手術もあり得るとのことだった。9月に入り良い状態となり(体温の安定低下、傷口等痛み減少、腹部の張り緩和、食べた後や藥飲んだ後の吐き気・戻しなし、食事の残しなし、血液検査値良好、血中酸素濃度90%以上持続、便・ガス・尿の安定排出)、それに伴い尿の管・点滴外し、食事開始(流動食→3分粥→5分粥→7分粥→全粥→ごはん)と推移し、昨日は17日(日)昼食後退院に決定。
     但し、それで完全に治ったわけでなく、排便の回数は平均的に6か月後1日5回くらいに下がり、2年後は2〜3回ということである。
     参考データ:現在身長177
            体重 最大血圧 最低血圧  備考
    16年9月手術前:85圈150以上 130以上 70歳
     〃10月27日 ;73    121    56     〃
    17年9月13日朝:73   108      65     71歳
     〃  〃15日夕:74   120    74     〃
    (現在まだメタボ・高血圧・心臓に不正脈ありだが、近年再会が大学時代以来のクラスメイトが前はスマートだったと決まって言っていたように 20代〜35歳時は身長180僉β僚65 〜68圓任△辰)
     さて、今回のテーマは、これまでの 海と異なり、湖での遊び。
      (加茂湖の概要については、07年1月2日号「佐渡の風景7:加茂湖」)
     小学2年の時海辺の旭町から加茂湖に近い築地に引っ越し、高校時代まで過ごした。 
     (夷本町5ノ町から「(おもちゃ屋の)ツル屋の坂」又は「山角(呉服店)の坂」を降りると築地と飲食街の神明町通りに出、更に行くとホテル・旅館街の八郎平衛町通りがあり、次は加茂湖で通りはない)
     海での遊びに対し湖(といっても、海水の混じる汽水湖)ではどう違うか、それをどこまで正しく、多く・細かく記せるかが課題。
     なお、これまで多くの人からの取材によって得られた貴重な話を再掲するほか、さらなる情報源及び資料拡大に努める。

    2、内容
     屬討鵑押廚僚遊び
    1)「てんげ」は1人が櫂を漕いで進む木造の小舟で、漕ぎ手以外に4人又はそれに相当する物を乗せるスペースがある。
     a、主な用途は、磯漁、輸送、交通手段。
     b、「てんげ」の活用例
      ア、1833年天保地震(庄内沖地震)による津波のとき夷から加茂へ陸路だけでなく「てんげ」(以下、舟)で加茂へ避難させることもあった。
     (08年6月16日号「佐渡の生物3:村雨の松」。なお、村雨の松が遭遇した大きな出来事に、1959年伊勢湾台風とあるが、1961年第二室戸台風の間違い)
      イ、明治(又は大正)期能の宝生流家元が本間家能舞台で公の演に来た時舟を使った。
      ウ、湊から排出される魚の腸(はらわた)などは、肥料として国仲の農村部での利用のため、舟で輸送。
      エ、戦後湊の漁業関係者が朝早く海岸通りの両津魚市場行くのに加茂湖側にある船小屋から舟で両津橋の下をくぐってセリに行った。リヤカーやトラックより便利で効率的だったからだろう。
    2)「てんげ」は稼ぎに使うためのものであるが、桟橋等に休めておくと子どもの遊びの対象となる。【これ、法則的】
    3)具体的にどんな遊びをしたか?これは、童心に還って想像を働かせる必要がある。今更、事実を確認するまで記述を控えなければならい性格のものであるまい。
     a、まず舟に乗る(複数の子ども想定)。舟にしっかりつかまってゆっくり乗る者もいれば、桟橋から飛び乗る者もいるだろう。
     b、舟から水中を覗き見する。湖底の様子は?魚や貝やヒトデ等々は?舟の中の場所を変えて見る。
     c、舟の左右に縦に置いてある櫂をそれぞれ左右の舷取り付け、両手又は片手で漕いでみる。舟は綱に繋がれているが、少し進めたり戻したりして舟を動かす。
     d、誰の所有か知らないが舟を漕ぎたく綱を外し、桟橋を離れる。
     e、1人だけ櫂をもつのでなく、他の者にも参画すべく左右どちらか受け持ってもらう。3人いれば、1人が舟が真っ直ぐ進むよう左右の漕ぎ手に指示。または、1人漕ぎ手・1人指示者・1人見物者となふねって役割を代わり番こに担当し、楽しむ。
     f、舟の旋回、舟の歳高速度、舟の急停止させる仕方などいろいろ試す。
     g、自分の家の舟を親の許可・暗黙の承認を得ている場合時間の許す限りどこへでも行ける。例えば湊の場合は椎崎・潟上・湖鏡庵方面、夷の場合は秋津・潟端・樹崎方面。
     h、他人の舟の場合、長く使ったがために見つかってしまうことのないよう、目標点(例:一番近い養殖カキ筏、終了時刻)を決め、達したらやめ舟を元に戻す。
    4)舟を漕いだことあるかについてはっきり記憶にないが、感触は残っているつもりだから体験したとして間違いないだろう。
     いつ頃のことかはわからないが、加茂湖であることは間違いなく、牡蠣筏まで自分でそこまで漕いだわけでないが、行ったことは事実。
     a、櫂をしっかり水中へ入れ力負けせずに漕がないと、櫂が宙に浮き空振りしてしまう。
     b、左右同じペースで漕がないと、真っ直ぐに進めない。
     c、漕ぎ手は、一人乗りの場合進行方向が見えないから、ぶつからないよう常に周囲に気を配ることが必要。
     以上ここでは「てんげ」だけ取り上げたが、「タライ舟」もあったことは、お盆の15日築地の生まれで10歳年下の藤木則夫氏(1956年生)から聞いて知った。質問内容は、小さいとき「てんげ」で遊んだかどうか?「浮御堂(うきみどう)は知っているか?あったか?」である。
     吉田屋ホテルの前の湖畔に「てんげ」が置いてあり(たらい舟もあった)、こっそり沖に出して遊び、また浮御堂はあったとのこと。〔浮御堂は、伊勢湾台風(1959年)で倒壊したと思っていた。とすれば氏が3歳の時で知っているはずないと思って調べると、1961年第二室戸台風の間違いと分かった。この場合氏は5歳で、私自身は中3の時と思っていたことと一致。その時は夜になって大型台風が通過中のはずなのに静かだった気象が夜8時突如強風に変わった。翌日と思うが通学途中にある両津カトリック教会の大木が折れていたのに驚いた。浮御堂がつぶれたことを聞いたが驚きはなかった。
     夷の名木・樹齢300年はある村雨の松(御番所の松)が、今は枝葉が疎らで支柱で支えられ、衰えが目立つのは、第二室戸台風による影響だろう。2008年写真(前掲「村雨の松」)と1956年写真(要拡大:「(08)岩場遊び」)との比較で明らか。
     なお、国指定天然記念物 推定樹齢1300年以上の羽吉の大桑も中央の幹枝が折損、だが支柱によって毎年花を咲かせている。
     (08年08月02日号「佐渡の生き物10:羽吉の老木」
      15年10月15日号「佐渡の風景128:羽吉」)
     浮御堂と周辺での遊び
    1) 「浮御堂」は、年代は確かでないが1957年頃〜1961年まで湖畔に建っていた。しかし、1961年第二室戸台風で倒壊し、以後再建はなかった。
     a、こじんまりしたユニークな湖上の木造平屋の建物で 陸との間に半円状の橋が架かっていた。窓ガラスはなく、戸は締め切っており内部はわからない。一度見たような気がするが、中は空っぽ。奥は大きな窓ガラスから成って、270度の視界が見えてもよさしうだが、景色を目的にしてない意味不明の構築物でもあった。
     b、所有者は、、医者と聞いたことがあった。両津の人であればもっとわかるはずだが、そうでないからよその人だろう、。
     c、当時地元で呼んでいた「うきみどう」を調べると、ウィキペディアに「満月寺浮御堂」として次のようにあった。
     ア、滋賀県大津市堅田 琵琶湖畔の臨済宗大徳寺派海門山満月寺にある湖上に突き出た仏堂で、近江八景「堅田の落雁」で名高い。
     イ、伝えによれば、源信(惠心僧都)(942〜1017)が比叡山横川から琵琶湖を眺めると毎夜その公明たるを怪しみ、網でこれを掬いとらせると1寸8分の阿弥陀仏像であった。よって魚類殺生供養のために阿弥陀仏像1体を造り、その体内にこれをおさめ、千本の阿弥陀仏像をも奉安し、浮御堂を創建。
     ウ、堂は1934年室戸台風によって倒壊、現在の堂は1937年に再建されたもの。
     (源信について、10年4月7日号「係わりの地51:比叡山延暦寺」)
     およそ、両津で呼んでいた「うきみどう」とは意味するとことは異なる。
    【参考】近江(琵琶湖)八景と加茂湖八景
     近江八景      加茂湖八景
    (ウィキペディア)  (前掲「佐渡の風景7:加茂湖」)
     石山秋月     米山の秋月
     瀬田夕照     両津橋の夕照  
     粟津晴嵐     鳥島の青嵐
     矢橋帰帆     椎崎の帰帆
     三井晩鐘     湖鏡庵の晩鐘
     唐津夜雨     五月雨山の夜雨
     堅田落雁     籠米の落雁
     比良暮雪     北山の暮雪
      加茂湖について1889年来島した尾崎紅葉は、「この湖の如きは佐渡一国の面目であり、またいやしくも北陸の勝たるべき者なる」と評す。加茂湖遊覧の予定あったが、その時に限り風が強く2回となり、舟遊びは果たせなかった。(06年10月19日号「尾崎紅葉と佐渡(2)」)
     (参考は、以上)
    2) 「浮御堂」及び周辺での遊び
     浮御堂は、建物の周囲が回廊になっているものでなく、長さ4、8m・幅0、9mくらいの橋が架かっているだけのもの、遊び場といっても橋の欄干部分と水際部分くらい。それでも築地町内の4〜5人の子どもがそこへ行って遊んだことは確かで、周辺にも遊び場があったからだろう。
     どんな遊びをしたか?はっきり記憶になくても、こんなことはしたはずの観点で挙げてみる。
     a、橋の欄干からの湖中探索・生き物観察
     b、   〃   タモすくい
     c、   〃   ハゼ釣り
     d、舟遊び:乗る・動かす・離岸・カキ筏到着・加茂湖l遊覧
     e、水泳
     f、潜水
     g、湖底砂起こし:アサリなどの貝がないか
       h、クラゲやヒトデとの戯れ
    アサリ採り
    1)アサリの生態
     a、軟体動物門・二枚貝綱・マルスグレガイ科・アサリ東亜科・アサリ種
     b、日本・朝鮮半島・台湾・フィリピンまで広く分布。地中海・フランス・ハワイ諸島・北アメリカ太平洋岸に移入。
     c、汽水(淡水と海水の混合)状態を好み、成貝は海岸の潮間帯から干潮線下10mほどまでの浅くて塩分の薄い砂や砂泥底に分布。
     d、冬を除く通年産卵し、受精卵は浮生幼生となり、植物プランクトンを餌とし、稚貝・成貝は珪藻類・デトリタス(有機懸濁物)を餌としている。
     e、日本で古くから食用とされ、貝塚などから数多くの貝殻が出土。
    2)両津橋の下を流れる境川の東宝ホテル(前は橋本座)から櫛屋鉄工所辺りの川底に沢山のアサリが生息。
     a、子どもが川に入って足で川底の砂をえぐってアサリを表面に出し、潜って採った。私自身経験は、1〜2回。
     b、業者が子どもの採ったアサリを買いに来ていた。
     c、アサリは、小遣いになった。なかにお金を貯めて自分たちの野球チームのユニフォームを新調したグループがいた。
    3)現在、加茂湖でアサリを採る子どもの姿はない。おそらく加茂湖漁業協同組合の漁業権のためもあろうし、湖水の汚染が進みアサリが減ったこともあろう。
     a.09年9月24日号「佐渡の風景77:加茂湖(17)お盆時期の草花・昆虫」
      8年前両津橋から加茂湖の奥の吾潟の湖畔で、原付の船を停止させ、1人の漁師(おそらく本業は農業)が網の籠の付いた竿を湖中に入れて上下左右に動かして砂泥ごと掬い上げて船に載せ、選別していた。岸で見て何をしているのか尋ねると、アサリ採りとのこと。アサリは海近くとは限らず、海から離れた川の近くにもいるということだ。 
     b.2017/03/28読売新聞「佐渡の加茂湖 アサリ復活 自然再生活動 一定の成果
     「加茂湖(佐渡市)の「こごめのいり」と呼ばれる入り江で、湖で数を減らしていたアサリが復活しているのが見つかった。付近では市民団体や漁協が自然の再生に取り組んでおり、一定の成果が出ていることがわかった。
     今月18日、市民団体「佐渡島加茂湖水系再生研究所(通称・カモケン)」が「こごめのいり」(秋津)で貝の採取を行った。親子連れら約30人が湖に入って熊手でかき上げると、次々にアサリが見つかり、子供たちが歓声をあげた。ほかにも、高級食材で知られるマテガイが加茂湖で初めて確認されたほか、豊かな生息環境の指標とされる「サツマクリイロカワザンショウ」と呼ばれる小さな貝も見つかった。県水産海洋研究所佐渡水産技術センター(同市)の佐藤修さん(49)は「『こごめのいり』の環境は確実に改善されている」と語る。
     カモケンは、生物多様性が失われつつある加茂湖の自然再生を目指し、コンクリート護岸となってゴミの不法投棄の目立った「こごめのいり」で2010年からヨシを植える事業に取り組んでいる。
     昨年秋、減少していたアサリが次々と見つかった。これを受け、加茂湖漁協は県と協力して、アサリの稚貝が生息する「アサリ垂下施設」を設置し、アサリの養殖実験に取り組んでいる。
     湖の漁業はカキの養殖が中心だが、カキ養殖漁業者の伊藤剛さん(44)は「湖の再生をさらに進め、アサリの養殖も成功させたい」と期待を込めていた。
     つ爐
    1)淡水湖だった加茂湖はコイ、キンブナ、テナガエビ、スッポン〔コイとキンブナは島外から持ち込まれたと考えられている〕の他に、淡水でも海水でも生きられるボラ、ワカサギ、シロウオ、カマキリ、ウグイ、クロダイ、スジエビ、サドシジミ(ヤマトシジミの亜種)が棲息していた。
     1901年の河口開削により海水魚介類(カキ、アサリ、アカガイ、ゴリ、スズキ、タイ、コノシロ等々)が、棲息するようになった。
     (資料:佐渡島加茂湖水系再生研究所)
     《参考》ボラ
      1)ウィキペディア
      a.全世界の熱帯・温帯の海に広く分布し、日本では北海道以南で広く見られる。
      
