佐渡広場

佐渡をコンセプトとし、貴重で、面白い、懐かしい、元気が湧く情報集になることを目指しています。

佐度の画廊45:園児の雛人形

 こんにちは!自在業の櫻井です。
 3月25日夷本町商店街の「ふれあいギャラリー」に展示されている両津地区の保育園児による雛人形を観に行った。なお、翌日は午後から椎崎温泉のホテルで両津市立南中学校第二回卒業同期会「古稀を祝う会」があり、佐渡で前泊するのに丁度よかった。
    佐渡両津ひなまつり
 開催期間:平成29年3月1日(水)〜3月26日(日)
 展示会場:佐渡市両津地区
 公開時間:10:00〜17:00
 入場料:無料(一部イベントは要参加費)
 お問合せ:佐渡観光協会 両津港案内所(TEL:0259-23-3300)
         
<関連イベント>
   ■つるしびな展示
 開催期間:平成29年3月1日(水)〜3月26日(日) 9:30〜17:00(最終日は16:00まで)
 展示会場:あいぽーと佐渡
    ■ おひなさまの竹かざり展示
 開催期間:平成29年3月1日(水)〜3月26日(日)
 展示会場:両津夷商店街
    ■貝殻びな製作体験教室
 日時:平成29年3月1日(水)〜26日(日)の土・日曜 9:30〜16:00(最終日は15:00まで)
 会場:あいぽーと佐渡
 参加費:500円(先着100名)
    ■つるしびな製作体験教室
 日時:平成29年3月12日(日) 13:00〜16:00
 会場:あいぽーと佐渡
 参加費:2,500円(予約制。定員10名)
  ※つるしびな展示会場にて事前予約が必要。
   開催:3月1日(水)〜26日(日)
  会場:両津夷周辺店舗、旅館、アイポート佐渡
 昨年は行かなかったが、「ふれあいギャラリー」に入ってるすぐに気付いたのは、いつもあるはずの私の母校ならぬ母園である私立海星幼稚園の園児の作品がなく、あったのは夷保育園と湊保育園のみ。後日電話すると、同園では春休みに(早く)入るので22日に撤収したとのこと。そういえば、これまでは3月早々に行ったものだ。
 なお、園児の雛人形と言っても 10年3月最初に観た時 園や年代によって異なるがパターン化された台紙に目や鼻や口などを描き入れただけのものでワンパターンで面白味なく、記事には値しないと思ってやめたが、翌日気を取り直し再び行って写真に収めた。そして記事にすべく書き込みしているといろいろ発見あって、これは面白いということになった。同年10月に海星幼稚園作品展があることを知って観に行った。
 園児の絵は、非常に面白い・大人では到底描けない発想・ユニークさがあると思った。その時の記事のまとめに、次のように記している。
 「歴史に残る有名画家や著名画家の作品展があれば、何としても見に行きたいという趣味は、はじめから無い。ところが、佐渡で園児の絵画展があることを知れば、何よりも優先して見に行きたくなるのは間違いない」
 (10年11月19日号「佐渡の画廊24:園児の絵」)
 そのことは、今でも変わっていない。一昨年11月初め海星幼稚園に問い合わせたことあったが、すでに終わっていた。開催は10月下旬のようだ。
    《ひなまつりに関する過去記事一覧》
  07年02月26日号「ひなまつりイベント」
  10年03月11日号「佐渡の画廊16:園児の作った雛人形」
  10年11月19日号「佐渡の画廊24:園児の絵」
  13年03月16日号「佐渡の画廊32:雛人形」
  15年03月26日号「佐渡の画廊39:園児の描いた雛人形」
 さて、園児の雛人形について今回どんな新たな切り口での分析と発見ができるか!?
  
1.雛人形
_菫A
ひな2
1)男雛(お内裏様)・女雛(お雛様)一対の一段飾り(親王飾り・平飾りともいう)。一般的に男雛が向かって左に飾るのが関西、右に飾るのが関東であるから、佐渡は関西流儀。
2)それぞれの特徴は、
 上部左は、鼻と口が画像からは有るのか無いのかはっきりしないが、絵になっている。目は青の丸とすれば睫毛(まつげ)がある。それは、他にない。
 真ん中は、両方とも舌を出している。特に女雛の目がユニーク。
  上部右は、まつげ。
 下部は、大きな赤い頬っぺた
画像B
ひな1
1)目の描き方がいろいろ。
 ギザギザ、ニコニコ目、丸い目、驚き目、閉じ目、四角い目、菱形の目
2)口もいろいろ。
 口無し、舌出し、双方四角で大きな口
2菫C
ひな3
1)ここでの場合、いわば2段飾りのひな人形。
 a.一般にひな壇は、最上段に内裏びなの男雛(お殿さま)とお雛様の女雛(お姫さま)が飾られ、二段目に、「三人官女」が並ぶ。
   b.三人官女は、それぞれお酒を次ぐ道具を手にしているが、ここでは何も手にしていない。
2)特徴
 a、上段「貴人」
 ア、向かって左:それぞれ口が大きく描かれ、エクボがある。
 イ、向かって右:女雛が男雛に寄り添っている。他にない。
 b、下段「三人官女」

 ア、左:段位は三人同じ。髪の毛は長く、前後左右の広がりが見られる。。
 イ、右:段位が二つに分けられる。髪の毛は、三人それぞれ乱れがなく均整が取れている感がある。
げ菫D
ひな5
1)左:総じて異様。
 a.貴人夫婦間に睦まじさが感じられず、お互い無関心の感じあり。それはそれぞれの目線から察せられる。そのことでそれを描いた園児の両親の関係を推察云々する先生や心理学者が仮にいたとしたら それこそ滑稽。その方が異常。園の先生は、おおらかで園児の自由にさせている。
 b.官女はそれぞれ座っている高さの位置が異なり、それぞれ個性が強く 連携プレーがないことを感じさせる。決定的なのは、それぞれ顔はにこやかであるが口が長く概してVの字を描き不気味なこと。
2)右:総じて円満。
 a.貴人は、それぞれ目が穏やか。男雛は、隣を意識か。
 b.官女は、三人とも可愛らしく(髪型が微妙に違う)、位置のバランスが取れ、お互い仲良しと感じられる。
ゲ菫E
ひな6
1)左:男女雛がすき間なく一体、目はメガネを掛けているととれる向き〔あるいは宇宙人的おもむき〕が、貴人・官女ともにあり。
2)右:貴人も官女ともオール・ニコニコ。
 a.貴人は、桜が間に入っいるが隔たりをそれぞれの笑顔から全く感じさせない。
 b.官女は、それぞれにこやかで安定感のある正三角形に位置している。
Σ菫F
ひな4
1)2段飾り雛・平面でなく立体。
 a.
 b.「三人官女」が手に持つものは、一般には
 ァ.真ん中の官女は、「三方」〔=盃〕、
 ィ.向かって右は、「長柄銚子(ながえのちょうし)」〔白酒をつぐ道具で柄が長いので「長柄」という〕
 ゥ.向かって左は、「提子(ひさげ)」〔=鍋とよく似た形の金属製の 白酒を入れる器〕
 b.お酌するとき、
  まず提子から長柄銚子にお酒を移す。
そして、長柄銚子から 盃へお酒を注ぐ。そのため、銚子よりも上位とされ、左側(向かって右)に並べる。官女に持たせる時には 注ぎ口のある方を内側にくるようにして両手で持たせる。
2)画像は、官女の位置について上記と異なる。鉄則あれば別だが地域差あるようで、ここではどれが正しいかは、どーでもいい。

Р菫G
ひな7

1)
2)











佐度の画廊44:第24回浜梅津むら展

 こんにちは 自在業の櫻井です。
 「佐渡の画廊」シリーズ第2弾は、「第24回浜梅津むら展」。一昨年に続き今回で2回目となる。むら展の時期が来たと思い出したのは1月下旬。2月の佐渡イベント・カレンダーを調べるとやはりあった。開催日は、以前と同じ2月1〜7日で曜日は関係なし。
         浜梅津むら展
  開催:2017年2月1日(水)〜7日(火)9:00〜17:00(最終日15:00)
  会場:浜梅津文化センター(浜梅津公民館)
 念のため問合せ先へ電話し、期間の指定時間中はいつでも開いているかの確認(結論は大丈夫)と出展作品数と地区別出展者数を知りたいことを伝えた。新潟から観に来るということにたまげている様子だった。
 むら展に関する過去の関連記事は、次のとおり。
  13年3月16日号「佐渡の画廊31:瓢箪工芸」
  15年3月07日号「佐渡の画廊36:浜梅津村展」
  15年4月28日号「佐渡の画廊42:村の陶芸家作品」
 2月6日(月)新潟発12:40発のフェリーで佐渡へ行き、妹の車で会場へ行った。(当初新潟発9:20・両津着11:50を予定していたが、急な出来事処理で間に合わず、11:30発のジェットフォイルは海上時化で欠航、そのため予定していた裂織鑑賞はキャンセル。フェリーも時化のため両津到着予定15:05が15分遅れ15:30となった)
 会場玄関前には、青地に白抜きに赤で「浜梅津むら展」とある色鮮やかな2本の布地の旗が立っていた。なお、旗には浜梅津出身の版画家高橋信一氏(1917〜1986)の大空を飛ぶ2羽の朱鷺を描いた版画が染められていた。妹には写真を撮るだけで20分以内に終わると伝え玄関の戸を開けた。
 部屋の中に入ると奥に数人の関係者らしき人が談話しながら待機していたので名前を名乗り、事前に電話して調べを依頼した件を尋ねると通じていた。
 歩み寄って来た人が、前に陶芸について取材したことがある陶芸を趣味とする高橋孝夫氏とすぐにわかった。ご自身の作品について案内いただいた。また、もう一人の方も見覚えがあり、名前はその時はっきり覚えていなく「佐渡汽船関係?」と問うとなずいてくれた。佐渡汽船グループ・新潟県観光物産の経営幹部で、(株)新潟ふるさと村の元社長渡辺正之氏。同社は1991年旧新潟県運転免許試験場跡地を新潟県の肝入りで県を象徴する観光拠点施設として整備し、「ふるさと」に対する県民の意識の高揚と観光・物産の振興を図り、地域活性化を推進させることを目的に1988年設立された第三セクター(主要株主は2016.3月末時点新潟県)。最初新潟交通が運営主体となったが業績が思わしくなく、佐渡汽船が担当することになった。佐渡汽船では業種との関係からも新潟県観光物産を当事会社とし、経営トップにそのナンバー2に白羽の矢を当てた。氏は就任後ふるさと村の改革を行い、経営を軌道に乗せ再建を果たした。なお、氏との再会は20年以上ぶりであろう。2年前に高校の同級(隣集落の北平沢出身)と何かの折氏の名前が出て浜梅津の出身と聞いたのを覚えている。会った時すぐ察したのは、そのためだろう。
 どなたかから記帳を求められた。1頁5名、見開きで10人書ける帳面がある。住所を佐渡市にしようと思ったものの 本籍はそうだが現住所は新潟市。事実 新潟から来たのだから新潟市にした。担当も、その方を歓迎。なお、見学者は300人を超えていて、明日の最終日は50人以上来るから、350人は間違いないとのこと。

1.展示作品
(1)書道
むら展1
”敢个虜酩
 100歳の人の作品がありますと案内していただいた。
1)2年前に来た時 確か98歳の人の書ですと教えもらった記憶があり、その人だろうと思った。
2)15年3月07日号「佐渡の画廊36:浜梅津村展」の画像に、
 「卒寿観青史余世楽 百寿託神佛天命候 九十八歳乙年 岳仁書」 とあった。 
 自分なりの解釈は、
  「卒」は「卆」で「九と十」から成る「90」の齢、青史(=歴史:人生か)を観れば余生は楽しい、100歳の祝を迎えるかどうかは神仏に天命を託すのみ。98歳の年 岳仁書す」
 99歳の時は何であったか関心を持ったのは確か〕
 今回は、
 「百寿生誕万物感謝 平成廿九年元旦 岳仁書」 
 〔解釈:100年生きた。万物に感謝。平成29年元旦 岳仁書す〕
3)一般に高齢者(80歳以上を想定)が墨をたっぷり含んだ大きな筆を震えずにしっかり持つという平衡感覚といい、「止め、跳ね、払い」という筆遣い・筆運びに際しての強弱・緩急の瞬間的なコントロール感覚といい、大きく画いたそれぞれの文字の縦・横におけるバランス感覚といい、また時の心境を8字に込めた堂々たる詩作内容といい、これほどの書は、心身共に健康で且つ漢詩の素養が無ければ、到底成せる業でない。脱帽。
90歳の作品
「高橋保一書」の表示から瓢箪(ひょうたん)の工芸作家のあの人とすぐわかった。
 1)4年前取材にお邪魔し(13年3月16日号「佐渡の画廊31:瓢箪工芸」)、2年前のむら展でもご自宅が比較的近いこともあり、どなたかの知らせで会場へお出でいただきお会いした。
 2)15年「浜梅津村展」の画像は、
 「山川万里 二〇一五 八八歳 保一書」。
  今回は、
 「浜梅津むら展 偕老同穴 平成二十九年 高橋保一書」。
 脇には「偕老同穴」の説明書き:「若かった夫婦が老いて共白髪となり、やがて同じ穴に納まる。高橋保一」。
  ウィキペディアは、「共に暮らして老い、死んだ後は同じ墓穴に葬られること。転じて夫婦の信頼関係が非常にかたいことを意味する」と解説。
 3)筆遣い・筆運びについて、字自体が大きいこともあり、特に穂先の動きに魅かれ、次の事を調べることで書道の真髄を認識し、醍醐味を堪能できた。
  a.「点画(てんかく)」
   ァ.漢字は、点と線から成る点画と呼ばれる8つのいわば部品(横画・縦画・折れ・左はらい・右はらい・そり・曲がり・点)で構成。
   ィ.すべての点画で、筆の穂先の向きは常に左ななめ上、45度を通る。
  b.「永字八法(分解)」
   ァ.漢字の「永」の字には、書に必要な技法8種が全て含まれている。側(ソク、)、勒(ロク、横画)、努(ド、縦画)、(テキ、はね)、策(サク、右上がりの横画)、掠(リャク、左はらい)、啄(タク、短い左はらい)、磔(タク、右はらい)の八法
   ィ.「永」の字一字を習得すれば、この一字を持って千字・万字に応用できる。
  c.上記a・bは、穂先の動き・働きが大きい。
   「偕老同穴」の4文字それぞれには、穂先が空を切っても筆勢からその軌道がわかる。いわば筆の穂先が離陸し弧を描いて着陸し、止まるか跳ねるで一文字が完了する。ここに面白さ・凄さがある。
 画像からは、書の傍らに氏の瓢箪作品の一部が見えるが、90歳になっても創作、アイディア・ユーモア創出への情 熱・熱意は少しも変わってことを示している。なお、瓢箪作品が集まったコーナーが、別に設置(後記)。俳句も画像から見つけた。氏は、20代から50代まで絵画をやっていたことは、取材の時にお聴きしている。
千字文
1)千字文の事は今まで知らなかった。今回目に止まり意識。 
 素人考えで、次のように思った。
 a.漢字一字一字の意味、漢詩・漢文の一句・一節の意味、全文を通じての真意の把握が必要だろう。
 b.1000字の内1字でも間違いや出来の悪い字があったら、やり直しになるのでは。
 c.書き終えるのに、精神力、体力、時間を要す。
むら展2
2)千字文(ウィキペディア)
 「子供に漢字を教えたり、書の手本として使うために用いられた漢文の長詩である。1000の異なった文字が使われている」
 「
天文、地理、政治、経済、社会、歴史、倫理などの森羅万象について述べた4字を1句とする250個の短句からなる韻文である。全体が脚韻により9段に分かれている」
 「梁 (502–549) の武帝が、文章家として有名な文官の周
興嗣 (470–521) に文章を作らせたものである。周興嗣は,皇帝の命を受けて一夜で千字文を考え,皇帝に進上したときには白髪になっていたという伝説がある。文字は、能書家として有名な東晋の王羲之の字を、殷鉄石に命じて模写して集成し、書道の手本にしたと伝えられる。完成当初から非常に珍重され(敦煌出土文書にも千字文の手本や習字した断片があり、遅くとも7世紀には普及)以後各地に広まっていき、南朝から唐代にかけて流行し、宋代以後全土に普及した」
 日本には「正倉院文書にも千字文を習字した断片があるので、8世紀には習字手本として使用されていた。山口県山口市の吉田遺跡では、8世紀前半の千字文の音義木簡が出土」

むら展3
た緞浪
1)前々回の画像には、「墨絵」と表示された作品が4点載っていた。今回は、撮った画像には2点共「水墨画」とある。この際、違いがあるのかないのか調べてみた。
 a.ウィキペディア
 「水墨画(すいぼくが)とは、「墨」一色で表現される絵画で、墨線だけでなく、墨を面的に使用し、暈〔ぼ〕かしで濃淡・明暗を表す。墨絵(すみえ)とも言う」

 b.ヤフー知恵袋ベストアンサー
  「水墨画と墨絵は同じですか? 」「水墨画は、墨一色で表現される絵画です。墨を面的に使用して、暈かしで濃淡・明暗を表す。墨絵(すみえ)とも言います」
 c.「墨絵カレッジ」HP

  「「墨絵」というと、皆さん、墨の濃淡のみで、ささっと抽象的に描かれた絵を思い浮かべるのではないでしょうか?でも、実はそれは、墨絵の技法ほんの一部に過ぎません。色を取り入れた作品や、精密に描かれた作品も多く存在します。様々な見解がありますが、おおざっぱに言えば墨や顔料を使い、東洋の目線・視点・考え方によって描かれ、日本画の様に厚塗りではない絵は墨絵のカテゴリーに入ります」
 【的確な解説は、「墨絵カレッジ」HP。前々回の「墨絵」には橙色の顔料が入っているいるのが分かる。今回の「水墨画」は、墨一色でぼかしもある。ウィキペディアもヤフー知恵袋も水墨画=墨絵で、肝心な本質的違いの説明ができていない】
デ亢腓判顱扮咾瀛等に間違いがあるかもしれない)
 日めくりよ 老いし者を なぜせかす
 銀嶺に 一片の雲 影〇す
   〔「俳句 高橋保一」とある〕
(2)絵手紙
むら展13
1)以前の記事には絵手紙の説明がなかったので記す。(資料;ウィキペディア)

 a、絵手紙は、手紙の一種で「絵のある手紙をかき送ること」。

 b、「絵のある手紙」自体は古くからあるが、「絵手紙」というジャンルが確立されたきっかけは、書道家の小池邦夫1978年〜79年に芸術誌「季刊 銀花」(文化出版局)へ綴じ込み企画として、6万枚の直筆絵手紙を発表したこととされている。
 c、基本的な道具は、
顔彩画仙紙はがき。 はがきに花や野菜など、身近にあるものをかき、絵手紙を送る相手に最も伝えたい気持ちを短い言葉で添える。 テクニックよりも、自分らしさがハガキの中に出ているかどうかを大切にする。 「手紙」という性質上、絵は添え物で言葉(かき手の気持ち)の方を重視する。
2)画像にある絵手紙の作品を観る限り、次の事が言える。

 a.絵手紙といっても相手に向けもあるが、自分向けメッセージもある。
 自分好みの名言を座右の銘として色紙などに自分で書くか購入するかして自室に飾る人も想定されるが、絵手紙の絵手紙たるゆえん・真髄は、「自分の思いを、自分の言葉で、自分で絵図を考案し、自分で描いて、自分で墨書する」であろう。
 b.ハガキの枠や形式に余りわれず、自由奔放的。
 c.筆と墨、絵又は図形がどの作品にも共通してある。
 d.絵画の要素も取り入れているが、心情を言葉で表現することに重きを置く点では書道に近い。
(3)繊維工芸
,気辰海蝓蔑織:古着のを細かく裂いて麻糸などと共に織り上げた再生織物)、タペストリー(壁掛けなどに使われる室内装飾用の織物)、バッグ、ぬいぐるみ人形等
むら展4
柿渋染:クッションカバー
 「柿渋染」とあるのを見た瞬間、浜梅津には柿を栽培している農家があるのを思い出した。

むら展7
1)柿渋・柿渋染めについて
 a.「ウィキペディア」
  柿渋は、染色にも用いられ、出来上がりの茶色の色合いが柿渋染めとして好まれる。
柿渋(かきしぶ)は、渋柿の未熟な果実を粉砕、圧搾して得られた汁液を発酵・熟成させて得られる、赤褐色で半透明の液体。柿タンニンを多量に含み、平安時代より様々な用途に用いられて来た日本固有の材料。
 衣類に使用したのは、平安時代の下級の侍が着ていたがその始まりとされる。また民間薬として、火傷や霜焼、血圧降下や解毒などに効くとして盛んに利用された。
 b.「みつる工芸」HP
 ァ.渋柿染めとは?
柿渋は古くから庶民の生活の中で日常的に用いられました。高い防水・防腐・防虫効果を持ち、漁網、醸造用絞り袋、染色用型紙や、渋団扇、紙衣,和傘などあらゆる日用品に塗られていました。柿を未熟な青柿のうちに採取し、粉砕・圧搾して得られる渋液を冷暗所で何年も熟成させます。渋取をした時は黄緑色ですが、時間がたつにつれ茶色にかわります。その柿渋を何回も塗り重ねると鮮やかな「柿渋茶」を発色し、化学染料にはない独特の風合いになります。また、柿渋は漢方薬としても知られ、タンニンが血圧降下、火傷、二日酔いなどに効くといわれています。古くからの染料柿渋を、大原の良い水と環境のもとに一つ一つ手作業で染め上げました。
 ィ.渋柿染めの特徴
 顱砲匹鵑匹鷽味が強くなる
   柿渋染めの最大の特徴はどんどん色味が強くなる事です。これは柿渋の主な色素成分であるタンニンが年月とともに縮合重合するからなのです。だから使い込むほど、また古くなるほどイイ色になっていくのです!

 髻防水効果
   柿渋は塗り重ねる事によって一種のタンニンの皮膜のようなものを形成します。そしてタンニンは縮合重合する性質がありますので、タンニンの皮膜はどんどん丈夫になり防水効果が得られるようになります。昔の番傘に柿渋が塗られていたと聞くとその防水効果は一目瞭然ですね。

 塗布物を堅牢に
   柿渋の成分で忘れてはいけないのがペクチンです。このペクチンは接着性が強く、一閑張りなどはその性質を利用したものと言えます。縮合重合とともにペクチンは次第に不溶化傾向となり、塗布物は丈夫になります。
 ゥ.柿渋の用途
 顱棒鏡〆
   江戸時代以降、日本酒の製造工程で柿渋を塗った袋が使用されていました。これは酒袋と呼ばれていました。この酒袋でもろみを搾って酒の中のいらないものをこしとっていました。酒が機械で作られるようになった今でも柿渋は、そのタンパク質を固める効果を利用した清澄材として使われています。
  供健康に:血圧降下・整腸作用など
    柿渋は昔から脳卒中の民間療法として、また中国では漢方薬として飲み継がれてきました。そのほかにも効用として血圧降下や二日酔い、やけどやしもやけ打ち身に至るまで様々な説があります。
  鵝法
一閑張り」に:和紙で容器が作れる

   柿渋を和紙に塗布しその上に和紙を貼り・・・この作業を繰り返して一閑張り(いっかんばり)ができます。柿渋の塗布物を丈夫にする効果を利用した民芸品です。古くより農家では収穫したもの(豆など)を入れていたとか。    

  堯砲修梁勝Ю色用型紙(防水効果)、建具(防虫・防腐効果)、染(奥ゆかしい色目)。説明略。
2)多分家の畑か庭先に生っていた柿を染色用に採って渋液にし、それを蔵に何年も熟成されたものだろう。
 同じ茶系色でも違いがいろいろあって面白い。図案になっている。非常に落ちついた色で高齢者家庭のクッションカバー・その他壁掛け・敷物などインテリアに合いそうだ。
 なお、「渋い」は、いろいろな意味に使われる。渋柿を食べたようなしぶれるような味、にがりきった・不機嫌な表情、出し惜しみ・ケチ、派手でなく落ち着いた趣、地味で深い味わい など。
  なお、110年程前大学時代のゼミ会でI君に自分の持ってる株を話すとある銘柄に対し「渋い」と言ったのを憶えている。その時 地味で目立たず安定着実と解釈。
2菫にない繊維作品:刺し子(布地に糸で幾何学模様等の図柄を刺繍して縫ったもの)、刺繍、生地図案、布(高田縞、亀田縞)、帽子、吊るし雛、縫いぐるみリースなど。

(4)和紙工芸
^豐彡
むら展5
1)一閑張(資料:ウィキペディア)

 a.名前の由来
  明から日本に亡命した飛来一閑(ひき いっかん)が伝えて広めた技術なので一閑張になったという説、農民が農閑期の閑な時に作っていたものなので一閑張と呼ばれるようになったという説、一貫の重さにも耐えるほど丈夫なのが由来なので漢字の書き方も一貫張という地方 もある。
 b.作り方
  
で組んだ骨組みに和紙を何度も張り重ねて形を作る。また、木や粘土の型に和紙を張り重ねた後に剥がして形をとる方法もある。形が完成したら柿渋や漆を塗って、色をつけたり防水加工や補強にする。
 c.用途
  食器や笠、机などの日用品に使われたが、現在はあまり一般的に使われていない。人形やお面などにも使われている。
食器は高級料亭等でお皿として現在も利用されるが、日用品としては高価で一般に普及することがあまりない
    《参考》和紙原料(資料:「和紙の博物館」HP)
  ァ.和紙の代表的な原料
   顱縫灰Ε勝▲潺張泪拭▲ンピ
   髻僕由
 繊維(せんい)が長く強い、繊維にねばりけがあり繊維同士がからみやすい、繊維がたくさん取れる、栽培をするなど原料の入手がかんたんにできる(ガンピは栽培できない)、他の植物にくらべ、紙にしやすい、できあがった紙がきれい、できあがった紙が使いやすい等
 などなど
  ィ.その他の和紙原料(但し、主にコウゾやミツマタなどに混ぜて使われる)

   顱縫ぅ諭Ц気話羚颪濃箸錣譴呂犬瓠日本では鎌倉時代に山梨県で使われていた。書画用紙。
   髻縫織院Д織韻盡気話羚颪如⊆腓縫泪瀬韻筌魯船が使用。繊維が堅く紙にするのに時間と手間がかかるため生産量は少ない。書画用紙。
   鵝縫汽技罅北海道の幌加内町では、チシマザサの繊維100%で紙を漉いている。
   堯縫ジノキ(クワ科):コウゾと見分けにくい植物。障子紙・傘紙・提灯紙)など。
   )その他:パルプ・ムギ・バナナ・故紙・クワ・スギ・ヒノキ・クズなど。
       
   ゥ.基本的には、植物であれば紙にできるが、向き・不向きがある。
2)一閑張は、柿渋とも係わりがあるということで、柿渋染めと同様確認してないが柿産地であるご当地と大いに係わりあることを期待したい。
 a、作品は、皿、茶托、お盆、ザル、お椀、花入れ、壺など 生活実用品。
 b、器の底は、茶色が基本の中で部分部分に濃淡の変化をつけ図案にしているものとか、顔料を施し絵にしたものとかいろいろで。ここにも個性の発揮が見られる。ある作品には、「ザルに和紙を張り、模様をつけ、柿渋を塗ります」という説明書きが添えられていた。
 c.一閑張は、手作り故に同じものはなく、用途開発・デザイン開発など独創性を発揮でき、実用品でもあるため心身及び生活に役に立っていることは間違いない。
下げ紙(画像はない)
1)正月に神棚や床の間、鏡餅の下、門松などに下げるお正月飾り。「前垂れ」「はかま紙」などとも言われる。佐渡や越後では正月飾りには欠かせない。販売目的や頼まれて作るところでは11月頃より作り始めるようだ。様々な縁起の良い図柄の型紙から習字紙・半紙(縦35cm・横25cm前後の和紙)に切り出して作る。
 「半紙」の由来は、平安時代の「延喜式」細則に和紙の規格の記載があり、寸法は横尺三寸(70cm)、縦一尺三寸(39cm)で、半分に切って使ったことによる。

2)作品には、「賀正」と切り抜いた文字とニワトリの親と子の切り絵を合わせたもの、滝を上る鯉やニワトリの図案の下げ紙があった。ニワトリは、今年の干支の鳥。

(5)木工芸
   《参考》佐渡の木材:「佐度の木材図鑑」
  (資料:「新潟県佐渡地域振興局農林水産振興部(林業)」サイト)
.ぅ船ぁ憤谿漫櫟:イチイ科イチイ属):彫り物等小物類や天井板等の建築材料。国見山のイチイ(両津地区)は佐渡市の天然記念物に指定。
▲ヤ(栢・榧:イチイ科カヤ属):風呂桶等の水回りや碁盤・将棋盤。「徳和集落(赤泊地区)はカヤの産地として有名で、現在でも佐渡市の天然記念物に指定されている「大椋神社の大榧」等の巨木が残っています」
アカマツ(赤松):梁等の建築材料や船舶)、スギ(柱材や板材等の建築材料。
ぅ好(杉):柱材や板材等の建築材料。「かつては舟山杉(相川地区)や川茂杉(赤泊地区)といった天然杉が有名でしたが、現在ではほとんどが人工林となっています」
ゥ劵離(檜:):日本産樹種で建築材料として最上とされ、社寺の柱等に利用。
Ε▲謄咫福弁磧Д劵離科アスナロ属):アテビは佐渡の地方名で、「佐渡市の木」に指定。青森ヒバ・能登アテと同種。水に強く古くは風呂桶・土台等に利用、柱材等建築材料に活用。
Д屮福併殻嘶亜橅):家具・スキー板・楽器。「佐渡では市の天然記念物に指定されている安養寺のブナ林のように特異的に低地にも生育していますが、ブナは本来標高の高いところで育つ樹種であり、大佐渡山地の標高600メートルを超える地点からまとまってみられるようになります(小佐渡山地には天然分布していません)」
┘潺坤淵蕁平綟蝓Д屮焚淵灰淵藺亜法А屬そらく佐渡ではシイタケのほだ木や薪炭としてしか利用されていない」。かつては北海道の材が高級家具材として主にヨーロッパに輸出
コナラ(小楢・枹:ブナ科コナラ属):「シイタケのほだ木や薪炭としての利用が主」(推定)。「県の天然記念物に指定されている杉池の広葉樹林(両津地区)は、コナラを主体とした森林で巨木が林立」。
クヌギ(椚・櫟・橡:ブナ科コナラ属);材質は堅く、建築材や器具材等のほか、シイタケのほだ木。
アカガシ(赤樫):ハンマー・鍬等の道具類の柄。「落葉樹のナラ類よりも暖かいところを好み、佐渡では標高の低い地域で見られます」
クリ(栗):家の土台や枕木等
ケヤキ(欅・槁):「日本産の広葉樹材では最も珍重される木材」
ホオノキ(朴):、彫刻材・版木・家具等
オオヤマザクラ(大山桜):家具材・楽器等、樹皮は樺細工の工芸品、香りが良いことから燻製用チップ
哀ハダ(黄檗・黄肌):床柱や家具材、樹皮の黄色い部分は、生薬(整腸剤)、染料
吋魯螢リ・セン(針桐・栓):家具材・下駄材等
殴キ(柿):床柱や茶道具に使われる他、ゴルフのウッドヘッド。「佐渡島は羽茂地区を中心にカキの一大産地ですが、おそらく木材としての利用は皆無だと思います」
灰リ(桐):家具材・下駄材・床材等。「小規模ですが、佐渡島内でも造林されています」
  (参考は以上)
\膺輿〔仮称〕 収納箱付
むら展12
1)キリ(桐)材について(資料:ウィキペディア)
 キリは、古くから軽くて、湿気を通さず、割れや狂いが少ないという特徴があり、良質・高級木材として重宝され下駄、箏(こと)、神楽面、箱、特に箪笥の材料として用いられることが多く、桐箪笥といえば高級家具の代名詞。かつて日本では女の子が生まれると桐を植え、結婚する際その桐で箪笥を作り嫁入り道具にする風習があった。また、家紋や紋章の意匠に取り入れられてきた。発火しづらく金庫の内側に利用。日本各地で植栽されていたが、需要の高まりや産業構造の変化で北米、南米、中国、東南アジアから輸入されることも多い。
2)展示作品の素材は、人物や踏み台はともかく収納箱は桐に違いない。金箔の菊花紋も桐だろう。
 a.桐は佐渡にも造林。作った人は業者やプロでなく趣味人のはずだから、外材をはじめ島外産の桐を購入してまでして作るは考えられない。その他の部位も同様。浜梅津産でなくても佐渡産であることは確実だろう。そうでなければ、厳しい言い方すれば芸はなく、民芸という資格はない。
 b.人物の踏み台は2段あって、いずれも広く安定感がある。上の段は下の2.5倍の高さ、仙人像の頭のてっぺんから天井まで同じくらいの高さ・空間があり、それがユトリ感を醸(かも)し出し、全体として均衡のとれたバランス感を与えている。
 c.収納扉の上に付けられた菊紋は、花弁16の「十六菊紋」。格調の高さを伝えている。
⊂棋盤(将棋台)

むら展11

1)将棋盤・碁盤の木材
 a、棋盤・碁盤の材木に新カヤ、カツラ、イチョウ、ヒノキ、ヒバなどがあるなか本榧(ほんカヤ)は、「碁盤・将棋盤の最高峰で、美しさ・打ち味(指し味)・打音・香りと、全てにおいて榧に勝るものはありません国産榧の産地は、本州・四国・九州(屋久島まで)に分布し、主に暖帯林中に散生します。その中でも宮崎県の「日向榧」と高知県の「大正榧」で作られる盤が最高のものとされる。良い碁盤を製造するためには最低300年以上の樹齢の榧が必要で、国内の榧は絶滅に近い状態〔外材に依存〕」(前川榧碁盤店HP)」
  カヤは、「本州(宮城県以南)の太平洋側、四国、九州に自生しています。(佐渡島・対馬・屋久島などにも自生していますが、大木は伐られてしまったり、伐採禁止になっています。)」(「大久保碁盤店」HP)
 b.08年12月14日号「佐度の生き物49:大椋神社の大榧(カヤ)
 「➀徳和は、昔からカヤの産地
 1)明治になってから編集された徳和村誌に、「羽茂郡徳和村 榧材 子実とも称して名産とす」とある。
 2)「もとは徳和はカヤ山であった。カヤの林の中に家々があった」(古老)。徳和山寺集落の背後の東斜面一帯は、明治の末期まで800突召料柑海天然のカヤの森林でおおわれていた。”カヤの木山”
 その実は”生(な)っても百俵、生らでも百俵”と語りつがれ、明治36年に伐られたカヤの夷木(えびすぎ)は、目通り幹まわり8.8m、直径2.4m、切り株には筵(むしろ)が6枚も敷けたという。
 3)「カヤの碁盤」の産地として、徳和の名が知られていた。
 4)1973年、赤泊村は村の木としてカヤを指定し保存に乗り出した。
 ▲ヤと地元の人々
 1)”メギ(雌木)とオギ(雄木)があって、オギには実がならん。二レー(代)をつくってから実を落とす縁起のよい木だ”
 2)秋になると実が落ちる。9月15日の徳和祭りの前後から実が落ちる。
 a.昔は、カヤの木の下草を刈って拾いやすくしておいた。1本の木から5斗俵で5俵もとれたカヤもあった。村全体で、年に500石も拾った。
 b.大正末頃までは、カヤの実を仲買人に渡し、その代金で塩・魚・衣料などの購入にあてた。
 3)”米よりカヤの値段がよかった。米のゼニよりカヤのゼニの方が多い家もあった。実が売れんようになって、カヤの木をおこして柿を植えた。カヤの実で、うまいのはカシガヤ、まずいのをザコガヤ。煎ったカシガヤを砂糖にまぶし、かたくり粉をつけた「コロモガヤ」は、カントウマメ(落花生)より、よほどうまい。実は、虫下しにもなるし、体があたたまり、寝小便にも風邪にも効く。高血圧、糖尿病にも効く。マメガヤ、オオガヤ、タカノツメ(楕円体)、ツナギガヤ(くびれ)、ヒダリガヤ(種皮に左巻きのよじれ)と木によって形も違うし味も違う。カヤ餅も作ったし、実から油もしぼった”(二人のお婆さんの話)
 4)”カヤの木風呂”は、金持ち長者の風呂であったと古老は語る。
 5)初冬、雉(キジ)が里へ来てカヤの実を啄(ついば)む。腹をさくと、胃袋はカヤの実が、詰まっている。赤泊のキジ肉は美味い。カヤの実の油が肉にのっている。
 (資料:『佐渡山野植物ノート』(佐藤邦男/著))」
     《参考》将棋盤(資料:前掲「前川榧碁盤店」、ウィキペディ
 ァ.木取り
  原木から盤材を切り取ることを木取りと呼ぶ。
 ィ.木目:木取りには、大きくは天面〔てんめん:上から見た表面〕の木目〔もくめ〕によって柾目〔まさめ〕と板目〔いため〕がある。高級な順から天地柾、天柾、木裏、木表となる。
 顱頬鑢(まさめ):木目は天面からは真っ直ぐ平行・等間隔に伸び、反りや狂いに強い木取り。柾目は高樹齢(本榧〔ホンカヤ〕は樹齢300年以上)の大樹が必要なため、貴重・高価。
 a)四方柾〔しほうまさ〕:大木の芯から45度の木取りのため盤の四方〔対局面の「木口(きぐち)とその両側面=木端(こば)〕が柾目模様はとなる。木材の大きさ・木取り・性能からして最高級品に位置。
 b)天地(てんちまさ):芯を横に位置するよう木取りし、天面の柾目が裏面まで通ったもの。よほどの大木でないと製作できない。
 c)天柾(てんまさ):芯を角に位置するよう木取りし、天面が柾目となるもの。天地柾に次ぐ高級品。同じくよほどの大木でないと製作できない。
 d)追柾(おいまさ):基本的には柾目の木取りであるが、盤の端に板目が現れた木目
 髻鉾通(いため):木目は天面もしくは、裏面が芯側となるため、山型や不規則な波型の模様が現われる。
 ゥ.盤の表と裏
 顱北變◆覆うら):原木から切り出した木材の、木の中心〔年輪の芯〕に近い方の面が天面になる盤。
 髻北敝宗覆おもて):原木から切り出した木材の、樹皮に近い方の面が天面になる盤。
 〔将棋盤の価値は木裏側の方が木表より高い〕
 ェ.将棋盤の大きさ(脚のない卓上将棋盤でなく脚付き盤)
 顱紡腓さは縦1尺2寸〔≒36cm〕・横1尺1寸〔≒33cm)・厚さ(脚を除いた高さ)は、脚付き盤で2寸〜9寸〔≒6〜18cm〕程度まである。

髻望棋タイトル戦では、6寸〜7寸〔≒18〜21cm〕のものが多く用いられているという。
 ォ.9×9マス線
 顱望棋盤の天面には、漆〔うるし〕でマス目を示す線が引かれる。
 髻望棋タイトル戦に使用する盤などは、日本刀に漆をつけて線を引く技法の盤が用いられているそうだ。
 2)出展作品
 a.素材は、カヤで且つ佐渡産と期待したいが果たしてどうか。
 b.天面から見ると木目が概ね真っ直ぐに平行・等間隔に伸びているから柾目で、対局の際正面となる面で年輪が見える木口(こぐち)から見ると、年輪の芯が天面の角にあるから木裏。但し、天面の柾目がそのまま裏面まで通っていないから天地柾ましてや別格の四方柾でなく、天柾で木表よりグレードの高い木裏。

 c.駒台は、木目が平行でなく山形・波形であるから柾目ではなく板目を使用。
 〔以上は、木材や将棋盤について全くの素人ながら、基本知識の応用として試した。毎日曜のNHKテレビ将棋を定石も知らないくせに見ること多いが、これで視点・楽しみが広がる〕
2菫にはないが、ガラスケースに納められた天狗面と大きな一本歯下駄が展示されていた。

(6)陶芸
  以下は、高橋孝夫氏の作品。
|聾気悩亮茲靴薪擇悩遒辰親器
むら展10

1)市販・通販されている陶芸用粘土を購入して使うのは便利であるが、誰でも同じで・どこにでもある作品になってしまい個性からは遠ざかる。また、土なら何でも陶芸にできるものでなくそれに合った土がある。また、地元で採取した土といっても所有者がいるから、誰でも自由に採るわけにはいかない。土の所有者は、県市町村・森林組合・グループ・個人でそれぞれ許可が必要だが、氏の場合梅津森林施業組合の役員というのも大きい。
2)陶芸の釉薬(ゆうやく・うわぐすり)は、主に石の粉と石灰や粘土、そして植物灰を調合して作る。今回出展した作品に使っているかどうかはわからないが、以前取材時に見せてもらったのが柿灰釉(かきばいゆう)で創った茶碗。
 a.植物灰は、木灰(薪ストーブ・薪を使った焼成窯などから得た)・藁灰(20世紀末期からコンバインを用いる農家が増え藁を稲刈に連動させて田に還元してしまうため入手が困難。このため陶芸家の中には、農家と契約し安定的に藁を供給してもらっている者もいる)を加えたもので、灰や粘土の中に含まれる金属成分により色が付いていた。現在では、あらかじめ金属成分を溶かしいれ、絵具のように用い素焼きの陶磁器に模様を付け(「絵付け」)。
  (資料:前掲「佐渡の画廊42:村の陶芸家作品」)
 b.灰釉薬は原料の入手が難しく、品質も安定しにくいが、深みのある肌が得られるとされる。柿灰釉は、柿の木の灰で、ものにするのにテストの繰り返しを要すようだ。

 陶磁器を創るのに 粘土といい釉といいこだわりあってのことだ。

¬滴天目に挑戦
むら展0
1)油滴天目茶碗について
 a.天目茶碗
 ァ.
天目茶碗(てんもくぢゃわん)とは、元は茶葉の産地だった天目山一帯の寺院に於いて用いられた天目山産の茶道具で、天目釉と呼ばれる鉄釉をかけて焼かれた陶器製の茶碗のこと。長石と石灰岩、鉄イオンを原料とする釉薬を使用。
 ィ.天目茶碗の代表的な物として、現在の福建省建陽市にある建窯で作られた建盞(けんさん)と呼ばれるものや、江西省吉安県にある吉州窯で作られた玳皮盞(たいひさん)/鼈盞(べつさん)が挙げられる。前者からは「曜変天目」(ようへんてんもく)・「油滴天目」(ゆてきてんもく)・「灰被天目」(はいかつぎてんもく)・「禾目天目」(のぎめてんもく)、後者からは「木葉天目」(このはてんもく)、「文字天目」(もじてんもく)、「鸞天目」(らんてんもく)が派生した。(以上資料:ウィキペディア)
 ゥ.茶碗の底に付けられた高台(こうだい)と呼ばれる円環状の台部は低く小さく、茶碗の安定性を保つため、天目台あるいは貴人台と呼ばれる専用の台に載せて使われる(「藤田美術館」サイト)。
  茶道の点前(てまえ)の一つに台天目があるが、これは天目茶碗を畳の上に直に置かず黒塗りの専用の台に載せたまま行う作法。
 b.油滴天目(資料:「国立博物館所蔵国宝・重要文化財」サイト)
 ァ.〔茶碗の底部ぬある〕高台周辺を除いて全体に掛けられた漆黒(しっこく)の釉(うわぐすり)、その内・外
面の黒い地に銀色に輝く斑紋(はんもん)が浮かび上がる。「油滴」の名はその美しさが油の滴のようであるところからという。現在では油滴天目茶碗と呼ばれるが、室町時代には「油滴」、「油滴天目」と呼ばれていた。中国福建省北部の水吉鎮にある建窯で焼かれた碗である。
 ィ.建窯で焼かれた黒い釉薬の掛かった碗は「建盞(けんさん)」の名で呼ばれる。中国で喫茶(きっさ)の碗として最高のものとされ、日本でも既に鎌倉時代にはその名が文献に現れている。建盞は黒い釉地に細く短い線状の模様が現れ、これをイネ科の植物の禾(のぎ)に見立てて「禾目(のぎめ)」の名で呼ばれる。そうした建盞の中で、釉内の鉱物が再結晶することで斑紋として現れたものが油滴であった。
 ゥ.室町将軍家の座敷飾(ざしきかざり)のマニュアル書で、その当時の価値観を知ることのできるものに『君臺観左右帳記(くんたいかんそうちょうき)』がある。前半には床を飾る絵画に関連して、画人の評価と得意とする画題が記されている。後半に「書院之次第」として、そこを飾るのに用いる唐物(からもの)の茶入や喫茶の碗などについての記述がある。そこで「土之物」という項目が立てられ、喫茶の碗の中で磁器ではないもの、現在で言う天目、天目茶碗についての記述がある。それによれば、土之物の中で最高とされるのは、曜変。これに継ぐものとして挙げられているのが油滴であった。
2)「油滴天目」とあるのを見て思い出した。昔茶道をやったことがあるからで、「油滴」と言えば「曜変」もあり、いずれも見たことはある。
 イメージとしては、油滴天目は誰でも作れるものでなく制作が大変難しく希少で高価値の茶碗。油滴は油のような班紋があり、曜変は茶碗に湯を入れると色が変化することに由来。天目茶碗といえば、お点前では台天目でよく使ったように覚えている。
 過去の許状類を出してみると
  「許状 今日庵」を開けると、「茶道就執心今般入門之儀今許〇如件 
   昭和50年〔1975〕2月10日 裏千家今日庵 利休居士15世 千 宗室 」とある。
   中級に属す茶通箱(さつうばこ)や唐物や台天目はやっているが、許状が見当たらない。
   昭和54年12月10日付は、「〇〔おそらく「行」〕之行臺子〔行之行台子(ぎょうのぎょうだいす)〕伝法 今日庵」
   昭和56年7月1日付は、「大〇〇〔多分「大円草」か〕伝授 今日庵」
  とある。なお、茶道は昭和57年秋頃から仕事で時間が取れなくなったため習うのをやめた。真之行台子(真台子をもって行うもの)まで習ったと思ったが、許状が見当たらなかった。
ユニーク作品
むら展8 
1)展示作品には「飲みやすい湯飲み」と画像はないが「味がわかるカップ」があった。
2)氏について 今回は趣味人でもこだわりの面の他にプラスして発想豊かで楽しさを創る「村のアイディアマン・発明家」の面を拝見。

(7)瓢箪(ひょうたん)工芸
むら展6
1)瓢箪工芸について、2013年3月12日号「佐渡の画廊31:瓢箪工芸」に作品と内容を記述。
 例えば、作品は瓢箪の栽培から行い(瓢箪の種もいろいろある)、形は成長段階で首に紐を巻いておくと渦巻き状になる等いろいろな形を想定して瓢箪作りををするとか、1人の瓢箪人形をこしらえるのに4個の瓢箪を使っている等々。
2)今回の瓢箪作品は、アラビアンナイトの世界を連想させる。瓢箪から作ったとは思われない程色鮮やか。更に90歳の人の作品とは到底思われない斬新さ・若々しさに驚き。
(8)その他
 粘土細工、アケビ細工(アケビの蔓〔つる〕で編んだカゴ)、サザエの殻細工(サザエの殻を利用した人形)、ガラス細工、絵画、写真等。

2.参考データ
(1)浜梅津地区の人口・世帯数の推移(住民基本台帳による。佐渡市役所)
         2007年3月末 12年3月末 17年2月末(3月未経過)
 世帯数       37       35      33
 人 口        98       85        71
 世帯当たり(人)  2.6       2.4      2.2
(2)出品(訪問当日聞いたもので公式でなく且つ経過数値に留意)
 ―佗兵圈  。僑疑
  うち浜梅津居住者数 その時点不詳。
  浜梅津以外では、駒坂、平沢、舟場町、春日町、夷、長江、椿など。その場合 浜梅津が実家など関係があるとのこと。
 ⊇佗平堯 。隠苅古澄
(3)見学者数
 ヽ催6日目の2月6日(月)は、15時前時点で300人、明日は最終日で見学者の総数は350人に達するのは確実とのこと。
 期間7日間で試算上は1日当たり50人が来訪していることで、集落人口の71.4%が毎日訪れていることに相当する。 

3.まとめ
”庸瀋鼎爐蘚犬鮗分なりに次のように意義付けた。
 1)むらの人びとが、年齢・男女・職業問わず
 2)むらでの暮らしに必要なもの(個人の道楽含む)を自分の手で
 3)むらにあるもので作り(書・絵・写真等は別))
 4)むらの公民館に一斉展示し、むらの人はじめ多くの人に来てもらい楽しんでもらい
 5)むらの人同士及び外部の人との交流を深め合う場
 である。
具体的には

1)出展応募者
 出品について浜梅津の住民でなければならない決まりはなく(但し、村と何らかの関係があり村の人の申し出と承認が必要だろう)、また年齢制限などはなく 現に90歳の人・100歳の人が出品している。このことだけでも全国に数ある市町村・集落でも極めて稀なケースと言えよう。年齢制限なくても(これはフツウ)、90・100歳の人の作品が展示されているという事実の方がはるかに重要・貴重。
2)「地産地消」ならぬ「地産地活」:「暮らしに必要なものを」「むらにあるもので」作る
 例ヽ舛虜惑櫃坊腓せない柿の木の枝の剪定や摘果(柿の実の間引き)によりいわば不要物の再資源化・再活用。
  一つは柿の木の枝を果樹灰にし柿灰釉を作り、茶碗等の制作に生かす。柿色を出すため市販の化学顔料の柿釉とは異なる。
  一つは渋柿の実から柿渋をとり、
   a.各種模様の柿渋染めの生地を作り、それを基に例えばクッションカバーとして利用。
   b.柿渋を塗った和紙を張り重ねることで丈夫な一閑静張の皿、茶托、お盆、ザル、お椀、花入れなど。
 例▲▲吋咾量◆覆弔襦砲鰺用したかご・手提げかご・皿等。
3)公民館の活用
 a.文部科学省は、公民館を地域住民の最も身近な学習拠点で 集える拠点と位置づけている(後掲)が、当集落では既に「浜梅津文化センター」と位置づけ、毎年むら展を開催。 本質・核心は、学習は大事だが、そこから更に創作という自己実現=生きがい・やりがいの場を設けることにある。
  具体例として、
 ァ,普段は寝たきりのあるお年寄りがいて むら展が近付くと何か協力せんけりゃならんということで起き出し、一日は何を書くか考え一日は書くことに集中し、その後はまた寝たきりになるとのこと。
  この場合、生き甲斐・やる気、さらには健康を保つ源泉は、むら展にあるといって過言でない。
 ィ.地域住民のための公民館であることが基本であるが、島内の他地域はおろか島外からもむら展を観に公民館にやって来る。これは、意図してできるものでなく従来の公民館活用の枠にとどまらない重要なことを伝えている。
      《参考》公民館の振興(資料:「文部科学省」HP)
 「公民館は地域住民にとって最も身近な学習拠点というだけでなく,交流の場として重要な役割を果たしています。平成23年10月現在,全国の公民館数は1万4,681館となっています。
 公民館においては,住民の学習ニーズや地域の実情に応じた多様な学習機会の提供が行われています。さらに,今後は,社会の要請に的確に対応した取組や,子どもや若者,働き盛りの世代も含めて,地域住民全体が気軽に集える,人間力の向上などを中心としたコミュニティー(地域社会)のためのサービスを総合的に提供する拠点となることが期待されています」

4)むらの人同士及び外部の人との交流の核心は、互いの自己啓発・相互啓発
 a.展示室の続きの畳の部屋には石油ストーブとテーブルがいくつかあって村の人何人かが待機、来客にもお茶と菓子が用意され、くつろげる場となっている。
 b.動画で見たが、岩首の著名人=棚田おじさんが見学に来て(車で多分1時間)、地元瓢箪工芸作家の高橋保一氏と歓談。高橋氏の写真入りの瓢箪資料を見ながら手ごろな形の瓢箪(植物)の作り方や器のコルク=栓(せん:木製)は自分で作ったものか等々聞いていた。思う形の瓢箪は種の栽培から始めて途中で仕掛けをしないと作れないこと、器の栓は木工旋盤があるので自分で作ること、竹の栓を考えている事からからさっき玄関口で竹の杖を見たが氏が作ったものかを問うとそうとの応答で、今度は棚田おじさんが東京銀座にあるグッチ〔イタリアの服飾・革製品メーカー〕のバッグの持ち手は竹であることについて情報を提供【グッチの代表的なモチーフは“バンブー(竹)”で、ハイヒールや香水やネックレスや時計や財布にも使われている(但し、本物の植物の竹でないだろう)。また、佐渡の竹の産地は岩首】
 c.鑑賞者は作品を観て感動し、何らかの刺激を受け啓発となる。作者にとっては鑑賞者のズバリ評価を知りたく、それが啓発になるようだ。
    例:私がよく訪れるブログでの経験
 ァ.1月下旬同ブログ管理人が所属する地域の油絵サークルの方々の第21回大阪を描こう展(17年1/4~9日開催)入選作品を拝見。その中で特に感動した作品について 佐渡もんCという名でコメント。
    見飽きない絵:瀑布(箕面大滝)

 滝の絵といえば、普通は上から下へ落ちる全体が描かれ、一般に縦長表現。当絵は、途中からで横長。ウェブで箕面大滝お写真(春夏秋冬、全体でなく部分あり)を見ると、一枚の絵にするのは非常に難しいと痛感。そこを思い切りよく「瀑布」に絞り細かいところの描写を可能にした。滝には、川だけでなく瀑布や雫や滴もある。岩の色には、白・灰・土・茶・濃茶・黒(光の加減と遠近に影響)があり緑の草も生えているのが見え、樹木や水面(樹木が映る位置に影響)も色彩や陰影の変化がある。
 今回の一連の絵画展〔大阪を描こう展入選作品〕では、構図と陰影の難しさの気づきと面白さ(例:参道にある宣伝物は描く絵からは邪魔だからカット)を味わうことができました。
 ィ.管理人さんよりRe:
  絵でも写真でも自分の表現したいところを中心にモチーフを切りとります。特に絵の場合はおっしゃるとおり、いらない物は整理したり省いたりし、必要と思えば付け加えたりして自分の世界を構築します。そこが制作者の醍醐味というものなのです。「瀑布」の作者にも佐渡もんCさんのコメントを伝えておきます。(わざわざ言わなくてもこのコメントをご覧になると思いますが・・・)きっと喜ぶと思いますよ(^O^)
 ゥ.作者さんよりRe:(〇〇先生のブログをお借りして‥‥‥)
  岩壁は、私の一番気にいっている部分です(^^♪ 
 しぶきが飛んで表面がザラザラしている所は、モデリングペーストを下地に使って、それらしさを表現致しました。褒めて?下さって、とっても嬉しいですヽ(^。^)ノ 家族や近しい人は「エエやん!」って言うてくれましたが‥‥
  佐渡もんCさんが私の意としたところをくみ取って下さって 嬉しくて、嬉しくて嬉しくて嬉しくて嬉しくて嬉しくて
嬉し過ぎて、うれしくて嬉しくてうれしくて嬉しくて もう〜(#^.^#)どうしよう〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜(^_-)-☆
 ェ.ご両人への感謝のRe後の管理人さんからRe:
  再度のコメントありがとうございます。
 HKさんも感謝の気持ちが伝わり、また喜んでいると思います。この作品は彼女が出品のため1年間近くも制作していた作品なのでいろいろ思いがあり、それを少しでもわかっていただけたことで舞い上がっているのではと思います。
 絵はどこが終点か不明で、画家とは不安で孤独なモノですから、ちょっとでも感動していただける理解者の存在はとてもありがたいのです。(失礼ながらそれが素人と謙遜される方でも・・・)これで、彼女も次の作品にとりかかる元気をいただけたと思います。改めてコメントありがとうございました。
    (例は以上)
 この経験をしたため、むら展の記事を8割くらい書き込んだ辺りで「佐渡広場」を知っている高橋孝夫氏にその旨をお伝えした。
 なお、鑑賞時間は短かったが帰る際 前に見覚えのおばさんから玄関のところで「来年も来てください」という言葉をもらい、渡辺氏からは雪の残る外に出て来て自分の乗った車を見送ってもらったのが印象に残った。 
  以上 17.4.28























佐渡の画廊43:東京国際キルトフェスティバル展


 こんにちは!自在業の櫻井です。
 本格的書き込みは、3月になってしまったが、同級生(小学校入学時席が隣り合わせ)のキルト作家 鎌滝津江子君(以下「女史」)のキルト作品を取り上げようと思ったのは1月下旬、高校で同級のK子君(以下「彼女」)のブログ「まい、ガーデン」の「キルト展」記事で6枚の部分画像を見たのがキッカケ。冒頭に、「佐渡の同級生が出品しているので、首都圏在住の仲間7人と見て来ました。大作」とあった。
 女史の作品はこれまで佐渡広場に2回記事にし、直近は6年前の11年6月新潟朱鷺メッセでの鑑賞。その時のことを次のように記した。
 「^篤皀魯キにある写真などを観るのと実物を前にして観るのとでは、迫力が違う。
 1)これは、絵画に限らず音楽の場合CDやDVDを通して聴くこととの違いで、何にでも言えることであるが、ことキルトについては、それが大いに当たっている。何しろ、縦横2mもある作品が標準サイズであるからだ。
 2)そのことは、鎌滝女史からも言われたことがあり、実際経験すればよくわかる。作品を前にして、写真では見えなかったもの・知らなかったことがわかって来る。専門家であれば、継ぎ目・縫い方まで鋭く鑑定するはずで、写真頼りや遠くからでは正しい判定ができるはずはない。
 3)例えば「鬼太鼓」の場合、鬼の髪の毛の色と髪の流れがそれぞれ異なり、目線は違っても互いに相手を意識しているという面白さが伝わってくる。また、胸当てはじめ生地面の膨らみを楽しむことができる」
 さて、今回の東京国際キルトフェスティバル展での出展作品は、佐渡の北小浦に棲息するコブダイが主役。画像を観てだけであるが、これまで以上の迫力を感じ取った。
 そのため佐渡広場の記事に是非と思い女史にケータイメールし私のパソコンに送ってくれるよう依頼。当人はパソコンには馴染まないようで後日妹さんを通じて3枚の画像が送られてきた。
 だが、期待したより数が少なく、また生地の縫い合わせ目が分かるのものがあればと思っていたが、これがキルト(芸術)だと主張できるような精緻・精巧さが伝えられる画像でなかった。なお、キルトは陶芸と同じく工芸であっても、中には絵画のように美術に属すものもあると認識していた。
 彼女の撮った写真は、私の期待水準を超え、感激・驚嘆に近い水準であることは確か。自分自身でもそこまで巧くは撮れない。
 それでそれら画像をブログに転載したく、彼女にコメント欄を利用して意向を伝え(アドレスは、昨年妙高でのクラス会で写真を送ってもらったのだが消失)、女史にもケータイメールでその旨を伝え、それぞれ了解を得た。 
    参考:「第16回東京国際キルトフェスティバルー布と針と糸の祭典ー」

 会期:2017/01/19 (木)〜25(水) 9時30分〜18時00分
 会場:東京ドーム
 主催:東京国際キルトフェスティバル実行委員会
   (NHK、読売新聞社、東京国際キルトフェスティバル組織委員会)
 後援:外務省、経済産業省、東京都、アメリカ合衆国大使館、NHK出版、NHK文化センター   
 企画運営:NHKエデュケーナル、NHKアート、株式会社 東京ドーム
 入場券(税込):前売1,900円、当日2,100円
 特別協力:JAPAN AIRLINES
 協賛:KEYCOFFEE、東京ケーブルネットワーク、東京ドームスポーツ、東京ドームマーチャンダイジング、フコク生命、松戸興産

 応募総数:1,385点(海外40点)の中から入賞・入選作品322点が展示。
 展示部門名:
  トラディショナル部門、創作部門、和の部門、額絵キルト部門、バッグ部門、ジュニア部門 

   佐度に関係した出展作品
 作品名:「故郷佐渡の海掘廠い蝋啌ぁ廖 ]造良門 (以下「当作品」)
 作者:鎌滝津江子 

  佐渡市両津夷生まれ。両津市立両津南中学校・新潟県立両津高等学校家庭科・東京家政大学服飾美術学科卒業。
  中高等学校家庭科教員歴有。日本手芸普及協会講師指導員。国内外キルトコンテスト入選入賞。ロンドン、シアトル、韓国にて国際交流キルト展に出展。
  最近は和布のキルトを制作発表。東京家政大学博物館、佐倉市酒蔵元ギャラリーにて個展開催。

 【関連過去記事〕 私自身出展作品の理解と味わいを深めるためのもの。

(1)10年03月06日号「佐渡の画廊12:コブダイ写真」
     参考:コブダイ(取材:エス・ウァルド(株)藤井徳三氏、資料:ウィキペディア)
\限区域
 日本海側では佐渡以南、太平洋側は下北半島以南で沖縄県を除く海域と朝鮮半島、南シナ海に見られる。浅海沿岸の海藻の茂る、潮通しの良い岩礁域とその周辺に生息。(氏の話では、佐渡では北小浦の海域のみ生息)
∪限
 1)ベラ科の属し国内のベラ科の中では最大級で、体長1m以上・体重15圓砲發覆襦
 2)食性は肉食。強力な顎と硬い歯でサザエやカキ、カニなどをかみ砕き、喉の奥の咽頭歯で更に砕いて中の肉を殻毎食べてしまう。(氏の話では、イカの切り身を持って潜るとコブダイが寄ってくる。その他、小魚を食べる)
 3)幼魚は体色がオレンジ色で、体側の中央に白い縦帯があり、尾鰭と尻鰭・背鰭に黒い斑紋もあるが、成長に従い斑紋は変化していく。
 4)雌から雄へ性転換する。
  a.コブは成長した雄だけにあり、下顎も同時に厚くなる。
  b.雌のコブは雄ほどではなく雄をコブダイと呼ぶのに対し、雌は別の魚としてカンダイと呼ばれていた事もあり、地方によってはカンダイと言う名で通っているところもある。
  【追記:コブダイは、性別がメスからオスへと変わる「雌性先熟(しせいせんじゅく)」の魚。「すべてメスとして生まれ、群れの中で体が一番大きくなった1匹だけがオスに性転換する」とあるが、実際は一匹だけでなくライバルが存在する。生き物は競争社会。それによってこそ個体が増えすぎも無くなりもせず、種の保存が保たれている】
 5)雄は、縄張り意識が強い。
  a.他の雄が侵入すると、激しい争いをする。(氏の話では、縄張りは一つの岩を岸側と海側に二分して持っている。他者が入り込んで争いになっても、結局は元からのコブダイの方が勝つ公算が大)
  b.産卵は晩春に行われ、雌雄が円を描くようにして海面へ上昇しながら産卵と放精をする。
J振兌命は、不明。(氏の話では、20年以上付き合っている個体がまだ居るから、20年以上の寿命はある)た用
 一年中釣れるが、旬は冬で磯臭さが抜ける。晩春から夏の産卵期にかけては磯臭く、味が落ちる。肉は白身で柔らかく、塩焼きや煮付けで食べるのが美味しく、旬の冬には刺身でも食べる事ができる。
 (佐渡の場合、佐渡スキューバダイビング協会と北小浦地区漁業者との間で、餌付けした魚を漁師は捕獲しない・協会は地区に対し受け入れたダイバーの数に応じた協力金を支払うとの協定がある。当然、コブダイも捕獲対象にならず、互いの協力により守られている)  
(2)10年11月21日号「佐渡の画廊25:キルト作品」「2.キルトについて」より
 「5)女史の使用する生地は、大正時代の人々が若い頃着ていた着物の古布で、正絹(しょうけん:絹糸)で織った縮緬(ちりめん)とその中の一種である錦紗(きんしゃ)。
 a.正絹は希少で高価品。
 ァ.絹(きぬ)は、蚕(かいこ)の繭(まゆ)からとった天然繊維。英語でシルク(silk)。独特の光沢を持ち、古来より珍重されてきた。なお、正絹に対して人絹(化学繊維)がある。
 ィ.絹何十%というのが、呉服の高級度を示す尺度となっている。絹100%が最高級。
 b.縮緬は、「丹後ちりめん」(京都府)・「浜ちりめん」(滋賀県長浜市)などが有名。
 c.正絹生地は、今日全国どこにでもあって容易に入手できるというものでなく、歴史からも関西地方に多くあるとのこと」
  (まとめより)「(1)手作りキルトの驚きは、古くなって着れなくなった衣類や使わなくなった生地や捨てられる運命にある端切れを実用品や装飾品などに変え、再生・再活用・再活性化できるという点であり、いろいろな意味がある。

 1)時代遅れになった衣服も、端材にし組み替えによって別の物に変え、新しい価値を生み出すことが可能となる。

 2)衣類の端材でも、同じもの同士や他のものとの組み合わせによって別物に変え、前より価値あるものに変えることが可能となる。

 3)端材の縫い合わせで、いくらでも大きな作品に仕立てることが可能となる。一つ一つ縫い上げるのであるから、相当の手間・時間を要す。」
(3)11年08月03日号「佐渡の画廊27:佐渡を描いたキルト」

  一部、冒頭に紹介。
 以上前提に記述。

1.キルトとは
 (資料:ウィキペディア「キルト」。過去記事にある)

.ルト(quilt)は、表地と裏地の間に薄い綿を入れ、重ねた状態で指し縫い(キルティング)したもの。日本では、多色の布を縫い合わせたパッチワークキルトが主流。
布に綿をはさむ技法や、端切れを一枚布に仕立てる技法などは世界各地に存在、古代エジプトですでに用いられていたとされる。
  各地のキルト(例)
1)ヨーロピアンキルト:キルトはヨーロッパの寒冷地で発祥したといわれ、保温のために布地に綿をはさんだのが始まりといわれている。十字軍の遠征に伴って、保温着としてヨーロッパ各地に広まり、上流階級の女性の手芸としてさまざまな技法が編み出された。その後、清教徒のアメリカ移民とともにアメリカに伝わった。

2)アメリカンキルト:布地の有効利用のために余った布や端布をつないで作ったのが始まりと言われている。当時は布の利用に主眼がおかれ、モチーフなどの制作は行われなかった。産業革命以降キルトにも装飾性が求められ、様々なモチーフが考案された。1800年代半ばから、『キルティング・ビー』と呼ばれる多人数で一枚のキルトを制作する会が催されるようになり、女性の主要な社交場となった。1900年代女性の社会進出が一般化するとキルトは一時衰退するが、1970年にキルト研究家ジョナサン・ホルスタインがコレクションを公開するとアートの一つとして再評価された。

3)ジャパニーズキルト:刺し子〔布地に糸で幾何学模様等の図柄を刺繍して縫いこむこと。保温・補強等のため麻布や木綿布に木綿糸で補強したものが始まりとされる〕を『日本のキルト』と呼ぶ場合もあるが、日本のキルト』と呼ぶ場合もあるが、通常はキルトに含めず、日本的な感性で配色されたキルトや和の素材を使用して作ったキルトを『ジャパニーズキルト』と呼ぶ場合が多い。
 a.1975年資生堂の主催で開催されたキルト展でジョナサン・ホルスタインのコレクションが公開されたことから徐々に『キルター』と呼ばれる愛好家が増え、アメリカに次いでキルトが盛んになった。
 b.当初はパッチワークキルトが主流だったが、トラプントやスラッシュキルト、クレージーキルトなどさまざまな技法を取り入れ、発展している。 しかし、「日本においてキルトは趣味の範囲にあり、生活に根ざしたものとなっていない」

   技法(例)
1)パッチワークキルト:布をはぎ合わせて一枚の布にしたものを、トップ〔表布のことだろう〕にして作ったキルト。
2)アップリケキルト:土台布の上にモチーフを縫い付ける技法(=アップリケ)でトップが作られているキルト。
3)トラプント:イタリアで考案された技法。中綿を入れた状態でキルティングを施し、さらに裏からモチーフ部分に綿や毛糸をつめる。
4)スラッシュキルト:16世紀にドイツで考案された技法。 数枚の布を重ね、0.5cm - 2cm 間隔で縫い、縫い目と縫い目の間に切れ込みを入れて水にさらすと切れ込みの部分がほどけ、起毛し、リボンやモールを連ねたような作品が仕上がる。格子状に縫い目を入れて×字型に切れ込みを入れる場合と、バイアス方向に直線上に縫い目と切れ目を入れる場合とがある。
5)クレージーキルト:19世紀に盛んに作られたキルト。ベルベットなどの綿以外の上等な布を多用し、刺繍やレースなどで装飾を加えたものを、ヴィクトリアン・クレイジーキルトと呼ぶ。通常、中綿は入れない。使用するパーツの形状や配置、配色に制限がない。
2.出展画像

 以下は、いわばバラバラの部分画像を自分なりにストーリーになるよう編成。
ヽぞ紂Τぬ漫Τっ罎陵融
コブダイ5

1)空と海が色分けされている。朝焼け時か、クリーム色の空に赤紫の帯も一部にあり、水平線の上には薄っすらと山影が連なり、スケールの大きな構図になっている。画像拡大すれば細かい膨らみが連続してあるのは、キルトならでは(「表地と裏地の間に薄い綿を入れ、重ねた状態で指し縫い(キルティング)」)のものだろう。離れて全体を観ることによって 布同士に親和性があり溶け合い繋ぎ合わせたという不自然性がなく、まさに絵画。
2)海面の波と海中の波の違いが巧みに表現されている。黒・茶・紺・青・白などの多彩な生地の色柄が縫い合わされ、変化に富んでいる。糸のような青い筋は存在感があり、海の中が生き生きと流動している様が描かれ、リアル。
 【この辺りの書き込みで、フランスのモネの代表作の一つ「ラ・グルヌイエール」の絵を思い出した。そして細かく調べると新しい絵画技法を生み出したということで、キルトの装飾技術とも関連性が大いにあることがわかった。その事について、別途項目を設ける】
3)海水中で生息し浮遊生活をしているクラゲをすべて傘=頭を上にし 太くて長い触手を足のように表現することによって火星人のように描いている。つまり、海中は人類にとってまだまだ未知の世界で、その点宇宙とも言える。タイの形をした魚が泳いでいるのが2匹見え、茶色の筋は海流というよりムカデのようなウミヘビではないかと思わせるものもあって、面白い。
  ここで、潜水業で且つ潜水服製造業の会社を創業した南中同期生の藤井徳三君(前掲)から教えてもらったのを思い出した。(前掲「コブダイ写真」記事のまとめに記述)

 「宇宙はどこまで行ってもゼロ気圧で地球の地上は1気圧。海の中は10m潜る毎に1気圧ずつ増し、水深20mならば3気圧の世界。従って、多様な宇宙がある」
⊂魚たちの遊泳

コブダイ1

1)魚の鰭(ひれ)には、口を左に背を上にして横にした状態から時計回りに背鰭、脂鰭(あぶらびれ)、尾鰭、尻鰭、腹鰭、胸鰭の6つがあるが、脂鰭はサケ科やハダカイワシ科などの魚類にはあると言うように必ずしも揃っているわけでない。
2)上の部分画像には似てはいる(特に目の部分)が、体色が若干異なる2匹の魚が見える。そlれぞれ背鰭・尾鰭・尻鰭・腹鰭または胸鰭が確認できる。しかも鰭にはそれぞれ筋が入っており精細、且つ平面でなく腹鰭または胸鰭に立体になっているのは、キルトならではか。
3)海流が横≒水平でなく、上下に描かれ波にことが海中での激しい動きを表現し迫力を生んでいる。生き物にとっては命がけの世界でfスリルを感じさせる。

コブダイ「弁慶」登場(弁慶のライバル「ゴル」かもしれないが、便宜上「弁慶」と見なす。
コブダイ7
1)コブダイは、体色が鯛と同じピンクで、雌が成長して雄になり、頭にコブがつき、体長1m以上になる。食性は、肉食。強力な顎と歯でサザエや岩ガキ・カニなどをまるごとかみ砕く。軟体のイカやタコも好みのようだ。
 その点どう猛で人をも襲う怖い存在に見えるが佐渡の北小浦の沖に20年は棲息したコブダイは、人懐っこくダイバーを見つければ、目玉が動いているのがわかるほど近づいて来たという。餌を期待してのことらしい。
 大きなコブが頭巾をかぶった武蔵坊弁慶に似ていることから島内外のダイバーから「弁慶」という名で親しまれたコブダイが、主人公であることに間違いない。
2)着目
 a.白地のうねりが数層からなる海流にアクセントをつけている。
  色は、青系・緑筋・茶系・クリーム系
  帯は、太い・細い・糸状
 があって、長短がある。
  様々な色柄の生地を組み合わせ 海中の様子をリアルに表現。
 b.顔の部分にしても胴体の鱗の部分にしても繋ぎ目がどうなっているかわからないほど精密。
  頭は灰色系、胴は赤色系。
  各々数十個の断片生地(例:鱗)を相互に縫って絵画の世界を創製。画用紙に絵具を塗ったり、ノリで貼り付けたりしたものではない。
 c.尾鰭が生地全体からはみ出ているのは、規格違反かもしれないが、それが逆にキルト芸術の迫力・凄さを訴えている。
  その画像は、後掲・一番下の画像同様 展示会場で撮ったものでない。多分、女史のアトリエ(制作場)で当人が撮ったもの。本番の会場でのバックは、濃いグリーン壁。バーに諸作品が並んで吊り下げられている(或るブログ記事から判明。なお、一番上の画像からも、緑のバックとバー一部が見える)。
 e.画像から、最低6匹のクラゲ、列をなした5匹小魚を目撃できる。小さな空間・領域にそれだけの数の生物がいる。見逃し・見離されるような細かい部分にも作家の工夫や情熱を感じ取ることができる。
3)生地は正絹だろうが、画像を拡大してパーツである端切れ一つ一つに注目するも飽きが来ない。
 それは岩場や岸壁や舟の上から海の中に何かー珍魚等ーを発見できるかもしれないため覗き込むのと同じ。海は資源で、知らない・資源化できないだけで宝庫であることに違いはない。
だ楸
コブダイ3
1)画像拡大によって顔と胴と鰭の各々が色・柄・形が異なる数十の布生地パーツから構成されていることが明白になる。アバウト数えで顔部分50枚、胴体の鱗部分80枚のそれだけで約130パーツから成る。
 これらのハサミで適当な形にした布を組み合わせ、針と糸で縫い合わせてコブダイを描く。
2)色はその為に部分を染めたり絵具で塗ったり、ベースとなる生地に糊付けしてして一段と本物らしくなるよう手を加えはいないだろう。
 胸鰓の右上部分が少し捲(めく)れて」いる。この方がかえって自然。糊付けではやがて剥(は)げ落ちてしまうであろうし、左端を縫っているからこそである。
 また、胸鰓自体、8種の横長の帯で縫い合わされていることが、画像拡大でわかる。
3)コブダイは呼吸器官である鰓(えら)が大きく、他の魚類と同様蓋(えらぶた、さいがい)を開閉させることで、水流を起こして水中の酸素を多く水に溶け込ませて吸入し、内部にある不要な二酸化炭素を放出、つまり呼吸して生存を保っている。
 当作品は鰓がエリマキトカゲのようになっているが、あくまでコブダイのような魚(コブダイとは言ってない)を図案化して登場させた美術工芸品で真偽より愛嬌が物を言い価値がある。
ズ農楸
コブダイ9
1)前の作品「故郷佐渡の鬼太鼓」(11年08月03日号「佐渡の画廊27:佐渡を描いたキルト」:後掲に画像」)とは異なる顔の部分の特徴。
 a.当たり前のことながら鬼面という人工物に対し生きた顔が絵の中心で、従ってあたかも生きているように描かれなければならない。鬼太鼓の場合は、全体としての鬼である。
  ァ.一般には、人工物を含む静物画より生き物の絵、特に人物画は難しいとされる。外観だけでなく感情など内面を表現するものでなければならないからである。但し、鬼太鼓は生き生きと演じるコトが本質であるから鬼面や装束を写生することが目的ではない。
  ィ.近年の話題に、「モナ・リザ」の微笑みの謎がついに解明される!」があった。英国紙によるもので大学研究者たちによって判明したとのこと2015.09.08「知的好奇心 トカナ」サイト)
  なお、「モナリザ」は、パリのルーブル美術館で観たことがあり、日本と違って写真を撮るのは自由で写真に収め記事に載せている。なお、ローマのバチカン美術館のミケランジェロの絵画なども自由。
   (07年10月01日号「フランス(3)パリ紀行」、同10月5日号「イタリア(2)ローマ紀行」) 
 b.鬼の顔は、赤一色の中で 目は金色で吊り上がり、鼻は輪郭が巧妙な曲線で膨らみがあるように描かれ、歯は一本一本がびっしり並んでいるのに対し、コブダイは目も口の歯も単純なで中で、顔はいろいろな色・形の布から構成。
鬼太鼓の面
κ朷弔離薀ぅ丱襦屮乾襦彭仂
コブダイ6
1)コブダイ雄同士の縄張り争いは激烈。毎年夏になると顔に傷がつくほどになる。
 a、09年フランスのドキュメンタリー映画「オーシャン」に激しい縄張り争いをする様子が紹介。
 b、10年にはNHKも取り上げる。NHK ONLINEサイト「ダーウィンが来た」‐命あふれる日本◆峙霏腟コブダイ 王座決定戦!」10年10月24日(日)午後7時30分〜)
 「生物多様性に富んだ日本の自然を紹介する「命あふれる日本」シリーズ第2弾。舞台は日本海・佐渡。海底の岩山に「弁慶」と名付けられたコブダイがすんでいます。弁慶は体長1mを超す巨大なオスで、長年、岩山に来るメスを独占してきました。弁慶の王座を狙うのが20年来のライバル、ゴル」
2)顔の色が画像イ妨る弁慶と異なり赤みがかっている。同色でないことで個性を出させている。胸鰭も同様。また、描いた位置がの斜め向きに比べ真横のため、鋭利さが一本一本に表れている。画像イ両豺腓眄橘未剖瓩ぐ銘屬任盪由僂任覆尖っているから鋭利さを感じさせることでは同じ。見る角度で形が異なるから変化があり飽きない。
3)小魚と一緒に遊泳。画像イ瞭更の魚に対し細長。
 a.餌にしようようと歯をむき出しにして追っている様にも見える。
 b.画像Δ砲5匹の小魚が見える。うち、尻尾の部分だけが2匹。
 c.小魚といっても背鰭・尾鰭・胸鰭等省略されず丹念に生地の色柄を選び、切り、組み合わせ、縫われている。
鉢合わせ
コブダイ2
1)コブダイ同士の縄張り争いの戦いの基本は、顔面対決。互いに近寄って出っ張った顎を相手の顎に向け、口をいっぱいに開けて威嚇し、競い合う(画像では、互いに顎と大きく開けた口を接触させる直前を描いている)。
2)これまで掲げた個別の部分画像から幾分全体的画像へと戻った。すると、個別では見えなかったものが見え出汁、分かるようになって来る。
 a.コブダイが海中で同じ深さでなく上・下に位置して対峙していうのがわかる。縄張り争いは映像からその両方が見られるが、上・下から睨み合う構図の採用は、その方が変化に富み 海の中らしさを表すのに効果的であるからだろう。
 b.小魚の尻尾の部分だけの画像と違って、全体が見えるようになった。また、小魚たちが、左右に行き交いしている様子もわかる。
 c.海中にも何層からの海流が流れていることを生地の色柄の組み合わせによって伝えている。
3)双方小魚を狙っていると思われたものが、コブダイの雄同士の縄張り争いが本質的。
─岾い蝋啌ぁ彖澗硫菫
コブダイ8
 これまでの1枚1枚の画像では判らなかったものが、当画像で作品全体が判った。だが、その全体画像1枚だけで当作品の意味の厚さや広さや深さが判るわけでない。それらを同じく備えたパーツあってのものである。

3.当キルト作品から思い出した絵画・調べて知った画法など
ヽい涼罎粒のの描写からモネの作品「ラ・グルヌイエール」と絵画技法「色彩分割」=「筆触分割」
1)「ラ・グルヌイエール」
モネ ラ・グルヌイエール
 1869年作  | 75×100cm | 油彩・画布 | メトロポリタン美術館(ニューヨーク)
 a「印象派最大の巨匠クロード・モネ1860年代を代表する作品のひとつ『ラ・グルヌイエール』。本作に描かれるのは実業家スーランが興した、パリに程近いブージヴァル近郊セーヌ河畔の新興行楽地であった水上のカフェのある水浴場≪ラ・グルヌイエール≫で、1869年夏に友人であるルノワールと共に同地へ赴き、画架を並べ描いた作品としても広く知られている。「蛙の棲み処」という意味をもつラ・グルヌイエールの中央には、「植木鉢(又はカマンベール)」と呼ばれた人工の島があり、本作にもその島に集う人々が描かれているほか、画面右部には水上カフェを、画面下部には水上を行き交う小船を確認することができる。この頃(おそらく)サロン入選を目指していたと推測されていたモネとルノワールは当時、ラ・グルヌイエールで水面に反射する陽光の効果と表現の研究に没頭しており、光によって変化する色彩を、画面上に細かい筆触を置くことによって視覚的に混合させる≪筆触分割≫と呼ばれる表現手法を『ラ・グルヌイエール』の製作によって生み出した。このような点から現在では、近代的な画題(本作では新興行楽地ラ・グルヌイエール)を新たな表現手法(筆触分割)で描くという、所謂≪印象主義≫が本作によって誕生したと位置づけられており、画家の作品の中でも特に注目すべき作品のひとつである。なお本作は残される書簡から習作である可能性も指摘されている。」(資料:Salvastyle.com - ++ All Rights Reserved.)
 b、写真では絵画ほど湖面の波紋を波立っているように表現するのは難しく、だからこそ絵画の価値があるとモネの当作品から確信。25年ほど前(現在の東京都庁舎の落成式が1991年3月というからその1〜2年後くらい)息抜き・娯楽用にある書店でカラー画像付き西洋美術史の文庫本を購入したことでモネの存在を知った。その後東京出張の帰り余裕時間あったの銀座に行ってたまたま三越に入り、たまたまモネの睡蓮の絵画展をやっていたので鑑賞。その時にモネが日晩年視力が衰え色彩感覚がなくなったこと、日本風好み(ジャポニズム)の持ち主であったことを知った。
2)色彩分割
 a.「モネをはじめ、印象派の絵画の特徴のひとつには、「 色彩分割 」 とか 「 筆触分割 」 とか言われる技法があります。
 光の三原色は、青・赤・緑の三色。 それに比して色 ( 絵の具 ) の三原色は、青・赤・黄となります。カクテル光線と言われるように、光は三原色が混ざれば白く輝きますが、絵の具は三原色が混ざればグレーに濁って、暗い色になってしまいます。光は混ぜれば混ぜるほど明るく輝きますが〔「加法混色」〕、絵の具は暗く沈んでしまう〔「減法混色」〕のです。
  色彩分割とは、絵の具を混ぜて中間色を作ろうとするとどうしても濁ってしまうので絵の具を混ぜずに澄んだ色のままキャンバスに乗せ、隣接する部分に本来混ぜようとする色を乗せ・・・とすることで、あくまでも塗る色自体は澄んだ色・・・ 一筆ごとに澄んだ色を乗せることで、画布全体としては明るく澄んだ色の集合体とするのです。そうしてそこから発せられる光を観者の目が捉えるときに、観者の目の中で混ぜて、本来画家が表現したいと考えた色に合成して観てもらおうというものです。( だから印象派の絵は、数メートル、時には10メートル以上離れて観ると、実に深い味わいになりますね )」 (資料:ironim.tumblr.com/)
 b.「色彩分割 」  「 筆触分割 」は、上記より字の通り色を分ける=色を混ぜ合わせないというの特質と解す。    既存の色柄を縫い合わすキルトの有す美術的要素もそれに含まれる。従って、対象物から離れて観るもよし、また美術だけでなく工芸技術の優秀性を堪能する面からも位置を変えて接近して観るもよしである。
▲灰屮瀬い隆藾澗里らピカソの」「泣く女」
泣く女
「泣く女」:パブロ・ピカソ、1937年作、油絵、所蔵:テイト・ギャラリー(ロンドン)
  (資料:ウィキペディア)

その他の画法
1)点描
 a.「点描(てんびょう、: pointillism)は、絵画などにおいて線ではなく点の集合や非常に短いタッチで表現する技法である。点描画点描法点画スティップリング(Stippling)とも言う。

印象派による鮮やかな色の配列の視覚混合を、フランスの画家、ジョルジュ・スーラがさらに追求し、点描主義(新印象派)を確立。ポール・シニャックカミーユ・ピサロらを生み出した。

  水墨画では、米芾米友仁による、水墨の点を集合させて表現する米点法があり、その作品を米法山水と言う。コンピュータグラフィックスにおいては、フィルターを使用し、写実的な画像や写真を点描に変換することができる。科学におけるスケッチでは、陰影を着けるための技法である。(ウィキペディァ)
 b.色の付いた点の集合に対しいろいろない色の布パーツの集合という点で点描は、キルトに通じている。
2)ちぎり絵
 a.「ちぎり絵は、ちぎった
を台紙に貼って表現した作品のこと。貼り絵ちぎり紙とも言う。

主に和紙を使用し、手でちぎって台紙に貼って作成する。紙のちぎれた部分の質感などが独特な雰囲気を演出する。ちぎり絵の作家としては山下清、亀井健三が有名」(ウィキペディァ)
 b.キルトと異なり素材は布でなく色紙で、「縫う」でなく「貼る」。
  10年3月21日号「佐度の画廊21:ちぎり絵」、13年3月22日号「佐度の画廊33:和紙ちぎり絵作品展」
ちぎり絵 加茂湖和紙ちぎり絵 加茂湖
     加茂湖 臼杵キヌ              加茂湖 中川 妙      
3)裂き織り
 a.裂織並びに作品について、13年31日号「佐度の画廊35:裂織展」、15年2月29日号「佐度の画廊35:裂織展」に記述。
 b.キルトの「縫う」に対し、和服・洋服の生地や草杢の茎などを経糸・緯糸にして「織る」。
裂き織りィ裂き織りァ
     たちばた(高機)織          ねまりばた(地機)織
4.まとめ
 一つのキルト作品かあたかも数十点の優れた絵画を観たに匹敵するよう情報・感動・娯楽を享受。
 東京国際キルトフェスティバル展入賞・入選作品をウェブを通し複数の記事から100点以上は拝観したが、観た限りでは図案が大半(悪いことでは断じてない。図案も広くは絵画)。絵画のような作品があっても断面を捉えた風景画や静物画で、当作品のようにストーリー性があり、時間をかけて楽しんだ作品は、正直見当たらなかった。但し、これは当然個人の感覚的基準・好みに過ぎず、普遍的・公的・標準的基準でない。
 本質は、1枚の全体画像でなくて(作品自体縦2m・横1.5mあり展示会場で全体を撮るのは困難)細かい色柄の生地から成ることが分かる6枚の部分画像を観たことが幸いした。さらに画像より直接作品にせするのがよいに決まっているが、同級のブログを見なかったら、良さを見逃し記事にしなかった可能性は大。そして後で作家によって送信された全体画像からストーリーが生まれ、部分と全体の関連でいわば旧知の楽曲が連想され、まとめに入れる構想が浮かんだ。
 抽象表現とだが、キルトおける布パーツは、音楽おいては楽器のパートに相当。
 音楽の視点でキルトを考えれば、キルトの持ち味・凄さの認識が一層深まり、楽しさを満喫できる。
 そのモデルが次の2曲で集約される。
              記
1) 『青少年ための管弦楽入門』The Young Person's Guide to the Orchestra
 a.イギリスの作曲家ブリテンが1945年に作曲した管弦楽曲。英国放送協会(BBC)が制作した音楽教育映画 "Instruments of the Orchestra" (オーケストラの楽器)のために作曲された。
 b.曲は、17世紀イギリスの作曲家ヘンリー・パーセル(1659〜1696)の劇付随音楽『アブデラザール』の「ロンドの主題による変奏曲とフーガで、トゥッテイ〔全ての奏者が同時に奏すること:フル楽器奏者演奏〕とアンサンブル〔2人以上が同時演奏〕からなる主題提示部、変奏とフーガからなる展開部、再現部、結尾部の4つから構成。

 変奏曲のそれぞれの変奏にオーケストラで使用されるさまざまな楽器の独奏を配置するという形式をとり、それぞれの変奏にはナレーター(解説者)による解説が付き、オーケストラの各々の楽器を紹介する形になっている。
〔曲について 始めに部分楽器で奏され、最後は全楽器の総動員で締めくくられる音楽のモデルと思っていたが、正解は全体→部分楽器群→個別楽器→部分楽器群→全体であった〕
 c.曲の構成
  
主題の提示:パーセルの主題が、編成を変え順に提示される。
   トゥッテイ→木管合奏→金管合奏→弦楽合奏→打楽器合奏→トゥッテイ
  変奏:主題がオーケストラの各々の楽器で変奏される。
   木管楽器(フルートとピッコロ →オーボエ →クラリネット→ファゴット)
     ↓
   弦楽器(ヴァイオリン→ ヴィオラ →チェロ→コントラバス→ ハープ )
     ↓ 
   金管楽器(ホルン →トランペット →トロンボーンとチューバ )
     ↓
   打楽器 (ティンパニ→大太鼓とシンバル→タンブリンとトライアングル→小太鼓とウッドブロック(木魚)→シロフォン(木琴)→カスタネットとタムタム(銅鑼)→むち)
  フーガ
   
ブリテンのオリジナル主題
     ↓
   展開部(変奏において紹介された楽器の順でフーガを形成)
     ↓
   再現部(パーセルの主題)
     ↓
   結尾部(ブリテンの主題とパーセルの主題の二重フーガに移行し全楽器の総動員で壮大に終わる)
2)組曲『展覧会の絵
 a.ロシアの作曲家ムソルグスキーが1874年に作曲したピアノ組曲。建築家で画家であった友人ハルトマンの遺作展を訪れて鑑賞し、印象に残った10枚の絵を音楽にした。その後、今日に至るまで古今東西の多くの音楽家によりさまざまな楽器を使った編曲がなされている。
 例:管弦楽(リムスキー=コルサコフ版、ラヴェル版)、ピアノ協奏曲、室内楽(室内オーケストラ、オルガンと打楽器アンサンブル、木管五重奏)、吹奏楽、マンドリンオーケストラ、器楽曲(チェロとピアノ、トロンボーンとピアノ、ギター独奏、アコーディオンロック、ジャズ、その他(冨田勲シンセサイザー版、彭修文(ペン・シュウェン版(中国民族楽器大合奏)、甲田潤版(全曲に歌詞をつけた混声合唱)
 〔『展覧会の絵』は、絵画と音楽との関係を示す例として念頭にあったが、個々の絵画からの印象から成る組曲でしかも原曲はピアノ独奏のためキルトのような部分と全体との係わりを示すには適切な例と言えないということで敬遠。ところが、ピアノだけでなくいろいろな楽器に使われていること、水墨画のように墨一色でも絵画のような多様な色・形ー雲・
霧・雨・雪、川・滝・波・雫ーを表現でき、むしろ適例と言うことになった。3年ほど前くらいかたまたまNHKテレビ日曜夜9時からの「クラシシック音楽館」(普段は床についている時間帯で存在も知らず見たことはない)で来日した若い外国人のピアノ独奏を聴き、これまでの『展覧会の絵』はスケールから管弦楽に限るとの先観念が消え、ピアノだけの演奏も迫力あって凄いと感じ入ったのを思い出した。そのため、パソコンでユーチューブから管弦楽でなくピアノ独奏のものを探すと、イギリスのピアニスト フレディ・ケンプの『展覧会の絵』を見つけて視聴。オーケストラに引けを取らず、むしろそれを上回る迫力のある演奏に接し再認識。この4月10日には半年ぶりに新潟の自宅近くにある名曲スナック(完全防音・大画面・大音響装置、スクリーン・ステージ・カラオケも有り。予約制)へ行き堪能。それは、ピアノの指使いー終曲のある部分では10本すべての指が鍵盤を叩いているーを確認することも大きな狙いでもあった〕
 b.曲は、「プロムナード」〔「散歩道」の意〕という短い間奏曲が曲と曲の間を繋ぎ、あたかも一つの絵の鑑賞を終え次の絵へt移移動する様子が変奏形式でく繰り返し表現される。
 c.曲の構成
  第1プロムナード                                         変ロ長調
  1.小人(グノーム )変ロ長調              変ホ短調
  第2プロムナード変ホ短調                変イ長調
  2.古城  変イ長調                    嬰ト短調
  第3プロムナード                      ロ長調
  3.テュイルリーの庭-遊びの後の子供達の口喧嘩   〃
  4.ビドロ(牛車)                      嬰ト短調
  第4プロムナード                      ニ短調
  5.卵の殻をつけた雛の踊り                ヘ長調
  6.サムエル・ゴールデンベルクとシュムイレ     変ロ短調
  7.リモージュの市場                   変ホ長調
  8.カタコンベ - ローマ時代の墓             イ短調
    死せる言葉による死者への呼びかけ       ロ短調
  9.鶏の足の上に建つ小屋 - バーバ・ヤガー     イ短調
 10.キエフの大門                      変ホ長調          
  (最後は、10本の指を使って終わる)

 『青少年ための管弦楽入門』及び『展覧会の絵』の締めくくりは、全楽器か10本指全部をピアノの鍵盤に働かせている。
  当ブログ記事での驚きは、たった一つのキルト作品「故郷佐渡の海掘廠い蝋啌ぁ廚ら古今東西・人類の歴史を感じさせたことにあろう。
 テーマはローカル・ミクロの世界であるがそれ故日本というマクロ枠を超え、生存競争の激しい適者生存のグローバル世界への進展を感じた。
   以上   2017.4.11

《メモ》
  キルトと刺しゅうの祭典「キルト@ステッチショー2017」東京・新潟・大阪開催
  新潟開催
   会期:2017年10月25日(水)〜10月27日(金)

   会場:新潟市 朱鷺メッセ

   主催:UX新潟テレビ21
   共催:公益財団法人日本手芸普及協会、株式会社日本ヴォーグ社     

   協力:ヴォーグ学園

    以上

  追記:新潟三越キルト展(女史からのケータイメール)
  開催:6月21(水)〜26日(日)
  展示点数は30点くらい。
  案内チラシの写真が、「故郷の佐渡の海軍い蝋啌ぁ廚坊萃蠅箸里海函
    以上 4.11

  










歴史スポット63: 公卿・歌人 京極為兼


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歴史スポット62:文永の役と日蓮

 こんにちは!自在業の櫻井です。
 前々号の歴史スポット61「承久の乱と順徳上皇」の次に同62「文永の役と日蓮」が来るのは必然。同60「正中の変と日野資朝」から続いている。
 共通点は、
  1)鎌倉時代であること
  2)日本中を揺るがす大きな事件であったこと
  3)時の政権から政治犯として佐渡へ流されたこと
 の3点。
  文永の役については、前々号にも若干触れているが、今回は元の日本攻略の狙いと日蓮の係わりのを中心にまとめる。日蓮についてはなぜ政治に関心を持ったか、なぜ鎌倉幕府から睨まれ佐渡配流となったか、日蓮の思想が佐渡配流前と後で変わったとされるがどの部分でなぜか、今日の日蓮宗の全国・佐渡での位置 がどこまで判るかが課題。
 (資料:「Weblio辞書」、「世界史の窓」、「日本史のとびら」、「ウィキペディア」、『蒙古襲来と徳政令』(筧雅博著))  

以下、工事中!

