佐渡広場

佐渡をコンセプトとし、貴重で、面白い、懐かしい、元気が湧く情報集になることを目指しています。

歴史スポット69:1950年代両津子どもの遊び(06)小池荘一郎氏語る

 こんにちは!自在業の櫻井です。
 7月17日(月)午後アイポートで夷本町の小池荘一郎氏(1937年生)にお会いし、子どもの頃の遊びの話をお聞きした。
1.はじめに
 氏については、9年前鬼太鼓に関心を持っていた時、鬼太鼓に関する写真を撮らせてもらうなどいろいろお世話いただいた。当時、両津鬼太鼓組(前身は「夷七ノ町オンデコ」)の組長をしていた関係からだろう。
 (08年4月15日号「鬼太鼓11:自主運営(その2)」「2.両津夷鬼太鼓」、同年5月10日号「鬼太鼓19:装束と道具(両津鬼太鼓組)」)
 そして、昨年12月渡辺和弘氏から有志で「夷を記す会」を始めたという知らせを頂き、「佐渡人名録」サイトを辿ると昔の貴重な話の記事が載っており、その中に氏の名前もあった。
 取材については1時間という限られた時間もあり、主に防砂堤・築港での遊び、どんな魚介類がいたか・捕ったかについてお尋ねした。

2.遊び
(1)防砂堤
/絮
1)昔は大きな岩が並んで敷かれた防砂堤の先端と「沖の築港」の防砂堤に向いた先端は繋がっていなかった。その間は30m位あり、沖の築港へは泳いで渡るしかなかった。
 a.そこは、一日の中で海の流れが変わり、水泳するには危険区域であった。幼い時は渡れず、大半が羨ましいと思った経験があったに違いなく、私でも充分心当たりはある。
 b.一方で、自力で泳いで渡れれば一人前と見なされた。それが出来れば、どこでも泳げた。
  なお、途中で人が立てるような岩があったとのこと。それは、知らなかった。
 c.途中で、「スガモ」が、海底で鬱蒼とした森のように繁っていた。怖いため海の底を見ないように努め、その上を急いで泳いだものだ。そこにはオコゼがよく棲んでいるとかの話も聞かされたこともあり、怖さが増幅。毒をもち、刺されると激しく痛むのは本当のようだ。
2)南側防砂堤
 a.比較的浅く砂地で、泳ぎに安全。 
  「らんまる(蘭丸)」という木造船が、沈んでいた。
 b.岩にはべコタコ(ウミウシ:軟体動物門腹足綱後鰓類)が至るとことにいて気味悪かった。クラゲ(

刺胞動物)もいた。氏は、それを「ランベイ」と呼んでいたが、一般には半透明の色をしたのが「クラゲ」。クラゲとは異なり海底の砂地に巣くっていた茶色のフワフワした直径5冂の円盤形ーというより生卵を割ってフライパンに置いた時の黄味部分ーのものが私の言う「ランベイ」。氏はそれも思い出した。
 c、やや沖へ行くと「スガモ」が海底の砂地に繁っていた。
3)北側防砂堤
 a.海底は深い。青白く、岩が多いように見えた。少し遠く離れれば、底は深くて見えない。
 b.波はやや荒かった。「春日町からの築港」と「沖の築港」がまだ繋がっていなかったからであろう。沖からの波をもろに受けた。
 c.南側と違ってその近くで泳ぐ人は余りいなかった。私自身、そこで泳ぐのは上級生と一緒でも不安を感じた。1回泳いだのはハッキリ憶えているが、他は記憶がない。
魚貝の発見・釣り・採集
1)南側防砂堤
 a.サヨリが集団で泳いでいるのを見かけた。
 b.岩の間にハチメ(メバル)、アブラメ(アイナメ)、シジュウ(ウサギアイナメ)などがいた。〔いずれも、浅い岩礁域に生息〕
2)北側防砂堤
 不詳
(2)沖の築港
\勝蔑Α紡
1)水泳
  専ら防砂堤との行き来のみ。築港に沿って泳ぐことは、余りなかった。
2)釣り等
  ィ.釣りは盛んであった。
  顱縫魯次他所よりも大きいのがいた。
  髻縫丱トウ(キュウセン、ベラ):「佐渡の海岸に多く見られるのは、ホンベラとキュウセンであり、キュウセンは釣り人達にバクトウ、デバとも呼ばれている。砂地には見られず、磯やテトラポットの周り、又は水深数十メートルの岩礁地帯に生息している。体形はやや細く、体側と各鰭に赤や青などの美しい斑点や帯状の線があり、派手な色彩の持ち主である」「磯に多い魚で釣り人にはおなじみである。ベラ類は夜砂の中に体を埋めて眠り、朝太陽が昇ると起き出して活発に餌をとる」「ベラ類中、キュウセンは最も美味で塩焼きにすると良い」(「お魚豆知識」サイト)。「(キュウセンは)岩礁の点在する砂礫底や砂底に生息する」(ウィキペディア)

  鵝縫タベ(イシダイ):グループで泳ぐ〔多分、幼魚だろう〕。「体色は地に7本の太い横縞が入り」「幼魚や若魚ではこの横縞が明瞭で」「この時期は特にシマダイ(縞鯛)とも呼ばれる」「ただし成長につれて白・黒が互いに灰色に近くなり、縞が不鮮明になる」「食性は肉食性で、甲殻類、貝類、ウニ類などのベントス〔底生生物〕を捕食する」(ウィキペディア)
  堯縫灰Ε哀蝓淵Ε泪泥薀魯、カワハギ):今の方が昔より多い。
    今年5月のあるブログに「佐渡の鮮魚コーナーの虜!ハタハタコウグリの肝、メカブにハマる」の写真付き記事あり。コウグリのポップは、次のとおり。
   「煮てよし焼いてよしフライもうまい!両津産 今が旬!! むきこうぐり 100g当り98円(税別)」
  冷蔵ケースに陳列してある写真を見ると1パック3〜4尾入り。
  両津湾で多く獲れていることがわかった。
   漁獲方法は底引き網、定置網などの方法が一般的、釣りは餌取りが上手いので嫌がられることがある(ウィキペディア)。
東(沖)側
  テトラポットがたくさん置いてある。

1)水泳は、ここでは殆どしない。海が荒い・底が深い・休む場所がない・波にさらわれて沖に流されたら戻って来るのは難しい。
2)アワビ・サザエは、岸壁近くの岩の間に水中眼鏡を付けて潜って探し、採っていたように記憶。
3)私の小5、6年頃(1957、8年頃)と思うが、大きな岩にくっ付いている海藻を採り、そのまま海水に浸けて食べた経験がある。絶妙な味。名前はわからないが、黒褐色で長さは8〜10cm位の細い筋が数本付いていた。
(3)加茂湖
.▲汽蟶里
1)ホテル東宝〔前は橋本座があった〕脇から昔あった櫛谷鉄工所脇の辺りまでの加茂湖で〔昔は、両津湾に繋がり「境川」と呼んだ所。月と地球の引力と互いの円運動による遠心力によって一日の中で2回流れ(潮目)が湖→湾、湾→湖へ変わる〕でアサリを採った。
 (具体的な場所は、6月12日号「(1)序文」に掲載されている1920年代の両津市街図参照。橋本座と櫛谷鉄工所の位置が明確にわかる)
 (「境川」について、09年10月5日号「佐渡の風景85:河川(8)境川」)
2)採り方
 a.足で川の砂を掻く。
 b.川の中で砂が舞い上がる。 
 c.川の流れで砂が移動し、川底の様子がハッキリ見えてくる。
 d.水中メガネを着けている状態ですかさず潜り、川底を見回しアサリを採る。
 e.1回潜れば、10個くらい採れる。
3)買い手
 a.佐和田から毎日バスに乗って子どもが採るアサリを買いに来る魚商売しているお婆ちゃんがいた。
 b.一升桝にいくらで買って行った。アサリを桝から溢(こぼ)した方が多かった。〔一々拾いあげて、入れることはしなかった。子どもにとっては、その方が得する〕
 c、業者からの仕入であると高くなるが、子どもであれは安く買っても喜ばれる。
4)売った代金の活用例
 (軟式)野球チームのユニフォーム新調した。
 a、ユニフォームは紺色のカラー。〔オーダーメイド故、高価であったに違いない〕
 b、氏は、そのユニフォームは処分せず、蔵にあるとのこと。
  【ここでの大事な事は、
  ァ.遊び仲間が貯めた金銭=金融資産は、個人に等分・分散せず、
  ィ.使い方は、個人の所有資産で、究極処分自由であるを前提としたもので、
  ゥ.チーム資産としての誇り高い価値を持ち、
  ェ.利用者・受益者最多で 満足最大になるものとして
  ォ.貯まった金銭を野球チームの個人別ユニフォームに換えた
  ことにある。】
(4)その他
ヽご澡瓩でビルのように積み上げられている魚箱の遊び
1)一番上に登って真ん中辺(あたり)から組み合わさった箱を次々退(ど)かし下へと進む。
2)下に達したら、横の箱を退かしていき出口を作る。
3)高度なものは、迷路にする。〔隠れ部屋を作ったような記憶もある〕
4)上からも下からも通れる。
◆屮僖鵝廚陵靴喨
  遊び方について02号・03号に色々な例を記しているが、他のやり方もあった。
1)相手のパンは、小さな台の真ん中付近に置く。 
2)相手のパンの外周から最短距離(10〜20cmか)の所に、自分のパンを台から半分程はみ出た所に置く。
3)相手のパン目がけて自分の手のひらでパンを突き出し、命中させる。
4)ぶつけられた相手のパンが、台から出て落ちると相手側の負け。 
 〔複数人でも遊べそうだ。複数のパンが台に載っており、まず落としやすいパンが狙われる。ぶつけられて落ちなかったパンは、それでも台の中を移動し、やがて四辺のどこからか狙われて落とされる。または、別のパンとの接触によって、かえって安全性が高まったりする。そこが、希望も持て面白いことだらう。絶望だけで死を待つばかりではない。思わぬ助太刀が現れたりする。安全有利な位置にいても決して油断・安心できず、また窮地に至っても大逆転も起こり得る。〕
 山辺へ遊びに行った。
 5〜6人くらいで 例えば梅津の真法院とか堤(つつみ)へ行った。
 〔真法院といえば順徳上皇ゆかりの梅で有名。小学高学年か中学までの頃と思うが、それを見に行ったとは考えられない。夷七ノ町からだと60分で行ける範囲。ゆっくりできる所でもあるから、一応の目標地点となったのかもしれない。途中には佐渡では大きい梅津川があり、梅津橋が架かっている。私も築地時代の中学の時、近所の3、4歳下の子ども一人を連れて、梅津川まで遊びに行ったことがある。
 築地の場合、梅津は梅津川までてあったような気がする。真法院は、聞いたことがない〕

歴史スポット68:1950年代両津子どもの遊び(05)北 治之氏語る

 こんにちは!自在業の櫻井です。
 7月17日(月)海の日9:00佐渡汽船両津港ターミナルにやや近いアイポートで湊の北 治之氏と会って、子どもの頃の遊びについて話を聞いた。前もって依頼した古い写真集も持ってきてもらった。
1.はじめに
 これまでの「子どもの遊び」の取材対象者は、夷の人で湊はいなかった。夷と湊は橋を隔てた隣同士で非常に近いといっても、何か違いがあるだろう。それを知れば、意外な発見ができるかもしれないと思っていた。
 そこで、湊に生まれ育ち就職で島外へは出ず(大学へ進学かどうか不詳)家業を継いでずっと湊で暮らした氏に 同級生(1946年生まれ)ということもあり 白羽の矢を立てた。 
 前日のアポ取りで、17日は孫を保育園に迎えに行く3時前までなら何時でも大丈夫(すぐに、当日祝日で休みとわかり、何時でも可能に訂正)、6時のフェリーで行くので佐渡汽船前の喫茶店で早朝からやっているとこがあるかを尋ねると、橋を渡ったところに出来たアイポートを指定。
 氏は現在、佐渡観光協会の「まちあるきふれあいガイド」の担当者の一人として活躍。ガイドは、4月〜9月の期間毎日両津港佐渡汽船ターミナル2Fの佐渡観光協会両津港観光案内所(☎0259-23-3300)予約(1名から20名まで)により、港から1時間又は2時間コースで歩いて戻れる近くの名所を案内。
       《2時間コース例》
 佐渡観光協会両津港観光案内所→両津大橋→旧佐渡魚市場→夷本町→カトリック教会→両津橋→若宮神社→北一輝生家→おんでこドーム→みなと公園→佐渡観光協会両津港観光案内所
  (料金:一人1,000円。2017.06.08更新さど観光なび(佐渡市公式観光情報サイト)による。要事前確認)
 昨年は50回務めたという。中に、九州の観光客で福岡(フライト)→新潟(ジェットフォイル)→両津→(佐渡2泊3日)→両津→夷「村雨の松」→(9時過ぎのジェット)→新潟(フライト)→福岡 のお客さんを案内。
 氏とは、今年3月の「古希を祝う会」で一緒になり、拙著『佐渡広場』がガイドの役に立っているとのこと。最近では、5月28日「佐渡國鬼太鼓どっとこむ」の際おんでこドームで会って以来。

2.遊び
(1)海岸

 砂利と小岩で家々から海までの間は狭い。
湊4
  1955年頃(推定)湊海岸(写真:北 治之氏提供) 
湊海岸
南埠頭竣功〔1970年〕前の湊海岸(写真:「なつかしの佐渡」湊風景(土屋千秋))
/絮
1)海底に「波ごろし」といって直径2mくらいの足場のようなものが海岸に近い方から沖の方へ等間隔(3〜4mくらい)に設置されていた。
 a、多分、打ち寄せてくる大きな波を小さくするためのもの。湊には夷と違って沖に防波堤がなかった。
 b、海底は、砂地もあり大きめの石もあった。
 c、陸に近い方から「1の岩」「2の岩」と呼び、「4の岩」までは認識している。
2)上級生が、下級生に挑戦目標を決め泳ぎを教えた。
  【学年別泳ぎ等の目安】
 a、「1の岩」は、小学2〜3年生が足をついて立てるくらいの所にあり、1〜2年が泳いでいった。陸から3〜4mの距離。
 b、「2の岩」は、小学2年生の大体が泳ぎに行けた。そこまで出来ると一人前として認められ、一緒に泳げる仲間に加えられた。出来ないものは、「ずくなし」とバカにされた。
 c、「4の岩」は、潜って水中メガネからやっと確認できる深いところにあった。
3)「一人で泳ぐな」は、徹底して言われた。
 a、集団で遊んで何かあれば、一番上の子の責任となることは、当然としてあった。
 b、陸にいる大人や上級生は、海で遊んでいる子どもに向け常に目を光らせていた。
泳いで一時休憩のため陸へ上がると干してあるイカの足を「がめて」(盗んで)腹ごしらえした。
サザエ・ウニの採取
 海底の石・小岩をひっくり返して見つけた。
つ爐
1)ハチメ〔メバル〕・カタベ〔イシダイ〕・ベラ〔浅海性で岩礁やサンゴ礁、その周辺の砂泥底に棲み、小形の底生動物を主食。昼行性の魚で夜は海底の砂の中・岩陰・海藻の根元などに隠れて眠る〕など。
2)カタベは、ヤスで突いた。
3)「ガスナゲ」と呼んでいた魚は、普段は浅瀬の石の間に潜っていた。海岸に干してあるスルメイカを失敬し足の部分を海中に入れると、すぐ寄って来て食らい付き、銜(くわ)えたら口から離さないため、そのままイカの足を持ち上げるだけで簡単に捕れた。
ゼ分たちで捕った魚を海岸で火で調理し試食
1)海の傍の岩を利用してで火を起したから火事の心配はなかった。
2)そこで魚を焼いて食べた。
3)気の利いた子は、家から鍋を持って来て煮た。
4)醤油や味噌など調味料は不要、目の前のきれいな海水で煮たり焼いたりして味付けできる。
潜り競争
1)潜りの長さを競った。
2)海に入って陸と並行に潜って進み、その距離を競う。個人対抗もあり、グループ対抗もあった。
3)陸と並行に潜って進むことによって、沖の方へ出て行くのとは違って安全性が高いだけでなく、どちらが長いか客観的にわかる。
А屬茲Δ亮臓彭緩い之發噌腓い瓦辰
1)湊の隣りの原黒や住吉の海岸に生えている直径2cmくらいの細い竹を採って来て、「ようの実」鉄砲を作った。
 a.作り方・使い方
 ァ.」竹の節のない部分を15兪宛紊猟垢気棒擇蝓⊆,砲修療の中に丁度入る芯棒(竹を利用)を作る。
 ィ.最初にようの実を一つ押し込む。
 ゥ.芯を抜いて、別の実を入れ真ん中あたり までゆっくり入れる、
 ェ.一気に芯を押し込むと、パァーンという音と同時に実が飛び出す。
 b.当たっても痛くない。但し、「顔に向けてはいけない」。
2)湊の海岸の岩陰などに隠れながら、撃ち合いっこして遊んだ。
夏休みは、宿題もろくにせず昼飯時に家に帰るだけで、一日中海で遊んだ。
(2)加茂湖
仝佝覆妊魯篠爐蝓
1)湖底の小石に張り付いているのが、湖水を通して見える。
2)コンクリートの湖岸にフナムシ(船虫)がたくさん居る。それが餌。
3)釣り糸をハゼの目の前に垂らすとパクっと喰いつく。すかさず釣り上げる。
4)湊のもんは〔夷もそうだが〕ハゼなんか食わん。新潟のもんが、ハゼは佐渡んもんは食わんことにたまげながら、これ幸いとばかり たくさん釣って喜んで持って帰っていった。
◆屬討鵑押廖杢ァ未い〕で漕ぐ舟〕の舟遊び
1)加茂湖遊覧は、江戸時代からあった。
 a.1841年佐渡奉行川路聖謨は、佐渡在勤日記に記している。3月12日「御蔵・御番所を見て回り、加茂湖を船で巡覧。いつもは、ここに網引かせ、漁師に鴨など捕らせて見たとのこと。湖水の中央まで乗り、引き帰らせた」
  (08年02月26日号「佐渡を記した人23:川路聖謨(6)佐渡巡見 廖
 b.明治の文豪尾崎紅葉来島の時は、たまたま強風で湖水の波が高く中止。紅葉の『煙霞療養』より。
 .「加茂湖は古名を越の湖(うみ)と称(とな)へて、周囲四里廿三町、十個村その水をめぐって、南北に長く、東西に窄(すぼま)りて凹凸(おうとつ)し、大佐渡の諸嶺(しょれい)その鑑中(かんちゅう)に入りて、春秋の容(かたち)を粧(よそお)い、朝暮(ちょうぼ)の雲を洗ふのである」

 「金北の山の聳(そび)えたるよりなお目を驚(おどろか)して、ここに漫々(まんまん)たる水の一望の外に溢(あふ)るる碧(みどり)を畳(たた)みて、逢山方得地。見月始知天とも謂(い)わば謂うべき大いなる者を得たる、是(これ)一奇(いっき)」

 「この湖の如きは佐渡一国の面目(めんぼく)であって、又いやしくも北陸の勝(しょう)たるべき者なる」

 翌日10日も、風強く舟遊はまた見合わせとなる。
  (06年10月19日号「尾崎紅葉と佐渡(2)両津」)
 c.大正期に女性ガイド付きの発動機遊覧船があった。
 湊6
  上は大正10年(1921)頃の写真。焼玉エンジンといわれたいわゆるセミディーゼルエンジン 頭部をバーナーで焼き始動する発動機船は当時の花型 大正モダンガールの柄の長い日傘、遠くに椎崎の森が見える(『佐渡の百年』)
 当時、日本は第一次世界大戦(1914〜1918)景気に湧いた。〔主戦場は欧州。日本は日英同盟を口実に参戦勝利。中国山東省のドイツ権益継承〕。その後1923年関東大震災、1929年ニューヨーク発金融恐慌(ウォール街株価大暴落)が起こり、日中戦争、太平洋戦争、第二次世界大戦 そして敗戦。
 d.遊覧船は途絶え、1990年前後バブルの一時期チャーター船はあったが、現在営業用はない。
 下は「てんげ」に乗った舟遊び写真(北氏提供:多分1955・6年頃)
湊2  

1)湊の加茂湖側は、船小屋が多くあり私設の桟橋も作られた。無届で加茂湖の造成もし、スルメやカタセなどの干し場とした。
湊1
 加茂湖岸壁イワシ〔鰯〕水揚げ)(写真:北氏提供)
2)加茂湖側は漁船の発着・魚の水揚げ・魚の網解〔ほど〕き・網の整理乾燥・魚の加工・魚の天日乾燥の場で、大人の重要な仕事場であった。
 【加茂湖側は、海側に比べ子どもが遊べるような〔≒悪い事もできるような〕場はない。多分、大人が子どもたちが居るのを見たら疑いの目で見、「何しに来た!」と問うたかもしれない】
3)その他特記事項:海岸干しと湖岸干しでは、スルメやカタセの味が異なる。
 a.湖岸の方が味が良い。
 b.理由は、湖岸の方が乾燥がよく効いているから〔そういえば、湖岸は西側で西日が強い〕。潮風に当たらないこともあるかもしれない。
 
(3)街中
 崢廟廖
1)遊び方
a.チームを 追いかける方・逃げる方の2組に分ける。
b.お宮さん(湊の場合、八幡若宮社)集合場所とし、行動範囲を決める。例:縦は吉郎兵衛小路、横は本町通り加茂湖側。
c.「用意ドン」で 追いかける方は100まで数える。逃げる方はその間いろいろな所へ隠れる。
d.追いかける方は、見つけるだけでなく捕まえる。捕まった者は、お宮さんの所へ連れられ、そこでじっとしている。
e.全員捕まると、立場が入れ替わる。
2)逃げ方の要領
a.本町通りは、遮る物がなく見通しよく遠くまで筒抜け。
b.逃げ道がない場合、要領の良い者は知らない家でも、「通して下さい」と行って家の中の通路を通り抜けて逃れる。それが言えない者は捕まる。
3)湊の家の構造
a.本町通りを中心に加茂湖側の家の通路は向かって左側、海側の家は向かって右側にある。従って、本町通りで向かい合った家は、それぞれの家の裏から裏まで一直線。
b.造り
 ァ.玄関ー土間ー「おえ」(お家:客間)ー居間ー座敷ー「つぼのち」(坪の内:中庭)・台所−土蔵・蔵
 ィ.上記は各家皆同じ。
 ゥ.「つぼのち」(中庭)には、必ず池を造った。石を組み、築山を築いた。この池があるから、湊は夷と違って大火がなかったとされる。
        《参考》夷町大火

 1928年(昭和3)10月18日:焼失戸数556戸、死者1名、負傷者20名。夷新町の上手から出火、夜9時半頃火の手が上がり、8時間燃え続け夷全町を焼く。
 1947年(昭和22)4月17日:焼失家屋438戸。 
 1955年(昭和30)8月2日福浦大火:焼失家屋87戸。
  【夷旭町時代、同築地時代は、造りは湊と変わらないが、中庭あっても池はなかった】
 【比較:夷の「追跡」
  逃げる方は、逃げた方向が分かるようにその都度チョークなどで矢印を書き、追いかける方はそれを目当てに追いかける。矢印は、電信柱に書いたり、捨ててあった板などに書いて裏返して置いたり、地面に書いたりした】
縁台将棋
1)夏は至る所、涼みがてら縁台将棋が盛んに行われた。
2)上級生がやっているのを見て、自然に覚えて行った。小学低学年で将棋ができた。
4甼颪僚作り
1)小学校の工作の時間に舟作りをした。
2)玩具屋にいろいろな大きさのプロペラ(スクリュー)が展示してあった。
3)一杯にゴムを巻いて絞って、一斉に進水させ、速度と航行距離を競い合った。
(4)原黒果樹園
1)時季になると果樹園の多い原黒へ10人前後して果物を採りに行った。
 梨、柿、トウガキ(イチジク)など。
2)中学時代は、部活で近くで合宿した時トマトを失敬。水の出るところへ持っていき冷やしておいて食べた。先生も暗黙の了解、自らも食べた。
3)ある時、果樹園のオーナーが、見るに見かねて大きなシェパード犬を見張り用として飼って果樹園に置いた。
 シェパードは今もそうだが当時としては、非常に高価で買える人は滅多にいない。
 今日でも、番犬・警察犬・麻薬探知犬・軍用犬・災害救助犬として活躍。
 それからというもの犬に恐れをなし、果樹園には行かなくなった。
4)一方、ヨモギやワラビ・ゼンマイ・ウドなどを採りに農村へ行かなかった〔夷のように〕。
 a.湊のもんは、「葉っぱ」・草類は人が食べるようなものでないという意識があったらしい。人は米と魚と果実ということか。
 b.茶粥について(湊は昔から朝食は茶粥の習慣。夷よりも強い)、確認のため問うと 茶粥は今も変わりないようだ。参考まで私が佐渡で泊まる時は、正月に限らず茶粥餅を食べると情報提供。湊のもんからすると特に驚くような事ではなかった。

3.まとめ
[渉纏劼匹發陵靴咫崢廟廖廖柄扱如α姐罅砲妨る夷と湊の遊びの共通点と相違点
 【「追跡」は、鬼ごっこ・かくれんぼの一種。「鬼ごっこ」の基本型は、「鬼」とその他に多数の「子」がいて(最初ジャンケンで決める) 「鬼」はスタート直前目隠しされ一定数(10又は100)を数える間に 「子」は決められた範囲(例:お寺の境内)の或る場所に隠れ、鬼に見つからないないようにする遊び。「追跡」も、隠れた子を次々見つけ捕らえるもの】
1)「追跡」は、鬼ごっこ・かくれんぼの一種であるが、「鬼ごっこ・鬼遊び37種類まとめ」サイトの各詳細を調べても、「追跡」と似たものは見当たらなかった。場合によっては、全国的に類を見ない夷・湊の固有の遊びもかもしれない。
 a.夷と湊の「追跡」は、2グループ(いわば「鬼組」と「子組」)に分かれて行い、鬼が一人で残りは子であるのと異なる。もっとも、「鬼ごっこ」と言っても 鬼と子が入れ替わったり、鬼がどんどん増え続けて鬼だけとなったところで遊びは一段落したり、パターンはいろいろある。
 b.夷・湊共通の「追跡」は、普通の「鬼ごっこ・かくれんぼ」と違って逃げ隠れの範囲が、自分の町内全域とか隣も含むとか 広いことにある。町内といっても小路や空地や倉庫・空き家があり、隠れ場所は多くある。
 だから、一人の鬼でなく(これだと一人探す範囲が広すぎる)、グループが担う。
 従って、スケールが大きく、参加する子どもの年齢も幅広く多く動員し、遊べ楽しめる。
2)夷と湊の「追跡」の相違点(といっても全てを知り通じているはずないが)
 a.夷はチョークを使う。逃げる「子」が角にさしかかった時、真っ直ぐか右か左か決めたら どこかに印をし居た場所を暗に示すルールがあったと思う。そうでないと、見つけようとする「鬼」はどこへ行けばよいか皆目見当つかず面白くない。逃げる「子」は、教えたことが鬼に場所を嗅ぎつかれ一網打尽にされるかもしれないというスリル感がある。【鬼の「もーいいかい」に対し、子はまず「まーだだよ」と言い、隠れる所が見つかって隠れたら「もーいーよ」と言うことと同じ】
 b.湊は、目印を暗示するチョークは使わない。湊の場合、見つけるだけでなく捕まえることが必要だから、たとえ見つかっても逃げればよいから希望がある。見方によっては、
 ア、湊の「追跡」の方が夷より力づく・要領・機重視でダイナミック
 イ、夷は、湊より決断力・察知力重視でスマート
と解釈できる。
  参考:『佐渡四民風俗』記事(編集:佐渡奉行所。1840年追加)
 a.「夷、湊両町は高40石余宛にて皆畑の所に候へば、百姓の業は纔〔わずか〕ながら繁昌の勝地に候事は、海猟多き上に又潟池〔加茂湖〕猟有之。相川表迄魚鳥売り出し候体、其上国仲村々より前浜筋、内海府方への通路に候へば、万の商物捌け宜敷故に候。但此所碇掛り宜敷湊にては無之候へ共、荒磯に無御座候故、中春より中秋頃迄は、越後船地船の往来不絶売買多く依之20、30年以前とは格別有徳の者も出来候由、此所造酒等も味宜敷方に候。或は近郷の塩焼共え仕入を致し、塩商も多く有之候。鍛冶細工も当所は優れ、包丁を打 煙管〔きせる〕を張り、印を彫り、又は漁猟の釘鉄を仕出し、或は原黒村辺にて作り候茶の新葉を取、湊町より売出し候、是は他国中品の茶に不劣程に御座候」
 b.「夷町、湊町は橋を隔て候迄にて人心格別夷は宜敷、湊は野卑体に有之由申触し候」
⇒靴咾蓮⊂綉蘋犬ら見よう見まねで学び、一緒に遊んで見守られ 認めてもらって上達・成長した。
1)新潟県長岡市出身・連合艦隊司令長官 山本五十六(1884〜1943)の言葉。
  やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。
  話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。
  やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。
2)上級生は、遊びでは下級生への面倒見がよかった。

 以上 2017.07.21



歴史スポット67:1950年代両津子どもの遊び(04)山田昭夫氏語る

 こんにちは!自在業の櫻井です。
  6月7日(水)午後夷神明町の「再会」で山田昭夫氏にお会いし、子どもの頃の遊びについて話をお聞きした。
1.はじめに
 5〜6年前氏から佐渡の自宅に手紙が送られてきた。拝見したのは、佐渡へ帰ったときであった。
 内容は、「前略 いつも隣の再会で『佐渡広場』を楽しんで読んでいます。諏方神社について参考まで別紙送ります」「次々と発行されますよう楽しみにしています」として資料が同封されていた。
 「再会」の隣りというから、私が築地時代住んでいた家から歩いて1〜2分の距離。知っていて当然のはずだが、神明町という隣の町内であったためか「山田」という苗字は思い当たらなかった。遅ればせながら、お礼の電話は差し上げた。
 その後3年頃前の正月初め渡辺和弘氏と「再会」で話をしていた時入って来られた。お互い馴染みの間柄だったようで親しく挨拶を交わし、紹介いただいた。
 見覚えなかったが氏は覚えている様子で 古稀に間近な私を見て、「えらくなったものだ」と言われた。
 昨年末頃は渡辺氏から 「夷を語る」会が結成され「佐渡人名録」サイトにその内容が掲載されていること聞き、拝見。メンバーに氏の名があった。それぞれ貴重な話がされていて、非常にためになった。そういう事から、氏に是非遊びの話をお聴きしたかった。
 取材に際し、誕生年をお聞きすると昭和11年とのこと。私と丁度10歳違う。それでは一緒に遊ぶことはなかっただろうし、名前を覚えてないのも無理からぬことで、内心安堵。

2.遊び
.好院璽
1)長靴の下に金具(スケートのブレード)をゴムバンドで張って取り付けた。金下駄(かなげた)と違って高さがあるためバランスをとるのが難しく、慣れない頃は歩くのさえ大変だった。
 金下駄は、足駄(あしだ)に付いている前後二本の歯を外し、ブレードをつけた。確かブレードの左右には薄い金属板が付き、ネジで固定。
2)スケートは高価であったから、お金のない子は出来なかった。
3)本町通りの斉藤薬局のある辺りは、砂利道でなくアスファルトであったから滑りやすかった。
 a.これは、私も経験あるがスケートを履いたままでトラックの後ろの荷台につかまりそのまま走って行った。なお、バスがバス停に止まった時に後ろのバンバーにつかり滑って行く者もいた。
 b.夜はツルツルに凍る時があった。商店街であったから夜8時頃までは明るく、車の通行も昼間ほどでなく、スケートする人が多く集まり、それが更に路面を凍らせ恰好のスケートリンクとなった。車道を通るのにスケートでなければ、歩いてはかえって滑って危ないことを実感した記憶がある。
竹スキー
1)ほとんど自分で作った。
2)一定寸法の長さの竹の一方の端近く(先頭部分)の裏側を削って薄くし、火に炙(あぶ)って直角近くまで曲げた。
3)竹スキーは、硬い雪や氷でなくやわらかい雪の上。従って、本町通りでなくツルヤの坂や裏通りが適している。
そり(橇)
1)そりは、本来は雪道の人力による荷物運搬用具で、子どもの冬の遊び道具ではない。それを大きさに応じて1人用、2人用、3〜4人用と遊びとして開発したのは、他ならぬ子どもたち。
2)金具のついたソリは余り無かったが、滑りがよかった。竹を付いた手作りのソリもあった。それらは荷物運びが主で遊び用具でなかった。
3)遊んだところはツルヤの坂とか、本間牛乳の坂。他には中野の坂とか、電話局のすぐ向こうの登ると三辻さんの家のある所からも滑って来た。たまにタクシーやトラックが通るくらいで車はなかったと同然。ソリでいろいろ所へ行ってみたが、急でない坂は面白くなかった。
ぅ灰
1)回っている相手の駒を真上からやっつける「てっぺん」という技術があった。
2)大勢が同時にコマを回し、だれの駒が一番最後まで回っているか、「息の長さ」を競った。個人戦は勿論、団体戦もあったかもしれない。
 〔書き込み中思い当たったが、「息の長さ」を競うやり方・技術として、確かコマを回した紐で自分のコマを高速回転している芯棒(木製より鉄製が多かった)に軽く触れながら移動させ、相手のコマと接触させ、相手のコマの回転をl急速に弱め、早く倒したりした〕
3)コマはツルヤの他に城の腰の小川屋に売っていた。
 《参考》コマ(独楽):ウィキペディア
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 a.コマは世界各地でみられる。極めて古い歴史を持つ。
  ァ.エジプトでは紀元前1500年ごろの独楽が発見。木製で円柱の下を逆円錐に削ったもので、ぶちゴマ〔叩きゴマとも言い、独楽の胴体の側面を、鞭のようなもので叩いて回すもの〕と考えられる。
  ィ.古代ギリシャにもぶちゴマやひねりゴマに関する記述が見られる。

  ゥ.ヨーロッパでは17世紀頃から投げゴマに関する記述や絵が見られるようになる。
  ェ.19世紀末からは、工業の機械化や加工技術の進歩によって、より複雑な独楽が工夫されるようになった。コマの性質を工学的に応用したジャイロスコープ〔物体の角度(姿勢)・角速度・角加速度を検出する装置で船や航空機やロケットの自律航法に使用〕もこの頃実用化。

 b.日本のコマの歴史
  ァ.6世紀頃ぶちゴマのような出土品。平城京跡や奈良県藤原宮跡などから7〜10世紀頃と思われる独楽、または独楽型の木製品出土。

  ィ.日本でも江戸時代に「独楽が大進歩」。博多では精密で長く良く回る独楽が作られた。博多ゴマと呼ばれ、現在まで伝わる曲芸ゴマの始まりとなった。

  ゥ.江戸の子供たちは巻貝を加工した小さな独楽の回しっこをしていたことが伝えられており、これが明治中期に金属となって現在のベーゴマになった。
  「ベーゴマも当初はぶちゴマであったらしいが、次第により強く回せる投げゴマに変化」。ぶちゴマは江戸中期に次第に投げゴマに取って代わられ、昭和後期には皆無に近く、投げゴマが日本では独楽の標準となった。この形の独楽は永く残り、昭和末まではどこの駄菓子屋にも置いてあった。

  ェ.昭和末期より投げゴマはすたれ始める。
  顱望学生は1981年(昭和56)1192万4653人をピークに減少。
  髻1983年(昭和58年)に任天堂より発売されたファミコンを初めとする家庭用ゲーム機がバブル期にかけ広く普及。
  鵝縫丱屮觀糞い砲茲辰読堝飴魂然覆上昇し、子供が遊んでいた空き地が減った。
  堯紡眠杙匆阿妊灰泙山をなした風景は現在では見られず、機械式の回転装置をもつ室内遊戯のコマに代わった。 
  c.現代のコマの話題
  ァ.1999年「ベイブレード」(カラ/タカラトミーから発売されている現代
版ベーゴマ)が出て子供の間でブームになった。投げゴマでない。室内玩具で、「ベイブレードで外で遊ぶ子はほとんどいません(ヤフー知恵袋)」

  ヵ.2011年から全国の中小製造業が自社の誇りを賭けて作成したコマを持ち寄り、一対一で戦うコマ大戦が行われ、2012年2月2日には、横浜みなとみらい21地区「テクニカルショウヨコハマ2012」にて、第一回全国大会G1が開催。優勝したコマは、(株)由紀精密のコマで、レプリカモデルが販売。コマ大戦にて使用されるケンカゴマは直径20mm以下、一円玉より小さいコマで、その小さなコマを製造業が設計し、切削機や旋盤などのプロの機械を用いて自社の持てる技術を全て注ぎ込み作成。
 競いコマ:「曲芸ゴマ」「賭けゴマ」は略。
 1)回転する時間を競う

   同時に回して、早く倒れた方が負け、〔最後に残った方が勝ち〕といったものである。
 2)ぶつけ合う
   土俵を決めてそこで回転させ、互いのコマをぶつけてはじかれたら負け、といったもの。
 3)技を競う
  a.投げゴマの技
   特定の場所を決めて投げる、いったん遠くへ投げつけておいて手元に引き寄せる、自分の手のひらの上に投げる、綱渡りなど。
  b.空中ゴマの技
   投げ上げる、他人との間で投げ合う、綱渡り、紐昇りなど。
 (参考は、以上) 
ス眥靴
 皆で足作って棒立てて高跳びし、誰がどれだけ跳んだ競った。
拾い物
1)両津橋の下や橋本座(映画館や劇場であった)の加茂湖側に鍋などが捨ててあったので広い集めて小遣いにした。
2)当時は、今日のように環境規制がなく不要なものはどこでも捨てた。〔要確認だが、魚の不要な腸(はらわた)などは、昭和30年代までは加茂湖に捨てていたとか。あるいは、自然に特定の場所が「捨て場」となっていたかもしれない〕
Р談亳个任陵靴
1)ハゼ、チンデー(「チンダイ」:イシダイ(若魚は「シマダイ」)、「カタベ」ともいう)釣り。
 ヤスでも突いた。
2)アサリ採り
 a.小学高学年〜中学の頃(昭和25年)
 b.採ると買いに来る者がいた。
3)海水浴:吉田屋ホテルから花月ホテルまで湖畔は砂利と砂であった。
築港での遊び
1)サザエ・アワビ採り
 a.7〜8人で採りに出掛けた。
 b.それぞれが採ったものをバケツに入れた。
 c.たくさん採った者、少ししか採れなかった者いろいろだが、それを小さい物から順に並べた。
 d.ジャンケンで取る順番を決め、勝った者から先に取っていった。ジャンケンに勝った先の者が、最初小さなサザエやアワビを手にしていくが、最終的には得するようになっているとのこと。
 【誰一人 仲間外れにはせず全員が参画し、必ずしも実力主事でなく 公正なルールの下 公平に競う合って遊びを楽しむ】
2)水泳と潜水
 a.子どもが大勢して海で泳いだり潜ったりしたが、親が心配して見に来ることはなかった。
 b.暗黙の中でガキ大将が、責任を持った。
 c.何か起これば、少しのことでもすぐに町中伝わるのだが、事故は全くなかった。
ヘタでの築港〔防砂提〕での遊び
1)水泳、潜水
2)べコタコへのいたずら、ランベイとり
3)魚貝捕り
   小さいウニがたくさんいた。
昔の佐渡汽船の埠頭での遊び:竹の輪を利用したかくれんぼ
1)昭和25〜6年頃北海道向けの口径の広い大きな竹の輪が束ねて佐渡汽船の岸壁にそれぞれ積み上げてあった。
 【追記07.19: 「佐渡国中方言集」サイト「てんぎり」より

 櫓で漕ぐ舟の総称(たらいぷねも含む)。
 〔佐和田では昭和30年代まで北海道船と言う大きな舟が来て、竹製品、特に鰯等で肥料を作るための大樽のたがに使う割いた竹の半製品を買いに来たが、港の桟橋に着けず、『てんきり』で運んだとの事] 】
2)高さは、小学後半か中学1の子どもくらいで、いくつかの竹の輪の一つに隠れ見つからないよう移ったりして遊んだ。
農村へ行っての遊び:植物採集
1)例
 a.ヨモギ:草餅用
 b.笹:笹団子用。笹でくるんだ草餅の中に餡が入っている。
 c.ワラビ
 d.ゼンマイ
 e.ウド
2)近所の仲間4〜5人で、川内〔外城橋の西側〕や加茂〔外城橋の東側〕へ採りに行った。

3.まとめ
ゞ畚蠅了劼匹睛靴喀乎弔離汽競─Ε▲錺唳里蠅諒け前・分配のやり方について大変勉強になった。
1)子ども集団といっても上級生も下級生もいて、同級生にも泳ぎ上手と泳ぎ下手、潜り上手と潜り下手等いろいろいて、収穫も多い者・少ない者いて当然。
2)分配は成果に応じて差をつける当9然だが(例:成果ゼロの者はゼロ)、これを実力でなくジャンケンで決め誰もが分け前に与れる仕組みになっている。
 a.「結果的には、やってもやらなくても収入同じ=貢献した者がバカをみる」平等を説く共産原理(旧ソ連憲法に「働かざる者は食うべからず」の条文あり、各国共産党綱領の規範となった)、
 b.「働かざる者は食うべからず」とまでは標榜しないがいわば弱肉強食の市場原理
とも異なる。
 ◆屮灰沺∋劼匹發陵靴咫廚鮓〆していたら、フランスの作曲家ビゼーの『子供の遊び』が出て来た。私事だが、これはクラシック音楽との出合い人生の中で大きな出来事に数えられるかもしれない。
1)まさかビゼーに、この曲があたったとは知らなかった。ドイツのシューマンの『子供の情景』、フランスのドビュッシーの『子供の領分』、イタリアのレスピーギの『ローマの松』「第1部 ボルゲーゼ荘の松」(作曲者自身による説明:「ボルゲーゼ荘の松の木立の間で子供たちが遊んでいる。彼らは輪になって踊り、兵隊遊びをして行進したり戦争している」)ならわかる。
 20世紀旧ソ連のショスタコービッチ『交響曲第15番第1楽章』については「01」号に記述。なお、チャイコフスキーの『クルミ割り人形』を調べたが、遊びと関係なかった。
2)曲の『遊び』内容(後掲)をみると、フランスのしかも1800年代の遊びでありながら 1950年代の両津(当然日本も)の子どもの遊びと何ら変わらない。
  参考:ビゼーの『子供の遊び』(ウィキペディア)
 ジョルジュ・ビゼーが作曲したピアノ連弾のための曲集、および管弦楽組曲である。管弦楽版の題名は小組曲『子供の遊び』である。

 1871年にピアノ連弾のための曲集として作曲された。翌1872年、ビゼーは全12曲のうちから5曲を選んで管弦楽のために編曲し、「小組曲」とした。「小組曲」は1873年の3月2日にパリのオデオン座でエドゥアール・コロンヌの指揮によって初演された。

 元々は全10曲の予定であったが、後に第7曲「シャボン玉(ロンディーノ)」、第8曲「隅取り鬼ごっこ(スケッチ)」が追加された形で、現在の全12曲からなる曲集として出版された。ビゼー自身、「隅取り鬼ごっこ」を一時は終曲にと考えたことがあり、また、同曲を管弦楽版の終曲にと管弦楽編曲も行ったことがあったが、作曲者自身は最終的には同曲を現在の第8番にし、管弦楽版「小組曲」に入れることも見送った。

編曲に際して曲順も入れ替わっており、順に元の第6曲、第3曲、第2曲、第11曲、第12曲となっている。
   ピアノ連弾:全12曲
 1ぶらんこ(夢想)
 2こま(即興曲)
 3お人形(子守歌)
 4回転木馬(スケルツォ)
 5羽根つき(幻想曲)
 6ラッパと太鼓(行進曲)
 7シャボン玉(ロンディーノ)
 8陣取り鬼ごっこ(スケッチ)
 9目かくし鬼ごっこ(夜想曲)
10馬とび(奇想曲)
11小さな旦那様、小さな奥様(二重奏)
12舞踏会(ギャロップ)
   管弦楽版(小組曲):全5曲
 1ラッパと太鼓(行進曲)
 2お人形(子守歌)
 3こま(即興曲)
 4小さな旦那様、小さな奥様(二重奏)
 5舞踏会(ギャロップ)
3)何故こうも同じか?究明すると面白い結論ー場合によっては大発見ーが出てくるかもしれない。
M靴咾詫靴咾忙澆泙蕕、物の活用、資源再活用、理論構築・技術開発が含まれていた。
1)ソリは雪上運搬車。使ってないときは、子どもの遊び用具になる。大きな竹の輪の束は商品として船に積まれるまで埠頭に置かれ、かくれんぼの遊びに利用もされる。それによって別に傷が付くわけでなく、品質が落ちるわけでもない。
2)海岸などに古鉄や鍋などが捨てられている。これを子どもが拾い集め業者に引き取ってもらう。野に生えるヨモギやゼンマイなども子どもが採って、人の役に立てている。
3)サイコロ遊びから確率論やゲームの理論が生まれた。コマ遊びからジャイロスコープが生まれ、ロケットや航空機や水中翼船ジェットフォイルの自律航法に役立っている。
 以上 2017 07 17

歴史スポット66:1950年代両津子どもの遊び(03)渡辺和弘氏語る

 こんにちは!自在業の櫻井です。
 「子どもの遊び」についての取材2回目。
1.はじめに
 6月7日(水)新潟から朝6時のフェリーで両津に渡り、事前申し合せの通り渡辺和弘氏が車で迎えに出ていて、喫茶店「再会」へ直行、いろいろ話をお聞きした。
 氏は夷出身、私より1つ若い昭和22年生まれで、ウェブで「佐渡人名録」を開けばわかる通り 佐渡の民謡・風俗・歴史、佐渡人及び佐渡と関係ある著名人など広範囲に編集し(現在も編集中)、過去だけでなく現在との繋がりも知る。今回のテーマ「子どもの遊び」について 氏を外せないのは当然。