    b.河口や内湾の汽水域に多く生息。基本的には海水魚であるが、幼魚のうちはしばしば大群を成して淡水域に遡上。水の汚染にも強く、都市部の港湾や川にも多く生息する。体長が同じくらいの個体同士で大小の群れを作り、水面近くを泳ぎ回る。
      c.釣りの際の撒き餌に群がるなど人間の近くにもやって来るが、泳ぎは敏捷で、手やタモ網で捕えるのは困難である。
      d.海面上にジャンプし、時に体長の2-3倍ほどの高さまで跳びあがる。跳びあがる理由は周囲の物の動きや音に驚いたり、水中の酸素欠乏やジャンプの衝撃で寄生虫を落とすためなど諸説あるが、解明に至っていない。
      e.食性は雑食性。水底に積もったデトリタスや付着藻類を主な餌とする。

       f.天敵は人間の他にスズキ、ダツ、大型アジ類などの肉食魚、サギ類やカワセミ、アジサシ、ミサゴ、トビなどの魚食性の水鳥がいる。【『佐渡島鳥類目録』(日本野鳥の会 佐渡支部発行)によれば、サギ・カワセミ・アジサシ・ミサゴ・トビは、佐渡の湖に生息】
      
    2)08年7月8日号「佐渡の生物7;加茂湖の生態系」
      a.「7月3日(木)朝5:00に加茂湖・吾潟の遊歩道を散歩し、カキ小屋の中の船置き場に来た時、バチャッという音がした。小屋の中まで湖水が来てそのまま湖と通じ、そこは浅瀬になっている。おそらく、突然の珍客に驚き、大きなボラが逃げたのであろう」」
      b.「加茂湖の漁師さんから、この数週間前に聞いている、「今は、ボラを釣って食べる人は殆んどいなくなった。今の若いもんは、骨の多い魚を食べなくなってしまった」」
      c.加茂湖での食物連鎖例:「カキ→カラス貝(養殖筏付着)・フジツボ(カラス貝にも着生)→[デトリタス・海藻]→ボラ→サギ」
     〔補足:「サギは、川や水田〔や汽水湖〕などを餌場とし、魚や両生類、爬虫類、更に哺乳類や鳥類も捕食」(ウィキペディア)、一方カキは、植物性プランクトンを食べる。〕
     (参考は、以上)
    2)1950年代、主にハゼ・カタベ〔イシダイ〕・チンデー(クロダイ)を釣った。ヤスも利用。((04)山田昭夫氏)
     なお、ハゼと言っても、加茂湖にはウロハゼ〔汽水域や内湾の砂底-砂泥底に生息、肉食性で甲殻類・多毛類・小魚など小動物を捕食〕・マハゼ〔汽水域に生息、肉食性で多毛類・甲殻類・貝類・小魚などを捕食、天敵はサギなど〕・スジハゼ〔肉食で、プランクトン、多毛類、甲殻類、小魚などを捕食〕がいる。(資料:カモケン)
     参考:加茂湖にいる甲殻類(マメコブシガニ、アカテガニ、イソガニ、ヒライソガニ、クロベンケイガニ、コビナガホンヤドカリ。
    3)現在は大人の釣りが主で、スズキ=シーバス〔海岸近くや河川に生息、食性は肉食性・小魚や甲殻類などを捕食〕、クロソイ、イイダコ、アオリイカが釣れる。漁協関係では、ナマコも捕れる。 
    タ絮
    1)吉田家ホテルから花月ホテルの間は、湖底が砂利と砂のため、そこでよく海水浴をした(前掲山田氏)
    2)旭町に入た時は家の裏がすぐ砂浜で海に入って遊んだが、築地に移った時泳ぐには加茂湖が近かった。築地通りの伊藤材木店の角から一筋加茂湖側に吉田家ホテル、同じくゆたか屋旅館角から加茂湖の辺りに花月ホテルがあった。
     勿論、その加茂湖で泳いだが、海水になじんでいたため違和感があった。違和感とは、塩分濃度の関係から泳いでも重いという感じがあり、また水のきれいさでは何と言っても排水量の少ない海であった。そのため、泳ぐなら少し歩くが、海辺であった。
    3)水泳とは関係ないが、小正月(1月15日)のどんど焼は、築地地区はゆたか屋旅館の奥の加茂湖湖畔の空地で行った。〔「どんど焼」:正月の松飾り・注連縄・書き初めなどを家から持ち寄り、一箇所に積み上げて燃やす正月行事。一般には、田んぼや空き地に竹や木、藁(わら)、茅(かや)、杉の葉などで作ったやぐらや小屋を組み、正月飾り、書き初めで飾り付けをした後に燃やし、残り火で竹にさした団子や餅やスルメイカを焼いて食べ、1年の無病息災を祈る。また、焼けた棒きれを持ち帰って、屋根に投げて置くと火事に遇わないと云い伝えられた。これは、子どもの参画する遊び兼神事と言える。
     また、その辺りに一時期低い屋根の小屋があって、屋根に上って適当な所から木の皮が敷いてあってクッション代わりになっている床へ飛び降りる度胸試しをやった。相当勇気がいったが、これも遊び。

    3.まとめ
    ,海5年くらい加茂湖の早朝散歩は、年取ったためか億劫になってしなくなったが、白鳥はじめ水鳥を見ることと湖底を覗き込んでどんな生き物がいるか発見するのが楽しみであった。天王川の河口の前にあった湖面すれすれにまで堆積した砂洲ーいろいろな水鳥たちの憩い・遊び場で、干潮の時はそこに立っているのが見えるーを浚渫(しゅんせつ)したため無くなってしまったことも理由としてある。
     水鳥たちの遊び場と共に年寄りの楽しみ=遊びもなくなったので、散歩に出る気もなくなった。調べると11年11月5日号「佐渡の風景104:加茂湖周歩(1)潟上」〜同11月23日号「109:(6)両津」の記事以来、加茂湖をテーマにすることはなかった。
     今回「遊び」を契機に、加茂湖が久々にテーマに挙がった。
    ∪こε環境問題を解くキーワードは、生物多様性(biodiversity:生物学的多様性 (biological diversity)」を意味する造語)で、大袈裟に言えば世界的な研究モデル地区とも充分なり得る加茂湖。
    1)地球環境問題
     環境開発と環境破壊、核開発か地球温暖化か、在来種滅亡と外来種繁殖による生態系破壊、生態系の中の一種一員にすぎない人類の周りに環境問題が発生しており人類に未来はあるか?その在り方が問われる時代となった。
     ァ.1992年リオデジャネイロの地球サミット(環境と開発に関する国際連合会議)で承認された生物多様性の定義:「すべての生物(陸上生態系、海洋その他の水界生態系、これらが複合した生態系その他生息又は生育の場のいかんを問わない。)の間の変異性をいうものとし、種内の多様性、種間の多様性及び生態系の多様性を含む」
     ィ.2008年(平成20)日本で「生物多様性基本法」公布・施行。(資料:ウィキペディア)
     顱亡慙△垢詼[Г箸靴憧に、「絶滅のおそれのある野生動植物の種の保存に関する法律」(1992年制定)、「鳥獣の保護及び狩猟の適正化に関する法律」(2002年制定)、「特定外来生物による生態系等に係る被害の防止に関する法律」(2004年制定)等あるが、基本法はより包括的に野生生物の種の保全・自然環境の保全を目的としている。

     髻棒己多様性について、「生態系の多様性」、「種(種間)の多様性」、「種内の多様性」の3つと定めている。
     
    鵝棒己多様性の保全と持続可能な利用について基本原則を定め、国、地方公共団体、事業者、国民及び民間の団体の責務を規定。 
     堯棒己多様性戦略の策定について定める。国による「生物多様性国家戦略」策定の義務付け、および地方公共団体による生物多様性地域戦略策定の努力義務を規定し、国および地方公共団体の施策について定める。
     
    )生物多様性の保全の観点から、従来の環境アセスメントよりも早期の事業計画の立案段階からの戦略的環境アセスメント(SEA:Strategic Environmental Assessment)の実施について、国による措置を求めている。

     ゥ.名古屋議定書(「生物の多様性に関する条約の遺伝資源の取得の機会及びその利用から生ずる利益の公正かつ衡平な配分に関する国際文書)が、2010年名古屋市で開催された生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)で採択。

    2)「世界的な研究モデル地区とも充分なり得る加茂湖」の根拠
    a.限られた区域に包括的・体系的サンプルが豊富にある可能性が非常に高いと思われること。
     ァ.佐渡は対馬暖流が流れている関係から対岸の越後と違って冬も比較的暖かく、竹・ビワ・ミカンなど温暖系植物が生育。
     ィ.周囲17km・面積4.9k屬慮个忙慨嵎震酩瑤ら東・西・南・北計6つの川が流れ込み、海と繋がっている川(「境川」)は毎日2回満潮時には海水が湖に流入、干潮時には汽水(海水と淡水が混じった水)が海に流出。
     加茂湖と7つの川(『吾潟郷土史』)
     加茂湖 川2
    b.上記より「生態系の多様性」は明らかで〔川は同じでも環境は微妙に異なる〕、長い間に「種内の多様性」が現れ、「種(種間)の多様性」への進化が期待される。
         参考:生物進化論の推移(資料:「FNの高校物理」サイト)
     顱法崚景冀楼枩癲廖淵ュビエ):天変地異が地質時代を通じて幾度か繰り返され、そのたびに前の時代の生物群は殆ど死滅し地球の片隅に残存した生物群が新たに広く分布したという説。同時代のラマルクの進化論に反対。
     髻法嵳冑塒兩癲廖淵薀泪襯:1809年「動物哲学」、1815年「無脊椎動物誌」)
     鵝法崋然淘汰による適者生存説」(ダーウィン1859年「種の起源」)
         生物個体間に起こった変異は、環境に適したものが適者生存により生存競争に打ち勝って残存し、そうでないものが滅亡していく自然選択を生み出し、その自然選択が種全体を変異させていく。
     堯法岾嵶ダ癲
      a)ワーグナー(1868年)地理的隔離
        大陸の移動、陸橋の水没や隆起、気候の変化、砂漠化、氷河の発達に因る地理的分断、海流・風による孤島への隔離
      b)ロマーニズ(1885年)生殖的隔離
        生態学的環境、行動学的環境、すみわけ
     )「定向進化説」(アイマー 1885年):進化は環境と無関係に生物の内的要因により一定方向へ進む。
     )「突然変異説」(ド・フリース1901年):オオマツヨイグサの野生集団から遺伝性の変異種が出現を発見。  
     )「総合進化説」(ネオダーウィニズム1930年頃):変異の原因を「突然変異」で、変異が種内に広まり固定して行く原因を「自然選択」で、そして一つの種が様々な
     種に分化していく原因を「地理的・生殖的隔離」で説明。

       )「棲み分け理論」(今西錦司1949年『生物社会の論理』)