1.平安後期〜鎌倉時代日本を取り巻く東アジアの情勢
(1)中国・宋(960〜1279年
〃国
1)宋は、五代十国時代最後の王朝・後周(951〜 960年)の宋州(河南省商丘県)節度使の趙匡胤(ちょう きょういん)が、皇帝から禅譲を受けて建国。通常、北宋960〜1126年:首都・開封)と1127年女真族の金に華北を奪われ、南下した南宋(1127〜1279年:首都・杭州)とに呼び分けている。
 【参考】
1「五代十国時代」:唐の滅亡(907年)から宋の成立(960年)までの50余年間、黄河流域を中心とする華北では5つの王朝(五代後梁・後唐・後晋・後漢・後周が交替、その他の華北と華中・華南では呉越・南唐・前蜀・後蜀・呉・閩(びん)・荊南・楚・南漢・北漢の10王朝(十国)が興亡した争乱の時代。中国の歴史では・・・→周→秦→漢→三国〔魏・呉・蜀〕→晋〔西晋→東晋〕→南北朝〔北魏(北朝439年〜)・陳(南朝〜589年)〕→隋〔581〜618〕→唐〔618〜907〕→五代〔十国〕→宋(北宋→南宋)→元→明・・・に位置。
2「節度使」
 1)前身は、辺境警備のため置かれた都護府。前漢時代紀元前59年に設けられた西域都護府(長官名:都護)が始まり。唐代では第2代太宗期(在位:626〜649)に領土を広げ、広範囲に都護府を配置。
 a.唐代での都護府
 顱飽太湘垳酩棔В僑苅闇。タリム盆地(シルクロード天山南路の守備及び突厥〔テュルク系民族遊牧国家〕・吐蕃〔とばん:チベット民族国〕からの防衛。787年吐蕃に滅ぼされる)
 髻頬鳴軼垳酩
:640年。ジュンガル盆地(シルクロード天山北路方面の守備)。790年吐蕃に占領される)
 鵝飽陀姪垳酩棔В僑苅掲。外モンゴル
 堯肪頴嘉垳酩棔В僑毅闇。内モンゴル
  〔主なモンゴル系民族:東胡〔匈奴によって国家滅亡〕、烏桓〔匈奴の攻撃から烏桓山に逃れた東胡の残存種族は匈奴の臣下となり、紀元前85年 - 同68年代以降叛服を繰り返すようになり、匈奴が北と南に分裂し北匈奴の滅亡などで勢力が衰える後漢の時代になるとその臣下となり、後漢の国境警備に当った。なお、残された南匈奴は後漢に服属し辺境守備に当たった〕、鮮卑〔(前述の烏桓に対し鮮卑山に逃れた)鮮卑も前漢時代は匈奴に服していたが、後漢時代になってから後漢に対して叛服を繰り返すようになり、北匈奴の西走後のモンゴル高原を占拠し、大帝国を築いた時代があった。その後部族が分裂し、五胡十六国時代南北朝時代をもたらした〕、柔然、突厥、契丹〔満州から中央アジアの地域に存在した半農半牧の民族。10世紀に王朝「遼」を築く。1004年北宋と澶淵(せんえん)の盟を結び、北宋から遼へ莫大な財貨が毎年送られてきた〕、奚、豆莫婁、室韋(三十姓タタル)
 )濛池都護府:658年。中央アジア(西突厥阿史那賀魯討伐後に設置)
 )昆陵都護府:  〃       〃
〔「西突厥」:突厥から582年東西に分離した西の勢力。版図は、東はアルタイ山脈、南はタリム盆地,西はカスピ海東沿岸。「657年、西可汗の阿史那賀魯が唐に捕らえられて以降、西突厥は唐の羈縻〔きび〕政策下に入った」
 「羈縻政策」:中国の王朝による周辺異民族国に対する統治政策、領域化(内地化)・覊縻(きび)・冊封(さくほう)で従属関係堅持。「古くは漢の時代にみられるが、唐の時代に最も巧みに利用」
 ・領域化(内地化):占領地・支配地に内地と同じ州県を設置し、中央から官僚を派遣し、現地民を中国の国法下に置き支配する。
 ・覊縻:支配地の管理者には中国・漢人寄りの首長を選んで都督・刺史・県令などに就け、彼らがもともと有していた統治権を中国の政治構造における官吏であるという名目で行使させた。羈縻とは,「羈」が馬の手綱,「縻」が牛の鼻綱で,つなぎとめる意味。ある程度の自由は与えて〔懐柔して〕暴れさせず統制する。
 唐における羈縻州は、その初期には辺境の都督府が管掌し、漢人官僚の下に首長など辺外部族の有力者が組織されたが、領域が広がるにしたがって新たに都護府が設けられ、これによって統括されるようになった。都護府では長官である都護をはじめ主要な職員はすべて漢人あるいは漢化した異民族が当てられた
 ・冊封:称号・任命書・印章の授受を媒介として中国「天子」と近諸国・異民族の長が取り結ぶ君臣関係(「宗主国」と「朝貢国」)を伴う外交関係。周辺民族・国家の首長に王や侯といった爵号を与え、中国支配下に組み込む。

 )安東都護府:668年。朝鮮半島(高句麗を滅ぼし平壌に設置。満州も管轄)
 )安南都護府:681年。東南アジア(前身は622年設置の交州〔ベトナム〕大総管府)

b.府兵制
ァ.府兵制は、中国北部遊牧騎馬民族・鮮卑族の拓跋氏が386年華北を統一して建国した北魏が後に東西に分裂して成立した西魏〔存立535〜556年〕が農耕民を軍事力に組織する制度として始まり、隋・唐に継承〔6世紀半ば〜8世紀半ば〕された兵制で、均田制〔土地の国有が原則、給地・給田するが収穫時に税を課し、定年または死亡時国へ返還。北魏の485年に始まる〕・租庸調制と共に律令制度国家を支える三本の柱の一つ。
ィ.唐の府兵制〔要調査〕
 顱肪男(21〜59歳)を対象に3人に1人の割合で折衝府が徴兵。農閑期年間3ヶ月の軍事訓練年1〜2回30日衛士として首都警備在任期間中3年間は防人として辺境地での防衛

 髻棒涵徂椶蓮∩換駝鵤僑娃哀所に設置〔うち辺境は200〕。兵力(人)により上(1000〜1200)・中(800〜1000)・下(600〜800)管内の農民〔府兵〕の徴集・訓練・派遣を司った。

 鵝防槓爾蓮∪涵徂椶涼屬れた州(軍府州)の均田農民から徴兵。兵農分離に対し兵農一致、募兵制に対し徴兵制、支給に対し武器・食糧自給(租庸調は免除)。府兵は、折衝府の置かれた州(軍府州)の均田農民から徴兵し、租庸調は免除されたが武器・食糧は自弁。遠征軍「行軍」を編成するときは兵を募集、その場合官給。
 〔参考:唐の均田制〕
 ・丁男(21歳〜59歳)・中男(16歳〜20歳)に一律に口分田80畝、永業田20畝の計100畝を給田。(唐の100畝≒5.5ha≒5.5町〕。妻や奴婢は給田されない。
 ・口分田は60歳で半分
返還、死ねば全部返還。永業田は世襲できる。
 ・口分田の班給は毎年行われる(日本の班田収受法は6年に一度)。
 ・官吏には公田として職分田、公廨田(くがいでん)、官人永業田が支給された。
 ・口分田受給者に対し、租庸調・雑徭その他の税兵役の義務が課せられる。

ゥ.唐の600年代後半から均田制の崩壊と共に府兵制の崩壊が進行。 

 顱2代目太宗期(626〜649)の領土拡大による辺境警備の必要性の高まりと農民負担の増加〔華北地域では秋耕定着で農作業の通年化〕による徴兵忌避、人口増加と土地私有化が進んで未授給の欠田戸が増え、武周期〔690〜705年〕には窮迫した農民が本籍地から逃亡する逃戸・逃亡先で定着した客戸浮戸とも呼ぶ〕・小作人である佃戸が増える。

 髻防霏天期〔=武周期690〜705〕から玄宗期〔712〜756〕にかけ「佃戸の増大〔荘園増大・安史の乱〔755〜763年〕以降は藩鎮が経営する営田の増加〕により、租庸調の収入は激減」「唐中期から租庸調とは別立ての税が出てくる」「安史の乱〔755〜763年〕以後には財政の悪化も影響し、税目が非常に多岐」「内容も非常に複雑で不公平になりやすい」「乱以降に割拠した藩鎮勢力はこれらを恣意的に取り立てて自らの財源として扱い、不公平はますます酷くなった。この不公平が更に逃戸を生み出し、それがなお財政の悪化をもたらすという悪循環」、780年に複雑な税制を夏二つに纏[まと]める両税法〔6月夏税(対象:絹・綿・麦)と11月冬税(対象:稲・粟)」〕が施行され、均田制は実質消滅。

 鵝法嵒槓疾では外敵の動きに対して機敏に対処することが難しく、唐政府は常備軍を欲するようになり、府兵に変わって行軍が主に使用されるようになる。辺境でもそれは同じであり、羈縻州に対して都護府が設置され、その下に募兵による行軍がいた。儀鳳年間(676年 - 678年)に軍制の改革が行われ、軍鎮と呼ばれる組織が辺境防衛に当たることになる。しかし、この軍鎮の統制が難しくなり、各地方で強力に軍鎮を統制する節度使が登場」「これらの兵士たちは全て募兵であり、生活を国家からの支給で賄う職業軍人であった。ここに至り、唐における兵農分離が完成し、府兵制は完全に消滅した」
2)都護府に代わる節度使の設置
.「唐の中期以降、均田制の崩壊に伴い、府兵制による辺境の防備が出来なくなると、唐王朝は募兵制に切り替え、地方有力者の子弟を募集して募兵とし、軍鎮をおいた。そして、一定地域の軍鎮を統括する藩鎮を置き、その募兵集団の司令官として節度使を任命した。節度使は律令の規定にない令外官であり、それまでの都護府に代わり辺境の防備に責任を持つとともに行政権も与えられ、強大な地方権力に成長するようになる」
ァ.節度使設置は玄宗(在位712〜756)の時の710年代に始まり十節度使が設けられた。唐代には40〜50に及んだ。
 節度使は安西・北庭
・平盧の長城外節度使とそれ以外の長城内節度使に分けられる。長城外節度使には武人や蕃将(異民族出身の将軍)が就けられ、長城内節度使には中央から派遣された文官が付くのが当初の方針であり、節度使は宰相へと登るためのエリートコースとされていた。しかし玄宗に重用された宰相李林甫は政敵の出現を恐れて、宰相になれない蕃将を積極的に節度使として登用した。安禄山も玄宗の寵愛を受け、平盧節度使となり、更に范陽・河東を兼任した。
 設置年  節度使名 治所       設置目的         兵力:人

  710年   安西  亀茲  天山南路の防衛、西突厥  24000
  710年  河西  涼州   吐蕃と突厥の連携阻止   73000
  711年     河東     太原        突厥                              55000
  711年 嶺南五府経略使  広州     夷獠                       15400
  712年     北庭     庭州      天山北路                         20000
  713年     范陽     幽州         奚・契丹                        91400
  713年     隴右     鄯州        吐蕃                              75000
  714年     剣南     成都       吐蕃・吐谷渾(とよくこん)   30900
  719年     平盧     営州        室韋・靺鞨(まつかつ)      37500
    靺鞨:隋唐時代中国東北部(現ロシア・沿海地方)に存在した農耕漁労民族。
  721年      朔方     霊州       突厥              64700
 ィ.
「節度使は駐屯軍の将軍とその地方の財政官を兼ね、任地の税収を軍の糧秣と兵士の雇用に使う」 

 ゥ.「有能な節度使は、管轄下の数州の軍事・民政・財政の権力を握った。安史の乱後 節度使は辺境のみならず、国内も置かれるようになり、唐代には40〜50に及んだ。唐末から五代にかけ多数の藩鎮が分立。唐の滅亡から五代十国の建国者は多くこの藩鎮であった」





 鵝法峭陳襪らの禅譲」

 a.五代で随一の名君とされる後周第2代皇帝柴栄(さいえい:世宗)は、唐の滅亡以来の中国再統一を目指し北漢、後蜀、南唐、遼を攻めて領土を広げたが、遠征の途中38歳で病死。
 b.7歳の息子が後を継いだが、幼帝に不安を抱いた軍人たちは、遠征に派遣された軍中でその司令官であった殿前都点検(近衛軍長官)の
趙匡胤を擁立した。ほとんど抵抗を受けずに開封に入った趙匡胤は、恭帝から禅譲を受けて

を立てた7歳の息子が帝位に即いたが、翌960年北方の大国・遼の軍勢が侵攻してきたとの知らせを受けた後周の朝廷は、殿前都点検・趙匡胤を国防の総帥に任じ、遼軍への対処を委ねた。

中国統一を目指すが志半ばで急死、弟が跡を継いだ


南唐を抑えた柴栄は、次に軍事的に最強の敵である北の契丹とその衛星国である北漢を相手取り、959年に燕雲十六州のうち、南寄りの2州を奪取した。

さらに軍を北上させようと幽州へと入るが、柴栄はこの陣中で病に倒れ、開封へ引き返し、間もなく死去した。享年39。
契丹(きったん、キタン、キタイ、拼音: Qidān)は、
4世紀から14世紀にかけて、満州から中央アジアの地域に存在した半農半牧の民族10世紀初頭に現在の中国の北部に帝国を建国し、国号をと号した。しかし12世紀に入り次第に勢力を強める女真と結び南下し、挟撃された遼は1125年に滅ぼされた。契丹人の多くは女真に取り込まれ、一部は中央アジアに逃れて西遼(カラ・キタイ)を建てた。

 


 b.建国当初より太祖の方針もあり文治主義。このため常に周辺諸国の軍事的脅威に晒され財物を下賜し平和を買った(朝貢貿易)。
 ァ.1004年軍を率い南下を始めた遼〔契丹]と盟約〔澶淵の盟〕。内容:国境の現状維持(宋から遼に年間20万匹・10万両を送ること〔遼は初め、領土割譲を求めたが強い宋の拒否で金品で妥協]
  「この条約による平和は1世紀以上続き、宋の経済や文化の発展の基礎になった」

 ィ.1042年宋が、たびたび西夏に手を焼いているのを見た遼は、宋に対して再び領土割譲を求め、絹・銀双方を10万ずつ上乗せすることで妥協した。
 ゥ.1038年李元昊が中国北西部に建国した

西夏は、たびたび宋の領内に侵入を繰り返し、撃退に手を焼いた宋は1044年、西夏と慶暦の和約を結ぶ。これにより宋を君、西夏を臣と位置付け、宋は毎年銀5万両、絹13万匹、茶2万斤を贈ることなどが約され、和議が成立した。 また宋と西夏との争いに乗じて遼が宋に領土の割譲を求めたが、支払う財貨の増額により両国は妥結した。
 エ、 海上の盟は、1120年北宋の間で(契丹)を挟撃するために締結された軍事同盟。
 

 現在の内モンゴル自治区の東南部、遼河の上流域にいた契丹族の耶律阿保機(太祖)が907年、契丹可汗の位について勢力を蓄え、916年に天皇帝と称し年号を神冊と定めたのが遼の起こりである。太祖耶律阿保機は西はモンゴル高原東部のモンゴル族を攻め、926年東は渤海を滅ぼして東丹国を建て、満州からモンゴル高原東部までに及ぶ帝国を作り上げた。

さらに2代耶律徳光五代後晋から華北北京大同近辺(燕雲十六州)の割譲を受ける。この時に渤海旧領とあわせて多くの農耕を主とする定住民を抱えることになった。このため、遼はモンゴル高原の遊牧民統治機構(北面官)と南朝式の定住民統治機構(南面官)を持つ二元的な国制を発展させ、最初の征服王朝と評価されている。

太宗は燕雲十六州の奪還をもくろんで、北伐軍を起こしたが、遼は撃退した。しかし遼の側でも、この時期には皇帝の擁立合戦が起きて内部での争いに忙しく、宋に介入する余力はなかった。6代聖宗は内部抗争を収めて、中央集権を進めた。1004年、再び宋へ遠征軍を送り淵の盟を結んで、遼を弟・宋を兄とするものの、毎年大量の絹と銀を宋から遼に送ることを約束させ、和平条約を結んだ。これにより、遼と宋の間には100年以上平和が保たれた。

その後は宋から入る収入により経済力をつけたことで、国力を増大させ、西の西夏を服属させることに成功し、北アジアの最強国となった。また、豊かな財政を背景に文化を発展させ、中国から様々な文物を取り入れて、繁栄は頂点に達した。しかし遼の貴族層の中では贅沢が募るようになり、建国の時の強大な武力は弱まっていった。また服属させている女真族などの民族に対しての収奪も激しくなり、恨みを買った。

女真は次第に強大になり、1115年には自らの王朝を立て、遼に対して反旗を翻した。遼は大軍を送って鎮圧しようとするが逆に大敗し、遼弱しと見た宋は金と盟約を結んで遼を挟撃し、最後は1125年に金に滅ぼされた。このとき、一部の契丹人は王族の耶律大石に率いられて中央アジアに移住し、西遼(カラ・キタイ)を立てた(他に王族の耶律淳北遼13世紀に成立した旧王族耶律留哥東遼などもある)


 
2)平氏政権が滅亡し鎌倉幕府が樹立した後も日宋間に正式な国交は開かれていなかったが、私的な貿易や僧侶・商人の往来など、両国の通交は盛んに行われていた。


 a.日宋貿易は、10〜13世紀(平安中期〜鎌倉中期)朝鮮半島高麗を含めた三国間で行われた。
 b.

1158年平清盛(1118〜1181)は、日本で最初の人工港を博多に築き貿易を本格化させ、1173年に大輪田泊(現在の神戸港の一部)を拡張し、正式に国交を開いて貿易振興策を行った。
 【これは、同じwiki(この場合「孝宗(宋)」)の「日本との関係では平氏政権の平清盛との日宋貿易を行なっている時期に相当するが、あくまで民間交流・貿易であり、正式な国交は無かった」と矛盾。「正式な国交は無かった」の解説は、本質的に間違い。解説者は「正式な国交」を難しく考えているようであるが、国が相手国と自国の民間人から何の税金も取らず取引を自由にさせるはずはない。当時宋銭が後述の通り日本で通用していたことは事実】 
 c.鎌倉時代博多は多くの宋人が住み国際都市となり、宋の商人は越前敦賀へも来航した。一方、宋銭(銅銭)の大量流入で日本に貨幣経済が発達し、物価が乱高下するようになった。
 〔北宋時代に鋳造された「宋銭は、や西夏、東南アジア、遠くはペルシア・アフリカ方面にも及んだ」【銅貨は消滅するものでなく、流通にはモンゴル帝国・後の元も絡んだに相違ない】。南宋時代になると「経費が嵩む銅銭の鋳造が減り、紙幣〔「会子」〕

を発行し銀と共に取引に使用されるようになった」。「最古の紙幣は1023年から北宋の政府紙幣として流通した「交子」で一種の証書・手形」。(wiki) 「係わりの地85東京(日本橋・金座・銀座)(その2)まとめ」。
3)勢力を中国に伸ばしてきたモンゴル帝国と対立。
 a.1233年モンゴル帝国は金の首都開封〔かっての北宋時代の首都]を陥落、南に逃げた金の最後の皇帝を宋軍と協力して追い詰め、1234年金は滅びた。

 b.1235年宋軍は北上して洛陽・開封を回復したが、これはモンゴルとの和約違反でモンゴル軍と戦闘状態に入る(モンゴル・南宋戦争)。長江流域を挟み一進一退を40年余り繰り返した。
 c.1235年、宋軍は北上して洛陽開封を回復したが、これはモンゴルとの和約違反であり、モンゴル軍と戦闘状態に入る(モンゴル・南宋戦争)。暫くは長江流域を挟み一進一退を繰り返すが、クビライ襄陽を陥落させる頃には最早内部崩壊により抵抗する力は無く、1276年、モンゴルのバヤン臨安を占領されて事実上宋は滅亡した。南走して徹底抗戦を続けた一部の皇族・官僚・軍人らも1279年広州湾の兒海埜儀海坊睫任気譟∩廚牢袷瓦北任咾拭兒海寮錣)。クビライが襄陽を陥落させる頃には抵抗力は無く、1276年モンゴルに臨安を占領され事実上滅亡。

モンゴル帝国勃興と世界侵攻
1)モンゴル高原(モンゴリア)〔「草原」の方が本質表現〕は、モンゴルからトルキスタンまで広く勢力を張っていたウイグル可汗国〔遊牧民族の君主国]が840年キルギスによって崩壊されて以降 統一国家が存在せず、南モンゴリアは遼〔契丹人(キタイ人:半農半牧民族)の耶律氏(ヤリュート氏)の征服王朝]と金〔女真族の完顔部から出た阿骨打が1115年遼に反乱を起こして独立王朝を建国〕が支配し、北モンゴリアは遊牧民の諸部族〔モンゴル部族はその一つ〕が連合を形成し 互いに抗争していた。

  チンギス・ハン誕生前の東・中央アジア主要部族・国家の勢力図 


 
        〔バイカル湖・東南にブルカン山〕      
               モンゴル      タタール 
      ナイマン    ケレイト     オングート
〔カスピ海〕   カラ・キタイ(西遼)   西夏    金   高麗
                              (北宋)
         ホラズム    吐蕃(チベット)   南宋   日本(鎌倉幕府)
           〃      ゴール朝(インド)   大理(東南アジア)
〔アラビア海〕                 〔ベンガル湾〕


  「モンゴル系民族」モンゴル部」(wiki) 
 「モンゴル」名の初出は『唐書』列伝で室韋」(しつい:610世紀まで中国東北部黒竜江流域に存在していた民族モンゴル系民族の源流と考えられている)の一部族として「蒙兀室韋」「蒙瓦部」の漢字名で表示。11世紀には「萌古国」で『遼史』に登場し遼に朝貢していた。〔遼は、内モンゴルを中心に中国北辺を支配した契丹人(キタイ人)征服王朝(916〜1125年)]このころのモンゴル部族はバイカル湖畔に住んでおり、1125年女真族のが遼を滅ぼした頃、モンゴル国の初代カン(王)となったのはカブル・カン。彼は金に朝貢した際に罪を犯したり、タタル部族と抗争したりした事を次代のアンバガイ・カンが罪に帰せられ、処刑された。後継のクトラ・カンは、その仇を討つべくモンゴル諸氏族を率いて金に攻め入り、多数の略奪品を持ち帰ったという。その後モンゴルのカンは空位となったが、代わってクトラ・カンの甥にあるイェスゲイ・バアトル〔チンギス・ハンの父〕が、キャト氏族とニルン諸氏族をとりまとめた。
 (イェスゲイは、12世紀中頃にモンゴル高原の北東部で活動したモンゴル部のうちボルジギン氏〔12世紀頃モンゴル高原北東部で一大勢力を築いたモンゴル部の有力氏族で全モンゴル部族を初めて支配したとされるカブル・カン輩出以来モンゴル部のカンを独占〕系キヤト氏の首長のひとり)

1)チンギス・ハン(幼名:テムジン)によるモンゴル部族・モンゴリア地域の統一
 a.モンゴル部族のボルジギン氏系キヤト氏の首長の一人イェスゲイを父、モンゴル部族の一
つコンギラト部族のオルクヌウト氏族の娘ホエルンを母とする長男のテムジン=チンギス・ハンは、幼い時父がタタール族に毒殺され苦労するが、成人するにつれ指導者として頭角を現した。

  【参考】チンギスの同母(ホエルン)兄弟一覧
   長男:チンギス(1162〜1227年)
   次男:ジョチ・カサル(1164?〜1213?) 
     三男:カウチン(1166?〜?)
    四男:テムゲ・オッチギン(1168?〜1246)
      長女:テムルン(1171?〜?) 
 b.東方のタタール、ケレイトなどモンゴル系部族を制圧し、1204年モンゴル高原の西南部を支配していたナイマン王国〔モンゴル部族と同系統のナイマン部族国家]を討ち、モンゴル高原の覇権を確立。
 c.モンゴル帝国の樹立


  モンゴル系部族を統一したテムジンは、1206年クリルタイ(部族長会議)で全モンゴルの君主としてハン(カンとも表記する)に推戴され、チンギス=ハン(チンギス=カン)と称することになった。モンゴル民族の統一国家が成立。

 d.帝国化の推進
 ァ.1206年チンギス・カンは西南の西夏に親征〔君主自ら軍を率いて遠征・征伐に出る〕。1209年まで3次に亘り西夏出兵し、服属。〔西夏は1216年チンギス・カンの出兵要請に拒否したため第4次西夏遠征]。1211年西ウイグル王国がモンゴルに帰順、その後モンゴリア西方のオイラトトメトカルルク西遼などの周辺諸国に遠征軍を送り帰順か征服を遂げ、南シベリア・中央アジアまで勢力を広げた。

 ィ.1211年から東南の金朝に遠征。中国東北地区(満州)と華北を席捲。金朝皇帝宣宗は先代衛紹王主〔皇帝の娘〕をチンギスに嫁がせ和睦を結んだ。金は、1214年河南開封へ遷都し河南のみを支配する小国に転落。

 ゥ.1218年から中央アジアのオアシス農業地帯に対する大規模な遠征軍を発し、中央アジアから西アジアまで広がる大帝ホラズム・シャー朝に侵攻、サマルカンド・ブハラ・ウルゲンチなど中央アジアの名だたる大都市に甚大な被害を与え、壊滅させた。
 顱縫船鵐ス・カンの本隊は、ホラズム・シャー朝の王子ジャラールッディーンを討伐するためアフガニスタン方面へ進軍。だが、バーミヤーンでチャガタイの長男が戦死、アフガニスタン中南部パルワーンでは駐留していたボルテの養子の軍が壊滅させられた(パルワーンの戦いは、チンギス・カンの西征でモンゴル軍が唯一敗れた戦い)
 髻縫船鵐スは
トルイを殿軍としてホラーサーンに駐留させ自らの本軍とジョチ、チャガタイ、オゴデイ率いる諸軍を引き連れ、ジャラールッディーンをインダス川のほとりまで追い落とし捕縛出来なかったが撃退に成功(インダス河畔の戦い)。

 鵝縫スピ海まで逃げた君主アラーウッディーンを追ったジェベスベエテイ率いる別働隊はアラーウッディーンの捜索を続けアゼルバイジャンからカフカスを抜けロシアに至り、ルーシ諸公(キエフ大公国の分列期から、ロシア・ツァーリ国(1547年イヴァン4世がツァーリの称号を帯びて以後1721年ピョートル1世がロシア帝国建国を宣言するまで用いられていたロシア国家の公称)、ポーランド共和国の成立までの期間に誕生したルーシの諸公国をまとめたもので、各公国は主としてロシア・ウクライナ・ベラルーシ、一部はポーランド、ラトビア等に存在)を破った(1223年カルカ河畔の戦い)。

 ェ.チンギスのモンゴリアへ帰還後、
 顱帽大になった領地を分割し、長男ジョチには南西シベリアから南ロシアの地まで将来征服しうる全ての土地、次男チャガタイには中央アジアの西遼の故地、三男オゴデイには西モンゴルおよびジュンガリアの支配権を与えた。四男末子トルイにはその時点では何も与えられないが、チンギスの死後に末子相続により本拠地モンゴル高原が与えられる事になっていた。

    《参考》末子相続
 相続は、農耕民族をはじめとして長子相続が一般であるが、遊牧民族では末子相続。息子が成人すれば親は、順次馬や羊を与えて(一般の遊牧民に財産としての土地はない)独立支援、最後に残った財産は末子が受け継ぐ。支配階級では、領民・領地が財産として分与。なお、家督相続は末子相続と一致しない。
 【wikiに、「モンゴル内部では末子相続の慣習に従ってオゴデイの弟でチンギスの末子に当たるトルイを後継者に求める声があった」とあるが、伝承でよいからその事をより詳しく知りたいものだ。食うか食われるか・服従するか抵抗するかの油断ならない時代や国柄で、末子ということだけで末子を皇帝にする=末子に国を託すことは、常識からしてあり得ない。「末子相続」という言葉からの思い込み・勘違いであろう】
 c.
 チンギスの後継は第3子のオゴタイ。中央アジアから北西インド・南ロシアまでにまたがる大帝国をつくりあげた。
 

1)オゴデイは、父に引き続いて積極的な領土拡大を行なった。
 a.1229年大ハーン就任後オゴデイは、トルイと協力して金遠征を図る。1232年金を滅ぼした。

 b.モンゴル帝国は定まった都を持たず天幕で移動していたが、1235年モンゴル高原の中の豊かな草原地帯に宮殿・城壁を築き首都カラコルムを建設。
 ァ.ここを中心に帝国各領内に通じる幹線道路網の建設が進められ、街道10里ごとに駅伝(ジャムチ:人馬提供可能な宿駅)が設けられた。
 ィ.同地でクリルタイ開催。南宋方面とキプチャク草原からルーシ・東欧に至る西方遠征の二大遠征、朝鮮半島の高麗、インド北部・パキスタン北東部の国境付近にひろがる山岳地域のカシミールへの遠征計画を決議。
 顱貌酳遠征(モンゴル・南宋戦争1235〜1279)。時期によって、第1次(オゴデイ治下のクチュの南征:1235〜1241)、第2次(モンケ治下のクビライの南征:1253〜1259)、第3次(南宋滅亡:1268〜1279)に分けられる)。
  
総司令として中央軍を三男クチュに任じ、次男コデン率いる西路軍を陝西・四川方面へ派遣し、征服させた。しかし、南宋に送り出した遠征軍はクチュが陣中で没し、指揮命令系統が混乱し泥沼戦争に陥った。
 髻1236年から西方遠征。チンギスの長男ジョチの次男・ジョチ家当主のバトゥを総司令官とし、功臣スブタイを宿将としつつ長男グユクやトルイ家の当主モンケなど各モンゴル王家の後継者クラスの王族たちを派遣し、ヴォルガ・ブルガール、キプチャク、アラン諸部族、カフカス北部、ルーシ諸国、ポーランド王国、ハンガリー王国など東欧の大半を制圧。
 ゥ.首都建設以降オゴデイはカラコルム周辺の草原に留まり、遠征は配下の軍隊に委ねられた。
  カラコルムには第3代グユク・第4代モンケまでハン(皇帝)が住み、モンゴル人・中国人・イスラム教徒の他、ヨーロッパ人も住んでいたという。またヨーロッパのローマ教皇から派遣されたプラノ=カルピニ、フランス王ルイ9世の派遣したルブルックが来訪。
 顱縫廛薀痢瓮ルピニ

  1241年モンゴル帝国の征西軍とヨーロッパ遠征軍とポーランドドイツ連合軍が激突したワールシュタット(ドイツ語で「死体の山」)の戦いを契機に東欧・西欧にモンゴル軍の脅威が忍び寄ると1245年の第1リヨン公会議(カトリック教会の公会議で教皇が召集で議題となり、モンゴルへの使節派遣が決定。モンゴルとの交渉役としてヴェネツィア共和国のカルピニらの修道士が指名され、東欧に勢力を拡大していたモンゴル帝国のバトゥの元に派遣。派遣団は、通過する諸侯達に護衛や召使を数名つけてもらう程度で、教皇使節としては少規模。面会したバトゥはグユクの元へゆくよう命じた。カルピニはバトゥが建都していたサライの状況などを見て、バトゥのことを部下に対する思いやりがあり同時に大変恐れられているとして「サイン・ハン」(偉大なる賢君)と賞賛の一方でバトゥほど残酷なものはなくまた抜け目なく狡猾と言っており、バトゥの侵略によって徹底的に破壊されたキエフの状況を見て、「バトゥは偉大なる君主であるが、都市を容赦なく破壊する暴君でもある」と評価。さらにモンゴル帝国の首都であるカラコルムにまで交渉に赴き、到着直後の1246年8月24日モンゴル帝国のハーンとなるグユクの即位式のクリルタイに列席。この時、カルピニ一行はグユクに会見してローマ教皇の親書を手渡して和睦交渉を行なったが、グユクは和睦ではなく教皇をはじめとする西欧諸国の臣従を望んだため、果たすことはできなかった。そのため帰国後は一時教皇の怒りを買ったが、彼が記した『モンゴル人の歴史』という史書・報告書が高く評価され、怒りを解かれてダルマチア大司教に任じられた。

 髻縫襯屮襯奪
 フランスのフランシスコ会修道士。1253年フランス国王ルイ9世の命を受けモンゴル帝国に派遣された。使命は、十字軍への協力要請とキリスト教の布教。翌年カラコルムを訪れ、第4代モンケに謁見。その時の見聞にもとづき、モンゴル・中央アジア各地の地理・風俗・宗教・言語などを伝える旅行記「東方諸国旅行記」を書いた。
 〔wikiの「ルブルック」の解説は一貫性に欠け曖昧性を残し物事を不明にさせるが、次の文は出典が知りたいところだが真偽はともかく 参考にはなる。

 「これに(十字軍への協力要請)ついては、以下のな逸話が残っている。1248年、キプロス島に上陸した十字軍のもとに、モンゴル軍司令官イルチガタイからの使者がやってきた。熱心なネストリウス派信者であったイルチガタイは、「協力して聖地を奪還せん」とルイ9世に提案したのである。この話に惹かれたルイ9世はグユク・ハン宛てに返答の使者を派遣し、ルイ9世はさらにルブルックを派遣した。ルブルックと会見したモンケはイルチガタイの使者の正当性を否定し、モンゴルによる世界制覇の野望を伝えたというものである。
 しかし実際にはこの逸話の使者はルブルックではなくドミニコ会修道士アンドルーである。アンドルー修道士は、1249年2〔月〕にアンドルー他総勢7名で出発したが、グユクが既に死去していた為、グユク妃である
オグルガイミシュバルハシ湖南東イミル河畔で謁見し1251年に帰国した。使節はオグルガイミシュの返書を携えて帰国した。その返書には同盟どころか貢納を条件とした和平が高飛車に記載されていてルイ9世を失望させたというものである。ルブルックの派遣は十字軍の協力要請ではなく、バトゥの息子サルタクがキリスト教徒である噂が広まっていたことと、モンゴルから帰国したカルピニがパリでルイ9世に面会した際、ルブルックも同席していて、ルブルック自身がモンゴルへの布教に興味を持ったことにある。

そこでルイ9世はサルタクへ書簡を送ることとし、使節にルブルックを派遣した」【文面からは、ルブルックの場合自発的なモンゴル布教旅行で、wikiの記す公的な「派遣」ではない。ルイ9世が一国の元首でもないバトゥのしかも息子のサルタクへの書簡を送る事自体不自然。但し、モンケに会えたことは事実。

 『東方諸国旅行記』は、ベニスの商人マルコポーロの『東方見聞録』や修道士オドリコの旅行記の先がけとなった】〕 

2)内政の充実
 a.書記官僚(ビチクチ)の重用。
  背景:武官だけでなく有能な文官の充実が必要となった。
  父の時代からの功臣・ウイグル
人財務総監チンカイ(文書行政機構(中国史料の中書省)の最高責任者)、ホラズム出身でムスリム(イスラム)系財政官僚マフムード・ヤラワチ、金の元官僚で出自は契丹人の耶律楚材らを重用。
  例:耶律楚材は、華北の大平原を無人にすれば遊牧に適した土地になるから捕虜(漢人)を皆殺しにするというモンゴル軍人の進言を押し止め、捕虜たちを「万戸」と呼ばれる3つの集団に分け、万戸ごとに農民・職人など職業によって大別した戸籍を作って課税する中国式税制を導入。それによりモンゴル帝国は定住民から安定した税収を得ることができるようになり、オゴデイはこれに感嘆し楚材を賞賛した。
 b.1229年に制度化したモンゴル帝国(および元)の交通通信網。ジャムチという駅伝制を導入し、領土が拡大した帝国内の連絡密度を高めた。主要道路に10里ごとにおかれる宿駅には人馬を提供する100戸が配置。
 c.農耕地、都市部の管轄のために中書省を設けた。〔「中書省は、中国で魏代から明代初期まで存在した中央官庁の名称。主に詔勅の立案・起草を司った」とあるが、オゴデイ時代の場合は地方行政のことのようで役割の説明がない。ハッキリしないが、「代では、中書省は、中央政府の統治機関となり、また、各地方にも同様の行中書省(行省)が設置された。そして、この行省が、今日みられる地方行政区画としての各省の起源となった」〕
 d.貨幣制度では、金の制度を引き継ぎ紙幣の交鈔を発行し銅不足に対応。
 中国の紙幣は、北宋の交子に始まり、南宋でも発行され、金で交鈔と言われて発展。モンゴル帝国は、金を滅ぼした後、金の貨幣制度を引き1236年交鈔を発行。金の領土を引き継いだがその領内には銅山がなく銅銭の原料に不足したため、と言われている。耶律楚材は、金の先例をふまえて交鈔の発行量を調整するよう提言、当初は1万錠(50万貫)が上限と定めらた。
3)内政・内政の不均衡・不統一が露呈
 a.「相次ぐ対外遠征や新首都建設などからの財政悪化、さらには急激に拡大しすぎた領土間の連絡が密に取れず、次第に帝国の一族間における分裂などが顕著になったこと、そして何よりも長男・グユクと「ジョチ家の2代目〕バトゥの対立が決定的となって一族間に不和が生まれた」(wiki)

 ァ.「財政悪化」はどういうことか?収入と支出、債権と債務の主な項目とそれがどのように変わったか知りたいところだが、「相次ぐ遠征」「首都建設」の資産科目だけで済ませては学の進歩はない(「財務」を云々するからには、何で資金調達したかが不可欠)。
 髻法嶇⇒蹐密に取れず」は、理由を「急激に拡大しすぎた領土」に求めるのでなく(そのため画期的な駅伝が設けられた)、本質は統率・統制・統治の欠如にあるはずが、そのモデル事例が欲しいところ。
 鵝飽貘牡嵒塹臓κ裂」は、「何よりも長男グユク〔オゴデイの長男〕とバトゥ〔チンギスの長男ジョチの次男でジョチ家の当主〕の対立が決定的」とあるが、具体的には次のとおり。
 a)「『集史』などによれば、〔オゴデイの〕後継者の最有力候補であった三男クチュが早世したため、オゴデイは父チンギスのように自分の息子から後継者を指名せず、クチュの長男のシレムンを後継者としていたという。しかし、シレムンは未だ若年であり、壮年の王族はオゴデイの息子たちはもとより、ジョチ家やトルイ家、チャガタイ家にも大勢いた。オゴデイは即位の時にオゴデイ裔に皇位継承権が固定されるよう各王家に誓詞を提出させていたという。

 1241年陣営深夜まで飲酒に興じ翌朝寝床で急死。『集史』や『元史』では過度の酒色で健康を害していたと述べられている。「生前、オゴデイはシレムン、あるいは甥にあたるトルイ家のモンケを後継者として考えていたらしい。しかしオゴデイの死後、皇后のドレゲネによる巧みな政治工作でグユクが第3代ハーンに選出された。」


オゴデイの第6夫人ドレゲネ(以下、「皇后」)は、オゴデイが後継者に指名していたオゴデイの三男クチュ〔早世〕の子シレムンを成人に達していないとの理由で後継候補から除外し、オゴデイ家で皇后の長男グユクを後継者に推した。

 b)これに反対のバトゥは、皇后の後継皇帝を決めるクリルタイ召集に応じず、以後5年モンゴル帝国は大ハーン空位のまま皇后による監国(摂政政治)時代が続いた。

 c)彼女の工作で1246年クリルタイが招集、グユクを大ハーンに即〔つ}けることに成功。チンギスを祖とする有力王家(例:オッチギン家、トルイ家チャガタイ家)代表らの参加・決議による。
 

 d)「ドレゲネの政治工作による強行的なグユク擁立は、特に東欧遠征中に反目を起こしていたバトゥやモンケなど、多くの人物から不満があがり、その後のモンゴル帝国分裂の一因になった。1248年4月、グユクも遠征途上で急死」 オゴデイ、それに続くチャガタイの急死に、オッチギン関与の疑惑存在。

 〔オゴデイが没すると、オッチギンはハーンの位を求め軍隊を率いてオゴデイのオルド〔宮廷〕に向かったがドレゲネに意図的を見抜かれ非難され、皇子グユクが征西から帰国した報告を聞くと、彼女にオゴデイの弔問に訪れた旨を伝え、軍を引き返した〕

グユクは帝位をうかがっていたテムゲ・オッチギンの審問を従兄弟のモンケとオルダに命じ、オッチギンの部下たちを処刑〔判決直後オッチギンも没〕。ドレゲネが摂政を務めていた間に乱発されたヤルリク(特許状)を廃止して諸王の権力の乱用を抑え、母の寵愛を得て専権を振るっていた重臣アブドゥッラフマーンを処刑した。父時代の功臣であるマフムード・ヤラワチチンカイチャガタイ家イェス・モンケチャガタイの五男)などを重用した。グユクの政策は父オゴ。

軍事面では南宋イラン諸地方・高麗に兵を送り、引き続き勢力の拡大に努めた。 また、ルーム・セルジューク朝の使節の告発を受けてスルターンカイカーウス2世に代えて王弟クルチ・アルスラーン4世を新たなスルターンに任命し[16]、王位の継承問題が起きていたグルジア王国を2つに分割した[17]

グユクはリウマチに冒されていた上、過度の酒色のために政務を執ることができず、大臣のチンカイとカダクに政務を委任していた[18]。グユクの家庭教師でもあったカダクはネストリウス派キリスト教徒であり、彼の影響もあってグユクの統治下のモンゴル帝国ではキリスト教は厚遇を受けた[18]

グユクは征西再開のため、1247年8月にイルジギデイを指揮官としたペルシア遠征軍先発隊をイランに派遣した。続いてグユク自身も私領(ウルス)であるエミル・コボク地方への巡幸を名目として、一軍を率いて西征へ出発した[19]。しかしグユクは1248年4月、遠征途上で自らの旧領であるビシュバリク方面で急死した[18]。この死は、かねてからの酒色で健康を害したための病死といわれている。しかし『集史』などでは、トルイ家のソルコクタニ・ベキ(モンケの生母)が、この巡幸はグユクによるバトゥへの討伐軍ではないかと危惧し、あらかじめバトゥに警戒するよう知らせていたことも記録されており[18]、犬猿の仲であるバトゥによる暗殺の可能性を示唆する説もある[20]

グユクの死後、その皇后であったオグルガイミシュ英語版が摂政監国として国政を代行した。しかし、バトゥとモンケらトルイ家の王族たちはオグルガイミシュの招請を拒否し、約4年の間モンゴル皇帝位は空席のまま決まらず、帝国全体の統治はまたしても混乱する事となった。

バトゥは独自にクリルタイを開催し、オゴデイ家の王侯はこの動きに抵抗したが[21]ジョチ・カサル家、カチウン家、テムゲ・オッチギン家の当主たちがバトゥとモンケの集会に参集したことに加え[22]、シレムンやグユクの子であるホージャ・オグルやナグの兄弟も参加を表明するに及び、モンケがバトゥの支持を得て第4代モンゴル皇帝として即位
犬猿の仲・バトゥによる暗殺説あり。
 ィ)


 c.チンギスの後継
 ァ.モンゴル帝国の統治者大ハンの地位は、チンギス=ハンの血を引く一族の優れた者が、クリルタイ全員一致の推戴によって就任することとなっていた。1227年にチンギス=ハンが亡くなると、その地位をめぐって息子間で争いが起こり、1229年には第2代にオゴタイが選出されたが、その後も内紛が絶えなかった。
 ィ.第3代はオゴタイの子グュクが継いだがすぐに死去(毒殺の疑いもある)。
 ゥ.1251年第4代にはトルイの子
モンケが即位した。
 モンゴルの国家はモンゴルでは
ウルスと言われ、全体のモンゴル国家は「大モンゴル=ウルス」と言われたが、分立した国家もそれぞれウルスといわれた。
  


1235年に開催されたクリルタイにおいてヨーロッパ遠征が決定されると、スブタイは軍事能力と長年にわたる従軍経験を評価され、遠征の総司令官を務めるバトゥの副官に任じられた。

1236年春にスブタイはブルガール地方を攻撃し、ブルガールの族長たちを屈服。1237年から1238年にかけ、遠征軍はリャザン旧リャザン)、ウラジーミルスーズダリトヴェリなどのルーシの都市を陥落させた。スブタイは略奪によって食糧を集めながら南下し、ドン河畔で兵士に休息を取らせた。モンゴルへの服従を拒むカフカスの民族が制圧された後に遠征軍は行軍を再開し、1240年キエフを破壊する。スブタイの軍はモルダヴィアを抜け、1241年ハンガリーに侵入したバトゥの本隊と合流した。モヒの戦いにおいて、スブタイはハンガリー王ベーラ4世が率いるハンガリー軍に勝利を収めた。同年にオゴデイが没するとヨーロッパ遠征は中止され、スブタイは東方に帰還した。

スブタイは帰国後にオゴデイ没後に開催されたクリルタイに参加した後、トゥラ河畔に与えられた遊牧地に居住し、1,100の封戸を有した。死後、河南王に追封された。


 チンギス・カンは、腹心の僚友(ノコル)に征服した遊牧民を領民として分け与え、これとオングトやコンギラトのようにチンギスと同盟して服属した諸部族の指導者を加えた領主階層を貴族(ノヤン)と呼ばれる階層に編成した。最上級のノヤン88人は千人隊長(千戸長)という官職に任命され、その配下の遊牧民は95の千人隊(千戸)と呼ばれる集団に編成された。また、千人隊の下には百人隊(百戸)、十人隊(十戸)が十進法に従って置かれ、それぞれの長にもノヤンたちが任命された。


テュルク・モンゴル系の騎馬軍同士の会戦(『集史』)

戦時においては、千人隊は1,000人、百人隊は100人、十人隊は10人の兵士を動員することのできる軍事単位として扱われ、その隊長たちは戦時にはモンゴル帝国軍の将軍となるよう定められた。各隊の兵士は遠征においても家族と馬とを伴って移動し、一人の乗り手に対して3 - 4頭の馬がいるために常に消耗していない馬を移動の手段として利用できる態勢になっていた。そのため、大陸における機動力は当時の世界最大級となり、爆発的な行動力をモンゴル軍に与えていたとみられる。千人隊は高原の中央に遊牧するチンギス・カン直営の領民集団を中央として左右両翼の大集団に分けられ、左翼と右翼には高原統一の功臣ムカリとボオルチュがそれぞれの万人隊長に任命されて、統括の任を委ねられた。

このような左右両翼構造のさらに東西では、東部の大興安嶺方面にチンギスの3人の弟ジョチ・カサルカチウンテムゲ・オッチギンを、西部のアルタイ山脈方面にはチンギスの3人の息子ジョチチャガタイオゴデイにそれぞれの遊牧領民集団(ウルス)を分与し、高原の東西に広がる広大な領土を分封した。チンギスの築き上げたモンゴル帝国の左右対称の軍政一致構造は、モンゴルに恒常的に征服戦争を続けることを可能とし、その後のモンゴル帝国の拡大路線を決定付けた。



 チンギス・カンに優秀な8人の最側近がいた。(『元朝秘史』に、「四駿四狗(ししゅんしく)=4頭の駿馬・4匹の狗」(dorben kulu'ud, dorben noγas)と讃えられた)
 四駿
.爛リ

 ジャライル部の人。1206年、モンゴルの左翼(東部)の万人隊長(万戸長)に任命され、チンギス・カンの金遠征でも活躍した。モンゴル高原東南部の5部族(ジャライル部、コンギラト部、ウルウト部、モンクト部、イキレス部)を配下につけられて中国の攻略を担当した。
▲椒ルチュ
 
アルラト部の人。チンギス・カンの最初の側近。『元朝秘史』によれば、少年時代のチンギスが馬泥棒にあったとき、チンギスに馬を貸して追跡を助けたとき以来の友人。チンギス・カンのモンゴル高原統一に功績をあげ、右翼(西部)の万人隊長に任命された。
チラウン
 
スルドス部の人。父ソルカン・シラは少年時代のテムジン(チンギス・カン)がタイチウトに捕えられたとき、チラウン父子は彼をかくまって逃がしてやったとされる。ソルカン・シラはタイチウト部がモンゴル部に滅ぼされた後チンギス・カンに迎えられ、千人隊(千戸)を与えられた。チラウンは数々の戦役に従軍して功をあげ、父の死後千人隊を引き継いだが、外征にあまり活躍することなく早くに没した。
ぅ椒蹈ル

 フウシン部の人。若くして数々の戦功をあげたが、1217年にモンゴル高原北東の森林地帯に住む狩猟民トマト部の討伐において戦死した。
四狗
.献Д

 ベスト部の人。はじめタイチウト部に属していたが、タイチウトがチンギス・カンに滅ぼされた後チンギス・カンに投降して仕えた。チンギス・カンの遠征において先鋒を務めて戦功を重ね、1218年には西遼を乗っ取ったナイマン部のクチュルクを討つ功績をあげた。ホラズム遠征ではモンゴルの侵攻を受けたホラズム・シャー朝第7代皇帝を追撃してイランに入り、そこからグルジアに出てカフカスを抜け、ルーシ(ロシア)まで達し、ルーシ諸侯の連合軍を破ったが、モンゴルに戻る途上で病死。
▲献Д襯
 
ウリヤンカイ部の人。弟のボオルチュとともにチンギス・カンに早くから仕え、側近として活躍した。タイチウトとの戦いでチンギス・カンが毒矢を受けたときは、毒を吸い出して看病したという逸話が伝わる。
スブタイ
 ウリヤンカイ部の人。ジェルメの弟で兄に続いてチンギス・カンに仕えた。兵数10分の1の完顔陳和尚の金軍に負けたこともあるが、数々の戦功をあげて勇士として知られ、ホラズム遠征ではジェベ(チンギス・カンの長男ジョチの次男。キプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)の実質的な創設者)とともにルーシまで達する別働隊を率いた。のちにバトゥのヨーロッパ遠征にも従軍した。

ぅビライ
 
バルラス部の人で、早くにチンギス・カンに仕えた。モンゴル統一に貢献して「四匹の狗」に数えられ、中央アジアのカルルクを討ち、オアシス諸国を帰順させる功をあげた。


チンギスの皇后のうち、大ハトゥンは5人いたとし、ボルテを第1位、クランを第2位、イェスゲンを第3位、公主ハトゥン (كونجو خاتون Kūnjū Khātūn) こと岐国公主を第4位、イェスルン(イェスイ)を第5位とする。一方、『元史』「后妃表」によると、ボルテ、クラン、イェスイ(イェスルン)、イェスゲンはそれぞれ大オルド、第二オルド、第三オルド、第四オルドを管轄していたという。

 ハトゥンは、中央ユーラシアにおいて主に遊牧国家の君主の后妃が名のる称号。同じく中央ユーラシアの遊牧国家の君主が用いるハーンの女性形に当たる。

  【参考】チンギスの4人の息子
 …甲縫献腑繊複隠隠牽粥〜1225)
  西方遠征で働きは抜群で優秀で1211年よりチンギスが金への遠征を開始したときは、同じく帝国の西部にウルスを持つ二人の弟チャガタイ、オゴデイとともに全体の右翼軍(西部軍)を率いる将領として参加し、数々の戦果を上げた。ただ後継についてチンギスの嫡子であるか疑念を与えた。諸史料によれば、チンギス・カンはこの頃(1219年からのホラズム・シャー朝遠征)、4人の嫡子のうちから後継者を選び、温和な3男のオゴデイを後継者に指名。このとき、チンギス・カンは諸子を集め自分の後継者に誰がふさわしいか意見させたが、ジョチとチャガタイが口論、二人がお互いをカンにふさわしくないと言い合ったので、次の弟で人望のあるオゴデイが立てられた。なお、ジョチは1225年父に先立って病没した。 
 ⊆|縫船礇タイ(1186?〜1223)は、長兄ジョチとは、ジョチの出生の疑惑などをめぐり険悪な仲であった。また、激しい気性気性の持ち主であったため、一族の和を重んじる父から後継者候補としては除外されていたという。法に対して厳格な一面があったため、それを父に見込まれ、モンゴル帝国の法律の管理を任され「ヤサの番人」の異名を取った。弟・オゴデイと仲が良く、父の死後はその遺言に従ってオゴデイの即位を支持。
  父に従って金討伐や大西征(1219〜1223)に従軍し戦功を挙げたことから、西遼の旧領を与えられ、後のチャガタイ・ハン国の祖となった。
 三男オゴデイ(1186〜1241)は、父・チンギスの金遠征と西域遠征に従った。その大西征においてホラズム・シャー朝の討伐で戦功を挙げ、ナイマン部の所領を与えられた。オゴデイにはジョチとチャガタイという2人の有能な兄がいたが、オゴデイは温厚で一族の和をよくまとめる人物として父から後継者として指名されていた。クリルタイでチャガタイやトルイの協力のもと、1229年第2代モンゴル皇帝に即位。


 せ傭縫肇襯ぁ 1192〜1232)
 「幼少時から英邁〔えいまい:特別な才知〕で武勇に優れ、人望も厚かったという」。1212年からの第一次金遠征で1219年に始まるホラズム・シャー朝遠征チンギス・カンの西征)、1226年第5次西夏遠征で諸戦役で父とともに各地を転戦して軍功を挙げ、その名を轟かせた。「1227年チンギスが没すると父の所有していた家産と直轄ウルスの101個千人隊に相当する部民、軍隊のすべてを相続」、「後継の大ハーン選出まで帝国の政務を代行する監国の地位についた。そして2年後、後継の大ハーンの選出にあたっては自身の即位を固辞し、父チンギスが生前に後継者に定める意向を示していたという兄オゴデイを第二代大ハーンに推し、即位させた。」

 オゴデイの即位に際し、4個千人隊のウルスしか所有しない兄オゴディに自身のウルスの大部分の指揮権を譲り一将軍に甘んじた。オゴデイを中心に金に対する作戦が再開されると、右翼軍の司令官として参戦し、1232年完顔陳和尚率いる金軍を破り金の主力を壊滅させる戦功をあげた。しかし、オゴデイの本軍と合流して帰還する途上、モンゴル高原に至ったところで急死。深酒のためとされるが、弟の人望と功績を恐れた兄オゴデイによる謀殺とみる説もある。
  《参考は、以上》


 「世界史の窓」
第4代モンケ=ハンの死後はハイドゥの乱が起こり、乱後は宗家フビライ=ハンが統治しモンゴルと中国を領土とする元帝国と、フラグの建国したイル=ハン国、バトゥの建国したキプチャク=ハン国、チャガタイを祖とするチャガタイ=ハン国の3ハン国(ウルス)とに分かれることとなった。しかし、あくまで元の皇帝が大元ウルスハン(カアンとも称した)は宗主権をもっており、モンゴル帝国としての一体性は維持されていた。
現在は「4ハン国に分裂」とは言わない かつてはイル=ハン国、キプチャク=ハン国、チャガタイ=ハン国と共に、オゴタイを祖とするオゴタイ=ハン国があり、「4ハン国」と言われ、またそれぞれが独立性が高くモンゴル帝国は分裂した、と説明されていたが、現在はオゴタイ=ハン国の実体は無かったとされ、3ハン国とする説が有力である。山川出版社の『詳説世界史』も06年度改訂版から、「4ハン国」と「オゴタイ=ハン国」の記述が消滅した。また、3ハン国は互いに対立したが、いずれも元を宗主国としているので、モンゴル帝国としての一体性は維持されており、これをもってモンゴル帝国の分裂とは言わなくなっている。 → モンゴル帝国(ウルス)の分立

「wiki」ブリヤート人

ブリヤート人はモンゴル族の一部であり、モンゴル先祖はバイカル湖から形成し始めてから草原地代へ進行する、モンゴル秘史に記載する蒼き狼と白い鹿がバイカル湖を横断して草原へ移動されモンゴル民族が発足する。バイカル湖周辺が人類文明の一原点であり、アルタイ諸民族の発祥地だとされる。

ブリヤート人も、バイカル湖の東に住む者と、西に住む者とでは、かなりの違いがある。東に住む者は、固有の文化を維持し、ロシア人との混血が進んでいないのに対し、西に住む者は、生活がロシア化され、ロシア人との混血が進んでいる。弥生人、もしくは縄文人の遺伝子に近い特徴を持つといわれ[1][2][3][4][出典不十分]、日本において、日本人のルーツの一つとして近年注目を集めている(「日本人バイカル湖畔起源説」を参照)。


話題・出来事2:入院体験

 こんにちは!自在業の櫻井です。
(追記:12月16日(金):
 表題の「入院体験」は、当初「歴史スポット62:文永の役と日蓮」の序文として記すつもりであったが、書き込んでいるうち記録として残すべき事柄が多くなって、「Δ泙箸瓠廚貌るほぼ直前記事として独立させることに決めた。結果、分類上「話題・出来事」が入って「歴史スポット」が3連続ならず。そのため11年3月11日「東日本大震災」を初とする2つ目のテーマとなって、記事としては9本目となった。
 文章構成は、気泙任播初通り。兇麓々譱りのため無し)

機テ院体験
 9月23日(金)9時半からの入院は、12月7日(水)午後2時で退院。数えると入院期間は約2ケ月半の76日間。(現在70.5歳の今、振り返ると入院は学生時代交通事故で頭をぶつけ3週間近く入院した以外1日たりともなかった)
 ブログはその間 書き込みした日は無くても文章や構想は練っていた。なお、病室に持ちこんだタブレットはある時変な所をタッチして修正出来ず1週間もウェブから完全に遠ざかったことがあった。
 タブレットでの記事の完成は不本意ながら初めて、1本目が9月23日の着手で入院した日。直前にパソコンで記事の表題を登録し、取りあえず撮った写真だけ貼り付けただけ。後日病床で書き込み。期間中病院で3本の記事をタブレットで書いたことになる。(もっとも、細かくは退院後、パソコンによる文字・記号・加筆修正している)
 タブレットはサムスン製GALAXY Tab4。今年8月Galaxy Note7の新発売後世界各地で発火・爆発事故があり、米・日での航空機内持ち込み禁止などにより製造販売中止・全品回収に追い込まれたものとは違う。 Tab4は14年製で古く、だから安全・安心ということになってしまう。背広の内ポケットに入る大きさという事で選んだが、文字入力はパソコンのようなボタン式でなく、慣れない・知らない・指が大きい・少しでも意図しない文字パネルに触れるとそれが現れ 意図した文字でも違う文字であったり、一発で決まら何度も直したりする。また、参考文章をコピー・貼付する際 書き込んだページを一旦保存して 閉じ、参考サイトを再び開いて紙に書き写し、元のサイトに戻って入力しまければならない。従って5倍、以上の時間を要すと思うが、やむを得ない。9月23日号などは、「まとめ」に近づいたところで、それまでの書きかけ記事をすべてをうっかり削除してしまった。嫌になったが、他にする事もないからやり直した。
 さて、前々号からの記述のとおり県立新潟がんセンター新潟病院で入院生活を送り、大変貴重な勉強と経験をさせてもらった。勿論、これで完治したわけでなく毎月1回の検査・通院があり、順調にいけば3か月後人工肛門を外す手術があり、その間自宅で自身による3日に1度の人工肛門袋(パウチ)の交換があり、1日4回(毎食後と寝る前)各1袋の下痢止め用薬(アドソルビン原末 タンナルビン)の服用がある。
  このタンナルビンは10月18日(火)からの開始で1日3回、2日後の18日(火)には寝る前が追加で1日4回となり、一番長く続いている。
 これまで一度に飲んだ最も多い薬の数は3種類(食前1種・食後2種)で10月5日(水)から。腸内の細菌を殺すバンコマイシン塩酸塩0.5g「MEEK」、腸内細菌のバランスを整える耐性乳酸菌散10%「JG」(エントモール)、熱を下げたり痛みを和らげるカロナール錠300咫頁髻法△修靴董崢砲せ 頓用」とあり「1回1錠・10回分・4時間以上時間をあける」と書いてある「とんぷく」。持ち帰った袋の中に6錠残っていることは、5日目の10月9日(日)には痛みもなくなり、必要なくなったということだ。
  なお、10月3日付け「輸血及び血漿分画製剤(特定生物由来製品)使用に関する説明書と同同意書の写しが手元にあった。輸血療法でヒトの血液や組織などを原料として製造した治療薬を使うともので、輸血療法
は、血液中の成分(赤血球、血小板、タンパク成分、血液凝固因子など)が不足した時や機能低下の時などに、その成分を補充するものとされる。
 一般に何でもそうであるが使用した場合は危険性もあるので(使用しない場合も同様)、使用には説明と同意が必要で、そのようになったと理解。手術も通常は同じで同意書が必要。
 私の場合は、アルブミン製剤(血漿中に最も多く含まれるたんぱく質で、血管中に水を保持する作用や薬物などと結合して運搬する働きがあり、低下すると血管から水分が漏れ出して血圧が低下したり、浮腫(むくみ)や腹水が出てくることがある)で、アルブミナー25%12.5/50ml。
 10月は体調が悪くなったと感じた時があったが、薬の種類の多さで示されて、快方に向かうに従い、少なくなっていく。
 11月19日(土)肛門周囲膿瘍に効.くレボフロキサシン錠500mg「DSEP」が7日分出された。当時、肛門から何か出そうな・出ている感じがすると頻りに医師に言っていた。実際は、気のせいか紙おむつのパット部分を見ても、看護師に見てもらっても出ていない。11月26日(土)以降飲む薬はタンナルビンだけとなった。
 
 今回のテーマに入る前に、忘れないように先ずその「貴重」であった入院生活についてこれまで記していなかった事柄及びその後の新たな経験を書き加える。
仝凝
 4時間以上にわたった手術から全身麻酔の中で目が覚めたとき、医師や看護師から口々に「頑張ったですね」と言われた。手術した翌日の事。ちょっと歩いて見ますかと看護師に言われ 看護師の注意を聞きながら、注射針が刺さった点滴のチューブに何かを引っかけないようそろっとベッドから起き上がり、ゆっくり両足を下ろししっかりと側の浅い靴のようなスリッパを履き、薬剤バックが吊り下がった点滴スタンド(キャスター付き)の真ん中にある取っ手を両手でしっかり握って身体のバランスをとって立ち上がり、足元・前方・左右をよく見ながら、ゆっくりと一足ずつ歩く。部屋から出れますかというので 看護師さんの見守る中で部屋から出て廊下を4〜5mくらい歩き、体力の限度と思われるところで引き返しベッドで休んだ。翌朝医師が回診にきて、「昨日は外の景色が見えるところまで歩いたようですね」と感心したように言った。それを聞いて オヤッと思った。
 どうしてそんな事まで知っているのか、どうしてそんな当たり前のことを言うのか、それを伝えたのは看護師に決まっており外の景色が見えるとろまでと具体的に伝えているが、それほど珍しい事で重要なのか。更に驚いたのは、見回りに来た他の担当医師や翌日担当の看護師まで知っていたこと。
 これが、同院の原点。
看護体制
 1)担当看護師は、患者ごとに昼間担当2人・夜間担当1人(この場合、昼・夜共担当は固定していない)がそれぞれ挨拶に来て、普通サイズの3倍ある名刺が入ったカードケースをテーブルに置いて、仕事に就く。
 〔上記は患者から見た場合で、同院ホームページでは日勤(8:30〜)・準夜(16:30〜)・深夜(0:45〜)7時間45分勤務の3交替制。そうでないと24時間体制は難しい〕
 2)受持ち看護師制度があり、1人の看護師が数人の患者を受け持ち、その勤務時間帯に予定されている患者の看護業務を全て担当する方式の看護体制をいい、作業効率は悪いが患者を総合的に把握しケアすることが出来るという利点があるとされる。
 a.入院中はそれほどの認識はなかったが、3日ごとに1回のストーマ(人工肛門)器具=パウチの貼り換え時には必ず付いて指導してもらった看護師がYさん。
 ァ.初めの頃は、浴場に一緒に入りパジャマ・シャツ・紙パンツ(中にパットあり)を脱いでパウチ・ベルトを外し、浴室に入ってシャワーを浴び、身体や髪を洗って、パウチを新しいものと交換に入る。
 (ある程度慣れて来るとここまでは看護師無しで自分で行う。古いパウチを剝す前に浴室内にあるナースコール・ボタンを押し看護師に来てもらう)
 ィ.皮膚とパウチの面板の間に指を入れ、皮膚を引っ張らないよう逆に皮膚を身体に押しながらすき間部分を作りって周りに広げ、そこに剥離剤(石鹸やお湯だけで間に合う場合も多い)をかけながら皮膚を傷つけないように優しく剝す。剝したパウチは、ビニール袋に入れる。ストーマと全身を洗い、ビニール袋を持って浴室から出る。そして、着替える。
 (そこまでが大きな一つのステップで、慣れてくれば一人でも出来、パウチ交換へのステップで看護師に見てもらう。
 ゥ.パウチの交換は、パウチ、パウチ用ベルト、パウチ用ハサミ、ストーマゲージないしモデル型紙、油性ペン、アダプト皮膚保護シール、剥離剤、ブラバ・パウダー、ガーゼ又はペーパータオル、鏡・屑入を準備、それぞれに扱い手順があり、熟練を要す。
 (退院後自分だけで行うことになり、一人でできないことないが万が一もあり、家族で手伝いできる人(一般に配偶者)が必要とされる。身内の人がパウチ交換をしている現場を数回見て、ある程度流れや必要器具などを知っていることが必要とされる)
 b.技術面の指導は、患者ごとに担当が決まっている受持ち看護師さんが行うから効果的。紙パンツのはき方・パットのつけ方、その処分の仕方、ウォッシュレットの効果的な使い方など何でも教えてくれた。なお、入浴時間は30分ごとの予約制で、交換日は決まっているから、希望があれば早目にその日担当の看護師さんに言っておけば、受持ち看護師さんの都合にも合わせ、時間を決めてくれる仕組みになっている。
 c.11月16日にトータルケア病棟に移る際もYさんが来て、私がまとめておいた荷物を持ってきた台車に載せ新しい病室まで運んでくれた。
 3)下記のような研修制度あり。
がん看護実務研修生の研修に協力:11月下旬〜12月初旬。
 この制度は看護師さんが、普段の専門的な看護業務とは別に私のような患者の心配事(退院後の家族の協力・在宅ケア等を含む)・困っている事・要望したい事などを聴いて何らかの対処・解決に当たることでより高いがん看護の実務向上に資すことが目的と理解。
 係わった期間は2週間、延べにして10日、患者の都合に合わせ実施。パウチ交換の日はシャワーから始末、交換まで付き添う。私のもとへH看護師が来た。
1)何でも相談では、分野が違い関係がない事と思っていたが、最近手の甲が荒れ少し痛みと痒みがあったが放っておけば治ると思ってそのままにしていたが、Hさんが手を見てこれはひどいということでいろいろ聞いてきた。よくよく考えれば、今までそういうことは無かったことで入院してからトイレを使うたびに石鹸水を使うようになったということを話すと、クリーニング業では洗浄で薬品を多量に使うから 水で手をしっかり洗わないと手が痛むとのことで、先生に話をしてよい薬をお願いしてみますとのことであった。
 その時内心、ここは消化器外科だから皮膚のことが分かる先生はおらず、そんな薬が置いてあるはずない・がんセンターに皮膚科はあっても日常的な病気への薬まではないに違いない・薬があったにしても専門医が他所の科の看護師から症状を聴いて薬を選定し承認印を押すのに時間要し、そこは薬剤師も同様で今日の午後に言って今日のうちというわけにいかないと思っていた。ところが、夕方病床にいるとHさんが薬を持ってきてくれた。「ヒルロイドソフト軟膏0.3%25g」という軟膏剤で、指示通りに塗っていたら4〜5日で治った。放っておいたら1ヶ月経っても治らなかったであろう。とんでもない勝手な間違った見方をしていた。
 消化器外科といっても皮膚の知識や処方を知らなければ専門医になれない。消化器官は皮膚で成っているではないか。そういえばパウチを剝す際ストーマ周辺の皮膚を傷つけ赤く腫れあがったことがあった。その時、私はたいしたことではないと思っていたが、看護師さんが心配し同科の先生に来てもらい見てもらった。結果、薬で治るということで、その日のうちに錠剤を出してもらい指示どおり毎夕食後に1錠飲んだところ1週間経たないうちに赤い腫れ物が消えた。
 〔追記:17年1月5日〕
 1ヶ月余り経つが、手のかぶれは完全に無くなったわけではなく、気にならない程度に僅かな部分残っている。昨日何を思ったのか、残っていた軟膏があるので寝る前患部に塗ってみた(軟膏は1日2回で、寝る前はコッテリとが記憶にあった)。翌朝その効果ははっきりした。ウェブで使用した薬を調べると、
 ・使われる疾患は、血栓性静脈炎・捻挫」・痔核・接触性皮膚炎・乾皮症・ケロイド・打撲傷など、
 ・「接触性皮膚炎」は「かぶれ」のことで、症状として、皮膚が赤くなる・ 熱を持ちほてる・ 腫れる・水疱ができる・ 膿む とあってピッタリ、
 ・接触性皮膚炎には2種あり、 「一次刺激性接触性皮膚炎」は、「物質に直接的に触れることで起こる皮膚炎」で、
 ・物質(例)は台所用洗剤・髪にパーマをかけるとき用いるパーマ液漂白剤など、また下着や衣服が肌に擦れたりすることで湿疹・赤みが出る場合も該当。原因も思った通りで納得。完全に治ってない状態で今後洗剤で手を洗う場合しっかり水で洗い落とせば治ると考えるのが普通であるが、薬を塗って治さなければいつまでも治らないというのが実感。
 〔追記は以上〕
2)ある時、私の体格測定・血液検査から見る(年齢・男女・身長・活動量で異なる)と、理想の体重は69.5圈蛋白質濃度は何%で標準値に比べ低く蛋白質摂取が必要と指摘。
 a.蛋白質は細胞を作るのに必要な養分で、不足していると傷口がなかなか塞〔ふさ〕がらないとの説明にピンと来るものがあった。この10月下旬尻から黒い血や白い膿のようなものが出たリ高熱が出たりしたのはそのためかも。当時担当医師は、一時的に傷口に炎症が起こることがあり、身体に悪いものを体外に出しているので、それが頻繁であったり多量であったりすれば別だが、心配いらないとは言われた。
 b.一般には、次のように解説されている。蛋白質は、筋肉や臓器を作る成分として重要。不足すれば体力・免疫力が低下し、老化を早める。過剰は腎臓によくない。なるほど、体力ということで思い当たることがある。朝食後や昼食後、ブログに30分ほど打ち込むと急に疲れが出てベッドにグダッと横になることが普通にある。体温や体重や血圧や酸素濃度のバランスはとれていても、これからの課題は体力の回復・増進。
 ァ.主食は、一時お粥からご飯になった時があり、その後体調悪くて食事が進まず、10月初め頃か吐き出した事があって以来食欲は11月に入って次第に回復したとはいえ11月中旬まで三食全てお粥。その方がよいのだと思っていた。話の中でご飯がよければ可能とのことで 退院も間近で普段の生活に慣れるためにもご飯に変えてもらった。「大」もできますと言われたが、まずは胃や腸を慣らすためにも普通盛りのご飯にした。同院では、流動食、3分粥〔米1対水20〕、5分粥〔米1対水10〕、全粥〔米1対水5〕、そして常食・ご飯がある。
 ィ.Hさんの栄養士さんへの働きであろうが、肉や魚の内容量が増えてきたように感じた。三度の食事は、個人の名前と食事の種類が印刷された小さな用紙の入ったトレーに載せてベッドに備えられたミニ・テーブルに運ばれる。おかずは同じでも、主食は個人の要望に対応。
 ゥ.同室の人がご飯に梅干し付きなのを知り、その点も尋ねてみると希望者に梅干が追加料金無しで付くとのこと。これまで歩くとふらつく感じがあり、貧血気味で塩分不足が原因のような気がしたのでお願いしてみた。すると早速夕食に梅干しが付いてきた。翌朝も付いてきた。個人名の入った、ミニ用紙に、「朝・梅干 夕・梅干」と印刷され該当部分にマークがされているから、間違えないように工夫されている。
 ェ.さらに驚き。
 顱忙前予約により昼の主食は、うどんか素麺ー暖かい・冷たいーができる。私は冷やし素麺の大を頼んだ。料金は同じ。大きな丼に開ければ食器台になる赤い蓋がしてあり、汁とネギの刻みで素麺一式。ミニ用紙に汁は薄味にしましたと印刷されている。非常に簡素で美味く味わい深く、出来るものなら退院しても食べに来たいと思ったものだ。
 髻烹隠卸遑憩(水)から11日(日)の5日間は、通常料金のメニューの他に希望者に+20円の特別メニューがある。毎月、特別期間が設定。私は、試しに特別メニューの温かい天ぷうどんにした。
  患者に食べる楽しみを与える病院食となっている。
 c.いくら栄養を摂っても、「リハビリ」=機能回復のための運動をしなかったら 体力がつくはずなく機能は衰える一方になることを痛感。11月28日だったと思うが、Hさんに付き添いで実施。その後も行った。
 ァ.リハビリというのはおこがましいが、記録を拾うと次のとおり。
 11月3日初めて病室のある5階から独りでエレベーターで他の階(2階)へ行き、レンタル・パソコンを40分位立って操作。手術後立ちっぱなしはこれまでせいぜい10分。背の高い椅子はあったが、尻に管があり痛くて座れないため。
 11月10日階段を初めて独りで上った。1F→2F(売店)26段=(13+0(踊り場))×2。売店に行くのに5Fからエレベーターに乗ったが、2Fボタンを押すのを忘れ1Fまで行ったため。手すりはしっかり握り、ややふらつき気味の中ゆっくり上がった。
 11月28日1F⇌6F。往復計240段=120段×2(但し、手すり依存)
  1ー2F:26段、2−3F:26段、3ー4F:24段、4−5F:22段、5−6F:22段。1−6F:120段
 11月30日 往復120段(但し、手すり依存)
 12月X日 6F⇌̠地下1F(1ー地下1F約20段)および3Fプロムナード往復。
3)患者=お客の一人として苦情も申し述べた。
 a.9月末頃〜10月初め頃病室内は真夏のような暑さの日があった。勿論、外の気温も38℃くらいの日もあったからだろう。汗かきのせいか汗を相当かいていた。看護師さんが汗に気付きシャツを替え、敷布まで汗で濡れているということで取り替えてもらった。(そのこと自体は非常に有り難かった。看護師女性2人で85圓竜霏痢覆修了は75圓妨困辰燭もしてないが)を動かし敷布の取り換え。終わった後に腰が非常に痛いと言っているのが聞こえた。まさに重労働。家内も以前から私が動けなくなったら(重い体を動かしたりの)世話はできないから飲酒はほどほどにして下さいと言っていたのを、その時思い出した)
 ァ.空調設備が利いていないと感じた。設備屋さんが来て音を立てながら工事して帰っていったが、少しも空調が効いている感じがしなかった。翌日か翌々日も来ていったが、変化が感じられなかった。古い設備のため」どうにもならなくなったのかと思ったものだ。暑いので家内から団扇・扇子を家から持ってきてもらい、頻りに扇いだものだ。特に暑がりでもないのだが、その時は非常に必要と思ったからだ。病院にいる入院患者が団扇を扇ぐとは、考えて見れば前代未聞かもしれない。非常に貴重な経験をした。
 ィ.暑いので上半身部分は毛布を外してベッドにいたところ ある看護師さんが来て、毛布を首の近くまで掛けそのままじっとしていてくださいとのことだった。暑くて汗を流しているのに変な感じがしたが、プロが言うのだからそれが正しいのだろうと思っていた。すると次第に苦痛ではなくなってきたのだから不思議である。脱水症の懸念があると言われたのはその後のことで、感覚が麻痺したのか私には自覚はなかった。
 (食欲が進まず吐いたことがあったり、夢でオランダへ行きオランダ人と話をし、ホテルで泊まった。。夜中起きた時オランダにいる自分が他人の部屋のベッドにいると思い 自分の部屋を探しに廊下を歩いた(点滴が付いている状態)。その際各部屋の表示はオランダ語ばかりかとヒヤヒヤした。なぜオランダかは、今年に入りそれほど本気でないが海外旅行するならオランダと思った時期が 今もそうだがあった。きっかけは、この6月YouTubeで偶然アムステルダム・バロック管弦楽団の演奏‐バッハの管弦楽組曲第3番とカンタータBWV140・147‐を聴いたこと。演奏はさることながらオランダ人の顔付き‐彫りが深く角張った‐に魅かれるものがあった。江戸時代から日本と縁がある。佐渡金山では、「天明2年(1782)には、フランカスホイという天秤式手押しポンプがオランダから導入された」(09年12月29日号「歴史スポット55:佐渡金銀山絵巻」)。明治には大規模な河川・港湾工事はオランダ人が来て指導にあたり、昭和に入っても八郎潟の干拓にもオランダの技術を借りている。
 明治時代オランダ人技術者デ・レイケは、淀川改修・・新大阪築港、三国港改修、木曽三川改修、吉野川改修、筑後川改修など、一方エッシャーは河川・港湾改修だけでなく道路・鉄道・橋梁などの土木技術の指導に携わった。
 (三国港:14年12月18日号「歴史スポット係わりの地55:三国湊(福井県坂井市三国町)」)
 【「脱水症状」を調べると、「軽度」は眩暈〔めまい〕、「中度」は嘔吐、「重度」は幻覚、認知症は脱水症の自覚なくなるとのことで、全く同じ!であった】 
 ゥ.ある看護師さんに病室には温度計がないのですかと問うと、きっぱりと「有りません」とのこと。余りにきっぱりなので、「必要ありません」という風に聞こえた。
 b.どの患者にとっても手術後絶対必要なことは百も承知しているが 嫌なのが注射。
 ァ.点滴は2日目に新しい注射針と替え(左右両手の場合もある)、また必要に応じて血液検査で採血が行われる。私の場合、更にあり得てなかったが輸血。
 ィ.嫌でも仕方ないのだが、もっと嫌なのが注射に失敗し繰り返すこと。2回で終わればこういうこともあり得るで辛抱できるが、3〜4回になると全くやりきれず最悪。怒鳴る患者もいて当たり前だが、私の場合それによってますます萎縮させ間違いが起こるのを恐れるから大人しくしており、これも運命と思いうまくいくよう念じている。
 ゥ.私の腕の血管は、細くて難しいというのを特定の看護師さんから聞いたことがある。看護師さんによっては、血管を大きくするため温めたタオルをしばらく腕に巻いてから注射したり、手首にある血管でもよいですかと聞いて行う看護師さんもいた。
 患者にとって注射が最も苦手で嫌いとするから 特に経験の浅い人の更なるレベルアップに期待したい。
た軍秬栂預膤愆埜邀愽瑤粒慇犬気鵤蛙佑亮唾聾学に協力
 12月6日朝 リーダー格の看護師さんがやってきて上記について依頼された。時間にして30分の質疑応答と明日の私のパウチ交換の実際見学で、当然快諾。
 なお、質問に対する回答について、これまで記事に載せている事柄以外について記述する。
1)看護師とは?
  病院で一番頼りとする人。
 a.いつ何時何かがあっても、必ず誰かがいて何らかの対応をしてくれる。特に点滴していて自由に動いたり歩けない状態の時、異常を知らせるナースコールが命綱で、必ずどこにあるか確認してから寝たものだ。
 (初めの頃は 痛くて体を動かせない、起き上がれない、歩けない。大きい声を出そうにも出ない。ただ、手の指は動かせる)
 b.11月24日夜中23:20頃に目が覚めた。再現すると次のとおり。
 ァ.お腹の辺りが濡れている。パジャマやシャツや僅かであるが敷布にもかかっているようだ。2日前私がほぼ独力で装着したパウチで明日は交換の日というのにここに至って便が漏れたとはショック。
 ィ.これは大変ということで電気を点け、起き上がり、ナース・コールを探して押した。しばらくして、「どうかしましたか」の声。「便が漏れました」。「おトイレでですか」「いや、袋からです」「そのまま待っててください」
 ゥ.やって来て確認。「そのまま横になって待ってて下さい」
 ェ.2人でやって来た(見てないが、パウチ交換に必要な道具は用意)。「パウチ雄ありか?」「今日納品されて来たパウチが、ここにあります。道具箱はこれです」「ストーマの型ありますか?」「サインペンありますか?」「大丈夫ですから、休んでいて下さい」で、共同作業でまたたく間に着けていたパウチを剝し、新しいパウチに交換。
 ォ.替えのパジャマ・シャツ・敷布を持ってきてくれて、復旧完了。0:40頃消灯し、安心して眠りについた。
 c.漏れの原因と教訓
 ァ.夜珍しくテレビを見ようとベッドで仰向けになっている状態でイヤフォンを取り出すため手を無理に伸ばした。腹の筋肉や皮膚もそれと同時に動き、同時にパウチの面板に歪み、ゆっくりとすき間ができ、やがてそれが広がり漏れ出した。と、最初思った。
 ィ.前に交換した時のことを振り返ると、幅の狭いアダプトで皮膚とストーマ面板を接着した時、細くて少し不安であったが僅かな部分でそのくらいいけると思い補填せずそのままにした所があった。問題はそこに改めた。翌朝、看護師さんにその話をすると、原因は接着幅の狭い箇所があってそこから漏れたのだろうと言っていたとのことで、私の考えと一致。
 ゥ.その時にもし漏れがなかったとしたら、これくらい大丈夫だったがまかり通り、いつか取り返しのつかない事が起きる。こういった大事に至らない経験をして非常に運が良く、教訓としてこれからも活かせる。熟練看護師さんがいたこと、私に合ったパウチを初めて注文し納品日がその日だったことも運というしかない。
2)手術後の痛みは?
 a.麻酔が効いているいるうちは痛みは全くないがきれると痛み出す。そんな経験はないのだが昔なら刀や鉄砲で内蔵が傷ついたようないろいろな所に痛みがあって、身体を動かしたくても痛くてできない状態となるのは想像できる。また、痛くて寝れないことが起こる。
 b.私の場合、痛みは幸いそれほどでもなかった。眼が冴えて夜寝れないことはあるが、痛くて夜寝れないという経験はなかった。当初は痛み止めの「とんぷく」を飲んでいたが、間もなく飲まなくてよいことになった。
3)入院生活で何もすることない等困ったことは?
 a.タブレットをも持ち込んでブログをやっていたので、退屈せずに過ごせた。
 b.環境をより快適にするために空調設備などの改善が必要では。(受講生は、頷いていた。但し、病院経営ということになる)
 c.集団生活なのでやむを得ないが、夜9時(部屋の天井の蛍光灯)消灯というのは、不自由。21時頃寝て23時頃起き、夜中1〜2時頃起きてもその後なかなか寝付けないこと多く、うつろの状態で病院は白山駅に近いから5時過ぎになるとJR越後越後線の電車の音を聞くことあった(新潟から吉田行きが5:05着・吉田から新潟行きが5:42着)。これは誰が・どこが悪いということでなく、あえて「困った」ということ挙げればということで、誰にもどこに居てもある。白山駅に比較的近いことでうるさいと思ったことは一度もなく早朝聞こえて来た方が時間を知らせてくれてよく(ブログできる時刻が近付いた)、またそんなことより便利の方がはるかに重要。
テ院生活での断面
1)大きな声で言えないが、ブログ生活を満喫。
 a.普段から手帳には、タブレットから時々の及び前日のアクセス数を記すのが、暇つぶしで趣味でもあった。
 9月23日(金)入院日は、次の通り。
  9:32‐41、13:03‐67、15:50‐80、17:00‐90、18:00‐102。日計145。ちなみに日計は、前日22日‐155、前々日21日‐142、3日前20日165。24日(土)の日計126。
 25日(手術は26日)から29日まで無記入。30日は13:30‐65、15‐81記入のみで。以降10月4日の11:46‐52(日計149は退院後記入)まで無し。10月7日「Pは断念」とあり14日14:18‐70まで無し(日計152は退院後記入)。16日からは、ほぼ毎日記入。
  【手術後体調不良やタブレット・トラブルがあり、本格稼働は10月17日から。概ね1日午前と午後の2回アクセス数を記入】
b.10月16日からはベッドでの8時の朝食、12時の昼食後はブログに打ち込むのが日課となってきた。
 ァ、ベッド上では、付属のテーブルは高くないし足を伸ばした状態での書き込みは不自由だが、電動リクライニング式で75度まで上げることができるので、何とかなる。
 ィ.朝回診に来られる5人の主治医からも注目。若い紅一点の主治医から「アッ!タブレットですね。どこの製品ですか?」と問われたので「サムスン」と答えると、「爆発しませんか、心配ですねえ」との言。「佐渡広場というブログに興じています」と説明。翌日、「見ましたよ。クラス会の事が書いてありました」。「この病院についての事も書いてありますからよく読んでください。いい事が書いてありますよ。余りいいことばかり書くとグルになっているのではないかと疑われますから、そこはほどほどに。ブログは、どんどん微妙に更新しますから、余裕の時に開いて見てください」
 c.11月3日手持ちのタブレットではPDF(Portable Document Format)が開けないので、2Fへ下りてコイン投入レンタル固定パソコンを50分活用(10分100円)
 d.病床では窮屈だから、談話室数基のテーブルと椅子・テレビ・図書・各種資料・電話ボックス・自動販売機や冷蔵庫・テレビ利用の千円券自動販売機・お知らせ・アンケート箱等あり)へ行き、テーブルの椅子に腰かけて行うことが普通になった。談話室は、オープンスペースで廊下からは屏風のような衝立(ついたて)があるくらいで、ほぼ丸見え。4人収容の病室の一室を公共空間にしたものだろう。
 ァ.概ね11月下旬以降の標準パターンは
 顱烹供В械虻談話室の蛍光灯が点くのでタブレットとケータイと手帳と大学ノートを持って談話室内へ入り8:00前までブログ書き込み。
 髻烹后В娃芦瓩〜12:00前までブログ。途中疲れて部屋に戻り横になる。
 鵝烹隠機В娃虻◆腺隠掘В娃芦瓩までブログが多い。11月から日没が早く12月は17時には部屋が暗くなる。テレビで大相撲九州場所をやっていた。
 イ、私が病室にいないと、看護婦は体温や血圧などの測定のため、主治医は回診のため談話室まで来ることがあった。
 顱紡定は部屋に戻って行う。看護師さんは、作業を中断させることになるため、申し訳なさそうに言ったのに対し、「測定の方が大事、ブログは遊びでそれに比べたらどうでもいいこと。そうでないと罰が当たる」と言ったものだ。当然のことかもしれないが、看護に係わる仕事は何より優先と言えるのは、実際を見ているからだ。
 髻紡牘ヾ峩瓩覆△詁、先生方がお揃いで回診に来たられた時、「悪いところないですね」に対し、「お陰様です。新しい記事のブログに書きましたからご覧になってください」と言ったところ、あるベテラン主治医が、同院のコミュニケーションについて記したのを覚えていて、「上下、左右、先後、斜めからのクイックレスポンス、クイックアクション」と言ってくれたのには驚き。
 書き込みしているところを女性主治医から「今、お仕事中ですね」と声をかけられることがたびたびあったが、そのたびに「価値あることは何もしてなく、単なる個人の趣味・遊び」と断固否定し笑わせた。
 e.特記事項
 ァ.『佐渡広場』の印刷会社からケータイ留守番電話が入っていることに気付き電話すると、佐渡の人から電話で 図書館で『佐渡広場』を閲覧したが1巻から3巻までの本を購入したいとの問い合わせがあり当社は印刷会社なので販売できないことを伝え、私の連絡先を聞かれたがそれはお断りしたとのこと。その事については今入院中で何も回答できない旨を伝えた。
 ィ.筑波大学の学生さんからコメントがあり、卒論のテーマが佐渡の鬼太鼓に関することで、知りたいことがあるのでメールを聞かせてもらいたいとのこと。
  【退院後、ご両人連絡とは連絡が取れている。入院時の偶然の出来事でどうでもよい事柄であるが、個人にとって捨てたものではない事となるのが面白い】
2)入院男性患者の振る舞いから 男は、弱くてだらしない。
 この2ケ月半に2つ病室に寝泊りしたが、驚いたりあきれたリしたことがあった。
 a.腰が90度近くに曲がったお婆さんが、毎日10時から15時くらいまで、80歳に近いお爺さんのお見舞いに 遠くからバスに乗ってやって来た。足は不自由そうであったが、杖を突いているのは見たことなかった。私が居てから2ケ月 子供さんは見舞いに来た様子がないから二人暮しに違いない。いつもナースセンターに元気な声で挨拶し(病室に近く且つ廊下側の部屋にいたから声が聞こえる)、そして時宜を述べて帰って行くから看護師さんには一目置かれていた。ご主人への気遣いが当然ながら声を通しして伝わってくるが、一方ご主人と言えば普段は静かに大人しくしているのに 「それ解ってない」、「もっとああせよ・こうせよ」、「この不器用目が」などなどいつも悪態の数々。その言葉にお婆さんはおそらく当然我慢・辛抱し言いたいように言わせ、応じず。そこは知らない看護師さんは、「お母さんが来るとお顔が(元気に)変わりますね」とからかい元気づけていた。
 その患者は、医師の回診から聞こえてきた事であるが、もう1ヶ月して体力が回復すれば次の手術が受けられることになっている。
 b.同院には」、リハビリテーション科があり理学療法士・作業療法士・言語聴覚士の専門技師がいて、各診療科を横断して 早期離床と社会復帰への支援から終末期患者の残存機能維持と不安や苦痛の改善まで行っている。一般に先生が付いて病室からに出て行うのがリハビリであるが、患者による自主リハビリがあり、また患者の病床でのリハビリ体操がある。現場は見てないが先生が掛け声を出してリズムをとっているのがカーテンで仕切った隣から聞こえたものだ。リハビリのカギは自主トレと言われるように、個々の体力に合った自主トレが奨励されている。
 同室にいるリハビリ中の50代と思われる男性患者の奥さんが、いつもの見舞いに来た時のことである。ある時、「リハビリをした方がいいですよ。一緒に出ませんか」と言ったところ、患者が「お前が外へ出たいから、そう言っているのだろう」との返事。奥さん「早く良くなってもらいたいから言ったのに、何を言うんですか。これじゃあ、病院に来た甲斐がありません」。「普段のお前の行動を見ていると、そう言えるから言ったまでだ」。「人の気持ちも知らないで勝手なことばかり言って、・・・」。
 【ちょっとした言葉から、病室内で夫婦喧嘩。言葉で傷つけあう不幸な夫婦もいる。そもそもの原因は、全く思いやりのない言葉。男は病気になると妻に対し妙に傲慢になる性質があるようだ。トルストイの言葉「幸福な家庭はすべて似ているが、不幸な家庭は皆それぞれに不幸である」を思い出した。そのトルストイ自身82歳になって家出、奥さんは未遂に終わったが自殺を図ろうとした。
 c.60後半と思われる男性患者が入ってきた。手術したばかりのようで、奥さんが付き添い。盛んに尿意がありトイレへ行きたいと盛んに言っている。それは私も経験済で、看護師にそのことを訴えたものだ。トイレが不要な訳は、尿道にカテーテルが全身麻酔中に挿入されていて膀胱に尿は溜まらず、カテーテルを通って排泄され蓄尿バッグに溜まる様になっており、尿をもよおしても膀胱が刺激されているだけで、真の尿意では無いとのこと。我慢するしかないのだが、当人はトイレへ盛んに行きたがり、奥さんに何とかならんか剣幕で、なだめるがやっと。看護師も来て説明したが、その時は大人しく聞いている。いないと、奥さんにあれこれ当りちらした。家へ帰らなければならないと言うと、「帰って何をするんだ。ここに泊まって看病せよ」と文句。「私だって帰ってやるべき事がたくさんあり、ここに泊まってばかりいては身体がもたなくなる」と言っていたがそれに従った。夕食前も夕食後も奥さんに向かって何やら不満をぶつけていた。夜に入って看護師さんが来て主人に向かって、「奥さんが泊まるんですか。私たちが夜中でも看護することになっているのに」と言って戻って行った。その後主人の小言が消え、静かになった。翌日から奥さんの病院泊りはなくなった。

