佐渡広場

佐渡をコンセプトとし、貴重で、面白い、懐かしい、元気が湧く情報集になることを目指しています。

佐渡の祭り62:両津七夕祭り(5)2018年七夕祭り

予定!


佐渡の祭り61:両津七夕祭り(4)両津の七夕文化

準備中!


 (七夕の唄)
昭和23年佐渡民報社が懸賞付きで募集した。
「七夕さま」作詞・仙宅千寿、作曲・中田信
「七夕祭のうた」作詞・土屋実、作曲・中田信

『七夕の歌』 のこと  教務主任 本田一徳(両津小『PTAだより』平六・三・二四)
現在、川開き七夕の歌として子ども達に歌われている歌詞は、昭和二十年代前半、佐渡民報土田社長を発起人として、子どもの祭りにふさわしい歌をと、一般から公募されたものです。(中略)その結果、入選歌詞として夷新の土屋実氏(佐渡汽船勤務)作「空にぴっかり」、城の内の仙宅千恵子氏作「七夕さま」、本間啓幸氏作「遠いお空の」の三作が選ばれ、これに夷出身の中田信氏(新潟大学在職)が曲をつけて発表されました。(中略)
発表されたこの三曲は、当初学校で指導されました。(中略)それまでの七夕の歌は「花咲かじいさん」 「もしもしかめさん かめさんよ」や「かぞえ歌」などでした。
 振り返ってみますと、
♪そらにぴっかりきんのほし……
♪ごらんなさいなあのおそら……
♪とおいおそらのはらっばに……
の三曲は、すでに半世紀近くにわたって歌われていることになります。

(歴史)
・七夕祭りは、明治初年頃は、笹に短冊をつけ、麦わらの舟を担いで歩くささやかな子供の祭りだった。
・明治31年、夷港が大阪港と共に開港場(外国貿易港)に指定されたので「七港祭」として、従来の七夕行事に大人が加わり、山車、七港踊りが披露された。
 これ以降次第に出し物が加わり、夜は竹笹に変わり、将棋提灯が持ち歩かれた。
その後8日に川開き大会が加わり、鬼太鼓、民謡流しが始まった。

・第1回両津七夕祭り(明治40年、1907年)※平成25年(2013)107回
・川開き協会設立(大正15年、1926年)
・第1回川開き大会(昭和11年、1936年)※平成25年(2013)78回
・第1回島開き(昭和40年、1965年)

佐渡の祭り60:両津七夕祭り(3)七夕組の組織と運営

工事中!

1.七夕に関する取材
^他隼住職・梶井照雄氏(1946年生。夷春日町)2018年1月元日(月)・7月15日(日)
1)安照寺の縁の下には、夷三ノ町の山車の部材が置いてあった。
 a、毎年8月5日か6日頃朝の5時頃七夕の担当者12〜3人来て、部材を引き出し、8〜9時には組立を完了し、太陽堂の横まで曳いていった。そこで、人形の制作・取付をする。
 b、これが春日町であれば観音堂のは内部、夷一、二であれば夷の善宝寺さん等々。
 c、お互い他の町内には出し物は何かわからないようにした。
2)平成22年〔2010〕、23年〔2011〕頃までは縁の下を使っていたが、子どもが少なく山車を出さなくなり、廃材となった。その中には、木製車輪もあった。
3)日中の七夕山車パレードは、七夕丸〔町内で呼び名が異なる〕という舟をリヤカーに乗せそれが先頭で、大太鼓、小太鼓、シンバル、音頭取りの拡声器付きでいろいろな七夕の歌を一斉に歌いながら綱で山車を曳き、各町内(夷〜湊)を練り歩いた。主役は子どもで、大人は言わば警護・補佐。
4)暑い中の行進は、〔アイス〕キャンデーをもらうのが楽しみだった。
 細長いキャンデーで〔小豆が入ったものとか、白い乳製品入り、黄色のものとかがあり〕当時は1本5円していた。キレンジと弥次平で製造販売していた。
5)夜は、将棋提灯(ちょうちん)を持って七夕の歌を歌いながら行進。
6)8日は川開きで、築港〔多分、今は無き防砂堤=「へたの築港」のことだろう〕へ行って花火を見た。
 (防砂堤=「へたの築港」について、渡辺和弘氏(1947年生。夷一ノ町):1月2日(火)
1)
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3)
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5)
山田昭夫氏(1937年生。夷神明町):3月28日(水)、7月15日(日)
1)
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3)
4)
5)

に漫ーG兄瓠1947年生。湊3丁目):7月15日(日)
1)湊(みなと)の七夕組は、昭和29年に両津町が両津市になる前は城の内を含め12組あった。 市になってからは、湊一丁目から湊五丁目までと城の内、そして新興地の若宮通りで計7組となった。これは、現在も変わりない。湊には、7つの山車が出る。
2)七夕参加の子どもは、年長組園児(5~6歳)から中学1年まで。5歳くらいまでは親が付いて一緒に山車とともに歩いた。あるいは、幼い子ば山車に載せた。
3)当時❲1950年代❳湊三丁目には、小学生は14〜15人いた。今は3人(50軒ある内2軒のみ)。それでも人形を作って山車を出す。旅(島外)に行った者の子を連れて来てそれなりの体裁を保っている。
4)年長組の女の子は、中学1年までは舟の飾り付けを行い、舟の傍に付いて廻った。
5)七夕行列の楽隊は、 ガキ大将が大太鼓、No.2が小太鼓、No.3がシンバルを受け持ち、残りは七夕の歌を歌いながら山車の綱を曳いて歩いた。
 a、歌の練習は、8月1日から始め、6時半から7時半の一時間くらいまで行った。
 b、場所は、山車のある小屋の前に集まり、歌う練習をしながら、町内を回った。
 c、途中他の組と出会った時は、互いに声を張り上げ相手の歌う歌が聞こえなくなるように競争した。
6)
7)
8)

ヌ邯俊樹氏(1967年生。湊3丁目):7月19日(木)
1)七夕資料について
 a、「両津七夕祭りと川開きの歴史 野口敏樹(湊3丁目)」と添付資料のコピーいただく。「両津七夕祭り(1)」
に一部掲載。
 b、両津公民館図書室に過去の月間「広報両津」が保管されているかもしれない。
 c、七夕時に歌う七夕の歌の歌詞等後日送信。
2)平成29年度〔2017〕七夕祭りが第111回、同じく川開きが第82回という回数は、前々から引き継がれ回数を重ねてきたもので明確と言えないのが実情。
3)平成29年の夷地区等5台・湊地区7台の内訳は
 a、夷地区:
 b、湊地区:湊1、湊2、湊3、湊4、湊5、城の内、若宮通



佐渡の祭り59:両津七夕祭り(2)写真


工事中
‐赦遜藉〔昭和元年=1926年〕
6-1七夕

⊂赦22年〔1947〕頃の「築地」組の山車
七夕2
写真下左角には「ゆたか屋旅館」(写真では見えない)、右上角に「正覚寺」境内。
(上掲の部分拡大写真)

1946年(昭和21)頃
 夷七ノ町の丁字路を夷新のプラカード持って行進。
 七夕3

1946年(昭和21)
 米軍のジープが協力。進駐軍兵士が運転。
 「八郎兵衛町二」の山車パレード。
 七夕4

 1929年(昭和4)以後とある。(『佐渡の昭和』)
 七夕5

 七夕6
 七夕7
 七夕8
 七夕9
 七夕11
 七夕11

 七夕13
 七夕15



 七夕17

 七夕18

七夕16


七夕02






佐渡の祭り58:両津七夕祭り(1)両津七夕祭りの歴史

 こんにちは!自在業の櫻井です。
1.はじめに
1)メインテーマ「両津七夕祭り」の構想は、昨年からあった。だが、当時は「両津子どもの遊び」に取組み中で、今年に入り地元識者から七夕について部分的に尋ねメモしたが、メインは「子どもの遊び」。それが一旦一段落し、本格的に取組を開始。
2)今回のメインテーマの進め方が従来と違うのは、
 a、七夕祭りは 8月7日の開催、それに合わせるように準備を進め、できればお盆前、遅くとも8月20日頃にはテーマを終了させたいという一応の期限を設定。
 もっとも内容次第で 納得できなければ延長は大いにある。一方、調査・資料収集は際限ないので、どこで打ち切るかということもある。 何れにせよ知っていそうな人への早め早めの働きかけ(紹介含む)、取材と資料収集が、価値ある記事にするための必要条件。
 b、サブテーマを予め次の5項目に設定。 
  1、両津七夕祭りの歴史
  2 、写真
  3 、七夕組組織と運営 
  4 、両津七夕文化  
  5、2018年七夕祭り   
 c、順番に記述していくのでなく、知った情報や資料をその都度5項目のどれかに掲載し、一応すべて終了した時点で、5つの記事が同じ日付で校了とする。
3)7月14日(土)。まず両津七夕祭りの歴史を調べるため新潟県立図書館へ行き、『両津町史』を開いた。だが、意外にも無く、年表に載っているだけ。全国でも世界でも類のない文化性の高い子どもの祭りにも拘わらずである。数巻ある『両津市誌』からの探したが、見当たらない。 
 なお、七夕写真は佐渡写真集の本やウェブからも拾い出せることは、前から聞いて知っていた。「子どもの遊び」の記事にも活用。ただ、七夕写真は少ないとは感じていた。
 だから、5月のおんでこドットコムで同級生に会った時に写真について尋ねたり、その時昔からある写真館の主人に合わせてもらったり、6月には旭町時代に2年上の先輩が横浜にいることを知り電話で問い合わせもした。
 しかし、写真数に比べたら郷土史に七夕の歴史記載が無いに等しく、スタートで躓(つまず)き雲行きが怪しくなった。
4)両津七夕祭りの歴史といっても関心は、祭の発案者・発起人、主な賛同者・推進者・協力者は誰か、どのような手続きを経て両津七夕祭りとなったか、七夕組は最初何組から始まったか、夜の将棋提灯行列はいつからか、戦争中は中断したと思うが何年から何年までか等々。
5)ここでは、まずはつかんだ事実や資料をその都度記載・転載すことから始め、まとめは後。その他の項目記事も同じ。

1.七夕資料
 慘渉田史』年表より
 「1898年〔明治31〕7月6日公布の港則で夷港は大阪港とともに開港場に指定され従来の五港が七開港場となった。8月7日港則発布祝賀会を盛大に催し、山車を繰り出し、新作七港踊りが披露された。両津七夕祭のはじまりである」
■祁遑隠菊梶井照雄氏提供「第18回煙火〔花火〕大会番付」冊子
   冊子は、最近資料整理をしていた時に出て来たとのこと。数日前に七夕について伺うことにしていた。
1)表紙
 七夕11
 a、毎年8月8日に行われる両津川開きの冊子で、「第18回煙火〔えんか:花火」大会番付」とある。前日8月7日が両津七夕祭り。
 b、祭りができたのは、川開きの1903年(明治36)に対し七夕祭りは1898年〔明治31〕と5年古い。
  (
 c、「第18回」となっているのが気になるが、花火大会ということでは納得。
2)「両津七夕・川開き大会行事」
   七夕09
 a、いつの冊子かは、行事表に8月8日・9日松竹「君の名は」ロケーションとあるからわかる。
  調べると、1953年〔昭和28〕に主演の佐田啓司と岸惠子が相川の尖閣湾でロケを行った。なお、当時は釣り橋が掛かりその真ん中で二人が出逢うシーンが映画になったような覚えがある。
 b、1953年(昭和28)両津七夕・川開き大会行事表に見る特記事項
  ァ、七夕祭りの時間帯は、午前11時から午後9時まで。
  ィ、山車は、30町内計30台が出動し、子どもたちが曳いて原則全町内を練り歩く。昭和29年に両津町が両津市になる前は湊は城の内を含め12組(台)あったと聞いているから、夷は18台となる。夷の内訳は現時点推定で夷一〜夷八、夷新、築地、神明町、八郎平町一、同二、福浦、浜田、春日町、旭町、海岸通。そうであれば18台とはなる(要調査)。
  ゥ、おけさ流しと花火大会(この日の花火は両津港埠頭)は、7日にあった。
  ェ、8日川開き行事
   顱乏堂饐譴覗粥椋甘蓮遊瓦瞭霄位邉綢膕顱別邉紊里9日決勝戦)・庭球大会・卓球大会・バレー大会・少年相撲大会のスポーツ競技、
   髻傍船150隻による満艦飾り行進(大漁祭り)、職場対抗おけさ流し、同仮装行列の各種パレード
   鵝鵬峅仟膕顱蔑渉店阻蒜板蕁砲破襦 
3)祝七夕祭、川開大会行事資金寄付者御芳名
  七夕08
  弐万円   :新潟交通株式会社
  壱万五千円:佐渡汽船株式会社、両津町旅館組合
  壱万円   :株式会社丸五高野味噌店、両津町金融機関(第四銀行・北越銀行・大光相互銀行の3両津支店、及び両津信用組合の計4金融機関)、株式会社本間組両津出張所、雑貨卸 株式会社巻淵商店(新潟市)、加茂水産株式会社(丸内組、内浦漁業協同組合、第一羽吉浜漁業協同組合、羽吉漁業協同組合)
  七千五百円:両津町飲食店組合
  五千円   :両津銀座会、内海府漁業協同組合定置網部長[以下、割愛]
4)広告(例) 
 a、地元:たまたまは撮った写真は、ファッション店と自転車店
      七夕14
 b、新潟の紙問屋:七夕では人形制作(ハリボテ)に紙を大量に使う。
   七夕10
L邯敏樹氏提供「平成30年6月30日湊4丁目壮年会 両津七夕祭りと川開きの歴史 野口敏樹(湊3丁目)」より抜粋。
 1 夷港開港と七夕祭り
 〔声0歐靴砲ける開港
   箱館、神奈川(横浜)、長崎、新潟、兵庫(神戸)
   明治2(1869)年9月6日 新潟港の補助港として夷港開港
 ⊆傾舛箸靴討琉亞港
   明治31(1898)年7月7日港則法による開港
   函館、横浜、長崎、新潟、神戸、大阪、夷
   (開港における政府の意図が不明)
 N渉鼎亮畦失廚
   明治初期には笹に短冊を付け麦藁の舟を担いで歩く子どもたちの祭り
 ぜ傾然港の祝賀会
   明治31年8月7日 七港祭り
    従来の七夕祭りに加え、山車や新作踊り(七港踊り)
    夜は将棋提灯の行列
 セ骸屬諒兪
    戦前〜戦後 七福神、赤穂浪士、有名力士など
     参加地区 夷地区10台 湊地区2台(昭和3年)
    昭和40年代〜現在 アニメキャラクターなど
     現在は他に、鼓笛隊パレード、民謡流し
2 川開き
 仝什澆旅垰と主催者側の認識
   8月7〜8日にかけての開催
   鬼太鼓、人形芝居、花火
   七夕祭りと川開きは本来別のイベント
   現在は「両津七夕川開き」として開催
   両津川開き協会の認識
    (記録されている開催回数から逆算して第1回を設定)
    七夕祭 明治40(1907)年が第1回→平成29年度第111回
     川開き 昭和11(1936)年が第1回→平成29年度第82回
   夷港開港記念行事としての「両津七夕川開き」という見方も
 ∪邀きの歴史
    明治30(1897)年8月の大水害で加茂湖周辺が湛水被害
    明治36年頃、加茂湖口の開削
    大正15年7月土屋六右衛門両津町長の発議による両津川開き協会設立
[3 「新佐渡」にみる草創期の両津川開き、 4昭和前期における中断期 5 (参考)新潟川開き、は略]
6 戦後の両津七夕川開き
 ‐赦21年8月7日進駐軍の協力もあり七夕祭り復活(川開開催は不明)
   夷・谷地大火 昭和22年4月17日
 ∧ ̄座膕个伴畦疾邀き
   昭和30年8月2日福浦大火発生 
   両津市合併後じ初めての祭り
   開催見送り意見もあったもあったが予定どうり開催
   川開き協会から子どもたちに1万円の見舞金支出
   山車制作は間に合わず福浦の子どもたちは将棋提灯を手にしてパレードに参加
 8什澆領渉甜畦疾邀き
   参加地区 夷地区等5台 湊地区7台(平成29年)第111回七夕祭り
   少子化・過疎化による夷地区等からの参加山車の減少
   複数町内による合同制作は、経費や制作場所等のか課題が多く進まない
   一連の七夕の歌は昔の伝統
   佐渡市合併以降の祭り規模の縮小
   川開きの花火も規模縮小
[野口氏添付資料:「新佐渡」大正15年[1926]8月1日号「川開きにについて 川上喚涛」より(川上喚濤〔かんとう〕については、佐渡の風景123:和木」に記述)
 「今の川開きの如く煙花を弄する事は所謂(いわゆる)埋立工事完成して八郎兵衛町が遊郭も出来魚市場ともなった頃記念祝賀会のか形にては始めた様であるけれ共七夕祭と称して燈火(とうか)を湖水へ流したのは頗[すこぶ]る古代から執行し来った両津町の年中行事の一つであると古老から伝はって居る夫故(それゆえ)、文化年中[1804年から1818年]の〇翁老人の俳句に〇〇〇と称したはその俤[おもかげ]を証明して居るが今の人は記憶を失ふて居るかも知れぬ。・・・本年有志諸君が第一の川開きか拡張(創立では無い)会を催して呉れたを多とすると共に来年より一層規模を拡張して大日本煙火大会場に達せん事を希望します」
 同年8月7日号「川開きとは かも湖ひらき乎 川邉時三」より(川辺時三は
 「・・・・(両津甚句について)一旦男優の手に移して後に舞踊としたならば郷土芸術の価値あるものと思われるのであります。左(さ)にかも湖の煙火に題して
  空に輝く加茂湖の煙火(はなび)ダイヤモンドが宙に舞う 如童]
ぁ崋畦式貳漫廖淵Εキペディア)
1)七夕(たなばた)は、中国、日本、韓国、台湾、ベトナムなどにおける節供、節日の一つ。五節句の一つにも数えられる。旧暦では7月7日の夜のことで、日本ではお盆(旧暦7月15日前後)との関連がある年中行事であったが、明治改暦以降、お盆が新暦月遅れの8月15日前後を主に行われるようになったため関連性が薄れた。日本の七夕祭りは、新暦7月7日や月遅れの8月7日、あるいはそれらの前後の時期に開催されている。
2)日本の「たなばた」は、元来、中国での行事であった七夕が奈良時代に伝わり、元からあった日本の棚機津女(たなばたつめ)の伝説と合わさって生まれた。
 a、日本では、雑令によって7月7日が節日と定められ、相撲御覧(相撲節会)、七夕の詩賦、乞巧奠(きこうでん:七月七日に七針に糸を通す風習)などが奈良時代以来行われていた
 b、「たなばた」の語源は『古事記』でアメノワカヒコが死にアヂスキタカヒコネが来た折に詠まれた歌にある「淤登多那婆多」(弟棚機)又は『日本書紀』葦原中国平定の1書第1にある「乙登多奈婆多」また、お盆の精霊棚とその幡から棚幡という。
 ァ、また、『萬葉集』卷10春雜歌2080(「織女之 今夜相奈婆 如常 明日乎阻而 年者将長」)たなばたの今夜あひなばつねのごと明日をへだてて年は長けむ など七夕に纏わる歌が存在する。
 ィ、そのほか、牽牛織女の二星がそれぞれ耕作および蚕織をつかさどるため、それらにちなんだ種物(たなつもの)・機物(はたつもの)という語が「たなばた」の由来とする江戸期の文献もある。
3)日本での風習
 a、ほとんどの神事は「夜明けの晩」(7月7日午前1時頃)に行うことが常で、祭は7月6日の夜から7月7日の早朝の間に行われる。午前1時頃には天頂付近に主要な星が上り、天の川、牽牛星、織女星の三つが最も見頃になる時間帯でもある。
 b、全国的には短冊に願い事を書き葉竹に飾ることが一般的に行われている。
 ァ、短冊などを笹に飾る風習は、夏越の大祓に設置される茅の輪の両脇の笹竹に因んで江戸時代から始まったもので、日本以外では見られない。
 ィ、「たなばたさま」の楽曲にある五色の短冊の五色は、五行説にあてはめた五色で、緑・紅・黄・白・黒をいう。
 顱肪羚颪任聾淇Г涼産ではなく、五色の糸をつるす。さらに、上記乞巧奠は技芸の上達を祈る祭であるために、短冊に書いてご利益のある願い事は芸事であるとされる。
 髻砲盆や施餓鬼法要で用いる佛教の五色の施餓鬼幡からも短冊は影響を強く受けている。

 鵝縫汽肇ぅ發陵佞力で墨をすると習字が上達するといい、7枚のカジ(梶)の葉に歌を書いてたむける。
  a)藤原 俊成〔1114〜1204〕の歌に「たなばたのとわたるふねの梶の葉にいくあきかきつ露のたまづさ」とある。
  b)このようにして作られた笹を7月6日に飾り、さらに海岸地域では翌7日未明に海に流すことが一般的な風習。
  c)近年では飾り付けにプラスチック製の物を使用することがあり海に流すことは少なくなった。地区によっては川を跨ぐ橋の上に飾り付けを行っているところもある。
 c、七夕祭り
 ァ、1687年(貞享4年)刊行の藤田理兵衛の『江戸鹿子』(えどかのこ)に「七夕祭、江戸中子供、短冊七夕ニ奉ル」、喜多川守貞の『守貞謾稿』〔起稿:1837年〕に「七月七日、今夜を七夕という、今世、大坂ニテハ、…太鼓など打ちて終日遊ぶこと也。江戸ニテハ、…青竹ニ短冊色紙ヲ付ケ、高ク屋上ニ建ルコト。」とある。
 ィ、「現代の「七夕祭り」は、神事との関わりも薄れ、もっぱら、観光客や地元商店街等への集客を目当てとしたものとなっている。
 顱某斥舛篁骸屬覆匹魴り出す祭りと異なり、前日までに、笹飾りをはじめとした七夕飾りの設置を終えれば当日は人的な駆り出しも少なく、
 髻砲泙疹ε港阿猟鵡垉制も少ないため、商店街の機能を低下させることなく買物客を集められるという点で、商店街との親和性が高く、
 鵝棒鏝紊良興期以降、商業イベントとして東日本を中心に日本各地で開催されてきた。
 堯紡燭は昼間のイベントと、夕
方から夜にかけての花火という組み合わせが殆どで、伝統的あるいは神事としての七夕の風習に頓着せず行われている事が多い。
 )また、青森の「ねぶた」や〔弘前の〕「ねぷた」、秋田の「竿燈」などの「眠り流し行事」〔 睡魔を払う行事。主として七夕行事として、水浴をしたり、形代(かたしろ)などを模型船や灯籠・笹竹などにのせて川・海に送り流したりする。東北地方に盛ん(コトバンク)〕も七夕祭りが原型である。 」




歴史スポット94:1950年代両津子どもの遊び(32)遊び論考

 こんにちは!自在業の櫻井です。
1.はじめに
 これまで子どもの遊びについていろいろ記してきたが、データもそれなりに蓄積されたところで、「遊びとは何か」について、自分なりの考えをまとめてみることにする。
 もっとも、「遊びとは何か」を知らなくても子どもは遊んでおり、遊びを創り出しているのは事実。同じように「遊びとは何か」を知っている人がいるとしても、当人が遊びをして楽しんだり、遊びを創り出したりできるかとなるとそうはいくまい。
 テーマは、「遊びとは何か」で これを「遊び論考」という表題にした。
 「論考」というとオーストリア・ウィーン出身 言語哲学・分析哲学のウィトゲンシュタイン (1889〜1951)の『論理哲学論考』(独: Logisch-Philosophische Abhandlung、英: Tractatus Logico-philosophicus)出版1921年)という書名を思い出す。ウィキペディアに次のようにある。
 「全体は7章からなり、それぞれの章は、番号づけられた短い命題の集合で構成される。
 1、世界とは、起きている事全てのことである。(物ではなく、事実の総体であるとする)
 2、起きている事、つまり事実とは、幾つかの事態が成り立っていることである。(事態+成立=>事実)
 3、事実の論理上の像が、思想(思惟されているもの、思考対象、思想内容)である。(事実/思想がパラレル。事態と思想ではない)
 4、思想は、意義を持つ命題である。
 5、命題は要素命題の真理関数である。(要素は、自分自身の真理関数である。)
 6、真理関数一般は、と書ける。これは命題の一般形式である。
 7、語りえないことについては、沈黙するほかない。  」
 世界・宇宙のことを生成から生滅、さらにその後の未来に至るまで解き明かす真理関数があるらしく、発表当時イギリスの哲学者・数学者のバートランド・ラッセル(1872〜1970)が絶賛したというが、難しすぎるためか反論・否定する人は今だ現れていないようだ。
 なお、「遊び」については、それが論理的であろうと論理を超越しようと くれぐれも言語・観念の世界の中で遊んだだけで 不毛の論考とならないようにしたいものだ。
 まずは遊びについて 基本知識及び遊び論の代表的先人の見解から始める