       「可児藤吉と共同でおこなったカゲロウの生態学的研究と植物相に関する生物地理学的な研究を通じ「棲み分け理論」を提唱した。1933年に、川の流速に対応して生活形が分離することが、川岸から流心にかけて種ごとに異なる分布を形成することを加茂川で発見」「棲み分け」は種同士の社会的関係を表す概念である。たとえばカゲロウ類の幼虫は渓流に棲むが、種によって棲む環境が異なると同時に、異なる形態をしている」(資料:ウィキペディア)
      【「植物・樹木の棲み分けというのが、わかりかけてきた」と記したのは、08年11月19日号「佐渡の生き物35:大木等(16)二見神社の社叢」。この鎮守の森=社叢(しゃそう)はシイの老大木で鬱蒼(うっそう)とし、高木層にシイ、中木層にヤブツバキ、低木層もヤブツバキ、草木層にベニシダが優先的地位を占める4階層構造が自然に構成されているのが一目でわかる。なお、この林は極相林〔樹種の遷移がこれ以上変化しない状態に達した森林で、佐渡で最もよく保存されたものとされる。佐渡市指定天然記念物】
     )「中立的突然変異浮動説」(木村資生1968年、キング、ジュークス 1969年):内容は定向進化説だが、分子遺伝学と集団遺伝学(数学的、統計学的に遺伝を研究)の発展を待って説の展開が可能になった。
     )「現在の進化論」;種が様々な生態学的な環境〔?:「生態学的な」は用語として不自然で、単に「環境」が自然で正しい〕の中で生存競争と適者生存の原理(自然選択)により存続と絶滅が決まる。

    c.進化や棲み分けは、「共生」と「変性」と「競生」によって説明できないか。なお、進化論での「突然」は、解説がなく科学的でない。
     共生は、字の通り同種間でも異種間でも互いにプラスに作用しあって共に生きること、
     変生は、それぞれの内部で異なるものが生じること、
     競生は、同種間であろうと異種間であろうと生存への優位的地位をめぐって争い、捕食・被食関係、宿主・寄生体関係、片利片害関係、上下関係、中立関係など安定した固定関係を築く。
    c.ダーウィンの進化論の発見は、ガラパゴス諸島のチャタム島に到着したことが決め手。当初は理論上の矛盾に直面し葛藤したが全く新しい発想を生み出す機会となり、時間も費用もそれほど掛けず「離島研究」モデルが画期的な進化論の構築に功を奏した。
     「ダーウィンは自伝で、〔1831年イギリス海軍の測量船ビーグル号に乗船した5年間の〕航海で印象に残ったことを三つ書き残している。
     一つは南米沿岸を移動すると、生物が少しずつ近縁と思われる種に置き換えられていく様子に気づいたこと、
     二つめは南米で今は生き残っていない大型の哺乳類化石を発見したこと、
     三つ目はガラパゴス諸島の生物の多くが南米由来と考えざるを得ないほど南米のものに似ていることだった。つまりダーウィンはこの航海を通して、南半球各地の動物相や植物相の違いから、種が独立して創られ、それ以来不変の存在だとは考えられないと感じるようになった。またダーウィンは、航海中にライエルの『地質学原理』を読み、地層がわずかな作用を長い時間累積させて変化するように、動植物にもわずかな変化があり、長い時間によって蓄積されうるのではないか、また大陸の変化によって、新しい生息地ができて、生物がその
    変化に適応しうるのではないかという思想を抱くに至った」
     「ダーウィンはガラパゴス諸島滞在時〔1835年9月15日〜10月20日〕にはゾウガメやイグアナ、マネシツグミにより強い興味を示した。しかしまだ種の進化や分化に気がついていなかったので、それは生物の多様性をそのまま記載する博物学的な興味だった。鳥類の標本は不十分にしか収集しておらず、それらが近縁な種であるとも考えておらず、どこで採取したかの記録も残していなかった。ガラパゴス総督から諸島の生物の多様性について示唆を受けたときには既に諸島の調査予定が終わりつつあり、ダーウィンはひどく後悔している。鳥類標本については後に研究に際して同船仲間のコレクションを参考にせざるを得なかった。また標本中のフィンチ類やマネシツグミ類がそれぞれ近縁な種であると初めて発見したのは、帰国後に標本の整理を請け負った鳥類学者のジョン・グールドだった」
    生物多様性は「棲み分け」あってこそで加茂湖が生物多様性のモデル。遊びにも「棲み分け」・多様性があり、存続がはかられている。
    1)概ね3歳範囲の年令階層別
     6・3・3の学制とも関係するが1950年代の子ども・ベビーブーム世代が典型。(少子化時代ではそうはいかない)
    2)学内・学外での違い。
     例:学校には一般に卓球台があるが学外には無いので、ボールをラケットの真ん中で頭の高さくらいに何回上げれるか競ったり、2人同士で羽根突き遊びのようにラケットを羽子板に見立て、ボールを鳥の羽を差し込んた羽根(木製の小球)として打ち合い、打ち損ねることのないよう競う遊びなど。
    3)遊び場・経験の違い。
     例:キャチボール、やわらかボール野球、ソフトボール野球、軟式野球
    4)個人別・団体別対抗遊び
     団体戦には主に星取り戦形式と勝ち抜き戦形式があり、
     前者は、全体の勝敗差で勝ち負けを決める形式で、決められたオーダー同士で試合を行うが、強豪同士で星を潰し合うよりも確実に勝てる相手に白星を取ることを意図した戦略的なオーダーを組むこともあり、
     後者は、勝者となった者が次の対戦相手とも対戦する権利を持ち、対戦相手全員に勝つことで勝敗が決まる形式
     である。
     以上 2017、9、21
     




    歴史スポット73:1950年代両津子どもの遊び(10)築港での遊び

    こんにちは!自在業の櫻井です。
    1.はじめに
    |杞(ちっこう)は、一般には字の通り港を築くこと、両津では防波堤のこと。
     他所で初めて「築港」に接したのは06年7月小樽港でのことで、JR小樽築港駅があった。新潟港から北海道行き朝のフェリーに乗り、翌早朝小樽港に着いた。
     (06年7月5日号「北海道と佐渡(1)船旅」)
     大阪港訪問の時も「築港」という標識を見た。”chikko”という添え書きが印象的であった。
     (09年11月6日号「係わりの地41:大阪(堂島、大阪港、大阪城)」)
     なお、同日大阪港よりも数時間先に訪問した神戸港の場合、「第一突堤〔=波止場〕、第二、第三・・・」があり、「築港」はなかった。
     新潟港の場合、両津の築港に当たる言葉は「突堤」。信濃川の海への長い誘導口で東と西の突堤が平行して走っている。
    築港は、下の写真に見るように60余年(戦後70年と言ってよい)の間に大きく変化。
    1)築港も1950年代は2つの呼び名があった。「沖の築港」と「へたの築港」。また、後者は防波堤でなく防砂堤であるが、それも単に「築港」と呼んでいた。私の場合、「へたの築港」は呼んだり聞いた覚えはない、。佐渡国仲方言に「へた」は端の意味とのこと。一般には「下手(へた)」を指すが、下(しも)の方をもある。
    2)要確認だが、岩から成る防砂堤は灯台のある沖の築港に向けて旭町の南に造られ、その後 北の春日町にも防砂堤が造られ、やがてそれが防波堤となって沖の築港へ向け延びていった。1952年は、まだまだ互いが離れていた。
    3)その後元からあった防砂堤は撤去された。北の防砂堤から発した防波堤が灯台のある沖の築港と繋がった。
     a、春日町の浜から灯台まで歩いていけることを意味。高校1年頃といえば1962年、来島したある人を見送るのに普通は岸壁からであるが灯台からも手を振った話(旗なども揚げたのであろうか)を聞いた。
     b、高1の時の夏休み、幼稚園時代大の仲よしの渡辺正弘氏(小学3の時、親の都合で東京へ引っ越し)が佐渡へ遊びに来たということで同じく大の仲よし岩田秀夫氏(高校は違った)が一緒に来た時、みんなで築港へ行った。また、大学1年の時は奈良出身の友人が佐渡へ来た時築港を案内。
     c、築港は、両津の観光コースに入ってないが、知り合い等を案内するのに格好の場所であった。
    4)2015年の写真では、築港は非常に複雑になっている。この7月フェリーで両津港に入る前 おけさ灯台のあるところへは歩いては行けませんので、写真を撮られる方は今のうちに甲板へ出て云々のアナウンスがあった。
         築港の変遷
    昭和初期両津町夷全景

    (東京朝日新聞社撮影)
     昭和初期夷全景(東京朝日新聞社撮影)
    1901年(明治34)夷町・湊町・加茂歌代村(一部)が合併し両津町となる。1917年(大正6)夷港を両津港と改称。沖の築港(防波堤)はカギ形(直角に曲がった形)、コンクリートでなく捨て石で構築、陸に続いていない。(写真左端真ん中の上に)南防砂堤(「へたの築港」がわずかに見える)
    なお、加茂湖寄りには、湊では学校の長い校舎、夷では加茂湖から2筋目(写真では下寄り)にカトリック教会の高い塔が、相川本線の沿道・浜田地区には均質の長い建物が見える。(明治末頃、から後に両津町長となる土屋六右衛門(屋号:俵屋)が貸し家からなる新市街地を開発したので「俵屋町」と呼ばれた)
    1952年(昭和27)10月30日撮影       1955年(昭和30)1月撮影
    DSC09899両津防波堤と防砂堤2       
     北防砂堤は防波堤(築港)として         向きを変えた防波堤は沖の築港       
    直角に向きを変える。               に接近、やがて繋がる。
    夷3ノ町の海岸から見たら築港と防砂堤 (写真:岩原淳一氏提供)
     1953年(昭和28)頃                      1954年(昭和29)頃
    築港防砂堤33ノ丁2
    3ノ町前の海岸埋立前            同 埋立準備
     テトラポットなし                                 テトラポット設置           
    1969年(昭和44)頃の両津全景     2015年の両津港
    (同刊行『両津町史』の巻頭写真)    (カラー写真:新潟県HP「交通、運輸」)
    両津全景2両津港全景 アイポートあり
    子供の遊び場としての築港を次の3つに分け、詳述する。
     海中探索、釣り・採集(見物含む)、水泳。
     課題は、経験中心にどこまで正確に覚えているかにある。