3)備忘
 a.夜11時過ぎまで尻に管を通した治療の翌朝、N医師が早朝回診に来て、「昨夜は遅くまですみませんでした」と言った。別に医師チームの手術ミスからそうなったわけでは何でもないのであるが。
 b.医師は入院患者との接触は、通常は朝の回診のみ。私が最初に検診から始まり手術を決定したⅯ医師は、夕方も診に来ることがよくある。11月23日の17:30頃誰もいない談話室でブログ書きに興じていた時、回診にきた。その日は「勤労感謝の日」なのに。私の病状はここまで来れば特に悪いところはないと思うが、油断せず念のための確認目的もあろう。その頃の第一声は、私を見て「お元気そうですね」。
 それと関連して同室の患者にリハビリに毎日来ている先生が、ある時患者に「明日から一週間休み(多分「遅ればせながら、夏休み」と言っていた)を頂いていまして暫くいなくなりますが、代わりの者が来て同じように行いますので、よろしくお願いします」と言っているのが聞こえた。その時、勤労感謝の日とかけてゆっくり休まれると思った。
 c.痛みとの闘い
  (資料:「痛み止めの薬の知識Q&A」(国立がん研究センター「がん情報サービス」サイト)
  病室は消化器外科の病棟にあり、入った部屋は4人部屋。カーテンで仕切られ、真ん中にベッド・付属」テーブル、一方のサイドは、冷蔵庫、その上に引出し・テレビ、くくり付けの背の高い衣類・履物等収納ケース。消化器外科 といっても 食道、胃、大腸、肝臓・胆嚢〔たんのう〕・膵臓〔すいぞう〕に分かれるが部屋もそれぞれに分かれているのでなく、消化器外科として患者を収容。例えば大腸がんの患者ばかりの部屋でなく、あえて消化器科内のいろいろ分野の患者に分散させているのでないかと推測される。      
  【ある部門のチーム(どの分野か不詳)】

  毎朝 朝食時の8時前後に特定患者の回診に4,5人で訪れる。看護師の定時測定もそうだが、その場合決まって「痛みはどうですか?」と声をかける。「通じは?」「食事は?」「吐き気は?」もあり、具合を聞き元気づけて帰る。
 ァ.痛みを数値で表現している。患者は、2くらいとか、5とか、7〜8とかと数字で答える。
  顱烹亜腺隠阿泙任△蝓■亜痛み無し、1〜3:軽い痛み、4〜6:中程度・かなり痛い、7〜9:非常に痛い、10:耐えられないくらい痛い。
 ィ.痛みが下がれば喜び、中程度以上に上れば箇所・症状の程度・急にか徐々にであったかかをより具体的に聞き、また中程度以上がいつまでも変わらなければ対策を考え出さなければならないだろう。
 ゥ.どんな薬もそうだが副作用がある。痛みの段階に応じた薬があり、しかし患者によって適量・適不適があり、そこを間違えれば病状を悪化させる。
   第1段階‐弱い痛みの薬:代表例アスピリン
   第2段階‐強い痛みの薬: 〃  コデイン
   第3段階‐耐えられない痛み〃 : 〃 モルヒネ
 顱膨砲濟澆疚瑤良作用:第1段階の薬は胃腸障害、第2段階の薬は便秘、第3段階な薬は、便秘(使っているほとんどの患者がなる)・吐き気・眠気が起こりやすい。
 髻防村爾如崢未犬蓮」と聞いていたのは、「大腸」患者へは当然だが、大腸に限らず他の分野第で第大2・第3段階の薬の患者にも必須。
 鵝某事中食べ物を吐くのは普通の人でもあるが、食事とは違う時間帯にも吐く人が人がいた。必ずしも胃の中の食べ物を吐き出すのとは違うようだ。その場合は連続音。そういった表現があるかどうかわからないが、「咳き込む」ならぬ「吐き込む」。何も吐き出していない。また、食べ物だけでなく、薬を飲んで吐き出したり吐き込んだような音も聞こえた。
 ェ.ある時医師が、患者が飲みやすいよう飴玉のように舐(な)めれば効く薬を選んで与えた。ところが、「舐める」と言ったのに当人はうっかり飲み込んでしまった。しばらくすると激しく吐き込む音が聞こえた。その際、薬を吐き出したかもしれない。
 顱亡慙△靴銅,里茲Δ別瑤發△襦「オキシコンチン錠は体に入ってから腸の中で徐々に溶ける徐放剤です。かみ砕いたり、つぶしたりしてのむと薬が急激に吸収され、思わぬ副作用が出ることがあります。危険ですので絶対におやめください」。必ず服用法を確認してから飲む。

 髻忙温諭第3段階強い薬の形・効き始め時間等一覧
薬の成分   薬の形  薬の名前     効き始め迄時間 効き目継続時間
モルヒネ   粉薬   モルヒネ粉薬      10分        約4時間
         水薬   オゾン内服液       〃           〃
         錠剤   MSコンチン錠    1.5〜2時間    8〜12時間
        カプセル  MSツロイスロン錠    〃           〃    
         細粒   モルペス細粒       〃           〃 
         顆粒  カディアンスティック  1〜2時間       24時間
         坐剤   マンベック坐剤     約30分       8〜12時間
オキシコドン 錠剤  オキシコンチン錠    1時間以内      12時間
フェンタニル 貼り薬 デュロテップパッチ  12〜48時間      72時間
  a)痛みを止める「飲み薬」が使えなければ、尻から入れる「坐剤」、それが使えなければ「貼り薬」、更には「持続皮下注射」という方法がある。「これは細い注射用の針を体の表面に刺し、その針と細い管でつないだ携帯用のポンプから24時間、少しずつ痛み止めの薬を体の中に入れる方法です」

  b)痛み止め薬には、効き目が早く現れるが短時間しかもたないものと、効き始めに長時間要すが、効き出せば3日も続くものがある。
  c)モルヒネについて、「医師が決めた量と時間を守ってモルヒネを使っていれば、中毒になったり、癖になったりすることはありません」「覚せい剤、ヘロイン、マリファナ(大麻)やLSDを使うと、幻覚や妄想があらわれたり、依存性が強いためにやめることができなくなるだけでなく、人格が変わってしまうなどの精神障害を引き起こします。やめることができた場合にも、精神や体に障害が残ることがあります。これらの乱用薬物は医薬品ではなく、痛みの治療に用いられるモルヒネとはまったく関係のないものです」
  【私の全身麻酔の手術には、当然モルヒネが使われていたことだろう】

  【坐剤については、退院後に知った。同室に坐剤の患者さんがいたと思う。声だけであるが、ある時看護師さんが確か「お尻の中に注射します」(あるいは、「お尻に薬を入れます」だったかもしれない)と言っていたので、おやっと思った。「お尻に注射します」ならば何でもないのに 聞き耳を立てたほど刺激を受けたから間違いない】

 ォ.痛みがいつまで経っても下がらなかったり、ひどくなったりした場合、担当医は対策・処方を考え出さなければならない。
  顱北瑤領未鯀やす、服用法を変える、薬を変える等。目標を決め、実施する。
  第1目標:夜間ぐっすり眠ることができるようになる(痛くて目が覚めることがない状態)
  第2目標:静かにしていれば、痛くないようになる(テレビを見ていて笑ったりできるし、クシャミや咳をしたとき、大して痛くない状態)
  第3目標:歩いたり、体を動かしたりしても、痛くない(痛みがなく、普通の社会生活ができる状態)
  髻紡慮魁О綮佞、患者に薬に関しいろいろ話をし了解を求めているのが聞こえて来た。間違った表現をしているかもしれないが、例えばこんなふうであった。
  a)「Aさん、薬を増量しましたので痛みはとれるでしょう。それで変わらないようでしたらいつでも看護師に伝えてください」
  b)「今日からもっと強い薬で試してみます。副作用は多少あっても今のBさんの体力なら大丈夫。4〜5日それでやってみましょう」
  c)「薬をもう1種増やします。飲みにくい薬ですが、Cさんと同じ症状の患者さんに効果があることが実証されています」
  d)「D先生とも相談し、Eさんにはこれの方がいいという薬の調合を新たに決めました。明日からそれに変えてみます。痛みは、改善されるでしょう」
  e)「Fさん、ここ3日が勝負どころです。その間辛抱し頑張ってください」
 d.印象に残る医師・看護師の言葉・行為
 ァ.「おはようございます。昨日の血液検査結果はすべて良好でした。明日から点滴を外します。退院は近いうちにできそうです」(患者の知りたい・聞きたいことをタイミングよく、関連づけて伝えている)
 ィ.(人口肛門から下痢による)水便が続けて出ていることに対して、「心配いりません。このところ体温がずっと安定して低い状態ですから」(心配無用より常に患者の体温の動きを診ていること)
 ゥ.(夜になって体温・血圧を測りに来た看護師に尻から何か漏れている気がするとの問いかけに対し)「お尻から先に看ましょう。反対側に向かって真横になって下さい。お尻の中が見えるようにぐっと上げるようにして下さい。特に異常はありません。(尿取り)パットと紙おむつにも特に汚れはありませんし、取替の必要もありません。気のせいでよかったですね。どうぞ安心してお休みください」
 ェ.(3日に一度の人工肛門の交換実習訓練にて)「器用ですね(パウチの剝し・円型ハサミの使い方・アダプトの切り方等」「知恵がありますね(ストーマの下部へのパウダーのつけ方:他の看護師から教えてもらっていた。そういうことも知っていたはずだが)」「すごい自主性のある方ですね(基本的には家族を手かけず自分ひとりで全てできることを目指すとは言っていた)」。
 【誰が見ても器用でも知恵者でもなくその反対で家族はじめ当人自体そのように思っているのだが。「ダメね」「足りないね」「無理かもね」等のマイナス言葉は一切なかった。これも技術のうちと言えば、実は大変重要な技術。おだてに乗せられながら徐々に熟練を要す作業ができるようになってきたというのが実態。】
 ォ.私が試みたパウチが交換日の前日夜に漏れ後日再挑戦で交換した日の夜、当日夜担当の看護師が最後の体温・血圧の測定に来た。
 「今日は交換の日だったようですね。お腹見せて下さい。(いつものように外から見えないようにカーテンを閉め、パウチの中に入っている便を見て)便が硬く色もよく いい便してますね。(パウチ)周辺、しっかり貼られています。上手ですね。これなら、安心してお休みになれます」
 【当人は、パウチ交換に立ち会っていないのに今迄の件を知り、定例業務だけにすませず、そこまでの点検・看護を自主的に実施】

Δ泙箸
 まだ完治したわけでないのに結論づけるのは早計としても、世に多く宣伝・紹介されている最高の医療とは何かは知る由もなく論じてもはじまらないが(いろいろ調べはしたが、あっても月並みな抽象表現が目に付き、具体的にこれというものは見当たらなかった)、一患者から見て多分最高に近い治療・看護の医療現場に触れたことは貴重な経験であった。最高の医療設備・技術が、最高の医療でないと間違いなく断言できる。個々の患者・その家族にとってそれはどうでもよいことである。言葉・日常的行為が、治療以上の効果を及ぼすことは大いにある。
 以上


   



歴史スポット61:承久の乱と順徳上皇

 こんにちは!自在業の櫻井です。
 この9月26日新潟県立がんセンター新潟病院で大腸ガンの手術(結腸と直腸の悪い箇所を正常部分も合わせて50兩攴し接合)から2ヶ月経過、退院間近。
 人工肛門は6ヶ月要すとのことで順調であればあと4か月(来年3月)中に外れる。朝夕の回診に単独あるいはペアあるいは5人全員お揃いで来られる消化器外科・瀧井チームの先生方(事前に個々の患者の体温・血圧・食事量、血液検査あればその結果を知った上での応対、問診だけでなく必要に応じ医療用手袋をすぐに着けての要所の目視に敬意、担当専門医が1人でなく5人というのは心強い)、一方24時間体制で患者に合わせ例えば夜8時と夜中12時の薬投与や点滴交換、深夜の緊急ナースコールにすぐに応答し来てくれるクイック・レスポンス、クイック・アクション、上下・左右・斜め・先後の連携プレーの行き届いた同科看護師チーム・スタッフに感謝。
 10月28日朝の体温がいままでになく37.4 ℃、昼は37.8 ℃、夕方38℃を越えた。看護師さんか体のに具合が悪いところは?と聞かれたが、別段悪いところは感じなかった。夜7時過ぎに先生方が来られて尻を検査し、中に管(くだ)2本入れる治療。終わったのは、10時半近く。その間どうにも言えない痛さをこらえた。治療が済み、原因は腸内の傷口の炎症で、これで体温は元通りに下がりますと言われた。その1時間後看護師さんが体温を測ると、36、5 ℃に下がっていた。体温での異常の早期発見ー自覚症状ではじめて動くのでないーの重要性を実感。なお管が全て取れたのは11月7日。座ったり歩くときの痛みや違和感はなくなった。これは、10月21日に1ヶ月近く着けていた点滴(始めは左右両手、途中から片手「のみ)が外れた時と同じような解放感を味わった日である。
 体格について2ヶ月で身長は177僂ら変わるはずないが、体重・血圧等は次のとおり。
  手術前(概ね)    1ヶ月後   2ヶ月後   備   考
  (9月26日前)  (10月27日)  (11月26日) 
身長  177僉   177僉  177 僉  /板垢って180〜181
体重 85〜88圈  73圈   72      体重20〜30代は68堊宛
血圧 150強-130強  121-56  113-89  1日の中で変化(会話中140〜150あり)
 他:10月30日70圈31日106-61、11月1日120-75・36.3℃・尻の管2本のうち1本抜く、7日125‐70・36.5℃、9日122‐88・体重69.5圈β硫36.2℃、追記:30日125-70・体重72、7圈β硫36、5℃。12月7日123‐74・36.6℃・98.8%
体温   ー        36、8℃   36、1℃  朝・昼・夕測定。概ね36、5℃。
酸素濃度  ー    98%    98%    96%以上が健康。100%の経験あり。
 【健康面で異常を感じたことは今まで余りない。手術前10年間より手術後の方が、若い時のようなスマートな体型に戻って身長・体重・血圧のバランスは良く、心臓への負担や脳内血管への影響等を考えれば、その方がはるかに健康的!?】 
 〔12月8日追記:昨日12月7日14時退院〕

 さて、今回のテーマは、表記のとおり。
 テーマは、前号『太平記』日野資朝との関連で必然の成り行き。
 これまで順徳上皇(以下「順徳院」)について部分的に載せていたが、主人公でなかった。今回は中心。ただ、新しい史実(口承も構わない)が、これを機に多く収集できるとは思えず、内容充実面で気掛かりな面あるが、より体系的なものにまとめることを狙いとする。これまでの主な掲載記事 (単なる言い伝え含む)は次のとおりで、ベースとなる。
 06年3月15日号「吉田松陰と佐渡(その2)」
 06年10月13日号「与謝野晶子と佐渡(1)」
 06年10月16日号「与謝野鉄幹と佐渡」
 06年10月17日号「田山花袋と佐渡」
 06年10月21日号「尾崎紅葉と佐渡(3)北の国仲」
 06年10月27日号「幸田露伴と佐渡(4)」
 07年1月13日号「佐渡の寺院2多聞寺」
 08年7月28日号「佐渡の神社1日吉神社」
 08年8月2日号「佐渡の生物10羽吉の老木」(真法院の苔梅)
 09年1月22日号「歴史スポット41佐渡百話(1)尾崎紅葉」
 09年5月9日号「佐渡の風景57田植え」
 09年5月12日号「佐渡の神社16ニ宮神社」
 10年5月15日号「佐渡の神社21一宮神社」
 14年11月25日号「係わりの地72萩(山口県)
 〔追記12 /8:上記の外に記事を2つ見つけた。後述〕

1、承久の乱の背景、結果と影響
 承久の乱について前号に触れているが、メインは後醍醐天皇の側近日野資朝で、乱の104年後の正中の変であった。佐渡流罪のきっかけは正中の変、その7年後佐渡で死罪に処せられたきっかけが元弘の乱。ここでは、まずそれら事変の先駆けである承久の乱の本質について詳述する。
(1)背景
 北条高時〔1304〰1333年。鎌倉時代末期の執権〕の世の乱れの始まりは、「禍ひ一朝一夕の故にあらず。元暦年中(1184〜85)に右大将頼朝卿、平家を討倒して功ありし時、後白河院、御感(ぎょかん-感心)の余りに、66カ国の惣追捕使(そうついぶし)に補(ふ)せらる。これより、武家始めて立って、諸国に守護を置き、荘園に地頭を補す」(『太平記』)。
1)後白河院〔1127〜1192。天皇→上皇→出家し法皇〕が、頼朝に守護地頭の設置を承認したのは弱味があった。
 a、平家の方が源氏より強いと見れば源氏追討の院宣、源義仲が強いと見れば都から平家追放の宣旨及び1184年1月義仲に「征東大将軍」宣下、義仲が邪魔になると頼朝に義仲追放の宣旨、1185年平家滅亡。頼朝より義経の方が期待できるとなると義経の要望に応じ10月頼朝追討の宣旨、だが翌月義経没落し苦しい立場になった。
 b、1185年11月頼朝の命を受け、北条時政は千騎の兵を率い上洛、頼朝の憤怒を告げて交渉し、義経らの追捕のために守護地頭の設置等を認めさせることに成功。警察・軍事だけでなく、所領・荘園の所有権・納税管理と追捕使の全国・地域配置に及んだ。
2)頼朝の征夷大将軍への希望に応じなかったが(近年見直し再検討。後述)、全国の惣追捕使は承認。武家政権樹立。但し、朝廷政権との二頭政治。
 《参考》用語 (ウィキペディア)
 a「追捕使・惣追捕使」
 ア、追捕使の最初の設置は932年。当初南海道で頻繁に出没していた海賊を掃討する目的で設置。「追捕」は、「追い捕らえる」で元々は、軍事的役割は含んでいなかったが、海賊・反乱など鎮圧する目的から軍事に当たることが重要となった。その後諸国に常設されるようになると国司を追捕使に兼任させたり、地方の豪族を任命したりするケースが多かった。
 イ、12世紀末頃になると惣追捕使として一国の警察・軍事的役割を担う官職が現れた。さらに、1190年に源頼朝が日本惣追捕使に任命され、諸国の惣追捕使の任免権が鎌倉殿〔頼朝〕に移り、守護と名を変え、後に発展していった。
 b「征夷大将軍」
 ア、朝廷の令外官の一つ。「征夷」は、東夷を征討する意で、「東夷」は中国に帰順しない四方周辺に居住する異民族の蔑称(他に、西戎・南蛮・北狄ありで「四夷という」)で古代中国の中華思想から来ている。
 イ、征夷大将軍は、「征夷」行為に関して現地の軍の最高司令官であり、天皇の代理人という機能を有していることから武人すべての司令官としての力が備わるようになっていった。
 ウ、鎌倉中期〜明治維新まで武士が政権を握っていくことで武士の棟梁としての征夷大将軍は、事実上日本の最高権力者であった。また、天皇によって任命されることが、天皇に実力はなくても権威は維持するようになった。
 エ、1192年源頼朝が征夷大将軍の位を得て鎌倉幕府を開いて後、江戸末期まで675年間武家政権が続いた。1867年(慶応3)徳川慶喜による大政奉還で江戸幕府が消滅し、更に王政復古の大号令を発令した明治新政府によって征夷大将軍の官職も廃止された。
3)後白河院は、他は妥協しても頼朝を当人の望む征夷大将軍にしなかったという説が通説。
 a、近年これを覆す史料が発見され、専門家は見直しを迫られている旨のことがウィキペデアに見える。
 ア、「近年これら通説を覆す新史料が発見された。『三かい荒涼抜重要』所収の『山かい記』1192年7月9日条および12日条に頼朝の征夷大将軍の既述、、、によると頼朝が望んだのに『大将軍』があり、それを受けた朝廷で『惣菅』『征東大将軍』『征夷大将軍』『上将軍』の四つの候補が提案された結果、平宗盛の任官した『惣菅』や義仲の『征東大将軍』は凶例であるとして斥けられ、また『上将軍』は日本では先例がないとして斥けられ、坂上田村麿の任官した『征夷大将軍』が吉例であるとして頼朝を『征服夷大将軍』に任官したという」。
 イ、さらに頼朝が望んだ「征夷大将軍」を後白河院が拒んでいたという通説をひっくり返す事実が、古典の文面から発見されたとある。
 b、「征夷大将軍」をめぐる歴史ポイント
 ア、源氏
 a)源頼朝にとって平家を滅ぼし天下を取った以上、義経及びその残党を捕縛すれば、それに呼応する豪族(総括して「謀反集団」)はいなくなり世の混乱は収まる。当初「東夷=東国」征伐の「征夷大将軍」の官位が欲しかったが、義経の脅威もなくなった今、朝廷から東国レベルでなく全国レベル「大将軍」の官位・お墨付きが欲しくなる。
 b)後白河院の場合、義経捕縛と国の治安のため全国に守護・地頭の設置は承認しても、「征夷大将軍」は軍事の権限を与えることを意味し、やがては西国に拡大解釈されることを懸念か。
 c)『太平記』では1185年「惣追捕使」を後白河院承認。ウィキペディアでは後白河院崩御後の1190年「日本惣追捕使」、1192年「征夷大将軍」に任官。
 イ、北条氏
  a)鎌倉幕府の執権職で充分、源氏3代のように朝廷からの官職・位階「征夷大将軍」は不要。
  b)それでも源氏滅亡後の政権安定引き継ぎのため、一応藤原一族からの摂家将軍や天皇の皇子など宮将軍で繋いだ。
 c)朝廷からの借りがないため、上皇・貴族などが計画したクーデターに対し流罪などの刑の執行ができた。
 ウ、足利氏
 a)政権を取るため天皇及び「征夷大将軍」を必要とした。それによって天皇が2つに分かれる発端となった。
 b)おそらく南北朝時代の出現によって「征夷」の意味が東国でなく西国をも含む「全国区」を意味するようになった。
 ア)世は、東・西の争いでなく、南朝・北朝の争いで全国共通。
 イ)当時佐渡国においても、守護代として鎌倉から来て佐渡に定住した本間氏が佐渡の各地で分家した佐渡の地頭の間でもー例-羽茂本間と吉岡本間ー領地争いから南北朝の争いに発展。
 「1336年は日本で北朝と南朝とに朝廷の分裂が始まった年で羽茂は南朝、吉岡は北朝についた」
 エ、織田信長
  自ら天下を布武するkーおーおのだから不要、但し、朝廷が官位を授けることは拒まない。例-権大納言、右近衛大将、右大臣、内大臣、m正二位等々。朝廷が官職を乱発する狙い・苦心が窺える。
 オ、豊臣秀吉
  太政大臣・関白・征夷大将軍のうち、関白となった。百姓出身だったから・清和源氏の系統でないから征夷大臣になれないは俗説。
  ヵ、徳川家康(1543〜1616)
 a)1600年関ヶ原勝利後幕府を築くのに武士の棟梁の象徴としての「征夷大将軍」は重要と認識。そのためか 徳川の系図に改姓〔松平→徳川〕。1603年征夷大将軍宣下。先祖が「清和源氏」であることが条件と言うのは俗説とされる。1605年征夷大将軍辞退。長男・秀忠に繋ぐ。
 b)1607年駿府城へ移っても当分の間実権を掌握し、「大御所政治」を行った。
 駿府でのブレーン-本田正純(側近)、松平正綱・板倉重昌(武将)、角倉了以・茶屋四郎次郎・後藤庄三郎(豪商)、天海(僧侶)、林羅山(学者)、ヤン・ヨーステン(外国人)など。
 c)その他の主な官位
  1617年(死後)贈正一位、1616年太政大臣、1年右大臣、1603年源氏長者、1602年従一位
 (以上、「征夷大将軍」をめぐる歴史ポイント)
(2)変化・機会・戦闘
1)頼朝の長男頼家、次男実朝(さねとも)とも征夷大将軍となった。「しかるに、頼家卿は、実朝公のために討たれ、実朝公は、頼家の子悪禅師公暁のために討たれて、源氏の世、わづかに42年〔?34年〕にして尽きぬ」(『太平記』)
《参考》「源氏の世、わずか34年-1185〜1219」史実 
a、源頼朝(1147〜1199)
 1180年配所の伊豆で挙兵。1185年平家滅亡、惣追捕使・守護地頭制。1192年征夷大将軍宣下。1199年落馬がもとで死亡。
b、源頼家(1182〜1204)嫡男-第2代将軍(諸国守護)宣下。
 18歳で家督相続。だが、従来の慣例を無視した独りよがりな判断で多くの御家人の反発を招き(『吾妻鏡』。真偽は不明)、北条氏を中心とした十三人の合議制が敷かれ、3年後頼家が重病に陥ると頼家の後ろ盾の比企氏(源頼朝乳母・比企尼に連なる一族)と実朝を担ぐ北条氏が対立。北条氏は比企氏を攻撃し、滅亡させた。頼家は権威を剥奪され、伊豆修善寺に幽閉、北条氏により暗殺された。
 北条氏が鎌倉幕府の実権を握る。初代執権は北条時政(1138〜1215。頼朝の妻北条政子の父)、2代目は北条義時(1163〜1224)。
 (注)頼家の子の命運、男子4人は、20歳代までに変死。
 ア、一幡(長男。1182〜1203)20歳で刺殺される。
 イ、公暁(次男。1200〜1219)実朝暗殺後、討死。
 ウ、栄実(三男。1201〜1215)六波羅襲撃計画露見し自殺。
 エ、禅暁(四男。  ?   〜1220)誅殺。
 オ、竹御所(娘。1202〜1234)28歳で13歳の第4代将軍藤原頼経に嫁ぐ。難産で男児の死産と共に死亡。
  藤原定家の『明月記』には、その訃報を聞いた鎌倉武士たちは源氏の血筋が絶えたことに激しく動揺し、京都にいる御家人はこぞって鎌倉に下ったこと、これに関し「平家の遺児をことごとく葬った報い」とある。
c、源実朝(1192〜1219)四男-第3代将軍
 ア、兄の頼家追放後12歳で征夷大将軍に就く。28歳の時頼家の子公暁に暗殺される。
 イ、実子なし。猶子-公暁、竹御所。
 【源頼朝の直系男子6人は、全て20代までに変死】
 (参考は、以上)
2)機会
 a、北条氏にとっては、源氏に替わり政権獲得
  頼朝の舅(しゅうと)北条時政の子息義時は、「自然に天下の権柄を執(と)って勢ひ漸く四海に覆はんとす」
    b、朝廷にとっては、源氏滅亡で後継・権力争いによる内部分裂を機に武家からの政権奪回
 「この時の太上天皇(上皇)は後鳥羽院、武威下(しも)に振るはば、朝憲(朝廷の法規)上に廃れん事を嘆き思し召して、義時を亡ぼさんとし給ひし」
 c、後鳥羽院の性格・事情。
 ア、多芸多才。 
  a)『新古今和歌集』を自ら撰するほどの歌人。(子の順徳院も歌人)
  b)弓馬の武芸(流鏑馬-やぶさめ)に通じる。
  c)軍の重要性を認識。
  朝廷に以前からある北面の武士に加え、1200年頃西面の武士を設置。その財源は、自己の領地。
  イ、広大な荘園領主。   
  a)長講堂領(42ヵ国89ヶ所の荘園)、八条女院領(220ヵ所以上の荘園)など諸国に置かれた荘園群。
  b) これら荘園の多くに幕府の地頭が置かれるようになると、年貢の未納などが起こり、領主である上皇や近臣と紛争をおこすようになる。
 ウ、鎌倉幕府打倒の意思が強い。   
  a)1199年源実朝の暗殺で幕府は、新しい鎌倉殿として上皇の皇子の雅成親王を迎えることで上皇に申し出たが、ある西面武士の処罰(些細な罪による所領の一部没収)の撤回と愛妾所有の荘園の地頭職の撤去を条件として提示したので破談。以降、北条義時は、宮将軍を諦め藤原家などの摂関家から将軍を迎えることにした。
  b)1200年倒幕に消極的な土御門天皇を退位させ、積極的な第3皇子の守成親王を順徳天皇に据えた。
3)戦闘
 a、1221年(承久32)5月14日後鳥羽院は、流鏑馬揃えを口実に諸国の兵を1,700騎集めた(北面・西面武士、大番役の在京の武士、近国の武士)。
 同日、三浦・小山・武田など有力御家人及び朝廷からも同日付で不特定の諸国の御家人・守護地頭を対象に義時追討の院宣を発す。
 翌15日の伊賀光季邸襲撃に遭って生き延びた下人が、変事を鎌倉に知らせた。
 b、鎌倉で軍議 
 ア、義時・泰時・時房・大江広元・三浦義村らのメンバー。
 イ、箱根・足利での徹底抗戦案にア対し大江の京への積極出撃案が政子の最終判断で採用。
    ウ、5月22日京へ向け三方から出陣。(  )の数値は最終で、合計19万騎(『吾妻鏡』)。
  a)東海道軍10万騎-北条泰時・時房
  b)北陸道軍 4万騎-北条朝時
     c)東山道軍  5万騎-武田信之
 幕府方の軍勢は道々次々に増え19万騎に達したのに対し、朝廷方は大方の予想に反して増えず2万騎とされる。
4)結果
 a、朝廷軍完敗
 ア、「後鳥羽上皇は、幕府軍に使者を送り、この度の乱は謀臣の企てであったとして義時追討の院宣を取消し、藤原秀康、三浦胤義らの逮捕を命じる院宣を下す」(ウィキペディア。出典は『承久記』かの)
 イ、「官軍忽ちに敗北せしかば、後鳥羽院は、隠岐国へ遷されさせ給ひて、義時、いよいよ八荒(はっこう-天下)を掌(たなごころ)の内に握る」(『太平記』
 b、処分
 ア、乱の首謀者 後鳥羽上皇は隠岐へ、順徳上皇は佐渡へ、首謀者でんなくむしろ反対した土御門上皇は本人の希望で土佐へ配流。
 後鳥羽上皇の皇子 六条宮は但馬、冷泉宮は備前へ配流、仲恭天皇(順徳上皇の第四皇子)は天皇廃位など。
 イ、領地の没収
  a)後鳥羽院の膨大な荘園
  b)朝廷方についた公家や武士の所領約3,000ヶ所。
 幕府方の御家人に分け与えられ、新補地頭が大量に補任された。
  c、影響
  ア、朝廷と武家の二頭政治から武家が政治の主導権を握る社会になった。
  a)鎌倉幕府の勢力範囲が、東国から西国へ及んだ。
  b)朝廷を監視する六波羅探題の設置。
  c)皇位継承について幕府が関与。
  イ、1232年御成敗式目の制定
  a)地頭の西国への任地拡張により、旧来の荘園領主・国司・現地民との土地をめぐるいざこざが多くなった。
  b)武家政権の成文法が必要となった。後の時代ー室町時代・戦国時代・江戸時代ーにも。適用
 例-第16条「承久の乱の時に没収した領地のこと」
 承久の乱の時に領地を没収された領主のうち、後で謀反人でなかったこよが証明された者の領地は返還される。既に返還する領地に入っていた新たな領主には替わりの領地を与える。それらは合戦の時によく働き戦功のあった者たちだからである。
 御家人であったにもかかわらず幕府に謀反した者の罪は重く、死罪のうえ財産は没収する。ただし、今より以後朝廷の味方になっていたことが分かった者については、特別に許し財産の五分の一を没収する。御家人以外の下司や荘官の場合は今後財産を没収することはしない。なお、本領主として称した財産を没収されたときの領主を違法な領主とし、真の領主に没収地を返して欲しいなどの訴えが多いが、当時の領主をさしおいて今になってから調べることは筋違いでこのような訴えは受け入れない。
 
2、順徳上皇
(1) 略歴(1197〜1242年) (資料-ウィキペディア)
a、天皇在位-1210〜1221年5月13日 
b、追号-順徳院(1249年追号勅定)。別称-佐渡院
父-後鳥羽天皇、 母-藤原重子(修明門院) 第3皇子。
c、子女 
 ア、中宮  藤原(九条)立子
  皇女-諦子内親王(明寿門院1217〜1243) 
  皇子-懐成親王(仲恭天皇1218〜1234) 
 イ 、典待(督典侍)藤原範光女
  皇子-彦成王(1219〜1286?)。佐渡勝興寺を開基した善空房信受が彦成王にあたるという伝承がある。  
   (勝興寺、順徳上皇に関し、
  10年12月3日号「係わりの地55-伏木〔富山県高岡市〕」
   彦成親王、順徳上皇に関し、
  09年10月18日号「歴史スポット51-西三川砂金山(1)史跡めぐり」)
 ゥ.皇子-善統〔よしむね〕親王(1233〜1377) 。順徳天皇第六皇子。「善統親王は、順徳天皇が佐渡島に流刑になった後の天福元年(1233年)に生まれた皇子である。彼は時期ははっきりしないが上洛して祖母・修明門院のもとで成長し、祖母の養子となり、親王宣下を受けた」上皇が佐渡に流された後の1233年に生まれた皇子。時期はっきりしないが上洛して祖母・修明門院の元で成長し祖母の養子となり、 親王宣下を受けた」。1314年後醍醐天皇から祖母から相続した七条院領の一部(17ヶ所)を還付される。1291年出家し以後は四辻入道親王と称された。「子孫は源氏賜姓され順徳源氏となった」
 ウ、後宮 
 a) 藤原位子-坊門信清女
  皇女(1216〜1279) 
 b) 藤原清季女-1221年順徳上皇の配流先佐渡へ供奉。
   皇子(1215〜1264)
   〃 (1217〜1300) 
   〃 (1222〜1279)-岩倉宮忠成王。出生-佐渡。順徳上皇の第五皇子。経緯は不詳ながら上洛し活躍したとされる。なお、宮内庁は忠成王を公式には宮家と認めていない。
 c) 源氏(宰相局)
   皇子(1217〜1300年) 
 エ、生母不詳-佐渡で生まれた子女
  皇女 -慶子女王(1225?〜1267?) 一宮(いっくう)
   〃 - 忠子女王(1232?〜1249?) 二宮(にくう)
  皇子-千歳宮     (1237?〜1254?) 三宮(さんぐう)
 【皇女・皇子について揃えた記事は、
  09年5月9日号「佐渡の風景57田植え」。
 この時は、国仲平野の田植え風景がテーマであったが、序でに順徳上皇の子女の墓地巡りをしようと思いつき、国仲平野を縦断したもの】
(2)特記事項
1)1200年土御門天皇(1196〜1231。後鳥羽天皇(1180〜1239)の第一皇子)の皇太弟〔次の天皇は子でなく弟の意〕)となる。「順和な土御門天皇とは対照的に激しい気性の持ち主と言われて、後鳥羽上皇から大きな期待を寄せられていた」
2)1210年後鳥羽上皇の強い意思により14歳で即位
 (上皇による院政(在位する天皇の直系尊属である太上天皇(上皇)が、天皇に代わって政務を直接行う政治)が継続。後鳥羽上皇は1198年土御門天皇に譲位して以後、土御門、順徳、仲恭と承久3年(1221年)まで3代23年間に亘り上皇として院政を敷いた)
3)院政・父帝の影響とされる。
 a.有職故実(朝廷や公家の行事・制度・習慣・儀式・装束など)の研究に傾倒。『禁秘抄』(1221年成立)を著す。鎌倉幕府への対抗ともされるが、幕府によって反古にされるのでなく誇れる文化を残さなければならないという情熱からだろう。
 b.父の影響で
和歌や詩に熱心。藤原定家に師事して歌才を磨く。
 
家集として『順徳院御集』(紫禁和歌草)、歌論書として当時の歌論を集大成した『八雲御抄』(著者の序文に「夫和歌者起自八雲出雲之古風(中略)名曰八雲抄」とあり)は、「承久の乱以前から書き始められ一度まとめられた(草稿本)が、乱後に配流先の佐渡で書き続けられ、都の藤原定家に送付された(精撰本または再撰本)」。
 在島中の詠歌として、『順徳院御百首』(1232年が残されている。
 藤原定家撰『小倉百人一首にある歌(20歳の時の作とされる)
   ももしきや古き軒端のしのぶにもなほ余りある昔なりけり (順徳院)
4)父である上皇の討幕計画に参画。承久3年後鳥羽1221年)4月に子で3歳の懐成親王(仲恭天皇)に譲位、上皇の立場に退いた。
  「父上皇以上に
鎌倉幕府打倒に積極的」「5月に承久の乱を引き起こしたものの倒幕は失敗」。
5)承久の乱後の7月、後鳥羽上皇は隠岐へ、順徳上皇は
御年24歳で佐渡配流
 a.上皇に豊田の人が温かい稗の粥を献上したところ即座に詠まれたという歌
   これほどに身の温まる草の実を ひえの粥とは誰かいふらむ
 b.佐渡で父を思っての歌
    いざさらば 磯打つ波にこと問はむ おき(隠岐)のかたには何事かある
6)1242年9月12日崩御
 a.辞世の歌
   思いきや 雲の上をば他所に見て 真野の入り江に朽ち果てんとは
 (「雲の上をば他所に見て」は、「『雲の果てまで流れ来て・・・』との御製さへ胸に浮びて・・・」と幸田露伴の真野御陵での紀行文にある。06年10月27日号「幸田露伴と佐渡(3)」) 
 b.崩御の翌日佐渡真野山にて火葬。1243年4月遺骨は都に持ち帰られ、翌月後鳥羽上皇の大原法華堂〔京都市左京区大原勝林院町〕に安置された。現在の後鳥羽天皇大原御陵〔みささぎ〕と順徳天皇大原御陵。
  c.
新潟県佐渡市真野にある真野御陵(まののみささぎ)は正式には火葬塚であるが、古来地元から御陵として崇敬されてきたもので、延宝7年(1679年)に佐渡奉行曽根吉正が修補を加え、明治7年(1874年)から政府の管理下にある。」
7)建長元年(1249年)7月20日順徳院諡〔おくり(贈り)名〕された(配流後それまでは佐渡院


3.まとめ
‘本の歴史上鎌倉時代の画期的な事は武家政権の樹立。要因は国衙領や荘園を守り謀反人・犯罪者を追捕する目的のため主に東国における守護地頭の設置、決定的には朝廷と幕府が争った承久の乱で上皇の宣旨に拘らず幕府側につく武士が圧倒的に多く、幕府軍が朝廷軍に圧勝、当初の東国だけの支配が全国に及んだ。3人の上皇の流罪を含め武士革命が起こった。
∈甘呂砲いても鎌倉時代というより、同じく承久の乱後は画期的で、鎌倉から守護代と地頭が来て全島を統治、それと関連して京都から順徳上皇が配流になった。その後、佐渡への政治犯としての流罪者は日蓮、大納言京極為兼、中納言日野資朝(前号)、頼朝急死後の文覚(07年1月12日号「佐渡の寺院1真禅寺」に記述)を含めると鎌倉時代に集中。
佐渡の守護・地頭の設置年代は明確でないが、手掛りとなる資料はあった。それは、『吾潟郷土史』(平成12年(2000)2月28日発行)で、一集落の郷土史というものの現時点最新の集落史に該当し、且つ特定分野において数多くの佐渡の歴史文献から取捨選択して記述されたであろうからである。その特定分野とは、守護地頭で、吾潟は昔は潟上村の一部でそこには佐度でもそこそこの勢力を有していた潟上地頭が存在した。現在、山形県米沢市にその末裔(苗字は潟上)がいるということを数年前同書から知り、取材している。内容については、以下「潟上家文書」(写真撮影)とする。なお、当時「潟上」姓をついて電話帳で調べと、佐渡に「潟上」の地名はあっても「潟上姓」はなかった。米沢には3軒あった。
 (12年11月7日号「係わりの地63:米沢」〜同22日号「米沢(続・続き))」)
1)創元社「日本史辞典」に、佐渡国の守護として最初に比企氏〔前号:北条氏との権力闘争で滅亡〕か、として建久2年(1191)6月以前とあり、大仏(おさらき)北条宣時が1271〜1285年となっている。
2)佐渡本間の系図に本間能久が出てくる(「辞典」にはない)。能久について吉田東伍博士は、「佐衛門尉能久の佐渡守護となりしは承久の頃とす」と述べている。「かくて、承久の変以後、守護又は守護代が遥任ではなしに、実際赴任の形で着任したことになる」
  【参考 曄嵳敘ぁ廖淵Εキペディア)
 日本の奈良時代・平安時代などに、国司が任国へ赴任しなかったことを指す。遥任国司は、目代と呼ばれる代理人を現地へ派遣するなどして俸禄・租税などの収入を得た。
  【参考◆曄崑臺北条氏( 〃 )
3)1271年執権北時宗は日蓮を佐渡流罪に決定。そして一門の大仏北条宣時を佐渡守護に任命し、宣時の預かりとした。宣時は御家人の本間六郎佐衛門尉重連を佐渡の守護代兼地頭地頭として任命し、日蓮を預からせた。
4)1271年・1281年の2度に渡って蒙古が来襲したが、退けることができた。「〔蒙古相手では土地など奪えない」幕府は戦後の論功行賞に困った。この時、佐渡は僻遠〔へきおん〕の地ではあるが、これを割譲して恩賞として与え、地頭に任命したのである。これが本間一族であり,同じく相模から来た藍原・渋谷・土屋ら〔名古屋と阿部」」の地頭である」。
 この論によれば、佐渡の地頭はいずれも承久の乱で功績のあった武士で新補地頭に成りあがった者であるということで説得力がある。なお、それぞれ相模国依知本間、相模川上流の藍原、同流域の渋谷荘、同下流の土屋の出身(資料:『佐渡 安照寺史』)。
 【以上の「まとめ」部分を「米沢」の事以外は昨日12月8日に書き上げた終わったと思ったが、今朝になって念のため「米沢」記事を調べると、まとめを変更せざるを得なくなった。潟上家文書に、次のように記されていたからである。撮った写真からのもので判らない文字等がある。
 信高:本間弥太郎 住相模ノ国〇〇 近頼朝卿先テ父ニ卒。

 義忠:本間右馬久征伐泰衡之時候ス頼朝卿ニ為千騎之列〇〇住シテ佐渡国羽茂ノ郡ニ為地頭職ト建久4年(1193)5月武衡狩ス富士野時義忠率テ370騎為供奉之列。

   義高;本間源太近侍頼家卿南佐渡羽茂之祖

   季高:本間源四郎北佐渡沢根之祖
 季行:海老名五郎住ス相模国致テ子孫ニ来住佐州 海老名之祖 忠行:海老名太夫。

 参考 В娃固4月26日号「鬼太鼓14:祭での鬼の位置(2):佐渡本間家」より。

  「「・・・本間氏の来歴を鎌倉幕府の記録「吾妻鏡」を中心に見ていくと・・・」(佐渡金井町史」1979年発行)

 1)佐渡本間家遠祖 本間能忠は、1189(文治5)年源頼朝の奥州征伐〔奥州合戦〕に従い、1190(建久元)年には頼朝の京都入りに随兵を務めた。

  a.能忠には、5男いて、長男忠家は左大臣関東下向の随兵、次男能久は競馬の騎手、三男基忠は五馬をひき、四男忠は流鏑馬(やぶさめ)の射手(いて)を務めた。

  b.佐渡の守護の代官としての来島は、長男忠家の六男六郎左衛門重連・・・・

  参考◆А」は「よし」と呼ぶことができ、その意味では「」と同じ。

 潟上氏系図(以下、『系図』)にある「義忠」を「能忠」と書き替えれば、『金井町史』で記されている「佐渡本間家の遠祖」その人。『系図』には「佐渡国羽茂郡に住し地頭となる」とある。それが事実とすれば、これまでの通説「本間家の佐渡での直接統治は承久の乱(1221年)以後」が覆る。」

上記は、次のとおり修正する。
佐渡の守護・地頭の設置年代は、1189年7〜9月の奥州合戦(源頼朝の鎌倉政権奥州藤原氏との間で東北地方での一連の戦いの戦役で源頼朝による武士政権が確立)で勲功を挙げた相模国(神奈川県)の本間能忠が大仏北条氏の守護代として佐渡の守護兼地頭に任命され、同じく佐渡の地頭に任命された同国の藍原・渋谷・土屋・名古屋・阿部と共に鎌倉から赴任・定住。1190〜1192年頃か。1589年の上杉景勝の佐渡攻略まで佐渡本間氏が佐渡を統治した。
 歴史上の問題解決の手掛り・決め手となる資料は、現地だけでなく思わぬ・僅かな関係地(例:富山県伏木、山形県米沢)からも発見できる可能性はある。
 以上

歴史スポット60:正中の変と日野資朝

こんにちは!自在業の櫻井です。 

 通常ならblogカテゴリーは、単発でなく3回以上続けるのがこれまでの暗黙の私的原則。前回「係わりの地」が1回で終わった。入院がなければ、「松ヶ崎」→「多田」と「松前稼ぎ」の関心の流れから関山(妙高市)の次は北海道江差(10年前にも訪問)、ついでに日本の最北端・稚内に比較的近い苫前(明治期佐渡衆が多く居住し、村長も輩出、。鬼太鼓は昭和30年代まで行われていた)となったであろうが、訪問は無理。 

 1ヶ月はかかるらしい入院生活の退屈しのぎにはタブレットだけでは足りないと思い(家内の場合1か月余の入院で本10冊以上読み、入院時の必需品と推奨。しかし、新聞やパソコンの字は読めるが文庫本は目が疲れ長続きしない(追記-前回記事から不馴れで不自由な面あるが、タブレットで書き込み中)。それでも背に腹は代えられず文庫本を購入するすることにした。この機にドストエフスキーの若いとき牢獄に入れられた体験を基に書いたという何とかという小説を読もうと古町の書店へ行ったがなく、バスで万代の書店へ行ったがそこにもなかった。そのため古町へ戻って3冊購入。
 機愨席慎(一)』(岩波文庫。兵藤裕己校注)
 供愿盟柿陝(岩波文庫。西尾 実・安良岡康作校注)
 掘悒織拭璽訖佑虜叔』 (岩波文庫。ブッツアーティ作、脇 功訳)

選定理由は、
 気、開いて見たところ 文字が大きく読みやすそうが第一で鎌倉末期から南北時代の歴史物語、
 兇、「つれずれなるままに」への共感、短い話集で区切って読めること、
 靴、 20世紀幻想文学の古典とされ、350頁ほどの小説で読めないものでないこと、
で、 いずれも単純。
 気、日野資朝(ひのすけとも)の事が載っているという認識はなかった。ページをめくっていくと第1巻6番目に「俊基資朝朝臣の事」とあり、日野資朝(以下、「資朝」)のことでないかと驚いた。ならば、佐渡広場の記事になる。
 資朝について今簡単に紹介すれば、次のような人である。
 貴族で、鎌倉末期後醍醐天皇の下での鎌倉幕府到幕計画が事前に漏れ、首謀者の一人として幕府に捕らえられ(1325年(正中2)正中の変)佐渡に流され、在島7年後元弘の乱(変ともいう)(1331年(元弘元))が起こり、翌年佐渡で処刑された。享年42歳。
  《参考》元弘の乱(変) 
 1331年(元弘元)後醍醐天皇を中心に再び倒幕を推進。天皇は、正中の変の処分を免れた側近の日野俊基や真言密教の僧文観らと結び倒幕計画を進めたが、側近の吉田定房の六波羅探題(1221年承久の乱後朝廷監視のため京都に設けられた鎌倉幕府の出先機関運用)への密告で計画は再び事前に発覚。
 翌年日野俊基や北畠具行や先に流罪となった日野資朝らを斬首し、後醍醐天皇は隠岐へ配流(元弘の乱)。これで倒幕勢力は衰退したかに見えたが、楠木正成や赤松則村、さらに足利高氏などが倒幕に加わり情勢が変化。1333年鎌倉幕府滅亡。
 兇、「資朝卿」の話がいくつか載っているのを発見。そこから資朝は、当時相当な有名人であったことが
わかる。こkれで資朝のコンテンツが豊富になることで、「歴史スポット、日野資料朝公」というテーマで記事にできる自信が出て来た。なお、『徒然草』の成立は、定説はなく異説が多いが、1330年8月〜1331年9月頃が、作者の吉田兼好の生没は1283年?〜1352年?。
 さらに、テーマの記述構想を考えていうち、阿新丸(くまわかまる)の父の仇討ち話があるのに気づき、フィクションであっても話には添えられるとコンテンツ(内容)の充実に多少でもなると感じた。
 佐渡の文弥人形(国の無形民俗文化財)=人形浄瑠璃にも、仇討ちして山伏の助け得て追っ手から逃れ、船にかろうじて乗り移って都へ向かったという演目があり、鑑賞している。
 (07年8月22日号「佐渡の祭り18、野浦芸能の里フェ2スティバル」。この時、地元の文弥人形グーループ「双葉座」により「太平記 誉の仇討ち 阿新丸船出の場」などの演目が上演された)
 気砲△襪を探すと、『太平記』全40巻の第2巻の中に「阿新殿の事」とあり、第一分冊=気砲△辰。フィクションか実話かを見極めるため、資朝の子を調べると朝光、邦光、光俊がいて、それぞれについて調べると、邦光が佐渡へ渡り父の仇をとったとあるから、作り話でなく、実話であることが判明。いよいよ面白くなLってきた。テーマも「日野資朝公」では足りず、「日野資朝・日野邦光」として、コンテンツが広がった。
  あとは、歴史的背景や日野父子の人となりと行為などをさらに調べ、どうまとめるかにある。(追記-記事書き込み完了後、テーマを「正中の変と日野資朝」に変更)

1. 鎌倉幕府倒幕の背景と結末
(1) 承久の乱1221年
1) 1219年3代将軍源実朝の暗殺と殺した公暁(源頼家の子)が殺害され源氏の血筋が途絶え、2代目執権として鎌倉幕府の権力の頂点に立った北条義時に対し1221年後後鳥羽上皇が義時討伐の院宣を発し兵を挙げたが、朝廷側が幕府に破れた兵乱。
2)遠因は、1285年源頼朝が後白河法皇の承認を得た「守護・地頭の設置」。頼朝のブレーン大江広元の建議とされる。趣旨は、これから末法の世となり無法者・反逆者が勢いを増し、各地に反乱が絶えない世となる。頼朝公の統治する東国では安寧を保つも、他所を鎮めるために各地に兵を派遣していたのでは、武士に負担をかけるだけでなく国費の無駄ともなる。治安と公領・荘園を守るため、全国に武士たる守護・地頭を置き、彼らに管理させれば、安全安心この上無い。ついては、兵糧米(管理費)として反当たり5俵を徴収することを認めることで実行あるものにする。真の狙いは、守護・地頭を全国に配置することで政権を強固にすることで、そのための「兵糧米の徴収」(本質は、公領所有の朝廷・荘園所有の貴族から収入を得る)で、反逆者「義経・行家(源義盛)の捜索・逮捕」は、本命の政権強固に比べたら言い掛かりに過ぎない。
 朝廷は、守護・地頭の権力が強まるにつれ国司による土地・年貢管理の弱体が目立ち、公領・荘園からの収入が減少、朝廷側には不満と将来への不安がつのり、何とかしなければ鎌倉幕府に牛耳られてしまうおそれがあり、皇権回復が急務であった。そのような時,源氏の血統が途絶え、チャンスとみた。そして、執権義時追討の院宣を後鳥羽上皇が発した。l
3)朝廷側に兵が集まるとの予想が外れ、幕府軍に集まり圧勝。『吾妻鏡』に、後家人を前に進み出た頼朝の妻の政子の傍で安達景盛が、政子の声明文を代読したとある。
「皆心一にして奉るべし。今こそ最期の詞なり。故右大将軍朝敵を制覇し、関東を草創してより以降、官位と云ひ俸禄と云ひ其の恩既に山嶽よりも高く、冥渤よりも深し。報謝の志これ浅からず。
 而るに今逆臣の讒に依り非義の綸旨を下さる。名を惜しむの族は早く秀康、 義等を討取り三代将軍の遺蹟を全うすべし。但し、院中に参らんと欲する者は、只今申し切るべし」
 この声明文が、鎌倉武士の心の中にある迷いー朝廷に逆らってよいものかーを払拭し、幕府軍を圧勝に導く決定要因となった。
 朝廷には出来ない将軍と個々の後家人との密接な絆の仕組みを守護・地頭制、度で築き上げてきたのが功を奏した。
4)幕府側が勝利し、これまでの東国中心から全国制覇をものにした。
 a、朝廷方の公家や武士の所領3,000ヵ所が没収された。
  それを軍功のあった後家人に分け与えられ、新補地頭が補任された。
  これによってこれまでの朝廷と幕府の二頭政治が、幕府の力が朝廷を凌駕することが確実となった。
 b、3人の上皇が配流となった。
  後鳥羽上皇は隠岐、 
  土御門上皇は土佐、その後阿波へ
  順徳上皇は、佐渡。天皇時代は倒幕積極派で、それに専念するため24歳で天皇の地位を譲り、上皇に退いた。
 c、京都に朝廷監視のため六波羅探題設置。
  また、皇位継承について幕府が影響力を持つようになった。
(2)正中の変1324年
1)後醍醐天皇による倒幕のため、側近の日野資朝や日野俊基が地方を密かに巡り有力者や武士に倒幕を呼び掛けて賛同者を増やし、謀議を重ね、襲撃地・実行日まで決めたものの直前になって決行当事者の一人が妻に計画を漏らしたことで六波羅探題に知られることになり失敗。
2)背景
 a、遠因に蒙古襲来=元寇1274年文永の役、1281年弘安の役)がある。(「事件の日本史」サイト)
 九州北部蒙古襲来→幕府の御家人への戦闘要請→個々の御家人武具調達→商人に所有地を質入し借金→神風台風で勝利するも「元』から土地や賠償金が入るわけでなく御家人への褒賞金なし→御家人は当てにしていた借金返済の原資なく生活苦に陥る→1297年幕府は「永仁の徳政令」(御家人が質入した土地は無条件に返す)を出し御家人救済にあたる→経済混乱(御家人への貸し渋り・貸し剥がしで御家人も苦境)→ 61年で廃止令→御家人の鎌倉幕府への信頼喪失
       《参考》元寇データ(ウィキペディア)
  文永の役               弘安の役
 1274年11月11〜26         1281年6月16〜8月29日
場所 九州北部            同左
交戦 九州地頭・御家人 元・高麗王国 主に九州地頭・御家人 元・高麗王国
指揮 北条時宗     フビライ             同左
戦力 不明     27,000〜39,700人 不明。25万人説あり  14万〜15、7万人
 軍船  300余艘    726〜900艘            4,400艘         
 b、近因には、執権北条高時の悪政。政治は側近に任せ、自身は田楽や闘犬に興じ、酒や女に狂い、その中において各地で治安悪化。畿内をはじめ各地に悪党の動きが活発化、奥州では安藤氏が乱を起こすなど政情不安。
 c、後醍醐天皇は、こうした乱れた世を建て直すべくかっての「延喜・天暦の治」と呼ばれる天皇親政の時代を実現すべく側近を巻き込み倒幕を謀った。
3)結果は、同志の不手際から計画が事前に探題に知られてしまい失敗した。後醍醐天皇は、鎌倉幕府の怒りを大変心配したが側近の助言で告文(偽りないことを神仏に誓い相手に表明する文書。詫び状)を幕府に提出しため「御治世の御事は、朝儀に任せ奉る上は、武家綺(いろ)ひ(干渉)申すべきにあらず」と咎めを受けず、一方鎌倉へ連行された資朝と俊基のうち俊基は赦免され京都へ帰り、資朝は佐渡へ流罪となった。
 (『太平記』第2巻-4「俊基朝臣重ねて関東下向の事」より、「(正中の変の時は)召し取られて、鎌倉まで下りたりしかども、様々に陳じ申されし趣、げにもとて赦免せられたりける」とあり)
(3) 元弘の乱1331年
1)正中の変後も後醍醐天皇は倒幕を諦めず、正中の変で刑を免れた日野俊基や真言密教の僧の文観(幕府調伏の祈祷実施)らと再び倒幕計画を進めた。だが、側近の吉田定房がこの動きを幕府に密告し計画が発覚、後醍醐天皇や資朝や俊基など多くの処分者が出た。
 なお、元弘の乱を1333年鎌倉幕府滅亡までとする見解あり。
2)背景
a、鎌倉時代後期幕府では北条得宗(総領)家が権勢を高めていた。北条家一門の知行国が著しく増加する一方、御家人層で元寇後も続けられた異国警固番役の負担(西国ばかりでなく東国でも同様)、元寇の恩賞や訴訟の停滞、貨幣経済の普及、所領分割などによって没落する者も増加。社会的混乱から諸国では悪党の活動が活発化し、幕府は御家人などの支持を失っていった。
b、13世紀後半以降後深草天皇の子孫(持明院統)と亀山天皇の子孫(大覚寺統)の天皇が交互に即位する両統迭立(りょうとうてつりつ)が行われ、公家社会に派閥が生じていた。1318年即位した後醍醐天皇は、大覚寺統だが天皇親政を理想とする上は邪魔な慣例で、鎌倉幕府に継承にいちいち支持を仰ぐ慣例ができたのも許せなかった。
3)倒幕計画の内容が密告によって幕府に知らされたことで日野俊基は捕らえられ、さらに佐渡に流罪となっていた日野資朝も共に斬首の刑に処せられた。後醍醐天皇は、隠岐へ配流。幕府は、持明院統の光厳天皇を即位させ元号を建武から正慶と改めた。
4)これで幕府は安泰かと思われたが、河内の悪党楠木正成や後醍醐天皇の第3子・護良親王が倒幕で挙兵、播磨の赤松則村も挙兵、足利高(尊)氏は幕府に反旗、新田義貞は東国・上野(あがの)で挙兵、後醍醐天皇は名和長年の働きで隠岐を脱出するなど倒幕勢力が勢いをつけ、鎌倉幕府を滅亡させた。
5)後醍醐天皇の倒幕運動が成功し、元弘の年号を復活させ、念願の天皇親政の建武の新政(建武の中興)を開始。
 だが、論功行賞で側近を優遇し赤松則村はじめ多くの武士を冷遇。
 こうした措置が親政に対する武士層の忠誠心や支持を失い、足利尊氏らの離反を招き室町幕府の成立へと結びついた。
《参考》『太平記』第1巻 1「後醍醐天皇武臣を亡ぼすべき御企ての事」(抜粋)
 「後醍醐天皇の御宇(ぎょう)に、武臣相模守平(北条)高時と云ふ者ありて、上には君の徳に違ひ、下には臣の礼失ふ。これによって、四海大いに乱れて、一日も未だ安らかならず」
 「禍ひ一朝一夕の故にあらず。元暦年中(1184〜85年)に、鎌倉の右大将頼朝卿、平家を滅ぼして功ありし時、後白河院、御感(ぎょかん)の余りに、66ヶ国の惣追捕使(そうついぶし)」に補(ふ)せらる。これより武家始めて立って、諸国に守護を置き、荘園に地頭を補す」
 「頼家卿は、実朝公のために討たれ、実朝公は、頼家の子悪禅師公卿のために討たれて、源氏の世、わづかに42年にして尽きぬ」 
 「頼朝卿の舅(しゅうと)遠江守平(北条)時政が子息前陸奥守義時朝臣(あそん)、自然に天下の権柄(けんぺい)えを執(と)って、勢い漸く四海に覆はんとす」 
 「この時の太上天皇は後鳥羽院、武威(ぶい)下に振るはば、朝憲(朝廷の法規)上に廃れん事を嘆き思し召して、義時を亡ぼさんとし給ひしに、承久の乱出で来て、天下暫くも静かならず」 「闘ひ未だ一日を終へざるに、官軍忽ちに敗北せしかば、後鳥羽院は、隠岐国へ遷されさせ給ひて、義時、いよいよ八荒(はっこう。天下)を掌(たなごころ)の内に握る。それより後、、、、相続いて7代、政(まつりごと)武家より出でて、徳窮民をl慰するに足れり。」
 「(承久)3年に、始めて洛中に両人(2人の北条家)の一族を(北と南に)置いて、六波羅と号して、西国の沙汰を執り行わせ、永仁元年(1293)より、鎮西に一人の探題を下して、九州の成敗を司るらしめ、異国襲来の備へを堅うす。されば、天下普(あまね)くかの下知(げじ。命令)に順(したが)はずと云ふ所なく、四海の外も斉(ひとし)くその権勢に服せずと云ふ者なかりけり。」
 「朝陽(ちょうよう)犯さざれども、残星(ざんせい)光を奪はるる習ひなれば、、、、所(荘園)には、地頭強くして領家は弱く、国には、守護重くして国司は軽し。この故に、朝廷は年々に衰へて、武家は日々に昌(さか)んなり。」 
 「代々の聖主、遠くは承久の宸襟(しんきん。恨み)を休めんがため、近くは朝儀(朝廷の儀礼)の廃れぬる事を嘆き思し召して、東夷(東国武士の蔑称、鎌倉幕府)を亡ぼさやと、常に叡慮を廻らされしかども、或いは勢ひ微にして叶わず、、、、、」 
 「(北条高時の)時に至って、行跡甚だ軽くして人の嘲(あざけ)りを顧みず、政道正しからずして民の弊(ついえ)を思わず、ただ日夜に逸遊を事として、先列(先祖の偉業)を地下に辱し、朝暮に奇物を玩(もてあそ)んで、傾廃(権勢の衰退)を生前に致さんとす。」 
 「この時の帝、後醍醐天皇と申しは、、、相模守(北条高時)が計らひとして、御年31の時、始めて御位に即(つ)け奉る。御在位の間、うちには、三綱五常の儀(君臣・父子・夫婦の道と仁・義・礼・智・信の徳)を正しうして、周公孔子の道に順ひ、外には、万機百司(すべての政務)の政を怠らせ給はず、延喜天暦の跡を追はれしかば、四海風を臨んで悦び、万民徳に帰して楽しむ。、、、誠に治世安民の政、 もし機巧(才知)についてこれを見れば、命世亜聖(聖人に次ぐ人)とも称しつべし。ただ恨むらくは、斉桓覇を行ひ(斉の名君桓公が覇道(武力)で国を始めたこと)、楚人弓を遺(わす)れし(楚の名君恭王が楚の民のことしか考えず、志が狭小だった故事)に、叡慮少しき似たる事を。これ則ち、草創は一天を並(あわ)すといえども、守文は三載を超えざる所以(ゆえん)なり」 (帝は世を創り改めて天下を制したが、統4治は3年を超えなかった。)
 [創業は易く守成は難し。語源は、中国唐代の『貞観政要』(貞観期は、627〜649年)。真意は、難しさは創業か守成かでなく、創業する前には創業が難しいが、創業したからには守成が難しい。今日でも企業は、創業時のままでの存続は難しいから「第2の創業」などという言葉がある。]

2、日野貲朝(1290〜1332年6月25日)
(1)経歴
1314年従五位下に叙舜し、持明院統の花園天皇の蔵人(天皇の秘書役)となる。
1318年j花園上皇の院司。文章博士・記録所寄人如元。
1321年後醍醐天皇に重用され側近に加えられた。倒幕計画の中枢に参画。
1322年正四位上に昇叙。
1323年従三位に昇叙。参議・左兵衞督如元。権非違使(けびいし。京都の治安維持と民政担当が原点。鎌倉幕府の六波羅探題設置で弱体化への強化か)別当を兼任。春鎌倉に起こった大地震の見舞いの勅使として鎌倉に下向。
1324年権中納言に転任。同年辞任。正中の変で日野俊基らとともに捕縛され鎌倉へ送られる。
1325年佐渡に配流。
1332年前年再度の倒幕計画が天皇の老臣吉田定房の密告で露呈し(元弘の乱)、佐渡で処刑。享年42歳。
1876年(明治9)真野宮(佐渡市真野)に祭神として合祀。
1884年(明治17)贈従二位
(2)メモリー
1)墓所-妙宣寺(佐渡市阿佛坊)
  佐渡の寺院10(08年7月4日号)、佐渡の寺院28(10年10月1日号)い
  佐渡の能楽15-日野公忌例祭奉納能(08年7月6日号)、佐渡の能楽41-同(10年7月6日号) 
2)斉祀神社m
 a、大膳神社(佐渡市竹田)
  佐渡の神社12(09年5月29日号)
  佐渡の能楽14(08年7月14日号「能舞台めぐり」)、同28(10年6月13日号大膳神社薪能)〜31[(1)能舞台〜(4)演目「猩々」]、同49(11年9月5日号「金井能楽研鑽会発表会」)、同53「真野能学会-秋の能公演」
 b、真野宮(佐渡市真野)
 c、吉野神宮(奈良県吉野町)
(3)系譜
 父-日野俊光、母・妻-不詳、子-朝光・邦光・慈俊・女子
(4)人となり
1)主観が入らず客観性のある「経歴」分析(但し、表面的で本質を捉えるのは難しい。考え方と行動・成果の事実が必要)から、花園天皇・上皇時代に信頼と実務能力が試される要職に就き、後醍醐天皇になってからは特に重用され、最も信頼された人物。
 a、蔵人(天皇秘書的業務)→院司(上皇の下で院宣など発布)・記録所役人(国司いと荘園領主との訴訟裁判)
 b、極秘の倒幕計画に参画し中枢を担う。
 c、最高位は従三位、参議(朝廷組織の最高機関である太政官の官職の一つで官位四位以上・その他(例、左中弁以上)が必要条件)・左兵衞督如元・検非違使別当を兼務。
  資朝と供に倒幕の中枢にあった日野俊基(?〜1332年6月26日)は、官位の最高位-従四位下・右中弁(=参議になれない)。
 d、明治17年贈従二位は、時の天皇をかばって天皇制維持した貢献度評価が、500年も経って大きく認められたことを意味する。
2)物語・評論・謡曲
 (但し、歴史上の人物は過去の記録が必要であるが、なければ物語等によるしかない。むしろ、その作者の考え方や価値観の方が見えてくる)
 a、『太平記』(但し、佐渡における話は別途)
 ア、武士でも僧侶でもこれはと思う人を見つけては深い関係を築くことができ、企画力に優れ、無礼講で飲んで歌って踊って楽しむ場を設けても、大きな目的は忘れない強い意思の持ち主として描かれている。
 「美濃国の住人に、土岐伯耆(ときほうき)十郎頼時、多治見四郎次郎国長と云ふ者あり。ともに清和源氏の後胤として、武勇の聞こありしかば、資朝、様々の縁、を尋ねてむすび近づかれけり。朋友の交はり、すでに浅からざりけれども、これ程の一大事を左右なく知らせん事、いかがあるべからんと思はれければ、なほもよくよくその心を伺ひ見んために、無礼講と云ふ事を始められける」
 「その交友会の体、見聞耳目を驚かせり。献盃の次第、上下を云はず、男は烏帽子を脱いで髮を放ち、法師は衣を着せずして白衣なり。年17、18なる女の、みめ貌(かたち)好(いつくし)く、膚(はだ)殊に清らかなるを20余人に、はずし(薄い肌着)の単(ひとえ)ばかりを着せて、酌をとらせたれば、、、、山海の珍を尽くし、旨酒泉の如くに湛(たた)へて、遊び戯れ舞ひ歌ふ。その間には、ただ東夷(とうい)を亡ぼすべき企ての外は、他事(たじ)なし」
 「その事となく(用事もなく)常に会合せば、人の思ひ咎むる事もこそあれとて、事を文談(文学の講義)に寄せんがために、その頃、才学無双の聞こえありける玄恵僧都と云ふ文者を請じて、昌黎文集の談義をぞ行はせける。かの僧侶都、謀反の企てとは夢にも知らず」
 イ、幕府の取り調べに対し天皇に責任が及ばないよう自分が一身に受けたというような記述はなく、また倒幕立案・推進に対する幕府への陳謝について何も書かれていない。実際、謝罪や弁明がなかったから、首謀者のうち、資朝だけが流罪。後醍醐天皇は詫び状を北条高時に提出、俊基は謝罪。資朝だけが、自分の行為について正当であることの信念を持ち、詫びる必要はないという強い信念を持っていた。
 正中の変での幕府の裁きは、後醍醐天皇について咎めはなく、「俊基朝臣は、罪の疑わしきを軽くして、赦免せられ、資朝卿は、死罪一等を宥(なだ)められて(死刑となるべきところを一段軽くして)、佐渡国へぞ流されける」
 ウ、その場に応じて自分の都合のよい言い訳・言い逃れはしない性分であった。
 「俊基朝臣は、前年、、、、召し取られて鎌倉まで下りたりしかど、様々に陳じ申されし趣、げにもとて赦免せらりたりけるが、また今度〔元弘の乱〕の(拷問による)白状ども(忠円僧正ら、「ある事をもなき事まで、残る所なく白状一巻に載せらりけり」)に、専ら陰謀の企てかの俊基にありとて、7月11日六波羅へお召し取られて関東へ下り給ふ。再犯許さざるは、則ち法令の定むる所なれば、何と陳謝すとも、この度はよも許されじ、、、、」           
 b、『徒然草』吉田兼好
第152段
 西大寺の静然上人、腰屈まり、眉白く、まことに徳たけたる有様にて、内裏(だいり)へ参られたりたりけるを、西大寺内大臣殿、「あな、尊(たふと)の気色や」とて、信仰(信じ敬う)の気色ありければ、資朝卿、これを見て、「年の寄りたるに候う」と申されけり。
 後日に、むく犬(むく毛の犬)のあさましく老いさらぼひて(やせ衰えて)、毛剥げたるを曳かせて、「この気色尊く見えて候う」とて、内府(内大臣の邸)へ参らせられたりけるとぞ。
 〔物事を先入観をもって見ると単純なことでも間違い起こすので、その性癖を直すため、言葉によらず、身近な物を持ち出して気付かせた。〕
第153段
 為兼(ためかね)大納言入道、召し捕られて、武士どもうち囲みて、六波羅へ率(い)て行きけれ(連行すれ)ば、資朝卿、一条わたり(一条大路辺)にてこれを見て、「あな、羨まし。世にあらん(この世に生きてる)思い出、かくこそあらまほしけれ(あのようでありたいものだ)」とぞ言はれける。
 〔上記の出来事が起こったのは1315年、後醍醐天皇が即位したのは1318年、天皇に重用され倒幕計画の中枢として参画したのは1321年。為兼出来事当時は、公家として今朝廷がどのような立場に立たされているかの意識が低く、同じ事がわが身にふりかかろうとは思ってもみなかったから、「羨ましい」との悠長なことが言えた。諸行無常の理を知れば、悠長なことは言ってはおれない〕
   《参考》大納言京極為兼 (ウィキペディア他)
『新古今和歌集』『新勅撰和歌集』を撰した藤原定家の曾孫。幼少の頃から祖父に和歌をまなぶ。1280年東宮親王(後の伏見天皇)に出仕し、東宮及び側近に和歌を指導して、京極派と称された。
 東宮が践祚(せんそ-天皇を継ぐ)した後は政治家としても活躍したが、持明院統側の公家として皇統の迭立(てつり:交互に即位)に関与したことから1298年佐渡に配流となった。1303年帰京が許された。1312年院宣を得て、『玉葉和歌集』を撰集。1315年得宗身内の東使安東重綱が上洛し、軍勢数百人を率いて毘沙門堂の邸(上京区毘沙門町)で為兼を召し捕り六波羅探題で拘禁。翌年得密が守護、安東氏が守護代であった土佐に配流となり、帰京を許されないまま河内国で没した。
 2度の流罪の背景には、徳政の推進を通じて朝廷の権威を戻そうとしていた伏見上皇と幕府の対立が激化し、為兼が天皇の身代わりとして処分されたとする説がある。
 歌風は、実感を尊び、繊細で感覚的な表現による歌を詠み、停滞していた鎌倉末期9時はの歌壇に新風を吹き込んだ。『玉葉和歌集』『風雅和歌集』に和歌が入集、ぢている。歌論書として『為兼卿和歌抄』が知られている。
 《参考》京極為兼 佐渡ゆかりの地・歌
  1、禅長寺(赤泊)
   6年間この寺に住んでいた。寺の案内板にあり。
  (06年9月18日号「佐渡の風景2、赤泊」)
  2、正光寺(羽黒。明治初期廃寺)
   この辺はいまだ甚寒の体なり。 方丈の庭に杉の木立見事なり。ここは五月雨山(さみだれやま)という。まことか。
    年を経て積りし越の湖(加茂湖)は五月雨山の森の雫(しずく)か
と為兼の詠めるらし。これより梅津村を経て、両津町に至る。
  (08年8月5日号「佐渡の神社2、羽黒神社」。出典-『島根のすさみー(川路)佐渡奉行在勤日記』)
  3、八幡宮(八幡)
   世阿弥『金島書』「時鳥(ほととぎす)」より
  これはいにしへ為兼の卿の御配所なり。あるとき時鳥の鳴くを聞き給いて「鳴けば聞く聞けば都の恋しさにこの里過ぎよ山時鳥」と詠ませ給いしより、音(ね)を停(と)めてさらに鳴くことなしと申す。
  (06年6月9日号「世阿弥と佐渡」)
 (参考は以上)
第154段
 この人、東寺の門に雨宿りせられけるに、かたは者どもの集りいたるが、手も足もねじ歪(ゆが)み、うち反りて、射づくも不具に異様なるを見て、とりどりに類なき曲者(変わり者)なり。尤も愛する(面白がる)に足れりと思ひて、目(ま)守り給へけるほどに、やがてその興尽きて、見にくく、いぶせく(不快に)覚えければ、ただ素直に珍しからぬ物には如かずと思ひて、帰りて後、この間、植木を好みて、異様に曲折あるを求めて、目を喜ばしめつるは、かのかたはを愛するなりけりと、興なく覚えければ、鉢に植えられける木ども、皆掘り捨てられにけり。
 さもありぬべき事なり。
 〔貴族の世間知らずで思いやりのない有り様とそこから来る他愛のない馬鹿げた行為を表現。厳しく言えばこんなことでは、政権を武士から奪回できないであり、婉曲的に言えば食うのに困らないおおらかな身分の考える事と行為の紹介〕
 【資朝についての話を取り上げたが、何歳頃の話か、どこから聞いた話か、書いている筆者自身が真偽についてどう思っているか不明で学術的価値はなく、徒然人の書いた話であることははっきりしている。】
 c、謡曲『壇風(だんぷう』(ここでは、資朝についての人となりはノーコメント。むしろ、今後いろいろ活用できる資料として記述)
  (出所-「宝生流謡曲名寄せのページ(能・謡曲180番)」)
 壇風 外十三巻二(太鼓なし)
  季-夏、所-佐渡国、素謡時間-55分
  曲処-無記入〔世阿弥説あるが根拠なし〕
  登場人物
 シテ-熊野権現、ツレ-壬生大納言資朝、子方-資朝の子梅若、ワキ-師の阿闍梨、ワキズレ-本間三郎、ワキズレ-棹さし
  詞章〔抜粋。〕
 本間「是は佐渡の島の御家人。本間の三郎にて候。さても此の度元弘の合戦公家打ち負け給いて候。中にも壬生の大納言資朝の卿は。囚人となり此の島へ流され給ひて候を。某預かり申して候。
 色々痛はり申す処に。昨日鎌倉より飛脚立って。資朝の卿は大事の囚人にて候。急ぎ誅し申せとの御事にて候程に。痛はしながら明日浜の上野にて誅し申し候。此の由を資朝の卿に申さばやと存じ候。」
 ワキ「かやうに候者は、都今熊野柳の木の坊に師の阿闍梨と申す山伏にて候。又これに御座候御方は、壬生の大納言資朝の卿乃御子息梅若子と申し候。さる仔細あって我等が坊に御座候。資朝の卿は流人の身となり給い、佐渡の島とに流され給ひて候。梅若子未だ父の此の世に御座候を聞こし召し、今一度御対面ありたき間仰せられ候。余り御心中御痛はしく存じ我等御供申し。唯今佐渡の島へと急ぎ候。」
 ワキ子方道行上「名残ある都乃空は遠ざかり、末は遥か乃越の海。今ぞ始めて白真弓敦賀の津より舟出しや海路遥かの旅衣。浦の泊まり重なりて行けば沖にも里見ゆる 佐渡の島にも着きにけり。」
 本間「都よりの客僧はいずくに渡り候ぞ」
 ワキ「資朝も卿乃御子息、、、、今一度御対面求めたき由仰せられる候程に遥々これまで御供申して候にて。引き合わせ申されて賜り候へ」
 本間「委細承り候。総じて対面は堅く禁制にて候へども。幼き人の遥々ここまで御下向にて候程にその由資朝の卿へ申し候べく、暫くそれに御待ち候へ」
 ツレ「本間殿と仰せ候が此方へ仰せ出で候へ」
 本間「唯今参る事余の儀にあらず。昨日鎌倉より飛脚あって。急ぎ誅し申せとの御事にて候程に。明日浜の上野の御供申し。御痛はしながら誅し申し候べし。」
 ツレ「唯今も独言申し候如く。かくてながらへ人に面をさらさんより。あっぱれ疾う斬らばやと望みし事。さては叶えて候よ」
 本間「又御喜びあるべき事の候。都今熊野柳の木の坊に師の阿闍梨と申す山伏の。御子息を伴い遥々御下向候。そと御対面候へ」
 ツレ「これは思いもよらぬ事を承り候ものかな。以前も事の序でに申す如く。某は総じて子を持たぬ者にて候。定めて間違いにて候べし。急いで追い返され候へ」
 本間「さては聊爾(りょうじ。いい加減)な事を申す者にて候。やがて追いかえし候べし」
 ツレ「暫(しばら)く。都の者と聞けばなつかしう候由。そと一目見申し度く候」
 本間「さらば物腰より御覧候へ。あれなる人の事にて候。あれなる人乃事にて候。りぃう
   あらふしぎや。御子息いてはなき候が。何とて御落涙候ぞ」
 ツレ「御不審尤もにて候。彼の者の親も我等如くきの流人流人にて候はん。配所の聞き違へて来たるかと。彼の者の心中不敏に存じ。さて落涙津か仕りて候」
 本間「さあらばおっ帰し申し候べし」 
 ツレ「急いでお御帰し候へ」
 本間「仰せの通り資朝の卿に申し候へば、、、御子は御座なき由仰せられ候。何とて聊爾なる事を承り候」
 ワキ「あらふしぎや。某が申しつけつる仰せは、さようには仰せられ候まじ」
 本間「言語道断。、、、」
 ワキ「なうなう暫く。あら笑止や。いかに梅若殿。唯今本間が申しつる事を聞き召されて候は思いもよらぬ御事にて候」
子方上「悲しいやな。はるばる尋ね下りたる。かひも渚のかたし貝。あわぬ思いをいかにせん」
ツレ上「我も恋しく思い子を最期に見たくは思へども我が子と名のれば敵とて。もしや命を失うはれんと思えば他人と言いつるこそ。なかなか思う心なれ」
地 下「姿見えぬ親と子の。隔ての雲霧、たちそひながらもげに逢はぬ事ぞ悲しき」
 ツレ「いいかに客僧。、、、面目もなき申し事に候へども。誠は某の子にて候。此上は本間殿を頼みし候。未だ
稚き者の事にて候程に。あはれ御心得をもって彼の者を助けて給ひ候へかし」
 本間「かかる傷はしき事こそ候はね、。我等も始めよりさやうに見申して候へども、深く御隠し候程に申さず候。梅若殿の御事は明けなば早舟を拵(こしら)へ。都へ送りつけ申し候べし」
 ツレ「さてはこの世に思い置く事もなく候。はやはや首を討ち給へと」
地 上「西に向かひて手を合わせ南無阿弥陀仏と高らかに。唱へ給へばあへなく。御頸は前に落ちにけり。御首は前に落ちにけり」
 〔その後、本間の善意で2人は本間の私宅に泊めてもらう。梅若は、本間への敵討ちの思いが深く、山伏が誠の敵は相模の守高時で都に帰ってから機会を待った方がよいとの助言を聴かず、命を懸けて実行したいとの強い意志に共鳴し協力。夜本間が寝ているところを襲って目的を果たした。追っ手が迫る中海岸へ逃げ、不思議にも法力が働いて舟を呼び寄せ乗船し。風向きも変わり若狭の浦に着き、無事上洛した〕
  【参考】『太平記』第2巻-6「阿新(くまわか)殿の巻」  
 a、後で創作された『壇風』との主な違い
 ア、主な登場人物ー (  )は『壇風』。bも同じ。
  日野中納言資朝(壬生大納言資朝卿)
  阿新丸13歳(梅若)
  山伏(山伏-師の阿闍梨)
  本間(本間三郎)
  本間の子=本間三郎(登場しない)
  母(登場しない)
  従者=中間(登場しない)
  神-登場しない(シテ=熊野権現)
 イ、佐渡への出港地ー佐渡からの帰港地
   敦賀ー越後の国府〔直江津〕(敦賀ー若狭の浦〔小浜〕)
 ウ、資朝の佐渡へ来た子への対応
  対面期待(表面上 子はないとして対面拒否)
 エ、本間の父子面談への対応
  面談拒否(面談受け入れ。但し、父の拒否で成らず)
 オ、敵討ち
  単独実行(山伏が加勢)
 b、あらすじ
 ア、「宗と(主として)君〔後醍醐天皇〕の御謀反を勧め申しけるは、源中納言具行、右少弁俊基、日野中納言資朝なり。おのおの死罪に行はるべし」と、評定一途に定まって、先ず、去んぬる年流しつる佐渡国の資朝卿を斬り奉るべしと、その国の守護、本間山城入道に下知せらる。
 イ、「この事、京都に聞こえければ、この資朝の子息邦光中納言、その頃は阿新殿とて、未だ13歳にておはしけるが、、、、、、父誅せられさせ給ふべき由を聞いて」母に暇(いとま)を乞う。
 母は、「1日路、2日路の国にてもなし。佐渡とやらんはそ島国にて、万里が澳(おき)にあんなるに、かひがひしき若党(頼りになる若い家来)をも連れずして、ただ独り尋ね下らんに、行き着くまでもあるまじ。道にて、思ひの外なる事あって命を失ふか、また人を売り買ふ所なれば、売られて人の僕になって、習うはぬ業に使うはれん時は、いかに嘆き悲しむとも、叶ふまじ」と言って否認。
 阿新丸が中間(ちゅうげん=従者)に、「われ思ひ立つ仔細(くわだて)あり。父資朝のおはします佐渡島へ尋ね入って、父の御存命の間に御顔色をも見まいらせ、また(自分の姿を)見え奉らんと思ふなり」と言うと従者は、「早や御下向へ。御供仕(つかまつ)り候はん」と賛同。阿新の強い意志に母も認めざるを得なかった。
 ウ、「都を出でては10日余りに、越前国敦賀の津びぞ着き、商人(あきんど)船に乗り、程なく佐。渡国に下着」
 本間の館(やかた)の前にいると、丁度僧がやって来て問いかけたので、阿新丸は涙ぐみ、囚人にされた日野中納言の子で近く斬首されるとの噂が聞こえたので、その前に父に会ってみたいと都より尋ねて来た事を、本間殿に伝えて欲しいとお願いすると僧は哀れんで館に入り本間にその事を語った。
 エ、本間は、あわれに思いお堂に招き入れ足袋・脚絆を脱がせ足洗いなどして置いた。だが、いつまでたっても父に会うことはなく、資朝も子が尋ねて来たことを聞き子との対面を期待したが、叶うことなく刑が執行された。
 オ、先の僧が葬儀し、阿新丸は、遺骨は高野山に納めるべしとして従者に持たせて都に帰らせ、自身は父の敵を討つべく仮病を使って僧に助けを求め、4、5日寝かせてもらった。夜は隙を見て本間kの寝所を調査、父子のいずれか一人を刺し殺して無念を晴らすべく機会を待ち、その時本間は見えなかったが燈の明かりで資朝の首を斬った子の三郎が枕元に太刀をおいて寝ていたところを入り込みその太刀を取って胸を突き通し、返す太刀で喉笛を切った。
 ヵ、阿新丸は港へ向かったが日も明け人目につかぬよう藪の中に隠れていた。案の定追っ手も港の方へやって来たが、引き返した。夜になってまた港に向かうと、一人の山伏に行き合い事情を話すと肩に乗せ、港に着いた。だが、順風で船は皆出ておらず、沖にいる大船を山伏が法力によって念じ寄せ、阿新丸と山伏は船に乗り、その後で、追っ手が140〜50騎来たが、船は帆を挙げ越後の府(こう)に着き、阿新丸は無事都に上った。