2.遊び諸説
(1)ウィキペディアにある「遊び」概説
…蟲
1)「遊び(あそび)とは、知能を有する動物(ヒトを含む)が、生活的・生存上の実利の有無を問わず、心を満足させることを主たる目的として行うものである。基本的には、生命活動を維持するのに直接必要な食事・睡眠等や、自ら望んで行われない労働は含まない。類義語として遊戯(ゆうぎ)がある」
2)「遊びは、それを行う者に、充足感やストレスの解消、安らぎや高揚などといった様々な利益をもたらす。ただし、それに加わらない他者にとってその行動がどう作用するかは問わないのであり、たとえ他者への悪意に基づく行動であっても当人が遊びと認識するのであれば、当人に限ってそれは遊びとなる(むろん、他者はそれを容認しない)。」
◆嵳靴咫廚砲かわる語
1)和語「あそび」の語源に定説は無いが、大喪儀(たいそうぎ:天皇・皇后・太皇太后・皇太后の葬儀)の際などに殯(もがり:日本の古代に行われていた葬儀儀礼で、死者を本葬するまでのかなり長い期間、棺に遺体を仮安置し、別れを惜しみ、死者の霊魂を畏れ、かつ慰め、死者の復活を願いつつも遺体の腐敗・白骨化などの物理的変化を確認することにより、死者の最終的な「死」を確認すること)の神事に従事することを職とした品部である「遊部(あそびべ)」が古代に存在したことなどを論拠に、その本義を神道の神事に関わるものとする説がある(『世界大百科事典』 第二版)漢字の「遊」は、「辵」と「ゆれ動く」意と音とを示す「斿(ゆう)」によって構成され、「ゆっくり道を行く」意を持つと共に、「あそぶ」意をも表わしている
2)「遊
(ゆうぎ、wikt)は、第1義に、遊びたわむれること]。第2義には、子供たちが行う、音楽に合わせた踊りや運動」で、「ゆうぎ」と読むようになったのは明治時代以降であり、それ以前は「ゆげ」(ときに「ゆけ」)もしくは「ゆうげ」と読んでいた。さらに元を正すと遊戯(ゆげ、古くは「ゆけ〈遊化〉」)は仏教用語であり、いっさいの精神的束縛から脱した「自在の境地」に達していること、あるいは、その境地に至った人、すなわち仏や菩薩およびそれに近い修行者が自由自在にふるまうことを意味する。その意味においても、神道の神と交わることを原義とする和語「あそび」に由来する遊び(あそび)とは異なる
3)その他「遊」単語 
  遊山、春遊、遊覧、遊歴、漫遊、吟遊、外遊、遊学、遊興
 【他には、「遊行」(ゆぎょう)=僧侶が布教や修行のために各地を巡り歩くこと。空海、行基、空也、一遍などがその典型的な例(ウィキペディア)。幕末・吉田松陰の東北の旅日記の題名は、『東北遊日記』(2006年03月19日号「吉田松陰と佐渡(その1)」】
M靴咾犯達
1)遊びが人生に不可欠の資質を鍛錬する場でもあるということから、「子どもの仕事は遊ぶことである」といわれることが多いように、子どもの発達に特に重要な意味をもっている。
運動能力や知的能力を競うことでこれらの能力が発達していくと同時に闘争本能も磨かれる。その一方で「勝っておごらず、負けて悔やまず」というおおらかな人生態度も学ばなければならない。そしてまた、多くの遊びには大なり小なりのルールがあるので、ルールにしたがうフェアプレイの精神が培われ、ルールがあるからこそ社会が成り立っていることを知らなければならない。喧嘩にも作法があることを学ばなければならないのである。(森下伸也 『社会学がわかる事典』)
2)発達心理学においては、遊びの発達は社会性の発達と関わっていると報告されている。子どもの遊びの様態を観察した結果、 乳児期の遊びの始まりは探索行動と遊びの転換現象に見られる( 無籐隆 二宮克美、子安増生(編)「遊び」『キーワードコレクション 発達心理学』改訂版第3刷 新曜社 )。
 乳児は新奇なものを与えられると、はじめは警戒し、次におずおずと触り始め、叩いたり舐めたりし探索する。一通りの探索を終えて対象の正体に安心を覚えると、叩きつけて音を出すなど同じ行動繰り返すようになり、笑顔や笑い声を出すようになる。
3)子どもは「一人遊び」(solitary play)をするが、やがて同じ年頃の子どもと並んで、しかし関わり合わずに遊ぶ「平行遊び」(parallel play)〔複数の幼児が同じ場所で、同じ遊びをするも、互いに関わりを持たない状況〕見受けられるようになり、やがて他人と協働して行う「協力遊び」(cooperative play)へと移行することが確認されている。
 a、兄弟などで遊んでいると、上の子が遊んでいるときに下の子が乱入してきて上の子が怒る、といった場面が見受けられるが、下の子を入れてあげられるようになるためにはある程度自分の遊びが確立していなければならない。
 b、また、プレイルームでの観察によると、3
歳児など年齢が低い場合、いろいろな遊びをつまみ食いするようにして室内を移動していくが、年齢が上がって4,5歳になると、いくつかの遊びに腰をすえて取り組んでいけるようになる。幼児の注意持続時間も年齢とともに上がっていくので、一見移り気な3歳児の行動は年齢相応の注意や興味の持続とも関係があると思われる。
4)幼児のごっこ遊びごっこ遊びは、ふり(pretending)とごっこ遊び(make believe)に分けられる。
 a、ふりは、ふり行動(pretend behavior)とも呼ばれるが、日本ではみたて(見立て)といわれる。Aを「B」と見なすためである。小石を「あめ玉」と見立てて遊んだり、コップに泥水を入れて「ジュース」と呼ぶような行動がそれである。物を物としてしか扱えない感覚運動期(乳児期)から、物を別の物として扱える表象(representation)の時期に入ったことを示している(ピアジェ 1976『遊びの心理学』黎明書房)。
 b、3歳以降にはふり行動に物語性が加わり、ごっこ遊びらしくなってくる(前掲」『キーワードコレクション 発達心理学』)。また、以前には親の促しや代弁によって成り立っていたふり行動が、主として子どもの力で展開するようになるのもこの時期からである。
5)幼児の行うルール遊び
 子どもの遊びにはさまざまなものがあるが、ここではルールが明確な鬼ごっこについて記述。
 a、1-2歳児が行うルールのある遊び
 ァ、1対1の鬼ごっこが基本。ルールは、鬼が逃げる子を追いかけて捕まえるという遊び。保護者や保育士といった大人が子どもを追いかけて、捕まえることが多い。繰り返して遊び、ルールの上では終わりがない。疲れるか、飽きるまで行われる。
 ィ、子ども同士で遊ぶ場合、目印が必要なこともある。目印の例として、タオルをズボンにはさんでしっぽにするなどがある。しっぽをとられたら終わりなので、しっぽ鬼と呼ばれることもある。鬼の面をつけることも役割を意識させる上で有効。逃げる子には、誰が鬼かわかるため逃げやすい。また、鬼(鬼の役割)ができなくて、子といっしょに逃げてしまう子どもやみんなが自分から逃げるから泣いてしまう子どもにとって、面をつけることで鬼意識(役割意識)を持つ手助けとなる。大人は、鬼のしぐさをしたり、「ガオー」という声をつけて鬼であることを示す必要がある。この年齢の子どもは、目印がないと役割(鬼、子)を維持できない。また、鬼につかまると本当に泣いてしまったり、逆に鬼に殴りかかったりする子どももいる。役割(ごっこ)の要素が強く、タッチされるだけで鬼と子の役割を交代するのはまだ難しい。
 b、3歳ごろからのルール遊び
  鬼が子を捕まえる点は変わらないが、逃げる子は3−10人になる。集団遊びと言われるようになる。鬼の数が増えたり(手つなぎ鬼)、捕まると除外されたり(ため鬼)、捕まった子どもを助けるルールが追加される(助け鬼)などの発展をする。
人間以外の動物の遊び
)遊び行動は、高度な知能を具えた動物において、成長途上にある個体に多く見られるほか、成熟個体にも少なからず見られるものである。 これは、動物が生きてゆく上で必要な身体能力(筋力・心肺能力〈持久力〉・運動能力等を意味する体力免疫力等を意味する基礎的体力)・知識経験などを、おのずから習得する、あるいは鍛錬するために具わった性質と考えられる。
 a、動物は遊びのなかで
狩りコミュニケーションの方法を学んでゆく。ヒトは成熟後も遊びを行なうのが一般的である一方、ヒト以外の動物は成熟するとあまり遊ばなくなると言われてきたが、必ずしも研究者はそのようには捉えていない。また、家畜化およびペット化された動物、特にイヌネコなどは、成熟後も遊びたがる傾向があるように見える。
 b、野生動物でも、遊び行動は哺乳類鳥類に広く見られ、成熟した個体であってもそれが見られる。
 c、哺乳類の中でも
霊長類はよく遊び、霊長類の中でも類人猿はよく遊ぶ。哺乳類では他に、クジラはよく遊び、クジラの中でもハクジラ類がよく遊ぶが、ハクジラ類の中でもイルカの遊び行動は観察機会が多いこともあってか一般にまで広く知られている。現生ゾウ目(長鼻目)のゾウ2(ロクソドンタ属〈アフリカゾウ属〉とエレファス属〈アジアゾウ属〉)もよく遊ぶ。また、デグーのような一部の齧歯類でも「物体遊びである可能性がある行動」が確かめられている。
2)霊長類の遊び(早木仁成「霊長類の遊びと人類の進化」(公式ウェブサイト ))
 a、霊長類(霊長目、サル目)の遊びは、その形態的特徴から、「運動遊び (locomotor play, locomotor-rotational play, exercise play)」、「物体遊び (object play)」、激しく取っ組み合う「闘争遊び (play-fighting, rough and tumble play)」、ごっこ遊びに代表される「想像的な遊び (pretend play, fantasy play, imaginative play, symbolic play)」等に大別でき))、他にも、未成熟個体による擬似性行動や子守り行動を遊びと見なす研究者もいる。
 b、他者と遊ぶにあたって、掴む、叩く、突き放す、蹴る、咬む、追う、逃げるなどといった闘争時にこそ執ることの多い行動に及ぶ際は、「本気ではない」旨を確実に伝えておくことが必要不可欠であり、このような遊びのためのシグナル(プレイシグナル、プレイマーカー)として、最も明瞭なものに、遊び顔、遊び声、および、遊びたいとき以外で使われることのない特別な行動がある。
2)鳥類の遊び(森川, 愛. ““動物の心”に関する研究 (PDF)”.(ウェブサイト)
 鳥類では、オウム目はよく遊ぶことで知られている。スズメ目に属する数科もよく遊ぶが、中でもカラス科はよく遊び、カラス科の中でもカラス属はよく遊ぶことで知られている。」
(2)ヨハン・ホイジンガ(オランダの歴史家:1872〜1945)の遊び論
 (『ホモ・ルーデンス〔遊ぶ人〕』−文化のもつ遊びの要素についてのある定義づけの試み〔1938年〕:ホイジンガ/著・里見元一郎/訳)。講談社学術文庫)
〔楴
  第01章:文化現象としての遊びの性格と意味
 これまでの遊びの定義の不完全性、文化要素としての遊び、独立独歩の範疇としての遊び、遊びの形式的特徴、遊びの規則、遊びのもつ特別な世界、戦いと演技としての遊び、遊びと祭礼、遊びの中の聖なる真面目さ、祭りの本質、信仰と遊び、遊びと密儀式
  第02章:言語における遊びの概念とその表現
 ギリシャ語における遊びの表わし方、サンスクリット語における遊びの表わし方、中国語における遊びの表わし方、北米先住民語における遊びの表わし方、日本語における遊びの表わし方、セム語における遊びの表わし方、ロマン語における遊びの表わし方、ゲルマン諸言語における遊びの表わし方、遊びと戦い、音楽的意味をもった遊び、愛欲的意味をもった遊び、真面目という言葉と概念
  第03章:文化を創造する機能としての遊びと競い合い
 遊びとしての文化、遊びの対立的性格、競技は遊びである、勝つこと、賞・儲けもの・利益、原始的古代社会の対立構造、古代中国の季節の祭り、他の諸国における闘技的遊び、さいころ遊びの神聖な意義、ポトラッチ、ポトラッチの社会学的基礎、クラ、遊びにおける名誉と徳、悪口トーナメント、文化要素としての闘技的原理
  第04章:遊びと裁判
   (小項目は略。以下同じ)
  第05章:遊びと戦争
  第06章:遊びと知識
  第07章:遊びと詩
  第08章:形象化の機能
  第09章:哲学のもつ遊びの形式
  第10章:芸術のもつ遊びの形式
  第11章:「遊びの相の下に」立つ文明と時代
  第12章:現代文化のもつ遊びの要素
⇒彭
1)遊びは文化より古い。・・・子犬のじゃれて遊ぶのを見れば、その喜び勇んだつかみ合いの中に、すべての遊びの特徴がまさしく認められる。彼らは互いに儀式的な態度や身振りのようなことをして遊びに誘い合う。仲間の耳を本気で噛むべからずという規則もちゃんと心得ている。彼らはまるで恐ろしく怒っているかのようにふるまって見せる。そして、なにはさしおいても、かれらはこれによって無上の喜び、あるいは感激を味わっている。・・・さらに高度に発達した内容のものがある。観客を前にしての本当の勝負や、美しいショーなどがそれだ。
2)遊びは我々の意識にとっては真面目さに対立する。・・・笑いは確かに真面目に対立するが、しかし、これは決して無条件に遊びと結びつくものではない。子供たち、サッカーの選手たち、チェスの棋士たちはそれこそとことんまで真面目に遊ぶ。そして笑う気配などいささかも見られない。・・・笑いの純生理学的機能が決定的に人間だけのものであることは注目に値する。アリストテレス風に言えば、「笑う動物」(animal ridens)が「理性ある人間」(homo sapiens)よりいっそう明白に動物と対立する人間を特徴づけてくれる。
3)遊びはすべて、なによりもまず第一に自由な行為だ。命令された遊びは、もはや遊びではありえない。せいぜそれは遊びの義務的焼き直しにすぎない。・・・子供も動物もそれが楽しいから遊ぶのだ。そして、そこに自由がある。・・・かくてここに、遊びの第一の主要特徴がとらえられる。それは自由なものであり、自由そのものである
4)第二の特徴。遊びは「ありきたり」の生活でもなく、「本来の」生活でもない。そこから一歩踏み出して独自の性格をもった活動の仮構の世界に入るのが遊びだ。小さな子供でも、彼は「ただそのようにふるまっていうだけ」で、それは「ただふざけて」いることだと完全に知っている。
5)遊びはありきたりの生活からば場所と継続期間によって区別される。この閉ざされた性格、つまり場所的、時間的限定性に遊びの第三の特徴がある。遊びは開始され、あるきまった瞬間に「終わる」。「遊びを切り上げる」のだ。
6)もうひと一つ別の注目すべき特徴がある。遊びはそのまますぐに文化形成として定着する。一度遊びが行われるとそれは精神的創造物として、あるいはそれより後の追憶の宝として生き残り、絶えず繰り返される。・・・この繰り返されるということが遊びの本質的特徴の一つだ。
7)遊び場の中では独自の、絶対的秩序が支配する。ここに遊びについての新しい、より積極的な特徴が見られる。つまり遊びは秩序を創造する。遊び=秩序である。・・・ほんのちょっとした違反が遊びをだめにしてしまい、その特質を消し去り、つまらないものにしてしまう。・・・すべての遊びがそれぞれの規則をもっている。
8)遊びの例外性と特異性を元も最も鮮やかな形式で示すのは、遊びが好んでその周りに張り巡らす秘密主義だ。小さな子供ですら「小さな秘密」を作り出して遊びの魅力を高めている。・・・〔農耕神〕サトゥルヌスにちなんだ収穫祭〔古代ローマで盛大に行われる祭の1つだった。特に馬鹿騒ぎと社会的役割の入れ替えを特徴とし、奴隷とその主人がこの期間だけ表面上役割を入れ替えて振舞った〕、あるいは謝肉祭の風習に類することはすべてこれに類する。我々の母国(オランダ)でもたくましい個人道徳、きわだった身分的特権、そして優雅なお巡りさんが幅をきkきkあせていたその昔には、「学生のいたずら」の名の下に名門の子弟にサトゥルヌス風のどんちゃん騒ぎが認められていた。イギリスの大学ではこうしたことが「ストーム」として、そのまま形式化された。これはオクスフォード英語辞典によると「権威や風紀を無視して行われる、騒々しい無秩序な行為の大げさな誇示」であると説明されている。
9)より高級な遊びのもつ機能はその大部分が遊びを遊びたらしめる二つの基本的態度に還元される。遊びは何かのための戦いであり、さもなければ遊びは何かの演技である。
10)遊びと祭礼。祭礼はつまり演技であり、劇的表現であり、イメージの具体的展示であり、代理的行為による願望の実現である。季節ごとに巡ってくる聖なる祭りになると、共同体は自然の営みの偉大な現象を神聖な所作事に仕組んで祝うのである。それは季節の移り変わりを現わし、また星座の上がり下がり、作物の生長と実り、人間や動物のの誕生、生と死などの概念を形象化して演ずるものであった。
 レオ・フロベニウス(1873〜1938。ドイツの民族学者。アフリカを調査し、民族形態学を説いた)が述べているように(『アフリカ文化史ー歴史的形態論序説』、『文明化の意味での運命論』)、人間は自然の秩序を彼らの意識にとらえたままの姿で、演じて遊んでいる。・・・フロベニウスは遊びという言葉を祭式上演の活動について繰り返し用いているが、しかしその時遊びが何を意味するかについては詳しく追及していない。
11)各国語における遊びの表わし方〔以下は、抜粋〕
 a、ギリシャ語
 ァ、ギリシャでは子供の遊びに「インダ」(inda)という語尾をつける。ギリシャの子供は鞠遊び(spairinda)、綱引き遊び(helkustinda)、投げ合いごっこp(streptinda)、王様ごっこ(basilinda)をして遊ぶ。
  ィ、遊びの世界を示す言葉としてギリシャ語〔ここでは同語は略〕は少なくとも3つの違った言葉を用いている。
  顱「パイディアー(paidiā)」:「子供らしさ(paidia)」 
  髻「アテュルマ(atyurma)」」:「遊び(athuro)」「玩具(atyurma)」の意があるが、つまらないこと重要でないこと、といったニュアンスを帯びている。 
  鵝「アゴーン(agon)」:「戦い」「競技」「闘技
  ゥ、ギリシャ人にとっては、はなはだ重要な領域のすべてを闘技(アゴーン)という言葉が支配している。
 b、サンスクリット語
 ァ、〔古代インド〕ここでも遊びの概念はさまざまな術後に分かれて表現される。サンスクリット語は少なくとも4つの語根を並行して用いている。
 ィ、内容
  顱法屮リーダティ」:子供、大人、そして動物の遊びを表わす。跳んだり、はねたり、踊ったり。
  髻法屮妊ヴィヤティ」:第一義てきには賭けごとを意味するが、また一般的な遊び、冗談、ふざけること、茶化すことなどをも意味する。
  鵝法屮薀后廖Цを放つこと、突如として現れること、急に鳴り出すこと、たゆとう動き、遊び、一般的には「忙しい」こと・・・などをひっくるめて表現する。
  堯法屮蝓璽蕁次lira):元の意味ではおそらくあちこち振れること、揺られることを表わすのだが、特に遊びの中の軽やかさ、明るさ、楽しさ、苦労のなさ、はかなさを表わしている。
【サンスクリット語「リーラー」の解説に接し、フランスの作曲家メシアン(1908〜1992)が1946年から48年にかけて作曲した『トランガリラ交響曲(トランガリーラとも呼ぶ)』の「リーラー」と関係すると直感〔1970年札幌の名曲喫茶で聴いて衝撃を受け、たまたま京都の大学生協でレコードを見つけプレーヤーがないにも拘らず2枚入り4,000円で購入(現在は税込10,800円)。指揮:小澤征爾、トロント交響楽団。3面が同曲、1面は武満徹の『ノベンバーステップス』。そのレコードは、5年余り前使うことないから近くの大音響・防音装置のある店へ寄贈。
 レコード・ジャケットに作曲者自身による説明文が記されていたが、ウィキペディアには次のようにあった。
 「メシアンによれば、この曲の題名である「トゥーランガリラ Turangalila」は、2つのサンスクリット(梵語)“Turaṅga”と“Līlā”に由来しており、これらの言葉は古代東洋言語の多くの例に漏れず、非常に幅広い意味を有し、“Turaṅga”は「時」「時間」「天候」「楽章」「リズム」など、“Līlā”には「遊戯」「競技」「作用」「演奏」あるいは「愛」「恋」「恋愛」などといった意味があるとしており、この二語からなる造語“Turaṅga-Līlā”には「愛の歌」や「喜びの聖歌」、「時間」、「運動」、「リズム」、「生命」、「死」などの意味があるとされる。また13世紀の理論家の命名による、インド芸術音楽の120種のリズムパターンのうちの33番目のものの名でもあり、加えて女性の名としても存在する言葉であるともいう。なお正しくは「トゥランガリーラー」と発音するのがより原語に近いといわれる。」
 c、中国語
 ァ、遊びの概念の中でもっとも目立つ言葉は「玩」(wan)であり、子供の遊びという意味を濃くもっている。そしてその含む意味の範囲は、何かに従事すする、何かを楽しむ、もてあそぶ、ふざける、わいわい騒ぐ、からかうにまで及んでいる。
 ィ、何でも競争に関係することについては「争」という言葉が当てられる。「賽」という言葉は特定の賞金をかけた組織的な競技に使われる。
 d、日本語
 ァ、名詞の「遊び」、動詞の「遊ぶ」は一般的な遊び、緊張をとくこと、娯楽、気晴らし、物見遊山、休養、遊蕩、賭博、無為、怠けること、仕事につかないこと、などを意味する。またそれは何かを演じたり、何かに扮したり、物真似したりするのにも使われる。
 ィ、注目すべきは回転体やその他の道具の限られた範囲内での自由な動きを「遊び」と呼ぶことだ。これは全くオランダ語のspeling 、あるいは英語のplayの場合と同じだ。
 ゥ、また面白いことに、遊ぶは遊学の意味で「誰々の下に遊ぶ」、「どこどこに遊ぶ」と使われる点でラテン語のludusが学校の意味もあったことを思い出させる。
 ェ、日本の武士道はまさしく遊びの世界の中に滑り込み、遊びの遊びの 形式で行われる。日本はこの発想を「遊ばせ言葉」、つまり身分の高い人に向かって使う雅〔みやび〕な敬語の中に残している。「あなたは東京に着く」を敬語で言えば、文字通りに「あなた様は東京にお着き遊ばされます」となる。また、「あなたのお父様が亡くなられたと聞きました」に対して敬語では、「あなた様のお父上がお亡くなり遊ばされたとうけたまわりました」となる。このような言い方は私の見るところではオランダ語やドイツ語の・・・という言い方に似ている。
 ォ、日本語では真面目つまり遊びでないことは、実に率直な概念をもっている。真面目という単語に含まれる意味は、真摯、律儀、品位、厳粛、そしてさらそしてさらに、平静、正直、端正にまで及ぶ。それは有名な中国語の言いまわし、「面子を失う」の中の「面」とも関係がある。・・・さらにお応用されて、「重大なことだ」とか「冗談ではなくて」とかに用いられ、「彼は冗談を真面目に受け取った」になる。
 e、ゲルマン語
 【ゴート語、スカンディナヴィア諸言語、ドイツ語、オランダ語、英語、古代英語、アングロサクソン語、古代フランス語等について触れているが、記述が総花・分散・飛躍で説明なく、意味不明。例を示せば次のとおり。
 「遊ぶという観念は明らかに我々の精神の中で―たとえフランス語のJouerでも、英語のplayでも、ドイツ語およびオランダ語の spielen,spelenと同じように妥当するのだが―一般的なある種の動作の概念へとしだいに弱まってゆく傾向にある。そしてその動作は厳密な意味での遊びのさまざまな特性の中の一つを共有するに過ぎない。たとえば、軽快さ、適度の緊張と不確定性、交代制、自由選択性などがそれだ。遊びが常にある限定された運動の自由を意味するするために使われることは、すでに述べたとおりである。グルデン貨の平価切下げに際して、オランダ銀行頭取は、別に詩的なつもりでも、味なことを言うつもりでも全くなくて、「金本位制に残された余地がこんなにこんなに少なくなっては、金本位制も遊んでいられない」、と語った。「自由にふるまう」(vij spel hebben、独freiles spiel haben)、「何かを仕上げる」(iets klaar spelen、独etwas im spiel)、「そこに何かが行われている」(er is jets in het spel、独es ist etwas im  spiel),といった言いまわしはすべて、遊びの概念が漠たるものになり色あせてきたことを実証している。これは、遊びの概念を本来の遊びの行為以外の別の観念に意識的に移しかえること、つまり詩的態度の問題というより、むしろ、その概念自らがあたかも無意識の反語に化けてしまうという問題なのだ。・・・〔以下結論らしきものなし〕」
12)集団的遊びはその大半が対立的性格を帯びている。競技は遊びである。遊びと最も密接に結びついているのが勝つという概念である。一人でする遊びの場合には、遊びが完了しても勝ちはない。人は何かを「目標にして」戦ったり、遊んだりする。勝利にはそれを楽しむ様々な方法(例:凱旋パレード、名誉、金品)が組み合わされている。遊びは賭けられた金品をともなうのだ。
13)法と遊びを関連させる可能性は、法の実施面、つまり訴訟の面に眼をやって競争的性格がふんだんに固有のものとして備わっていることに着目すれば、たちまち了解される。・・・ギリシャ人の間では裁判ざたになる原告被告の争いはアゴーン(闘技)、つまり確たる規則に縛られた闘争とみなされ、その時、相分かれて戦う両派は聖なる形式にのっとって調停人の判決を乞い求める。・・・判決が下される場所はどこも真の「聖域」であり、日常の世界から切り離され」、仕切られている。人々は訴訟(オランダ語の訴訟vierschaarは4つのロープ、もしくは4つのベンチの意)の場に綱を張り、次いで魔よけのお祓いをする。法廷はまさしく正真正銘の魔力の地場であり、遊び場である。訴訟はしばしば対抗競争あるいは賭けの形をとる一種の競争である。「賭け」という遊び言葉がくりかえし我々の考察の対象となって全面に現れてくる。
 ・・・競争は神のお告げ、賭け、訴訟、誓約、謎かけの形をとることもできる。これらすべての場合、競争は本質的に遊びであり、この遊びの性格の中にこそ、文化に対する遊びの機能を理解しうる出発点がある。
14)戦いと遊びの2つの概念は事実上しばしば一体をなしていると思われる。中世の馬上槍試合は疑いもなく模擬戦、つまり遊びであり、それにとどまった。しかし、その最も初期の頃の姿では完全かつ明瞭に「真剣勝負」であって、死ぬまで戦い抜かねばならなかった。 
【以下、第04章から最終章第12章まで「遊び」の付いた小項目名:
 社会的遊びとしての謎かけ問答、謎かけ遊びと哲学、詩作は遊びに始まる、文化の遊びの局面としての神話、詩人の詩は遊びの言葉、遊びとしての劇、音楽と遊び、舞踊は純粋な遊びだ、詩歌女神の芸術・造形芸術・そして遊び、古代以後の諸文化における遊びの要素、ローマ文化における遊びの要素、ルネサンス文化の遊びの要素、バロックの遊びの内容、ロココの遊びの要素、浪漫主義のもつ遊びの要素、スポーツは遊びの領域を去ってゆく、スポーツとしての非体育的遊び、近代職業生活における遊びに類するもの、政治の遊びの内容、国際政治における遊びに類するもの、遊びの要素の不可欠性について。】
15)【「遊びの要素の不可欠性について」の最終文章】
 「遊び=真面目の概念の永遠的堂々めぐりの中で精神の目眩(めまい)を覚える人は、論理的なものの中に見失った支えを倫理的なものの中に再発見する。遊びそのものは道徳的規範の領域の外にあると、我々は最初に述べておいた。遊びそのものは善くも悪くもないのだ。しかし、人が今自らの意志に駆り立てられて行う行為は、いったい真面目な事と定められているのか、あるいは遊びとして許されているのかという決定を迫られうなら、彼に判断の基準を提供するのは他ならぬ彼の道徳的良心だ。行為への決定に際して、真実と正義、慈悲と赦しについての感情が働くようだと、たちまたちまちこの問題は無意味なものになってしまう。一粒の同情の涙が考える精神の識別力をはるかに越えた高みみへと我々の行動を持ち上げていく。正義と恩寵の認識の上に基礎を置く道徳的意識の中では、遊びか真面目かというう最後まで解ききがたいままの問題は沈黙を守るにしくはないのである。」
 【偶然かどうか、冒頭に紹介した『論理哲学論考』と同様最終文は「語りえないことは沈黙するしかない」意となっている】
(3)ロジェ・カイヨウ(フランスの文芸批評家・社会学者・哲学者:1913〜1978)の遊び論
 (『遊びと人間』(ロジェ・カイヨウ著。多田道太郎・塚崎幹夫訳。発行:講談社)
〔楴
 序論
 第1部 
  1、定義 
  2、分類  
   基本的範疇、喧騒から規則へ 
  3、遊びの社会性 
  4、遊びの堕落 
  5、遊びを出発点とする社会学のために
 第2部 
  6、遊びの拡大理論  
   あり得ない組合せ、偶発的な組合せ、根源的な組合せ 
  7、模倣と眩暈  
   遊びと文化との相互依存、仮面と失神 
  8、競争と偶然  
   変遷、能力と運、代理 
  9、現代社会への再湧出  
   仮面と制服、縁日、サーカス、空中サーカス、人真似し茶化す神々
 補論 
  1、偶然の遊びの重要性 
  2、教育学から数学まで  
   教育心理学的分析、数学的分析 
  3、遊びと聖なるもの  
⇒彭
1)「遊び」の基本的定義
 a、自由な活動。すなわち、遊戯が強制されないこと。むしろ強制されれば、遊びはたちまち魅力的な愉快な楽しみという性質を失ってしまう。
 b、隔離された活動。すなわち、あらかじめ決められた明確な空間と時間の範囲内に制限されていること。
 c、未確定な活動。すなわち、ゲーム展開が決定されていたり、先に結果が分かっていたりしてはならない。創意の工夫があるのだから、ある種の自由がかならず遊戯者の側に残されていなくてはならない。
 ⅾ)非生産的活動。すなわち、財産も富も、いかなる種類の新要素も作り出さないこと。遊戯者間での所有権の移動をのぞいて、勝負開始時と同じ状態に帰着する。
 e)規則のある活動。すなわち、約束ごとに従う活動。この約束ごとは通常法規を停止し、一時的に新しい法を確立する。そしてこの法だけが通用する。
 f)虚構の活動。すなわち、日常生活と対比した場合、二次的な現実、または明白に非現実であるという特殊な意識を伴っていること。
2)遊びの分類
                    遊びの分類
        アゴン      アレア        ミミクリ       イリンクス
        (競争)      (運)        (模擬)        (眩暈)     
パイディア:競走・取っ組み 鬼を決めるじゃん 子供の物真似 子どもの
(遊戯)   あいなど   けん・裏か表か遊び  空想の遊び   「ぐるぐるまい」
        (規則なし)                     
騒ぎ    :           賭け      人形・玩具の武具 メリーゴーランド
はしゃぎ :運動競技     ルーレット      仮面        ブランコ
ばか笑い :                       仮想服      ワルツ
凧あげ
穴送り
 ゲーム  :ボクシング・玉突き                     ヴィラドレス
トランプの                                  縁日の乗物機械
 一人占い : フェンシング  単式富くじ  
         ・チェッカー     
クロスワード:サッカー・チェス  複式 〃     演劇        登山
ルドゥス  :スポーツ競技   繰越式〃
(競技)    全般
 (注)縦の各欄の遊びの配列は、上から下へパイディア(遊戯)の要素が減少し、ルドゥス(競技)の要素が増加していくおおよその順序に従っている。
3)遊びの社会性と遊びの堕落
 a、遊びは単に個人的な娯楽ではない。個人的な娯楽というのは、おそらく人の想像するよりははるかに少ない。・・・とりわけ技の遊びの中には多く存在する。・・・競争者も観客もいなければ、人はすぐこれらの遊びに飽いてしまう。潜在的にせよ、観客が必要なのだ。・・・自分だけの記録にせよ、容易に他の追随を許さぬ記録を達成して誇りとしたいと思っているのだ。概して言えば、皆がけん玉に熱中している時に、独楽〔こま〕を持っていてもまず楽しくないだろうし、凧の好きな者は輪回し遊びに没頭しているグループの中では楽しくなかろう。・・・孤独な楽しみから競争の、いや見世物の楽しみにさえ変わっていく。・・・このように、遊びの基本的な範疇は、それぞれ社会化された側面をもっている。
 【著者は、「1人遊び」を知らない。そのため無理に社会性と結びつけようとして己の偏った主観を押し付けているのがわかる。以下本書を一覧するに、前掲の著者と同様 遊びの観察による分析でなく語源をはじめ言葉の分析や語同士を関連づける遊びで、そういう事に時間を費やしておられないのが事実。真実は、意味不明や反論したい部分が余りに多過ぎることにある。なお、表は後々の参考に記しておく】
 b、遊びの原理の堕落はすべて、不安定であいまいな約束事の放棄にほかならない。これらの約束事を不定するのは、つねに有利かどうかは別として、つねに人の自由なのである。しかし困難はあっても、約束事をとりいれていくことが文明の進路をひらくことなのだ。遊びの原理はまさしく強力な本能(競争、幸運の追及、模倣、眩暈)に応じたものである。 
 【「遊びの堕落」という概念があれば、「「遊び論」の堕落」という概念があってよい。それは「遊び」に関心なく観察もせず、ただ「遊び」の語源・概念には関心を持ち、あれこれ定義・規定することにはまっている状況を言う】
          「遊び文化例」と「遊びの堕落」表
    〔書籍に「表」とあるだけで題名が無く、代わりに付けた〕
      社会機構の外縁に 社会生活に組込ま     堕    落
      ある文化的形式  れている制度的形態
アゴン  :スポーツ      企業間の競争
(競争)               試験、コンクール   暴力、権力意志、術策  
アレア  :富くじ、カジノ  
(運)    競馬場        株式投機        迷信、占星術など
       私設賭博           
ミミクリ  :カーニバル     
(模擬)   演劇       制服、礼儀作法、儀式、 狂気(疎外)、二重人格
                  表現に携わる職業
イリンクス:登山
(眩暈)  スキー、空中サーカス 眩暈の統禦を    アルコール中毒、麻薬
       スピードの陶酔     見せる職業 

3.私論
〕靴咾蓮当事者が楽しむためにする活動である。
1)遊びは特に小さい子どもの成長に不可欠で、学ぶより先にある。「遊びは子どもの仕事」と言われるゆえんはそこにある。
 a、乳幼児でも、 
  ァ、小さく柔らかボールを見れば興味を示し、触ったり・握ったり・投げたり・箱に入れたりする。
  ィ、積み木を見れば、横に繋げたり・縦に積み上げたり・門のようなものを築いたり・三角形の積み木で屋根を作ったり、さらにそれを大きくしたりする。
  ゥ、飛び出す絵本を開くといろいろな動物が出てくるのに興味を持ち、まだ隠れている動物はないかと探す。
 (以上は、私の孫に成育段階に応じ 一人遊びできるように買った玩具である)
 b、興味ある物に近づく・触る・掴む・握る等々は、人間の本能的行為。
  乳幼児のそれらの行為は、当人からすれば目の前の相手・対象物に関心を向けた行為であるが、大人から見れば「遊んでいる」となる。弄(いじ)っておれば、関心を持ち続けている・関心を深めていることを意味し、飽きれば行為(遊び)を止める。
 c、やがては、一連の行為=遊びを指定し、最初は親、後には園の先生、そして園の仲間に求めるようになる。空腹やのどの渇きを満たすためでもお金を必要とするためでもなく、楽しむためである。
2)遊びは楽しむためにあるものだが、ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』とカイヨウの『遊びと人間』からは、「楽しむためにある」とわかりきった記述が見当たらない。以下は、一例。
 a、ホイジンガ
  ァ、「(「これまでの遊びの定義の不完全性」より)彼らは遊びの深い美的特性にまずもって注意を注ぐことをせずに経験科学的判定基準をもって直接遊びに立ち向かっている。実際には遊びの根本的特性は一般になんら明確に示されたことがない。これまでに与えられた個々の説明に対して次のような質問が発せられてしかるべきだ。よろしい。なぜ赤ん坊は嬉しがって声を立てて笑うのだろう。どうして遊ぶ人はその情熱に取りつかれて我を忘れるのか。どうして競技が数千の頑固bな大衆を狂気にまでかり立てるのか。この遊びの迫力は生物学的分析をもってしては決して解明されない。ところが実はこの迫力の中に、狂気にかり立てる力の中に、遊びの本質が、つまり遊びを遊びたらしめるものが、潜んでいる。論理的知性に言わしめれば、次のようになるだろう。自然はその子たるもろびとに、過剰エネルギーの放出、緊張のあとの緩和、生活の要求についての下稽古、満たされない望みの穴埋めといったすべての有用な機能を実にうまく、しかも単なる機械的訓練あるいは反応の形で与えることができた、と。 ところがそうではない。自然は我々に遊びを、その緊張感と喜びと「おもしろさ」と一緒に与えてくれたのだ」
 ィ、「遊びの存在は常に、しかも最高の意義において、この宇宙に住む我々の立場が超論理的性格をもつことを証明している。動物は遊ぶことができる。だから、彼らはすでにその点で単なる機械仕掛け以上のものである。我々は遊び、かつ遊ぶことを知っている。だから、我々は単なる理性的存在より以上のものである。なぜなら、遊びは非理性的な」ものであるから
  〔上記文は、前掲「第1章:文化現象としての遊びの性格と意味」の「これまでの遊びの定義の不完全性」最終文〕
 【「遊びの本質」について語っているようだが、「遊びは何のためか」について一言も語っていない】
 b、カイヨウ
 ァ、第1部1定義に「基本的な定義」として6つの活動〔1)自由な活動、2)隔離された活動、 3)未確定の活動、4)非生産的活動、5)規則のある活動、6)虚構の活動〕が提示されている。
 ィ、だが、遊びは「楽しむためにある」という自明で重要かつ本質的な事柄が明記されていない。
⇒靴咾砲蓮規則がある。
1)ホイジンガ:「すべての遊びがそれぞれの規則をもっている。それは遊びの作り上げる仮の世界で通用すべきものとして定められている。遊びの規則は絶対的強制力をもち、疑いをさしはさむ余地はない・・・遊んでいて規則に反対したり、守らなかったりする人は、「遊びの協定破り」(遊びの破壊者)である」
2)カイヨウ:「規則を持たぬ遊びも多い。人形ごっこ、兵隊ごっこ、警官ごっこや泥棒ごっこ、馬ごっこ、・・・。一般に自由な思いつきを前提とする遊びには、規則は―少なくとも一定の厳格な規則は存在しない」
3)上記遊びの規則について 両者に欠落していることは、
 a、規則が遊びを規律あるものにするためだけでなく、次の仕組み・機能が根柢に働いていること。
  ァ、遊びをより面白くさせ、
  ィ、より多くの人を魅了し、
  ゥ、より多くの人が参加でき、
  ェ、繰り返しでも飽きることなく永続きさせる
 b、規則と一概に言えども、地域・地区で異なること。
  例えば、両津の子どもの遊びに示したように、近隣でも夷と湊でもやり 方に微妙な違いがある。そこを究めないと、本質究明とはなりえない。ところが、遊びの地域特性について両者無頓着。 
4)「遊び学」の立場からは、「遊びには規則がある」程度の内容・規定に満足できるはずない。
 上記で挙げたァ〜ェの4つの仕組みの例をラムダムに記すと、次のとおり。
 a、じゃんけんで順番(先攻・分け前等含む)・役割・勝敗決め(一般には同点の場合)
  例:サザエ・アワビ採り。7〜8人で採りに出掛け、それぞれが採ったものをバケツに入れ、それを小さい物から順に並べ、ジャンケンで取る順番を決め、勝った者から先に取っていった(
 b、技能や知識を有する者へのハンディ負荷(例:将棋の駒落ち)
 c、役割は不変でなく交替・復帰(例:鬼ごっこの鬼と子) 
 d、運悪く「ババを引く」(例:トランプのババ抜き) 
 e、ゴール・勝利目前の落とし穴(例:双六‐18年03月19号「(炬燵(こたつ)での遊び」)  
 f、遊び歌を歌いながら縄跳び・手合わせ・お手玉・じゃんけん等の遊び。(
 g、逃げる側の子が捕まえる側の鬼に居場所のヒントを与える。(例「追跡」:(逃げ隠れる範囲が1〜数町内と広い範囲の2組に分かれての一種の鬼ごっこ兼かくれんぼ)夷の場合子の組が逃げ隠れの場所を要所要所にチョークで矢印を書き、鬼がそれを手掛かりに探し出せるようにしてスリルを楽しむ。一方、追う鬼の方も捜し出すヒントが必ずあることで次々に見つけ解き明かしていく楽しみがある。(2017年07月18日号「北 治之氏語る」)
B燭の遊びには、競争が付き物である。但し、近年は娯楽が中心で遊びが少なく、よって競争も少なくなっていると推察できる。
1)競争は、広くは種の維持、人の場合は例えば文明の発展・個人の豊かさの実現にとり必要である。子どもの遊びにおいても、競争要素があるからこそ楽しさ・面白さが増し、それが子どもの成長を促す。
2)遊びにおける競争の特徴は、
 a、一人遊びでも、競争の要素はある。 
  例えば、縄跳び。連続して何回跳べたか自分の過去の最高記録を更新することで自分との競争である。競争があるから、楽しめ飽きずに続けられる。
 b、勝つか負けるかは、必ずしも年齢・経験・体力で決まるとは限らず、土壇場での逆転などの偶然性がある。
 c、勝った負けたで当人の生活に直接影響は及ぼすものでない。もし、そうであれば遊びからは逸脱。
 d、競争結果は、私的な記録には残しても、公的記録には残らない。楽しんでお仕舞い。スポーツ競技とは異なる。
ね靴咾蓮非生産的活動とは言えず、むしろ創造的活動としての面を持つ。
1)カイヨウは、遊びを「非生産的活動。すなわち、財産も富も、いかなる種類の新要素も作り出さないこと。遊戯者間での所有権の移動をのぞいて、勝負開始時と同じ状態に帰着する」と記し、遊びの持つ生産的活動・創造的活動の重要面を見落としている。次の例に記すとおり。
 【以下の遊びについて、
 a、子どもの魚釣り・貝採り・山菜採りは、生産的活動である。
 ァ、魚釣りの具体例は、海岸に干してあるスルメイカを例としてはいただけないが失敬して、足を餌にして「ガスナゲ」という魚を釣り竿も釣り糸もいらずに垂らすだけで喰らいつくのでそのまま上げば捕ることができた。それを海岸で焼いたり、気の利いた子は家から鍋を持ってきて煮て食べた。海の塩水を使っているから、調味料不要。
 (
 ィ、貝採りの具体例は、両津橋の下を流れる境川でのアサリ採り。時期になると子どもが採るアサリを買いに来る業者がいた。子ともたちを売ったお金を積み立てておいて、野球チームのユニフォーム新調したこともある。
 売ったお金を個々に分配して消費に使ったのでなく、遊びの資産を残したという点がミソ。それでも非生産的活動と言うのかということになる。
 (