    2.内容
    ヽっ翆戯     
    1)潜水作業見物
    a、海中探索は、海水がきれいなところであれば築港に限らず岩場や砂浜などこでも楽しめる。その中の私が築港での遊びに繰り入れた潜水作業見学は、築港ならではであり、全国的にも極めて稀な例だろう。
    b、遊びができた背景
     ア築港(北防砂堤+防波堤)改修延長工事は、長期であった。
     イ捨て石からコンクリート製箱形構造物(土木用語で「ケ ーソン」。鋼製箱形も同じ)へ交替。歩行楽。
     ウ海面よりやや高い位置にケーソンを下から支える台磐がありそれがいわば1階通路で ケーソンの上へ上れる階段がある。
     エ潜水作業は、海上海中作業で陸から見る分については何の邪魔にもならなかった。 
    c、よく見た潜水場所は
     北防砂堤の内側真ん中より少し沖側。1955年写真からは縦長長方形の右上角際に近い所で、船が着いているのが見える。そこに限らず場所はいくつかあるはずだが、他での記憶はない。
    d、潜水作業見物の印象深いシーン 
     ア、築港のある地点に繋がれた作業船に潜水夫に酸素を送る空気ポンプが設置され、2人のオバさんが対面してそれぞれポンプを休みなく同じ速度で上げ下げしている。
     空気供給設備=空気ポンプは、現在ではほとんどエンジンまたはモーターを動力としているが、古くは手押し式・手回し式など人力によるポンプであった。
     空気の入ったタンクを装着して潜るスクーバダイビングは、1950年代現れて普及し、やがて主流となった。
     それまでの1950年代は空気供給ホースと繋がったヘルメット潜水が、水中土木の花形であった。
     イ、潜水用具の大きさ等
     潜水夫は、丈夫で重そうな防水服を着け、首から頭はガラス窓のある金属製ヘルメットを着ける。〔着けるというより、ヘルメットを含む防水服の中に籠(こも)ると言った方が的確〕
     防水服とヘルメットの接合部分(金属枠の円周)は、いわば大きなネジのように、防水服に籠った潜水夫(首にはタオルを巻いていた)の首・頭をまん丸の大きなガラス球のヘルメットに入れ、同じ円周の金属枠どうしを噛み合わせ、ヘルメットをゆっくり回しながら締める。(この時は、ヘルメット内で呼吸できていなければならない)
     潜水服の総重量は、防水着・ヘルメット・空気供給ホース、それに水中安定姿勢・安定歩行維持などのため重い鉛の錘(おもり)を靴や胸や背中に付着させるため、80〜90圓砲覆。
     ウ、潜水服を装備した潜水夫
      一人で船の甲板に立ことはできない。自力で水中へ飛び込むことはできない。人の介添えで、水中に沈んでいく。当然、命綱は船と結ばれている。
     エ、空気がポンプからヘルメットだけでなく水中へ入ったことによるものだろう(ヘルメットからも炭酸ガスなどが水中へ吐き出されなくてはならない)、空気は水に溶けないから、水中で球を作り浮上し、破裂する。
     不気味で大きな音(例:ブクブク、ゴボゴボ、グォー、グォー・0ー、ガバー)を立てる。
     オ、水中での潜水夫の動作は、非常に緩慢。
      時々泡を出す。
      作業場所の水深は、感覚で3〜4m。
      潜水夫の動きを船上から監察している人はいない。無線でやり取りしているのであろう。
      水中作業としては、水底の岩石を移動させているのを見たというはっきりした記憶はなく、何かを調査している様子が大半だった。
    2)内側通路から探索:まだ北防砂堤からの築港が沖の築港に繋がっていない時代を想定
     a、当時水中には、カタベやコウグリが群をないて泳いでいたり、水底にはハゼやバクトウ、アブラメなどが姿を現わした。カレイもいた。
     b、釣りをも含めて、どんな魚とであうか、釣糸を沈めたり、タモを泳がせたり、餌を投げたりもした。 
     c、捨て石を敷いた防砂堤と違って、新しいコンクリート製の構造物を土台に用いてせいで海藻は多くないが、水底の見透しは好かった。
    ⊃絮
    1)築港へは専ら岩場の南防砂堤の先端から泳いで渡った。距離は時代によって変わる、20〰30m。
    a、自力で渡れれば一人前と見なされ、それが課題であり、目標であった。「夷の子」なら誰しもそうであった。それは、湊の場合は当地の海でもいくつの島まで泳げたら「湊の子」として認められるのと同じ(「遊び(05)」)。
    b、防砂堤の先端〜防砂堤に面した築港の先端との間の連続往復にも挑戦。
    2)築港での泳ぐ場所は、サザエ・アワビの貝捕りは別として内海(うちうみ:築港の陸側)に限られた。
     a、外海(そとうみ)=沖へ出るこは、泳ぎ上手でも非常に危険という雰囲気があった。小さい時から浜辺で泳いでいれば、波は岸に寄せるばかりではなく、人をも沖に連れ去ることを多かれ少なかれ経験していることあるだろう。
     b、沖の築港と北防砂堤防からの築港とが繋がっていない時代、その間や近くを泳ぐことは危険に感じた。万一沖へ流される可能性があるからである。
    3)水泳について築港が他の泳ぎ場所とは大きく違う所は、泳ぎと潜りの楽しさが一体化していること。潜って海中を覗いて楽しむために水中メガネがある。
     a、場所によって海底の深さや構造の違いなどを知ることができる。
     b、海中にある大小様々な形の岩や岩に生えた海藻、岩にくっついたいろいろな貝の様子がわかる。
     c、岩や海藻の陰に魚やサザエ・アワビ・ウニを発見することがある。
    D爐蝓Τ捕り
    1)釣り
    a、築港での夏の一般的な出で立ちは、ゴム草履、海水パンツ、水中メガネ、釣竿又はタモで、他にバケツ・餌箱など。                          
     ア、現代での海水浴に必要な物の1つにビーチサンダルが挙げられるが、当時の両津での海の遊びには鼻緒のついたゴム草履は必須。〔昔はサンダルといえば鼻緒無しであったが、今日では曖昧になっているようであり、個々に要確認〕
     ・砂浜では砂の熱さから また砂利浜の場合尖った石から足を守り、岩場では滑ったり転んだりすることから体を守るからで、草履であることで足を固定し安全度が強い。
     ・ゴム草履は丈夫で、水泳や釣りに限らず、普通の道を歩くのに使った。砂利道は、小石とのぶつかりをクッションで吸収し、歩行がスムーズ。
     夷や湊から築港へは、殆どの子どもがゴム草履を履いて行ったと思う。
     ・子どもだけでなく大人が仕事する上での履き物であった。夏は、素足で簡単に履け、重宝された。
     イ、釣竿
     ・子どもの竿は長さ固定の竹竿で済んだ。
      何本かの竿を継いで使用する継ぎ竿や中空になった竿の中に細かい部品が仕込まれ引っ張り出して組み立てる振り出し竿やリールの付いた竿は、ほとんど無かった・使わなかったといってよい。
    《参考》「庄内竿」:ウィキペディア
     庄内竿は、山形県庄内地方に伝わる地元で産出される竹を使った釣竿で、紀州竿や江戸和竿のような継ぎ竿でなく延竿(一本竿)。長さは5尺(1、5m)〜4間(7、2m)を超えるものまで多様。
     1707年松山藩の藩主酒井忠予が温海地方で磯釣りをしたという記録が、温海組大庄屋・本間八郎兵衛の覚え書きにあり。
     1716年庄内藩士・豊原重軌の日記に、「秋一日安倍兄弟の誘いによりて加茂に釣りに行く。かしこにては宅右衛門宅といえる者宅に一日宿す。翌日も釣りに出て夜になって帰る」とあり。
     (「加茂」について、 09年11月29日号「係わりの地48:鶴岡(善宝寺・加茂港)」)
     1718年庄内藩主・酒井忠真自ら温海地域で釣りを行った。
     1802年庄内藩から出された覚え書:家中の面々が折り節鳥刺や釣りに行くが、希に遠方へ歩行。これは武用の一助にもなる。
     1810年の庄内藩軍事師範・秋保親友の日記に、「以前は3間(4、4m)の美竿を持つ者はかったが今は多くの人が持つようになった」とある。なお、何年の日記か不祥だが、「名竿は、名刀より得難し。子孫は粗末に取り扱うべからず」の記述。
     1827年庄内藩主・酒井忠器の触れ書:釣りを武門の嗜みとして奨励。但し、海に落ちないこと。
     庄内竿は庄内藩士によって作られ、以後竿師によって隆盛。竹竿は1955年(昭和30)頃からガラス繊維強化プラスチック製〔グラス竿〕が普及、1975年(昭和50)頃から炭素繊維強化プラスチック製〔カーボン竿〕が出回り、高価の竿はかったが需要減少。竹採取から竿完成まで5年かかると言う技術の継承が危惧されている。
     (参考は以上) 
    b、今日主流の「擬似エサ釣り」(ルアー釣り・サビキ釣り)は当時なく、「エサ釣り」。但し、「エサ無し釣り」は皆無でない。
     ア、竹竿に針と餌と錘(もり)を繋いだ糸を海中に垂らして海中を見ながら魚を誘き寄せ(魚の目の前に釣り糸を置く)、魚が餌に食らいついたところで釣り上げる方法=「見ながら釣り」が大半。
     魚は、餌に近づいても付け方がまずく針があるとわかれば相手にせず、あるいは簡単に餌だけ取って逃げられたりし、あるいは狙いの魚でなくフグなどの雑魚が寄ってきて食べて行かれたりもする。
     イ、餌は、築港にはフナムシがたくさんいて手で捕まえ、釣り針を頭から尻に通し餌とした。なお、どの餌がどの魚に適しているは当時眼中になく、餌無しよりましという認識。
     ウ、餌は、夷の金子釣り道具屋で販売。買ったことはなかったが、スナムシが売られていた記憶はある。スナムシは、ミミズのような幼虫で茶褐色。小箱の中に木材おが屑のようなものと一緒に入っていた。
     餌を買ってまで釣りする子どもは、周囲にいなかった。餌は御飯粒でもよかったし、イカの足の部分で足りたからだろう。
    c、海面から20〰30儿發つ模では「見ながら釣り」「タモ釣り」、ケーソンの上からは陸に向かって「投げ釣り」「浮き釣り」。沖に向かっての釣りのは、防波のためのテトラポットが数多く敷設されたため、その隙間をぬうしか出来なかった。
     ア、「見ながら釣り」は、海がきれいで透明度がよいから可能。
     「見ながら釣り」の妙味は、狙いの魚を見つけたら餌をさりげなく近づかせて安心させて食欲を刺激し、餌に食らい付いたと同時に竿を挙げる。掛かった瞬間竿の先端が魚の重さで海に引き込まれようとする感触が、釣り人にとって堪らない。
     また、狙いの魚を見つけて動くだけでなく、居そうな場所を予想して釣り糸を垂れる。変化なければ上下動させたり移動したりして、現れる機会を広げる。現れたらしめたもの。
     基本は「見ながら釣り」だが、すべて観ながらでなく、見えない所へも誘い出し、アタリで釣る。大魚や高級魚・珍魚となれば、それこそ醍醐味。
     イ、「タモ釣り」は、海がきれいで底まで見えること・その見える範囲が条件。
      特徴は、網漁の一種で個人持ち、餌不要、1回の掬いで複数の魚を獲ることが可能、 にある。
     「タモ入れ」のコツ・方法の解説はあるが、「タモ釣り」はない。もっとも自分で勝手に作った用語だから。タモ入れのコツに、「タモは魚の頭から入れよ」「タモは海中に浸けておかず(魚が怪しいと思って逃げ暴れる)、瞬間海中に入れて一気に掬え」というのがあるが、なるほどと思い思い出した気がした。事前に、タモを海中に入れた場合、どれだけの速さと受ける重さを感じ取ることが大事。 
     海面に集まってくる小魚は、簡単に掬えるとして、海底に棲むハゼなどは容易でないだろう。
    d、釣った魚は、余り食べなかった。  
     ア、ハゼやバクトウやアブラメやイシダイを釣って、家で食べたという話は聞いたことがない。
     イ、漁師町であり、魚が豊富にあった。佐渡人が、川魚を好んで食べないのと同じ。渓流釣りもしない。
    2)貝捕り
     専ら築港の外海側、テトラポットなど消波コンクリート製品や捨て石のある所を潜って探し当てて捕った。
    a、サザエ
     ア、夜行性で昼間は3m以上の深さにいつが、夜になると潮間帯・岩の上に上がってくる。両津大川の新米の頃の収穫祭にはサザエやシタダミの入った炊き込み御飯が振る舞われる。夜餌を食べに岩場に上がる貝の習性を利用した「夜なり」と呼ばれる漁で捕ったものが神に捧げられる。大川の住民は、この日のために沢山の貝を捕って集めるという。
     なお、証明が必要だが、築港にサザエやアワビなどの貝類が多く捕れるのは、築港に大川の岩石が使われたからという説あり。これは、一理ありで何かに使える。
     イ、海底の岩と岩の隙間に隠れているので、潜った場合息の関係で見つけるのに何回も海上へ出て空気を溜めなければ。なければならない。見つけたと思ったのはよいが、採ろうとして潜り直したとき、場所がわからなくなった経験はあったよう思う。
     ウ、潜って捕った経験はあるが、それを食べた経験はない。余りにも小さかったからだろう。
     それなりの大きさがあり食べるとしたら、築港のコンクリート床か壁にサザエを投げ付けて硬い貝殻を砕いて、丸い蓋にくっついった身と肝を取り出し、肝(酒のつまみに絶品とされるが塩漬けにするなど加工してのこちで当時はそんなことは知らず、生で食べると腹を壊す恐怖が先)は手で身と離して棄て、口と呼ばれる苦い部分も切り離し、身だけを海水に浸け噛んで食べる。はっきりしないが、経験した感じもする。
    b、アワビ
     ア、岩への吸着力が非常に強く、サザエのように素手では捕れない。そのため釣具店に「アワビ起こし」という道具があるようだ。
     イ、記憶では、中学・高校の先輩たちは数が極めて限られるが、ドライバーを使ってこじあけていたと思う。
     また、せっかく大きいアワビを仕留めたのだが、海上に持ってあがる途中で落とし100%手中にしたのを捕り損なったという話を聞いたことがある。海の中では、息を止めておかねばならないから、すぐ追い掛け簡単に取り戻すわけにはいかない。
     ウ、アワビの天敵はタコで、タコに見つからないようウニの後ろに潜めてていることが多いという。また、アワビの貝殻は、付着した岩と同じ色・柄になるため見分けにくいが、6つの穴があるかでわかるらしい。
    c、ウニ
     ア、ウニは棘(とげ)を動かし管足を使ってゆっくり移動するが、普段は岩に張りついていたり、岩のくぼみに入り込んでいたりする。海藻やデトリタスを食べ物ちする。
     イ、当時両津での貝類の価値は、アワビ・サザエ・アサリが高く、ウニは捕れるのは捕れるが、小さく食用にならなかったせいもあり低く見られた。
     ウ、ウニの棘を剥がして滑らかにし、真ん中から丸く割って腸(はらわた)を抜き乾燥させた殼作りや所有は、用途や楽しさの中身ははっきりしないが、遊びには違いない。
    d、シタダミ(但し、要調査)
     ア、10年余り前の8月姉夫婦と子ども夫婦が佐渡の私の家で滞在していたとき大勢ぢて金井の料理屋で昼御飯を食べに行った。その時前菜用に出されたのが、姉もそうだったが昔夷の海岸(当然築港)で見たこと大いにあるが、食べたことも名前も知らない沢山の貝の煮物で、食べ方を教えてもらって食べたところ余りの美味しさに驚いた。聞くとシタダミと言うもので両津の海岸で捕れるとのこと。
     イ、シタダミは、カタツムリのような巻き貝で、楊枝で貝殻から渦を巻いた薄茶色の腸がきれいに取り出せる。最初カタツムリを食べるようで気持ち悪い感じがしたが、食したところあっさりした味と歯触りがよく、すぐこれは珍味ということになった。
     それは、例えば昔両津ではブリを捌いたとき、アラ(魚の身以外の頭・背骨・尻尾・鰭(ひれ)などの部分)やカマ(魚の鰓(えら)の下から胸鰭までの部分)は棄てていたのに類似。そういうことはないと思うが、魚は身以外は人の食べるもんでなく、せいぜい肥やしにすればいいという考えがあったとも言える。
     (株)加島屋(新潟市)HPサイトより「昭和30年〔1955〕代食事をとる時間もなかった商いの忙しい合間に手早く食べられるようにと先代の母が鮭の中骨についた身を焼いてほぐして食べさせてくれたのが美味しかったことから商品化され、以来お客様から長年愛される続ける加島屋の看板商品となった」のが「さけ茶漬」。
    【お客様用にある身に対し鮭の中骨についた身は、捨てるには勿体ない身内用に使える残り原料であるが、焼いてほぐすと本来の身を原料にしたものより手間はかかるが美味しいことを発見し商品化したことが、地区のおかず屋から全国を商圏とする企業へ発展する契機となった】
     ウ、シタダミは、大川地区で盛んに利用されていることから、大川の岩石を利用したという築港は、シタダミが多くいても不思議でない。