3、日野邦光(1320〜1363?) 幼名-阿新丸(くまわかまる)
(1)経歴
建武政権下(1333年6月〜1336年)で後醍醐天皇に仕える。
1336年3月派遣された岩清水臨時祭舞人の中に「左兵衛権左邦光」と見える。
1339年石見国司として新田義氏と共に下向。
1340年豊田城で守護上野頼兼の北軍を退けたが、同年敗れ稲積城に立て籠ったものの翌年再び攻められ落城。
 その後石見を離れて左兵衛督に転じ、後村上天皇綸旨の奏者となる。
1350年勅使として九州に下向。
1352年肥後に在国。
1354年権中納に就任。
1361年四条隆政・細川清氏らと京都に乱入し、将軍足お利義詮を近江へ一時駆遂。以後、史料の所見なし。  
1363年逝去(『南朝公卿補任』)
(2)官位
 従三位権中納言(南朝)、贈正三位
(3)主君
 後醍醐天皇→後村上天皇
(4)家系
 父-日野資朝、母-不詳、子-賀茂
(5)人物評
1)『太平記』「阿新殿の事」での敵討ちの逸話で古来から著名。
2)明治時代の修身教育で忠孝を全うした人物として喧伝された。大正4年(1915)正三位に追贈。

4、 日野父子の佐渡における事蹟
 (資料-前掲佐渡広場、「謡蹟めぐり、謡曲初心者の方のめのガイド」hp「壇風」)
(1)大膳神社(佐渡市竹田)
1)大膳神社縁起(境内案内より)
 御食津大神は、農業食せんの守護神で古来当地のうぶすな神として尊崇敬慕されている。
 その勧請創始については諸説があり、一説には式内社の一つと言われるが、なお詳らかではない。
 正中の変の折日野資朝卿当国に配流され子阿新丸は父子対面を求め、遥々都から下向したにも拘わらず、遂に許されぬ儘、父刑死の無念をはらすべく、城主本間山城守の館に侵入し、その弟三郎を斬って本懐を果たした。この間大膳坊賢栄は真の敵は鎌倉なりと阿新丸を諭したが、その孝心の、巳〔や〕み難きに感動してこれを扶け、更に迫り来る討手窮迫の中に阿新丸を守護し、無事虎の口〔危険。『太平記』では「鰐の口」〕を脱して帰京せしめた。
 山城守は激怒し大膳坊を処刑したが、その後大いに悔い畏れて、日野資朝卿と大膳坊を当社に合祀してその霊を崇め奉ったと伝えられている。
(2)妙宣寺(佐渡市阿仏坊)
1)「雑太〔さわた〕城跡」案内板(佐渡市教育委員会)
 雑太郷地頭本間氏の戦国期の城跡である。築城時期は、永正年間(1504〜20年)頃と考えれる。三郭から成り、現在も土塁や空堀の一部がみられる。天正17年(1589)越後の上杉景勝の佐渡支配により城は廃され、上杉氏代官直江兼継によって城跡は妙宣寺に与えられ現在に至っている。
2)妙宣寺由緒書(真野町教育委員会)
 古くから北陸道七ヶ国法華宗の棟梁で寛文年間(1661〜73)身延・池上・中山三ヶ寺の輪番所となり、明治11年(1878)独立本山と定められた名刹である。
 もと順徳上皇に供 した北面武士遠藤為盛(日得上人)の開基といわれ、はじめ新保(金井町)にあったのが嘉暦元年(1326)雑太城主本間泰昌の居城付近に移り、後に今の地に移ったものである。
 文永8年(1271)日蓮上人佐渡配流の時、 日得は妻千日尼と共にひそかに食物を送ってその危難を救った話は有名である。
 日蓮真筆の曼陀羅、消息文、日野資朝の写経等を蔵するほか、境内にある文政8年(1825)建立の五重塔は県内唯一のものである。
3)日野資朝卿の墓
a、説明書き(旧真野町教育委員会)
 後醍醐天皇の正中2年(1325)12月日野資朝は北条高時のために佐渡に流され、壇風城〔雑太城〕に幽閉されること7年、元弘2年(1332)城主本間氏は高時の命によって、資朝を処刑した。
 遺体はここで荼毘にし、遺骨は従者が高野山へ葬ったとも伝えられる。
 資朝は、明治8年(1875)真野宮に合祀され、同17年に従二位を贈られた。
b、資朝の歌碑
  秋たけし壇の梢〔こずえ〕吹く風に澤田〔雑太〕の里は紅葉しにけり
4)謡曲『壇風』
a、駒札「謡曲「壇風」と雑太城跡」(謡曲史跡保存会)
 謡曲「壇風」は、正中の変に敗れ佐渡に流され本間の館に預けられた大納言日野資朝に熊野の山伏に預けられた一子梅若が一目会いに訪れ再会後資朝は処刑され、梅若は本間を父の仇と思い討った事件を謡っています。
 日野資朝が本間の館雑太城で詠んだ歌から雑太城を壇風城と呼ばれるようになりました。
 本間の館雑太城跡に妙宣寺が建立され、日野資朝の墓と梅若の仇討ちの隠れ松の跡が残り、この地は謡曲『壇風』の舞台となった佐渡市では唯一の謡曲の史蹟です。
 佐渡市は、謡曲の創始者世阿弥や謡曲に登場する日蓮上人も流された由緒深い地です。
 【「謡曲に登場する日蓮上人も、、、」とあるが、謡曲『鵜飼(うかい)』のことを言おうとしているのであろうが、同曲は佐渡と関係なく、法華経の名は出てくるが日蓮宗ばかりでなくそれ以前に天台宗もそうで、聖徳太子の頃からも経典としてあり、『壇風』のツレ=資朝卿とは違ってワキ=安房国(千葉県の一地方)の旅僧で行き先は甲斐国であるが、日蓮上人(生地-甲斐国)と言っていないので、作者でもないのに日蓮のことと決めつける謡曲史跡保存会の解説には無理があり、表現においても誤解を招くおそれがある】
b、日野公忌例祭奉納能
 毎年7月3日(太陽暦)の日野公の命日本堂で能が行われている。
c、阿新丸隠れ松
 本間三郎を刺殺した後、竹を使って濠を越え、しばらく松の後ろに隠れ、追手から逃れたと伝えられる松。
「手々(てんで)に火をとぼし、天井、縁の下まで捜せども、見えざりければ、『こはいかに。堀は広くて水深し。門は高くて鎖子(えび-錠)差したり。鳥にあらざれば、空を翔(かけ)らじ。魚にてなければ、水を潜らじ。さりと云ふとも、門を開けて、方々へ追って見よ』とののしり、、、」(『太平記』)
5)野浦海岸「お腰掛けの石」
 a、野浦集落には、国の無形民俗文化財・文弥人形の座「双葉座」があり、「阿新丸船出の場」など人形芝居のレパートリーが数多くある。
  (07年9月13日号「文弥人形(4)双葉座」)
 毎年地元での芸能フェスティバルで文弥人形の出演ほか、東京での公演が恒例になっている。
 b、野浦には、大膳坊の「お腰掛の石」がある。
 ア、阿新丸を野浦から敦賀へ行く船に便乗させ助けた大膳坊は、その後役人の詮議を逃れて野浦に長く滞在し、この大石に腰を掛けては、都の空を伏し拝んだとされている。
 イ、腰掛け石は、全国にある。例-後鳥羽上皇御腰掛けの石(島根県隠岐)、後醍醐天皇の御腰掛の岩(鳥取県大山町)、蓮如上人のお腰掛けの石(福井県あわら市)、神武天皇の御腰掛石(宮崎県都城市)、宮本武蔵腰掛石(広島県福山市)。

5、まとめ
(1)1221年承久の乱と2016年米国大統領選の意外な結末
 「鎌倉幕府倒幕の背景と結果」の調べと書き込みを行っている時 世界の注目を集めていた米大頭領選挙の結果、民主党のヒラリー・クリントン前国務長官(69)優勢という予想を覆し、公職・軍幹部の経験のない実業家の共和党候補ドナルド・クリントン氏(70)が当選果樹実というニュースを入院中の病院のテレビで知った。丁度、承久の乱などについて『太平記』から学習していた頃で、当時の予想からして圧倒的有利なはずの朝廷軍が、なぜ幕府軍にあっけなく敗れたかを学んだところであった。
1)結論は、当たり前で且つ結果論であるが、政権や選挙の行方は政治的リー御ダー層の支持者をどれだけ多く獲得するかにかかっている。
 a、承久の乱では、幕府側が東国中心に御家人である武士階級である守護・地頭の堅い支持を得る仕組みを作ってきたことに対し、朝廷側には貴族・寺社との間には「いざ鎌倉」というほどの強い絆はなく、所領・荘園の守りは地頭に依存。従って後鳥羽上皇による北条義時追討の院宣も効を奏しなかった。
 ア、一方、鎌倉幕府の滅亡は元寇の役が引き金。元の侵攻を防いだとしても。恩賞として与える土地がなく、御家人の異国人警備負担が重くのし掛かり生活は苦しくなるばかりで幕府への不満が高まり、各地に幕府の言うことをきかない悪党が勢いをつけ、治安が乱れた。こうして幕府に離反し朝廷と与して到幕に乗り出す御家人が各地に現れ幕府は滅亡。
 イ、後醍醐天皇は、1333年朝廷政治(建武の新政)を復権。だが、3年持たず再び武家政権に移行。理由は、貴族優遇に対し武士冷遇、鎌倉幕府成立以来土地の所有権等の慣例を成文化した御成敗式目を無視した唐突な綸旨(りんじ)が次々出され(旧領回復令・寺領没収令・朝敵所領没収令等)、それも解釈や権限所在まちまち・朝令暮改あり・処理体制整わず事務の混乱や裁判停滞で武士の不安や不満を招き、新政に失望して出家した公卿や当時の混乱した政治を風刺した二条河原落書が出現。有力武士の足利尊氏が朝廷政治から離反し、新政はあっけなく瓦解。
 参考1-御成敗式目(1232年制定)全51条より抜粋  
  (資料-現代語訳『御成敗式目』サイト)
第5条「集めた年貢を本所に納めない地頭の処分について」
 年貢を本所に渡さない地頭は本所の要求あれば、すぐそれを納めること。不足分はすぐに補うこと。不足分が多く返し切れない場合は、3年のうちに本所に返すこと。これに従わない場合は、地頭職を解任する。
 【鎌倉幕府政権維持・強化のための式目(法令化)だが、地頭を擁護するばかりでは公平性を欠き秩序が乱れ、長くは続かない。そのための明文化である】
第7条「頼朝公や政子様から与えられた所領の扱いについて」
 頼朝公をはじめ源家三代の将軍の時及び二位殿(北条政子様)の時に御家人に与えられた領地は、本所などの訴えがあっても権利を奪われることはない。
 所領は戦の勲功や役人としての働きによって御家人に拝領されたものであり、きちんとした理由があるものである。にもかかわらず、領主が御家人に配せられた領地を指して「先祖の土地」と言い訴えることは御家人にとっては不満なことである。したがって、このような訴訟は取り合わない。(以下、略)
第8条「御文文を持っていても実際にその土地を支配していなかったいなかった時のこと」
 頼朝公の定めたように御家人が20年間支配した土地は、元の領主(貴族や寺社などに)返す必要はない。しかし、実際に支配していないのに支配していたと偽った者は、証明書を持っていても、その取り決めは、通用されない。
  参考2-二条河原落書 七五調全88節 抜粋
 1334年(建武元)8月建武政権の政庁である二条富小路近くの二条河原に掲げられた落書。
  この頃都にはやる物 夜討 強盗 謀(にせ)綸旨
  召人 早馬 虚軍(そらいくさ)
  本領はなるる 訴訟人 文書入りたる細葛(ほそかずら)
  追従(ついしょう) 讒人(ざんにん) 禅律僧 下克上する成出者
  鎧直垂猶不捨(すてず) 弓をも引えぬ犬追物
  落馬矢数にまさりたり 誰を師匠となけれとも
  遍(あまねく)はやる小笠懸 事新しき風情也
  京鎌倉をこきませて一座そろはぬえせ連歌
  犬田楽は関東の ほろふる物と云なから 田楽はなをはやる也
  茶香十しゅの寄合も 鎌倉釣に有鹿と都はいとと倍増す
  朝に牛馬を飼ながら たに賞ある功臣は 左右におよはぬ事そかし
  させる恩功なけれとも 過分の昇進するもあり
  損そあるらんと仰て信をとるはかり

  天下一統めずらしや 御代に生てさまざまの 事をみきくぞ不思議なる
  京童の口すさみ 十分の一をもらすなり
 b、米国大頭領は、得票数でなく選挙人数で決まる。
  (資料-11月10日(木)号読売新聞、日本経済新聞)
 ア、米ABCテレビや米紙ワシントン・ポストなど主要メディアのほとんどは投開票日の8日朝時点でクリントン氏が過半数(定数538人のうち270人以上)の選挙人を獲得して勝利すると予測。
 米紙ニューヨーク・タイムズは当選確率84%、著名な選挙分析サイト「ファイブ・サーティー・エイト」も71%、米政治専門サイトのリアル・クリア・ポリティックス(RCP)は選挙戦を通じほぼ終始リード・直前支持率(11月1〜7日)は3、2ポイント上回っていた。
  他方、トランプ氏勝利の確率は、20%の予想が大勢を占めていた。
 イ、結果は大逆転
  BBC NEWS JAPAN 
 a)11月16日付け開票速報 選挙人 クリントン氏232人 トランプ氏290人(9、日末明当選確実。ほとんどの州では最も多く得票した候補がその選挙人全員を獲得する。選挙人4人を配分するメーン州では得票率で選挙人4人を配分し、クリントン氏が3人、トランプ氏が1人獲得)
 b)11月24日付け得票数途中経過-敗れたクリントン氏6,420万票と次期大頭領トランプ氏6,220万票に200万票上回り、過半数獲得は確実。  
  各州の選挙人は、12月19日に今月8日の一般投票の結果を踏まえて投票する。なお、一般投票の得票数が少ない方の候補が大統領選に勝つのは、これで5回目。
 ウ、要因
 a)エスタブリッシュメント(既存の支配層)による政治を徹底的に批判し、米国の現状に不満を抱く白人中間層にや無党派層から熱狂的な支持を集めた。(読売新聞)
 b)移民に雇用を奪われ所得格差が広がる政治に対し強い不満・怒りを持つ白人労働者を代弁し変革を訴え、これまで投票に参加しなかった白人労働者層に期待を与え、工場集積州で大勝。(日経新聞)
 c)「トランプ氏は米国政治のすべての規範に挑戦し、まず共和党を、さらに民主党をひっくり返した」(ニューヨーク・タイムズ)
【米国には、自国を犠牲にしてまで他国を利す余裕はない。米国は、高い経済成長を遂げることに集中させ、雇用を守り、所得向上を第一とする主張「米国第一」が、多くの白人労働者の支持を得た】
 エ、懸念-来年1月20日第45代大頭領就任
 a)外交-メキシコ国境「壁」建設、イスラム教徒監視強化、NATO・日本への防衛費負担増か軍撤退。
 b)財政-所得税大幅減、法人税率35→15%、医療保険制度撤廃。
 c)金融-ドツド・フランク法撤廃。金融規制緩和。
 d)通商-TPP離脱。NAFTA(北米自由貿易協定)再交渉。中国を「為替操作国」に認定し中国製品に高い関税示唆、日本が米国産牛肉に38%の関税のままなら日本車に38%の関税をかける。
 e)エネルギー-2020移行の地球温暖化対策「パリ協定」離脱、シェールオイルや天然ガス開発を後押し。
(2)『太平記』に登場する「阿新丸」の話は、実話か作り話か問われば、作り話。だからと言って、歴史文学(ロマン)・読み物としての価値がなくなるわけではない。
 以上 

係わりの地95:関山(妙高市)佐渡奉行帰府道・金の運搬道

 こんにちは 自在業の櫻井です。
1クラス会
 7月23(土)〜24(日)新潟県妙高で高校時代(新潟県立両津高校普通科S組)のクラス会が2年ぶりにあり出席。
(1)今回・前回7
今回会場が妙高であるのは、一昨年の北陸新幹線東京ー金沢間開業で首首都圏だけでなく関西からも行きやすくなったことによる。
  今回監事は、既にもろ手を挙げていた甲斐女史をリーダーとする佐渡女子3人組。前回は東京男子3人組。
      クラス会参加実積(単位。人)
       今回2016年    前回2014年 
メイン会場 新潟県妙高温泉  群馬県伊香保温泉
  宴会後イルミネーション散策 宴会後特になし
 出席   17(男10・女7) 12(男7・女5)
半日ツアー 15(男8・女7) 10(男5・女5)
      上越名所観光  富岡製糸工場(当初計画無し。甲斐女史の提案により当日朝決定。マイカー4台に分乗、私は参加しなかったが、参加者は世界遺産で話題沸騰の思わぬ観光ができ非常によかったはずだ)
 クラス会参加者方面別
    東京 8      7
    大阪 2      1
    新潟 4      1
    佐渡 3      3
 (備考))のものにつかまての
  総員54人、黄泉の人7人・連絡とれず5人、案内通知42人、返信あり36人、出席17人
 会場集合時刻は16時00分。
 行程 新潟市役所前(高速バス)10時20分→高田駅→(電車)→上越妙高駅→(送迎バス)→宿泊ホテル14時30分頃着。その後の送迎が16時30分着のため仲間も同じバスに5〜6人乗り合わせた
(2)今度の監事
 ホテルに着いてロビーでくつろいでいると 監事は明日のことで業者と交渉しているということを耳にした。おやっと思った。ツアーは、最低21人参加が条件。7月初めクラス会申込者の数を参考まで主監事以外に電話で聞いたところ17人とのこと(会の案内には「あ問合せは自分は忙しから他の2人の女子にしてね」とあった。多忙は多分7月の参院選。まさか東京都知事選にまでは及んでいないと思う)。その出席者数ではツアー8おは無いと思っていた。なお、私はツアーには不参加であったからどうでもよかったが、多少気になった。翌日しかも日曜日実施というのにまだ決まっていない。
 私は、仲間とともに早々に温泉に入り、部屋でビールを飲んだりしていた。
 18時00分宴会。恒例のように各自の近況報告から始まり、向かい・隣同士さしつさされつの歓談で盛り上がった。
 宴たけなわのとき突然監事が、みんなの見える位置に立って大きな声で、「皆さん お知らせがあります。聞いてください」どうやら業者との交渉が決着したらしい。
 結論は、明日のツアーは計画とおり実施。但し、コースの一部カットのうえツアー料金の多少アップがあることを了承願いたいこと。全員異義なし。
 今回のクラス会費(以下、若干記憶違いの可能性あり)は、概ね宿泊費(飲食含む)14,000円・ツアー費8,000円の合計22,000円から成り、ツアーに参加しなからその分料金はh(安くて済むことにはなってなl。このい。私はツアーに参加しないが、監事に必要費用は上乗tせして決して自分が損しないよう言ったものだ。
 翌日チェックアウト前に精算。ツアー参加者は+2,000円の24,000円、不参加者は−4,000円の18,000円。見事ズバリの費用計算。また、最低定員未達とはいえ通常の旅行業界でいう団体人員15人はクリア。
 女史が旅行業の実務に精通していることは何となく知っていたが、今回は集団目標達成への執念と交渉力、予算統制力、総じてリーダー力に敬意。関西居住者で帰りまたま別件で近県に来ている奥さんと上越妙高駅で14時半過ぎ待ち合わせることになっており、予定通りの半日ツアー実施で6時間7bpも妙高で独りで過ごすこともなくなり助かったという友がいた。
(3)古稀(70歳)世代
 親は生きていてば90歳以上、子は35〜45歳の壮年で家・家業を支える主、一方自らは隠居(戦前までは50歳)し孫の世話をする世代。
1)老齢化・弱体化
 a、A子君は近年道路を歩いていて足を踏み外し、腰の骨がボ4ロボロになる大怪我をした話を聞いた。老化すれば骨同士はくっつかず、コンクリートのなもので固める処置をして、杖の助けで歩いているらしい。「油断1秒怪我一生」を自身の体験から話をした。(なお、それにも拘わらず)
 私自身ここ5年前から足の骨が脆くなったことを痛感。バスから飛び降りれない。視力が鈍り目の前の遠近・高を咄嗟に判断できず、ものに掴まってしなしな行動することが多くなった。
2)当たり前の話だが年を取るといろいろな病気にかかる。B君は、最近視界が異常になったり、平衡感覚がおかしくなったりしたという。それぞれ医師に診察してもらういずれも簡単な処置で治り、医師いうには年取れば誰でもなると言われたいう。
 私も数年前に今までなかった帯状発疹という病気にかかった。その時医師から60歳以上になると出る1回限りの病気と聞いた。また、この8月下旬と9月初め大腸ガンの検査を受けたところ結腸ガンと直腸ガン2ヵ所発見と診断、9月23日新潟県立ガンセンターに入院、26日手術、そして10月20日時点入院・療養中。今まで病気らしい病気はなかったが、この年になって生まれて初めて大病。4〜50代でなく、また手術できない程の高血圧(1年前何かの機会に血圧を測ってもらったところ152で高いと言われた)や心臓疾患(この度不整脈があることで後日再度心電図をとった)やガンの転移は今のところ見られないということで運がよいと内心思った。
3)C子君は、10年以上毎月首都圏から佐渡へ帰っているという。家に畑があるのでそれを看るためであるが、90歳を過ぎた母親が独りで元気でいるので安否確認が第一。ついでに春・夏・秋の自家用野菜を作っている。1ヶ月も畑を放置すれば、直ぐ雑草に覆われるから草刈機を使っての草刈りが佐渡へ帰った時の重要仕事。佐渡への1回当たり滞在日数は1週間くらいというから半端ではない。本人の話ぶりからは、四季折々の野菜作りは、健康的で結構楽しいようだ。心配のは、母親が元気なのはよいが、万一自分の方が先に逝った場合のことを考えるとである。
 親の健康確認・見舞のための首都圏からの毎月の帰省ではD子君の場合、還暦以前からであろうが父と母について20年以上も続けていたようだ。
4)島外に居住している佐渡人の共通する問題・課題
 a空き家になっている家をどうするか。そのままにしておくと、漏電による火事や水漏れや家屋の倒壊など近隣に迷惑を及ぼす。
 b空き地(田畑・山林を含む)をどうするか。特に田畑の耕作放棄地は、環境破壊につながり、元に戻すには相当の年月と労力を要す。
 cお墓は、自分の代までは歩けるうちはお盆などに帰ってお墓の世話をするとして、果たして子が管理できるか。E君は、お盆と正月には欠かさず帰省しているが、同じように島外に所帯を持つ子が佐渡のお墓の面倒を引き継ぐとは期待していない。
 d長男次男のいる家で兄が島外の人となり、弟が島に残って親の面倒を見てきた場合が多く財産相続の問題は、解決が容易でない。次男であるF君の話を聞くと、どう考えても親の相続人は当人のはずなのに80歳になる兄が頑として判子を押さない。もっとも高齢者は財産についいえ自分で判断はできず、その子夫婦や取り巻きの親類の意見に左右されるのもやむを得ない。この種の問題はどこにもある。
 e最終的には所有権は、国や自治体に入るが民間への払い下げは必要。活用には行政・事業家・地域住民が知恵を出し合いより良い方向へもっていくべき。
5)次回のクラス会をどうするかについて意見なし。
 いつもであれば、会の終了前に次回についての相談あるのだが、今回は提起する者、もろ手をあげる者はいなかった。
 皆古稀を迎えくたびれを暗黙のうちに感じ避けたような不思議な光景であった。但し、そのまま自然消滅するクラスであるまい。これからも起案者・協力者が現れるはすだ。
 
2関山の光景
 ホテルからの送迎バスが、関山駅近くまで通る便に便乗。
 関山といっても特に佐渡と関係する土地でもなかったー高田でも関川でも新井(昔は荒井か)でもよいーが、ホテルから一番近いとこにあって駅もあって帰りに便利、信州長野に信州への道路も他と比べはっきりしているだろう想定から関山を標的とした。
 送迎バスは妙高高原から下って南北に走る幹線道路を左折し跨線橋を渡ったところで関山駅が近くにあるというので一人だけ下車。
 街道らしきものを記憶に残すため戻った。ちょうど、関山支所の建物があった。
(1)妙高市関山支所(旧妙高村役場)前
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1)昔の信州への往還道らしい感じがしないわけではない。史跡を訪ねての楽しみというのはこんなものだろう。想像の世界。
 a写真の道をまっすぐ進めば信州に入り、そこから江戸への街道につながる。佐渡奉行帰府の道、金を江戸へ運んだ道、木食上人が佐渡での修行を終え信州信濃へ向かった道。
 なお、写真・支所の向かいの広いわき道をずっと上っていったところが、宿泊した妙高リゾート。
 b写真と反対向きの道路に架かる陸橋の下に2車線の線路が走っている。高崎から長野経由直江津への信越本線で、高崎(上州)ー新潟(越後)の上越線より早くできた(新潟県と群馬県の間の清水トンネルは、建設開始1922年(大正11))、開通1931年(昭和6)。その時までの新潟と東京を結ぶ鉄道は、信越線と1914年開業の磐越西線で、いずれもと遠回りであった。
 1899年(明治32)当時超人気作家・尾崎紅葉が佐渡へ7〜8月滞在したとき、東京から高崎・長野を経由し途中赤倉で泊まり、そして直江津→新潟への列車に乗った。その時関山駅を通過したことは確か(後述参照)。(参考 尾崎紅葉『煙霞療養』、06年10月18日号「尾崎紅葉と佐渡(1)佐渡行き決心」)
 線路の位置は、その後拡幅複線化工事が行われたであろうが、紅葉の通った当時とは大きく変わらないだろう。
2)関山は妙高村関山で、2005年同村と妙高高原町が新井市に編入・合併、同時に妙高市と改称された。
(2)関山駅
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1)一見喫茶店のようなハイカラな建物で、これが田舎の駅とは到底思われなかった。以前の固くて厳めしい日本国有鉄道時代の官有駅舎とは、センスが違う。なお、関山駅は1886年(明治19)の開業で非常に古く、歴史のある駅。
 a「関山駅駅舎サロン」「関山駅舎画廊」の名称で、地元作家のちぎり絵・水彩画・墨彩画などが展示され、まさにユトリ・教養・文化を感じさせる駅舎。1階喫茶室、2階画廊となっているようだが、電車時刻の関係で覗いてなかったのは残念。
 bまた、しゃれた駅舎であるのは、当駅はスキー場で若者が多く集まり、温泉など行楽地として全国的に有名であるからでもあろう。
2)沿革
1886年(明治19)直江津ー関山線開業(直江津・高田・新井・関山駅開業)
1888年(明治21)関山駅ー長野駅間延伸開業
2015年東日本旅客鉄道(JR東日本)信越線駅であったが、北陸新幹線長野駅・金沢駅間延伸開業に際し、並行在来線として経営分離され、えちごトキめき鉄道(株)へ移管。
  参考 トキめき鉄道「妙高はね馬ライン」発着駅
 直江津ー春日山ー高田ー南高田ー上越妙高ー北新井ー新井ー二本木ー関山ー妙高高原

2歴史スポット
(1)関山神社(資料「新潟県・歴史・観光・見所」HP)
a、妙高山は、古くから自然崇拝の霊山として信仰された。706年(和銅元)裸行上人が、妙高山の信仰を広げるため関山神社を創建。さらに大同年間(806〜810)に弘法大師が当地を訪れ、社殿造営と境内の整備が行われたと伝えられている。
 参考『妙高山』標高2,454m、北信五岳の最高峰。成層火山(同じ火口から複数回の噴火によって熔岩が重なってできた火山)。日本百名山、妙高戸隠連峰国立公園に属す。朝ホテルの部屋からその偉容さが身近に見られた。成る程後日知ったのであるが霊山と思わせる雰囲気があった。山の頂上に近い所にスキー場の宿泊施設、リフトが見えた。直江津から長野行きの電車窓や長野県中野市のリンゴ畑から見たものとはそれぞれ姿・形が異なる。
b、早くから神仏習合し、「妙高山関山三社権現」「関山権現」などと称し、別当寺院として関山宝蔵院が
祭祀を司り、極めて仏教色の強い神社であった。
c、戦国時代上杉謙信の戦勝祈念の帰依の篤さによって社は最盛期をむかえ、七堂伽藍70余坊を抱えるほど繁栄、越後第一の霊地とされた。 
d、1578年(天正6)上杉謙信の死去後、景勝と影虎両養子による家督争いによる上杉家の弱体化や織田信長の家臣の越後侵入攻撃による堂宇焼失により社は衰退。
e江戸時代東叡山天海の弟子大僧侶都俊海(謙信の弟)が再興し、幕府から100石の社領を安堵され再び隆盛した。
f、明治初頭の神仏分離令により別当の宝蔵院は廃寺、仏式も廃され社号を関山神社と改称。
 1873年(明治6)村社、1931年(昭和6)県社。
g、社の主要文化財
 ア、銅造菩薩立像(朝鮮三国時代7世紀)国指定重要文化財
 イ、銅造阿弥陀如来立像(鎌倉末期)県指定文化財
 ウ、関山石仏群(35馬区。平安後期)   〃
(2)佐渡奉行帰府道

(3)




 

佐渡の風景135:多田

 こんにちは!自在業の櫻井です。
5月23日(月)最終訪問地は多田(おおた)。当地についてはこれまで松前まつり、丸山の棚田、海洋深層水工場の見学の際に訪れ 触れてはいたがテーマにしたことはなかった。
 (07年5月11日号「佐渡の風景12:松ヶ崎街道」、09年5月3日号「佐渡の風景54:棚田(8)丸山」、11年5月16日号「事業・産業42:海洋深層水製造業」)
 今回は、テーマにするつもりでいた。
 ただ、帰りは乗用車利用のため14:00多田漁港で待ち合わせに間に合わせなければならないが、松ヶ崎の「おけやき」から向かったのは13:20頃で ゆっくりできる時間はない。歩きながらこれはと思う所を写真に撮るだけ。
 記述については、『畑野町史 松ヶ崎編』をベースに、歴史だけでなく現代の特記事項を加え、肝心な事柄は漏らすことなく簡潔に仕上げるつもりである。
  なお、最近の多田・松ヶ崎の人口・世帯数は次のとおり。
     人口・世帯数(3月末住民基本台帳)
             2009 2016
      人口   : 128  105
多 田 :世帯数  :   48   45
     1世帯(人):2.67  2.33
      人口   : 121  104
松ケ崎:世帯数  :  59    50
     1世帯(人):2.05  2.08

1.光景
〜ソ錨港に関係する建物
1)多田の街へ入って目立つ建物が今は空き家になっている船宿。

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  船宿は、単なる宿屋でなく、航海や出漁に必要な漁具・食糧を世話したり、積荷を地元商人にあっせんしたり、倉庫を持って保管したり、生産状況や商品相場の情報を提供したり、文書を預かったり、港番所に代わって税金を徴収したり等の機能がある。
 (具体例、09年3月19日号「歴史スポット51:廻船の航海と商い」(『海陸道順達日記』)参照 )
2)今は新潟ー小木航路はなくなったが、当時の佐渡汽船(株)多田代理店の木造建物があり、「佐渡汽船」の看板が今でも残っている。(画像は、『松ヶ崎編』からの転載)
多田駅
 a.佐渡汽船が多田に寄港したのは、1939年(昭和14)5月新潟ー(多田〜赤泊〜大石)−小木航路を開始したとき(大石、赤泊も同じ)。第八佐渡丸が片道航海(往と復とが1日置き)した。
 b.1979年(昭和54)10月定期航路打ち切り。
 c.最後の船は、1969年からのカーフェリー「さど丸」650トン。
街並み
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1)初めて多田の街を見た感想を次に記している。(07年5月『松ヶ崎街道』)
 「昔の廻船問屋の大きな船宿と倉庫の建物が残っている。また、直角でない道路の状況に合わせるような形状の建物があった」
2)家の形状は普通長方形であるが街路と河内川との関係で敷地の変形に応じ台形になったり、角がいくつもある造りの建物が見られる。
3)一方、「甲信越の街並」サイトには、「古い料理屋・旅館の建物が連なる町並」として多田を評価。根拠は、江戸期には松ヶ崎と共に松前稼をする者が多かったこと、明治初年以後松ヶ崎番所に代わり港改所や通商会所が多田に置かれ旧松ヶ崎四ヶ村の中心となったこと、大正期に味噌・酒の醸造業や船宿から転じた料理屋が栄えたことを挙げている。そして、「どうしてこのような旅館や料理屋の建物ばかりが連なって残ったのかは不思議と思える町並である。是非このまま保存したい町並と思う」とある。
B薪諜港
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1)対岸の越後の山々は煙っていて見えず。多田漁港の白い防波堤灯台(塔高5m、灯高8m、初点灯1995年(平成7))が微かに見えた。漁船の船揚げ場は、上の右画像に見える港内突堤の奥にある防波堤に囲まれた所にある。
2)新潟県HP:「多田漁港(第1種 佐渡市管理)。
 多田漁港      

 (平成17年11月撮影:転載写真)
「漁村の歴史」より
 a.多田(おおだ)は松ヶ崎湊の補助湊の関係にあった湊(みなと)町と農村部の黒根(くろね)からなる。永享6年(1434)流罪となった世阿弥の「金島集」に「大田のうら」とみえる。
 b.元禄7年(1694)の検地帳では田畑屋敷21町8反余のうち、田は10町8反余、屋敷持は68人。屋敷地の地字に上町、改町、下町、片町がみられる。
 c.「佐州巡村記」に戸口78軒、328人。丸山(まるやま)村・河内村との組合郷蔵がある。天保9年(1838)の村書上帳に漁船28艘、廻船6艘。「佐渡四民風俗」に松ヶ崎村が「浪荒き節は多田村にも船掛り仕候(中略)此辺松前へ稼に参り候もの多く、秋頃帰国の節は、松前物数品売買致し候」とあり、松ヶ崎湊ともに松前稼をする者が多かった。寛政6年(1794)5月に45軒を焼く火災があった。
 d.明治初年以後松ヶ崎番所が廃され、それに代わる港改所や通商会所などが置かれ、旧松ヶ崎四ヶ村の中心となった。大正期には味噌・醤油の醸造業や船宿から転じた料理屋が栄えた。
   (出典:新潟県の地名 平凡社刊)

2.歴史スポット
‖薪直
 1)多田本間家の初代に関する史料は、多田にある菩提寺の曹洞宗崇運寺に月牌〔がっぱい:位牌〕にみえる。
      月牌
 開基 多田城主 本間信濃守 大籏院殿転翁崇運大居士 寛正4年〔1463〕3月3日
 なお、『上杉年譜』〔おそらくは、延宝2年(1674)に着手した『上杉家御年譜』のこと〕天正5年〔1577〕の条に、上杉勢に降伏した佐渡の地頭たちの名を連ねており、その中に「大田城に 本間但馬守秀氏」の名があるという。
 2)「城跡は、多田港の海岸から300mはなれた山頂(標高100m)にある。南北に100m・東西に200mほどの舌状突出部を利用して城はつくられている。城ノ腰の地名をもつ3つの郭〔くるわ:城の囲い〕のうち中央の本丸を中心として、その北西側に土塁があり、井戸址をのこす郭が二の丸、その南側乃本城という地名のところが三の丸である」
   《参考》「多田」と「大田」
 能の大成者世阿弥の『金島書』の中に、次の文がある。(日本の思想8「世阿弥集」(発行:筑摩書房)の中の『金島書』(校訂・訳・注:小西甚一)より)
  「永享6年〔1434〕5月4日都を出で、次の日若州小浜〔福井県小浜市〕と云ふ泊〔とまり:港〕に着きぬ。・・・・ここはと問へば佐渡の海、多田の浦に着きにけり」【注には 多田の浦は低本「大田の浦」とある。底本〔ていほん」とある。底本は原本のこと)
 3)佐渡の本間家の惣領格・雑太本間家信濃守の菩提寺が「大運寺」、羽茂本間家が「大蓮寺」で、多田本間家は「崇運寺」であることから「雑太への指向が感じとられ」、「一国の公津(こうしん:松ヶ崎〔城あり〕、補助としての多田〔城あり〕〕を領下におくこと」、松ヶ崎街道を抑える意味で「河内や丸山の城との関連も生じてくる」
■隠沓毅闇代(宝暦期)の多田村の概要(佐州巡村記)
 「多田村 家数78軒・人数328人
 一、高254石2斗7升6合 此反別22町4反2畝19歩 内
  田高177石4斗7升3合 此反別10町7反5畝10歩〔1軒当り1.38反〕
  畑高76石4斗3合     此反別11町6反3畝歩   〔 〃  1.49反〕
  取米84石4斗8升5合 内:田73石3斗3升2合・畑11石1斗5升3合
   百姓林 49」ヶ所
  諏訪大明神 禅宗崇運寺 真言宗弥勒院 真言宗地蔵院
 一、本間信濃守古城後アリ
 一、郷蔵アリ
 一、御年貢米ハ海上5里相廻大石御蔵納
 一、秣場〔まぐさば〕壱ヶ所
 一、用水ハ多田川の水を引 」
    《参考》松ヶ崎地区4ヶ村別1軒当り田畑面積(単位:反)
      (1750年代「佐州巡村記」)
       松ヶ崎  多田  河内  丸山
    田    :  0.99    1.38     3.79    5.70
 面積(反);  151     108       178      228
    畑      :  0.97    1.49     1.87    2.58
 面積(反):  147     116          88      103
     合   計 : 1.96     2.87   5.66     8.28
 面積(反):   298     224       266       331
 家数(軒):   152    78      47         40
 人数(人):   681     328    268       263
    【1軒当たり田畑面積計は、丸山、河内、多田、松ヶ崎の順に多く、多田は丸山の35%、松ヶ崎は同じく24%の水準。なお、視点は異なるが押さえるどころとして人口は多田は松ヶ崎の45%がある。その0・45といういわば係数は、多田の特徴をつかむのに使える】
3い鮖餮擦箸靴浸業(松前稼ぎ、廻船・地廻り船、港湾荷役、船宿)
 多田は、「1軒当り田畑面積」に見るとおり 田が1.38反。概ね1.38石の米(大人が生きるに必要な米は年間1石)しかとれず(年貢率45%として0.76石)、家族はおろか一人でも生活できない試算となる(松ヶ崎の場合もっとひどい)。
1)松前稼ぎ
 a.前号に触れたが、『佐渡四民風俗』松ヶ崎の項に、「此辺松前へ稼に参り候もの多く、秋頃帰国の節は松前物数品売買致し候」とある。
 b.1819年(文政2)割当て数は、多田は30人と佐渡で松ヶ崎の49人に次いで多い。
 【これを松ヶ崎との人口比45%では49×0.45=22人で実際は430人。多田がいかに松前稼ぎに出る人の割合が多いかを判定できる】
  c.多田・河内・丸山の例
  松ケ崎から50人前後に対し、多田村30人・河内村3人・丸山村2人が定員。
  ァ.明治初年の多田村戸籍簿に松前行荒物と書かれているのが河口庄治郎と佐藤甚八と本間林蔵の3人、明治末頃市山家の明治郎が岩内に店をもち、昭和の初めまで荒物や味噌の商いをしていた。本間孫七の弟・初太郎が、函館の青木長三郎家先々代の娘の婿養子となり、荒物から漁場の仕事まで手広く営んでいた。その後大阪に移住。
  ィ.河内では、計良久仁松の弟・幸太郎が余市で呉服店を、坂野弥五平の梅吉の弟・寅松と浅次が昭和の初め小樽へ行き、戦争で引き揚げてきた。また「橋本家(現在松ヶ崎)」も旭川から引き揚げた。
  ゥ.丸山では、計良甚四郎の弟・松蔵が、明治半ばに函館カネトの番頭となり、その後独立してカネトイチ家を興し成功している。また、計良甚六家の弟が余市でひとはた挙げ、その親戚の稲葉三十郎家の長太郎の兄梅吉や相嘉孫十郎家などからも小樽に移住する者があった。
2)廻船
 a.廻船の草分けは松ヶ崎の菊池喜兵衛で「廻船数十艘所持し」と『佐渡四民風俗』にあるから 無論多田もその恩恵に預かっていることに相違ない。
 b.廻船についてのデータ(『松ヶ崎編』)
 ァ.1838年(天保9)松ヶ崎村8艘 多田村6艘。「これは宿根木村の7艘をこえて島内ではいちばんの船数であった。(『一国騒動書上帳』)その中には木嶋弥惣治持ちの7人乗り弁財船徳米丸(404石積)と勝谷茂左衛門持ちの7人乗り弁財船(453石)などが含まれていた」
 ィ.1846年(弘化4)
   松ヶ崎村4艘:450石・610石・310石・240石積廻船
   多田村4艘:560石・540石2艘・510石積廻船
   (注)「これは御城米を大阪へ廻米するに当って、奉行所が募ったのに応じた者だけの分で、両村の船のすべてではない」
 ゥ.1870年(明治3)の役場(改所)の記録による廻船
 (「廻船」とあるが、一般には廻船は100石以上で、それ未満は遠距離航海は無理で、短距離小量輸送に向く地廻り船・小回り船もある)
   松ヶ崎村6家8艘:渡部太平(大西家)201石・同180石・同101石・幡豆利平(利平)50石・板谷三五郎(三五郎)65石・金田多三郎(カネタ)145石・渡部吉治郎(ヤマ吉)101石・本間吉太郎(マル本)140石積船
   多田村4家6艘:寺島三平(三右衛門)2艘合わせて408石・本間孫七2艘合わせて378石・本間七十郎235石・平野源五郎71石積船
 ェ.1882年(明治15)の船の持ち主と船
   松ヶ崎村3家6艘:大西家4艘・宮本八三郎(八右衛門家)1艘・勝谷松蔵(長蔵家)1艘
   多田村4家6艘:仙田幸吉(小左衛門家)1艘・菊池忠吉(浜ノ内家1艘・本間七十郎(ヤマ七)2艘・寺島棟蔵2艘
  【人口比では、多田の方が松ヶ崎よりも 船の持ち主数・船数が多い。明治に入り絶対数においても多田が優位に立った。】
3)地廻り船・押切船
 a地廻り船
 ァ.特定地域内の漁港との取引を行うことを業とする船で、例えば多田や松ヶ崎で北前船から買い取った商品を国仲や相川に向けるため沢根や真野に運ぶもので、100石以下の中型船や50石前後の小型船が小回り性を発揮。
 ィ.中継ぎをして市場に運ぶことを積み回しと言い、例えば上方からの積み荷を多田港で一旦降ろし越後へ運ぶなど。
 ゥ.乗組員は、ほとんどの船は船頭ほか1人で、まれに3人以上のことがある。またときには乗客を乗せたりもする。
 b.押切船(おしきりせん。押渡船)
 ァ.文政10年(1827)旅客専用の押切船が赤泊ー寺泊間に導入(後に多田ー寺泊間にもあったとされる)、明治初期まで越後佐渡往来の便としてあった。
 ィ.押切船は、漁船の倍くらいの帆掛け船で「押切り早船」と呼ばれるほど早かった。櫓〔ろ〕の数を増やし〔4挺立〕、多少の逆風や無風のときは櫓で押し渡った。
 ゥ.『佐渡四民風俗』追加(1840年)の赤泊村の項:「当国より越後へ渡海いたし候旅人は、重(おも:主)に小木湊え出津いたし来候処、文政の頃より此所に押渡り船出来、寺泊へ手早く渡海いたし、殊に小木と違い在方〔田舎〕風にて雑費も薄く候間、近年重に此所へ旅人出候様に相成申候。但し押渡船の儀春夏平波の節風筋に不構押渡り候までにて、秋冬風波の節は渡海致し得不申候間、不時の御用等のは埒〔らち〕明不申候」
 ェ.新潟県立図書館デジタルライブラリー:「この年〔1827年〕から押渡船(押切船),佐渡赤泊と三島郡寺泊間に就航小木港打撃を受ける
4)港湾荷役は、「他国船往来の節商物の積出し、渡世仕候儀は外入津の場所同様に御座候」(『佐渡四民風俗』)に見える。
5)船宿
 a松ヶ崎には江戸時代中頃から井戸端こと菊地藤三郎が本陣宿(奉行の旅籠)をやり他に林助左衛門と木嶋七左衛門もやったことがあるが、多田には同じ頃船宿が7軒あった。
 b.多田には江戸時代中頃「船宿が7軒あったことになっている。そのうち斎藤八十八・堀野六三郎・牧野重蔵・金子伝蔵は確認できるが、他の3軒は不明」〔多後背地は小佐渡山脈、海岸線は山の斜面で平野は少ないため物資の輸送は船に頼らざる得ず、船問屋としての発展に至らなかった〕
 c.「多田の船宿では、飯盛りという接客婦をおいて、船頭や水手を慰める小木港などの営業法をとりいれた。小木港の色町開拓から女性を集めた。この種の慰安所的船宿や料亭は、のちに廻船がとだえてもなおしばらくは、島内の遊び客を多田に誘致することでつづいた」。
は汰イら汽船への時代
1)明治8年3月相川県参事(知事)鈴木重嶺(最後の佐渡奉行)と同参事磯部最信の名義による触れ書が出された(松ヶ崎支所の記録)。
「大蔵省所管の蒸気船9艘を、三菱会社へ委託の上、貢米運漕の余暇に僻遠の海路往返の便も追々御取り開き相成るべく、差し向き東京・箱根の間、長崎・下ノ関通り開運は、三 通り回漕は両様に致し、運航は当分1ヶ月壱度宛往返の積り、大蔵省より達し之有り、然る処当管下夷港・小木・二見の3港は汽船繋泊積荷便宜の港に付き、商売之輩、蒸気船へ売荷積入れ又は旅客乗組候も、銘々勝手次第許し候条其段兼て相心得、汽船投碇次第時間をたがわず運輸致すべく、尤も運漕費其他来航期限等は追て布達に及ぶべく候」
2)佐渡で初めの民営汽船は60トン級蒸気船「高田丸」で、明治13年多田ー寺泊を就航。
 《参考》
 a.明治11年(1878)年5月パリ外国宣教会のフランス人宣教師ドルワール・ド・レゼー神父が新潟から佐渡へ渡ったのは、寺泊ー赤泊間を行き来していた押切船。赤泊からは陸路両津夷へ行き 住まいを見つけ活動拠点とした(夷は1858年五か国条約で新潟が開港(夷が補助港という条件付き)したことで外国人居留許可地となった)。
 b.高田丸
 ァ.高田丸は、機械・兵器・船舶を取り扱う高田商会と関連。同社は明治から大正にかけ三井物産・大倉商会と並ぶ貿易商社で 創業者は相川出身の高田慎蔵。なお、三井物産の創業者益田孝も相川出身。
 明治の頃前浜地域の盆踊りに、「船は 器械は高田 どうせ乗るなら高田丸」と唄われたという。〔占魁丸(せんかいまる)は赤泊ー寺泊間を就航した48トンの小蒸気船)。明治19年飛島で沈没。
 ィ.高田商会は大正末に経営破綻したが、支援のグループや法人が現れ、経営主体は異なるが現在も機械専門商社として「高田商会」の看板は存続。
 (11年3月29日「事業産業40:総合商社(続き3)」、16年1月26日号「係わりの地83:東京(丸の内界隈)」
 ゥ.越佐丸
  高田丸に替わり多田ー寺泊専用船として明治19年進水。出資者は、多田の本間六十郎・寺島棟吉と寺泊の折敷正当の3人。だが、航海記録はなく新潟を中心にした夷・直江津との往復が主。
 ェ.前佐渡丸 98トン木造船と前佐渡汽船(株)
 顱1922年(大正11)多田に3艘目の汽船の建造を計画。堀越玉作(甚四郎家)が起案、寺島栄吉が賛同。
  a)計画は、前佐渡全域を対象にした小木ー赤泊ー多田ー新潟の隔日定期航路。まず100トン級の快速船をつくり、さらに大型船を建造し沢根ー北海道間運航、そして当時、流行の山形善宝寺詣りや新潟白山祭・住吉祭へのチャーター船としての利用。
  b)株式会社設立の形で進められ、寺島三右衛門宅に創立事務所がおかれた。1株50円、資本金3万円。
  主な発起人と出資額:葛西肇(羽茂本郷)135株、田辺政次(赤泊)95株、山田兼三郎(新潟市)95株、堀越玉作(多田)75株、寺島栄吉(多田)55株、山田新三郎(大阪市)55株、吉井次郎吉(新潟市)20株、松沢鎌蔵(赤泊)20株。その後2人(赤泊)、1人(河内)、1人(松ヶ崎)、2人(丸山)、4人(多田)と出資者が増え18名となった
 髻法1923年〔大正12〕前佐渡汽船株式会社が設立。本土に近い前佐渡(佐渡島南部)を中心に新規航路を開設、先発2社に対抗。同社は1927年「越佐商船」と改称」(ウィキペディア「佐渡汽船」)。
    《参考》先発2社(ウィキペディア)
  a)1885年(明治18)5月 佐渡・本土側双方の資本により「越佐汽船会社」創立。1893年法人成りし「越佐汽船株式会社」設立。本社は当初は両津。同年7月新潟-夷間に新造船「度津丸」による航路開設。早くから新潟本土側資本が多数派となり、本社は新潟に移転。1918年〔大正7〕社名を「新潟汽船(株)」に改称。佐渡や新潟周辺における小規模個人経営の海運業者と競合しつつ、それらを合併するなどで経営を拡大。
  b)1913年2月3日佐渡島側資本の糾合により「佐渡商船株式会社」が創立。登記上における現・佐渡汽船の前身である直系企業。本土側資本である新潟汽船(株)と競合を展開。

  c)1932年4月  佐渡商船株式会社は、新潟汽船株式会社、越佐商船株式会社の両社を買収して合併。商号を「佐渡汽船株式会社」に改称。越佐航路の競争激化による共倒れを防ぐため新潟県の介入・持ち株50%による企業統合・再編であった。
  (参考は、以上)
 鵝鳳超箸六呂瓩凌年間は比較的順調。だが、「昭和2年会社が法規に触れる事件を起し、窮状に陥った。・・・ライバルの佐渡商船が赤泊航路で赤字を出したため、県と国庫の補助金を打ち切られ、その分が大正15年から前佐渡汽船会社に振り向けられる〔県の補助金年額2,000円、国はその倍額支給〕という幸運」も、昭和5年11月前佐渡丸は小木港で難破、同じく会社も閉鎖。

3)佐渡汽船時代の多田港
 a.佐渡汽船の前身は佐渡商船(株)で、大正2年〔1914〕越佐航路を独占していた越佐汽船(株)(明治18年創立)に対抗して創立し、初代社長は土屋六右衛門(佐渡銀行頭取。後に両津町長)。昭和7年両社が統合し、佐渡汽船(株)と改称。
 b.昭和14年〔1939〕4月:多田の林寅蔵と代理店契約を結ぶ。(以下資料は、『佐渡汽船100年史』(2015年刊))
  同年5月新潟ー小木間航路開始。
    往航:小木→大石→赤泊→多田→新潟
    復航:新潟→多田→赤泊→大石→小木
  同年12月現在
 船 舶         航 路         備 考
おけさ丸  :両津―新潟
第二佐渡丸:小木ー赤泊、小木ー新潟
第八佐渡丸:両津ー新潟、小木ー新潟 231トン・11.5ノット、T12〜S29年1月
みゆき丸  :両津ー新潟、沿岸各港  〔66トン余の機帆船。前浜各港運航〕
ゑびす丸  :   〃   、   〃
 他に、自動艇1、艀4、通線1
 c.昭和22年〔1947〕9月:新潟ー小木間航路の寄港地に岩首村豊岡を実施。
 d.昭和44年〔1969〕新潟ー小木航路にカーフェリーさど丸(578トン、12.1ノット、定員573名)就航。
 e.昭和48年〔1973〕新潟ー赤泊ー寺泊間の定期航路事業の免許を受ける。
  f.昭和54年〔1979〕新潟ー小木間航路中止
 g.昭和64年〔1989〕1月新潟ー赤泊ー寺泊航路のうち、新潟ー赤泊の航路を休止し、寺泊ー赤泊間を通年運航とする。
 【現在の佐渡ー新潟間の定期航路は、新潟ー両津、直江津ー小木、寺泊ー赤泊の3航路。内、カーフェリーは、新潟ー両津、直江津ー小木の2航路】、
ッ楼莇修
1)イベント
 a.「いこいの村まつり」
 ァ.1978年6月公的な保養・宿泊施設「いこいの村・佐渡」が多田にオープン。同時に地域活性化の一つとして地元住民による実行委員会が主体となって始めた。
 ィ.しかし、祭のきっかけとなったその施設は経営難のため民営に代わり、それでも業績回復できず休業そして閉館となった。
 ゥ.だが、祭まで無くなったわけでない。今年も祭が多田漁港を会場に開催された。
    第39回いこいの村まつり:2016年8月14日(日曜日)15時30分〜21時
 顱傍澗生檗大獅子、佐渡民謡、歌謡ショー、薪能、花火が披露。
 髻貌檀すべきは日本で他に無く、当然世界でも他に無いのが、多田漁港に浮かべた特設舞台で演じられる「海洋薪能」。
  a)これは、世阿弥が佐渡に流され多田に上陸した故事にちなんで企画されたもので、能の盛んな佐渡ならではの催し。
  b)「14日の祭りでは、島内愛好家でつくる「楽謡游舞の会」が「花月」を上演した。船の上に組み立てられた特設ステージに、地元の新成人3人がかがり火をともした。演者の姿が照らし出され、会場は幻想的な雰囲気に包まれた」「祭りの最後を締めくくる花火大会では、供養の気持ちを込め、長寿を願う約600発の花火が次々に打ち上げられ、夜空に大輪の花を咲かせた」(「新潟日報モア」サイト16.9.21)
  なお、「海洋薪能」の様子は、NHkテレビのローカルニュースに放映された。
 b.「まっさき食の陣」毎年2月開催 会場:多田漁港

 ァ.今年は2月14日(日曜日)10時〜14時で、14回目。「手作りイベントの温かみと安心感、毎年少しの変革でサプライズ」
 ィ.地元の芸能を見ながら、とれたて農産物や魚介類を使用した食材の味わいを楽しめるイベント。
 ゥ.内容:芸能・足湯・雪中宝探し、たら汁無料サービス〔但し、数量に限界〕、たらの刺身・キジそば・新鮮な魚介類・地場産品販売
 c.多田クリスマスナイトマーケット 
 ァ.内容:多田集落のクリスマスイルミネーションを楽しむスタンプラリー、軽食・手作り雑貨の販売など。
  〔松ヶ崎地区(多田も入る)イルミネーションは15年以上の歴史あり〕
 ィ.昨年
 顱貌程案内
   日時 2015年12月19日(土) 17:00〜19:00
    場所 佐渡市多田・多田橋
      ※駐車場は松ケ崎連絡所前、松ケ崎駐在所後ろ
      ※先着20名様に手作り記念品
 髻謀日の様子
  (「一年二時間だけの魔法 クリスマスマーケット」15.12.29「佐渡市地域おこし協力隊」ブログ)
  「多田でクリスマスナイトマーケットを行いました。好天気に恵まれて多くの方々が訪れました」「『まるで魔法かけられたよう』参加してくれた方々が口にする言葉でした」「マーケット開始早々飲食コーナで大行列を作っていました」「食べるのがもったいないぐらいかわいいシュトーレン」「子供の夢ークッキーで飾られたクリスマスツリー」「みなさん思い思いの雑貨を選んでいます」「クリスマスの夜に森へ紛れこんだ黒猫軍団」「子供たちからの呼び声が高い松ヶ崎にちなんだスタンプラリー、今年はボス猫『にゃめタロー多田冒険物語』です」「お客様から送られた一枚、マーケットでの戦利品。また来年が待ち遠しいですね」
〔一言ごとに付いている写真を照らし合わせて見ると、確かに別世界に来ている雰囲気でワクワク感を禁じ得ない〕
2)海洋深層水の関連工場
 地域振興のために誘致したというより、多田の立地が海洋深層水の生産に最も適していたということ、事業を継続し発展させるための参画企業の存在が大きい。
  多田にある次の2社については、訪問取材し記事にしている。
 (11年5月16日号「事業・産業42:海洋深層水製造業」、同年5月25日号「事業・産業43:製塩業(1)塩の歴史スポット」)
  ここでは、詳細割愛。
 a.新潟県佐渡海洋深層水(株)
  多田の沖合3.2km、水深332mの海底に敷設した取水管から海水を取り出す取水装置、砂・泥を取り除くろ過装置、紫外線殺菌装置を通って5種類の水(原水、脱塩水(淡水)、濃縮水(濃縮海水)、高塩水(塩水)、高ミネラル水(脱塩水))に分ける分水施設、そこからパイプラインで送られれて製品化するボトリング工場がある。
 b.佐渡海洋物産(株)
  同社は、ボトリング工場から少し上がった小高い山にあり、濃縮水や高塩水がトラックで運ばれる。海洋深層水(株)とは資本関係ないが、そこで生じた深層水の100%を仕入れて製塩している。

3.まとめ
〇業は人・物・金というが、立地が大きくものを言う。その立地は大きく自然と社会(特に法令と競合)があり、それぞれが変化する。
 1)松ヶ崎は、奈良時代国津に指定され佐渡における交通の要所として繁栄。本州・寺泊に近く、砂浜で海底が浅く、船底が平らな古代船に合っていた。但し弱点は、潮流が強く、またたびたび陸地が変化する。
 2)多田は、松ヶ崎の補助港としてあったが、船の大型化・操船技術の進歩とともに港としての利用は、多田に移っていった。一例に過ぎないが、鎌倉時代日蓮は松ヶ崎に上陸したが、室町時代世阿弥は多田に上陸した。
 3)赤泊は、江戸時代佐渡金山の発見によって佐渡が天領となり金の積出港である小木と共に注目され、佐渡奉行の渡来港となり、寺泊とは最も近い距離にあるとして相川へ至る赤泊街道(殿様道)も整備された。
  赤泊の場合、寺泊は近くても金の安全を含む輸送の面で 「相川→小木→出雲崎→(北国街道又は長岡→三国峠越え)→江戸のルートが選好された。
  なお、赤泊は江戸からは便利で、寺泊→赤泊が佐渡奉行の定番コース(帰府は、小木→出雲崎)となった。
 4)小木は、江戸時代対岸の出雲崎への金の積出港となったことが繁栄へのきっかけで、1672年(寛文10)大坂ー酒田(更には蝦夷松前)を結ぶ西回り航路の寄港地に指定され繁栄。但し、明治に入り和船から汽船、鉄道時代になると北前船の入港が減少し、佐渡の窓口機能は新潟の発展(鉄道による東京と直結)を共にする両津に取って代わった。
 5)佐渡と本州を結ぶ航路は、かって多田ー寺泊・出雲崎や新潟ー多田ー赤泊ー小木、赤泊ー柏崎の航路などいろいろ試み・挑戦されたが長続きせず、現在あるのは、新潟ー両津、寺泊ー赤泊、直江津ー小木の3航路。
多田に全国に他に無い「海洋薪能」があるのは、8年前頃「佐渡の能を識る会」会長 近藤氏からお聞きして知り、これは是非とも観るべきと勧められたことがあった。
 その時、「海辺で薪能が行われるのはおいとして、なぜ多田で?」と不思議に思ったものだが、ここへきてその意味というか意義が判った。世阿弥との関連は、とうに知ってはいてても、その認識・掘り下げが薄かったためと帰りの交通手段のこともあり それほど関心なかったようだ。
 今年は偶然その模様をテレビのニュースでみたこともあり、またブログで多田をテーマとしたことで関心が湧いてきた。
 以上

佐渡の風景134:松ヶ崎

 こんにちは!自在業の櫻井です。
 5月23日(月)岩首集落から松ヶ崎へ向かおうとした時サイレンが鳴った。すぐに11時30分の知らせと分かった。正午30分前を告げるのは農漁村の生活の知恵、12:00では遅い。
 松ヶ崎へは直近では09年4月に岩首から丸山の棚田を見るために訪れたというより通過した(09年5月3日号「佐渡の風景54:棚田(8)丸山」:但し、松ヶ崎街道の記述あり)、その前は07年5月4日の松前まつり見学に訪れた。
 松ヶ崎をはじめ前浜地区は、昨年8月頃当年中にはテーマにして書き込もうと思っていたが、内海府シリーズに予想以上に時間がかかり、それで時期的にもタイミングを失した(冬に行ったのでは描いている雰囲気と合わない)。11月になり松ヶ崎は翌年5月には取材と書き込み着手としていたものの5月には曲りなりにも訪問したが着手は9月にずれた。
 ところで松ヶ崎を取り上げたのは、ご先祖が佐渡の廻船業の草分けで名を成した松ヶ崎の菊池喜兵衛の末裔菊池あき子さん(イタリア・ミラノ在住、出身は愛媛県松山市)から昨年6月「佐渡広場」にコメントをいただいた事が大きい。
 (さらに8月に入って内海府「北松ヶ崎」をテーマに調べていたところ、慶長検地帳(1600年)に村役人の長として菊池清左衛門の名があり〔清左衛門の出身は肥後国〔熊本県〕菊池郡。故あって当地へ来て数十年 家門繁栄。弟は家を離れて松前や十三湊等に住み、松前では佐渡屋清左衛門と称し繁栄したという〕、松ヶ崎の菊池喜兵衛と関係あるかもしれないと思って喜兵衛についていろいろ調べまとめた。(15年8月11日号「佐渡の風景121「北松ヶ崎」))
 そのミラノから送信されたコメントの一部抜粋すると(ブログ・コメント欄に全文あり)、
 「本行寺にゆかりのある菊池喜兵衛の直系の子孫と聞いております。 祖父は生前、よく佐渡へお参りに愛媛県から出かけておりました」。「私は祖父の遺骨を本行寺に納骨しに、約二十年近く前に佐渡を訪れたことがあります。数日前、急にその時のことを懐かしく思い、初めて「佐渡」を検索してみたところ、こちらのサイトを見つけた次第です。これから楽しく読んで勉強させて頂きます! 」「2014年12月の記事に、次回のゼミ旅行は愛媛県に、とありましたが、この様な訳で、佐渡との関係は一応有るんです!」 「今年は、10月末までミラノ万博が開催されていますので、ご旅行を計画されるなら、ぜひうちへご滞在ください。 これから宜しくお願い申し上げます。2015-06-04 」
 あき子さんは気さくな感じでメール交換。同年8月松ヶ崎の本行寺でご先祖のお墓参りをした帰り新潟でご主人(イタリア人)ともお逢いし食事。『佐渡広場』を進呈。後日 無事イタリアへ戻った報告とお祖父さん(菊池九郎氏:『畑野町史松ヶ崎編』に本行寺での写真が掲載)が生前寄進された鐘が安置された祠(ほこら)風の建造物の前でご住職と並んで撮った写真がメールで送られてきた。
 この事自体話題性に富んでいるから、松ヶ崎を是非テーマにしようということで今回となった。
 (資料等:『畑野町史松ヶ崎編 萬都佐木』(1982(昭和57)年刊:以下『松ヶ崎編』)、『赤泊村史・上』(1982年(昭和57)刊、『同・下』(1989年(平成元)刊)、『佐渡四民風俗』(佐渡奉行所地役人高田備寛/著)、川辺聖謨/箸『島根のすさみー佐渡奉行在勤日記』(発行:平凡社、の校注:川田貞夫。以下『川路奉行日記』)、07年5月9日号「佐渡の祭13:松前まつり」、07年5月11日号「佐渡の風景12:松ヶ崎街道」、08年2月27日号「佐渡を記した人23:川路聖謨(7)佐渡巡見◆廖法

1.光景
々礇料禀
 (参考:「鼻」と「崎」は、場所の名前で海に向かって突き出ている陸の先端のことで意味の違いはない。なお、「鼻」は西日本に比較的多く使われるという。
 佐渡の場合、「鼻」は鴻ノ巣鼻(松ヶ崎)の外に、城ヶ鼻(野浦、米郷)、野崎鼻(赤岩)、沢崎鼻(沢崎)、潮掛鼻(高崎)、鉄砲鼻(西三川)、大須鼻(大須)、台ヶ鼻(二見)、大崎鼻(小川)、千本鼻(千本)の11ヶ所。そのうち南北では南の小佐渡7ヶ所・北の大佐渡4カ所、東西でば松ヶ崎は東として東3ヶ所・西8ヶ所
DSC09533
1)鴻ノ巣鼻は、相当遠くからでも形を変えて見える。
 a.09年4月15日号「佐渡の風景48:棚田(2)赤玉」)両津から7:00前のバスに乗って赤玉で降りたのは、7:30頃。・・・赤玉から9km以上離れた松ヶ崎の鴻ノ瀬鼻灯台が見られるか、バス停から赤玉トンネルの前まで戻った。遠く霞んでいるが肉眼ではかすかながらも見ることができた。
松ヶ崎の灯台は、幼い頃に見たイメージと近年になり奈良時代から佐渡の玄関口としての公津(国指定の港)であった知識が合わさって、「おおらかな飛鳥時代の風景」というイメージが頭の中で勝手に作られていた」
 b.東鵜島の岬からは、岩首の岬の奥に海に突き出た海面すれすれの平地と林が見えた。白亜の灯台は太陽の光りの関係からか写真では見られない。(前々号「東鵜島」)
 c.岩首から松ヶ崎へ向かって右へ折れる手前の道からは、斜面の遮られて灯台や林は見えないが 海に突き出た砂地の部分だけが一部見える(前号「岩首」)。標高601mの東境山(とうきょうざん)の山裾が急に落ち込んだところが角になっていて、小佐渡の海岸線はそこで北北東と南南西に折れ曲がる。
 d.角を曲がうと 上記画像のとおり鴻ノ巣鼻の全容がはっきりしてくる。
  ァ.鴻ノ巣鼻灯台は、越佐海峡を航行する船舶、漁船の安全を確保のため1952(昭和27)年完成。
  ィ.高さは22m、佐渡では沢崎鼻灯台の24mに次いで2番目に高い灯台。
  ゥ.現在灯台の周囲は公園(松ヶ崎ヒストリーパーク)でキャンプ場が整備。
2)701年大宝律令によって「北陸道松埼駅」(=佐渡の国津(公の港))」が定められた。
 a.駅路には、30里(16.5辧当時は1里=550m)ごとに駅家(うまや)が配置。松埼駅には、駅馬5疋・舟2隻が置かれた。なお、大路(山陽道)は20疋、中路(東海道・東山道等)は10疋、小路(北陸道)は5疋。(越後(寺泊)から最短距離・砂嘴(さし。砂が堆積し嘴(くちばし)形になったもの)で船底が平らな古代の船に便利)。認定駅は他に、雑太(真野(国府の地)・吉岡)と三川(赤泊・腰細)。当時の公道は、松ヶ崎から経塚山を経由して雑太へ。
 b.佐渡への渡津(駅)は寺泊、北陸道の終点は佐渡国府のあった雑太が通説。
【「古代北陸道越後佐渡路に関する諸問題」浅井勝利/著(以下、『諸問題』)によれは、
 ァ.越後・佐渡の駅の場所等について松埼の場合松ヶ崎であることは定説になっているが越後から佐渡への渡航駅は諸説があり(直江津近辺に比定され越後国府に一番近い水門駅、越後国北陸道終着点であり蒲原津の推定地である信濃川河口近辺、佐渡への最短距離としての分水寺泊近辺など)、確定してない。
  なお、『諸問題』の筆者自身、「雑多」の場所を「旧佐和田町」としている(例:下表)からはっきりわからない。
      越後と佐渡の駅一覧表
 国 名  駅 名 郡 名  郷 名  比定地
 越後国 滄海駅 頸城郡 沼川郷? 糸魚川市(旧青海町)青海
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
      渡戸駅 蒲原郡?〔多分、古志郡 :古代は広大な郡で、刈羽郡(柏崎)・三島郡(寺泊)を含んだ〕
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 佐渡国 松埼駅 羽茂郡  松前郷  佐渡市(旧畑野町)松ヶ崎
       三川駅  羽茂郡      ?     佐渡市(旧赤泊村・旧小木町)?
              雑太駅 雑太郡  雑太郷   佐渡市(旧佐和田町)
     (佐渡国府)雑太郡        佐渡市(旧真野町)
 ィ.松埼駅から国府へは陸路三川駅を通過して雑太駅というのが従来の大方の見解に対し「試案として三川駅を海岸沿いの港津とし、松埼から陸路を取らず海岸沿いに船で航行を続け、雑太駅を国府前浜=国府川河口〔真野の入江〕近辺とし、ここまで航路とするルートを提案したい」とある。確かに海の状況に影響されるが、越後から渡海した船を国府のある地まで人馬の経費を最小限に抑えて利用できるので合理性がある。
 なお、三川は海岸沿いにある。また、三川郷に属した莚場のバス停近くに江戸時代に建てられたと思われる「一里塚」の風化した石があった。(07年5月8日号「佐渡の風景11:莚場」)
 また、08年4月18日号「鬼太鼓1:三川まつりと腰細鬼太鼓」には次のように記述。
 「莚場の本竜寺は、1465年頃尾張から浄土真宗の門徒がここで道場を開いたことに始まる。一説によれば、目的は布教とともに西三川の金の採取による資金調達。その地域一帯は、その昔は三川郷と言われた。西暦700年代の奈良時代、松ヶ崎(松埼)、雑太と並んで公認の「三川駅」の名が記されている。その後「東三川」と「西三川」となり、さらに莚場・高野・腰細などの村に細かく区分された」
 ゥ.『諸問題』に問題提起・解釈の基となる史書が載っているので転載。
 『令義解』厩牧令 諸道置駅条
  凡諸道須置駅者、毎卅【30】里置一駅、若地勢阻険、及無水草処、随便安置、不限里数、其乗具及蓑笠等、
  各准所置馬数備之、
 『令義解』厩牧令 水駅条
  凡水駅不配馬処、量閑繁、駅別置船四隻以下、二隻以上、随船配丁、駅長准陸路置
 『延喜式』兵部省 諸国駅伝馬条
  北陸道
   (中略)
   越後国駅馬<滄海八疋、鶉石、名立、水門、佐味、三嶋、多太、大家各五疋、伊神二疋、渡戸船二
疋(ママ)、>伝馬<頸城、古志郡各八疋、>
  佐渡国駅馬<松埼、三川、雑太各五疋、通充伝馬、>
 『延喜式』主税上 諸国運漕功条
  北陸道
   (中略)
   越後国陸路<百五束、>海路<自蒲原津湊漕敦賀津船賃、石別二束六把、挾杪七十五束、水手五
束、但水手人別漕八石、自余准越前国、>佐渡国陸路<百八束、>海路<自国津漕敦賀津船賃、石
別一束四把、挾杪八十五束、水手五十束、自余准越前国、>
 『延喜式』主計上
  北陸道
  (中略)
  越後国<行程上四日、下十七日> 海路卅六日
  (中略)
  佐渡国<行程上四日、下十七日> 海路卅九日  
『袖中抄』巻19 、
 陽成天皇元慶四〔880〕年云 弘仁十三〔822〕年国分寺尼法光為救百姓済度之難、於越後国古志郡渡戸浜、建布施屋施懇(墾)田四十余町、渡船二隻令往還之人得其穏便、而年代積久無人労済、屋宇破損
田疇荒廃、望請被充越後国徭五人永令預守云々
 
3)松ヶ崎は古代から中世にかけ「公の津」として番所が置かれ、本州・越後(寺泊)を結ぶ交通の要所(租庸調など納税、官人等異動、文書・物資輸送)で、また流罪者が到着した地であった。例:722年穂積朝臣老、1221年順徳上皇、1271年日蓮、1434年世阿弥(細かくは大田の浦)。但し穂積朝臣老(後に赦免)は松ヶ崎との係わりは不明であるが松埼以外で罪人を受け入れるのは考えられず、在島18年の間に松ヶ崎に近い小佐度の山間に物部氏の先祖を祀る小祠(現、物部神社)を建立、順徳上皇は寺泊からの渡海は明らかとされるが、佐渡のどこに着いたかは不明。

 a.奈良・京都から佐渡へは、琵琶湖北西部の海津→敦賀(敦賀湾)→松ヶ崎、または琵琶湖西部の今津→小浜(若狭湾)→松ヶ崎のコースがあった。世阿弥の場合は、小浜からであった。
 b.日蓮(後に赦免)の場合は、鎌倉⇀三国峠→寺泊→松ヶ崎。
4)街中にあった「松埼駅跡」の案内板より
 「古代の駅は、地方と中央との緊急連絡を図るためのもので、大化の改新(645年)を経て、大宝律令(701年)により30里(古里・現在約16辧砲瓦箸鳳悗鮹屬事が定められました。佐渡国は、北陸道の末端につながり越後の渡戸(わたりべ:現在の寺泊付近)から佐渡の松埼駅(古名・現在松ヶ崎)・三川駅・雑太(さわた)駅の三駅が置かれ、また松埼駅には、駅馬5疋のほか舟2隻が置かれていました。
 佐渡の国津(こくしん:公の港)であった松埼駅からは、公の使者や貢納物が運ばれていました。これは本土との最短距離であるという航海上の利点がありました。さらに、潮流の影響により作られた砂嘴(さし)上で船底の平らな古代の船が岸につきやすいという地理的にも利便性が高かったためと考えられます。明治初期の頃まで番所が置かれ、海上交通の要所としてたいへんにぎわいました。
 現在、この付近は鴻ノ瀬と呼ばれ、「国府ノ瀬(こふのせ)」の当て字であるといい往時が偲ばれています。
 (注:「延喜式」によれば「松埼。三川。雑太各五疋。通充伝馬。」とある。)
  佐渡市教育委員会」 
屋号の里 松ヶ崎
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1)松ヶ崎の街に入ると家々の玄関先には木でこしらえた手作り木製表札・屋号看板が掲げられ、古民具が置かれているのが目立つ。さながら「街なか博物館」といった感じである。
 9年前松ヶ崎の祭の見物のため莚場の民宿で前泊して初めて訪れた時のことを次のように書いている。
「家の玄関先には、各種の祭り提灯が1〜2個吊るしてある。戸の上には各家によって様々な形の比較的大きな古風な感じのする木製看板があり、「○○屋」と屋号で大きく書かれている。どこにでもある標準的な表札は同じく付いている。非常に珍しく、貴重。お年寄りのためであろうか。昔は特に田舎においては、屋号で呼び合った。その事を今日でも大事にしている地域があるということである」(07年5月9日号「佐渡の祭13:松前まつり」)
a.屋号表札看板
 ァ.表札は自然の木の板を利用したもので、木の表面に縞の模様があったり穴があったり、形がいろいろ様々で個性的。芸術作品を思わせるようなものまである。
 ィ.表札は、「かねた」「市十郎」「源太郎」「久兵衛」「いち」「勘九郎」などの屋号が手書きの大きな字で書かれている。
 顱肪罎砲浪姐罎世韻任覆家紋・商標が併記されたものまである。
 髻鵬姐罎ら、昔の職業がある程度推察できる。「紺屋」という屋号は、昔は染め物屋であったに違いない。
 ゥ.屋号看板は「ユニークな町づくりをしよう!」という松夢会(地域活性化グループ)の働き掛けで2004年(平成16)から松ヶ崎地区全域を設置されたものでか各方面に大きな反響を呼んだ。とされる。
b.民具
 ァ.全ての家ではないが玄関やその脇に昔懐かしの民具が展示され、説明もある
 ィ.笊(ざる)や篭(がご)等の生活用具から蓑(みの)やセナコウジ(背中当て)の農作業用具、タモや舷灯
大きなガラス玉の浮きなど漁具等がある。
 ゥ.民具の展示は、街並み検討委員会の活動により2014年(平成26)7月から開始。
2)街中を歩いていると昔ながらの鍛冶屋さんが仕事をしていたのを見て驚いた。 
a.街に今なお鍛冶屋が存在ていること、しかも松ヶ崎。
 ァ.鍛冶屋について、
 顱忘艦妥弔砲話談蠶の名が今でも残っているが、今はやっている所は調べてもないが無いといってよい。
 髻9年前下久知の長安寺を訪れた際、田んぼの中に鉄工所があり、仕事しているのに驚いた。聞けば、スチールからステンレス、アルミまでの建築関連の品物を作り、自動車や農機具の修理もできる「何でも屋の村の鍛冶屋」と言っていたのが印象的(07年3月28日号「のろま人形(16):早春散策」)。但し、近代的装備で炉はなく昔の鍛冶屋の雰囲気とは違う。
 鵝法愡楊栄俗』に 夷・湊について「鍛冶細工も当所は勝れ、包丁を煙管管を張り、印を彫り、又は漁猟の釘鉄を仕出し・・・」とある。今はないが多分昭和20年代までは両津夷の福浦辺に鍛冶屋があり、小さい時その前を通った時よく眺めたものだ。 
  その時と同じような光景を目にした。
 ィ.年配の鍛冶屋さんは脇目も振らず仕事に集中。作業場の奥の壁に存じている会社(本社:新潟県見附市)のカレンダーがあり又驚いた。その会社は砥石が事業の原点で研削・研磨材は今日でも主要分野で、秋田と札幌に支店がある。
  なお、時刻も12時を回っており、鍛冶場と屋号表札の写真も撮り記事にはなるということで過ぎ去ったが、せっかく貴重な現場を見たのでダメ元でよいからと思いすぐ引き返し声を掛けた。タイミングよかったことに昼の休憩に入るため、火を消し道具類を整理し手を洗って寄ってきた。
 ゥ.私の質問には次のように答えた。
  顱肪談蟆阿郎甘呂砲蓮△海海靴残っていない。
 髻砲い弔ら続いているかは分からないが、今で7代目とのこと。(後継者はいないようだ)
 鵝棒宿覆蓮∈艦妥弔覆匹燃催される定期市に出す。また、お客からこれを作って欲しいというと注文が来る。
 堯冒扱撚饉匱勸が、定期的に営業に訪れる。(偶然であるが、明日担当が来ることになっているとのこと。参考まで、私の名刺を鍛冶屋さんと明日来る会社の担当者ということで2枚出した。手に油が付いているということで私から胸ポケットの中へそっと入れた。
3)「手仕事フォーラムブログ」佐渡最後の野鍛冶」サイト(2006.02.20 Monday)より
 「今回の佐渡手仕事調査最後の報告は佐渡市松ヶ崎の野鍛冶「重松」です。柳平さんの裂織グループで使う古布を裂く専門の刃物も最近ここで製作するようになったそうです。従来の鍛冶屋さんが廃業したからです。重松の刃物はちょっと豪快で使いこなすのに苦労してるとのことでした。
 なるほど、製品は野趣あるれるものです。写真は私が買い求めたものです。春になったらこの鉈〔なた〕と鎌を持って山に入りたいと思います。柄も「重松」製でシンプルで握りやすくバランスのいいものです。
 作業場の壁に佐渡野鍛冶組合料金表なるものが貼ってありました。昭和50年代まで使っていたようです。新品の部では山鉈3500円、木切り鎌2500円、菜包丁3000円、魚包丁3000円、ワカメ鎌4000円。修理の部ではマサカリ800円、斧500円となっていました。いかに地元の人々の暮らしに密着した仕事振りであったかが伺えます。
 「重松」は毎月のように島内各地の市(いち)で製品を販売しています。最近はあまり商売がよくないようです。ホームセンターにやられているのです。
 人々の暮らしに山と海の仕事があり、そこで使う道具は鍛冶さんとの対話から地域の実情にあったものが練り上げられていく。いったん買われた道具は修理され長年使われていく。作り手と使い手の共同作業でその地域独特の価値が築き上げられていく。そんな風景が今どんどん崩壊に向かっている厳しい状況を直視した今回の旅でした。」
F蓮宗 松崎山 本行寺〔ほんぎょうじ〕
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1)松ヶ崎から多田への一本道を歩いているとお寺があった。ここが、日蓮ゆかりの本行寺。
 a.案内板(抜粋)
   「 日蓮宗宗門史跡 日蓮聖人佐渡着岸の霊地 松ヶ崎山本行寺と周辺
 松ヶ崎山本行寺とその周辺は、日蓮聖人が佐渡の配流の途上、着岸された記念すべき地です。
  鎌倉で伝道活動をされていた日蓮聖人は、文永8年(1271)9月12日鎌倉幕府の手に捕らえられ、すぐさま佐渡へ配流の途につきました。護送の一団は、10月22日に寺泊に着き、その数日後に船出して佐渡の荒波を渡り、松ヶ崎に着岸しました。松ヶ崎の地に3日3晩留まったのち、背後の小佐渡山脈を越えて国仲の守護所に向かったと伝えられています」
 「松ヶ崎には、山裾を辿る旧道の脇に巨大な欅〔けやき〕の大樹がそびえています。日蓮聖人がその下で一夜を過ごされたと伝える「おけやき」です」
 「2年半にわたって在島された日蓮聖人はさらに深い思索を重ね、『開目抄』『観心本尊抄』を著し、『佐渡始顕大曼荼羅本尊』を揮毫され、法華経信仰をこの世に高く掲げられました。
 日蓮宗」
 b.山門は、緑色の字で「松崎山」と塗られた横長の扁額が掲げられ、左の柱は「日蓮聖人御着岸之霊跡」と墨書された縦長の板が取り付けられていた。
 c.釣鐘を安置している建物
 ァ.山門をくぐるり境内に入ると(前記)あき子氏からのメール写真で見た構築物があった。祠(ほこら)のような形で、高さは2mくらい。
 ィ.戦前まで使っていた釣鐘は戦争で国に供出、失った釣鐘を戦後松山にいる菊池九郎氏(17代喜兵衛)が寄進。だが、寺では既に釣鐘堂が古くなって使うことできず改築工事が必要だが、それには相当の資金を要す。確かに、釣鐘堂はあるが釣鐘はなかった。
 ゥ.寺として取りあえず時期が来るまで釣鐘を大切に保管するため 丈夫な祠を建てたということだろう。「祖父が生前に一生懸命寄付を重ねて造った念願の鐘です。音を聞くまでには、まだまだ道のりが長いと、ご住職が仰っておられました」
 外から見えるようガラス張りしてあるのは、有り難い。
い欅〔ケヤキ〕
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1)本行寺から松前神社、そして真言宗長松寺の前を通って行くと、「おけやき入口」の標柱があり小路に入ると老大木が見えた。
a.太い幹が途中で伐られ、その部分トタンのようなので被せられている。
b.長く伸びた太い枝が倒れないよう細い丸太で支えられている。
c.枝自体 表面の皮が次第に剥げ落ちような様相だが、上部は茎が生え出て若葉が茂っている。
2)「おけやき」のいわれ(「おけやき 平成復興事業記念之碑」)
 「おけやきは文永8年10月28日 この地に着岸された日蓮聖人が 氏神春日明神に導かれて夜を明かされた欅の木である その折 おけやきの所有者である老婆が3日3晩聖人に粥を供養した そのお礼にと聖人は自らの血で書かれた『血曼荼羅』と現在も受け継がれる『お鍋』を老婆に授けたと伝わる
 おけやきはこの老婆を先祖とする 当地『池田四五右衛門』家の所有として代々大切に護持されてきた 代替わりを経たと伝わるが樹令は不明である 昭和63年の環境庁(当時)による巨樹巨木林調査では 幹周5.1m 樹高20mと計測されている しかしこのころから樹勢の衰えを危惧されるようになった こうしたおけやきの回復を願って平成20年1月地元有志が『おけやきを守る会』を結成 おけやきの治療と周辺整備のために募金活動を興した これにご賛同いただいた松ヶ崎地区御在住ならびに御出身の方々を始めとして 全国各地の法華檀信徒様・御寺院様らの御篤志により1年余りという短期間でその目的を成就するに至った ここに御志納いただいた方々に謹んで感謝申し上げるとともに 日蓮上人御逗留依頼 おけやきを 御持丹精された多くの先人の労苦を偲び 日蓮聖人佐渡在島の第一歩を記した霊蹟として松ヶ崎地区自然遺産のシンボルとして構成に護り伝えていくことを誓うものである
          平成21年7月吉日 おけやきを守る会 」