 ゥ、山菜採りの具体例は、町内の子ども仲間同士が時期になれば農村へ行って、草餅用のヨモギ、笹団子にする笹、ワラビ、ゼンマイ、ウドなどを採って来た。
 (歴史スポット67:1950年代両津子どもの遊び(04)山田昭夫氏語る」))
 b、凧づくり・紙飛行機・プロペラ舟づくり・椎の実鉄砲つくり・紙でつくったチャンバラごっこの刀などは、自らの遊び道具を作る生産活動そのものである。
 c、家にある物を遊びに使う。例えば切り開いた魚を塩漬けにして入れるタライを、空いたとき時に海の浅瀬でタライ舟として使ったり、冬雪の積もった中での配達に使う橇(そり)を遊びに使う。これは、遊ばしている物の利用で、いってみれば資源活用。浜辺に波で打ち寄せられた古金を拾って集めて、小遣いの足しにすることも非常に生産的であると言える。
 d、また例えばイカ干し場や木材倉庫などにおいて仕事量の係わりから隙間が生ずれば、その空いた空間を遊び場に使う。これは、大げさであるが土地の一時的利用といえる。
 e、さらには「楽しさ」「遊び」を創り出すこともする。いわば楽しさ・遊び創造機能。
 例 Д咼襪里茲Δ棒僂泙豕箱=トロ箱内の下から上への通路・迷路・隠れ部屋づくり 
  (
 ァ、遊びとしては、まずは一番高いところまで、箱と箱の隙間に両手と両足を付けて、攀(よ)じ登こと(逆かもしれない)。
 ィ、魚箱の並んだ天井のある所から箱を剥(はが)し、下に降りていけるようにする(剥がした箱は脇に置く=その位置からは上げることになる)。地面に通じたら、出口をつくる。逆に、下からでは入口となる。
 ゥ、一方通行のいわば坑道ができるが、途中に誰かがそこを通ってもすぐには見つけられない隠れ部屋(魚箱を横から剝し人の入れる空間)を造る。
 ェ、それは、迷路になっていた!
  その遊びについて、「上→下、下→上への単なる一方通行の通路でなく、一度入った者が道に迷う仕掛けにすることが創作側の妙技」と記したが、「迷路になっており、出るに出れなかった」「どのようにして作ったかはわからない」は山田昭夫氏(1936年生〉の言で、大変貴重。
 例公園の池にはった氷蹴り
 (
  公園の小さな池に張った氷を長靴で割って外に出す→誰かが手ごろな氷の塊を蹴る→他の者が加わる→交代しながら蹴って進む→道路をまたぐように蹴って向こうの歩道に移動→歩道にはいって代わる代わる蹴って進む。どこかサッカーやアイスホッケーのようなスポーツに似ている。池に張った氷をボールに見立て、遊びを創造。
 例 家にあった人形芝居で使う首人形に紙で作った着物を付けて文弥人形の真似て遊ぶ。(「佐渡は土地柄、各地に人形座があり、子供たちは小さな土の首人形に紙で作った着物を付けて文弥人形をまねて遊びました」) 
 (
 この中の創造的要素は、
 a、しまってある首人形の活用を思い付いたこと
 b、紙で人形用の着物を作ったこと
 c、それをもって人形芝居を演じたこと(多分、脚本とまではいかないが、人物の真似をし言葉を発して楽しんだ)
 d、何も無かったところから楽しさ・面白さを演出して遊んだことは創造的活動。

4.まとめ
 嵳靴咾箸浪燭」について、「遊び」論の古典とされる2冊の本を参考にしたが、語源、関連語 類義語、対立語 対義語など語の間の主観的な関係づけが中心で抽象的で分かりにくく納得する規定には出合わなかった。
1)実際の遊びを分析するというより語の分析・関連付けに終始し、結論が出ない・何をいわんとするのかが不明。
2)そのため「遊び」が
 a、ホイジンガであれば、「遊び」が競技・祭り・裁判・戦争・詩作・哲学・芸術などに広がったり、古代中国の季節の祭り・古代北欧の問答競技・プラトン、アリストテレスにおける音楽に及んだり、
 b、カイヨウであれば、「遊び」は古代ギリシャ語のアゴン(競争)・アレア(運)・ミミクリ(模擬)・イリンクス(眩暈)という範疇のいずれかに入り、しかもそれぞれがパイディア(遊戯)とルドゥス(競技)の要素の大小で〔客観的根拠なく当人の感覚的な尺度による〕ラフ・アバウトなランク付けしてまとめようとするが、まとめきれず「偶然の遊びの重要性」「教育から数学まで」「遊びと聖なるもの」の補論を設けるなど
 収束せず拡散する一方。
3)これは、失礼ながら当人自身わからなくなっていることを示している。ということでは、納得できる。語の世界に嵌まり込んではいては、何も生まれず発見できない。
◆嵳靴嗜澄廚亡慙△靴動媼韻靴討い燭里、数学分野で超難解とされるabc予想を証明したとする望月新一教授の論文で、全くの門外漢であるのに関心をもっていた。
なぜか?超難問とされる数学のある問題を解いたからではない。それは、まだ解らない。関は以下「   」内、ウィキペディア)。
1)「2012年8月30日、京都大学数理解析研究所教授の望月新一が abc予想を証明する論文をインターネット上に公開」「イギリスの科学誌ネイチャーは、同教授は新たな数学的手法を開発し、それを駆使して証明を展開しているため「査読に時間がかかるだろう」と報じた。証明に用いた新たな手法(宇宙際タイヒミュラー理論)は他の整数論の問題を解く強力な道具になると期待されている
 【世界的な数学者でも望月教授の論文の成否の判定に数年かかること】
2)「それらの論文について、2012年10月に Vesselin Dimitrov とアクシェイ・ヴェンカテシュにより誤りが指摘[されたが、望月は指摘を認めつつ本質的結果は影響されないとコメントし、訂正を約束」「同年12月より指摘事項の修正や他の校正等を含む一連の訂正版論文を発表
 【指摘された誤りは認めた。本質的結論
影響なかったようで、部分訂正して発表】

)「2015年、Ivan Fesenkoによって、望月の宇宙際タイヒミュラー理論に対する初のサーベイ論文〔ある主題における現行の理解の状態を要約した記事〕が発表」)「2017年9月1日、京都大学数理解析研究所の山下剛から宇宙際タイヒミュラー理論に対する初のサーベイ論文が発表」
 【教授のabc予想を証明する一つの理論の正しさが確認されたということか】
4)
「2017年12月、5年余りの査読の末に、望月の論文が数学誌 PRIMS に掲載される見通しになった」
【数学や科学論文は、語の持つ意味の解明・解釈が中心で言わんとすることがハッキリしない哲学的論文などと違い、専門家の理解を得るのに相当なデータと証明のために時間を要す。事実分析
しない語遊びとは異なるということである。】
M靴咾枠鸚源催活動とする見解に対しむしろ生産的・創造的であることをこれまでの「遊び」記事を基に立証。 この作業は、愉快であった。 まだまだ不足で終了したわけでないが、偶然にもその事が一応のまとめに相応しいものとなった。
 以上 2018.07.13


















歴史スポット93:1950年代両津子どもの遊び(31)人形

 こんにちは!自在業の櫻井です。

1.はじめに
 前号テーマ「わらべ歌・遊び歌」を校了したところで中川士郎さんからお借りした本3冊全てを返却しようとしたが、『暦と人形』小冊子は「子どもの遊び」のヒントになるのではないかと思うようになり、「人形」をテーマにした。
 最初なぜテーマとして「人形」は、ピンと来なかったかといえば、
 顱冒澗里魍鬼僂垢襪氾然「人形」の事が書かれているのだが、子どもに関する項目は、「七夕の山車」くらいであること、
 髻忙劼匹發陵靴咾箸靴討凌遊舛殆ど見当たらず、信仰・風俗と人形が中心であること(但し、貴重な事実が各所に見られ放っておくのはもったいないとは感じていた)、
 鵝縫董璽泙砲垢襪らには、やったことなくても少なくても見たり・聞いたりした経験があることが基本原則で、人形について語れるような経験がない(妹かどこかの女の子が持った人形であろうが、腹の部分を押すと音が出るのがあり鳴らしたことや、着せ替え人形もしたことあると思うが記事にするほどのものでなく書く気も起らない)
 ことが、主な理由。
 ところが、よくよく考えれば人形は遊び道具=玩具(おもちゃ)であることは確かで、遊びを記すのに人形を外すのは、片手落ちと考えるようになった。
 と言うことで、取り上げた。人形と言ってもいろいろあり、歴史があり、生活と係わりあって深そうだ。
  旧両津市夷旭町の中川紀元さんの著書『暦と人形』を中心にまとめていく。
2.「人形」概説(資料:ウィキペディア)
/遊舛箸
 「人形(にんぎょう、ひとがた)は、狭義には人間の姿を、広義には人間以外の動物や架空の生物も含めて、それらの姿に似せて作られた物をさす。
 人形の作成は、古くは先史時代から始まり、いずれの時代でも作られ、人間の文化活動の本質的なものであるといえる。
 現代の人形の主な用途は、祭礼などの宗教行事や伝統行事、文楽などの人形劇で使われる他、玩具、土産物、芸術作品など、多分野である。」
¬榲
1)玩具
 来、人形は子供の遊び道具として与えられ、使用された。日本各地に現在も存在する「郷土人形」は幼い子供の玩具として非常に大切にされた。日本では主に木製や土製の素材に胡粉などで着彩をした人形が多いが、工芸品として精巧に作られた物もあり、戦後からは美術品として扱われる郷土人形もある。江戸時代に普及した女児向けの人形に「姉様人形」がある。和紙と千代紙で造られた素朴だが優雅な人形は、裕福な武家や商家の子女に大切にされた。代表的な遊び方としては、人形を擬人化して日常生活を再現する「ままごと
あそび」や、時代がかなり後の近代からは布製の「文化人形」で遊ぶことが普及した。人形の衣服を交換し組み合わせなどを楽しむ「着せ替えあそび」などは、戦後に日本全国で広まった。
 現代での「着せ替えあそび」は、合成樹脂製のきせかえ人形で遊ぶ。後述のマネキンと類似し衣服を着せたり、脱衣の状態にできる場合が多い。複数の付属品の衣装があり、それはほぼ現実の人間の衣服に似せている。着脱には背面に付けられたマジックテープスナップを使う。大体、1960年代頃から生活の西洋化とともに普及し、製品にはシルバニアファミリーリカちゃん人形バービー人形などがある。高度経済成長と相まって、庶民のファッションの隆盛とともに人形の衣服も華やかさを増していった。
 女児が母親の立場として育児を前提とする赤ちゃんに擬似した人形(授乳のための「ミルク飲み人形」やおむつ替えのための人形など)もある。
2)観賞人形
 アンティーク・ドールや日本人形のような伝統的な美術工芸品としての価値の高いものや、マトリョーシカやこけしのように造形に特色のある工芸品の人形などは、ガラスケースなどに入れてインテリアとして飾ることもある。
 日本では、雛祭りや端午の節句のような伝統的な行事に特別につくられた美術価値の高い、人形を飾ることがならわしである。
3)
祭礼用途の人形
 古代では、人形は他人に呪いをかけるための呪詛の道具や、人間の身代わりに厄災を引き受けてくれる対象物として使われた。前者の例としては藁人形やブードゥー教の泥人形、後者の例では和紙の流し雛などが挙げられる。後者のうち、現代でも神道の大祓等で用いられる和紙のものは、通常同じ字で「ひとがた」と呼び分けたり、「形代」(かたしろ)と称したりする。他にも、山車人形のように神などをかたどった人形が象徴として飾られる祭もある。
4)縁起かつぎとしての人形
 幸福や商売繁盛などを導くために、七福神や福助人形、ビリケンなどを飾る風習がある。 また、結婚式の結納品として、夫婦円満や長寿を願うためにほうき(邪気を払う)と熊手(福をかき集める)[1]を持った老夫婦の高砂人形(お前百(=掃く)まで、わしゃ九十九まで(=熊手)、共に白髪の生えるまで)などもある。
5)商業用途の人形
 洋服や呉服などの衣料品を販売する場で、商品を着用させて顧客に着用イメージを伝達する効果を目的にした人形が存在する。これらの衣料品販売店などで使用されるマネキン人形は衣服の展示や紹介を目的とし、美術のデッサンで使用されるデッサン人形などは人間のモデル代わりに用いることで手元でフォルムの確認ができることや、動作のないという利点がある。
 また、特定の店舗(多くはチェーン店)のシンボルやメーカーの販促として人形が置かれることもある。不二家の「ペコちゃん」、佐藤製薬の「サトちゃん」、ケンタッキーフライドチキンの「カーネル・サンダース」、くいだおれの「くいだおれ太郎」、ジャパンの「さわやか親父」、すしざんまいの社長の等身大人形など。
6)かかし人形
 
農産物生産の現場(田んぼや畑等)で、作物を荒らすスズメやツバメ、鴉を追い払うためかかし人形が使われる。数体規模で立てられている場合が多い。近年はマネキンの流用であったり衣服に工夫が凝らされるなど、艶やかに多様化していて、コンテストを行っている自治体もある。
7)交通関連の人形、8)教育・訓練用途の人形、9)博物用途の人形、10)考古学における人形 等々
種類
1)伝統的な和人形 
 a、雛人形(雛祭りで飾られる)
 b、五月人形(端午の節句で飾られる)
 c、一松人形
 d、博多人形人形
 f、姉様人形(和紙人形)、色紙人形
 g、土人形(各種のつち人形、伏見人形や佐土原土人形など)
2)操〔あやつ〕り人形
 a、人形浄瑠璃《文楽)
 b、ギニョール:
  原型となる人形劇は、絹織物貿易を通じてイタリヤ「からフランスに伝わった。1610年にイタリアのジョヴァンニ・ブリオッチが、絹の集散地として賑わっていたリヨンにイタリアの指人形劇プラッティーニを持ち込んだ。ギニョールの生みの親ローラン・ムルゲは1769年にリヨンで生まれた。絹織物の職工から行商人になり、ブリオッチに倣って、1798年に客寄せのために人形芝居を始めた。1804年には人形芝居を専業とし、リヨンの織物業の職工相手に日々の出来事を面白おかしく伝える芝居で人気を集めた。ギニョールは1808年に作られた指人形芝居の主人公で織物職工、それと酔っぱらいのニャフロでと雇い主や体制を皮肉り風刺のきいたドタバタ喜劇で人気を得た。現在は子供向けの娯楽として、ギニョールが面白おかしく悪者を退治する勧善懲悪の話やピノッキオなどのおとぎ話が主な出し物。
 
c、マリオネット:操り人形でも特にで操る。「ピノキオ」が有名。
 d、パペット 〔人形劇などで使われる操り人形の総称。1960年代に世界的に知られたパペットは、操作は糸や指だけではなく棒(スティック)を使用。パペットを用いた人形劇には、「チロリン村とくるみの木」、「ひょっこりひょうたん島」などがある。〕
3)人形の商標
 a、キューピー人形:1909年に米国のイラストレーター、ローズ・オニールがキューピッドをモチーフとしたイラストで発表したキャラクター。
 
b、バービー人形(アメリカの玩具メーカーマテル社が販売する着せ替え人形) - リカちゃん人形(タカラトミー(旧タカラ)製の着せ替え人形玩具) - ジェニー(タカラトミーから発売されている、日本の着せ替え人形キャラクター)。
 c、ブライス(1972年にアメリカのケナー・プロダクツから発売された人形) - プーリップ(韓国のデザイン集団・天上天下 (Cheonsang cheonha) が制作している1/6スケールの人形)
 d、ファービー:アメリカのTiger Electronics社が1998年に発売したおもちゃ(電子ペット、ペットロボット)。頭や腹、背中などに5種類のセンサーが内蔵。耳、まぶた、口、体が動く。相手をすることで成長し、ファービー語や日本語など約800の言葉を話し、歌ったり踊ったりする。
 e、リビングデッド・ドールズ:アメリカ、メズコ社 (Mezco Toyz) が販売している27cmサイズの人形。生ける屍をモチーフとしており、棺桶型のケースに入れられて販売され、各人形には死因を記した死亡証明書が添えられている。血糊や傷跡などが手書きのため、個体差がある。
 f、スーパードルフィー:株式会社ボークス(京都市)によって製造、販売されている合成樹脂製の一般向け球体関節人形。
4)その他特殊な種類の人形など
 a、アンティーク
  ァ、 ビスク・ドール:19世紀にヨーロッパのブルジョア階級の貴婦人・令嬢
たちの間で流行した人形。前身にあたる陶器の人形は1840年代よりドイツで作られていた。
  ィ、からくり人形 :日本の記録は、『日本書紀』斉明天皇4年(658年)に見られる指南車が最古で、指南車は、魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)の三国が争覇した三国時代の歴史(180年頃 - 280年頃)を述べた歴史書『三国志』〔撰者は中国・西晋の陳寿(233年 - 297年)〕に記述がある。
  ゥ、オートマタ:主に12世紀から19世紀にかけてヨーロッパ等で作られた機械人形ないし自動人形。
 b、民芸品
  ァ、こけし
  ィ、だるま
  ゥ、マトリョーシカ:ロシアの人形。胴体の部分で上下に分割でき、中に一回り小さい人形が入り何回か繰り返され、人形の中からまた人形が出てくる入れ子構造になっている。入れ子にするため腕は無く、胴体とやや細い頭部からなる筒状の構造で、5-6重の場合が多い。日本にもだるまなどの入れ子人形がある

 c、着せ替え人形
 d、ダッチワイフ
 e、呪術:藁人形 、 ブードゥー〔精霊〕人形 -、てるてる坊主
 f、蝋人
 g、消しゴム: キン肉マン消しゴムなど。
 h、ほまれ人形:太平洋戦争中、特別攻撃隊が出撃の際に携えていた人形。

3.佐渡の人形
 (資料:中川紀元著『暦と人形』)
20180624_103218暦と人形
 同書は、12の節から成っている。節ごとに要点部分(「年代」「両津」「子ども」「遊び」に限定せず)を転記する。
〆甘呂凌流し
1)「4月は雷乃発生(らいすなわちこえをはっす)に始まります。清明(せいめい)は草木が芽を吹き、何の草木か明らかになる日とのことです。・・・私は趣味の一つとして30年以上前から千代紙を集めています。・・・何年か後、千代紙で小さな童人形を作るようになり、また一つ趣味が増えました。私の家に残る「あねさま人形」は、かれこれ70年くらいになります。雛祭りには必ず飾り続けてきました」
2)「・・・数点の「あねさま人形」は千代紙と白い紙で作った人形です。白い人形で、私は姉の作った「あねさま人形」を思い出しました。病身の姉に頼まれて町内の小川にその人形を流したのです。姉はまもなく16の命を閉じました。その後、私は千代紙に興味を持つようになり、流した人形は願掛け雛と分かりました。故山本修之助先生に、佐渡に「雛流し」の風習が残っているとうかがったことがあります。外海府の関と小川部落にあるとのことです」
3)「外海府の小川部落を訪れたときは初夏でした。・・・あばあさんが浜にでてきました早速「雛流し」の話を出すと、ここでは今もやっているとのことでした。おばあさんの話は、雛人形が壊れたりするとかわいそうでごみと一緒にそこらに捨てられない。・・・家の者だけで浜に行き、子供たちが「おきの国へ行かんしャァ」と大きな声で送るそうです。私はふと思ったのです。・・・村人の「雛流し」は・・・流す行事のための雛ではなく、壊れた雛への供養なのです」「雛流しのとき、子どもたちがいう「おきの国」を山本修之助先生は「もとの国」といったと私は記憶していました。そこで・・・会ったおばあさんに、昔は「もとの国」といっていませんかと問うと、「そうだのゥ、おらの孫ばあさんから聞いて覚えとるんだけも、もとの国ちゅゆうとったじゃァ」とのことでした」
△△佑気淇遊
1)「「あねさま人形」は昔から母から娘へ、そして孫へと作り伝えられたいわが家庭人形、今の”手づくり何々”のはしりです。母が娘に人形で教える髷型(まげばた)であり、着物と帯の色の取り合わせなど、自然のうちの家庭教育なのかもしれません。」
2)「「あねさま人形」は髷型も一つの見どころです。ある本を見ますと、250種から300種もあるとのこと。昔の婦人方は大変なおしゃれでした。・・・「来るわつぶし」「うつを兵庫」「芸子まげ」「十能」「丸まげ」「ふくら雀」・・・などです。」
3)「「あねさま人形」にはもう一つの特徴があります。人形の後ろ姿を見ることです。人形を後ろから見る、後ろ姿を飾る、こんなことは世界に多くの人形がある中で、日本の「あねさま人形」だけではないでしょうか。それは髪姿であり、千代紙の文様の着物であり、そしていろいろな帯の結び方なのです。あねさまの美意識の最高のものです。」
私の手作り人形
1)「6月3日が麦秋至(ばくしゅう)の候です。麦が熟し、刈り入れの時期なのです。また5日は旧の端午の節句で、私の子供のころは山へ熊笹(くまざさ)の新葉を採りに行き、ヨモギの新葉と米粉でだんごを作りました。笹でくるんだ笹だんごは新笹と新草の香がいっぱいでした。」
2)「私には内孫が1人、外孫が2人いて、3人とも男子です。息子の嫁の発案で、端午人形は私の手作りのものにしました。和紙を貼り重ねて兜(かぶと)と鯉(こい)をあげている童を作りました。 娘の嫁ぎ先にも一組届けました。・・・端午の節句は鯉のぼりを立て、武者人形を飾り、また菖蒲湯(しょうぶゆ)に入る佐渡では、菖蒲を軒に差したり柱に下げたりします。」
3)「児玉宗栄先生は、昔ばなしの研究家です。先生の佐渡昔ばなしの本に「大野亀かんぞう」があります。両津市刊で私が人形と風景その他を和紙で作り、全22場面、それを写真に撮って、挿絵〔さしえ〕にした絵本です。細かい仕事なので、約3年の月日がかかりました。・・・暦の候は20日ごろ梅子黄(うめのみきばむ)そして夏至。乃東枯(ないとうかるる)、夏枯草(かこそう)、菖蒲華(しょうぶはなさく)で6月が終わります」
この輪〔ちのわ」と形代〔かたしろ〕
1)「アヤメやショウブが美しい7月は、山開きや海開きが各地で行われます。・・・私たちの会に、両津自然探訪会というグループがあり、月1回佐渡に植生する草木を訪ね歩いています。」
2)「7月の行事に、輪くぐりがあります。両津市の夷、湊の神社での行事で」「輪くぐりの輪は、茅の輪ともいい、竹を軸にした大きな輪に茅萓〔ちがや〕を巻いたものです。新潟市の白山神社では直径が3mぐらいあるようですが、両津の神社のものは2m余りのものです」「茅の輪は神社の鳥居や竹を立てたものを支えに、縄などで縛って立てますが、両津では神殿の賽銭箱の後方に天井からの縄で縛って立てます。そして宵(よい)を待って人々がこの輪をくぐり、祓いを行うのです。」
3)「子供のころ、輪くぐりの夜の楽しみは、輪くぐりよりも夜店で買ってもらう、かち割アメとアイスクリン〔そのころはアイスクリームとはいわず〕でした。」
4)この宵、もう一つ大事なもの。形代〔かたしろ〕は「祓(はらい)をする人間の身代わりとして使う、紙で作った人形(ひとかた)で、和服で袴(はかま)姿の半紙を切って作ったものです。人間の受けた汚れや災いを背負わせて川や海に流すのです。この人形に自分の氏名と齢(とし)を書き、お宮に持っていき祓をするのです。私の妻は毎年、他国に住む子供、嫁いだ娘の家族まで一人一人の名前を書きます。・・・両津市夷の宮司さんは「今は海や川が汚れていますので、人形は流しません。祓をして全部境内で燃やします」といっています」
ゼ畦次未燭覆个拭佑了骸屐未世掘
1)「〔8月〕7日は旧の七夕、8日はもう立秋です。夷港と呼ばれていた両津の港は、明治31年7月7日公布の港則で大阪港とともに開港場に指定され、従来の五港から七港が日本の貿易港となりました。五港とは、長崎、神戸、横浜、函館、新潟です。それを祝う記念行事として8月7日に「七夕祭り」が催され、現在に至っています。」
2)「このときから山車を繰り出し子供たちの祭りという粋(いき)な計らいとなりました。両津市の各町内には、1mぐらいの木板で作った舟があります。「七夕丸」といいます。子供たちはこの舟に紙で作った花を飾り付けるのです。また山車の飾りつけには2週間ほど前から大人も手伝い、各町内が飾りを競いあい、その時代の流行のものを作ります。大正時代の写真を見ますと、漁師の町らしく恵比寿さま人形が大きなタイを抱えているものがあります。」
3)「また、この祭りの特徴は子供たちが童謡を歌って行進することです。・・・「桃太郎さん」「花咲じいさん」「ウサギと亀」「お山の杉の子」、終戦後一般公募した「七夕の歌」などで、現在のテレビの子供の歌にまじって歌われてます。」
4)「終戦後すぐ七夕祭りが復活しましたが、物資がなくて人形が作れない年が何年かありました。そこで男子や女の子を、王子様やお姫様に仕立てて山車に乗せました。すると女親たちは自分の子供を乗せたくて、ひと悶着(もんちゃく)が起きていたのを、私は子供心に覚えています。
 こんなことでは駄目になると、やがてみんなは竹やワラで作った人形で山車を作るようになり、次には化繊のストッキングの破れたものを人形の顔や手足にかぶせ、少しずつリアルな作品に仕上げたりして、現在の発泡スチロールを利用した人形になりました。」
Δ里蹐い凌遊
1)ある宮司さまの話:「昭和40何年ごろでしたか、この神社の裏の杉の木に”呪(のろ)いの人形”がクギで打ち込んでありました。
 朝の早い時間で、見たときは胸がドキッとしたのを覚えています。そっとクギを抜いて、両方の人が幸せでありますようにと、おはらいをしてやりました」
2)「特定の人物に見立てた人形にクギや針を打ち、その人物を人形と同じ運命にしようとすることを呪詛(じゅそ)といいます。古代からあったようで、平城京から板製の呪(のろ)い人形が出土しているようです。
 私が知っているのは、稲か麦の藁(わら)で作られたもので、人形には相手の名を書いた紙を包み込むのだそうです」
Э燭湛な弁慶人形
1)「コオロギが鳴きやむころになりますと、村々は豊作を祝い秋祭りが各地で行われ、佐渡ではこの祭りになくてはならないものに文弥人形があります。
 故山本修之助先生の「佐渡の人形芝居」の著書、また私の父故雀子の研究ノートを見ますと、この佐渡島に明治、大正のころ、なんと51座の人形座があったのです。譲り受けたり、2座が一つになったりしているので延べ数です。
 両津市でも述べ11座を数えられます。また、そのうち、延べ7座が街の中心地にありました。又兵衛人形、治郎助人形、弥一人形、銀助人形、半四郎人形、久左衛門人形、弥平次人形の7つです。」
2)「この〔銀助〕人形も「半四郎人形」となり毎年外海府の矢柄へ行って7日7晩ずっと使い通したという話も残っています。高幕人形で後で矢柄の繁栄座に譲り渡します。その後、繁栄座は、入川の御殿人形を入手しました。再び両津の半四郎へと戻ってきました。この人形は後両津の故本間林蔵先生の所蔵物になりましたが、昭和23年の両津の大火で失ってしまいました。この時焼けなかった人形8体が現在佐渡博物館に保管されています。この人形は弁慶の顔が真っ黒に塗られていたのです。」
3)「私家に父雀子の遺作の人形の頭が残っています。私は父の彫った人形としか知りませんでした。平成2年4月でした。佐渡博物館で・・・浜田守太郎師の人形頭の数々を2か月間長期にわたり紹介する展示会があり、私は父の人形を守太郎師にみていただくべく持参しました。・・・師に早速見せる一瞬声が詰まったようでしたが「この人形はオレに会いとうて来たんだっちゃア」・・・。真っ黒な人形は「高松の弁慶」というのでした。」
  【文弥人形の人形について、
  
┐里蹐淇遊
1)「大地が凍り始めるころ、土人形を作っていた私の家は、冬は人形の色づけの季節となります。春から秋にかけて作る土人形も冬は凍ってひびができるのでsできるのです。そこで素焼きにしておいた人形の化粧が始まります。」
2)「「のろ松がのそりと出たり夏の月」尾崎紅葉の俳句です。真野町新町の十王堂の前にこの句碑があります。」
 【参考:尾崎紅葉の「のろま人形」との係わり
 