    3.まとめ
    1950年代築港の延伸工事が進められたことは、目的は両津港湾整備であるにせよ子どもであった我々とって、遊び場拡大と種類増加につながったことは大きい。
     内容は、潜水作業見物、水泳、釣り、タモ釣り、釣り見物、潜り、貝類捕り、築港散歩など。
     当時の子ども人口は今の4倍と推定(佐渡の総人口は当時12万人で、今の2倍以上からの類推)。
    2009年度の8漁港をはじめに佐渡市の管理する防波堤(島内の県営も同様)は立ち入り禁止(禁止柵設置)となり、築港での遊び場はなくなった。
    1)理由は、問い合わせてないが財政難のため管理施設内での関係者以外の事故の責任まで負えないためだろう。
    2)一般的風潮として公共施設内で事あれば施設の管理責任者がやり玉に挙がる時代となっている。
     もっとも子どもの遊び場縮小反対と主張しても子ども人口は減少、更にスマホなどの安全な室内遊びが主流のため影響はない。あるとすれば、釣りなどを趣味とする大人とその関係業者。
    3)関連して「日本のマチュピチュ」「天空の城」と呼ばれて人気が高まった竹田城跡は、安全に問題とのことでロープで立ち入り規制区域が設けられ、そのため景観が損なわることになった。一方、アメリカのグランドキャニオンではメイン場所以外には安全柵はなくそのため転落者は絶えないが、柵は設置されないようだ。フランスのある観光地では、ここは危険が多いと告知しても入ることは禁止せず、起きた事故は当人が責任を負うと表示しているという。5年以上前になろうかナイアガラの滝見物で日本の女子大生が海外から大勢の観光客も見ている中で、写真を撮ろうと柵に上がった拍子に舞い上がり、滝に落ちて死亡する事故が起こったが、日本では現地の安全策を問題にしなかった。なお、この種の事故の議論(第一とすべきは景観か安全か、責任を負うべきは施設か自己か等々)はいろいろされてが、ここではコメントしない。
    庄内藩・藩士の釣り及び釣竿に関する記録は大変貴重で、色々な事を窺い知ることができた。
    1)庄内藩はなぜ藩士に釣りを奨励したか?
    a、行政・治安に関わって給料を貰うばかりでなく自らも稼ぎ人となる力量を備えること。年貢(米)は、凶作の年もあるから、それに依存はできない。
    b、延縄(はえなわ)などの網漁は、魚を一網打尽で捕るため地元半農半漁百姓の漁業権を奪うので問題になるが、釣りなら一本釣りのため影響はない。その点鳥刺し(鳥捕り)も同じ。
    c、藩士に自由な休みも取らせ、リフレッシュの機会を与えることも必要。釣りは、趣味と実益も兼ねるから、藩士の奨励に一石二鳥三鳥の効果をもたらす。
    2)藩士にとって釣竿はどんな意義を持ったか?
    a、「大切なことは、捕った魚を食べさせることにあるのでなく、魚を捕る方法を教えることにある」の通り、釣竿の扱い方がポイントで、大切に扱えば代々使っていける家宝としての価値も増す。
    b、庄内竿は、大小ある。これは、大人から子ども用まで揃っていること(長さ5尺(1、5m)〜4間(7、2m))、親子が一緒に釣りを楽しめ、釣り方の伝授、その他コミュニケーションの場作りし意味している。
    c、藩士の家の生活道具としての釣竿=親から子へ受け継がれる家宝=家の安泰
    【類似例】
     ア、杖(つえ)
     9年前温暖系植物であるビワの群生(新潟県指定天然記念物)が豊岡にあるということで行ってみた。
     ある所でこれがビワの木が確認するため近くにいたお婆さんに聞いたら、そうだと言い、「ちょっと待ってくれー」と言って家から2本の杖を持って来て、「わけー時はどこへも歩き回ったが、今はこーせんとのー」と言いながら案内。
     それがビワであったかどうかはわからいが、後日ウィキペディアで調べると昔からビワに木は杖や剣道の木刀に使われているとあった。
     一般には杖は年を取って歩くのが不自由になって使うものだが、その都度新調するものでなく、代々使い継がれていったものだろう。ビワ乾燥したものは縁起物として「長寿杖」と言われている。ビワは佐渡のどこでもあるわけでなく対岸の越後にはないことから、お婆さんの使っている杖は豊岡産と見てよいだろう。杖は、消耗品ではない、永代物。
     (08年12月16日号「佐渡の生き物50:大木等(31)豊岡のビワ」)
     イ、半纏(はんてん)   
     羽織を簡略化した丈の短い上着で、江戸時代町民や職人の日常生活で着用され、職人の正装であった。
     9年前三川祭りを見に行ったとき、ある地元の人から話を聞いた。着ている半纏は、地域でとれる麻を織ったもので3〜4世代続き100年以上経っているという。触ってみるせといかにも丈夫で300年は持ちそうであった。
     (08年4月18日号「鬼太鼓12:三川まつりと腰細鬼太鼓」)
     ウ、まとめ
     杖は、若いときは男子はせいぜいチャンバラごっこに使い、女子は嫁に来てあるのはわかったが用はなく、年取ってその有り難さがわかり、半纏は仕事着や祭り着など着れる年齢になって伝統を受け継ぐ責任意識を高揚させる。荘内竿含め、数世代わたって家宝のように受け継がれる点で三者共通。
    3)鶴岡の善宝寺の五重塔にはなぜ魚鱗の文様がちりばめているか?
    a、建設資金調達の趣意書(佐渡の漁村にあり)
    「魚鱗一切の供養」の塔(五重塔)建立の目的
      漁業者の大漁満足
      航海人の海上無難
      商売の
      家門栄昌災難消除
     等の利益拡大を祈願
     その上で魚類一切の供養を行う祈念の塔とする。
    b、1873年(明治06)発起、1883年(明治16)着工、1893年(明治26)竣工。
       (前掲「係わりの地48」)
     善宝寺参りは、佐渡の漁村では今も続いている。
      以上 2017、9、12

    歴史スポット72:1950年代両津子どもの遊び(09)海での遊び

     こんにちは!自在業の櫻井です。
    1.はじめに 
     砂浜・岩場の次は、海での遊び。
     海水遊びと言っても様々であり、ここでは大きく浅瀬遊び・泳ぎ・潜(もぐ)り の3つに括(くく)り、習得または難易度順に論理展開したいが、それ自体客観的理論が出せるはずなく不毛・徒労に終わるのはほぼ見えている。それより自らの経験を基に、それをも多少意識した上で自分流にまとめていったらどうか。それなら、やりがいは大いにある。
     なお、海での遊びについては他も同様であるが、一般論で語り尽くせるものではない。課題は、どこまで昔の遊びを正確に記述し、分かり易く区分し、それぞれの遊びの真髄を記せるかにある。

    2、内容  
    (1) 浅瀬遊び
    /紊け
     特に説明するまでもなく、2人以上が浅瀬に入って両手で海水をすくってそれを相手に向けて掛けるもので、掛け合い競争になるのが普通。ダメージと言えるほどのものでない(だから「遊び」となる)が、敢えて言えば浴びた海水量と頻度。
     追いかけて主導権を握る方が優位。他方、逃げる・かわす・一瞬の隙をつくという手もある。
    ∪瀬での走り競争
    1)陸上での走り競争に勝つ者が、浅瀬でも必ずしも勝つとは限らない。環境が違うからである。水と空気の抵抗の違いがあり、浅瀬といっても深さと互いの身長によっても違いが出てき、海底が砂地か砂利か等によっても変わる。
    2)面白くするため、年下や走りの遅い者は水際近く、年上や走りの遅い者は沖の方というハンディをつけて各々楽しむ等やり方はいろいろある。
    G箸箸竜困
    1)波とのぶつかり競争
     大きく高まった波が崩れ落ちる辺りまで海に入って待機し、崩れる瞬間に体を張って波にぶつかり、びくともしないか波に倒されるかをいわば競うもの。
    2)波との速度競争
     両津湾が時化ぎみの場合そうでない時でも崩れ落ちた波は、怒涛のように一気に砂浜へ打ち寄せるのであるが、崩れた地点から渚(なぎさ)のある地点まで波と人間どちらが早く着くか。
    3)波乗り
     力を使わず、打ち寄せる波に乗って砂浜に至る遊び。
     初心者の場合、浮き袋を利用。
    ぅ魯鵐リ乗り
    1)ハンギリとは、小木ではワカメやアワビ・サザエなどの採集に使う大きな桶で これに乗って出かけ箱メガネで海底を覗きこみながら長いヤスで漁をする。タライ舟は観光として有名だが(船頭を含め大人3人は乗れる)、本来は磯漁に使うもの(この場合大人1人が普通、計2人は乗れる)で、小木地域ではハンギリと呼んでいる。
    2)今は無くなったかもしれないが両津でハンギリと呼んでいたのは、スケトウダラの内蔵や骨等食べない部分を抜き取り、商品価値の高い「身の部分」を容れるのに使ったハンギリは、小木で言うハンギリに比べ底が浅く且つ小型の丸い桶。全国的には寿司店で出前などに使われる鮨桶をハンギリと呼んでいるが、よれよりは遥かに大きい。
     a、なぜ、底の浅い小型の丸い桶かは、魚を捌く際数人が一ヶ所に集まって一斉に行うのであるが、四方八方から捌いた魚を投げ入れ易いからだろう。長四角の魚箱だと地面に落とす可能性が高い。
     b、旭町にいた時は、土間で近所のおばさんに来てもらい魚捌きを手伝ってもらったりした。だから、ハンギリはそれなりにあった。
     c、ハンギリは常時使用するわけでなく、その時だけで寝たままが多い。裏は砂浜で遊びに使わない手はない。
    3)両津言うハンギリは、海に浮かべて子ども1人乗っても底が浅いからバランスを保つのが難しく、水が入りそのまま沈んだり、ひっくり返ったりする。
     a、どれだけハンギリに乗っておれるかが、遊び及び競争の焦点。
     b、2人で乗ることもあった。この場合、すぐに水が入って浮かんでおれず沈むことが多い。
     c、海が穏やかであることが条件で、波が立っている状況の下ではできない。
    タ綯翊渓
    1)遊びとしては単純。
    2)海に入り沖へ進み、海水が胸に達する辺りで海底をベースに跳躍すると体がゆっくりと浮上、水面が腹以下にまで下がり、そしてゆっくり元に戻る。
    3)ゆっくりと上がったり下がったりで、陸上では味わえない今日表現すれば宇宙船か宇宙に居るような無重力状態と似た体験を楽しめる。
    ξてる限界点までの到達
    1)前掲の水中跳躍とも関連する。どこまで立てるかは、次第に慎重で小刻み跳躍
    2)基本的には目視で海底を見ながら、どこまで沖へ行けるか判断。
     所によってはこの先すぐ深くなり立つことはできず、泳げなければ危険。まだまだ立てるにしてもスガモなどが生い茂ることになれば、足で踏んで行くのは気味悪く躊躇せざるを得ない。
    3)遊びの要素としては、競争よりも限界点の調査・見極め・発見の楽しさに求められる。
    (2) 泳ぎ
    \瀬でのバチャバチャ泳ぎ
    1)表記の言葉があるのか確かなことはわからぬが、泳ぎの初段階を感覚的に表現。
     a、まず泳ぐ前に自分の体を少しでも浮かせるようにすること。
     b、浮力のつけ方というより、浮くには手を拳(こぶし)状態でなく平手で且つ5本指を互いに隙間ないようにくっつける。