 《参考:おけやき》
 樹高:21m、目通り幹囲:6.8m、推定樹齢:300年以上。
  なお、「松前神社のケヤキ」 も近距離に位置するが、通称の「おけやき」とは異なる。
  樹高:20m、目通り幹囲:5.1m、推定樹齢 200〜299年。
 (資料:環境庁「日本の巨樹・巨木林 甲信越・北陸版」)
 ◆慇醢奉行日記』より
  天保12(1841)年3月14日「・・・松ヶ崎村にいたり。・・・ここには昔、日蓮流罪の時はじめてここ〔松ヶ崎海岸〕に上り、槻(つき:ケヤキの古名〕のうろ〔ほら穴〕の内に三日三夜勤行ありしという。其槻 今にあり。古木はかれて、わか木あり。古木は村内の本行寺の宝蔵の内に納めある也。】

2.歴史スポット
々掌祐の松ヶ崎の記録
1)元禄7年(1694)検地帳では、田15町余・219石余、畑12町余、94石余。
2)松ヶ崎地区部落別戸数(『松ヶ崎編』)
           松ヶ崎 多田 河内 丸山       備 考
元禄 7年(1694):150 70 46 44 
文化13年(1816):141 76 47 43 「多田」文政2、「河内」同4、「丸山」江戸末
明治 2年(1869):145 80 48  43  「河内」明治9
大正10年(1921):121 83 46 45
昭和11年(1936):121113 48 45
 〃 30年(1955):123 111 48 46
 〃 56年(1981): 97 94 42 42
3)元禄7年・10年の検地の「御水帳」より 田畑の上位者と各村平均値
 喜兵衛(菊池))9反1畝5歩、善助(油石)7反13歩、杢兵衛(渡部)7反4歩、善三郎(本間庄左エ門)6反6畝29歩、徳左衛門(木下万吉)6反6畝28歩  
 村別平均:松ヶ崎1反4畝余歩、多田3反歩弱、河内5反7畝歩。丸山村は御水帳が保管されておらず不明。
4)宝暦6年(1756)頃『佐渡四民風俗』成立(佐渡奉行所地役人高田備寛/著)
 「松ヶ崎村は潮荒き港、其上出崎にて澗〔ま:小さな湾〕の処にも無之候へ共、船4、50艘斗〔ばか〕り掛り申候。依て〔よって〕此所浪荒き節は多田村にも船掛り仕〔つかまつり〕候。赤泊と違ひ左右の村方何れも難所を抱え相川への通路は後の大山を越候て小倉村へ掛り候故、雪中は容易に難越候。村柄風俗は赤泊より又人心宜〔よろしき〕方に御座候。此辺松前へ稼〔かせぎ〕に参り候もの多く、秋頃帰国の節は松前物数品売買致し候、此所人心宜しき儀相考候処、・・・」
 【現在でも鴻ノ巣鼻は、潮流が激しく海水浴には危険なためであろうキャンプ場でありながら海水浴場になっておらず、松ヶ崎海水浴場は多田に近いところにある】
 「海猟も有之其外別て〔わけて:とりわけ〕仕出し候産物も無之候へ共、他国船往来の節商物の品積出し、渡世仕候儀は外入津の場所同様に御座候」
5)宝暦年代(1751〜63)『佐州巡村記』:(注)『佐渡叢書第10巻』の解題に『佐州巡村記』は宝暦期の事柄と推定されるとあり。
 「松ヶ崎村 家数152軒・人数681人
 一、高319石1斗1合  此反別29町7反6畝14歩 内
  田高221石7斗3升合 此反別15町5畝10歩〔1軒当り0.99反〕
  畑高98石4斗7升   此反別14町7反1畝4歩〔 〃  0.97反〕
  取米109石3斗1升6合 内:田93石8斗4升9合・畑15石4斗6升7合
   百姓林 63ヶ所
  松前大明神 文永6己巳年社再興棟札アリ
  薬師堂
  法華宗本行寺 文永8年辛卯年開基 此寺ニ日蓮御槻ト云アリ
  真言宗長松寺 松前坊
 一、番所壱ヶ所有 当時勤役 松田平左衛門〔他2名は略〕
 一、湊船5,60艘程掛り東風悪シ
 一、郷蔵アリ 岩首村組合
 一、御年貢米ハ海上5里相廻大石御蔵納
 一、用水ハ多田川松ヶ崎川の水を引 」
6)宝暦10年 (1760)の廻船持ちと船の大きさ(奉行所宛ての申告書)14人・17艘
 藤左衛門372石、吉右衛門358石、茂右衛門346石、太次兵衛316石、久左衛門254石、・・・・長蔵43石、主助36石 計14人(複数持ち主3人)・17艘。
 a.藤左衛門は菊池井戸端本家のことで、菊池喜兵衛とのつながりは見当たらない。
 b.吉右衛門は本間吉右衛門で、宝暦3年(1753)北海道江差に幸吉丸(5人乗り)が入港(江差の問屋「関川家文書」)。
 c。久左衛門はもと後山の住人で254石の廻船を所持したのは1760年。宝暦前の20年くらいの間にかなりの屋敷や田畑を買い集めており、資産はできていた(後山の伊東家に当時の文章が残っている)。
  また、文化2年(1805)に始まる松前神社の祭礼記録は、何代目かの久左衛門が中心人物であったことを伝える。同社の記録でも明和8年(1771)真鍮〔しんちゅう〕の菱形提灯を、天明8年(1788)奥院の銅瓦を寄進、文政5年(1822)は島内第一の石の大鳥居の施主になっている【後記 10)『川路奉行日記』に連動】。なお、「文政2年(1819)の廻船持ちの調べで明治以降でも久左衛門の名は消えている」
7)天保5年(1834)「天保郷帳」では、村高319石余。
8)天保9年(1838)の「村書上帳」では、漁船58艘・廻船8艘。
9)天保12年(1841)「巡村記」では、家数164・人数834、高319石余、田15町余・畑14町余。  
10) 同 『川路奉行日記』
  「五時に水津を出て・・・強清水(こわしみず)にて昼休・・・松ヶ崎村に至りて止宿」「きょうは水津よりここまで、門前より船に乗るがごとき所なり。松ヶ崎は2丁計(ばかり)歩行せり〔1丁=1町=60間(1間=6尺≒1.818m×60)≒109m〕」「此松ヶ崎は、年々に潮陸へうちあげて、御番所もいにしえとは場所かわれり。年々に変地いあす也」「松ヶ崎は300石の村なれ共人別800人余ありて富める村なり」。春日社銅瓦にて、石の鳥居にからかねの額をかけたり。民潤(うる)おわでは、村持(むらもち)の小社をかくはせじ。よき村なり
菊池喜兵衛
A『四民風俗』
 「菊池喜兵衛と申有徳の者住居罷在り、廻船数十艘所持し家作等美々敷修補、其身任有徳多芸の人物にて、其上貧者を救ひ悪敷風俗を誡め候事故、自ら一郷直路に相成候由及承候。尤右菊池没落以後数十年を歴申候へ共、風儀は残居候哉と奉存候」
B『松ヶ崎編』
1)「喜兵衛についての資料には、2代目以後のものがほとんどで、初代喜兵衛についてはかなり伝説的な部分が多い」
 a.伝承では、佐渡から松前(北海道)へ荒物を運んだ最初の船は、松ヶ崎の菊池喜兵衛のものであったとされているが、喜兵衛船が松前に往復していた確証はない。「比較的たしかなのは、本行寺の回向帳(えこうちょう)に、元和元年(1615)12月13日に没した本行院日営居士が、当山開基大旦那ナリとしてあること」「さらに菊池嘉右衛門元祖也と付記である」
 b.喜兵衛は、前浜の廻船業者として立島〔元水津村〕に菊池太郎左衛門がいて、喜兵衛は手代をしていた。立島の菊池一族は久知(旧河崎村)方面からの移住者であったと伝えられ、「対岸の本土仕入れ品を夷方面に運んでいたものらしい。手代の喜兵衛は独立したのち、前述のような松前往きや越後米の仕入れ、大阪廻米などの遠出をするほか小木岬をまわって真野湾を沢根港まで地廻りをしてので、これなども太郎左衛門家の商法を踏襲したといってさしつかえない」「立島部落の段丘上にならぶ太郎左衛門家の墓地をみると、その豪華さと数の多いのに驚かされる」
  立島の菊池太郎左衛門家の系図書きより:
 「松ヶ崎村菊池家ハ、同村木下喜兵衛(弥吉)ト申ス者、荒物商ニテ屡々〔しばしば〕当家ヲ宿トシ、折柄其□荒物ヨリ他二型ハナキヤト尋ネラレシニ、全ハ海岸業トシテハ小廻□モ資ノ薄弱ナルヲ歎キ、然ラバ多少助力致スベシトテ、夫ヨリ船ヲ仕立テ、然ル二ハ自分名前ハ他ヘ通ゼズ、貴家ノ苗字名刺ヲセ度ト言ハレ、其後仕合船玉6、7艘ニ増加、時ニ奉行ヨリ用金ノ沙汰アリ、応分ノ尽力セシヨリ夫□役人ト情厚ク、為ニ其□何ニ上ニ望ハナキヤト尋ネシニ、然ラバ別ノ望モ無之モ、松ヶ崎ニ限り白籏御免アリタシ。其頃ハ貢米船ハ白籏押出テ何国ノ港ニアリトモ権力ヲ有シ、他ノ碇泊船ハ錨〔いかり〕路ヲ開キ安全ナラシム・・・」
2)2代目喜兵衛
は、本行寺建立。妻は相川の奉行所役人辻家の娘
3)3代目直樹の代が、喜兵衛家の全盛とされる。妻は相川役人桑山家の娘。
 a.系図より
 「廻船数艘有之、依テ年々春初出船、当国御城米無賃ニテ大阪表江積登リ或時松前表米穀高値餓死人モ有之ノ時米穀積下リ救之外売船為直売船沖ニ掛リテ菊池船直ニ水上シテ松前諸人救是等之義達 上聞為御褒美船印ニ籏御免許ヲ請諸国津々浦々菊池イロハ船ト称算〔賛〕ス」
 b.3代目の弟たちは3人が独立して治右衛門家与右衛門家・文右兵衛家をたて一人が出家、妹は相川の地役人に嫁ぎ寛文8年〔1668〕に亡くなったとき菊池家から形見金として金50両が遣わされている。
4)4代目直次の時代も廻船業は好調。貞享2年〔1685〕本行寺を再建
5)5代目の重章は、本行寺の梵鐘を寄付した記録あり。
6)6代目康重の享保9年(1724)の時、廻船業不調で破綻し菊池家没落。
 「父康重代廻船不廻り見分多□ニ手代共不宜格別見分有大坂江ノ子嶋船問屋薩摩屋市右衛門方大借財出来
利銀等ニ過分罹取続之処亦腰細村い隠居いたし同村・・・と申す後家に万事世話為致。此者大悪人にて種々難題ヲ申徳和腰細両村田畑山林横領いたし其上多分田畑作り取亦雑用金等年々貧委テ迷惑いたし候・・・亦大坂江ノ子嶋薩摩屋依り当国御奉行所江金銀差引出入等仕掛かれ終身上大半失ひ候・・・。
 一、亦3代目遺命トシテ一門中仕分之規矩〔きく:規則〕アリ。嘉右衛門・治右衛門与右衛門・吉兵衛右4人へ仕分船1艘金子添又者〔または〕田地に添候義も有之是ハ別紙委細記候へとも御公銭拝借大坂借用等□中故左様申し候
 一、寿学妻おきなへ赤玉田畑山林屋敷共譲り外ニ金子200両譲り候訳別紙之候正徳5年〔1715〕 
  以下略」
7)存続している喜兵衛家の一族
 a.島内
  菊池九十郎家(新穂))、菊池惣吉家(北松ヶ崎)、長嶋平兵衛家(矢馳)、伊藤家(椎泊)、寿安家(沢根)
 b.島外
 ァ.「喜兵衛家の中心的な一族である3家はみな島を離れている。けれども本行寺におさめられた先祖の仏の供養にはひんぱんに松ヶ崎を訪れて、墓地の管理などを怠らない」
 ィ.3家の移住先
  顱房安家は、愛媛県松山市
  髻鵬撤Ρ厂膕箸蓮∨務て仕賄膸拂の森町
  鵝房1Ρ厂膕箸蓮函館市
C『赤泊村史・上』
1)初代喜兵衛が廻船商人として活躍」したのは慶長から元和年間。「相川鉱山の開発にともない米や塩をはじめ鉱山資材の移入に活躍して一代で莫大な産をなした」
2)「代々喜兵衛を名乗って、元禄のころまで全盛を誇り、廻船でもうけた金で近隣の田畑を買い集めた」 特に、徳和では田畑屋敷合わせて6町8反。「貞享〔1684〜1688〕から元禄〔1688〜1704〕にかけ最も多く土地を集積」
       喜兵衛が赤泊地域で買った村別土地面積
     (徳和以外は元禄検地帳、徳和はその後の資料も含めた)
        田       畑      屋 敷      合 計
     町・反・畝・歩 町・反・畝・歩 町・反・畝・歩 町・反・畝・歩
徳 和: 5・3・9・07  1・3・1・15   1・1・24  6・8・2・16
腰 細:   8・4・13     0        0       8・4・13
外 山:   4・2・28    2・2・28     3・18    6・8・28
上川茂:   5・7・16     0         0       5・7・16
山 田: 2・2・6・24     5・5・18          1・16   2・8・3・28
莚 場:   6・0・29     0         0      6・0・29 
合 計: 10・1・1・11  2・1・0・01    1・6・28    12・3・8・10
 【松ケ崎村全体の耕地面積(1750〜60年代)が田15.5町・畑4.7町(前述)であるから、他村で当村の田の65%、畑の45%に匹敵する面積を喜兵衛家で所有していたことになる】 
3)「(徳和の旧家たちが)豪商の財力の前に伝来の土地を手放すのは、金の必要な世の中がきていることを示している」「(「舟の木」という一帯を)買いとった喜兵衛は、かねてじっこんの杉野浦村長三郎を地守として管理させた。そして享保9年(1724)、没落した喜兵衛はこのあたり一帯を代金60両で長三郎に譲り渡している」  
松前稼ぎ
 (『松前編』、『赤泊村史』上・下、9年11月9日号「係わりの地44:小樽祝津・ニシン御殿」)
1)「松前稼ぎ」は江戸期からの佐渡用語で、「松前」に限定することなく 広く北海道で収益を得ることをいい、原点はニシン漁場向け佐渡産品を基軸としたビジネス。
 その盛んな様子は、1765年成立の『佐渡四民風俗』に載っている。
 松ケ崎村の項には、「この辺松前へ稼ぎに参り候もの多く、秋頃帰国の節は松前物数売買致し候」とあり、赤泊村の項には、「男は年々松前え稼ぎに参り候者もこれあり、秋頃は近郷の者も松前より帰り候に付き、昆布、鯡、鮭、数の子等の類売買仕り候」とある。
     参考:ニシン(鰊、鯡)漁の始まり・漁網の発展
  (資料:「北海道におけるニシン漁史」(「海洋文化交流のブログ」サイト)
 1.蝦夷地において早くから豊かな水産資源を求め和人が進出。記録では、文安4年(1447)陸奥国の馬之助が松前郡白符でニシン漁を行った
 2.延宝元年(1673)、越後国の者が麻で編んだ刺し網を松前藩内に持ち込んで商売を始めた。宝永年間(1710)には大型の網の使用が広まり始めた。
 3.1700年以降本州において綿花・藍・菜種・ミカンなど商品作物の栽培が広まり、肥料としての栄養効果と時間効率が高い金肥が求められていた。〔対するものは自給肥料:(厩肥(きゅうひ)・糞尿・刈敷〔草木の茎や葉を刈って田畑の地中に敷き込み堆肥としたもの〕・草木灰など〕干鰯の高騰とともに、鰊粕〔ニシンかす〕が注目され、食用より産業用としてニシンの需要が増大、ニシン漁が一段と盛んになった。
 4.天明3年(1783)江差を訪れた紀行家・平秩東作の『東遊記』によれば、江差の町は諸国からの出稼ぎ漁師やニシン製品の売買で喧騒を極め、一般の出稼ぎ者でも数ヶ月の働きで12、13貫、目端の利く者は30、40両を稼ぎ上げていた。  
 ァ.刺し網⇀
笊網(1漁期に30石程度の漁獲高が180石に)行平網(操業時に騒音を発する笊網の欠点解消)角網(明治中頃導入後瞬く間に普及。明治32年(1899年)全道建網利権数約6千統のうち4千統以上が角網)。
 ィ.捕獲したニシンを保存性を保ちつつ確実に陸上に運搬するための網の改良:袋網の開発⇀枠網の開発→枠舟(ニシンが250-300石 (200t) 入る枠網を取り付けた運搬船)の開発
 (参考は以上)
2)松前への出稼ぎ者
 a.佐渡奉行所は、金山経営に影響(人手不足、賃金高騰、資材不足、物価上昇等)がでないよう旅に出る人の人数制限(出判(いではん)制度:役人・神官・僧侶・船乗り・商人・治療に行く人は除く)と佐渡産品の他国出し規制を行ったが、松前への出稼ぎ者にも制限を設けた。
 ァ.1713年(正徳3)は、村高100石につき1人とし、年間759人(町方51人・在方435人・松前行きの者273人)であった。(09年3月3日号「歴史スポット49:江戸期佐渡の対外交易」
 1729年(享保14)佐渡150か村がが奉行へ訴状
 「地米・草履・草鞋・葛籠・莚など百姓手仕事の品や雑穀、木の実の類などの他国出しを許可して下さい。これらの品は、他国出し禁止でしたが、今他国出しをお願いするのは以前は相川鉱山が繁盛していたので、これらの品や、野菜その他の何でも相川へ持って行けば売れその代価で年貢の銀納も心安くできていましたが、近年は鉱山も不況で、なわけにはいかなくなり迷惑していますので、こちらの品の他国出しを認めて下さい」 (『赤泊村史』)
 ィ.1819年(文政2)の割り当て(『松ヶ崎編』)
   加茂郡:岩首・北方・下新穂・夷・湊 5カ村計25人〔1村平均5・0人〕
   雑太郡:新町・四日町・沢根・竹田・八幡・畑方・畑本郷・目黒町・河原田諏訪町・同本町・戸中ほか
20ヵ村計67人〔1村平均3.4人〕
   羽茂郡:松ヶ崎49、多田30、赤泊20、徳和18、真浦10、以下10人未満19ヶ村 24ヶ村計196人〔1村平均8.2人〕
   合計:49ヶ村 288人
 【1819年の松前への出稼ぎ者は、佐渡では松ヶ崎の49人が一番多く全体の17.0%を占め、次いで多田が30人で10.4%。
  なお、『松ヶ崎編』に、1803年(享和3)の『村中人数書上』(『松前夜話』)には「当時松ヶ崎村の総人数725人のうち、老人・子どもを除くと259人が稼動人口であった。そして、そのうち廻船の乗組員と松前稼ぎを合わせると157人を数えた。これは全体の61%にあたる数で、この村は松前稼ぎで生活していたことがよくわかる」とあるが、正しくは「女性・老人・子どもを除く259人が稼動人口 うち60.6%が松前稼ぎと関係した」であろう】
 b.1819年(文政2)「商人・廻船・諸職人名前書上帳」という松ケ崎の区文書に96人中で「松前稼ぎ」は次の49人。なお、(  )内は別の称、実数は2人超過とある。
  半兵衛・伝七・勘十郎倅〔せがれ:又は〕長吉・吉四郎・茂兵衛・治右衛門・弥十郎・藤十郎・覚右衛門(丁字屋)・新蔵倅新八・吉右衛門(浜ノ内)・吉六倅吉之助・弥藤左衛門(弥藤八)・宗右衛門倅・宗右衛門・与三郎・藤三郎(井戸端本家)・藤三郎倅・善兵衛(秦)・甚右衛門弟市之助・伝九郎弟留之助・太次右衛門・善兵衛倅善吉・太左衛門・太左衛門弟太助・三四郎・源太郎・長左衛門・三四郎倅玉三郎・主四郎倅徳蔵・同弟長吉・清吉・清右衛門・弥兵衛・伝九郎・喜十郎弟栄吉・重助倅菊蔵・惣吉・仁左衛門弟彦太郎・権七倅重五郎・庄右衛門倅善蔵‣権造蔵・太郎右衛門・新兵衛倅幸吉・兵吉・清蔵弟竹三郎・亀次郎・覚兵衛・善五郎弟専次郎・嘉右衛門。
 c.1871年(明治5)松ケ崎村松前稼ぎ49人の名簿:(   )内は年齢と在れば屋号。年齢無記入あり。
  勝谷栄太郎(31ふるや)・中楯新吉(41甲州屋)・同長男恒吉(23)・同次男儀平(20)・修理文治郎(16)・同新次郎長男徳太郎(36)・渡部太平治(44)・石塚権七(27)・同金蔵(29)・青木弥藤八(46)・木島七郎(35)・木下勘七〔年齢無記入〕・青木順五郎(22権兵衛)・青木惣三郎(29惣平)・木島豊治(20カネト)・青木長三郎(36記号アリ)・青木庄三郎(44庄右衛門)・同庄藏(23)・菊池太一郎(33)・勝谷茂三郎(53)・同長男仲四郎(24)・同次男奥蔵(16)・宮本忠治郎(60浦ノ川内甚吉)・同長男仁三郎(25〃)・渡部竹五郎(17記号アリ)・渡部覚十郎(50別の記号アリ)・渡部覚十郎(50ヤマジュウ)・同長男仲四郎(24)・坂野伝十郎(25)・渡部太治郎(51太治右衛門)・同長男栄吉(33〃)・同次男栄太郎(31〃)・渡部源治郎(38源右衛門)・渡部藤吉(37)・菊池治平(21治右衛門)・同養子寅蔵(18)・本間平太郎(27平兵衛)・竹本半蔵(27)・榎与六40)・青木鹿次(15萬右衛門)・甚五郎次男青木文四郎(21甚五郎)・勝谷千代松(23清五郎)・福田新蔵(34)・定吉(17)・秦善平(44)・同長男馬吉(20)・渡部三十郎(30)・渡部伝七(48)・渡部太五郎(32)・千代松(22権太郎)・青木宮治郎(49)・同長男延吉〔年齢無記入〕 

   1871年(松ケ崎村)松前稼ぎ年齢別人員
        10代 20代 30代 40代 50代 60代 合計
人員(人):   6  19  12   8   4   1   50
構成(%):  12.0 38.0 24.0 16.0  8.0  2.0 100.0

 【上記abcからの着眼
 (1)松ヶ崎での松前稼ぎを行う男子の割合(試算)
  江戸・明治の1800年代の松ヶ崎村からの松前稼ぎは50人前後いたことから、50/240(=800(平均人口)×50%(男性比率)×60%(生産人口比率)≒20%として、松ケ崎では男5人に1人が松前稼ぎに出たと推測。
 (2)年齢分析

 〆杷少15歳、最高齢60歳。

 年齢層は20代が最も多く全体の38%、30代と合わせると62%。

  a.これは、松前稼ぎが体力を非常に要す商いであることを示している。 
  50歳代では急減。人生50年の時代、50になれば家業を跡継ぎ=倅(長男)に任せ隠居するのが常識の年代。一方、子は15歳で成人。商家の伜は奉公に出される。農家では、農閑期は内職か出稼ぎ。
  b.『赤泊史』に、次の事が記されている。
  ァ.「松前稼ぎで成功した赤泊の田辺九郎平は晩年、商品を背負って売り歩いたためにできた背中のコブを見せ、その苦労を語ったといい、嘉永6(1853)年、松ヶ崎・多田・腰細・徳和・赤泊の松前稼ぎ商人は、海を渡り、雪中200里を売り歩く厳しさを切々と訴えている」
 (田辺九郎平について06年9月18日号佐渡の風景6;赤泊」に記述)
 【「雪中200里を売り歩く」は、「この辺松前へ稼ぎに参り候もの多く秋頃帰国」「秋頃は近郷の者も松前より帰り候」「多くは冬期間は松ヶ崎に帰っており、その時期に島内各地から荒物を仕入れた」と矛盾する。矛盾しないのは、松前に店(荒物店とは限らない)を常設している佐渡商人の場合である】
  ィ.「蝦夷地松前(北海道)への出稼ぎというと、・・・鰊場でのヤン衆つまり漁夫であるが、赤泊をはじめ佐度の松前稼ぎで多かったのは、佐渡産物の販売=商人であった」
 【半農半漁の村(圧倒的多くは百姓)の中で北海道を対象とした商人が松ヶ崎村に50人、赤泊村に20人もいるはずはない。商売は、単なる労務提供と違って確実に収入が得られるものでなく、元手・資金が必要で損する可能性も高い。いずれにせよ根拠が必要。
 同書には「徳和村松前稼ぎ人耕地所有状況」表を作成され、結論は次のとおり。
  「田畑所持のようすをみると、その半数は元禄検地以前に成立した家であり、田畑が少なく、農業だけでは暮らしが立たない家に多いようである。松前稼ぎはもともと平地が少なく耕地条件の悪い赤泊地域の村々にとって、重要な生活手段であった」。要は、売るべき商品を所持している商人でなく、労力しか売るものを持たない労務者の感が強い。これは、言っていることと実際のデータとは違うことを自ら暴露。】

 (3)属性分析(サンプル数はわずかでしかない)

  々掌邑經(1819年資料)は、
  1)単身だけでなく複数(身内関係)も見られる。その場合本人と伜〔せがれ〕で(中に次男も含めたケースあり)、長男をさしおいて次男というのは無い。

  2)単身では、当人以外では倅か弟で倅12人に対し弟8人で 6対4の割合。

  ¬声(1871年資料)では49人、
  1)単身ではたまたまであろうが、弟が見えず子か養子の直系。
  2)屋号のある者(「同長男」等も計上)19人中 「ふるや」「甲州屋」」の屋号又は記号のある者を商人とすると商人は6軒9人。残りは農民40人。当然ながら圧倒的に農民が多い。
 (4)前掲1871年(明治5)松前稼ぎ人名簿の中に、当然ながら「松前稼ぎで名を成した松ヶ崎の商人」(後述)の名が見える。
   木島豊治(20カネト)、青木順五郎(22権兵衛)、修理文治郎(16)・同新次郎長男徳太郎(36)〔この場合、修理新次郎でないが長男と孫 】

3)松前向け商品

a.データ
 ァ.1860年(万延元)江差に移出された佐渡産物
(「万延元年佐渡荷所御口取立調帳」江差関川家文書)

  網羽(端)縄〔あばなわ〕、草履〔ぞうり〕、草鞋〔わらじ〕、小草網、大草網、馬沓〔うまぐつ〕、弐斗叺〔かます:穀物・塩・石炭など2斗入る藁(わら)筵(むしろ)の袋〕、碇〔いかり〕縄、蓙〔ござ〕、串柿、柿渋、升栗、戸棚、仏壇、掛硯、平硯箱、問屋硯箱、文庫、銭箱、米櫃〔こめびつ〕、小間物箱、箪〔たんす〕、茶箪笥、重箪笥、大折板、屏風、唐紙、松臼、松杭、けら、下駄・足駄、杉箸、半戸棚、障子、切竹、のし竹、片荷籠、茶椀籠、輪竹、竹ノ子笠、かや苫、毛苫、石磨(臼)、石地蔵、石塔。

 〔なお、1751年の佐渡産物の他国出し解禁で許可になった藁製品は、次のとおり。
  藁細工、筵〔むしろ〕、草履、草鞋。

  (09年3月3日号「歴史スポット49:江戸期佐渡の対外交易」・『赤泊村史』〕

 【着眼

 ‘賣燹 草鞋 ・馬沓・ 叺・筵・茣蓙など藁〔わら〕製品(稲作の副産物としての藁が素材)や切竹、のし竹、片荷籠、茶椀籠、輪竹、竹ノ子笠などの竹製品は、当時寒冷地の北海道では稲や竹が出来ず、一方佐渡は海に囲まれ対馬暖流が北上しているから日本海側として温暖で、稲作や竹の生育に適し(竹は越後に移出)、漁業も盛んで漁具(縄・網・竹道具)の改良には余念がない。

 ∨椽F睥ι瑤両豺隋⊂樵阿忙妻を運ぶには保存性のあるものに加工し(塩漬け、乾燥、燻製等)、且つ港まで長い距離と時間(港での北前船入港の待機を含む)と費用を要したが、佐渡の場合小木が北前船の公認寄港地で、いくつかの漁村には番所や船問屋(=宿屋)有るとことで北前船は頻繁に立ち寄ることが多く、佐渡物産品の松前への運送には非常に便利で、その点対岸の越後の港に比べ澗(小さな湾)が多く船待ちを含む港の機能として優位性が高い】

 ィ.明治43年(1910)赤泊村副業成績 

  《品目》   生産価額(円)   販売先         備考

   縄     12,575      北海道       仲買人・組合で販売

   木炭     4,726    寺泊町・小木町   同上。鉋台も同じ

   鉋台       183    寺泊町・新潟町   鉋(カンナ)の台

   歯木       540      同上        仲買人・組合で販売

   鍬柄       210     島内各地      島内市場へ持出し販売

 顱棒崘餽舛ら積み出された品目は、縄が圧倒的に多い。それもニシン漁用の藁縄が大部分。

  縄の内訳:12,575円=あば縄10,205+小引縄1,800+双枠縄57

 髻棒崘颪蓮∨務て擦離縫轡鷯譴濃箸μ崔次覆△弌貌譟⊂引(海鼠・ナマコ)縄、双枠(ふたかせ)縄の三ツ子縄生産で知られていた。

 鵝頬務て擦離縫轡鵝Εぅ錺卦の地引網は、最初綿糸製であったが重いため、軽いミコ(実子)縄製に改められた。ミコ縄は、2本子〜6本子位まであり、一番手頃は3本子で1把の値段は、21銭5厘くらいした。このミコ縄は、商人の手で北海道のニシン場に送られ、ニシン漁の垣網〔定置網で魚群を本網などに導くため、水中に垣のように張る網〕に使われた。
b.佐渡では早くから」手綯(な)い網が生産され北海道漁場へ移出。

 ァ.手ない網は、藁の打ち方が柔軟、よりが堅く、色が黄色で、他の地方で作った製品に比べて耐用期間が長く、黄色の光沢を持っているため魚の目をくらませ漁獲高が増すということで大好評を博して、年々増加した。

 ィ.製縄機が発明されほとんどが機械縄となってからも、品質本位に生産を改善したので、永く北海道市場を維持できた
   (08年1月26日号「歴史スポット32:自給自足(8)藁仕事」)

4)松前向け製品作りの担い手;子どもからお年寄りまで

 事例1:大正時代まで縄ないは、すべて手作業。朝暗いうちから子ども総動員で藁仕事。杵や横槌で藁を叩き、綯(な)って細い縄を作りそれを合わせ子綯(な)いをして三ツ子にした。縄ないを休むのは、正月元旦くらいなもの。徳和の古老の話では、「1日に家族で2丸の三ツ子縄をのうた。一冬で100丸くらいになった。これだけのうには、時によっては朝の2時頃からやらなければできなかった」  
 事例2:子どもは、学校の資金ということで休みが終わった時にミコ縄を3把ずつ持って学校に納めた。学校では、まとめて商人に売ってお金にした。なお、ミコ(実子)縄買いの荒物商人は当時大勢いて、集落を廻り廻りして1日おき位に廻ってきた(新穂地区)。
 (08年1月28日号歴史スポット32:自給自足(8)藁仕事」)

 事例3:赤泊では、特に北海道の漁場向けのアバ縄、ミツコ縄、フタカセ縄などの縄ないが盛んであった。大正元年生まれの莚場の野井さんによると、昔は正月も二日ともなれば、朝3時頃にはあちこちの家からワラをたたく横づちの音が聞こえた。
  (06年9月17日号「佐渡の祭り4:莚場まつり(赤泊)」)
 事例4:佐渡産品の他国出しは「宝暦元年許可したものの、幕末に至るまで・・・他国出禁止・解除をくり返し、松前稼ぎ人や農民の不信を招いた。徳和・赤泊両村では、農閑期松前向けの木工品、網端縄を作り松前行き商人に売り込んで、その代銭の前借で生活を支え、諸上納に当たっている状態であるのに、突然それらの品の他国出しが差し止められ、前借もできず、暮らしや諸上納にも差支えが出て困っているので、以前のように他国出しを認めてほしいと訴えている(松ヶ崎・青木家文書)。

5)松前稼ぎの実際(『松ヶ崎編』、『赤泊村史』)
 「天明4(1748)年、江差に来遊した江戸の・・・立松東作は 佐渡・越後から見知りの者を頼って来て借家し、3ヶ月ほどの間に油断なく働く者で30〜40両を稼いで帰国すると記し(『東遊記』)、江差役所規則には、越佐商人は年々夏中、3人から5、6人が組んで店借りし、商売をすることが書かれている」

 a.松前への出稼ぎというと鰊場での3〜5月の主に東北地方からの季節労働者ヤン衆であるが、「赤泊をはじめ佐度の松前稼ぎで多かったのは、佐渡産物の販売=商人であった」(『赤泊村史』)。

 b.各自が都合のよい廻船を頼み荷物(多くは冬期間島内各地から仕入れた荒物など)と共に蝦夷地まで運んでもらう。
 ァ.運賃は、「松前行運賃肩銭争論済口証文」(天保14(1843)年:荒町・喜惣兵衛家文書)によると荷物1駄500文、人は800文。なお、赤泊の武部喜八郎のように廻船持ちで蝦夷に店を持っている場合もあったが、店借りが大半。
 ィ.現地では佐渡からの出稼ぎ者を佐渡衆(さどしゅう)、店を佐渡店(さどみせ)と呼んだ。越後の場合は、越後衆・越後店。

、c.持ちこんだ商品は、現地の問屋商人に一手に売り渡すのではなく、借り店舗での商いのほか、南蛮(なんば)売りといって漁場(そこでの廻船を含む)などを回って行商した。「資本を持たない村の農民にとって、南蛮売りと呼ぶ行商が、松前稼ぎの基本であった」 

 このときは主に鰊粕・昆布等松前物(蝦夷地産物)と物々交換し、入港して来た他国の廻船へ持って行って米・織物等と替え、今度はこうした品物を松前物と交換し、滞在中これをくり返し、手持ち商品・銭金の資産を増やした。
 e.秋になると、湊入役一人 砂金1匁7分と1匁判銭100文を松前藩役所に納め(「江差沖ノ口御定」)、再び廻船に便乗して帰郷。
 f.帰郷後は、昆布・鰊粕・鮭・数の子等松前物を売買。
    参考:莚場の松前物値段(莚場区有文書)
 文政2(1819)年の物価値下げ令を受け、筵場村の「江差行惣代」が、昆布や鰊の佐渡での売り値を奉行所に報告した価格(単位:文)。
筵場の松前稼ぎ商人の江差での購入価格→佐渡での従来価格→(   )は値下価格。

 昆布1駄:130〜180→235〜280→(192〜248)

 肥料ニシン10貫目:750〜900→1000〜1150→(900〜1030)

 身欠ニシン100本:90〜115→160〜190→(140〜170)

 g.佐渡店売り(小売)で稼ぎ、南蛮売り(行商:漁村や入港した他国の廻船)で稼ぎ、佐渡店売り→南蛮売りの繰り返しで稼ぎ、帰国でも稼ぐ。他に無い優れた佐渡産品をベースに蝦夷地産とコラボしながら一定期間継続的な稼ぎを重ねる。
 【以上が、松前稼ぎというビジネスモデル。松前稼ぎに人数制限を設けたことも成功要因】
 h. 一方、「嘉永6(1853)年松ヶ崎・多田・腰細・徳和・赤泊の松前稼ぎ商人は・・・小木町商人が松前向け荒物類を買占め、松前表の値段を無視して、勝手に小木港で他国の廻船などへ売渡ししているので、これを差し留めてほしいと奉行所へ訴え」、また相川の有力商人が、杉野浦・新保村で村重立〔おもだち:有力者〕と結び、前金を渡して小前百姓が作った網端縄を独占購入する例、松前表でも江差問屋の仕込制度(商人がニシン漁の就業資金や漁具・資材・生活費などを漁家に前貸し、商人が獲れたニシンの売上金から前貸金を決済)が確立するなど荒物の南蛮売りは利益が上がらなくなっていった。また、天保9年以降、和人居住地以外の奥地への移住が徐々に許されるようになると、漁業用品より呉服や食料品などの需要が増し、南蛮売り=行商の仕入れ商品も変わらざるを得なくなった。「こうして松前稼ぎは故郷佐渡の商品仕入れから離れていく。幕末期は松前稼ぎが出稼ぎから離村、移住への転換期であった」
 【上記「松前稼ぎは故郷佐渡の商品仕入れから離れていく」とあるが、「1906年〔明治39〕と1940年〔昭和15〕比較で縄類生産は、1925年〔大正15〕をピークに減じているが、数量が倍増金額は150万円で8.5倍であった」(9年11月9日号「係わりの地44:小樽祝津・ニシン御殿」)とあるように(但し、データと出典が必要)1925年まで佐渡の縄類生産は成長を続けた。】
6)松前稼ぎで名を成した松ヶ崎の商人
 a.修理新次郎
   ァ.修理家は、伝説として先祖は福田修理之進なる多田殿の家臣であったとされる。
  ィ.屋号は丁字屋(ちょうじや)覚右衛門、通称「やましょう」。いつ松前へ移ったか不詳だが文政9年(1826)に薬種屋と古着屋を兼業して松ヶ崎にいたことが記録にある。
  ゥ.松前に移住し福山に店を置き佐渡の荒物を商った。店の繁昌に伴い小樽と明治中期に函館に支店を設けた。だが、大正期に入って事業を縮小。 
 b.木島豊治
  ァ.文久3年(1863)豊治13歳のとき、松ヶ崎から北海道福山で手広く荒物商っていた丁字屋に丁稚奉公、10年ほどして丁字屋が函館に支店を出す際支配人に抜擢。
  ィ.明治17年(1884)31歳のとき独立。荒物商人となり、やがて函館の荒物業界で一番の店となった。
  しして荒物で得た資金を水産業と貸住宅建築などに投資し、収益と資産を拡大していった。
  ゥ.郷里の松ヶ崎においては松前神社・長松寺・小学校の建築や設備、島内下水道工事第一号といわれる街路両側の排水溝の寄付はじめ昭和初年まで地域に貢献。
  昭和8年(1933)死去。享年80歳。地元では村葬を行い、松ヶ崎小学校の全校生徒も参列。現在、松前神社の境内に胸像がある。
 c.青木順五郎
  ァ.嘉永4年権兵衛の長男として松ケ崎青木町に生まれ、文久3年13歳のとき父のいた函館に渡った。間もなくして父が亡くなり佐渡へ帰った。明治4年21歳の時再び北海道へ渡り寿都(すっつ)で荒物商いを始め、漁業も兼業。
  ィ.「当時ニシン景気で栄えていた増毛町に明治20年移住し、て酒造業を営んだ。「「寿恵広」と名づけた清酒が好評で売れ行きがよく、たちまちにして千石酒屋となった」
  ゥ.「さらに事業を拡げて、味噌・醤油も造った。これも順調で天塩・北見方面まで販路を得た。のちに増毛町の町会議員に選ばれ、彼地でかずかずの社会奉仕事業に名をのこした」

 【増毛町で酒造業といえば、明治8年増毛で呉服店から始めて同15年「丸一本間」を名乗り同年酒造業(今日でも國稀酒造(株)が存続)を始め その後も漁業・海運業・不動産業などの事業に成功し、同35年「丸一本間合名会社を創立、天塩国(今日の旭川市・留萌市・名寄市・富良野市・士別市を含む)随一の豪商と呼ばれた佐和田出身の本間泰蔵がいる。06年7月9日号「北海道と佐渡(4)増毛」)
 その事と矛盾しないか調べると、「増毛の産業のあゆみー増毛町」PDF(Portable Document Formatに次のように出ていた。
 「酒造業については、明治30年(1897年)頃まで5軒ありましたが、明治40年代には、本間泰蔵と青木順五郎だけになりました」。それは、ニシン漁獲量が明治35年の39,188トンを一つのピークに減少が目立ってきたこと(ニシン場出稼ぎ者(ヤン衆)数・酒の購買消費量と大いに関係する。なお、減少といっても昭和5年・8年は6万トン台、昭和21年は49,305トン(その後傾向として激減)を記録】
 d.木島松蔵
  ァ.明治10年丸山に生まれる。成人して北海道へ行き函館の木島の店に勤めて番頭となり、店主の豊治に認められ豊治の末娘の婿養子となった。
  ィ.分家独立してからはカネトと称し、大町に店を構えた。はじめは佐渡荒物を扱っていたが、漁網・マニラ麻のロープ類を加えて時代の移り変わりに順応。
  やがて新川町に工場を建て、藁縄・マニラロープ・綿糸網などの製造を始め 成功。大正末期から昭和初年の頃には、商売上では本家を凌ぐまでに至った。さらに樺太の木材資源に着目し製材業を営み、製材工場を函館と樺太に建てた。
  ゥ.「戦後は、日本が樺太を失ってから製材業を廃め、函館の吉川町に化繊ロープ類の工場と大町に漁網・漁具類の販売店の2つを経営し成功している」
 e.菊池平太郎
  ァ.江差や福山の繁栄した松前稼ぎの全盛期からやや遅れて、荒物の商いをした。
  ィ.福山に店を開き、はじめ荒物専門だったが ニシン漁の北上でイカ漁に変わったのに対応し、イカ釣りの漁具を主体に佐渡物産を扱った。
  ゥ.福山では、この店は佐渡店と呼ばれて愛され、「当地における松前稼ぎの最終まで残った店の一つである」
た仰
1)神道:松前神社(宝暦佐渡国寺社境内案内帳に基づく「佐渡の社」サイト)
 祭神:松前大明神、社人:弥右衛門、開基:文永6年本間山城守建立、慶長14年大久保長安再建立、社地1反1畝12歩ほか、社人屋敷5畝8歩。元は北西の山上字中ノ平にあったという。最近は神名帳羽茂2座の度津神社とする説が有力と云う。古くは春日大明神と称した。宝暦3年の再建棟札に春日明神とある。
2)仏教
 a.本行寺
 ァ.1271(文永8)年佐渡への第一歩を踏み入れた地に、聖人に帰依した仏寿坊日量によって1279年に建立。
 ィ.開基について貞享2年〔1685〕本行寺再建文によれば、「始往昔此番神勧請者元和3丁巳〔1617〕4月建立開基也星霜年積69年久不加修造者倒扉風朽落葉之下甍被浸雨露社檀更顕也」とある。
 ゥ.喜兵衛家の遺物:「仏壇に初代夫婦と4代目夫婦2組の木像、「庭に八方正面の松という銘木と石灯籠が数基と山門(もと同家の表門であったもの)などがある。また14代目の玄淳(本名正晴)が描いた波題目とお欅の絵が着岸殿の額に掲げられている」
 ェ.『川路奉行日記』
  「文永8年開基にて、本行寺と云う寺あり。則ち巡見所なり。村ゆたか成る故、てらもよろし。日蓮自筆の題目、其外品々あり。信心のものにみせたらんには、みな落涙の品なるべし。其内に池上本門寺のきわめ札ある、日蓮の消息というものあり。3通の内、□という字の書出にて、中字の草書あり。走り書見事にて、竜蛇の勢いある筆跡也。某、読まんとせしがよめず。住職に聞くに、昔よりよみたるものなしという。・・・・ここの尤も大切の霊宝に、春日大明神の日蓮の盃ごと成したるという土器あり。至ての古物、かけたり。様其外盃の台というもの瓦器にて、又古色あり。六角にてわたり7寸計、山水ともいうべき図ありて、其図のあいだあいだに、なみと雷文の如きものをいかにも至極細密にほりたる様、古色愛すべきのみにあらず、凡作とはみえず。・・・・日蓮は、父母の信じ給いけるとおもい出て
  ふる秋の霜もきえぬるあまつ日の 蓮(はちす)の光なおにおう也
  行いを本とさきぬる法(のり)の華(はな) 教をのこす古寺ぞこれ  」
 b.真言宗豊山派 長松寺
  歩いていると格調のある山門(鐘楼門:釣鐘の有無は確認せず)に魅かれ写真に収めた。過去2〜3回は通っているのに、別のテーマに関心が向いていたためか気付かず、ここにも立派なお寺があることに驚いた。
DSC09548
 ァ.案内板
 「 長松寺
  開基は開基は貞応3年(1224)で中興は延享元年(1744)第11世宥典法院となっている。明治元年に廃寺となったが同年(?:「年」不要)3年に復帰した。
 明治30年の水害で全棟を流失し、その後は今の低地におろして明治32年に庫裏と土蔵を同43年に本堂を再建」した。
 鐘桜(?:楼)門は大正13年に建てた。境内には不動明王などを祀る護摩堂、地蔵堂がある。本堂は光明を遍く照らす智を象徴する金剛界の大日如来を安置している」
 ィ.鐘楼門に向かって右の柱に「□動山 長松寺」とあるが、山号は多分「無動山」、同じく左には「佐渡四国八十八ヶ所20番札所」とあるが、現在は「佐渡八十八ヶ所番外霊場」か「旧佐渡四国八十八ヶ所」。
 山門2階は楼閣風で凝った造りとなっている。
 ゥ,『松ヶ崎編』の記述
 顱乏基等の記録は見当たらないが、「天和2年(1684)に松ヶ崎の長松寺の屋根を修理するにあたって、沿岸の村々からカヤを買い集めたときの萓〔カヤ〕取船の帳面によると、菊池喜兵衛家のハセ船14艘をつかったとしてある。
 ェ.1924年(大正13年)に建てられた鐘楼門の建築寄付者名
  必ずしも松ヶ崎地区の出身者とは限らないとして「北海道在住者の抜き書き」から数えると55人。
  地域別では、函館市38人、小樽市12人、旭川市1人、留萌市1人、増毛町1人、利尻富士町鴛泊〔利尻島の北端〕2人。
3.まとめ
  関心・今後の研究課題としては次の2点。
 ‐哨崎についてのなぜか。
  1750年代の『佐渡四民風俗』に「此所人心宜しき儀相考候処」とあり、1840年川路奉行巡村の際、「松ヶ崎は300石の村なれ共人別800人余ありて富める村なり」と評価。春日社〔松前神社〕の神殿瓦・鳥居の立派さから、「民潤(うる)おわでは、村持(むらもち)の小社をかくはせじ」と結論。
 また、個人的にも 小村にしてはの松前祭の盛大さ、鬼太鼓の近隣の集落に比べて優雅なイメージがある。 
  理由がつかめないのは、見落としている大事な何かがあるはずだ。
 (川路は夷湊の巡村では、「夷町・湊町にて高百石ばかりにて、人口3千に余れり。廻船等の入津もなくて、かくの如し。豊かなること、思うべき也」「ここにて夜、按摩(あんま)の笛を聞く。髪ゆい床などあり」。本陣(奉行の宿泊所)は夷にもあって本間という所〔昭和の頃まであった本間旅館〕。
 【川路は豊かさの理由はわからないにせよ、サービス業がいろいろあるのは豊かさの証拠と捉えている。夷・湊は農業は貧弱だが、交通の要所で漁業・商業が盛んであったことによる。】
 ⊂樵芦圓の成立する構造の認識。未来への応用性があると直感。
 郷土史家の現状は、データ無視と無しでの決めつけがまま見られ、松前稼ぎの部分と全体が把握できないためだろう体系だったものが無いので整理する必要がある。
  まずは、松前稼ぎの構造の正確な把握から。
  欠かせない資料は、原始データの豊富な『江差町史』。これは新潟県立図書館にあるが開いたことはない。実際見たのは、北海道の小樽市立図書館であった。7年前のことでブログに次のようにある。
 「(小樽)図書館の存在に気づいたのは8日のこと。小樽能楽堂へ見学に行った時の通り道の角にあった。能楽堂見学後通り過ぎてしまったが、時間が相当あり折角だからと引き返し、入館。一般の図書館ではカバンなどの持ち物は閲覧室に持ち込めないものだが〔なお、今はどこでも異常持出し検知装置が稼動〕、ここでは構わないとのことであった。

 『江差町史』が10巻ほど並んでおり、一部を取り出し閲覧。江差の廻船問屋に残る記録があり、年代は覚えてないが1700年後半〜1800年代中ほどと思う。夷や大川や松ヶ崎など佐渡の港から江差へ入港した回数をまとめたものがあった個人問屋の文書だから結論は出せないが、松ヶ崎からの船の入港が圧倒的に多かった。それらのデータは小樽と関係ないから、さっと目を通しメモはしなかった」
 (09年11月10日号「係わりの地45:小樽・旧磯野商店倉庫」)
 あの時小樽から江差へ行く予定にしていたが、3年前にも行ったと油断し想定外の旅費に懐具合が心配になり江差行きは断念し、小樽にもう1泊ということで行かずじまいとなって『江差町史』の価値をその時認識できたのは大きかった。すぐという訳にいかないが、巡り巡ってテーマが久しぶりに江差に戻って来た。
  以上

佐渡の風景133:岩首

 こんにちは!自在業の櫻井です。5月23日(月)
 東鵜島から岩首への道も歩くのは約60年ぶり。柿野浦から東鵜島まで1.5辧△修海ら岩首も1.5劼韮横以前後の距離。
 岩首へは7年前棚田をテーマに両津からバスに乗って行き、記事にしている。
 (09年5月1日号「佐渡の風景53:棚田(7)岩首」)
 今回海岸や港を中心に見聞する予定にした。
 なお、記述について前回は棚田に限らず岩首の歴史等について『両津市誌』(以下、市誌』)、『岩首村史』を資料としてまとめているが、今回更に内容充実を図っていく。
1.光景
ヾ篌鶺港、
DSC09524DSC09525
1)岩首へ向かう海岸道路は直線に近く、次第次第に防波堤と集落ー海沿いに並びと、奥はすぐ山ーが見えてきた。
  年刊行の『市誌』の
2)意外にも漁港は新しかった。
 a.大きな自然石で造られた格調高い竣工記念碑があった。個人が寄贈したと思い(要確認)、すごいと感じた。
  「夢に見た 漁港か完成
   舟並び背後に弁天 沖に豊漁」  
 b.2010年10月竣工。それは、岩首住民が 小規模な船揚げ場では漁業活動に大きな支障をきたしているので漁港整備の要望書を1991年市に提出。多面的調査の結果 沿岸の漁獲量に恵まれていること、整備による漁業の効率化が見込まれること、住民が意欲的で将来性が期待できることで、翌年岩首地区が新たに漁港の区域として指定を受けるための変更申請をして、1993年豊岡漁港の分港として指定を受け、同年度漁港施設の整備に着手。
3)船が6〜7隻陸に揚がっていた。
 やや遠くに(画像の後方)に構築物があり、一人がホースのようなもので作業をしていた。
岩首談議所
 当初予定なかったが、漁港を見ただけでは岩首を記すにはコンテンツ不足。以前通ったことがあり距離も近いので行ってみることにした。
DSC09528
1)廃校になった岩首小学校の校舎を体験交流施設「岩首談義所」として活用。
 (2007年3月閉校(最後の生徒数5人)、同年6月「岩首談義所」として開所)
2)談義所設立の経緯
a.128年の歴史を持ち集落の中心にある小学校が廃屋になっていく姿をみたくないという思いから、「旧岩首小学校の有効利用を考える会」が発足。
b.当時はトキの野生復帰に向けての放鳥の準備(環境整備、トキの野生訓練等)が進められており(野生復帰への放鳥は2008年)、多くの研究者が佐渡の訪れていたご縁で、東京工業大学の桑子敏雄教授の協力のもと、集落民有志が旧岩首小学校を拠点に都市住民との交流活動や棚田をはじめとする里山の耕作保全ボランティアを募り、利活用に努めてきた。
c.その後、会の名称を「岩首談議所」に変更。集落民もあわせて年間4,000人ほどの利用者があり、大学生ボランティアは年間200人ほど受入れている。
d.今後は、関わってくれる都市住民や大学生の中から移住者が生まれることを願い、住宅整備として空き家を改修して就農シェアハウスとして活用していくことを目指している。
 《活動の進捗状況(2015年4〜10月)
 1)シェアハウスへの改修先の決定:集落内の空き家所有者に声かけ実施。築60数年の「源十郎」宅(十数年 出入りなし)に決定。
 2)大掃除:親戚の方と談義所(メンバー)で家に残っているもの全てを一階に集め整理。必要なものを残し、他のものは人に譲ったり、ガレージセール用に車庫へ保管。子どもたちにも古い障子はがしや、大量にある食器の仕分けに参加してもらい、仕分けした食器類は婦人会が埃を落とし綺麗に整頓。
 3)改修
  a.間取りを図におこし、各部屋がどんな用途で使用できるかビジョンづくり
  b.屋内は、大きく3ヶ所。台所、納戸、小座敷を床部分から張り替え、台所は雨漏り箇所の修繕。
  c.屋外は、外壁の板張り替え、防腐剤等の塗料での塗装、漆喰の塗り直し。
 4)集落移住者の受入体制に向けて
  a.談議所メンバーや集落役員会と共に棚田の耕作保全の担い手育成のための農業指導者や土地提供者の選定などを行った。
  b.集落民向け内覧会(8/16)実施。お披露目イベントも実施。
  c.お試し住宅のお試し宿泊(9/20):集落の例大祭でのお試し宿泊実施。
   不便なところないか、水回りの点検し、寝具などの整備を行った。
 《今後の予定》
 1)就農シェアハウスの住人募集・面接等
  10月以降集落内の移住者受入れの為の体制(農業指導員、世話人)を整え、各種移住セミナーやイベント等で募集活動。
 2)集落内の空き家状態把握作業:現在残り7軒。
 3)各種イベント・WS
  シェアハウスdeぬくぬく映画会(談議所での第2弾)
  お鍋の会@シェアハウス
 4)談議所10周年目にむけての体制づくり
(資料:「岩首談議所 一般社団法人ハジングアンドコミュニティ財団 中間報告書」サイト)
松ヶ崎へ向かう道
DSC09531
1)道路幅がこれまでより急に狭くなったと感じた。
 a海に近く、冬の大時化の時は高波がテトラポットをは越えて道路に寄せることが充分想像される。数年前の爆弾台風の大波の時には、防波堤のある漁港でも家の床下まで波が打ち寄せるなどの事が起こった。
 b山側は、ところどころ落石注意の表示があった。崖はコンクリートで上塗りし、崖の上から下までネットが張ってある。
2)途中、落石防止のための法面〔のりめん:人工的な斜面)保全工事と思われる現場と出合った。定期点検と必要に応じ補強工事をしないと落石・土砂崩れ等大きな事故につながることでそれらをないがしろにできない。
3)60年前は海と崖の間を縫っての危険な道を歩いたに違いないが、7年前に通った時テーマが棚田に集中していたせいか、今回痛感したような危険という印象がなかった。
2.歴史
‖爾亮腓覆任ごと
1323年(元享3)栗野江〔?:新穂北方〕の立蓮寺〔真宗大谷派〕が宝池房円によって開基されたと伝えられる(略縁起)。宝暦寺社帳では1580年(天正8)に開基されたと伝える。村の平間一族が立蓮寺の重檀家であって、後年村にも修行の道場が建てられた。
1382年(永徳2)村の草分けと言われている平間家の先祖栗野江の城主半田入道の家老後藤国明が分家して、岩首入りをしたと伝えられている。(平間家文書)
1532〜54年(天文年間)万福寺建立と伝えられる。宝暦寺社帳には、「天正16年(1588)再建立と元禄の寺社帳にこれあり」と記して」ある。
1588年(天正16)熊野権現は宝暦寺社帳に「勧請年暦知れずと天正16年改めの寺社帳にこれあり」なっている。社人は善助。
1600年(慶長5)川村彦左衛門によって検地が行われた。検地帳によると上杉氏の代官下条氏の支配下。中使は四郎左衛門、名請人は19人。(岩首村史)
1617年(元和3)屋敷検地が行われた。検地帳の表紙に羽茂郡岩首村とある。
1710年(宝永7)岩首から大川まで15ヶ村の百姓が連印で東浜地方の特殊事情をあげ、年貢の軽減方を奉行所に願い出た。(月布施三浦家文書)
1750年(寛延3)全島の百姓代表5人が260ヶ村連印の訴状を幕府に提出した。そのため松平奉行は罷免になった。
1760年(宝暦10)岩首村から他国へ移出する品目の書上帳、また他国出し禁止の布令に対する反対訴状が残っている。(区有文書)
1767年(明和4)出火などに関する条目に対して請け書を出した。五郎右衛門以下70人が連著。( 〃 )
1789年(天明9)盗人・出火・賭博に対して処罰方法を村中で申し合わせた。( 〃 )
1797年(寛政9)従来松ヶ崎郷蔵に納米していたが、遠隔難路のため独立郷蔵の設置を申請した。( 〃 )
1827年(文政10)岩首から水津番所へ普請用材運搬の助合方を願い出ている。( 〃 )
1841年(天保12)炭小屋から出火、本家32軒、寺1ヵ寺、棟数70軒類焼した。( 〃 )
1845年(弘化2)凶作。年年貢米100石の内35石が悪米のため、年貢納めが不可能となって悩まされた。( 〃 )
1859年(安政6)7月25,26両日大風、8月13日また大風、田畑の被害が甚大だった。作毛〔さくもう:稲や麦などの実りぐあい〕白穂〔実らず枯れて白くなった稲穂〕となり畑作は皆無の状態なりと記録されている。( 〃 )
1868年(明治元)4月佐渡裁判所を設置。9月これを廃して佐渡県を置いた。岩首地区は小木代官所の管轄になった。
1870年(〃3)大風による被害甚大。(岩首村史)
1875年(〃8)水害による被害甚大。( 〃 )
1876年(〃9)日照りによる被害甚大。( 〃 )
1889年(〃22)町村制が施行され、岩首から蚫までが合併して岩首村となる。
 岩首分教場(1880年多田小学校の派出場として設置)が岩首小学校として独立(その3年後、赤玉尋常小学校の分教場となった)。
1897年(〃30)佐渡一円の大雨災害。
 「8月7日午前10時ころからの出水が希有の大洪水」「無縁だったのが、山家と呼ばれる山地の5,6軒だった。家屋・納屋・土蔵の倒壊・埋没・流失・土砂入りは数えきれず、・・・2名の死者」
1911年(〃44)佐渡東部海産漁業組合が設立され、深浦から水津までの地域が加入。
1912年(〃45)赤玉尋常小学校の分教場だった岩首校が、岩首尋常小学校として独立した。校舎は明治35年現在の位置に建てられた〔現在の「岩首談議所」〕。
 大石万蔵の指導による模範果樹園が誕生した。また沖合に共同の大謀網を敷設。
1912年(大正2)岩首婦人会が結成された。
1913年( 〃3)岩首・鵜島間に待望の郡道が完成した。
1924年(〃13)岩首竹の活用と声価を心がけて、竹工組合が設立された。
1933年(昭和8)共同事業として自家発電をやり、家々に電灯がつけられた
1945年(〃20)終戦。村の戦死者は日華事変以来16名であった。
1946年(〃21)岩首村青年団が結成された。
1947年(〃22)新学制による岩首中学校が柿野浦に設立された。
1948年(〃23)佐渡汽船の新潟・小木航路の定期船が豊岡に寄港することになった。
1953年(〃28)佐渡病院の診療所が豊岡にできた。
1954年(〃29)町村合併により両津市が誕生した。
1956年(〃31)新潟交通の定期バスが松ヶ崎から岩首まで来ることになった。
1959年(〃34)簡易水道が敷設された。工費134万円。この年から2ヶ年計画で農道がつけられた。工費201万円。
1962年(〃37)簡易郵便局が開設された。
1968年(〃43)公民館をかねて、児童館が完成した。
1970年(〃45)5ヶ年計画で里山造林事業に取り組んだ。
1971年(〃46)林道に着工した。工費740万円。
1976年(〃51)両津から岩首まで道路が舗装され、朝晩1回ずつ会員バスが往復した。
1980年(〃55)新農業構造改善事業が実施された。
1981年(〃56)多目的集落センターが完成した。
⊃邑・戸数
1)戸数・人口の推移:1956以降は戸数は世帯数。
  年号        戸数  人口   備考 
1600(慶長5)    19       検地名請人数
1617(元和3)    20       屋敷検地人数
1649(慶安2)    43       検地名請人数
1751(宝暦元)     76   419 村明細帳
1753(宝暦3)     75       区有文書 
1756(〃6)      74   332   〃
1838(天保9)     〃   443 橘鶴堂文庫
1841(〃12)     75   447 佐渡国巡村記 
1843(〃14)     〃    390 区有文書
1882(明治15)   〃    426 佐渡地誌摘要
1956(昭和31)     85   488 市調査
1965( 〃40)     87   413 国勢調査  
1970( 〃45)    84    347   〃
1975( 〃50)    79   300   〃
1980( 〃55)    74    234   〃   
2016(平成28)3月:56   126 住民基本台帳
2)産業別就業人口  
          1975年 1980年  備考
総      数      172   146   国勢調査
(就業率:%)   (57.3)  (63.7)  就業者数/人口
第一次産業計   117    81
   農 業     113    76 
   林 業       1     1
   漁 業       3     4
第二次産業計    30    42
   鉱 業      1      1
   建設業     15    28     
   製造業     14    13  
第三次産業計    25     23
  卸・小売業     4     4  
 運輸・通信業     2     2   
  サービス業    19    17 
【着眼
 a)江戸時代集落の戸数が一時期で急増することは起こり得ないことだが、しかも海と山あい集落は非常稀でないか。1617年20から30年余の間に43戸へ倍増、さらに100年後75戸に増加し以後明治中期までその水準。
  これは、『市誌』にある「本家と分家・子方」表と「新田開発の状況」表からある程度の説明がつく。
 ァ)「村の戸口の増加は、分家(隠居を含める)の増加によってもたらされている」。表より本家26軒、分家50軒、子方11軒で合計87軒。分家で分家や子方をもつもの9軒あるので78軒(87−9)で「だいたい戸数になる」「分家は本家から土地をもらって生家を立てたのであるから、本家に対して年間7日程度の労力奉仕・・・。子方は深い恩義に感謝してなったもので、分け地というものはない。だから労働奉仕は少なく年間1日ほど」
 〔「子方」は本家に対し分家であっても、血族分家でなく非血族分家で農村においては地主本家と小作分家の関係で結ばれている。「労働奉仕は(分家に比べ)少ない」とあるが、小作料を払っていることが分家との本質的違いなのである〕
 ィ)新田開発状況については、後の「田畑面積の推移」のところで記す。
 b)人口は、1750年から1965年の国勢調」査までの200年余400人を安定して保っていたが、それ以降減少が顕著で近時は126人で江戸時代の30%の水準に低下。
 c)岩首の1世帯当り人数は、2.25人と数値上は当面現状維持の最低ライン2.0人を超えているが、人口が増えるためには子ども2人を含め、親1人はいるとして5人以上が必要。次表からも明らか。
 昔は戸数、今は世帯数が基準で単純に数値比較できないが、時代による1戸当り人数の推移は改めて次表のとおり。
   年次              1戸当り 戸数   人口
1751(宝暦元) 5.51人  76戸  419人
1841(天保12) 5.96   75〃  447
1882(明治15) 5.68     75〃  426
1965(昭和40) 4.75     87帯  413 
1975( 〃50) 3.80   79〃   300   
2016(平成28) 2.25     56〃  126 】
産業
1)農業
a山間農業
 ア集落中心部から2厖召了鈎罎了害函覆笋泙)なる開墾集落。「かっては10軒の家があったそうだが、今は1軒だけ残っている」
 イ慶弔5年の田は1,700束余で「3町そこそこというとことか。それが150年の宝暦6年になると17町歩となり、畑が21町歩余と書き上げられている。しかもそのまま明治初年まで続いている」
田畑面積と年貢米の推移表
             田       畑       年貢米
 年次       町・反・畝・歩 町・反・畝・歩 石(村高)年貢率
1600(慶長5)  1,710束把          15.8(35)45.1%
1649(慶安2)                    16.7
1688(元禄元)                    16.0
1751〜(宝暦初)17・9・9・23 21・9・5・0   109(251)43.4
1756(〃6)       〃    21・0・1・0      (251)
1792(寛政4)                    110(251)43.8
1838(天保9)  17・9・4・05 21・0・1・0   101(248)40.7 
1841(〃12)   17・9・9・23 21・9・5・0   109(251)43.4
1843(〃14)      〃    21・0・1・0      (251)
1975(昭和50)  2,782a    791a
 『市誌』からの表であるが、出典の明記がない。
b.新田開発の状況(下表)は、「古文書から拾った」とある。
 年次       筆数   反・畝・歩
1623(元和9)  16   (98束苅)   
1648(慶安元)  3      1・14
1650(〃 3)   1        14
1653(承応2)  45      6・04
1658(万治元)  3       1・06
1667(寛文7)  27      3・06
1668(〃 8)   19       1・1・09
1672(〃 12)  7     1・3・06
1673(延宝元)  20    1・0・19
1674(〃 2)   4       2・09
1682(天和2)   2       1・05
1686(貞享3)   1        15
1687(〃 4)    1        06
1688(元禄元)   1        13
1691(〃 4)    2                   50
  計        152    5・2・11
 元和から元禄にかけ開発面積は総じてわずかだが、着実に増やしていることがわかる。
c.「村の年貢」解説(『市誌』):上記の戸数・人口及び田畑面積等の表と関連。
 ァ.1600年の検地で19人の百姓が収穫する稲は1,710束余、年貢米15石8斗。他に稗〔ひえ〕年貢1石2斗。
  100束2石の収穫とみて約35石となり、村として4割5分程度の納米。〔15.8石/1,710束×0.02石/束(≒35石=45.1%〕
 ィ.「慶安2年の石直しの名寄帳では、年貢米は16石7斗、稗年貢が2石7斗である。しかも19人の百姓が2倍以上の43人となっている。そして40年後の元禄元年(1688)の年貢皆済目録によると本途〔年貢米〕で16石余、稗年貢が1石6斗で、慶長以来少しも増加していないのである。そのくせ、元禄元年までの新田開発状況を拾ってみると、筆数が・・・歩畝が・・年貢米が・・・になっているのである」   
 ゥ.「また慶長の一等地であった〇〇と〇〇の両地は年貢の7割5分を占めていたが、慶安になると年貢の3割7分と下がってくるのである。これらは年貢高を請負高として一定にしておいて、村内操作をしたもののようである。新田には課税して権利を与え、その分だけ古田の課税を減らせば両者ともよいわけである。生活の知恵とでもいうのであろう」
 ェ.元禄以後の年貢。「田については年々に決める検見(けみ)と何年間かの平均でとる定免(じょうめん)とがあったが、だいたいは定免制」
 顱法屬燭生杵集|倭宛紊ら、今まで無税だった畑が田と同様に課税されたので、年貢はほとんど倍額となったのである。宝暦元年(1751)では村高が251石1斗余で年貢米が109石余となっている」
 髻法屬海譴蘚槌の本途物成に加えて、山や海の稼ぎに対する小物成、おまけに6尺給米やお蔵米である。しかも年貢米は〔羽茂にある〕大石〔御蔵〕回し、海上5里(陸路6里)の地点にある」
 【上記元禄検地が基本となる年貢の解説について、理解しにくい点が多々あるので、参考まで次の資料を補足する。
 a)佐渡市の文化財「金丸村元禄検地帳 他」サイト
 「元禄6年(1693)に佐渡奉行所萩原彦次郎重秀により、佐渡一国の田畑を対象とした検地が行われました。その方法は6尺1分を1間とした2間竿(にけんざお)を用いて測るもので各村では名手が案内し、7人の地方役がこの作業に当たりました。田高10万石余、畑高2万7千石、計13万石余の一国石高で、これまでの年貢米2万5千石に対し、新取米4万5百石でした。萩原奉行は、こうした年貢高の増加による農民との摩擦をさけるため、畑年貢を米納から銀納にし、又3万5千石の田租の半分を銀納とし、その米価を時価の半額にするなどの苦心をはらいました。この検地は3月に始まり9月に完了し、翌7年に検地帳が村方に交付されました。江戸時代を通じての基本的な土地台帳となったため、現在でもほとんどの村に大切に保管されています。
 b)『吾潟郷土史』
 荻原は「幕府勘定方に勤務していて、検地についての経験もあった彼は、赴任早々の5月4日国中260余か村の名主・与頭を奉行所に召集した。そして、「これから一村毎に全島の田畑改め(検地のこと)を実施する。その予備調査として各自は、耕作者の名前を付して、自分の村の全耕地を漏れなく書き出し、5月15日までに提出すること」を言い渡した。そのあと、検地の実施を承諾することや、増米〔増年貢=増加税〕が生じても異論の無い事の請書を書かせ、検印させた」「その起請文(誓いの文書)の大要は、「金沢村誌稿本」や城腰三国家文書によると次の通りである。
      起請文之事(大略)
一、この度の田畑改めについては仰せ付けの通り、正直に書いて提出いたします。どんな人に対しても公平に取り扱います。
  付記:この仕事に関しては、どんな形の謝礼も貰いません。
一、わたくし共の村に関してお尋ね事項は、すべてありのままに申し上げます。
一、この度のお召し出しで仰せられた事はすべて承知いたしました。この事については、村内の者だけで相談いたし、すべてありのままに申しあげます。
  付記:何事によらず、悪心の相談ごとには、一切参加致しません。
 以上3項目について申上げたことは、天地神明にかけて絶対に間違いないことをお誓い申し上げます。
  元禄4未年5月4日
                村々名 三役名印
  提出した佐渡一国の集計は次の通りであった。(北見喜宇作の『佐渡義民始末』による)
   惣苅高 525万2483束8把(
     此本年貢米 2万3021石4斗6升5合7勺

     此  増米  2万2943石4斗1升5合8勺
   家数1万4561軒 人数7万0481人 
   寺399ヶ寺 宮254社 堂宇174宇
   馬4855疋 牛6785疋 」
 c)『佐渡相川郷土史事典』
 ア「元和検地」
 1)元和3年(1617年)に佐渡奉行安藤弥兵衛次吉が行った屋敷検地。慶長検地のとき対象からはずされた畑・屋敷のうち屋敷検地が全島の村々で実施。『佐渡年代記』に「田畑屋敷の検地あり」とあるのは誤り。
 2)記載事項は、縦横の間敷・面積・名請人で、末尾に総面積・総石高・検地役人名が記されている。
 3)石盛は9斗であったが、実際の納税は銀納で、上畑の扱いであった。
 イ「元禄検地」
 1)元禄6年(1693年)土地丈量による佐渡最初の一国検地。翌元禄7年各村に御検地水帳が交付された。
 a)元禄4年5月幕府勘定吟味役の荻原重秀が、佐渡奉行兼帯で入国、御勘定小組から2人を検地御用目付として同道。
 b)翌5年には留守居役・惣目付などを江戸へ招集し、検地の訓示をした。
検地に当たって検地御条目・検地村請書・起請文などを村村に触出し、請書をとった。
 c)6年3月19日国仲の中原村より検地入りし9月13日小倉村で終了。
 2)検出された検地高は、高13万355石9斗8合、内田10万2782石・・・内田方半米納半銀納となった。
 3)実際には、荻原奉行の入国年には各村方が増年貢となり、この年の取米高総量は4万5千石となり、検地後の取米高に近く、検地は増年貢の合理化をはかったものとみられる。
 以上補足資料も残念ながら明確さに欠ける。但し、参考にはなる。】
2)漁業
 a.「史料によると延宝2年(1674)からは筒鱈が10枚に1分1厘の役銀を納めれば、他国に輸出してもよいことになっている」
 b.寛政4年(1792)の年貢皆済目録の課役状況より

 烏賊(イカ)役:3000枚 銀16匁5分、干鱈(タラ)役:45枚 銀1匁6分7厘、(タコ)役:3頭 銀8匁1分4  
 船役:15艘 銀44匁9分3厘(内訳:1匁1分が1艘、2匁2分が10艘、3匁4分が1艘、5匁が2艘、7匁5分が1艘)
 c.1931年(昭和6)から共同定置網を設置。共有金を使用し全戸加入。中羽鰯(イワシ)の大漁で両津までも売りに行ったの豊漁だったという。
 ァ.イワシを焼干し自家肥料だけでなく販売して各自利益を得た。
 ィ.昭和19〜21年岩首小学校の改築に際し、村からは炭材の一部を払い下げたのみで大部分の資金は漁場の純益金から賄った。
 ゥ.24年から不漁で赤字が続き又26年の春大きな潮流で網一切を流失。再建するか協議の結果、更に規模を大きくして経営することにし新潟市の大田順二氏より60余万円の融資を受け、富山県氷見より新式網購入、地元製造資材と合わせて約100万円で再開。
  顱砲世、11月再度の大潮流によって10%の漁獲で終わった。
  髻坊臑蚕萢は、各戸平均の拠出により解決。
 (『岩首郷土史』1991年刊) 
 d.「現在漁船は動力船11隻を含めて15隻である」(『市誌』)

3)竹

 a.宝暦6年(1756)の明細指出帳によれば、百姓持ちの林71ヶ所、百姓持ちの竹林8ヶ所、仲間持ちの竹林2ヶ所。

 b.昭和元年(1926)の佐渡25町村の竹材の出荷量のうち岩首村は、赤泊に次ぐ2番目で、同9年は金額ベースで羽茂村と並ぶ数値に見るように佐渡での代表的な竹・マダケの産地。

 ァ.昔から竹は、樽や桶のタガとして、壁のコマダケ・藁(わら)屋根の下地として使われた。だが、時代ともに容器や建築様式が変わり需要は急減。

 ィ.その中で、稲作地域に稲架用にマダケが使われ出した。特に、越後地域では稲の乾燥は田の近くにハンノキの並木に縄を渡してハザを作り、そこに掛ける習慣があったが、乾燥の面で竹が良いとされるようになった。越後は竹林は少なく新潟県の竹林の大半は佐渡であったから、竹材として越後方面への移出が多かった。

4)木炭
 a.「木炭は、黒炭専一。
 【参考:黒炭と白炭(「いい炭ドットコム」サイト)】
  黒炭は、クヌギ・コナラなどの原木を400〜700度で焼いた炭。凹凸の多い割れた断面が特徴で、やわらかく表面積が広い形状。
  白炭は、樫などの硬い木を1,000度以上の高温で焼いた炭で、備長炭はその代表です。硬質でなめらかな質感で、叩くと金属のような音がする。
 b.いつ頃のことか記されてないが、「その生産額は加茂地区に続いて岩首地区が、佐渡で第2位だったと古老が語ってくれた」とある(『市誌』)。
ぢ質反
1)村方三役
  
    村方三役推移表
  年次      名主     組頭     百姓代
1600(慶長5):四郎左衛門
1617(元和3):甚九郎
1648(慶安元):彦兵衛
1652(〃 5):五兵衛
1665(寛文5):四郎左衛門 
1673(延宝元):  〃
1676(〃 4):   〃
1688(元禄元):五郎兵衛   源左衛門 
1756(宝暦6):太郎右衛門 四郎左衛門 孫左衛門
1767(明和4):新四郎    次郎左衛門  伊左衛門
1797(寛政9):四郎左衛門 太郎右衛門  新四郎
1813(文化10):太郎右衛門 次郎左衛門  〃
1842(天保13):次郎左衛門 四郎左衛門  〃
1870(明治3):四郎吉     伊三郎
1876(明治9):渡部次郎吉(戸長) 本間四郎吉(副戸長)
2)「現在の村組織」
 a.運営は役員会と総会。
 ァ.役員会は6名(区長1、立会1、委員4)で構成。
  任期は1年。
  「立会は副区長の役で、前年の区長が前立会で、翌年の区長が後立会になる」
 ィ.総会は年3回。 
  顱暴婬┐錬鰻遑尭、松の内に行う。
  髻鵬憧は8月14日。
  鵝暴期は12月15日。
 ゥ.部落内の伝達
  顱防落を7班に編成、班長は1ヶ月交代で回り番。
  髻謀礎
   a)緊急を要す伝達は、区長から各班長に伝え、班長は各班員に伝える。
   「区長が事務所を持って、年間66万円で常勤している」
   b)緊急を要しない場合は、回覧板を回す。
 b.「現在の事業」
  簡易水道・児童館・農道・作業所・多目的集落センターなど積極的な村づくり事業が進められている。
タ仰
1)仏教
 a.岩首は一向宗(浄土真宗)の村。全戸の62.5%が一向宗。
      氏姓別の菩提寺 
    一向宗  一向宗  真言宗  日蓮宗  合計
    立蓮寺  本龍寺  万福寺  本行寺
    (北方)  (莚場)  (岩首)  (松ヶ崎)    
佐藤: 3      1      10          14
本間: 4      2       2     2    10
平間: 6              1     1     8
渡辺: 4      1                   5
山本: 3      1       1           5
斎藤: 4                          4
 平 : 2              2           4
静間: 3                           3
大石: 1              2           3
 他 : 8      2       6          16
 計  : 38      7      24     3    72
 ァ.立蓮寺について
  顱吠暦寺社帳に「当寺京都本願寺末、開基天正8〔1580〕辰年と元禄の寺社帳にこれあり、境内1反4畝12歩御除」、
  髻卜縁起に「宝池山立蓮寺開山は元享3〔1323〕戍年大谷本願寺第三世覚如上人の御弟子宝池房円教なり」
  鵝卜蓮寺に伝わる「方便法身尊像」の裏に、本願寺釈顕如が、天正8年6月27日にこの尊像を、佐渡国雑太郡栗野江立蓮寺の願主釈法順に下されたこと
  が、書かれている。
 ィ.岩首道場
  顱某者のまとめ役としての平間氏の働きで始めは自家を開放、寛永ごろに村内に建てられたと推察されている。(平間家の先祖は、栗野江城主の家老後藤主計国明で1382年(永徳2)家人もろとも岩首に分家したのが村の始まりという郷土史家橘正隆の一説がある。なお、平間家の大福帳ではその年に岩首へ分家。
  髻貌讃譴砲蓮寛永20年〔1643〕頃とされる本願寺の宜如上人からの尊像があり、裏に「本願寺 釈宣如 方便法身尊影 岩首総道場」と記されている。
  〔宣如上人(1602〜1658):東本願寺第十三代法主〕
 b.真言宗万福寺
  ァ.畑野長谷寺の門徒寺。
  ィ.宝暦寺社帳に「当寺開基知れず、天正16子年再建立と元禄の寺社帳にこれあり。境内3畝歩御除」とある。
  ゥ.「檀家は24戸、全戸の33%」「道場よりも古く、早くから居ついていたと思われる佐藤一族を中心とした村人の、心休まる菩提寺であったのだろう」(『市誌』)
2)神道
 a.岩首の産土神(うぶすながみ)熊野神社
  ァ.宝暦寺社帳に、「当社勧請年暦知れずと天正16子年改めの寺社帳にこれあり。社地4畝20歩御除、社人善助屋敷9畝25歩御除」とある。
  ィ.社人善助は、慶長検地帳に出ている「戸の内」の佐藤氏であろうとされる。
  ゥ.祭神は、伊弉諾尊〔イザナギノミコト〕
  ェ.「例祭日の9月15日には、毎年相撲などが催されて、界わいでは指折りのにぎやかな行事だった」
 b.佐渡における熊野神社の島内分布表状況(『市誌』による」)
     区域             社数
  下戸〔相川〕〜北鵜島の海岸:12
  鷲崎〜白瀬の海岸      : 7
  小木半島の海岸        : 2
  羽茂海岸            : 3
  松ヶ崎海岸           : 1
  岩首海岸            : 1
  国仲地帯(新穂・畑野・金井): 8
     合          計  :34
3.まとめ
ヾ篌鵑蓮現在もそうだが江戸期8つの村の中で一番大きい村であった。
1)戸数・人口・田の面積など規模では一番。明治に入って、周辺の村が「岩首村」に統一されたこともうなずける。
2)1690年代元禄検地データから言えば
 a.豊かさ(1戸平均米と麦などの石高合計で、勝手に作った基準)では「中」。
 b.反当り米の収穫は0.87で「下」(1反に1石の収穫が通常でその水準が「中」だろう)
  『市誌』「赤玉」の項に次のように載っていた。
 「田畑の等級は5等級に分けられて、〔赤玉〕村は「二の位」で生産力の高い村であった。この村の上々田の石盛〔こくもり:検地における田畑屋敷の反当り見積生産高。これに基づいて全体の石高を算定した〕は18で反当り1石8斗である。この地域では柿野浦とこの村2村だけで、ほかは〔小浦・尾戸・立間も?〕下々の村であった。」
 【米の生産性の高い村は柿野野と赤玉というのは下記の表の数値からは正しいと言えるが、「ほかは下々田の村」の記述は、数値根拠を示してないため説得力・学術価値がなく、表の数値(必ずしも正しいとは限らないが算定法が客観的)からも間違い。
 おそらく『市誌』執筆担当が違う。「豊岡」の項は「赤玉」での解釈と異なり次のように記してある。 
 「尾戸・小浦両村〔明治に入り合併して豊岡村となる〕共に四の位〔上々・上・中に次ぐ下〕の村となっている。石盛は上々田で14、反当り1石4斗の収穫高とされている。この地区では一の位〔上々〕の村(石盛20)はなく、二の位〔上〕が柿野浦・赤玉で、三の位〔中〕はなく、四の位〔下〕に立間、五の位〔下々〕が岩首・鵜島・蚫などとなっている」〔柿野野・赤玉以外は、「下々田の村」と単純に言ってない。
 以上整理すると、
   岩首:下々0.87
   鵜島: 〃 0.88
  柿野浦:上 1.53
   小浦: 下 1.15 
   尾戸: 〃 1.15
   立間: 〃 1.13
   赤玉: 上 1.51
   蚫 : 下々0.85
  で、数値的根拠が可能。ちなみに「上々」は1.80以上であるが、「中」は1.20〜1.40台と推測できる】
 c.1石は大人人分の米の年間消費量に相当するから、1戸平均2.12石では数値上は、大人2人分ということで、45%の年貢もあるから、米だけでは当然生きていけない。
 畑の麦・稗・粟・黍・芋・豆などをも主食にしていかねばならず、菜っ葉や木の実や海藻などを多く混ぜ合わせたカテ飯(糧飯)によって空腹を満たし栄養を補ったことに違いない。それは、農村において昭和20年代まで米は晴れの日しか食べないことが当たり前とされたことからも明らか。
 例:「明治・大正のころになると大根・甘藷(かんしょ)などの「かて飯」が常食で「かて」もまじらない白飯は、事ある時しか食うことができなかったものであった。村の古老は「昔の人は風をひいたら白飯と豆腐汁を食えばなおるとよく言ったもんだ」と教えてくれた。そのころは、〔白飯は〕めったに食うことのできない貴重なものであり、また栄養素でもあり、たいへんなごちそうでもあった」(『両津市誌』)。同じような事柄〔白米は戦後昭和20年代までは常食でなかった〕が、『赤玉部落史』や『近現代の羽茂』に記されていた記憶はあり、当ブログ記事のどこかに引用しているはずだ。】
  岩首地区元禄期8ヵ村の耕作状況表:主に元禄検地
(『佐渡岩首史』の基本数値を基に一部試算・分析)
    家数    田       畑      田畑計  豊かさ
     戸 町・反・畝・歩 町・反・畝・歩 1戸平均  順位
岩首 :74 17・9・9・23  21・0・1・00
 1戸平均  2反4畝     2反8畝
 収穫   156石6斗1合 92石3斗6升    
 反当り(石)  0.87
 1戸平均(石) 2.12     1.25      3.37 4位
鵜島 :14  0・9・3・02   8・3・2・12
 1戸平均    5畝      4反9畝
 収穫     8石2斗3合 31石1斗9升8合  
 反当り(石)  0.88
 1戸平均(石) 0.59     2.23      2.82 8位
柿野浦:55 12・7・8・04  24・5・0・05
 1戸平均   2反3畝     4反4畝
 収穫   195石5斗5升5合 120石8斗2升
 反当り(石)  1.53
 1戸平均(石) 3.55      2.20     5.75 1位
小浦 :17   2・7・9・15   5・1・4・13
 1戸平均   1反6畝      3反0畝」
 収穫     32石2斗7升  17石3升4合
 反当り(石)  1.15
 1戸平均(石) 1・90      1.01     2.91 7位
尾戸 :32   7・2・6・10   11・8・6・9
 1戸平均   2反2畝      3反7畝
 収穫     83石4斗8升 44石7斗9升4合
 反当り(石)  1.15
 1戸平均(石) 2.61      1.40     4.01 3位
立間 :17   3・0・8・08   5・0・5・06
 1戸平均   1反8畝      2反9畝
 収穫   34石8斗2升・4合 20石6斗9升7合
 反当り(石)  1.13      
 1戸平均(石) 2.05       1.22     3.27  5位
赤玉 59  15・7・1・19    17・0・5・10
 1戸平均   2反6畝      2反9畝
 収穫   237石4斗2升7合 86石5斗9升
 反当り(石)  1.51
 1戸平均(石) 4.02       1.47    5.49 2位
蚫   :23  4・6・7・29    8・4・3・17
 1戸平均   2反0畝      3反7畝
 収穫    39石6斗2升7合 33石1斗6升4合
 反当り(石)   0.85
 1戸平均(石)  1.72      1.44    3.16 6位
∈Fに続く岩首の伝統精神
1)一言で表せば、「進取歓迎・和親協力」。新しい事に億劫がらず目を向け、心を同じくして事に当たる。
2)事例
 a.山地の田畑開発。
  少なくても開発は1690年代まで続き、それ以降も土留め・潅漑などの改良が繰り返され、今日見るような棚田となった。佐渡の風景53:棚田(7)岩首」)に棚田の写真掲載。、
  近年では佐渡が世界農業遺産・ジアス(GIAHS=Globally Important Agricultural Heritage Systems)に認定されたことを象徴するポスターに採り入れられ、また岩首棚田米をブランド商品とて販売している。
 b.1797年(寛政9)松ヶ崎郷蔵への納米を止め独立郷蔵を設置。申請段階で「松ヶ崎が反対し奉行所も初めは却下したらしいが、ねばりにねばってついに独立郷蔵を設立」(『岩首郷土史』)
 c.医師招聘〔しょうへい〕
  大正12年医師を招聘。これは3年前悪疫が流行し多くの罹病者と死者を出した事に依る。「一部落で補助金を出して招聘することは容易でない。昭和4年頃までであったが、・・・医師が老齢なって故郷の九州で暮らしたいと云うことで止むを得ず閉鎖」
 d.共同漁場
  昭和6年から共同定置網を設置。以下、2歴史、産業、2)漁業、c に記述。
 e.自家発電
  ァ.1933年(昭和8)に自家発電事業を開始。当時は吉井の村宮電気と高千の組合経営電気のみ。
  ィ.はじめは個人営業の水車2ヶ所を借用して行ったが、1937年発電所を新設、岩首川の上流にダムを築堤し 昼間貯水・夜間送水し発電。
  ゥ.施設に部落共有金を使用したが、配電されない山家の10戸に相当額の現金を分与し行政の均衡を図った。昭和20年無灯家解消の波に乗り、「岩首の山家10戸に点燈する場合は既存の施設全部を譲渡せよとの事にて全部を東北電力株に譲渡し全戸に点燈し今日に至った、今部落所有の同会社の株券は其の時のものである」
 f.バス導入
   1961年(昭和31)松ヶ崎岩首間の県道補修をバスを導入するため自営で行った。
  ァ.1戸3工宛の奉仕。 
  ィ.「松ヶ崎の麦畑切り広げについては現物の麦を贈り12月11日より認可があり1日2往復の運航を行った」
  ゥ.車庫は会社の希望する場所(民家の納屋あり)で、「移築費全部を村が負担して建築し其後の賃借料も毎年負担した」
 g.児童館 
   1968年(昭和43)公民館をかねて児童館を完成。今日でも村事業の一つとしてある。
 h.基盤整備
   1980・81年に3地区の基盤整備事業を行ったが、一人の反対者もなくスムーズに行われた。「換地に問題があって国中の様な平坦地でさえ兎に角もめ事が有るのが通例であるが」
 i.体験交流施設・岩首談議所(旧岩首小学校)(前掲)
  地元民の憩いの場(例:プロの大道芸能の無料観覧)としてだけでなく、島外の大学生との交流の場としてあり、「竹灯りのお祭り」の活動拠点。
 「岩首談議所」ブログより
 「竹灯りのお祭り」とは佐渡島岩首地区の集落にある廃校になった小学校を利用して、島外の学生が地域の方を招いて行うお祭りです。