 
3)「私の父は蕎麦(そば)職人であり蕎麦屋を営んでいました。父の趣味は多く、俳句・俳画そのほか、また郷土研究があります。木喰(もくじき)研究、昔話、佐渡おけさ と資料集めに佐渡中を回っていたようです。そんなとき、郷土研究仲間と本当の「のろま人形」を、探し出したのです。その人形は新穂の広栄座に細々と伝え残されていました。そして池田宗造さんの口述で生地獄〔?:生地蔵〕の台本を書き留めたのです。
 【生地蔵についについて、
4)「雀子は居ても立ってもいられない何年間があったようです。のろま人形を世に出す、もう全国にのろま人形座が無くなり、人形があっても遣える人がいない。佐渡だけは遣う人がいる。雀子はそれが責務のように蕎麦(そば)屋をやめる決意をし、昭和14年〔1939〕〔(両津の蕎麦屋から相川に移り)相川から〕両津に帰り「佐渡民芸研究所」の看板を掲げ、土でのろま人形を作り世に問うのです。
 それが、今日の「のろまのろま人形」なのです。東京の三越で九州の博多へと土産物展に出品します。だが昭和16年、第二次大戦が始まり、昭和18年には政府ががん具類はぜいたく品として製造禁止・・・。」
5)「現在はのろま人形を上演できる座は佐渡だけなのです。人形遣いが、自分で語るきょうげんの素朴さ、素晴らしい佐度の遺産です。」
福助人形
1)「佐渡には、大正、昭和の初期まで土地の地名の付いた人形がありました。佐和田町には八幡人形、長木人形、両津には夷人形などです。また、長浜人形と呼ぶ人形があります。この人形は、島根県浜田市の長浜人形なのです。きた北前船で運ばれた佐渡で生き続ける土人形たちです。
 【浜田市について、
2)「佐渡の土人形に福助人形があります。昭和の初めごろまで12月になると、福助人形や有卦(うけ)の福助の図を売り歩く人がいました。有卦とは陰陽道(おんみょうどう)でいう幸運人の運気が循環すると考える12運説です。有卦は7年間続き、その後の5年間は無卦となります。有卦売りは「今年逃すと5年もこんぞ(こない)」と売り歩きます。」
3)「福助は幸福を招く人形として昔はどんな家にもあり、上下(かみしも)をつけ、叶(かのう)と書いた扇子を持ち、頭が大きく福耳のゆったりした人形です」
 【我が家にも福助は、旭町〜築地にいた(1976年)時代にあった】
佐渡民芸研究所
1)「〔7日正月〕私の小さなころ、セリや大根、ニンジン、ゴボウなど7品の野菜がたっぷり入った餅粥(もちがゆ)を炊いて祝いました。・・・七草粥(がゆ)は、昔の人の知恵で真冬の野菜のないとき、山野に早く芽を出す草や越冬ができる野菜をたっぷり食う栄養のバランスの教えだと思います。・・・17日は、候の「雉始啼」(きじはじめてなく)・・・。こんな冬場は私の家では父が毎日土人形の着色をします。箱火鉢にいつも膠(にかわ)の土鍋がかかり、膠は接着や人形の着色にも使われていました。」
2)「明治の20年ごろ、富山県から一人の人形師〔根塚徳右衛門〕が両津の夷町に移り住み、土人形を作り「夷人形」として売り出しました。・・・40年くらいたった大正の末期には、制作を中止しております。・・・雀子は「のろま人形」とこの「夷人形」を復活しようと相川から両津の夷町に帰ってくると、徳右衛門の跡を継いだ二男徳次郎の協力を得て「佐渡民芸研究所」をおこし、・・・・」
3)「人形の種類は「のろま首人形」「のろま面」「のろま土鈴」「鯛(たい)鈴」「駅鈴」「牛鈴」「おけさ人形」などあった。また、恵比寿(えびす)、大黒面や福助人形の縁起物もありました。「のろま鈴」には、こんな添え書きもつけてありました。
 東西東西それがしが、氏や素性は寛文期〔1661年から1673年〕、江戸で野呂松勘兵衛が、舞台に上げた道化役だった人気も、荒海や 四十九里てふ浪越えて 佐渡ヶ島根の住心地 馴れて居よいか住よいか おけさが招く観光地 思はぬ人気返り咲き 土でひねった首でさえ 沖の鴎の羽借りて 飛ぶよに売れるのろま人形 思いついには『のろま鈴』 黄金白金ざくざくと 湧き出す佐渡の土の鈴 縁起ばかりか チリリンと 音色もよいじゃないかいな」」
節分と鬼
1)「鶏始乳(にわとりはじめてにゅうす)、鶏が卵をかえし始める、と始まる2月の暦。今年の節分は3日であった。・・・陰陽道では古くから節分を重んじ、豆撒(まめまき)や柊(ひいらぎ)を門戸に挿す行事がある。翌日は立春となり、暦は春なのです」
2)「黒姫地区の山本家では、普通の家では「福は内、鬼は外」と節分の豆を撒くのですが、山本家では「福は内、鬼も内」といって豆を撒くのです。」
3)「人形では鬼人形は少ないようですが、真野高崎人形、新穂の人形、文弥人形にも鬼の首人形が残っていま。土人形では八幡の首人形や沢根のつまみ人形などがなどがあります」
古色の人形
1)「春は真野町四日町の大願寺の「ひな市」が有名でした。佐渡はいろんな人形が船で持ち込まれ、庄屋の蔵にしまわれ、またそれぞれの土地で根づいた土人形などがあります。」
2)「昭和10年発行の一枚の資料があります。「全国おもちゃ大番付」です。番付には360余の全国のおもちゃや人形が出ています。佐渡の人形も出ています。佐渡は東方の日本で、東前頭155品のうち21枚目に河原田首人形があり、次が30枚目に野呂松人形です。75枚目はつばくら、92枚目に相川首人形となっています。ちなみに東の横綱は福島・いわきの三春駒(みはるごま)、西の横綱は宮崎・日向の鶉車(うずらくるま)となっています。前頭30枚目の野呂松人形浜田市、佐々木佐与吉の「つまみ人形」なのです。
 また、75枚目の「つばくら」は1月15日、八幡の八幡宮の初もうでに買う紙で作ったツバメの形をしたおもちゃなのです。」
3)佐渡に首人形が多いこと。「相川首人形、河原田首人形、八幡首人形、夷首人形。佐渡は土地柄、各地に人形座があり、子供たちは小さな土の首人形に紙で作った着物を付けて文弥人形をまねて遊びました。暦は25日、雀始巣(すずめはじめてすくう)、28日は桜始開で3月が終わります」
4.まとめ
ヾ甼(おもちゃ)の源流はおしゃぶりに求められるということを『佐渡の郷土玩具』(山本修之助/著)で読んだ覚えがある。その玩具の一つが人形であるが、人形は誰もが最初に馴染んだ玩具であろう。
 同書をウェブで開くと、佐渡の玩具の写真集と「随想・佐渡のおもちゃ」から成っており、随想の冒頭には
 「「おもちゃ」は、たらちねの母の乳房である。母のふところにいだかれてしゃぶりつづけた「おふくろの味」である」とあった
⊃遊舛蓮∋劼匹發陵靴咾里燭瓩世韻任覆、大人にとっては子の成長を願う雛人形や武者人形、娯楽である人形芝居鑑賞、一家を守る観音像などや縁起物の人形があった。 
佐渡は説教人形、のろま人形、文弥人形がいずれも国指定無形文化財とされるだけあって「人形芝居の宝庫」であるに違いないが、幼い頃からの人形芝居ごっこ遊びが風土としてあった。
1)前掲『佐渡の郷土玩具』より、
 a、郷土玩具を「材料別にしてみると、土でつくったもの、オガクズでつくったもの、紙でつくったもの、木でつくったもの、竹でつくったもの、麦藁でつくったものなどがある」
 b、土製では、「八幡(佐和田町八幡)人形、河原田(佐和田町河原田)人形、夷(両津市夷)人形、窪田(佐和田町窪田)人形、長木(佐和田町長木)人形、相川(相川町相川)人形、畑野(畑野町畑野)人形、沢根(佐和田町沢根)人形、大石(羽茂町大石)人形などがある」
2)『暦と人形』の「佐渡は土地柄、各地に人形座があり、子供たちは小さな土の首人形に紙で作った着物を付けて文弥人形をまねて遊びました」は、貴重な話。
3)思い出したのが今年3月初め頃と思うが次のような新聞記事。茶道の始祖・千 利休の命日にあたる2月28日に表千家15代家元に襲名した千 宗佐さんが、「物心ついたころから子供用の茶道具でままごとのようにお茶を点(た)てた」ということが載っていた。その時は子どもの「ままごと」=「真似事」「飯(まま)事」に関心を持ったが、同書の「文弥人形をまねて遊びました」に驚いた。伝統文化は、風土や環境が物を言う。
 以上 2018、07、05

歴史スポット92:1950年代両津子どもの遊び(30)わらべ歌・遊び歌

 こんにちは!自在業の櫻井です。
1.はじめに
 「子どもの遊び」について、当シリーズ30番目ということで6月中旬新たなテーマを決めたところで「工事中」として公開。だが、間近に訪問する「係わりの地」を優先し下書きに変えた。
 今回テーマのキッカケは、前号に記しが東京での石楠花会で中川士郎さんとお会いし その時お借りした資料の一つが『りょうつのわらべうた』で、新たなテーマは先送りした。
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 表紙をめくると、「わらべ歌 遊び歌 第一集 両津市婦人会」とあり、
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  さらにめくると 右のページに「製本 中川 紀元」、左は「目次」として 手まり歌、お手玉の歌、たちの歌(細割竹)、縄とびの歌、遊び歌として 花いちもんめ、次は 右に あんたがたどこさ、一かけ二かけ、・・・・、左は数え歌(1)〜(5)、しりとり言葉、編集後記 の構成。
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 それらの歌は女児の歌で男児とは関係ないと思ったが、歌詞を見ると中に聞いたような歌もある。ということは、聞いただけでなく 歌いながら遊びもしたということか。
 最近の「遊び」テーマを振り返ると、
 「縄とび」(25番:6/03)→「しりとり」(26番:6/05)→「コマ」(27番:6/09)→「ローラースケート」(28番:6/12)→「まりつき」(29番:6/13)とあり、わらべ歌・遊び歌は必然の流れといえる。
 わらべ歌も、遊びに入るとは薄々気づいていた。
 そんなことで、今回テーマとした。
2.『りょうつのわらべうた』(両津市婦人会)
(注)〔  〕や【  】「の部分は、私自身わかるように仮名や漢字にしたり、理解を深めるためウィキペディアを参考に加えた。
‘睛
01)手まり歌
 いちれつだんぱん〔一列談判〕破裂して 日露戦争はじまった
 さっさと逃げるはロシア兵 死んでもつくすは日本兵
 5万の兵を引き連れて 6人残してみな殺し
 7月8日の戦いに ハルピンまでも攻め入って
 クロパトキンの首を取り 東郷大将ばんばんばんざい
 ばんざいばんざいばんばんざい ばんざいばんざいばんばんざい
 02)お手玉の歌(1)(たんたん)
 たんたんたけのこ しちやのれんげ
 はなさかり わしゅうらの
 むこうのおやまの あめふりばながか
 さいたかちったか このよにながれ
 あたまちゃんとゆうて しずかになされた
 いっちょもかした
【手まり歌:少女たちが手まりをつきながら歌った童歌、遊び歌の一種。代表的な手まり歌に、「あんたがたどこさ」「一番はじめは一の宮」「一列談判」「日本の乃木さんが」がある。1950年代までは、路地で手まり歌を歌いながら毬をつく少女の姿が見られた。】
03)お手玉の歌(2)

 おひとつおろして おひとつおろして おひとつおろしておしゃれ
 おふたつおろして おふたつおろしておしゃれ
 おみっつおろして おひとつおろしておしゃれ
 およっつおろしておしゃれ
 おみーんなおしゃれ
04)お手玉の歌(3)
 おおみなおおみなだいせん だいせんだいせんだいせん
 のっくりやまくり やまくりやまくりやまくりあずき
 あずきはっかりあずきはっかり あずきもはかれた
 あずきとぎあずきとぎ あずきもといだ
 おこめはっかりおこめはっかり おこめもはかれた
 おっこめとぎおっこめとぎ おこめもといだ
 おみずながしおみずながしおみずながし おみずながした
 おっかまたきおっかまたき おかまもたいた
 ごはんたべごはんたべ ごはんもたべた
【お手玉
ヽ祇癲Г手玉(おてだま、御手玉)は、小さな布袋に小豆や米、ジュズダマ(数珠玉)の実などを入れ、数個を1組にして縫い合わせた玩具。また、それを使って遊ぶことを「お手玉をする」という
⇒靴喨:歌にあわせ、手をつかって、一定のルールのタイミングで放り上げて楽しむようなものが一般的。同時に複数の玉をほうり上げるなど難度をあげるなど技巧を楽しむことができる。
5源:お手玉らしき物を投げて遊ぶ女性が描かれた古代エジプトの洞窟壁画(約4000年前)が残っているが、欧州の遊牧民が袋に粒状の物を入れて遊んだのが始まりと言われている。
 日本では、奈良時代に中国から伝わり、当時は手ごろな大きさの小石や水晶を利用したことから石名取玉と呼ばれていた。実際に聖徳太子が遊んだとされる水晶も発見されている。
 現代のお手玉は、江戸時代から明治初期にかけて多く作られた。歌川広重による江戸後期の浮世絵『風流おさな遊び』にも、女児が遊ぶ姿が描かれている。

 お手玉は母から娘、孫へと、作り方や遊び方が伝承された。しかし、1950年代ころから核家族化が進行するとともに(祖母から孫への)伝承が難しくなり、また、多種多様な遊びがまわりに溢れるようになり、徐々に忘れ去られていった。
 現在では小学校などを中心に日本の伝統的な遊びとして受け継がれている。】
05)たちの歌(細割竹)
 ひとたちふたたちみぃたちよたち いつやのみかこさんがなないうて
 やっこらしょここらでとんで おさらいなされてきんつばよ
 ひとなげふたなげみぃなげよなげ     以下同じ
 ひとまわしふたまわしみぃまわし       〃
 ひとちんがらふたちんがらみちぃんがら   〃
 ひとねじりふたねじりみぃかえし        〃
 ひとかえしふたかえしみぃかえし       〃
【「細割竹」の詞から「北海道江差町郷土資料館友の会」ブログに辿り着いた。「竹バッタ」について次のようにある。「むかし、江差の女の子がしていた遊びです。札幌などでは「竹わり」ともいわれています。ながさ25センチぐらい、はば1センチぐらいの竹を使います。何本使ってもいいのですが、はじめは4本ぐらいが遊びやすいと思います。ほんとうは、うたをうたいながら遊びます」。同ブログに遊び用具の竹の写真が掲載。その写真を見て、イメージしたのと同じで両津にあったのを思い出した。
追記6/29:
 さらに検索するといろいろな情報を得た。
 崔欒笋蝓調べてみると.北海道,東北地方の方が竹割りの思い出をブログなどで書いておられるので,
 寒い地方の遊びなのかもしれません。北海道には竹がない(クマザサ等はありますが)ので,
 作るのでなく,わざわざ買って来たそうです。」
◆嵋務て擦帽圓辰浸に、「北海道開拓の村」という明治時代の建築物を再現してつくった野外博物館を訪ねてみました。どうしてそこに行ったかと言うと、北海道の伝承玩具ってなんだろうと調べてみたくなったから。・・・わたしが注目した遊びは「竹わり」。竹を菜箸くらいの太さと長さに切って、何本か両手(もしくは片手)に持って、歌にあわせて投げたり、持ち替えたりする伝承遊び。(ことばじゃ伝わりずらいのですが、竹を操るのがけっこうハードな動きになるのです)これが北海道ならではの遊びかどうかはわからなかったのですが、歌にあわせるところがミソ。・・・ちなみに、いただいた資料に載っていた歌は....
 【竹わりの歌】一(ひと)投げ 二(ふた)投げ 三(み)投げ 四(よ)投げ 五屋(いつや)の六子(むつこ)さん 七(な)にゆって 八(や)かましい 九(ここら)らでちょいと 大阪見物につきのよ というもの。」
「竹かえしのうた
1)ひと投げ ふた投げ みー投げ よ投げ
  いつやの むーすこさん
  なーんで やっこらせ ここのー とんで
  大阪見物 みーつがよ
2)ひと立で ふた立で みー立で よ立で
  いつやの むーすこさん
  なーんで やっこらせ ここのー とんで
  大阪見物 みーつがよ
3)ひとねじ ふたねじ みーねじ よねじ
  いつやの むーすこさん 
  なーんで やっこらせ ここのー とんで
  大阪見物 みーつがよ
4)ひとわけ ふたわけ みーわけ よわけ
  いつやの むーすこさん
  なーんで やっこらせ ここのー とんで
  大阪見物 みーつがよ
5)ひときり ふたきり みーきり よきり
  いつやの むーすこさん
  なーんで やっこらせ ここのー とんで
  大阪見物 みーつがよ
 数え唄ですね。1番から5番まで、わざの名前が入っています。1番『投げ』 2番『立で』 3番『ねじ』 4番『わり』 5番『きり』です。
 さて、今度は遊び方です。竹は4本使います。以下略(「おはなしどんぐり」サイト)」
 両津の場合は、『立ち』『投げ』『回し』『ちんから(?)』『ねじり』『かえし』の6番まである。それぞれに「やっこらしょここらでとんで おさらい〔復習・勉強〕なされてきんつばよ」は、「きんつば(金鍔:小麦粉で作った生地で餡を包んで焼いた和菓子)」は全国にあるとしとしても両津らしい。佐渡であれば、「もじゃむ」(茂左ェ門)で作った「きんつば」を略した「もじゃきん」という言葉が一般的なようだが。両津で育った私の場合、「きんつば」はよく分かるが、「もじゃきん」はピンと来ない。】
06)縄とびの歌(1)
 大波小波 まわせまわせ
 どんぶりばやしの あっぱっぱ〔「ぐるっと回して 猫の目」もある〕
【縄とびの歌は、大なわとび・長なわとびを跳ぶ際に歌われる遊び歌。
「大波 小波」で縄に入った人は左右に揺れる縄をとびこす。「どんぶりばやし」で縄が回転、「あっぱっぱ」で回っている縄を
片足で止め、またいで終わる。】
07)縄とびの歌(2)
 何々さんおはいんなさい さあよろし
 じゃんけんぽんよあいこでしょ
 負けたお方はでてちょうだい
【縄跳びしている時に名前を呼ばれたら、先にいる人のところへ入って、一緒に跳びながららじゃんけんする。負けた人が縄から出る。】
08)遊び歌(1)花いちもんめ
 じゃんけんぽんよあいこでしょ
 勝ってうれしい花いちもんめ 負けてくやしい花いちもんめ
 あの子がほしい あの子っちゃわからん
 その子がほしい その子っちゃわからん 
 どの子がほしい そうだんしましょ
 何々さんがほしい
【「はないちもんめ(花一匁)」は、2組に分かれて、歌を歌いながら歩き、メンバーのやりとりをする。値段が銀一匁の花を買う際に、値段をまけて悲しい売り手側と、安く買ってうれしい買い手側の様子が歌われているとされる
 歌詞は、地方によっていろいろある。
 遊び方
 1.それぞれの組は手をつないで一列に並んで向かい合う。
 2.前回勝った組から「か〜ってうれしいはないちもんめ」と歌の一節を歌いだす。歌っている組は前に進み、相手の組はあとずさりする。はないちもんめの「め」の部分で片足を蹴り上げる。
 3.今度は負けた組が「まけ〜てくやしいはないちもんめ」と歌って、前に進む。
 4.その後に、「タンス長持ち あの子が欲しい あの子じゃわからん 相談しましょ そうしましょ。」と歌の一節を交互に歌いながら前後に歩く。
 5.歌が終わると、それぞれの組で相談して、相手の組から誰をこちらの組にもらうかを決める。決まった組は「き〜まった」と叫ぶ。
 6.それぞれの組は手をつないで一列に並んで向かい合い「××ちゃんが欲しい」と前に進みながらもらいたい相手を披露しあう。
 7.双方の代表者がじゃんけんを行い、勝った組の主張どおりにメンバーがもらわれていく。
 8.片方の組からメンバーがいなくなれば終了。つづける場合には1にもどる。】
09)遊び歌(2)あんたがたどこさ
 あんたがたどこさ ひご〔肥後〕さ
 ひごどこさ くまもと〔熊本〕さ
 くまもとどこさ せんば〔船場〕さ
 せんばやまには たぬき〔狸〕がおってさ
 それをりょうしが てっぽでうってさ
 に〔煮〕てさ や〔焼〕いてさ  く〔食〕ってさ うまさのさっさ
【「あんたがたどこさ」は手まり歌のひとつ。歌詞は、熊本県熊本市(異説:埼玉県川越市)が舞台。正式な題名は肥後手まり唄。だが、「実際、唄われている歌詞は熊本弁ではなく完全な関東方言である、と古くから研究者の指摘が多い。熊本のことが触れられているだけで、熊本で生まれた童歌ではない、とする熊本の研究家も少なからずいる」。】
10)遊び歌(3)一かけ二かけ
  一かけ二かけて三かけて 四かけて五かけて橋をかけ
 橋のらんかん腰をかけ はるか向こうをながむれば
 十七・八のねいさんが 花や線香 手にもって
 ねいさんねいさんどこ行くの 私は九州鹿児島の
 西郷隆盛むすめです 明治10年そのときに
 切腹なされた父上の お墓まいりにまいります
 お墓の前で手を合わせ なみあみだぶつと目になみだ
 もしもこのこの子が男なら 師範学校卒業させ
 イギリス言葉を習わせて 梅にうぐいす止まらせて
 ホーホケキョと鳴かせます
【「一かけ二かけ」は、「手合わせ〔=2人が向かい合い歌を歌いながら決まった動作で手を合わせていく遊び〕、お手玉〔手毬もある〕などで歌われる」(wiki)。「最終的にはじゃんけんをするための歌」(ヤフー知恵袋)。
  2人向かい合っての手合わせを土台に進行。リズムは4分の2拍子遊びの例としては、1拍目は自分で手をたたき、2拍目は相手と手を合わせる形が3行目まで続き、それぞれ橋を架けるしぐさをする。この後いずれも各自自由な身ぶりとなり、最後の「ホーホケキョ」では、各自大げさな動作をし、「バイバイ」と手と手を合わする。あるいは、同時に手を合わせ、又互いに一方の手を相手の肩に掛け同時に逆方向に顔をそむけて一緒にならないことで楽しむやり方もある。
 他に有名な手合わせ歌としては、「茶摘み」「アルプス一万尺」「みかんの花咲く丘」がある。
 「手合わせ遊び」は、「こども園」ブログによれば、3歳児からの遊びで、「「東京都二本橋…♪」や「お寺の和尚さんが〜♪」と友だちと手と手を合わせて触れ合っています」とある。】
11)遊び歌(4)せっせっせ ぱらりとせ
 一番はじめの一の宮 
 二また日光東照宮
 三また佐倉の宗五郎 
 四また信濃の善光寺
 五つは出雲の大社〔おおやしろ〕
 六つ村上天王さん
 七つ成田の不動山
 八つ八幡の八幡宮
 九つ高野の弘法寺
 十にゃ東京心願寺
 これまで心願かけたのに 浪子の病はなおらない
 ごうごうごうごう出る汽車は 
 浪子と武夫が戦争に行くときは 白い白いまっ白い 
 ハンカチふりふりねぇあなた はやく帰ってちょうだいね
 二度と会えない汽車の窓 鳴いて血を吐くほととぎす
【「一番はじめは一の宮 明治後期から昭和時代にかけて、全国で歌われていた手まり歌・お手玉歌のひとつ」。ウィキペディアでの歌詞は、「はやく帰ってちょうだいね」まで】
12)遊び歌(5)下駄かくし
 下駄かくしとうねんぼ 白豆黒豆すっぽん穴から とうんね
 やはたのねずみが 米くうてチュー チューチューチュー
 ぬけたらどんどこ しょうのしょうの しょっくりしょ
【下駄かくしは、「鬼遊びの一つ。鬼のわからないような場所に、各自の片方の下駄または草履を隠し、皆が隠し終わったときに合図をして鬼に知らせる。鬼はそれを探し、最初にみつかった下駄の持ち主を、次の鬼とする。」下駄隠しの歌は、「鬼が探している間に、あとの者が片足跳びをしたり塀(へい)に寄りかかったりしながらなかば鬼をからかう歌である」(小学館:日本大百科全書(ニッポニカ))
 両津では「とうねんぼ」(千葉県の或ブログも同様)に対し圧倒的に多いのは「ちゅうれんぼう」。
 意味は、ヤフー知恵袋ベストアンサーによれば、「ちゅうれんぼう」でなく「きゅうねんぼ」で、これは蜜柑の一種で温州みかんの先祖とも言われているもので「くねんぼ」とも発音、漢字は「九年母」又は「九念母」で昔の子供たちのおやつなどで身近なものだったとある。「十年〔とうねん〕母」もあってよい】
13)遊び歌(6)れんげの花
   ひぃらいたひぃらいた れんげの花がひぃらいた
 ひらいたと思ったら いつのまにかつぅぼんだ
 つぅぼんだつぅぼんだ れんげの花がつぅぼんだ
 つぅぼんだと思うたら いつのまにかひらいた
【子どもたちが手をつないで輪を作りながら、「ひらいた」、「つぼんだ」の歌詞に合わせ、手を広げて大きな輪になったり、花がしぼむように小さな輪になったりする遊び歌として歌われた。 】
14)遊び歌(7)ずいずいずっころばし
 ずいずいずっころばし ごまみそずい
 ちゃつぼ〔茶壷〕にお〔追〕われて とっぴんしゃん
 ぬけたらどんどこしょ 俵のネズミが米食ってチュウ チュウチュウチュウ
 お父さんが呼んでも おかあさんが呼んでも  いきっこなぁしよ
 井戸のまわりに お茶わんかいたの だあーれ
【親指と人差し指でつくった茶つぼを、人差し指で順番に突きながら歌う。歌が終わった時に当てられた人は次の鬼になる。江戸時代に将軍へ献上するお茶を運ぶ様子、「茶壺道中」にちなんだ童歌と言われている。】
15)遊び歌(8)かごめかごめ
 かごめかごめ かごの中の鳥は いついつ出やる
 よあけのばんに 鶴と亀と出合った
 うしろの正面だーれ
鬼は目を隠して中央に座り、その周りを他の子が輪になって歌を歌いながら回る。歌が終わった時に鬼は自分の真後ろ(つまり後ろの正面)に誰がいるのかを当てる。各地方で異なった歌詞が伝わっていたが、昭和初期に山中直治によって記録された千葉県野田市地方の歌が全国へと伝わり現在に至った】
16)遊び歌(9)子守歌
 ねんねんねこのけつに かにがはさんだぁ
 ばあさんとってくれっちゃあ またはさんだぁどんどん
【子守歌にしては、賑やかそうで変だと思い、「ばあさんとってくれっちゃあ」は佐渡弁そのもの。そこで、調べると次の記事に出合った。以下、子守歌研究会「メールマガジンねこねこ通信36号」サイト。
「◆猫の尻に何が入ってきたの? 
 ねんねん猫のけつへ 蟹がはいこんだ
  一匹だと思ったら 二匹はいこんだ
  二匹だと思ったら 三匹はいこんだ
  三匹だと思ったら 四匹はいこんだ
 この歌は「上州の子守唄」と「あの歌、この歌 第九集−由紀さおり・安田祥子子守歌を歌う−」のCDで紹介されています。「羊が一匹 羊が二匹・・・」と子どもを寝かしつける時のオマジナイのような言葉と同じです。ところが入ってきたものは蟹だけではありませんでした。
 ねんねん猫のけつへ 蟹がはい込んだ
 蟹だと思ったら けえむし(毛虫)だ 毛虫ゃ毛だらけ 穴だらけ
 おまえのおけつはくそだらけ  (東京都)
 ねんねん猫のけつに 蟻が這い込んだよう やっとこすっとこほじくり出したら
 また這い込んだよ   (東京都)
 ねんねんねこの けつめどに(尻の穴) ありがはいり込んで
 痛かろ 痒かろ 取ってやろか (埼玉県)
 ねんねん猫のけっつ(尻)さ 豆が舞い込んだ おがさん取ってけろ 飛んでしまった
 ねんねん猫のけっつ 蟹にはさまれた かあちゃん取ってけろ 逃げてしまった  (岩手県)
 ねんねん猫の臀(けつ)ッ 烏が啄いた あれまた可愛そうに またつついた・・・。
 ねんねん猫の臀へ 蟹が這い込んで痛いとて 摘まんだら また這いこんだ・・・。 (長野県)
 ねんねん猫のしっぽ 烏がつっついた 一匹つつけば またつつく
 あれあれかわいそうに またつっついた  (静岡県)
 ねんねん猫のけつに 火が跳ねた婆さまたまげて お茶かけた  (福島県)
 ねんねん猫の尻尾に 火がはねた 婆さんたまげて 水かけた  (栃木県)
   (略) 
 リアルな表現です。他の唄は見ている人が「可愛そう、痛そう」と客観的なのです
が、この唄は挟まれた本人が痛がっているのです。これでは眠れませんね。
 他にも山梨県、茨城県、群馬県、千葉県、山形県、新潟県、広島県、山口県にも見
られました。眠らせ唄にも遊ばせ唄にもなる、楽しい内容です。」】
17)遊び歌(10)水師営〔すいしえい〕の会見
 【水師営は、日本では一般に
1905年日露戦争中の旅順軍港攻防戦の停戦条約が締結された遼寧省大連市旅順の水師営を指す。その時の日本代表は第三軍司令官・乃木大将、ロシア代表は旅順要塞司令官・ステッセリ中将。
 「水師営の会見」唱歌ができ、文部省編『尋常小学唱歌』第五学年用(例;大正2(1913)年5月28日発行、国定教科書共同販売所)となり、それから遊び歌になった】

 一、旅順開城約成りて 敵の将軍ステッセル
   乃木大将と会見の 所はいずこ水師営
 二、庭に一本なつめの木 弾丸跡もいちじるく
   くずれ残れる民屋〔みんおく〕に 今ぞ相見る二将軍
 三、乃木将軍はおごそかに み恵〔めぐみ〕ふかき大君〔おおきみ〕の
   大詔〔たいしょう〕を伝ふれば 彼れ畏〔かし〕こみて謝しまつる
 四、昨日の敵は今日の友 語る言葉も打ちと〔解〕けて
   我に愛する良馬あり 今日の記念に献ずべし
 五、さらばと握手ねんごろに 別れて行くや西東
   筒音絶えし砲台に ひらめき立てり日のみ〔御〕旗
18)じゃんけん遊び(1)
 一ざえもんがいも食って     二ざえもんが人参切って
 三ざえもんが酒飲んで       四ざえもんが酔っぱらって
 五ざえもんがごぼう切って   六ざえもんがろをおしい     
 七ざえもんがひじ〔肘〕ついて 八ざえもんが恥かいて
 九ざえもんが鍬かついで    十ざえもんが重箱かかえて
   えっさっさ
 そのまた後から ハイカラさんが
 袴〔はかま〕をはいて靴はいて 帽子をかぶって眼鏡をかけて
 すっぺらほんのぽん 
 じゃんけんぽん
19)じゃんけん遊び(2)
 ちっくりぱちくり 軍艦のって
 シベリヤ イタリヤ ベイコク フランス ドイツでしょ
 じゃんけんぽん
20)数え歌(1)
 一もんめのいすけさん いの字がきらいで 
 一万一千一百億 いといといと屋のお蔵に
 おさめて 二もんめに渡した オーライしょ
 二もんめの二すけさん 二の字がきらいで 
 二万二千二百億 にとにとにと屋のお蔵に
 おさめて 三もんめに渡した オーライしょ
   以下十もんめまで、くりかえす
20)数え歌(2)
 一つ ひゅうが〔日向〕の山道を 二つ 二人で行きました
 三つ 港の蒸気船         四つ よそから着きました
 五つ いづも〔出雲〕の大屋    六つ  向こうに見えました
 七つ 並んだ白い雲        八つ やっぱりありました

 
九つ ここまでやってきて     十にとっては おーさめた 
21)数え歌(3)
 一つ 二つはまだようが      三つ みかんを食べすぎて
 四つ 夜中に腹くだし       五つ いつものお医者さん
 六つ むこうの看護婦さん      七つ  なかなかなおらない
 八つ やっぱりなおらない     九つ 今度は死にそうだ
 十つ とうとう死んじゃった
22)数え歌(4)
 一、やましんじょ わしゃ石打たねど
  石屋なりゃこそ 石打ちまする
  わしゃ石打たねど ちんがらりんとかまえた
 ニ、やましんじょ わしゃ庭はかねど
  女中なりゃこそ 庭はきまする
  わしゃ庭草はかねど ちんからりんとかまえた
 三、やましんじょ わしゃ三味ひかねど
  芸者なりゃこそ 三味ひきまする
  わしゃ三味ひかねど ちんからりんとかまえた
 四、やましんじょ わしゃしわ〔皺〕よらねど
  年寄りなりゃこそ しわよりまする
  わしゃしわよらねど ちんがらりんとかまえた
 五、やましんじょ わしゃ碁はうたねど
  隠居なりゃこそ 碁をうちまする
  わしゃ碁をうたねど ちんがらりんとかまえた
 六、やましんじょ わしゃろ〔櫓〕をこ〔漕〕がねど
  漁師なりゃこそ ろをこぎまする
  わしゃろをこがねど ちんがらりんとかまえた
 七、やましんじょ わしゃ質はおかねど
  貧乏なりゃこそ 質おきまする
  わしゃ質おかねど ちんがらりんとかまえた
 八、やましんじょ わしゃ鉢売らねど
  鉢屋なりゃこそ 鉢売りまする
  わしゃ鉢売らねど ちんがらりんとかまえた
 九、やましんじょ わしゃ鍬もたねど
  百姓なりゃこそ 鍬うちまする
  わしゃ鍬うたねど ちんがらりんとかまえた
 十、やましんじょ わしゃ銃はもたねど
  漁師なりゃこそ 銃うちまする
  わしゃ銃はうたねど ちんがらりんとかまえた
23)数え歌(5) 
 しょうがんせ 障子あければまんざいの つつみや太鼓の音がする さあ音がする
 にがんせ 二度まいれば寺まいり あすは彼岸の中日だ さあ中日だ
 さんがんせ 桜ばなよりおひなさま おひなを飾って見事だよ さあ見事だよ
 しんがんせ 死んで又くるお釈迦さま 甘茶でこま茶で甘茶だよ さあ甘茶だよ
 ごがんせ 五月にもらった前掛けを 正月しめよとたぼといた さあたぼといた
 ろくがんせ ろくにしめなわよめなわと おうちへ帰ればごんぜんだ さあごんぜんだ
 しちがんせ 質においたり流したり 質屋のおふだは大切だ さあ大切だ
 〔はちがんせ 無し!?〕
 きゅうがんせ 草の中では菊の花 あれは子供の見事だよ さあ見事だよ
 じゅがんせ 重箱たがいてやってくる あれは恵比寿のお使いだ さあお使いだ
24)しり取り言葉
  陸軍の 乃木さんが 合戦す すずめ めじろ ろしや
  やばんこく くろぱときん きんたま まかろふ
  ふんどし しめた たかじゃっぽ ぼんやり
  り・・・・   はじめ〔陸軍の「り」〕にもどる
 【しりとり歌・「陸軍の乃木さんが」について、