     c、同時に浅瀬の底にある足を蹴って体を浮かせる。
    2)体が沈まないよう両手でバチャバチャさせる。
    3)更にバチャバチャさせながら移動。
    浮き輪利用
    1)子ども用浮き輪について、「本来は浮き輪がなくても溺れない水深でのみ子供に使わせるものであるが、このルールを守らないことに起因する水の事故が発生し続けている。泳げない幼児をビニール製の浮き輪だけで遊ばせることは、リスクが高い」(ウィキペディア)。「子ども用の浮き輪は浮力があまり強くなく、体重30kg程度までしか浮かすことができないため注意が必要」(「スポランド」サイト)
    2)1950年代の浮き輪は、主にビニール製(中にゴム製もあった。この場合大きい)で、体を輪の中に入れ、両脇か両腕で体を支え水中に浮かぶ。今は、イルカやシャチ、バナナや水上バイクなどを模した浮き輪の上に跨ることで浮遊感を楽しむなど、いろいろな浮き輪がある。
    3)浮き輪を使って泳いだという経験があって当たり前だがそれほど記憶にない。浮き輪に2人でつかまり遊んだ憶えはある。また、茶色のゴム製の大きな浮き輪は大人の遊び用であろう。子ども数人がつかまっても大丈夫という記憶がある。
    B膺佑慮利用
     遠いところや深い所へ行く場合、大人の両肩につかまり、両足を交互にばたつかせるか、開閉するかして泳いだ。
    ぅエル泳ぎ・平泳ぎ
    1)バチャバチャ泳ぎから進化した泳ぎ方。
    2)泳ぎ方は、公式水泳競技種目と違い、各人各様いろいろ。
     a、本当は、その「いろいろ」を進化・難易順に論理的に展開したいところだが、そのために時間をかける程の価値はないと見て止めた。
     b、泳ぐ方は、どんな泳ぎ方であろうと楽しめればよい。 
    3)09年5月9日号「佐渡の風景57:田植え」より
     「田んぼの中にカエルがいるのを数十年ぶりにみた。すぐに人に気づいたのか、「カエルの泳ぎ」の様子がよく見れた。平泳ぎは、カエルの泳ぎ方を真似れば、もっと速くもっと速く泳げるのではないかと思ったりもした。記録を更新できる新しい水着が注目されたのは、去年のことだった」
     随分生意気なことを記しているが関心したのは事実。「去年のこと」とは2008年北京オリンピックだろう。
    ノち泳ぎ
    1)立ち泳ぎは、水面に対し体が垂直になっていて頭を出して浮いたまま沈まないように立っていること。これができると、足のつかないところでも、顔を真っ直ぐにしたまま水の中でとどまることができる。
    2)足の裏で交互に水を底の方へ蹴り、その反動で身体を浮かせる。特徴は、手の力をほとんど必要とせず足だけで行うこと、前進だけでなく、留まった状態で水に浮いていられること。
    3)いつ頃立ち泳ぎが出来るようになったか思い出せないが、これで一人前になったと実感した覚えはある。泳ぎが堪能な人でも立ち泳ぎが出来ない人もいるとのこと。するとひょっとして、小学高学年か中学になってからかもしれない。
    Σ1砲
    1)体を横にして泳ぐ方法で、平泳ぎ・立ち泳ぎ同様、顔をあげて泳ぐ。
    2)水面で横になった時の体の上と下の手と足をそれぞれ動かして進む。
    3)あるサイトに「女性やお年寄りでも楽に泳げる泳法といえるでしょう」とあるが、子どもにとっても然り。海の中で他の泳法をして疲れた時は、横泳ぎをしたものだ。個人差あって当然だが、平泳ぎは勿論クロールよりも速いと実感したことが何度もある。
    背浮き(仰向け)
    1)背浮きは、いわば海面を枕に仰向けになって浮くこと。
    2)浮くには、全身の力を抜いてリラックスする、腕と足を広げ大の字になるようにする。
    3)手足を動かさず浮いているだけだから、楽である。泳ぎ疲れた時、陸に上がって休むが、海水に浸かって休むこともある。腕と足を広げなくても、出来た。
    背泳ぎ
    1)仰向けの姿勢での泳法。
    2)足の動かし方は、膝を真っ直ぐに伸ばして下に蹴り浮力を生むダウンキックと上に向かって軽く蹴り上げるアップキックを連動させ、
     水をかくための手の動き(ストローク)には、、腕を頭の耳の後ろまであげてから真横に腕を下ろしてももにつけるストレートプルと腕をさらに頭を超えて水中の奥まで入れ、そこから円を描くようにして水をかくS字プルがある。
    3)泳ぎについては、家の裏が砂浜で海ということから、誰に教わったわけでもなく見様見真似で自然にできるようになった。背泳ぎについてはその典型で百人百様のやり方があると知り、なるほどと思った。
     足をばたつかせるやり方もしたが、下へ交互に蹴って推進。クロールより速いんじゃないかと思ったことがあった。
    速泳(はやおよぎ):資料:ウィキペディア(次も同じ)
    1)クロールのこと。両手で交互に水をかき、両足を交互に上下に動かして泳ぐ。
    2)歴史:もともと南アメリカやオセアニアではクロールに近い泳ぎをしていて、19世紀インディオが非常に速く泳いでヨーロッパ人を驚かせていた。19世紀後半アーサー・トラジオンが、南アメリカに旅行した際見た原住民の泳ぎにヒントを得て、片方ずつ腕を掻く泳法(左右1回で1ストローク)で、平泳ぎよりも速く泳げることを発見(「トラジオン・ストローク」)。20世紀に入り、オーストラリア原住民がカエル足ではなく、バタ足で泳いでいるのを見たキャビルによってそれが改良され現在に近い泳ぎとなった。
    3)1950年代は、両津では「クロール」でなく「速泳」で通っていたのでなかったか。「1940年(昭和15年)、日本水上競技連盟(現在の日本水泳連盟)が、「平泳ぎや背泳ぎ同様に、クロールも日本語名があるのが望ましい」という声が挙がったことを受けて、『クロールの日本語名』を全国を対象に懸賞として応募を行った。全国からの応募の結果、日本水上競技連盟は294票で1位の票を獲得した『速泳(はやおよぎ)』を選出して命名した」
    バタフライ
    1)両腕は同時に前後に動かし、両足は同時に上下に動かして泳ぐ。
    2)歴史:当初、平泳ぎの泳法規定は「うつぶせで、左右の手足の動きが対称的な泳法」と定められており、1928年アムステルダムオリンピック開催時にドイツの選手が、現在のバタフライに似た手の掻きと平泳ぎの足の掻きを組み合わせた泳法で平泳ぎ競技に出場し銀メダル、その後1936年のベルリンオリンピックで数名の選手がこの泳法により好成績を収めると、1952年ヘルシンキオリンピックの平泳ぎで、ほとんどの選手がバタフライの手の掻きを用いるようになった。そこで国際水泳連盟は、1956年のメルボルンオリンピックから、独立した種目として扱うようになった。が、この時ある選手が膝を痛め平泳ぎの足掻きが出来なくなり
    、両足を上下に動かす現在の足の動き(ドルフィンキック)を考案。
    3)個人的にはいろいろある泳法のうち やるのが最も遅かった。
     a、理由は、見よう見まねで試したが体を浮かせるのが難しく、すぐに疲れ永続きできず面白くなかった。
     b、よくやるようになったのは高校時代から。両腕と両足の動かし方のコツを自転車乗りと同じようにある日突然つかんだことによる。
     c、バタフライをやっていると注目され、私自身注目。泳ぎのステータス。やり方いかんによって、速さにおいてクロールと遜色ないと感じたことあった。
    (3) 潜り
    \り方
      1)海中を潜る遊びといえば、大人の遊びに入るが今日では空気を詰めたタンクを使っての比較的深い海中を遊泳するスクーバダイビングやシュノーケルという水中で呼吸を行える呼吸器(子ども用あり)を使っての水面や浅い海中で遊泳するシュノーケリングが連想されるが、1950年代にはそのようなものはなかった。
     2)スキンダイビング (skin diving) =素潜り(すもぐり)は、太古の時代からの潜水方法でスクーバなどの水中呼吸装置を使用せず、息を止めて水中遊泳する
    ¬簑螳媼院Гい頂△ら水中メガネなるものが現れた?
    1)陸からヤスやタモで獲るのは別として、それまでは息を大きく吸って海中に潜り、裸眼で魚貝や海藻の在りかを突き止め採取。
     a.倭人=日本人の生業については、前号「(08)岩場遊び」に記述。
      西暦200年代後半成立の「東夷伝倭人条」に、「魚やアワビを捕るのを好み、〔水が深い・浅いに関係無く〕皆が潜る(好捕魚鰒、水無深淺、皆沈没取之)」「今、倭の漁師も好んで水にもぐって魚や蛤を捕り、魚やアワビを捕るのを好み、皆が潜る(好捕魚鰒、水無深淺、皆沈没取之)」
     b.海人(あま)について〔ウィキペディア〕

      ァ.「海人は、海に潜って貝類や海藻を採集する漁を(専業あるいは兼業で)職業とする人。古くは漁師全般を指していた」

      ィ.「『万葉集』などで、讃岐国〔香川県〕、伊勢国〔三重県北中部〕、志摩国〔三重県東部〕などで潜水を行う海人の記述が確認できる」「『万葉集』では真珠、鮑などを採取するために潜ることをかずくかづくかずきなどと呼ぶ。現在これらの表現する地方は、伊豆、志摩、及び徳島の一部の海女であり、房総ではもぐる、四国では、むぐる、九州ではすむと呼ぶ」
      ゥ.「現在ダイビング器材を使用せずに素潜りで伝統的に海女漁が行われているのは、世界中で日本と韓国のみ」
     c.関連:佐渡相川の「海士町」は、江戸初期人口急増の鉱山都市の区画整理で漁師が集まった漁師町。
      ァ.金銀産出が低下し、中国の貿易赤字=金銀流出を抑えるため、幕府は金銀に替わる銅の増産と共にナマコの生産を全国的に奨励・義務づけた。
      ィ.佐渡もナマコ生産に寄与。
         ゥ.当時のナマコ採りは、放射状に突き出たカギ針〔タコ掛け〕やタモ網もあったであろうが、多くは潜水によって、しかも裸眼でであろう。
      d.磯〔=水中〕メガネ(ウィキペディア)

     顱棒水用メガネは、「明治20年〔1887年〕ごろから使われ始める

     髻法それまでは、「スメ(素目)(メクラサグリという)で海に潜り、春から夏場まで潜ると目が真っ赤に充血し、腫れ上がることも頻繁にあった。スメモグリの時期になると、手で海草を掻き分けて、岩の裏や割れ目を探るためにウツボに噛まれて手がささくれるなどの危険が多かった」

     鵝法海女にとって磯メガネは最大の技術革新でもあり、発明された当時は海が見え過ぎて、獲物を多く獲り過ぎた為に使用禁止にした漁村もいくらかあった」

    1950年代両津での潜り遊び

    1)泳ぐ場合は特に潜らなくとも水中メガネを着けるのが常識であった。海に入る前に手・足・首の関節を含む柔軟体操を行い、両耳に唾を付けた。耳栓も後で出回ったように思うが、利用した覚えはない。唾を付けると水が耳に入りにくいと教えられた。今の時代そんなことは迷信とされているが、耳に水が入った時もっとよく唾を付けて耳の中に膜のようなものを作りよくしたような経験がある。
    2)水中メガネは、右と左の枠それぞれが紐で結ばれたものが当初は圧倒的に多かったが、その後左右一体枠の広角な水中メガネが現れた。
    3)経験としては、
     a.どれだけ潜っていられるか競争したり、
     b.どれだけ潜って遠くまでいけるか競争したり、
     c.サザエやウニやアワビを見つけるため探したり(岩と岩の隙間、海草の陰等)、
     d.水中メガネをつけずに海中で目を開けて海底の様子を見ようとしたり(目が痛く、続かない)、
     e.どこまで深く潜れるか試したり(水圧で頭や体が圧迫)、
     した。
    【備考:個人としての海遊び場の変化】
     1)旭町の浜辺沖〜防砂堤付近:小6の頃まで
      小3か4の夏旭町の浜の海で泳いで遊んでいた時、潜って浮び上った時心臓に近いところに腹が裂けているのにビックリ。痛みは全然ない。そういえば潜って進んでいる時その部分何かにが触った感じはした。人はカマイタチだと言った。早速、夷新の医院へ行き、傷口を縫ってもらった。
      ↓
     2)湊・城ノ腰海岸・築港(防波堤):中学時代
      旭町の浦が砂浜でなくなり且つ防砂堤が撤去されたためだろう。
       海水浴は湊、釣りなどは築港。
      ↓
     3)住吉海岸・北平沢海岸:高校・大学1.2年時代。釣りはしなくなり、水泳が専ら。
      a.高1の時全校の海水浴行事の一貫として住吉海岸へ行って泳いだ。高校からは湊の方が遥かに近いが砂浜でなく、且つ狭く数百人が泳げる場所でないため。なお、1度あったきりで高校行事としての海水浴はなくなったと思う。
      b.北平沢は同級生の家の前が砂浜。水泳後は屋根に設置された太陽熱温水器によるシャワー(本来は風呂の湯が目的)を浴びた。住んでいた夷築地から歩いて30分くらいの距離。
     (備考は、以上)

    3.まとめ
     海が近くにある両津の子どもたちにとって、夏は夏休みもあり遊ぶのに最高の季節であった。
     昼飯時に家に帰るだけで一日中海で遊んだというのは、何も珍しいことでなかった。それだけ海での遊びは、豊富にあり楽しんだということである。
      以上  2017.08.21

    歴史スポット71:1950年代両津子どもの遊び(08)岩場遊び

     こんにちは!自在業の櫻井です。
    1.はじめに

     「砂浜遊び」の次に来るものとして「岩場遊び」は、個人として必然。旭町の家の裏は砂浜で北へはずっと続くが、南は2〜3軒あってそこで砂浜が切れ、海が迫る細い道を通り抜けると大きな岩石から成る防砂堤があった。家の裏からで近くにあるから見えた。防砂堤の先端は海で 築港(防波堤)の先端に向かっていた。
      「砂場遊び」同様に防砂堤の「岩場遊び」も泳げなくても、泳がなくても楽しめる。防砂堤は、第ニの遊び場だったと言える。
     小1(1953年)の頃だろう。防砂堤傍の砂浜で大きなタコが打ち上げられ、大勢の子どもが見ている中でタコに向け盛んに砂を投げつけていた大人がいた。タコ壺には到底入らない大きさであった。
     また、タコといえば、我が家の裏の浜から防砂堤へ行く間の海岸でタコ釣りをしている人がいた。タコは、前日餌の入ったタコ壺を海底に沈め、翌日上げて捕る方法が一般的だが、竹竿の先に太い数本からなる針をつけ、周辺にタコを刺激する紅白の布切れを付けて海中に入れ、ヒラヒラさせながらタコをおびき寄せようとした。確かに海中で泳いでいるタコを見たが、タコは誘いに乗らず逃げてしまった。なお、タコに針を見られるとまずいと聞かされたのは、覚えている。はっきりとは思い出せないが、自らも試みたことあったに相違ない。
     さて、岩場遊びといっても旭町に近い防砂堤周辺でのことで(「磯遊び」とも言うが、ここは「岩」を強調)、いろいろあるが、分類すれば、「海中・海底見物」「生き物との出合い」「生き物採取」の3つになる。
     当時の資料がほとんどなく且つ個々の呼び名・記憶もはっきりしてない中でどのようにまとめられるか、が問題であった。