地域の方の参加費は無料。学生と廃校の首領が中心となって毎年屋台や太鼓の演奏などを行っています。

そのお祭りが今年で10周年!!
  実施日:20168月25日(木)〜829日(月) (4泊5日) 

  活動場所:岩首地区
  集合解散:佐渡島両津港(25
日昼集合、29日8時解散予定 )
  参加費:20,000

 (両津港からの費用しか含まれておりません。往復の交通費は各自でご手配願います)

  ■Pick up Point

  ・地元の方と触れ合いたい

  ・築100年以上。廃校の小学校に寝泊まりしてみたい

  ・名物おじさんに会いたい
 【作業内容】8月25日(木)〜829日(月)
 棚田・集落・地域(海など)探索、竹林・ビオトープ整備、竹灯りの集い準備(会場清掃・竹灯篭の準備・配置、点火準備など)、流しそうめん・焼きそばの提供、後片付け、各種合同ミーティング、自炊、談議所内清掃など。

 これらは地元民の進取歓迎・和親協力がなければ成り立たない。
  以上

佐渡の風景132:東鵜島

 こんにちは!自在業の櫻井です。
5月24日(火)。柿野浦を後にし東鵜島へ向かった。
 柿野浦から東鵜島への道を歩くのは、かれこれ60年ぶり。60年前の小学1か2年の夏柿野浦に滞在後多田からは艀(はしけ)で沖に待機している第八佐渡丸に乗換え新潟の親戚を訪れた時と、その数年後同じく夏休みに姉と遊びに来て、両津へ帰る時松ヶ崎(多田かもしれない)のバス停まで叔母に付き添ってもらって通った道である。当時は車は通れなかった。今は道路は拡幅・全面舗装され、バスが両津から岩首まで通る。
最初の時は柿野浦から多田まで親に付いて7.5劼瞭擦鬚そらく独力で歩いたに違いないが、その記憶はない。
 7年前岩首から松ヶ崎・多田へは歩いたことがあった。当時のテーマは棚田であった。
 (09年5月1日号「佐渡の風景53:棚田(7)岩首」、同5月3日号「同54:棚田(8)丸山」)
 そのときの事を、『広場』に記している。
 「歌見・浦川・馬首の〔棚田〕訪問の翌日4月24日(金)は、岩首・東鵜島・柿野浦の棚田訪問であったが、岩首で〔養老乃瀧を見た後棚田を見に行こうとして道に迷い〕つまずき果たせなかった。28日(火)に再度挑戦となり、その時は岩首・丸山・小倉にコースを変えた」「岩首の次は丸山。観光マップでは、岩首→2.6匸哨崎⇀1.9丗薪帖ΑΑΑ
 なお、参考まで『両津市誌』(東鵜島)に、
 「東鵜島は、前浜海岸にある小部落で、市の最南端にある岩首と柿野浦の中間に位置し、両部落からそれぞれ1.5キロメートルの距離」とある。この日は、柿野浦から多田まで幹線道路で7.5卻發い燭海箸砲覆襦実際は、山の方への脇道も往復したから、8匐といったところ。
 東鵜島の事前の調べでの関心事は、
1.集落に「泉福寺」というお寺があったが、昭和15年に柿野浦の「西楽寺」に吸収される形で合併(合寺)し、それぞれの漢字1字を採り入れて柿野浦を本拠とする「西泉寺」になったこと、
2.戸数にして10戸あるかないかの集落が、存在していること、
であった。
  
1.光景
‥豈島への道
DSC09518
1)柿野浦からの海岸段丘の登り道路は、佐渡海峡側は海へ落ちる断崖、山側は樹木が生える急斜面の崖が続く。当時の状況は記憶にないが、昔は落石・崖崩れ等危険であったことを感じさせた。
 a.画像拡大で、遥か遠くに海に突き出た松ヶ崎の鴻ノ巣鼻と灯台が見えてきた。
 b.奈良時代に出来た本州・寺泊との海の国道の駅が、松ヶ崎の砂州上に設けられたとされる。
 c.私にとって単に感覚表現にすぎないが、奈良時代というより飛鳥時代をイメージ。これは、現体験からか変わりなし。
2)歩いて15分足らずでポツンと小さな岩が見え、瞬間それが「鵜島」で東鵜島に入ったと直感。柿野浦からは意外に近く感じた。
 『市誌』に、「元禄検地帳には『うしま崎』という地名がある。柿野浦との境にある岬」とある。と
3)小さな岬をを曲がり下りて行ったところが集落。海に面しているから風景として 船揚げ場や船小屋や船を期待したが、無かった。浜からも「鵜島」が見えた。
東鵜島公民館
DSC09520
1)集落に入ると「東鵜島公民館」の大きな表札のある建物が目立った。
2)『市誌』ヨリ、
 「広場にある公民館」「村の広場の正面に公民館と1棟になって菩提寺の西泉寺がある」。
3)村の広場の公民館の西に小田原神社の鳥居があり、その奥に小川(鵜島川)が流れ、小橋を渡った境内に拝殿がある。まさにこの一帯はこじんまりとしているが、村の広場であることに変わりはない。
DSC09519
 近年改築されたものであろう、鳥居が真新しい。
集落全景
DSC09521
1)山道を少し歩いて行った。ある家の前でトラックの荷台から荷物を下ろしている2人の年配農婦と出合ったので、尋てみた。
 a.「この辺の人の菩提寺は、柿野浦にある西泉寺ですか?」
 「そうです」との応えに、私は両津の生まれで 祖父はそのお寺の住職をしていて、小さい時に2,3回くらい泊ったこといがあると言うと、次のような話をしてくれた。
 「住職さんの名前は、櫻井大聲(さくらいたいせい)さんですね【60年以上まえの事を知っていることに驚き】。娘さん〔叔母のこと〕と一緒に住んでいました」
 「娘さんは、辺りのもんは『お寺の良(よし:良子の略称)さん』といっていました。(柿野浦では、「裁縫の『良さん』と聞いた)。
 その後、新保へ行ってしまいました。年齢は、今いれば90歳過ぎで100歳くらいかも。それは、「良さん」と同じ年だったという人を知っていたので・・・」【同じく、よく覚えていることに驚き】
 b.昔ご当地の寺と柿野浦にある寺が合併したことについては、「東鵜島の寺は古くてあるに大雪で潰れたため一緒になった」。
 c.広い田んぼもなさそうでどうて暮らしているかを尋ねると、「自分たちが食べる分の田んぼや畑をもって作物を作っています」とのこと。【これまでの、質問からの応えからと、年齢はそれぞれ75〜80歳前後、記憶の良さ・元気のよさに驚き。勿論、二人ともトラックを運転できる】
 d.「家はまだ奥の方にもありかすか?」と問うと、「ここから集落の全て家が見えます。近年まで住んでる家が8軒あったものが、1軒空き家となり7軒になった」。【10軒未満の集落が現存していることに 驚きより絶句】

2.歴史
‖爾龍修
1)鎌倉幕府成立以降佐渡は鎌倉武士の本間家=佐渡の守護代の統治となり、当村は分家の本間九郎満繁地頭の領地となった。
 〔参考 愃甘莪篁』「佐渡の地頭一覧」(資料:『吾潟郷土史』)より
 地頭:本間九郎満繁、居城:北方、石高:高詳ならず、領地:北方・福島・岩首、備考:加茂郡 本間信濃守旗本
 参考◆愃甘莪篁』佐渡新穂村教育会編
  明治大正の国史界の泰斗で佐渡相川出身萩野由之(1860〜1924。東京帝国大学名誉教授・文学博士)の著。神武天皇と饒速日命、佐嶋遺事、佐渡幕末奇事、奥平氏の事蹟大略、明治元年の佐渡史談幕郷録抄を収める。付録に佐渡奉行歴代、佐渡国町村名鑑など収録。(昭和18年版復刻)〕
a.1589年(天正17)「佐渡が上杉景勝に平定される」。それまで東鵜島は「柿野浦とともに北方殿の地頭領だった」
b.1655年(明暦元)三郡の郡境を改定。「寛永の初め島内を5組に分けていたが、明暦年中に羽田・夷・大野・小木の4組となって、当村は大野組の支配下だった」
 【北方も大野も新穂に位置していることから、当村は隣の柿野浦・岩首とともに峠を越えてある新穂の統治者の配下にあったと言える】
2)東鵜島の村名
a.佐渡には、外海府に「北鵜島」がある。外海府と前浜の「鵜島」は、江戸幕府の佐渡奉行時代 加茂郡に属していた。一郡に同名の村があっては不便なので、行政上の必要から「東」「北」の冠を付け区別したとされる。
b.東鵜島の場合、宝暦2年(1752)の年貢割付書に冠はないが、宝暦13年(1763)に「東」が冠せられた。
c.互いに地元では「鵜島」と言っていた事は容易に想像がつく。地元民にとっては冠する必要ないからだ。
 ァ.元禄検地帳(1694)に「うしま崎」の地名がある(前掲)。
 ィ.文政年間(1818〜1830年)頃の村の様子を記した『佐渡国雑志』(越後の小泉善之助/著)より。
「柿野浦の村端より小石浜9丁ばかりにて鵜島。浪際より山根まで3、4間。山は是までの山より少し低し。鵜島より岩首へ10丁、内2丁は村内、8丁は村外。田畑高39石2斗3升1合。但五之位也。
 家数14軒、人数60人余。当村海際より家まで3、4間。後ろに大沢合い、尤も沢の行き留りの山高山也。
 宮1社小田原権現。寺1寺真言宗泉福寺。御林2ヶ所、横地新横地。
鵜島の村端より高山也。柴松等繁茂。甚だ険阻。
 小石浜3、4間。山根伝いは9丁ばかりにて岩首」とある。
村の主なできごと
1579年(天正7)泉福寺が中奥の宥寂によって再建されたと伝えられる(宝暦寺社帳)。泉福寺過去帳には、天正の初め宥舜なる僧によって創建されたと記されている。
1690年(元禄3)東鵜島から東立島まで8か村の名主が連署して、10月以降の官米運搬人足を拒否を申し合わせた。凍りついた道を大石までの運搬で死者を出したから。(蚫本間家文書)
1707年(宝永4)東鵜島から片野尾まで12か村の名主が連署して、拝借米制度の復活を奉行所に嘆願。当村の名主は太郎左衛門。(柿野浦鈴木文書)
1710年(宝永7)岩首から大川までの百姓が連名で地域の特殊事情をのべて諸掛り物の軽減方を奉行に請願。(月布施三浦家文書)
1828年(文政11)東鵜島村次郎左衛門の母「さん」が、98歳以上になったので、奉行所から扶助米をいただいた。(区有文書)
1876年(明治9)鵜島村泉福寺の廃寺に伴い、檀家一同で同一行動をとる申合せをしている。( 〃 )
1889年(〃22)1軒を残して村が全焼した。
         この年町村制施行。岩首から蚫まで6か村が合併して岩首村となった。
1911年(〃44)深浦から水津までお東部海産漁業組合が設立された。
1914年(大正3)東鵜島と岩首間に郡道が開通された。
1945年(昭和20)終戦。日華事変以来の村の戦死者は5名。
         この年電灯がつけられた。
1952年(〃27)岩首中学校が柿野浦の現在地に新築落成。
1955年(〃30)簡易水道が敷設された。
1963年(〃38)この年から3ヶ年計画で公団造林事業が始まった。5ヘクタールの植林。
1967年(〃43)新潟交通バスの前浜線・岩首線が東鵜島まで開通した。
 人口・戸数
1)戸数・人口の推移
  年号       戸数・世帯 人口   備考    
1694(元禄7)     14軒    
1838(天保9)     〃     79人
1841(〃12)      〃     84   
1882(明治15)    〃     96
1956(昭和31)    13世帯  75  
1965( 〃40)     11      58   
1970( 〃45)    〃     37    
1980( 〃55)    〃     30     
2016(平成28)3月: 7     13  住民基本台帳
2)産業別就業人口 (1980年 )          
        就業者合計    19  〔就業者率63.3%〕
          農業       11
          漁業       2 
         第一次産業計  13
          建設業      1   土建会社勤め
          製造業      2      2人は村の豆腐屋
         第二次産業計   3
          卸小売業     0        
          サービス業    2   2人は看護婦
           公務        1   役所勤務
         第三次産業計   3
【着眼 
a)元禄から明治中ほどまで少なくとも188年間 村の軒数が14軒と変わっていない。
 おそらく1軒当りの田んぼが狭く且つ開墾の余地がないこと(後述)、次男・三男に田んぼを分け与える余地はなく、彼らは早い時期に養子となるか・婿入りするか、稼ぎ人・奉公人として他所や島外へ働きに出るかしかない。
b)人口は、上記資料上は1882(明治15)の96人がピーク。隣の柿野浦のピークが1951(昭和26)の299 人(前号)とは異なり、人口減が早い時期に現れている。  
 これは、7年後の「1889年(〃22)1軒を残して村が全焼した」こととも関係しよう。
c)1世帯当たり人員は、1956(昭和31)5.27人⇀2016(平成28)1.86人、60年の間に3.41人減少。
   参考:1世帯当たり人員の推移
  1878年5.64→1841年6.00⇀1882年6.86→1956年5.77⇀1965年5.27→1970年3.36→1980年2.73年⇀2016年1.86。
 〔1965年(昭和40)から1970年(昭和45)の高度成長期での落ち込み(都市への流出)が顕著、近年でも減少は根強い。この場合、社会減でなく自然減〕
 1世帯2人未満は、自然のままでは人口が減り、世帯が減り、無人集落・廃村となることを意味する。
d)1980年就業者数によれば、村に豆腐屋があった。
 ァ)豆腐の原料は大豆。後述のとおり当地は田は少なく大部分が畑。大豆も作られていたのは確実。
 ィ)隣の柿野浦で幕末・天保期に豆腐1丁の値段が商人との間で決められた史料があるように(前号)、当地でも豆腐作りが盛んに行われていたと見ることができる。
 ゥ)1町歩ある「白岩」畑は、柿野浦とまたがっている。】
産業
1)農業
a.田んぼが平均6畝と極端に少なく その分を畑での収穫で成り立っている。
 岩首地区 各村の一戸辺り田畑面積(「畝」未満四捨五入)
  (主として元禄検地帳とあり、『市誌』による)
村名   田   畑   計   戸数
     反・畝 反・畝 反・畝 (戸)
岩 首  2・4  2・8  5・2   74
東鵜島  0・6  5・9  6・5     14
柿野浦  2・3  4・4  6・7     55
小 浦  1・6  3・0  4・6   17
尾 戸  2・2  3・7  5・9   22
立 間  1・8  2・9  4・7   17
赤 玉  2・6  2・9  5・5   59
【着眼
a)上表より、東鵜島の1軒当り田の面積は1反未満で極めて小さい。村全体でも8反4畝〔0.6反×14戸=8.4反〕
b)14軒中に田のない百姓が5軒いる(後述)ことから田持ち百姓の平均は、9畝余りで1反に満たない。他集落では最低が小浦の1.6反。
なお、「元禄検地帳には仲間田〔仲間所有〕2筆、5畝28歩〔1畝=30歩〕あがっている」とあるから、純私有地は約7反8畝で、田持ち平均は9畝を切る〔7.8反/9人=0.87〕。
c)他集落に比べ畑作を重点とし、データにないが漁業・林業でも大きな稼ぎが必要とされる。】
b.『市誌』の記述:土地が狭い事の例
ァ.「村の重立を見ても、惣左衛門は田1反5畝と畑8反2畝の9反7畝余、四郎右衛門は田7畝と畑8反5畝の9反2畝余、新左衛門は田1反3畝と畑1町1反8畝の1町3反1畝余、・・・である」
ィ.「土地が狭いので、7畝から8畝の田のある地所が、・・・3ヶ所しかない。それでも畑は1町歩余の所が、・・・2ヶ所ある」
ゥ.「元禄7年の田9反3畝余、畑8町3反2畝余の反別が、明治初年まで続いている」
ェ.「14軒のうち田地を持たない畑百姓が5人もいる
c.他の主な農産物
ァ.竹材:古くから他国へ売出されていたようだが、記録は残っていない。
  1949年(昭和24)頃と思われる「村内竹材売上高」控え帳によれば、
 春竹265丸、秋竹443丸、年間708丸で70,800円(1丸=100円)。「相当のかせぎであったようだ」。
ィ.茶
  1780年(安政9)年貢割付書きから見え始め、1871年(明治4)頃まで続いている。
  上々茶畑が1畝22歩、上茶畑が2畝歩、中茶畑が2畝歩、計5畝22歩の茶畑が約100年続いた。
  売り先は、新穂辺。
ゥ.漆木
  1763年(宝暦)の年貢割付書きから見え始め、1870年(明治3)頃まで続いている。
  茶と同様、新穂辺の商人に売っていた。
ェ.製炭:これらにも増して盛んだったが、記録が残っていない。
2)「盛んだった」漁業
a.『市誌』(町村編上:1983年刊)には、「少ない農業生産を補う意味もあって、海漁が極めてさかんだったと考えられる。・・・やや湾曲した海岸はよい漁港だった感じで、今も2,3軒の船小屋が並んでいる」とあるが、刊行から33年後の今、船小屋は見当たらない。
       船数と船歩銀
  年号     船数計 小  中  大  船歩銭  
1694(元禄7) 9    9                   10匁2分
1754(宝暦4) 3           3  15 0
1780(安永9) 4    1   2   1  10 7
1787(天明7) 4    1   3       8 1
1790(寛政2) 6    2   4      11 4
1824(文政7) 5    3   2       8 0
1838(天保9) 7    5   2      10 3
1853(文久3)10   10          11 4
1866(慶応2)10   10   2      13 7
1870(明治3)16   12   4      22 9 
b.その他特記事項
ァ.「元禄以来たら・いか・たこが税を課せられている。いかは千枚を納めることにして相場によって銀5匁5分から7匁6分、干たらは35枚で銀1匁3分から1匁8分9厘、たこは3頭で銀8匁1分4厘から11匁3分4厘が課税」
ィ.「あわび・いわし・はちめなども相当とれたらしい。いかは全域で捕れ、たこは磯ねぎか海辺のたこ穴から取り、たらは沖のくり場でとる。鵜島から蚫の沖にかけてすばらしいくり場があると言われる」
ゥ.「昭和24年の漁獲高報告書によると漁業従事者が12人で、漁獲高が16万6,000余りとなっている。主としてたら・すけそう・たこ・いかなどの延縄及び一本釣り」
エ 1838年(天保9)村勢報告にある納税例
 戸数14軒、人口79人。うち、指物師1人、桶屋1人。それぞれ役銭324文、224文が課税。
 年貢以外に銀納の中に、山役5匁4分、烏賊役5匁5分、鱈役1匁3分7厘5毛、蛸役8匁1分4厘2毛、漆木役4匁5分など。
ぢ質反
1)元禄7年の屋敷は14軒、軒数は明治初年まで続いた。次表参照。
        屋敷所在地(元禄7年)
地名 軒数    家 名  
河内  6  八郎右衛門・小兵衛・甚右衛門・善兵衛・次郎右衛門・四郎左衛門
 北   1  惣左衛門
小川  3  治右エ門・源右衛門・三郎右衛門
 浜   1  五兵衛・甚左衛門・新左衛門
2)江戸初期キリシタン禁制施策で全国に五人組制度ができたが、当村では「四郎左衛門が組頭と」の8人の上組と「惣左衛門が組頭」の6人の下組の2組があった〔なお、組頭は世襲でない〕。
3)明治・大正を通し大家の惣左衛門を中心に四郎右衛門・新左衛門・長左衛門・五兵衛らの重立が順番に区長を勤めた。昭和5年頃に重立から村中で持ち回りしたらどうかの提案があり、区長は選挙で定めることになった。
4)「現在は村務の全部を区長がひとりでやっている」。総会は年3回。総会の主な相談事項は、
 道路の改修・海産物の管理・水道の管理・賃金の決定・消防団の編成・公民館事業・生活改善事項・農家組合事業など。「役員の任期は1年で、お盆の総会で選挙することになっている」
タ仰
1)小田原神社 
 a.祭神は猿田彦命(「佐渡神社誌」)。神社の右手に秋葉社、左手に善宝寺(石のほこら)がある。
 b.宝暦寺社帳には、「勧請年暦知れずと、天正16子年改めの寺社帳にこれあり」「社人なし」。
 なお、「大家の惣左衛門が代々何くれとなく世話をして現在に至っている」
 c.「古老に聞いたら、安産の神様で、村の女子には難産がなく、子宝に恵まれて美人が多いと笑顔で語ってくれた」
2)鵜石山泉福寺
 a.山号が「鵜石山」とあるのは、鵜の岩山(島)と関係あるようだ。
  泉福寺の過去帳に「宥舜僧都泉福寺開基、法を長谷寺快意に受く。第一世なり、鵜島村出生なり」とある。畑野の長谷寺との関係が深い。
 b.柿野浦の「西泉寺」は、東鵜島の泉福寺と柿野浦の西楽寺が合寺したものだが、昭和36年の柿野浦大火以後、本寺の長谷寺から御本尊十一面観音菩薩をお迎えし、東鵜島の不動さんに仮遷座して現在に至っている。
 c.1897年(明治30)の檀徒帳によると、鵜島14軒、柿野浦13軒の計27軒の檀家があった。

3.まとめ
 峺続集落」(人口の50%以上が65歳以上)という言葉自体批判的な人は多いと思われるが、日本の多くの農山漁村や島々・過疎地では、その問題を抜きに地域は語れない。
 近年は首都圏でも限界集落に類似した現象が起きている。かっては、若い世帯の新興住宅団地であったものが、子が遠い所に勤務したり離れた地域に世帯を持つなどにより高齢者世帯が多くなり、地区のある一区画では限界集落になっていることが進んでいる
        限界集落の区分    
 名称      定義             内容
存続集落 :55歳未満50%以上:跡継ぎ確保、共同体機能次世代へ受継ぎ可能。
準限界集落:55歳以上50%以上:跡継ぎ確保が難しくなっている状態。
限界集落 :65歳以上50%以上:高齢化が進み、共同体の機能維持が限界状態。
危機的集落:65歳以上70%以上;9軒以下。高齢化が進み、共同体維持が極限。
超限界集落:特に定義なし    :特に定義はないが約5軒以下。
廃村集落  :1軒2名以下     :1軒となり、集落の機能が完全に消滅。
消滅集落  :人口ゼロ       :かつて住民が存在した無住の地。
  (資料;ウィキペディア)
東鵜島の場合、現在7世帯13人で世帯当り1.86人(柿野浦は26世帯・33人あるが世帯当たり1.27人)、前掲区分で言えば「廃村集落」ではないが近づいている。
A換颪砲△觚続集落再生の成功事例を生かさない手はない。
 ここでは、島の集落でないが本州の山間集落を取り上げる。(資料:読売新聞丹波版10年5月10日「ちょっと篠山・集落丸山」、毎日新聞13年11月17日「時代の風」)
 事例・方法はそのまま適用できるはずないが、志のある者にとって参考になる点はあるはず。なお、マスコミに取り上げられることはよいが、一般に成果が顕著に現われた時だけ。起業はリスク・困難を伴うが、継続は環境変化もあって容易でなく 現在どうなっているかを見ていく必要がある。過去の成功は必ずしも未来を保証するものでない。
1)兵庫県篠山市丸山は、市の中心である篠山城跡から5卍離れた山間にある5世帯・19人・過半数が高齢者の小集落。手入れの行き届いた田畑と里山の緑を背景に築150年以上の古民家群もあり、総戸数12戸あったものが、都会への流出などで7戸が空き家となった〔「当時、既に4世帯しか住んでおらず、それ以外が全て空家になっていました」(「集落丸山」HP)〕。中には、長者の屋敷だったのか堂々とした長屋門を構えた家もある。
2)「集落がなくなる」という危機を感じた住民らは話し合った。
 丸山」には得難い財産があった。山間の極小社会で培った住民の独立自尊精神と「集落は家族である」と言い切る結束。
 「空き家、耕作放棄地の負の遺産を地域資源に再生しよう」となった。
3)07年の長屋門の古民家診断と改修をきっかけとして、専門家が集落全体を調査した結果が、「古民家」発見で 宿泊施設「集落丸山」(農家民宿の運営)、食事処の開業。
 a.09年開業までの2年間、丸山の男衆・女衆の行動は目覚ましく、類は友を呼び、大勢の有志と団体組織が、専門知識や出資・補助金を提供。
 ァ.住民は、集落を離れた人たちと共にNPO法人「集落丸山」を設立。
 ィ.中間支援組織として道を共にする一般社団法人「ノオト」(地域コミュニティ支援、地域活性化事業)と有限責任事業組合「丸山プロジェクト」を結成。
 ゥ.所有者の空き家と農地を10年間無償で借り受け、日本の暮らしを体験する宿を作り上げた。
 b.食事処は、地元の豊富な食材材や湧水、人の結びつきなどに魅せられ料理のプロ2人が丸山にIターン。
 ァ.古民家続きの蔵と納屋を改造した小さなフランス料理店(古民家開設1か月後開店)と集落の奥にある蕎麦と旬のお料理の店。何れも予約制。
 ィ.「集落丸山」の朝食は、彼らの指南を受けた地元の女衆が作っている。
4)成果
a(前掲・読売新聞)
 「(開業して)たった8ヶ月。自然回帰ブームもあって隠れ家的なスポットとして人気を集め、口コミなどで広がり京阪神だけでなく首都圏や米国、オーストラリアなどからも旅行者が訪れる
 「〇〇さんは、丸山育ちで県外の大学に進学したが、「古里の山や田畑、かやぶきの農家の美しさが恋しい」とUターン。今は宿泊施設の女将役として接客を担う」(前掲・読売新聞)
b「開業から4年。『集落丸山』は黒字経営を持続し、若者のUターンさえ始まった」「『おかみさん』と呼ぶには若すぎる丸山の次世代ホープが女将役を見事に切り回し、客が知らず知らずに集落住民となるよう導いてくれる」

 以上







佐渡の風景131:柿野浦

 こんにちは!自在業の櫻井です。
5月24日(火)前浜地区巡り。行程は、次のとおり。
 両津港発6:55(東海岸線バス)⇀柿野浦7:40着(以下、徒歩)⇀東鵜島⇀岩首⇀松ヶ崎⇀多田(14:00迎えの車で両津へ)
 なぜ前浜?、柿野浦か?
 「佐渡の風景」は昨年6月〜10月にかけ内海府巡りをテーマに各集落について記述。前浜地区は、これまで祭・大木・棚田をテーマに取り上げているがいずれもで歴史を含む総体ではなかった。
 例えば豊岡はビワ林と祭り、岩首は棚田で記事にしたが、その間にある集落・柿野浦は取り上げていない。
 なお、当地には祖父が住職をしていた西泉寺(娘の叔母が世話)があり、小学時代2〜3回夏休みで遊びにいった記憶がある。(祖父は、記憶に残る一枚の家族写真(確か男3、女3はいた。新保で撮った写真という記憶あり)から、軍刀を持っていたから警察官かも知れない。そう言えば 旅に出ていた時に父が車を運転しながら新保の辺りで2、3人の農夫出会って声をかけ、後で昔の同級だと言っていた)
 柿野浦の最初は多分小学2年(1954年)の時。
 覚えているのは祖父と学生(多分、年齢から仏教系の大学在学中の石名の従兄に違いない)が縁側で大学や仏教の話をしていたこと、また新潟へ行くというので父と叔母と共に(祖父も同伴だろう)多田から艀(はしけ)に乗り(勝手が分からず このまま小舟で新潟へ行くのか心配した)、沖に待機していた第八佐渡丸に乗り換え、黒塗りの細長い煙突と救命ボートのある甲板の空いた所で横になった。海上は時化で船が上下に大揺れ。2時間はそういう状態が続いたであろう 夕刻信濃川に入ると急に波が穏やかになった。船に酔わなかったので叔母から船に強いと感心された。多分どこかで夕食を取り、それからバスで新潟(金衛町)の親戚の家に行き泊った。着いたのは夜で、海側は大きな木が鬱蒼とし、明かりといえば電柱の照明があるだけ。怪しげな記憶に過ぎないが、バスのライトの灯りから「金衛町一丁目」とか「二丁目」の標識を見た気がする。(なお金衛町は、少なくても昭和35年以降の高度成長期に新潟の高級住宅地として人気を集めた。なお、新潟大火は昭和30年10月1日末明に市の中心部で発生、全半焼家屋1000余戸。被害は繁華街の古町地区が中心、金衛町にまで及んでいない)。
〔「第八佐渡丸」について調べると、大正12年〜昭和29年(1954)運行・全長34.59m・総トン数231t・速力11.5ノットとある〕
 【「最初の時は多分・・・」と書いたが、佐渡汽船発行の『60年のあゆみ』に、「第八佐渡丸の売却」項目は次のとおり。
 「昭和28年新船建造の計画は当社の役員会では話題になっていたが、これとともに初めは貸し船として外へ出す予定をしていた。貸し船先としては神戸の東興海運、大阪の海洋商事、広島の共和海運との間に話を進めていたが、結局は広島の共和海運との間に売却の話がまとまり、昭和28年12月には1,670万絵円の売値も決まり、昭和29年1月6日「第八佐渡丸」は新潟港に別れを告げた」(『60年のあゆみ』佐渡汽船発行)
 そのため、「多分小学2年」は「小学1年」の間違いであることがはっきりした。】
 第八佐渡丸
 (画像は、 第八佐渡丸。1923(大正12)〜1954(昭和29)年)就航・231トン・定員200名(『100年のあゆみ』(佐渡汽船発行))
  小学4年の時は、姉と一緒で夷から宝作丸(両津〜前浜の定期:定員5〜6人乗りくらいか)に乗ってその時終着の赤玉で降り、柿野浦まで海と山に沿った狭い一本道を歩き(当時バスや車も通れない)、途中出迎えに来た叔母と会った。
 歩きながら 集落はそれぞれ岬の奥=「澗」(ま)にあると感じた。漁村集落から次の岬へ向かう坂を上って行くと岬から集落が見え、下ったところが漁村集落、・・・を繰り返す。柿野浦に入って間もなく山の方へ上がる小道があり角には時計があり、前に来たことがあったからそこが寺だとわかった。
 その時は、集落の同じ子どもたち同士ですぐ仲良くなり、一緒に海水浴したりして遊び、日が暮れるのがあっと言う間で非常に早く感じたものだ。
 水泳は海育ちであるから深くても泳ぎに自信はあるが、海は夷とは違って急に深くなる。近年まで関心なく気付かなかったが、小佐渡の前浜地区は海岸線は山が急に海底に落ち込んでいるので、そのため海は急に深くなることがわかった。また大佐渡のように広い海岸台地はないので、田んぼは山の斜面を切り開いて造成せざるを得ず、棚田となる。
 帰りは、多田のバス停まで叔母にお伴してもらい、小佐渡山脈を越え畑野経由で両津へ帰った。
 なお、柿野浦を知る上で外してならないのは、1961年(昭和36)10月7日末明の大火事。「折からの15mの強風に煽られて部落北側の五郎太夫付近から火の手」「熟睡中」「「消防活動は火のまわりが早く手のつけようもなく、わずか3時間余りで部落は焼け野原と化してしまった」「焼失をまぬがれたのは、部落の中心から100m川向うの小高い5軒だけであった。出荷の原因は漏電によるもので東北電力から見舞金が出た」。罹災世帯41戸、り災人口214人、全焼戸数36戸(付属建物合わせて111棟焼失)。(資料:『両津市誌 町村編上』(1982年刊)。以下、『市誌』)
 お寺も焼失(祖父は1955年に亡くなり、叔母は一人でお寺を守っていた。檀家に仏事などあれば、おそらく畑野の長谷寺(その末寺であった)あるいはより近い同宗派の寺からお坊さんが来たであろう。その後(3年経ったであろう 叔母は一番上の姉が嫁いだ新保へ移った。その経緯やその後の寺の事は不詳。

1.光景
 両津から東海岸線・岩首行きバスに乘ったが、乗客は柿野浦まで私一人だけ。
[Χ兇らとその下
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1)狭い山間に沿って奥へと家が並ぶ。奥といっても、せいぜい10軒余りか。後は、山に阻まれ田んぼへ行く道と小さな川があるくらいか。
2)陸の橋の下に佐渡海峡に続く船小屋があり、3隻の船が陸揚げ。
柿野浦集落センター(西泉寺本堂のあった場所)と境内
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1)西泉寺
 a.1694年(元禄7)奉行所への差し上げ「覚」より(当時の名主次右衛門が報告)
 一、境内5畝18歩 真言宗西楽寺、是は先規より地子御除下され置き候、何れの証拠も御座なく候。
 一、西楽寺真言宗にて当時長谷村長谷寺門徒、開基年暦知れ申さず候、然れ共過去帳に文禄元壬辰年竜蔵と申す住持再興に御座候 それより元禄7甲戍年迄百弐年にまかり候
 b.宝暦の佐渡国寺社帳より
  一、白山権現 社人なし 当社勧請の年暦不知と元禄寺社帳に有之、社地3歩御除。
  一、西楽寺 当時延享2丑〔1745〕年11月13日(長谷寺)末寺に改。開基知れず。天正16子年、文禄元辰年の両度再建と元禄寺社帳に有之、境内5畝18歩御除。
 c.『両津市誌』
  「西楽寺昭和15年〔1940〕6月、東鵜島村の泉福寺と合併して西泉寺となった。両寺院の檀信徒は親睦と寺院の財産づくりが合併の理由という合併寺の僧侶は櫻井大聲であった。合併前の両寺院の守本尊は西楽寺阿弥陀如来、泉福寺大日如来で合併後両本尊をまつっていた。
 昭和36年10月の大火では村は壊滅にひとしい災害を受け西泉寺も焼失してしまった。その後本寺長谷寺から御本尊十一面観音菩薩をお迎えし、東鵜島の不動さんに仮遷座して法灯を守って現在に至っている」
 東鵜島の寺との合併について東鵜島で当地の農婦とたまたま話をした時 合併は東鵜島の寺が古くて雪で潰れたため、柿野浦の寺と一緒になったとのこと。市誌にある「両寺院の檀信徒はと親睦と寺院の財産づくりが合併の理由という」とあるより遥かに具体的で説得がある。
 d、現在は集落センターの建物の隣に西泉寺の小棟と軒下の玄関柱に「西泉寺」と墨書のある板が取り付けてある。(右画像の右寄り)。
2)集落センター
 1975年(昭和50)11月集落開発センター竣工。「総経費1,200万円、うち補助金275万円であった」
6内からの村の眺めと田んぼへ至る道
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1)周辺の建物全ては焼失し、角にあった時計は無いが(後程 地元の人から大火で時計焼失を確認)、境内から見た坂道の勾配や海の見える位置は60年前と変ってないような気がし安心した。左画像真ん中近くの右の建物は、大火以前2階建てであったと思われる。その2階で子ども同士集まって話をしたりして遊んだ。
2)今回は寺の前の山への道を上って行った。
 a.小4の時一人で歩いて行ったが、人家がなくなり更に少し歩いたとことで引き返した。
 b.事前のラフ調査で耕地が少ないと見なしていた柿野浦は10町(ha)の田んぼがあることを知り、さわりだけも見ることにした。
 ァ.集落全体で10haの田んぼが、果たして山に阻まれた奥地に開かれているのだろうと疑問を持ちながら進んだ。道路脇に棚田になった田んぼはあるが、これでは狭すぎる。一方、耕作放棄の田んぼもある。そこは雑草が生い茂っている。
 ィ.脇道に1本だけ身の丈60cmくらいの細い竹の子を発見。片側は竹藪で根が地中で道路に延び、コンクリートを突き破って出て来たもの。
(竹の生命力について最近高校時代の同級生(新潟市在住)から、近年無人となった実家(奥は竹藪)に行って見ると数本の竹が土間を突き抜け、どうにもならない状態になっているとのこと。
 c.田んぼの写真を撮っていたら、お年寄り農婦が登ってきた。この上に行けば広い田んぼがあるかを尋ねると、「そうです」と返事。
 ア.話の最中、もう一人農婦がやって来た。
 イ、鼓童研修所へ行くのですかと尋ねられた。そう言えば、和太鼓の芸能プロ集団・国内外で活躍の「鼓童」のプロ養成所が、柿野浦にあった。
3)農婦から聞いた事
   西泉寺は昔祖父が住職を務め小さい頃2、3度泊まったことがある等を言うと次のような話をしてくれた。
 a.西泉寺は柿野浦の大火で全焼したが、現在もご住職がいて存続。なお、角にあった時計は、大火で燃えてなくなった。
 b.昔、お寺に、「よしさん」という人が住職さんと住んでいた。(漢字で「良子」であろう。姉たちは「よしこおばさん」と言ったり、私もそうだが小さい時は「浜のおばさん」と言っていた)
 c.「よしさん」は裁縫が上手で 辺りのもんは、「裁縫のよしさん」と呼び、習いに行った人が多くいた。
  成程そう言われてみれば叔母はいつも着物姿、おしゃれで高級イメージがあった。
 
2.歴史
 崑爾寮立は南北朝時代かと考えられ、日枝荘園「新穂荘」と深い関係があるといわれている」(『市誌』)
1)近江国〔滋賀県〕の「日枝神社領注進記」(1319年(元応元)に「佐渡国新穂庄」と記載されている。
a.「新穂庄内は現在の新穂・北方・青木・大野付近を中心としていたが、鎌倉時代から南北朝時代に荘園の本所日枝神社と佐渡新穂庄地頭の間で年貢や公事の収取、土地支配に関して争論が起きた。そこで解決法の一つとして、下地全体を折半してそれぞれ荘園領と地頭が領有して、相互に侵さないようにしたという」、新穂川の左岸の新穂・大野・北方が日枝社領、「右岸の青木・ニ方潟・潟上が地頭方になったのであろうといわれる」
b.「江戸時代の佐渡諸史書に前浜の村々のうち、岩首・東鵜島・柿野浦が北方〔きたかた〕領、東小浦・尾戸〔なお、両村は明治10年合併し「豊岡」村誕生〕が新穂領とあることから「中世の代は北方地頭に属して、滝沢銀山(新穂村)の繁栄がこの部落の発展を促した形跡が認められる(『岩首村史』)」
 ァ.1695年(元禄8)「この村から山元の北方村へ山役として鱈6枚分の銀3分を納め、ほかに山手代として銀10匁を大野村、銀24匁を北方村へ納めている」(区有文書)
 ィ.〔柿野浦〕は、領内の産物の交換や、対岸の越後への産物輸出港としての開発は重要な施策でもあった。村から新穂大野に通ずる道に「清水寺越え」があるが、この道も地頭時代に開発した道であろう。村は領内の港として利用されたことは確かである」
2)柿野浦の金山

 a.08年12月29日号「歴史スポット35:鉱物(1)佐渡の金銀銅鉛山」)
 「3)新穂の大野から、小佐渡山脈を越え柿野浦、松ヶ崎に出る道がある。その地区に柿野浦黄金山・松ヶ崎黄金山がある。

  a.黄金山を、今日でも「きがね山」と呼んでいる。鉄は「くろがね」、銅は「あかがね」、銀は「しろがね」、金は「きがね」。

  b.金を「きがね」という言い方は、歴史的に古く、中世的な砂金採集方法によって金が採られたとされる。明治のはじめに「きがね山」で金を試掘したが、”金が若くて駄目”だったという話を土地の人がしていた。坑道堀りでは、投資に対し金の量が少なく採算に合わないという意味。」
 〔追記(16.6.23):「佐渡市島内の地質概略図(新潟県1989)に「柿野浦木金山、岩首木金山、岩首鉱山、松ヶ崎木金山、松ヶ崎鉱山がある〕
 b.「佐渡四民風俗」(佐渡奉行所編纂:1756年刊。1840年「追加」は別途に記述。以下は、1755年頃の記述と見て良よい。
 「柿野浦村は以前黄金山の御稼有之所にて、30ヶ年先まで川流等有之、御運上相立申候。其頃迄は相川より稼人も入込、村の助にも成候。此所山の嶺赤く兀け外の山立とは違ひ申候。惣て、砂金山或は金銀山有之所の山は険阻にて嶺赤く兀け候由及承罷在候処、先年奥州半田銀山〔福島県伊達郡:大同元年807)に採掘が始まったと伝えられるが、本格的操業は慶長3年(1598)という〕御用に罷越候砌〔みぎり:折りの意〕右体の山を遠方より見掛候て相尋ね候へば如案以前砂金稼有之、其後稼捨の場所に候由申候に付き、兼て居候に的当仕候。赤く兀候は金銀の気を含み候故、金焼と申様なる義にも可有之候哉。西三川金山抔〔など〕の赤兀等相川金銀山は勿論其証多く御座候」
 【「四民風俗」からの着目
 1)柿野浦の金山稼業時期は明らかでないが、1650〜1720年頃までの短命稼働か。 
 a.新穂銀山が1649年大盛りの記録あるが以降衰退とされるから(『佐渡相川郷土史事典』)、おそらく1650年以降に金銀で探しで柿野浦や岩首の木金山(いずれも砂金山)の発見・操業となった。但し、両者は「佐渡島内鉱山遺跡一覧表」(50ヶ所)に載っているが、他の大半の小佐渡・前浜地域の鉱山遺跡(例:松ヶ崎、野浦)同様名前はあるが、分布調査・遺跡周知化が行われたわけでない。
 b.前浜地区で唯一 出典があるのは柿野浦木金山だけ(『佐渡国雑志』と絵図資料・舟崎文庫)。
 2)「川流〔かわながし〕とあるから、山を掘り鉱石を穿つ金山でなく 山を崩して川に流して砂金を採る砂金山。
 3)文政の頃(1818〜1830)越後の名主小泉善之助箸による『佐渡国雑志』の柿野浦
  「東鵜島へ11丁内2丁村内9丁道法〔みちのり〕、但し当村海際波際ヨリ家迄4、5間ノ小石浜 後〔うしろ〕ハ沢合深シ沢合ノ家過分二有 山ハ一円竹藪松柴モ有、金山間歩跡有、村端ヨリ小石浜9丁計ニテ鵜島、浪際ヨリ山根迄3,4間、山ハ是迄ノ山ヨリ少し低シ、杉柴畑方過分二相見ル 当村ヨリ浜道両津ヘ6里半3丁30間 浜道松ヶ崎ヘ1里5丁40間」とある。
  なお、金山間歩跡有とあるから、砂金ばかりではない。
 2)『市誌』より
  a「(柿野浦)村は後背地に木金山・丸山・焼山〔先の「金焼と申様なる義」と関連か〕などがあり、南には木金山を源とした柿野浦川が「くぼ川」と合流して海に注ぐ」
  b「村の主なできごと」に、「享和3(1803)柿野浦黄金間歩、大野村黄金という所に砂金がでるので、相川町人が自分稼ぎを始めた。(佐渡四民風俗)」とあるのは、間違い。当書には年代が書かれておらず、年代からいっていっても遅すぎる。相川から稼人が来たというのは、史料ではせいぜい1720年頃までの事。
 3)「山は剣阻にして赤く禿げ・・・」は、以前西三川の笹川集落から見た虎丸山の光景とイメージは同じ。
 以下、09年10月18日号「歴史スポット51:西三川砂金山(1)史跡めぐり」での笹川集落から見た「虎丸山」について、

 「1)西三川砂金跡群の中でも、稼ぎの大きかった山の一つに挙げられている。

    2)山の上部に赤茶けた大きな壁の断崖が見えた。画像では、逆光のためはっきりと映っていない」
とある。
村の主なできごと
1592年(文禄元):西楽寺再建立と伝う。(宝暦寺社帳)
1617年(元和3):柿野浦中使五郎太夫が新穂を相手に入会山について奉行に訴えた。(区有文書)
1660年(万治3):新田2筆、宮内左衛門、大はし下々田13部此米1升3合、次左衛門 中ふか川内下々田1畝10歩此米4升と、新屋敷1筆、甚右衛門 上屋敷8歩此米2升の検地を受けた。
1691年(元禄4)前々からの本年貢27石4斗4升余に今年の増し年貢とぢて49石5升5合に請け書を出した。(区有文書)
1692年(〃 5)村で神社除米(伊豆奈大明神、石動権現)の誤納復活を申請した。名主次郎左衛門、組頭源内、百姓代五兵衛。
1694年(〃 7)荻原奉行によって一国総検地が実施、検地帳が交付。案内人は、次右衛門と源内。
1695年(〃 8)7月村が山役として北方村へ鱈6枚・駄賃銀3分、ほかに山手として鱈4掛買出し駄賃共1掛けに付き2匁5分ずつ、北方村へ鱈掛買い出し駄賃共1掛に付3匁ずつ入れる【意味不明、要解説】。名主次右衛門。(区有文書)
1707年(宝永4)9月片野尾から東鵜島まで12ヵ村【東から片野尾・月布施・野浦・東強清水・東立島・蚫・赤玉・立間・尾戸・小浦・柿野浦・東鵜島】の名主連印で、拝借米制度の復活を奉行所に懇願した。(鈴木家文書)
1710年(〃 7)大川から岩首まで15ヶ村【大川から時計回りで水津、片野尾〜東鵜島12ヶ村、岩首】の百姓連名で、東浜地方の特殊事情を述べ、諸掛り物の軽減方を奉行所に嘆願した。(水津村史料編年記)
1715年(正徳5)神保奉行、柿野浦村の事情を視察した。(撮要年代記)
1724年(享保9)村で年貢定免取りの請願を奉行所に差し出した。享保4年から8年まで5カ年間の年貢を、正徳5年から享保2年まで3ヶ年の平均で納める達しがきたが、村々はとりつかなかった。奉行所は一国中の名主を集めて相談の上、宝永5年から享保2年までの10ヶ年の年貢を平均しての定免制が決まった。名主は宮内左衛門であった。(区有文書)
1783年(天明3)3月火災。類焼百姓家30軒、長屋20軒、肥料小屋30軒、船小屋8軒、伊豆奈権現1社、石動権現1社、西楽寺1ヶ寺、船1艘村仲間持ち、1艘次右衛門、1艘新十郎。罹災人数138人。( 〃 )
1804年(文化元)無宿賄いの負担について争論がおき、赤泊ほか丸山・河内・柿野浦など8ヵ村が半分、下川茂・徳和・真浦など12ヶ村が半分負担することで話し合いがついた。(佐渡近世史年表)
 【無宿賄いとは、百姓が佐渡奉行所の命によって各村の数人が一定期間佐渡金銀山で無宿人と同じように働く役務を課せられているのに対し、鉱山労働を免除してもらうために無宿人費用を村単位で負担するというもの。例:15年9月22日号「佐渡の風景126:北五十里」「主なできごと」より
 「1822年(文政5)鉱山の水替え人足の割当てにつき、北五十里から加茂・歌代村までと釜屋村のわせて8ヵ村が協議をし、少々ずつ出銭し差し上げるから、奉行所で人足を雇い入れになられるようお願いすることとなる」
 なお、鉱山は坑道を掘れば掘る程湧き出る地下水への対策(24時間必要)が課題となるが、江戸から無宿人を強制送りで水替え人足として働かせる発案者は、1756年佐渡奉行を務め1759年勘定奉行に昇進した石谷清昌。1778年より実施。】
1826年(文政9)村で疫病が発生し百姓たちが難儀した。(年代記)
1830年(天保元)村で村内の作徳米〔=年貢や小作米を納付した残りの米〕を他村に出さないことを申し合わせた。(鈴木家文書)
1840年(天保11)「柿野浦・尾戸は赤泊に習い、たばこを作っている。(四民風俗追記)」
 参考:以下は、「佐渡四民風俗追加〔1840年〕」柿野浦・〔東〕小浦・尾戸村に関する全文
  「柿野浦・尾戸辺も赤玉にならひたばこを多く作り、新穂辺へ売出し国用に相成、近年は赤玉より品も宜敷由、且又尾戸、小浦辺、子を間引き候儀有之候処、文化年中御世話有之御手当等被下裏目付役教諭致し候故、其後相止候趣に御座候。併し尾戸村に子捨穴と申場所有之程の旧習に候へば、速に相止候趣も無心許儀に御座候」
1873年(明治6)赤玉から莚場まで12ヶ村が、羽茂郡(第2大区)の10の小区に編成された。
1889年(〃22)町村制施行。島内291ヶ村が58町村となる。蚫から岩首までの7ヵ村〔蚫・赤玉・立間・豊岡・柿野浦・東鵜島・岩首〕が合併して岩首村となる。
1897年(〃30)佐渡島内大洪水があった。村の被害は家屋土蔵合わせて31戸、流出の家2戸・土蔵3棟、埋没した家16戸・土蔵3棟・納屋2棟、床下土砂侵入2戸。(佐渡水難実記)
1914年(大正3)柿野浦から東鵜島弁天崎まで郡道の拡幅が行われた。
1945年(昭和20)太平洋戦争が終結した。この村の戦死者は日華事変以来11人であった。
1947年(〃22)新学制が施行となり、村の「のぼりたて」に岩首中学校が創設された。総工費21万6057円22銭。
1953年(〃28)柿野浦そさい採種組合が設立され、地区採種事業の定着の原動力となった。
1954年(〃29)11月町村合併により両津市が誕生した。
1955年(〃30)村に簡易水道設置。経費12万5000円。
1961年(〃36)柿野浦大火。10月27日午前2時頃出火。罹災世帯41戸、家屋付属建物を合わせ111棟焼失。
1962年(〃37)岩首中学体育館、現在地に新築。部落公団造林事業実施。面積2ヘクタール。
1965年(〃40)陸上自衛隊工作部隊によって岩首・鵜島・柿野浦・豊岡間の県道拡幅される。
1974年(〃49)新潟交通バス前浜(小木〜柿野浦)と、岩首線(佐和田〜金井〜畑野〜柿野浦)の2路線が柿野浦まで運行となる。
1975年(〃50)11月集落開発センター竣工。総経費1200万円、うち補助金275万円。
1976年(〃51)1月新潟交通の会員バス両津〜岩首間朝晩運航となる。
1977年(〃52)部落内の県道は幅員8mの完全舗装となる。
1980年(〃55)新農業構造改善事業の実施によって、農道416完成。費用1629万円。
人口
1)戸数・人口の推移
  年号      戸・世帯 人口(人)  備考       
1694(元禄7)   名請人62人    元禄検地帳(屋敷数51)
1751〜(宝暦)   47   214  佐州巡村記  
1836(天保7)    46   239  村年貢皆済帳目録
1882(明治15)   49   260   佐渡地誌摘要  
1888( 〃 21)  49   270   村勢要覧
1951(昭和26)   44   299   岩首村勢概要
1965( 〃40)    45    191   国勢調査    
1980( 〃55)   40   104     〃 
2016(平成28)3月:26世帯   33  住民基本台帳
2)1980年就業者人口
  産業別人口合計       76  (就業者率73.1%)
             農業      65
            林業       1
          漁・水産業    6
         第一次産業計  43
           鉱業       1
          建設業      13
          製造業       5
         第二次産業計   19
          卸小売業      1
         金融・保険業    1
         運輸・通信業    1
          サービス業     0
           公務        2
          第三次産業計  14
 【着眼:
 a.戸数・人口は、江戸時代は概ね47戸、人口214人、1戸平均4.6人。
 b.人口は戦後の1951年299人.、その後減少し2016年3末は33人で宝暦期(1750年代)の15%の水準、同じく世帯数26世帯で1世帯平均1.27人、単身者世帯が多いことを示している。2人以上世帯は7世帯(=33人−26世帯)で全世帯の26.9%(=7/26)≒4世帯に1世帯、単身世帯は3/4占めている。
 c.人口に対する就業者率は、73.1%と非常に高い
  これは、就業者のうち農業就業者の割合が85.5%あり、定年の無い高齢者によって農業が支えられていることを意味する】
せ唆
1)農業
a.柿野浦の地図:(『市誌』より)
 2016070310120000
【着眼
 1田んぼは、海岸線から図面上直線距離で300〜900m、標高にして50〜150mのところにある。
  田んぼのある地名:上田、久保、谷平、小山、下小山、わらび坂、大久保
 2柿野浦北川(東側)と柿野浦川(西側)の間(幅200m、奥行き250m)に集落。
 3岩首中学校は、柿野浦。
  1)1947年新学制(例:国民学校⇀小学校・中学校)による岩首中学が、柿野浦に設立。
  〔柿野浦に設置されたのは、岩首には岩首尋常小学校(校舎は明治35年築。現在は廃校で、岩首談義所として存在)があり、中学校は柿野浦にという要望が強かったのであろう〕
  2)岩首中学校は1995年廃校、同年4月1日から水津にある前浜中学校(岩首中学と水津中学とが統合)に移転。
   廃校舎は、現在鼓童文化財団研修所として活用されている。】
b.田畑の推移 
             田       畑       備 考
 年次       町・反・畝・歩 町・反・畝・歩
1694(元禄7) 12.7.8.4 24.5.0.4  元禄検地帳
1751〜(宝暦)   〃       〃       佐州巡村記 
1841(天保12)   〃       〃      佐渡国巡村記
1869(明治2) 13.4.5.0 24.4.4.0  村明細指出帳
1939(昭和14)12.8.7.0 15.7.1.1  岩首村勢概要
1951( 〃26)12.8.1.1 13.8.2。1      〃
1965( 〃40)  1,299a     957a      農林業センサス
1975( 〃 50)  1,678a      91a         〃
1980( 〃 55)  1,583a     134a         〃
 参考 内海府・内浦各村の1戸平均田んぼ面積
  (資料:「佐渡の風景126:北五十里」(前掲))
  北五十里3.5反(1789年)、以下は宝暦期1750年代基準):
  白瀬3.5反、小松1.4反、玉川3.1反、坊ケ崎2.6反、和木3.2反、馬首3.0反、北松ヶ崎2.4反、浦川3.1反、歌見4.1反。

【着眼
 柿野浦は、江戸期1694年元禄検地以降は、概ね田が12.8町、畑が24.5町と大きな変化なし。
 a.耕地=田畑の開発は、それ以上は立地・収穫・経営面から難しく、またそれでやりくりできたからであろう。なお、1650年代頃には開発はほぼ終了したと推定。
 b.村全体で畑の面積が田の2倍。データは元禄以降宝暦・天保と変わってないが、これは元禄検地帳からの単なる転記と推察。
 c.『市誌』に、
 「約200年後の明治2 〔1869〕では田約6反7畝の増となり畑はわずか6畝の減であった。明治4年(1871)に封建的諸拘束の廃止の一つとして田畑勝手作りの許可がでた。どこの村でも耕地開発の可能な場所はこのころから急速に開墾されているがこの村もそうであったのかもしれない」 とある。
 だが、データからわかるように柿野浦は明治に入って他の村々のように田の面積が拡大していない。明治前期の田の増加は、開墾もあるが江戸期に年貢逃れのための隠し田が計上されたことが大きい。
 また、開墾すればよいというものでなく、当地ではこれ以上の開墾は開墾費・生産費・管理費の面から不経済と読んでいたと推察。柿野浦は、1660年代で新田開発はほぼ完了。
 前浜地域は山々が急激に海岸へ落ち込んでいるから田の開発・給水は容易でなく、畑に頼らざるを得ない。
 一方、小佐渡の国仲平野側は前浜と違って斜面が緩やかで どこかに水が集まり川となりやすく、小佐渡の東方の山からの水が川を成して東から西へ国仲平野を潤して国府川に合流し、やがて真野湾に注ぐ。】
 c.畑作では近隣の赤玉にならってたばこ作りが盛んだった。
  「柿野浦、尾戸辺も赤玉にならひたばこを多く作り、新穂辺へ売り出し国用に相成、近年は赤玉より品も宜敷由」(『佐渡四民風俗』)
 d.農業のほか、漁業・林業もある。納税から見た産業。
   参考:1835年(天保6)村御年貢米金銀皆済目録写(年貢内訳)
  高312石3斗7升5合
一、米 72石7斗9升1合  田方
一、米 19石5斗9升8合  畑方
一、米  3石6斗9合6合  口米
   内2石9斗1升2合田米 7斗8升4合畑米
一、米 1斗9升 御天馬宿入用
一、米 6斗3升3合 六尺給米
一、銀 47匁4分5厘6毛 御藏米入用
一、銀 20匁5厘7毛 山役
一、銀 19匁8分 烏賊3,600枚 烏賊役
一、銀 2匁4厘3毛 干鱈54枚 干鱈役
 以下(単位。銀)
 蛸役(大蛸3頭)8匁1分4厘8毛、漆木役4分5厘、麹室役2匁7分8厘6毛、濁酒役2匁8分5厘7毛、船歩役27匁4分3厘2毛、口銀2匁5分7毛
一、銭 688文 油絞役
 合計 米:96石9斗8合、銀:133匁5分3厘、銭:688文
 ・・・・・・・・・
 右者去未御年貢小物成皆上納候
 天保7申3月
 家数46軒 人数239人 寺1か寺 宮3社
 1貫200匁 板木商人1人役銭 1貫200匁家大工1人役銭 1貫600匁 木挽く2人役銭
 同年の書き上げに、大船9艘、小船8艘とあり、3軒に1軒は船を有していた。
 e.幕末期の交易協定事例
 1843年(天保14)村と越後屋助左衛門との産物値下げ協定にある品目例、( )は値段
 (『市誌』」には、「村は越後屋助左衛門と産物値段引下の協定を結んでいる。次の「諸色直段覚」〔〔品目」「値段」「引き下げ幅」の欄がある〕は、その時のもので、「天保の改革における幕府の重要な値下げ施策として行われ、産物もこのようなものが、多く産出されたと考えられる」とある)
 米1升(53文)、大豆1升(53文)、小豆1升(33文)、大麦1升(24文)、小麦1升(53文)、蕎麦1升(28文、稗1升(33文、薪3尺縄1束、杉板1坪6尺張り、杉皮1坪、杉小羽、松板6分・8分・1寸・1寸2分、波縄上・中・下、莚1束、竹1本1尺・9寸・・・・2寸、豆腐1丁、小船賃銭1里に付き、飛脚賃銭1里にっに付き、糀1升、草縄1貫
 外に漁類並諸品時々見計直可改候。
  小前総代:九兵衛、商人総代:助右衛門、重立総代:源内
  組頭;惣二郎、名主:五郎太夫、
  家大工:久左衛門、木挽:主十郎、糀屋:五郎太夫
 f.戦前戦後今日での畑作事例
 ァ.村の畑どころは白岩団地で約3ヘクタール。第二次大戦前後麦類と豆類・甘藷・菜種など、自給野菜の栽培が多かった。
 ィ.戦後、畑団地をより豊かにする作目はないかと同志が相寄り研究討議の結果、そさいの採種事業に決定。
 顱忘惑歇圓蓮柿野浦9人、東鵜島2人の計11人で寄居かぶの採種に取り組み、1952年柿野浦採種組合を結成。
 髻飽瞥茵∈酩佞虜醋棔¬明僉∩塙膂の増員などで1977年度(昭和52)には水田860アールの米出荷相金777万円にせまる770万円(採種面積400アール)の売上となった。
 鵝烹隠坑牽闇度の地区内採種組合員74人、面積697アール、売上1289万円となり、地区内の安定作目として定着。
ぢ質反
1)村方三役  
    村方三役推移表
  年次       名主      組頭     百姓代
1617(元和3):五郎太夫
1691(元禄4):次右衛門   源内
1692(〃  5):治右衛門   〃       五兵衛
1695(〃  8):次右衛門
1705(宝永2):  〃     弥次右衛門
1721(享保6):源内      五郎太夫   与十郎
1724(〃 9):宮内左衛門  惣三郎    四郎太夫
1743(寛保3):新九郎     九兵衛    惣右衛門
1783(天明3):源内      九郎兵衛   五郎太夫
1843(天保14):五郎太夫  惣三郎
1855(安政2):助右衛門   源四郎    五郎太夫
1871(明治4):源内        〃
2)五人組
 当村には江戸時代の五人組仕置帳は残ってないが、現在の五人組は次表の8組37人。
 1.孫兵衛、五郎太夫、紋十郎、左衛門四郎、三十郎(S30両津へ)5人
 2、甚三郎、三郎左衛門、久右衛門、甚左衛門、助右衛門      5人
 3.市十郎、孫左衛門、多兵衛、源七郎、甚兵衛、源蔵(S34転出)6人
 4.新吉、宗三郎、藤内、孫三郎、宗兵衛                 5人
 5.兵吉、藤左衛門、又十郎、新十郎、佐藤五郎(S34転出)     5人
 6.甚右衛門、孫十郎、伝四郎、作十郎、清蔵              5人
 7.伝助、平左衛門、藤吉、源内、海軍(S32転出)           5人
 8.長兵衛、源四郎、太郎兵衛、儀左衛門、惣右衛門          5人
3)「現在の村組織」
 a.役員:区長1、副区長2(甲・乙)、委員5。総会で選出され任期は1ヶ年。
 b.定期総会:年3回
 ァ。1月4日(初総会):事業計画・予算案の審議
 ィ.8月:前半の諸報告・次年度の役員選出。区長は前年の副区長甲が就任するが総会で承認され、乙は委員5人の中から選出。
 ゥ.12月15日(決算総会):年内事業報告・決算報告。
 c.機能担当
  区共有財産管理者副区長乙1、集落開発センター主任1、共同作業場責任者1、簡易水道責任者1、消防団長1、子供会育成会会長1、公団造林管理責任者1、老人クラブ会長1、そさい採取組合長1。
 d.村の主な共同作業
 ァ.農道整備 春・秋2回
 ィ.海産物共同採取。ナガモ・エゴ・モズク等。
 ゥ.公団造林の下草刈り、枝打ち
 ェ.防災訓練10月27日(防災日)
タ仰
1)宝暦(1751〜1764年)の「佐渡国寺社境内案内帳より。  
 一、伊豆奈権現
  社人:権助。当社勧請の年暦不知と天正16子〔1588〕年の寺社帳に有之、社地4畝歩御除。
 一、石動権現
  社人:源内。当社勧請の年暦不知と元禄〔1688〜1704〕寺社帳に有之、社地12歩御除。
 一、白山権現
  社人:なし。当社勧請の年暦不知と元禄寺社帳に有之、社地3歩御除。
 一、西楽寺
  当寺延享2丑〔1745〕年1月13日(長谷寺)末寺に改。開知れず。天正16子〔1588〕年、文禄元
辰〔1593〕年の両度再建立と元禄寺社帳に有之、境内5畝18歩御除。
 なお、元禄7年(1694)奉行所への差し上げ「覚」には次のようにある。
  一、境内5畝18歩 真言宗西楽寺、是は先規より地子〔ちし:領主が田・畑・山林・屋敷地などへ賦課した地代〕御除下され置き候、何れの証拠も御座なく候。
  一、西楽寺真言宗にて当時長谷村長谷寺門徒、開基年暦知れ申さず候、然れ共過去帳に文禄元壬辰年竜蔵と申す住持再興に御座候、よれより元禄7申戍年迄百弐年にまかり候
 と「当時の名主次右衛門が報告している」
2)石動権現と白山権現の両社は、明治4年社格制定によって伊豆奈神社の境内社となった。
3)村の神々は昭和28年(1953)に天神様・石動権現・三峰山・秋葉山・若宮・十二社・善宝寺を合わせまつらている。
4)伊豆奈神社と西楽寺は昭和36年の大火で焼失。【西楽寺は、昭和15年合して西泉寺となっているのに『市誌』では「西楽寺」と混交しているので注意が必要】
a.伊豆奈神社「現在の社殿は9年後の昭和45年鎮座所を現在の山居に求め9月に再建立」
b.「西楽寺」は、「その後本寺長谷寺から御本尊十一面観音菩薩をお迎えし、東鵜島の不動さんに仮遷座して法灯を守って現在に至っている。

3.まとめ 
‥集落に限ったことでないが日本全体の2019年問題(日本の人口は減少に転じたが世帯数は2019年をピークに減少)の既に先端をいっている。
1)柿野浦の人口・世帯数は早くから減少
     戸数・人口の推移
 1750年代     : 47戸・214人・1戸平均4.55人
 1888年(明治21): 49戸・260人・  〃  5.31
 1951年(昭和26):44世帯・299人・世帯〃6.80
 1980年(〃  55):40   ・104人・ 〃  2.60
 2009年3月末  : 33       ・ 49人  〃  1.48
 2016年3月末   :26世帯・  33人・ 〃   1.27
2)近隣の東鵜島、岩首に比べ1世帯当たり人員が少なく、一人世帯が多いことを示している。
     近隣村の人口・世帯数(住民基本台帳3月末)
             2009 2016
      人口   : 49   33
柿野浦:世帯数  : 33   26
     1世帯(人):1.48  1.27
      人口   : 15   13
東鵜島:世帯数  :  9    7
     1世帯(人):1.67  1.86 
       人口  :159  126
岩 首」:世帯数  : 59   56
     1世帯(人);2.84 2.25
3)人口減・世帯数減もさることながら1世帯当たり人数が2人を割って1.5人となり、更に1.0人に近づいていること。
4)全国的な人口問題・課題
 若者人口の減少・高齢者の増加、結婚する人の減少(適齢期人口減少に加え、ここではデータに基づかないが当該世代で結婚する人の割合が減っていることによる)、出生率の低下(50年前までは子ども4〜5人は普通であったが、近年は2人がせいぜいで3人以上いれば注目される世相となっている。
 平均寿命が延びたということもあり世話や介護を要すお年寄りが増えたことで、語弊を招く言い方になるがその分、出生率減少の一因かもしれない。
《参考》2019年問題・世界人口問題に関するスポット情報
 1)国立社会保障・人口問題研究所が2013年1月に公表した「日本の世帯数の将来推計(全国推計)」による と19年の5300万世帯をピークに35年に4955万世帯まで減少すると推計。

 なお日本の人口について総務省統計局は、減少の局面に入ったのは2008年、その後「2010年国勢調査」の結果をもとに改定された人口推計から2011年が「人口が継続して減少する社会の始まりの年」と推定。
 2)中国は2016年1月から一人っ子政策を廃止。
 《資料》「中国の一人っ子政策廃止5つのポイント」( ウォール・ストリート・ジャーナルBy LAURIE BURKITT  2015 年 10 月 30 日)

 中国が一人っ子政策を廃止しあらゆる夫婦が子どもを2人持てるようにすると発表したのは15年10月。この措置は、急速に高齢化する社会と、縮小する労働人口に備えることを狙っている。

 1.なぜ一人っ子政策は施行されたのか

 中国指導部は1980年に一人っ子政策を施行した。爆発的に増える人口を制御し、生活水準向上の一助にするのが狙いだった。この政策はおおむね目標を達成した、と専門家たちは言う。しかし、それは一連の問題にもつながった。人口抑制目標を達成するため、当局者が女性たちに中絶や不妊手術を強い、高齢者の世話を一人っ子が負うことになるといった問題だった。

 2.一人っ子政策は、これまで変更されたことがあるのか

 中国は2年前、一人っ子政策を廃止はしなかったが、いずれかの親が一人っ子家庭だった場合、その夫妻は子どもを2人持てるよう規則緩和。それでも29日発表された廃止は、一人っ子政策がもたらした諸問題を当局が認めたことを象徴。

 3.なぜ中国は今、一人っ子政策を廃止するのか

 中国の労働年齢人口(15歳から64歳まで)は劇的に縮小。国連は、中国が2010年から30年までの間に6700万人の労働者が減ると予測している。同時に、中国の高齢者人口は2010年の1億1000万人から30年には2億1000万人に達し、50年までに人口の4分の1を占めると予想。国勢調査によると、中国の総人口は世界最大で、2010年には13億4000万人に増加。

4.一人っ子政策廃止でどういう影響があるだろうか

はっきりしない。中国国家衛生計画生育委員会によれば、2年前の緩和により、新生児申請は145万人となった。米ノースカロライナ大学のカイ・ヤン氏(中国人口統計学)によれば、これは専門家たちの想定を大きく下回るという。一人っ子政策から免除されていた人が少なくない農村部の住民でさえ、家族を増やしたがらない。2人目以上の子どもを持つことに伴うコストを考えるからだ

5.それでは手遅れということか

人口統計学者や経済学者の中には、新しい二人っ子政策は、中国の経済の方向を変更するには効果が余りに小さいだろうし、差し迫る労働人口危機を解決するには手遅れだ、とみる向きも一部にいる。人々の結婚年齢は遅くなっており、結婚しない人もいるからだ。生計費が急上昇するにつれて、出産を遅らせたり、子どもの数を制限したり、子どもを持たないことを選択したりする人も少なくない。出生率は現在、女性1人につき子ども約1.5人だが、それが上昇する公算は小さいだろう、とカイ氏は言う
3)英国の16年6月国民投票でのEU離脱確定(離脱51.9%・残留48.1%)の主な理由は、移民・難民の受入れ反対。
a.EU離脱理由
 ァ.移民の流入で英国人の雇用が安い賃金に取って代わられ雇用が奪われ、失業率が上っている。
 ィ.移民の流入でテロ等治安悪化が心配される。
 ゥ.移民の流入で英国民の社会保障費の負担が増加。
 ェ.EUの制約からの脱却とイギリスの主権復活

b.参考データ(注:各種資料からのもので一貫・統一性に欠ける。移民2世はどうか、国籍を持った異民族ー宗教・習慣と関わるー)はどうか等集計が難しい面はある)
   移民(=外国生まれ)人口
   (15.1.1日)      移民人口比率      14年移民増加
      万人(内、EU) 00か01年 14か15年  万人( )は内EU
ドイツ :1,022(401)    12.5%    12.6%    40(17)
英 国:  841(309)     7.9     13.0      38(28)
フランス: 791(218)    10.5     11.9      24
イタリア: 581(182)     3.9      9.5      ▲7
米 国:             10.7     13.1(13年)
日 本:                      1.1(11年)
 データ・情報からの着眼
1.ドイツは、欧州では移民比率が以前から高かった。第二次大戦後ドイツから流出した国民を積極的に受け入れたことにより戦後の経済復興を為し遂げた要因とされる。移民比率は2000年と15年ではそれほど変化してない。
2.英国の場合は、大英帝国時代から奴隷等異国民・異民族を受け入れてきた。
 07年初めて欧州ロンドン・パリを旅したと気づいたのは、人種が多いということであった。
 2000年EU加盟。加盟国は、域内からの移民・難民の受入義務がある。04年ポーランド・ルーマニア等10カ国が加盟するなどそこからの移民が増え、特に15年は難民が英国に流入したとされる。
 近年人口に比して英国の移民増加が問題視されていた。人口からしてドイツに比べ急増。
 ドイツのメルケル首相は、自国の移民・難民の受け入れ問題と最近ドイツのテロ事件に対し いろいろ問題は置いてもそれによって移民・難民を受け入れ方針にブレはない旨を声明。
 また、英国のEU離脱につい英国が正式な離脱通知をしない限り、「いいとこ取り」する可能性があるから事前交渉に応じない旨を言明。
3.人口対策は、30年先・50年先・100年先を見据えての英断が必要。 
a.当面の対策が有効でも、その先までも正解とが限らない。各種シミュレーション設定の上での決断となる。
b.日本の場合、現安倍政権は 憲法改正・経済成長・財務安定・一億総活躍など言っているが、せいぜい5年先くらいの目先のことで、長期ビジョン・戦略方針は皆無と言ってよい。もっとも、現政権があと何年、ひょっとして何ヶ月持つか焦点となるため、人口問題どころでないかもしれない。
c.「日本の人口問題は戸籍と移民で解決できる!」大前研一(自由に生きていくためのBlоg−自由って大変2014‐12−22)より。資料として参考なる。
 ァ.解決策
  対策1:戸籍問題

 日本では、若い人のできちゃった婚が半数以上を占めるが(15歳から19歳で85%、全体平均でも25%)、原因として戸籍問題がある。フランスやスウェーデンは40年前に戸籍制度を廃止、事実婚を認めている。

 戸籍制度は、近年では中国、韓国、日本にしか存在しない、その結果、堕胎が生まれる子の数より多いという推計もある。
 【補足;『佐渡四民風俗』より
 「柿野浦、尾戸辺も赤玉にならひたばこを多く作り(前掲)・・・、且又尾戸、小浦辺、子を間引候有之候処、文化年中〔1804〜1818〕御世話有之御手当等被下浦目付役教諭致し候故其後相止候趣に御座候。併し尾戸村に子捨穴と申場所有之程の旧習に候へば、速に相止め候趣も無心許儀に御座候」

 日本の平均初婚年齢は29.2才で、第一子出産の年齢が30.8才となっている。他の先進国では、第一子出産年齢が初婚年齢よりも若い。戸籍がないとこうなる

その上で、ヨーロッパでは婚外子に関する制度を作り、給付金を出して効果が出ている。80年代のフランスの婚外子は11%だったが、現在では52%となっており、オランダは、4%から45%に上がっている。日本は、0.8%だったのが2.2%と断然低い。

  対策2:移民の受け入れ

 子供を増やせない場合は、移民しかない。・・・OECDO諸国では・・・スイス、オーストラリア、イスラエル、ニュージーランドなどは20%台に対し、日本は1.1%・・・、日本のような高度な国家で人口が減っても移民を受け入れないのは異常。シンガポールは、国民300万人に対し永住者などを受け入れ人口550万人。建設業44万人、介護サポート4千人、メイド28万人、高度人材17万人となり、対する日本の高度人材による移民は7万人のみ。

農村の古くからある自治組織及び活動に学ぶべき点は多い。
1)五人組・隣り組:単身高齢者世帯の増加に対し助け合い・防犯・異常発見などに寄与。
2)近隣住民の地区への役割分担、共同作業を通じての結束力の向上と地域貢献。共同作業については、都市とは違い労働時間や労働環境が同じ農村ならではのものである。
3)消防団、集落センター管理のほか集落に寄って異なるが、祭、芸能、老人クラブ、子供会等幅広い活動組織がある。
3遡遽困覆蕕任呂里發里墨詑生櫃離廛躔歿十乎帖峺歹検廚慮修所がある。
1)鼓童の研修生制度は1985年開始。和太鼓だけではなく研修(米・野菜・果物作り等含む)するに恰好な場所)を求めていたところ、鼓童のメンバーの中に自身の母校で廃校になり取り壊しが決まっていた岩首中学校(住所:柿野浦)の木造校舎を再活用を上司に提案。
 調査した結果、絶好の環境ということで、研修所として借りることになったもの。
2)2014年度より「鼓童文化財団研修所」は、「鼓童の舞台メンバー」を養成するコース(同期につき定員10名。全国から応募、外国人もいる)と、佐渡への定住を希望する人や全国各地の地域振興などに関わる「地域づくり」のための人材を育成する2つのコースとなった。
3)地域の各種イベントや祭に「鬼役」「太鼓役」として参加させてもらったり、地域の活性化に貢献している。

 以上




係わりの地94:彦根(滋賀県)

 4月5日(火)瀬戸内・京滋の旅の最終日。
 前日京都駅発21:31快速米原行きで22
:15彦根駅着。駅前コンビニで買い物し予約していたホテルにイン。
 彦根は、過去電車で何度も通ったことあるが、湖西線が出来てからはそれが北陸本線の通路となり無くなった。ある時寝台列車で新潟から関西に向かった際、早朝起きて外を眺めると右に見えるはずの琵琶湖が左にあるで一瞬戸惑った経験がある。
 彦根に足を踏み入れるのは初めて。事前に佐渡との係わりを調べたが無い。あるとすれば「ご当地キャラ博in彦根2015」に佐渡から「ブリカツくん」が初参加(10月17・18日)したことくらい。
 ご当地キャラ博は、日本の活性化をテーマに2008年に始まり、今では全国各地で開催されるようになったご当地キャラクターイベントの先駆けが彦根、ブームの火付け役となったのが「ひこにゃん」。

   そのプロフィールの例
 ・「彦根藩二代当主である井伊直孝公をお寺の門前で手招きして雷雨から救ったと伝えられる"招き猫”と、井伊軍団のシンボルとも言える赤備え(戦国時代の軍団編成の一種で、あらゆる武具を朱塗りにした部隊編成のこと)の兜(かぶと)を合体させて生まれたキャラクター」(ひこにゃん公式サイト(彦根市))
 ・「ゆるキャラの嚆矢とも言うべき彦根城のマスコットキャラ井伊の赤鬼をイメージした兜と緑のスカーフが特徴」(「彦根城」サイト)
 「ブリカツくん」のプロフィールについて公式のものはわからないが、彦根での参加キャラの紹介文に新潟県佐渡市「ブリカツくん」が、次のように出ていた。
 「佐渡の新・OMOTENASHIご当地グルメ『佐渡天然ブリカツ丼』のPR担当鰤系半魚人「ブリカツくん」!歳を重ねる毎にウザさが増しとります。こんなオレやけも『佐渡で水揚げされてよかったー!』と心底思っとるっちゃ!これからの季節、越佐海峡の荒波が本領を発揮するほどに旨みを増すのが佐渡の海の幸!これからもそんな佐渡の魅力を島内外に発信していっちゃあ!彦根には満をを持して初参戦!よろしく頼むっちゃー!アヒャ―! 」
 なお、彦根は、彦根港と彦根城に関心があった。4月1日のゼミ会で岐阜県大垣(正しくは不破郡垂井町か)出身の市川君に彦根城へ行くことを話すと、小学校の修学旅行で行ったとのこと。小高い丘から琵琶湖が見えたと言っていた。
 当日の行程は、次のとおり。
 彦根駅前⇀彦根港⇀彦根城⇀彦根駅11:37⇀11:43米原・同11:57発L特急しらさぎ53号⇀13:48金沢(駅構内で土産品買物:金箔の羽二重餅ときんつば)14:50発北陸新幹線⇀15:39糸魚川・同16:19⇀17:10直江津・同1740発特急しらゆき7号⇀新潟着19:25。
 (資料:ウィキペディア)
1.彦根の光景
。複夘Ш駅前
DSC09487
1)騎馬武者姿の銅像が駅前真ん中に設置。彦根藩主・井伊直政の銅像。
 井伊 直政(1561〜1602)は、井伊氏第17代または24代当主で上野国高崎藩初代藩主。後に近江国佐和山藩(彦根藩)初代藩主。自身が組織した井伊の赤備えは、「戦国屈指の精鋭部隊」「徳川家臣団最強の部隊」と見なされた。以後、井伊氏の軍装は幕末まで赤備えを基本とされた。
2)大通りを真っ直ぐ行ったところが彦根城。画像から森林の上に築かれた人工的な丘に城らしいものが見える。
彦根港
DSC09494
 駅前大通りを真っ直ぐ歩いていくとお城の入口にぶつかり、まずは港を目指して右に折れ、次に左の大きな通りを進んだ。ここからは、堀が一直線に長く続いている。対岸は彦根城のある金亀公園。
 そのまま真っ直ぐ行くと琵琶湖に出た。
1)彦根港から多景島行き、竹生島行きの遊覧船が出ている。航行時間は夫々20分と40分。さらに竹生島から梅津大崎へは20分。
2)漁船を期待したが無かった。
3)琵琶湖漁業
 a.琵琶湖には漁港が数多くある。例:守山漁港(守山市)、北山田漁港(草津市)、大浦漁港(長浜市)、海津漁港(高島市)。いずれもブラックバス釣りで有名なようだ。彦根もバス釣りの名所のようだが、「漁港」とは言わず、「彦根旧港」の方が名が通っている。
 b.漁業専業者は、琵琶湖にいる。、
  「今、琵琶湖では約千人ぐらいの漁師仲間がいますが、農業と兼業されている方が多いようです。私んとこは父と母と私の三人でやっていますが、専業です」「魚法は「沖すくい」や、私がやっている「小糸(網)漁」とか、琵琶湖特有の「魞(えり)」や「追いさで漁」とか。琵琶湖に流れ込む安曇川や知内川などでは「カットリ梁(やな)漁」も行われています」(資料:「琵琶湖で鮎漁にチャレンジされている若手漁師の中村清作さん」(「琵琶湖源流.Com」滋賀県高島市の情報ポータルサイト))
 『漁業専業ということは、四季を通じて琵琶湖で一定の安定した漁業収入があるといういうことを意味する』
 c.琵琶湖の漁法と主な漁獲物(資料:「滋賀県」)
  ァ.小型定置網(えり)漁業:アユ、フナ、ホンモロコ
  ィ.沖びき網漁業 :モロコ、ヨシノボリ、エビ、イサザ、アユ 
  ゥ.追いさで網漁業:アユ
  ェ.刺網漁業(小糸網漁業):アユ、フナ、ホンモロコ、ビワマス
  ォ.貝びき網漁業:シジミ
  ヵ.沖すくい網漁業 :アユ
6盖妓園
 彦根港から再び堀に沿った歩道に戻り、「三の丸橋」を渡ったところが金亀公園。  
1)運動施設などが多く有る。
 a.野球場
 b.グラウンド=多目的競技場
 c.テニスコート
 d.ゲートボール場
 e.エントランス広場
  f.わんぱく広場
  g.芝生広場
2)目に留まった表示
 a.1987年彦根城一帯で世界古城博覧会が開催された。マスコット「城まる君」
 b.太極拳in金亀公園:4/9〜6/25の毎週土曜7:00〜7:40。高木・技研特別共同体主催イベント
どШ城
DSC09498DSC09497
1)堀
 a.幅が広く(8mはあると思われる)且つ長く、琵琶湖に通じている。
 b.競技用ボートを2人で漕いでいたり、釣りをしている人がいた。
  ァ.堀に滋賀大学と彦根東高校(全国でもボートはトップレベル)の艇庫が並んである。
  ィ.釣は、ブラックバスが釣れることで有名。
 c.屋台船あり。全長約10.0m・幅約2.5m・定員13人(船頭含む)
  ァ.平日(10時〜15時)1時間に1便の計6便、土・日・祝日(10時〜16時)は7便。
  ィ.運行距離往復約3キロメートル(玄宮園前船着場より博物館表門橋をくぐり、大手橋下を経て、 山崎郭手前で折り返し、再び玄宮園前船着場へ)、往復約3キロメートル、乗船時間約45分
  ゥ.乗船料金:大人:1300円 / 子供(小学生以下):600円
 d.彦根城の地図を見ると、堀が複雑に張り巡らされているのがわかる。
  ァ.江戸時代の彦根城は、内堀・中堀・外堀の三重の堀に囲まれていたという。
  ィ.内堀と中堀は現存、外堀は明治以降少しずつ埋め立てられ市街地となっている。
 (資料:「まち遺産ネットひこね」サイト)
2)天守閣への参道
 片側は石垣、石段は幅:目測4mと広く、傾斜は蹴上:同18cm以下と緩やかで、踏み面:2僉福瓧横僑磽蹇滷押飽幣紊琶發やすい。
  だが、しんどかった。リュックを背負っていると後ろへひっくり返るような気がし手にして歩いた。標高132m城山にある松山城や785段の石段のある金刀比羅宮本宮の上り下りを経験したばかりであったが、思った以上に厳しく参った。
3)彦根城
 a.標高1346mの城山から彦根の街や琵琶湖が眺望できる。
 b.天守閣前に来た時、不思議と大勢の人がカメラを持って集まり何かを待っている様子だった。何だろうと思っていると間もなくしてご当地キャラ「彦にゃん」登場。タイミングよかった。午前の部10:30。
 「彦にゃん」は、前、左、右それぞれに写真目線の
愛嬌あるポーズをとり、「可愛い」という歓声とともに写真に撮られていた。
 終わった後でグループ旅行客のあるご婦人が、登場する際など太鼓を叩くなどの演出があればもっと人気が広がるのにとの声が聞こえた。成る程録音であっても効果が違うと思った。
 c.概要・沿革
 ァ.概要
 顱防Ш城は、彦根市金亀町にある。江戸時代および1869年(明治2)版籍奉還後から1871年
(明治4)廃藩置県まで彦根藩の役所が置かれた。
 天守・附櫓・多聞櫓国宝、城跡は国の特別史跡且つ琵琶湖国定公園第1種特別地域。
 ィ.沿革
 顱帽掌融代

  a)井伊直政は、1600年の関ヶ原の戦いの軍功により18万石で近江国北東部に封ぜられ、西軍指揮官・石田三成の居城の佐和山城に入城。直政は、佐和山城が中世的な古い縄張りや三成の居城であったことを嫌い、湖岸に近い磯山(現在の米原市磯)に居城を移すことを計画していたが、関ヶ原の戦いでの戦傷が癒えず、1602年に死去。
  b)直継が家督を継いだが、幼少のため直政の遺臣・家老の木俣守勝徳川家康と相談し遺志を継ぎ、1603年琵琶湖に浮かぶ彦根山(金亀山。現在の彦根城の場所)に彦根城の築城を開始。