2.内容
(1)遊び場関連
^按は、戦後できた。
1)正月2日に会ったとき、旭町はいつから出来たか問題にしていた。
2)歯医者さんで両津町長を一期務めた松瀬教五郎の時で、「松瀬町」にする話があった。
 (なお、「旭町」の名は、私の父の案によるものと、小さい時父から聞いたことがあった。朝日のように輝き栄えるという願いと、当時は築港はなかったから両津湾の遥かかなたに水平線が見渡せ、朝日が昇るのが見えた。今日では既に、かっての築港は岸壁が高くなり且つ長く繋がり、更に一部は沖へ造成されて視界が遮られ、水平線は見れないはずだ〔前号の画像参照〕)
 参考:松瀬教五郎について
 a.『佐渡名鑑』(高尾次郎 昭和13年刊)より。
 明治22年両津町生まれ。県立佐渡中学校卒業 東京歯科医学校に入学 資格を得両津町に松瀬歯科医院を開設 昭和6年県会議員に推され佐渡」選出県議として活躍をはじめ両津町議両津消防組織両津信用組合会長海洋少年団長等に就任 両津町に於ける中軸人士の第一人者。
 【注;昭和13年の刊故、まだ町長経歴は触れられてない】
 b.「佐渡雑楽69:昭和天皇と朱鷺と両津高校(5)」(渡辺和弘/著)サイトより
  戦前の佐渡には7つの旧制中等学校ー佐渡中学・相川中学・佐渡農学校・羽茂農学校・佐渡女学校・河原田女学校・相川女学校ーがあった。すべて佐渡の西側で東側になかった。「地元〔両津〕に中等学校を!」の声。松瀬町長、佐渡高等女学校教諭橋本喜一(劇場「橋本座」経営、後の初代両津高校校長、両津市長)、両津国民学校訓導岩原一雄の3人が中心となって新潟県へ高等女学校設立許可申請をした。
 だが、財務基盤弱体等の理由で却下。
 そこで彼らは、直接文部省へ直談判。この時高橋与平(東京御徒町で「吉池百貨店」等を経営する実業家)が、大きな役割を果たす。高橋の養嗣子〔ようしし:民法旧規定で家督相続人となる養子〕が岩原の実弟係吾、高橋は元教員で、教え子に当時の経済担当大臣石黒武重がおり、石黒は高橋を恩師としてずっと慕っていて、この石黒に仲立ちで急転直下、物事が進展。
築港(防波堤)
1)大正5年から昭和12年まで両津町町長を務めた土屋六右衛門の次女が建設省の役人と結婚。築港づくりは、大川の石で築いた。大川に石碑がある。(要確認。以下、同じ)
 参考:土屋六右衛門(資料:「佐渡人名録」サイト)
【生没】1868一1937 明治元年十二月十九日、夷町(現両津市夷)小池佐太郎と母このの次男として生まれ、同町土屋六右衛門(屋号俵屋)の養子となった。幼名辰之助・諱正利、明治三十八年(一九○五)家督を継いで、六右衛門を襲名し二六と号した。七歳の時若林玄益の門に入り、漢学を学んでいる。明治二十九年、養父の佐渡銀行創立の運動に加わり、同三十八年、後を継いで専務取締役となった。明治四十四年、佐渡で最初の佐渡水力電気株式会社を創設、大正二年(一九一三)、島民資本による佐渡商船株式会社を設立して社長に就任、越佐航路の改善に尽力した。大正八年所有船の遭難や戦後不況の影響で佐渡銀行の取付事件が起こったため、職を辞し、私財を投じて整理に充てた。政治家としては、国権党から民政党に移り、明治四十四年から三期県会議員に当選した。大正五年から五期二○年にわたって両津町長をつとめ、この間、両津港の築港加茂湖の埋立て、水産講習所の開設・水産加工品の改良、蠣〔牡蠣:カキ〕の養殖などに努めた。また、浜田地域に新市街地を開設したため、町民はここを「俵屋町」と呼んで、その恩恵を称えた。町長及び県会議員在任中の昭和十二年三月十七日、新潟で病没した。
【関連】佐渡銀行(さどぎんこう) 【参考文献】『両津町史』・若林万吉『二六土屋正利先生追懐録』 【執筆者】石瀬佳弘 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
 〔両津町長であった土屋六右衛門が亡くなったのは1937年、在職中島外旅先でのこと。この年夷海岸通に夷魚市場ができた。大正4年から始まった両津築港改修工事は22年かかって、同年10月完成した〕
2)『本間組80年史』(2015年刊)の年表によれば(当日取材後佐渡支店へ寄ってコピーをいただいた。前日問い合わせ済)、主な受注工事/土木として1947年(昭和22)「両津港修築工事(新潟県)」があり、当社関連事項として1948年(昭和23)06月01日両津出張所開設(後の佐渡支店):両津市夷旭町47」とある。
 a.体制には影響ないが、昭和23年に旭町に事務所開設というのがおかしい。
  ァ.旭町にあった我が家は昭和28・9年に築地へ引っ越し、その後すぐにではなかったが替わりに本間組事務所が出来た。
  ィ.氏の「佐渡雑楽」(前掲)の中に次の記事がある(ウェブ「佐渡人名録」参照)。
  顱法崗赦27年頃、大川集落で故郷の美しさと人情を歌に託したいという話が出たとき、本間組勤務の林さんが職場の上司に作詞を依頼。所長であった保科義夫さんは畑野の出身で、佐渡在住ながら西条八十に師事、歌謡曲の作詞家として知られ始めていた」
  髻法崑臉遒砲亘楷崛箸旅事現場があり、所長としても深い愛着があった」。沢根出身の高名な作曲家鎌多俊與とのコンビで『大川小唄』が作られた。
   a)「恋の坂々見返り峠旅のつばめも振り返る」「紅の架け橋朝日に映えて港繁盛の鎮守様」
   b)「現在集落を見下ろす「見返り峠」に大川小唄」の立派な案内板が立つ」
  鵝法嵋楷崛箸賄時わが家のはす向かい、私は保科さんから可愛がられたことを覚えている。父はよく、『あの人は偉い先生なんだ・・・』と話していた」  
 b.大正5年〔1916〕生まれの保科さんは、戦時中は海軍で活躍、戦後本間組に勤務。
  ァ.大川での発破事故で大怪我し足が不自由になった。これは取材時に初めて聞いた。保科さんについて、私も小さい時から知っていた。足が不自由で杖を付いて歩いていたが、非常に堂々としていて偉い人という印象があった。娘さんは、小1年から6年まで私と同じクラス。中1の途中で転校。もしかしたら、中1の時も同じクラスだったかもしれない。
  ィ.両津港修築工事(築港工事を含むだろう)には、大川の岩石が必要であった。
  なお、旭町の海岸道路の傍に大きな殉職者慰霊碑が、旧魚市場と両津漁港防波堤に向かって建っている。
 それは、5月27日梶井照雄氏の取材時に供養塔が旭町の浜側 前魚市場の所にあると聞いたもので 終わった後、現地へ行き写真に収めた(下の2画像)。文字ははっきり読めない部分あるが、両津漁港修繕工事竣功 昭和34年 本間組とあり、裏面に殉職者9人の名が彫られていた。
DSC09749DSC09744                              
  後日、山田昭夫氏にその事を話すと、片野尾の採石現場で土砂崩れ事故があったとのこと。
 昭和34年竣功は、中1の時。子どもにとって海だったところに道路や魚市場が出来たことよりも、2〜3年は建物が建たない広場(画像では見れない)が出来て遊び場となったことは大きい。築地からは海岸通りの広場へは10分足らずで、町内間の対抗野球などして遊んだ。
(2)遊び 
 崔櫃箸鵑棔
1)竹とんぼは、竹さえあれば小刀1本でできるとあるが、作った記憶はない。そんな教科があったかもしれないという話だが、小学校の工作の時間に作ったかもしれない。
2)原理としては、竹のプロペラと竹ひごを心棒として取り付けたもので、心棒を両手の手のひらでこすり合せるように回転させ、プロペラの揚力で空へ飛ばす。競うのであれば、飛距離や滞空時間がある。
3)古くは奈良時代後半頃の長屋王邸跡から類似の木製品が出土、平安時代や鎌倉時代の遺跡数からの出土例もある。
◆屬△笋箸蝓
1)1本の紐の両端を結んで輪にし、主に両手の指に紐を引っ掛けたり外したりしながら、特定の物の形に見えるようにする遊び。
2)日本には一人でと二人で行うものがあるが
、世界には多人数で行うもの、紐をくわえたり手首や足も使うものがある。あやとりは、全世界に存在。
3)2人で交互に行うあやとりは、対戦形式で行われ、一人がまず両手の間で簡単な型を作ると、次の人はその型から両手でいくつかの糸を取り、相手の手から外して自分の手の中で張ってみせる。この時形が崩れたりほどけてしまったら負け。
「馬」「跳び馬」:名称は「長馬」「胴長」「馬乗り」等全国いろいろ、ルールもいろいろ。
1)馬チームと馬跳びチームに分かれる。(一般には、ジャンケンで勝ったチームが「馬跳び」、負けたチームが「馬」になる。一般に4,5人ずつがよいとされる。
2)広場の傍らの寄りかかれる太い木か柱か壁で行う。
3)馬側の1人がそれを背に広場に向って立つ。「馬の首」となる。
4)一番目の馬が、その立ってる子の股に首を突っ込んで下を向いて踏ん張る。立ってる子の足を両手でしっかり抱えると安定する。
5)二番目の馬は一番目の馬の尻の後ろから首を突っ込んで、同じく前の馬の足を抱えて踏ん張る。
6)以降、同じ。こうやって馬の首以外はすべて馬になる。
7)馬の首が、馬の状況を見て、「いいぞう!」と宣言。
8)馬跳びチームの子は、馬の最後尾側から小走りに走って、跳び箱のように跳んで1回だけ馬の背中に両手をつき、「馬の首」に向かってポーンと乗る。できるだけ「馬の首」のそばまで跳んで、次に跳ぶ子のスペースを確保する。
9)「馬」、特に最後尾は左右に揺れたりして「馬跳び」が乗りにくいようにした。
10)「馬跳び」が失敗して馬から落ちたら「馬跳び」の負け。跳び乗られて誰かの馬がつぶれれば「馬」の負け。全員が跳び乗り、馬もつぶれたりしなければ、「馬の首」と最後の「馬跳び」がジャンケンする。勝った側が次にどちらになるか選ぶ。一般には勝てば「馬跳び」。
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1)全国的に行われていた。大きさもいろいろあった。絵柄は人気のスポーツ選手や漫画のヒーロー。
2)大きく二つの方法。 
 a.みかん箱等の上にベニヤ板などを乗せ、平台の上で行う。
  ァ.板の上にある相手のパンを下に突き落とす、又はひっくり返すと勝ち。
  ィ. パンの端を少し折り曲げたり、唾をつけて固めたりした。
  ゥ. インチキな方法に「手スリ」があった。自分のパンを斜めから打ち付けながら相手のパンをわからないようにはねのけるやり方。
 b.地面の上で行い、自分のパンを打つ時に起こした風力で相手のパンをひっくり返す。  
  ァ.湊辺りから遠征して来る者もいて、そんな人を「ショーベー〔商売〕」と言った。勝つだけ勝って短時間に帰る人を「勝ち逃げ」と言った。
  ィ.上級生が中に入るとと荒されるので、嫌だったが「おそげー(恐ろしい)」から断れなかった。遠くからやってくるのを見て、一斉に逃げた。
3)インチキな方法とは違って誰が見てもわかるいわば公認の「油パン」があった。
 パンにエンジン油のようなものを付けると、重くなって扇がれても簡単にひっくり返らず、逆にそれで扇ぐとものすごい風を出せる。
ァ屬繊爾僂鵝
1)パンの小さいもの(直径2,5cm位)を使って遊ぶ。
2)10枚、20枚位のものが蝋でくっついて一個として売られていた。
3)遊び方は二種。共に親指と人差し指の間に挟んで、両指を強く閉じ反発力で突き飛ばす。
 a.線を引き、その内側から遠くに弾き飛ばして距離を競う。
 b.壁に向けて飛ばし、跳ね返り位置の遠いものが勝ちとなる。数人で行い順位をつけた。
子どもの稼ぎ
1)浜辺などで拾った金属部品・製品等の販売 
 a..旭町時代の経験では鉄製部品の欠片(かけら)や銅や真鍮〔しんちゅう〕などの非鉄屑が砂浜に打ち上げられ、あるいは砂の中に埋まっていたのを拾い集め、定期的に回ってくる業者に出して、目方を測ってもらい〔分銅を使った竿秤(さおばかり)か〕、指定された値段でお金をもらい引き取ってもらった。
 b.その業者というのは古金屋〔ふるがねや〕か鋳掛屋(いかけや)か、それとは別かは不詳。
  ァ.戦前から夷に古金屋はあった。昭和4年頃の両津の写真(『佐渡の百年』)に「古金屋商店」の看板あり。夷4ノ丁第四銀行の斜め向かい。「古金屋」は古くなったり壊れた鍋・釜などの金属製品の回収業。
  ィ.鋳掛屋も夷にあった。(要確認)

   鋳造された鍋、釜などの鋳物製品の修理・修繕を行う職業。「鋳かけ」「鋳鐵師」の表記もある
 江戸時代から昭和にかけ鍋・釜は主に鋳鉄製であったが、当時の技術では鬆(ス)〔穴〕が入りやすく、また、ひび割れ等により穴が開くことがあった。鍋釜を含む金属類は当時相当の貴重品で、穴が開いたとしても容易に捨てたり買い換えるわけにいかず、完全にダメrになるまで補修を繰り返しながら使っていた。これを請け負う修理業者が鋳掛屋。
 町中や村々を呼び巡り、声をかけられたら仕事をした。道具箱のなかにふいごを持参しているのが普通。融点の低い鋳鉄で鋳造された当時の鍋・釜の穴やひび割れを直すために鋳鉄片を溶融しうるだけの熱量は、この程度の簡易な装備でも確保できた。

2)魚を入れる木箱作り
 (魚箱についてウキペディアは「トロ箱」として次のように解説:
 「海産物を入れる箱のこと。魚を入れる輸送するための魚箱。水産業者などが、海産物を出荷する際に用いられる」「(トロール漁で)大量に漁獲した魚を箱に詰める必要があったことから、大量生産できる特殊な箱が用いられるようになった。その後、漁の手法を問わず、魚箱の全てがトロ箱と呼ばれるようになった」「以前は木製(臭いの移らない素材であるナラ、ブナ、トドマツ等を用いる)であったが、現在では、発泡スチロール製のものがほとんどである)
 a.魚市場に小さな小屋があり、そこで大人が魚箱を作っていたが、子どもも1つ作るといくらということで手伝った。
 b.私の場合家が魚屋だったこともあり、旭町時代釘と金槌、釘抜き(失敗した場合に使
う)を用意して作った覚えがある。小遣い稼ぎが目当てでなく、また目標をもったり無理に時間をかけたりでなく 気ままに作ることが楽しみの遊びであった。
 ァ.箱の材料は、縦・横では長さは違うがそれぞれ同じ寸法の長い板が底面に4枚、向かい合う側面に2枚の計6枚、もう一方の向かい合う側面に短い板が2枚、合計8枚に釘を打ち付けて箱を作る。(以上の数値は後掲の写真などによる推定。魚箱の寸法は、大と小の違いはあってもある程度は標準化されていたと思う)
 ィ.板は幅が狭い(多分7〜8弌砲らその中に釘を真っ直ぐ刺し込まなければ、板から釘が飛び出してしまう。その場合、釘抜きを使ってまづ釘の頭の部分を引っ掛け釘をこじ開けるようにして引き抜く。
 ゥ.魚箱には、所有者がわかるよう箱の側面に屋号(商号)を墨で塗った(屋号をくり抜いたブリキの板の空白部分に墨を付ける)。ちなみに、我が店は、「〇」の中に「さ」の字。
 魚箱の画像【掲載例として不適切だが、よいのが見つかるまで仮掲載】
 (『佐渡の百年』)
魚箱1
魚箱
 顱棒里狼箱は水産業者には不可欠。魚がたくさん獲れ、運搬に必要だった。
 髻望談徂覆任發△辰燭ら、どんどん作る必要があった。在庫を相当数確保しておかないと大量安値仕入チャンス=大量相場販売チャンスを失ない、売上・利益を他に取られてしまう。各漁業協同組合、個別組合員とも必要。
 鵝傍の水揚げは非常に減少したとは言え 新潟県一の漁獲量を今に誇る佐渡の重要産業である漁業を支えきた要因は、漁獲量はさることながら、「魚箱」を抜きには語れない。
 魚箱の恰好な樹木は、ナラやブナというから佐渡では事欠かない。
3.まとめ
[渉鼎糧展は、築港と加茂湖の造成。(資料:『両津町史』(昭和44年刊)「両津港の歴史」(「佐渡人名録」サイトから引用))
(両津港の構築)
 明治以後であって、最初に加茂湖の流水口に築いた防波堤は、出入船舶には影響がなく、かえって、湖水の吐口を狭めて、湖面の水位を高め、湖岸の耕地や宅地に水害を起すという副産物を生じたので、十数年で破損し、形を残さぬようになってしまった。しかし、湖水の吐口付近は、砂州でなく、かなりの水深があったようで、天保四年(一八三二)の大川の津神社文書によると「同年十月二十六日の大地震に、津波が襲来し、夷御番所の松並木に碇綱で堅く縛り付けていた、鍵屋の七百石積みの大船が、夕刻川口に打ち込まれて破損した。」というのである。
 開港後の出入船舶の輻輳と、移出入貨物の増加にともなって、築港の必要を力説し、町民多数の協力を得て実行に移したのは、夷町斉藤八郎兵衛である。斉藤は夷町長から県会議員に当選し、明治三十二年野沢卯市の協力を得て、当時の県会が山党(道路)河党(河川)に別れて対立している中を、もっぱら夷港の修築のために努力した。かくして、明治三十四年の県会で工費四万一千二百円で夷港に一大防波堤を築くことが議決され、直ちに着工、同三十六年に、湖口の北岸から東方に向って、延長百二十八メートル、幅七メートル、水面上一メートルの弓形防波堤が先ず完成されたのである。
 しかし、その後被覆水面の狭いことや、海底の変動が激しかったことなどによって改築の必要に迫られ、明治四十二年「夷港修築期成同盟会」が発足し、さらに大正四年「夷港築港期成同盟」と改称され、挙町一敦の運動が展開されて、同年の通常県会の決議により、翌五年から県費支弁の継続事業として大工事が施行されるようになった。
 経費は当初十八万四千百円であったが、その後幾度か追加され、大正六年から昭和六年まで十四ケ年間に六十一万八千四百〇三円の巨額に上り、さらに、昭和七年からは年々国庫補助を受けるようになり、昭和十二年に完工したのが現在の両津港である。
(斎藤八郎兵衛)
 明治三十一年から二年、同四十一年から四年と再度町長に選ばれたが、その間に、築港と加茂湖の浚渫について、次のとおり多くの請願をおこなっているのである。
明治四一年 八月 湖口浚渫工事請願
 〃      燈台建設請願
 〃 一〇 加茂湖竣沫に付利害得失に関する意見
  四二、一一 湖口切壊浚渫並に橋梁改造護岸工事施行請願
  〃      港湾調査に関する請願
  四三、一 湖海連絡に関する請願
  四三、二 湊護岸工事施行願
  四三、三 湊護岸工事施行追願
      〃 夷港突堤改造及河口浚渫追願
  四三、四 夷港突堤改造及河口浚渫並護岸
         工事施行に関する追願
 それから、築港については三十七年に築造した防波堤が破壊されたこと及び湊地区に築いた小突堤が波浪のため破壊されたことによって、さらに大規模な改修を要望しなければならぬこととなり、次の建言をせざるを得なくなったのである。     
(夷港設備に関する建言書)
(一)夷港は七港の一(七港の一となったのは明治三十二年)開港場として新潟港の補助港たり。果して、開港場としての設備を有するや否や。
(二)三面山岳を負い、海水深く湾入して優に大船舶を呑吐する天与の良港たるに相違なきもただ夫れこれを放任して、人工の加設を相倹つに非ざればいずくんぞ天与を全うすることを得んや。
(三)今や夷港の位置は年々歳々その真価を高め日本海唯一の避難港として将来中継港たる資格を有することは、苟(いやしく)も海事に意を注ぐものの常に認むるところなり。
(四)夷港は天与の良港なりと錐も、東北の強風及び方言「寄り廻り波」と称する渦浪を生ずるときは、海岸に激する高浪のため貨客を上陸せしむる事能はず、止むを得ず、数哩の沿岸を航して小木湊に避難し波が稍(ようやく)平らかなるに至りて辛じて上陸せしむることあり。客は危険を免れて上陸はするもののこの地点は、疎々たる漁村に過ぎざれば元より宿すべき家もなく、加ふるに両津は数哩を隔てて、船中困憊の身を以て、尚且徒歩にて長途を両津町へ行かざるべからず。
(五)郡外の客にして新潟港より度津丸に塔し、来郡するものあり、皆その風景を望んで無趣味なる越佐間横断の航海を慰籍せざるなし。その言に日く、新潟は風光明眉なりと、然る後に桟橋を一見するや、その不完全なるを嘲笑し或は本船の桟橋に着せずして艀を使用するや、その不親切を怒り、或は桟橋の鉄製を用いざるを以て一に其の責任を両津町に帰するものあり。
(六)然れ共、桟橋は越佐汽船会社の所有にしてその完否は両津町の関する所にあらず、仮令その桟橋をして完全ならしむるも海岸の寄州は年々に付着して、その延長を短縮するを以て、桟橋も亦、歳々延長せざるを得ず。然れ共一朝風浪に逢わんか船体動揺の為近着する能はず、桟橋は夏季僅か二、三ケ月を利用するに過ぎず。抑も桟橋は、本来防波堤内に設ける利用物にして全く海面に突入して、築くものに非ず。然るに此の如き桟橋に向つてその完否を云云するは云云するものの誤解なり。
(七)新潟港は、今や其の水戸口を浚渫して築港の期間中にあり、然るに殆んど其の効力を疑はざる浚渫船も今日に及んで其の効能を実現し得ず、小柴土木監督署出張所長は日く、浚渫事業は元来容易の事に非ず。大河津開鑿工事浚渫後着手するをもって、正当の順序とすと。大河津開鑿は、二十年を要す、信濃川河口の流水工事は所謂百年河清を待つと云うべし、開鑿と浚渫が容易ならだる事業とせば、今日その補助港を設備して貨客の便をはかること、最もその当を得たるものと信ず。
(八)然らば云う、何が夷港をして、天与の全きを得せしめんか。日く突堤を改築するにあり、日く鴨湖を利用するにあり、日く湖口を拡大するにあり、是実に刻下の要目なり。
(九)夷港現在の突堤は延長七十間ありと雖も、中腹より湾曲して真の堤端は大字湊地区の小突堤と約四十間を隔て相対するを以て風浪の際は云うに及ばず平時と雖も船舶はその道路を釣曲して鴨湖に入らざるを得ず、其の不便甚だしく、加ふるに、此湾曲の為め、海水巻込み、砂礫堤内に流入するを以て、水深を保ち難く為に湖口の竣沫もその効を失ふ。これ突堤改築の心要ある所以にして、即ち現所を直線に改築して、延長一〇〇間となし、尚湖口数間を開鑿して両津橋を改造し、開閉自由なるを得るに於ては、汽船と錐も容易に鴨湖に出入するを得るを以て、其の便益至大なり。蓋し匹儔を見ざる良港となるべし、若しそれ山紫水明にして、周囲五里を有する鴨湖上、汽笛の、喨々たるを聞かんか、万里の波涛を航して無柳に苦しみたる遠来の客は心胸、始めて快活して此に慰安の楽土に逢着したるを喜ばずんばあらざるべし、加之湖岸繋船の辺設くるにプラットホームを以てせば陸に於ける鉄道停車場の如く、客の乗降、貨物揚卸の至便なる亦その此を見ざるべし。
(十)丹羽永産試験場所長嘗て夷港に遊び、鴨湖口を拡大して、突堤を改造せば漁船の出入頗る平安にして、日本海に於ける漁港の資格十分なり、漫々たる鴨湖の水、渺 々たる日本海の波、淡鹹両水を一地域に併有して、斯界に貢献する所莫大なれば他日試験場の移転を欲せざるに非ずと。
(十一)夷港を観察せられ、有司に諮問し設計を作り予算を編して県会に発案せられ以上建言に適する設備の完成を見るあらば、海運業者の満足するのみならず、−般航海来郡者の幸福延ては国家の福利を増進すること昭々乎として火を賭るより明らかなり
 明治四十三年十月二日 両津町長斉藤八郎兵衛
  新潟県知事伯爵清棲家教殿
 これより先き明治三十三年、日本郵船、大阪商船、大東汽船の三大会社は神戸小樽間の東回り航路を政府より命令され横浜、神戸、尾道、下関、宮津、敦賀、七尾、伏木そして冬季には夷、船川を経由することになつていて、町には山、力、丸小、喜多、丸サ、岩原伊三次、伊藤清右衛門、信濃屋、白山屋、山形屋、野村等の諸店の大部分が旅館兼回漕問屋を営み、敦賀行き、小樽行き等の看板が沢山掲げられてにぎわいを呈した
 越佐航路の安全のためには、汽船の大型化とともに、港湾の整備が急務である。それに漁船の遭難は、毎年繰返されたし、一軒蒜の家から三つの棺がでるなどの悲劇が続いた。大型汽船の打ち上げも稀ではなかった。(明治四十一年春、汽船神王丸二、四〇〇トンが浜上げしているなど)湊天田正右衛門は遭難船を救助すること五十数回に及び功績顕著なりとして五十回賞を授けられている。
 斎藤は、湖水を港湾として開発し、両津橋を開閉橋とし、湖岸に繋船場と桟橋を造り、その裏に倉庫を連ね、さらに、その背後に遊廓を設ける計画であったその後、完成した湖岸の埋立工事も、この大計画の一部と見てよいようであるが、加茂湖の港湾化は遂に実現しなかった。
 (昭和七年両津港)
 第二種重要港湾に指定され、時局匡救土木事業計画に編入され、国庫補助を以て、毎日三百名が就労する大拡張工事が続けられた。こうした港湾の整備が進むにつれて、船付場が問題になり、桟橋は明治十九年日本郵船が西廻航路を開始するや夷港に倉庫その他と共に設備したが、重なる廻船業者は自家用の桟橋を持っていて、沖がか〔りの〕基本船から辟船で貨客の揚げおろしをしたが、桟橋のない業者や船客は、多額の船賃を支払わなくてはならず、不便極りないものであった。明治四十年日本郵船が西廻航路を廃止することとなり、同社施設の桟橋が本間金五郎の所有となったが(今の埠頭の近所にあった。)本間は佐渡郡に寄付したので、越佐航路定期船の発着所となり、非常に便利になった。だが小規模であったためその後度々修築を加えられたが、大正六年大破したので、大正十年(一九二一)税関下にー現在の場所ーに四間幅の桟橋を築造した。しかし、これも矢張り木造であり到底時代の進運について行けないので、昭和八年県会で防波堤古米延長案とともに桟橋改築案を議決し、十二間幅鉄筋コンクリートの埠頭を建設することとなったが、なお、荷物置場の心要ありとして八万円が追加されほぼ今日のものの原型が昭和十一年完成した。
そこで、昭和七年以降の国庫補助による築港であるが、これは夷海岸の中央から東方へ百七十三メートルの一文字防波堤を出し、その南方海岸の岩壁から約九十メートルの沖合に長さ四百九メートルの「く」の字形防波堤を構築するもので、被覆面積は四万三千平方メートルとなったのである。
しかし、これも、また不便が多いので、昭和六年以降、さらに、三十二万円の工費を投じて、くの字形防波堤を除去して、中央から出た堤防の突端から南東に向って四百メートルの直線防波場を築いたのである。
 【『町史』の「両津港の歴史」の中に、1916年(大正6)から1937年(昭和12)まで5期20年にわたって両津町長を務め、この間両津港の整備と築港・加茂湖の埋立てなどに尽力した土屋六右衛門(前掲)について全く触れられていないのは問題。見方によっては、「重要なことが記述されない=歴史への偽り」に相当】
(夷港から両津港)
 夷港は、大正六年三月二十七日、水和路部告示第二十三号で両津港と改称され、現在は平均水位は二十メートル、底質は細砂で船舶の碇舶に適し、東からの暴風以外は通年絶対安全であり埠頭は数万トンの巨船も投錨が可能である。
 夷上町に倉庫会社が延長七十メートルの桟橋を築いたが、その後大正三年に長さ七十三メートル、幅六メートルの木橋桟橋を御番所裏に築いて、百七十二トンの第一佐渡丸が横付けするようになり、多年使用したハシケにょる連絡という不便から解放された。続いて、長さ三百三十八メートル、幅六メートルの荷揚場岩壁が構築されて、貨物船がここへも横付け出来るようになったのである。
(築港は続行中)
 突堤は、その後、幾度かの改修補強工事がおこなわれ、さらに、商港と漁港に分れ、湊海岸、春日町海岸の埋立工事が施行されて今なお工事は続行中である。
 そして、出入船舶は昭和六年に 汽船 三千五百三十六隻 三十一万九千四百二十ニトン だったのが、昭和四十年には汽船 一万一千七百二十四隻 百三十七万二千五百九十九トン 機帆船 二千九百十九隻 六万一千六百五十八トンに達しているのである。
 なお、両津港開港百年間に、両津港を基点として新潟港との連絡に活躍した船舶は次のとおりである。
 (船 名)
  神通丸 二○トン 明治十三年
  相川丸 三五   〃 十五 
  三吉丸 三二      十六 
  改進丸 二四   〃 十七
  魁 丸 四一   〃 十八
  度津丸 不明   〃 十九
  両津丸 六二   〃 二十二 
 第三大成丸 八二  〃 三十九
 坂田丸 八二    〃 
 第十五度津丸 九九 〃 四十二 
  国東丸 九八   〃 四十四 
  大成丸 一五〇  大正 二 
  永田丸 一五〇   〃 
 第一佐渡丸 一七二   〃 五
 第二佐渡丸 一九九   〃
 第八佐渡丸 三五〇   〃 十二
  睦丸   二三八  昭和 六
 おけさ丸  四八八  〃  七
 こがね丸  六〇〇  〃 二十四
 ゆめじ丸  七九七  〃 三十一
 なみじ丸  八〇六  〃 三十六
 おけさ丸  九五八  〃 三十九
 さど丸   三五〇  〃 四十二

⇔渉店創兩鞍・加茂湖造成は、島内の人間力総動員及び岩石等資源活用、説得力による公的資金調達による。
 再掲:「〔両津港築港〕経費は当初十八万四千百円であったが、その後幾度か追加され、大正六年から昭和六年まで十四ケ年間に六十一万八千四百〇三円の巨額に上り、さらに、昭和七年からは年々国庫補助を受けるようになり、昭和十二年に完工したのが現在の両津港である」。大正6年から昭和12年までの両津町長は、土屋六右衛門。
これらの整備は、図らずも両津の子どもたちに遊び・成長の場を提供した。

 以上 2017.07.14



歴史スポット65:1950年代両津子どもの遊び(02)梶井照雄氏語る

 こんにちは!自在業の櫻井です。
 「1950年代両津(夷+湊)の子どもの遊び」について、これから具体論に入ります。
1.はじめに
 テーマ設定等のきっかけ・経緯について前号のとおり。
 5月27日(土)同級の安照寺住職梶井照雄氏から子ども時代の遊びについて当然見落としている遊びがあり、またやり方・ルールなど忘れてしまった事などを聞くため事前にアポを取り訪問した。
 そもそも「子ども時代の遊び」への関心・きっかけが、それだけではないが昨年7月氏の発行している「安照寺だより」(A3リーフ)の中の記事によるものであることに間違いはない。だが、その時はそれほどの関心に至っておらず、その時のリーフを失くしてしまった。またそれを見たいというのが目的の一つでもあった。

2.内容
 最初に氏にこの度の「1950年代こどもの遊び」テーマと趣旨について話すと大賛成、昔のことを知る人は古希に達した我々の世代くらいになり、いいところここ3年が勝負とのこと。
 人生80年の世だから後10年くらいは何とかあると思っていたが、よく考えればそれは「平均寿命」の事で、その時までも物がよく見え、よく聴こえ、よく覚え、よく話し、更にはよく歩き、よく調べ、よくまとめ、よく書ける保証はなく、可能性は少ないとみる方が普通だろう。
 昨年の「安照寺だより」の記事について尋ねると、『佐渡 安照寺史』(梶井照雄著)に載っているとのこと。同書は、氏から頂いている。
 後日、開くと「昔の遊びと思い出」という項目があり、次のように記されていた。
 「テレビもまだ普及しない昭和30年代の初め、子供たちの遊びというと外での遊びが盛んでした。男の子は野球、相撲、それに釘立てなどがあり、女の子はゴム跳びなどに興じていました。また男子、女子とも一緒に遊んだ石ケリ、缶ケリ、ビー玉を使っての遊びなどがありました。
 以下、書籍にあることと当日新たに聞いたことをまとめて記す。
 お寺の境内は広く、地蔵堂角の入口から表の県道までの参道の敷石の上で、石蹴り、缶蹴りでよく遊んだとある。
➀石蹴り
 敷石に大きな円を書き、それを何等分かしてその中に近くにある置物や建物の名前を書き、ある一定の場所から石を滑らせるように投げ、自分の石がどこに滑り込んだかを確認し、最後の人が投げ終わると、自分の投げた名前(場所)目がけてよーいドンでスタート、最初に戻ってきた人が一番、最後の人が負け。
缶蹴り
 同書に内容・ルールは記してなく、私は忘れてしまったので、調べて略記する。但し、やり方は多種多様あることに留意。
  缶を蹴るポイントに円を描き(地面が砂や土なら足で、アスファルトならチョークで)、ジャンケンで鬼を決める。鬼以外の子どもの誰かが、思い切り遠くまで空き缶を蹴り飛ばす(缶が描いた円周を超えない場合蹴った者が鬼になる)。その缶を鬼が拾いに行って円の中に戻す(この場合、手を使ってよいのと足で缶を運ばなければならないものとがある)までの間に子どもたちは一斉に隠れる。鬼に見つかった者は缶のある場所付近の決められた場所に捕われる。そうやって隠れた子どもをオニが順に捕まえに行く。しかし、全員を捕まえる前に鬼が離れたスキに隠れた子どもに缶を蹴られると、捕まった子どもが逃げられてしまう。缶を蹴られず無事全員を見つけると鬼の勝ちとなる。
ジャンケン
 県道までの長い参道の敷石の上で、互いにジャンケンしてグーで買った場合、グリコといって3歩前進、パーで勝った時はパイナップルといい、チョキで勝った時はチョコレートといってその歩数だけ前に進み、往復を行き来して遊ぶ。
なさがし
 境内にある英霊の記念碑、特に斎藤八郎兵衛翁の碑と偲巽堂前にある太田鐡蔵の碑との間で行われた。碑の周囲の石の窪みに宝を隠し、早く見つけた方が勝ちという遊び。
(以上が、お寺の境内での遊びの例)
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       (梶井照雄氏所蔵)
1)板の上にある相手のパンを下に叩きつけて裏返したり、板から突き出したりして競った。
2)「油パン」は、パンを強くするため、油に浸して黒く重くしたもの。
3)「ぱんは外でも家の中でもできましたが、本堂内に机を持ち出して熱中したあまり、先代(父親)にから叱られた」
4)学校では「ほんこ」=賭け事は禁止であったが、「ズボンのポケットにぱんを忍ばせて行き近所の空き地で真剣勝負をした」
ゥ廛蹈泪ぅ錨の収集
1)昭和30年代(1955〜)当時流行したのは、プロ野球チーム選手のカード集めや大相撲の花形力士のプロマイド収集。
2)その商品の大半は、夷5ノ町の玩具店ツルヤで買い求めた。
3)「力士プロマイドは、紙質の悪い新聞紙の中に1枚ずつ包まれクジになっていて、当たりがでればもう1枚引くことが出来るというもの」「ひいき力士の写真を収集するのに友達と交換したりして」楽しんだ。
 なお、氏は当時初代若乃花の大ファンだったようで、力士プロマイドは600枚あると言っていた。
Ε咫雫摸
 氏との話の中では余り話題に上らなかったが、ビー玉類を持ってきてくれた。その時活用方は忘れてしまっていた。平べったい小さな円のガラス玉も入っており(画像に2個あり)、昔どうして遊んだかに興味を持った。
DSC09741
    (梶井照雄氏所蔵)
1)ビー玉遊び
 a.遊び方はいろいろあるが、多くの場合、自分のビー玉を弾〔はじ〕いて相手のビー玉にぶつけ、ぶつけられた玉はぶつけた者の所有となる。玉を取られた方は、新たな玉を出して再戦。これを繰り返し、玉のやりとりが行われる。数人加わることも可能で、4〜5人で遊ぶ場合もある。
 b.ビー玉の歴史は古く、紀元前の古代エジプトやローマの遺跡からも出土。日本では、平安時代の「銭打ち」と呼ばれる賭博遊戯がルーツ。江戸時代になると「穴一〔あないち〕」と呼ばれるようになり、子供の遊びとして発展。明治時代になると泥玉が作られ、明治30年頃から大阪でガラスのビー玉が出回り出した。(資料ビー玉|日本文化いろは事典」)
2)「おはじき(お弾き)」:ガラス玉を調べたら「おはじき」に行き着いた(ウィキペディア)。
 a.おはじきは、ガラスでできた平たい玉が一般的で、直径は1cm〜1.5cm程度。ガラス玉では、透明色のもの・小さい模様の入ったもの、さらに大きさにも大小あり、種類は多い
 自分のおはじきを一つずつ相手のおはじきへはじき当てるのが一般的で、はじき当てた場合は自分のものとなり、最終的に手に入れたおはじきの数を競い合う。
 b.おはじきは中国から伝わった遊びとされ、日本に伝わったのは奈良時代に入ってからのこと。それ以前は貝殻や小石、また植物の実などを利用して遊ばれてきた。現在のおはじきのほとんどはガラス製だが、それが使われだしたのは明治時代後期に入ってからのこと。
釘刺し
1)地面に打ち込まれて立っている相手の五寸釘に自分の五寸釘を打ち込んで弾き倒し、倒れた釘を自分のものとする遊び。数人同時に行える。
2)どこまで敵に脆さを見せず自分の釘を地面深く垂直に立てられるかが勝負のポイント。
3)砂地やコンクリートのような固い地面ではできない。粘土質の地面が最適。
┸惻茲蝓Г笋衒はいろいろ。ウェブ情報によると
 例1:釘刺しの応用で、地面に円や四角の領域を設けて、人数分の基本陣地を手の親指を中心に円を描くように決め、交互に陣地を広げていく遊び。
 例2:2人ぐらいから4人ぐらいで遊ぶ。ジャンケンで勝った者から順番に地面に左廻りに釘を打ち込む。前と次のところを直線で結び、他の人の釘を自分の線で囲み、出られなくした人が勝ち。
チャンバラ
 竹の棒を使った。
紙鉄砲
 日本が世界に誇る紙工作の一つで、振り下ろすとパンッ!と音がなる手作り玩具とされるが、覚えていない。
紙飛行機
 市販の折り紙だけでなく、新聞紙でも作った。
手作りボールで野球
  海藻やゼンマイの綿や紙を丸めて作ったボールで野球
トンボ取り
 蜘蛛(クモ)の糸を利用
植物採取
1)「ようのみ」(多分、「佐渡弁」でなく「夷弁」:「ようのみ」という言葉は子ども時代聞いた)
a.「よの実鉄砲」の弾に使う。竹を切って、紙玉や、よの実を弾代わりにして鉄砲を作る子どもの遊び」(「佐渡弁(相川弁?)をなつかしむ」サイト)
b.「内径2mm位の竹筒に杉の実を入れ、細い竹ひごで突くと紙鉄砲と同じ原理で弾が飛ぶ、秋の子供の遊び道具」とある。(「新潟県南蒲原郡田上町の方言」サイト)
2)ヨモギ〔蓬〕 
a.毎年6月頃だったと思うが時期になると近所の子どもと一緒に田舎へヨモギ採りに出かけた。
b.用途は草餅にするためと思ったが、調べるといろいろある。(ウィキペディア)
 ァ.葉は、艾葉(がいよう)という生薬で止血作用がある。
 ィ.葉を乾燥させ、裏側の綿毛を採取したもぐさ(艾)は灸に使う。

 ゥ.若い芽や育ち始めた若い株は、干しておいたのちに煎じて飲むと、健胃、腹痛、下痢、貧血、冷え性などに効果がある。
 ェ.ヨモギ湯。香りと効能から古くより入浴剤として利用されてきた。腰痛はじめ痔に効果があるとされる。菖蒲湯にヨモギを入れる場合も多い。
 ォ.よもぎ茶。
c.古典に登場。平安時代の女流作家 清少納言〔966頃〜1025頃〕の書いた『枕草子』より
 ァ.「五月ばかりなどに山里にありく」(二〇八段)に、新緑の季節牛車で出かけたとき。清少納言は牛車の車輪に踏まれた蓬(ヨモギ)の芳香が漂ってくるのを「をかし」(=趣がある)」と、
 ィ.「節(せち)は」(三七段)に、「菖蒲、蓬のかをりあひたる、いみじうをかし」
 とある。(くすりの博物館「薬草に親しむ」サイト)

3)ノビル採り
a.ノビル採りは、ノビルの名前も知らなかった。
b.日本では「畦道や堤防上〔河原の土手〕など、丈の低い草が生えているところによく自生」「積極的に栽培されることは少ないが、野草として食用にされ、タマネギに似た香りと辛味があり、アサツキ等よりも鮮烈な香味を持つ」「生食も可だが、軽く茹で酢味噌等の味付けで食されるほか、味噌汁の具や薬味としても用いる。一般的に春が旬であるとされる」
c.『古事記』〔序に和銅5年(712年)の年代がある〕に応神天皇の歌がある。

  いざ子ども 野蒜〔ノビル〕摘みに  蒜〔ヒル:ネギ・ニンニクなど〕摘みに  (b・c資料:ウィキペディア)
4)栗拾い・採り:近所の子どもによる集団的行動が大半。
a.栗林のある所へ行き、一般には茶色に熟し木から道端に落ちている毬栗〔いがぐり〕を見つけ、靴で踏みつぶして、包んである「いが」を剝し、中に入っている栗を取り出す。公道に落ちているものを拾ったのであるから、法律違反にはならないだろう。
b.毬栗が青くて木に付いている状態は未熟で渋みが強く美味しくないが、中には茶色になっても木に付いているものもある。その時は、それを棒で叩いて落としたこともある。あるいは、木によじ登って確かトンボとり用のタモを使って揺さぶって中に落としたような憶えがある。それらの場合泥棒に該当し、所有者に見つかって怒られ、すぐ止めたこともあった。

5)アケビ採り
a.仲間で採りに行った覚えあり。
b.子どものおやつとしてあった。
6)柿採り
a.築地時代、坪の内(中庭)に柿の木があった。
b.小学4年の頃か 柿を盗むためある2〜3人して夜暗い中 隣町内の家の裏にある柿の木に登り採ろうとしたが大人に見つかり、枝につかまったままじっとしていると、その人はしばらく見上げていたが、やがて何も言わず帰っていった。多分、怒鳴りつけると夜のことでもあり 慌てて木から落ちることを心配してのことだったと思う。
 柿の木から落ちると一生だめになるいうことを小さい時から聞いたことがある。その意味は、柿の木は枝が多くて登りやすいためと、柿の木は枝の付け根から折れるためのようだ。高所からの思わぬ転落が大きな事故となる。

3.まとめ
〇劼匹發陵靴咯譴箸靴討寺の参道・境内、またお寺の参道・境内ならではの遊びがあった。それを発見し、開発し、あるいは導入し、楽しむのは、子どもである。

⇒靴咾砲蓮ゞチ茲あって勝者・強者・投資者(=リスク・損失 自己責任負担)が得する制度・システムがルールとしてあり、それが生育・成長の自然・社会要因となる。

0个了劼匹發蓮⊇佞判は植物採集に遠征した。出稼ぎ要素もあるが、直感では遊びに変わりない。
!)子どもの遊び場は、無限。今はIT技術によってスマホ1つで、独りでどこにいてもいろいろな人とゲームを競い楽しむことができ、知りたい場所の家並みや道路が見れ、交通機関・宿泊施設予約を含め旅行計画が立てられるようになっている、
 なお、近い将来、世界各地の家並み、人の動き 更に表情まで映し出され、会話できるようになるだろう。
 以上 2017 07 09


歴史スポット64:1950年代両津子どもの遊び(01)序文

. こんにちは!自在業の櫻井です。
 今回のテーマは、子ども時代どんなことして遊んだか。それを一つ一つ記していけば最低10以上の記事になる。そのため第1回は、番号(01)「序文」とした。テーマの完了は長期が予想され、その間タイミングと編集上の点から別のテーマが途中入ることになるだろう。

1.テーマ設定
 いつ頃から何がきっかけでそんな発想が生まれたか?我ながらそれを追いかけ、突き止めるのに興味。
 時期は、去年8月の盆の帰省時、カーフェリーのイベントホールの椅子に座っていた時気付いたのは、ケータイやスマートフォン、タブレット(以下、代表して「スマホ」)を見ている人が多いこと。男女の差がなく、特に70歳以上のお年寄りまでそうであることに驚いた。ちなみに大雑把であるが数えてみると、その時ホールには80人くらいの人が椅子に腰かけていて、24人がスマホに見入っていた。30%、約3人に1人の割合。16年8月12日の手帳に記してあった。中学生と思われる2人組が、オンラインゲームを楽しんでいた。いつ頃からあったのか尋ねると、10年くらい前からとのこと。自分もそうだがみんな周囲や外の風景には関心持たず、スマホばかりに目を向けゲームを楽しんだり、ニュース見たり、書き込みしたり、メールを送ったりしている。自転車や車の運転はもってのほかだが、歩道を歩きながら見ている人も稀にいる。スマホ所持は現代の子どもから大人までの風物詩であり、拡大解釈すれば世代を超えた遊び道具・玩具である。
 それ以前の7月と思うが、我が家の菩提寺 真言宗豊山派 安照寺から「安照寺だより」が郵送され、昔は境内への道端でいろいろな遊びをしたという記事に関心を持った。その時はおそらくいつかテーマにしようと思うほどのものでもなく、捨てたのであろう 机の中を捜したがなかった。
 住職の梶井照雄氏とは同級。この3月26日(日)両津南中学校同期会「古稀を祝う会」出席の際、いつか子ども時代の遊びについて話を聞きに伺うと話していたから、その時はテーマにすることは決めていた。「鬼太鼓どっとこむ」の前日 5月27日(土)をチャンスと見て事前にアポ取りし訪問。話だけでなく資料があれば写したり写真に撮ることも重要。
 道端でいろいろな遊びをした話は、『佐渡 安照寺史』(平成19年〔2007年〕発行)に載っているとのこと(後日掲載)。その本は貰っている。なお、拙著『佐渡広場』は初巻〔2007年刊〕ほか数巻を寄贈、更にこの度の訪問で『佐渡広場后戞2015年刊)を謹呈した。
 さて、以上から「子ども時代の遊び」というテーマ決定について時系列に見ていくと、発端は昨年7月頃の「安照寺だより」の中の「昔の遊びと思い出」、次に8月お盆帰省時カーフェリー船上での子どもから大人・お年寄りまでの「スマホ」の普及とその「遊び」用具としての機能・娯楽性の発見。
 その次にもステップがあるはずで、それは何かを追及すると次のことに尽きる。
 昨年12月17日に夷の渡辺和弘氏から佐渡広場にコメントをいただいた。そこには、同月から月一度くらい集まって「夷を記す会」を始めたということ、会のメンバー同氏を入れて3人はいずれも私が存じている方々、最初は特にテーマを設けず昔話をし、それを分野別に振り分ける方法をとり、先ずは第一回分を載せたので、「佐渡人名録」の「夷を記す」を開いていただき、「間違いや、こんなこともあったあんなこともあったと言うような」アドバイスを願いたいというもの。 
 翌朝、コメント欄に次のように返信。「忘れ去られるような人・事を思い出させ、あるいは「そうだったのか」を認識させ、非常にいい企画と思います。(例:築地の中村そろばん屋、両津中学新校舎) ぜひ、小さい時の「遊び」もテーマに。本になる分量になるのでは」「その際、「佐渡雑学」も拝読し、特に「くわがらや」に関心。正月帰った時、昔と変わっていない建物写真を今のうちに撮り、いずれテーマにしたいと思っています。正月の時 また逢いましょう」 
 【その時点」では、「ぜひ、小さい時の「遊び」もテーマに」とあるように会の情報収集・まとめに期待した面があり、また氏の「佐渡雑学」「くわがらや」から小学2年の途中まで住んでいた夷「旭町」に関心が甦った】

2.どんな遊びがあったか 
 さらに決定的なことは、12/31付けで今年の手帳(昨年12月12日(月)からの欄あり)に「子ども時代(s21〜36)の遊び」として、次の遊びを思いつくままに記していた。(後日多少の加筆・文字の修正はしている)
 なお、遊びと言っても、幼稚園・保育園や学校や公園での遊び、主に女子の遊びはここでは想定していない。
 01.カン蹴り(缶)
 02.陣取り(クギ:釘) 
 03.追跡(矢印・チョーク)
 04.ぱん(メンコ:大と小)
 05.ミニぱん(親指と人差し指で飛ばす):後でわかったが「ちー(小せー)ぱん」のこと。
 06.カンの竹馬:正確には、左右2つの缶を下駄替わりにし手で紐をつって乗って歩く。
 07.かくれんぼ(材木屋の倉庫)
 08.かまくら(雪)
 09.ぎっしりと積み上げられた魚箱からの箱を抜いての住み家作り
  (砂浜での遊び)
 10.落とし穴
 11.砂団子でのつぶし合い競争
 12.砂で城づくり(波が来ても壊れないよう丈夫に)
 13.運河づくり( 〃 )
 14.石投げ
  a.沖にどこまで遠く投げられるか
  b.投げた石が海面を何回飛び跳ねるか
  c. 投げた石が海面を飛び跳ねず滑走させるか
 15.ハンギリ乗り:ハンギリは、たらい舟の1/4くらいの高さの底の浅い桶で、魚の内蔵部分や骨などを取り除いた魚の身をどこからでも投げ入れ易いよう丸型になっている。海の上にハンギリを浮かべそれに乗って遊ぶのだが、ほとんどは重さで海水が入って沈む。何分まで持つか、あるいはどちかが長持ちするかの競争だろう。また2人乗りもやった。なお、旭町に入た時は近所のおばさんたちをアルバイトに集めて魚の不要部分を取り除く作業をしていたから、ハンギリは多く有った。
 16.真ちゅうや鉄くず採り。古金屋などが旭町の家々を訪れ、秤で重さを測って値段を決め、それで売って小遣い銭を得た。