    2、内容
    ヾ箴譴任粒っ罅Τつ豸物
    1)防砂堤は、今となっては記憶が定かでなく自信を持って言えないが、叩き台としてあえて記せば、大きな岩が南北に3〜4個並び、それが沖(東にある)の築港に向け言わば3〜4列縦隊で70〜80m延びていた。徐々に延長し最終的には繋がった(築港までの海の距離は、昭和20〜30年代30〜20mあった。陸と築港の距離100m(いずれも推測)が前提)。
    2)防砂堤の南側は海底は比較的浅く砂地、北側は深く海底は瓦礫で青白かった。東の築港へも海底は瓦礫・岩で深く、スガモなどが繁っていたように思う。
     【追記:08月05日】
     防砂堤・防波堤の写真(資料)不足を痛感し「両津港 画像」を検索していると思わぬ画像に出合った。事実が明確になり発見もあり、己の記憶の確かさか判定できた。ここに至って 見る・見ないとでは雲泥の相違ありを痛感。
    1952年(昭和27)10月30日撮影      1955年(昭和30)1月撮影
     方位:写真上は「北」、下は「南」      方位:写真上は「南」、下は「北」
    DSC09899両津防波堤と防砂堤2
    (山田昭夫氏写真提供:再掲)      (第九管区海上保安本部新潟航空基地)
     《1955年写真の1952年との違い》
     1.北の防波堤(当初は防砂堤だったであろうが、旭町時代は直角に向きを変え防波堤になっていたので「築港」とも呼んでいた)の先端が、かなり離れていたものが、沖の防波堤(「沖の築港」)の先端に近付いている。
     2.海だったところに砂浜が北の防砂堤の先の方へ拡大。
     3.広がった砂浜に何艘かのテンゲ(船)などが見える。なお、1月の撮影のためだろうがスルメ(イカ)・カタセ(スケトウダラ)の天日干しの様子はない。
     1956年(昭和31)10月撮影(第九管区海上保安本部新潟航空基地)         
    両津防波堤と防砂堤3両津防波堤と防砂堤
     《1956年写真の着眼》
     (左写真)
     1.北の築港と沖の築港は繋がった(右写真でもわかる)。
     2.防砂堤は沖の築港から遠ざかった(同上)。(次第に近づいたという記憶は間違い)。
     3.写真の縦・横真ん中にある白い大きな建物は、両津中学校。拡大で、校舎・体育館・グラウンドが見える。
     4.加茂湖湖畔に船小屋のようなものがいくつか見える。
     5.写真左下寄りに御番所の松(村雨(むらさめ)の松)・白いコンクリート造の両津郵便局・平屋の旧税関・道路向かいに両津町役場が見える。樹齢300年とされる松は、その頃はまだ青々としていた。税関は業務を行っていた。
      08年6月16日号「佐渡の生物3:村雨の松」より史跡「夷港税関跡」案内
     「明治政府は、明治元年(1868年)夷港(両津港)を開港し、翌2年沿海貿易のため設けられた番所の跡に税関業務を行う新潟運上所両津出張所を設置しました。同運上所は翌明治3年から夷税関と称するようになりました。その後たびたび名前が変わりましたが、昭和42年東京税関の両津監視署を最後に廃止されるまでの長い間人々から夷港税関として親しまれてきました。平成元年五月 東京税関」
      現在は、細かく言えば国土交通省 海上保安庁 第九管区〔新潟・富山・石川の3県〕海上保安本部 新潟海上保安部 佐渡海上保安署となり、海の安全を守っている。
       《参考》海上保安庁の業務
     「警備救難業務」:巡視船艇や航空機等による領海警備、内偵捜査、陸上捜査を含む麻薬・拳銃などの密輸の取締まりや、密航・密漁等の取締まり、不審船・海賊対策、航路哨戒、海難事故の救助、船舶火災・石油流出事故等への対応、工場排水を含む海洋汚染の監視取締りなど。
     「水路業務」:海象観測・海洋調査、潮流・流氷などの海洋情報の管理・提供、水路通報・航行警報による工事・自衛隊や米軍の演習・障害物などの情報提供など。
     「交通業務」:巡視艇、灯台見回り船や航行援助センター等で航路の安全確保や灯台や航路標識などの維持管理、無線電話・テレフォンサービス・FAXなどでの気象通報。
     「その他の業務」:離島や洋上の漁船などからの急患輸送、情勢不安地域での邦人救出、北方領土周辺などでの日本漁船の拿捕防止、大規模イベント開催時やゴールデンウィーク、年末年始などのフェリーへの警乗、ボート天国・各種講習会での安全指導など。
      (参考は以上)
     (右写真)
     1.陸続きだった防砂堤は以前に比べ短くなりて陸と離れ、長靴でも渡れないように変化。
     2.防砂堤の陸への延長は、そのまま海岸線で砂浜は僅かのすペースしかない。
      a.タンクのようなものが見える。これは、思い出した。
      b.白く一定高さで横長の建物らしきものが見える。まさか、魚箱が積んであるものではないと思うが、不明物体。
      c.防砂堤のあった海岸は、造成で敷地拡大。
      ァ.中学時代(1959〜1961年)は、ボールかソフトボールか軟式野球を遊び・練習、町内対抗・非公式試合を含めそこでやった。期末テスト期間中本来は遊んではならないのに、承知でやったことは覚えている。
      ィ.その後両津魚市場等の水産施設が出来た。以下は魚市場周辺写真。
     1971年(昭和46年)頃                1975〜84年前半(昭和50年代)
      (「佐渡の昭和」)                                (「佐渡の昭和」)   
    両津魚市場S46頃両津魚市場550年代
       《旧魚市場周辺写真の着眼》
      ァ.右写真(昭和50年代)86の左上に見える鉄筋コンクリート」造の建物が、1972年頃できた佐渡水産会館。かってはその辺りから防砂堤が防波堤に向かって延びていた。
      ィ.右写真で、佐渡水産会館・旧魚市場・数棟の倉庫・駐車場を含む敷地は、1957、58年頃までは海であった。
      ゥ.その後、干拓によって砂地となり、土で地盤が固められやがて建物ができるまで子どもの遊び場となった。
     (「1956年写真の着眼(右写真)2」に続く)
     3.海岸通りの岸壁に沿って三角屋根の長い両津魚市場(昭和12年加茂湖から移転。前身は夷魚市場)が見える。両隣に漁船がそれぞれ複数碇泊。
     4.佐渡汽船の乗降口のある両津埠頭
      a.北側岸壁には貨物船が碇泊。小4か5(1956,7年)の頃築地町内の同年代の子ども有志が集まって高橋信一先生引率の下で船等を写生。
      b.船がいない南側岸壁は、佐渡汽船の発着所。
      c.南側岸壁先のすぐ沖に小さい橋が2本架かる人口島があったとは、知らなかった。
      d.写真では建物裏のため分かりずらいが、拡大で埠頭南側・道路を挟んだ向かいに尖がった三角屋根の建物が旧佐渡汽船本社。2階に大きな大きな窓ガラスが3つ並んで見える。昭和初期の建物で、当時としては非常にモダンな洋風建築を採り入れたとされる。
     5.埠頭の出入口にある高くて白い構築物は広告塔を兼ね、大きな字で「佐渡観光案内所 新潟交通株式会社」と書かれていた。周辺の空地は観光バスの待機場。テープレコーダーのない時代、船が到着し乗客が通るのに合わせ女性職員がマイクで、「皆様ようこそ佐渡へおいでくださいました」と案内放送行っていた。
     参考写真:2015年の両津港(新潟県HP「交通、運輸」より)
     両津港全景 アイポートあり
     《着眼》
        a.旭町の位置は、拡大で白いタンクが数基みえる島の向かい側、陸続き地点から南(写真では右)へ海岸線で概ね2/3の区域。道路をはさんで白い建物が佐渡水産会館。その傍の海岸に沿って建っている旧両津魚市場建物跡は白く光ってよく見えない。佐渡水産会館に近い海に、防砂堤があった。
      b.2015年開業の「あいぽーと佐渡」(佐渡インフォメーションセンター)が見える。
      c.両津港南埠頭には、カーフェリーが接岸しているのが見える。船首部分が湾曲しているから、やや尖ったおけさ丸ではなく、ときわ丸だろう。
      17年8月新潟〜両津就航カーフェリー 
               おけさ丸  ときわ丸
       総トン数  :5,862トン  5,380トン 
       全長    :  135m    125m
       最大幅   :  21m     21.8m
       旅客定員  :1,705人  1,500人
       乗用車積載: 290台    168台
       最大速力 : 23.4ノット   19.1ノット
       建造年月 :1993年4月 2014年3月
      d.写真拡大でカーフェリーの右方向・緑で囲まれた一帯が「みなと公園」、その中の白い長方形の建物が「おんでこドーム」。
     (追記は、以上)
    3)海中・海底見物は、なぜ遊びになるか。
     a.海中・海底は、そこで生活できずほどんど見たこともないから未知の世界。知らない世界を自分の意志で知りたい・見たい・経験したい好奇心は、人間の本性。
     ァ.07年08月15日号「佐渡の風景24:真野新町海水浴場」より
      「5年前〔2002年2度目となる〕ハワイ旅行したとき、オプション・ツアーで潜水艦で海中見物をした。そのとき、飛行機2機が海底に沈んでいる辺りを潜水艦が回った。海藻が繁茂し、いろいろな魚が泳いでいるのを目のあたりにした。機体の狭い箇所は、小さな魚の隠れ場所となる。
     最初聞いた時は飛行機はなぜ沈んだのか疑問であったが、これは観光資源開発の一環として古くなった飛行機を沈めたものであることがわかった。
     その時思い起こしたのは、同じく小さい時であったが 旭町近くの沖に「らん丸」という木造船が沈んでいた。海岸からはそれほど遠くはなく、子どもでも泳いでいける距離。なぜ、そうした舟があったのか理由は知らないが、海藻や魚の棲み家になっていたという記憶がある」
      その観光用潜水艦について、「ワイキキ沖に沈められた船や飛行機は、海の生き物達の住処となり、これまで見たことがないような驚きと感動に満ちたハワイの海の世界が広がります」と今日コマース。
     ィ.記事にしなかったが、08年8月佐渡の達者で海中透視船に乗り海の中で泳いでいる魚や海底の様子を見た。
     ゥ.潜水艦も海中透視船にも料金払ったのは当然で、普通では見れない深い海底や魚の泳ぐ様子が身近に堪能できた。だが、遊びという面では お金を払って、所定コースを所定時間内で回って、遊んだ・遊ばされたということで、主体・自立で遊んだわけでない。

     b.海中・海底見物で稼ぎ、それで生計を立てようとするわけではない。子どもの場合、海中・海底見物の記入が夏休みの宿題とされれば、もはや遊びといえなくなるだろう。言うなれば、課せられての義務はなく、やってもやらなくても進学・出世・生活に影響しないことが遊びの本領。
     c.「海中・海底見物」は、楽しいこと・楽しめることが固定化・標準化できないほど数多く、その人なりの発見・初体験する可能性は多い。
     意図されて作られた楽しさでなく、子どもの時以来の本来の楽しさを味わった例は、私事ながら次のとおり。そこには発見・驚き・感動があった。
     ァ.07年1月2月朝7時過ぎ両津の佐渡魚市場の岸壁で防波堤にはさまれた海を見ているとマンボウに出遭った。関係者は、最初サメでないかと言ったが、マンボウが有力。私にとって画期的出来事(同1月4日号「佐渡の風景8:魚市場」。海中を泳いでいる写真掲載)
     顱棒堋覇以亜門・条鰭綱・フグ目・マンボウ科・マンボウ属・マンボウ
     髻マンボウはクラゲや動物プランクトンを食べるということは知られているが、胃内容物からは深海性のイカやエビなどの残骸も発見。「これまでマンボウは海中を受動的に漂っているだけと考えられることが多かったが、これらの餌を捕食するにはある程度の遊泳力が必要となる
      鵝縫泪鵐椒Δ蓮△そらく半世紀前は南方の魚と思っていたが、おそらく両津の漁業者であろう、「これはマンボウだ。刺し身にすると美味しい」の言は、珍しくもない魚であることの証左。
     ィ.海中でないが、加茂湖の例。
      号「佐渡の生物7:加茂湖の生態系」 :ヒトデ等との出遭い
      
    岩場での生き物との出合い
    1)節足動物門
       軟甲綱・十脚目(エビ目)・エビ亜目・カニ下目・イワガ二科・イワガ二
        〃  ・     〃     ・  〃  ・ヤドカリ上科・ヤドカリ
       甲殻綱・ワラジムシ目・フナムシ属・フナムシ
       顎脚綱・鞘甲亜綱(フジツボ亜綱)・フジツボ亜目・フジツボ
         〃 ・      〃          ・ミョウガガイ亜目・カメノテ属・カメノテ
    2)刺胞動物門
       花虫綱・六放サンゴ亜綱・イソギンチャク目・イソギンチャク
           〃  ・     〃     ・イシサンゴ目・キサンゴ科・キサンゴ
       ヒドロ虫綱・十文字クラゲ綱・箱虫綱・鉢虫綱・クラゲ
    3)棘皮動物門
        ウニ綱・ウニ
        ヒトデ綱・ヒトデ
    4)軟体動物門
        腹足綱・古腹足目・リュウテン科・サザエ亜属・サザエ
          〃 ・原始腹足目・ミミガイ科・アワビ属・アワビ
          〃 ・ 異鰓上目・ウミウシ
    5)魚類
      脊椎動物亜門 から四肢動物を除外した動物群。以下は、その例。
     a.イシダイ(佐渡では「カタベ」又は「シマダイ」)
     ァ.脊索動物門・条鰭綱・棘鰭上目 ・スズキ目・イシダイ科・イシダイ属・イシダイ
       
    ィ.暖流に面した浅い海の岩礁域に生息。成魚は海底の岩陰や洞窟に潜んだり、海底付近を泳ぎ回る。食性は肉食性で、甲殻類、貝類、ウニ類などの底生生物を捕食する。もっと具体的記述は、イシダイは「サザエやウニ、フジツボなどを食べる」
     ゥ.防砂堤では、幼魚が数匹固まって泳ぐのが見られた。白い肌に7本の黒い縞が鮮やか。
     b.サヨリ
     ァ.脊索動物門・条鰭綱・ダツ目トビウオ上科サヨリ属 ・サヨリ
     