  ァ)築城には公儀御奉行3名が付けられ、尾張藩越前藩など7か国12大名(15大名とも)が手伝いを命じられる天下普請であった
  ィ)1606年2期までの工事が完了し、天守完成と同じ頃に直継が入城。
  ゥ)1616年彦根藩だけで第3期工事が開始。この時に御殿が建造され、1622年すべての工事が完了し、彦根城が完成した。
  c)その後、井伊氏は加増を重ね、
1633年徳川幕府下の譜代大名の中では最高となる35万石を得た。

  d)1854年天秤櫓の大修理が行われ、その際石垣の半分が積み直された
  e)幕末に幕府の大老を務めた第15代彦根藩主井伊直弼〔18603月24日年桜田門外で水戸藩士らによって暗殺される〕は、藩主となるまでをこの城下で過ごしている。直弼が青春時代を過ごした屋敷は「埋木舎(うもれぎのや)」として現存。
 髻北声時代

  各地の城が廃城令で破壊・売却されていく中、彦根城も例外ではなかった。しかし、1878年(明治11)年明治天皇巡幸で彦根を通過した際に城の保存を命じたため破却は逃れたという。
  その際、巡幸に随行していた
大隈重信が城の破却中止を天皇に奉上したという説、天皇の従妹にあたるかね子(住持攝専夫人)が奉上したという説があるという。
 鵝望赦損代
  1934年(昭和9年)、築城以来彦根城には桜が植えられていなかった。これを憂いた彦根町会議員吉田繁治郎が観光のシンボルとしてソメイヨシノの苗木1,000本を城内に植樹。
  1944年井伊家から彦根市へ、彦根城およびその一帯が寄付される。
  1951年「彦根城跡」として国の史跡に指定、天守等6棟が重要文化財に指定された。
  1952年前年6棟の重要文化財指定のうち、天守(1棟)と附櫓及び多聞櫓(1棟)の2棟が国宝に指定。

  1956年「彦根城跡」が特別史跡に指定。
  1963年馬屋が重要文化財に指定。

 堯吠神時代

  1993年(平成5)1996年(平成8)12月、平成の大修理。
   天守・附櫓および多聞櫓の屋根の葺き替えと壁や漆の塗り替え、木材の腐食部分補修、唐破風飾金具の金箔押し直し、西の丸三重櫓と続櫓の屋根の葺き替えと壁の塗り替えなど。
  1992年(平成4)世界遺産 暫定リスト登録。
   2006年(平成18)日本100名城(50番)に選定された。
   2014年(平成26)全国城サミットが開催。

2.彦根市の概要

”Ш市域を含む旧・犬上郡は古より近江国交通の中心であった。
1)中世から近世にかけ、全国に信者を持つ多賀大社(財・犬上郡多賀町)の参詣道が隆盛。
2)江戸時代初期に整備された中山道宿場町としては彦根市域では鳥居本宿現・彦根市鳥居本町)と高宮宿(現・彦根市高宮町)が置かれ、なかでも鳥居本宿は中仙道中近江国内で随一の賑わいを見せた。

∪鏐餞佐和山城主がいろいろ変わり、豊臣秀吉政権の時重臣の石田三成が入城し佐和山城を大改修。だが、関ヶ原の戦いで敗れる。
9掌融代に徳川家の譜代大名である井伊家知行地となり、琵琶湖に面した山に築城された彦根城を中核として佐和山藩改め彦根藩が置かれた。
1)この彦根藩および彦根城は、
西日本外様大名に睨みを利かせる幕藩体制上きわめて重要な役割を担った。
2)1799年彦根藩藩校「稽古館」が彦根城内の西内曲輪(現在の彦根市立西中学校校庭)にて開校。1876年(明治9)開校する第三大学区第十一番中学区彦根学校(現・滋賀県立彦根東高等学校
)の前身。
3)京都に比較的近い城下町として彦根は、近江商人の活躍もあり発達を見せた。

近現代
1)市制施行〔1937年犬上郡から離脱し彦根市が成立〕以来大津市に次ぐ県下第二の都市であったが、平成の大合併後の人口では、大津市・草津市・長浜市・東近江市に次いで県下第5位となった。2016年2月1日の推計人口113,311人。」
2)「
地方気象台彦根地方気象台)、国立大学滋賀大学)、裁判所支部などといった各種機関が現在も市内に集中し、滋賀県東部における商工業の中心地である」

 〔参考:1949年滋賀師範学校・滋賀青年師範学校・彦根経済専門学校(前身は彦根高等商業学校)を母体に、国立滋賀大学が開校〕
3)
2009年には亀山市金沢市高山市萩市と共に第1回歴史まちづくり法国土交通省)に認定されている。
4)現在では、毎年7月に松原水泳場で開催される「鳥人間コンテスト選手権大会」や、マスコットひこにゃん」を通じて、全国に広く知られている。

3.まとめ
 彦根の関心は、事前調査で知ったことによるものと、知ったが半信半疑で突っ込みのないまま実際見て関心が高まったものと、期待は無かったが訪れて驚いたという3点に分けられる。考えれば、それぞれが彦根ならではのコトばかりであった。
々駑大学は全国都道府県庁の所在地にあるのが普通だが、滋賀大学は本部が彦根。青森県も国立大学は弘前なあり、いずれも稀なケース。
1)国立大学法人滋賀大学(本部:彦根市馬場1丁目)の特徴
 a.現在教育学部(大津)と経済学部(本部・彦根)の2学部体制で、「経済学部は国立大学において次点の東京大学を大きく引き離して異例の規模となり、実質は経済学部と経営学部、法学部、社会学部等の集合体となる「社会科学の総合学部」である。また、日本で初めて統計学を教育・研究の核とする「データサイエンス学部(仮称)」を本部・彦根に設置(2017年度予定)」「学生数は2015年5月現在、学部生3,609名(教育学部1,048名、経済学部2,561名)」
 b.経済学部は、「彦根お散歩マップ」で見ると、彦根城の中堀の南西側〔琵琶湖に近い〕にある。堀の奥向かいが西中学校(彦根藩校のあった場所)で敷地は内堀に囲まれている。そこを東に進んだ北の表門へ向かう角一帯に彦根東高校がある。
2)同経済学部について
 「彦根藩の武家の教養と近江商人の精神を体現した「士魂商才」の伝統を受け継ぎ、広い教養と国際的視野を持つ経済人の養成に取り組んできた。国立大学経済学部において日本最大の規模を誇り、学生数1学年500名強、教員数100名強、6学科(経済学科・ファイナンス学科・企業経営学科・会計情報学科・情報管理学科・社会システム学科)20講座を擁する、日本の一般的な経済学部の枠を超えた「総合経済学部」である。大学院経済学研究科は文系大学院で最初にリスクを研究対象とした大学院としても知られ、博士前期課程に経済学専攻・経営学専攻・グローバル・ファイナンス専攻の3専攻、博士後期課程に経済経営リスク専攻を設置している(リスク研究センター併設)」
3)経験談
 a.5年前2011年1月のことだが、京大東京オフィスで定例経済懇話会(私は欠席)の後 同ビル内飲食店で首都圏在住有志の京大経済学部45年卒同期会があるというので初めて出席。
 (事業・産業32:東京築地市場
 b.その時の出席者は9人。馴染みあったのは堀江ゼミの渡辺君のみ。私は初めてなので面々の自己紹介の中でオヤッと思ったのは、彦根東高校出身者が3人いたことであった。
 c.今度会う時は話題にするだろうし、知りたいことが聞ける。
◆屬罎襯ャラブーム」の発祥地
1)ゆるキャラは、「ゆるいマスコットキャラクター」略。
 a.イベント・各種キャンペーン・
地域おこし・名産品の紹介など地域の情報PR、企業・団体のコーポレートアイデンティティなどに使用するマスコットキャラクター。地域のPRを目的としたものは、「ご当地キャラ」ともいう。
 b.狭義は、対象が
国・地方公共団体・その他公共機関等のマスコットキャラクターで着ぐるみ化されているもの。
 c.「ゆるキャラ」の提唱者 漫画家・エッセイストのみうらじゅんは、キャラクターが「ゆるキャラ」として認められるための条件として、3つの条件を挙げている。
  1郷土愛に満ち溢れた強いメッセージ性があること。
  2立ち居振る舞いが不安定かつユニークであること。
  3愛すべき、ゆるさ、を持ち合わせていること。

 これに加え「原則として着ぐるみ化されていること」も条件に挙げている。」
 歴史
2)「ゆるキャラブーム」は、2007年「国宝・彦根城築城400年祭」のイメージキャラクター「ひこにゃん」がキャンペーンやグッズ等で登場し、その「ゆるさ」が話題を呼んだ
 a.翌年の2008年も彦根市で、「ゆるキャラまつり」が開催
 b.2013年の「新語・流行語大賞」に「ご当地キャラ」がトップテン入りを果たすほど 全国に普及。
 c.2016年の「ご当地キャラ博in彦根は、10/15〜16。 
3)「ゆるキャラブーム」火付の着眼
 「経済的な利用方法として、キャラクターを使用する際に通常必要な著作権使用料を当初無料の許可制にすることで個人・企業を問わず広く参加でき、築城400年祭を盛り上げる効果を狙うという新しい試みが行われた。著作権使用料を無料にすることで小規模企業を含めた様々な企業が参加し、イベントを通じて地域おこしを図る試みとして経済界からも注目された。ひこにゃんグッズとしては、普段は目につきにくい伝統工芸品の銅細工を始め、彦根の特産品菓子など、様々な商品が閉幕後も販売され、観光客などに喜ばれている。さらに、全国的な認知を得てインターネットなどでも商品が販売された」
なぜ規模の大きな彦根城ができたかは、井伊家が徳川家の天下取りとそれに続く幕藩体制の確立に際し大きな貢献したことが大きい。
1)初代彦根藩主の井伊 直政(遠江国井伊谷の出身)は、戦国時代自身の組織した井伊の赤備え」が戦国屈指の精鋭部隊として徳川家の勢力拡大に貢献し、また「徳川氏きっての政治家・外交官として」、家康から信頼が厚く、徳川家臣団で筆頭の地位を得た。
 〔「徳川三傑」=本多忠勝・榊原康政・井伊直政、「徳川四天王」=酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政。
 四天王は1590年の豊臣秀吉の命による家康関東移封時、家康配下の大名として徳川家の重臣としての地位を確立。既に徳川家臣団中 井伊最高の12万石で高崎藩を立藩、榊原館林藩10万石を立藩、本多は年寄(後の老中)に任ぜられ大多喜藩10万石を立藩した。酒井忠次は1588年に隠居、後継の家次が3万7000石で下総臼井藩を立藩〕
2)直政は、1600年関ヶ原の戦いの後、軍功により18万石近江国北東部に封ぜられ、西軍の指揮官・石田三成の居城・佐和山城(彦根市)に入城。
 〔領民の信望の厚かった石田三成の当地における影響力を払拭し、徳川方に早く醇化させるのに恰好な人材として充てたものだろう〕
 a.佐和山城は城の分類では、険阻な山を利用して築かれた中世の「山城(やまじろ)」。防御が主で山上に城郭、日常生活は麓の館。
 b.直政は、中世的な古い縄張りや三成の居城であったことを嫌い、湖岸に近い磯山(現在の
米原市磯)に居城を移すことを計画していたが、関ヶ原の戦いでの戦傷が癒えず、1602年(慶長7年)に死去した。
 長男の
直継が家督を継ぐ。直政の遺臣・家老の木俣守勝徳川家康と相談して彼の遺志を継ぎ、1603年琵琶湖に浮かぶ彦根山〔金亀山、現在の彦根城の場所。佐和山城から南西1辧砲彦根城の築城を開始。築城は、公儀奉行3名、尾張藩・越前藩など7カ国が手伝う天下普請となった。
  その際、佐和山城の石垣を運び出し利用。
  徳川にとって彦根は 北隣りの米原もそうだが、西国・北陸の外様大名への睨みを利かせたアンテナ基地および江戸に至る要塞として重要な位置。
     《参考》天下普請
  江戸幕府が、全国の諸大名に命令し行わせた土木工事のこと。
  城郭普請の他、道路整備や河川工事などの整備も含む。
    天下普請によって築かれた城郭
江戸城武蔵東京都名古屋城尾張愛知県)、大坂城摂津大阪府
高田城越後新潟県)、駿府城駿河静岡県)、伊賀上野城伊賀三重県
加納城美濃岐阜県)、福井城越前福井県)、彦根城近江滋賀県
膳所城(近江・滋賀県)、二条城山城京都府)、丹波亀山城丹波・京都府)
篠山城(丹波・兵庫県
 3)1615年幕命により長男の直継に替わり次男の直孝が彦根藩主、以降幕末まで江戸幕府の筆頭譜代大名、大老職に就ける家柄の地位にあった。
 a.長男・直継(直勝)は、「病弱」とされているが、家康から家中を統制する「器用」なしと判断され(「愚鈍」の評価あり)、3万石の安中藩藩主となった。
 ァ.1614年大坂冬の陣が始まると家康は直継の名代として直孝を井伊軍の大将に指名(一方、直継は安中の関所警護)。
 ィ.大坂冬の陣後、家康は期待に応えた働きを見せた直孝に正式に井伊氏の家督を継がせ、直継は上野国安中藩3万石を分知。このときに直継から直勝と名を改めた。
 (井伊家の家督の交替は公式には直継の病弱を理由としているものの、当時の井伊家(彦根藩)は家康の直接統制下に置かれ、直継(直勝)・直孝間の家臣団の分割についても家康の命を受けた幕府年寄(老中)が決定したとされている。直継は付人との対立などで当主の座から追われたとみられている)

 b.次男の直孝は、
彦根藩第2代藩主。家康、秀忠、家光、家綱の4代に仕え、江戸幕府において井伊家の不動の地位を築いた。
 ァ.大坂冬の陣、夏の陣(1615年)で貢献。
   30万石へ加増。最終35万石は譜代大名で最高で、格付けは筆頭譜代大名。
  (なお、堀田家酒井家本多家などの有力譜代大名が、転封を繰り返す中、彦根藩家は1度の転封もなかった)
 ィ.1632年、徳川二代の秀忠は臨終に際して井伊直孝と松平忠明を枕元に呼び、3代将軍・徳川家光の後見役に任じた(大老職の始まりとされる)。井伊家には、その後直澄直該直幸直亮直弼の5人が大老に就いた。
瀬戸内・京滋の旅のまとめとして、
1)期待していたわけでなかったが、遠くからもあるが行く先々で城を見ることができた。そのため不思議に思ったものだ。(尾道城、松山城、丸亀城、岡山城、彦根城)
2)体力の衰えを残念ならがら痛感。
 金比羅宮の785段の上り下りは急坂。最初は1本の杖だったが、途中2本目の杖で助かった。旅行最終日の彦根城は数百段あるわけでなく、また石段は緩やかな勾配にもかかわらず堪えた。
3)大学1年の時のクラス会と3・4年の時のゼミ会が丁度よい間隔であったため ついでにいろいろな所を効率よく訪問したが、今後は会に出席するのに杖が必要になろう。J6クラス会での近況報告で、J6は人生における宝で、健康で動ける限り杖をついてでも参加する旨を話すと たくさんの拍手があった。
 
 以上
 




係わりの地93:京都(姉小路・三条通り・蹴上)

 4月4日(月)旅行4日目の午後は京都。
 大学1年法学部時代の「J6クラス会in京都」出席のためで 17:30から南禅寺の日本料理店で開催(昨年は衣笠の中華料理店)。1966年4月の入学であるから、ちょうど50年。2年になる時経済へ転部した身にとって、以来ずっと意識になかったJ6を5、6年から思い起こすようになり、会の存在が判っのは2年前の11月。昨年初めて1月東京、4月京都での会に出席、今年も1月東京の会に出席、京都もこれで2回目。
 さて、今回のブログ・テーマは京都のどこにするかとなるが、南禅寺が会場であることから、「三条通り(三条大橋)〜蹴上(けあげ)」と簡単に決まった。
 なお、6年前のブログに、(その時は3・4年時代のゼミ会、三条と四条の間の花見小路・新門前通りの旅館泊)「別に名勝地があるわけでも何でもない「蹴上」に行ったならば、「京都三条通り」を別途記事にしたはずだが、翌日も至らずで「京都四条河原」に組み入れた」と記していた。
 (10年4月11日号「係わりの地52:京都四条河原」)
 当日は、岡山発11:23⇀京都着12:55。京都市市営地下鉄・烏丸線に乗り換え、烏丸御池で下車。その後は、徒歩。
 なお、その前に地下鉄線乗車券売り場の上に掲げて路線図を見ると
 ・・・ー京都ー五条ー四条ー烏丸御池ー丸太町ー・・・とあって、三条駅が無いのを非常に不思議に思い〔三条通りは四条と同じく「大橋」があり繁華街も有名で、広い通りと思っていたため〕、
 また、地下鉄に東西線があること、烏丸御池ー京都市役所前ー三条京阪ー東山ー蹴上ー・・・と「蹴上」駅があるのを知った。この段階で、三条ー蹴上といっても、当初は三条大橋⇀蹴上までしか考えてなかったが、烏丸御池⇀烏丸三条⇀蹴上まで徒歩でも時間は充分あるから、それに決めた。
 なお、今調べると 東西線の開業は1997年(平成9)、京都市営地下鉄の開業は1981年(昭和56)烏丸線北大路 〜 京都間でその後 順次延伸。
 烏丸御池駅を降り、広い烏丸通りを南へ渡って三条方向へ。 間もなくして「姉小路」の東山方向への標識があり、5年以上も前にその辺りまで来たことことを思い出し、その小路へ入った。
  当時は、朝タクシーで銀閣寺付近から姉小路通りの所まで行ってもらったと思ったが、当時のブログを追うとそうでなかった。正しくは、08年10月30日号「京都の地蔵尊」に、次のようにある。
 「2)銀閣寺通りの途中からタクシーを拾い、二条河原町通りで降り〔三条通りまで下って西に向かい〕三条烏丸通りまで地蔵尊を求めて歩いた。
   3)二条烏丸からタクシーを拾いホテルに戻って朝食をとり、・・・」
 当時は「姉小路」について多少意識にあったはずだが、何も記してない。もっとも、当時のテーマは「地蔵尊」で、「三条通り」や「姉小路」は関心外ということによる。
 「姉小路」は江戸時代佐渡人の定宿があった所で、その時は南北に走る通りの名前は忘れてしまったが1813年(文化10)の佐渡沢根の廻船商人の旅日記『海陸道順達日記』に載っている。
 折角の機会で、どの辺にあったかは時間はたっぷりとあり、探すことにした。
 手掛りは、昔は問屋は宿屋兼業で京都での馴染みの店=宿として呉服問屋があったこと、近くに南北に走る東洞院通りの名があったことはうる覚えとしてあること。200年前のことになるが、間口が広く2階は宿泊にも使える大部屋の問屋らしい名残のある建物はないか探しながら歩いた。
 最初はそのつもりはなかったが、姉小路も三条通りと同列にテーマに加えることにした。
 
1.姉小路
(1)光景
(姉小路通車屋町東入) (姉小路通富小路西入)
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〇仂路通と言っても南北に走る烏丸通りから東へは、車屋町通ー間之町通ー東淌院通ー高倉通ー堺町通ー柳馬場通ー富小路通ー麹屋町通ー御幸町通―寺町通ー河原町通ー・・・と続き、通り名がハッキリしない限り意味がないと思い、適当に麹屋町通から三条へ下った。〔実は、旅行の出発直前にパソコンに資料として関係する過去記事部分を未公開でまとめて置き、携帯したタブレットを開けば、「堺町姉ヶ小路上カル」という文があってわかったのであったが、後の祭り。その時念頭に「三条」あったが「姉小路」はなく、たまたま必要とした文が入っていたということである。
〔備考:二条通から南へ東西に走る通りは、押小路通ー御池通姉小路通三条通ー六角通ー蛸薬師通ー錦小路通ー四条通ー・・・。〕
特記
1)あるブログ記事(「京の散策人」)に「見上げてびっくり京都姉小路通に並ぶ老舗看板が凄い!」とあった。夫々写真付き。
 a.「御菓子司亀末広」という年季の入った看板がある(左画像は、たまたま私が撮ったもの。右も同様)。同記事には、次のように記されている。
  「文化元年(1804)に初代「亀屋源助」は伏見から京に出て京菓子店を「亀末廣」としてここに創業しました。注文が徳川家お二条城から、また御所から「干菓子」を納めることが多くなってきましたが、その都度特別注文で「干菓子」は木型で作りますので、新しく木型を作る必要がありました。結果用済の木型の在庫が多くなったため、看板の額に使用されています。また檜一枚の看板文字は、近代書道の先駆者とされている「山本竟山」の書で、先々代五代目が依頼したそうです」
 b.同じく、「柚〔ゆず〕味噌」の看板を掲げた古風で格調の高い店があった。同じく写真に収めたが、余計過ぎるということで、カットした。記事内容は、次のとおり。
 「「柚味噌」は商品名でして、嵯峨水尾の集落で採れる上質の柚子を使った柚味噌を専門に製造・販売されている宝永五年(1708)創業の「八百三」さんです。柚味噌は精進料理には欠かせない調味料だそうです。さて看板文字ですが、画家、陶芸家、料理家として有名な「北大路魯山人」の書です。が実は模刻でして、店内にも看板がありましてそれは魯山人が自ら彫刻したそうです」
2)姉小路界隈を考える会(2008 〜 2016)の活動
  (資料:「同上」HP)
 1995年(平成7年7月)に発生したマンション建設計画を契機に、同年10月「姉小路界隈を考える会」を発足。「会の設立のきっかけとなったマンション建設計画用地を対象に、「地域共生の土地利用検討会」に取組み、おそらく全国で初めてのケースと言える、パートナーシップ型まちづくりによる「アーバネックス三条」が完成しました。」
 a.目的:寺町通、烏丸通、三条通、御池通に囲まれた姉小路において、住み、働く人々に愛され、誇れる町づくりをめざしています。
 b.これまで、「看板の似合うまちづくり」「姉小路画廊開設(これまで20回以上)」「灯りでむすぶ姉小路界隈」「花と緑でもてなす姉小路界隈」などのイベント継続により 界隈のまちづくりの輪を広げ、維持。平成12年4月に「姉小路界隈町式目(平成版)」制定、平成14年7月に都心部で約2haにもおよぶ建築協定を締結。平成16年度には京都府下で初めての街なみ環境整備事業により京町家再生の事業に取組み、「現在までに26件の京町家を再生しました」。
 c.会報「姉小路界隈」の発行。16年3月31日号で35号。
(2)佐渡との係わり
〆甘浪船商人・笹井秀山箸『旅日記』(既掲)より。
1813年5月8日京都・粟田口:「・・・各々歩行いたしけれバ、無程京都三条通りへ出テ申候。夫より拾6,8丁参りぬれバ、堺町姉ヶ小路上カル処、三河屋こそハ尋ねて行キけり。当日は5月8日、暮々やどえぞ着いたし候。宿ド源右衛門殿へはじめて対面ヲぞいたしけれ。越シ方ものがたり、国元〔佐渡〕之書状数通差出シ(差出されたので)一礼ヲぞ延(述)べけり。幸ひ爰〔ここ〕ニ佐州之仁、〔相川町〕4丁目風間源七殿ニも此程御逗留被成候て、某ら両3人心ロ易ク同宿ヲゾ仕〔つかまつり〕候。
 翌5月9日、京都逗留。今日ハ染めもの分何角取(なにかと)調べ、宿元源右衛門殿へぞ引渡し注文ヲゾ致シけり」
 10〜13日の日記は、京都見物の事。
 「翌14日は早朝ゟ〔より〕雨天ニ付、一向(行)外〔そ〕とへ不出となり、依テ之ニ宿元代角治郎ヲ相頼ミ、ふくろ物など取り寄せ、今日は宿ニ居て各相談いたし、小買注文等相調候。猶、そめ物帳面、裾もやう(模様)帳面、小紋形(型)、いろいろ取り寄せ、宿ど元源右衛門殿并〔ならびに〕風間源七殿にえも相談之上、そめヤ(染屋)ノ方ぞ引わたしけり
 翌15日曇天。東風。昼より天気。今日ハ少々の小注文旁〔かたがた〕、宿源右衛門風間氏同道いたし、京都小買もの相調申候。八ツ頃より少々風邪にてヤスミ候処・・・。〔佐渡の〕岡部文左衛門殿大坂より尋ね被登〔上られ〕候ニ付、久しぶりにて面談いたし、国元の事共はなし合い、又タ大坂相場等承り候処、則同人、干烏賊「イカ〕仕切など取出シ、被見せ候ニ付、各一見仕り、敦賀之干烏賊之事ニ付、〔敦賀の〕桑名屋旦那ゟ之御状等差出シ、当敦賀辺の様子等相はなし候。」
16日は風邪で三河屋に滞在。
「翌17日天気。南風。今朝風邪も透(ス)キト宜敷ニ付、宿元御亭主へも相談いたし、岩之介(助)、左兵衛(佐平次)同道ニて、今日ハ一ト先ス〔ひとまず〕大坂え下り、并ニ紀州えもツレ参り度ニ付、花岡随賢先生之事共事悉〔ことごと〕ク申入。扨、宿元御家内へ一礼申テ、此処各発足いたし、夫ゟ柳の馬場。
 扨、六角下ル処扇屋何某之ヤカタ(館)にて、文左衛門殿、夷ノ和三郎殿、并古城代右衛門殿是等之衆中ニ逢申候。何レも今日昼立ニ致シ、敦賀へ出可申由被申候愉故、則書状等相頼ミ、各暇(いとま)申入り此処ヲ出テ、同町近江屋嘉兵衛と申すはたごや(旅籠屋)にて、佐州〔相川の〕間ノ山の仁〔某氏〕え風間氏用事アツて御立チ寄り有之候故、何レも休ミ申候。暫〔しばら〕クいたし爰〔ここ〕元出立、夫れよりアブミヤ(鐙屋)何某殿へも立ちより、爰ニて新穂町喜平次殿ニ対面致候。且ツ宿元源右衛門殿も、是迄御送り被下〔くだされ〕候ニ付、是ゟ御帰宅之事申入候得共、尚御同道被下候故、たこやくし(蛸薬師)東の洞院迄御見贈(送)り被成下、爰ニて一礼。扨、暫ク之暇マ申入、則宿御亭ハ是ゟ相わかれ候。」
 【その後も京都の三河屋へは、何度も泊っている。
  大坂⇀紀州⇀奈良⇀京都(祇園祭見物)⇀伊勢神宮⇀京都(石清水八幡宮)⇀大坂(天神祭り見物)⇀京都(嵯峨野)⇀大坂⇀瀬戸内海・・・。】
京都には江戸時代 佐渡商人の定宿が3軒はあったことがわかる(三河屋・近江屋・鐙屋)。
 【問屋は単に商品売買だけでなく、宿屋を兼ね、市場相場・入荷量・商品情報を提供し、地元業者を紹介し、商談の場も設け、また同郷者との書状授受の窓口であったことがわかる。佐渡の船が出入りする船問屋であれば、そこへ行けば入港日・出港日などがわかる】

 《参考》花岡随賢=華岡 青洲(はなおか せいしゅう:1760〜1835)
 (資料:ウィキペディア「華岡 青洲」)
 江戸時代
外科医。世界で初めて前身麻酔を用いた手術乳癌手術)を成功させた。
 1)青洲は、1760年華岡直道の長男として紀伊国那賀郡(現・和歌山県紀の川市)に生まれる。1782年より都に行き、東洋医学とオランダ商館のドイツ人医師の伝えた外科技術とオランダ式外科学を学んだ。
 2)1785年帰郷。手術での患者の苦しみを和らげ人の命を救いたいと考え、麻酔薬の研究開発を開始。6種類の薬草に麻酔効果があることを発見し動物実験などを重ね、「実母の於継と妻の加恵が実験台になることを申し出て、数回にわたる人体実験の末、於継の死・加恵の失明という大きな犠牲の上に」全身麻酔薬「通仙散」を完成させる。1802年紀州藩主徳川治宝に謁見し帯刀を許された。1804年大和国の60歳女性に対し、通仙散による全身麻酔下で乳癌摘出手術に成功(しかし4ヵ月後患者は死亡)。1813年紀州藩の「小普請医師格」に任用されるが青洲の願いにより、そのまま自宅で治療を続けてよいという「勝手勤」を許された。
 3)全身麻酔手術の成功を機に、華岡青洲の名は全国に知れ渡り、手術を希望する患者や入門を希望する者が殺到した。青洲は全国から集まってきた彼ら門下生たちの育成にも力を注ぎ、医塾
を設け、生涯に1000人を超える門下生を育てた。
 4)1919年生前の功により正五位を追贈され、1952年外科を通じて世界人類に貢献した医師としてアメリカ・シカゴ
にある国際外科学会付属の栄誉館に祀られた。
【この度の廻船問屋「浜田屋」主人・笹井秀山の長期西国の旅の最大目的は、息子・岩之助の痔の手術。療養中の付き添いとして番頭格の左平次を伴った。秀山は、紀伊・平山で彼ら二人とは、一時期別行動となった】


2.三条通り
(1)光景

〇鮎鬟◆璽院璽苗未蝓三条大橋
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 姉小路通を下り三条通に出て東のアーケード(寺町東入ー河原町西入)の中へ入った。上の左画像は、河原町通りを渡った角からのもので「三条商店街」とある。
 それを背にして真っ直ぐ行くと三条大橋。
粟田口(あわたぐち)
 粟田口は、白川橋から蹴上までの間の地名で、古来京都七口の一つで東海道の山科(やましな)から京都への入口に当たる。白川橋から蹴上へは、ゆるやかな上り道となる。
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1)白川橋           
a.橋の東詰たもとにあろ道標は、1678(延宝6)建立、京都に残る道標では最古、市の指定史跡。
b.道標は、
 東側の蹴上方向に向かって「是よりひだり〔南〕 ちおんゐん〔知恩院〕 ぎおん〔祇園」 きよ水〔清水〕みち」(画像)
 北側の白川通に向かって、「三条通白川橋」
 南側には、「京都為無案内旅人立之」
 と彫られている。
c.その1か月後いつも拝読している大阪在住の人のブログに、次の記事があった。
 「京都市美術館に行くために私がいつも通っている道の京都風景」「京都地下鉄東山駅を降りて、白川の清流沿いを5分ほどブラブラと歩きます。(市街のど真ん中にこの清流だよ!京都恐るべし)」
 そう言われれば、そうであったかもしれず、その時は史蹟らしい物件を写真に納めることがすべてで他に無関心。但し、「白川」とはきれいな川が流れていることから来たのとか、「北白川」という地名が北へ30〜40分歩いた所にあるが白川と繋がっているのかとは、頭をかすめた覚えはある。
2)粟田神社
 白川橋からは道順では粟田神社であるが、どこかわからずそのまま蹴上へ出てしまった。途中、この建物が昔の「都ホテル」でなかったかと察知。今は、「ウェスティン都ホテル京都」。
 さて、これまで烏丸御池駅で電車を降りてから2時間半は、歩きっぱなし、クラス会には時間が相当ある。蹴上のバス停近くに喫茶店があったので入り30分は休んだ。一旦清算して出たが、粟田神社に行ってないことに気づき、探すのにムダな労力は不要と思い 戻ってどこかを教えてもらった。来た道を下れば左に路地があり、入ればやがて鳥居が見えるとのこと。


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a.粟田神社は、京都市東山区粟田口鍛冶町にある

 ァ.旧社名は、「感神院新宮」「粟田天王宮」と称されていたが、明治になり粟田神社と改称された。京の七口 の一つである粟田口に鎮座し、古くから「旅立ちの神」として信仰された。
 「京の七口(きょうのななくち)」とは、京につながる街道の代表的な出入口の総称として用いられ、場所および名称は史料によっても異なり、定まっていない。また、「七」は具体的な数でなく、古代の日本の行政区画概念である「五畿七道」の中心にあり、その「七道」すなわち地方諸国へつながっていることを表すというのがルーツとする説が有力とある。ちなみに、次のものがよく七道(七ヶ所でない)と称される代表的な「出入口」。
 鞍馬口(鞍馬に至る街道で。「鞍馬口町」の地名が残っている)、大原口(若狭につながる若狭街道(別名鯖街道)がのびていた)、荒神口(北白川から山中越し琵琶湖へ繋がった。なお河原町通の交差点名として「荒神口」の地名が残っている)、粟田口・三条口、伏見口・五条口、竹田口(竹田(京都市伏見区)を通り伏見港へとつながる街道がのびていた)、東寺口・鳥羽口(山崎、西宮を経て西に続く西国街道、鳥羽を経て淀に至る鳥羽街道がのびていた)、丹波口(亀岡から丹波に続く山陰街道がのびていた)、長坂口・清蔵口(京見峠を越え杉坂に至る長坂越がのびていた。そこから周山、若狭へ道がつながっていた)
 (資料:ウィキペディア)
b.創建由緒(資料;「京都十六社朱印めぐり」サイト)
 「平安時代の貞観18(876)年に国家と民の安全を祈願する為に全国の諸神へ勅使が遣わされました。その際従五位上出羽守藤原興世は祇園社(現 八坂神社)にて七日七晩祈願されました。その満願の夜、興世の枕元に老翁のお姿の大己貴命が神託を告げられました。興世は神意なりと朝廷に秦上し、勅命により社を建てて御神霊をお祀りされましたのが当社の始まりとされています。また一説には、五代孝昭天皇の分かれである粟田氏が此地を治めていた時に氏神として当社を創建したとも云われています。
創建以来、京都の東の出入り口である粟田口に鎮座し、街道を行き交う人々の信仰を集め、旅立ち守護(旅行安全)厄除の神様として知られています。」
c.祭礼
 粟田祭には、10月体育の日前日の「夜渡り神事」、体育の日の「神幸祭」(剣鉾巡礼)、15日の「例大祭」があり、それら合わせて粟田神社大祭と呼ぶ。なお、14日の深夜には瓜生鉾・地蔵鉾や高さ15mの12灯を担ぎながら太鼓を鳴らして練り歩くという。
3)蹴上(けあげ)
 蹴上は、学生時代山科・音羽にある学習塾講師のアルバイトを3年半やっていて、週2回学生寮のある東山丸太町から平安神宮前・京都市美術館脇の疎水前にあったバス停(調べると仁王門通りがあり、そういば「仁王門前」があった)に通い、蹴上は、南禅寺前のおそらく次のバス停で馴染み深かい。ある時定期バスに乗っていると、ある乗客が「蹴上」の文字を見て「けりあげ」って変わった名前ですねーと言っていたのを1度だけ経験。地元でない限り、当然そのように呼んでもおかしくはない。なお今回、「「蹴上」の地名由来について調べた。ご当地での観光知識検定にも出題し正解があるようだが、ここは誰も証明できる人はいず時間のムダとみてカット。
 バスでは何十回も通過したが、足を運んだ憶えは南禅寺は相当数あっても、隣の蹴上はないと言ってよい。
a.白川橋から上り詰めたところに「蹴上」という標識があり、右は大津・左は南禅寺を示す標識も見えた。
 既に小高い位置に来ていて、京の家並みが下方に見える。
 ァ.古い煉瓦造りの建物が目を引いた。石橋周辺から建物の下方を見るとは、満開の桜の下ではっきり見えないが大きな導水管があるのがわかった。
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 ィ.「戸地ライフ」(後掲)の解説によると、「琵琶湖疏水の発電所用プールから大きな鉄管が下がっています。 直径はかっての〔佐渡の〕戸地川第二発電所と同じくらいです」とある。
 ゥ.向かい(北側)は、一段高く盛土した台地に線路があり(古い貨車もある)、その奥には桜並木が下の南禅寺から上の蹴上と続き、若い花見客が線路に入って歩いていた。和服姿も結構いた。
b.琵琶湖疏水
 ァ.概要
  琵琶湖疏水〔水路〕は、第1疏水(琵琶湖(大津市)⇀蹴上⇀鴨川と疏水分線(蹴上⇀南禅寺⇀北白川⇀一乗寺⇀下鴨⇀堀川:1890年完成)と第2疏水(電灯や工場動力の急速な普及への対応と、市中の衛生状態の悪化で伝染病が頻発し上下水道の整備も急務となった。第2疏水は、第1と並行してあるが、ほとんどがトンネル。
琵琶湖から蹴上て第1疏水と合流、発電と上水道用に分水。1912年完成)総称。
  両疏水を合わせ23.65m3/sを大津市三保ヶ崎で取水。用途は、水道用水12.96m3/s、水力発電、灌漑、工業用水、防火用水、水運。
 水運は、琵琶湖と京都、京都と伏見宇治川を結んだ。落差の大きい蹴上と伏見にはケーブルカーと同じ原理のインクラインが設置され、船は線路上の台車に載せて移動。かつて線路は水中に水平にも据え付けられた。
 ィ.沿革
 顱傍都は、1869年(明治2)東京遷都が行われ千年間続いた都の地位を譲ることになった。それに伴い人口が減少し産業も衰退したため、第3代京都府知事の北垣国道が灌漑、上水道、水運、水車の動力を目的とした琵琶湖疏水を計画した。そして主任技術者として東京工部大学校(現、東京大学工学部の前身)を卒業したばかりの田辺朔郎を任じ設計監督にあたらせた。〔岡部は土木科在学中、学術調査で京都へ出張したとき京都で疎水事業が計画されていることを知り、独自に現地調査を行い卒業論文「琵琶湖疏水計画」としてまとめた。これが、京都府知事に認められ事業に参画〕
 第1疏水
1885年(明治18)着工、1890年(明治23)に大津市三保ヶ崎から鴨川合流点までと、蹴上から分岐する疏水分線とが完成。
   第1疏水(大津−鴨川合流点間)と疏水分線の建設に総額125万円の費用を要し、財源に産業基立金、京都府、国費、市債寄付金などのほか、市民に対して目的税も充てられた。
(明治45年)に完成。日本初の急速濾過式浄水場である蹴上浄水場は、この時に設置。なお、疏水を掘り進める際に生じた砂は当時の滋賀県知事の許諾を得た上で、琵琶湖の埋め立てに用いられた
c.蹴上の産業・生活関連施設
 ァ.蹴上インクライン
 「インクライン(傾斜鉄道)
 大津から京都を結ぶ東海道の難所であった逢坂山〔おうさかやま〕や日ノ岡の峠道は、旅人や貨物運搬にとって悩みの種で琵琶湖から水を引き、その水路を利用して舟運を興すとともに、田畑を潤すことが古くは平清盛、豊臣秀吉の時代からの願望として伝承されてきました。明治2年(1869)の東京遷都以降、衰退する京都経済の復興策として京都府三代目知事北垣国道、青年技師田邊朔郎、測量技師嶋田道生ら技術陣・行政関係者、上・下京連合区会、市民の力で明治18年(1885)8月、水力動力、舟運、かんがい、精米水車などの多目的な効用をはかるため、疎水開削工事に着手しました。
 インクラインは、蹴上船溜(ダム)や南禅寺船溜に到着した舟から乗り降りすることなく、この坂を船ごと台車に乗せて昇降させる目的で建設されました。当初、蹴上から分水した水力動力(20馬力、15KW)によって水車場内のウインチ(巻上機)と水中の滑車を回転、ワイヤロープでつないだ軌道上の台車を上下する構造を考えていました。その後、明治21年(1888)、田邊技師、高木文平調査委員が訪米し、アスペン銀鉱山の水力発電を視察した結果、インクライン動力源を水車動力から電力使用に設計変更され、ー当初蹴上南禅寺から鹿ヶ谷付近、現在の岡崎周辺に水車の動力を利用した工場を誘致する計画で水車動力の採用が見込まれたー、田辺らのアメリカ視察で水車の設置は京都の条件にあわないことが明らかになったー蹴上に実用化されて間もない水力発電所を設置し市内に電力を供給するよう変更になった。事業用としては我が国発〔初〕の蹴上発電所を建設することになりました。この電力が世界最長のインクラインに35馬力(25KW)、時計会社に1馬力(0.75KW)など産業用、電灯用として活用されました。
 明治27年(1894)には伏見区掘詰町までの延長約20kmの運河が完成し、この舟運により琵琶湖と淀川が疎水を通じて結ばれ、北陸や近江、あるいは大阪からの人々や物資往来で大層にぎわい、明治44年(1911)には渡航客約13万人を記録しました。しかしながら、時代の流れで大正4年(1915)には、京津電車、京阪電車が開通旅客数が3万人大に激減したのに加え、国鉄(JR)の方でも東山トンネルが開通して大正10年に現在の山科駅が開設されたため、京津間の足としての疎水の機能は実質的に失われることとなりました。一方、貨物の輸送量は、大正14年(1925)には、史上最高の22万3千トン、1日約150隻を記録しました。やがて、陸送化がどんどん進み昭和26年(1951)9月、砂を積んだ30石船が最後に下り疎水舟運60年の任務を終えました。
こうして、琵琶湖疎水、インクラインは文明開化以降における画期的な京都再生の役割を果たしました。
平成8年(1996)6月には、国の史跡指定を受け、今日の京都を築いた遺産として後世に長く伝えるため形態保存しています。
     概  要

 着  工  明治20年(1887)5月
 竣  工  明治23年(1890)1月
運転開始  明治24年(1891)11月(蹴上発電所営業運転開始)
   幅    約22m
 勾  配  15分ノ1
 所要時間  10〜15分
 電 動 機  直流440V、70A
 ドラム工場 南禅寺船溜北側(白い建物)
                平成15年3月1日 京都市水道局 」
 ィ.蹴上水力発電所
 顱水力発電は当初の疎水事業計画になかったが、田辺らがアメリカで視察したアイデアを採り入れ、日本初の営業用水力発電所となる蹴上発電所を建設、1891年(明治24)に運転が開始。
 髻砲海療杜呂鰺僂い董
1895年(明治28年)には京都・伏見間で日本初となる電気鉄道である京都電気鉄道(京電)の運転が始まった。鴨川合流点から伏見堀詰の濠川までの鴨川運河は、1892年(明治25)に着工し、1894年(明治27)に完成。

 第2疏水は、第1疏水でまかないきれない電力需要に対応するとともに、新設する近代上水道のための水源として、京都市により進められた。1908年(明治41)着工、1912年

着  工
 明治20年(1887)5月
竣  工
 明治23年(1890)1月
運転開始
 明治24年(1891)11月(蹴上発電所営業運転開始)
 約22m
勾  配
 15分ノ1
所要時間
 10〜15分 〔距離640m〕
電 動 機
 直流440V、70A
ドラム工場
 南禅寺船溜北側(白い建物)
                          平成15年3月1日 京都市水道局 」
 補足 蹴上インクラインは蹴上船留まりと現在の琵琶湖疎水記念館前の南禅寺船溜りを結ぶ延長640メートル、敷地幅22メートル、勾配15分の1の路線で、運転用の巻き上げ機は蹴上発電所の電力で運転した。通過時間は10分から15分だった」(ウィキペディア)〕
 補足◆岾川と疏水との間には約36mの高低差がある。この水位差を電気仕掛けのインクライン (傾斜鉄道、急勾配鉄道) というシステムで克朊」「このインクライン・システムで 乗客の乗り換えや貨物の載せ替えをすることなく、大阪湾〜淀川〜宇治川(三栖閘門)〜鴨川運河〜鴨東運河〜南禅寺船溜〜インクライン〜蹴上 船溜〜琵琶湖第一疏水〜琵琶湖(大津)の間を行き来することができた」(資料:一枚の特選フォト「海&船」「琵琶湖と京都を結ぶ運河・琵琶湖疏水&インクライン」サイト)
  補足市内への電力供給が始まって以降電力需要は年々増加し〔「水力発電は疏水起工時の諸目的の他に,主として工業動力に振り向けられ,紡績,伸銅,機械,タバコ等の新しい産業の振興に絶大な能力を発揮」〕、1914年(大正3)鴨東運河の夷川船溜りに夷川発電所、鴨川運河の深草に伏見発電所も建設された。
 (補足は以上)
 ゥ.蹴上浄水場
  「明治30年〔1897〕代に入ると,第1疏水だけでは電力需要等の増大に対応できなくなり,また,地下水に頼っていた市民の飲料水が質・量ともに問題となってきたので,近代都市へ脱皮するため,第2代西郷菊次郎市長は,京都市の三大事業(第2疏水事業,水道事業,市電開通及び幹線道路拡幅)を計画しました。第2疏水はその事業の中核として明治41年10月に着工して,明治45年3月に完成しました。この第2疏水の流量は,毎秒15.30立方メートル(550立方尺)であり,三保ヶ崎の取水点から第1疏水の北側にほぼ平行して建設され,水道水源として汚染を防ぐため全線を掘抜きトンネル又は鉄筋コンクリートの埋立てトンネルにしています。水路延長は約7.4キロメートルであり,蹴上で第1疏水に合流しています。
 京都の水道は明治45年4月蹴上浄水場より給水を開始しましたが,その浄水方式には急速ろ過が採用されました。この方式は,今でこそ一般的なものとなりましたが,当時我が国で初めてこの急速ろ過方式を採用したのが蹴上浄水場です。
 給水開始当時の京都市人口は約50万人で,このうち給水人口は約4万人,一日の最大給水量は約3万立方メートルでしたが,今日では一日最大給水量も約70万立方メートルとなりました。また,現在は一日最大95万1千立方メートルが給水できます。」(資料:「京都市上下水道局」HP)
(2)佐渡との係わり
連歌の名門 京都の里村家
 
a.里村玄川(1737〜1818。佐渡へ3回訪れ佐渡連歌の興隆に貢献)の「里村句集」1794年の条に「佐渡国永輔在京、聖護院村(現、左京区聖護院)に暫く仮居しける」とある。毎年江戸城本丸の連歌の間で将軍や老中、諸奉行・諸大名が列席する柳営連歌会に連衆に欠員が生じ江戸へ行くことになった。その時、里村玄川が、粟田口の蹴上まで永輔を見送り、餞(はなむけ)として歌を記している。

 着て越えよ又あふ坂の山にしき 旅衣もなくて送れあきのかぜ いかにせん雲のあわ立つ山水の 引別れ行くへふの名残を

 永輔は翌年1795年正月11日江戸城中連歌(柳営連歌)に出座、席順は連歌執筆を含め13人中7番目、6句残している。2月16日にも登城

  (08年11月11日号「佐渡の俳歌5:連歌(3)長畝の連歌」)
b.「連歌は、明治維新で能楽同様江戸幕府の保護を受けられず自分で稼ぐことを余儀なくされた。・・・連歌に関し京都の里村家について、明治15年6月30日朝野新聞に「連歌復活」の見出しで記事が載った。

 「(里村)昌因氏は、・・・己に知命の齢を越えし身なれば行末を案じ之が為に病に伏したる折、先代の門人某が佐渡よりはるばると尋ね来り連歌流行の事を話し、宗師とすべき人もいなければ何卒該地へ招請致し度しとのことなれば、昌秋氏は大いに喜び、其の招きに応じ近日出立する由。連歌も撃剣、狂言と同じく追々世に出る時の来たりしならん」〔来島したかは、佐渡郷土史・佐渡新聞等になく確認できてない〕
 (10年4月11日号「係わりの地52:京都四条河原」(「3まとめ。粥墨歌」)
〔参考:「里村 紹巴(さとむら じょうは」(1525〜1602)は、戦国時代の連歌師。里村姓は後世の呼称であり、本姓は松井氏ともいわれ、奈良の生まれ。
 連歌を周桂(しゅうけい)に学び、周桂の死後、里村昌休(しょうきゅう)につき、のち里村家を継いだ。その後公家三条西公条をはじめ、織田信長明智光秀豊臣秀吉細川幽斎島津義久最上義光など多数の武将とも交流を持ち、天正10年(1582年)、明智光秀が行った「愛宕百韻」に参加したことは有名。本能寺の変後豊臣秀吉に疑われるも難を逃れた。
  紹巴は、連歌の円滑な進行を重んじ連歌論書『連歌至宝抄』を著したほか、式目書・式目辞典・古典注釈書などの著作もある。紹巴は最上義光の連歌師、一花堂乗阿など時宗の僧と交流があり、後に里村家からは宝永5年(1707年)に時宗遊行上人を継承した遊行48代賦国(ふこく)が出た。里村家は徳川宗家に仕え、幕府連歌師として連歌界を指導した。紹巴の子孫が里村本家(北家)と呼ばれ、娘婿の里村昌叱の子孫が里村南家と呼ばれた。(資料:ウィキペディア)〕
 【ここでは、粟田口に古くから「旅立ちの神」としての宮があったこと、連歌の名門家の家主である里村玄川が、佐渡の百姓身分である弟子の永輔を粟田口蹴上まで見送り、「粟田」と「(旅)立つ」が含まれている歌をはなむけに詠んだことに大きな意義がある】
◆慘稿記』(既掲)より
1)行程は、『日記』では敦賀→坂本→京都→四国・丸亀→尾道で私の場合と逆。京都での順路も同様。
2)5/8の記述
 「・・・大津の駅(しゅく)ヲ立て行キ・・・山シナ(山科)といへる所ヲ通り・・・京都之入り口粟田口と申スえ掛りまいりしなれバ、はや賑ハしふぞ有りけり。彼是と致シ行キねれバ、無程京の町へこそハ初めて出(いで)ニけり。其時、友なる左平次とりあえず発句して云イけるは、  

   初京やいなかづれニて五月闇     某〔?:佐平次
   嬉しさや是ぞ内裏の土地ならむ    〔空白?:某(秀山)〕

   そも八軸をしかれてしかも        岩平(岩之助)

   キョロキョロト気もいさぎよし京の町  佐平次 」
 〔上記の詠み人違い・空白の問題は、『日記』でなく、編集・校正だろう。ここは、不自然〕
【京都へ来たことの実感と・嬉しさが、文と言わば3人連歌〔三吟〕に表現されている。解釈すると、
 発句に必要とされる季語は、この場合「五月闇」(梅雨が降る頃の夜の暗さ、暗やみ)で 初めて京へ来た田舎者連中が別世界に来たため まるで闇夜を歩いているかようだとの表現。
 次の「嬉しさや・・・」は、普通は発句(5・7・5)を受けての「脇句」(7・7)がくるが、結句に相当するものとなっている。付合い(つけあい)で脇句が出やすいよう誘導し、わかりやすい発句として補足したと考えられる。(または、編者がその間をカットした可能性も考えられる。先の「不自然」さはそれであれば、大いに納得できる)
 「そも・・・」(7・7)は、脇句で「八軸」は 8巻からなる法華経の経典(天台宗、その後日蓮宗に係わり)とされるが、句の解釈は現時点できない。
 結句の中の「キョロ・・・」「気も」「京」は、「き」が各節の最初にきて語呂が能くリズミカル。「いさぎよし(潔し)」は、「田舎者」と「京の町」のそれぞれに意味違いで掛かっている。挙句はズバリで 発句の結論。】

「戸地第二発電所の発電機メーカー(奥村電機商会)のふるさとを尋ねて」(佐渡ヶ島戸地集落「戸地ライフ」HP「戸地川発電所の歴史」)より
 「昭和52年に戸地川第一、第二二発電所 が閉所されましたが第二発電所の発電機は今でも現地保存されています。その発電機の銘板に「京都奥村電機商会」製造と記されています。 そこで京都に奥村電機商会のこん跡を尋ねて戸地川に発電所を造ろう・・造った明治時代へタイムスリップを試みました。
日本で最初の商業発電は京都の蹴上発電所で明治24年(1891)に発電量600馬力でした。戸地川第一発電所はその4年後の明治28年に調査がスタート明治45年に着工、大正4年に完成しました。また、奥村電機製の発電機が設置された第二発電所は大正8年に完成し、稼動しました。
 京都の蹴上発電所は滋賀県の琵琶湖からトンネルで京都へ水を引き、その水をわずか落差32mの鉄管で水車を回し、直流発電機で発電したので送電が200mしかできなかったとのことです。また、需要を満たすため発電機を19台設置したのですが19台とも仕様が異なったので個々の発電機用の送電線を用意したとのことで今では考えられなく、笑ってしまうようなことが発電の草創期にはあったようです。
佐渡の戸地川第一発電所はそんな時期に落差300m弱で当時日本でも1、2位を争うような高技術で造られた発電所だったのです」
 「蹴上発電所の放水口で魚釣りを楽しむ京都市民 この水は鴨川運河に流れ、途中、平安神宮横に落差4mの夷川発電所があります。」
 「正面煉瓦造りの建物の夷川発電所は、大正3年(1914)に建設されて以来、長期にわたって京都市内に電力を送電しています。この夷川発電所は、明治23年(1890)に琵琶湖疏水が竣工し、翌年にその水力を利用した我が国最初の事業用水力発電所である蹴上発電所が建設された後、第二疎水計画と軌を一にして、下流の黒染発電所と同時に建設されました。初期は、水車が英国ボービング社製の4連フランシス水車、発電機が米国ウエスチングハウス社製の同期発電機でしたが、平成4〜5年(1992〜1993)に取替工事を行い、現在の認可出力は300KWで国産のS型チューブラ水車および同期発電機を使用しています。平成7年(1995)関西電力」
 【下の地図は「戸地ライフ」からの転載。有ると無いでは大違い】













3.J6クラス会in京都
。6は、1966年4月入学から68年3月までの法学部教養課程の45人クラスで、第二外国語がフランス語38人・ロシア語7人の混成クラス。
1)私はロシア語で 後日 他にどういう友がいたか知りたく 幹事(フランス語専攻)にメールで問い合わせたところ、板谷・上田・植村・梶原・佐藤・宮崎の各兄かと返信。それでアクションを起すことないのだが、気懸りが解決。
2)大学1〜2年の教養課程クラスは、3〜4年の専門課程とは違い、第二外国語をどれにするかが共通なだけの偶然集団。しかもJ6は混成クラスで、全員が一緒になるのは週2回(多分)の英語の授業のみ。にも拘わらず、こうしてクラス会が存在しているということは、非常に有り難い。
(なお、法学部のあるクラスでも行われていると今回耳にした)
3)まとまりのあるクラスの事例(前にも記している)
 a.J6文集の作成。当時はガリ版刷り。原稿は勿論、編集後記の一部を書いた。3年の専門課程に入る前、元J6メンバーとして投稿を依頼された。
 b.大学祭の仮装行列でトップ賞(おそらく40クラスは参加。)テーマは「自然に帰れ」。リヤカーをベースに恐竜の大きな張りぼてを作り、上半身裸で顔まで土色の絵具な何かを塗り原始人姿で京の街を練り歩いた。夜の模擬店にも出店。多分焼きそば屋。学生の身でありながら、調理やお客への呼び込みに長けた人がいた。藤川君で、長い間名前は忘れていたがそのような人がいたことは、しっかり記憶に残っていた。名簿を見た時、すぐその人とわかった。
 c.合ハイ(今は、「合コン」というらしい)。嵐山へ行き、広沢の池と思うが貸しボートで1人を乗せ漕いだ。(その時の写真はあったが、30数年前家が落雷で半焼し中学から大学時代の写真はすべて焼失)
△海裡卸遑横監幹事から全員にメールが送られた。
  「J6クラス会in京都」のご案内
 皆様 桜の頃の京都でのクラス会開催のご案内です。今年は、4月4日(月)です。
1)15時30分に「南禅寺三門下」に集合。
 三門(拝観料500円)、方丈庭園(拝観料500円)を見て、水路閣へ。水路閣への上を流れる疎水に沿って上流の蹴上まで歩き、蹴上から桜並木の中のインクライン跡を下ります。
2)17時30分〜(20時30分)クラス会「南禅寺〇〇〇」
 月曜日は休みですが、お願いして開けてもらいました。オープンも普段は18時ですが、17時30分にしてもらいました。会費:・・・円。
3)20時30分〜(22時)
 希望者は二次会で祇園のお茶屋バー。会費:移動のタクシー代を入れて・・・円。
〔幹事へは2)と3)参加で返信。ところが、新潟行き夜行高速バスが予約受付開始日から2〜3日遅れで申し込むjも既に満席、ならば京都の宿坊へ宿泊申し込みするも満室。京都のホテル予約は大変と思い彦根駅周辺に狙いをつけたところすぐに決まった。だが、京都から電車で50分要すとのことでチャックインが遅くなるので二次会はキャンセル。
H忘
1)開催時刻に遅れないよう場所の確認もあって40分前には会場近くに来ていたが、早すぎると思い時間稼ぎに辺りを歩き、20分前に入った。ところが既に大勢いて、ビールを飲みながら歓談、中には囲碁をしている友もいた。
2)J6は、囲碁好きが多い。
a.東京では2ケ月に1回は囲碁をやっているらしい。(毎月とも聞いている)
b.今回京都でのクラス会に合わせ、前日集まって関東勢と関西勢の対抗試合を行ったようだ。
3)今回の出席者は16人。伊地智、池田、上田、折坂、梶原、亀井、岸本、久保、佐藤、更家、津山、中西、西、野尻、光井の諸氏と櫻井。
a.クラス会は昨年からが初めて、年2回のクラス会に毎回出席。今回4回目で初めて会ったのは 上田君、岸本君、中西君、野尻君の4人。
 
b.大きな発見は、野尻君の歌唱力など。
  ァ.大学の歌を数曲も知っていて、一人で次から次へ披露。終る度に盛大な拍手喝采があり、別の歌に移る。まさにワンマンショー。忘れた・知らない歌が殆どである中、よく覚えているものだと皆関心しながら聞いた。三高寮歌「逍遥の歌」は11番からなり歌詞を全部覚えているとのことで歌った。途中、酔いもあって途切れた部分もあったがすかさず更家君がタブレットを用意していて開いていたのを見せ、後は見ずに歌い通した。また、周囲から聞こたところによれば、囲碁は相当の腕前。
 ィ.彼とは学生寮で4年間一緒。
 顱乏惱塾のバイト先を紹介してくれた。そのため、蹴上はバスでのバイト通いで通過しており、親しい地名となった。
 髻烹映の時夏休みで佐渡に帰っていたとき暑中見舞いを送ってくれたのを覚えている。
 鵝鉾犖世Δ砲聾淕槓造戞将棋・卓球をやったが、いずれも勝ったことはなかったという。そう言えば、寮に卓球台があった。
 ェ.近況報告の中で、私が出席することを聞ので申し込んだと述べた。そういえば、昨年私の隣席の佐藤君から私に会いたがっているとを聞いた。それは、私自身も同じ。
 (15.5.15「係わりの地82:京都(智積院、東・西本願寺)」の「4.まとめ」「い海譴J6だ」)。 
c.その他
 記憶にないが、(大学祭の時であろう)歌唱大会があって26クラス出場、J6からも更家君・野尻君・櫻井の3人が出たが上位の成績でなかったとのこと。

4.まとめ
〔声0歐掘福疆豕遷都)から今日に至る京都を知る上で1885年(明治18)に始まった琵琶湖疎水事業は欠かせず、蹴上は要所。
1)東京遷都で京都市の人口は減少し(維新前35万人から20万人へ急減)、公家や有力商人への依存度が高かった商工業も衰退。そういう危機感の中で第3代京都府知事の北垣国道が産業活性化のため灌漑、上水道、水運、水車の動力を目的とした琵琶湖疏水を思い立った。
  《参考1》 琵琶湖疎水構想は江戸時代からあった。
1800年(寛政末)頃の疎水計画図
1841年(天保12)壬生村農民が京都町奉行所に請願した計画
1862年(文久2)豊後国(大分県)藩主中川久昭が朝廷に申請した計画
1872年(明治5)下京の住人が京都府へ請願した計画
1874年(明治7)滋賀県が立案した外国資本を導入する計画案 等
 目的は、北陸からの物資(越後や佐渡、日本海側の東北・蝦夷を含む)を琵琶湖の水運をも利用し大津まで運んだが、そこからは牛車に積み換え京都まで陸送するため運賃がかかり、長年の懸案事項であった。
 参考2 明治維新政府は明治2年の東京遷都で衰退する京都の産業育成のため明治2年4月勧業基立金として京都府に15万両貸与、翌3年には特例として産業基立金10万両を下賜(京都では朝廷からいただいた「お土産金」と称された)。明治政府といっても政権が確立したわけでなく不満分子が全国各地におり、遷都によって経済的にも精神的にも打撃を受けた京都町民への懐柔・慰撫策としてあった。
 (参考は、以上)
2)資金(基立金)の活用・京都の経済復興の核事業を琵琶湖疏水においた。
3)推進となる技師の登用
 福島県の安積疏水の主任技師南一郎平に琵琶湖9疏水計画の調査を依頼,大津ー京都間の測量を島田道生に命じ,東京工部大学校を卒業したばかりの田邉朔郎を土木技師に採用する等。
 調査については、技師の米国視察視察。これが、水車利用から水力発電利用への変更のきっかけとなった。
4)事業財源には、特別な事として産業基立金が使われ、不足分については市民から目的納税の協力により
賄われた。
 ァ.「予算の原案は当時のお金で60万円でしたが,政府からもっと念入りな工事をするようにとの意見が出て,工事予算は125万円になりました。議会は市民に税金を掛けてでも計画を進めると決定し,明治18(1885)年に着工しました」
 ィ.琵琶湖疏水記念館(京都市上下水道)の中の説明パネルより
  「京都市三大事業
    第二琵琶湖疏水     378万円
    上水道           300
    道路拡築・電気鉄道  1,030
   合     計        1,716
  三大事業に必要なお金は、約1,720万円でした。今のお金で計算すると約2,300億円にもなります。当時の京都市の約34倍もの大きさでした」《道路拡築」以外は、蹴上と係わっている》
 【補足資料:「琵琶湖疎水 都市史27」サイト
 「財源は,上下京区有〔当時京都市は上京と下京の2区制〕の産業基立金(明治天皇が東京遷都の際に京都に下賜したもの),府や国庫からの下渡金,市債,寄附金によりました。不足分を補うために地価割・戸数割・営業割の三種類の税が市民に課せられました」。事業の追加財源は市民の別途納税という協力があった】
5)滋賀県、大阪府等との調整
 a.「疏水工事は空前の大事業であったため,中央政府の中でも賛否が分かれました。滋賀県や大阪府でも上下流の利害がからむ反対運動があり,両府県に対し予防工事費が支出されました。同じ理由で京都府内各地でも災害対策をめぐる建議や陳情が相つぎました」(前掲「都市史))
  補償金協定の締結により成り立ったということ。
 b.「(第二疏水は)京都府ならびに滋賀県から承認が得られ、また資金手当も国内で債券が発行できるようになったことで ’08(明41)年10月、着工にこぎ着けたのでした。」(「京都経済同友会」HP「京都近代化の軌跡」)
 c.「現在琵琶湖疏水を通して年間2億トンの琵琶湖の湖水を得ていて、京都市から『疏水感謝金』として年間2億2千万円が滋賀県へ支払われている。
6)「琵琶湖疏水事業」に発する日本最初となる技術や事業の導入
 a..建設当時日本最長の「第1トンネル(長等山のトンネル)」(2,436m)の施工方法は、竪坑(シャフト)方式を我が国で初めて採用し工事の促進を図った。(山の両側から掘っていくほか 山の上から垂直に穴を掘り(深さ47m)そこから山の両側に向けて工事を進めていく。京都ー山科間の東山トンネル工事にも坑方式を採用
 b.日本最初の事業用水力発電所「蹴上発電所」が、1891(明治24)年11月送電開始。
 c.蹴上インクライン(傾斜鉄道)は、延長581.8m、建設当時世界最長。動力は、すぐ近くの蹴上発電所の水力発電。
 d.1895年(明治28)日本最初の市街電車京都ー伏見線が開通
 e.上水道で1912年(明治45)我が国で初めて急速ろ過方式を採用した蹴上浄水場。
 〔急速ろ過は、今日では都市部の浄水場で広く使われている水質浄化方法で1896年アメリカで初めて採用。微生物による浄化方法である緩速ろ過と比べ浄水場の面積が少なくてすむため、大きな都市の浄水場で広く使われるようになった〕
 f.日本人の設計による最初の煉瓦造製洋式閘門(こうもん)が大津閘門(工期:明治20〜22年)。それに関連し煉瓦工場が10棟建てられた。当時としては日本最大級のレンガ工場地帯が山科地区に出現。
 (資料:http://www.geocities.jp/biwako_sosui/kensetu.htm#1
 ァ.閘門は水位の違う二つ水面間に船を通すため水位の調整をする構築物。両側に門扉があり、その間を「船を入れる閘室」とし、閘室内を上下流の片方と同水位にして船を入れ、門扉を閉じて他方と同水位まで水位を上下させた後に船を出すも。水運の盛んな日本でも、閘門は古くから利用されてきたが、明治になり欧米の洋式閘門(煉瓦造り)を導入。なお、琵琶湖疏水には建設当初からの洋式閘門(大津・夷川・伏見)が残っている。〕
 ィ.煉瓦資料
  顱明治時代前半における煉瓦を使用した最大の建築物は、明治21年の北海道庁(250万本)で、土木工事では明治23年の琵琶湖疏水(1450万本)、明治26年の碓氷トンネル(1500万本)。煉瓦は製造コストが安いが運賃が高いため、大量に使用する場合には、使用場所の近くに専用工場を建設して供給した。

 髻肪浪偲粥崕馨絮悄廚2番出口にある琵琶湖疏水竣工百周年を記念碑の文字盤より
 「鏡山・天智天皇陵を背景に、疏水建設に必要な煉瓦製造工場が御陵原西町一帯に設けられた。
 当時わが国には、この大工事を賄う煉瓦製造能力がなく、京都府は自給の方針を立て、原料の採取と製品の運搬に適したこの地を選定、若き技師菊田宗太郎を起用し、明治19年7月操業開始、明治22年10月に閉鎖されるまで1370万個を製造した。
 京都再生への命運をかけた琵琶湖疏水建設が、日本の近代土木・工業技術等の発展の魁となった足跡を語る遺跡である。
 煉瓦工場概要:敷地:13.471坪、工場:10棟、窯場:3棟、窯:12ケ所、煙突:8基」
 3)「山科区老人クラブ連合会「老人が子等に語る山科風土記」によると、近隣に煉瓦つくりの職人が殆どいなかったので、京都の建築家の三上古兵衛という人が職人を集めたという。また、原料の粘土は、山科区西野山地域に産出する「砥之粉」の産地からと推定している」
 (資料:http://www.geocities.jp/biwako_sosui/kensetu.htm#1

 以上















係わりの地92:岡山

 金比羅宮参詣後岡山へ移動。琴平14:48 発特急南風16号(始発は13:13高知)ー善通寺ー多度津ー丸亀ー児島ー岡山15:41着。
 途中、瀬戸大橋(本州・岡山県倉敷市と四国香川県坂出市に架かる10の橋の総称で上部は瀬戸内中央自動車道・下部はJR本四備讃線の2階建構造)を通過中 車中から眼下に大型貨物船がゆっくりと瀬戸内海を航行しているのが眺められた。児島駅の「児島」は、小・中学時代地図帳を見るのが好きだった関係で名前は知っており、また近年には製塩業について記事にしたこともあり親しい感じがした〔1948年下津井町(江戸時代 港は北前船(北からの綿花肥料ニシン粕移50l入と北への繰綿等移出港、及び北からの金比羅さん詣の窓口港として繁栄〕等と合併し児島市市制施行。1967年旧倉敷市・玉島市との3市新設合併で新倉敷市〕
 
岡山駅「緑の窓口」で、帰途の岡山ー新潟の普通乗車券、新幹線自由席券(岡山ー京都、金沢ー糸魚川)購入。
 なぜ岡山か?全くの趣味・道楽の範囲でしかない。これまで播州:兵庫港(神戸港)、その後長州:萩を訪れ、夫々記事にした。今回の四国旅行で芸州に入る広島県・尾道〔正確には備後)を訪れ、ならば備前か備中かわからないが備州を狙いとし岡山を選んだ。なお、候補地は他にも、北前船の寄港地・下津井(現、倉敷市)、あるいは倉敷があった。
 徳川家康が政権を握った1600年初頭佐渡が江戸幕府の直轄領=天領となり、有力な金銀山が相川で発見された時、武田信玄時代の甲斐金山や豊臣秀吉時代の石見銀山での鉱山経営に功績があり家康から信望の篤い大久保長安が佐渡の〔初代〕代官となり、その一方で佐渡の有力な寺院建築に際し 瀬戸内海地方などから有力大工を招聘した。
 その中に、「備州岡山の住 富田助左衛門」の名がある。
 1)羽黒権現〔神社〕
  「慶長13年(1608)播州明石の水田与左衛門が宝殿建立、棟梁は備前岡山の富田助右衛門、脇大工は摂津西宮の米山与八郎、大久保長安が検分」とある。
  (宝暦「佐渡国寺社境内案内帳 下巻」に見る「佐渡の社」サイト)
 2)蓮華峰寺・弘法堂:慶長14年(1609)建立
 a.堂内は、本尊として弘法大師坐像が安置。坐像を収める厨子(ずし)は、安土桃山様式の天人花鳥の荘厳な彩色画。
 b.弘法堂は、禁扉で内部を見ることはできない。
 c.蓮華峰寺修理史料次の文あり(『佐渡小木町史 史料集』)。弘法堂の「真束」部分について 
   ァ.東面棟梁:備州岡山之住富田助右衛門、大工:播州明石之住水田対馬守政次(以下、氏名は略)、播州之住・伊勢之国・津之国・津之住・同国之住・甲州之住
    ィ.南面:播州の住・越前之住・遠江の住・備前之住
    ゥ.西側:佐州羽茂之郡〇野甚六・同春日与作・同春日内匠助季忠・同・同・同春日与五郎
 ( さて、駅で電話予約したばかりの駅周辺にあるホテルに小雨気味のためタクシーに乗ってチェックイン。少し休んで、フロントでお勧めの居酒屋兼食堂を教えてもらって出かけた。店名は「鳥好」とあり 焼き鳥屋を想像したがそうではなく魚類は豊富にあるという。18時を少し回っていたが、既にお客で混んでおり中央のテーブル席はほぼ満杯。カウンター席が空いており、奥の一番端に座った。
 酒の肴に頼んだのは、カマ塩焼き400円、真イワシ刺し身500円、白身魚のフライ(2匹で鯛という)350円の3品。いずれもレモンが添えてあったことに、佐渡や新潟とは味付け好みが異なると思ったものだ。
 レモンの産地は瀬戸内地域に多いから当然でもあろうが、手帳に「尾道 レモンの産地 3/16昼のNHK」と記してあった。岡山県も今調べると あるブログ記事に「瀬戸内市が、平成18年〔2006〕にレモンの苗木を定植し、レモン産地としてスタートしています」とある。
 (以下、資料:ウィキペディア他)

1.岡山の光景
 4月4日(月)午前 曇り 
。複匆山駅前
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1)桃太郎のモニュメントがあった。
  それで思い出した。”桃太郎さん 桃太郎さん お腰につけた黍団子(きびだんご) ・・・・”
 a. 「桃太郎」は日本のおとぎ話で、お婆さんから黍団子(きびだんご)を貰って、イヌ・サル・キジを従え鬼ヶ島まで鬼を退治しに行く物語。
 b.吉備団子(きびだんご)は、岡山県(旧吉備国地域)の土産として菓子の一種。
 ァ.江戸時代末期に考案されたというが、通説ではない。
 ィ.吉備団子のルーツを、岡山の吉備津神社で黍団子がふるまわれたり、境内で飴が売られていた故事に求める所見も存在。
 c.吉備団子を全国的に有名にしたのは、日清戦争時(1894〜95)に山陽鉄道が兵士の輸送を担ったことが大きく関係
 ァ.当時山陽
線は大本営が置かれた広島市まで開通、全国の兵士は山陽線を通って広島に集結し宇品港から戦地に向かった。この戦争の動員による人々の移動が「おみやげ」を生み出した。
 ィ.菓子屋の廣榮堂の主人・武田浅次郎は、自ら広島宇品港へ出かけ、桃太郎の扮装で『日本一の吉備団子』の幟(のぼり)
を立て彼らを出迎え、販売促進を行った。
 顱紡亞粟鐐茲傍澗犲を当て、帰還してきた兵士たちを桃太郎になぞらえた。
 髻1897年(明治30年)頃までには、12軒の「〔吉備団子〕本舗」を名乗る〔吉備団子の〕土産店が出現した。
 鵝傍犯団子は、兵士たちの多くが通過する
岡山駅という地の利と、鬼を成敗した桃太郎というイメージ戦略とが複合することで急成長し、岡山を代表する名物として全国へその名を馳せるようになった。
d.昭和に入り、桃太郎は吉備津神社の主祭神吉備津彦に由来するとの説が起こり、これを受け戦後より地域をあげて桃太郎との関連をアピール。
 ゥ.「
室町時代に広まったとされる桃太郎の話と、和菓子としての吉備団子には直接的な関係はない」「最近の製品は黍の割合がかなり低く、使用していない商品もある。また整形もオートメーション化されていることが多い」
2)駅前道路=6車線+電車2線路と、道路幅は広い。
 駅前道路(桃太郎大通り)から真っ直ぐ行けば、岡山城・後楽園。
  岡電バス「岡電高屋行き」・両備バス「東山経由西大寺行き」 県庁前下車5分
  路面現車「東山行き」城山下車10分
  徒歩で約2辧Γ械以
 (行きはバス、戻りは徒歩)
岡山城
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1)概要
a.戦国時代備前西部から美作備中に勢力を伸ばした宇喜多氏が本拠とし、その後小早川氏池田氏により整備、拡張が行われた。

b.岡山城は標高が十数メートルの丘が連なる小高い土地に建設。

 ァ.当時、旭川河口部は複数の派川に分岐し、その中の大洲原と呼ばれる広大なデルタ地帯中央に「岡山」(柴岡山とも)、その西隣に「石山」、その北西に「天神山」(天満山とも)の3つの丘が連なり、各時代ごとに要害として使用されたとされる。
 ィ.その中の石山にあった石山城(いしやまじょう)に
宇喜多直家が入城・改築し、後に子の宇喜多秀家が隣接する岡山に新たに本丸を設け、石山城を取り込む形で城郭を建造したものが岡山城。

 ゥ.城の縄張〔曲輪や堀、門、虎口等の配置〕は梯郭式〔=本丸の虎口に二ノ丸、二ノ丸の虎口に三ノ丸というように、馬出状に曲輪を連ねる事によって防御性を高めた縄張。岡山城・広島城・熊本城等。以上、「城用語集」サイト〕で、三段の城郭配置が西側の一方だけに広がる平山城となっている。
 ェ.元禄時代の古地図から、五重の濠に囲まれた城郭と南北3.5km、東西1.3kmにおよぶ城下町の姿が伺える。

c.明治時代に御殿・櫓・門の大半が取り壊された。堀は内堀の一部を除いてほとんど埋められたが、街路は江戸時代の位置をほぼ踏襲。
d.
第二次大戦中、空襲のため天守・石山門を焼失。現在までに2つの櫓、本丸付近の石垣、内堀が残り、戦後に天守・不明門・廊下門・六十一雁木上門・塀の一部が再建。
e.現存する月見櫓・西之丸西手櫓は国の
重要文化財に指定され、「岡山城跡」として史跡にも指定。城跡は「烏城公園」として整備される一方、二之丸跡に林原美術館・岡山市民会館、三之丸跡に岡山県庁・岡山県立図書館などの公共機関がある。
2)歴史
a.南北朝時代 - 安土桃山時代
 ァ.南北朝時代の正平年間(1346〜1369年名和氏の一族上神高直が石山台(岡山)に城を築いたと「備前軍記」に書かれているのが最初と伝えられている。なおこの付近には摂関家領・鹿田荘の中心部があったとされ、旭川(鹿田川)河口の港町としても栄えていたとされる。」
 ィ.戦国時代の
大永年間(1521 -〜1528年金光氏が居城とし金川城主の松田氏に仕えていた。元亀元年(1570年)、宇喜多直家が金光宗高を謀殺しこの地を支配。直家は備前守護代浦上氏の一族浦上宗景の被官であったが、備前西部を中心に勢力を急速に伸張。天正元年(1573年)、直家はそれまでの居城である亀山城から石山城に入城、城の改築と城下町の形成を行った。
 顱砲海虜△寮仍馨襦焚山城)は、縄張が東西に走る連郭式であったと推定されている。直家は北方の山裾にあった
西国街道を、城の南に沿うように付け替えて城下に導いた。
 髻砲修靴
備前福岡・西大寺などから商人を呼び寄せ、城下町の整備を行うなど積極的に経済振興政策を行った。
  鵝謀契3年(1575年)には、浦上宗景の兄・政宗の孫をおしたてて宗景を播磨へ放逐、事実上の下克上を行い、備前・美作、さらに播磨・備中の一部を支配下に置いた。
 ゥ.直家の子・宇喜多秀家は、豊臣政権下で父の遺領をほぼ継承、57万4,000石の大大名(豊臣家五大老の一人)となる。これに相応した城とするため天正18年 - 慶長2年(1590〜1597年)の8年間にわたる大改修が行われ、近世城郭としての体裁を整えた。城は「岡山城」、城下町は「岡山」の呼称が定着した。
b.江戸時代
  ァ.慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで西軍の主力となった宇喜多秀家は八丈島に流刑、宇喜多家は改易。代わって小早川秀秋が備前・美作52万石の領主として入城。
 秀秋は本丸中の段を拡幅し、三之丸の外側に15町余の外堀を掘り三之外曲輪の整備をして城下町の拡大を行った。翌年、中の段南隅に沼城天守を移築したとされ岡山城最大の櫓で二層の大入母屋造りの上に望楼を乗せた形式の三層四階の櫓であった。秀秋は慶長7年急死、嗣子がなく小早川家は断絶。
  ィ.その後城主は池田家系統となる。
  元和元年(1615年)、池田忠継の弟・忠雄淡路島より31万5千石で入封。幕府の格式に見合った城とするため、忠雄は本丸中の段を大幅に北側に拡張し、また城下の西端を限る用水路の西川を整備するなど岡山城の縄張りが完成する。
 ゥ.寛永9年、(1632年)忠雄の子・光仲鳥取へ転封し、入れ代わって鳥取から池田光政が31万5千石で入封。以後、幕末まで光政系池田氏の居城となる。
 顱
寛文6年(1669年)〜貞享3年(1686年)にかけて旭川の洪水から岡山城下を守るための放水路の百間川の開削・整備が実施され、貞享4年(1687年)からは光政の子・綱政により14年の歳月をかけて後楽園を造営する。周囲を土塁竹垣で囲み、庭園の形をとるも城を守る郭の役割もあったとされる。
 髻望綉はともに池田光政・綱政の二代の藩主に仕えた岡山藩士津田永忠(1640〜1707)によるもので、永忠は閑谷学校、藩の新田・干拓開発などにも手腕を発揮した。
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1)概要
a.後楽園は岡山藩主・池田綱政が岡山郡代官津田永忠に命じて造らせたもので、1687年(貞享4年)に着工し14年の歳月をかけ1700年元禄13年)に完成。
 ァ.岡山市内を流れる
旭川をはさみ、岡山城の対岸の中州に位置。
 ィ.主が賓客をもてなした建物・延養亭を中心とした池泉回遊式の庭園で岡山城や周辺の山を借景としている。江戸時代には延養亭を茶屋屋敷、庭園を後園または御後園と呼んでいた。
b.1871年明治4年)、園内を一般開放するにあたって後楽園と改めた。
  ァ.総面積は133,000屐東京ドームの約3倍)。
 ィ.同園は
岡山県が所有管理。管理業務は、県の外郭団体・財団法人岡山県郷土文化財団が県からの受託業務として行っている。
c.後楽園は、偕楽園(水戸市)、兼六園(金沢市)と並んで日本三名園の一つに挙げられている。
2)歴史
a.築庭の経緯(いきさつ)
 現在の後楽園から旭川を隔てた南の岡山城は、
1597年慶長2)岡山藩主の宇喜多秀家が旭川の流域にあった「岡山」という小高い山を利用して築城。
 ァ.この時、旭川を城および
城下町の防御を固めるための堀の代わりとして用いるため旭川の流路を岡山城の手前で大きく東方へ曲げて城の北東面に沿わせ、さらに南流するように変えた。
 ィ.これにより城と城下町の防御は強固となったが、不自然な流路となったため、以後岡山城下はたびたび洪水に悩まされることになった。なお、
藩主はその後 宇喜多氏⇀小早川氏⇀池田氏へ変わり、4代目池田綱政の治世となる。

 顱帽棒は、父・光政に見出されていた津田永忠を登用し、度重なる洪水の被害に疲弊していた岡山藩の財政再建のために新田開発はもとより放水路・百間川の開削などの抜本的洪水対策を行い、藩の財政を再建。
 髻1686年貞享3)頃百間川が完成し藩の財政に余裕が生じ、綱政は永忠に命じて城北側の旭川沿いの低湿地および宇喜多秀家により集められた小姓たちが居住していた「小姓町」に自ら休息のための庭園を造るよう命じた。
 鵝肪單腸隼卜舛砲茲襪函1687年(貞享4)12月着工し(鍬始め)、翌1688年元禄元)には本格的な土木工事にかかり、次々と園内の建造物や植栽を完成。
 堯謀喘罅洪水の被害を受けて施設の建て替え等を余儀なくされたが、その後も庭園の拡張や新たな施設の建築が行われ、1700年(元禄13年)一応の完成。

  なお、庭園は工事が始まった当初は「御菜園」、「御菜園塚」などと呼ばれていたが、1695年(元禄8年)頃には城の背後にあることから「御後園」または「後園」と呼ばれるようになった。
b.元禄〜幕末

 ァ.御後園の管理に専門の奉行職が設けられ、一方園内は時の藩主の好みによってところどころ変えられていった。
 顱謀初の園内は綱政が田園風景を好んでいたため、田んぼや畑が多く配置されていたが、
1771年明和8)藩が財政難に見舞われ、藩主・池田治政が経費節減のため芝生を植えさせ次第に現在のような景観に変化。

 髻妨羝絮爐鉾夕腓岡山在城中に休息のために度々訪れていたが、幕府が大名の生活を厳しく監視していたため、他藩の藩主や客人等が岡山に来訪した時には御後園は用いられず、すべて岡山城内で接待。
  御後園で岡山藩主が客人らをもてなすようになったのは、幕府の力が衰えた幕末からで
1830年天保元)と1838年(天保9)に9代藩主・池田斉敏が実の父親で薩摩藩主であった島津斉興をもてなした記録がある。また、日を定めて藩内の人々を対象に園内の公開が行われていた。
c.明治以降

 ァ.1869年明治2)版籍奉還で御後園は岡山城と共に明治新政府に渡った。1871年(明治4)藩知事の池田章政が日を限り一般に開放。この時、「御後園」の名称を中国故事の「先憂後楽」(「先天下之憂而憂、後天下之楽而楽」)から「後楽園」に改めた。
 ィ.1882年(明治15年)に多額の負債を抱え財政的に苦しかった池田家は当主の章政が岡山県に後楽園を土地は無償、建造物と樹石は有償で譲渡することを打診。県会で反対派議員から後楽園に県有とするだけの価値があるかどうか疑問の声が上がり買収議案はいったん否決されたが、後楽園の文化的価値や観光地としての価値を再検討し、1万2500円で買い取ることを決定。

 ゥ.太平洋戦争中の1940年代前半食糧事情の悪化により園内の芝生部分がイモなどの畑に転換、さらには1945年6月29日岡山空襲により、延養亭などの建造物の多くが焼失。

 ェ.終戦後の1947年頃には進駐軍の宿舎として使用。進駐軍撤退後は再び岡山県の所有となり、約2億円の費用を投じて園内を本来の景観に復元。1952年文化財保護法により特別名勝に指定、1954年(昭和29年)6月から有料として一般公開、1967年園内の全ての建造物の復元が完了。

2.岡山市(古代・吉備国を含む)の概要

ヽ祇
1)「全国的には桃太郎の伝説と吉備団子西大寺会陽裸祭り)、温暖な瀬戸内の気候により育まれたマスカット・オブ・アレキサンドリア白桃など高級フルーツ産地で有名」
2)1980年代以降
中四国のクロスポイントとして瀬戸大橋開通、JR四国との直通、山陽自動車道開通に伴い交通路線が急速に整備
3)09年4月政令指定都市。
 