 17..釣り
  a.築港:ハゼ釣り他。名前は知らないが岩に付いた海藻を採ってその場で食べた。
  b.防砂堤(大きな石で構成):
  c.海岸通りの旧魚市場の岸壁:フグ釣り
  d.旭町の海岸:タコ釣り(私は釣ったことないが、泳いで沖に逃げていくのを見たり、大きなタコが打ち上げられ、大勢の子どもが周りを囲んで見ていたのを憶えている。
  e.羽吉浜漁協前の今日のように埋立造成されてない時代の海に小さく透明なエビがたくさん泳いでいて、手で掬ってそのまま食べた。
 18.プロマイド集め
 19.作ったもの・加工したもの
  a.舟(木を加工、プロペラ、ゴムで巻く)
  b,凧
  c.竹スキー
  d.竹げた
 20.植物採取
  a.栗
  b.柿
  c.イチジク
  d.ヨモギ
 21.加茂湖での遊び
 22.椎崎へ行っての遊び
 23.鏡が岡へ行っての遊び
  【「重要メモ」5/27】
   「重要メモ」は、「遊び」について今後取材していくためのもので、使ってない2015年手帳(16.4×8.3cm)を利用。午後梶井氏と話をすることになっている。多分新潟発6:00のフェリーの中で話を活発にするため再び列記、最初のメモとなる。なお、当然16年12/31付け(前述)と重複するが、そのまま記す。
 01.陣とり(くぎ)
 02.追跡(チョーク)
 03.かくれんぼ
  a.材木屋
  b.魚箱の積んだところ
 04.くぎ倒し 
 05.空き缶で下駄代わり
 06.金(かな)ゲタ。冬
 07.竹ゲタ
 08.竹スキー
 09.浜で落とし穴
 10.砂遊び
 11.砂団子。つぶし競争
 12.石を海へ遠く投げる。
 13.海面に石をはけさせる
 14.砂で丈夫な家づくり
 15.砂で堤防
 16.舟をつくった
 17.たて〔?〕をつくった
 18.パン(メンコ)
  a.裏返しにする
  b.油につけ重くする〔簡単に裏返しされ負けないように〕
  c.土俵に出す 突く あおる 
 19.ちーパン(小さいパン)
  a.蝋で5枚くらいをまとめて売っていた。
  b.か親指・人差し指で抑え、遠くて飛ばす。
 20.釣り
  a.フグ:タモですくって獲った。
  b.ハゼ等
  c.タコ。赤い〔赤・白の〕布切れを〔竹ざおの先端に釣り針と共に付け海の中に入れ、ひらひらさせてタコをおびきよせる。タコ壺を使った人もいた。いれも防砂提に近い旭町の狭い海岸〕
 21.水泳〔水遊び・海辺遊び〕
  a.潜り
   ァ.〔砂地の海底に〕ランベエ
   ィ.防砂提と並行して木造船「らんまる」が沈んでいた。魚の宝庫。
  b.半ギリで海遊び
べコタコ(ウミウシ)〔海底の岩等にくっ付いていた。ヤスで突いて落とした。紫色の体液を出した。〕
 22.〔少年月刊雑誌〕『漫画王』『冒険王』〔『少年画報』『三年生』などあった。たくさんの付録、「続き」のためどうなったか見るのが楽しみ〕
   丸屋、石川書店〔夷の本屋。販売時期 船が着いて店頭に並ぶのを大勢して待ったものだ〕
 【6/14追記】遊びについて、当たり前すぎて書き漏らしているもの、5/27以降梶井照雄氏、渡辺和弘氏、山田昭夫氏への取材の中で聞いたもの・それがヒントになったものなどその追記。番号は5/27午前時をベースにし、今後も同様】
 23.コマ
 24.凧揚げ
 25.カルタ
 26.トランプ
 27.ボール〔ゴムまり〕投げ(柔らかボールでグローブ不要)、ボール野球
 28.ソフトボール
 29.軟式野球
 30.バトミントン
 31.スケート
 32.手つなぎ
 33.サザエ・アワビ獲り
 34.竹トンボ
 35.トンボとり
 36.セミとり
 37.紙飛行機
 38.ビー玉【以下、6/16以降そのつど思い付いたり知っした時追記】
 39.双六(すごろく)・サイコロ
 40.なわとび
 41.まりつき
 42.ドッジボール 
 43.花札
 44.どの手に隠した?当てあてごっこ
 45.宝物探し
 46.シャボン玉
 47.雪道で落とし穴
 48.面白い顔づくり
 49.笑わせごっこ:互いに面白い顔して先に笑わせた方が勝ち
 50.鬼ごっこ
 51.電車ごっこ
 52.こちょこちょ遊び
 53.お医者さんごっこ
 54 ままごと
 55 チャンバラごっこ
 56 自転車乗り
  a、四輪車
  b、 三輪車
  c、二輪車
 57.積み木
 58.雪そり
 59.じゃんけん
 60.目隠し
 【7/5メモ:「白ズボン」:
 遊びと直接関係ないが、1955〜6年頃から小4以上男子の暑い時期の普段着として白ズボンを買ってもらい着るようになった。遊びの時バンドを締める必要なく手軽でよく着た。当時小学高学年のステータス・シンボルとして流行したような気がする。
 白ズボンで小学校へ通ったりしなかなかったと思うが、体操の時間などには着替えたのでなかったか?】
 61.おはじき
 62.腕相撲
 63.指相撲
 64.将棋:小3頃まで「はさみ将棋」。本格将棋の動かし方は、小4でわかり同年齢層と対戦したことあり。
 65.積み将棋(将棋の駒をいかに倒れずに高く積むか)
 66.将棋倒し(将棋の駒を使った遊び。ドミノ倒しよりも遥かに古いとされる)
 67.五角形の将棋の駒を逆さまにして三角の一方の角でどれだけ立たせるか。
 68.しりとり

【さてどんな遊びがあったか?30近く列記した時点で気づいた。
 一人で思い出し列記したところで洩れがあり、遊びの名前は知っていてもやり方・ルーがどうであったか忘れてしまい、わかっているようでハッキリ言えないものも多く、多くの人から聞くことが必要で、その方が間違いが少なく、収集が楽で早い。
 もう一つは、幼少の時住んでいた夷「旭町」のことをテーマにしたいと思い、今年元旦に行って街並み等の写真を撮った。関心の中心は、造成地で旭町の名は父が発案して決まったとされるが、造成はいつ頃か、築港(防波堤)がどんどん長くなっていったのは知っているがいつから始められたのか、昔は砂浜で一夜干しイカやカタセ(「すけと」(学名;スケトウダラ)を開いて塩漬けにして干したもの)を干していたが、いつ頃まで続いたか等を明確にしておきたいこともある。
 それらの事と「子ども時代」の遊び及び遊び場が不可分の関係にあることに気付いた。同じことがその後引っ越した夷「築地」に言える。当然遊び場は、いろいろあった。主な道端以外にも海沿いの旭町に対し築地は加茂湖に近いから加茂湖畔やイカやスケトを天日干ししていた中沢仲助商店の広い敷地、さらには「しっつぉ」と呼んでいた
伊藤〔七蔵】材木店の木材倉庫など重要な遊び場であった。
 以上から 現時点(6/14)遊びを論ずる上で 次の8要素が必要との結論に至った。
 「遊び」の構成項目
  ー臑
   1)性別
    a.男子
    b.女子
    c.共通
   2)人員
    a.一人遊び
    b.二人遊び
    c.三人以上遊び
   3)単位
    a.グループ内
    b.グループ対グループ
     ァ.個人競技
     ィ.団体競技
   4)同士の属性
    a、親子
    b、兄弟姉妹
    c、近所の子ども
    d、同年齢の友達 
    e、
  道具
   1)不要:じゃんけん、木登り、
   2)必要:自作、一部加工、部品組立、購入。代用
  材料:木、竹、紐、新聞紙、釘、チョーク、缶  (今日ではペットボトル・
  ぞ貊
    1)屋内:居間、土間、倉庫
    2)屋外:道端、空地、境内、海、湖、池沼、川、木、叢(くさむら)、森林、山
  セ期
    1)通年 
    2)四季:春、夏、秋、冬
    3)月(例:集落の祭の時期になっての固有の遊びないか?!)
    4)時間帯:朝、日中、夕方
  θ疇
   1)いたずら
   2)どろぼう
   3)競争
   4)腹(空腹)の足し
   5)小遣い稼ぎ
   6)手伝い
  目的・目標・成果:区分・詳述は、掲載遊びの内容把握が必要。
  ┘襦璽襦Ф菠・詳述は、同上。
        《参考》 遊び (資料:ウィキペディア「遊び」)
 a.「遊び(あそび)とは、知能を有する動物(ヒトを含む)が、生活的・生存上の実利の有無を問わず、心を満足させることを主たる目的として行うものである。基本的には、生命活動を維持するのに直接必要な食事・睡眠等や、自ら望んで行われない労働は含まない。類義語として遊戯(ゆうぎ)がある。

 遊びは、それを行う者に、充足感やストレスの解消、安らぎや高揚などといった様々な利益をもたらす。ただし、それに加わらない他者にとってその行動がどう作用するかは問わないのであり、たとえ他者への悪意に基づく行動であっても当人が遊びと認識するのであれば、当人に限ってそれは遊びとなる(むろん、他者はそれを容認しない)」
 b.「遊びは、それ自体が人間(社会にあるヒト)にとって楽しい自己充足的行為の典型であって、それゆえ古くから多くの遊び論が叙述されてきた。なかでも、オランダの歴史家ヨハン・ホイジンガとフランスの思想家ロジェ・カイヨワによる研究が古典的な論考として重要視される
]。また、遊びはさまざまな面において「人間性」ないし「人間性の本質」と関連づけて扱われる傾向がみられる」
 c.ロジェ・カイヨワはホイジンガ『ホモ・ルーデンス』から大きな影響を受け、『遊びと人間』
[を執筆し、遊びのすべてに通じる不変の性質として競争・運・模擬・眩暈を提示。「カイヨワによれば、「遊び」とは以下のような諸特徴を有する行為。

  1. 自由意思にもとづいておこなわれる。
  2. 他の行為から空間的にも時間的にも隔離されている。
  3. 結果がどうなるか未確定である。
  4. 非生産的である。
  5. ルールが存在する。
  6. 生活上どうしてもそれがなければならないとは考えられていない。」
 人はなぜ、どうしてもしなければならないわけでもない「非生産的なこと」をわざわざやるのかということに対する答えとしては、自身の有する技術的・知的・身体的・精神的能力を最大限に無駄遣いしたいためであるという説明がなされる。そしてカイヨワは、これは人間が慢性的にエネルギー過剰の状態にあって、生存するのに必要不可欠な量を超えた過剰なエネルギーを発散する必要があるためであるとし、こうしたエネルギーの無駄遣いから遊びが生まれ、さらにそこから人間の文化が生まれてきたのだと唱えた」
 【上述の「遊び論」に違和感あるが、ここはコメントしない】

3.遊び場の前提となる両津(夷+湊)の地形の変遷
 子ども時代の遊び以前に遊び場とその変化を把握が大事と言うわけで、資料を収集し時系列に整理した。
1842年(天保12)両津絵図:佐渡奉行所絵図師・石井文海/筆
  (梶井照雄氏提供)
 (1枚の絵を都合上 夷と湊の写真に分けテ撮った)
   石井文海について、
  15年3月14日号「佐渡の画廊37:石井夏海・文海の絵画・絵図」)に記述。
 (両津南・湊町側)           (両津北・夷町側)
両津港6夷湊絵図1
1)湾岸と湖を繋ぎ、夷と湊を結ぶ境に「境橋」が見える。
 また、両津の象徴「御番所の松」の付近に「御番所」「御米蔵」「大筒台バ〔=「砲台場」「お台場」か!〕」とある。
 a.1840年7月から翌年5月まで佐渡奉行を務めた川路聖謨の日記に橋は触れてないが、次なるものがある。

 1)御蔵・御番所を見て回り、加茂湖を船で巡覧。いつもは、ここに網引かせ、漁師に鴨(かも)など捕らせて見たとのこと。湖水の中央まで乗り、引き帰らせた。

 2)「夷町は、北に金北山あり、東南に海・湖水あり、咏(ながめ)よきのみならず、地理ことによろし」

 3)「ここの本間という泊まった本陣は、佐渡の国主の本間の末裔(まつえい)で、今でも豪家」

 4)「夷町・湊町にて高百石ばかりにて、人口3千に余れり。回船等の入津もなくて、かくの如し。豊かなること、思うべき也」

  「ここにて夜、按摩(あんま)の笛を聞く。髪ゆい床などあり」
  (佐渡を記した人23:川路聖謨(6)佐渡巡見 廖
 5)3月13日夷町を出発して湊町の浄土真宗勝広寺と日蓮宗妙法寺、その後久知河内(くじかわち)村の真言宗長安寺を訪れそれぞれ古文書に接し、河崎村へ出て船に乗って水津へ。
  (佐渡を記した人23:川路聖謨(7)佐渡巡見◆廖
 b.1852年来島した20歳の吉田松陰が橋で、
  「3月3日大風、或るは霰(あられ)、或るは雹(ひょう)。道路泥濘(でいねい)にして行歩頗(すこぶ)る困(くる)しむ。先ず湊・夷の間の橋に上り、湖海を眺望するに煙霧濛々(もうもう)として咫尺(しせき:一寸先)も弁ずべからず」と記している。
 (係わりの地72:萩(山口県)」
 c.1877年(明治10)フランス人カトリック教徒レゼー(神父1849〜1930)が佐渡への布教のため夷・築地に居住し最初に布教への足がかりの有力者と出合った場所。
  ( 佐渡を記した人21:レゼー神父(1)布教への足がかり」)
  「9日目の朝、8時頃外出して町を散歩し、夷(えびす)と湊(みなと)の中間の河に架けてある橋の上に立って夷の湖水と其の周辺にある山、格別金北山の美しい景色を眺めて居った
  後ろから「何方(どなた)です」と威張った声で呼びかけた人がいて、振り返ると50歳位の老人で、背が高く髯(ひげ)を蓄(たくわ)えて風采(ふうさい)卑(いや)しからぬ人であった。(当時、髯を蓄えるのは漢学先生か医師のみ)彼は、傲然(ごうぜん)として首を上げている。
  「佐渡は景色が良いと聴いて見物のために来ました。・・・」と答えると、彼は「左様(さよう)私は夷に生まれたもので医者です」と言った。・・・・」
 d.1899年(明治32)来島し1ヶ月余滞在した明治の文豪・尾崎紅葉の紀行文『煙霞療養』より。
    (佐渡を記した人:尾崎紅葉と佐渡(2):両津」)
  「風は強いが暑く、両津橋の税関署〔昔は番所〕は涼しいとのことで、町の見物かたがた出かける。
  ァ.「この港は夷町、港町の二箇町から成って、その境に両津橋が架かる。

   港欄干橋は 真ん中から 折れよと 船で通ても 止めりやせぬ

 と、夷甚句(前々からですが、現在の「両津甚句」)に唄ふものすなわち是で。町は南北に長く亘って、東に両津湾、西に加茂湖と、かたちあたかも眼鏡の玉の如く両様の水を湛へて、橋下に通ずる一道の流は、海と湖を結びつくるのである」

  ィ.「夷欄干橋の欄干に題す
    湖海(こかい)をつつむ 橋の袂(たもと)よ 汗拭(あせぬぐい)    」

  ゥ..「税関署に来て、「趣(おもむき)のあるのは、ここに一株(いっしゅ)の老松が幾百年の翠(みどり)濃(こまやか)に枝を交えて、税関署をその下におおいつつ、風に狂じ、波に塩たれて立つのである」

  ェ.「税関署の署員 鎌原氏がその松の名の命名を求めてきた。

 「佐渡は謡曲の最も行はるる処であるから、村雨(むらさめ)の松など可(よ)かろう。浪の飛沫(しぶき)に濡れぬ日とてもあるまいと、それを村雨に見立てた」

2)海辺には砂浜が広がり、家々の裏から海までの幅が広い。特に夷の方が気持ち湊より広い。広い砂浜が平沢まで続いていたことがわかる。
3)加茂湖は江戸時代から夷・湊の境に橋が架かり海と通じていたことが絵図からわかるが、明治の中頃まで淡水湖であった。
 a、1997年(明治年30)佐渡地区大豪雨により加茂周湖辺でも住宅や田んぼに大きな被害に遭ったことにより、1903年(明治36)夷・湊の間にある境川の川口の開削がなされた。これが川開きり、それを記念する祭りが両津川開きとして今日に至っている。
 b、境川の開削によって、海水が加茂湖に多く流入するようになって汽水湖となり、今までなかった海の魚は勿論カキ(牡蛎)の生息もみられ、特に加茂湖ではカキの養殖が盛んに行われるようになり、佐渡を代表する産業の一つとなっている。
 【参考:
 夷側の絵図上部に記されている文字(右より)
          〔参考:方角表示〕
      方角        
  夷御番一竿
  大尚其〇〇〇
  測量
  粟シマ 卯九〇     【現、新潟県岩船郡粟島浦村】
  飛シマ 寅〇〇     【現、山形県酒田市】
  鳥海山 寅三〇     【山形県と秋田県にまたがる標高2,236mの活火山】
  瀬波 アラ川 〇四〇 【瀬波は村上市、アラ川は村上の南を流れる荒川のある荒川町(現、胎内市)があった】
  大川野城 寅九七口  【両津湾小佐渡側の先に近い大川とその先端の野城、方角の中心地ははっきりしないが、夷旭町の海岸から両津湾を見て右の端の方角≒「」にあるのは、納得。
  浦川 子 七五     【「浦川」〜「松崎」〜「和木岬」まで両津湾大佐渡側。「子」は真北の方向、すると直感的に絵図に記された文字は読み取れないものが多くある中、「夷一ノ町」が基点・基軸とするといろいろなことが解ける気がした】
  平澤〇子        【〔夷〕⇁平澤⇁白瀬⇁松崎〔「北松ヶ崎」だろう〕は地理上合うが、白瀬の北が和木で 
さらにその先】
  白瀬鼻子五三
  松崎 子七二
  和木岬 子七〇
  宇賀〇〇五三
1903年( 明治36)当時の両津港の防波堤・桟橋の様子
(注)「点線は第三次整備計画による昭和45年(1970)ころの港の様子」  
 (『両津市誌下巻』1989年刊。以下『市誌』)                                 
両津港1
1)1900年代初めは防波堤といってもまだ岩石を敷き積んだもので水面上1m・長さ128m。
 a.日本郵船と渡津丸用のそれぞれ36mと55mの桟橋があった〔コンクリート造の埠頭でない〕。
 ァ.日本郵船の桟橋があるのは、
 顱忙杏が日本の海運の先駆的存在で財閥を築いたこと〔「1876(明治9)年、三菱会社(当時は郵便汽船三菱会社に改称)の活躍でわが国の海運会社は、内外航路に自由に配船できるようになった。1877(明治10)年の西南戦争の際、郵便汽船三菱会社は軍事輸送の主役を務め、信用と利益を得ると同時に、海運事業を飛躍的に発展させた:「日本郵船の歴史〕サイト〕、
 髻法〔声0歐契府は1869年(明治2)に佐渡金山を官営化し、その後1896年(明治29)三菱合資会社に生野鉱山と大阪製煉所と合わせ一括払い下げ佐渡金山をから一括払い下げとなった〔「三菱広報委員会」サイト〕、
 ことと関係しよう。
 鵝乏け振箸砲ける三菱の先進・ダントツ事例
  a)富山県伏木港について、「明治初期、廻船問屋の藤井能三ら地元の先駆者の努力により伏木港の近代化が進められた。1875年(明治8):岩崎弥太郎の三菱商会の汽船定期航路の寄港地となる」
   (
  b)河原田出身本間泰蔵が明治初期に増毛で商売、天塩國(現旭川市・留萌市・名寄市・富良野市・士別市を含む)随一の豪商と呼ばれた「旧商家丸一本間家」について、「明治20年(1887)海運業に進出。〔理由は〕当時、小樽を拠点とする日本郵船が日本海沿岸の海運をほぼ独占し、割高な運賃に加え、欠航も頻繁。冬は物価が数倍にもなったり、日常の米・味噌にも事欠く状態であった」
   (
  c)「明治13年〔1890〕頃、この夷港に三菱会社所有の船が大坂から北海道小樽を経由する、いわゆる西回り航路の寄港地となり、その頃三菱会社と競争していた共同運輸会社〔明治15年〔1882〕設立〕もこの所を寄港地とし、やがて船舶出入りが櫛の歯を引くように盛況を呈し、山茶花〔さざんか〕港の異名はこの有様を称してのもの」(『佐越航海史』橘法老箸)

 下の画像は、1917年(大正6)の両津港。「(乗合自動車よりもまだ)多くの乗合馬車が待つ沖には、北海道航路の大きな煙突を持つ蒸気船が積荷するハシケ〔艀〕がいそがしくいきかっている」(『ふるさとの百年』)。北海道航路の船であれば、小樽へは必ず行き、大きな蒸気船は日本郵船の船に間違いなかろう。
 この頃の防波堤は、岩石が敷き並べられている。
  6年
【湊出身で明治時代小樽で事業に成功し小樽商工会議所会頭などで名を成した磯野進・磯野商店資料】
 a)『佐渡安照寺史』梶井照雄/著より
  ァ)磯野商店の夷町本店と小樽支店の封筒の裏の印刷(年月不詳)
   東京海上保険株式会社夷港代理店  佐渡夷港
  米穀海産商 官塩元賣捌 金山味噌製造元 委託販売       
           磯野進本店
            電話(11番)
   小樽市色内町5丁目1番地
  米雑穀 魚油問屋 海産肥料
           磯野商店
         電話800番 2233番
  ィ)1926年(大正15)4月18日小樽市色内心5丁目の磯野進本人から安照寺住職宛名の小樽支店専用封筒に見る営業項目
  米雑穀海産肥料委託賣買 各国縄莚藁工品卸賣 佐渡味噌 官 元賣
  銘酒菊正宗特約販賣 鉄砲火薬 ダイナマイト 過燐酸肥料特約店
  b)『佐渡広場』より
      ァ)
  「明治5年(1872)生まれの磯野は、中央大学を卒業して明治30年に小樽へ出て、海産物を扱って磯野商店を興し、佐渡の味噌、縄・莚(ムシロ)、新潟の米の販売に成功し、小樽の有力な商店となった
  (1)明治32年の小樽での区制実施とともに区会議員となり、また商業会議所議員もつとめる。大正2年(1903)には第5代の小樽商工会議所会頭、さらに同14年(1925)、再び第9代会頭に就任するなど地元財界の実力者
 (2)富良野の北大沼に広大な磯野農場を持つ不在地主でもあった。大正11〜15年に40数人の小作人が争議を起し問題となった。小林多喜二の『不在地主』のモデルとなる」  
 (3)「唯一現存する磯野商店倉庫」「創建当時は3階建てで、1階には佐渡味噌、2階にワラやムシロ、3階には家財道具等が格納された」
 ィ) 係わりの地45:小樽・旧磯野商店倉庫」
  「『おたる再発見』第2部「会頭の系譜(二)」(北海道新聞社/編集・発行)より。小樽商業会議所(現商工会議所)の歴代会頭・・・六代目は海陸物産商 磯野進。磯野は大正2年(1913)に会頭就任。・・・(九代の後)同14年(1925)再び会頭となった。市制施行(同11年)の小樽の伸張時、商才力量抜群とうたわれた磯野への待望論が強かったのだろう。同14年8月、磯野は北海道会議所連合会のロシア視察団団長として1ヶ月間、極東ロシアを視察。帰国後の10月、東京の華族会館で革命後のロシアについて講演した」
 「北のウォール街」と呼ばれた銀行街。日本銀行旧小樽支店やその向かいの旧三井物産小樽支店、道の両側には旧北海道銀行本店、旧第一銀行小樽支店、旧三菱銀行小樽支店、旧北海道拓殖銀行小樽支店などの建物が並んでいる。それら建物の大半は、今は他の会社ビルやホテルや資料館に変わり、歴史的建造物となっている」
 【参考】東京海上保険株式会社(ウィキペディア「東京海上日動火災保険株式会社」)
 東京海上ホールディングス(株) 傘下の完全子会社。三菱グループの一員で三菱金曜会と三菱広報委員会に加盟。2004年合併以前の旧会社は、東京海上火災保険と日動火災海上。
 東京海上火災保の「前身・東京海上保険は日本最初の保険会社(海上保険会社)〔1879年(明治12)設立〕であり、売上高では、日本の損害保険業界トップ。かつての三菱財閥、2016年現在の三菱グループに所属する会社として発足」
 (参考は以上)

 ィ.渡津丸
 顱1872年(明治5)新潟港ー夷港に新潟丸就航
 髻1885年(明治18)越佐汽船創立、渡津丸運航48トン
 鵝鉾崎紅葉の紀行文『煙霞療養』より
    (佐渡を記した人:尾崎紅葉と佐渡‐(1)佐渡行き決心・(2)両津」)
   1899年(明治32)7月8日来島
 「信濃川の波が高く〔艀(はしけ)で汽船に乗るまで1時間要し〕汽船に乗るまで30分遅れの7時に新潟港をやっと離れた状況」」「6時間この波にもまれてさへ耐(たま)らぬと思うに」「汽船は、越佐汽船会社の度津丸(わたつまる)50トン」「(両津)湾内も波荒く桟橋(さんばし)に着けず、艀(はしけ)を出し・・・途中で『危ない、危ない』の一幕も・・・疲れ果て桟橋で横たわる乗客も」。
   画像:木桟橋と2隻の蒸気船、
   両津港桟橋
 木桟橋は1921年(大正10)竣工、画像左の船は1923年(大正12)就航の第八佐渡丸、右は1903年(明治42)就航の第15渡津丸(推定)(『佐渡の百年』)
1911年(明治44)竣工 夷八郎平町・須寿喜町埋立地(資料:『両津町史』)
八郎平町1
1)夷町町長斎藤八郎兵衛は、次の大方針を樹て1896年(明治29)夷町会を動かし町の事業として満場一致で加茂湖の湖岸土地造成への起工を決議せしめた。大方針とは、
 「日本海における従来の港湾は、航海術の進歩にともなわず、敦賀、伏木、酒田等の諸港は皆振るわず、ひとり我が夷港のみ北海にある故を以て、幸に、日本海航路の安全を保つことを得るのみ、されば港内出入の船舶は益々その数を増加し、従って商業日々に繁栄を極め、市中のにぎわいは国中第一たり。もしかのパナマ運河にして開通の暁を見んか、東洋の貿易は日本海に於て行われんこと、また期して待つべきなり。この時に当りて、本港の隆盛や炳(へい)として明らかなるべしと雖も、如何せん当町の地たる湖海の間に勺在せる細長の一砂州に過ぎざるは、土地狭隘にして当時の需要にさへ応じ難き程にてあれば、将来の発展を期するが如きは到底望むべくもあらず。誠に慨嘆に堪えざるなり。ここに於いて余は湖岸埋立工事を起して以て他日の発展に支障なからしめんことを欲す」
2)その後実地踏査」・書類作成に手間取り認可が下りない間に明治34年湊町・加茂歌代村(一部)との合併で夷町が両津町になり、町はこれを放棄。
 斎藤は仕方なく町会の承認を得て単独事業として行うことになり、湖口より湖岸に沿い福浦流し場川地先に至る3万余坪(≒10万屐頬篶の事業を出願したが、県は適当な資本を得ざる限り許可しないとした。
3)これ以後の経過。斎藤の回想録によるとある。
 a.明治35年10月新潟港日本郵船会社支店長浜政弘が、11月22日資本家並び共同者たる契約を結んだので県知事に上申。
 b.加茂村有志の反対陳述がある。
 c.小林本部書記、市橋藤蔵加茂村長の仲裁で明治36年2月8日この騒動は一応やんだ。
 d.加茂歌代有志が福浦地先に対して埋立の請願をした。この区域の埋立地権を加茂歌代有志に譲る。明治36年11月4日付埋立が許可された。
 e.日露戦争〔1904(明治37)2月8日〜1905年(明治38)9月5日〕に差し掛かり経済界の変動が激しく細民の失業者が多くなったので、県は細民救済のためにも3ヶ月以内に起工せよと厳命。
 f.浜氏〔新潟港日本郵船会社支店長〕に交渉したが浜氏は、1ヶ年延期説で如何ともし難く、遂には38年冬浜氏から契約破棄を言い渡された。
 g.佐渡郡前郡長吉田愛信等の好意によって新潟市在住の布施幸蔵が明治40年4月出資することを承諾したが、その後布施氏に家政上困難な事情ができ、新津の長井条助、村松の樋口次郎三郎及び田巻堅太郎等の援助を得た。
 h.明治41年着工したが一時中止。
 I.加茂歌代斎藤国蔵、本間太郎八らが土砂採掘の便を供した。
 j.明治42年再工事、4月第一期工事竣工式をあげた。造成された土地は無代払下となり、35年間免税の取り扱いを受ける。
 k.「埋立方法は、現在の栄町の土を鉄路を敷いてレールの上を、箱車(トロッコ)にのせて運んだ」
  「明治29年〔夷町会での事業決定〕から第一期工事成功の明治41年11月まで13年を要した。第二期工事は明治43年9月21日に着工し、翌44年11月竣工した」
  「はじめは夷湖岸から直接加茂歌代外城川北岸まで5,6万坪の計画であったらしいが、結局1万坪弱(≒33,000嵳勝砲遼篶造成に終わった。そして第一期埋立地を八郎平町、第二期埋立地を須寿喜町、両地をつなぐ橋を田巻橋と称した。
 この造成土地は、久しくそのまま放置されていたが、特に昭和3年の大火後、なお両津港築港、護岸工事の進展にともなって、主に漁業者が移転して、夷町の幅広い発展に寄与した」
1913年(大正2)竣工 湊・加茂湖水面埋立工事図
湊加茂湖造成
1)湊町の湖岸埋立について夷より早く明治12年に相川町の入桑正平、同24年新潟市中野平弥が出願」したが、波浪激甚、湖面1m程増水等難工事のため認可無効。同36年水井常次郎、藤井新太郎他45名が官有湖面埋立請願書を提出。願書は、
 一、位置:湊289番より336番までの地先官有湖面
 一、埋立面積:2,263坪8合7勺(≒7,500屐
 一、埋立目的:宅地海産物その他乾そう場
 一、着手期限:認可月より
 一、成功期限:満5ヶ年
 一、埋立法:「別紙設計書の通り」
2)6年目に町役場から返付・同年藤井新太郎ら42名連署許可願い提出・3年目の明治45年新潟県知事から許可。大正2年「代表者、藤井新太郎、三国吉次郎、三国武吉、藤井米蔵、塚本決治等に、自営工事(鴨湖水面埋立工事)竣工届(工費1,835円98)を知事宛て提出し竣工。なお、大正12年頃にも、これらの人々は湖面埋立てを続行し土地造成をしている」
1920年代の両津市街図 
 (1925(大正14)年9月発行「両津市街略図 名所及各営業案内」)
1)全体画像
両津市街図
  画像真ん中右に見える両津橋を基軸として
 a.上(概ね東)が両津湾・海側    
 b.下(概ね西)が加茂湖・湖側
 c.左(概ね北)が夷
 d.右(概ね南)が湊
2)夷中心部拡大画像
DSC09579
 a.橋の通りが夷本町通り。橋の袂から北へ七ノ町、六ノ町、五ノ町、四ノ町・・・一ノ町へと続く。湊の場合も橋の袂辺りは城ノ内でそこから南へ湊本町通りが5番町、4番町、3番町・・・1番町と続く。
 a.両津湾側
 ァ.「埋立地」表示の右(南)の道路は「桟橋(さんばし)通り」とあり、その向かいの敷地の端から斜めに海に走っているのが桟橋。
 ィ.「埋立地」の真上(北東)=沖に 「築港」(=防波堤:岩石)が平行して設置。 
 ゥ.画像で「埋立地」とある真ん中の道の左角に1937年(昭和12))夷魚市場が、加茂湖畔とは別に出来た。
夷魚市場夷魚市場遠景
  顱法愃甘呂良看』に、「前年まで加茂湖畔にしかなかった魚市場だが、新岸壁ができると資金を出し合い、この場所でこの市場を新設した」とある。
  大きな三角屋根の矢切り面に、「合資会社夷魚市場 電話32番」とこれまた大きな表示の看板。市場関係者60人余が勢ぞろいの記念写真。それを契機に魚市場の主力が海側になったのは当然だろう。
 髻鳳上は、昭和初期の両津港木造桟橋から海岸通りを撮ったもので、左端に佐渡汽船事務所、右端の4軒目くらいの所に三角屋根の魚市場が見える。〔とすれば、撮影は「昭和初期」でなく、昭和12、3年頃と見るのが妥当か〕
  海岸通りに6m幅の道路ができたのは大正10年〔1921〕(『佐渡の百年』)、両津築港について大正4年〔1915〕から行われた改修工事は、22年の歳月、人員延100万人、工費120万円をかけて昭和12年(1937)10月に完成した。埠頭工事は前年に終わった(『ふるさとの百年(佐渡)』)。
 鵝砲修了埔豬物前の道路の海沿いが岸壁。漁船が発着、魚が水揚げされ、セリが行われた。
  1954〜55年頃小さいフグが大量に魚市場の岸壁に集まり、いちいち釣るまでもなくタモで掬い上げ、バケツ一杯になるまで入れた。別に後で食べるわけでなく、適当に一匹ずつ手にし、口元に空気を送って体を膨らませ、それを地面に捨て 足で踏んで破裂させて遊んだ。
   ェ.「埋立地」の左端の向かいから「築港」に向けて防砂提:岩石)が延びている。但し、築港と繋がって(=海流を塞いで)おらず、海水が両津湾ー築港ー桟橋ー防砂提ー両津湾とどちらからでも循環するようにしている。
 「埋立地」「防砂提」の左は、後年さらに造成され昭和20年頃新興住宅地として12軒が建ち並ぶ旭町ができるのであるが、大正末の市街図にはそのような雰囲気は全く見られない。
 b.加茂湖側
 ァ.本町通りから一筋下が、左へ八ノ町、神明町通り、築地の通りと続き、その一2筋下が八郎平町などの通りで、さらに下は加茂湖。
 ィ.当時魚市場は海側にはなく加茂湖側にあった。
  顱鵬晋里は、防波堤・防砂堤の設置など港湾整備が進んでいなかった時代、加茂湖の方が漁船の発着・魚の水揚げ、魚の捌き(セリ=売買、保存加工、保管)面で遥かに安全性・利便性に優れていたことによる。
  髻乏搬膕菫では加茂湖湖畔は左に向かって、
   佐渡物産倉庫、松田造船部工場、夷魚市場、運送会社倉庫、同じく運送会社倉庫、信濃屋倉庫との表示が見える。なお、画面上の夷魚市場のある並びは1950年代に民家が軒を並げ、小学1〜4年まで同じクラスの友達の家がって、築地時代はそく遊びに行った。彼の家は木造船の造船屋で、家の奥は造船場で加茂湖に通じていた。
  【現時点のgoo地図では、松田造船所があり道路をはさんで加茂湖漁業協同組合〔おそらく元夷魚市場があった場所〕がある。なお、築地のゆたかや旅館も同じ場所で今も営業。1925年から起算すると92年経過】  
 ゥ.築地時代の冬に雪の積もった時の遊び場は、画像からは本町通りの或る両角に鈴木雑貨店(業種は当時は知らぬが、後のおもちゃ屋)と新屋(アタラシ家:業種不詳)があり、そこから加茂湖側へ下る坂道、通称「つる家の坂道」。
 顱1950年代当時は既に鈴木雑貨店は(玩具屋の)つる屋」(同級生がいて姓は「鈴木」)で、新屋には「山角(やまかく)呉服店」が入った。築地の場所等を示すのに「山角の角」とよく使ったのは、当時として珍しい3階建ての建物で目立ったからだろう。
 髻某群函覆△燭蕕群函砲話戮ても50年代早々には拡大画像上「〒夷局」とある辺りへ移っていた。
  幼稚園時代は、旭町にある家から築地の海星幼稚園(通称「キンダホール」)に通っていたが、築地の叔母さんが帰り迎えに来てくれて築地の家へ寄り、いつ頃からかそこから独りでつる家の坂道を上って本町通りに出て、おもちゃ家の「アタラシ家」のハイカラなショーウィンドーからいろいろな玩具を覗いて見るのが楽しみであった。これも子供の遊びの一種に違いない。
  これを書き込んでいるとき、旧ソ連の作曲家ショスタコーヴィッチ(1906〜1975)の最後の交響曲第15番(1971年作曲)の第1楽章出だしとそれに続くロッシーニ作曲の「ウィリアムテル序曲」の一部引用のメロディー、購入したCDに付いていた第1楽章の「解説」(幼い頃おもちゃ屋のショーウィンドーで見た時の雰囲気をロッシーニの有名な序曲から引用して表現)を思い出した。「解説」を捜したが英語等で日本語は失くし 以下はさわり部分。
 The most often-quoted is ・・・・that the first movement represents a toyshop and that the whole symphony is a birth-to-death piece.given that toyshops,
in the world of literature of the cinema for instance,・・・・
  やはり、” the first movement represents a toyshop ”とあった。
 a)ウィキペディアには、「作曲者自身は、深夜のおもちゃ屋さんをイメージしたと述べている」「息子で初演者のマクシム・ショスタコーヴィチ〔1938年〜〕は、幼少の父が最初に好きになった曲であることに由来すると説明」とり。ここでは、「幼少の父が最初に好きになった曲」以外は、期待内容から外れた。
 b)脱線するが、ちなみに私が聴いてメロディーを覚えている最初のクラシック音楽曲はチェコの作曲家ドルドラの『思い出』。幼稚園時代昼のお寝んねの時間に蓄音機で聴かされたもの。そのことを思い出したのは、確か小4の時で音楽の時間にレコードを聴き、すぐに思い出した。以来 曲は聴いてないが、作曲者と曲名は覚えている。
 今年5月頃どういう訳かユーチューブの検索で初めて聴いた。計算すれば小4の時以来60年ぶり。この6月26日(月)新潟の自宅から歩いて近い音響装置抜群の店「もみじ屋」で初めてリクエスト。
 なお、「最初に好きになった曲」は、私の場合モーツァルトのトルコ行進曲(ピアノソナタ第11番イ長調 K.331第3楽章)。多分小5の音楽の時間レコード鑑賞。余りの感動で以降 朝学校へ行く前ラジオのダイヤルをグルグル回し、やっているかを探した。確率はゼロに等しくそれが何十日続いたかわからないが、曲の途中を含め2・3回当たった。
  鵝法嵶詭攣┣濺后廚函屏夷局」の間と下は、空白になっている。画像上「鈴木雑貨店」の隣りに後述する中沢仲助商店、さらに他数店並ぶが、その頃はまだ民家だったのかもしれない。下の空白の半分くらいは、1950年代は子どもの遊び場にもなった(後述)。
 c)脱線追加:06年1月11日号「鶴岡と佐渡(その1)」記事。
 「・・・実質、鶴岡と佐渡しか残っていない建造物があります。それは、パピノ神父によるカトリック教会天主堂です。鶴岡カトリッ教会天主堂は、フランス人ダリベル神父の全財産と寄付により明治36年(1903)に建築。「設計は、佐渡の両津教会や京都の旧ザビエル教会(現在は明治村に移築)など日本の教会堂を数多く手がけたパピノ神父」「明治ロマネスク様式建築の傑作としての国重要指定文化財」と「鶴岡観光」サイトに記されています。

 私事になりますが、鶴ヶ岡城跡の鶴岡公園付近(公共機関・銀行等が集積)に訪れるたびに何となく気になっていた(遠くから時々顔を覗かせる)赤い三角帽子の屋根との関係が、今回はっきりしました。 近づくと、教会に隣接して「マリヤ幼稚園」があり、佐渡と同じだという好奇心が高まりました。敷地中に入って目に留まったのは、マリア像。思い起こせば、園児の頃、室内に掲げられたマリア様の画像の下で遊んでいたし、向かいにある教会周辺(記憶では鬱蒼として怖い場所)にマリア像の祠があったのでないかという想いがします。小四の頃と思いますが、音楽の時間に、ドルドラ(チェコの作曲家)の『想い出』という曲を聴いた時、この曲は園児の時に聞いた曲ということを判ったのをはっきり覚えています。今となって記憶はハッキリしませんが、多分「お昼寝」の時間に入るときに、聴いた(聴かされた)のでないかと思います。 多分、蓄音機で・・・。」                  
1952年(昭和27)10月30日両津
     (山田昭夫氏写真提供)
DSC09899
1)写真上方(北)の防波堤(通称「築港(ちっこう)」)は、南の防砂堤の先端から南東へ長く延びる築港と当時は繋がっていない。
 a、築港の陸と繋がった部分から南の防砂提へ弧を描いた砂浜(逆に北へ行くほど広い)になっているのがわかる。途中にある白い四角は、通称「れーとー(冷凍)会社」(現(株)セイヒョー(新潟市:前は「新潟製氷冷凍(株)」)の建物。1948年佐渡工場開設)。昭和26年の時化で専用岸壁崩壊(要確認)。
 そこから海に沿って防砂提までの約半分までが、当時としては新興造成地の旭町、残りは現在羽吉浜漁業協同組合の事務所兼倉庫(要確認)。

 b、防砂堤の先端と南東へ長く延びている築港の先端は当時繋がっていない。
 ァ.防砂堤はたくさんの大きな岩石で出来ていた。岩伝い築港の突き出た岸壁(人が泳いで渡って上がれる)に面した先端まで行った。そこで魚やサザエを獲った。魚は、釣り竿よりタモの方が多かった。2〜5本の尖ったヤスも中にあった。築港同様にバクトウ(ベラ、キュウセン)、アブラメ、コウグリ、サヨリ、ハゼ等がいて魚の宝庫。
 顱貌鄲Δ、比較的浅瀬で海底は砂地。当時「らんべえ」と呼んだフワフワした茶色で直径3〜5僂らいの丸型の軟体動物が、至るところに巣を作っていた。
 a)らん丸という壊れた木造船が沈んでいた。魚の棲みかであった。
 b)多様な形態といろんな色をした「べこたこ」(学名:アメフラシ)が、たくさん岩にくっついていた。子ども心には大変気味の悪い存在で、見つけると棒などで突いて岩から落とした。その際、紫色の液体を出した。これまた、気持ち悪かった。そう言いながらも、遊びであろう。
   ウィキペディアに次のようにある。
 アメフラシは、腹足綱後鰓類無楯類 (Anapsidea, Aplysiomorpha) に属する軟体動物の総称」「アメフラシにつつくなどの刺激を与えると、紫汁腺とよばれる器官から粘りのある紫色(もしくは白色や赤色)の液体を出す。この液は、外敵に襲われた時に煙幕になり、あるいは液が外敵にとって不味いためそれ以上襲われなくなるのではないかと考えられている」
 c)ハゼやヒラメ、サヨリなどがいた。
 髻頬迷
 a)南側よりはるかに深く、海底は砂地でなく石や岩が多く敷き詰められている感じだった。流も激しく、余り泳げない人には危険、浮き輪が必須。
 b)海中に潜ってサザエやアワビが岩と岩の間などで採れた。
 c)オコゼ、シマダイ、チンダイ(クロダイ)などがいた。
  【なお、築港も東側(沖の方)と西側(陸の方)では、当然海の深さ・波の荒さの違いもあり魚種(海藻含む)は若干違う】
 ィ.防砂提と築港の間は20mはあったと思う。夏になると小学の高学年であれば大抵泳いで築港へ渡ったが、小学1〜2年の頃までは怖くて渡れなかった。せいぜい大人の肩にしっかり捕まり渡ったものだ。小3の夏と思うが、ある時思い切って単独で決行。やってみれば、どうっていうことなく簡単・楽に渡れた。
2)防砂提の写真左(西)側部分から下(南)へ下って突き出た部分までの港岸道路が、海岸通り。
3)湊。
 a.海岸は、夷に比べ浜辺部分が極めて少ない。
  また、南北を走る道路が本町通りと加茂湖側の若宮通りの2本しかない。
 b.加茂湖側に広い敷地があるのが、両津小学校と両津中学校のグラウンド。
 校舎は、3棟並んでいるのが見える。
 c.加茂湖に無数の白い点が見えるのが、夷もそうだがカキの養殖筏〔いかだ〕。
 ァ.『両津市誌』によれば「終戦(昭和20年)後の10年間が最盛で1斗樽に一つが、米1俵の値段に相当し、かき成金のことがば生じた」とある。また、県水産課の指導で、全体の筏台数を3700台、一台の坪数十坪に制限したときもあった。(『吾潟郷土史』)。
 ィ.2015.1.23 水産多面的機能発揮対策支援事業事例報告会の「佐渡島加茂湖の環境保全」資料サイトより、加茂湖のカキ養殖業の変化
             1970年頃   現 在
 カキ筏の台数:   3000     600
 養殖業者の数:    200      60
1969年(昭和44)頃の両津全景(同年刊行『両津町史』の巻頭写真)
両津全景2
 【1952年の写真(前掲)との違い】
1)築港の北側は砂浜だったものが、造成されている。現在、佐渡魚市場はそこに所在。
2)2つに離れていた築港が、繋がっている。
3)防砂堤が無くなっている。
4)北側の築港から南の防砂堤までやや湾曲した砂浜は無くなり、直線になっている。(後掲「旭町の現在の海岸」写真参照)
5)海岸通りの北端から東の防砂提へ行く道の部分が広がっている。【写真からは北から南西に向かう築港が角度を南南西へと変えた辺りが防砂提が接近していた所で、前の写真と比較する敷地が南へ延びているのがわかる】。確か小学5,6年〜中学時代(1958〜1961)は砂地で広い空地、時々魚箱が高く積んであったりで、子どもの遊び場であった。そこでボール野球をしたり(非公式・遊びの町内対抗あり)、隠れ家を作ったりして遊んだ。
6)湊側では両津港南埠頭が造成中。1974年共用開始。現佐渡汽船両津ターミナルビル、カーフェリー・ジェットフォイル発着所。南埠頭に対し夷側の旧埠頭は北埠頭という。
第三次港湾整備5ヶ年計画による新しい両津港の姿(以下、『市誌下巻』)
 1970年(昭和45)5月「両津市政だより」
両津港9
1)画像左端 防砂提が延びていた所は「昭和35〔1960〕年埋立〔完了〕」とある。
2)「〔昭和〕41年度〔1966〕以降港の利用状況は人員・貨物共に激増したため中央埠頭は手狭となり、港の整備拡張の必要に迫られ、第三次港湾整備5ヶ年計画が作られ、43年度〔1968〕から工事が始められた」。1969年カーフェリーおおさど丸1865t就航。
3)1971年第四次整備計画に引き継がれ、1972年4月南埠頭共用開始。港は、72年・73年人員・貨物共増加。 1972年カーフェリーこがね丸3026t就航、1973年カーフェリーおとめ丸3495t就航。
第五次港湾整備計画案(1974年2月「広報りょうつ」)         
両津港5
1)計画が立てられたのは、1974年。
a.上越新幹線の1982年開通に対応し、百万人観光を目指す広域観光ルートの拠点港となるため。
b.「計画目標は、昭和60年〔1985〕船舶乗降客数392万人、取扱貨物量535トン」。
2)1976年から着手したが、「石油ショックによる不況で、乗降客・貨物共に伸び悩んだため、54年に計画を一部修正し(第六次)整備が続けられた」
第七次湾整備計画図(10年後の両津港)(『市誌』)
  1986年(昭和61)2月「広報りょうつ」
両津港⒑
1)「昭和60年〔1985〕に第七次計画案がまとめられた」
  昭和70年〔1995〕の完成を目指し、10年計画で工事が進められる。
2)計画決定には、利用客が伸びていない・貨物も停滞しているなどで縮小すべきの意見もあったが、
  専用貨物埠頭がない・今後佐渡観光の拠点港として大型客船の寄港が期待される・高速交通時代に対応できう港湾施設が必要であるなどを訴え、「この計画案を県にまとめてもらった」(「広報りょうつ」)。
3)「この事業費は百億円余りが見込まれている。完成すると6000t級の大型船の着岸が容易となるほか、幅17mの臨港道路や緑地、駐車場の整備などで、「あすの日本海をひらくまち両津」にふさわしい躍進の港となることが期待されている」