    ィ.海面上を群れをなして泳ぎ、動物プランクトンを捕食したり、浮遊する海藻の断片を摂食する。 

     ゥ.防砂堤からも海面すれすれに泳ぐのでよく見つけられた。
    c.カレイ
     ァ.索動物門・魚上綱・硬骨魚綱・カレイ目 ・カレイ科・カレイ
     ィ.体は平たく、両目は主に体の右側の面に集まっている。両目のある側を上にして海底に横向きになり、砂や泥に潜るなどして潜む。目のある側は黒褐色・褐色。特有の斑点を持つものもある。この体色は体表にたくさん散らばっている色素細胞の大きさを変えることにより、周囲の環境に合わせた保護色となる。両目のない側は白色。主に肉食性で、小魚や海底の無脊椎動物を食べるが。
     ゥ.海底の砂地を岩からじっと覗いているとカレイが潜んでいるとわかるときがあった。見つけられたと気づいたのか、海底に沿って遠くへひらひら泳ぎで移動し砂の中に潜るように着地。
     d.アイナメ(佐渡では「アブラメ」「シジュウ」)

     ァ.脊索動物門・条鰭綱・カサゴ目・アイナメ亜目・アイナメ科・アイナメ属
     ィ.昼行性で、岩礁帯やテトラポッド、防波堤などの陰につき、小魚や甲殻類、多毛類〔例:ゴカイ、イバラカンザシ〕など捕食。 

     ゥ.「アブラメ」といわれてもどういう魚か忘れたが、名前はしっかりと覚えている。当時の感覚では、高級魚にランクされ、どこでも居て釣れる魚とは格が違った。
     e.オニオコゼ(一般に「オコゼ」で通用)
     ァ.脊索動物門・条鰭綱・新鰭亜綱・棘鰭上目・カサゴ目・フサカサゴ科・オニオコゼ属
     ィ.関東以南の太平洋と新潟県以南の日本海、および東シナ海に分布。浅海性で、生息範囲は沿岸から水深200mまで。通常はあまり泳ぎ回ることなく海底に潜み、砂や石に擬態食性肉食性で、小魚などを捕食。背鰭の棘条に毒腺を備え、刺されると激しく痛む。
       ゥ.オコゼについては、子どもの頃怖い魚として話しの種になった。
      顱望3か4年の頃防砂堤防堤でどんな魚がいるかを独りで探していると、小岩と小岩の狭い間の水面から浅い斜面に見たこともない小さいが鮮やかな赤い皮膚のオコゼのような魚がじっとしているのに遭遇。一瞬、ギョッとしたのを覚えている。オコゼ同じく毒もったミノカサゴの幼魚かと思った。
      髻忘甘呂任蓮▲潺離サゴの話は聞いた事なかったが、棲息はしていただろう。
     
     〔ミノカサゴ:
       ァ)脊索動物門・条鰭綱・フサカサゴ科・ミノカサゴ亜科・ミノカサゴ属
       ィ)日本では北海道の南部以南の沿岸部に生息する〔「北海道〜九州南岸の日本海・東シナ海沿岸」など(「市場魚介類図鑑」)〕。夜行性で、昼間は珊瑚や岩場の影に潜んでいる。
       
    ゥ)背鰭を中心に毒を持つ。腹鰭の間にある剣にも注意。
     f.ハゼ

     ァ.脊索動物門・条鰭綱・スズキ目・ハゼ亜目
     
    ィ.世界の淡水域、汽水域、浅い海水域等あらゆる環境に生息し、もっとも繁栄している魚のひとつ。都市部の河川や海岸にも多く居て、多くの人々にとって身近な魚。発見されている種類数は、現在2100種類を超えるという(ウィキペディア)。

     ・675年に天武天皇の詔勅(しょうちょく:天皇の命令)が発せられた。内容は、4月1日から9月30日まで、稚魚の保護と牛・馬・犬・猿・鶏(にわとり)の食用を禁止するもの

     ・その時以来、近世に至るまで食べない習慣があった。なお食用の鳥としては、野鳥に限られていた。雁(かり)・鴨(かも)・雉(きじ)・鷺(さぎ)など。
     (佐渡を記した人23:川路聖謨(5)食文化
     【奈良時代(708〜710)前の飛鳥時代には既に、牛・馬・犬・猿・鶏の食用制限だけでなく稚魚の保護を詔勅せざるを得ないところまで 乱獲競争が社会問題となったことを意味】

     鵝縫ワカマス:淡水魚。アムール川水系を中心にサハリンからバイカル湖にかけて住む「アムールパイク」という種がある。

     堯縫Ε哀ぁД灰ぬ椒灰げ淵Ε哀ぐ_覆吠類される淡水魚。一生を河川で過ごす淡水型と一旦海に出る降海型がいる。降海型は北へ行くほどその比率が増す。
     ゥ.怪魚「イトウ」:「11月結氷が始まり季節が変わり水温が下がるにつれ耐えられる水温域を求めてときには千キロ以上も移動し厳冬を耐え忍び草原が花の群落で溢れる6月頃には生まれ育った川を溯って来ます。若いイトウは結氷凍結を逃れ、餌と最適な水温を求めて移動しますが10年を超える大物はあまり移動をしないで深みにじっと潜んで鱒などを捕食しながら春を待ちます。平均の寿命は5〜8年、体長は30−100センチにもなります。これが大物クラスですが記録では2メートルにもなるそうでネズミ、蛇、信じられないが中には鋭い歯と尾鰭で浮遊する小鴨や渡河中の子羊まで餌食にすると聞いています」
      《着眼》
      a)モンゴルにいる回遊魚は、カラフトマス。ウグイも降海型だろう。
        アムール川河口を出入り、アムール川を上流〜下流を行き来する。
         ァ)オノン川は、モンゴル国ヘンティー山脈のブルカン山を源流とするアムール川の支流。山脈の北東を流れ、ロシア国境を越えてシベリアザバイカリエ地方へ入り、1,032kmを流れた後にシルカ川に合流。
      ィ)アムール川は
    モンゴル高原東部のロシア中国との国境にあるシルカ川アルグン川合流点から生じ、ロシアのハバロフスク付近で北東に流れを変えロシア領内に入り、オホーツク海アムール・リマンに注ぐ。リマンとは川の河口を指し、リマン海流日本海を流れる海流
      ゥ)アムール川は、上流部の支流を含めた全長4,368kmは世界8位〔日本一長い信濃川は367km〕。

      b)モンゴル人は魚を「神の使い」と崇めているから魚は食べないとの記述をどこかで見たが、それも一部正しいだろう。最初の頃モンゴルから相撲取りになるために何も知らない日本に来て相撲部屋に入って魚の入ったチャンコ鍋を食べざるを得ず悔しい思いをしたと語った力士がいた。
      〔ウィキペディアによれば、「魚は宗教的に禁忌とする地域もあるが、モンゴル国北部では燻製にする」とある〕
      ァ)日本では、基本的に牛や馬は食べなかった。
      顱傍蹐和臚如来の使いという信仰説がある。佐渡では、牛が大日如来を背負って両尾(もろお)という海岸に着いたという伝説があり、これが佐渡牛の起源説になっている。
       (佐渡の神社20:大日堂」)
      髻貿呂蓮⊃税呂箸いμ召あるように神様や天皇が乗るもので「絵馬」があるように幸運を運んでくる縁起物としてあり、食べるのはもっての外とされた。 
      鵝傍介類でもある種のものは食べない集落があった。次の例も伝説・信仰に関係。
       「羽黒神社の氏子は、アワビを食べないという。それは、羽黒の分霊が出羽から佐渡に遷る際アワビに乗って来られたことによる(「佐渡風土記」)。あるいは、途中で船に穴があいたがそこにアワビが貼りつき穴をふさいで助けたためとされる」
       (
      ィ)実際は背に腹はかえられず、こっそり食べていたというのが本当だろう。
       1つは、食べ物不足のまま飢え死にするわけにはいかないから
       1つは、牛馬についての史料はないが、美味しいから
      (フグは江戸幕府は武士に禁じたが、フグ大好き人間の多かった加賀藩では江戸の藩邸でも故郷からこっそり取り寄せ食べた形跡がある。
     超真面目人間の長州萩藩の吉田松陰は食べて万一当たって死んだ場合、不名誉が永遠に残ることを避け、食べなかった。松陰を師とした伊藤博文は、フグの調理の安全性確保の見返りに規制緩和・許可制とし、日本海の萩沖で獲れるフグを下関のフグとして暗にPR、地域経済発展に貢献。日本初代の内閣総理大臣に就任。今日でもフグといえば山口県、下関が名産イメージがある。
       」)
      c)魚にはいろいろある。モンゴルにも生息するイトウ(𩹷=魚偏に鬼)は、体長が1m 以上になり、カエルやヘビ、ネズミ、水鳥のヒナ等を食べることもある。
     b.平成 22 年度自由貿易協定等情報調査分析検討事業「モンゴルにおける農林水産業と農林水産政策等の調査・分析」(「農林水産省」HP)
     ァ.モンゴルには水産業と言えるものはほとんどなく、いくつかの湖や河川で食用や観光用として若干の漁業が行われているのみ。
     顱房舁廚糞場は、「西部のウーレグ湖、アチト湖、トルボ湖、バヤン湖及び東部のブイル湖」、
     髻房腓糞は、「スズキ、鯉、フナ、マス、ナマズ等」
     ィ.漁獲規制は、「各県・湖では自然・観光省により漁獲の上限が定められている」
     ゥ.モンゴルには水産業と呼べるようなものはほとんどなく、湖や川で漁獲された魚がそのまま自然に冷凍されて市場やスーパーで売られている程度で、モンゴル経済における重要性も低い。
     c.モンゴル出身オユンさんの話(モンゴルで生まれ育ち、来日し新潟大学卒・現在新潟市内の会社に正社員として勤務)
     この4月20日(木)早川氏と定例懇親会に同席。その前の2月は、ブログテーマ「歴史スポット62:文永の役と日蓮」(公開しているが8月12日現在工事中)に取り組み中で、モンゴルについての関心が高まっていた。氏のグループ会社に勤めている彼女(前に会社グループのイベント見学に行った際会っている)に休憩時間中に会社訪問し2、3質問したい旨を述べると、後日メールが入り次回はオユンさんも同席してやりましょうということになった。
     懇親会当日のこと。
    モンゴル語3モンゴル1
     会う前に名前を忘れないよう      オユンさん自筆による名前
    バスの中で試しにキリル文字で     左が父の名(日本の「姓」に当たる)
    手帳に書いた「オユン」           右が本人の名「オユン」 
     モンゴル語は、ロシア語と同じくキリル文字(=ロシア文字)を用い、アルファベットと同じようにローマ字読みすることは、近年何かで知っていた。「ユ」をどう表現するか一瞬戸惑ったが「Ю」が浮び「」も続けたのは、自分にとって大正解。考えて見れば、第二外国語が終わった大学3年以降50年「Ю」と接したことなかった。10年前小樽港でロシア文字に接したくらいのもので、その時は「鳥海丸 酒田市」とあったこともあり鳥海山は秋田・山形に跨がる山であることから「チヨウカイ マル」と読めた。
      (06年7月14日号「北海道と佐渡(8):小樽(2)」)
     ァ.モンゴルに魚がいることは知っていたが、ロシアや〔北〕朝鮮からも〔回遊魚が〕来ることに驚いた。
     ィ.モンゴルの歴史記事にはモンゴル草原でなくモンゴル高原と出てくるが、「高原」はモンゴル民族の生活史が表現できてなく、「草原」が草を求めて羊と共に移動する遊牧民の姿をずばり表現する旨を話すと、「高原」より「草原」の方が実際上正しいと同調。〔モンゴル史の学者が「高原」という呼び名について疑問を持たないとしたら不思議〕
     ゥ.モンゴルは末子相続(相続の優先順位は長男でなく末子)と歴史書にあったが現在でもそうかについて、今は違うとと。
    岩場は遊びの宝庫。旭町近くの防砂提は、その例。
    1)論拠
     a.一定場所で海辺の景色、波の変化、個々の岩の形、海中・海底の様子を楽しめる。
     b.一定場所でいろいろな生き物と出合える。
     c.一定場所で遊び方はいろいろある。
    2)「いろいろな生き物と出合える」の突っ込み
     a.個々の岩場には、それぞれ固有の生態系がある。生命の起源は、海中。
     b.「海と船なるほど豆辞典」(日本海事広報協会))とウィキペディアを参考にして作った
          生態系と食物連鎖の連関図
                    落葉・糞・死骸(有機肥料)
                          ↾↓
            大気中へ酸素放出➡植物➡動物
                          ↾
          (光合成=糖類+酸素生産)
    海中:植物プランクトン➡海藻類
          (光合成=糖類+酸素生産)
         ↾       ↓                  
         ↾  海中へ酸素放出➡動物プランクトン➡小魚➡大魚  
         ↾                              ↓
      〃 増殖  ← 栄養塩 ← (海洋バクテリア:分解) ← 糞・死骸
       (植物プランクトン栄養源) 
    3)関連事例
     a.子どもは隠し絵の絵本が大好き。
     b.本の中にいろいろな人物や動物などがいて、思わぬところからその挿絵が飛び出してくるからだろう。
     c.いなくなった挿絵を捜すのも面白さの一つで、また全て知っているわけでなく新発見もあるかもしれない。
     d.この8月に入り娘夫婦と3歳半になる孫が新潟の自宅に来たので、何か遊び道具と思いデパートへ行っていろいろ探して買ったのが、隠し絵の絵本。
       これは、好評だったようだ。2歳頃から私を意識しつつも敬遠したが、プレゼント翌朝会った時無愛想な様子でなかったのでジャンケンと言ってチョキを出すと園で知ったのかこれに応じ、一緒にジャンケンほい・アイコデショーした。家に来て4日目の出来事、孫との遊びらしい最初の遊びは、ジャンケンであった。
     以上  2017.08.14










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