                    係わりの地114:東京(庄や目黒408店)

                     こんにちは!自在業の櫻井です。
                     6月17日(日)は、東京目黒で関東支部石楠花会。昨年6月も同じく出席。記述は、当時「子供の遊び」シリーズ連載のため遅れ、記事は
                     石和温泉(中央本線・特急)10:37→12:11新宿(山の手線内回り)12:25→代々木・原宿・渋谷・恵比寿→12;37目黒→庄や目黒408店→目黒(山の手線内回り)→五反田・大崎・品川・田町・浜松町・。新橋・有楽町→東京17:17→19:24新潟。 
                    1.第49回石楠花会関東支部総会
                    ー‖
                     第1部 総 会(11:30〜)
                     開会の辞              司会  事務局長 北澤尚文(23回生)
                     1.関東支部支部長挨拶           支部長 大倉  剛(16回生)
                     2.ご来賓挨拶            佐渡市副市長 藤木則夫(26回生)
                         ご来賓紹介             事務局長 北澤尚文(23回生)
                     3.議   事
                      (1)会計報告                     加藤和夫(14回生)
                        会計監査報告                   岩原卓己(23回生) 
                      (2)石楠花会関東支部会則の一部改正(案)  北澤尚文(23回生)
                      (3)石楠花会関東支部役員の選任について      〃
                     4.その他
                     (1)「両津七夕まつり」について            磯野和也(13回生)
                     第2部 懇親会(12:30〜)
                     司会者                          渡辺広宣(31回生)
                     1.乾杯           東京両津の会 会長 白根四男也(08回生)
                     2.酒の陣・物販について       副支部長 祝 憲史(17回生)
                     3.余興
                      〔木遣り                     東京湊木遣り愛好会
                      芸妓組踊り(両津甚句)         東京両津芸妓踊り愛好会
                      佐渡民謡(両津甚句・佐渡おけさ・相川音頭)       若波会
                      い澆鵑覆罵戮蹐Α蔑慷戮蝓忘甘呂けさ              〃
                      イ澆鵑覆捻瓦う(両津高等学校校歌・応援歌)       全 員
                     両津高等学校校歌             両津高等学校の歌
                    作詞/木俣 修・作曲平井康三郎    作詞・作曲/松木 博
                    一、夏潮明る 両津湾         一、荒波四方に 打ち寄する
                       鴎は蒼き 空に呼ぶ          ここ佐渡ヶ島 両津湾
                      港の丘の 学び舎に          翠松かをる 白山に
                      青春われらの 声きほふ       立てる学び舎 我が母校
                      理想も高く 極めつつ         見よや眼下に みはるかす
                      明日に未来に 羽ばたかん      静けき加茂の 湖の
                      生々眉は  かがやけり        清きは我らが 心なり
                      ああ佐渡ヶ島 この両津        遥かに仰ぐ 金北の
                      われらが両津 高等学校       高きは我らが理想なり
                                          オーオ オ オー オッ 両高 両高 両津高 
                    ニ、白雪光る 金北山
                      み冬の鎮み 地にみつ      ニ、よしや嵐が 吹きすさび
                      白山ここに 集うもの          怒涛逆まき たけるとも
                      若人われらの 意気あがる      鍛え鍛えし 我等なり
                      知性も深く 磨きつつ          今ぞ示さん 我が友よ
                      つねに試練に 堪えゆかん      堅き我等が 団結の
                      堂々行歩 どどろけり          力と技の 成果をば
                      ああ佐渡ヶ島 この両津        血涙にじむ 幾筋の
                      われらが両津 高等学校       精進練磨の 輝きを
                                          オーオ オ オー オッ 両高 両高 両津高 
                    三、朔風和む 加茂の海
                      岸辺に小草 きよく萌ゆ
                      来むかふ春に さきがけて
                      新人われらの 血はおどる
                         実に強く 鍛へつつ
                      になう使命を 遂げゆかん
                      栄光すでに あふれたり
                      ああ佐渡ヶ島 この両津 
                      われらが両津 高等学校
                     4.中締め(水産節)                  田中長寿(30回生)他
                     5.閉会挨拶                幹事長 加藤和夫(14回生)
                       今回参加人員81名(前回90名)
                    20180617_132219
                    20180617_135940
                    2.特記事項
                    ‘鷦_顱眠餔制〕 故 高橋英司 偲ぶ会 同会場 
                          発起人   大倉 剛(16回生石楠花会代表)
                                       小池和利(17回生陸上部代表)                            
                    1)石楠花会の案内に、偲ぶ会企画の案内がは入っており、共に出席で返信。
                    2)高橋君は、高校時代1〜3年までの同級生。昨年同じ会で会った。会った時、「大病したんだってね」と声をかけられた。走るのが速く高校時代同じクラスの故木透健次君と国体陸上競技に出た。木透君とは小学1年からの近所友達。偲ぶ会で妹さんが「木透の妹です」と挨拶に来られた。
                    3)亡くなったのは、今年1月。それを知ったのは2月初めで同級生女子のブログによる。同級生が亡くなったあるだけで、誰かはわからなかった。3月初め同じブログに首都圏に居る同級生(中に神戸からも)19人が東京に集まって故人を偲ぶ会が行われたとあった。名前を知ったのはその後のことで新潟にいる同級生に電話をしていた時に聞いた。
                    4)石楠花会後の偲ぶ会に30人は集まったと思うが、陸上部での後輩も面倒見もよく人望が厚かったことがよく分かった。
                     正面には、個人の大きな笑顔の写真、両津高校時代活躍した写真などが飾られていた。
                     a、開会の辞、黙祷、主催者あいさつ、代表2人による挨拶・故人の思い出話、献杯、懇談。
                     b、同席に、副市長がいた。また、同じクラスではないが小学校4年まで同級の坂口ミズエさんもいた。私と彼女の席が前と後ろだった時があり、絵が上手だったので漫画の絵を描いてもらったり、絵の描き方を教えてもらったりとか全く覚えていない話を聞いたりした。私から中学2年の時小樽へ転校した本間弘子さんのことを尋ねると知っていた。今も小樽にいるらしい。10年ほど前佐渡に来たことがあるとのこと。小学1年の時、2人で家へ遊びにき来たのを覚えている。
                     c、会の途中で、辞去。
                    中川士郎さん
                    1)この4月に今年も石楠花会に行ってみようと思いながら 何気なく昨年の関東支部A4冊子にある参加者名簿を見ていると「中川士郎 14回生」に目が留まった。
                     氏名からして小学2年まで旭町に住んでいた時の2年先輩ではなないかとすぐ思った。「14回生」はまさに一致する。
                    2)その頃ブログ・テーマ「1950年代両津子どもの遊び」に取り組んでいる最中で、当時の旭町の浜辺の風景写真や七夕祭りの写真などを求めて時でもあった。そこで、連絡先を知るべく関東支部事務局へ問い合わせると、メールで住所(横浜の番地)まで教えていただいた。
                    3)早速電話すると繋がった。士郎さんとは中学・高校も同じだが会話したのは旭町に居た小学2年の時以来と思うから、63年ぶり。当人も覚えていて懐かしいと言っていた。私が佐渡についてのブログを書いており、インターネットを見ることありますかと問うと見ているというので、「佐渡広場」を紹介。
                     その後、石楠花会の案内通知があり電話すると、今年の石楠花会にも出席するとのこと。そこで、当時の旭町や七夕の写真をお持ちか尋ねたところ、写真は無いとのこと、佐渡にいる兄貴の所へ行けばあるかもしれないことで勧められた、また他に参考になりそうな資料があれば石楠花会の時に持っていくとのことであった。
                    4)会場で士郎さんと会った。
                    a、席にいると、「私知っていますか」とあいさつに来られた。顔を見るなり小さいとき一緒に遊んだ面影があり、すぐに分かった。いくつか資料を持ってきていただいた。
                    b、お父さんは、佐渡の郷土史家として著名な中川雀子(じゃくし)。
                     お借りした資料は、表紙が『佐渡おけさ起原考』 中川雀子(両津市夷) 佐渡博物館々報14・15合併号別冊 とある古い本。
                    c、お兄さんのことは、知らなかったが、同じく郷土家の中川紀元(のりもと)さん。
                     ァ、頂いた資料は、『佐渡郷土文化105 2004−6月』「佐渡の昔話『トキのたまご』と私」のコピー、
                     ィ、お借りした資料は、
                      顱法慘颪反遊繊戞文綉「支局日誌」(平成8年3月30日)に魅力の新連載「花の歳時記」に「『暦と人形』が今回で終了。佐渡にこれほど人形にまつわる話題が多いとは思わなかった。筆者の紀元さんは今度から昔話絵本「ときのたたまご」に集中という。ご苦労さまでした。」とある)『暦と人形』は、「H7、4、1日新潟日報佐渡版」に掲載されたのを、小冊子にした。
                      髻法悗蠅腓Δ弔里錣蕕戮Δ拭拑子は紀元さんの製本。以上2冊とも紀元さんが製本したものに相違ない。
                      ゥ、手先の器用さでも親譲りと感じた。雀子は土産用の土人形や子ども鬼太鼓用の鬼の面、竹細工での大きな鯛の作品などを作っている。調べると紀元さんも紙人形作家でもある。郷土史家と工芸作家を兼ねているのは、世に多くないことは事実。
                    d、上記3冊は、出版数が限られ在庫がないのであげるわけにはいかないということなので、お借りし1か月以内に返却することで快諾を得た。 
                      『暦と人形 紀元』冊子
                    20180624_103218
                     『りょうつのわらべうた』冊子(製本 中川紀元)
                    20180624_101737
                     e、私の方からは、『佐渡広場后戮魘狡茵そして、名刺を添えた。
                      すると、士郎さんも名刺を出し、交換となった。
                     名刺にAtelier ℕakagawa、ステインドグラス・グラスリッツエン教室、書道教室(書道 香瓔会同人)とあり、右半分に「ステインドグラスの六角型行燈『ひまわり』」と記された作品のカラー印刷、裏面には「グラスリッツエン 二段〇〔文字識別できず〕『カタクリの花』」の作品の白黒印刷がされている。
                     【追記:「書道 香瓔会」とは、「かな書道」の会で、『りょうつのわらべうた』の表紙の書は、士郎さんかもしれない】
                     e、 
                    庄や目黒408店から出席者全員にお土産として、大きな食パンを頂く。
                     (庄やについては、
                    2)帰ってから翌日新潟三越の行きつけのパンの専門店へ行って大きさは1斤だろうと思って比較するとそれよりも大きいのは歴然。店員さんに尋ねると、1斤半であろうととのことで業界での基本の大きさという。冷凍庫に入れればずっと保つとも話してくれた。
                    3)包装には、デニッシュ食パンMIYABIみやびと、製造者 (株)大庄 ミヤビ品川工場となっている。
                     なお、「デニッシュ食パンMIYAB」を検索すると、宅配業者の送料値上げに伴い2018年7月1日(日)のご注文分よ送料を改定させて頂くこと、ミヤビ品川工場売店は工場移転に伴い平成30 年5 月31 日をもちまして閉店のことが記されていた。
                    ね菁の関東支部石楠花会は第50回。それを記念して佐渡からオンデコを呼ぶことを閉会挨拶のなかで宣言していた。
                    ス参里砲弔い
                    1)これまでみんなして歌うことあっても歌詞を記すことはなかった。
                    2)記すことで、歌詞のもつ意味がよくわかってくる。
                     中でも一番の歌詞の「生々眉〔せいせい まゆ〕は かがやけり」の句は、リアルさが視覚に伝わって特にいい。
                     なお、どういう事情かわからないが高校1年の時の秋に新たに作られ、前の校歌は応援歌(前掲の「両津高等学校の歌」と言われるようになった。
                     新しい校歌の発表会が、短歌で有名な作詞の木俣 修先生と「平城山」で有名な作曲の平井康三郎先生をお招きし(2人でなかったかもしれない)、体育館に全生徒が集まって斉唱。その時のピアノ伴奏は音楽の村山真城先生(4回生:今年の石楠花会にもご来賓として出席)、指揮は私(クラブ活動・音楽部所属だったからだろう)。
                    3)校歌について忘れないよう記しておくが、歌ったのは中学1年の時だけという両津市立両津中学校の歌詞(曲も非常によい)がある。中学2年の時に加茂中学校と合併し両津南中学校となったため南中で校歌は別にあるが、忘れた。
                         両津中学校の歌詞
                      若き血潮の朝ぼらけ 水平線のかなたより
                      見よ日が昇る 希望は高くはるかうるわし〔麗し〕
                      ああ ああ 我らが丘の学び舎 両中 両中 両中
                    3.まとめ  
                     懐かしい人との出会いや発見があり、今後の記事の展開も開けてよかった。生々眉は 輝けり。
                     以上 2018、06、26

                    係わりの地113:笛吹市(山梨県)

                     こんにちは!自在業の櫻井です。
                     6月17日(日)JR山梨駅9:38発普通電車に乗り、酒折駅を通過し、石和温泉(いさわおんせん)駅着9:45。
                     目的地は笛吹市役所、目的は笛吹市役所を写真を撮り、佐渡広場の記事に載せる。
                     駅前にいるタクシーに乗った。
                     運転手さんに佐渡出身で新潟から来たと話すと、当人は2回佐渡へ行ったことがあるとのこと。のんびりとしていて、いいところですねーとのこと。また、佐渡は笛吹市と姉妹都市の関係にあることを知っている風であった。
                     なお、粟島〔新潟県岩船郡粟島浦村〕にも行ったと言う。
                     また、柏崎に親戚がある。小さいとき鯨波海岸で泳いで
                    溺れた経験があるという。その時、数年前上越市柿崎の上下浜海水浴場で長野県の親子ら5人が波にさらわれて亡くなった事故を思いした。その時は、ゴールデンウイークで地元の人は海に近寄らない高波。たとえ波はなくても離岸流によって沖へ流され水死することもある。そこは離岸流が起こりやすいう海といういう。また、泳げる人でも地域の海の特徴を知らないと危ない。仲間と海外でダイビングを楽しんでいるうち強力な海流に巻き込まれ全員が遠へ流され、そのうち一人が仲間に付いていけず離れ離れになり行方不明になったニュースも思い出した。
                     さて、話をしていると盆地を流れる川にしては大きな川が見えてきた。その川は、笛吹川とのこと。川に沿った道路を走っていくうち市役所(旧石和町役場)に着いた。出来たばかりの新しいシンプルでハイカラな建物の感じがした。それは、玄関が丸屋根(ドーム)、その脇にある市章と“”FUEFUKI CITY”の飾りのある出っ張った建物、左右は大きなガラス張りの明るい感じの洋風建築、建物の一番てっぺんは小さいながらも火の見櫓を思わせる堂々とした和風構築物によるからだろう。
                     笛吹市役所
                    1.笛吹市の概要 (ウィキペディア)
                    甲府盆地の東寄りに位置。2018年4月1日推計人口:68,641人。
                    甲斐国守護職だった武田氏は、武田信虎(?〜1574年)の代まで石和に居館があった。
                    9掌融代石和代官所があった。
                    2004年(平成16年)10月12日笛吹市が東八代郡石和町・御坂町・一宮町・八代町・境川村・東山梨郡春日居町合併により発足。市名は市内を流れる笛吹川による 。
                    2005年(平成17年)10月12日「桃・ぶどう日本一の郷」を宣言。
                    2013年(平成25年)4月 - 「日本一桃源郷」を宣言

                    Щ唆函Ψ从
                    1)農業

                     a、果樹(モモ、ブドウ、カキ)
                     b、花卉(バラ、キク)
                    2)観光:石和温泉郷
                    3)酒造 :甲州ワイン
                    4)特産品:黒駒の勝蔵(地酒:御坂町夏目原)
                    2.佐渡との係わり
                    1989年10月友好都市提携(旧 春日居町)。佐渡の場合は旧佐渡郡相川町。
                      なお、旧春日居町は、春日居村時代に石和町の一部(「鎮目」地区はその1つ)を編入。
                    ∈甘篭盪海鯢興させた名奉行に鎮目(しずめ)村(現笛吹市)出身の鎮目奉行がいた。
                    1)佐渡広場掲載の過去記事
                      「鎮目(しずめ)市左衛門は、元和4年(1618)〜寛永4年(1627)まで佐渡奉行をつとめました。甲斐国鎮目村の出身で、真田攻めでは七本槍の一人として活躍しました。
                     諏訪間歩を始めとして、33間歩を公費投入の御直山として取り立てたり、山主の費用で経営する自分山からの公納の定率化をはかり、山主の経営を安定させるなど、金山復興に力を注ぎました。また、相川の全町民に二割安米を常例化したり、金銀は総買上げ制にするなどの積極的な産金政策と経済政策に取り組みました。また佐渡小判や、佐渡一国通用の極印銀の鋳造を行なうなど、金山に活気を取り戻しました。
                     墓は弘化2年(1845)の造立で、長男惟吉の八代後継惟成、次男惟忠の八代後継喜一等によって現在の位置に建てられました。鎮目奉行の功績は、歴代の佐渡奉行のなかでも名奉行として今日に伝わっています














                    係わりの地112:甲府市(山梨県)

                     こんにちは!自在業の櫻井です。
                     明日6月17日(日)東京で旧新潟県立両津高校同窓会・石楠花(しゃくなげ)会の関東支部総会・懇親会に出席するついでに甲府市訪問。当初は会の後 甲府で宿泊し翌日月曜は役所も開くからちょうどよいということでホテルを予約したが、よくよく考えれば月曜は図書館休みと気づき、日程繰り上げ。
                     6月16日(土)当日の旅程は、次のとおり。
                     JR新潟駅9:20→東京11:28・11:55→(中央線高尾行)→新宿乗換え12:30発→(中央本線・特急)→甲府駅14:10→(徒歩:北口)→山梨県立図書館→(駅南口)(タクシー)→甲府商工会議所→ホテル
                      中央本線特急「かいじ」に乗り、八王子駅をを過ぎるとトンネルが多くなってタブレットが使えず仕方なく我慢、長いトンネル(笹子トンネルか)を2度通り抜けると、広い盆地が見えた。思わず「甲府盆地」という言葉が浮かんだ。特急はやがて塩山駅(甲州市)に停車。次の石和(いさわ)温泉駅(笛吹市)を過ぎたところで「山梨学院大学野球部」と表示されたグラウンドが見えた。何となく馴染みのある大学と思っていると正月の箱根駅伝を思い出した。次の終点・甲府駅に向かう時は、「山梨学院大学」と表示した建物が見えた。自由座席が、向かって左で運がよかった。
                    1.なぜ甲府か?
                    ‥豕都周辺の県で佐渡広場に取り上げていない県(最低でも訪問が条件)は、千葉・埼玉・神奈川・山梨4県のうち現時点千葉・山梨の2県のみ。前年6月は石楠花会後静岡県御殿場市に宿泊し翌日神奈川県横浜市訪問(今年4月は宿泊)、今年4月の埼玉県入間市に宿泊訪問。
                    入間市の場合、佐渡市と姉妹都市であったことによる。国分寺市も姉妹都市であるが、東京都に入ることで見送った。
                    1)ちなみに佐渡市の姉妹都市・提携都市は、次のとおり。順不同(ウィキペディア)
                     顱埼玉県入間市:姉妹都市(旧・両津市)
                     髻忙獲県笛吹市(旧・東山梨郡春日居町):友好都市提携(旧・相川町)
                     鵝謀豕都国分寺市:姉妹都市提携(旧・真野町)
                     堯某軍禪長岡市(旧・三島郡寺泊町) :親善友好提携(旧・赤泊村)
                     )新潟県柏崎市:夫婦(めおと)都市提携(旧・小木町)
                     )石川県珠洲市: 姉妹都市提携(旧・小木町)友好港湾都市提携(旧・小木町)
                     )長野県長野市(旧・上水内郡豊野町): 友好都市提携(旧・小木町)
                     )中華人民共和国洋県(陝西省漢中市):友好交流提携(旧・新穂村)
                    2)上記8都市のうち、現時点佐渡広場の記事にしてないのは、山梨県笛吹市・東京都国分寺市・中国洋県の3都市のみ。他の5都市は既にテーマにしている。(下記の記述は上記記述順)
                     顱
                     髻
                    上記の観点から今回笛吹市が訪問の第一候補であったが、歴代佐渡奉行に当地出身者がいたということで その事だけでは情報が少ないと感じていた。
                    1)そのため同市の隣の甲府市もどうかということで、係わりないと思いながらも念のため「甲府、佐渡」で検索。開くと思ったように関係ありそうな項目が、なかなか出てこなかった。
                    2)それでも「佐渡屋」という名の現在も有力な老舗や「佐渡町」という町名があることを知った。
                    3)「佐渡」という名前だけならそれほど珍しいものでないだろうと調べていくと、ご当地のブログに、佐渡町は佐渡代官〔=奉行〕の大久保長安が佐渡相川から金工を連れてきて移住させた地区から名付けられた・そこでは金貨も鋳造したという史料を基に紹介している記事(後掲)に出合った。
                    す檀椹圓忘甘篭盪海亡愀犬垢襦嶌甘歪」がかってあったということで、甲府訪問が決定。
                    1)当初は、「係わりの地:甲州(笛吹市、甲府市)」ということで記事になると思ったが、情報量は豊富という確信のもと、笛吹市と甲府市それぞれ別々でいくことにした。 
                    2)確信は、次のような連想が広がったことによる(すべて、要調査・確認)。
                     a、武田信玄の家来で金山経営に明るかった大久保長安が、信玄亡き後武田氏が滅亡し徳川家康に能力を買われ岩見銀山などを任され、更に佐渡金山発見後佐渡代官〔奉行〕となり、その際甲斐からも技術者を連れてきたこと
                     b、江戸時代初期の佐渡奉行に甲斐出身者が多かったこと
                     c、甲府市にも金貨鋳造所があったこと 
                     d、佐渡の正月の伝統芸能の・春駒〔佐渡弁で「はりごま」〕は、甲斐から伝えられたものではないかという説があること
                    3)甲府市に関係するとは限らなくても甲斐国(山梨県)という視点で上記の要調査項目を一つ一つ確認するだけでも、有益情報=コンテンツとなる。問題は、中味。

                    2.佐渡との係わり
                    (1)山梨県発資料(書籍所蔵等含む)
                     峙貭名を復活させたい 〜佐渡町、代官町〜」(資料:「山梨の魅力再発見 マットシルレ」HP)
                     「2013年9月号で、私ども「株式会社ニュースコム」の本社がある相生の歴史について触れました。
                    昭和の大合併を機に泉町、西青沼町、二十人町が相生1丁目に、相生町、泉町、二十人町、代官町、佐渡町が相生2丁目に、伊勢町、三吉町が相生3丁目になったとご紹介しましたが、今回はその中の佐渡町、代官町、二十人町の歴史を紐解きたいと思います。」
                         佐渡町・代官町付近地図
                    1512main
                      〔「甲府商工会議所の東側の通りが佐渡町」となる。佐渡町通りと命名してはどうだろうか?」〕
                      佐渡町の由来
                     「この地に大久保長安が甲州金鋳造所を建て、佐渡から金工を移住させたことにあると「甲府略史」に記されています。完全な外様でありながら、徳川家康の信頼を得て「天下の総代官」と称されるまで出世した大久保長安を知る人は多いですが、甲斐の国にこれほど縁があったことはあまり知られていない気がします。
                    大久保長安は金山開発や経理だけでなく、測量でも才能を発揮しており、一里=三十六町、一町=六十間、一間=六尺という基準も整え、甲斐国総検地で近世的村落成立の基礎も築いています。
                     甲斐の代官としての事務所は佐渡町の西隣にある代官町に構えており、それが町名の由来とのこと。
                     その他、代官町には与力や同心の屋敷もありました。与力とは町奉行を補佐する役職で、行政、司法、警察の任にあたり、同心は与力の下で庶務や見回りなどの警備を行っていました。代官町の更に西隣となる二十人町は、同心20人の組屋敷が設置されたことに由来します。
                     甲府城南方の郭外に位置するこれら3つの町は武家屋敷地であり、町名がその由来を伝えています。そのためでしょうか、明治期になると町の様相は大きく変化をしていきます。
                     佐渡町には、明治27年に三日町に創立された甲府米穀取引所が移転をし、大正12年には繭市場として丸三甲府繭糸商会が開設され、甲府、西山梨郡、中巨摩郡東部の産繭を一手に握り繁盛しました。
                     代官町には明治42年に相生小学校が建設され、相生町にあった本校、舞鶴城舞鶴館の仮教室、子守学校全児童1,200名が移ります。
                     昭和初期までは甲府市南部の伊勢町が発展する影響を受け、3つの町の人口は増加の一途を辿りますが、甲府空襲で全焼してしまいます。
                     様々な資料を探しましたが、残念ながら明治から昭和初期にかけての佐渡町、代官町、二十人町の写真を見つけられませんでした。もしかすると昭和初期ごろまでは武家屋敷地の面影が残っていたのかもしれないと思うと、空襲で焼けてしまったことが悔やまれます。もし当時の写真をお持ちの方がいらしたら、編集部までご連絡いただけると幸いです。・・・・文:川上明彦」
                    ◆峪獲県立博物館」サイト:「黄金の国々―甲斐の金山と越後・佐渡の金銀山―」企画案内より
                     「日本では戦国時代から江戸時代にかけて、金山・銀山の開発が活発に行われ、そこで生産された金・銀は貨幣や工芸品として国内だけでなく世界的にも注目を集めました。特に東日本では金の生産が盛んになり、戦国時代には黒川金山・湯之奥金山など甲斐の金山が、江戸時代には佐渡の金銀山が、代表的な生産地として知られています。
                     甲斐の金山では、金山衆と呼ばれる人々の活動により多くの金が生産され、甲州金という独自の制度が成立する基盤となりました。また江戸時代に最大の生産地となった佐渡においては、甲州をはじめ各地から移住した技術者・武士らがその発展を支えていました
                     本展では、戦国時代・江戸時代を代表する甲斐と越後・佐渡の金銀山を中心に、人々の営みや卓越した鉱山技術、製造された金銀貨の数々をとおして、かつて日本に存在した「黄金の国々」の姿を紹介します。」
                    1)「佐渡金銀山の隆盛
                     戦国時代、越後では下越地方を中心とした金山から、多くの金が生産されました。また佐渡では、戦国時代末期に相川金銀山が発見され、開発が進められると、人口5万人ともいわれる鉱山都市相川が成立します。佐渡では大久保長安など甲斐出身者も多く、金銀山開発を支えていました。」
                    2)「大久保長安像」大安寺像
                     甲斐出身で佐渡奉行となった大久保長安の木像。長安はもと武田家臣で、武田氏滅亡後には徳川家康に仕え、家康のもとで鉱山支配などで手腕を発揮しました
                    3)「江戸幕府奉行人連署状」個人蔵
                     江戸時代初め、甲斐から佐渡に移った辻茂右衛門の妻子が、佐渡までの道中の通行が保証されるよう、甲斐国奉行人が連名で諏訪・松本・松代・飯山・高田の各領内に依頼した文書。甲斐から佐渡への移動の様子がわかります。」
                    山梨県立図書館で書籍閲覧
                    1)『山梨百科事典』(山梨日日新聞社)
                     「佐渡町(さどまち):甲府市の旧町名。相生二丁目と太田町に含まれる組屋敷(武家屋敷)の町並みで金山奉行の大久保長安が代官の時に佐渡ヶ島の相川金山の金工を甲府に移住させて金貨を鋳造した所なので佐渡町と名付けられた。1965(昭和40)年の新住居表示実施中で廃止された」
                    2)『日本歴史地名体系第19巻山梨の地名』(発行:平凡社、編集:平凡社地方資料センター)
                     「佐渡町 現甲府市相生二丁目
                     片羽町一丁目から南へ光沢寺地内町に至る南北通りを表佐渡町、その西裏通りを裏佐渡町とよぶ。郭外武家地の一つ。東は柳町四丁目と緑町。町名は「甲斐国志」によれば、大久保長安が甲州金鋳造のため佐渡国から金工を移住させたことによるという。延宝2年(1674)の御鷹書付(県立図書館蔵)には佐戸(さど)町ともみえ、甲府家の御鷹部屋が設けられていた。元禄3年(1690)の甲府町絵図写(坂田家文書)には佐渡町の名が示されるのみであつるが、甲府藩領期には表佐渡町に代官・物頭・諸士の屋敷が並び(甲陽柳秘録)、享保9年(1724)以後は赴任した甲府勤番士の拝領屋敷が表佐渡町に12屋敷、裏佐渡町に8屋敷あった(裏見寒話)。表佐渡町東側の北端で片羽町に接してせり駒場屋敷があり、寛文(1661ー73)初年に始まり享保20年まで毎年2月に開かれた駒市は各地から集まる駒売人と買付人で賑わった(「御用留」県立図書館)。その後市場跡は畑地となり、城下の希望者に小作地として貸付けられている(宝暦3年「駒市場小作金書付」同館蔵)。またこの駒場屋敷の南に甲金吹所があった(享保末年「甲府絵図」坂田家文書)。明治8年(1875)深町とともに近在の4ケ村と合併して稲門村となる」
                    ぁ嶌甘呂燃萍した甲斐の人々 武士の部」サイト(sky.geocities.jp/yamanasikeikan/sadonokaibito
                    1)一覧表になっているおり、NO91まで記述。欄外に、「未完 現在も追加しています。情報をお寄せください」とあり。
                    2)項目欄の構成
                    左最上欄から右端へ7つの欄あり;NO、本国・先祖・出仕年暦・家禄、氏名・役職・年齢〔享年だろう〕、拝領地〔相川町の町名〕、禄高、菩提寺〔相川の寺院。中に空欄もある〕、由緒・家暦、出展〔?:出典。佐・相と相・郷と相・墓の3種あり〕
                    3)例
                     NO1:甲斐、大久保長安、次の5欄はいずれも空欄
                     NO2:
                    甲斐・助右衛門・出仕履歴慶長元年(1596)・20人3人扶持、大村佐太平・武者所並役・辰23才、会津町、20人3人扶持、大安寺・法界寺、享保5年、55俵に被元多田浦目付け役、佐・相〔『佐渡相川郷土史事典』だだろう〕。
                     NO3:甲斐・石見・太郎右衛門・十左衛門慶長6年(1601)、久保貫一郎・銀山方定役過人・辰38才、
                    地獄谷、20人3人扶持、法泉寺、元地方掛、佐・相。