4.夷時代の遊び場例
 以下、子ども時代を過ごした夷旭町時代(1946〜1954年途中)と夷築地時代(1954年途中〜1959年の中学までが対象))に区分して記述する。
(1)夷旭町(両津湾側)
1949年頃の浜辺
 DSC09845
(下の写真は、昔旭町にあった我が家の裏付近から2017年元旦に撮ったもの)
旭町2017元旦旭町1917年元旦1
1)古い写真は1949年頃(3歳頃と推定)。家々の裏から海までは10m以上ある砂浜であったことがわかる。また、防波堤(「築港」と呼んだ)がまだ延びておらず、浜の向こうは波を遮るものはないそのままの海だったことがわかる。
2)遊びと直接には関係ないが当時の竹製の乳母車(うばぐるま)、今でいうベビーカーの中に入って立っているのが見える。写真右の近所の「くわがらや」(屋号)の兄ちゃんから砂浜で体を高く持ち上げられ砂地にゆっくり降ろされるの繰り返しで構ってもらった憶えがある。(これも、大人と幼児との間の一種の遊びに入るだろう)
3)落とし穴を作ったり、いろいろな砂遊びしたり、沖に向けて石投げしたり、真ちゅうや鉄くずを拾ったりした場所。
◆嵶渉渡僂茲螳按を望む」(資料:『佐渡の今昔』)
 1951年(昭和26)           2005年(平成17)
旭町15旭町17
下は、2017年元旦旭町の浦から撮った写真。
1)「昭和18年〔1943〕頃両津町から宅地造成した土地が旭町の町名で12戸の家が建った」「昭和26年(1951)11月の時化により〔写真〕右端の製氷会社の足元の地面が波にさらわれている」〔画像では右端に近い入母屋造りの大きな建物が扇屋旅館、道路をはさんで写真では見えないが製氷会社〕
 a.1951年の大波のことはよく憶えている。当日夜、ヒューヒューという屋根や建物のすき間をぬう風とドドーンドドーンと岸辺にぶつかる波の音を聴きながら家族全員が家の奥(海に近い方)の土間(炊事場・小上がりで飯台の置いてある食事場・風炉場・便所)に魚箱かリンゴ箱か石油缶の上に腰かけ嵐が過ぎ去るのを待った。そのに小屋があってすぐ砂浜。まずは小屋に波が打ち寄せてさらわれないかを心配した。
 ァ.昭和26年の時と資料から知り、すると5歳の時とわかった。
 ィ.この時、「製氷会社」(子ども時分は「レート―(冷凍)がいしゃ」と呼んでいた。現(株)セイヒョー(新潟市)、前は新潟冷蔵)の桟橋が潰れたとどこかの資料にあった。そこは、当時子どもの遊び場ではないが蓋がしてあったタンクがあり、蓋を少し挙げると腐った魚のガラが一ぱい入っていて強烈な臭いがした。これも遊びに入るだろう。当時、何でこんな汚く臭いもんが貯めてあるのか、疑問・関心持たないまま半世紀過ぎた。それが貴重・高級肥料=魚肥と知ったのは2008年の時。
  (「08年01月24日号「歴史スポット31:自給自足(7)肥やし」)
 ゥ.翌日、多分幼稚園から家に帰ってきて裏の浜へ出るみると、大きな水たまりが出来ていた。これは、確かにあっただろう。
 b.画像には、道路と道路の間に12軒並んで建っているのがわかる。左から3軒目が我が家。
 ァ.砂浜の家の近くに多分内蔵などを取り除いて2つに開いたスケト(「佐渡魚」)(学名:スケトウダラ)がカタセとして干されているのがわかる。
 ィ.朝起きたら海が広がって見える浜へ行く。当然清々しくでいい。
 顱貿箸硫擦癲△修了の海上の天候によって変わる。そういえば、波音には、周期・リズムがあり、強弱は勿論、喜怒哀楽のような質の違いもある。
  a)話は脇道にそれるが、太宰治の紀行小説『佐渡』にこんな文があった。両津の旅館で泊まったときのこと。
 「明朝は、相川へ行ってみるつもりである。夜半、ふと眼がさめた。ああ、佐渡だ、と思った。波の音が、どぶんどぶんと聞える。遠い孤島の宿屋に、いま寝ているのだという感じがはっきり来た。眼が冴えてしまって、なかなか眠られなかった。謂わば、「死ぬほど淋しいところ」の酷烈な孤独感をやっと捕えた。おいしいものではなかった。やりきれないものであった。けれども、これが欲しくて佐渡までやって来たのではないか。うんと味わえ。もっと味わえ。床の中で、眼をはっきり開いて、さまざまの事を考えた。自分の醜さを、捨てずに育てて行くより他は、無いと思った。障子が薄蒼くなって来る頃まで、眠らずにいた」
  b)紀行文によれば、新潟高等学校で講演した日に学生と共に新潟の浜辺へ行き、そこで偶然佐渡を眺めて興味を持ち、翌日(昭和15年11月17日)佐渡へ観光のため渡った。
  c)両津のどこの旅館かであるが、波の音が聞こえたとすれば、当時からあったとすれば旭町の今は営業してない「扇屋旅館」(画像には見える)が最有力、次には同じく当時からあったとして現在も営業している旭町から一本奥の道に面した「まるか旅館」(当時は、海の近くだったかもしれない)、三番目は、今はないが夷の老舗旅館江戸時代佐渡奉行の泊まる本陣宿「本間旅館」。裏の合い向かいに町があり、その向かいが旭町で、果たしてそこでも波の音が深とはいえ、聞こえただろうかという難点がある。そこでも聞こえるとすれば、文化人が泊まる格式から言って最有力〔『島根のすさみ』より「ここの本間という泊った本陣は、佐渡の国主の本間の末裔で、今でも豪家」(08年2月26日号「佐度を記した人23:川路聖謨(6)佐渡巡見➀」)〕。それだけでなくその当時からあったかどうかわからぬが海岸通の今は営業してない「富山館」も可能性としてある。多分大正期に加茂湖側にあった魚市場が海岸通の造成によって移転、当時沖での築港増設が進んでいれば、波が「どぶん、どぶん」と聞こえるはずはない。
  【追記:7月7日。先日渡辺和弘氏(前掲)との電話の中で扇屋旅館は戦後間もなく神明町から旭町に引っ越したとのこと。そのため、本間旅館が確実になった】
  髻縫縫錺肇蠅量弔声が、あちこちから聞こえて来た。コケコッコーと一方がいうと、必ずどこからかコケコッコーと返ってきた。当時、多くの家でニワトリを飼っていた。
  a)我が家も飼っていてある時は七面鳥もいた。普通のニワトリと違って茶色っぽい大きい卵を産んでいたように思う。
  ァ)七面鳥はクリスマスに丸焼きにして食べる習慣があったことを思い出し調べると確かにそうであった。父は、家で飼っていた鳥は食べないと言っていたのを思いだす。七面鳥のことに違いなかった。
  ィ)その七面鳥は、誰かに売ったか贈ったか、1年たらずでいなくなったように思う。それを憶えていたのは、近所では見かけない珍しい鳥であったからだろう。
  b)「チャボ」と呼んでいた小型で茶色っぽい色のニワトリも飼っていた。その「チャボ」を両手で持って砂地を歩き海に向け投げて驚かせ、必死で陸に逃げるのを面白がった記憶がある。これも遊び。
【「からかう」とは、ジャンルが若干異なる。
 例:猫が捕まえたネズミを食べる前に玩(もて遊)ぶのと似ている。旭町時代から捨て猫の雌の三毛猫が住み着くようになり父は追い払うに忍びなく飼い猫にした「タマ」が、築地に移転した時も当然一緒で、そのタマがネズミを捕り弄〔もてあそ〕んで食べるのはよいとして、遊び過ぎてうっかり逃がしてしまったことがあった。
 イルカにも〔人間も同じだが〕同じような残虐姓がある。ウィキペディアに次のことが載っていた。
 イルカは、「コミュニケーション能力あかは高く、人間のようないじめも行うこともわかっており、魚などを集団で噛み付き弱らせ弄んだ挙句食べずに捨てる小さな同種のイルカや弱ったものを集団で噛み付くなどして、殺すなど集団的な暴行行為も行う」。海中から獲物(あるいは、イルカの赤ちゃんか)を何度も突き上げて空中へ飛ばして遊んでいると思われる哺乳類は、イルカだろう。食べられずに傷だらけで死んでいる赤ちゃんイルカが何匹も浜辺に打ち上げられている事実は、よく知られているようだ】
1951年(推定)旭町時代。
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1)上の写真で気づいたことは、当時の主な遊び場は、家の前の道路より家の裏庭・浜辺。なお、この時代家の前の道路を馬が通ることもあった。
2)二輪車ならぬ後部左右に輪が付いているいわば四輪車。
 a.付属の2つの輪に頼らず、二輪で運転できるようになっている。
 b.自転車のサドルにまたがっても何とか足が地面に付くくらいに成長した時の写真
3)小1か2の時、大人が乗る自転車をこいだ。
 自転車の左に立った位置から両ハンドルを両手でしっかりと握り、右足を右側のペダルに載せ、瞬間左足を上げて左側のペダルにのせ同時に回すもので、タイミングと身体と自転車との左右のバランスを要し、普通立って自転車に乗るよりもはるかに難しい。
1952年頃海星幼稚園
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1)左画像からは名前は忘れたが半円鉄棒・すべり台、右の卒園記念写真からは紙て作った西洋風お城・セルロイド人形が見える。
2)当時の幼稚園には、今もそれほど変わらないと思うが、他にブランコ・鉄棒・シーソー(ギッタンバッコン)・砂場・ジャングルジムがあった。
(2)夷築地時代((加茂湖側)
 築地時代の画像:中沢仲助商店(当時、通称「仲助」)の魚干し場の子どもたち
 1956年(推定)頃の写真:根拠は、2歳上の「ちー坊(ちせい:漢字不詳)君」、1歳上の「しゅん坊(俊三)君」がいて、一般に中学になると、小学生と遊ばなくなり、小学生も嫌う。私が小4の時とすれば最年長が小6で合う。
 なお、同年齢の「まさ(雅介)」、2年下の「よし坊」(2人いて漢字は違う)、4歳下の「しんじ」と「たんこう(たか坊)」、もう一人(吉野家の子どもと思うが、呼び名は思い出せない)。
 【目上には「〇〇坊君」と呼んだ。同級には名前の最初の漢字名を呼んだ(例:睦義は、「むつ」)、年下は「〇坊」(中には母親も我が子をそう呼んでいた。夕方になると母親が家の前から仲助広場に向け大きな声で、例えば「よし坊、たか坊」と呼んでいた。他に一人通れるくらいの狭い小路を入った所に少しばかりの空地があってそこも遊び場になっていた。】
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1)子どもたちが並んでいる前は道路から5m程隔てている。
 a.魚干しはそこまでは使わず、空いていることの方が多く、恰好の遊び場だった。
  ァ.干していたのは、イカ(スルメ)が主で、他にスケト(カタセ)。
  ィ.魚箱を前と後ろの台にし(画像右端に見える)、その上に同じ長さの長い角棒を左と右の端近くに並行して置き、その上に巻いていた簾(すだれ)を広げ敷く。
  ゥ.簾の上に内蔵や口や軟骨を抜き取って開いて塩水に浸したイカを一枚一枚、無駄なすき間がでないよう丁寧に置いて干す。(1匹のイカの足の先端部分に2匹のイカの耳が入るようにすれば、有効に場所が使え見た目も均整がとれて綺麗。
  ェ.築地の一本加茂湖よりの道路の八郎平町には旅館が多く、浴衣姿で通りがかりの観光客が物珍しそうにその風物を見ていたものである。当時は街中といっても本町1本裏の裏(浦)街通りは車が余り通らないから、排気ガスで困るようなことはなかった。
  ォ.イカ干しはウェブで調べると 全国的には吊るして干す(中に2〜3段で)のが多かったと思われるが、佐渡の場合、簾に横に並べて干すのが通常。浜を含めて場所が広かった(広い浜辺で海から比較的遠く離れ、家の裏から近い)・風が強く吹かない場所があった(例:加茂湖畔)ということであろう。
 b.子供たちの後ろの建物は、干した魚の保管倉庫。夕方になると、従業員2人が前と後ろになって角棒を両手に持ち上げ倉庫に運び、そのまま順次積み上げた。角棒によって簾=イカと簾=イカに空間ができ、倉庫内でも乾燥が進む。
 c.その倉庫もかくれんぼの隠れ家になった。
2)仲助広場での遊び
 a.ボール投げ・キャッチボール。魚干しの簾と箱がいたる所になければ、柔らかいボール球で野球。
 b.上記の空きスペースでは、ボール投げ、パンやこま、縄跳び等いろいろ。50年代終わり頃からはバトミントンも。また、紙芝居屋が来てその空地を利用。
 c.店のオーナーにはさんざん迷惑かけたと思うが、今から思えば相当な人格者でなければ出来ないこと。お蔭で道路遊びの事故は近所で聞いたこと全然なく、みんないっちょめーに成長出来た。この年になって今やっとそのことに気づいた。既に手遅れだが感謝。現在も営業している。5年程前新潟のある会社の副社長と話をしていた時、銀行マン時代佐渡へ出張した折の土産は中沢商店のスルメイカと決まっており、この前夷の街を久々に通った際 店へ寄りスルメを買ったがやはり美味かったとのこと。なお、少なくても1955年までは蒲鉾も製造していたのははなかったか。
 d.現在の光景(2017年6月7日撮影)  
  魚干し場(かっての築地の子どもの遊び場の一つ)は、目測で概ね20×20mと知った。     
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 3)現在の築地の通り(2017年6月7日撮影)  
DSC09889DSC09887
1)左画像:築地と神明町の間の通り
 a.かっての材木店が角にあり、道路沿いの2〜3棟の建物の奥に材木倉庫があり、遊び場になった。主な遊びは、かくれんぼ。
 b.画像左端に見えるのは、加茂湖。画像で見える湖畔部分の丁度真ん中辺に、いつ頃からか浮御堂があった。そこに架かるほんの小さな橋があり、そこも遊び場。そこから湖中の魚の様子を見たり、タモをもって掬ったりして遊んだのであろう。数年間はもった。そして、いつか忘れたが台風にやられそれっきりになった。
 c.道端でゴムボールの野球をよくやった。アンダースローが多かったが、大きくなるとオーバースローでやったものだ。柔ら内ゴムボールであったから、窓ガラスにぶつかっても割れる心配はない。
 ァ.中学へ入る前後からグローブを使って軟球でキャッチボールをした。場所は、画像で駐車している自動車のいる側とその当たり。3年は上の先輩で中学で野球部のピッチャーをしていた人が隣の神明町にいて、その先輩相手にキャッチャーの相手をしたものだ。ミットは持ってなかったからグローブを使ったと思うが、スピードボールをヒヤヒヤしながら受けたことを憶えている。また、痛かった。
 ィ.中1か2の時だったと思うが私が投げたボールが大きくバウンドして当時木造の吉田屋旅館(画像では5,6Fのコンクリート造建物)のガラス製の大きな案内看板にぶつかり壊してしまったことがあった。勿論、親が弁償。
2)右画像:築地の通り(なお、画像右端角にあった仲助広場は築地でなく「本町」、同じく遠くに正覚寺とお墓が見えるところは「夷新」に入る)。
 a.いつから取り付けられたのか、1976年(昭和51)頃築地から吾潟へ移ったからわからないが、両津料飲店組合の歓迎ゲートが目立つ。
  画像で説明すると、画像左に加茂湖があり、湖畔にホテル・旅館街が形成。その建物前の通り(八郎平町通り)が築地通りと並行していて、料飲店街は築地通りに続く神明町通りにあり、その通りのいわば玄関口に設けられた。
 b.築地の通りでは、あまりゴムボールなどでの野球やキャッチボールはしなかった。思うに、  
  ァ.本町商店街とは並行して走っている道のため車の通行量が上記の道に比べはるかに多かった、
  ィ.仲助広場を使わない手はないということだろう。
 c.夏は、家々の前に縁台を出し、大人も子どもも涼んでいた。子どもはしてなかったと思うが、縁台将棋をやっていた。バトミントンは、野球に比べ家の前でよくやっていた。
  冬、雪の積もった頃は、竹スキーなどをやった。一人乗りのソリに2人乗りして遊んだ。雪が積もった時は、車が殆ど通らないか徐行運転のため、わざわが上記の神明町との間の道路へ行かなくても、家の前の道路で充分遊びができた。なお、本町から築地へ下る「((おもちゃ屋)つる屋」の坂道は、雪の積もったときは最もよく利用した。スキーやソリのスピードが増すからである。

5.まとめ
〕靴屬茲螻悗屬大事は常識。結論はまだ早いが、「学ぶ(勉強する)より遊びが先」の結論になる予感がする。もっとも、どこまでの哺乳類の生態を知っての論か?、人間であればどの年齢層を対象にしての論か?の設定が必要。
◆嵳靴咫廚砲蓮非常に深い意味が隠されている。これも直感。
1)「遊び」の類似語。(資料:ウィキペディア)
 a.「シュミレーション」
  「シミュレーション(英: simulation)は、何らかのシステムの挙動を、それとほぼ同じ法則に支配される他のシステムやコンピュータなどによって模擬すること。「模擬実験」や「模擬訓練」とも」「例えば、社会現象などにおける問題の解決方法を探る時など、(悪影響があるので実社会ではとりあえず試せないので)実際の社会と似た状況を数式などで作りだし、コンピュータ等を用いて模擬的に動かし、その特性などを把握するのに用いる。例えば・・・経営に関する様々な事象を数学的なモデルに置き換えてみて、様々な数値を入力したり変化させることで、結果を推定する。
 b.「ゲームの理論」
  ァ.「
経済社会における複数主体が関わる意思決定の問題や行動の相互依存的状況を数学的なモデルを用いて研究する学問である数学者ジョン・フォン・ノイマン経済学者オスカー・モルゲンシュテルンの共著書『ゲームの理論と経済行動』(1944年) によって誕生した。元来は主流派経済学(新古典派経済学)への批判を目的として生まれた理論であったが1980年代の「ゲーム理論による経済学の静かな革命」を経て、現代では経済学の中心的役割を担うようになった。
  ゲーム理論の対象はあらゆる戦略的状況 (
: strategic situations)である。「戦略的状況」とは自分の利得が自分の行動の他、他者の行動にも依存する状況を意味し経済学で扱う状況の中でも完全競争市場独占市場を除くほとんどすべてはこれに該当する。さらにこの戦略的状況は経済学だけでなく経営学政治学法学社会学人類学心理学生物学工学コンピュータ科学などのさまざまな学問分野にも見られるため、ゲーム理論はこれらにも応用されている」
 ィ.「ゲーム理論が誕生する遥か以前、経済学の祖
アダム・スミスは主著『道徳情操論』(1759年

)において人間社会を「偉大なチェス盤」に喩えていた(第6部「有徳の性格について」)
 c.「確率論」

  偶然現象に対し数学的模型(モデル)を与え、解析する数学の一分野。「もともとサイコロ賭博といったギャンブルの研究として始まった。現在でも保険投資などの分野で基礎論として使われる」

 ァ.古典的確率論:「確率論は16世紀から17世紀にかけてカルダーノパスカルフェルマーホイヘンス等によって数学の一分野としての端緒が開かれた。イタリアのカルダーノは賭博師でもあり、1560年代に『さいころあそびについて』(: Liber de ludo aleae)を執筆して初めて系統的に確率論を論じた」「18世紀から19世紀にかけて、ラプラスはそれまでの確率論を統合する研究をおこない、1814年2月に『確率の哲学的試論』を著し、古典的確率論と呼ばれる理論にまとめた」
 ィ.
公理的確率論:現代数学の確率論は、アンドレイ・コルモゴロフの『確率論の基礎概念』(1933年に始まる公理的確率論である。他の現代数学と同様に、この確率論では「確率」が何を意味しているのかという問題は取り扱わず、「確率」が満たすべき性質をいくつか規定し、その性質から導くことのできる定理を突き詰めていく学問である。この確率論の基礎には集合論測度論ルベーグ積分があり、確率論を学ぶためにはこれらの知識が要求される」「また、確率論は統計学を記述する際の言語や道具としても重要である」
2)「遊び」についての名言・譬(たと)え
 a.ニュートン:「アイザック・ニュートン 名言集」サイト 
  ァ.「目の前には手も触れられていない真理の大海原が横たわっている。だが、私はその浜辺で貝殻を拾い集めているに過ぎない」
  ィ.「私は、海辺で遊んでいる少年のようである。ときおり、普通のものよりもなめらかな小石やかわいい貝殻を見つけて夢中になっている。真理の大海は、すべてが未発見のまま、目の前に広がっているというのに」
  ゥ.「諸物の多様さと混乱のうちにではなく、つねに単純さのうちに真理は見出される」
  ェ.「一生を振り返ると、わたしは砂浜できれいな貝がらをひろって喜ぶ小さな子供にすぎない」
  ォ.「天体の動きなら計算できるが、群集の狂気は計算できない」
 b.ジョージ・バーナード・ショー:「新人のための名言集 遊び(10)」サイト
  私たちは年をとるから遊びをやめるのではない。
  遊びをやめるから年をとるのだ。
 c.セコム創業者 飯田亮:「遊びの名言:みんなの名言集」サイト
  遊びが足りないから仕事ができないんだ。
  もっと遊べよ。遊べば、もっと仕事ができるようになる。
 d.アインシュタイン:出所同上
  Aを人生における成功とすると、A=x+y+z が成り立つ。xは仕事、yは遊び、そして、zは黙っていること、である。
「遊び」の本質的意味・意義は、これから。
 以上  07.07


佐渡の祭り57:佐渡國鬼太鼓どっとこむ2017

 こんにちは!自在業の櫻井です。
 5月28日(日)久々に「佐渡國鬼太鼓どっとこむ」を鑑賞。その都度「佐度広場」の記事にしている。調べると4年ぶり6回目で、初めて見た07年から丁度10年。なお、「どっとこむ」自体は、2002年開始から16回目。 
                  記
  07年5月30日号「佐渡の祭16:佐渡國鬼太鼓どっとこむ」
  08年5月26日号」「鬼太鼓22:オンデコ写真集」
    〃5月29日号「佐渡の祭22:佐渡國鬼太鼓どっとこむ08年」
  09年5月26日号「鬼太鼓23:鬼太鼓どっとこむ09年写真」
  10年5月25日号「佐度の祭30:佐渡國鬼太鼓どっとこむ(1)屋内光景」
    〃 5月26日号「佐度の祭31:佐渡國鬼太鼓どっとこむ(2)屋外光景」
    〃 5月27日号「佐度の祭32:佐度國鬼太鼓どっとこむ(3)加茂歌代鬼太鼓」
    〃 5月28日号「佐渡の祭33:佐渡國鬼太鼓どっとこむ(4)鬼太鼓」
    〃 5月30日号「佐度の祭34:佐渡國鬼太鼓どっとこむ(5)佐度芸能」
    〃 6月05日号「佐度の祭35:佐渡國鬼太鼓どっとこむ(6)湊鬼太鼓」
   13年 5月31日号「佐度の祭50:佐渡國鬼太鼓どっとこむ2013」
  17年 6月01日号「佐度の祭57:佐渡國鬼太鼓どっとこむ2017」
 《参考》 2017年どっとこむ「企画書」(「佐渡國鬼太鼓どっとこむ」公式サイト)より
  事業名:佐渡鬼太鼓どっとこむ   
  日  時: 平成28年5月22日(日) 午前9:00〜午後4:00 
  場  所:オンでこドーム (両津港みなと中央公園)
  主   催: 佐渡國鬼太鼓どっとこむ実行委員会
  参加予定:700人(芸能25団体550人 、物産20団体100人 、スタッフ50人)
  目標来場者:18,000人(内 島外:8,000人)
 【2017年「趣意書」より:「佐渡島内の芸能団体の1/4に当たる25を超える団体が芸能を披露」「毎回1万人を超える来場者」「〔観光客は〕全来場者の3割を超える」】 
  事業内容
   1)島内各地に根ざした郷土伝統芸能の上演   
      2)佐渡の自然に育まれたスローフードをテーマとした特産品の直販・PR  
      3)各種体験教室          
   4)佐渡観光及び特産品等のパンフレット配布    
      5)ホームページからの情報発信        
   6)その他、特別イベント     
 今回の「どっとこむ」への期待は、今まで観たことのない鬼組と出会えるか 多分出店するであろう大崎そばに久しぶりにありつけるかにあった。
 また、佐渡広場の「どっとこむ」記事は数えると今回で11回目になるが、果たしてどこまで初体験や自分なりの発見等々新しいことが書けるか問題意識としてある。なお、おんでこドーム滞在は、概ね9時半〜12時。

1.祭り内容 (案内チラシによる)

  伝統芸能祭 佐渡國鬼太鼓どっとこむ  
   芸能披露 佐度特産品販売 各種体験教室
  5月28日(日)午前9時〜午後4時 入場無料・雨天決行 
  両津港 おんでこドーム
(1)プログラム
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 出演時間         演目     出 演 団 体
 9:00〜         木遣り    湊木遣保存会 

               開会式
 開会後〜09:25   獅 子    湊壱番・七番・十番獅子組         

 09:20〜09:38  鬼太鼓  下久知鬼太鼓保存会
 09:38〜09:58  鬼太鼓  春日鬼組

 09:58〜10:16  鬼太鼓  和泉鬼太鼓

 10:16〜10:32  大黒舞  畑野大黒舞保存会
 10:32〜10:52  鬼太鼓  市立加茂小学校4年「加茂っ子鬼組」
 10:52〜11:12  鬼太鼓  三瀬川青年会
 11:12〜11:30  鬼太鼓   河原田諏訪神社氏子会

 11:30〜11:48  お囃子  住吉うしお樽ばやし・姐樽

 11:48〜12:06  鬼太鼓  岩首余興部

 12:06〜12:24  鬼太鼓  小倉物部神社若者

 12:24〜12:42  鬼太鼓  加茂歌代鬼太鼓組

 12:42〜13:00  芸妓舞  両津商工会女性部芸妓舞保存クラブ

 13:00〜13:18  鬼太鼓  畑野熊野神社祭典青年鬼組

 13;18〜13:36  鬼太鼓  住吉うしお会鬼太鼓

 13:36〜13:54  鬼太鼓  秋津鬼太鼓保存会

 13:54〜14:10  大黒舞  新穂大黒舞愛好会

 14:10〜14:28  鬼太鼓  沢根 白桜会

 14:28〜14:46  鬼太鼓  鷲崎鬼太鼓保存会

 14:46〜15:04  鬼太鼓  青木青年会

 15:04〜15:22  民 謡   県立羽茂高等学校 郷土芸能部
 15:22〜15:40  鬼太鼓  福浦鬼組
 15:40〜16:00  鬼太鼓  若松会鬼組
 16:00〜       閉会式
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 出演時間       出演団体

 10:50〜11:00   湊木遣保存会

 11:00〜11:20  岩首余興部

 11:20〜11:35  沢根 白桜会

 11:35〜11:55  両津商工会女性部芸妓舞保存クラブ 

 11:55〜12:15  春日鬼組

 12:15〜12:35  青木青年会

 12:35〜12:55  住吉うしお樽ばやし・姐樽

 12:55〜13:10  新穂大黒舞愛好会

 13:10〜13:30  サブスペ(クイズ税ゼミナール)

 13:30〜13:50  和泉鬼太鼓

 13:50〜14:10  畑野大黒舞保存会

 13:25〜13:45  橘獅子・太鼓組

 13:45〜14:10  県立羽茂高等学校 郷土芸能部

 14:10〜14:30  小倉物部神社若者

佐渡汽船待合室

 11:40〜12:00  鷲崎鬼太鼓保存会

(2)前夜祭 

 内容:佐渡民謡・鬼太鼓、地酒・甘酒サービス
 日時:前日午後8時20分〜午後9時頃              

 会場:おんでこドーム

 主催:おけさと芸能の宝島佐渡実行委員会

(3)主催・協力団体

ー膾邸Ш甘國鬼太鼓どっとこむ実行委員会

共催:湊若松会・両津商工会青年部・両青会OB会・湊商店会・NPO法人みなと昭和館・両津商工会・(公益社団法人)佐渡法人会青年部会・NPO法人佐渡芸能伝承機構・(一般社団法人)佐渡観光協会・(一般社団法人)茶道裏千家淡交会佐渡支部・48.6工+

6┿拭Ш甘狼チァ奮堯法新潟交通佐渡(株)・キリンビールマーケティング(株)・佐渡大商(株)・(株)広瀬組・(株)本間組・大和産業(株)・三井住友海上火災保険(株)・両津南埠頭ビル(株)・両津南埠頭ビルシータウン商店会・新潟県佐渡海洋深層水(株)・アイマーク環境(株)・佐渡北雪会・佐渡酒造協会・佐渡海洋物産(株)・コカ・コーライーストジャパン(株)セールスセンター

じ絮隋Э軍禪・(公益社団法人)新潟県観光協会・佐渡商工会青年部協議会・佐渡市・佐渡青年会議所・日本郵政(株)両津郵便局・佐渡地区郵便局長会・首都圏佐渡連合会東京両津の会・関東小木会・関東畑野会・関東羽茂会・首都圏佐渡金井会・首都圏佐渡吉井会・首都圏佐和田会・首都圏新穂会・首都圏真野人会・東京相川会・東京赤泊会・東京河崎会・佐渡ロータリークラブ・佐渡南ロータリークラブ・佐渡ライオンズクラブ・新潟県自動車整備佐渡地域協議会・佐渡農業協同組合・羽茂農業協同組合
ソ馥散力:北越高等学校・北越高等学校書道部
ζ段牟┿拭С式会社 大庄   オフィシャルビール/キリンビール

2.祭り光景  
[習
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1)おんでこドーム前でリハーサルを行っていたのは、加茂歌代鬼太鼓組。4年前の時も同じ時間帯であろう同じ場所で行っていた。
 a.同鬼組の他に無い特徴は、太鼓2基・鬼2匹が競演するオンデコであること。今回撮った画像によってハッキリ認識。
 ァ.裏打ち太鼓は、それぞれが全く同じテンポ
 ィ.鬼と提灯持ちの構えも同じ
 b.〔裏打ち太鼓師(交代要員含め)2人+鬼1匹+提灯持ち左右両側合わせ2人=〕5人×2組=10人の呼吸が揃うことが必要。そのため出番は調整を要すため、正午過ぎと遅くならざるを得ない。前の時も、午後であった。
2)湊の子ども鬼太鼓も以前と同じような場所にいた。太鼓山車〔やま〕は、「どっとこむ」最終の若松会鬼組の出番まで不動。それまで若松会の鉢巻をつけた子どもたちが入れ代わり立ち代わり練習。5月5日の湊祭りでは子ども鬼太鼓が活躍した。 
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1)春日鬼組
 a.旧両津町夷の鬼組といえば商店街の夷七ノ町が有名であったが、現在は春日町と福浦しか残っていない。話題性等によるものであろうが、いつしか夷のオンデコといえば春日町が代表となっている感じがする。
 b.特徴は、裏打ち師は太鼓山車に乗って行い、鬼に立ち向かうのは左右の提灯持ち。
 c.「オンデコは気合の芸能」(これほど痛快なものは他にない。但し、演技者すべてに気が入っていると感じさせることが条件)との持論が確認できた。鬼よりも2人の提灯持ちの目線と動作に目をやり、気合の大さ・タイミングに傾聴していたが、隙のない演技に感服。
2)加茂小学校4年「加茂っ子鬼組」
 a.過去07年、08年、09年、10年、13年と5回「どっとこむ」を見て来たが、当イベントで小学生以下だけというのは初めて。湊祭りには「子ども鬼太鼓」があり、五十里田中白山神社祭りには「子ども豆まき太鼓」(13年4月22日号)」がある。
 b.画像では5人の子どもが演じているが、開始前は舞台一杯に数十人の男子女子が並んで元気な声で挨拶、数組に分けて次々に演技を披露。
 c.佐渡人であればどの集落でもオンデコがあり、継承。このような住民に根差した芸能というのは、そうあるものでない。外国人にも関心を持つ人が多く現れ参画するようになっている。おんでこドームで、今まで意識に無かったことだが、多くの外国人を見かけた。超ローカル芸能がグローバル芸能に化ける可能性はある。
3)和泉青年会鬼太鼓(画像なし)
 a.これまで観た「どっとこむ」のプログラムの中に名前は見当たらず、今回が初めて。調べると「どっとこむ」への初登場は2014年。
 b.金井の新保八幡宮祭(新保まつり)は、地元鬼太鼓4組が競演しながら奉納することで有名。和泉鬼太鼓もその一つと思い念のため調べると、新保八幡宮は、新保・西方・大和田の三集落の産土社(うぶすなしゃ)で鬼太鼓は新保から2組と西方・大和田から各1組の計4組。
  ァ.和泉は、荒貴神社。「佐渡の社」によれば、旧和泉村の社は荒木大明神で次のようにある。
 「元享3年〔1323〕本間氏建立、社地7反1畝20歩、米6石余、反歩2町7反余。現存(荒貴神社)と思われる。社人は和泉の本間丹後、下矢馳の本間刑部、牛込の小野豊前の3家であった」
  ィ.祭りは4月15日。荒貴神社にて御祓いを受け、5:30打ち出し。150軒門付けする。
 c.特徴・特記事項
  ァ.鬼は赤鬼(雄)と白鬼(雌)、2つのの提灯のそれぞれとの睨み合いあり、2匹の獅子のそれぞれとも睨み合う。獅子にあっては鬼に向かって大きな口を開け歯をカンカン打ち鳴らして威嚇、黒い尻尾は逆立って動いている(獅子の操作2人のうち後ろが尻尾に似せた長い髪のようなものを頭に着けて立った状態で頭を動かす)
  ィ.鬼は太鼓の前で左右片足ずつ交互に旋回。面をつけているから足腰が強く平衡感覚がある。
  ゥ.それぞれの動作(前進、横向き、身構え等)において相手と目配せなどの合図は無く、おそらく太鼓の音で自分で判断しタイミングとポジションをピタリ決めているのは見事。但し、必ずしもメンバー全員がそう言えるわるけではない。
  ェ.一つ一つの動作にメリハリと一人一人が主役を感じさせる鬼太鼓で印象深い。
  ォ.14年5月東京秋葉原駅で鬼太鼓を披露するなど活動範囲を広げている。
4)河原田諏訪神社氏子会
 a.同鬼組の鑑賞は初めて。目新しさを感じなかったのは 国仲系の鬼太鼓であったからだろう。むしろ、これが河原田のオンデコであったことに驚いた。
 b。メンバー構成は、白髪(銀髪ではない)の白鬼と茶髪(黒髪に近い)の赤鬼、獅子2匹いて提灯なし。
 c、4月27日諏訪神社例大祭(万燈祭り)には門付けを行い、8月11日の佐渡の盆 獅子ヶ城まつりには、沢根白桜会・窪田青年団と共に3鬼太鼓の競演をする。
5)岩首余興部
 a、岩首鬼太鼓は前々から名前は知っていたが、鑑賞は調べると意外に初めて。
 b、これが前浜系オンデコだと再認識。
  ア、2匹の鬼が共演=組踊。(但し、すべてが鬼同士でなく人(素顔)と鬼、又は人と人(子どもの場合、面は被らず全て素顔)
  イ、ソーラ・ヤーレ ソーラ・ヤーレの掛け声。
  ゥ.4名以上からなる笛囃子あり。
  ェ.獅子・提灯なし。
  ォ.滑稽なひょっとこ面(口または鼻から上部分)を被った「ローソ」(門付の先導役。各家の玄関内で祝言と玄関前で祝儀ご頂戴を述べ演技に入る)がいた(画面に入っていない)。
 c.埼玉県「入間万灯まつり2016」に出演し大喝采を受けた。
  なお、佐渡市と入間市とは姉妹都市。わかる範囲では、13年の「どっとこむ」には入間市から野田清和会が演技を披露。埼玉県入間市は、佐渡市と姉妹都市。
 07年8月10日号「佐渡の祭19:両津七夕・川開き」には、「応援にかけつけた十数名の黒須囃子保存会の皆さんによるお囃子・踊りが、夷中心街と両津支所前で披露された。威勢のよい笛・太鼓の囃子(はやし)に乗って、堂々とした仕草の非常にユーモアに満ちた舞いであった」と画像付きで記していた。

6)住吉うしお樽ばやし・姐樽
 a.同樽ばやしは、地元・住吉の祭りといえばこれまでのように男子だけでなく、女子も参画するため考案され平成5年(1993)に結成され活動が開始された。当時は少女(小学4年以上〜高校生)が対象であったが、成人になっても継続できるように「姐樽」が平成20年(2009)に結成。成人の姐樽に対し、少女組は「小樽」と呼んでいる。
 b.共演であるから、表現として「樽ばやし・姐樽」より、「樽ばやし小樽&姐樽」のほうが分かりやすい。
  姐樽は、両津や羽茂などの祭りや佐渡市の地産地消フェスタのイベントなどに呼ばれ活躍している。
 c.一糸乱れぬ小樽&姐樽連携の演奏・演技は、圧巻。
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1)大崎そばは、待つのに時間がかからぬよう11時頃注文。500円。麺は思ったより黒っぽく、汁が暖かいと味が損なわれるので若干心配したが、共に冷えていて非常に美味かった。
2)サザエ弁当(サザエ炊き込みご飯)が他所では珍しく、美味そうで 安く感じ(1個300円)て2個購入。1個は船内での昼食用、他は土産用。試食すると、サザエは、普通の大きさ1個分くらいがのサザエの身が細かく切って入っていた(新潟の食品売り場の場合、サザエの普通サイズ1個当り150円以上(2個入りが普通で、350円以上が相場)。中身が早く知っていたら5個は購入しただろう。
3)実演販売では、もち豚串焼きが人気。なお、無名異焼物の轆轤(ろくろ)を回したり、お好み焼きならぬコブダイ・朱鷺を象った「コブちゃん焼き」「朱鷺めき焼き」などがあった。
 (「コブちゃん焼き」について、13年10月07日号「事業・産業65事業・産業65:米作農業(2)6次産業への取組」に記述)
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1)おんでこドーム入口近くは、丸テーブルに同町内・集落の同年齢同士や同家族・親類の子どもからお年寄まで飲食しながらの芸能鑑賞。
2)おんでこ関係当事者の休憩場
3)たらい舟に乗って楽しむ
4)裏千家茶道 立礼棚でのお点前〔てまえ〕
 a.これまで5回「どっとこむ」を見に行き、野点の光景写真は07年・08年・10年に撮っているが、無料(私の経験(料金表示を見ただけ)では全国的に茶菓子付き500円が相場)にもかかわらずお点前頂戴したことなかったが、4年ぶりに茶道を見るということもあって今回初めて茶席についた。お運びが、懐紙に載った茶菓子を持ってきたのには、予想もしなかったことで内心驚いた。
 b.07年の時は、一畳くらいの畳の小上がりで亭主が茶を点てたが、08年からは御園棚を使った立礼(りゅうれい)となった。立礼は裏千家十一代玄々斎(1810〜1877)が明治4年(1871)考案した椅子点前。明治の文明開化の動きの一つであろう。なお、07年の「どっとこむ」記事に次のように記述していた。
 「最近裏千家の現家元が胡坐(あぐら)を組んだ状態で茶をいただく作法の考案をしたことが新聞に載っていた。明治初期に外国人のために椅子に腰掛けた状態での作法(立礼)が考案されて以来のことだとされる。茶道をもっと身近なものにという意図がうかがわれる」
 そこでの「現家元」とは、2003年家元となり十六代宗室を襲名した坐忘斎(斎号)であろう。
 c.客席は、10年の時までは10基ほど置かれた縁台に赤い毛氈(もうせん:緋毛氈〔茶席などで使う赤い和風カーペット〕)を敷いていた。いつから変わったか分からないが椅子が並んでいた。
 d.写真を撮るため最前列の真ん中の椅子に腰かけた。亭主〔一般用語で「お点前さん」)と半東〔はんとう:亭主の補佐。本格茶事の場合は別だが大勢の客人が集まる茶会では先生格が半東を務める〕を一緒に写真に収めたこと、御園棚に並べた各茶道具の或る瞬間の位置や向き(水差の蓋・棗(なつめ)・茶椀・蓋置・茶杓)、半東の腰掛け姿勢と目線は参考になった。
 ァ.40年前頃ーということは1975年頃ー正月初め新潟市の明治7年創業の老舗レストラン兼ホテルのイタリア軒で御園棚を使ってのお点前を行った憶えがある。勿論、茶道用羽織袴(参考までに「自己所有」)姿でである。
 【私が習っていた裏千家清水宗泉社中に近いということもあって、依頼したのであろう。目的は、当ホテル利用のお客様に正月の雰囲気を和やかなものにしていただくためと老舗としての格調の高さを印象付けるためであろう。お客に抹茶をどうぞの特別企画でなく、社中に対しお茶の練習としてさりげなく使ってもらうことだろう。やる方にとっても、正月三が日の日程には抵抗ある人もあろうが、出番があって決して悪い事ではない。私の場合、正月は佐渡だから困った。元旦は辞退したが2日には出たと思う。
 また、野点は4月新潟縣護国神社の境内の芝生のある一角に毛氈を敷いて行ったことあり。その時は魔法瓶のお湯を使っての略盆点と茶箱の点前(卯花点)であったろう。野点傘まではなかったように思う】
 ィ.面白いことに撮った画像を見て 茶を点てる前だったか仕舞う段階だったかか、ハッキリ分からないことに気付いた。長年完全に遠ざかっているは言い訳、とにかく調べると、仕舞う段階だろうとおぼろげながら確信。
 顱肪禺櫃鮴兇瓩討い觧 茶せんが茶碗の中にあり、釜の蓋が蓋置に・水差の蓋が水差手前に置いてあるから後片付け段階。
 髻砲茶を点てる前段階の茶杓を清める時点は、釜の蓋も水差の蓋もそれぞれ閉じたままになっている。
 ゥ.私事にすぎないが、茶道を復習する・思い出す機会となった。
 e.鬼装束の人が、茶席について野点を楽しむ光景は、日本・世界広しと言えども「佐渡國鬼太鼓どっとこむ」しかないであろう
    《参考》野点(資料:ウィキペディア)
  顱北点(のだて)とは、屋外で茶または抹茶をいれて楽しむ茶会のこと。
  髻僕獲茲論鏐饂代の武将が遠征の途中で、あるいは江戸時代の大名らが狩りの傍ら、戸外での休憩をかねて茶を楽しんだこと。なお、茶を点てるのに湯が必要。沸かすための燃料も野に求めた場合、箱崎茶会の逸話〔下記〕が示すように思わぬ発見もある。
  
【箱崎茶会(1587年6月14日)は、豊臣秀吉が九州平定の後、筥崎宮(はこざきぐう)に滞在して博多の町割りを行っていた折催した茶会。箱崎にある松林で千利休が茶を点てた。松葉を燃料に湯を沸かした際、煙となって立ち上る芳香〔「ふすべ」〕が茶会に風情を添えたとされ、利休はこの茶会を記念し筥崎宮に灯籠を奉納したという】
  鵝北酖世聾由阿燃擇靴犢坡擇陵夕阿箸靴涜限海掘花見や紅葉狩りのような行楽の一部として、または野点を主体として庭園から完全な野外に至るまで様々な場所で催されている。
  堯肪稙擦砲ける野点は、余りこれといった作法は無い。茶道の指南書である『南方録』に「定法なきがゆえに定法あり」とある。また『南方録』によれば、場所の選定は、「その土地で「いさぎよき所」(「清々しい場所」の意味)を選ぶ他、使用する器物(茶道具)は水で濯いで清潔にすることを第一とするなどの心得が示されている。その一方で、元より形式外のものであるため、上等な道具を使うことを良しとしながらも、その場に応じて執り行うべきだともしている」。
  【『
南方録』:博多の立花家に千利休の秘伝書として伝わった古伝書。ただし、同時代を著した書籍としては内容や用語等に矛盾点が多数指摘され、現在、研究者の間では元禄時代に成立した偽書として認知されている。かつては、「わび茶」の概念の形成に大きな影響を与えたと考えられてきたが、現在では実際の成立年代である、江戸期の茶道における利休回帰を裏付ける資料として捉えられている。」】

3.まとめ
2017年佐渡國鬼太鼓どっとこむの出演団体26組、来場者数約1万2千人(主催者発表)。
 1)出演団体内訳:獅子3、鬼太鼓17、大黒舞2、樽ばやし2(姐樽と小樽1)、芸妓舞1、民謡1。
 2)来場者数約1万2千人は、17年6月1日現在佐渡市人口56,937人(佐渡市HP)の21.1%。
 3)1か所で地域の芸能団体26組による演技がそれぞれ見られ、地域の5人に1人に相当する来場者があるイベント祭りは、他にはないのでないか。
鬼太鼓は、鬼組ごとにやり方異なり、子どもからお年寄りまで、近年では男女を問わず参画。鬼が金棒やまさかりを持って踊るのでなく、撥(ばち)を待って両足を地面につけたままで舞い且つ太鼓を打つ。このような芸能は、他にはないのでないか。
    《参考》ユネスコ

無形文化遺産 日本の登録物件一覧 

2016年まで) 
         名 称         登録年  地  域
01 能楽             2001年
02 人形浄瑠璃文楽      2003年
03  歌舞伎                         2005年
04  雅楽                            2009年
05  小千谷縮・越後上布        〃   新潟県
06  日立風流物                     〃       茨城県
07  京都祇園祭の山鉾行事    〃   京都府
08  甑島のトシドン                 〃   鹿児島県
09  奥能登のあえのこと     〃    石川県
10  早池峰神楽                      〃   岩手県
11 秋保の田植踊         〃   宮城県
12   チャッキラコ                    〃   神奈川県
13   大日堂舞楽                    〃   秋田県
14   題目立                           〃   奈良県
15   アイヌ古式舞踊               〃   北海道
16   組踊:沖縄の伝統舞踊   2010年 沖縄県
17   結城紬:絹織物技術        〃   茨城・栃木県
18   佐陀神能                      2011年   広島県
19   壬生の花田植                  〃        島根県
20  那智の田楽                    2012年   和歌山県
21  和食              2013年
22  和紙             2014年 島根・岐阜・埼玉県
23  山・鉾・屋台行事     2016年 18府県計33件〔新潟県なし〕
  (注)「日立風流物」「京都祇園祭の山鉾行事」は単独登録であったが、「山・鉾・屋台行事」にまとめて数えられ、2016年時点日本の無形文化遺産登録件数は23件でなく21件となった)
 (以上「ウィキペディア」)
   ユネスコ無形文化遺産について 2017年5月現在(文化庁HP)
(1)条約の概要
 2003年 無形文化遺産保護条約 採択 〔2004年 日本締結(世界で3番目), 2006年 発効〕
  世界遺産条約【有形遺産】(1972年採択,1975年発効)
 【目 的】
 ■ 無形文化遺産の保護 ■ 無形文化遺産の重要性及び相互評価の重要性に関する意識の向上 等
 【内 容】
 ■ 「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」(代表一覧表)の作成 ■ 「緊急に保護する必要のある無形文化遺産の一覧表」の作成 ■ 無形文化遺産基金による国際援助 等 締約国数:172
(2)登録までの流れ
 ■締約国からユネスコに申請(毎年3月)
  〔毎年,各国1件の審査件数の制限〕
   2018・2019年は2年に1件の審査保障
   無形文化遺産の登録のない国の審査を優先
 ■評価機関による審査
 ■政府間委員会において決定 (翌年11月頃)
   記載(inscribe)
   情報照会(refer)⇒ 追加情報の要求
   不記載(not to inscribe)
(3)登録基準:無形文化遺産保護条約運用指示書(抜粋)
 ■ 申請国は,申請書において,代表一覧表への記載申請案件が, 次のすべての条件を満たしていることを証明するよう求められる。
  1.申請案件が条約第2条に定義された「無形文化遺産」を構成すること。
   (a)口承による伝統及び表現
   (b)芸能
   (c)社会的慣習,儀式及び祭礼行事
    (d)自然及び万物に関する知識及び慣習
   (e)伝統工芸技術
  2.申請案件の記載が,無形文化遺産の認知,重要性に対する認識を 確保し,対話を誘発し,よって世界的に文化の多様性を反映し且つ 人類の創造性を証明することに貢献するものであること。
  3.申請案件を保護し促進することができる保護措置が図られていること。
    4.申請案件が,関係する社会,集団および場合により個人の可能な限り 幅広い参加および彼らの自由な,事前の説明を受けた上での同意を 伴って提案されたものであること。
  5.条約第11条および第12条に則り,申請案件が提案締約国の領域内 にある無形文化遺産の目録に含まれていること。
 (参考は、以上)
1)あるブログ記事に ユネスコが2014年に和紙を無形文化遺産に登録した理由は、和紙の原料となる「コウゾ(楮)の栽培を地域で進めたり、教育現場で手すきの体験活動を行ったりして、世代を超えて伝統的な知識・技能が受け継がれ、地域社会のつながりを生んでいることのよう」とあった。
 鬼太鼓はまさにそれを地で行き、上を行く。
 a.どっとこむ会場で「鬼太鼓の森」をご存じですか?のチラシをもらった。それによると、
  ァ.「鬼太鼓の森」は、林野庁が推進する「木の文化を支える森づくり活動」の一環として、、「鬼太鼓の森づくり」協議会と下越森林管理署の協定締結により、太鼓やバチの材料となるケヤキ(欅)を植樹し、将来その木で作られた太鼓の音が島内に響き渡ることを願い、平成19年(2007)に佐渡新穂の国有林に造成。
  ィ.「鬼太鼓の森」には、太鼓の原料となるケヤキ、トチノキの他、バチの材料となるホオノキ、ヤマザクラ、シナノキ等が植栽。毎年、協議会が中心となって下草刈りや野ウサギによる食害対策等の森林整備活動を実施。
  ゥ.「鬼太鼓の森」では、今秋に植樹イベントを開催。植樹する樹種は、ケヤキの大苗100本予定しており、ボランティア募集中。「鬼太鼓の森づくり」協議会
 b.「教育現場の活動」は、加茂小学校4年「加茂っ子鬼組」の出演が該当し、「世代を超えた知識・技能の伝承」は集落ごと鬼組があり子どもも参画し、「地域社会のつながり」では、神社と係わりを持ち神社の祭に鬼太鼓は欠かせない。五穀豊穣・家内安全・無病息災を祈願し、各家の門付けを行う。

2)能楽・人形浄瑠璃文楽・歌舞伎は無形文化遺産に登録されているが、佐渡にも能楽・人形浄瑠璃・歌舞伎がある。主張できることは、次のとおり。
 a.能楽
  ァ.能舞台は、「日本の能舞台の3分の1に相当する30以上の能舞台が残されている」(佐渡市公式観光情報サイト「佐度ナビ」)。
  ィ.江戸時代狂言諸派の中で最も栄えた鷺流(さぎきゅう)狂言は、大正時代は家元が絶え滅亡したとされたが、佐渡に残っていて復興している。
  ゥ.2017年の佐渡の演能開催18回予定。
         2017年演能スケジュール
       日時      名称           場所            演目      料金
4/18(火)14:00〜 大膳神社例祭奉納能  大膳神社能舞台   西王母     無料

5/06(土)19:30〜 天領佐渡両津薪能    椎崎諏訪神社能舞台  羽衣他  千円

6/03(土)19:30〜    〃           〃           船弁慶    〃
6/04(日)19:00〜大膳神社薪能・鷺流狂言 大膳神社能舞台  西王母   無料
6/12(月)19:00〜 牛尾神社宵宮奉納薪能  牛尾神社能舞台  枕慈童  〃

6 /15(木)19:00〜草苅神社薪能         草刈神社能舞台   胡蝶    〃

6 /17(土)19:30〜春日神社能舞台公演   春日神社能舞台     葛城       有料

6 /17(土)18:30〜正法寺ろうそく能           正法寺本堂           田村          〃

7/ 01(土)19:30〜天領佐渡両津薪能 椎崎諏訪神社能舞台    半蔀   千円

7/ 03(月)14:00〜日野公忌例祭奉納能    阿仏房妙宣寺    羽衣   無料

7/ 30 (日)10:00〜本間家定例能     本間家能舞台     胡蝶・三輪 〃

8 /14(月)18:00〜いこいの村まつり海洋薪能  多田漁港     経政     〃

8 /17(木)19:00〜 春日神社能舞台公演  春日神社能舞台  未定    有料

8 /19(土)18:00〜二宮神社薪能        二宮神社能舞台   鵺     無料

8 /21(日)10:00〜 世阿弥供養祭       金井能楽堂     半蔀    〃

8 /27(日)18:30〜加茂神社夜能                加茂神社能舞台   未定         〃

9/09 (土)19:30〜 天領佐渡両津薪能    椎崎諏訪神社能舞台   清経       千円

10/ 7(土)  〃 〜    〃              〃        敦盛    〃
 以上能舞台18回の内訳:(屋外15)神社13〔実質7〕・私設1・仮設1、(屋内3)寺院本堂2・私設1。
 b.人形浄瑠璃
    ァ.佐渡には、人形芝居が3種類ー説教人形・のろま人形・文弥人形:いずれも国重要無形民俗文化財ーあり、人形芝居の座は2009年時点各地に座が人形芝居が9座あり、うち8座は文楽より古い古浄瑠璃の文弥人形。
    佐渡の人形芝居の座(2009年時点)
  以下は、2009年08月11日号「文弥人形18」)より第22回佐渡人形芝居発表会での発表順(なお、猿八座は当日なし)。途中特別出演の「八王子説教節の会」(東京・八王子市)を除く)。
      1.窪田の松栄座
      2.野浦の双葉座
      3.入川の文楽座
      4.新穂の広栄座(説教人形・のろま人形)
      5.吉岡の真明座
      6.大崎の大崎座
      7.羽茂の大和座
      8.平清水の常盤座
      9.猿八の猿八座 

 c.歌舞伎
  ァ.佐渡には片野尾集落で歌舞伎が存続。片野尾歌舞伎という。2年に1回片野尾ふるさと館で公演がある。
   過去記事
    2010年04月19日号「特定地区芸能1:片野尾歌舞伎(1)」
    2010年04月27日号「特定地区芸能2:片野尾歌舞伎の復活と運営」