⇔鮖
1)古代から律令時代

 a.「古代の岡山は吉備〔きび〕国の一角であり、弥生時代古墳時代には、筑紫出雲ヤマト毛野などと並んで、日本列島を代表する政権として繁栄し、ヤマトと連合して列島の統一・治世に貢献した」

 b.「しかし、吉備の興隆を快く思わないヤマトに勢力を削減され、備前国備中国備後国美作〔みまさか〕国に分割され、これ以後現在に至るまで、経済・文化の面で連関の強い旧吉備国の政治的な統一は達成されていない。吉備国が分割された後、備前国の国府は現在の岡山市域内に置かれたと見られる」
 【参考】吉備国(きびのくに)
 ァ.吉備国は古代日本の地方国家、現在の岡山県全域と広島県東部と香川県島嶼部および兵庫県西部(佐用郡の一部と赤穂市の一部など)にまたがり、筑紫出雲大和などと並ぶ有力な勢力の一つだった。
  別名 吉備道、備州。 
  温暖で遠浅の海辺は塩の産地であり、背後の山は鉄が採れ 且つそれぞれ燃料となる木々が豊富、平野も広く五穀豊穣。
 古墳時代、吉備地方の現在の岡山平野南部は内海(「吉備穴海」と呼ばれる)。4世紀からこの内海の近くに多数の前方後円墳が造られた。埴輪の起源は、弥生時代後期後葉の吉備地方の首長の墓であると考えられている弥生墳丘墓(例えば、楯築墳丘墓)から出土する特殊器台・特殊壺(特殊器台型土器・特殊壺型土器とも呼称される)であるといわれている」
 鵝5世紀「雄略天皇は地域国家連合体であった国家をヤマト王権に臣従させて中央集権を進めるために、最大の地域政権の一つ吉備に対して「反乱鎮圧」の名目で屈服を迫った。吉備下道臣前津屋の乱(463年)と吉備上道臣田狭の乱(463年)の「反乱鎮圧」を成功させてヤマト王権の優位を決定づけ、さらに雄略の死の直後の吉備稚媛(雄略妃)と星川稚宮皇子(雄略の息子)の乱(479年でまたしても吉備の勢力を削減」
 堯法6世紀前半に大和朝廷への臣従したのち、吉備国は勢力抑圧のために備前国、備中国、備後国の3国に分割され、さらには備前国から美作国が分国された。国府は現在の岡山市(備前国)、総社市(備中国)、津山市(美作国)にそれぞれ置かれた」〔備後は、府中市(広島県)〕〕
   a)吉備は弥生時代からのの生産地、6世紀後半には鉄生産が開始。造山古墳作山古墳は築造当時の日本列島で最大級、現存する日本の古墳のうちでも第4位及び9位の規模をもつ。
  b)分国は、持統天皇3年(689年)の飛鳥浄御原令の発布をもって備前国備中国備後国に分割、さらに和銅6年(713年)備前国から美作国を分立。
  《参考》古代吉備諸国の朝廷への納税例
 (11年5月25日号「事業・産業43:製塩業(1)塩の歴史スポット」。但し、各国の「調」の内容一覧表を掲載しているが、出所は未記入で、奈良時代か平安時代か何時か不明。たまたま発見された木簡記録の例で、それが全てで、不変と見なせない)
  顱吠董η:25ヶ国中3ヶ国(備前・美作・備中・備後))
  髻鳳:8ヶ国中1ヶ国(備前)
  鵝謀粥Ψ:3ヶ国全て(備前・備中・備後)〔後備前から分離した美作も鉄の産地〕
  堯傍介類:22ヶ国1ヶ国(備前:タニシ・クラゲ)
  )その他:しょうゆ(備前)・すのこ(美作)
c.各分国代表格の神社名「一宮(いちのみや)」で呼ばれることが多い。
 ァ.備前:吉備津彦神社(岡山市一宮)
 顱冒老時期不詳。日本紀略寛平7(895)年の条に吉備津神社が両備(備中・備前)の守護神とされていることから、その頃まで両社が完全に分立していなかったとの見解あり。当社が一之宮として確認できる最初の史料は1165年(永万元)の神祇官の記録。
 髻鉾中国一ノ宮・吉備津神社から分立したと考えられており、現在も両社の距離はわずか1キロ余り。
 ィ.備中:吉備津神社(岡山市北区吉備津)・式内社(名神大)〔以下、同社の案内板〕      
 顱傍紀によれば、崇神朝、四道将軍の随一として、この地方の賊徒を平定して平和と秩序を築き、今日の吉備文化の基礎を造られた吉備津彦大神(五十狭芹彦命)を祀る山陽道の大社。
    【参考】吉備津彦命(きびつひこのみこと):記紀等に伝わる古代日本の皇族で第7代孝霊天皇(紀元前290〜紀元前215年)の第三皇子。四道将軍の1人で、西道に派遣されたという。
 髻某瞭全に創建、「延喜式」の格式は名神大社。また、最高位を与えられた一品吉備津宮とも称される。
 鵝妨斗茵吉備国(備前、備中、備後、美作)開拓の大祖神として尊崇され、殖産興業・交通安全の守護神、延命長寿の霊験あらたかな神として朝野の信仰があつい。
 堯妨禮駘0譴陵夕阿砲靴篤本建築の傑作「吉備造」(比翼入母屋造)の雄壮な社殿、鳴釜の神事、桃太郎伝説のモデルなどで著名。
   国 宝 本殿・拝殿
   重 文 御釜殿・南・北随神門
   県重文 廻廊・木彫狛犬 』

 ゥ.備後:吉備津神社(広島県福山市)
 顱法当社は、備後一宮として崇敬され、通称「一宮(いっきゅう)さん」と称されているが、式内社ではない。」
 髻紡臚姥機複牽娃供貿、備中吉備津神社より勧請されたと伝えられている。
  「当社の創祀に関しては、一般には、備前一宮・吉備津彦神社(岡山)と同時期に、備中一宮・吉備津神社(岡山)から分祀されたと見られている」
 
ェ.美作:中山神社(岡山県津山市一宮)
 顱房案蘯辧美作国一宮。旧社格は国幣中社で、神社本庁の別表神社。
 髻社伝(『中山神社縁由』)では、慶雲4年(707)の創建。実際の創建としては、和銅6年(713美作国備前国から分立した時に吉備中山から勧請を受けたものと推測する説がある。
2)戦国時代から天正

 鵝国史では、貞観2年(860)に「中山神」の神階が従四位下に昇叙された記事のほか、貞観6年(864)に官社に列し、貞観7年(865)に従三位、貞観17年(875)に正三位に昇叙された旨が記されている。

  堯 延長5年(927年)成立『延喜式神名帳では美作国に「中山神社 名神大」と記載、美作国では唯一の名神大社に列す。「また、中世からは美作国の一宮として崇敬された。」
2)戦国時代から天正期

 a.岡山周辺は室町時代までは農村地帯、16世紀金光氏が小規模な城を築いて拠点にしていた。
 b.戦国時代
岡山の地の交通の便と土地の広さに目を付けた宇喜多直家1570年金光宗高を謀反の疑いありとして切腹させ、岡山城奪取。その後城を大規模に拡張し備前国内外の商人を呼び寄せ、1573年本拠にすべく移住。これ以後、岡山は主に備前国の政治経済の中心地となった。
3)江戸時代

 a.1600年(慶長5」年)関ヶ原の戦いで秀吉側が敗北し宇喜多秀家が没落すると、翌1601年小早川秀秋が岡山城に入った。だが、秀秋は翌死に小早川家は断絶。1603年には池田忠継が入り、以後江戸時代を通じて、岡山は池田氏城下町となった。

 b.岡山の発展は第四代池田綱政の代
 ァ.1707年宝永4年)町方人口3万0635人(武家・寺社方を含めた総人口は推定4万 - 5万人)に達し、国内でも十指に入る経済力を持つ城下町となった。
 ィ.後楽園が造成されたのもこの時期。
4)明治維新から第二次大戦まで

  a.1871年(明治4)の廃藩置県により岡山県の県庁所在地、1889年(明治22年)に市制を敷いた。市制施行当時、面積5.77k屐⊃邑4万7564人。

 b.第二次大戦末期の1945年(昭和20年)6月岡山空襲で1000人以上が犠牲、10万人以上が家を失った。
5)戦後

 a.混乱期を過ぎると街は順調に発展し、周辺市町村との合併を推進1960年頃には、倉敷市を含めた県南広域都市の構想を岡山県知事が提唱したが、倉敷市長の失踪に端を発する騒動等により白紙撤回。

 b.1972年(昭和47)3月山陽新幹線岡山駅開業、1988年(昭和63)3月には瀬戸大橋線開業。

 c.1996年平成8年)には、国から中核市に指定。その後暫時、隣接4町を編入した。2007年(平成19年)人口70万人突破。
 d.
2009年(平成21)4月1日には2007年の新潟市浜松市に続き全国で18番目、中国・四国地方では広島県広島市に次いで2番目となる政令指定都市に移行。


3.まとめ
_山と言えば、桃太郎と吉備団子で有名。
1)面白いのは、桃太郎の話は、香川県・奈良県・愛知県・岩手県・沖縄県などにもあり(中に「桃太郎神社もある)、黍(キビ)の産地は全国的に岡山県が多いわけでないにも拘わらず、知名度でダントツであること。
 a.桃太郎の話は千差万別。
 b.キビやキビ団子の産地は、岡山と限らない。
  ァ. 「続日本紀(715年)の五穀には、ヒエ、アワがでてきますが、キビは、200年後の倭名類聚抄〔
承平年間(931年 - 938年)〕に初めて登場します。すなわち、コメ、ムギ、アワ、ヒエよりも遅れて伝来したか、あるいは重要度が低かったようです」、明治時代2〜3万haの栽培が「現在にいたっては、栽培面積は全国でわずか250haです。主産地は、全国の生産量の約半分を占める沖縄県のほか、岩手県、長野県の3県です」「日本では現在、伝統的なハレ食の餅や団子に加工するためキビ栽培が残っており、そのほとんどがモチ性品種です。(「みんなの農業広場」サイト)
 他のウェブ記事にも、「黍の主産地は、長野県、岩手県、富山県、岡山県など」とある。
 ィ.現在のキビ団子は、「黍団子」でなく「吉備団子」。「餅米の粉を混ぜて求肥を作り、これを整形して小さく平な円形(碁石形)に仕上げる。黍の粉を混ぜて風味づけするものもあるが、使わないものもある。黍が主原料ではないにもかかわらず、従来から桃太郎の「黍団子」との同一視させる経歴がある」
2)建国貢献者の吉備津彦命と建国名の吉備国と建国者を祀った吉備津彦神社とキビ団子との語呂よく、幕末から明治にかけ昔話が商品宣伝に活用され、他国を圧倒する名物・イメージが作られた。
岡山を知るには、吉備国を知らねばならない。それは、桃太郎・吉備団子からわかった。
1)吉備国は、山地に木々と鉄と粘土が豊富で、山地から流れる3つの大きな川が肥沃で五穀豊穣な平野部を形成し、海辺は漁労や塩焼きありで、豊かな国であったことは想像に固くない。
  以下は、「古代を探る2」(岡山県古代吉備文化財センター 上栫 武氏)より。
 「まがね吹く 吉備の中山 帯にせる 細谷川の 音のさやけさ」。これは『古今和歌集(こきんわかしゅう)』に掲載された歌です。吉備の枕詞(まくらことば)である「まがね吹く」は「鉄を作る」と解釈され、吉備で鉄生産が盛んだったことを示すと考えられています。 また平城京出土の木簡から、奈良時代に、備前国・備中国・美作国は鉄を税として納めたことが明らかで、そのことからも古代吉備における鉄生産の盛んな様子がうかがえます。しかし、平安時代には、おおよそ次のような記録が残されています。「備前では鉄が産出しない。そのため納税のたびに鉄を買っていた。これからは鉄での納税をやめたい」(796年11月3日)。まるで備前ではもともと鉄を作っていなかったような書きぶりです。また『延喜式(えんぎしき)』に記載された10世紀前半の鉄納税国には、備中・美作はありますが、備前は見当たらず、奈良時代の納税状況とは異なっています。どうやら平安時代の吉備、特に備前では、鉄生産を取り巻く状況に、何らかの異変が生じたようです。」(以下、略)
2)吉備国は、ヤマト王権を凌ぐ国力のため分国させられたとの見解に、説得性・合理性はある。吉備津彦命を祀る神社が、備前・備中・備後にあった。

 以上



係わりの地91:金刀比羅宮(香川県琴平町)

 4月3日(土)旅行3日目。
 朝  丸亀港を見物し、金比羅宮へ。丸亀駅発8:30JR予讃線琴平行きに乗り 多度津経由(乗り換えなしの直通)でJR土讃線琴平行きで琴平駅8:56着。
 なぜ、金比羅宮かは佐度にとってもご縁が深く金比羅さんの社や祠がある。
 金比羅宮は初めてと思っていたが、今回の四国松山の道後温泉でのゼミ会で 45年前にゼミ四国旅行で行ったことが判った。
 また、佐渡廻船商人『海陸道順達日記』の「金刀比羅宮」の解説に次の文がある。
 町はずれに、2丈余(6m余)の白石の大灯籠があった。現在は、筆者・秀山の記した大灯籠はないが、丸亀から琴平までは街道沿いに灯籠があり、このなかに「佐度の廻船主の寄進もある」の記述に関心があった。
 もっとも、それだけの記述で金比羅宮と佐渡との係わりを示すには説得力に欠け、もっと具体的事実の提示が必要となる。今回訪問目的は、それを確証するための金比羅さん参りといっても過言でない。
  なお、現地の郷土史家が書いたと思われる記事(「多度津街道詳説1.」サイト) に、次ように出ているから確実ではある。
 「・・・金刀比羅口の燈籠の多くは越後、佐渡、越前など日本海岸の漁村、漁船、廻船仲間などの寄進が多く、 多度津港が北前船で栄えた事を物語っております。そのなかに江戸、上州、甲州などの信者、講中のものが混じります。 時期は文久年間〔1861〜1864〕以降明治初めのものです。」
 なお、灯籠に関して 次の体験が拍車をかけた。
 4年前のゼミ会は秋 岐阜県下呂温泉・飛騨高山祭見物。その時 個人的に長野市で中学時代の友(普段は首都圏に居て住所は長野市)と出来れば会うため念のため事前連絡。長野で前泊することになった。新潟からの電車時刻の関係で夕刻逢うには時間があり、善光寺さんを参詣。
 以前にも来たことのある大きな本堂の脇に 思ったとおりの大きな石灯籠が10基くらい並んでいた。その一つに近づき銘を見ると、「羽茂郡本郷・・・」という文字が飛び込んだ。
 奉納年・所在地・寄進者等貴重情報入手と話題性という思わぬ御利益に 仏力を感じた。
 (12年10月10日号「係わりの地60:信州善光寺」)
  今回は、金比羅さんに期待して当然。

1.金刀比羅宮の光景
〇夏
1)JR金刀比羅駅を出て真っ直ぐ進むと、右手に公園があり高い塔が見えた。「金刀比羅宮北神苑」とある。
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 案内板(木製)より。
 「  高灯籠
 金比羅宮の名所の一つ。東讃岐の人たちが安政元年(1854)の発願以来、千秋講、萬歳講を結成、広く寄進を仰ぎ、6年の歳月をかけ万延元年(1860)に完成したした。高さ約27mで、そこから発する光は、丸亀沖の船に届くように設計されたといわれる。高い石の基檀の上に木製の灯台が築かれ、内部は3階建て壁には江戸時代の人々の落書きが今も残っている。木製灯籠おしては日本一高く、庶民信仰の結晶による。
 昭和54年(1979)国重要民俗有形文化財 」
2)川を渡って左へ進むと、土産物店が建ち並び所々にうどん店があった。杖をついて歩く人を見かけ、店の入口に竹の杖が並んでいた。店の女将さんに聞くと、賃貸1本200円、後で当店で土産物を買えば無料とのこと。御本宮へは785段の石段を登らなければならないことは予め知っていたこと、行って戻って来るの1時間半くらい・1,365段の奥社では往復約2時間10分とのこと(昔のようには脚に自信なし。10年以上前なら1時間半なら1時間で行ける自信はあったが、今は最低2時間見た方がよさそうだに変化。さらなる奥社へは段数と所要時間を聞いたが能力外)、これまで杖をついた経験はなく何事も経験と思ったこと、それ以上に安全第一 で杖2本は大げさなので1本分200円を支払い賃貸。よろしければリュックをお預かりできますと言われたが、衣類だけなので軽く大丈夫と返事し 御本宮へ向かった。
3)杖使いの要領は、どちらかの脚を支えるためにその脚と同時に動かすのでなく、常に脚の前に出すことがコツを付いているうちに自然と判ってきた。そういえば、格言に「転ばぬ先の杖」があった。まさにその通りと痛感。また、杖は有ろうと無かろうと「足許をよく見て歩け」は、今日でもどの分野においても通用している言葉。体力的衰えを実感しているこの身にとり、常に心しなければならないことを重々認識しつつ歩いた。
4)表参道入口から続く石段を杖つきながら上っていった。日曜日で花見時ということもあってか、人通りは多い。
比較的幅の広い石段も、すき間はそれほどの余裕なく 邪魔にならないよう端に寄って歩いた。
 a.まず右手に持った杖を1段上の石段にしっかりと配す。
 b.それをしっかりと確認した上で、左脚を上げ1段上に着地。ほぼ同時に右脚も上げ着地。
 c.そこで一呼吸。
 d.そしてaに戻る。(若く運動神経あれば、単純動作を間を置かず繰り返すだろうに 一呼吸は余計)
5)石段を上りながら、灯籠などあれば佐度人の寄進したものかどうか、刻まれた文字に注目した。
  次の常夜燈を発見。
 「明治17年〔1884〕 発起人 新潟県 越後国高田町〔上越市高田:旧高田市〕加藤〇〇 世話人・・・(4人の氏名)」
6)100段目という表示を見てから、急にしんどくなってきた。
 a.おそらく一之坂鳥居(石段113段)を越えてから。一之坂鳥居から大門(その手前まで土産店が石段両脇に続く)までは急な石段となり、一ノ坂と呼ばれる。(「御本宮参拝ガイド」サイト参照。以下、同様)

 b.このまま上って行くのは危険と感じた。
  ァ.ふらつき気味で、後方の景色を見る余裕なし。帰り石段下りが心配。下を見たら目まいがして転がり落ちるそうな予感。
  ィ.もっと重大なのは、背負っているリュックが非常に重く感じ、油断すれば後ろへひっくり返るかもしれない気がしていたこと。(本宮へ参る前よければリュックを預かりますと言ってくれた店があったのに そうすればよかったと後悔)
7)石段170段付近で斜面に沿って伸びた土塀のような構築物があり、全体像が摑めず何のためのものか意味がわからなかったが、案内板を写真に収めた。内容は、次のとおり。
 「昭和45年国指定重要有形民俗文化財 灯明堂と釣灯籠
 こんぴら信仰は、庶民の、そして漁民やに船乗りの間にこと篤く、この灯明堂は安政5年(1858年)に建てられたもので、備後国因之島浦々講中の寄進になり、芸予諸島〔安芸国(広島県)と伊予国(愛媛県)の間に位置する諸島〕の人びとの名とともに堂内の扁額に棟梁大工、鍛冶、木臼、石工、左官、瓦師などの名が記されている。切妻造瓦葺、4間1面のこの堂には船の竜骨状の大梁を用い、いかにも島の大工がたてたらしい珍しい構造である」
8)190段あたりになるとギブアップ気味となり、止むに止まれずある土産物店ヘ寄り、リュックを預かってもらえないか交渉。
 a.御主人・女将さんがいてすぐOK。
 b.女将さんが、金比羅様への御賽銭に必要だから財布はしっかり身に着けてお参りして来てくださいとの言葉に感心。全国からの金比羅参りで200年以上の歴史のある門前町土産物店の接客基本用語でないかと感じた。
 c.杖をもう一本使った方が楽ですよと言われ、それに従った。以降、2本杖での道行きとなった。確かに、1本と2本では安定性と歩行負担に大きな違いがあった。
9)大門(石段365段)から石畳の道に出た。
 a.その150mほど続く道は桜馬場(石段365〜431段)と呼ばれ、「道の両側に続く玉垣の内には、数十株の桜が植えられ、その間に無数の石燈籠が建てられています。春になると、爛漫に咲いた桜が左右から枝を交え、すばらしい桜の道となります」とある。
 b.鳥居は石造・明神鳥居(最上部に反り、柱は少し傾斜、上部の笠木とその下の貫〔ぬき〕を額束〔がくそく〕が連結)で、「金刀比羅宮」とあり、一般に木製が多い中で石造の額束は少ないと思われる。
 c.石柱と言っていいのか石碑と言うのか区分がはっきりしないが ここでは「石柱」とする。なお、「石燈籠」ならハッキリ区別できるが、昭和60年以降平成となれば規格化された石柱が圧倒的に多く 設置場所が一定の年代層に特定されている〔と思われる〕。
  以下は、メモに記した例(順不動)
 羅臼町〔おそらく北海道〕〇〇〇〇 昭和50年百萬圓
 平成3年10月吉日 金〇〇〇圓 トランスポートコーポレーション〔?〕 川崎重工業(株) 三菱重工業(株)
 昭和41年9月12日  金壱百萬圓 新潟市 〇〇〇〇
 昭和57年土佐鰹漁業協同組合
 昭和61年10月吉日 金〇〇〇圓 北海道滝川市〇〇木材(株)〇〇〇〇
 鹿児島県〇〇水産 養鰻部・漁業部
 金貮百萬圓 石川県七尾市 〇〇〇〇
 その他:「百十四銀行〔本店:香川県高松市〕」、「京都市中京区〇〇〇〇93歳 第63回参拝記念」、「創立40周年記念 北海道網走市〇〇建設:創業者〇〇・会長〇〇・社長〇〇」、「神戸市漁業協同組合 平成元年組合合併30周年記念〔なお、平成4年にも寄進〕」
10)石段628段に本宮と思わせるような荘厳な建物があった。旭社という。1837年(天保8)に竣工した社殿は、「高さ約18メートル、銅板葺の総弌未韻笋〕造二重入母屋造で、全て槻〔=弌雄爐用いられています」とのこと。なお、旭社は帰路で参拝することになっているという。旭社に向って右側の石段が下向道(帰路)。
11)石段652段。鳥居をくぐると、正面に手水舎があった。手水舎は心身を清める所で、右手で柄杓に汲んだ清水を左手の掌に水を受け 口に含んですすぐというのが本来の作法のようだが、知らないため柄杓に汲んだ清水をそのまま飲んでしまった。お蔭さまで冷たく美味しいご神水をいただき活力が湧いた。
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御本宮
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1)石段785段にあるのが御本宮。海抜251m。
2)拝殿で、婚礼の儀式が執り行われていた。また、儀式が終わり長い回廊を歩いていく様子も拝見できた。
3)高台からは、まずまずの天気で 眼下には街並み・讃岐平野、遠くの山々が見渡せた。富士山のような山は、丸亀市と坂出市の境にある飯野山(別名:讃岐富士)421.87m 。

 帰りの石段下りは、私にとっては最大と思われる難所。真下の石段しか見ないようにして下った。まず、2本の杖を1段下の石段にしっかりと置いた上で、左脚を下ろし、その上で右脚を着地。その繰り返し。いわば、4本足で下りる。上りもようだが、時間が人の倍以上かかって当然。
 途中、リュックを預け杖を1本借りた店へ寄った。店の人も、帰りが遅いので大丈夫かと心配したようであった。そこで、ラムネがあったので懐かしく珍しいと思って買って飲んだ。本来なら土産も買うところであるが、荷物になりまだ数日残す旅となることから、お釣りは不要とし お礼を述べ辞去した。

2.金比羅宮について (資料;ウィキペディア)
(1)概要
ゞ眦疊耆綉椶蓮香川県仲多度郡琴平町象頭山〔ぞうずさん〕中腹に鎮座する神社こんぴらさんと呼ばれて親しまれており、金毘羅宮、まれに琴平宮とも書かれる。
江戸時代に船による流通が盛んになると、海運業者や商人によって金毘羅信仰が日本中に広められ、分社が各地に作られた。明治維新による神仏分離・廃仏毀釈によって神仏習合の金毘羅大権現は廃され、大物主神を主祭神とする神道の神社になった。現在、金刀比羅神社・琴平神社は日本全国に約600社ある。
 (明治維新の神仏分離・廃仏毀釈が実施される以前は真言宗の象頭山松尾寺金光院であり、神仏習合で象頭山金毘羅大権現と呼ばれた。現在は神社本庁包括に属する別表神社、宗教法人金刀比羅本教の総本部。全国の金刀比羅神社・琴平神社・金比羅神社の総本宮でもある)
3ぞ絽鯆未亮蕕蠖世箸靴匿仰されており、漁師、船員など海事関係者の崇敬を集める。
1)時代を超えた海上武人の信仰も篤く、戦前の大日本帝国海軍の慰霊祭だけではなく、戦後の朝鮮戦争における海上保安庁の掃海殉職者慰霊祭も毎年、金刀比羅宮で開かれる。
2)境内の絵馬殿には航海の安全を祈願した多くの絵馬が見られる。金毘羅講に代表されるように古くから参拝者を広く集め、参道には当時を偲ばせる燈篭などが今も多く残る。

3)長く続く参道の石段が有名で、奥社まで登ると1368段にもなる。例大祭に合わせて毎年、これをメインに「こんぴら石段マラソン」が開かれている。

(2)歴史
〕浬

 由緒に二つの説がある。一つは、大物主命が象頭山に行宮を営んだ跡を祭った琴平神社から始まり、中世以降に本地垂迹説により仏教の金毘羅と習合して金毘羅大権現と称したとするもの。もう一つは、もともと象頭山にあった真言宗の松尾寺に金毘羅が鎮守神として祀られており、大宝年間に修験道の役小角(神変大菩薩)が象頭山に登った際に天竺毘比羅霊鷲山(象頭山)に住する護法善神金毘羅の神験に遭ったのが開山の縁起との伝承から、これが金毘羅大権現になったとする。

沿革
1)長寛元年(1163年)に崇徳上皇が象頭山松尾寺金光院に参籠したことから、修験道の御霊信仰の影響で永万元年(1165年)には、讃岐国に流されたまま崩御した崇徳天皇も象頭山松尾寺金光院に合祀した。

2)戦国時代には荒廃していたが、別当となった象頭山松尾寺の宥盛が信仰を広め境内を整備した。

3)江戸時代
 a.初期に、別当の象頭山松尾寺の宥光が参拝の土産物として〇に金の印を入れたうちわを作ることを思いつき、大和国より技術者を招いたといわれ、この頃には信仰が次第に広がりを見せていたと推察される。

 b.中期に入ると全国の庶民の間へと信仰は広がり、各地で金毘羅講が組織、金毘羅参りが盛んに行われる様になる。この頃、金毘羅参りは伊勢神宮へのお陰参りに次ぐ庶民の憧れだったといわれ、その様子は、浮世絵の東海道五十三次の一つである「沼津」に描かれた金毘羅参りの後姿や、滑稽本の東海道中膝栗毛に書かれた主人公の弥次さんと金毘羅参りの格好をした男との饅頭の食べ比べの話などからうかがえる。

 c.末期には「こんぴら船々 追風(おいて)に帆かけて シュラシュシュシュ まわれば 四国は 讃州那珂の郡 象頭山 金毘羅大権現 一度まわれば」との民謡「金比羅船々」が歌われ始める。
4)明治以降

 a.明治元年(1868年)の神仏分離令で金刀比羅宮と改称して神道の神社になり、主祭神の名は大物主神と定められ、相殿(あいどの)に崇徳天皇を祀った。9月13日に勅祭神社とされた。
 b.明治4年(1871年)に国幣小社に列格し、明治18年(1885年)に国幣中社に昇格した。
 c.昭和44年(1969年)、古くから信仰を集めこんぴら講に代表される金毘羅信仰を後世に伝えるため、宗教法人金刀比羅本教の設立認可を受け、金刀比羅本教の総本宮となった。
  金刀比羅本教は、神社本庁に属さない独立した包括宗教法人であるが、金刀比羅宮自体は神社本庁の被包括法人であり、別表神社に指定。
(3)参考
ゞ眸羅参り
1)塩飽(しわく)水軍は金毘羅権現を深く信仰し、全国の寄港地で金毘羅信仰を広めることに貢献。なお、「水軍」は塩飽諸島の漁民・船大工らで構成され、操船・造船技術に長け戦国時代には信長・秀吉・家康からの朱印状を持ち、江戸初期は幕府の御用船として活躍したとされるとされる。江戸時代後期には、象頭山松尾寺金光院に詣でる金毘羅参りが盛んとなった。これに伴って四国には、
丸亀街道、多度津街道、高松街道、阿波街道、伊予・土佐街道をはじめとする金毘羅街道が整備され、金毘羅参りが盛んとなった。 
2)神仏分離以降は香川県琴平町の金刀比羅宮が全国に約600社ある金刀比羅神社の総本宮となっている。
3)金毘羅さん参りは、畿内・瀬戸内地域と北海道・蝦夷を結ぶ北前船の発展によって盛んになったともいえる。「奥能登・時国家」文書によれば、1618年時国家の持ち船で、松前昆布の輸送が、松前ー敦賀(時に小浜ー大津ー京・大坂ルートで行われていた(09年2月24日号「歴史スポット48:北前船と廻船業」。
 当時は客船はないから、貨物船に便乗し旅に出かけた。
金毘羅講
 江戸時代の庶民にとって地域差あるが金毘羅参り旅費は経済的負担が余りにも大きく、金毘羅講という互助組織(講)を結成し講金を積み立て、交代で選出された講員が積立金で讃岐国象頭山松尾寺に金毘羅講代表として参詣、海上交通安全を祈願し、お札を受け帰郷。
 
3.佐度と金刀比羅宮
〆甘録佑龍眸耆綽仰の深さについて、「金刀比羅口の燈籠の多くは越後、佐渡、越前など日本海岸の漁村、漁船、廻船仲間などの寄進が多く、・・・」(前掲)が物語っている。
 残念ながら、今回見つけられなかった。
∈甘找船商人の旅日記『海陸道順達日記』(既掲・前掲)より
 1813年(文化13)7月20日「・・・扨〔さて〕、両人此処を発足致〔いたし〕、金比羅へ出けれハ、丸亀の宿はずれに、高さ弐丈〔1丈≒3.03m〕 余有之白石の大とうろう(燈籠)有。是より金比羅一ノ鳥井(居)迄、道のり140丁ありの字を彫付あり。70丁目に大いなる茶場あり。両人ここニテ暫く足を休め、扨、又70丁行ぬれハ、銅の大鳥居あり。長3丈廻り3尋〔ひろ:1尋=6尺≒1.818m〕、江戸講中の寄進也。一の鳥井と申スハ是也。文字多彫付あり。夫「それ〕より程なく金毘羅の町へ出れハ、此処家数甚多し。家居大にして美いなるはたごや(旅籠屋)も又多し。中ニハ銘酒屋あり。色々徳利ヲ色々店にかさり置事方8間計〔ばかり〕、両人是より銘酒少々相用ひ、扨、徳利酒抔〔すくい」相調、夫より石垣のぼる事甚〔ななはだ〕多し。且高き事也。尤、此参詣道、銅の大鳥井2ツ、石之大鳥井2ツ、石之大鳥井以上3所、其外山門、2天門、都合7か所有之。石たん(段)登る事18丁計、此間中程右之方ニ、清少納言の塔有り。・・・石の大とうろう幾千か其数しれず。此高き処登る間、双方石の玉垣と石の燈籠つづくなり。・・・
 御本社へ各参詣ス。方16間4面7梁作りニ建てたるもの也。社もひとく尤繁盛の御事也。毎朝毎夜参詣の人々参りやむと云事なし。大きに繁盛也。・・・此御本社の北ゟ〔より〕海原を見下して其絶景也。多田(度)津、備前の小嶋いと見へ、嶋の間より入船の白帆も又一しほの見事也。其外飯の山(飯野山)も眼前に見へ、又山の間より丸亀の御城見へ、城内のなミ木松ヶ枝見事ニにして、画(えがく)が如く也けれハ、例の一首口つさミぬ。
   讃岐なる金毘羅山に来て見れば 遥に見ゆる丸亀の城
 両人共此所参詣相済、夫ゟ石垣ヲ下り、前の如く程なく10丁余り下り、金毘羅の町えそ下りける」
佐渡の金刀比羅(金毘羅)さんの例
1)「佐度の社」サイト(宝暦年代佐渡寺社帳(概ね1750年代)より。
 町村:相川・五郎左衛門町
 社名:金毘羅権現
 社人・司官:社僧万福院
 略歴・参考:
  社僧天台宗馬頭山万福院/五郎左衛門町:『佐渡相川志』(宝暦年中1751〜)では、「東片側長サ百弐拾九間。元禄ノ検地ニ、町屋敷4反3畝18歩。寛永年中〔1624〜1645年〕五郎左衛門ト言フ者開発ス、依テ名トス」。また、同誌絵図には北側から玉泉寺・来迎寺・金剛院・円行寺・万福院・金毘羅が描かれているという。現在、日蓮宗玉泉寺・同宗円行寺・真言宗金剛院・金刀比羅神社が残る。/永禄3年(1560)讃岐金毘羅別当金剛寺慶順が渡海、最初吉井に勧請、寛永17年(1640)弟子宥順が渡海、現地に移し、五郎左衛門町を開いた山師〔鉱山事業家〕・五郎左衛門が社殿を造営と云う。(「佐渡神社誌」)
2)稲鯨地区(相川七浦海岸方面)の金毘羅神社(資料:www.komainu.org/sado/aikawa/konpira/konpira.html
 御祭神:崇徳天皇
 由緒:「平成佐渡神社誌」によると、「明治十三年六月八日据置許可」とある比較的近世に創建された社です。金毘羅信仰は、薬師十二神将のひとり、宮毘羅大将または金毘羅童子の信仰で、香川県琴平に祀られたのが、北前船の就航や四国参りの習俗などと共に伝播したもので、航海の安全を守る神として、船人の崇拝を集めるようになり、海辺や大きな河川の傍に祀られることが多い神社です。(佐渡ヶ島がっちゃへご「ガシマ」参照)

2)境内社の例
 a.真言宗 智山派 智光坊の金毘羅権現(真野湾南側)
  (08年7月11日号「佐渡の寺院17:智光坊」)
 b.稲鯨の金毘羅神社(真野湾の西北端・日本海側)
  「この相川方面から45号線で南下し、稲鯨地区で旧道に入り、村落を過ぎる頃左側に鎮座しています。
   御祭神:崇徳天皇
   由緒:「平成佐渡神社誌」によると、「明治十三年六月八日据置許可」とある比較的近世に創建された社です。金毘羅信仰は、薬師十二神将のひとり、宮毘羅大将または金毘羅童子の信仰で、香川県琴平に祀られたのが、北前船の就航や四国参りの習俗などと共に伝播したもので、航海の安全を守る神として、船人の崇拝を集めるようになり、海辺や大きな河川の傍に祀られることが多い神社です。(佐渡ヶ島がっちゃへご「ガシマ」参照)」(あるサイトによる)
 c.吉住神社の境内に金毘羅山碑
    (15年10月16日号「佐渡の風景128:羽吉」
 d.浦川・諏訪神社:境内に金毘羅大権現を祀る。(c、dは、いずれも両津湾内北側)

4.まとめ
仝翹楜椶泙嚢圓辰撞△辰討るのに土産物店の話では1時間半くらい。私の場合、9時頃琴平駅着から15時琴平駅発で、石段入口までの往復時間、高灯籠見物・石柱調査・本宮での見学・土産物店で休憩・讃岐うどん店でのかけうどん試食(なお、入った店は讃岐うどん全国チェーンのシステムそのもので興ざめ)等所要時間を3時間と多めに見て3時間を要したことで、普通の人の倍要したことになる。
1)長い石段を上た近年の経験と言えば、佐渡の宇賀神社。6年前神社シリーズの一環として数十年ぶりに上った。数えると624段。150段しか違わないが、今回のように非常に難儀した覚えはない)
佐渡の神社23:宇賀神社」)
1)学生時代にゼミ旅行で訪れたというが、覚えていないことは若さと健脚であったことの証。
2)どこか知らぬが 石碑のようなものが長く続いていた所へ行ったというイメージはある。
∋郵颪蓮八十八ヶ所巡りに代表される巡礼の聖地。佐渡の金比羅さん詣(もう)でもそれと何らかの関係があったに違いない。
 佐渡の八十八ヶ所巡りは、四国へは遠くて行けない人のため。あえて大中小に区分けすれば、
 「大」(島内での八十八ヶ所寺院巡り)、「中」(特定地区内の祠・石仏巡り)、「小」(一寺院・霊場の境内での石仏巡り)となる。
(参考
 「中」:
 「小」:6眸羅さん信仰は
  1)北海道から九州まで全国区
 2)必ずしも海上運送業や漁業関係者ばかりでなく、建設業・木材業・金融業と幅広い
 3)親子3代の寄進あり
 4)63回参拝記念あり
に見られるように、広く・篤く・永い。

 以上

係わりの地90:丸亀(香川県)

 旅行2日目4月2日(金)午後松山のデパートの土産物売り場でゼミ会は自由解散、その後は単独の旅となる。当日は丸亀泊まり。
 JR予讃線(松山ー高松)で行くが、西尾・八田両君も松山発15:28の特急電車は同じ。両君は指定券を取っており岡山行きに乗る。駅ホームの放送で、これから到着する電車は途中高松行きと岡山行きに分かれますからご注意下さいとのアナウンスがあり、違った車両に乗ったら大変ことになると心配したら、西尾君が「丸亀にはどちらも停車するから大丈夫。地元(四国)出身がいうんだから間違いない」ということで安心。
 特急でありながら途中で行き先が分かれるということ意味が解らなかったが、次のことだった。
   松山駅15:28→丸亀駅17:30 しおかぜ22号 岡山行き
      〃         〃       いしづち24号 高松行き
  一つの特急列車に、名称と行き先の違う車両があった。
 なぜ丸亀か?金刀比羅宮詣では必須であったから、琴平での宿泊は順当であるが予約が難しく面倒と思ったこと、事前調査では丸亀の西隣の多度津(たどつ)港も金比羅さん参りの玄関口で昔佐渡からも多く来ている旨の記事に接し候補にしたが 北前船の寄港地で『海陸道順達日記』(前々号記述)に丸亀のことが書かれている事に加え、市であるから宿泊予約と金比羅さん及び本州への交通に便利ということで、決めた。
 丸亀駅に着き時刻も時刻なのでまずは電話予約していた駅周辺にあるホテルに入り、フロントで手続き・清算を済ませた。ここから丸亀港が見える所まで歩いてどのくらい〔真意は、港と言っても広いから岸壁と船の見える所で十分〕と聞くと25分くらいかかるとのこと。事前に調べもしたが、思った遠いと思った。お勧めの居酒屋を聞いたところ、自前のグルメマップが出され、駅前周辺21店(ステーキハウス・うどん店・寿司店等含む)の中で3店をプロットしてもらい 早々に食事に出かけた。入ったところは、ホテルの真後ろの向かいにある居酒屋。
 ここでも、丸亀港は歩いて何分くらいかかるか尋ねると最初15分と言い、しばらく時間が経った後で場所によっては10分でも可能と言い直して来た。
 意外にも店にナマコ酢があった。この時期獲れるのか。聞けば近くの島々で獲れるという。後日調べで、「島々」とは、塩飽諸島。ナマコ釣りで有名な島がある。瀬戸内海の珍味「ほしこ」(北陸では「くちこ」)作りの最盛期は3月末で ひも状のナマコの卵巣を縄につるして天日干しした高級珍味という。ほしこ1枚に約1圓離淵泪海必要という。
 ちなみに佐渡産ナマコは、4月20日過ぎ新潟のデパートで切り身を購入


1.丸亀港の光景 
 4月3日(日)曇。そのまま
  朝ホテルを出て丸亀駅前に待機しているタクシー運転手に、港の写真を撮って駅に戻って来たい旨を告げて乗った。
 思ったより非常に早く船の見える岸壁に出た。
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DSC09410DSC09413
_菫上段
1)左は、港の見える護岸沿いに遊歩道にあった防潮柵の飾りの『丸亀港古図』の銅板。
 a.文政11年〔1828年〕とあり元々は丸亀城下を描いた古地図で」、そこからから作られたものであることは明瞭。
 b.銅板左寄りの小島に「福島町」と漢字は縦書きをそれぞれ横にしたものが見えるが、その一帯が丸亀港で福島町は昔はその名の通り島で、橋が架けられていたのが古図から分かる。今陸続き。
 c.銅板の右側に「城」とあるのが、丸亀城。(帰り駅へ戻る時に、車の中からはっきり見えた)
  城には、内堀と外堀、その間が家臣・藩士の住まいの区画になっているのがわかる。
 d.海に向かった外堀の真ん中辺に「札場」という所があるのが見える。これも、漢字縦書きを横にしている。
  札場とは高札場ともいい、幕府や領主が決めた法度(はっと)や掟書(おきてがき)を木の板札に書き、人目のひくように高く掲げておく場所。
2)画像上段右は、向かいにの建物に「丸亀魚市場」という高い塔が目に付いたので写真を撮っていると、運転手さんが最近なくなったとのこと。調べると、13年8月31日までで閉業。水揚げた魚は、トラックでいろいろな所へ運び、売捌いているという。
画像下段
1)左は、高いクレーンが林立し大型貨物船が10隻前後碇泊しているのがわかる。画像にはないが、撮影場所側近くに丸亀フェリーターミナルがあり、丸亀ー江の浦ー手島ー小手島航路と丸亀ー本島航路が出ている。
2)右は瀬戸内海へ出る海路が見えるが霧のかかった天候のため島々を見通すことはできなかった。鉱石・穀物などばら積み貨物を陸揚げするアンローダー(荷役機械)がやや遠くからでも見ることができた。
  《参考》丸亀港 (資料:香川県土木部港湾課「香川の港湾」)
 「丸亀港は中讃地域の中核都市、丸亀市の海の玄関であり、対本州および塩飽諸島を結ぶ海上交通の要衝として重要な位置を占めています。
 本港は、中世以前から天然の良港として栄えてきたと伝えられ、江戸時代に入っては広く信仰を集めた金毘羅参詣のための、通称「金毘羅船」の定期航路も開設され、大いに賑わいました。
 そのため、丸亀藩により福島湛甫および、新堀湛甫が築造され、また、その石造りの波止には金毘羅信仰の象徴であり、かつ、常夜灯の役目を持った通称「太助灯籠」をはじめとする3基の大灯籠が建てられ、港のシンボルとなっていました。
 こうして丸亀港は金毘羅船、北前船等、多くの船舶が出入りする、四国地域の交易、交流の拠点として広く全国に知られるところとなりました。
 明治に入っては背後に本県初の鉄道である、讃岐鉄道が開通し、また、四国鉄道等の幹線道路の整備も行われる等、丸亀港は四国の海陸交通結節点としてその重要性を増し、戦前まで数次の改修工事が行われ、また、戦後は急激な工業化の進展と船舶の大型化に対応して、昭和39年から昭和50年にかけ、総面積267haにわたる大規模な臨海工業用地の造成と大型船舶施設の整備が行われてきました。
 現在は、大規模震災時の復旧・復興の支援拠点として耐震強化岸壁の整備を進めています。
 また、丸亀港周辺には、この埋立地を中心に、造船、金属、化学、繊維、木材等の各種企業が立地し、一大臨海工業地域を形成するとともに、港湾活動も活発に行われ、外貿船の入港も頻繁になり、中讃地域を代表する総合港湾としての発展が期待されています。 
航空写真   」
 ちなみに、「丸亀港」でなく「丸亀漁港」で検索すると、
 笠島漁港.  福田漁港.  茂浦漁港. .甲路漁港. 小手島漁港の5漁港(いずれも、第1種)があった。
2.丸亀の概要 (資料;ウィキペディア他)
ヾ鬱技
1)概要: 香川県では高松市に次ぐ第二の都市〔16年4月1日現在人口110,087人・44,105世帯(「丸亀市役所」HP〕、 丸亀うちわの製造が伝統産業でうちわ生産量は全国シェア9割。
2)地理:
瀬戸内海に面し、丸亀平野の北東部と塩飽諸島の一部を市域。平野部には他の香川県の市町と同様に数多くのため池があり、中部には南北に一級河川土器川が流れ、東には讃岐七富士の一つ讃岐富士こと飯野山、南には同じく讃岐七富士の羽床富士こと堤山がそびえる。
3)歴史:中心市街は
丸亀藩城下町、また金刀比羅宮への参拝口として栄え、金毘羅参りの土産物してうちわの製造が盛んとなった。丸亀藩は長く京極氏によって治められた
 a)旧丸亀市は丸亀城城下町と近隣の村を市域とし市制を施行され、周辺の町村との合併を繰り返し市域を拡大し、2005年に綾歌町・飯山町と対等合併し、新丸亀市となった。

 b)現在の市域である塩飽諸島は古くから優れた水夫が住み、幕末咸臨丸による太平洋横断に乗船した水夫50名中、7割の35名が塩飽出身者で占めた。
丸亀城
1)丸亀城は
讃岐国、現在の香川県丸亀市にあった日本の城で、別名、亀山城、蓬莱城ともいう。
 a丸亀市街地の南部に位置する亀山(標高66m)を利用し、縄張りはほぼ四角形、亀山の廻りを(内堀)で囲む渦郭式の平山城
 b総高60mの石垣は日本一高く、三の丸石垣だけで一番高い部分は22m。頂部の本丸には江戸時代に建てられた御三階櫓が現存。
 c内堀の周囲には侍屋敷が建ち並び、この周囲を外堀が方形に取り囲んでいた。
 d城跡の全域は国の史跡に指定されており亀山公園となっている。天守の最上階からは、瀬戸大橋など瀬戸内の風景を眺めることができる。
2)沿革
 a室町時代・安土桃山時代

  室町時代初期、管領細川頼之の重臣の奈良元安が亀山に砦を築く。

  慶長2年(1597年豊臣政権の時代、生駒親正が讃岐17万石を与えられ高松城を本城とし、亀山に支城を築く。慶長7年(1602年)6年の歳月を要し、ほぼ現在の城郭が完成。

 b江戸時代

  元和元年(1615年一国一城令により破却の危機にさらされるが、時の藩主・生駒正俊は要所要所を樹木で覆い隠し立ち入りを厳しく制限。城を破却から守った。

  寛永17年(1640年)生駒氏、お家騒動(生駒騒動)のため出羽国矢島(現・秋田県由利本荘市)に転封。

  寛永18年(1641年山崎家治肥後国富岡(現・熊本県天草郡)より5万石で入封寛永20年(1643年)城の改修に着手。幕府が家治に瀬戸内の島々にいたキリシタンの蜂起に備える為城をつくらせたのではないかとも云われ、幕府は丸亀藩に銀300貫与え参勤交代免除、「突貫工事をやらせている」。

  万治元年(1658年)山崎氏、3代で無嗣〔後継〕断絶し改易。代わって播磨国龍野(現・兵庫県たつの市)より京極高和が6万石で入封。以後、明治時代まで京極氏の居城となる。

  延宝元年(1673年)32年の歳月を要し大改修完了。現存する石垣の大半は際に完成。

 c.近現代
  大正8年(1919年)丸亀市が山上部借地、亀山公園として開設。

  昭和18年(1943年)天守が国宝保存法に基づき旧国宝に指定。

  昭和25年(1950年)天守の解体修理。この記念行事として第1回の丸亀お城まつりが開催。また、文化財保護法施行により天守は重要文化財となる。

  平成9年(1997年)築城400年祭を開催。

  平成18年(2006年日本100名城(78番)に選定。

3.丸亀と佐渡
ヾ鬱気砲弔い董∈甘和根の廻船商人・浜田屋の主人笹井秀山の旅日記『海陸道順達日記』に、次のように記されている(高砂(兵庫県)から金比羅丸の網屋庄兵衛丸で丸亀へ向かう)から始まる)。
 1813年(文化13)7月20日「(今朝ハ空も又はれやかにて、はや淡路島身ゆ。・・・又沖の方には小豆島みゆ。・・・いかさまにも名ある山かと船頭に尋ぬれハ、さん候あれこそハいいの(飯野)山と申て、俗にいわゆるさぬき(讃岐)富士と云は是也と答ふ。・・・〔翌」明7ツに丸亀へ船ハ着けり。乗合の内、11人ハはたごや(旅籠屋)米屋某之方へまいり、我等両人は問屋大坂屋与吉郎方え着致し、七ツ時分なれハ、其問屋大坂屋おたたき起こしぬ。さて、大坂屋方へ入り支度等いたし、且又国〔佐渡〕ノ事、手船達共の様子噺〔はなし〕合いいたしけれハ、番頭の云ふ最(も)そっと以前ニ、御手船の内、大黒丸伝右衛門様御登り之頃、此の地え暫〔しばらく〕船玉を付給ひて、綿値段の事共御聞合之処、当時相場百10匁より1、2匁迄、売買の時節ニ候よし申有ハ、ちと高値なるよしにて、下がり値の頃少しも値段下り候ハバ、ちとちとくりわた(繰綿)も御積入ニ成度等、船頭之申候様承り、夫より表2階へ上りて暫まとろみけり。斯〔かくし〕て早夜もあけわたれハ、金比羅参詣の人々、人馬夥しと賑ハひ申也。
 7月21日「あくれハ翌21日、朝曇天。今朝小荷物等取調、宿元へ相頼置、さて両人此処を発足致、金比羅道へ出でけれハ。・・・(金比羅参詣の事は、次号)。
 さて、・・・丸亀の町へ7ツ頃着致ス。宿大坂屋与吉殿え対面いたし、是より尾の道へ参り度よし。便船をとい(問)けれハ、早速世話致呉候、此の宿の家居表せま〔狭〕にして、うらへ行ほどせんせんに広く、土蔵も5、6ヶ所アリ。皆くりわた(繰綿)を入置きたる様子也。うらに6間に8間位の別荘(はなれざしき)有之。つぼ(坪)ハ4間に7間くらいもあるべし。随分宜〔よろしき〕家屋敷也。日も暮けれハ客風呂ニ入休けり。さて、某書状1通相認〔したため〕、宿御亭へ頼申様、某ハ当地より尾の道へ渡り、所々一見之上、下ノ関にて大黒丸へ乗船の積りニ相頼置候。依て伝四郎殿御当地え船玉を被付〔着けられ〕候て、此書状無失念御渡被下〔失念なく御渡し下される〕様相頼、御家内へ暇申、さて、あら(荒)兵吉と申船頭、元船は尾の道に差置、此丸亀へ参り繰綿60本、値段120匁より1,2匁迄ニ買付、金比羅へ参詣し、則品物積入之上、右尾の道へ今晩出帆也。此船ハ、丸亀の半兵衛丸といふ小船也。此船に、我等便船もらひけり」
∩扱能颪了駑訴圓防妖腸阿了ち船が丸亀で繰綿を購入し、他所の港で販売した記録がある。
 1808年(文化5)大徳丸:
 6月1日酒田で荘内上御蔵米を購入、また沢根で土用干しイカ購入し、8月兵庫で米・イカを販売、8月16日三田尻塩、その後香川県丸亀で備中繰綿、島根県出雲で米子繰綿を購入し、10月沢根で塩を11月備中繰綿の約半分を販売、翌年2月残った繰綿全てを寺泊で販売。

4.まとめ
ヾ鬱気蓮∪称戮砲△訛薪拂邸たどつ:香川県仲多度郡多度津町(2010年人口23,498人)と不可分の関係にあり、丸亀を知るには多度津を知る必要があり。
1)丸亀藩と多度津藩
 a.江戸初期の多度津は、丸亀を居城とする京極氏が五万六千石で領していたが、1694年(元禄7)になり藩主の庶子高通に1万石が分知され多度津藩が成立、以後、明治維新まで続いた。
 b.多度津藩主は丸亀城内に長い間とどまって多度津を治めていたが、1827年(文政10)ようやく多度津に陣屋を設け入封。
2)港の整備
 a.江戸中期からの金毘羅参詣ブームに対応し、丸亀は天保年間〔1833〜1844〕に新しい湛保(たんぽ・港)を建設して金毘羅船を集めて繁栄。
 b.多度津も天保五年(1834)から5年の歳月を費やし新たに多度津湛保を整備。
3)金比羅さん参りの玄関口
 遠国からの参詣者の上陸港は丸亀と多度津、一般には
 a.備前より上方の参詣客は丸亀、
 b.中国・九州など西国からは多度津
 に上陸と推定されている。但し、この区分けでは、北陸・佐渡・日本海側の東北・北海道地方=西廻り航路地域はどちらに該当するか、はっきりしない。 
4)北前船の寄港地
 a.讃岐の産品に「讃岐三白(砂糖・塩・綿)」。
 b.両港は、上記産品の積み出し港として、また魚肥や昆布など北前船が運び込む北国からの海産物の流通拠点。
5)丸亀駅と多度津駅の間には讃岐塩屋駅の1駅しかなくても特急列車(しおかぜ・いしづち)が両駅に止まる
。時間距離にして4分。こいうケースは非常に稀と思うが、それで通っている。
∋郵颪砲ける綿移出の主要拠点は、丸亀
 (資料:「讃岐の風土記by出来屋」サイト“綿の産地だったチョウサの町”)
1)讃岐は気候温暖で雨が少ないことから綿作に適し、西讃地域を中心に砂質土壌のところで栽培が行われた。
 a.綿織物が庶民の普段着として用いられるようになったのは江戸時代以降。それまで衣類といえば、上流階級の間では絹、庶民は麻(あさ)、苧(からむし)、楮(こうぞ)、葛(くず)などの繊維から作られたもの。
 b.
綿は麻などに比べ柔らかく温かく、吸湿性が高いうえ、染色が簡単で、衣料として優れていることから江戸時代中期になると需要が増加、綿作には適さない寒冷地の東北・北陸を除き全国に綿作が広がった
 c.綿は寒冷地ほどニーズは高く、反対に綿花の肥料となるニシン粕・干し鰯・干しはたはた等の魚肥は北海道や東北から瀬戸内地方に入った。
2)丸亀藩では、1695年(元禄8)に城下での夜間の綿打ちを禁止するお触れが出されるほど綿の生産が盛ん。
 綿打ちとは、実綿(みわた)から核を取り除いた繰綿(くりわた)を綿打弓(わたうちゆみ)で打って柔らかくし、不純物を取り除いて生綿(きわた)にする作業のことで、夜間での騒音が問題になるほど綿打ちが盛んに行われていたことを示している
3)1807年(文化4)頃、「木綿売り代より外、他国より銀入り候義は御座無く」との記述があり、綿が丸亀藩唯一の他国からの銀収入になっていた。
4)丸亀繁盛記に天保年間(1830〜43)頃の様子として、「国々へ積み出す雪綿は、大与(綿の大問屋大坂屋与十郎)が〔の〕かどさき〔角先〕に山をなし、夕陽に照らされれば、ひらの高根を争う景色」と記され、当時の丸亀城下での綿取引の賑わいぶり表している。
 なお、文中の「大与」は、佐度の廻船問屋の取引先である「坂屋吉」家に相違ない。「随分宜〔よろしき〕家屋敷也」と1813年の日記にあるように名高い綿の大問屋だった。
 以上


係わりの地89:松山(愛媛県)

 今日は!自在業の櫻井です。
 尾道から松山へは高速乗合バス(中国バス:キララエクスプレス)。新尾道駅前15:13(始発:福山14:30)⇀向東BS⇀向島BS⇀因島大橋⇀因島重井BS⇀瀬戸田BS⇀瀬戸田PA⇀大島BS⇀来島〔くるしま〕海峡BS⇀北条⇀松山駅前17:24(終点:松山市駅前17:30)。予め運転手に 降りてタクシーで道後温泉に行くならどの駅が早いか尋ねると松山駅とのこと。料金いずれも3,700円) 
 車中から大小さまざまな島々と航行している見える瀬戸内海の景色は素晴らしいの一言。6つの島(向島⇀因島⇀生口島⇀大三島⇀伯方島⇀大島)を橋で通り抜けるのも痛快。次は「来島海峡」バス停ということで注意して風景を見ていると、眼下に造船所の建物設備が見えた。「来島どっく」の社名を思い出し、今はどうかは知らないが あの建物がそうだと思った。(後日調べると、現在は(株)新来島どっく(東京都千代田区)、眼下に見えたのは、子会社の(株)新来島波止浜どっく(今治市波止浜)と判った。なお、広い河のような「波止浜湾」の対岸に今治造船があり、その河から瀬戸内海に出たところの小島が「来島」。バスから見たかもしれない)
 四国・今治から松山までの車中での印象は、次の3点。
 \ジ容盂い良景は変化があって飽きない。
 造船所・高く聳えるクレーン・大型貨物船が多い。
 C秧Г里靴も見事な瓦屋根の家々が海辺の方に並んでいた。
 1)調べると愛媛県には700年以上の伝統のある菊間瓦がある。但し、特徴は耐久性といぶし銀の美しさで、茶色ではない。
 ある地元業者のサイトに掲載された05年朝日新聞記事に、「今治市菊間町の海沿いの国道を車で走ると、「瓦」の文字が入った看板がいくつも目に飛び込んでくる。軒を連ねる瓦業者たちの手から生み出される特産の菊間瓦は、いぶし銀の輝きを長く保ち、和風建築によく映える。・・・だが、全国の産地で機械化、大量生産化が進み、出荷枚数はピーク時の3分の1に落ち込んだ。・・・(菊間町窯業協同組合の)組合員も11月で32社まで減り、全盛期の半数以下だ。・・・時代のニーズに合わせようと、材料はそのままで、窯の焼き方だけを変え、茶色に仕上ることに成功したところだ」
 2)いぶし銀の屋根瓦(茶色に着色してあれば別)が、ここ10年余りで茶色瓦に需要が変化したと思われないが、有力な瓦の産地が愛媛県にあった。なお、30年以上前に四国には瓦・スレートの大きな業者がいることを聞いており、そのことも思い出しながら 余り見たことのない家々の屋根を眺めた。
 さて、松山駅前に着き、タクシーは乗り場で容易に拾えた。
 道後温泉の宿泊名を言うと、すぐ場所はわかると応じた。景気はどうですかと運転手さんに問うてはなかったと思うが 安倍さんに対し不信感を露わにした。景気は少しもよくならず、また(地元)景気のことはタクシーをやっていればよく分かるとのこと(私はその時点では、民主党の素人政治からの脱却・経済政策の目標明確で円安株高で経済が上向きであることに信頼と期待)。長期的には人口減をどうするか。地方は、ますますダメになる。結婚しない人が増え、結婚しても子どものない世帯が増えているのを懸念。逆に、これからの若い人は、ますます大変になると。
 それを聞いて 閃くものがあり、次のようなことを思いつきで言った。
 日本の最大の政治課題は、憲法でも 領土問題でも TPPでも 財政赤字でも 景気回復でもなく、このままでは人口減少が続き弱小・衰退・消滅してしまうの対しどのような政策を打つかが最大の重点で、景気浮揚・国土防衛等の予算を削ってでも30〜50年先の日本が生きる発展戦略の要として最優先たるべき、とぶち上げ話が盛り上がった。
 そうこうするうちに、ホテルに着いた。
 ゼミ会の幹事には、事前にメールでホテル到着は18:00前になると知らせていたが、思ったより10分以上早く着いた。仲間のいる2つの部屋のうち一つに入ると 皆入浴を済ませた後で 数人かが既にビールを飲んでいた。食事は30分遅らせ6時半からとのこと、まだ時間あるから風呂へという。浴衣に着替え2階の浴場へ行けば タオルやバスタオルは揃っていると言う。着替えだけ持ち、そそくさと風呂場に向かい入り上がった。当初入浴は、6時に遅れて着くからすぐ食事でアルコールが入るから翌朝と決めていたが、配慮してもらった。食事の前に僅かでも温泉に入れたことは気分の上から非常によかった。

1.ゼミ会
〆2鷭仞覆蓮■隠或傭罍洪諭A芦鵑眛韻検
∈までの開催
1)2000年4月京都市中京区麩屋町三条
2)2006年10月静岡県浜松市・舘山寺温泉
3)2010年4月京都市東山区花見小路
4)2012年10月岐阜県高山:下呂温泉
5)2014年11月滋賀県比叡山:延暦寺宿坊
6)2016年4月愛媛県松山:道後温泉
 今回の場所は、前回のブログ記事に次のように記していた。
 「次回は京都方面外の番で、いろいろ候補はあったが、道後温泉(四国・愛媛県松山市)4月に決まった。松山の出身で現に住んでいる三好氏の提案による。道後温泉は本館が平成29年には改修に入り10年は閉鎖になるとのことである」 
 (14年12月11日号「係わりの地74:比叡山延暦寺:東塔・南光坊」
B膤愡代の知らなかった話が多かった。
1)大学4年に入る前の春休み、ゼミ同級で四国旅行(京都起点)をした(全員でなく行かなかった人もいた)。
 a.10人中3人が四国出身(香川・徳島・愛媛)。更に、ゼミの2年先輩(大学院)が徳島・高知の出身。 
 ァ.香川と徳島の学友の家に泊まり、徳島の先輩の実家の家ではご馳走になった。高知では大学寮に泊まった。誰かが覚えており1泊50円という。どうして、そんなことまで覚えているかは、当時ハイライトが70円でタバコより安いと思ったことが記憶にあったという。布団などの汚さについて私は記憶ないが、他の者は認識していた。
 ィ.学生時代のゼミでの四国旅行は、安上がりで出来れば無銭旅行という魂胆ある者が、四国をターゲットに企画。立案者は四国出身でなくて、香川と徳島出身の友の実家が宿泊OKしてくれたことは確かだろう。
 b.行きは、宇高連絡船(玉野市・宇野ー高松)で四国へ、訪問地は高松の栗林公園、徳島の大歩危小歩危(おおぼけこぼけ)、高知の桂浜・はりまや橋(1959年ペギー葉山の「南国土佐を後にして」が大ヒットして橋が有名になった。タクシー運転手がただのコンクリート橋とは言っていた。「日本3大がっかり名所」の一つで今は近くに朱色の欄干があるようだ)。帰りは、徳島から鳴門海峡を渡り和歌山へ渡った。なお、金毘羅宮(琴平町)を訪れたことは、記憶がなかった。そういえば 高松の栗林公園で大学1年時の高松出身の学友が友達を連れていたのと再びすれ違い、また会いましたねと言って挨拶したのを覚えており、その時行く所は皆同じと言いあったのだが、それが金毘羅宮であったに違いなかろう。あるいは、私が思い出せないだけで屋島檀ノ浦(高松市)かもしれないという気もする。
2)就職活動
 a.ゼミ担当の教授が共産党系であると先方の会社では知っており、質問されたが特別そのことによる影響はなかった。
 b.何かの関係があって当時超高級ホテル(8千円が高級として3万円以上)に泊まったが、宿泊料金負担について数社のうち1社だけ除きそれで通った。
 c.就職活動で多額の資金が得られ、沖縄旅行したという。
  なお、当時 沖縄は米軍の管轄下(沖縄返還1972年)で 旅行者には事前に思想チェック等行われたそうだが、パスしたという。
 d.ゼミ生10人の就職先の特性は、
 ァ.住友系が4割を占める(住友金属鉱山、住友金属工業、住友電気工業、住友不動産)。
 ィ.四国の出身が3人いて、すべてが住友系に就職。
  顱飽貎佑某劼佑襪函地元(四国)では就職先として住友が最高のステータス。
  髻暴四Ф眤姐杙海貌った友は香川だが、新居浜(愛媛県)にも居たという。新居浜は、「住友グループの企業城下町」で、住友発展の基となったのが1690年発見の別子銅山で、新居浜山麓部にあった。
 ゥ.旅行前、偶然「週刊ダイヤモンド」サイト2016年03月25日記事を読み面白いと思った。以下転載。          
   「初めて明かされる超名門の内幕 住友グループの秘密の掟と序列」
 「住友グループの「白水会」・・・“純血”を重視する白水会には、その結束力を維持するための秘密のおきてがある。「血判状」──。白水会に出席するグループ企業の社長が、そう例える書類がある。住友精神の順守などが定められたこの書類に押印しなければ、白水会への出席は認められない。まさか本当に指を切り、自らの血で押印するわけではないだろうが、決意の固さを示す誓約書のような存在だ。」
 「2012年に新日本製鐵と経営統合した住友金属工業・・・は結局、血判状に押印することができず、白水会を去った。「住友の結束力の源泉は、この血判状にある。住友精神を守れない会社が残っていいはずがない。はんこを押せないのであれば、出ていってください、ということだ」。当時の出席者は打ち明ける。」
 「90年代以降、住友系はグループ外企業との統合が相次いだ。しかし、こうした企業は今も白水会に残る一方、住金や住友軽金属工業(現・UACJ)のように離脱した企業もある。この違いは、血判状に押印できたか否かにあったというわけだ。では、現在の白水会を構成する17社にヒエラルキーは存在するのか。結論から言えば、全社が持ち回りで幹事を務め、全会一致で採決するため、御三家を頂点とする三菱金曜会のようなパワーバランスは生まれにくい。
 しかし、全会一致の場で「誰もが意見を気にしている」(グループ企業幹部)存在がある。それが、住友金属鉱山だ。
 金属鉱山の創業は、住友の業祖、蘇我理右衛門が銅精錬と銅細工を開業した1590年にさかのぼる。その後、別子銅山を操業し、住友興隆の礎を築いた
 〔参考:住友では商家・住友家を興した住友政友を家祖、南蛮吹きといわれる銅精練の技術を開発した政友の義兄蘇我理右衛門を業祖としている(ウィキペディア)〕
この別子事業から派生した〔住友〕化学、住友重機械工業、住友林業を合わせた“新居浜4社”は、グループ内で一目置かれる重鎮だが、中でも金属鉱山は「長兄」(前出の幹部)扱いの別格なのだ。
 他に大阪の住友伸銅場から派生した住友電気工業のように、ものづくりに基盤を置く鉱工業系の企業群が、白水会の保守本流だ。
 一方、住友は明治時代、別子の利益を元手に銀行や保険などへ事業を拡大した。これら金融系の多くには三井の血が混入しており、比較的オープンで実利を重んじ、住金の残留にも反対しなかったとされる。
 そして戦後生まれの新興グループが、住友商事と住友不動産だ。知名度も高い成長企業だが、重鎮がそろう白水会では「末っ子」(住友商事社員)扱いだ。
 4月には、大日本住友製薬と住友ゴム工業が住友グループ広報委員会から“昇格”、白水会は19社となる。それぞれ化学と電工の系譜に連なる鉱工業系だ。2社が血判状に押印」
ざ甼景鷙
1)週5日はジムに通い、90分は運動している。
2)血圧を毎日定期的に測っている。
3)音声学の学習をしたことをきっかけに、将来日本語を母国で教える立場となる若い外国人への教育をボランティアで行っている。
4)パチンコをし10年間決算をつけている。累計利益を公表したが、ここは当人及び我々の品位に関わるのでカット。
5)新幹線で缶酒飲んで降りて歩いていると、ふらふらして倒れ すぐに起き上がれことがあった。
6)リタイア後兄が経営している会社に入ったが、やがて経営を任されるようになり、今はその後のことが心配。
7)目下隠居生活を堪能(囲碁・麻雀をしていると思う。株の知識は細かい銘柄を知っており、所有もそれなりに持っていると見た)。
イ修梁
1)夜中12時半くらいまで数人が懇親。
2)松山居住の友は別として直線距離で一番近い所は、北九州市。友に聞くと飛行時間20分、上がったと思えばすぐに下る。飲み物が出るか問うと、あめ玉のようなものが出るとのこと。
3)次回は、来年10月京都にて開催。

2.道後温泉 (資料:「ウィキペディア」、「道後温泉物語」)
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 上記写真は、翌4/2(土)10時頃のもの。ゼミ友松山出身・三好君の誘導で宿泊ホテルから少し歩いた所の道後温泉本館(重要文化財)。
 さらにそこから 松山に城が最初に出来たという場所に案内してもらった。道後公園内の湯築城(ゆづきじょう)跡で、高い石垣や天守閣はなかった。温泉場に近い所に城を築いたのは、そこが魅力であったに違いないと思ったものだ。史料は14世紀前半伊予国守護河野氏による築城、東に追手門、周りに二重の堀をめぐらせた平山城(平野の中にある山・丘陵等に築城された城))とある。
(1)歴史
ヽ詰
1)道後温泉は四国(伊予国松山市に湧出する温泉で、日本三古湯の一つ。
2)存在は古代から知られる。古名を「にきたつ」(煮える湯の津の意)といい、万葉集巻一に見える。
沿革
596年:厩戸皇子(聖徳太子)来湯
 「病気療養のため道後温泉に滞在したことが伊予国風土記逸文に記されている」
 『日本書紀』や伊佐爾波神社(八幡宮)の社伝などには、景行天皇仲哀天皇神功皇后舒明天皇斉明天皇(皇極天皇)・中大兄皇子(後の天智天皇)・大海人王子(後の天武天皇)など多くの皇族方が行幸したとされる。
7世紀
 「645年大化改新が行われると、現在の今治市の辺りに伊予国国府が置かれ、京〔?:奈良〕から見て国府よりも遠い地域は「道後」(←→道前、道中)と呼ばれたことから、後世になるとこの温泉のある一帯が特にそう呼ばれるようになった。」
 前掲「温泉物語」では、「大化改新(645年)によって各国に国府が置かれ、この国府を中心として、道前・道中・道後の名称が生まれました。道中は、国府のある地域を称し、京に向かって国府の前部にあたるところを道前、後部にあたるところを道後と呼んだわけです。従って、中世の道後は、現在の今治市より南を総称したわけですが、近世に入ってからは、温泉の湧く今の道後に限定するようになりました。」
 「ウィキペディア」記述:『日本書紀』の天武13年10月(684年)の条項に「時伊予湯泉(いよのゆ)没而不出」と見え、これは白鳳地震〔684年に起きた南海トラフ沿いの巨大地震と推定される地震〕による地変で出湯が停止したことを示すもの、同じ現象は宝永地震〔1707年東海・東南海・南海で同時発生した巨大地震〕、1854の安政南海地震1946年の南海地震でも見られ、「出湯の一時停止は南海地震の特徴の一つである」 
  《参考》五畿七道
  五畿七道(ごきしちどう)は、古代日本の律令制における広域地方の行政区画。
      律令国一覧
 畿 内:大和、河内、山城、摂津、和泉
 東海道:伊賀、伊勢、志摩、尾張、三河、遠江、駿河、伊豆、甲斐、相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸
 東山道:近江、美濃、飛騨、信濃、上野、下野、出羽、、陸奥
 北陸道:若狭、越前、加賀、能登、越中、越後、佐渡
 山陰道:丹波、丹後、但馬、因幡、伯耆、出雲、石見、隠岐
 山陽道:播磨、美作、備前、備中、備後、安岐、周防、長門
 南海道:紀伊、淡路、阿波、讃岐、伊予、土佐
 西海道:筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後、日向、大隅、薩摩、壱岐、対馬
  【関連】北陸道・佐渡国(国の区分:大・上・中・下の「中国」、近・中・遠の「遠国」)3郡の細目
 羽茂郡:八桑〔赤泊〕郷、松前〔まつさき・松埼⇨松ヶ崎?〕郷、大目郷、菅生郷、星越郷、高家郷、水湊郷、越太郷、駄大郷
 雑太郡(雑多)石田郷、高家郷、八多〔波多⇨畑野?〕郷(播多)、雑太郷(雑田)、岡郷、与知〔矢馳?〕郷、竹田郷、小野郷
 賀茂郡(賀母):大野郷、殖栗郷(升栗)、賀茂〔加茂?〕郷、勲知〔久知?〕郷(動知郷)、女儿郷、佐為郷(佐爲)〔吉井本郷と関連?〕
 【今回4泊5日の旅程(乗換地含む)を上記五畿七道の律令国名で示せば、次のとおり。
 越後(新潟)⇀摂津(伊丹⇀大阪)⇀備後(福山⇀尾道⇀新尾道)⇀伊予(松山)⇀讃岐(丸亀⇀琴平⇀多度津)⇀備前(岡山)⇀山城(京都)⇀越前(彦根⇀米原)⇀加賀(金沢)⇀越後(糸魚川⇀直江津⇀新潟)】
  
  (参考は以上)
14世紀、河野氏が一帯を支配、湯築城を本拠地とする。
1635年寛永12)、松平氏の温泉経営始まる   
  松山藩松平定行が入ってから、道後温泉は定行ら代々の松平松山藩主により整備。
1795年(寛政7)小林一茶来湯
明治以降
1894年明治27年)温泉街中心部に道後温泉本館落成。翌1895年4月松山中学の英語教師として赴任した夏目漱石が、その建築に感嘆。手紙や『坊つちやん』の中で絶賛。
 【資料には、「(漱石の)手紙によれば、八銭の入浴料で「湯に入れば頭まで石鹸で洗って」もらうことができ、また3階に上れば「茶を飲み、菓子を食」うことができたようである」。この道後温泉本館は、現在でも道後温泉のシンボル的存在となっている」とある。宿泊したホテルは道後温泉本館同様2階が浴場、食事は朝も3階の一室。宿泊した部屋は4階で、最初何となく変に感じるものあったが、意図があったとすれば驚き】
昭和以降
1944年(昭和19)道後湯之町が松山市と合併
1946年(昭和21)南海地震で湯の湧出が一時止まったが約1ヶ月後、再び湧き出る。
1950年(昭和25)昭和天皇、入浴。
1956年(昭和31)内湯創設当時、旅館62軒。
1988年(昭和63)瀬戸大橋開通、宿泊者数ピークに。
1994年(平成06)道後温泉本館が国の重要文化財に指定。
 同年 本館建設百周年記念事業、からくり時計の設置、坊っちゃん列車復元運行。
2002年(平成14) 放生園に体験足湯設置
2007年(平成19年) 美しい日本の歴史的風土100選松山城と共に選定
2009年(平成21年)平成百景に選定。
F燦絏浩瑤領拘杰堯収容人員データ
        1989年    2009年   09/89(%)
 旅館数    58軒      31軒    53.4
 収容人員  9404人    6665人   70.8

  数値は、読売新聞 (2010年5月23日)報道とある。

3.松山城
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 湯築城跡から松山城へは、近くにある伊予鉄道の道後公園停留場で市内電車に乗って大街道で降り、緩やかな坂道を上った。途中、脇道を案内に従って行くと『坂の上の雲』の大河テレビドラマで有名になった秋山兄弟(日露戦争で多大な功績)の生誕地に着いた。なお、松山には、「坂の上の雲」がお菓子やタオルや建物にもよく使われている。ちょうど、「ぼっちゃん電車」があるように「ぼっちゃん」も同じだろう。
 当初松山城(城山は標高132m)へはロープウェイの利用であったが、乗り場の前には大勢の人が列をつくって並んでいた。乗ってしまえば数分だが、これでは乗るのに相当時間がかかる。歩けば20〜30分という。私は歩きを選び、結果メンバー9人の中でロープウェイ5人・歩き4人に分れた。
 道は広く、石段や急斜面は少なく登りやすかったというものの、体には堪えた。
 30分以上あってやっと上がりはしたが、既に着いていると思っていたロープウェイ組の姿は10分以上経ってもなく、これからと言うケータイでの返事。
 桜は満開、数日前は雨の予報だったらしいが晴天に恵まれてよかった。天守閣前の「山頂広場」は、人と桜で華やかであった。
 最初「野球拳」とあっても何のことか解らなかったが、その日は松山春まつり中日のメインイベントとして特設ステージが設けて「第46回野球拳全国大会」(11:00〜15:30)が開催され、賑やかであった。
   《参考》野球拳やきゅうけん) (ウィキペディア)
 野球拳は、歌い踊りながらじゃんけんする宴会芸
 1924年伊予鉄道電気野球部が高松市で野球試合を行なったが、0-6で敗れた。試合後旅館で行われた対戦相手との夜の懇親会の宴会芸で、昼の敵を取るべく披露した演技が野球拳の始まり。その時は元禄花見踊』の曲をアレンジし即興での作詞・振付けで、じゃんけんでなく狐拳1947年伊予鉄忘年会でじゃんけんに改められた)。
 なお、夜の勝負に勝った一行は、この踊りを松山に持ち帰り、松山の料亭での「残念会」で披露、以後宴会芸の定番となる。また、伊予鉄野球部が遠征するたびに野球拳が披露され普及の一助となった。
 その後、「松山まつり」で取り入れられ、1970年からは各団体の踊りグループが街を練り歩くようになった。松山市制百周年記念1989年からサンバ調の野球サンバも加わった。1983年松山春まつり」からは松山城本家野球拳全国大会が開催され今日に至る
  西尾君が人が大勢いる中で突然行方不明。誰かがケータイしたところ野球拳が面白く見惚れていたとのこと。
 4月3日愛媛新聞オンラインより
 「松山春まつり恒例の第46回野球拳全国大会が2日、松山市丸之内の松山城山頂広場特設ステージであり、県内外の55チームがじゃんけんで熱戦を繰り広げた。
 実行委員会が主催。1チーム3人で、2〜83歳の男女がトーナメント方式で日本一を目指した。
 桜が咲く中、着物や法被といった華やかな衣装に身を包んだ参加者はおはやしに合わせて踊り「アウト!セーフ!よよいのよいっ」の掛け声で勝負。喜びや悔しさを全身で表現すると、会場から歓声や拍手が湧き起こっていた。」
 (1)歴史
ヽ詰
1)松山城は、別名金亀城、勝山城。各地の松山城と区別するため伊予松山城とも呼ばれ、松山市の中心部、勝山(城山)山頂に本丸、西南麓に二之丸と三之丸を構える平山城である。
2)現在は、城跡の主要部分が公園として整備、大天守(現存12天守の1つ)を含む21棟の現存建造物が国の重要文化財城郭遺構が国の史跡に指定。そのほか、昭和初期の1933年に大天守を残して焼失した、連立式天守群の小天守以下5棟をはじめとする22棟(塀を含む)が木造で復元。
沿革
1602年慶長7)伊予国正木城(松前)城主10万石大名の加藤嘉明が、関ヶ原の戦功により20万石に加増、麓に二之丸と三之丸を有す平山城築城に着手。
翌1603年(慶長8)嘉明が、この地を「松山」と呼び、「松山」が公式に誕生。
その後藩主の異動続く。

1635年
(寛永12)松平定行が15万石の藩主となり、松山城に居城。
1854年安政元)第12代藩主松平勝善が大天守以下、本丸本壇を再建。
1871年(明治4)廃藩置県により松山藩から松山県となる。
1873年(明治6)愛媛県が成立。 
1891年(明治24)正岡子規が、「松山や 秋より高き 天主閣」の俳句発表。1895年(明治28)に、「春や昔 十五万石の 城下哉」の句を詠む
1923年大正12)、松山城(本丸)が旧藩主家の久松家へ払下げ、そのまま松山市に寄贈。以降、松山市所有。
1950年(昭和25)大天守以下21棟の建造物について重要文化財保護法により国の重要文化財に指定。1952年(昭和27)二之丸と三之丸を含む松山城山公園が国の史跡に指定。
1955年(昭和30)ロープウェイが設置1966年(昭和41)平行してリフトが設置。
1989年平成元)松山城山公園が日本さくら名所100選に選定。
2006年(平成18)松山城山公園が日本の歴史公園100選に、松山城が日本100名城(81番)に選定。

 歩行の難儀そうな藤島君が、わからなくなった。天守閣へ行こうといたという声あり。本当に大丈夫かとみんな心配して集まって話をしていると、城の高い所から「おーい」と元気な声があった。見上げると、城の一番高い廊下からこちらに向かって手を振っていてほっとした。見た目と異なる体力に敬意。
 帰りは上りと違いロープウェーをずっと待つことはなく、一度に全員乗り5分足らずで地上に降りた。それから、繁華街へ出て昼食を共にし、デパートの土産売り場に入り(私は数日旅をするので必要ないが、他の友には大事)、そして適当なところで そこで来年10月の再会を期し解散した。

3.松山と佐渡
 特に関係は見当たらないが、松山出身の歌人が佐渡へ来ている。
_賄貶妨莇諭覆わひがし・へきごとう:1873〜1937)
  来島:1907年11/9〜23。紀行文『三千里』に佐渡を記述。
 (08年2月8日号「佐渡を記した人22:河東碧梧桐(1)船の旅芸人」「(2)海府めぐり」(3)国仲・小木めぐり」
高浜虚子(たかはま・きよし:1874〜1959)
  来島:1938年5/17〜18、及び1950年。
 両者は同郷の同級生、師匠は同郷の正岡子規 共に子規門下の双璧と呼ばれた。、
  もっと近い関係は、、
  昨年江戸時代前期に佐渡松ヶ崎で廻船業で財をなした菊池喜兵衛の末裔で松山出身の人(イタリア人と結婚し現在ミラノに居住)がいること。それを知ったは、ブログにコメントいただいたこと。その後、メール交換。松山と佐渡との関係を示す例としては、「(祖父の代)松山に時々、佐渡からおいしい物が小包で送られてきたりしていました」、また松ヶ崎に菩提寺・本行寺があり、昨年8月イタリアから御主人と共にご先祖様のお墓参りに佐渡へ来られた折、新潟でお会いした。後で 祖父が寄進したという梵鐘を収めた背の高いガラス張りの祠の前でご住職と一緒に撮った写真がメールで送られてきた。

4.まとめ
 松山は、多くの俳人・歌人・随筆家 そして文芸作品・文化を産んだ土地柄で、今日でも当てはまる。
 (資料:ウィキペディア)
‐昌から、多くの俳人・歌人が輩出
 1)俳人・歌人の正岡子規(1867〜1902:旧制松山中学(現・松山東高))、
 2)俳人の柳原極堂(1867〜1957:松山中学(現在の県立松山東高等学校)に入学)、
 3)俳人・随筆家の河東碧梧桐(1873〜1937:伊予尋常中学(現在の県立松山東高校)に入学)、
 4)俳人・小説家の高浜虚子(1874〜1959:伊予尋常中学(現在の県立松山東高校)入学)
 5)俳人の内藤鳴雪(1847年〜1926)。伊予松山藩士で維新後文部官僚となり、
東京での寄宿舎監督時代寄宿生の正岡子規や河東碧梧桐らに漢詩の添削。1892年45歳の時20歳も年下の子規を俳句の師とした
   《参考》正岡子規の経歴 
 1)1880年旧制松山中学(現・松山東高)に入学。1883年中退し上京、受験勉強のため共立学校(現・開成高)に入学。翌年、旧藩主家の給費生となり、東大予備門(のち一高、現・東大教養学部)に入学(東大予備門では夏目漱石と同窓)し、常盤会寄宿舎に入った。1890帝国大学哲学科に進学、のち文学に興味、翌年国文科に転科。この頃から「子規」と号して句作を行う。

 2)大学中退後1892年叔父の紹介で新聞『日本』の記者となり、家族を呼び寄せ文芸活動の拠点とした。1893年「獺祭書屋俳話(だっさいしょおくはいわ)」を連載し、俳句の革新運動を開始。
 3)1894年日清戦争が勃発で翌年近衛師団つきの従軍記者として遼東半島に渡ったが、上陸2日後下関条約の調印で帰国の途。その船中で喀血して重態、神戸病院に入院、須磨保養院で療養し、松山に帰郷。
 喀血したことから、「鳴いて血を吐く」と言われている
ホトトギスと自分を重ね合わせ、ホトトギスの漢字表記の「子規」を自分の俳号とした。1897年俳句雑誌『ホトトギス』(ほとゝぎす)を創刊、また、俳句分類や与謝蕪村などを研究。漱石の下宿に同宿して過ごし、俳句会などを開いた。

 4)短歌においても、「歌よみに与ふる書」を新聞『日本』に連載。古今集を否定し万葉集を高く評価して、江戸時代までの形式にとらわれた和歌を非難しつつ、根岸短歌会(1899年子規庵で開かれた歌会を源流とし、同郷の後輩である高浜虚子や河東碧梧桐らにより結成)
  (参考は以上)
1897年松山で俳句雑誌ホトトギス』が、子規の友人で海南新聞社員の柳原極堂により創刊。雑誌名は正岡の俳号「子規」にちなみ、創刊時はひらがなで『ほとゝぎす』。正岡子規、高濱虚子河東碧梧桐内藤鳴雪らが選者であった。
 1898年高濱虚子は、子規の協力を得て前年に柳原極堂が松山で創刊した俳誌『ほとゝぎす』を引き継ぎ東京に移転、俳句だけでなく和歌散文などを加えて俳句文芸誌として再出発、夏目漱石
などからも寄稿を受ける。
   1901年(明治34年)10月 雑誌名を『ホトヽギス』とする。

 1947年(昭和22)9月 ホトトギス社が高浜年尾(虚子の実子)代表の合資会社となる。
 1957年(昭和32)『ほとゝぎす』創刊者の柳原極堂が、松山市初の名誉市民となる。

 2013年平成25)通巻1400号。10月 稲畑廣太郎(高浜虚子の曽孫)が主宰となる。
2凸權石1867〜1916)と松山
1)大学時代正岡子規と出会い俳句を学ぶ。
 a.漱石は1889年第一高等中学校の同窓生の子規と初めて会う。
 ァ.子規が手がけた漢詩俳句などの文集『七草集』が学友らの間で回覧されたとき、漱石がその批評を巻末に漢文で書いたことから、本格的な友情が始まった。
 イ.この時に初めて漱石という号を用いるが、「漱石」は子規の数多いペンネームのうちの一つで、後に漱石は子規からこれを譲り受けた。
 b.1890年(明治23年)帝国大学(後に東京帝国大学)英文科入学。1892年7月大学の夏期休業を利用して、松山に帰省する子規と共に関西方面の旅に出る。
 ァ.神戸で別れた松山の子規から学年末試験に落第したので退学すると記した手紙が届き、漱石は翻意を促す手紙を書き送り、「鳴くならば 満月になけ ほととぎす」の一句を添えた。
 ィ.その後、岡山から松山の子規の元に向かう。子規の家で2か月あまり滞在し、その時当時15歳の高浜虚子と出会う。なお、子規は意思通り大学を中退。
 c.
帝国大学卒業後、
 ァ.高等師範学校の英語教師となるが、日本人が英文学を学ぶことに違和感を覚える。
 ィ.1895年大学時代の親友・菅虎雄の斡旋で 愛媛県尋常中学校(旧制松山中学)に英語教師として赴任。その際に愚陀仏庵を下宿として利用し、52日間に渡って子規も居候した時期があり、俳句結社「松風会」に参加し句会を開いた。
 ゥ.その後 
熊本で第五高等学校教授などを務め、イギリス留学。帰国後、東京帝国大学講師として英文学を講じる。
2)高浜虚子の影響力
 a.1904年高浜虚子の勧めで精神衰弱を和らげるため『吾輩は猫である』を執筆。本来の題名は『猫伝』であったが、虚子の提案に従った。
 b.子規門下の会「山会」で初めて発表され、好評を得た

   1905年ホトトギス』に1回の読み切りとして掲載されたが、好評で続編執筆。
 (なお、虚子は、子規の協力を得て前に柳原極堂が松山で創刊した俳誌『ほとゝぎす』を引き継ぎ東京に移転、俳句だけでなく和歌、散文などを加えて俳句文芸誌として再出発し、夏目漱石などからも寄稿を受けていた)
 c.
虚子から職業作家の道を誘われ、作家として生きていくことを決意し、『倫敦〔ロンドン〕塔』『坊っちゃん』と立て続けに作品を発表、作家としての地位を固めた。
3)『坊っちゃん』と松山。(資料:UMIC「小説『坊っちゃん』と松山」)
 a.「住田〔道後〕という所は温泉のある町で城下から汽車だと十分ばかり、歩いて三十分ばかりで行かれるという」
 b.「毎日住田の温泉へ行くことに極めている。……温泉だけは立派なものだ。……西洋手拭いの大きな奴をぶらさげて行く。……温泉は三階の新築で上等な浴をかして流しをつけて八銭ですむ」
 c.「ピューと汽笛がなって、車がつく。待ち合わせた連中はぞろぞろ吾勝に乗り込む。赤シャツは……上等へ飛びこんだ」
ぞ昌海覆蕕任呂諒顕
1)正岡子規国際俳句賞
 a.1999年開催の「しまなみ海道99国際俳句コンベンション」で世界に向け発信された松山宣言の提言(国際俳句賞の創設)に基づき、2000年に創設。
 ァ.国籍や言語を問わず、俳句のもつ創造力の開発と顕揚に最もめざましい功績を挙げた人物に送られる。
 ィ.選考は選考委員会およびその下部組織としての調整会を設置し、委員会が選定する推薦人の推薦に基づいて授賞者が決定さ。第4回の選考は、国内207人、国外87人の推薦人から推薦された候補者を調整会により絞りこみ、2008年12月22日に受賞者が発表。各回の授賞にあたっての選考プロセス、授賞理由、記念スピーチ等は、受賞者を記念する国際俳句フェスティバル報告書 に記述されている。
 b. 2009年以降は、愛媛県の財政難により顕彰活動を中止。
2)野球拳全国大会
 a.どこにもありそうな宴会芸が、堂々と全国に誇れる地域を代表する芸能になったりする。
 b.楽しんだあとは、「ぼっちやん」電車に乗って道後温泉に入ってくつろぐ。これはどこにでも出来るというわけにいかない。まだ百年も経ってないが、松山の文化としてずっと続く予感がする。
   以上


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