                     NO5:甲斐・佐渡・角兵衛・慶長6年(1601)、伊沢熊蔵・銀山方定役過人・辰36才、下戸炭屋町、20人3人扶持、妙法寺、空欄、佐・相。
                     NO6:甲斐・権兵衛・慶長9年(1604)、井上大蔵・広間役・辰54才、弥十郎町、50俵、大安寺、寛永7年50俵に被滅 元広間役、佐・相。
                     NO9:甲斐・作太夫、古屋作右衛門・倅弥一郎・御雑蔵役・辰25才、五郎右衛門町、20俵3人扶持、専光寺、本国甲州、浅野紀伊守に仕、慶長十年当国え渡海並高通被下御奉公相勤、寛永十年卒、佐・相。
                     NO11:甲斐・忠左衛門・寛永13年(1636)、高野忠左衛門・定勘定役助過人・辰61才、下戸町、20俵3人扶持、妙体寺、元定役格筋金所役、佐・相
                     NO12:甲斐・高野忠右衛門、空欄、空欄、空欄、元祖 忠右衛門・本国甲州、父高野済・・・忠右衛門、慶長九年渡海、元和三年並高之通被下御奉公相勤、寛永十五年・・・卒・二、権左衛門 生国甲州、父高野忠右衛門、母・・・明暦・・・卒、相・墓。
                    サ貂甘歪付近の光景
                    1)まずJR山梨駅到着し北口出口の横断歩道橋を渡り降りたところに山梨県立図書館があり、そこで書籍問合せ、閲覧、メモ・コピー。
                    2)その後戻って同駅南口出口でタクシーに乗り、運転手さんに行先のホテル名を言い(ホテル名を聞いただけで歩いてすぐですよと言ったが)、その前にかって「佐渡町」があったとされる甲府商工会議所前の通りを写真撮ってからと告げた。
                     (甲府商工会議所前通り)           (同会議所裏通り)
                    20180616_15415920180616_154655
                     運転手さん言うには 商工会議所裏通りは昔タクシー運転手がよく休憩していた場所で、仲間内では「佐渡町」 と呼んでいたとのこと。                                          
                    (2)佐渡発・その他発資料                                            
                     崑腟彿歡弘造佐渡代官〔奉行〕となり、その際甲斐からも技術者を連れてきたこと」
                    1)「大久保長安について」(「国指定 記念物 佐渡金銀山遺跡 大久保長安逆修塔」(「佐渡の文化財」佐渡市HP)
                     「佐渡代官大久保長安(1545〜1613)が自身の冥福を生前に祈るため、慶長16年(1611)に建立した石塔で、長安が逆修寺として建立した大安寺の境内にある。

                     「長安は甲斐国(山梨県)の出身で、武田の支配末期に田辺十郎左衛門のもとで黒川金山の経営に携わった後、徳川家康の家臣となり、慶長5年(1600)に石見銀山、同8年に佐渡金銀山、同11年に伊豆金山の経営を命じられた。佐渡では、鶴子にあった陣屋を相川に移し、相川の町割を整備したほか、鉱山を「御直山(おじきやま)制」と呼ばれる直営形態で経営し、佐渡金銀山繁栄の礎を築いたが、死後財産は幕府に没収され、一族は処刑された。

                    この逆修塔は、笏谷石製の石造宝篋印塔1基を、切妻平入の石祠内に収納した形式のもので、一部に後補材がみられる。塔身は正面以外無地で、正面に蓮華座上の月輪が、基礎石には連子表現と格狭間の表現が線刻され、「逆修」「大久保石見守殿」等の刻銘とともに建立年が刻まれている。」
                    2)(参考)「甲斐からも技術者を連れてきたこと」(「コラム そも意気や、壮!」「第47回流通のインフラを整備する●先端技術による鉱山開発と民政につくした大久保長安」(文/撮影 泉秀樹))
                     「通算102名にのぼる佐渡奉行のなかでも、大久保長安の存在は抜きん出て大きい。
                     長安は役人50名、随行80名を従えて派手派手しく相川に新設された陣屋に入った。
                     連れていた者も、あとから佐渡へ招いた者も圧倒的に甲斐(山梨県)出身者が多かった。信玄以来の鉱山開発・用水土木技術に長じた「甲州流」の技術者によるプロジェクトチームである。彼らによって慶長のはじめには十数戸しかなかった相川の集落はたちまちのうちに本格的な人口20万の鉱山都市へと変貌していった。
                     山師の名前がつけられた町や木材町、石扣【いしはたき】町、味噌屋町、京町、大工町など。選鉱のために鉱石を洗う鮎川は濁って濁川【にごりがわ】と呼ばれるようになり、遊廓はさんざめき、開かれた大澗の港には船の帆が行き交った。まだ世界に人口20万以上の都市が10都市もなかった時代だから巨大都市である。
                     元和元年(1615)には地子【ぢし】銀(固定資産税)百三十貫(金ニ千六百両)、運上の筋金二十一貫、運上銀六千貫(十二万両)、砂金四貫、小判三万五千両を幕府に納めた。ということは、少なくともこの4、5倍の金銀が産出されていたということになろう。
                     それまで鉱石の比重を利用して鉱石を流水で選別する方法や灰吹法などの金銀精錬が行われていたが、長安は水銀で金を熔かしてアマルガムをつくり、更に熱して水銀を蒸発させて金銀を抽出したから産出量が飛躍的に増大したのである。キリシタンから先端技術を教えてもらったという。」
                     【記述は具体的で明快であるが、資料と掲げるには出典、根拠となる記録・データ、又は推理プロセス明示が必要】
                    ◆峭掌融代初期の佐渡奉行に甲斐出身者が多かったこと」。以下、太字が甲斐出身(甲府関係者含む)。 
                      その根拠について、新潟県立図書館で『佐渡金銀山の史的研究』(田中圭一著)と『佐渡金銀山史の研究』(長谷川利平次著)で探したがなく、佐渡奉行を11代目まで個々に調べた。
                    初 代:大久保長安 
                    2代目:大久保山城(おおくぼやましろ)[田辺安政]【生没】生・没年不詳
                     大久保の本姓は田辺氏、長安が甲州で鉱山業の役人をしているとき、田辺十郎左衛門という銀山衆の元で働いていた。安政は田辺十郎左衛門の子、佐渡に来て大久保長安の家臣となり、大久保氏を称した。慶長年間、佐渡陣屋に勤務し地方をつかさどった。「川上家文書」に、長安から米代金について、山城宛の指示文書がある。慶長十八年(一六一三)、大久保長安の死によって、大久保氏が佐渡から追放されるが、山城は田辺と姓を変え、元和四年、竹村・鎮目両奉行が着任するまで、佐渡金銀山代官としてその任を果たした。(「歴史オタクの郷土史グルメ旅」サイト)
                    〔3代目:間宮直元。相模出身。祖父が、豊臣秀吉の小田原城攻めの際の功績から、子孫が徳川家康公の直臣として取り立てられた。(「歴史オタクの郷土史グルメ旅」サイト)〕  
                    〔4代目:安藤弥兵衛:下麻生の安藤弥兵衛は三河譜代の家臣で、上野国にも知行地を持ったと言われ、後に佐渡金山、伊勢山田奉行に任じられました。(「柿生文化」(川崎市麻生区)サイト)〕
                    5代目:鎮目惟明(市左衛門) 詳細は次号「笛吹市(山梨県)」
                    〔6代目;竹村嘉理(九郎右衛門)。大和国竹内村にて誕生(ウィキペディア)〕
                    〔7代目:竹村嘉英(弥太郎)。嘉理の子(ウィキペディア)〕
                    〔8代目:設楽貞清。設楽(しだら)氏は、三河国設楽郡設楽郷(現・愛知県)が発祥とされる(ウィキペディア)〕
                    〔9代目:高木道光。不詳〕
                    10代目:花房幸家。不詳〕
                    11代目:伊丹康勝(播磨守江戸時代前期の旗本、大名、勘定奉行。甲斐徳美藩(拠点:山梨県甲州市塩山)に所在の初代藩主。武田勝頼の重臣であった伊丹康直の三男として駿河清水で生まれる。父は各地は今川氏の家臣となっていたが今川氏の没落後は武田氏に仕え、武田氏が滅ぶと徳川家康の家臣となり、康勝も幼少期から家康に仕えた。慶長10年(1605年)に秀忠が将軍職を襲職して以降は江戸での勘定頭として、駿府城での松平正綱とともに幕府の財政政策に携わり、佐渡奉行をはじめ天領の管理も担当。元和8年(1622年)の本多正純の改易では上使として山形に赴き、正純の詰問に成功。正純失脚の一役を担った。寛永元年(1624年)には新将軍徳川家光に属した。寛永10年(1633年)2月には、徳川忠長改易後の甲斐に入り、甲府城番を担当し、同時に3,000石の加増を受けて大名に列し、徳美を居所とした。その後の甲府城番を担当し、同時に3,000石の加増を受けて大名に列し、徳美を居所とした。
                     勘定奉行の身ながら老中並みに幕閣の中枢に参与した。秀忠付の老職・土井利勝の後ろ盾を得て辣腕を振るったが、その立場を利用して大名家へ金を貸し付けたり、自らの縁故者を要職に就けたりと専横が目立つようになった。それを見兼ねた家光は、寛永10年(1633年)9月、松平正綱とともに勘当を言い渡し、事実上失脚させた(表向きの理由は旗本への知行地配分の失敗)。寛永11年(1634年)5月に天海の口添えで赦免されて復職するものの、以前の如く数多の職掌を兼ねることはなかった。(ウィキペディア)
                    「甲府にも金貨鋳造所があった」
                     「金座は、当初江戸以外にも駿府・京都・佐渡、後に甲府にも置かれたが、後で江戸に一本化された。但し、1701年(寛政3)鋳造を停止された京都・姉小路車屋町にあった金座はその後も廃止されず、禁裏御用の金細工及び上方における金職人統制などを後藤家の支配に従って幕末まで行った。また、佐渡と甲府の金座も文政年間(1818〜1830)まで鋳造が行われていた。」

                     (「係わりの地84:東京(日本橋・金座・銀座)(その1)」:出所「ウィキペディア」「金座」)
                    ぁ嶌甘呂僚婉陲蓮甲斐から伝わったのではないか」

                     「佐渡と同じように古くから金山として名を知られる甲斐(山梨県)の黒川にも春駒があると知っていってみた。戦国時代の武将武田信玄をはじめ、武田一軍を経済的に支えた金山として有名である。・・・佐渡金山奉行が設置されて以来、大久保長安、田辺山城など甲斐出身者が奉行にあったことから、当然労働者や技術者を連れていったと考えられているし、そうであるなら春駒も伝わったと推測されている。しかし佐渡と黒川金山(今は一の瀬地区)の春駒に違いもある。そのひとつは、佐渡が当時の賎民(今の同和地区)の門付芸として行われていたのに対して、黒川では当時の平民の祭りとして行われたことである。もっとも黒川の春駒に門付芸の名残りがあるとする考えもあり、そうだとしたら初期の段階で賎民(旅芸人として)が伝え、金山に定着した可能性がある。一方、はっきりと両者の共通性を示すところがある。それは両者とも養蚕の唄ではないことだ。・・・黒川(一の瀬)の春駒唄のひとつはつぎのようである。
                     昔、若い時ゃ黒川山で 夜も昼もと金掘りしたが
                     武田滅びて今日この頃は しわくちゃ婆と畑掘る
                     黒川金山が閉鎖されたのは1640年頃と考えられている。閉山後金掘りたちは山を下りて、一の瀬や秩父股の沢、佐渡相川などへ移住した。黒川金山(一の瀬)の春駒はそのような歴史をもって現在までつづいている。」

                    3.甲府と甲斐
                     甲府と甲斐の位置・地位などにつき、何かわからない面があったのでまとめた。(ウィキペディア)
                    々檀椶論里ら甲斐の中心地であったか
                    1)甲斐国(かいのくに)
                    a、7世紀に成立した律令国の一つで東海道に属し、駿河国から甲斐国に通じる支線があった。
                    、室町時代には鎌倉府(南北朝時代に室町幕府が関東統治のため設置した機関)の影響下にあったが、上杉禅秀の乱を契機に争乱状態となる。
                    c、戦国時代に甲斐国は守護武田氏により国内統一され、武田信虎から晴信(信玄)期にかけて甲府に府中が移転され、甲府盆地北縁の相川扇状地に居館である躑躅ヶ崎館が築造され、要害山城や後に甲府城が築かれる一条小山などの支城が築かれて府中防衛体制が整えられ、館を中心とした城下町の整備が行われた。
                    d、
                    織田・徳川勢力による武田氏滅亡後は領主変遷が激しく、織田信長の家臣河尻秀隆らによる一時的な統治、信長が横死した本能寺の変後の政治的空白では徳川氏・北条氏が武田遺領を巡り天正壬午の乱が発生。
                    e、豊臣政権時代には関東8か国を領した徳川家康に備えた最前線となり、羽柴・加藤・浅野氏など豊臣系大名が配置。
                    f、江戸時代には東海道や中山道とともに甲州街道が整備。そして甲斐は江戸幕府の政治的・経済的中心地である江戸防衛の戦略正面と位置付けられ、甲府藩が成立、徳川一族や譜代大名による統治が行われた。
                     享保年間には幕府直轄領化され甲府町方は甲府城に詰める甲府勤番(江戸幕府の役職)による支
                    配、在方〔地方〕は三分代官支配となり、幕末に至った。
                    △覆次甲府に金貨の鋳造所を設置したか?
                    1) 「東京(金座等々)」をテーマにした当時は、江戸の他 駿府は家康の居城、京都は金細工職人の後藤家の本拠地・金細工製品ニーズの高い禁裏・公家の居る土地柄でわかるが、甲府については甲斐は金の産地という知識に止まり、問題意識を喚起しなかった。
                    2)江戸幕府の時代甲府藩が徳川家の一族や譜代大名の領地となった。幕府直轄領〔天領〕に近かった。
                    4.まとめ
                    々檀榾問は、いわく因縁のあった「佐渡町」がすべて。
                    △っての町名が合併等々により無くなり、知る人がいなくなることに危機感を感じての発信ブログに出合ったことが大きい。
                    D名には、歴史ロマンが隠されている。それは、町の文化でもある。
                    ぁ嶌甘倭蠕鄰篭茲猟名」をテーマにしたいことは前々からあり記してはいたと思うが、甲府訪問を機会に年内には記事にしたいテーマではある。
                     その場合、町名の由来を知ることは重要だが、同時にデータ比較分析による発見を狙いとしている。例えば、都市(厳密には街うち)の世帯数と「町名」数(何丁目はいくつあっても町名数は1つ)との関係。
                     【相川は、千世帯当たり町名数は、全国的に抜群ではないか!また相対比較だけでなく、町名数は、人口何万都市、ひょっとして何十万都市に匹敵するか?の絶対数比較もある】
                     なお、甲府市にも「相川町」という町名がある。県立図書館で資料を閲覧していた際気づいたものだが、追及しなかった。また、コピーした資料名『山梨の地名』(前掲)を書き留めていないのにホテルの部屋に入って気づき、確認のため翌日開館時刻9:00に合わせ再訪。ついでに「相川町」の由来を調べると、相川という川に因んで名付けられた旨のことが書かれ、佐渡の相川とは関係ないことがわかった。それでスッキリした気分で甲府を後にした。
                     以上 2018、06、20






                    歴史スポット91:1950年代両津子どもの遊び(29)まりつき

                     こんにちは!自在業の櫻井です。
                     今回テーマ「まりつき」 は、前々号「コマ」がいわば男児の代表的遊びの一つであるのに対し女児の代表的遊びの一つ。
                     従って経験は殆どないはずだが、よくよく思い起こせばやった経験はあり、他の仲間もやっていたと思う。念のため複数の同世代人に確認すると、女の子の遊びだがやったことはあるという確証を得た。
                      そのため、自信をもってテーマとした。
                     問題は、突き詰めればそれによって何を発見できたか、最低でも何に気づいたかにある。
                    1.「まりつき」とは
                     屬泙蠅弔」を検索すると、次のようなものが出た。
                    1)「まりつきとは - コトバンク」
                     (世界大百科事典内のまりつきの言及「手鞠」より)「…糸を巻いたまり,またはそれを用いたまりつき,まり遊びのこと。日本で古くから行われていた
                    蹴鞠(けまり)から派生したもので,手でまりをつき上げていたと思われる。…」
                    2)「手まり - Wikipedia」
                     「手まり(てまり、手毬、手鞠)は、日本に古くからある遊具(
                    おもちゃ)のひとつである。「新年」の季語。当初は、芯に糸を巻いただけの物であったが、16世紀末頃より、芯にぜんまい綿などを巻き弾性の高い球体を作り、それを美しい糸で幾何学的に巻いて作られるようになった。ソフトボールよりやや大きく、ハンドボールよりやや小振りのものが多い。
                     婦人や女児が屋内外で下について遊んだ。室内ではひざまずいてつくこともある。江戸中期以後とりわけ流行し、特に正月の日の遊びとして好まれた。
                     明治の中期頃からゴムが安価になり、よく弾むゴムまりがおもちゃとして普及して、手でついたり(地面にバウンドさせて)あるいは、空中に打ち上げて遊ぶ。女児のおもちゃで、江戸から明治期には、正月の遊びとされるが、現在では通年の遊びとなっている」
                    3)「まりつきとは - Weblio辞書」
                     「鞠をついて遊ぶこと。また,その遊び
                    4)「毬突き/鞠突き(まりつき)の意味 - goo国語辞書」
                     「まりをついて遊ぶこと。また、その遊び」〔内容は、上記と同じ〕 
                    5)「ほいくらいふ」サイト:昔ながらの正月遊び11選「手まり」
                     「遊び方
                     はじめは、お手玉のように上に投げて取る「あげまり」という遊び方が主流でしたが、よく弾む”まり”ができると地面について遊ぶ「つきまり」が盛んになりました。
                     由来
                     平安時代の蹴鞠(けまり)が、次第にお手玉ような手で遊ぶおもちゃへと発展してきました。江戸時代には織り糸の端を利用して作られていたので、染め色が美しいことから女の子に贈る風習ができ、女の子の遊びになっていったそうです。」
                    6)新潟県長岡市栃尾地区「栃尾てまりまつり」サイト
                     かつて紬の産地だった栃尾では、古くから紬の残り糸を利用した手かがりてまり作りが盛んでした。てまりは、玩具としての用途とは別に幼子がてまりのように丸々と健やかに育つように、という願いを込めて、祖父母から孫達へ節句や慶事の贈り物としても使われました。制作実演・体験会と3,000個を超える展示・即売会が開かれ、そのあでやかな美しさは見る人の心をとりこにします。
                    7)「彩(いろどり)手まりの会」サイト:「手まりの歴史」
                     「蹴鞠から手まりへ

                     日本古来の伝統的なてまりの起源は、飛鳥時代に中国から渡来したといわれています。その頃の手まりは鹿皮でつくられており、貴族の人たちの「蹴毬」という遊戯につかわれていました。
                     大化元年(645)、中大兄皇子と藤原鎌足が中心となり蘇我氏を倒して大化の改新を行いました。志を同じくする2人を結びつけたのが、当時貴族の遊戯であった蹴鞠であったことは、歴史上有名なエピソードです。
                     鎌倉時代にもたびたび蹴鞠の会が催され、今でもその名残として、鎌倉の鶴岡八幡宮や京都の平安神宮で奉納行事として行われています。
                     このように足で上に跳ね上げて遊んでいたまりも、次第に空に投げあげて遊ぶ技に移行したようで、これが大衆化したのは室町時代です。蜘蛛舞の法師が大道芸として、手まり歌を歌いながら曲まりの技を見せたのが評判となり、広まったといわれています。
                    まりは日本の文学にもしばしば登場します。紫式部の「源氏物語」や清少納言の「枕草子」にも登場し、室町後期に蹴鞠の名家で知られた飛鳥井雅康が永正3年(1506)蹴鞠の和歌を100首あまり詠んでいます。
                     江戸時代の井原西鶴も、女のまりについて「好色一代女」に書いており、一茶の俳句にもでてきます。手まりで有名な良寛も漢詩や歌に手まりを詠んだものが多数あります。また江戸時代の版画師、歌麿の作品の中にも婦人手業として、てまりをかがっている絵があります
                     一方、皮の毬から蚕糸(絹糸)を巻いて作るまりになったのもこのころのようで、御殿で奥女中たちが蛤などの貝類にかけらや砂を入れて、真綿で包み、五彩の絹糸でかがってその技を競いました。姫君は御嫁入りのときに相手の家を丸くおさめるようにとの願いから大切に持っていきました。
                     現在「御殿まり」とか「姫まり」などとよばれている名は、これに由来するもので、「南部姫まり」「加賀御殿まり」など、絢爛たる絹糸かがりのまりが、今でも名残をとどめています。
                     上流階級から一般庶民の楽しみへ
                     このように平安、鎌倉、室町時代には上流階級のものであったてまりが、近世以降民間に広くいきわたるようになったのは、綿が栽培されて木綿糸がたやすく手に入るようになった江戸時代中期以降といわれています。一般庶民の家庭では幼い子供の玩具として、祖母や母親たちが好んで作っていたようです。
                     このころの手まりの芯は、暮らしの中で必要に応じて、身近なもの、手に入りやすいものを求め、いろいろ工夫していました。例えば、養蚕の盛んな地方では、屑まゆを真綿でくるみ、漁村では海草や海綿を、山村ではぜんまいの新芽についている綿毛を丸めたり、農村ではもみがら、そばがらや燈芯(畳表にするイ草の芯)を丸めたり、古い布切れなどを古い糸や機織りの残り糸で巻き、球状にして、その上をわずかな色糸で模様を表したものでした。これを作った庶民にとっては、この上なく美しいまりに思われたに違いありません。
                    一方、沖縄や奄美などの南方の島々のまりも庶民的なものが多く、星型や三角形、直線などの組合せた模様は、魔よけを意味しているようです。沖縄の古い手まりには蝶の模様がかがられているものがありますが、これは中国で八八歳のお祝いの時に使われる模様と同じといわれています。中国から南方の島々を渡りながら入ってきたのでしょう。わが子の健康と長寿を願う親の愛情が伝わってきます。
                     九州や四国には、ひな祭りに手まりを飾る習慣が残っています。鹿児島の「金スケ毬」はカンナ屑などを丸めたうえを綿でおおって、その上に白地や赤、緑の縮緬に豪華な刺繍をしてあります。士族の奥方や娘さんたちの晴れ着などを利用して作られたようで、彩の美しい糸でかがって、模様を表したものもあります。
                     手まり遊びも江戸後期には女の子の遊びとして広く普及していきました。手まりをつくとき、数をかぞえることから手まり歌」が歌われるようになり、各地方によって様々な形式のてまり歌が残っています。
                     文溪堂出版の「てまり TEMARI」 文・尾崎敬子氏より引用させていただきました」

                    ⇒靴喨(資料:「滋賀県甲賀市」HP「昔のあそび−まりつき」サイト、他ウェブ記事)
                    1)人数は、2人から大勢。
                     a、一人ずつ鞠(まり)を歌にあわせて、鞠をつく。
                      ァ、鞠つき歌「あんたがたどこさ」
                      「あんたがた どこさ 肥後さ 肥後どこさ 熊本さ  熊本どこさ 船場さ 船場山には タヌキがおってさ それを りょうしが鉄砲でうってさ 煮てさ 焼いてさ 食ってさ それを 木の葉で ちょいとおっかぶせ」
                      ィ、鞠つき歌「いちりっとらん」
                      「いちりっとらん いちこうし しらほけきよの しらほけきょの高千穂よ りょうてんかん」
                    (以下10まで続く)
                     次は「にりっとらん」で、「じゅうりっとらん」の「りょうてんかん」で終わる。
                     b、節の最後(「さ」の音の時)でまりを手の甲にのせたり、片足をあげてまりをくぐらせたり、体を1回転してついたりする。
                     c、「ちょいとおっかぶせ」は、まりを股の間をくぐらせ、後ろ手でお尻のあたりで、鞠つき歌が終わるのに会わせてキャッチして完了。
                     d、誰かが途中で失敗すると交代。まりがたくさんあれば、その分みんなが同時にできる。
                    2)まりつきの各ステップでの技(わざ):まり=玉とする。
                     いちりっとらん:右足を回し玉をくぐらせる
                      ,い舛蠅辰函Ф未鬚弔だけ
                      △蕕鵝Пβを回し玉をくぐらせる
                      いちこう;玉をつくだけ
                      い掘Пβを回し玉をくぐらせる
                      イ靴蕕曚韻ょの高千穂
                      Δ茵Пβを回し玉をくぐらせる
                      Г蠅腓Δ討鵝Ф未鬚弔だけ
                      ┐ん:玉を股の間をくぐらせ後ろ手でつかむ
                      ,北瓩辰董屬砲蠅辰箸蕕鵝廖Ф未鬚弔だけ。以下、繰り返し。失敗したら最初からやり直し。    
                     にりっとらん:股の下から手を回してつく〔一般に「らん」の終了ごとに難しいつき方になる〕
                     さんりっとらん:足で踏むようにつく
                     よんりっとらん:膝でつく
                     ごりっとらん:右足ですって玉を右後ろから前へ回す
                     ろくりっとらん:右足をすって玉を前から右後ろへ回す
                     しちりっとらん:左足をすって玉を左後ろから回す
                     はちりっとらん:左足をすって玉を左後ろから前に回す
                     きゅうりっとらん:右後ろから玉を回す
                     じゅうりっとらん:ついた玉が地面に落ちる前にクルッと一回りする
                     りょうてん  :〔玉を前でつく〕
                     かん     :球を股の下をくぐらしてつかむ
                    2歳から5歳の幼児の年齢層別に合った「ボール遊び」(資料:ママ・パパのための情報メディア「KIDSNA」 キズナ)
                    1)2歳におすすめ:体のバランスを取れるようになり、まっすぐ歩き、転んだりすることも減ってくる。
                     a、ボール渡し
                     b、腹ばいになってコロコロ
                    2)3歳におすすめ:
                    投げる・蹴るなどの動きがまだ難しいところがあるが、ボールを転がす遊びが楽しめるでしょう。
                     a、ペットボトルでボウリング
                     b、ボール当てっこゲーム
                    3)4歳におすすめ:用具を使った動きも加わり、投げる・つかむことも上手にできるようになってきます。
                     a、箱などの入れ物に向けてシュート
                     b、バウンドパス
                     c、足でキャッチ
                    4)5歳におすすめ:複雑な動きもできるよになってきて動きもなめらかになってきます。ルールを伴う遊びも自分たちで工夫して楽しめるようになってくるので、子どもとルールを決めて遊びを作っていっても楽しいでしょう。
                     a、投げてキャッチ
                     b、後ろ投げ
                     c、ドリブル(連続ボールつき)
                    こ姐颪覇本の「まりつき」に相当するものは?
                     a、現時点、「ボールつき」を含め見当たらない。(ボール投げ、ボールけり等はある)
                     b、一方、「コマ」は世界各地にみられる。
                      

                    2.経験・記憶
                    1)あまり記憶はなかったが、「まりつき」のユーチューブ動画、イラストと解説を見て、玉をついている時に右足を回し玉をくぐらせるとかやったのを思い出した。
                    2)右足を挙げたまま右手を肘の下に回して玉を数回連続させてつくくらいなことはやった。
                     鞠つき歌を唄いながらリズムに合わせてやったであろうが、そのことは覚えていない。どんな競争をしたのか等々も同様。
                    3)遊んだ場所は、仲助のイカ干し場の築地通りに面し藤木の建物寄りの空き地か同じく本町へ上がる道の角に面した空き地で、いずれも平らで硬い土の地面。
                    3.まとめ

                     まりつきは、日本独特の遊びで文化を形成している。
                    1)日本独特というのは、他国ではボールを長くつくことを主とした遊びは見あたらないからである。
                     a、蹴ったり、転がしたり、ぶつけたり、バウンドさせたり、投げたり、捕ったり、打ったり、入れたり等々はどこにもあるが、「つく」こと中心は他に無いのではないか。
                     b、明治以降鞠からゴムボールになり、「つく」技がいろいろ考案された。
                    2)文化というのは、
                     a、鞠が着物の生地や糸の端材を使って作られたもの(裁縫、刺繍〔ししゅう〕)で、家庭でも作られ、地域の工芸品になったり
                     b、単なる遊びの用具としてだけでなく、飾りものとして置かれたり(つるし雛にもある)、女児の成育祈願の贈り物としてあったり、
                     c、まりつきには無形の歌(歌詞、曲、リズム)が伴う
                     ことにある。
                     以上  2018.06.15











                     











                     
                      




                     












                    歴史スポット90:1950年代両津子どもの遊び(28)ローラースケート

                     こんにちは!自在業の櫻井です。
                     今回テーは、メインテーマ「両津子どもの遊び」としては異質。
                     ローラースケート自体、当時多くの子どもがやっていた遊びでなく、一緒でなく個人的に楽しみ、且つお金を払ってする遊びだからである。
                     しかも、得ている地元資料・情報量は、極端に少
                     そうしたなかで敢えて取り上げたのは、ローラースケート場が当時人口8千人の両津町(要調査。細かくは子ども人口把握は不可避)にあったという事を記価値はすあるという確信による。 
                     それをベースにした比較研究による新たな発見を含む価値ある情報量の増加に期待。
                     
                    1.梶井照雄氏からの情報
                     昔安照寺の境内に一時期ローラースケート場があり、やった経験があるが、この5月26日(土)梶井照雄宅訪問の際、ついでにそのことを尋ねてみた。〔その後の電話での聴取を含む〕
                    1)氏が小学3〜4年(1955〜1956)頃、高山という島外の業者が、2年くらい営業した。
                     住職と檀家総代等の話し合いにより、場所を貸すことに決まった。
                    2)スケート場の周囲には金網を張った。
                    3)久保さんという両津の人が、受付や足の寸法を聞いたりして貸し靴を選んだりした。
                    4)30分いくら1時間いくらというような設定料金があった。
                    5)大人も多くローラースケートをやった。
                    6)両津でのローラースケートの年代や内容をハッキリさせるなら、佐渡中央図書館で過去の新聞記事や会報から探し出すという方法はある。
                    2.私の経験・記憶
                    1)小学3〜4年の頃ローラースケート場ができ、そこで2〜3回はローラースケートをした。
                     スケート場といっても、境内にある一定範囲(楕円形)の地面をコンクリートで固めたもので、屋根付きではない。その中に木があった〔後日梶井氏に確認するとイチョウで今もあり大きくなっている〕。なお、本来なら木はスケートには邪魔だが、幹につかまって休むのにちょうどよかった感じがする。
                    2)やったのは、日中でなく夜間で、辺りは暗い中 明るいライトを受けて行った。
                     (「日中でなく」というのは、日中は近所の仲間との他の遊びがあり、一方ローラースケートはお金も要し、みんんなが一緒になってする遊びではないことによるものだろう)
                    3)料金は有料。いくらだったか、覚えていない。
                      また、30分でいくらとか1時間でいくらとかの時間制限の有無、終了時刻は何時か等々も覚えていない。
                    4)利用者は、小学高学年から中学・高校生が主で中には兄ちゃん風の大人もそれなりにいたように思う。
                    5)冬のスケートは、既にやり始めた年代でスケートに比べ、滑るのが楽という印象があった。
                    6)直接には関係のないことだが、築地時代風呂は末広湯(市郎左衛門(いちろじゃむ))を利用(夷本町が入口だが、裏の神明町側から家の中の長い通路を通って入っていった)。春日町に「月の湯」が出来たということで、新しくて珍しいからわざわざ夷新にある「星の湯」を通り越し歩いていったのだが、途中の細道でスケートをしている光景に出合った。(月の湯が、何年にできたかわかれば、ローラースケート場がいつあったかはっきりする)
                    3.渡辺和弘氏(住まいは、安照寺に近い)からの情報
                    〇甞設の「佐渡人名録」サイトの「両津の昔を記す‐遊び」サイトにある「ローラースケート」
                     「私が小学校の頃でしたが、1,2年間位の短い期間、安照寺さんの今の車庫になってる広い敷地にローラースケート場がありましたね。確か新潟の業者が経営してた気がします。あか抜けた人達が何人もいましたねえ。きれいなお嬢さんがすいすい滑ってたのを覚えて居ます。経営者のお嬢さんあたりじゃなかったかなあ。セメントをはって周囲を柵で囲ったなかなか本格的なスケート場だったからかなり資本を投下したんでしょうがねえ。全国的にローラースケートブームがあった気がします」
                    ∋瓩謀渡辰靴銅,里海箸わかった。
                     1)営業時間は、日中から夜。
                     2)冬期間は、休業。
                     3)お金かかるから、ローラースケートはしなかった。但し、外から見るのは無料で、多くの人が見ていた。経営者は、見てもらうのを歓迎の様子だった。
                     4)「経営者のお嬢さんあたり」というのは、年齢的には中学後半か高校前半で、みんなから注目を集めた。
                     5)山田・小池の両先輩〔10歳以上離れている。当時高校卒かどうかの年代〕は、ローラースケート場のことはは殆ど知らない様子。〔言われてみれば、当時は広く見えたスケート場も今日見れば狭いスペース。5月訪問時も思い出し、こういう場所でローラースケートをしていた回顧したものだ〕
                    4.ウィキペディアからの情報
                    ローラースケート(英語: roller skates)とは、車輪を靴底に取り付けて地面を滑走する運動用具。
                    ⇔鮖
                    1)世界
                     a、ローラースケートの起源については諸説あり。18世紀初頭のオランダで夏用のスケートとして作られていた、1743年のロンドンで演劇に使われていたとも言われる。

                     b、記録として残る発明者は在イギリスベルギー人のジョン・ジョセフ・マーリンで、1760年にパーティで自身が使用したとされるが、広まっていない。

                     c、1863年米国にて最初のクワッドスケートが発売。安全で簡単に楽しめる遊具として広まり、ニューヨークシティやロードアイランドのニューポートに専用のリンクが開設された。

                     d、1979年のアメリカにてローラーブレード社のインラインスケートが発売。
                    2)日本
                      日本では道路交通法によって「交通のひんぱんな道路」でのローラースケートが禁止されている。
                     a、1877年(明治10年)頃に日本にローラースケートが紹介され、1895年頃から普及し始め、1903年に日本体育会がスポーツとして導入。1910年浅草ルナパークのローラースケート場が竣工。1913年(大正2年)に子供達の間でローラースケートが大流行、これをきっかけに広く一般にも広まり第二次世界大戦まで全国で次々とローラースケート場ができた。
                     b、1948年(昭和23年)岡山県の紡績工場にて、女工がローラースケートを履いて作業を効率化する試み
                     c、1952年(昭和27年)に関東、関西、中部、四国、九州各地区にローラースケート同好会が発足している。
                     【ローラースケートは、1952年頃から全国で盛んになった。その3〜4年後佐渡にも仮設であるかローラースケートができた】

                     d、1953年(昭和28年)第1回全日本スピード・フィギュア選手権大会が、1960年(昭和35年)に第1回全日本ローラーホッケー選手権大会が、それぞれ岐阜県大垣市で開催。

                     e、1968年(昭和43年)からテレビで「ローラーゲーム」が放映されると、子供達の間で一躍ブームとなり、靴の上から装着する安価なローラースケートが広まった。

                     f、1975年(昭和50年)スケーターを対象としたディスコ「那覇ローラースケートランド」が沖縄に開店。米軍基地に隣接していたこともあって外国人の利用も多く、音楽と照明に合わせて滑る楽しさから、「ローラーディスコ」として各地に飛び火した。新宿「ツバキハウス」で日本で初めてのプロ・ローラーディスコチーム「ピンクローラーズ」が結成された。

                     g、1970年代後期アイススケートの夏場の練習用としてインラインスケートが現れた。1989年頃からスピードが要求されるホッケーやスピード競技にインラインスケートが取り入れられ、利用者が広がった。

                     h、2000年代にはローラーシューズの一種「ヒーリーズ」が登場し、子供達の間で流行した。
                    インラインスケート
                    1)アイススケートのブレード(刃)状に、細いウィールを縦一列に配置したローラースケート。通常は片側4輪だが、用途によって2輪や5輪も存在する。
                    2)主な大会
                     a、国際インラインスケート 岐阜長良川大会