  ィ.片野尾歌舞伎の一般の歌舞伎との違いは、
   プロはいない・子ども歌舞伎がある・国や自治体の補助金や興行収入に頼らずで料金無料・集落住民総出の地区芸能。「特定地区芸能1」に「出演者30人。少なくても延べ人数80人以上が歌舞伎に係わっている。この数は、幼児・お年寄りを含めた人口の45%に当る。地元総出で、舞台に出る人・裏方で手伝う人・見る人・演技ぶりを評価する人など歌舞伎を楽しんでいる」とある。
佐渡國鬼太鼓どっとこむは、世界に誇れる鬼太鼓の祭典。
 欲を言えば、小木・羽茂方面の言わば「二人太鼓」、沢根・相川・外海府方面の「豆まき」がなかったこと、
 心配は、どのオンデコもそれぞれ個性があって味わいがある故に、人口減のためやる人おらずで消滅する所も出てくる来ること
 にある。 
 来年は、鬼太鼓とその祭り・イベントの面白さをもっと広く味わい、さらにはもっと深めることが楽しみとなる。
 以上  2017・06・12


佐度の画廊47:人間国宝 無名異焼 伊藤赤水、伊藤栄傑

 4月29日(祝)真野の佐渡歴史伝説館で佐々木象堂の蝋型鋳造作品を鑑賞してから、相川に向かった。伊藤赤水氏の作品を観る為である。
 氏について、これまで佐渡広場で何回も取り上げているが、4月12日(水)付新潟日報記事に、「NY発 人間国宝・五代伊藤赤水さん(佐渡) 個展好評で会期延長 無名異焼”美の本場”魅了」という見出しがあった。
 、「米ニューヨーク(NY)で開催中の個展が好評だ。1日までの開催期間は3週間延長され、ギャラリーには目の肥えたコレクターらが連日訪れる」
 展示作品は、「練上」など独自技法を使った無名異焼や佐渡の岩石を砕いて作る「佐渡が島」など27点。「9日時点で半数以上の買い手が付いた。ギャラリーの外から作品を見たコレクターが感動し、すぐ購入するケースもあっという」。NYで大人気の理由について、〔日本の現代工芸を扱うギャラリーのオーナで、今回NY個展の企画運営者の〕大西さんは「『わびさび』のような一般的な日本の美しさとは異なり、自然素材の大胆な使い方などにインパクトがある。常に新しいものに挑戦している赤水さんの姿勢が現地の人にも伝わっているのだろう」と語る」
 私にとって たまたま「佐度の画廊」シリーズの最中で、話題性にかこつけて記事にするため訪問しようと思った。その時期待したのは、「佐渡が島」のその後の作品を観ること 相川街中の店舗はこれまで覗いたが伊藤赤水作品展示館にこの際行ってみることにあった。
 事前に展示館へ電話し撮影の可否確認。「佐渡ヶ島」はここに無く本店にあるかもしれないとのこと。同館は相川からバスで外海府へ行く途中に案内表示があるのを見ているが、バス停を尋ねると下相川と小川の間ということで、後でウェブで確認。バス停からどれくらい要すか不確かでバスの便が行きも帰りも限られ時間に制約されるので、妹の車で行くことにした(結果当日の行程は、自家用利用で両津⇁真野⇁相川⇁両津)。
 相川の店には奥さんがいて、承諾を得て写真を撮らせてもらった。期待の「佐渡が島」は無かった。氏は不在とのことで名刺をお渡しした。『人間国宝 伊藤赤水の世界 土と炎に挑む』(著者:伊藤赤水、編者:尾嶋 静、発行所:新潟日報事業者、発行:2004年)があったので購入(以下『土と炎』)。
 伊藤赤水作品展示館は、そこから車で5分余りで着いた感じがする。外海府の方へ走行し「弁慶のはさみ岩」と「鎮目奉行(しずめ)奉行の墓」を通過して間もなく右手に案内表示があり、上がって行くと小高い丘の上に出て所の建物がそうであった。
 (岩と墓について、09年9月21日号「佐度の風景59;海岸(1)相川・吹上浦」)
 カウンタ―に女店員が一人いた。来館者名簿と毛筆ペンが置かれ、小さな丸い文鎮の乗った見開きを見ると7〜8名の記帳がされていた。大阪、京都、東京からで番地まで書かれいずれも達筆、且つ氏名と住の各欄にピタリ文字がおさまっていた。それぞれ2〜3人のグループでマイカーかレンタカーで訪れたのであろうが、客層の違いを感じた。
 展示作品を観たが事前に聞いてのとおり「佐渡ヶ島」がなく、本店同様目新しさが感じられなかった。ある作品の前で歩みが止まった。見入っていると、店員さんが「その作品はご子息さんの作品です」とのこと。そして、ここコーナーの作品は(4〜5点くらいあったか)すべてそうですと教えてくれた。いくつくらいかと問うと40歳くらい〔後日関西の工房HPに1977年生まれとあった〕、赤水さんと一緒に仕事してますとのこと。店員さんに 赤水さんへは名刺を渡しているのでご子息さんへということで名刺を託した。ご子息さんの名前を問うと、難しい漢字のため、紙に書いてくれた。「英傑」と書いて「ひでたけ」と読むとのこと。ご当人について書き込み中に調べてわかったが、10年前の佐渡広場記事に載せていた(後述)。しかし、「栄傑」の名も別のウェブにあった。
 【追記:5月17 日新潟三越の展示会でご当人にお会いし確認すると、「英」は間違い「栄」が正しいとのこと。前に店員さんに名刺を託したが、今度は名刺交換。それには、
  日本工芸会正会員 無名異陶芸 伊藤栄傑 
 とあった。なお、細かくは「傑」の中の右「桀」の下の字は、「木」でなく「ホ」と見た。】
 なお、過去の無名異焼と伊藤赤水についての関連記事は次のとおり。
  06年08月14日号「佐度 焼きもの展」
  06年08月26日号「佐渡の窯元(2):相川 
  09年01月16日号「歴史スポット39:鉱物(5)無名異焼」
  09年03月31日号「佐度の陶芸5:伊藤赤水の無名異焼」
  09年09月20日号「佐度の陶芸6:人間国宝 伊藤赤水展」
  15年03月21日号「佐渡の画廊38:人間国宝 伊藤赤水の作品」
 今回は、『土と炎』を主力に過去記事も参考に無名異焼とその技法、並びに赤水氏と新たに栄傑氏の作風への理解を深めることを目標とする。

1.無名異焼(むみょういやき)
〔橘尚曄覆爐澆腓Δぁ
1)無名異は、相川の金山で採掘される酸化鉄を多量に含んだ赤土。
2)無名異の効用を最初に発見・着目した人が、鉱山勤務した古川友八。
 a.友八は、寛政10年(1800)生まれ。祖先は奈良・高取藩士の子孫で 佐渡にわたり古川家の6代、文化13年(1816)に中尾間歩(まぶ:坑道)の帳付(鉱山事務監督者)となり、代々この仕事に従事。
 b.切り傷や火傷の際の止血剤としての効用に着目。中尾間歩が無名異の主要産地であったため古川家では鉱山から採掘権を買い取り、販売を始めた。古川家では、原土を明治の終りに至るまで一手に販売。
3)無名異を焼物の貴重な原料として活用するようになったのは、伊藤甚平が弘化年間(1844〜48年)の初め金山から出る無名異を使った楽焼(赤焼)を始めたことによる。
 a.甚平は、1670年頃加賀(石川県)から佐渡に来て羽口(金鉱石の精錬過程で炭に空気(酸素)を送るパイプ〔鞴(ふいご)の〕部品)を焼くことを生業とした羽口屋の七代目。
 (以上09年01月号「歴史スポット39」。以下もあり)
 b.鉱山用だけでなく人口増加によって日用の茶道具需要も旺盛で、無名異を楽焼の茶器作りに生かすようになった。それが、相川をはじめ佐渡の窯元全体に広がり、佐渡といえば無名異焼と言われるようになった。
 (09年03月号「佐度の陶芸5:伊藤赤水の無名異焼」)
4)『土と炎』より
 a.広辞苑:「佐度に産する赤色の粘土で、硫化鉄の酸化したもの。中国では呉須〔ごす:磁器の染め付けに用いる藍色の顔料。主成分は酸化コバルトで,ほかに鉄・マンガンなどを含む〕の別称」との解。
 b.あの土を「無名異」と呼んでいるのは、佐渡と石見(島根県)だけ。鉄分を含んだ赤い土なら日本のあちこちにある。佐渡ではそれを「ムミョウイン」と言っていた。
 c.無名異と混入する土として何を選ぶか?その混ぜ具合はどうするか?これは作り手がどう考えるか?の問題。
¬橘尚枉
1)無名異の楽焼(赤焼)から無名異焼へ。
 明治10年代(1877〜86)に三浦常山と伊藤赤水が相次いで高温で焼成した硬質の無名異焼つくりに成功。
 a.初代三浦常山は、無名異を高温焼成して中国の朱泥焼に劣らぬ美術品にしたいと研究を重ね、明治10年(1877)に成功。脆(もろ)く壊れ易かった赤焼を強くできた。
 b.伊藤甚平系譜の伊藤富太郎(初代 伊藤赤水)も、同じ頃に高温焼成の無名異焼を手がけ成功させた。
2)無名異焼の特徴〔多分、湯呑み茶碗のこと〕
 a.丈夫であること。床に落としても壊れない。
 b.叩くと、金属音を発する。
 c.使うほど光沢が増し、落ち着いた趣がでる。
 d.漢方薬的効能があるとされる。
  明治の文豪 幸田露伴(1867〜1947)は明治25年(1892)24歳の時 佐渡を訪問し 相川の店で無名異焼を見たときのことを紀行文『易心後語』に記している。
 「この地の名産なる堅き石の肌につける赤き粉の無名異といふ品をもて焼ける陶器を売る店につきて見た」
 「昔は底に鬼の面をつけ、内面(うち)には〇(お多福)の面を描きて、鬼は外福は内の意を寄せたる猪口(ちょこ)のみに定まりしものなれど、今は様々のものを製して時好に媚ぶるも商売なれども咎(とが)むべくもなし」 
 「飲食の具に朝夕用ひば、諸毒を消して溜飲などの患(わずらい)を去る由(よし)、覚束(おぼつか)なき話なれども気は心 されば、一つは母上の為、一つを我が料にと購ひ帰り、明日は行くべき鉱山の絵図などを見ながら眠りける」
 (以上、09年「歴史スポット39」)
3)『土と炎』より
 a.広辞苑:「弘化(1844〜48)年間、佐渡の相川で伊藤甚兵衛が無名異を陶土に入れ盃・茶椀などを焼いたもの」との説明。
  相川町教育委員会がまとめた「佐度における陶器の歴史」では、「甚兵衛は陶土に無名異を混じて楽焼を始めた。これは佐渡無名異焼の始発とも言うべきで、ただ、今日の無名異焼のように堅知でなかったことは事実である」
 b.無名異という土は粘着力が弱く、手の平に乗せるとパラパラと指の間から飛び散ってしまう。だから、焼き物を作る時粘土などと混ぜる。
 c.今の時代、赤い肌がツルツルしていて硬質感もある焼き物を、ひっくるめて無名異焼とい思っている人が多いようだが、そういったタイプが無名異のしでてでなく、”赤くてツルツル”は一つのパターンに過ぎない。そのパターンは、明治になってから中国の朱泥焼を志向したした先人たちがつくった。それがマーケットに支持され、大正・昭和と流れてきている。
  朱泥焼は青磁、白磁などと同様、焼き物を分類していく上での一つのジャンルであって、無名異焼も朱泥焼の中に包含されるとみていい。
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 窯変:無名異焼に使う無名異は鉄分を含んでいるので窯で焼くと黒く変色したりする。
1)窯変は、中国の朱泥焼を目標とした明治以降の「赤」を見せたい無名異焼にとって邪魔な存在で、無名異の「赤」をみせたいのに黒が出てきて・・・不良品として扱われたりしていた。
2)1966年(昭和41)京都工芸繊維大学を卒業し佐渡に帰ったが、赤土の無名異に発展性の限界を感じ それに代わる素材を探し求めて回った。いろいろ遍歴を重ね、元の無名異の赤に行き着いた。

 a.無名異の弱点は、酸化鉄を含んでいるため黒い斑点ができること。その黒を生かしたらどうか、すると赤も生きるのではないか。「従来、マイナス要素と見ていたその黒を美しいものとしてとらえ、作品に生かしていけないか」。それで手掛けたのが「窯変」。(「窯変は昭和43年ごろから始め、ずうっとつくり続けてきております」(『土と炎』)

 b.黒が炎となって赤全体の一部を覆って紋様ができる。試行錯誤でやっているうち、その紋様は、偶然でなく意図した紋様が作れるようになった。
 c.窯変で焼く作品の主流は壺。「窯変を生かす形はやはり壺かなあ、と思う」
3)これが、無名異窯変となった。
  1972年(昭和47)日本伝統工芸展初受賞。

  1980年(昭和55)日本伝統工芸展奨励賞受賞。
  翌年、米国ワシントン・国立スミソニアン博物館、英国国立ビクトリア・アンド・アルバート美術館での「日本現代陶芸展」招待出品。
ぬ橘尚枉椴上(ねりあげ)
1)練上
 a.(ウィキペディア):「アガートウェア(英語版)(瑪瑙焼き)は色の違う胎土を、個々の色が失われてしまわない程度に混合して作られる。複数の色彩の帯もしくは層が渾然一体となった石英鉱物である瑪瑙 (agate) から名付けられた。独特の縞模様や斑模様を持つ。「アガートウェア」はイギリスのものを指す言葉である。日本では「練上げ(手)」と呼ばれる。中国では唐代よりこの種の焼きものが作られておりmarbled ware[訳語疑問点]呼ばれる。アガートウェアを作る際に用いる胎土の選定には細心の注意が必要で、熱移動特性が釣り合っていなければならない」。
 歴史について、「「絞胎」「攪胎」と中国で呼ばれる練上は、宗時代〔?:「宋」なら解るが〕定窯や磁州窯系統の窯に見られ、次いで朝鮮の高麗朝の窯にその技法が伝わりました。」(「にっこう生活館」サイト)がある。
2)((『土と炎』)作り方:「いつもこんな風に説明しています。まず、色の違う粘土を重ね合わせて、押しつぶしたりして、巻き寿司あるいは金太郎あめ状のものをつくる。どこを切っても花紋なら、同じ花紋が出てくる棒状のものをつくる。それを切って切断面を見せるように、皿なら皿になるように並べ、形を整えていく・・・」「花紋を散りばめた皿をつくる場合は、あらかじめ別に焼いておいた皿の上に、切断した”金太郎あめ”を重層に組み、乾いたところで皿から外して焼く・:・」「変化わざが必要となるが、浜紋入りの壺をつくる場合も基本的な手法は同じ」「土は日ごろ工房で使っているものに島内、島外から取り寄せた土を混ぜ合わせてつくる。赤・白・黒の3色が基本となります」
 a.練上を手掛けたのは、昭和59年(1984)。昭和55年の日本伝統工芸展での窯変の壺が奨励賞となり、その間4年間「次は・・・」と試行錯誤の結果、辿り着いた。練上は、”異なる土を合わせてつくるもの”というぐらいしか知らなかった。(以上、『土と炎』)
 b.「無名異窯変で評価を受けるようになったが、ぼんやりしていると2〜3年はすぐ経ってしまう。何かをしなければならないと思っていた」「無名異の赤から白に至る20〜30種に及ぶ色の粘土を順次組み合わせた練上という技法を開発。経験を重ね、複雑な紋様を作り出すことが可能となった」(09年03月号「佐度の陶芸5」)。
 c.練上を展覧会に出したのは、昭和60年の第8回日本陶芸展。出品した鉢がグランプリ(最優秀賞)になった。先輩たちから、「変わったことをやったときは賞をもらうか、落選するか、だ」とひやかされた。その1年ほどの間に、何点かは形にしてた。

  「以降、日本陶芸協会賞受賞、国際交流基金「現代日本陶芸展」(世界各国巡回展)招待出品、米国バーク・コレクション「現代日本の陶芸展」出品、英国国立ビクトリア・アンド・アルバート美術館の「日本のスタジオクラフト・伝統と前衛」に招待出品、NHK衛星放送「やきもの探訪・伊藤赤水」収録・放送、NHK主催「やきもの探訪展」出品など国内外で認められる(前掲「佐度の陶芸5」)。
3)練上の進化。
 a.最初は、線をベースにしたデザインで 「ストライプ」「線紋」と呼んでいるもの。
 b次は花紋。「ストライプ」をやっているうち何かあきたらなくなった。
  ァ.テーマは、魚でも蝶でもよかったが、作品に合うのは何かということで花を選んだ。
  ィ.更に同じ花紋でも、奥行を感じさせる遠近感のある花紋。
 c.「いまやっているのは、3つ目のパターンということになります」

2.佐度ヶ島
  《解説》
(1)09年03月号「佐度の陶芸5」より

「。横娃娃糠1月 日本橋三越本店での「人間国宝 無名異 五代伊藤赤水 作陶展」で「佐渡ヶ島」を発表。

 2月に新潟大和で「新潟の生んだ人間国宝展」に新作を期待して見に行った。東京での作陶展で買い手が早速現れ 現物はないとのことで、写真パネルによる説明となった。

 ⊃刑酘圧 А崕蘓瓦傍△蠢悩爐芭篭さが感じられるような作品を制作したい。そこから無名異にこだわらない佐渡の岩石を使って今までにないような質感を出したい」

 作陶思想:「『佐渡にいてもできること』『佐渡でしかできないこと』を考えながらやってきた。それこそが、グローバルであると思っている。第三ステージは始ったばかりだが、現状否定で何かを求めている。仕事が、その何かを教えてくれる」」
(2)上記の補足:15年03月号「佐渡の画廊38」より
 「2)従来の平滑な器面の「無名異焼」からは離れ、器の表面は小振りな岩石を貼り付けた様な凸凹な 肌をしている。Т錙覆擦辰)で、釉(うわぐすり)は掛かっていない。
 〔Т錙半磁器、焼締めとも呼ばれる。陶器と磁器の中間的な性質を持つ焼き物で、1100〜1250℃で焼成。世界各地にあり普通は施釉や絵付けせず、地肌が賞玩。堅牢で耐水性があり、瓶、壺、水差、茶器、花器など日用品から装飾品まで幅広く作られる〕
 5)作品例
  「佐渡ヶ島角壺」「佐渡ヶ島香爐」「佐渡ヶ島水差」「佐渡ヶ島花入」 」

3.五代 伊藤赤水の作品

〔橘尚柩卻冱
DSC09703
1)壺は、口元を含め丸くて滑らかであるのが常識。
2)赤水さんの窯変の壺は、一般に窯変が滑らかで丸い壺の口(口縁)周辺を地に向けて表面積の概ね半分くらい占め、形はまちまちで、水平でない。当作品は、窯変部分が全体の約1/3で水平に近く均整がとれているが、表面は不定形な溝が不規則にあること、口には壊れたような部分が僅かにあるのが特徴。
3)それによって鑑賞に堪え得る芸術品として、円満さ・円滑さを各々表・現する球体に ピリッとした締りと言うか緊張と言うかアクセントを感じさせる。
¬橘尚柩卻儿痼
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1)香炉は、固体状の香料を加熱し、香を発散させる目的で用いる器で、仏具では灯明燭台)・花瓶(花立て)とともに三具足の一つ(香炉1、灯明一対、花立一対の場合五具足)。構造は、上面または側面に大きく開口した筒、椀、箱、皿状の容器で、ほとんどのものが脚を備え、なければ熱が直接床に伝わらないよう皿など下敷き板を置く。穴の空いた蓋(火屋)を備えたものも存在するが、香道で用いる聞香炉は、蓋を持たない。火気を使用する関係上、材質には不燃性、耐熱性が求められる。そのため、陶磁器や金属、石材などで作られていることが多い。
2)当作品は、陶磁器に属するに拘らず表面が、ザラザラしており、且つ脚が無く かと言って敷板もない。
3)たとえ鑑賞用香炉であるとしても、香炉の概念・常識から逸脱した画期的作品と言える。また、店に於置いてあったリーフには、「無名異窯変香爐」とあるが、岩石を砕いて固めて造形したようで「佐度ヶ島」の感じがする。
L橘尚枸上花紋皿
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1)練上は、異なる種類と色の土を交互に積み上げて文様を作り基本的にはロクロは使わず手びねりで成形するから時間がかかり(成形に1〜3 ヶ月)、しかも異なる土同士のものであると容易にくっつかず後で接着部分に傷や割れが生じること多く、作陶は難しいとされる。
2)作品は、大皿。花がほぼ一面に咲いている。
 a.色は、赤水さんの場合いわば真っ白から真っ赤までの20〜30段階の色の土を重ね合わせ、色が連続的に変化するグラデーション(gradation)を作り、自然な花びらを表現。
 b.花は大小2種、更にそれぞれ遠近があり、赤が主・白が主の違いがある。
 c.大は、特に各花弁に遠近があるのがわかる。小は、赤白どちらが主であるか色の違いだけでなく、パターンが2種ある。
3)この大皿の中に花紋がいくつあるか?数えればわかることであるが、大小合わせて100以上はある!
 これほどの数があって、種類があり、しかも濃淡・遠近感のある花紋の大皿を作るには、集中力と根気を要し、相当な難しさを感じさせる。
ぬ橘尚枸上花紋鉢
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DSC09683
1)原理的には、金太郎飴や花などを象った巻き寿司のように大・小、赤・白の花紋の入った数種類の筒状粘土をつくり、それえお一定規則に配列し意図した全体文様となるようしっかり練り合わせ、そしてそれを一定の厚さに下からスライス・輪切りにして数〜十数枚の板をつくり、個々の板は皿か鉢か壺か等々所定の器の型に被せて成形。型は、器の外用・内用2種ある。
2)画像は、上からだけでなく側面からも撮っている。全く同じ花柄が、上からも横からも〔下からも〕見えるということが練上技法の特徴。鉢の内と外の境にある口縁のある部分に花柄が内・外で連続しているのがわかる。
3)日本工芸会サイトに、次の記事があった。(「無名異練上花紋鉢」の検索で開ける)
 無名異練上花紋鉢 重要無形文化財保持者 伊藤赤水

 受賞: 高松宮記念賞
 出品: 平成9年 第44回日本伝統工芸展
 分野: 陶芸

 佐渡の無名異の赤い土と信楽の淡黄色の土と混ぜ合わせて、 赤から黄に至るさまざまな段階の色調をそなえた土をつくり、それらを練り込んで 多くの花紋を組んで合わせている。そのため文様は表から裏へとおっていないが 花紋の色調や構成が複雑になるとともに、装飾全体に深みが増して、豊かな魅力をうみ出している 練上にあらたな表現の世界をひらいた見事な作品である。
 〔この時の作品は、赤〜白でなく赤〜黄で、生地となる粘土の板に被せ、かなりの日数をかけ接着させたものだろう〕
ヌ橘尚枸上花紋壺
DSC09701
1)原理としては、輪切りにした花紋の一枚を皿や鉢でなく 壺に成形したもの。
2)画像からは、表(外)と裏(内)が繋がっているのがハッキリ見える。
3)作陶の困難度は、素人感覚では皿⇀鉢⇀壺の順に難しいと思うが、それぞれ他に無い固有の難しさがあるに相違ない。また一般には大きなものほど、作陶に時間がかかり欠陥部分が大きさに比例して増すから 難しいであろう。
μ橘尚枉椴上線紋壺
DSC09691
1)5月13日に新潟三越から、「新潟の技と美展」(5/ 17(水)〜22 (月))開催の案内ハガキが来た。
 a.裏面は以下の通り。上段の写真に、「伊藤赤水(重要無形文化財保持者) 無名異焼練上線紋壺 縦12.0×横20.0×高16.4cm」とある。形は相川で観たものと若干違うが、紋様は同じ。ハガキには「線紋」とあったので、それで作品名が確信できた。
DSC09720
 また「会期中は下記の日程で作家が会場におります」とあり、5月17日に伊藤栄傑氏の名があった。それで行くなら、その日と決めた。
 b.ハガキ表の下半分は、次のように記されていた。
   伝統工芸 新潟の技と美展
 5月17日(水)〜22日(月)
 新潟三越7階美術特別会場
  主催 日本工芸会東日本支部新潟研究会
  後援 新潟日報社 BSN新潟放送 NST
     TeNYテレビ新潟 UX新潟テレビ21
   〈ギャラリートークのご案内〉
  5.17(水)午後2時から「ニューヨーク個展を語る」伊藤赤水氏(重要無形文化財保持者)
  5.20(土)午後2時から 徳永健一氏(前新潟県立近代美術館館長)&中津川英子さん(アナウンサー)
   〈伝統工芸と華道の競演〔?:共演〕〉
 いけばな陽花とうつわとの麗しい調和をお楽しみください。
     同時開催「伝統工芸を支えた作家特集」
2)赤水氏の無名異「線紋」(ストライプ)は、ここずっと拝見してなかった。主流の赤・白・黒から成る花紋パターンでなく、青・白・橙色系統の線紋に斬新さを感じた。
3)「練上」となっているが、ここでの練上は器の外と内は連続していないようだ。
無名異焼練上花紋水差
DSC09694

(注)「佐渡が島」の画像は、この記事にはなく09年03月「佐度の陶芸5」、09年09月「佐度の陶芸6」、15年03月「佐渡の画廊38」に掲載。

4.伊藤栄傑の作品
(1)作家の略歴
 06年08月「佐度 焼きもの展」の記事に、下記のとおり掲載していた。これは、同年8月佐渡博物館で「佐渡現代作家シリーズ 第5回 無名異の島 佐渡のやきもの展」を見学に行ったことで、8月11日(金)付新潟日報佐渡版に「父を乗り越え新風吹き込め」「無名異展に20代2世作家3人初出品」の見出し関心を持ったことにある。
                     記

 /祐峭駟伊藤赤水の長男で、龍谷大学(哲学)卒業後、滋賀・石川の両県で陶芸に関係する実学を学んで3年前に帰島。

 日本伝統工芸展・伝統工芸新作展で入選し、連続入選の記録更新に挑戦。「佐渡の自然をモチーフに、立体的な作品を更に立体的に装飾した作品を作りたい」
 追記:過去のあるウェブ情報によれば 「伊藤英傑作陶展」が、2013年9月3日(火)〜9日(月)「新潟三越」6階陶芸サロンで開催された。
(2)作品
A.4/29伊藤赤水作品展示館にて
〔橘尚朶飮
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1)小さな佐渡(佐度特選)2011年10月09日 | 広告 サイトに

 「伊藤赤水先生の息子さん、伊藤栄傑(ひでたけ)初の個展開催のご案内です!!

  会期 | 平成23年10月26日(水曜日)〜11月1日(火曜日)
  会場 | 日本橋三越本店6階美術サロン  」
 とあり、伊藤栄傑作陶展の案内チラシに上と同じ丸皿が載っていた。

2)当館で見入った作品で店員さんがご子息さんの作品と教えてくれた。そうでなかったら 間違った解釈にムダな時間をかけたかもしれない。
3)なぜ見入ったか?以下は感覚、根拠・立証・解析はここは無用。ウィキペディア参考。
 a.金色と墨色と橙色の3色(実際の色はそんな単純なものでなく、また色は周囲の明るさ・光の向きによって変わるが、敢えてそうした)。
 b.大小の橙色の曲線が様々に交錯。それが金色・墨色の交互に擬似三角〜六角形〔最多は六角までか〕の島を形成。不規則であるように見えて、規則があるように見える幾何学文様(直線・曲線・円・点の組み合わせ)を形成。
 c.文様は、日本的(江戸時代以降)でも中国的(宋代以降)でもないがどこか東洋的な雰囲気で、正倉院の御物にありそうな文様。メソポタミア・エジプトへと連想が進み、時代的にそれより新しいと思われるが距離的に日本からは更に遠いギリシャに関係すると見た。幾何学の発展はギリシャと思った。
  《ギリシャ雷紋(らいもん)》
  ァ.「小アジアを曲流するマイアンドロス川(メアンダー川)の名に由来し、メアンダー、メアンドロス模様、・・・ともいう」、新石器時代にバルカン地方のドナウ川流域のトリポリエ文化・ディミニ文化において土器の装飾文様として始まる。やがてアッペンニーノ山脈文化に引き継がれ、ギリシアの幾何学紋様として開花」「ギリシアでは建築装飾、ローマでは絵画やモザイクと、建築・工芸において主に用いられた。タピスリーや陶器、家具にも見られる」
               ギリシャ雷紋の例
   ギリシャ雷紋
  (画像:ロードス島の街路にあるギリシア雷文の敷石(ウィキペディア))
  ィ.「ギリシャ雷紋」は、直線文様。曲線になっているように見えるが直線〔「己」状の連続文様あり〕。曲線・円型が意外にない。日本では馴染みの中華料理の丼鉢や大皿にある文様と酷似。
 d.「東洋的な雰囲気」とはどこから来ているか調べると、「古代オリエント」がピタリ感。
  ァ.「オリエント」の語源はラテン語で「日が昇る方角」、古代ローマから見て東方にあるアナトリア、シリア古代エジプト、古代メソポタミア、ペルシアなどの世界。
  ィ.「幾何学の起源は、古代オリエント、現代のエジプトにおけるナイル川の定期的な氾濫をめぐる土地測量の手法にまで遡ることができる。ナイル川氾濫後、復興のため土地測量が必要になったことが古代ギリシャの歴史家ヘロドトスによって記録されており、原始的な幾何学は必要上の問題から誕生したといえる」「とくに古代エジプトやバビロニアでは5000年も昔には既に現代ではピタゴラスの定理として知られている定理が経験則として知られていたことが判明している」〔ピタゴラス(紀元前582〜同496年):古代ギリシアの数学者、哲学者〕
  ゥ.
古代オリエント(Ancient Orient)は、「現在の中東地域に興った古代文明である。これには、古代エジプト、古代メソポタミア(現在のイラクやシリア)、古代ペルシア(現在のイランやアフガニスタン)などが含まれ、時期としてはシュメールが勃興した紀元前4千年紀から、アレクサンドロス3世(大王)が東方遠征を行った紀元前4世紀頃まで」
 e.円型文様
  ァ.アラベスクは、「モスクの壁面装飾に通常見られるイスラム美術の一様式で、幾何学的文様(しばしば植物や動物の形をもととする)を反復して作られている。幾何学的文様の選択と整形・配列の方法は、人物を描くことを禁じるスンニ派のイスラム的世界観に基づいている(シーア派ではムハンマドを除いて描くことは認められている)」。〔見た限りアラベスクは規則性のある厳格で綺麗な文様で、一つの円が他と交錯しない〕

 ィ.「〔幾何学文様・魚文など施した美しい彩陶土器が現れた〕中国の新石器時代は、紀元前5000年から紀元前1500年を中心に各地域で特色ある諸文化を形成し、その遺跡は中国全土に及んだ。特に華北の仰韶(ぎょうしょう)文化は美しい彩色土器を生みだし、それに続く龍山文化では、黒陶を特徴とする土器を生みだした。彩陶は西アジアの系統をくむものと考えられ、中国の美術交流で非常に重要な東西の関係を表す最も早い例である。これらの文様は多種多様で直線・曲線・円・点などを組み合わせた幾何学模様の他に、人面文や魚文が描かれることもある」
      中国仰韶文化の幾何学文様器物  
器物3器物1
      (画像:ウィキペディア「中国文様史」)  
 ゥ.唐草模様は、「葉や茎、または蔓植物が伸びたり絡んだりした形を図案化した植物文様の、日本での呼称」

複数の曲線や渦巻き模様を組み合わせることで、つるが絡み合う様子を表す。写実的なものもあるが、図形的に描いたものでは、左右対称の渦巻き模様などに簡略されたり、多種多様の唐草模様が存在する。

古代ギリシアの神殿などの遺跡でアカイア式円柱などに見られる草の文様が唐草文様の原型であり、メソポタミアやエジプトから各地に伝播したと考えられている。日本にはシルクロード経由で伝わったとされている」
【ウェブでいろいろ文様見たが、当「丸皿」そっくりなものは現時点見当たらない。直線→曲線は進化でその完成が円。中心の同じ同心円は規則正しい整然とした文様、異心円でも直径・方位が同じなら一定の文様が形成するが、当作品はそれらとは異なるユニークな世界を構築】

 エ、「和柄、和模様、和のデザイン(丸・円・曲線」(「夏貸文庫」HP)
  丸・円:七宝、七宝繋ぎ、星七宝、青海波、一つ巴、二つ巴、三つ巴。
  曲線 :観世水、立涌、網目、分銅繋ぎ、徳利網代、露芝、了霞。
4)古い歴史がありそうな、あるいはどこかで見たような文様であるが、つきつめれば誰も描いたことのない文様かもしれない。
¬橘尚枉椴上線紋鉢
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 L橘尚枅般耡
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1)この壺は、文様(デザイン)・形状(フォーム・フォルム)が今風(モダン)かと思った。
2)表面の揺ら揺らした細い帯(中に〇印が入っている)と細い赤の線の文様(「波紋」と称すようだ)は、後日ウェブで異なる形状の作品に見られた。新潟三越の工芸展にもあった(後掲)。

B.5/17新潟三越「伝統工芸 新潟の技と美展」(新潟三越7階 美術特別会場)にて
 氏と初めて同会場で会った。挨拶し写真撮影の許可をいただいた。特定コーナーに氏の作品が数点あるのをその前に見ていて知っていたが、他にもありますとのことで生け花・花入コーナーにある作品場所を案内してもらった。
_崙A
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花入B
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L橘尚枩紋水差
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ぬ橘尚枅般羚痼
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ヌ橘尚枅般耡
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μ橘尚桿沁悄未呂覆澄Δ罎Α揚
 〔縹(はなだ)=「明るい薄青色」
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(3)上掲の作品に見る特徴点
〇疇伴のものであろう波紋が、いろいろな形状の壺、香爐に使:われている。また、垂直の線紋・帯状紋が、花入・水差に見るように一筋ごと色が微妙に違うなど個性的である。
壺や鉢(花入れもその1種)口やは胴などに湾曲・歪み等の立体変化がある。それも個性や主観を強調するものでなく、一定の規則性がありそうな自然表現。さりげない手作り感のある曲線美。相当でないと出来ない「わざ(技・業)」。
e沁悄覆呂覆世罎Α。最初花入Aを観たとき青磁と思ったが、縹釉というものが入ったものと知った。もっと知りたく「用語」検索するとトップページ2番目に「赤水窯 伊藤栄傑」の名があり、無名異縹釉の長・コーヒーカップ・ぐい呑みなど庶民向け作品が通販会社から紹介されていた。
 五代赤水が無名異の赤の追究から始まって独自の境地を切り開いたのにに対し当たっているかどうか知らぬが氏は薄青の追究。

5.まとめ
‥擺鏈遒蠅ら始まる陶芸は、少なくとも2万年の歴史がある。
  (資料:ウィキペディア)
1)現時点での最古の土器は、
 「北京大学、米国などの研究チームが世界最古(約2万年前)の土器片を発見したと発表。場所は中国・江西省の洞窟で、調理に使用されていたと見ている」。日本では、「北海道の大正遺跡群の調査によって土器が最初に料理に使われたのは1万4000年前であるとされている」
 【「北海道・大正遺跡(帯広市大正町):1万4000年前のものと推定される土器が発見。「口縁部に隆帯が巡らされ、その下に爪形文や刺突文、へら状の押引き文などの文様が付された尖がり底の特異な土器片が数百点出土」「土器に付着した焦げかすを分析したところ、海産物成分が見つかった。炭素の年代測定値では、1万4000〜1万4500年前のもので、煮炊きに使った土器では世界最古のものであることが分かった。海産物成分は、川をさかのぼったサケ・マス類の可能性が高いと言われている」】
2)縄文土器

 a.北海道から沖縄諸島を含む日本列島各地で縄文時代(年代は流動的ながら、約1万6000年前〜約2300年前とされる)に作られた土器。
 【縄文時代に作られた土器は、縄文〔縄目文様〕とは限らず無文もあり多様な文があり、縄文でないものは縄文土器でないとは言えない。この辺が日本の考古学者・歴史学者が今も曖昧にしているところで、縄文土器の次は弥生土器の時代というのは決まっているが、時代区分の元になった弥生土器と縄文土器との違いは明確でなく、弥生土器というものが全国に広く普及していたという立証が出来ていない(次には古墳時代が来ることになっている)。これは縄文後期とか弥生前期などの推定も大事だが、それだけでは学術的価値はなく 放射性炭素年代測定による推定年代の割り出しによってはじめて一応の科学的根拠にはなる。但し、対象は動植物の遺骸があるに限られ無機物及び金属のみでは測定出来ないようだ】

 b.使用目的
 多様な大きさと器種・装飾的な文様などさまざまなものが存在し、用途として食料の調理・加工・盛り付け、祭祀目的が考えられている。
 【食料の調理以前の問題として岩塩が殆ど無い日本では、海水を煮詰めて塩を取り出す製塩土器は海岸地域においては必須。土器の断片は、各種の重石、漁労では漁網や釣り糸の錘(おもり〕に用いられたとされる。
 なお、製塩土器に関連して11年6月20日号「事業・産業43:製塩業(4)製塩業史(縄文
〜平安時代)」に次のように記述。
 a.「世界最古の土器は、日本の縄文土器という見解あり」として、「北海道から九州の日本列島全域で出土され、年代が古く、数が多いことが、他の国にはない特徴」「外国の研究者が、『なぜ日本人は、世界最古の土器を自慢しないのか』と不思議がる話もあるという。1970年大阪万博のシンボル「太陽の塔」を制作した芸術家岡本太郎は、『日本が世界で通用するのは、縄文土器だけだ』と言ったという。
 b.各国最古の土器
 ァ.「青森県大平山元遺跡の縄文土器はBC14,000。岩手県新大町遺跡では、草創期の爪形文土器,早期の押型文・沈線文土器群が大量に出土」

 ィ.「ロシア・シベリア地域アムール川流域のグロマトーハ遺跡からBC13,000、中国・湖南省でBC16,000の土器が出土の報告あり(最古級の土器が出土したロシアの場合、土器は防寒や調理に使う「魚油」をとるために魚を土器で煮ていた可能性の指摘がある)」

 ゥ.「南アジア・西アジア・アフリカの最古の土器はBC7,000、ヨーロッパでBC6,500年」
 ェ.「ヨーロッパ北東部の櫛目文土器文化(くしめもんどきぶんか):現在のヨーロッパロシア北部とフィンランドを中心とする地域に広まった文化で4,200頃〜2,000BC頃まで続いた。櫛の歯で擦ったような文様を特徴とするためこの名がある。集落は海岸・湖岸に集中し、生業は漁労・狩猟・採集。土器は丸底または凸底の壷形土器。墓は集落近くに作られ上に赤土がかけられた。特徴的な製品として土偶や、熊など動物の頭の石像がある」
  ついでに、芸術家岡本太郎の縄文土器への逸話を紹介する。(09年2月5日号「歴史スポット45:佐渡の縄文遺跡」より)
 「画家・陶芸家の岡本太郎(1911〜1996)が衝撃を受けたのは、偶然博物館で見た火焔型縄文土器。

 a.40歳のとき、東京国立博物館に展示されていた火焔土器をみて、その芸術性の高さに衝撃をうけ、翌年「縄文土器論」を発表している。

 「激しく追いかぶさり重なり合って、隆起し、下降し、旋回する隆線文、これでもかこれでもかと執拗に迫る緊張感、しかも純粋に透った神経の鋭さ、常々芸術の本質として超自然的激越を主張する私でさえ、思わず叫びたくなる凄みがある」

 b.その後、25年以上経った「画文集・挑む」に当時の感動を、著わしている。

 「偶然、上野の博物館に行って、考古学の資料だけを展示してある一隅に何ともいえない不思議なものがあった。ものすごい、こちらに向かってくるような強烈な表現だった。何だろう。

 ・・・縄文時代。それは紀元前何世紀というような先史時代の土器である。驚いた。そんな日本があったのか。いや、これこそ日本なんだ。身体中に血が熱くわきたち、燃え上がる。すると向こうも燃え上がっている。異様なぶつかりあい。これだ!まさに私にとって日本発見であると同時に、自己発見でもあったのだ」
  】
3)特徴
 a.縄目文様は撚糸(よりいと)を施文原体とし、これを土器表面に回転させてつけたもので、多様な模様が見られる。しかし実際縄文土器の形には縄文を使わない施文法や装飾技法も多く土器型式によって様々。

 〈縄文土器の形〉
   粗製深鉢形

   精製深鉢形
   浅鉢形
   有孔鍔付土器
   注口土器

   火焔土器
 〈縄文土器の文様の種類〉
   縄文土器

   無文土器
    〔例:大平山元
軌篝廖弊朕晃外ヶ浜町))にある縄文時代草創期の遺跡。「石斧や石核、石鏃などの石器も発掘されている。ほとんどの石器の材料は地元の川から採れる頁岩からできているが、中には青森県鰺ヶ沢から運ばれてきた黒曜石からできている石器もある。土器はすべて小破片で形の分かるものはないが、文様はなく平らで角張った底の土器である。土器の内側には炭化物が付着しており、食料の煮炊きに使ったものであることが分かる。 これは世界でもっとも古い煮炊きの後と言えるだろう」〕」

   押型文土器

   条痕文土器
   圧痕文
   刺突文土器
   沈線文土器
   磨消縄文土器

   隆線文土器
    (「口縁部や胴の上部に粘土帯をめぐらせる手法で、北海道や南西諸島を除く縄文時代草創期初頭の一群の土器をいう」「器形は丸底や平底の屈曲のない深鉢形をしており、いずれも小型である。この系統の土器群には、豆粒状の粘土粒を貼り付けたもの、粘土紐を口縁部に直線的や曲線的に巡らせたもの、ヘラ状の道具を用い横方向に引くことによって同じような効果を出すものなどがある」「放射性炭素年代測定法によれば、〔長崎県〕北松浦郡吉井町福井洞穴の隆起線文土器はBP1万2700±500年、愛媛県上黒岩陰遺跡の細隆起線文土器はBP1万2165±600年」)

 b.縄目文様以外の施文法として爪形文、ササの茎・動物の管骨などを施文原体とする竹管文、貝殻を施文原体とする貝殻条痕文などがある。

 ァ.縄文土器は表面を凹ませたり粘土を付加することが基本で彩色による文様は少ない。しかし、文様が変化に富み多く用いられ、装飾は時には容器としての実用性からかけ離れるほどに発達した。
 ィ.この特徴は、日本周辺の土器にはみられない。 【参考:宇宙人を思わせる遮光器土偶で有名な亀ヶ岡石器時代遺跡(青森県つがる市にある縄文時代晩期の集落遺跡)から出土した土器の精緻な文様は、年代ともに三叉文⇀羊歯状文⇀雲形文⇀工字文⇀変形工字文へ変化したとされる。また、漆による赤彩などもあり精製土器として「亀ヶ岡式土器」の名がある】
 c.縄文土器の形は深鉢が基本で量的にも多い。 
 ァ.特に前半の時期は深鉢以外の器形は希。
 ィ.中頃から淺鉢のような器形が現れ、続いて注口付き、香炉形、高杯、壺形、皿形など様々な形が現れた。とくに東北地方晩期は器形の変化が多様であった。

 ゥ.窯を使わない平らな地面あるいは凹地の中で、やや低温(600℃〜800℃)の酸化焼成のため、赤褐色系で、比較的軟質である。胎土は粗く、やや厚手で大型のものが多いが、用途や時期によっては薄手、小形品、精巧品も作られている。
 【縄文土器の形状等について、ウィキペディアでは肝心要「定義づけられるほど簡単でない」が見逃されているから例で補足する(「亀ヶ岡土器 画像」サイトによる)。

   亀ヶ岡土器(縄文晩期)の形状等
    高杯
    皿型土器
    台付き鉢
    台付き深鉢
    注ぎ口土器
    漆塗り彩文土器
    凹凸文様からなる壺
    胴から高台裏まで凹凸文様のある壺
    人面文様のある壺
    炉型土器
    透かしの文様からなる鉢
    胴体に3層からなる異なる文様の壺
    2色の同じ文様からなる徳利と盃の酒器
    注ぎ口と取っ手のあるヤカン土器
    陶磁器のように艶のある壺
  重要なことは、縄文時代の貴重な土器というより 芸術性・工芸性において現代の陶芸と遜色なく、現代における陶芸の あればの話だが行き詰まり・課題を解き 未来を切り拓くヒントとなる。】
   《参考》(ウィキペディア)
  1.縄文土器(縄文時代)の年
区分
  草創期:約16,000年前〜(ただし、縄文文化的な型式の変遷が定着するのは草創期後半から)
  (「大平山元I遺跡(青森県外ヶ浜町)」「土器はすべて小破片で形の分かるものはないが、文様はなく平らで角張った底の土器である。土器の内側には炭化物が付着しており、食料の煮炊きに使ったものであることが分かる。 これは世界でもっとも古い煮炊きの後と言えるだろう」)
  
早期:約11,000年前〜  
  前期:約7,200年前〜

  中期:約5,500年前〜
  後期:約4,700年前〜 
  晩期:約3,400年前〜(ただし、晩期から弥生時代への移行の様相は地域によって相当に異なる)

 上記の年代は放射性炭素年代測定を較正した暦年代観に従っているが、いずれにせよ精度の高い推定は難しく、現在でも研究途上である。
 
「縄文土器の出現はどうやら氷期が終了する前の事であり、世界的にみて非常に古いものだが、大陸側の極東地域には同時期の土器文化の存在が知られ、東アジア一帯で世界最古期の土器が同時並行的に出現したとみられており、相互の関係が注目される。
 
現在までに知られている日本列島最古の土器は青森県大平山元I遺跡や茨城県後野遺跡・神奈川県寺尾遺跡などから出土した文様のない無文土器であり、大平山元I遺跡から発見された土器の年代測定の算定は16,500年前(暦年較正年代法による)とされている。また、愛媛県久万高原町美川の上黒岩岩陰遺跡の最下層の第9層から細隆起線文土器、第6層から薄手の無文土器、第4層から押型文土器と厚手の無文土器が出土している。その中でも細隆起線文土器は約1万2000年前のもので、日本最古級の土器の一つである。
 
日本列島最初の土器は次の4段階をたどると考えられている。まず最初の第1段階は無文土器]を特徴とし、第2段階は豆粒文土器と隆起線文土器群であり、第3段階は爪形文土器群であり、第4段階は多縄文土器群である。
 ちなみに、弥生時代になってからも、東日本では縄文土器の伝統を反映した
弥生土器、北海道では縄文土器の直系と言える続縄文土器、沖縄諸島では貝塚時代前半の系統を引く土器が作られた」
 
2.縄文土器の画像(例)
縄文土器1         縄文土器2
円筒形土器 縄文前期          把手付甕形土器 縄文中期 
青森県八戸市是川一王寺貝塚出土  長野県伊那市宮ノ前出土 
東京国立博物館蔵            東京国立博物館蔵

縄文土器3        火焔土器
深鉢形土器 縄文中期           深鉢形土器(火焔型土器)縄文中期  
東京都あきる野市二宮大塚出土      新潟県長岡市馬高出土
東京国立博物館蔵              東京国立博物館蔵

縄文土器4                 縄文土器5
人形装飾付壺形土器 縄文後期        注口土器 縄文晩期 
青森県弘前市十腰内出土        青森県つがる市亀ヶ岡遺跡出土  
東京国立博物館蔵            ギメ〔東洋〕美術館〔フランス・パリ〕蔵

■暇年の歴史のある陶芸において 煙を偶然ではなく意図する美(術)にまで高めたのは五代伊藤赤水。人類陶芸史上 大発見と言って過言でない。
  以上  17.06.01





  


佐度の画廊46:人間国宝 蝋型鋳造 佐々木象堂

 こんにちは!自在業の櫻井です。
 4月29日(土・祝)。新潟発6時のフェリーで佐渡へ帰った。佐渡の画廊シリーズの一環として真野の佐渡歴史伝説館内の佐々木象堂(ささきしょうどう)記念館にある鋳金作品を写真に収めるためである。
勿論、事前に撮影・ブログ掲載の可否を確認の上でのこと、不可なら無料でも行かない。館内撮影はすべて自由との即答があり即決。これで「佐渡の画廊」は連続第4弾となり、シリーズとしての体裁はできた。 
 当日はいつも通り午前3時頃に起き机に向かったが、いつもだと朝6時の船に乗るのに5時半に家を出れば5分足らずで大通りに出てタクシーが容易に拾えるのだが(佐渡汽船へは早朝6〜7分)、今回はGWのスタート日で そうはいかないという予感がし、4時くらいになって珍しくタクシー会社に5時半に来てもらうつもりで電話。すると今すぐならよいが、5時以降は予約が入って難しいとのこと。ならばということで他の2社に電話するも同じ。ならば、大通り出れば個人タクシーも通っており、10分も歩けば古町にはタクシーが待機、そこまで行かなくても途中で拾えるとの読みはあったが億劫。5時頃になって最初にかけたタクシー会社に電話、居場所と行き先を述べると伺えるということになった。
 なぜ、佐々木象堂か! これまで佐渡出身の人間国宝(工芸技術部門)について無名異焼の伊藤赤水、青磁の三浦小平二について取り上げた(赤水は06年8月26日号「佐度の窯元(2):相川 廚鮖呂瓩箸靴涜真堯⊂平二は06年8月27日号「佐度の窯元(3):相川◆廖砲、佐々木象堂については触れておらず、画廊シリーズの今がチャンスと見た。なお、佐渡蝋型鋳金(ろうがた・ちゅうきん)や創始者の本間琢斎は、記事にしている。
  10年3月13日号「佐渡の画廊17:佐渡蝋型鋳金」
  15年4月21日号「佐渡の画廊41:佐渡蝋型鋳金 本間琢斎歴代作品」
〔参考:「人間国宝」は、文化財保護法に基づき文部科学大臣が指定した重要無形文化財の保持者として各個認定された人物を指す通称。同法において無形文化財とは、演劇、音楽、工芸技術その他の無形の文化的所産で我が国にとつて歴史上又は芸術上価値の高いものをいう。なお、2016年9月までに認定された工芸技術部門(陶芸、染織、漆芸、金工、金工(刀剣)、人形、木竹工、諸工芸、和紙の重要無形文化財保持者(各個認定)は、死亡により認定解除された者を含め延べ175名(実人数は172名)。1960年保持者に認定された佐々木象堂は、2017年現時点金工蝋型鋳造分野で唯一
 今回は、それらを踏まえ より内容充実を図っていく。

1.蝋型鋳金

]昂臣魘發箸
1)鋳造方法はその技法により次のように分類されている。
 1.蝋型 2.込め型 3.挽き型 4.ガス型 5.石こうロストワックス法 6.遠心鋳造7.金型鋳造
2)一品一作の蝋型鋳金は蝋そのものを加工し、出来上がった蝋製品の全体を型材でくるみ、外部から熱を加えて中の蝋製品を溶かし気化させ、蝋製品と同一の空洞化させた型の中に、溶融化させた金属を流し込み、型と金属が冷却したところで型を壊し、中に出来た金属製品を取り出します。
3)一品一作ですので、蝋型鋳金の製品は同じものがありません。蝋型の原型は一回限りの使用ですので、デザイナーの個性が遺憾なく発揮されるとともに、細部にわたり忠実に作品を再現してくれます。
4)基本的には蜜蝋〔みつろう〕と松脂〔まつやに〕を煮合わせたもので造形して、原型にバインダー液とアルミナの粉末を混ぜた液を作り、砂を幾層にも吹き付ける。これを乾燥して焼いて型を作る。熱で蝋が溶けて出来た隙間に銅合金を流し込むと、造形した原型そのままの作品が出来る。
5)この方法は香炉、置物、花瓶、文鎮などによく用いられ、国指定の伝統的手法となっているところもある。蜜蝋と松脂の混合比率は使用目的、使用場所などによっても異なりますが、大体4:6〜5:5〜6:4の割合です。
6)この鋳型法は、蝋の味が生きた鋳肌が特長で、原型の繊細な部分までそのままに再現され、着色はおはぐろ色、煮色、青銅色など伝統的な方法で行われています。伝統的な着色法としては、酒石酸、硝酸、硫酸などの酸類と食塩、塩化アンモニウムなどの混合液に浸けることにより行われます。
∀昂臣魘發領鮖

 古代オリエントにおいて、紀元前六千年頃から銅器文化が起こり、紀元前四〜五千年にはエジプトにも銅器文化が起こった。
 中国では紀元前一千六百年〜一千年頃の殷・商の時代に青銅器文化が栄えている。日本では紀元二〜三百年のころに銅剣、銅矛、銅鐸、銅鏡などの制作に使われたが、石製の鋳型を用いる方法で蝋型鋳金とは異なっていた。
 飛鳥時代に入り、百済から仏教が渡来するようになってから、銅型鋳型が多く作られるようになり、更に奈良時代に入ると佛教関係の鋳造が多くなってきた。それに伴い、蝋型鋳金の技法も開始されるようになった。この時代の代表的な蝋型としては、鶴林寺の聖観音(兵庫)、薬師寺の薬師三尊(奈良)などがあげられる。

 (資料:以上´△蓮▲魯螢涓柔グループHP「パインケミカル‐06.蝋型鋳金と松脂(ロジン)」サイトによる)
佐渡蝋型鋳金
 (資料:佐渡市HP「佐渡蝋型鋳金」(参考文献:佐和田町の文化財ー平成15年度改訂版ー(佐和田町教育委員会))
 「佐渡の蝋型鋳金技術は、初代本間琢斎(ほんまたくさい)が弘化4年(1847)に佐渡奉行中川飛騨守より委嘱されて、沢根の鶴子で大砲を鋳造し、砲身の模様を蝋型で鋳造したことが始まりと言われ、以来沢根を中心にその製法が広まりました。中には人間国宝となった佐々木象堂氏などが活躍しました。
 蝋型鋳金は、蜜蝋(みつろう)を主体とする練り合わせ蝋で作品の原型を作り、それを土で塗り覆います。土が乾いたら湯口を下にして窯の中で蝋を溶かして土より流出させて、空洞になったところへ溶かした銅合金(銅・鉛・錫・亜鉛)を注入します。この後仕上げ着色の工程を経て完成する一品製作の美術品です。着色工程では、使用する薬品により、古銅色、青銅色など数種類の色を引き出しますが、なかでも代表的なものに斑紫銅(はんしどう)色という特別な技法があり、この技法を編み出した初代の本間琢斎より代々引き継がれています。
 昭和53年(1978)、佐渡の蝋型鋳金技術として新潟県の無形文化財に指定されました」

2.佐々木象堂
(資料:『佐渡の百年』「人間国宝・佐々木小象堂」(山本修之助箸 1972年刊)。渡辺和弘編「佐度人名録」サイトにあり)
1)出生
 象堂は、本名は文蔵として1882年(明治15)河原田に生まれた。
 父は垣根や庭園の手入れなどした日雇い、母も雇われ人で仕立て物や蒲団づくりをしていた。両親とも器用な人であったといわれる。
2)暮らし・奉公と学業
 a.家は貧しく河原田尋常小学校4年の時同町の中山商店へ奉公に出た。
 b.たいていの教科書は友だちから借り書き写した”私製教科書”を使っていた。「2〜3冊がいまも佐々木家に保存されている」。その一冊「万国地理」は和紙40枚ほどで全部毛筆で描いている。ことにさし得の地図は正確をきわめ色彩までつけている。また、表紙に「幾何画・佐々木文蔵」という横とじのものが残っている。これは、エンピツで描いた用器画(コンパス、定規などを使って描いた幾何学的図形)である。先生の点数も書きつけてあるが、みんな90点とか95点。
 c.その頃各地に月市がたち、奉公先では必ず出張販売していた。自動車・自転車のない時代、朝早く起きて店の品物を山のように積んだ荷車を引いて往復10〜16劼寮个海軻擦鬚△襪い拭
 d.中山商店ではひそかな楽しみがあった。土蔵には古書画や美術品が多数収蔵されていた。「文蔵が見えない」と店の者が捜す時は、いつも土蔵の中にいて、小窓からさし込む薄い光の中で書画や美術品見とれ、時にはこっそりその画を模写することさえあったという。
3)画家を志望し挫折、そして鋳金への道
 a.美しい絵を画く人にないたいと思うようになった文蔵は、その頃四条派の画家として有名な東京の野村文挙〔のむら ぶんきょ〕へ長文の手紙を出したが、何の返事も来なかった。だが、中山家の主人の実兄のあたる宮田藍堂〔みやた らんどう〕の紹介状もらうことができ、主人や両親の許しを得て上京。1900年(明治33)文蔵18歳の時。一ヶ月経ったとき師匠に呼ばれ、「お前の近視はとても度が強く将来画家として立っていくことは困難。せっかく佐渡からはるばる来たのであるが、このさい画家志望は捨てた方がようだろう」と言われ、佐渡に帰りまた中村家の番頭として働くことになった。
 b.主人は藍堂に相談、絵を画くことも鋳物を造ることも同じ芸術の道、しばらく自分のところへよこしてみてはということになった。主人の勧めで心を決め、1901年五十里の宮田藍堂の元へ入門することになった。文蔵は、最初「象雲」と名乗ったが、後で「象堂」に改号(1913年の作品は、まだ「象雲」)。
 【参考:初代 宮田藍堂(1856〜1919)
  明治-大正時代の鋳金家。本間琢斎に蝋型鋳金の技術を学び、4年間の修行を経て上京。諸氏を訪れていた際に東京美術学校〔東京藝術大学の前身〕に招かれて、岡崎雪声の助手として楠公銅像製作に寄与。
 〔参考:「岡崎雪声(1854〜1921)」(ウィキペディア)

  1889年パリ万国博覧会に出品した作品が2等を射止め並行して各地の古仏像の調査研究を鋳造の面から研究し名を高めたことで岡倉覚三(天心)の知己を得て1890年東京美術学校鋳金科の教師となる。1892年作の「執金剛神」像がシカゴ万国博覧会出品に選ばれた」皇居外苑の楠木正成像の制作の際はその巨大な像を鋳造するための技術を習得するために単身自費で渡米し、日本で初めての分解鋳造法による鋳造を行ったことでも知られる〕
 明治35年(1902)帰島して開業。弟子に人間国宝 佐々木象堂がいる。
 二代藍堂は初代の三男として生まれ、実と称した。「父の高弟佐々木象堂を訪れ、2年の修行を積んだ後帰郷して開業しました。帝展、文展、日展を通じ入選作が多数あります。勲五等瑞宝章、ソ連文化賞、第四銀行賞(功労賞)などを受賞」「三代藍堂は二代藍堂の長男として生まれ、宏平と称しました。東京美術学校(現在の東京芸術大学)工芸科鋳金部に入学し、卒業後東京で開業しましたが、手腕を認められて母校で教鞭をとり、子弟の育成に励みながら、新感覚で蝋型鋳金や斑紫銅色の技術を活かして、他の金属(金、白銅、錫、アルミニウム、ステンレス)を素材とした新しい分野の開発に取り組んできました。父の死後平成6年(1994)11月3日に三代を襲名しました」「平成19年(2007)に亡くなりますが、そのあとを息子の昌平(長男)、洋平(次男)が後を継いでいます」(前掲『佐和田町の文化財』)。
 初代の作品は)島内には聖観音像等が残されているが、金井の明治紀念堂の敷地内にある銅柱は初代藍堂作。07年6月14日号「佐度の風景15:明治紀念堂」】

 ァ.河原田の自宅から藍堂の家まで3辧△匹鵑覆謀卦いよくても雨傘を片手に持ち、高下駄をはいているというのが沿道の人びとの話題になった。
 高下駄は歯を取り換えれば長く使えるという理由のほか悪い道には晴雨にかかわらず便利という点、傘は「雨はいつ降ってくるかわからない」というのが答え。
 ィ.象堂は酒もタバコも口にせず、ただ一途に蝋型鋳金の道に精進。読書家で仕事の手順で少しでも時間があればかたわらの書物を開き読みふけった。論語、唐詩選、万葉集、良寛歌集、樋口一葉の小説など。そして、うつも辞書を傍に置き、少しでもわからないことあれば、すぐに辞書を引いた。
4)鋳金作家人生
 a.1907年河原田の自宅に鋳金工房を建て、独立。
 b.1913年再び上京。しばらく鋳金家大島如雲の仕事を手伝い、生活費をかせいだ。同年10月日本美術協会展で銅牌、宮内省買い上げ。
 〔参考:「大島如雲」(デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説)

  1858−1940 明治-昭和時代前期の鋳金家。
 父大島高次郎に鋳造技法をまなび,精巧な蝋型鋳造を得意とした。明治14年の内国勧業博覧会に「竜神」を出品。33年パリ万国博覧会に出品した「稲穂群雀」で金賞受賞。〔明治〕23年から昭和7年まで東京美術学校(現東京芸大)でおしえた。江戸出身。本名は勝次郎。別号に一乗軒。代表作に「濡獅子図額」など。 〕
 c.翌年、同郷のタケ(真野合沢の羽生家の三女で長岡女子師範学校を出て真野小学校の先生、明治40年河原田のキリスト教会で互いに知り合った)と東京千駄ヶ谷のキリスト教会で結婚式を挙げた。新しい世帯を持ったが貧乏は相変わらず。タケは朝早く割引電車で深川の小学校に勤め、帰ると家事全部を切りまわし、作品の売り捌きに駆け回った。生後70日で死亡した長男の葬式費用のため作品を売りに行って断られた夜もあったという。
 d.その後作品が次々展覧会に入選し受賞するようになり、地位も上がった。
  1927年帝展出品の「鋳銀孔雀香炉」が特選、宮内省買い上げ。
  1929年同「金銅鳳凰置物」が特選。
  1931年第12回帝展審査委員を委嘱、6回続く。
  1934年新潟県の工芸作家の研究団体「越佐工芸美術会」を創立
  1935年53歳のとき、「帝国美術院参与という美術界最高の地位についた。 
  1938年新潟市に「新潟陶園」を創設、「越路焼」名づけた。
  1944年象堂夫妻は、夫人の郷里真野町合沢へ疎開。
  1947年新町に「真野陶苑」を興し「真野山焼」を始め陶芸の指導に当たる。この間も鋳造活動は続け、「日展」に依嘱出品はしていた。
  1956年「鋳銅瑞鹿置物」は仮宮殿用として宮内庁買い上げ。
  1958年第5回日本伝統工芸展出品「鋳銅瑞鳥置物」は、文化財保護委員会委員会長賞受賞
  1959年日展出品「鋳銅菜花置物」は、高松宮日本工芸会総裁賞受賞
  1960年人間国宝(重要無形文化財保持者)認定
  1961年1月26日79歳の生涯を閉じる。
   1月29日真野町では名誉町民第一号として町葬。2月22日勲四等瑞宝章が授与。
 
3.象堂の鋳金作品
|鯑次‐儺(しょうぎょ) 1960年作
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1)「粧魚(しょうぎょ)」をグーグルで検索しても見当たらず、「粧魚(しょうぎょ) 意味」とすると「しょうぎょ【椒魚】 サンショウウオの別名」や「しょうぎょ【松魚】 カツオの異名」と出て来た。だが、どれにも該当しない感じだ。
2)1960年作といえば亡くなる前年78歳の時の作品にもかかわらず、また重々しい鋳銅作品でありながら 躍動感があり生き生きしている。2匹並んでいるから特にそう感じさせるのだろう。おそらく魚の親子。そうとすれば相当意味深い。
 追記17.5.5:あるブログより、当館での説明文
 「東宮御所の装飾用としてつくられたものである。2尾の魚が水中深く入っていこうとする一瞬の姿をとらえている。魚体は青銅色に仕上げられ、極端なほどのデフォルメが加えられている」
金銅 鷺(さぎ)香炉 1925年作
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1)サギは長い脚と首と嘴を持ち、白鷺は真っ白い羽が特徴。川や水田などを餌場とし、魚や両生類、爬虫類、更には哺乳類、鳥類までも捕食。佐渡では加茂湖の筏に待機しているのが見られる。田んぼではトキ(朱鷺)と一緒に探餌しているのが見られるという。サギはペリカン目サギ科、トキはペリカン目トキ科で互いに同目の仲間。
2)作品の鷺は、よく見かけるスマートな白サギでなく、幼鳥のような感じもする。背中がずんぐりしているのは、中にお香を入れる蓋がかぶさっているからか。空気穴のようなもの見えるから間違いない。香道では香を「嗅ぐ」のでなく、「聞く」と表現。そして、香木の香りを聞いて鑑賞する聞香(もんこう)と香りを聞き分ける遊びの組香(くみこう)の二つの楽しみがあるという。
6眛次/霙止醢А覆困い舛腓Α,んろ)1932年作
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1)「瑞鳥」は、コトバンクに「めでたいことの起こる前兆とされる鳥。鶴(つる)・鳳凰(ほうおう)など」とある。着物、焼き物、茶道に使う棗(なつめ)、屏風などの文様に使われ、ホテルや結婚式場などには「瑞鳥」を冠した室名がある。
 「薫炉」をウェブで調べても、「燻製炉」は出て来る以外は殆んど見当たらず、辛うじて正倉院の宝物「銀薫炉(ぎんくんろ)」の説明あるのみ。
 a.「屏風花氈等帳〔正倉院に保管されている五巻の献物帳のうちの一巻〕に記載の、衣服に香を焚きしめる道具。銀鍛造、透かし彫りの地に毛彫りで文様を表現。〔球形で転がしても重力の関係で中に入っている重い〕火皿を常に水平に保つ仕掛けあり」(ウェブリロ)   
 b.「純銀で作成された球形の香炉である。球形の真ん中で上下に割れ、上が蓋、下が実とされる。特徴はその大きさで直径18cmである。国外を含めこれ程大きな球形香炉は例がない。全体に精巧な透かし彫りを施されており、その技術は極めて高い。しかし1300年前のオリジナルは蓋の方であり、実は明治時代の復元品である」(ウィキペディア)
 また、中国のサイトには、「元末明初〔元の末期・明の初期〕 龙泉动物燻炉」「作品分类:陶瓷>元代以前陶瓷」とあり、画像を見れば陶器。
2)前記の鷺香炉との違いは、
 a.背中部分に香をしまう蓋が付いているのがわかるが、ずんぐりしておらずほぼ水平でスマート
 b.羽を高く広げ、透かし彫りになっていること
 c.嘴、頭、首、胴、足が直線で均整がとれていること(前記の場合 曲線)。
っ鯑次“天置物(ひてんおきもの) 1934年作
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1)「飛天」
 a.起源はインドと言われるが、オリエントの有翼天人像がシルクロード経由で伝わったものともされ、はっきりと分からない。

 ァ.ペルシャを起源とする有翼天人はゾロアスター教で空中から飛来するとされる精霊を象ったものとされ、古代ペルシャ遺跡にその姿が見られる。 これらの表象はエジプトやメソポタミアにも波及、イスラエルの天使やギリシャのエロス、ニケといった有翼神像にも影響を与えた。

 ィ.仏教の飛天は、それらオリエントの神々と異なり翼を持たないことが特徴。しかしガンダーラから西域では有翼像が見られている。多くは天衣(はごろも)をまとった女性像として描かれるため「天女」とも呼ばれる。

 ゥ.阿弥陀如来などの仏を中心に、花を散らし楽を奏し香を薫じるなどして優雅に舞う〔仏をたたえる天人の〕姿が一般的に見られる。ガンダーラ美術にはすでにその姿が描かれており、インドではアジャンター、中国では敦煌や雲崗の石窟寺院にその優美な姿を数多く見せている。 日本では法隆寺金堂壁画や薬師寺東塔水煙、平等院鳳凰堂後背、法界寺阿弥陀堂壁画などにその作例が見られる。(以上、ウィキペディア)
 ェ.天人が持つ楽器に、琵琶や笛が見られる。
 b.飛天置物には、素材として木彫り仏像、陶器、和田玉置物〔「和田玉(ほーたんぎょく)」=中国新疆ウィグル自治区のホータン地区(和田地区)で採取されるヒスイ〕、仏画色紙などがある。

2)当作品は、天人が宙に浮き笛を正しく手にして口にあて まとった羽衣をなびかせながら、舞うようにして奏でている様子を表している。金属を素材としながらも、あたかも紙が空に舞うように鋳造することは簡単に出来るものではなく、原型づくはおそらく試行錯誤の連続で相当の時間を要したと推定される。
ッ鯑次|媚卩蕨塞愾(ちしめろうふぞう)1957年作

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1)「稚子」は、「おさなご」「稚児(ちご)」。「稚子馬郎婦像」は、調べても「馬郎婦」のことしか出て来ない。
   文化財オンラインより「馬郎婦」
 小林古径(1883−1957)KOBAYASHI,Kokei
 馬郎婦(めろうふ)Merofu: The Goddess of Mercy Incarnate
 1943(昭和18)年紙本彩色・額装 72.0×89.5僉\鏨聾デ偲検閉觴芝酳館表慶館1944)
             記
 「馬郎婦」は馬郎婦観音の略称。三十三観音のうちの一観音。仏教を広めるため、美女に姿を化して現世に登場した観音。美女ゆえに、現世の求婚者が多かった。多くの求婚者のなかに、法華経を誦する者がいる。馬氏の郎、であった。馬氏の郎への美女の嫁入りが決まる。が、婚礼の夜、美女が、急死。悲嘆に暗れる馬氏の郎に、美女の由緒を老僧が説く。美女を埋めた墓を開けてみる。すると、美女は、黄金の骨、と化していた。本図は、以上の説話に由る。美女を、唐俑に擬し、線描も色彩も苦心し、馬郎婦の高貴さを的確に表わす試み。
2)エピソード:前掲『佐渡の百年』
 昭和34年(1959)6月東京タキシード・クラブの一行が佐渡観光に来て、「真野陶苑」を訪問。一行には河野一郎や永田雅一(大映社長)がいた。陶器を見たあとなにか鋳金を見せてもらいたいといったので象堂は「稚子馬郎婦像」を持って来た。永田は河野に「この顔はあんたに似ている。この像はあんたがもつべきだ」と、からかった。河野もしばらくながめていたが、心が動いたとみえて、象堂に「これをわけてもらえますか」と尋ねた。
 耳の遠い象堂は、これはてっきり値段をまけよと言ったものと思い、大きな声で「いや、それはまけるわけにはゆきません」と答えた。すぐ聞き間違えたということがわかったので、一同大笑いとなった。
 〔この像に接した時、親しみあって何となく誰かに似ていると思ったが、「河野一郎」とも関係したことで「なる程そうだ」と納得し、悦にいった〕
 【参考「河野一郎(1898〜1965年)」(ウィキペディア)
 a.日本の政治家。副総理、日本自由党幹事長、自由民主党総務会長。昭和中期の政界実力者の一人。河野派会長、領袖。
 
b.自由民主党の党人派の代表格として権勢を誇り、その政治行動は「横紙破り」と呼ばれた。農林大臣、建設大臣、特命相、五輪大臣、副総理、国務大臣(筆頭無任所大臣)を務めた。また、地元神奈川県県政にも強い影響力を持ち、県は「河野王国」とも呼ばれた。栄典は従二位勲一等旭日桐花大綬章。
 
c.参議院議長をつとめた河野謙三は実弟。衆議院議長外務大臣自由民主党総裁新自由クラブ代表をつとめた河野洋平は次男。衆議院議員河野太郎は孫にあたる。】
Χ眛次 ̄鴦(おしどり)
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1)オシドリ:鳥綱カモ目カモ科オシドリ属に分類。
 a.日本では北海道や本州中部以北で繁殖、冬季に本州以南(主に西日本)へ南下し越冬する。厳冬期には数十羽から数百羽の群れをつくることもある。
 b.仲が良い夫婦を「おしどり夫婦」と呼び、夫婦和合の象徴とされている。だが、オシドリは冬ごとに毎年パートナーを替え、抱卵はメスのみが行い、育雛も夫婦で協力することはないようだ。

 c.全長オス48cm、メス41cm。翼長オス21-24.5cm、メス21.7-23.5cm、体重オス0.6圈▲瓮0.5圈(以上、ウィキペディア)
2)平成19年国指定小佐渡東部鳥獣保護区指定計画書(環境省案)資料によれば、オシドリは当該地域で一般的に見る鳥獣には該当しないが、記されているのは確か。
  作品は、金銅製であるが生き生きとしたリアルがあり、同館社員の隠れた計らいによるものだろうが夫婦仲抜群の配置となっている。雑で粗い配置では、効果は半減する。

Ф眛次々雀置物
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1)クジャク(孔雀)はキジ科の鳥類、中国から東南アジア・南アジアに分布するクジャク属2種(通常のクジャク)とアフリカに分布するコンゴクジャク属1種から成る。
a.オスは大きく鮮やかな飾り羽を持ち、それを扇状に開いてメスを誘う。
b.羽は工芸品に広く分布されてきたほか、神経毒に耐性を持つためにサソリ等の毒虫や毒蛇類を好んで食べることから、益鳥として尊ばれる。そのため邪気を払う象徴として「孔雀明王」の名で仏教の信仰対象にも取り入れられた。
c.日本では、推古天皇6年(598年)に新羅がクジャクを送ったという記事が『日本書紀』にある。江戸時代、大大阪に孔雀を見ながら茶が飲める茶店があり、「孔雀茶屋」と呼ばれた。(以上、ウィキペディア)

2)孔雀置物としては、いろいろ観ると 大半が陶器製では色鮮やかに羽を開いた、あるいは木の枝に止まって長い羽を地に着くまで伸ばしたもの、ガラス製では開いた羽の部分部分が真っ白い花火の玉のように高く広く連なったものとなっている。当作品のような金属製は、珍しいといってよいのではないか。羽を開かず、木の枝に止まらず立っていることで、その特性を遺憾なく発揮している。

鋳銅色絵 駃騠(けってい)1941年作
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1))駃騠(ケッテイ)は、雄のウマと雌のロバの間に生まれるウマ科の雑種動物。外見は、雄のロバと雌のウマの間に生まれたラバと似ている。ケッテイは、ラバよりわずかに小型。頭はラバ以上にウマに似ており、耳はウマより長く、またラバよりもウマに似たたてがみや尾を持つ。(ウィキペディア)
 漢字辞典オンラインでは、「駃騠(けってい)は速く走る馬。また、騾馬(らば)のこと。雌馬と雄ロバの雑種」とあり、ウィキペディアとは解説が異なる。

2)作品は、太い前脚・後脚がバランスを保ってすくっと立ち、顎を上げ、目は前方やや上を見、耳と鬣(たてがみ)をピンと立て、尻尾は後ろへ張り出し いかにも駿足馬であることを彷彿とさせる。それぞれの部位がわずかなズレも許せないような絶妙な均整がとられている。
鋳銅 蝶文鏡 (ちょうもんきょう)1955年作

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1)銅鏡は、合金製の中国、朝鮮、日本の遺跡から発掘される青銅製の鏡を指すことが多が、古代エジプトで青銅製の鏡を用いた事例あり。西洋よりガラス鏡が伝来普及するまで一般に広く使われていた。
a.製作は、鋳型に
鋳造したのち研磨メッキ、研磨という手順で作られる。
b.特徴
 ァ.中国では
戦国時代〔紀元前403〜同221年〕から時代〔618〜907年〕に主に製作された。形態は円形が多く(まれに方鏡もある)、直径は数十cm程度。磨かれた鏡面の裏側には中心に鈕(つまみ)があり、その周囲にさまざまな画像や文様が鋳出されている。
 ィ.日本では、
弥生時代〔紀元前10世紀〜紀元後3世紀中頃〕から古墳時代〔3世紀中頃 – 7世紀頃〕の遺跡で多くの銅鏡が発掘されている。出土する鏡は、大陸からの輸入品の舶載鏡とそれを模した国産の仿製鏡(ほうせいきょう)に分類。 種類としては、北部九州の弥生遺跡から出土する方格規矩鏡(ほうかくきくきょう)や内行花文鏡(ないこうかもんきょう)、大和を中心として全国各地の前方後円墳から出土する三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)などがある。
 顱剖世
神道の信仰の対象。日本神話に登場するものとして、三種の神器の一つの八咫鏡や日像鏡・日矛鏡などがあり、鏡を神体として社に祀っていることがある。

 髻吠唇損代以降、鏡面に仏像を線彫りにして信仰礼拝の対象とした「鏡像」(きょうぞう)が盛んに製作され、これは後に銅板に半肉彫りの彫像を取り付けた「懸仏」(かけぼとけ)に発展。(以上、ウィキペディア)
c.蝶文について(「着物の文様辞典」サイト) 
 揚羽蝶文:「緑黄地に黒い筋や斑紋(はんもん)のある大形の華麗な蝶を文様化したもので、鳳蝶(ほうちょう)とも呼ばれています。平安中期以降になって、蝶文が流行し、平家ゆかりの家々の家紋となり、今日に受け継がれています。牡丹や撫子〔なでしこ〕などと共に小袖に描かれていましたが、現代でも、振袖や留袖に好んで用いられています」

2)作品は、
a.鈕(つまみ)を軸にした小さな円周があり、それを囲む大きな円周がの枠があり、その中に2匹の蝶の造形があって且つ一部円周外にも飛び出し、8枚の花弁の枠内に納まっている。
b.何の花かを「野の花図鑑」サイトなどで調べたが、現時点これだと言えるものなし。
c.文様は、曲線で形を作っているが、高さ(凹凸)も一様でなくなだらかな山形を描き、
 概して簡略化された中に精巧さが見られる。
鋳銅色絵 鸚哥(おうむ)置物 1940年作 
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1)セキセイインコ(背黄青鸚) は、オウム目・インコ科・セキセイインコ属に分類。オーストラリア原産は、小型でペットとして人気が高い。
 成鳥の体長は18-23cm程、スズメより少し大きい。野生個体の成鳥は頭部が黄色、頭上から後頭部にかけ細かい黒の横しま模様が入るのが一般的。背中と
は黄色の縁取りがある黒い羽毛が生えるものが多い。胸から腹、腰までは黄緑色の羽毛に覆われ、尾羽は緑または青も多い。和名は日本に最初に来たセキセイインコの背が黄と青だったことに由来。
 雄と雌はほぼ同じ体色、雛の時は雄・雌区別が付かないが、成鳥になるとくちばしの根本の鼻孔を包む蝋膜(ろうまく)という柔らかい皮が、雄は青、雌は褐色になり、鼻孔の中や周りが白っぽくなり区別できる。(ウィキペディア)
2)置物としては、顔料で色彩の豊かさを発揮できる陶器が主流のようだが、鋳銅もある。当作品は、体色はほぼ全体赤、鼻の部分は金色、尻尾は一部が黒の計3色で簡略、止まっている場所が小枝でなく湾曲した古めかしい青銅の柵で且つ脚を見せてないことがかえって斬新性を主張。オウムの赤と青銅の青が互に色の鮮やかさを引き立てている。

黄銅 柳文花瓶(りゅうもんかびん)
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1)花瓶の素材として、主に陶器・ホーロー・ガラス・木等があるが、銅器は少なくその中で今日では富山県高岡市産の高岡銅器が圧倒的に多い。「花瓶 銅器」で検索すると「高岡銅器」の名(社名であっても調べると高岡銅器)が数ページに渡り連なっている。5年以上前に高岡を訪れた時、タクシー運転手から高岡は、銅器で有名であることを聞いた。(10年12月19日号「係わりの地55:伏木」)
2)当作品について
 a.「柳文」花瓶は、陶器や青磁ならウェブで複数点観ているが、銅器ではお目にかかってない。
 b.花瓶だから細長いのが普通だと思うが、平べったく円盤のようである。
 c.その円盤は上・下にそれぞれ仕切りがあって分かれていながら、柳の文様は連続している。
  以上より、相当な画力と発想と技術を必要とする作品に違いない。
鋳銅 両耳香炉 1950年作
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1)「両耳」とは、耳のようなものが付いていることで花瓶などにも見られる。香炉に足が付いていれば、例えば「三足香炉」などと言う。
2)当作品は、帽子をかぶり(お香を入れたり出したりする蓋の取っ手に当たる)、両手を上げ、両目があり、鼻があり、左右に開いた口があり(それぞれ空気穴)、体つきは卵型でふっくらとして豊かさがあり、両足揃えて一本足のように立っているに人間のように見える。
 アイディアとユーモアに満ち満ちており、和風でなく洋風の雰囲気を漂わせている。68歳の時で、しかも佐渡にいて創作した作品とは思えない。
蝋型鋳銅 瑞鳥(ずいちょう)1958年作 レプリカ
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1)「瑞」の字は、「しるし」、「吉祥」、「めでたい」という意味を表わす。「瑞鳥」は、徳の高い高貴な人が生まれたり王位につく時、現れるという伝説上の鳥。
2)当作品は、
 a.文化財保護委員会委員会長賞受賞作品
 b.皇居新宮殿の棟飾りに採用され、昭和天皇御在位60年記念切手(「日本郵便」発行)の図案に採用。
 c.瑞鳥は、幸運をもたらす最高の鳥であるから絵画や染め物や陶器に見られるように鮮やかな色彩と精緻な文様が必要とされるはずだが、瑞鳥の造形を抽象化・簡素化の限界にまで推し進めた。

4.まとめ
〆甘藁鮖謀狙盍曚里海
1)先程佐渡歴史伝説館へ電話で前身の「朱鷺の郷のオープンは昭和何年か問い合わせると図星昭和50年(1975)。そして4月29日かと問うとその通りであった。それは、同館帰り小さな石橋(今昔橋)を渡る際、竣工月日は偶然にも訪問日と同じ4月29日という記憶ははっきりしていたことによる。年は確か昭和53年とあったのでは、そうだとすれば辻褄が合わないと思い確認の電話をしたもの。
 〔4月29日は、昭和天皇の誕生日で今は「昭和の日」。その日は我が71歳の誕生日でもあるから、月日だけは鮮明に覚えたいた〕 
 a.佐渡汽船入社は昭和49年1月新潟勤務(当時は下大川前通6が所在地)。その時、翌年真野に「佐渡の新名所」として観光施設「朱鷺の郷」をオープンする準備が行われた。名称は、その地域にその昔朱鷺がよく飛来した事にとって「朱鷺の郷」とし、人間国宝佐々木象堂の作品などを展示した資料館と錦鯉の泳ぐ池を巡らせた桃山時代風の庭園、それを眺めながら飲食できるレストランや土産物店を備えているのが売り物。にしたPRとしてリーフレットの制作を担当。宣伝物制作は初めての仕事であった。
 b.事業の運営担当は、当時佐渡汽船グループで最優良企業の(株)新潟県観光物産で、社長は津野 務氏。リーフ作製に当たってはご指名頂き、馴れない仕事で多分にイライラさせと思われるが、一応完成をみた。
 c、当時会社2階にある独身寮に居て そこからは乗船客が建物の中へ入る様子が見えた。朝6時発の便に乗るべくお客が佐渡汽船前の車の通る道路にも並んでいて、津野社長がリーフを持って一人ひとりに手配りしていたのを見たものだ。
2)今は、「動く・光る・語る・舞う 佐渡歴史伝説館」に名前を変え、リーフレットには「佐渡に配流された順徳天皇、日蓮聖人、世阿弥に会えます」と謳ってあり、佐渡の伝説コーナーには、「安寿伝説」「夕鶴伝説」「おけさ伝説」、そして「酔っぱらいおじいちゃんといねむりおばあちゃんのユーモラスな語り口で、佐渡の伝説をご案内します」と写真付きで載っている。
  「動く」というのは人形で、当時のことをリアルに再現。
 また、日本中で名前を知らない人は少ないと思うが、ジェンキンスさんも目玉の一つ。当館HPに次のように出ていた。
  「毎年当館の売店で勤務して頂いておりますジェンキンスさんですが、本年の勤務についてのお問い合わせのお電話も頂く様になりましたので、本年の勤務についてご案内をさせて頂きます。

    【期 間】 4月28(金曜日)〜10月30日(月曜日)                              
    【出勤日】 偶数日                                        
    【時 間】 9:00〜16:00

 なお上記は予定であり、ジェンキンスさんの体調や用事等の都合により出勤日が変更となる場合もございますので、予めご了承下さいます様お願い致します。これからも皆様に温かく見守って頂き、励ましや応援をして頂けましたら幸いでございます。今後とも宜しく宜しくお願い致します。」
3)創業42年。
 a.「会社の寿命は30年」が、有名になったのが1983年9月19日号「日経ビジネス」誌がきっかけ。
  ァ.それは、売上高と総資産額の上位100社ランキングに入った会社の平均年数は30年というもので、本来の寿命とは異なり、繁栄期間が30年というものである。
  ィ.「設立後3年以内に約4割の会社が消えていき、設立後10年以内に消えていく会社は6〜7割」というのがあるが、どこの機関の・何を基にしての・何年の調査か 明らかにしてないので鵜呑みにできない。
  ゥ.東京リサーチのサイトに、2014年「倒産企業の平均寿命」調査というのがある。
   「2014年の倒産企業の平均寿命は23.5年。前年より0.1年短縮し、4年ぶりに平均寿命が短くなった。2014年に倒産した業歴30年以上の老舗企業は2,647件で、前年(3,051件)より404件減少した。倒産件数(8,642件)に占める割合は30.6%と、前年より1.0ポイント低下し、4年ぶりに構成比が前年を下回った。一方、業歴10年未満は2,062件(前年2,242件)で、構成比は23.8%と3年ぶりに上昇した」
  顱法崚飮佐覿箸亮命」調査だからはっきりしているが、廃業や吸収合併や組織変更などによって無くなってしまう形態もあるから、欲をいえばそれを含めて寿命何年か知りたいものだ(実際は、長さが難しいと思う)。なお同調査では、業歴30年以上を「老舗」企業と定義。
  髻飽貶、同社の全国「老舗企業」調査には、「2017年に創業100年以上となる老舗企業は、全国で3万3,069社あることがわかった。前回調査(2012年8月)より5,628社(20.5%)増加した」「本調査は東京商工リサーチが保有する企業データ約309万社から、創業年が1917年(大正6年)以前の企業を対象に抽出した。本調査では、創業100年以上を「老舗企業」と定義した」とある。
 b.興亡の激しい観光施設業において、創業42年はそれほど多く存在しないだろう。
  佐々木象堂の作品が個人所蔵だと散逸する可能性が高くなるだろうが、同館で大切に保管され且つ撮影自由であることは有り難い。
∈粥耕攵歹欧砲弔い萄酩覆ら感じたこと
 a、一言では、
 国指定重要無形民俗文化財 佐渡の文弥人形の遣い手名手・浜田守太郎〔1900〜1998)の言葉、「伝統芸術とは難しいんだ。基本も勉強せんうちに勝手に個性を入れたらいかん。文弥人形芝居には、2000年の歴史がつまっとるんだ」(07年10月28日号「文弥人形15;人形道」)を借りて、
 「佐々木象堂の作品には、6000年の古今東西の歴史がつまっとる」である。 
 b.「グローバル」という言葉は、特に1990年代から盛んに使われ出したが、感覚的にはそんなスケールをはるかに超え、「ユニバース&エターナル」を感じさせる。より具体的「永遠」「不滅」と簡単にすまされず、「悠久」と呼ぶにふさわしい広さ・深さ・重さ・味わいがある。
 c、お陰で20分ほどの滞在にも拘わらず、広大・深淵・悠久の世界を堪能できた。
  以上 2017.5.8





佐度の画廊45:園児の雛人形

 こんにちは!自在業の櫻井です。
 3月25日夷本町商店街の「ふれあいギャラリー」に展示されている両津地区の保育園児による雛人形を観に行った。なお、翌日は午後から椎崎温泉のホテルで両津市立南中学校第二回卒業同期会「古稀を祝う会」があり、佐渡で前泊するのに丁度よかった。
    佐渡両津ひなまつり
 開催期間:平成29年3月1日(水)〜3月26日(日)
 展示会場:佐渡市両津地区
 公開時間:10:00〜17:00
 入場料:無料(一部イベントは要参加費)
 お問合せ:佐渡観光協会 両津港案内所(TEL:0259-23-3300)
         
<関連イベント>
   ■つるしびな展示
 開催期間:平成29年3月1日(水)〜3月26日(日) 9:30〜17:00(最終日は16:00まで)
 展示会場:あいぽーと佐渡
    ■ おひなさまの竹かざり展示
 開催期間:平成29年3月1日(水)〜3月26日(日)
 展示会場:両津夷商店街
    ■貝殻びな製作体験教室
 日時:平成29年3月1日(水)〜26日(日)の土・日曜 9:30〜16:00(最終日は15:00まで)
 会場:あいぽーと佐渡
 参加費:500円(先着100名)
    ■つるしびな製作体験教室
 日時:平成29年3月12日(日) 13:00〜16:00
 会場:あいぽーと佐渡
 参加費:2,500円(予約制。定員10名)
  ※つるしびな展示会場にて事前予約が必要。
   開催:3月1日(水)〜26日(日)
  会場:両津夷周辺店舗、旅館、アイポート佐渡
 昨年は行かなかったが、「ふれあいギャラリー」に入ってるすぐに気付いたのは、いつもあるはずの私の母校ならぬ母園である私立海星幼稚園の園児〔学校教育法では「幼児」、ここでは「園児」とする〕の作品がなく、あったのは夷保育園と湊保育園のみ。後日電話すると、同園では春休みに(早く)入るので22日に撤収したとのこと。そういえば、これまでは3月早々に行ったものだ。
 なお、園児の雛人形と言っても 10年3月最初に観た時 園や年代によって異なるがパターン化された台紙に目や鼻や口などを描き入れただけのものでワンパターンで面白味なく、記事には値しないと思ってやめたが、翌日気を取り直し再び行って写真に収めた。そして記事にすべく書き込みしているといろいろ発見あって、これは面白いということになった。同年10月に海星幼稚園作品展があることを知って観に行った。
 園児の絵は、非常に面白い・大人では到底描けない発想・ユニークさがあると思った。その時の記事のまとめに、次のように記している。
 「歴史に残る有名画家や著名画家の作品展があれば、何としても見に行きたいという趣味は、はじめから無い。ところが、佐渡で園児の絵画展があることを知れば、何よりも優先して見に行きたくなるのは間違いない」
 (10年11月19日号「佐渡の画廊24:園児の絵」)
 そのことは、今でも変わっていない。一昨年11月初め海星幼稚園に問い合わせたことあったが、すでに終わっていた。開催は10月下旬のようだ。
    《ひなまつりに関する過去記事一覧》
  07年02月26日号「ひなまつりイベント」
  10年03月11日号「佐渡の画廊16:園児の作った雛人形」
  10年11月19日号「佐渡の画廊24:園児の絵」
  13年03月16日号「佐渡の画廊32:雛人形」
  15年03月26日号「佐渡の画廊39:園児の画いた雛人形」
 さて、園児の雛人形について今回どんな新たな切り口での分析と発見ができるか!?
  