                    通称「ぎふ長良川カップ」。1995年から1500人以上が参加して岐阜市の長良川公園で行われている国内最大規模の大会。毎年11月上旬に開催される。
                     b、開催競技
                      インラインクロス、インラインホッケー、ロードレース

                    5.まとめ
                    「ローラースケート」での発見は、佐渡において主に子どもを対象とした島外からの常設興行の最初であったこと(最後とは言えない)にある。
                    1)「興行」とは、「ひとつの会場に大衆を観客として集め、観客から入場料をとる代わりに娯楽を提供する行為」(ウィキペディアに)。
                    2)過去に島外から佐渡に来ての興行例〔いわば「ドサ回り〕
                     a、慶長17年(1612)『佐渡年代記』より
                     「佐渡銀山近年繁盛し京大坂の遊女歌舞伎群集し国々より踵を継ぎて来たれる商客金穿の夫里に耽り財産皆尽きて故郷に帰ることを得さるによって必佐渡へ往ものは本国にて3年を限りて帰るへし其期を過は死没すと思ふへしと父母妻子に告て離別すと聞ゆ」

                      「(1892年真野にある風呂屋に入ったとき)10年前に東京の寄席に出たことのある○○が寄席に出る旨の表示があったので、「さても成程、成程さても、ハハアとばかり感服なして、正太夫が見ば何と評することならむと、おもへばおもふほど可笑しくなりぬ」

                     8時過ぎになった時、役者が15人乗りますから、お客さんは奥の方へ移ってくれという。奥は2等室だが、薄暗いため誰も入らずにいた。いまに窓を開けて空気の流通をよくしますという。いずれもドヤドヤ立って行く」「手品師の一行であることがわかった」
                    3)1950年代の佐渡での興行には、サーカス・大相撲巡業・映画(何本立て映画)・演劇などがあった。
                     a、サーカスは、ほぼ毎年夏にシバタサーカス(本拠地:新潟県新発田市。興行師・柴田隆英氏経営の柴田観光の一部門。1963年解散)が夷の諏方神社の境内に「シバタ大サーカス」と銘打った大きなテントを張って興行。木下サーカスも来たような覚えがある。
                     b、大相撲巡業は、小学5年の時・1957年と思うが1度だけ来て諏方神社の土俵を使って稽古をしているのを観た。当時横綱の千代乃山・栃錦も来て対戦。〔すると、出羽ノ海一門の巡業かもしれない〕
                      【サーカス・大相撲巡業は、主に子どもを対象としているが常設ではない】
                     c、映画・演劇は、両津には映画館・劇場として橋本座が1925(大正14)の地図にあり、1955年過ぎた頃両津会館(当初観光客対象で佐渡の民謡等)ができた。
                      【映画・演劇は、常設の映画館・劇場があったが、殆どが大人対象。例外の例は次のとおり。
                     当時子ども映画の代表的なものに1955年公開・鰐淵晴子主演の「ノンちゃん雲に乗る」がある。
                     また、湊の仙宅さんは、園児から小学生くらいまでの女児に踊りを教えており、橋本座で定期的に(年にせいぜい2回か)発表会を開いた】
                      【よって、ローラースケートは、「主に子どもを対象とした島外からの常設興行の最初」と言うことができる】
                    1950年代は、史上最大・未曾有の子ども人口。
                     1)子ども人口は、1955年前後がピーク。佐渡も同じだろう。
                       当時は、3人に1人が14歳以下の子ども。今は10人に1人強で、佐渡の場合は極端に子どもの割合は低いだろう(要調査)。
                         全国総人口・子ども人口推移
                       (「子ども」:14歳以下。単位:万人)
                      暦年       総人口  子ども 子ども割合  
                      1950(昭和25) 8,320  2,943  35.4%
                      1955(   30) 8,928  2,980  33.4
                      1960(   35) 9,342  2,807  30.0
                      1965(   40) 9,827  2,517  25.6
                      1970(   45)10,372  2,482  23.9
                      1975(   50)11,194  2,723  24.3
                      1980(   55)11,706  2,752  23.5
                      1985(   60)12,105  2,604  21.5
                      1990(平成02)12,361  2,254  18.2
                      1995(   07)12,557  2,003  16.0
                      2000(   12)12,693  1,851  14.6
                      2005(   17)12,777  1,759  13.8
                      2010(   22)12,806  1,684  13.2
                      2015(   27)12,691  1,617  12.7
                       「国勢調査」「人口推計」による人口。
                       2015年は4月1日現、その他は10月1日現。
                     2)当時は、産業も娯楽も子ども市場に注目。そうした中で、一時であったが佐渡にローラースケート場が現れた。

                     以上  2018.06.13


                      














                     










                    歴史スポット89:1950年代両津子どもの遊び(27)コマ

                     こんにちは!自在業の櫻井です。
                     今回テーマ「コマ」は、前々号の「縄跳び」同様
                     「d、コマ(独楽):3つの競い方(資料:ウィキペディア)
                      ァ、回転する時間を競う
                    同時に回して、速く倒れた方が負け、といったものである。
                      ィ、ぶつけ合う
                    土俵を決めてそこで回転させ、互いの独楽をぶつけてはじかれたら負け、といったもの。
                     ひねりゴマでは相撲取りの模様をつけ、小さな土俵型の円盤で遊ぶ相撲ゴマ、投げゴマやベーゴマがそれである。佐世保独楽は木の塊の胴体に金属の釘を突き刺しただけの構造で、これを互いにたたきつけ合い、相手の独楽をかち割る。
                      ゥ、技を競う
                       例:投げゴマの技
                        特定の場所を決めて投げる、いったん遠くへ投げつけておいて手元に引き寄せる、自分の手のひらの上に投げる、綱渡りなど」 
                     なお、コマの次は「e、縄跳び」。同じくァ、ィ、ゥの3項目あって字数は「コマ」よりも遥かに少ない。それでも、なんとか記事に仕上げた。
                     それ以前にも、
                     では、なぜ今回「コマ」か?振り返ると、先月26日(土)梶井照雄宅を訪れ「縄跳び」「栗拾い」などについて聞いた事が大きい。
                     「縄跳び」にも使った荒縄を両津では「ぐな」と呼んでいたのではないかと問うと、「コマを回すのに使った紐のことではないか」と回答。その時、「成程そうかもしれない」と思った。
                     それが、意識下で働いていた。
                     訪問後のテーマ((  )は確認・キッカケ)は、次のとおり。
                     05月29日号「(23)栗拾い・栗採り」(氏の経験談)
                     05月31日号「(23) 音出し遊び」(氏の「かんしゃく玉」がキッカケ)
                     06月01日号「(24) スズメ捕り」(特になし)
                     06月03日号「(25) 縄跳び」(縄を「ぐな」と言っていたか、安照寺の境内でもやったかの確認)
                     06月05日号「(26) しりとり」(特になし)
                     06月08日号「(27)コマ」(氏から「ぐな」はコマに使う紐と聞いていた)


                    1.はじめに:コマに使ったという「ぐな」の正誤
                     屬阿福廚郎甘亙曚隼廚い覆らも、念のため「紐、ぐな」で検索したが、手応えなし。
                    ◆屬阿覆△辰拭∈甘蓮廚眛韻検そこで、「ぐな、佐渡弁」とすると「佐渡弁(相川弁?)をなつかしむ」サイトが出て来て、「ぐな=麻ひも」とあった。それで、「ぐな」は佐渡弁で紐に間違いないことがわかった。
                    「ぐな」の内容不足は否めず「佐渡方言集」と検索すると、「c ihii「図書‐佐渡方言集」→「国立国会図書館サーチ」→「佐渡方言集  矢田求, 1860-1940,矢田求 編著 佐渡新聞社出版部 1909 国立国会図書館デジタルコレクション」に行き着いた。
                    1)『佐渡方言集』
                     a、書の原文(写真)が閲覧。書のページを開けるようになっている。
                     b、書の「凡例〔序文〕」の終わりに、「明治40年〔1907〕10月22日 編者識」とある。
                     c、内容
                      「ぐな:又ぐ勿〔な〕は、具縄ト云へルナルベシ、細キ麻縄ヲイフ、モト烏賊〔イカ〕釣具二用フル縄ヲ具縄ト云ヒシ ヨリ一般二〇〔多〕用スルニ至ルナラン 紙鳶〔しえん:凧=いかのぼり〕二用フルヲイカノグトノミモ イヘリグナグナハノ〇〇ナリ」
                    2)上記から、
                     a、「ぐな」は、イカ釣りに使う「具縄」に由来。
                     b、イカ釣り用だから 細く丈夫、長いと想像でき、
                     c、凧あげにも用いられた。
                    3)結論
                    1)「ぐな」は、細くで丈夫で小箱などを締めて結び、持つのにも広く使われ、それらを総称して佐渡では「ぐな」と言った。元はと言えば「イカ釣り具縄」で、それが簡略化され「ぐな」になった。
                     着眼[鮖謀に日本一のイカ釣り技術のあったとされる佐渡ならではの方言が誕生。
                      「日本一のイカ釣り技術」を記した過去記事
                       
                       
                     着眼中心的用語が、同じように細い紐・縄であれば「ぐな」と呼ばれていった。
                       ビニール紐を現在60代以上の人が佐渡で「ぐな」と呼んでも、なんらおかしくないだろう。
                    2)コマを回すのに使う紐を「ぐな」と言ったが、コマ専用の「ぐな」は、市販されていた(要調査)。
                      凧揚げ用の紐・糸も「ぐな」であるが、細すぎてコマには使えない。
                      コマ用の「ぐな」は、感覚的には縄ではなく、太めの紐で白っぽい色をしていた。太めの紐を適当に切って、コマに使っていた記憶はない。

                    2.コマ(独楽)
                    〜扱2017年09月21日号「両津子どもの遊び(04)」からコマに関する記事の再掲
                    「ぅ灰
                     1)回っている相手の駒を真上からやっつける「てっぺん」という技術があった。
                     2)大勢が同時にコマを回し、だれの駒が一番最後まで回っているか、「息の長さ」を競った。個人戦は勿論、団体戦もあったかもしれない。
                     〔書き込み中思い当たったが、「息の長さ」を競うやり方・技術として、確かコマを回した紐で自分のコマを高速回転している芯棒(木製より鉄製が多かった)に軽く触れながら移動させ、相手のコマと接触させ、相手のコマの回転をl急速に弱め、早く倒したりした〕
                     3)コマはツルヤの他に城の腰の小川屋に売っていた。
                      《参考》コマ(独楽):ウィキペディア
                     [鮖
                     a.コマは世界各地でみられる。極めて古い歴史を持つ。
                      ァ.エジプトでは紀元前1500年ごろの独楽が発見。木製で円柱の下を逆円錐に削ったもので、ぶちゴマ〔叩きゴマとも言い、独楽の胴体の側面を、鞭のようなもので叩いて回すもの〕と考えられる。
                      ィ.古代ギリシャにもぶちゴマやひねりゴマに関する記述が見られる。
                      ゥ.ヨーロッパでは17世紀頃から投げゴマに関する記述や絵が見られるようになる。
                      ェ.19世紀末からは、工業の機械化や加工技術の進歩によって、より複雑な独楽が工夫されるようになった。コマの性質を工学的に応用したジャイロスコープ〔物体の角度(姿勢)・角速度・角加速度を検出する装置で船や航空機やロケットの自律航法に使用〕もこの頃実用化。
                     b.日本のコマの歴史
                      ァ.6世紀頃ぶちゴマのような出土品。平城京跡や奈良県藤原宮跡などから7〜10世紀頃と思われる独楽、または独楽型の木製品出土。
                      ィ.日本でも江戸時代に「独楽が大進歩」。博多では精密で長く良く回る独楽が作られた。博多ゴマと呼ばれ、現在まで伝わる曲芸ゴマの始まりとなった。
                      
                    ゥ.江戸の子供たちは巻貝を加工した小さな独楽の回しっこをしていたことが伝えられており、これが明治中期に金属となって現在のベーゴマになった。
                      「ベーゴマも当初はぶちゴマであったらしいが、次第により強く回せる投げゴマに変化」。ぶちゴマは江戸中期に次第に投げゴマに取って代わられ、昭和後期には皆無に近く、投げゴマが日本では独楽の標準となった。この形の独楽は永く残り、昭和末まではどこの駄菓子屋にも置いてあった。
                     ェ.昭和末期より投げゴマはすたれ始める。
                      顱望学生は1981年(昭和56)1192万4653人をピークに減少。2014年の小学生数は約660万人。【33年前の1981年に比べ▲532万人と55%の水準】
                      髻1983年(昭和58年)に任天堂より発売されたファミコンを初めとする家庭用ゲーム機がバブル期にかけ広く普及。
                      鵝縫丱屮觀糞い砲茲辰読堝飴魂然覆上昇し、子供が遊んでいた空き地が減った。
                      堯紡眠杙匆阿妊灰泙山をなした風景は現在では見られず、機械式の回転装置をもつ室内遊戯のコマに代わった。 
                     c.現代のコマの話題
                      ァ.1999年「ベイブレード」(カラ/タカラトミーから発売されている現代
                    版ベーゴマ)が出て子供の間でブームになった。投げゴマでない。室内玩具で、「ベイブレードで外で遊ぶ子はほとんどいません(ヤフー知恵袋)」
                      ィ.2011年から全国の中小製造業が自社の誇りを賭けて作成したコマを持ち寄り、一対一で戦うコマ大戦が行われ、2012年2月2日には、横浜みなとみらい21地区「テクニカルショウヨコハマ2012」にて、第一回全国大会G1が開催。優勝したコマは、(株)由紀精密のコマで、レプリカモデルが販売。コマ大戦にて使用されるケンカゴマは直径20mm以下、一円玉より小さいコマで、その小さなコマを製造業が設計し、切削機や旋盤などのプロの機械を用いて自社の持てる技術を全て注ぎ込み作成。
                     競いコマ:「曲芸ゴマ」「賭けゴマ」は略。
                     1)回転する時間を競う
                       
                    同時に回して、早く倒れた方が負け、〔最後に残った方が勝ち〕といったものである。
                     2)ぶつけ合う
                       土俵を決めてそこで回転させ、互いのコマをぶつけてはじかれたら負け、といったもの。
                     3)技を競う
                      a.投げゴマの技
                       特定の場所を決めて投げる、いったん遠くへ投げつけておいて手元に引き寄せる、自分の手のひらの上に投げる、綱渡りなど。
                      b.空中ゴマの技
                       投げ上げる、他人との間で投げ合う、綱渡り、紐昇りなど。
                     (参考は、以上) 
                    ▲灰泙亡悗垢訥謬

                    1)ウィキペディア「独楽〔コマ〕」より
                     コマの種類
                     ァ、ひねりゴマ
                      何の道具も使わずに回す独楽のうち、指先だけで回す最も簡単なコマ。
                     ィ、手よりゴマ
                      大きいものは、指先では回せないので、軸を手のひらに挟んでこすって回す。もみゴマともいう。
                     ゥ、糸巻きゴマ
                      軸に紐を巻き付けほどく事で独楽を回す。
                     ェ、投げゴマ
                     顱縫灰泙瞭溝良分に螺旋状に紐を巻き付け、コマ本体を放り投げることで回す。
                     髻貌本では投げゴマがコマ」の標準と考えられる傾向が強く、例えば正月のイラストなどで描かれるコマやコマ回しは大抵は投げゴマ。
                     鵝鵬鹽召寮いをつけるためと、喧嘩用に側面に鉄の輪をはめたものもあり、鉄胴ゴマと呼ばれる。
                     ォ、ぶちゴマ
                     顱縫灰の胴体の側面を、鞭のようなもので叩いて回すものである。回し始めは紐を巻き付けて投げゴマのようにするものもあるが、それ以降に叩いて勢いをつける点で異なる。
                     髻ヨーロッパ方面においては、古い時代の独楽の描写や絵画、木版画や銅版画はそのほとんどがぶちゴマ。古代ギリシャでもアリストパネスの喜劇に叩かれるコマの描写がある。
                     鵝妨在の日本では東北・九州地方を除いて、なじみが薄い。
                    2)両津で昔やったコマ(ここでは「投げゴマ」)についての経験・記憶。
                     勘違い・間違いもあることに留意。突っ込めば突っ込むほど不確かになる。
                     「確証できない事は記さず」より、敢えて記すことによって真偽・正誤がはっきりすることを優先。だから、科学は、進歩・発展する。
                      ある現象・文物・経験→好奇心・閃き・直観→調査→仮説→検証→理論構築→公表→他人の検証→応用→・・・。
                     a、コマした年代:小学3年(9歳)〜せいぜい5年(11歳)
                       《根拠》
                      ア、コマを買う親の承認が必要とされる年代がある。小学中学年(小3〜4年)は、一人前の小学児童か。
                      イ、町内の子どもがの遊びに加われる最低年齢層。コマは小学低学年以下は、近所先輩のやっているのを見て覚えた。
                      ウ、小学6年当時・1958年男子の遊びの中心は野球で、コマはしなくなった。
                     b、両津でのコマした季節
                      ァ、日本では一般にコマする時期は正月、子どもの正月遊びの代表とされる。
                      ィ、昔は両津は、雪が少ないとはいえ正月にあっても普通で、外でコマ遊びする状態ではない。もっとも、全国でもコマは正月とは限らない。
                      ゥ、夏は海水浴が中心となり、春か秋の遊びとなる。
                     c、近所遊びのリーダー・大将としての時代を反映する地域の暗黙要件
                      種目によって微妙に異なるが、一般には中学になれば近所の遊びガキからは外れる。
                     d、投げコマの種類:野球でいうピッチャーの投球フォームに例えられる。以下は、勝手な自らの解説。
                      ァ、アンダースロー
                       下手投げによる確実性の高い無難な回し方。
                      ィ、サイドスロー
                       回転速度が高く、持続性の点で優れている。
                      ゥ、オーバースロー
                       相手の回っているコマを倒すのに威力を発揮。
                     e、勝負点
                      ア、一斉にコマを回し、持続時間の長さを競う。
                      イ、「自分のコマの回転速度が落ち始めると、グナを適度な長さに折りたたみ、回転中のコマの端っこすれすれを叩いて回転速度を再び維持する」技術競争(渡辺和弘氏コメント)
                      顱謀蠅殴乾泙ら、寿命をもたせるため「ぶちゴマ」(叩きゴマ)に転じ遊びを長く楽しめる。
                      髻飽貔討謀蠅欧覆ても、後で回した方が勝つに決まっているが、そうはさせないところが妙味。
                      ウ、回転している自分のコマを同じく回転している相手のコマにグナで近づけて接触させ、回転を弱めさせて早く倒す。
                     【梶井照雄氏から電話で聞いたが、自分のコマを相手の奥に投げて回し、それをグナで引き寄せて相手のコマの回転速度を下げさせ倒す。相手のコマの前で自分のコマを回転させグナで相手に接触させるのでないことがミソ。理屈は、わからないが成程と感じさせるものあった】
                      ェ、自分のコマを 回っている相手のコマを目がけてぶつけて倒す。一般に「喧嘩ゴマ」と称すもの。
                       その最たるものが、相手のコマをぶつけるだけでなく壊す。
                      「佐渡人名録」サイトの「両津の昔を記す」「遊び」「コマ(独楽)」に次の記事がある。
                     「(渡辺)全国的にどこでもあったと思うが、特に覚えて居るのはこんな遊び方。
                     回っているコマの中央部分をめがけて斜め上方からコマを勢いよく投げおろし、地面で回っているコマを地面に埋めてしまう。特に、小さい独楽が回っている上から大きい独楽を下せばその効果は大きい。時々は金属の心棒にピッタリ上からのコマの心棒が入りこむこともあった。また、地面のコマが割れることもあり、これがコマの醍醐味でもあった。相当に大きなコマもあった気がする。
                      (山田)「てっぺん」って言葉があった。真上の方から相手の駒をやつけるというか。複数や多数で同時にコマを回して、だれの駒が一番最後まで回っているかという遊び。これは「息が長い」って言った。みんなでやったり個人戦だったりしたのかなあ。コマの大小はまあ特に問題にしなかった気がするなあ。」
                     f、1950年代頃のコマ
                      ァ、画像(「楽天市場:昔のコマの通販」サイト)
                      顱北攷弔海
                        コマ木芯コマ 木製無着色        
                      梶井照雄氏言うには、色無しのコマを買ってきて、赤などの色を塗ったとのこと。  また、コマには、一キン、二キン、三キンに従ってと大きくなったという。                                              
                      髻謀歓弔海
                        コマ鉄心
                      鵝謀監垢海
                          コマ鉄輪
                      堯房蟆鵑靴海
                        コマ手回し
                        )ひねりこま
                        コマひねり
                       「ひねりこま」は、冬炬燵(こたつ)での遊びに使ったように思う。
                      ィ、当時両津には、ベーゴマは無くなっていた、名前は聞いたがやったことも見たこともない。
                       また、地球ゴマは見た覚えがあるが、やったことはない。ウィキペディアによれば、「日本国内では1960年代から1970年代にかけてが最盛期で、露天商による縁日・夜店での実演、テレビCMや雑誌広告などの媒体を通じて全国へ反響が広がっていき・・・」とある。「見る遊び」で戸外で「する遊び」ではなさそうだ。

                    3.まとめ
                    .灰淪靴咾魄豸世任い┐弌△噺世辰討癲崚蠅殴乾沺廚任△襪 男児ならではの醍醐味ある遊び。
                     渡辺和弘氏の前掲文書の「醍醐味」の内容に加え、コメントにあるコマを長く回す技術の解説〔これも「醍醐味」〕が、ズバリ利いている。
                    ¬霤諜 編著『佐渡方言集』は、非常に参考になり今後の活用可能性大。 
                      例:「かたせ」
                       須介党(スケト)ノ首ノナキヲ割リテ盥〔たらい]漬ニ乾シタルモノ片脊〔かたせ〕の意ナルベシ。
                      「かたせ」の要素が、短文に漏れなく凝縮されている簡潔表現〔「盥漬」は、2つに割ったスケトを一旦盥の中で塩漬けにしておく〕には驚きと脱帽。
                     以上 2018.06.10

                    歴史スポット88:1950年代両津子どもの遊び(26)しりとり

                     こんにちは!!自在業の櫻井です。
                     今日は6月28日(木)。6月5日に書き込み着手し後日校了したテーマ「しりとり」が、先ほど「すでに削除されています」とあったのに気づき、当初の日付・番号を同じくしたまま、急遽内容を思い出しながら、要点を次のとおり記すことにしました。
                    1.「しりとり」とは(ウィキペディア)
                    ,靴蠅箸蠅箸

                    、言葉遊びの一つ。参加人数は何人でもよい。
                    ▲襦璽

                    1)まず参加者のうちの一人が、最初に適当な単語を言う(最初に言う単語は「しりとり」とするルールもある)。以降の人は順番に、前の人が言った単語の最後の文字(つまり『尻』である)から始まる単語を言っていく。

                    日本語には「ん」で始まる単語がほぼ皆無に等しいため、通常は「ん」で終わる単語を言ってしまうと負けになる。
                    2)前に出た単語は使えない。
                    3)数詞は名詞の一種とされるが、しりとりにおいては基本的に使用禁止。これは、「1回」「1度」「1区」のように単位と組み合わせれば大量の単語を生み出せるから。
                    )「テーマしりとり」といって、動物名・植物名・食べ物・スポーツなどのテーマを設けて難易度を上げることがある。
                    2.私の経験
                    ‐学に入る前かせいぜい小学1年の頃と思うが、夜電気を消して寝るときに4つ上の姉と一緒にしりとりしながら寝た。その時の歌詞は〔はっきり覚えていなく且つ意味がわかってない言葉ももあることに留意に〕
                     日本の→乃木さんが→凱旋す→スズメ→メジロ→ロシア→ 野蛮国→くろばたき→きんたま→まかろうふ→ ふんどうし〔褌〕→締めた→たまご→ごましょ〔胡麻塩か?〕→しょうあづき〔塩小豆?〕→きなこ〔黄な粉〕→こなべ〔小鍋〕に煮たのはうまかった→たぬき〔狸〕のきんたん〔金玉〕じゅうはっちょう〔十八町?:長いということか?〕→〔その後「朝鮮〇〇」が入ったと思うが不詳。なお、朝鮮戦争は1950年6月25日勃発〜1953年7月27日九休戦(ウィキペディア)。なお、その頃の幼い当時、朝鮮で戦争が起こっていることは薄々感じていた〕・・・(後は適当にしりとりを続け、嫌になって眠りについた。
                     
                     《参考》「謎の乃木さんのしりとり歌」サイトより
                     「歌詞は大別して「陸軍の…」で始まる歌と、「日本の…」で始まる歌があるが、「陸軍の…」 で始まる歌の方が古いと思われ内容も短い。「…金の玉」迄は、ほぼ歌詞は同じだが、 人から人へ伝播する過程で、歌詞が変わり尾ひれがつき、長文に変化したやうであるが、 一番末尾の言葉が初発の文言に循環する構成はいづれも同じである。
                    「…金の玉」から「マカローフ(豆どうふ)」に進む歌は「ふんどし」につながる傾向が強く「タカジャッポ」 など字義未詳のものへ進み、「…陸軍の」へつながることが多い。 「負けて逃げるはチャンチャン坊」に進む場合は必ず「棒で叩くは犬殺し」につながり「シベリヤ鉄道」と 「バルチク艦隊」が登場し「…日本の」へつながることが多いと言ふ傾向がある。 しかし実際には両者の混在したものも多数ある。」
                      嵶Ψ海稜橘擇気鵑凱旋す、雀、目白、ロシヤ、野蛮國、 クロパトキン、金の玉。マカローフ、ふんどし締めた、 高ジャッポ(帽子)。ポン屋売り、陸軍の…」
                     ◆嵶Ψ海稜橘擇気鵑凱旋す、雀、目白、ロシヤ、野蛮國、クラボトキン、金ダルマ。まーわーし締めた、 高シャボン。盆参り、陸軍の…」
                     「陸軍の乃木さんが凱旋す、雀、目白、ロシヤ、野蛮國、クロパトキン、金の玉。 負けて逃げるはチャンチャン坊、棒で叩くは犬殺し、シベリヤ鉄道あるけれど、 土瓶の口から湯気吐けば、バルチク艦隊逃げてゆく、國を守るは陸軍の…」
                     ぁ嵶Ψ海稜橘斃佑凱旋す。進め、目指せ、千里の陸路。ロシヤ、ヤポンスク、クロパトキン、金の弾。 負けて逃げゆくチャンチャン坊。棒で叩くは犬殺し。シベリヤ鉄道長かれど、ドドンと大砲(おほづつ)火を吹かば、 バルチク艦隊壊滅し、死んで海底(みなも)に沈みたり…。陸軍の…」
                     ァ崙本の乃木さんが凱旋す、雀、目白、ロシヤ、野蛮國、クロパトキン、金の玉。 たまげて逃げるはチャンチャン坊、棒で叩けば犬殺し。 シベリヤ鉄道長けれど、土人の國まで撃ちませば、バルチク艦隊沈没し、 死んでも守るは日本の…」
                     Α崙本の乃木さんが凱旋す、雀、目白、ロシヤ、野蛮國、黒鳩金、金の玉。 真っ黒け、ケツのふんどし締めました。高シャッポ(帽子)。ポンヤラヤ、野砲兵、兵隊さん。 三勇士。シベリヤ鉄道遠ければ、婆さま御歳(おんとし)八十二。日本の…」
                     А崙本の乃木さんが凱旋す、雀、目白、ロシヤ、野蛮國、黒畠(くろばたけ)、剣の玉。 負けてたまげるチャンチャン坊、棒で殴るは犬殺し。シベリヤ鉄道ないけれど、土民の口から吐き出せば、 バルチク艦隊撃沈し、島津の殿様十文字。地獄の沙汰も金次第、いつもの店賃払う日に、 二階の窓から逃げようか、火事場のおっさん熱かろに。日本の…」

                     (以下、まで略)
                    1)そこでのしりとりは佐渡に因んだものに限定。
                     「佐渡おけさ」〔次の者に意地悪し又「さ」から開始〕→「裂き織り」→「両津」→「つぼのち」(中庭)→。「ちんでえ」(黒鯛(クロダイ))→「夷」(地名)→「スケト」(スケトウダラ)→豊岡(地名)→かたせ(スケトウダラを開いて塩で干したもの)→せえなご(ヤリイカ)→吾作(浪曲「佐渡情話」に登場する柏崎の漁師)→久知川→わけし(若い衆)→新保(地名)→ぼたもち(あん餅、おはぎ)→ちんどんや→矢島・経島(地名)→まま(ご飯)→真野(地名)→のた(風がない時での大波)→平(たいら。地名)→らちかん(「埒(らち)があかん」「ダメだ」の意味)。〔適当な所で芝居も終わり〕
                    3.まとめ、
                    ,靴蠅箸蠅聾斥佞咾罵儷馼塒、マスゲームとして楽しむことも可能。
                    △靴蠅箸蟆了譴發任、しりとり歌もある。園児・児童の学習能力を遊び楽しみながら高める方法としても貴重。
                    今回しりとりをテーマとしたことでの最大の成果は、IT時代にふさわしく一人でもウェブで「しりとり」を遊び楽しむことができること。
                    1)初級・中級・上級のランクが選べる。挑戦者(ユーザー)と人工知能(AI)との競争。
                    2)回答時間が決まっており、それが刻々とデジタル表示される。違反すれば減点、識別不能な文字を記入すれば「それは辞書にありません」という表示がでたり、当たれば中に誉めちぎる表示がでたりし、どういうコメントが出るか楽しくさせる。
                    3)世の中それほど甘くないが、パソコン・タブレット等との遊びは、ボケ防止に効き目ありとの感触を得た。
                     もっとも、そうであっても遊びとして本当の面白さ・楽しさ知らずで佐度弁で半端で片輪であろう。
                     以上  2018.06.28