1.雛人形
_菫A
ひな2
1)男雛(お内裏様)・女雛(お雛様)一対の一段飾り(親王飾り・平飾りともいう)。男雛を向かって左に飾るのが関東風、右に飾るのが京都風、佐渡は関東風。
2)それぞれの特徴は、
 上部左は、鼻と口が画像からは有るのか無いのかはっきりしないが、絵になっている。目は青の丸とすれば睫毛(まつげ)がある。それは、他にない。
 真ん中は、両方とも舌を出している。特に女雛の目がユニーク。
  上部右は、まつげ。
 下部は、大きな赤い頬っぺた
画像B
ひな1
1)目の描き方がいろいろ。
 ギザギザ、ニコニコ目、丸い目、驚き目、閉じ目、四角い目、菱形の目
2)口もいろいろ。
 口無し、舌出し、双方四角で大きな口
2菫C
ひな3
1)ここでの場合、上段と下段がつながり2段飾りのひな人形に近い。
 a.ひな壇は、最上段に内裏びなの男雛(お殿さま)とお雛様の女雛(お姫さま)が飾られ、二段目には、「三人官女」が並ぶ。
   b.三人官女は、それぞれお酒を入れて注ぐ道具を手にしているが、ここでは何も持っていない。
2)それぞれの作品の特徴
 a、上段の「貴人」
 ア、向かって左:それぞれ口が大きく、エクボがある。
 イ、向かって右:女雛が男雛に寄り添っている。
 b、下段の「三人官女」

 ア、左:段位は三人同じ。髪の毛は長く、前後左右の広がりが見られる。。
 イ、右:段位は二つに分かれる。髪の毛は、三人それぞれ乱れがなく均整が取れている。
げ菫D
ひな5
1)左:総じて異様。
 a.貴人夫婦間に睦まじさが感じられず、互いに無関心の感じあり。それはそれぞれの、目線から察せられる。
 b.官女はそれぞれ座っている高さの位置が異なり、それぞれ個性が強く 連携プレーがないことを感じさせる。決定的なのは、それぞれ顔はにこやかであるものの口が長くVの字を描いており不気味。
 c.園児ならではの雛人形、いろいろあって面白い。
2)右:総じて円満。
 a.貴人は、それぞれ目が穏やか。男雛は、隣を意識か。
 b.官女は、三人とも可愛らしく(髪型が微妙に違う)、 それぞれ位置のバランスが取れ、お互い仲良しと感じられる。
 c.それぞれの人形自体大人しく落ち着きがある。園児というより児童の描いた雛人形のようである。園では、年長組の作品だろう。
ゲ菫E
ひな6
1)左:目に特徴。
 a.貴人雛は、目が大きくメガネを掛けているととれる向きもある。特に男雛は宇宙人か縄文時代の遮光器土偶を思わせる。女雛は、驚き目か。お互いくっついて並んでいるからではあるまい。
 b.官女にも大きい目をした者がいる。口が真っ直ぐに長く伸び存在感がある。
2)右:オール・ニコニコ。
 a.貴人は、互いに間隔があるが隔たりを感じさせない。それぞれの笑顔のせいである
 b.官女は、それぞれにこやかでそれぞれの髪の毛が手つなぎしている感じを与えている。
Σ菫F
ひな4
1)2段飾り雛:この場合、これまでの平面でなく立体。
 a.作品では、すべての人形に眉毛があるのが特徴。
 b.「三人官女」が手に持つものは、通常は
 ァ.真ん中の官女は、「三方〔さんぽう」〔三方の上に盃を載せる、または盃そのもの〕
 ィ.向かって右は、「長柄(ながえ)」〔白酒を注ぐ道具で、柄が長いので「長柄」という〕
 ゥ.向かって左は、「提子(ひさげ)」〔鍋とよく似た形の金属製の 白酒を入れる器:酒を入れて杯につぐための注ぎ口と持ち手のある蓋付の器〕
  また、三人の間にそれぞれ桜餅や草餅を載せた高坏(たかつき)が入るが、場所が狭いためそこまで至っていない。

2)官女の持ち物の配置について、一般と異なるがそんなこと園児にとってどーでもいいだろう。

Р菫G
ひな7
1)三人官女の持ち物配列は、左・右共 向かって左から 提子ー三方ー長柄 で一般的な決まりに則っている。
2)左・右の特徴
 a、目
 ア、左:貴人・三人官女とも描写は同類。
 イ、右:5人5様。それぞれの官女に茶目っ気あり。
 b、鼻
 ア、左:貴人共に三角形。官女は「くの字」。      
 イ、右:鼻は貴人・官女どれも無し。目と口の魅力が、それを不要としている。

2.まとめ
 ̄犹のひな人形については4回目で、三人官女は今回が初めて。それも何も手にもっていない作品と決まったものを持っている作品とがあり、複雑なものへと発展しているのが分かる。
 なお、器の持ち方について それが正しいかどうかいろいろ調べてみたが、これといった解説にお目にかかってない。
当然のことではあるが、同じような顔立ちの人形はなくそれぞれ特徴・個性があり園児らしいところ。特に目の描き方が、いろいろあって面白い。
次はどんなものが出てくるか楽しみである。
 以上  17.5.2






佐度の画廊44:第24回浜梅津むら展

 こんにちは 自在業の櫻井です。
 「佐渡の画廊」シリーズ第2弾は、「第24回浜梅津むら展」。一昨年に続き今回で2回目となる。むら展の時期が来たと思い出したのは1月下旬。2月の佐渡イベント・カレンダーを調べるとやはりあった。開催日は、以前と同じ2月1〜7日で曜日は関係なし。
         浜梅津むら展
  開催:2017年2月1日(水)〜7日(火)9:00〜17:00(最終日15:00)
  会場:浜梅津文化センター(浜梅津公民館)
 念のため問合せ先へ電話し、期間の指定時間中はいつでも開いているかの確認(結論は大丈夫)と出展作品数と地区別出展者数を知りたいことを伝えた。新潟から観に来るということにたまげている様子だった。
 むら展に関する過去の関連記事は、次のとおり。
  13年3月16日号「佐渡の画廊31:瓢箪工芸」
  15年3月07日号「佐渡の画廊36:浜梅津村展」
  15年4月28日号「佐渡の画廊42:村の陶芸家作品」
 2月6日(月)新潟発12:40発のフェリーで佐渡へ行き、妹の車で会場へ行った。(当初新潟発9:20・両津着11:50を予定していたが、急な出来事処理で間に合わず、11:30発のジェットフォイルは海上時化で欠航、そのため予定していた裂織鑑賞はキャンセル。フェリーも時化のため両津到着予定15:05が15分遅れ15:30となった)
 会場玄関前には、青地に白抜きに赤で「浜梅津むら展」とある色鮮やかな2本の布地の旗が立っていた。なお、旗には浜梅津出身の版画家高橋信一氏(1917〜1986)の大空を飛ぶ2羽の朱鷺を描いた版画が染められていた。妹には写真を撮るだけで20分以内に終わると伝え玄関の戸を開けた。
 部屋の中に入ると奥に数人の関係者らしき人が談話しながら待機していたので名前を名乗り、事前に電話して調べを依頼した件を尋ねると通じていた。
 歩み寄って来た人が、前に陶芸について取材したことがある陶芸を趣味とする高橋孝夫氏とすぐにわかった。ご自身の作品について案内いただいた。また、もう一人の方も見覚えがあり、名前はその時はっきり覚えていなく「佐渡汽船関係?」と問うとなずいてくれた。佐渡汽船グループ・新潟県観光物産の経営幹部で、(株)新潟ふるさと村の元社長渡辺正之氏。同社は1991年旧新潟県運転免許試験場跡地を新潟県の肝入りで県を象徴する観光拠点施設として整備し、「ふるさと」に対する県民の意識の高揚と観光・物産の振興を図り、地域活性化を推進させることを目的に1988年設立された第三セクター(主要株主は2016.3月末時点新潟県)。最初新潟交通が運営主体となったが業績が思わしくなく、佐渡汽船が担当することになった。佐渡汽船では業種との関係からも新潟県観光物産を当事会社とし、経営トップにそのナンバー2に白羽の矢を当てた。氏は就任後ふるさと村の改革を行い、経営を軌道に乗せ再建を果たした。なお、氏との再会は20年以上ぶりであろう。2年前に高校の同級(隣集落の北平沢出身)と何かの折氏の名前が出て浜梅津の出身と聞いたのを覚えている。会った時すぐ察したのは、そのためだろう。
 どなたかから記帳を求められた。1頁5名、見開きで10人書ける帳面がある。住所を佐渡市にしようと思ったものの 本籍はそうだが現住所は新潟市。事実 新潟から来たのだから新潟市にした。担当も、その方を歓迎。なお、見学者は300人を超えていて、明日の最終日は50人以上来るから、350人は間違いないとのこと。

1.展示作品
(1)書道
むら展1
”敢个虜酩
 100歳の人の作品がありますと案内していただいた。
1)2年前に来た時 確か98歳の人の書ですと教えもらった記憶があり、その人だろうと思った。
2)15年3月07日号「佐渡の画廊36:浜梅津村展」の画像に、
 「卒寿観青史余世楽 百寿託神佛天命候 九十八歳乙年 岳仁書」 とあった。 
 自分なりの解釈は、
  「卒」は「卆」で「九と十」から成る「90」の齢、青史(=歴史:人生か)を観れば余生は楽しい、100歳の祝を迎えるかどうかは神仏に天命を託すのみ。98歳の年 岳仁書す」
 99歳の時は何であったか関心を持ったのは確か〕
 今回は、
 「百寿生誕万物感謝 平成廿九年元旦 岳仁書」 
 〔解釈:100年生きた。万物に感謝。平成29年元旦 岳仁書す〕
3)一般に高齢者(80歳以上を想定)が墨をたっぷり含んだ大きな筆を震えずにしっかり持つという平衡感覚といい、「止め、跳ね、払い」という筆遣い・筆運びに際しての強弱・緩急の瞬間的なコントロール感覚といい、大きく画いたそれぞれの文字の縦・横におけるバランス感覚といい、また時の心境を8字に込めた堂々たる詩作内容といい、これほどの書は、心身共に健康で且つ漢詩の素養が無ければ、到底成せる業でない。脱帽。
90歳の作品
「高橋保一書」の表示から瓢箪(ひょうたん)の工芸作家のあの人とすぐわかった。
 1)4年前取材にお邪魔し(13年3月16日号「佐渡の画廊31:瓢箪工芸」)、2年前のむら展でもご自宅が比較的近いこともあり、どなたかの知らせで会場へお出でいただきお会いした。
 2)15年「浜梅津村展」の画像は、
 「山川万里 二〇一五 八八歳 保一書」。
  今回は、
 「浜梅津むら展 偕老同穴 平成二十九年 高橋保一書」。
 脇には「偕老同穴」の説明書き:「若かった夫婦が老いて共白髪となり、やがて同じ穴に納まる。高橋保一」。
  ウィキペディアは、「共に暮らして老い、死んだ後は同じ墓穴に葬られること。転じて夫婦の信頼関係が非常にかたいことを意味する」と解説。
 3)筆遣い・筆運びについて、字自体が大きいこともあり、特に穂先の動きに魅かれ、次の事を調べることで書道の真髄を認識し、醍醐味を堪能できた。
  a.「点画(てんかく)」
   ァ.漢字は、点と線から成る点画と呼ばれる8つのいわば部品(横画・縦画・折れ・左はらい・右はらい・そり・曲がり・点)で構成。
   ィ.すべての点画で、筆の穂先の向きは常に左ななめ上、45度を通る。
  b.「永字八法(分解)」
   ァ.漢字の「永」の字には、書に必要な技法8種が全て含まれている。側(ソク、)、勒(ロク、横画)、努(ド、縦画)、(テキ、はね)、策(サク、右上がりの横画)、掠(リャク、左はらい)、啄(タク、短い左はらい)、磔(タク、右はらい)の八法
   ィ.「永」の字一字を習得すれば、この一字を持って千字・万字に応用できる。
  c.上記a・bは、穂先の動き・働きが大きい。
   「偕老同穴」の4文字それぞれには、穂先が空を切っても筆勢からその軌道がわかる。いわば筆の穂先が離陸し弧を描いて着陸し、止まるか跳ねるで一文字が完了する。ここに面白さ・凄さがある。
 画像からは、書の傍らに氏の瓢箪作品の一部が見えるが、90歳になっても創作、アイディア・ユーモア創出への情 熱・熱意は少しも変わってことを示している。なお、瓢箪作品が集まったコーナーが、別に設置(後記)。俳句も画像から見つけた。氏は、20代から50代まで絵画をやっていたことは、取材の時にお聴きしている。
千字文
1)千字文の事は今まで知らなかった。今回目に止まり意識。 
 素人考えで、次のように思った。
 a.漢字一字一字の意味、漢詩・漢文の一句・一節の意味、全文を通じての真意の把握が必要だろう。
 b.1000字の内1字でも間違いや出来の悪い字があったら、やり直しになるのでは。
 c.書き終えるのに、精神力、体力、時間を要す。
むら展2
2)千字文(ウィキペディア)
 「子供に漢字を教えたり、書の手本として使うために用いられた漢文の長詩である。1000の異なった文字が使われている」
 「
天文、地理、政治、経済、社会、歴史、倫理などの森羅万象について述べた4字を1句とする250個の短句からなる韻文である。全体が脚韻により9段に分かれている」
 「梁 (502–549) の武帝が、文章家として有名な文官の周
興嗣 (470–521) に文章を作らせたものである。周興嗣は,皇帝の命を受けて一夜で千字文を考え,皇帝に進上したときには白髪になっていたという伝説がある。文字は、能書家として有名な東晋の王羲之の字を、殷鉄石に命じて模写して集成し、書道の手本にしたと伝えられる。完成当初から非常に珍重され(敦煌出土文書にも千字文の手本や習字した断片があり、遅くとも7世紀には普及)以後各地に広まっていき、南朝から唐代にかけて流行し、宋代以後全土に普及した」
 日本には「正倉院文書にも千字文を習字した断片があるので、8世紀には習字手本として使用されていた。山口県山口市の吉田遺跡では、8世紀前半の千字文の音義木簡が出土」

むら展3
た緞浪
1)前々回の画像には、「墨絵」と表示された作品が4点載っていた。今回は、撮った画像には2点共「水墨画」とある。この際、違いがあるのかないのか調べてみた。
 a.ウィキペディア
 「水墨画(すいぼくが)とは、「墨」一色で表現される絵画で、墨線だけでなく、墨を面的に使用し、暈〔ぼ〕かしで濃淡・明暗を表す。墨絵(すみえ)とも言う」

 b.ヤフー知恵袋ベストアンサー
  「水墨画と墨絵は同じですか? 」「水墨画は、墨一色で表現される絵画です。墨を面的に使用して、暈かしで濃淡・明暗を表す。墨絵(すみえ)とも言います」
 c.「墨絵カレッジ」HP

  「「墨絵」というと、皆さん、墨の濃淡のみで、ささっと抽象的に描かれた絵を思い浮かべるのではないでしょうか?でも、実はそれは、墨絵の技法ほんの一部に過ぎません。色を取り入れた作品や、精密に描かれた作品も多く存在します。様々な見解がありますが、おおざっぱに言えば墨や顔料を使い、東洋の目線・視点・考え方によって描かれ、日本画の様に厚塗りではない絵は墨絵のカテゴリーに入ります」
 【的確な解説は、「墨絵カレッジ」HP。前々回の「墨絵」には橙色の顔料が入っているいるのが分かる。今回の「水墨画」は、墨一色でぼかしもある。ウィキペディアもヤフー知恵袋も水墨画=墨絵で、肝心な本質的違いの説明ができていない】
デ亢腓判顱扮咾瀛等に間違いがあるかもしれない)
 日めくりよ 老いし者を なぜせかす
 銀嶺に 一片の雲 影〇す
   〔「俳句 高橋保一」とある〕
(2)絵手紙
むら展13
1)以前の記事には絵手紙の説明がなかったので記す。(資料;ウィキペディア)

 a、絵手紙は、手紙の一種で「絵のある手紙をかき送ること」。

 b、「絵のある手紙」自体は古くからあるが、「絵手紙」というジャンルが確立されたきっかけは、書道家の小池邦夫1978年〜79年に芸術誌「季刊 銀花」(文化出版局)へ綴じ込み企画として、6万枚の直筆絵手紙を発表したこととされている。
 c、基本的な道具は、
顔彩画仙紙はがき。 はがきに花や野菜など、身近にあるものをかき、絵手紙を送る相手に最も伝えたい気持ちを短い言葉で添える。 テクニックよりも、自分らしさがハガキの中に出ているかどうかを大切にする。 「手紙」という性質上、絵は添え物で言葉(かき手の気持ち)の方を重視する。
2)画像にある絵手紙の作品を観る限り、次の事が言える。

 a.絵手紙といっても相手に向けもあるが、自分向けメッセージもある。
 自分好みの名言を座右の銘として色紙などに自分で書くか購入するかして自室に飾る人も想定されるが、絵手紙の絵手紙たるゆえん・真髄は、「自分の思いを、自分の言葉で、自分で絵図を考案し、自分で描いて、自分で墨書する」であろう。
 b.ハガキの枠や形式に余りわれず、自由奔放的。
 c.筆と墨、絵又は図形がどの作品にも共通してある。
 d.絵画の要素も取り入れているが、心情を言葉で表現することに重きを置く点では書道に近い。
(3)繊維工芸
,気辰海蝓蔑織:古着のを細かく裂いて麻糸などと共に織り上げた再生織物)、タペストリー(壁掛けなどに使われる室内装飾用の織物)、バッグ、ぬいぐるみ人形等
むら展4
柿渋染:クッションカバー
 「柿渋染」とあるのを見た瞬間、浜梅津には柿を栽培している農家があるのを思い出した。

むら展7
1)柿渋・柿渋染めについて
 a.「ウィキペディア」
  柿渋は、染色にも用いられ、出来上がりの茶色の色合いが柿渋染めとして好まれる。
柿渋(かきしぶ)は、渋柿の未熟な果実を粉砕、圧搾して得られた汁液を発酵・熟成させて得られる、赤褐色で半透明の液体。柿タンニンを多量に含み、平安時代より様々な用途に用いられて来た日本固有の材料。
 衣類に使用したのは、平安時代の下級の侍が着ていたがその始まりとされる。また民間薬として、火傷や霜焼、血圧降下や解毒などに効くとして盛んに利用された。
 b.「みつる工芸」HP
 ァ.渋柿染めとは?
柿渋は古くから庶民の生活の中で日常的に用いられました。高い防水・防腐・防虫効果を持ち、漁網、醸造用絞り袋、染色用型紙や、渋団扇、紙衣,和傘などあらゆる日用品に塗られていました。柿を未熟な青柿のうちに採取し、粉砕・圧搾して得られる渋液を冷暗所で何年も熟成させます。渋取をした時は黄緑色ですが、時間がたつにつれ茶色にかわります。その柿渋を何回も塗り重ねると鮮やかな「柿渋茶」を発色し、化学染料にはない独特の風合いになります。また、柿渋は漢方薬としても知られ、タンニンが血圧降下、火傷、二日酔いなどに効くといわれています。古くからの染料柿渋を、大原の良い水と環境のもとに一つ一つ手作業で染め上げました。
 ィ.渋柿染めの特徴
 顱砲匹鵑匹鷽味が強くなる
   柿渋染めの最大の特徴はどんどん色味が強くなる事です。これは柿渋の主な色素成分であるタンニンが年月とともに縮合重合するからなのです。だから使い込むほど、また古くなるほどイイ色になっていくのです!

 髻防水効果
   柿渋は塗り重ねる事によって一種のタンニンの皮膜のようなものを形成します。そしてタンニンは縮合重合する性質がありますので、タンニンの皮膜はどんどん丈夫になり防水効果が得られるようになります。昔の番傘に柿渋が塗られていたと聞くとその防水効果は一目瞭然ですね。

 塗布物を堅牢に
   柿渋の成分で忘れてはいけないのがペクチンです。このペクチンは接着性が強く、一閑張りなどはその性質を利用したものと言えます。縮合重合とともにペクチンは次第に不溶化傾向となり、塗布物は丈夫になります。
 ゥ.柿渋の用途
 顱棒鏡〆
   江戸時代以降、日本酒の製造工程で柿渋を塗った袋が使用されていました。これは酒袋と呼ばれていました。この酒袋でもろみを搾って酒の中のいらないものをこしとっていました。酒が機械で作られるようになった今でも柿渋は、そのタンパク質を固める効果を利用した清澄材として使われています。
  供健康に:血圧降下・整腸作用など
    柿渋は昔から脳卒中の民間療法として、また中国では漢方薬として飲み継がれてきました。そのほかにも効用として血圧降下や二日酔い、やけどやしもやけ打ち身に至るまで様々な説があります。
  鵝法
一閑張り」に:和紙で容器が作れる

   柿渋を和紙に塗布しその上に和紙を貼り・・・この作業を繰り返して一閑張り(いっかんばり)ができます。柿渋の塗布物を丈夫にする効果を利用した民芸品です。古くより農家では収穫したもの(豆など)を入れていたとか。    

  堯砲修梁勝Ю色用型紙(防水効果)、建具(防虫・防腐効果)、染(奥ゆかしい色目)。説明略。
2)多分家の畑か庭先に生っていた柿を染色用に採って渋液にし、それを蔵に何年も熟成されたものだろう。
 同じ茶系色でも違いがいろいろあって面白い。図案になっている。非常に落ちついた色で高齢者家庭のクッションカバー・その他壁掛け・敷物などインテリアに合いそうだ。
 なお、「渋い」は、いろいろな意味に使われる。渋柿を食べたようなしぶれるような味、にがりきった・不機嫌な表情、出し惜しみ・ケチ、派手でなく落ち着いた趣、地味で深い味わい など。
  なお、110年程前大学時代のゼミ会でI君に自分の持ってる株を話すとある銘柄に対し「渋い」と言ったのを憶えている。その時 地味で目立たず安定着実と解釈。
2菫にない繊維作品:刺し子(布地に糸で幾何学模様等の図柄を刺繍して縫ったもの)、刺繍、生地図案、布(高田縞、亀田縞)、帽子、吊るし雛、縫いぐるみリースなど。

(4)和紙工芸
^豐彡
むら展5
1)一閑張(資料:ウィキペディア)

 a.名前の由来
  明から日本に亡命した飛来一閑(ひき いっかん)が伝えて広めた技術なので一閑張になったという説、農民が農閑期の閑な時に作っていたものなので一閑張と呼ばれるようになったという説、一貫の重さにも耐えるほど丈夫なのが由来なので漢字の書き方も一貫張という地方 もある。
 b.作り方
  
で組んだ骨組みに和紙を何度も張り重ねて形を作る。また、木や粘土の型に和紙を張り重ねた後に剥がして形をとる方法もある。形が完成したら柿渋や漆を塗って、色をつけたり防水加工や補強にする。
 c.用途
  食器や笠、机などの日用品に使われたが、現在はあまり一般的に使われていない。人形やお面などにも使われている。
食器は高級料亭等でお皿として現在も利用されるが、日用品としては高価で一般に普及することがあまりない
    《参考》和紙原料(資料:「和紙の博物館」HP)
  ァ.和紙の代表的な原料
   顱縫灰Ε勝▲潺張泪拭▲ンピ
   髻僕由
 繊維(せんい)が長く強い、繊維にねばりけがあり繊維同士がからみやすい、繊維がたくさん取れる、栽培をするなど原料の入手がかんたんにできる(ガンピは栽培できない)、他の植物にくらべ、紙にしやすい、できあがった紙がきれい、できあがった紙が使いやすい等
 などなど
  ィ.その他の和紙原料(但し、主にコウゾやミツマタなどに混ぜて使われる)

   顱縫ぅ諭Ц気話羚颪濃箸錣譴呂犬瓠日本では鎌倉時代に山梨県で使われていた。書画用紙。
   髻縫織院Д織韻盡気話羚颪如⊆腓縫泪瀬韻筌魯船が使用。繊維が堅く紙にするのに時間と手間がかかるため生産量は少ない。書画用紙。
   鵝縫汽技罅北海道の幌加内町では、チシマザサの繊維100%で紙を漉いている。
   堯縫ジノキ(クワ科):コウゾと見分けにくい植物。障子紙・傘紙・提灯紙)など。
   )その他:パルプ・ムギ・バナナ・故紙・クワ・スギ・ヒノキ・クズなど。
       
   ゥ.基本的には、植物であれば紙にできるが、向き・不向きがある。
2)一閑張は、柿渋とも係わりがあるということで、柿渋染めと同様確認してないが柿産地であるご当地と大いに係わりあることを期待したい。
 a、作品は、皿、茶托、お盆、ザル、お椀、花入れ、壺など 生活実用品。
 b、器の底は、茶色が基本の中で部分部分に濃淡の変化をつけ図案にしているものとか、顔料を施し絵にしたものとかいろいろで。ここにも個性の発揮が見られる。ある作品には、「ザルに和紙を張り、模様をつけ、柿渋を塗ります」という説明書きが添えられていた。
 c.一閑張は、手作り故に同じものはなく、用途開発・デザイン開発など独創性を発揮でき、実用品でもあるため心身及び生活に役に立っていることは間違いない。
下げ紙(画像はない)
1)正月に神棚や床の間、鏡餅の下、門松などに下げるお正月飾り。「前垂れ」「はかま紙」などとも言われる。佐渡や越後では正月飾りには欠かせない。販売目的や頼まれて作るところでは11月頃より作り始めるようだ。様々な縁起の良い図柄の型紙から習字紙・半紙(縦35cm・横25cm前後の和紙)に切り出して作る。
 「半紙」の由来は、平安時代の「延喜式」細則に和紙の規格の記載があり、寸法は横尺三寸(70cm)、縦一尺三寸(39cm)で、半分に切って使ったことによる。

2)作品には、「賀正」と切り抜いた文字とニワトリの親と子の切り絵を合わせたもの、滝を上る鯉やニワトリの図案の下げ紙があった。ニワトリは、今年の干支の鳥。

(5)木工芸
   《参考》佐渡の木材:「佐度の木材図鑑」
  (資料:「新潟県佐渡地域振興局農林水産振興部(林業)」サイト)
.ぅ船ぁ憤谿漫櫟:イチイ科イチイ属):彫り物等小物類や天井板等の建築材料。国見山のイチイ(両津地区)は佐渡市の天然記念物に指定。
▲ヤ(栢・榧:イチイ科カヤ属):風呂桶等の水回りや碁盤・将棋盤。「徳和集落(赤泊地区)はカヤの産地として有名で、現在でも佐渡市の天然記念物に指定されている「大椋神社の大榧」等の巨木が残っています」
アカマツ(赤松):梁等の建築材料や船舶)、スギ(柱材や板材等の建築材料。
ぅ好(杉):柱材や板材等の建築材料。「かつては舟山杉(相川地区)や川茂杉(赤泊地区)といった天然杉が有名でしたが、現在ではほとんどが人工林となっています」
ゥ劵離(檜:):日本産樹種で建築材料として最上とされ、社寺の柱等に利用。
Ε▲謄咫福弁磧Д劵離科アスナロ属):アテビは佐渡の地方名で、「佐渡市の木」に指定。青森ヒバ・能登アテと同種。水に強く古くは風呂桶・土台等に利用、柱材等建築材料に活用。
Д屮福併殻嘶亜橅):家具・スキー板・楽器。「佐渡では市の天然記念物に指定されている安養寺のブナ林のように特異的に低地にも生育していますが、ブナは本来標高の高いところで育つ樹種であり、大佐渡山地の標高600メートルを超える地点からまとまってみられるようになります(小佐渡山地には天然分布していません)」
┘潺坤淵蕁平綟蝓Д屮焚淵灰淵藺亜法А屬そらく佐渡ではシイタケのほだ木や薪炭としてしか利用されていない」。かつては北海道の材が高級家具材として主にヨーロッパに輸出
コナラ(小楢・枹:ブナ科コナラ属):「シイタケのほだ木や薪炭としての利用が主」(推定)。「県の天然記念物に指定されている杉池の広葉樹林(両津地区)は、コナラを主体とした森林で巨木が林立」。
クヌギ(椚・櫟・橡:ブナ科コナラ属);材質は堅く、建築材や器具材等のほか、シイタケのほだ木。
アカガシ(赤樫):ハンマー・鍬等の道具類の柄。「落葉樹のナラ類よりも暖かいところを好み、佐渡では標高の低い地域で見られます」
クリ(栗):家の土台や枕木等
ケヤキ(欅・槁):「日本産の広葉樹材では最も珍重される木材」
ホオノキ(朴):、彫刻材・版木・家具等
オオヤマザクラ(大山桜):家具材・楽器等、樹皮は樺細工の工芸品、香りが良いことから燻製用チップ
哀ハダ(黄檗・黄肌):床柱や家具材、樹皮の黄色い部分は、生薬(整腸剤)、染料
吋魯螢リ・セン(針桐・栓):家具材・下駄材等
殴キ(柿):床柱や茶道具に使われる他、ゴルフのウッドヘッド。「佐渡島は羽茂地区を中心にカキの一大産地ですが、おそらく木材としての利用は皆無だと思います」
灰リ(桐):家具材・下駄材・床材等。「小規模ですが、佐渡島内でも造林されています」
  (参考は以上)
\膺輿〔仮称〕 収納箱付
むら展12
1)キリ(桐)材について(資料:ウィキペディア)
 キリは、古くから軽くて、湿気を通さず、割れや狂いが少ないという特徴があり、良質・高級木材として重宝され下駄、箏(こと)、神楽面、箱、特に箪笥の材料として用いられることが多く、桐箪笥といえば高級家具の代名詞。かつて日本では女の子が生まれると桐を植え、結婚する際その桐で箪笥を作り嫁入り道具にする風習があった。また、家紋や紋章の意匠に取り入れられてきた。発火しづらく金庫の内側に利用。日本各地で植栽されていたが、需要の高まりや産業構造の変化で北米、南米、中国、東南アジアから輸入されることも多い。
2)展示作品の素材は、人物や踏み台はともかく収納箱は桐に違いない。金箔の菊花紋も桐だろう。
 a.桐は佐渡にも造林。作った人は業者やプロでなく趣味人のはずだから、外材をはじめ島外産の桐を購入してまでして作るは考えられない。その他の部位も同様。浜梅津産でなくても佐渡産であることは確実だろう。そうでなければ、厳しい言い方すれば芸はなく、民芸という資格はない。
 b.人物の踏み台は2段あって、いずれも広く安定感がある。上の段は下の2.5倍の高さ、仙人像の頭のてっぺんから天井まで同じくらいの高さ・空間があり、それがユトリ感を醸(かも)し出し、全体として均衡のとれたバランス感を与えている。
 c.収納扉の上に付けられた菊紋は、花弁16の「十六菊紋」。格調の高さを伝えている。
⊂棋盤(将棋台)

むら展11

1)将棋盤・碁盤の木材
 a、棋盤・碁盤の材木に新カヤ、カツラ、イチョウ、ヒノキ、ヒバなどがあるなか本榧(ほんカヤ)は、「碁盤・将棋盤の最高峰で、美しさ・打ち味(指し味)・打音・香りと、全てにおいて榧に勝るものはありません国産榧の産地は、本州・四国・九州(屋久島まで)に分布し、主に暖帯林中に散生します。その中でも宮崎県の「日向榧」と高知県の「大正榧」で作られる盤が最高のものとされる。良い碁盤を製造するためには最低300年以上の樹齢の榧が必要で、国内の榧は絶滅に近い状態〔外材に依存〕」(前川榧碁盤店HP)」
  カヤは、「本州(宮城県以南)の太平洋側、四国、九州に自生しています。(佐渡島・対馬・屋久島などにも自生していますが、大木は伐られてしまったり、伐採禁止になっています。)」(「大久保碁盤店」HP)
 b.08年12月14日号「佐度の生き物49:大椋神社の大榧(カヤ)
 「➀徳和は、昔からカヤの産地
 1)明治になってから編集された徳和村誌に、「羽茂郡徳和村 榧材 子実とも称して名産とす」とある。
 2)「もとは徳和はカヤ山であった。カヤの林の中に家々があった」(古老)。徳和山寺集落の背後の東斜面一帯は、明治の末期まで800突召料柑海天然のカヤの森林でおおわれていた。”カヤの木山”
 その実は”生(な)っても百俵、生らでも百俵”と語りつがれ、明治36年に伐られたカヤの夷木(えびすぎ)は、目通り幹まわり8.8m、直径2.4m、切り株には筵(むしろ)が6枚も敷けたという。
 3)「カヤの碁盤」の産地として、徳和の名が知られていた。
 4)1973年、赤泊村は村の木としてカヤを指定し保存に乗り出した。
 ▲ヤと地元の人々
 1)”メギ(雌木)とオギ(雄木)があって、オギには実がならん。二レー(代)をつくってから実を落とす縁起のよい木だ”
 2)秋になると実が落ちる。9月15日の徳和祭りの前後から実が落ちる。
 a.昔は、カヤの木の下草を刈って拾いやすくしておいた。1本の木から5斗俵で5俵もとれたカヤもあった。村全体で、年に500石も拾った。
 b.大正末頃までは、カヤの実を仲買人に渡し、その代金で塩・魚・衣料などの購入にあてた。
 3)”米よりカヤの値段がよかった。米のゼニよりカヤのゼニの方が多い家もあった。実が売れんようになって、カヤの木をおこして柿を植えた。カヤの実で、うまいのはカシガヤ、まずいのをザコガヤ。煎ったカシガヤを砂糖にまぶし、かたくり粉をつけた「コロモガヤ」は、カントウマメ(落花生)より、よほどうまい。実は、虫下しにもなるし、体があたたまり、寝小便にも風邪にも効く。高血圧、糖尿病にも効く。マメガヤ、オオガヤ、タカノツメ(楕円体)、ツナギガヤ(くびれ)、ヒダリガヤ(種皮に左巻きのよじれ)と木によって形も違うし味も違う。カヤ餅も作ったし、実から油もしぼった”(二人のお婆さんの話)
 4)”カヤの木風呂”は、金持ち長者の風呂であったと古老は語る。
 5)初冬、雉(キジ)が里へ来てカヤの実を啄(ついば)む。腹をさくと、胃袋はカヤの実が、詰まっている。赤泊のキジ肉は美味い。カヤの実の油が肉にのっている。
 (資料:『佐渡山野植物ノート』(佐藤邦男/著))」
     《参考》将棋盤(資料:前掲「前川榧碁盤店」、ウィキペディ
 ァ.木取り
  原木から盤材を切り取ることを木取りと呼ぶ。
 ィ.木目:木取りには、大きくは天面〔てんめん:上から見た表面〕の木目〔もくめ〕によって柾目〔まさめ〕と板目〔いため〕がある。高級な順から天地柾、天柾、木裏、木表となる。
 顱頬鑢(まさめ):木目は天面からは真っ直ぐ平行・等間隔に伸び、反りや狂いに強い木取り。柾目は高樹齢(本榧〔ホンカヤ〕は樹齢300年以上)の大樹が必要なため、貴重・高価。
 a)四方柾〔しほうまさ〕:大木の芯から45度の木取りのため盤の四方〔対局面の「木口(きぐち)とその両側面=木端(こば)〕が柾目模様はとなる。木材の大きさ・木取り・性能からして最高級品に位置。
 b)天地(てんちまさ):芯を横に位置するよう木取りし、天面の柾目が裏面まで通ったもの。よほどの大木でないと製作できない。
 c)天柾(てんまさ):芯を角に位置するよう木取りし、天面が柾目となるもの。天地柾に次ぐ高級品。同じくよほどの大木でないと製作できない。
 d)追柾(おいまさ):基本的には柾目の木取りであるが、盤の端に板目が現れた木目
 髻鉾通(いため):木目は天面もしくは、裏面が芯側となるため、山型や不規則な波型の模様が現われる。
 ゥ.盤の表と裏
 顱北變◆覆うら):原木から切り出した木材の、木の中心〔年輪の芯〕に近い方の面が天面になる盤。
 髻北敝宗覆おもて):原木から切り出した木材の、樹皮に近い方の面が天面になる盤。
 〔将棋盤の価値は木裏側の方が木表より高い〕
 ェ.将棋盤の大きさ(脚のない卓上将棋盤でなく脚付き盤)
 顱紡腓さは縦1尺2寸〔≒36cm〕・横1尺1寸〔≒33cm)・厚さ(脚を除いた高さ)は、脚付き盤で2寸〜9寸〔≒6〜18cm〕程度まである。

髻望棋タイトル戦では、6寸〜7寸〔≒18〜21cm〕のものが多く用いられているという。
 ォ.9×9マス線
 顱望棋盤の天面には、漆〔うるし〕でマス目を示す線が引かれる。
 髻望棋タイトル戦に使用する盤などは、日本刀に漆をつけて線を引く技法の盤が用いられているそうだ。
 2)出展作品
 a.素材は、カヤで且つ佐渡産と期待したいが果たしてどうか。
 b.天面から見ると木目が概ね真っ直ぐに平行・等間隔に伸びているから柾目で、対局の際正面となる面で年輪が見える木口(こぐち)から見ると、年輪の芯が天面の角にあるから木裏。但し、天面の柾目がそのまま裏面まで通っていないから天地柾ましてや別格の四方柾でなく、天柾で木表よりグレードの高い木裏。

 c.駒台は、木目が平行でなく山形・波形であるから柾目ではなく板目を使用。
 〔以上は、木材や将棋盤について全くの素人ながら、基本知識の応用として試した。毎日曜のNHKテレビ将棋を定石も知らないくせに見ること多いが、これで視点・楽しみが広がる〕
2菫にはないが、ガラスケースに納められた天狗面と大きな一本歯下駄が展示されていた。

(6)陶芸
  以下は、高橋孝夫氏の作品。
|聾気悩亮茲靴薪擇悩遒辰親器
むら展10

1)市販・通販されている陶芸用粘土を購入して使うのは便利であるが、誰でも同じで・どこにでもある作品になってしまい個性からは遠ざかる。また、土なら何でも陶芸にできるものでなくそれに合った土がある。また、地元で採取した土といっても所有者がいるから、誰でも自由に採るわけにはいかない。土の所有者は、県市町村・森林組合・グループ・個人でそれぞれ許可が必要だが、氏の場合梅津森林施業組合の役員というのも大きい。
2)陶芸の釉薬(ゆうやく・うわぐすり)は、主に石の粉と石灰や粘土、そして植物灰を調合して作る。今回出展した作品に使っているかどうかはわからないが、以前取材時に見せてもらったのが柿灰釉(かきばいゆう)で創った茶碗。
 a.植物灰は、木灰(薪ストーブ・薪を使った焼成窯などから得た)・藁灰(20世紀末期からコンバインを用いる農家が増え藁を稲刈に連動させて田に還元してしまうため入手が困難。このため陶芸家の中には、農家と契約し安定的に藁を供給してもらっている者もいる)を加えたもので、灰や粘土の中に含まれる金属成分により色が付いていた。現在では、あらかじめ金属成分を溶かしいれ、絵具のように用い素焼きの陶磁器に模様を付け(「絵付け」)。
  (資料:前掲「佐渡の画廊42:村の陶芸家作品」)
 b.灰釉薬は原料の入手が難しく、品質も安定しにくいが、深みのある肌が得られるとされる。柿灰釉は、柿の木の灰で、ものにするのにテストの繰り返しを要すようだ。

 陶磁器を創るのに 粘土といい釉といいこだわりあってのことだ。

¬滴天目に挑戦
むら展0
1)油滴天目茶碗について
 a.天目茶碗
 ァ.
天目茶碗(てんもくぢゃわん)とは、元は茶葉の産地だった天目山一帯の寺院に於いて用いられた天目山産の茶道具で、天目釉と呼ばれる鉄釉をかけて焼かれた陶器製の茶碗のこと。長石と石灰岩、鉄イオンを原料とする釉薬を使用。
 ィ.天目茶碗の代表的な物として、現在の福建省建陽市にある建窯で作られた建盞(けんさん)と呼ばれるものや、江西省吉安県にある吉州窯で作られた玳皮盞(たいひさん)/鼈盞(べつさん)が挙げられる。前者からは「曜変天目」(ようへんてんもく)・「油滴天目」(ゆてきてんもく)・「灰被天目」(はいかつぎてんもく)・「禾目天目」(のぎめてんもく)、後者からは「木葉天目」(このはてんもく)、「文字天目」(もじてんもく)、「鸞天目」(らんてんもく)が派生した。(以上資料:ウィキペディア)
 ゥ.茶碗の底に付けられた高台(こうだい)と呼ばれる円環状の台部は低く小さく、茶碗の安定性を保つため、天目台あるいは貴人台と呼ばれる専用の台に載せて使われる(「藤田美術館」サイト)。
  茶道の点前(てまえ)の一つに台天目があるが、これは天目茶碗を畳の上に直に置かず黒塗りの専用の台に載せたまま行う作法。
 b.油滴天目(資料:「国立博物館所蔵国宝・重要文化財」サイト)
 ァ.〔茶碗の底部ぬある〕高台周辺を除いて全体に掛けられた漆黒(しっこく)の釉(うわぐすり)、その内・外
面の黒い地に銀色に輝く斑紋(はんもん)が浮かび上がる。「油滴」の名はその美しさが油の滴のようであるところからという。現在では油滴天目茶碗と呼ばれるが、室町時代には「油滴」、「油滴天目」と呼ばれていた。中国福建省北部の水吉鎮にある建窯で焼かれた碗である。
 ィ.建窯で焼かれた黒い釉薬の掛かった碗は「建盞(けんさん)」の名で呼ばれる。中国で喫茶(きっさ)の碗として最高のものとされ、日本でも既に鎌倉時代にはその名が文献に現れている。建盞は黒い釉地に細く短い線状の模様が現れ、これをイネ科の植物の禾(のぎ)に見立てて「禾目(のぎめ)」の名で呼ばれる。そうした建盞の中で、釉内の鉱物が再結晶することで斑紋として現れたものが油滴であった。
 ゥ.室町将軍家の座敷飾(ざしきかざり)のマニュアル書で、その当時の価値観を知ることのできるものに『君臺観左右帳記(くんたいかんそうちょうき)』がある。前半には床を飾る絵画に関連して、画人の評価と得意とする画題が記されている。後半に「書院之次第」として、そこを飾るのに用いる唐物(からもの)の茶入や喫茶の碗などについての記述がある。そこで「土之物」という項目が立てられ、喫茶の碗の中で磁器ではないもの、現在で言う天目、天目茶碗についての記述がある。それによれば、土之物の中で最高とされるのは、曜変。これに継ぐものとして挙げられているのが油滴であった。
2)「油滴天目」とあるのを見て思い出した。昔茶道をやったことがあるからで、「油滴」と言えば「曜変」もあり、いずれも見たことはある。
 イメージとしては、油滴天目は誰でも作れるものでなく制作が大変難しく希少で高価値の茶碗。油滴は油のような班紋があり、曜変は茶碗に湯を入れると色が変化することに由来。天目茶碗といえば、お点前では台天目でよく使ったように覚えている。
 過去の許状類を出してみると
  「許状 今日庵」を開けると、「茶道就執心今般入門之儀今許〇如件 
   昭和50年〔1975〕2月10日 裏千家今日庵 利休居士15世 千 宗室 」とある。
   中級に属す茶通箱(さつうばこ)や唐物や台天目はやっているが、許状が見当たらない。
   昭和54年12月10日付は、「〇〔おそらく「行」〕之行臺子〔行之行台子(ぎょうのぎょうだいす)〕伝法 今日庵」
   昭和56年7月1日付は、「大〇〇〔多分「大円草」か〕伝授 今日庵」
  とある。なお、茶道は昭和57年秋頃から仕事で時間が取れなくなったため習うのをやめた。真之行台子(真台子をもって行うもの)まで習ったと思ったが、許状が見当たらなかった。
ユニーク作品
むら展8 
1)展示作品には「飲みやすい湯飲み」と画像はないが「味がわかるカップ」があった。
2)氏について 今回は趣味人でもこだわりの面の他にプラスして発想豊かで楽しさを創る「村のアイディアマン・発明家」の面を拝見。

(7)瓢箪(ひょうたん)工芸
むら展6
1)瓢箪工芸について、2013年3月12日号「佐渡の画廊31:瓢箪工芸」に作品と内容を記述。
 例えば、作品は瓢箪の栽培から行い(瓢箪の種もいろいろある)、形は成長段階で首に紐を巻いておくと渦巻き状になる等いろいろな形を想定して瓢箪作りををするとか、1人の瓢箪人形をこしらえるのに4個の瓢箪を使っている等々。
2)今回の瓢箪作品は、アラビアンナイトの世界を連想させる。瓢箪から作ったとは思われない程色鮮やか。更に90歳の人の作品とは到底思われない斬新さ・若々しさに驚き。
(8)その他
 粘土細工、アケビ細工(アケビの蔓〔つる〕で編んだカゴ)、サザエの殻細工(サザエの殻を利用した人形)、ガラス細工、絵画、写真等。

2.参考データ
(1)浜梅津地区の人口・世帯数の推移(住民基本台帳による。佐渡市役所)
         2007年3月末 12年3月末 17年2月末(3月未経過)
 世帯数       37       35      33
 人 口        98       85        71
 世帯当たり(人)  2.6       2.4      2.2
(2)出品(訪問当日聞いたもので公式でなく且つ経過数値に留意)
 ―佗兵圈  。僑疑
  うち浜梅津居住者数 その時点不詳。
  浜梅津以外では、駒坂、平沢、舟場町、春日町、夷、長江、椿など。その場合 浜梅津が実家など関係があるとのこと。
 ⊇佗平堯 。隠苅古澄
(3)見学者数
 ヽ催6日目の2月6日(月)は、15時前時点で300人、明日は最終日で見学者の総数は350人に達するのは確実とのこと。
 期間7日間で試算上は1日当たり50人が来訪していることで、集落人口の71.4%が毎日訪れていることに相当する。 

3.まとめ
”庸瀋鼎爐蘚犬鮗分なりに次のように意義付けた。
 1)むらの人びとが、年齢・男女・職業問わず
 2)むらでの暮らしに必要なもの(個人の道楽含む)を自分の手で
 3)むらにあるもので作り(書・絵・写真等は別))
 4)むらの公民館に一斉展示し、むらの人はじめ多くの人に来てもらい楽しんでもらい
 5)むらの人同士及び外部の人との交流を深め合う場
 である。
具体的には

1)出展応募者
 出品について浜梅津の住民でなければならない決まりはなく(但し、村と何らかの関係があり村の人の申し出と承認が必要だろう)、また年齢制限などはなく 現に90歳の人・100歳の人が出品している。このことだけでも全国に数ある市町村・集落でも極めて稀なケースと言えよう。年齢制限なくても(これはフツウ)、90・100歳の人の作品が展示されているという事実の方がはるかに重要・貴重。
2)「地産地消」ならぬ「地産地活」:「暮らしに必要なものを」「むらにあるもので」作る
 例ヽ舛虜惑櫃坊腓せない柿の木の枝の剪定や摘果(柿の実の間引き)によりいわば不要物の再資源化・再活用。
  一つは柿の木の枝を果樹灰にし柿灰釉を作り、茶碗等の制作に生かす。柿色を出すため市販の化学顔料の柿釉とは異なる。
  一つは渋柿の実から柿渋をとり、
   a.各種模様の柿渋染めの生地を作り、それを基に例えばクッションカバーとして利用。
   b.柿渋を塗った和紙を張り重ねることで丈夫な一閑静張の皿、茶托、お盆、ザル、お椀、花入れなど。
 例▲▲吋咾量◆覆弔襦砲鰺用したかご・手提げかご・皿等。
3)公民館の活用
 a.文部科学省は、公民館を地域住民の最も身近な学習拠点で 集える拠点と位置づけている(後掲)が、当集落では既に「浜梅津文化センター」と位置づけ、毎年むら展を開催。 本質・核心は、学習は大事だが、そこから更に創作という自己実現=生きがい・やりがいの場を設けることにある。
  具体例として、
 ァ,普段は寝たきりのあるお年寄りがいて むら展が近付くと何か協力せんけりゃならんということで起き出し、一日は何を書くか考え一日は書くことに集中し、その後はまた寝たきりになるとのこと。
  この場合、生き甲斐・やる気、さらには健康を保つ源泉は、むら展にあるといって過言でない。
 ィ.地域住民のための公民館であることが基本であるが、島内の他地域はおろか島外からもむら展を観に公民館にやって来る。これは、意図してできるものでなく従来の公民館活用の枠にとどまらない重要なことを伝えている。
      《参考》公民館の振興(資料:「文部科学省」HP)
 「公民館は地域住民にとって最も身近な学習拠点というだけでなく,交流の場として重要な役割を果たしています。平成23年10月現在,全国の公民館数は1万4,681館となっています。
 公民館においては,住民の学習ニーズや地域の実情に応じた多様な学習機会の提供が行われています。さらに,今後は,社会の要請に的確に対応した取組や,子どもや若者,働き盛りの世代も含めて,地域住民全体が気軽に集える,人間力の向上などを中心としたコミュニティー(地域社会)のためのサービスを総合的に提供する拠点となることが期待されています」

4)むらの人同士及び外部の人との交流の核心は、互いの自己啓発・相互啓発
 a.展示室の続きの畳の部屋には石油ストーブとテーブルがいくつかあって村の人何人かが待機、来客にもお茶と菓子が用意され、くつろげる場となっている。
 b.動画で見たが、岩首の著名人=棚田おじさんが見学に来て(車で多分1時間)、地元瓢箪工芸作家の高橋保一氏と歓談。高橋氏の写真入りの瓢箪資料を見ながら手ごろな形の瓢箪(植物)の作り方や器のコルク=栓(せん:木製)は自分で作ったものか等々聞いていた。思う形の瓢箪は種の栽培から始めて途中で仕掛けをしないと作れないこと、器の栓は木工旋盤があるので自分で作ること、竹の栓を考えている事からからさっき玄関口で竹の杖を見たが氏が作ったものかを問うとそうとの応答で、今度は棚田おじさんが東京銀座にあるグッチ〔イタリアの服飾・革製品メーカー〕のバッグの持ち手は竹であることについて情報を提供【グッチの代表的なモチーフは“バンブー(竹)”で、ハイヒールや香水やネックレスや時計や財布にも使われている(但し、本物の植物の竹でないだろう)。また、佐渡の竹の産地は岩首】
 c.鑑賞者は作品を観て感動し、何らかの刺激を受け啓発となる。作者にとっては鑑賞者のズバリ評価を知りたく、それが啓発になるようだ。
    例:私がよく訪れるブログでの経験
 ァ.1月下旬同ブログ管理人が所属する地域の油絵サークルの方々の第21回大阪を描こう展(17年1/4~9日開催)入選作品を拝見。その中で特に感動した作品について 佐渡もんCという名でコメント。
    見飽きない絵:瀑布(箕面大滝)

 滝の絵といえば、普通は上から下へ落ちる全体が描かれ、一般に縦長表現。当絵は、途中からで横長。ウェブで箕面大滝お写真(春夏秋冬、全体でなく部分あり)を見ると、一枚の絵にするのは非常に難しいと痛感。そこを思い切りよく「瀑布」に絞り細かいところの描写を可能にした。滝には、川だけでなく瀑布や雫や滴もある。岩の色には、白・灰・土・茶・濃茶・黒(光の加減と遠近に影響)があり緑の草も生えているのが見え、樹木や水面(樹木が映る位置に影響)も色彩や陰影の変化がある。
 今回の一連の絵画展〔大阪を描こう展入選作品〕では、構図と陰影の難しさの気づきと面白さ(例:参道にある宣伝物は描く絵からは邪魔だからカット)を味わうことができました。
 ィ.管理人さんよりRe:
  絵でも写真でも自分の表現したいところを中心にモチーフを切りとります。特に絵の場合はおっしゃるとおり、いらない物は整理したり省いたりし、必要と思えば付け加えたりして自分の世界を構築します。そこが制作者の醍醐味というものなのです。「瀑布」の作者にも佐渡もんCさんのコメントを伝えておきます。(わざわざ言わなくてもこのコメントをご覧になると思いますが・・・)きっと喜ぶと思いますよ(^O^)
 ゥ.作者さんよりRe:(〇〇先生のブログをお借りして‥‥‥)
  岩壁は、私の一番気にいっている部分です(^^♪ 
 しぶきが飛んで表面がザラザラしている所は、モデリングペーストを下地に使って、それらしさを表現致しました。褒めて?下さって、とっても嬉しいですヽ(^。^)ノ 家族や近しい人は「エエやん!」って言うてくれましたが‥‥
  佐渡もんCさんが私の意としたところをくみ取って下さって 嬉しくて、嬉しくて嬉しくて嬉しくて嬉しくて嬉しくて
嬉し過ぎて、うれしくて嬉しくてうれしくて嬉しくて もう〜(#^.^#)どうしよう〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜(^_-)-☆
 ェ.ご両人への感謝のRe後の管理人さんからRe:
  再度のコメントありがとうございます。
 HKさんも感謝の気持ちが伝わり、また喜んでいると思います。この作品は彼女が出品のため1年間近くも制作していた作品なのでいろいろ思いがあり、それを少しでもわかっていただけたことで舞い上がっているのではと思います。
 絵はどこが終点か不明で、画家とは不安で孤独なモノですから、ちょっとでも感動していただける理解者の存在はとてもありがたいのです。(失礼ながらそれが素人と謙遜される方でも・・・)これで、彼女も次の作品にとりかかる元気をいただけたと思います。改めてコメントありがとうございました。
    (例は以上)
 この経験をしたため、むら展の記事を8割くらい書き込んだ辺りで「佐渡広場」を知っている高橋孝夫氏にその旨をお伝えした。
 なお、鑑賞時間は短かったが帰る際 前に見覚えのおばさんから玄関のところで「来年も来てください」という言葉をもらい、渡辺氏からは雪の残る外に出て来て自分の乗った車を見送ってもらったのが印象に残った。 
  以上 17.4.28























佐渡の画廊43:東京国際キルトフェスティバル展


 こんにちは!自在業の櫻井です。
 本格的書き込みは、3月になってしまったが、同級生(小学校入学時席が隣り合わせ)のキルト作家 鎌滝津江子君(以下「女史」)のキルト作品を取り上げようと思ったのは1月下旬、高校で同級のK子君(以下「彼女」)のブログ「まい、ガーデン」の「キルト展」記事で6枚の部分画像を見たのがキッカケ。冒頭に、「佐渡の同級生が出品しているので、首都圏在住の仲間7人と見て来ました。大作」とあった。
 女史の作品はこれまで佐渡広場に2回記事にし、直近は6年前の11年6月新潟朱鷺メッセでの鑑賞。その時のことを次のように記した。
 「^篤皀魯キにある写真などを観るのと実物を前にして観るのとでは、迫力が違う。
 1)これは、絵画に限らず音楽の場合CDやDVDを通して聴くこととの違いで、何にでも言えることであるが、ことキルトについては、それが大いに当たっている。何しろ、縦横2mもある作品が標準サイズであるからだ。
 2)そのことは、鎌滝女史からも言われたことがあり、実際経験すればよくわかる。作品を前にして、写真では見えなかったもの・知らなかったことがわかって来る。専門家であれば、継ぎ目・縫い方まで鋭く鑑定するはずで、写真頼りや遠くからでは正しい判定ができるはずはない。
 3)例えば「鬼太鼓」の場合、鬼の髪の毛の色と髪の流れがそれぞれ異なり、目線は違っても互いに相手を意識しているという面白さが伝わってくる。また、胸当てはじめ生地面の膨らみを楽しむことができる」
 さて、今回の東京国際キルトフェスティバル展での出展作品は、佐渡の北小浦に棲息するコブダイが主役。画像を観てだけであるが、これまで以上の迫力を感じ取った。
 そのため佐渡広場の記事に是非と思い女史にケータイメールし私のパソコンに送ってくれるよう依頼。当人はパソコンには馴染まないようで後日妹さんを通じて3枚の画像が送られてきた。
 だが、期待したより数が少なく、また生地の縫い合わせ目が分かるのものがあればと思っていたが、これがキルト(芸術)だと主張できるような精緻・精巧さが伝えられる画像でなかった。なお、キルトは陶芸と同じく工芸であっても、中には絵画のように美術に属すものもあると認識していた。
 彼女の撮った写真は、私の期待水準を超え、感激・驚嘆に近い水準であることは確か。自分自身でもそこまで巧くは撮れない。
 それでそれら画像をブログに転載したく、彼女にコメント欄を利用して意向を伝え(アドレスは、昨年妙高でのクラス会で写真を送ってもらったのだが消失)、女史にもケータイメールでその旨を伝え、それぞれ了解を得た。 
    参考:「第16回東京国際キルトフェスティバルー布と針と糸の祭典ー」