                    歴史スポット87:1950年代両津子どもの遊び(25) 縄跳び

                     こんにちは!自在業の櫻井です。
                     今回の遊びテーマは、前回の昔から特殊で今日では無い「スズメ捕り」 に対し昔から遊びとしてポピュラーな縄跳び(なわとび)。縄跳びは、保育園や小学校でも教科にあり、運動会の競技種目にあった。
                     ここではこれまでもそうであるが、学外・園外を 想定・対象。
                     縄跳びは、感覚的には本格的スポーツであり、トレーニング・予備運動等競技のサブ的存在でもあり、また体力・健康づくりに欠かせないものであることに違いないが、それらの要素とは一線を画す。あくまで近所の子どもが集まって遊んで楽しむ「縄跳び」を念頭においている。
                     なお、縄跳びは、
                    1.縄跳び
                    ‘貭靴咾蓮淵Εキペディア)
                    )自らあるいは他人の回す縄が地上付近を通過する際に飛び越していく遊び。また、そのための縄。
                    2)近代日本での縄跳びの歴史は1878年に体操伝習所(現在の筑波大学)へドイツから教師を呼び輸入したのが始まりだとも言われる。
                    3)今日ではスポーツ性の高いものもある。
                    4)縄跳びには、跳んだ回数を競う場合と、跳び方の難易度を競う場合がある。縄の長さで短縄跳びと長縄跳び(大縄跳び)の2つに分けられる
                    a、短縄跳び
                     ァ、一人又は二人で跳ぶ。
                     ィ、縄跳びを回す向きは、前回しと後ろ回しがある。
                     ゥ、種類(呼称は時代や地域によって異なる場合がある)
                     顱吠芯靴咫跳び縄を一回転させて跳ぶ。
                     髻剖遒餌跳び:駆けながら跳ぶ。
                     鵝吠丗跳び:片足で跳ぶ。
                     堯妨鮑皇靴咫腕を前で交差して跳ぶ。
                     )背面交差跳び:腕を後ろで交差して跳ぶ。
                     )綾跳び:交差跳びと平跳びを交互に繰り返す。
                     )サイドクロス(側振綾跳び、側振交差跳び):回転する縄をいったん体の右や左にスルーさせ(側振)、次の回旋で交差跳びをする。側振の方向を左右に変えながら、これを繰り返す。
                     )じゃんけん跳び:足をグー、チョキ、パーにしてこの順で繰り返して跳ぶ。
                     )横ふり跳び:足を左右に出して跳ぶ。
                     )ヒール&トゥ(振り足跳び):片方の足で2回ずつ跳ぶ。その間にもう一方の足を前後に振るため、歩くような動作となる。
                     ⅺ)おしり跳び:縄を折り畳み、腰にかけた状態でおしりで跳ぶ。
                     ⅻ)二重跳び:跳躍中に跳び縄を二回転させる。さらに、回転数を増やして三重跳び四重跳び五重跳びとすることができる。
                     鵝砲呂笋屬機憤銃鷭田靴咫速綾(そくあや)跳び):綾跳びの体制で二重跳びをする。「交→順」または「順→交」の2種類のバリエーションが存在する。
                     堯妨鮑稿鷭田靴咫Ц鮑皇靴咾梁寮で二重跳びをする。
                     )たか跳び:二重跳びと交差二重跳びを交互に繰り返す。
                    b、長縄跳び
                     ァ、6mから8m程度のロープを用いて、ロープを振揺・回旋させて地表近くを通過するときにこれを跳ぶもの。大縄跳びとも呼ぶ。
                     ィ、種類
                     顱肪鷲酋瓩を振揺させてこれを跳ぶもの
                     髻鵬鸚するロープの下を潜り抜けるもの
                     鵝鵬鸚するロープの中で各種の跳び方を行うもの(腕立てや逆立ちをしながら跳ぶ)
                     堯膨稿譴涼罎巴仔譴判妬して跳ぶもの
                     )長縄2本もしくは3本を回旋させてその中を跳ぶもの
                    ⇒靴咾任呂覆い、日本ロープスキッピング連盟(JRSF)という団体がある。
                     以下は、そのサイト。
                    1)日本ロープスキッピング連盟(JRSF)とは
                      日本ロープスキッピング連盟(以下;JRSF)は、FISAC−IRSF(国際ロープスキッピング連盟)の日本支部として、世界との連携を深め、アジア・世界選手権への代表選考会などを行う。また、幅広いロープスキッピング(なわとび運動)の研究・発展・普及に努め、生涯スポーツ運動の一翼を担うものとして定着を図り、もって国民の健康増進に寄与することを目的とする。
                     2)ロープスキッピングとは
                     「なわとび」は、昔から子供達の遊びやスポーツ選手のトレーニング手段として、各国で行われていた。その遊び方や呼び名は各国によって異なっている。そんな中、1996年にFISAC−IRSF(国際ロープスキッピング連盟)が創設され、スポーツとしてのなわとびを普及・発展させるために、名称とルールを定めた。それが、「ロープスキッピング」である。現在は、2年ごとに世界選手権大会が開催されている。
                     縄を跳んでいれば、すべてロープスキッピング(なわとび)。1人で跳ぶ単縄跳びだけでなく、ダブルダッチ、大縄跳び、2人で2本の縄を跳ぶチャイニーズホイールなどはすべてロープスキッピングの 一種である
                    3) 事業内容
                     JRSFでは、次の事業を行います。
                     1.アジア・世界選手権大会への選手派遣、並びに選手育成
                     2.定期的な練習会・講習会・キャンプ・競技会などの開催
                     3.指導者や審判員の養成と派遣
                     4.ロープスキッピング(なわとび運動)の普及、奨励
                     5.ロープスキッピング(なわとび運動)に関する調査、研究
                     6.ロープスキッピング(なわとび運動)に関する書籍・ビデオ・その他映像メディア等の出版(会報誌)
                     7.跳び縄の販売(なわとび関連グッズ)
                     8.その他前条の目的を達成するために必要と思われる活動
                     〔同サイトの掲載は、年間予定表:平成26年度、事業報告:平成25年度 であった〕

                    2.近所でやった縄跳び遊び
                     以下は、項目はランダム、且つ記憶に頼ってのことである。
                    ’代
                     小学校4〜6年頃が最も盛ん。
                     小学3年くらいまでは一人で縄跳びするのは別として、リーダー格の大将がいなければ成り立たなかっただろう。中学になれば、主な遊びは三角ベース野球・軟式野球・ソフトボール・キャッチボールなどの球技やバドミントンに完全移行。
                     (歴史スポット77:1950年代両津子どもの遊び(15)野球」)
                    築地の遊び場:2017年9月撮影

                     1)仲助のイカ干し場:写真再掲
                    歴史スポット75:1950年代両津子どもの遊び(12)街中での遊び」)
                    DSC09890
                     現在は、主に駐車場になっている。
                    2)元磯野畳屋から奥に入った路地
                    築地路地裏
                     a、現在でも奥に入った写真左側は狭い空き地(路地裏)になっている。そこは車や自転車が走れない安全地帯。
                     b、昔 築地では夕飯時わが子が、築地通りや仲助の広場に遊んでいなければ、その路地裏に行けばいるというのが慣例。
                    F貭靴嗟儷
                    1)市販の縄跳び
                     一般には個人用。
                    2)魚を入れた魚箱(トロ箱)を運ぶための荒縄
                     a、漁師町両津には、たくさんあった。何十mあるかわからないが一巻きの輪になっていて、縄の先端から必要な長さに切りお魚箱の両端にしっかり巻いて結び、両手に握って運べるようにした。
                     b、その切れ端を利用したことは当然あっただろう。特に数人同時に縄跳びに参加する長縄跳びは、威力発揮。わざわざ金を出してまで買う必要はない。
                    ね靴鵑斉貭靴
                    1)一人縄跳び
                     a、連続して何回跳べるがは目標になり、個人だけにしか通用しないが個人記録になる。
                     b、後ろへ反転させて跳ぶやり方もある。
                     c、やるのは一人だが、二人以上いれば、
                      ァ、どちらが連続何回跳べるかを競った。
                      ィ、それぞれが縄跳びを持っていれば、同時に始めて最初に躓(つまずい)た者が負け、最後に残った者が勝ち。
                     d、1回跳ぶ間に紐を2回以上回転させるやり方もあった。
                    2)二人縄跳び
                     a、一人が縄跳びしている隙にもう一人が加わり、二人でする。
                     b、先に足に引っ掛かからないようにする、何回続けられるがが目標。
                    3)三人以上縄跳び
                     a、初級
                     ァ、二人で長い紐の両端を持ち、地面に着ける。
                     ィ、互いに呼吸を合わせ 真ん中の紐が地面に着くくらいにゆっくり左右に上下させて揺らせる。
                     ゥ、上記の呼吸・周期速度を見計らって、誰か〔リーダー格か〕が縄に引っ掛かからないよう入って、跳び続ける。
                     ェ、以下、繰り返す。
                     b、中級
                     ァ、二人で長い紐の両端を持って、一定の周期で上下に回転させる。
                     ィ、誰か〔リーダー格〕が、まずその中に入る。
                     ゥ、次々に失敗しないように加わっていく。
                     c、高級
                      大勢が加わってやっている間、次々に抜け出す等の技もあったことだろう。

                    3.まとめ
                    ‘貭靴咾傍箱用の荒縄を使ったのを思い出したことが、大きな成果。漁師町両津ならでは、ということである。
                    縄跳びは子どもの遊びとして、どの町内でも盛んにやられたわけではない。
                    1)七蔵の角辺からゆたか屋旅館角辺の築地ではやっていた。イカ干し場や路地裏があったからである。
                    2)安照寺に近い春日町でもやっていた。お寺の境内があったからである。
                     以上

                    歴史スポット86:1950年代両津子どもの遊び(24) スズメ捕り

                     こんにちは!自在業の櫻井です。
                     今回のテーマ「スズメ捕り」は、両津の子どもの遊びとしては、極めて特殊で稀な遊び。
                     だらこそ、稀少価値がある遊びでないか。ただ経験・知識があまりに乏しく コンテンツ不足は免れない。かと言って 見す見す「遊び」の記事にしないでおくのも惜しい気がする。と言うことで、テーマとして挙げた。

                    1.「スズメ捕り」いろいろ:遊びに限定せず
                     (以下、順不同)
                     峭報きたみ2016年11月号(発行:北海道・北見市)」「スズメのこと」
                     大田眞也著『スズメ百態面白帳』によれば、米を食う害鳥=スズメ退治に有名な例は中国で1950年代「国家発展のためにということで、ネズミ・スズメ・ハエ・カの四害追放運動なるものが展開された。スズメについて、スズメ捕り突撃隊なるものが青少年によって編成された。その規模は2,400余隊、総勢8万人からなり、1954年の冬から翌年の初夏にかけて北京だけでも約11億羽が捕獲されたという。その捕獲方法・・・・食べ物が不足する冬の雪の日に強い酒を染み込ませた粟や米をまき、それを食べて酔っ払い前後不覚になったところを生け捕ったという。また春から初夏にかけては巣を取り壊して卵や雛を遺棄したり、あるいは鐘や銅鑼(どら)を打ち鳴らして脅かして飛び疲れて落ちるまで追い回す。また高い建物に避難しているものにはホースで水を浴びせて落とすという徹底したやりかたがある。
                     その後間もなく中国は凶作に見舞われた。スズメの捕り過ぎによる農作物の害虫のはびこりが大きな原因と考えられ、1960年4月にスズメは害虫から外された。そしてその代わりにナンキンムシが指定された」そうで、前回カラスを捕殺したのと同じ結果が、国家規模で起きた。
                     【スズメは、「春先は苗の害虫を食べる益鳥として扱われ、秋には稲の籾米(もみごめ)を食害する害鳥となる」(ウィキペディア)】
                    ▲筌奸蔀侶誕沺屮好坤瓩魎蔽韻吠瓩泙┐詈法を教えてください」
                    1)ベストアンサー:「生米をアルコール度数の高い酒につけて籠につっかえ棒かなんかで罠を仕掛けたら。粘着性のあるシートの上に生米など雀の餌を置く。法的に禁止されているらしいけど、それより衛生的な雀はドブネズミより雑菌が多く汚い。触ったり食べようものなら確実に病気になります」
                    2)関連回答:「まずは狩猟免許(網)をとります。狩猟期間になったら、スズメを捕まえる場所の都道府県に狩猟者登録をし税金〔狩猟税〕を納めます。地主の了解をとった上で、収穫後の田んぼ等に無双網をしかけ、落ち穂とかをつまみにきたスズメが網のかぶさる位置に来たら網を落として取っ捕まえます」
                    D蚕段欷酲
                    1)鳥獣保護事業の実施と狩猟の適正化を目的とする法律で,1918年制定〈鳥獣保護及狩猟に関する法律〉を2002年改正。
                    2)スズメは、「鳥獣の保護及び狩猟の適正化に関する法律」により保護。一方、「この法律に則り、一般人でも無許可で対象鳥獣を捕獲できる。
                     ・適正な時期(本州では11/15〜2/15)
                     ・適正な場所(自治体で設定され、誰でも地図を入手可能)
                     ・適正な方法(銃火器等を除く=網・手づかみ・気合で落とす他)
                     ・適正な鳥獣(狩猟可能な対象鳥・獣が決まっている)
                     *許可が必要なのは、法定用具(銃・空気銃・罠・網)を使用する場合。他の方法(手で掴む・鷹狩り他)で捕獲する自由猟法であれば、許可なく誰でも狩猟が行え。
                     【参考】「日本野鳥の会:鳥獣の捕獲規制について」サイト
                      a、鳥獣の捕獲は原則として禁止。
                      b、捕獲が認められるのは、「狩猟による捕獲」又は「許可による捕獲」のいずれか。
                      c、狩猟鳥獣(49種類。国が指定):狩猟鳥29種〔スズメあり〕、狩猟獣20種。
                      d、捕獲狩猟鳥
                       ァ、個別の捕獲手続き:不要(ただし狩猟免許の取得、毎年の狩猟前の登録が必要)
                       ィ、捕獲者の資格要件:狩猟免許及び登録を受けた者
                        免許の種類(甲種:網・わな、乙種:装薬銃、丙種:空気銃、ガス銃)。ただし、狩猟免対象地域許の取得、毎年の狩猟前の登録が必要。
                       ゥ、対象地域:鳥獣保護区や休猟区外の地域であればどこでも可能
                       ェ、時期:狩猟期間(冬期のみ)
                       ォ、方法:銃、わな、網など環境大臣が定める猟具による(かすみ網など禁止猟具や危険猟法を除く)
                    さ事断片
                    1)「スズメは鳥獣保護法で狩猟鳥に指定されており、焼き鳥等に食用もされてきた。特に京都伏見稲荷では門前の名物になっている。しかし、現在は需要の低下、狩猟者の高齢化により、およびスズメの個体数減少により捕獲されるスズメの数は減ってきている。一時、中国、韓国から食用のスズメが日本に輸入されていたが、鳥インフルエンザ対策のために現在ではほとんど輸入されていない。日本での狩猟期間は11月15日から2月15日の間とされ銃や罠を使用しない方法であれば誰でも捕獲できる。また狩猟期間に関わらず飼育することも自由とされている」
                    2)雀食文化。「みなさんは「雀の焼き鳥」を食べたことがあるだろうか。頭の部分を噛むとトロっとした脳みそが口中に広がり、鼻からスルメにも似た匂いが抜ける。体の部分を食べ進めるとレバーに似た匂いや骨のばりばりとした食感、そして肉の固さが、野生の小鳥を丸ごと食べていることを感じさせる―。 その味について『現代日本料理選集 野鳥料理』には「雀は小鳥の中で最も美味で、焼き鳥が最高の味」と記されている」
                    3)「今期はわなはノンビリな出だしですが、スズメの無双網猟はもう2回も行きました。・・・まずまずの群れが3箇所くらいに分かれていたので、その中間くらいに位置する田んぼに網を張りました。・・・結果としては捕れたのは約70羽で、ちょっと少なめ。午前中はオトリの鳴きが悪く、スズメのかたまりが上を通っても見向きもしないということが何度もありました。午後になって雨も上がり、オトリもお腹が減ってくるとよく鳴くようになり(午前中に獲った10羽くらいもオトリケースに追加)、午後のほうがよく捕れました」

                    4)「籠は昔と違い材質はプラスチックで、洗濯カゴで使えるようなもので仕掛けている」
                    5)「「ふるいとおし」を立て、下にはモミを撒いておく。物陰に隠れて、スズメが近づいてくるのを待ち、モミをついばみに来たスズメが、真下に入った瞬間、つっかい棒にゆわえた紐を引っぱり、「ふるいとおし」を落してスズメを生け捕り」

                    2.「スズメ捕り」経験
                    ^按に居た当時(小学2年頃まで)家の裏は砂浜、ニワトリ小屋があった。
                     つっかえ棒で魚箱を斜めにして置く。その下に米粒をまく。つっかえ棒には長い紐がついており、紐の端をもったまま遠く離れた物陰に隠れ、スズメが食べに入るのを待っている。
                     中に入った瞬間、紐を引いて箱を倒して生け捕りにするというもの。
                    築地に引っ越した時は、坪内(つぼのち:中庭)で仕掛けたことがある。旭町時代の経験があったからである。
                     せいぜい小学4年頃までで2〜3回試みた程度。他で行っていたことを聞いたことはない。
                    成功した経験はない。
                    1)スズメが容易に入ってこなかったからであろう。捕り逃がしたという覚えもない。
                    2)夷では盛んに行われたわけではない。

                    3.まとめ
                    〕靴咾箸靴討痢屮好坤疂瓩蝓廚蓮3人以上が一緒集まってやるものではなく、せいぜい2人でこっそりやって楽しむ遊び。その点魚釣りと似ている。仕掛けをし誘き寄せるという点でも同じ。
                    ⇔渉鼎砲蓮田んぼはほとんどなかったからスズメに悩まされることなく、子どもにとっては海・湖・いろいろな魚貝類という遊び資源に恵まれていたからスズメ捕りは極めて稀。
                      籠もあろうが魚箱を使ったのは、漁師町・両津にふさわしい。
                    推測でしかないが、両津でも戦争中の食料不足時代は、スズメ捕りがありスズメを丸焼きにして食べていたに違いない。 その名残りが1950年前半まで旭町の子どもにあったということか。
                     以上  2018年06月03日

                    歴史スポット85:1950年代両津子どもの遊び(23) 音出し遊び

                     こんにちは!自在業の櫻井です。
                     今回のテーマは、思いかけず「かんしゃく玉」という言葉を耳にしたことにより これまで散発的に紹介した「火薬鉄砲」と「ようの実鉄砲」を合わせて「音出し遊び」としてまとめた。

                    1.かんしゃく玉
                     昨日梶井照雄氏に子どもの遊びについて電話している中で、「火薬鉄砲」を知っているかと問うと,「かんしゃく玉(弾)」という言葉が耳に入った。瞬間、昔聞いたことがあり使ったことのある言葉だったが、何であったか明確には分からなかった。
                     検索するとウィキペディアに次のように出ていた。
                     「癇癪玉(かんしゃくだま)は花火の一種」「火薬を利用して大きな音を立てて遊ぶための玩具」。クラッカーボール等とも言い、 赤・青・黄などの色がある直径 7 〜 8 mm の玉。外皮の中に火薬と小石が入っており、地面に叩き付けたり、踏んだりすると「パン」と大きな音を立て弾ける。ゴム製のパチンコを使用して発射する場合もある。
                     それで思い出した。
                     近くの玩具屋で買って、地面に叩きつけて音を出し、それを楽しんで遊んだ。遊び仲間を脅して楽しむ場合と互いに音の大きさを競う場合が、あったであろう。
                     なお、玩具屋と言えば、本町通り夷五の角の老舗「ツル屋」、裏道の築地通りの北角にも「キヨシ屋」という子ども雑貨店が1955年(昭和30)頃出来た。向かいの角は戦前からあり現在も営業している「ゆたか屋旅館」があり、隣は「テラオ」というキャラメルや駄菓子などもある食品雑貨店(生鮮食品は余りなかったように思う。生鮮なら築地の隣神明町角の「スエヒロ屋(現、喫茶店「再会」)、そしてその隣は「ゲンテ」という畳屋・・・。
                     かんしゃく玉は、家から歩いて2分足らずの「キヨシ屋」か、5分足らずの「ツル屋」で買った。ポケットに何十と入るわけはなく、1回「パン」と音を鳴らせばその分なくなるので、大事に使ったことだろう。

                    2.火薬鉄砲
                    2018-03-25 号「歴史スポット81:1950年代両津子どもの遊び(19)将棋遊び」の
                    「その他遊びに関する特記メモ」より北 治之氏の話として記している。以下、再掲。
                     「おもちゃの鉄砲遊び
                      a、毎年3月24日は宇賀神社〔うかじん・さん〕祭。終業式が終わって春休みの時期。普段は親がくれない50〜100円の小遣いもらって、バスは乗らず湊から歩いて宇賀神さんへ行った。
                      (同神社については、
                      b、目当ては、屋台の店での買い物。ある年におもちゃの鉄砲を買って来て遊んだ。
                       金持ちの子は、早くから買って貰って遊んでいたが、そうでない家の子は、特別の時でないと買えなかった。だが、後れて買ったから性能の良いものを所有することになって、逆に金持ちの子から羨ましがられることが起った。
                      c、おもちゃの鉄砲について後日調べると「巻玉鉄砲(火薬鉄砲)」という物で 玉は出ないが、巻玉の火薬を入れてバンバン鳴らす音と撃った後の火薬の匂いが魅力のおもちゃ。それで、はっきり思い出した」
                    火薬鉄砲は、「ツル屋」「キヨシ屋」にも売っており、買ったことはある。
                    1)火薬は別売。「紙巻火薬」とかいうもので、確か正方形で膨らんでいる火薬の入った部分がいくつもあり、その周囲を千切って鉄砲に詰め、引き金を引くと銃が火薬にぶつかって破裂し大きな音を出すというもの。
                    2)八連発の鉄砲の玩具もあったように思うが、高価で買った覚えはない。
                    3)年代では、小学3〜5年くらいか。

                    3.「ようの実」鉄砲

                     以下は、(05)より。「ようの実」鉄砲で撃ち合いごっこ。
                    「1)湊の隣りの原黒や住吉の海岸に生えている直径2cmくらいの細い竹を採って来て、「ようの実」鉄砲を作った。
                     a.作り方・使い方
                     ァ.竹の節のない部分を15兪宛紊猟垢気棒擇蝓⊆,砲修療の中に丁度入る芯棒(竹を利用)を作る。
                     ィ.最初にようの実を一つ押し込む。
                     ゥ.芯を抜いて、別の実を入れ真ん中あたり までゆっくり入れる、
                     ェ.一気に芯を押し込むと、パァーンという音と同時に実が飛び出す。
                     b.当たっても痛くない。但し、「顔に向けてはいけない」。
                    2)湊の海岸の岩陰などに隠れながら、撃ち合いっこして遊んだ」
                     【ようの実鉄砲の場合、玉を相手に当てるのが目標であるが、パァーンという大きな音で相手を脅し委縮させることが、面白さの目的であったであろう】
                     《追記》
                     a、両津夷・渡辺和弘氏のコメント:「先輩が言うには、自分の家に大きな榎の木があり、それでようのみ鉄砲を作った。近所の連中もそれをもらいに来た。ようのみは榎のこと、または榎の実のこと」
                     b、「佐渡体験教育旅行・グリーンツーリズム」サイト:「ある民泊家庭の家の前で男の子達が輪になって何かに熱中していました」「よのみ鉄砲〔佐渡・高千地区ではそう呼ぶらしい〕作り!初夏になると「よのみ」と呼ばれる丸くて小さい実(直径7〜8ミリくらい、昔あったビービー弾みたい)がとれるのですが、笹の枝を使ってよのみの実を飛ばす鉄砲を作っていました。民泊先のお父さんが子どもの頃、この季節になると近所の子ども達とやっていた遊びだそうです。佐渡の他の地域の方々に聞いたら、作ったことある人が何人かいました。園芸用のハサミを使ったりティッシュを丸めて詰めたり・・工夫しながら、勢いよく弾が飛び出すように改良していきます。男の子達はとても気に入ったらしく、ずーっと夢中になって製作をつづけていました」
                     c、似た物に、「楠〔クスノキ〕の実」鉄砲あり。

                    4、紙鉄砲 
                     渡辺氏(前掲)コメント:「音出し遊びについて。新聞紙等の紙を折り、上から下に振り降ろすと風をはらんで、バーンと大きな音が出たものです。紙質や紙サイズによって音が変化するのも楽しいものでした。紙鉄砲と言った記憶があります」

                    《まとめ》
                     崑腓な音を出す」遊び道具を持つのは、1950年代少年のステータス。
                     大人の場合のステータスは 戦後の高度成長時代はマイカー、マイホーム。平成時代はどうか分からない。価値観の多様化・細分化、個性化のためだろう。
                    ▲好董璽織垢蓮∋っているだけで自慢できる・誇示できることが真骨頂。
                    小遣いをつぎ込んでも鉄砲や爆弾まがいの玩具を買い、仲間が反応する程の音を出して遊んだ。あるいは、買わずに身近にあるものを利用し作って遊んだ。
                     以上 

                    歴史スポット84:1950年代両津子どもの遊び(22) 栗拾い・栗採り

                     こんにちは!自在業の櫻井です。
                    1.「子どもの遊び」のテーマは、04月08日号「(21)漫画」以来で今回は「(22)栗拾い・栗採り」。
                     「栗」に関する遊びは、前年07月07日号「(02)梶井照雄氏語る」に記しているが、遊びの1つとして触れた。
                     「植物採取」として次にように記していた。
                     「4)栗拾い・採り:近所の子どもによる集団的行動が大半。
                      a.栗林のある所へ行き、一般には茶色に熟し木から道端に落ちている毬栗〔いがぐり〕を見つけ、靴で踏みつぶして毬(いが)を剝(はが)し中の栗を取り出す。
                      b.毬栗が青くて木に付いている状態は未熟で渋みが強く美味しくない。中には茶色に熟し木に付いているものもある。その時は、それを棒で叩いて落とした。所有者に見つかり逃げたこともあった」
                    2.5月26日(土)午後梶井氏を訪問した際、栗採りについて次のことを聴いた。
                     1)旧両津市立南中学校(現、佐渡市立両津中学校)の裏へ続く道から馬場(ばんば)への下りの坂道への辺りに毎年時季になると栗が熟して落ちるのを見計らって近所の子ども仲間4〜5人で拾いに行った。
                     2)背丈ほどの長い竹竿をもって、青いイガに入った栗は食べられないが茶色く熟したもの〔イガの殻が弾け中の栗が見える〕は叩いて落とした。
                     3)年代的には、小学5年頃から中学2年頃まで栗拾いに行った。
                    3.内容は以上であるが、そのままにしておくのは勿体無いと思い、独立したテーマとして掲げた。
                     1)私自身、小学5年か6年の頃経験。
                      a、その時は、築地町内で2年上の先輩に自分と同じくらいの3〜4人が連れられ、旧南中の前の道を登上って馬場への下り坂を下りた左側に栗林があり、そこで栗を採った。
                      b、誰かが、竹の棒と共に魚を掬(すく)うタモも持って行ったように思う。〔蝶(チョウ)や蝉(セミ)などの昆虫を捕る真っ白いタモと最初思ったが、そういものは街中で持っている家は非常に限られる。魚を捕るタモなら使用機機会は多く持っている家はそれなりにある。それに何よりも丈夫。竹の棒で叩いてタモに落としても大丈夫〕
                      c、築地町内の場合、たまたまガキ大将が行こうと言ったもので、その時限り。行った時期が悪く青々としたものばかりで成果は無かった。
                     2)栗拾いは、「両津の子ども」の一般にある遊びではなく、特定町内〔例:春日町〕に限られることがわかった。電話で知人に問い合わせた限りでは、夷一、浜田、湊にはそういう遊びはなかった。
                     3)近年栗のイガが落ちているのを見つけたのは、小木の城山公園でのこと(08年08月30日号「佐渡の神社4:木崎神社」)。
                     佐渡のあるブログに、「山道をドライブしていると、道脇でなにやら楽しそうな人を発見。私も3個〜5個、栗拾いができました」とあった。
                      以上   
                                                     

                    係わりの地111:入間市(埼玉県)

                     こんにちは!自在業の櫻井です。
                     入間市(いるまし)の書き込み着手、5月27日(日)。
                    1.なぜ入間市か?
                     以下は、自在業たるゆえんの他人にとってどうでもいい個人嗜好の問題・事柄で、どうであろうと体制に全く影響しないのだが、記せば次のとおり。
                    /軍磴ら大阪・京都・横浜訪問で、1泊2日の旅に終わらせるのはもったいない。
                    ◆嶌甘拗場」では、これまで佐度・新潟からの一連の道順では群馬・東京・神奈川・静岡をテーマとしたことあったが、埼玉県がない。
                    埼玉県入間市は、佐渡市と姉妹都市。
                    1)今年1月全国ニュースにもなった佐度の大断水(寒波による水道管破裂で島内1万世帯の4割強)で、同市から非常用飲料袋2千枚の救援物資が送られた。
                     「大規模災害時の姉妹都市相互援助協定」に基づくもので、1997年年1月日本海で発生したナホトカ号重油流出事故の際も同市は佐渡市に職員を派遣し緊急物資を支援。
                    2)両津七夕・川開きに同市から参加。イベントなど文化交流。
                     (2007年08月10日号「佐渡の祭19:両津七夕・川開き」)
                     佐渡からも入間万燈まつりに参加。
                    その他、ホテルを探してたまたま知っただけにすぎないが、入間市に佐度出身者が興した店(東証1部上場「庄や」)がホテルにあった。
                    3)よく調べると次のことを知った。
                     a、1986年同市市制施行20周年記念事業の一貫として姉妹都市提携を行うにあたり、「埼玉県は海がないから海のある都市が望ましいということで新潟県の都市に呼びかけを行った」ことによる。当時は、両津市。
                     b、佐渡市と入間市の特産品を入間市役所1F売店、東京丸の内にある佐渡特選舘で販売するなど物産交流も行っている。

                    2.旅程
                     4月11日(水):午前横浜みなとみらい見物と午後横浜ゼミ会の後、入間(いるま)へ移動。
                     JR横浜15:07→(東京)→池袋16:27→(所沢)→入間市駅17:18着。徒歩10分で予約ホテルイン。
                     入間4
                     4月12日(木):ホテル→入間市役所前→JR入間市駅10:33→11:20池袋→12:20東銀座〔銀座四丁目〕14 :16→新橋→東京15:16→新潟17:16分

                    3.入間市の概要
                    (1)光景写真

                    ‘間市役所
                     20180412_095050
                    1)宿泊ホテルの近くにあった。
                    2)市役所1F売店に佐渡の特産品が販売されているのを事前に知っていれば入ったのは間違いないが、後の祭り。
                    ∈甘呂島観光案内図
                    20180412_102209
                    1)JR入間市駅に近い脇道にあった。
                    2)両津市が全島合併で佐渡市になり、「両津」を「佐渡」に直した跡がみられるが、一部「佐津市」があるのは愛敬。
                    (2)入間市の概要
                     崙間」の名は、古代律令制による国郡里制以来の「入間郡」に見られる。
                    1966年(昭和41)武蔵町を入間町と改称した上で入間市となる。
                    2018年3月1日現在 人口:147,430人・世帯数64,566。
                    て短妻:狭山茶。
                    《その他メモ》
                    .曠謄詁發琉食店「庄や入間店」
                    1)20年前くらいから同ホテルに入って営業とのこと。
                    2)グランドメニューに、佐渡純米大吟醸「北雪」、佐渡の元気水+C海洋深層水500mlが載っていた。
                    3)朝食(和洋選択)は別の業者の運営と思うが、同じ場所で頂いた。
                    入間市駅近くにも庄やグループの系列店「日本海庄や入間アイポットポット店」があった。
                    「平成30年度【第40回】入間万燈まつりは、10月27日(土)・28日(日)の2日間開催することに決定」と同公式サイトにあり、佐渡の鬼太鼓の画像も掲載。

                    4.まとめ
                    〇佶綸垰圓隆愀犬呂いい發里澄
                    一般には姉妹都市締結は、両自治体間に歴史や立地や産業や名前などに何らかの係わり・共通点があってのもの。
                     例:新潟県上越市と山形県米沢市(上杉謙信をはじめとする上杉氏ゆかりの地)、奈良市と中国・西安市 (シルクロードの東の終着点と起点)、兵庫県西宮市と中国・紹興市 ( 酒造業)、富山県砺波市とオランダ・リッセは(チューリップ栽培)、山形県南陽市と中国・南陽市(漢字の綴り同じ)、福岡県北九州市と鹿児島県南九州市(市の名前が一字違い)、東京都国分寺市と佐渡市(武蔵国分寺と佐渡国分寺の関係、旧真野町(国分寺跡・「国分寺」地名あり)が姉妹関係にあった)
                    だが、入間と両津(現在は佐渡)は、係わり無かった。海がないから日本海側の新潟県の沿海都市にプロポーズ、旧両津市が応じた。
                    い蔭でいろいろなことが見聞知でき、「佐渡広場」の記事にすることができた。
                     以上  2018年05月29日



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