 会期:2017/01/19 (木)〜25(水) 9時30分〜18時00分
 会場:東京ドーム
 主催:東京国際キルトフェスティバル実行委員会
   (NHK、読売新聞社、東京国際キルトフェスティバル組織委員会)
 後援:外務省、経済産業省、東京都、アメリカ合衆国大使館、NHK出版、NHK文化センター   
 企画運営:NHKエデュケーナル、NHKアート、株式会社 東京ドーム
 入場券(税込):前売1,900円、当日2,100円
 特別協力:JAPAN AIRLINES
 協賛:KEYCOFFEE、東京ケーブルネットワーク、東京ドームスポーツ、東京ドームマーチャンダイジング、フコク生命、松戸興産

 応募総数:1,385点(海外40点)の中から入賞・入選作品322点が展示。
 展示部門名:
  トラディショナル部門、創作部門、和の部門、額絵キルト部門、バッグ部門、ジュニア部門 

   佐度に関係した出展作品
 作品名:「故郷佐渡の海掘廠い蝋啌ぁ廖 ]造良門 (以下「当作品」)
 作者:鎌滝津江子 

  佐渡市両津夷生まれ。両津市立両津南中学校・新潟県立両津高等学校家庭科・東京家政大学服飾美術学科卒業。
  中高等学校家庭科教員歴有。日本手芸普及協会講師指導員。国内外キルトコンテスト入選入賞。ロンドン、シアトル、韓国にて国際交流キルト展に出展。
  最近は和布のキルトを制作発表。東京家政大学博物館、佐倉市酒蔵元ギャラリーにて個展開催。

 【関連過去記事〕 私自身出展作品の理解と味わいを深めるためのもの。

(1)10年03月06日号「佐渡の画廊12:コブダイ写真」
     参考:コブダイ(取材:エス・ウァルド(株)藤井徳三氏、資料:ウィキペディア)
\限区域
 日本海側では佐渡以南、太平洋側は下北半島以南で沖縄県を除く海域と朝鮮半島、南シナ海に見られる。浅海沿岸の海藻の茂る、潮通しの良い岩礁域とその周辺に生息。(氏の話では、佐渡では北小浦の海域のみ生息)
∪限
 1)ベラ科の属し国内のベラ科の中では最大級で、体長1m以上・体重15圓砲發覆襦
 2)食性は肉食。強力な顎と硬い歯でサザエやカキ、カニなどをかみ砕き、喉の奥の咽頭歯で更に砕いて中の肉を殻毎食べてしまう。(氏の話では、イカの切り身を持って潜るとコブダイが寄ってくる。その他、小魚を食べる)
 3)幼魚は体色がオレンジ色で、体側の中央に白い縦帯があり、尾鰭と尻鰭・背鰭に黒い斑紋もあるが、成長に従い斑紋は変化していく。
 4)雌から雄へ性転換する。
  a.コブは成長した雄だけにあり、下顎も同時に厚くなる。
  b.雌のコブは雄ほどではなく雄をコブダイと呼ぶのに対し、雌は別の魚としてカンダイと呼ばれていた事もあり、地方によってはカンダイと言う名で通っているところもある。
  【追記:コブダイは、性別がメスからオスへと変わる「雌性先熟(しせいせんじゅく)」の魚。「すべてメスとして生まれ、群れの中で体が一番大きくなった1匹だけがオスに性転換する」とあるが、実際は一匹だけでなくライバルが存在する。生き物は競争社会。それによってこそ個体が増えすぎも無くなりもせず、種の保存が保たれている】
 5)雄は、縄張り意識が強い。
  a.他の雄が侵入すると、激しい争いをする。(氏の話では、縄張りは一つの岩を岸側と海側に二分して持っている。他者が入り込んで争いになっても、結局は元からのコブダイの方が勝つ公算が大)
  b.産卵は晩春に行われ、雌雄が円を描くようにして海面へ上昇しながら産卵と放精をする。
J振兌命は、不明。(氏の話では、20年以上付き合っている個体がまだ居るから、20年以上の寿命はある)た用
 一年中釣れるが、旬は冬で磯臭さが抜ける。晩春から夏の産卵期にかけては磯臭く、味が落ちる。肉は白身で柔らかく、塩焼きや煮付けで食べるのが美味しく、旬の冬には刺身でも食べる事ができる。
 (佐渡の場合、佐渡スキューバダイビング協会と北小浦地区漁業者との間で、餌付けした魚を漁師は捕獲しない・協会は地区に対し受け入れたダイバーの数に応じた協力金を支払うとの協定がある。当然、コブダイも捕獲対象にならず、互いの協力により守られている)  
(2)10年11月21日号「佐渡の画廊25:キルト作品」「2.キルトについて」より
 「5)女史の使用する生地は、大正時代の人々が若い頃着ていた着物の古布で、正絹(しょうけん:絹糸)で織った縮緬(ちりめん)とその中の一種である錦紗(きんしゃ)。
 a.正絹は希少で高価品。
 ァ.絹(きぬ)は、蚕(かいこ)の繭(まゆ)からとった天然繊維。英語でシルク(silk)。独特の光沢を持ち、古来より珍重されてきた。なお、正絹に対して人絹(化学繊維)がある。
 ィ.絹何十%というのが、呉服の高級度を示す尺度となっている。絹100%が最高級。
 b.縮緬は、「丹後ちりめん」(京都府)・「浜ちりめん」(滋賀県長浜市)などが有名。
 c.正絹生地は、今日全国どこにでもあって容易に入手できるというものでなく、歴史からも関西地方に多くあるとのこと」
  (まとめより)「(1)手作りキルトの驚きは、古くなって着れなくなった衣類や使わなくなった生地や捨てられる運命にある端切れを実用品や装飾品などに変え、再生・再活用・再活性化できるという点であり、いろいろな意味がある。

 1)時代遅れになった衣服も、端材にし組み替えによって別の物に変え、新しい価値を生み出すことが可能となる。

 2)衣類の端材でも、同じもの同士や他のものとの組み合わせによって別物に変え、前より価値あるものに変えることが可能となる。

 3)端材の縫い合わせで、いくらでも大きな作品に仕立てることが可能となる。一つ一つ縫い上げるのであるから、相当の手間・時間を要す。」
(3)11年08月03日号「佐渡の画廊27:佐渡を描いたキルト」

  一部、冒頭に紹介。
 以上前提に記述。

1.キルトとは
 (資料:ウィキペディア「キルト」。過去記事にある)

.ルト(quilt)は、表地と裏地の間に薄い綿を入れ、重ねた状態で指し縫い(キルティング)したもの。日本では、多色の布を縫い合わせたパッチワークキルトが主流。
布に綿をはさむ技法や、端切れを一枚布に仕立てる技法などは世界各地に存在、古代エジプトですでに用いられていたとされる。
  各地のキルト(例)
1)ヨーロピアンキルト:キルトはヨーロッパの寒冷地で発祥したといわれ、保温のために布地に綿をはさんだのが始まりといわれている。十字軍の遠征に伴って、保温着としてヨーロッパ各地に広まり、上流階級の女性の手芸としてさまざまな技法が編み出された。その後、清教徒のアメリカ移民とともにアメリカに伝わった。

2)アメリカンキルト:布地の有効利用のために余った布や端布をつないで作ったのが始まりと言われている。当時は布の利用に主眼がおかれ、モチーフなどの制作は行われなかった。産業革命以降キルトにも装飾性が求められ、様々なモチーフが考案された。1800年代半ばから、『キルティング・ビー』と呼ばれる多人数で一枚のキルトを制作する会が催されるようになり、女性の主要な社交場となった。1900年代女性の社会進出が一般化するとキルトは一時衰退するが、1970年にキルト研究家ジョナサン・ホルスタインがコレクションを公開するとアートの一つとして再評価された。

3)ジャパニーズキルト:刺し子〔布地に糸で幾何学模様等の図柄を刺繍して縫いこむこと。保温・補強等のため麻布や木綿布に木綿糸で補強したものが始まりとされる〕を『日本のキルト』と呼ぶ場合もあるが、日本のキルト』と呼ぶ場合もあるが、通常はキルトに含めず、日本的な感性で配色されたキルトや和の素材を使用して作ったキルトを『ジャパニーズキルト』と呼ぶ場合が多い。
 a.1975年資生堂の主催で開催されたキルト展でジョナサン・ホルスタインのコレクションが公開されたことから徐々に『キルター』と呼ばれる愛好家が増え、アメリカに次いでキルトが盛んになった。
 b.当初はパッチワークキルトが主流だったが、トラプントやスラッシュキルト、クレージーキルトなどさまざまな技法を取り入れ、発展している。 しかし、「日本においてキルトは趣味の範囲にあり、生活に根ざしたものとなっていない」

   技法(例)
1)パッチワークキルト:布をはぎ合わせて一枚の布にしたものを、トップ〔表布のことだろう〕にして作ったキルト。
2)アップリケキルト:土台布の上にモチーフを縫い付ける技法(=アップリケ)でトップが作られているキルト。
3)トラプント:イタリアで考案された技法。中綿を入れた状態でキルティングを施し、さらに裏からモチーフ部分に綿や毛糸をつめる。
4)スラッシュキルト:16世紀にドイツで考案された技法。 数枚の布を重ね、0.5cm - 2cm 間隔で縫い、縫い目と縫い目の間に切れ込みを入れて水にさらすと切れ込みの部分がほどけ、起毛し、リボンやモールを連ねたような作品が仕上がる。格子状に縫い目を入れて×字型に切れ込みを入れる場合と、バイアス方向に直線上に縫い目と切れ目を入れる場合とがある。
5)クレージーキルト:19世紀に盛んに作られたキルト。ベルベットなどの綿以外の上等な布を多用し、刺繍やレースなどで装飾を加えたものを、ヴィクトリアン・クレイジーキルトと呼ぶ。通常、中綿は入れない。使用するパーツの形状や配置、配色に制限がない。
2.出展画像

 以下は、いわばバラバラの部分画像を自分なりにストーリーになるよう編成。
ヽぞ紂Τぬ漫Τっ罎陵融
コブダイ5

1)空と海が色分けされている。朝焼け時か、クリーム色の空に赤紫の帯も一部にあり、水平線の上には薄っすらと山影が連なり、スケールの大きな構図になっている。画像拡大すれば細かい膨らみが連続してあるのは、キルトならでは(「表地と裏地の間に薄い綿を入れ、重ねた状態で指し縫い(キルティング)」)のものだろう。離れて全体を観ることによって 布同士に親和性があり溶け合い繋ぎ合わせたという不自然性がなく、まさに絵画。
2)海面の波と海中の波の違いが巧みに表現されている。黒・茶・紺・青・白などの多彩な生地の色柄が縫い合わされ、変化に富んでいる。糸のような青い筋は存在感があり、海の中が生き生きと流動している様が描かれ、リアル。
 【この辺りの書き込みで、フランスのモネの代表作の一つ「ラ・グルヌイエール」の絵を思い出した。そして細かく調べると新しい絵画技法を生み出したということで、キルトの装飾技術とも関連性が大いにあることがわかった。その事について、別途項目を設ける】
3)海水中で生息し浮遊生活をしているクラゲをすべて傘=頭を上にし 太くて長い触手を足のように表現することによって火星人のように描いている。つまり、海中は人類にとってまだまだ未知の世界で、その点宇宙とも言える。タイの形をした魚が泳いでいるのが2匹見え、茶色の筋は海流というよりムカデのようなウミヘビではないかと思わせるものもあって、面白い。
  ここで、潜水業で且つ潜水服製造業の会社を創業した南中同期生の藤井徳三君(前掲)から教えてもらったのを思い出した。(前掲「コブダイ写真」記事のまとめに記述)

 「宇宙はどこまで行ってもゼロ気圧で地球の地上は1気圧。海の中は10m潜る毎に1気圧ずつ増し、水深20mならば3気圧の世界。従って、多様な宇宙がある」
⊂魚たちの遊泳

コブダイ1

1)魚の鰭(ひれ)には、口を左に背を上にして横にした状態から時計回りに背鰭、脂鰭(あぶらびれ)、尾鰭、尻鰭、腹鰭、胸鰭の6つがあるが、脂鰭はサケ科やハダカイワシ科などの魚類にはあると言うように必ずしも揃っているわけでない。
2)上の部分画像には似てはいる(特に目の部分)が、体色が若干異なる2匹の魚が見える。そlれぞれ背鰭・尾鰭・尻鰭・腹鰭または胸鰭が確認できる。しかも鰭にはそれぞれ筋が入っており精細、且つ平面でなく腹鰭または胸鰭に立体になっているのは、キルトならではか。
3)海流が横≒水平でなく、上下に描かれ波にことが海中での激しい動きを表現し迫力を生んでいる。生き物にとっては命がけの世界でfスリルを感じさせる。

コブダイ「弁慶」登場(弁慶のライバル「ゴル」かもしれないが、便宜上「弁慶」と見なす。
コブダイ7
1)コブダイは、体色が鯛と同じピンクで、雌が成長して雄になり、頭にコブがつき、体長1m以上になる。食性は、肉食。強力な顎と歯でサザエや岩ガキ・カニなどをまるごとかみ砕く。軟体のイカやタコも好みのようだ。
 その点どう猛で人をも襲う怖い存在に見えるが佐渡の北小浦の沖に20年は棲息したコブダイは、人懐っこくダイバーを見つければ、目玉が動いているのがわかるほど近づいて来たという。餌を期待してのことらしい。
 大きなコブが頭巾をかぶった武蔵坊弁慶に似ていることから島内外のダイバーから「弁慶」という名で親しまれたコブダイが、主人公であることに間違いない。
2)着目
 a.白地のうねりが数層からなる海流にアクセントをつけている。
  色は、青系・緑筋・茶系・クリーム系
  帯は、太い・細い・糸状
 があって、長短がある。
  様々な色柄の生地を組み合わせ 海中の様子をリアルに表現。
 b.顔の部分にしても胴体の鱗の部分にしても繋ぎ目がどうなっているかわからないほど精密。
  頭は灰色系、胴は赤色系。
  各々数十個の断片生地(例:鱗)を相互に縫って絵画の世界を創製。画用紙に絵具を塗ったり、ノリで貼り付けたりしたものではない。
 c.尾鰭が生地全体からはみ出ているのは、規格違反かもしれないが、それが逆にキルト芸術の迫力・凄さを訴えている。
  その画像は、後掲・一番下の画像同様 展示会場で撮ったものでない。多分、女史のアトリエ(制作場)で当人が撮ったもの。本番の会場でのバックは、濃いグリーン壁。バーに諸作品が並んで吊り下げられている(或るブログ記事から判明。なお、一番上の画像からも、緑のバックとバー一部が見える)。
 e.画像から、最低6匹のクラゲ、列をなした5匹小魚を目撃できる。小さな空間・領域にそれだけの数の生物がいる。見逃し・見離されるような細かい部分にも作家の工夫や情熱を感じ取ることができる。
3)生地は正絹だろうが、画像を拡大してパーツである端切れ一つ一つに注目するも飽きが来ない。
 それは岩場や岸壁や舟の上から海の中に何かー珍魚等ーを発見できるかもしれないため覗き込むのと同じ。海は資源で、知らない・資源化できないだけで宝庫であることに違いはない。
だ楸
コブダイ3
1)画像拡大によって顔と胴と鰭の各々が色・柄・形が異なる数十の布生地パーツから構成されていることが明白になる。アバウト数えで顔部分50枚、胴体の鱗部分80枚のそれだけで約130パーツから成る。
 これらのハサミで適当な形にした布を組み合わせ、針と糸で縫い合わせてコブダイを描く。
2)色はその為に部分を染めたり絵具で塗ったり、ベースとなる生地に糊付けしてして一段と本物らしくなるよう手を加えはいないだろう。
 胸鰓の右上部分が少し捲(めく)れて」いる。この方がかえって自然。糊付けではやがて剥(は)げ落ちてしまうであろうし、左端を縫っているからこそである。
 また、胸鰓自体、8種の横長の帯で縫い合わされていることが、画像拡大でわかる。
3)コブダイは呼吸器官である鰓(えら)が大きく、他の魚類と同様蓋(えらぶた、さいがい)を開閉させることで、水流を起こして水中の酸素を多く水に溶け込ませて吸入し、内部にある不要な二酸化炭素を放出、つまり呼吸して生存を保っている。
 当作品は鰓がエリマキトカゲのようになっているが、あくまでコブダイのような魚(コブダイとは言ってない)を図案化して登場させた美術工芸品で真偽より愛嬌が物を言い価値がある。
ズ農楸
コブダイ9
1)前の作品「故郷佐渡の鬼太鼓」(11年08月03日号「佐渡の画廊27:佐渡を描いたキルト」:後掲に画像」)とは異なる顔の部分の特徴。
 a.当たり前のことながら鬼面という人工物に対し生きた顔が絵の中心で、従ってあたかも生きているように描かれなければならない。鬼太鼓の場合は、全体としての鬼である。
  ァ.一般には、人工物を含む静物画より生き物の絵、特に人物画は難しいとされる。外観だけでなく感情など内面を表現するものでなければならないからである。但し、鬼太鼓は生き生きと演じるコトが本質であるから鬼面や装束を写生することが目的ではない。
  ィ.近年の話題に、「モナ・リザ」の微笑みの謎がついに解明される!」があった。英国紙によるもので大学研究者たちによって判明したとのこと2015.09.08「知的好奇心 トカナ」サイト)
  なお、「モナリザ」は、パリのルーブル美術館で観たことがあり、日本と違って写真を撮るのは自由で写真に収め記事に載せている。なお、ローマのバチカン美術館のミケランジェロの絵画なども自由。
   (07年10月01日号「フランス(3)パリ紀行」、同10月5日号「イタリア(2)ローマ紀行」) 
 b.鬼の顔は、赤一色の中で 目は金色で吊り上がり、鼻は輪郭が巧妙な曲線で膨らみがあるように描かれ、歯は一本一本がびっしり並んでいるのに対し、コブダイは目も口の歯も単純なで中で、顔はいろいろな色・形の布から構成。
鬼太鼓の面
κ朷弔離薀ぅ丱襦屮乾襦彭仂
コブダイ6
1)コブダイ雄同士の縄張り争いは激烈。毎年夏になると顔に傷がつくほどになる。
 a、09年フランスのドキュメンタリー映画「オーシャン」に激しい縄張り争いをする様子が紹介。
 b、10年にはNHKも取り上げる。NHK ONLINEサイト「ダーウィンが来た」‐命あふれる日本◆峙霏腟コブダイ 王座決定戦!」10年10月24日(日)午後7時30分〜)
 「生物多様性に富んだ日本の自然を紹介する「命あふれる日本」シリーズ第2弾。舞台は日本海・佐渡。海底の岩山に「弁慶」と名付けられたコブダイがすんでいます。弁慶は体長1mを超す巨大なオスで、長年、岩山に来るメスを独占してきました。弁慶の王座を狙うのが20年来のライバル、ゴル」
2)顔の色が画像イ妨る弁慶と異なり赤みがかっている。同色でないことで個性を出させている。胸鰭も同様。また、描いた位置がの斜め向きに比べ真横のため、鋭利さが一本一本に表れている。画像イ両豺腓眄橘未剖瓩ぐ銘屬任盪由僂任覆尖っているから鋭利さを感じさせることでは同じ。見る角度で形が異なるから変化があり飽きない。
3)小魚と一緒に遊泳。画像イ瞭更の魚に対し細長。
 a.餌にしようようと歯をむき出しにして追っている様にも見える。
 b.画像Δ砲5匹の小魚が見える。うち、尻尾の部分だけが2匹。
 c.小魚といっても背鰭・尾鰭・胸鰭等省略されず丹念に生地の色柄を選び、切り、組み合わせ、縫われている。
鉢合わせ
コブダイ2
1)コブダイ同士の縄張り争いの戦いの基本は、顔面対決。互いに近寄って出っ張った顎を相手の顎に向け、口をいっぱいに開けて威嚇し、競い合う(画像では、互いに顎と大きく開けた口を接触させる直前を描いている)。
2)これまで掲げた個別の部分画像から幾分全体的画像へと戻った。すると、個別では見えなかったものが見え出汁、分かるようになって来る。
 a.コブダイが海中で同じ深さでなく上・下に位置して対峙していうのがわかる。縄張り争いは映像からその両方が見られるが、上・下から睨み合う構図の採用は、その方が変化に富み 海の中らしさを表すのに効果的であるからだろう。
 b.小魚の尻尾の部分だけの画像と違って、全体が見えるようになった。また、小魚たちが、左右に行き交いしている様子もわかる。
 c.海中にも何層からの海流が流れていることを生地の色柄の組み合わせによって伝えている。
3)双方小魚を狙っていると思われたものが、コブダイの雄同士の縄張り争いが本質的。
─岾い蝋啌ぁ彖澗硫菫
コブダイ8
 これまでの1枚1枚の画像では判らなかったものが、当画像で作品全体が判った。だが、その全体画像1枚だけで当作品の意味の厚さや広さや深さが判るわけでない。それらを同じく備えたパーツあってのものである。

3.当キルト作品から思い出した絵画・調べて知った画法など
ヽい涼罎粒のの描写からモネの作品「ラ・グルヌイエール」と絵画技法「色彩分割」=「筆触分割」
1)「ラ・グルヌイエール」
モネ ラ・グルヌイエール
 1869年作  | 75×100cm | 油彩・画布 | メトロポリタン美術館(ニューヨーク)
 a「印象派最大の巨匠クロード・モネ1860年代を代表する作品のひとつ『ラ・グルヌイエール』。本作に描かれるのは実業家スーランが興した、パリに程近いブージヴァル近郊セーヌ河畔の新興行楽地であった水上のカフェのある水浴場≪ラ・グルヌイエール≫で、1869年夏に友人であるルノワールと共に同地へ赴き、画架を並べ描いた作品としても広く知られている。「蛙の棲み処」という意味をもつラ・グルヌイエールの中央には、「植木鉢(又はカマンベール)」と呼ばれた人工の島があり、本作にもその島に集う人々が描かれているほか、画面右部には水上カフェを、画面下部には水上を行き交う小船を確認することができる。この頃(おそらく)サロン入選を目指していたと推測されていたモネとルノワールは当時、ラ・グルヌイエールで水面に反射する陽光の効果と表現の研究に没頭しており、光によって変化する色彩を、画面上に細かい筆触を置くことによって視覚的に混合させる≪筆触分割≫と呼ばれる表現手法を『ラ・グルヌイエール』の製作によって生み出した。このような点から現在では、近代的な画題(本作では新興行楽地ラ・グルヌイエール)を新たな表現手法(筆触分割)で描くという、所謂≪印象主義≫が本作によって誕生したと位置づけられており、画家の作品の中でも特に注目すべき作品のひとつである。なお本作は残される書簡から習作である可能性も指摘されている。」(資料:Salvastyle.com - ++ All Rights Reserved.)
 b、写真では絵画ほど湖面の波紋を波立っているように表現するのは難しく、だからこそ絵画の価値があるとモネの当作品から確信。25年ほど前(現在の東京都庁舎の落成式が1991年3月というからその1〜2年後くらい)息抜き・娯楽用にある書店でカラー画像付き西洋美術史の文庫本を購入したことでモネの存在を知った。その後東京出張の帰り余裕時間あったの銀座に行ってたまたま三越に入り、たまたまモネの睡蓮の絵画展をやっていたので鑑賞。その時にモネが日晩年視力が衰え色彩感覚がなくなったこと、日本風好み(ジャポニズム)の持ち主であったことを知った。
2)色彩分割
 a.「モネをはじめ、印象派の絵画の特徴のひとつには、「 色彩分割 」 とか 「 筆触分割 」 とか言われる技法があります。
 光の三原色は、青・赤・緑の三色。 それに比して色 ( 絵の具 ) の三原色は、青・赤・黄となります。カクテル光線と言われるように、光は三原色が混ざれば白く輝きますが、絵の具は三原色が混ざればグレーに濁って、暗い色になってしまいます。光は混ぜれば混ぜるほど明るく輝きますが〔「加法混色」〕、絵の具は暗く沈んでしまう〔「減法混色」〕のです。
  色彩分割とは、絵の具を混ぜて中間色を作ろうとするとどうしても濁ってしまうので絵の具を混ぜずに澄んだ色のままキャンバスに乗せ、隣接する部分に本来混ぜようとする色を乗せ・・・とすることで、あくまでも塗る色自体は澄んだ色・・・ 一筆ごとに澄んだ色を乗せることで、画布全体としては明るく澄んだ色の集合体とするのです。そうしてそこから発せられる光を観者の目が捉えるときに、観者の目の中で混ぜて、本来画家が表現したいと考えた色に合成して観てもらおうというものです。( だから印象派の絵は、数メートル、時には10メートル以上離れて観ると、実に深い味わいになりますね )」 (資料:ironim.tumblr.com/)
 b.「色彩分割 」  「 筆触分割 」は、上記より字の通り色を分ける=色を混ぜ合わせないというの特質と解す。    既存の色柄を縫い合わすキルトの有す美術的要素もそれに含まれる。従って、対象物から離れて観るもよし、また美術だけでなく工芸技術の優秀性を堪能する面からも位置を変えて接近して観るもよしである。
▲灰屮瀬い隆藾澗里らピカソの」「泣く女」
泣く女
「泣く女」:パブロ・ピカソ、1937年作、油絵、所蔵:テイト・ギャラリー(ロンドン)
  (資料:ウィキペディア)

その他の画法
1)点描
 a.「点描(てんびょう、: pointillism)は、絵画などにおいて線ではなく点の集合や非常に短いタッチで表現する技法である。点描画点描法点画スティップリング(Stippling)とも言う。

印象派による鮮やかな色の配列の視覚混合を、フランスの画家、ジョルジュ・スーラがさらに追求し、点描主義(新印象派)を確立。ポール・シニャックカミーユ・ピサロらを生み出した。

  水墨画では、米芾米友仁による、水墨の点を集合させて表現する米点法があり、その作品を米法山水と言う。コンピュータグラフィックスにおいては、フィルターを使用し、写実的な画像や写真を点描に変換することができる。科学におけるスケッチでは、陰影を着けるための技法である。(ウィキペディァ)
 b.色の付いた点の集合に対しいろいろない色の布パーツの集合という点で点描は、キルトに通じている。
2)ちぎり絵
 a.「ちぎり絵は、ちぎった
を台紙に貼って表現した作品のこと。貼り絵ちぎり紙とも言う。

主に和紙を使用し、手でちぎって台紙に貼って作成する。紙のちぎれた部分の質感などが独特な雰囲気を演出する。ちぎり絵の作家としては山下清、亀井健三が有名」(ウィキペディァ)
 b.キルトと異なり素材は布でなく色紙で、「縫う」でなく「貼る」。
  10年3月21日号「佐度の画廊21:ちぎり絵」、13年3月22日号「佐度の画廊33:和紙ちぎり絵作品展」
ちぎり絵 加茂湖和紙ちぎり絵 加茂湖
     加茂湖 臼杵キヌ              加茂湖 中川 妙      
3)裂き織り
 a.裂織並びに作品について、13年31日号「佐度の画廊35:裂織展」、15年2月29日号「佐度の画廊35:裂織展」に記述。
 b.キルトの「縫う」に対し、和服・洋服の生地や草杢の茎などを経糸・緯糸にして「織る」。
裂き織りィ裂き織りァ
     たちばた(高機)織          ねまりばた(地機)織
4.まとめ
 一つのキルト作品かあたかも数十点の優れた絵画を観たに匹敵するよう情報・感動・娯楽を享受。
 東京国際キルトフェスティバル展入賞・入選作品をウェブを通し複数の記事から100点以上は拝観したが、観た限りでは図案が大半(悪いことでは断じてない。図案も広くは絵画)。絵画のような作品があっても断面を捉えた風景画や静物画で、当作品のようにストーリー性があり、時間をかけて楽しんだ作品は、正直見当たらなかった。但し、これは当然個人の感覚的基準・好みに過ぎず、普遍的・公的・標準的基準でない。
 本質は、1枚の全体画像でなくて(作品自体縦2m・横1.5mあり展示会場で全体を撮るのは困難)細かい色柄の生地から成ることが分かる6枚の部分画像を観たことが幸いした。さらに画像より直接作品にせするのがよいに決まっているが、同級のブログを見なかったら、良さを見逃し記事にしなかった可能性は大。そして後で作家によって送信された全体画像からストーリーが生まれ、部分と全体の関連でいわば旧知の楽曲が連想され、まとめに入れる構想が浮かんだ。
 抽象表現とだが、キルトおける布パーツは、音楽おいては楽器のパートに相当。
 音楽の視点でキルトを考えれば、キルトの持ち味・凄さの認識が一層深まり、楽しさを満喫できる。
 そのモデルが次の2曲で集約される。
              記
1) 『青少年ための管弦楽入門』The Young Person's Guide to the Orchestra
 a.イギリスの作曲家ブリテンが1945年に作曲した管弦楽曲。英国放送協会(BBC)が制作した音楽教育映画 "Instruments of the Orchestra" (オーケストラの楽器)のために作曲された。
 b.曲は、17世紀イギリスの作曲家ヘンリー・パーセル(1659〜1696)の劇付随音楽『アブデラザール』の「ロンドの主題による変奏曲とフーガで、トゥッテイ〔全ての奏者が同時に奏すること:フル楽器奏者演奏〕とアンサンブル〔2人以上が同時演奏〕からなる主題提示部、変奏とフーガからなる展開部、再現部、結尾部の4つから構成。

 変奏曲のそれぞれの変奏にオーケストラで使用されるさまざまな楽器の独奏を配置するという形式をとり、それぞれの変奏にはナレーター(解説者)による解説が付き、オーケストラの各々の楽器を紹介する形になっている。
〔曲について 始めに部分楽器で奏され、最後は全楽器の総動員で締めくくられる音楽のモデルと思っていたが、正解は全体→部分楽器群→個別楽器→部分楽器群→全体であった〕
 c.曲の構成
  
主題の提示:パーセルの主題が、編成を変え順に提示される。
   トゥッテイ→木管合奏→金管合奏→弦楽合奏→打楽器合奏→トゥッテイ
  変奏:主題がオーケストラの各々の楽器で変奏される。
   木管楽器(フルートとピッコロ →オーボエ →クラリネット→ファゴット)
     ↓
   弦楽器(ヴァイオリン→ ヴィオラ →チェロ→コントラバス→ ハープ )
     ↓ 
   金管楽器(ホルン →トランペット →トロンボーンとチューバ )
     ↓
   打楽器 (ティンパニ→大太鼓とシンバル→タンブリンとトライアングル→小太鼓とウッドブロック(木魚)→シロフォン(木琴)→カスタネットとタムタム(銅鑼)→むち)
  フーガ
   
ブリテンのオリジナル主題
     ↓
   展開部(変奏において紹介された楽器の順でフーガを形成)
     ↓
   再現部(パーセルの主題)
     ↓
   結尾部(ブリテンの主題とパーセルの主題の二重フーガに移行し全楽器の総動員で壮大に終わる)
2)組曲『展覧会の絵
 a.ロシアの作曲家ムソルグスキーが1874年に作曲したピアノ組曲。建築家で画家であった友人ハルトマンの遺作展を訪れて鑑賞し、印象に残った10枚の絵を音楽にした。その後、今日に至るまで古今東西の多くの音楽家によりさまざまな楽器を使った編曲がなされている。
 例:管弦楽(リムスキー=コルサコフ版、ラヴェル版)、ピアノ協奏曲、室内楽(室内オーケストラ、オルガンと打楽器アンサンブル、木管五重奏)、吹奏楽、マンドリンオーケストラ、器楽曲(チェロとピアノ、トロンボーンとピアノ、ギター独奏、アコーディオンロック、ジャズ、その他(冨田勲シンセサイザー版、彭修文(ペン・シュウェン版(中国民族楽器大合奏)、甲田潤版(全曲に歌詞をつけた混声合唱)
 〔『展覧会の絵』は、絵画と音楽との関係を示す例として念頭にあったが、個々の絵画からの印象から成る組曲でしかも原曲はピアノ独奏のためキルトのような部分と全体との係わりを示すには適切な例と言えないということで敬遠。ところが、ピアノだけでなくいろいろな楽器に使われていること、水墨画のように墨一色でも絵画のような多様な色・形ー雲・
霧・雨・雪、川・滝・波・雫ーを表現でき、むしろ適例と言うことになった。3年ほど前くらいかたまたまNHKテレビ日曜夜9時からの「クラシシック音楽館」(普段は床についている時間帯で存在も知らず見たことはない)で来日した若い外国人のピアノ独奏を聴き、これまでの『展覧会の絵』はスケールから管弦楽に限るとの先観念が消え、ピアノだけの演奏も迫力あって凄いと感じ入ったのを思い出した。そのため、パソコンでユーチューブから管弦楽でなくピアノ独奏のものを探すと、イギリスのピアニスト フレディ・ケンプの『展覧会の絵』を見つけて視聴。オーケストラに引けを取らず、むしろそれを上回る迫力のある演奏に接し再認識。この4月10日には半年ぶりに新潟の自宅近くにある名曲スナック(完全防音・大画面・大音響装置、スクリーン・ステージ・カラオケも有り。予約制)へ行き堪能。それは、ピアノの指使いー終曲のある部分では10本すべての指が鍵盤を叩いているーを確認することも大きな狙いでもあった〕
 b.曲は、「プロムナード」〔「散歩道」の意〕という短い間奏曲が曲と曲の間を繋ぎ、あたかも一つの絵の鑑賞を終え次の絵へt移移動する様子が変奏形式でく繰り返し表現される。
 c.曲の構成
  第1プロムナード                                         変ロ長調
  1.小人(グノーム )変ロ長調              変ホ短調
  第2プロムナード変ホ短調                変イ長調
  2.古城  変イ長調                    嬰ト短調
  第3プロムナード                      ロ長調
  3.テュイルリーの庭-遊びの後の子供達の口喧嘩   〃
  4.ビドロ(牛車)                      嬰ト短調
  第4プロムナード                      ニ短調
  5.卵の殻をつけた雛の踊り                ヘ長調
  6.サムエル・ゴールデンベルクとシュムイレ     変ロ短調
  7.リモージュの市場                   変ホ長調
  8.カタコンベ - ローマ時代の墓             イ短調
    死せる言葉による死者への呼びかけ       ロ短調
  9.鶏の足の上に建つ小屋 - バーバ・ヤガー     イ短調
 10.キエフの大門                      変ホ長調          
  (最後は、10本の指を使って終わる)

 『青少年ための管弦楽入門』及び『展覧会の絵』の締めくくりは、全楽器か10本指全部をピアノの鍵盤に働かせている。
  当ブログ記事での驚きは、たった一つのキルト作品「故郷佐渡の海掘廠い蝋啌ぁ廚ら古今東西・人類の歴史を感じさせたことにあろう。
 テーマはローカル・ミクロの世界であるがそれ故日本というマクロ枠を超え、生存競争の激しい適者生存のグローバル世界への進展を感じた。
   以上   2017.4.11

《メモ》
  キルトと刺しゅうの祭典「キルト@ステッチショー2017」東京・新潟・大阪開催
  新潟開催
   会期:2017年10月25日(水)〜10月27日(金)

   会場:新潟市 朱鷺メッセ

   主催:UX新潟テレビ21
   共催:公益財団法人日本手芸普及協会、株式会社日本ヴォーグ社     

   協力:ヴォーグ学園

    以上

  追記:新潟三越キルト展(女史からのケータイメール)
  開催:6月21(水)〜26日(日)
  展示点数は30点くらい。
  案内チラシの写真が、「故郷の佐渡の海軍い蝋啌ぁ廚坊萃蠅箸里海函
    以上 4.11

  










歴史スポット63: 公卿・歌人 京極為兼


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歴史スポット62:文永の役と日蓮

 こんにちは!自在業の櫻井です。
 前々号の歴史スポット61「承久の乱と順徳上皇」の次に同62「文永の役と日蓮」が来るのは必然。同60「正中の変と日野資朝」から続いている。
 共通点は、
  1)鎌倉時代であること
  2)日本中を揺るがす大きな事件であったこと
  3)時の政権から政治犯として佐渡へ流されたこと
 の3点。
  文永の役については、前々号にも若干触れているが、今回は元の日本攻略の狙いと日蓮の係わりのを中心にまとめる。日蓮についてはなぜ政治に関心を持ったか、なぜ鎌倉幕府から睨まれ佐渡配流となったか、日蓮の思想が佐渡配流前と後で変わったとされるがどの部分でなぜか、今日の日蓮宗の全国・佐渡での位置 がどこまで判るかが課題。
 (資料:「Weblio辞書」、「世界史の窓」、「日本史のとびら」、「ウィキペディア」、『蒙古襲来と徳政令』(筧雅博著))  

以下、工事中!

1.平安後期〜鎌倉時代日本を取り巻く東アジアの情勢
(1)中国・宋(960〜1279年
〃国
1)宋は、五代十国時代最後の王朝・後周(951〜 960年)の宋州(河南省商丘県)節度使の趙匡胤(ちょう きょういん)が、皇帝から禅譲を受けて建国。通常、北宋960〜1126年:首都・開封)と1127年女真族の金に華北を奪われ、南下した南宋(1127〜1279年:首都・杭州)とに呼び分けている。
 【参考】
1「五代十国時代」:唐の滅亡(907年)から宋の成立(960年)までの50余年間、黄河流域を中心とする華北では5つの王朝(五代後梁・後唐・後晋・後漢・後周が交替、その他の華北と華中・華南では呉越・南唐・前蜀・後蜀・呉・閩(びん)・荊南・楚・南漢・北漢の10王朝(十国)が興亡した争乱の時代。中国の歴史では・・・→周→秦→漢→三国〔魏・呉・蜀〕→晋〔西晋→東晋〕→南北朝〔北魏(北朝439年〜)・陳(南朝〜589年)〕→隋〔581〜618〕→唐〔618〜907〕→五代〔十国〕→宋(北宋→南宋)→元→明・・・に位置。
2「節度使」
 1)前身は、辺境警備のため置かれた都護府。前漢時代紀元前59年に設けられた西域都護府(長官名:都護)が始まり。唐代では第2代太宗期(在位:626〜649)に領土を広げ、広範囲に都護府を配置。
 a.唐代での都護府
 顱飽太湘垳酩棔В僑苅闇。タリム盆地(シルクロード天山南路の守備及び突厥〔テュルク系民族遊牧国家〕・吐蕃〔とばん:チベット民族国〕からの防衛。787年吐蕃に滅ぼされる)
 髻頬鳴軼垳酩
:640年。ジュンガル盆地(シルクロード天山北路方面の守備)。790年吐蕃に占領される)
 鵝飽陀姪垳酩棔В僑苅掲。外モンゴル
 堯肪頴嘉垳酩棔В僑毅闇。内モンゴル
  〔主なモンゴル系民族:東胡〔匈奴によって国家滅亡〕、烏桓〔匈奴の攻撃から烏桓山に逃れた東胡の残存種族は匈奴の臣下となり、紀元前85年 - 同68年代以降叛服を繰り返すようになり、匈奴が北と南に分裂し北匈奴の滅亡などで勢力が衰える後漢の時代になるとその臣下となり、後漢の国境警備に当った。なお、残された南匈奴は後漢に服属し辺境守備に当たった〕、鮮卑〔(前述の烏桓に対し鮮卑山に逃れた)鮮卑も前漢時代は匈奴に服していたが、後漢時代になってから後漢に対して叛服を繰り返すようになり、北匈奴の西走後のモンゴル高原を占拠し、大帝国を築いた時代があった。その後部族が分裂し、五胡十六国時代南北朝時代をもたらした〕、柔然、突厥、契丹〔満州から中央アジアの地域に存在した半農半牧の民族。10世紀に王朝「遼」を築く。1004年北宋と澶淵(せんえん)の盟を結び、北宋から遼へ莫大な財貨が毎年送られてきた〕、奚、豆莫婁、室韋(三十姓タタル)
 )濛池都護府:658年。中央アジア(西突厥阿史那賀魯討伐後に設置)
 )昆陵都護府:  〃       〃
〔「西突厥」:突厥から582年東西に分離した西の勢力。版図は、東はアルタイ山脈、南はタリム盆地,西はカスピ海東沿岸。「657年、西可汗の阿史那賀魯が唐に捕らえられて以降、西突厥は唐の羈縻〔きび〕政策下に入った」
 「羈縻政策」:中国の王朝による周辺異民族国に対する統治政策、領域化(内地化)・覊縻(きび)・冊封(さくほう)で従属関係堅持。「古くは漢の時代にみられるが、唐の時代に最も巧みに利用」
 ・領域化(内地化):占領地・支配地に内地と同じ州県を設置し、中央から官僚を派遣し、現地民を中国の国法下に置き支配する。
 ・覊縻:支配地の管理者には中国・漢人寄りの首長を選んで都督・刺史・県令などに就け、彼らがもともと有していた統治権を中国の政治構造における官吏であるという名目で行使させた。羈縻とは,「羈」が馬の手綱,「縻」が牛の鼻綱で,つなぎとめる意味。ある程度の自由は与えて〔懐柔して〕暴れさせず統制する。
 唐における羈縻州は、その初期には辺境の都督府が管掌し、漢人官僚の下に首長など辺外部族の有力者が組織されたが、領域が広がるにしたがって新たに都護府が設けられ、これによって統括されるようになった。都護府では長官である都護をはじめ主要な職員はすべて漢人あるいは漢化した異民族が当てられた
 ・冊封:称号・任命書・印章の授受を媒介として中国「天子」と近諸国・異民族の長が取り結ぶ君臣関係(「宗主国」と「朝貢国」)を伴う外交関係。周辺民族・国家の首長に王や侯といった爵号を与え、中国支配下に組み込む。

 )安東都護府:668年。朝鮮半島(高句麗を滅ぼし平壌に設置。満州も管轄)
 )安南都護府:681年。東南アジア(前身は622年設置の交州〔ベトナム〕大総管府)

b.府兵制
ァ.府兵制は、中国北部遊牧騎馬民族・鮮卑族の拓跋氏が386年華北を統一して建国した北魏が後に東西に分裂して成立した西魏〔存立535〜556年〕が農耕民を軍事力に組織する制度として始まり、隋・唐に継承〔6世紀半ば〜8世紀半ば〕された兵制で、均田制〔土地の国有が原則、給地・給田するが収穫時に税を課し、定年または死亡時国へ返還。北魏の485年に始まる〕・租庸調制と共に律令制度国家を支える三本の柱の一つ。
ィ.唐の府兵制〔要調査〕
 顱肪男(21〜59歳)を対象に3人に1人の割合で折衝府が徴兵。農閑期年間3ヶ月の軍事訓練年1〜2回30日衛士として首都警備在任期間中3年間は防人として辺境地での防衛

 髻棒涵徂椶蓮∩換駝鵤僑娃哀所に設置〔うち辺境は200〕。兵力(人)により上(1000〜1200)・中(800〜1000)・下(600〜800)管内の農民〔府兵〕の徴集・訓練・派遣を司った。

 鵝防槓爾蓮∪涵徂椶涼屬れた州(軍府州)の均田農民から徴兵。兵農分離に対し兵農一致、募兵制に対し徴兵制、支給に対し武器・食糧自給(租庸調は免除)。府兵は、折衝府の置かれた州(軍府州)の均田農民から徴兵し、租庸調は免除されたが武器・食糧は自弁。遠征軍「行軍」を編成するときは兵を募集、その場合官給。
 〔参考:唐の均田制〕
 ・丁男(21歳〜59歳)・中男(16歳〜20歳)に一律に口分田80畝、永業田20畝の計100畝を給田。(唐の100畝≒5.5ha≒5.5町〕。妻や奴婢は給田されない。
 ・口分田は60歳で半分
返還、死ねば全部返還。永業田は世襲できる。
 ・口分田の班給は毎年行われる(日本の班田収受法は6年に一度)。
 ・官吏には公田として職分田、公廨田(くがいでん)、官人永業田が支給された。
 ・口分田受給者に対し、租庸調・雑徭その他の税兵役の義務が課せられる。

ゥ.唐の600年代後半から均田制の崩壊と共に府兵制の崩壊が進行。 

 顱2代目太宗期(626〜649)の領土拡大による辺境警備の必要性の高まりと農民負担の増加〔華北地域では秋耕定着で農作業の通年化〕による徴兵忌避、人口増加と土地私有化が進んで未授給の欠田戸が増え、武周期〔690〜705年〕には窮迫した農民が本籍地から逃亡する逃戸・逃亡先で定着した客戸浮戸とも呼ぶ〕・小作人である佃戸が増える。

 髻防霏天期〔=武周期690〜705〕から玄宗期〔712〜756〕にかけ「佃戸の増大〔荘園増大・安史の乱〔755〜763年〕以降は藩鎮が経営する営田の増加〕により、租庸調の収入は激減」「唐中期から租庸調とは別立ての税が出てくる」「安史の乱〔755〜763年〕以後には財政の悪化も影響し、税目が非常に多岐」「内容も非常に複雑で不公平になりやすい」「乱以降に割拠した藩鎮勢力はこれらを恣意的に取り立てて自らの財源として扱い、不公平はますます酷くなった。この不公平が更に逃戸を生み出し、それがなお財政の悪化をもたらすという悪循環」、780年に複雑な税制を夏二つに纏[まと]める両税法〔6月夏税(対象:絹・綿・麦)と11月冬税(対象:稲・粟)」〕が施行され、均田制は実質消滅。

 鵝法嵒槓疾では外敵の動きに対して機敏に対処することが難しく、唐政府は常備軍を欲するようになり、府兵に変わって行軍が主に使用されるようになる。辺境でもそれは同じであり、羈縻州に対して都護府が設置され、その下に募兵による行軍がいた。儀鳳年間(676年 - 678年)に軍制の改革が行われ、軍鎮と呼ばれる組織が辺境防衛に当たることになる。しかし、この軍鎮の統制が難しくなり、各地方で強力に軍鎮を統制する節度使が登場」「これらの兵士たちは全て募兵であり、生活を国家からの支給で賄う職業軍人であった。ここに至り、唐における兵農分離が完成し、府兵制は完全に消滅した」
2)都護府に代わる節度使の設置
.「唐の中期以降、均田制の崩壊に伴い、府兵制による辺境の防備が出来なくなると、唐王朝は募兵制に切り替え、地方有力者の子弟を募集して募兵とし、軍鎮をおいた。そして、一定地域の軍鎮を統括する藩鎮を置き、その募兵集団の司令官として節度使を任命した。節度使は律令の規定にない令外官であり、それまでの都護府に代わり辺境の防備に責任を持つとともに行政権も与えられ、強大な地方権力に成長するようになる」
ァ.節度使設置は玄宗(在位712〜756)の時の710年代に始まり十節度使が設けられた。唐代には40〜50に及んだ。
 節度使は安西・北庭
・平盧の長城外節度使とそれ以外の長城内節度使に分けられる。長城外節度使には武人や蕃将(異民族出身の将軍)が就けられ、長城内節度使には中央から派遣された文官が付くのが当初の方針であり、節度使は宰相へと登るためのエリートコースとされていた。しかし玄宗に重用された宰相李林甫は政敵の出現を恐れて、宰相になれない蕃将を積極的に節度使として登用した。安禄山も玄宗の寵愛を受け、平盧節度使となり、更に范陽・河東を兼任した。
 設置年  節度使名 治所       設置目的         兵力:人

  710年   安西  亀茲  天山南路の防衛、西突厥  24000
  710年  河西  涼州   吐蕃と突厥の連携阻止   73000
  711年     河東     太原        突厥                              55000
  711年 嶺南五府経略使  広州     夷獠                       15400
  712年     北庭     庭州      天山北路                         20000
  713年     范陽     幽州         奚・契丹                        91400
  713年     隴右     鄯州        吐蕃                              75000
  714年     剣南     成都       吐蕃・吐谷渾(とよくこん)   30900
  719年     平盧     営州        室韋・靺鞨(まつかつ)      37500
    靺鞨:隋唐時代中国東北部(現ロシア・沿海地方)に存在した農耕漁労民族。
  721年      朔方     霊州       突厥              64700
 ィ.
「節度使は駐屯軍の将軍とその地方の財政官を兼ね、任地の税収を軍の糧秣と兵士の雇用に使う」 

 ゥ.「有能な節度使は、管轄下の数州の軍事・民政・財政の権力を握った。安史の乱後 節度使は辺境のみならず、国内も置かれるようになり、唐代には40〜50に及んだ。唐末から五代にかけ多数の藩鎮が分立。唐の滅亡から五代十国の建国者は多くこの藩鎮であった」





 鵝法峭陳襪らの禅譲」

 a.五代で随一の名君とされる後周第2代皇帝柴栄(さいえい:世宗)は、唐の滅亡以来の中国再統一を目指し北漢、後蜀、南唐、遼を攻めて領土を広げたが、遠征の途中38歳で病死。
 b.7歳の息子が後を継いだが、幼帝に不安を抱いた軍人たちは、遠征に派遣された軍中でその司令官であった殿前都点検(近衛軍長官)の
趙匡胤を擁立した。ほとんど抵抗を受けずに開封に入った趙匡胤は、恭帝から禅譲を受けて

を立てた7歳の息子が帝位に即いたが、翌960年北方の大国・遼の軍勢が侵攻してきたとの知らせを受けた後周の朝廷は、殿前都点検・趙匡胤を国防の総帥に任じ、遼軍への対処を委ねた。

中国統一を目指すが志半ばで急死、弟が跡を継いだ


南唐を抑えた柴栄は、次に軍事的に最強の敵である北の契丹とその衛星国である北漢を相手取り、959年に燕雲十六州のうち、南寄りの2州を奪取した。

さらに軍を北上させようと幽州へと入るが、柴栄はこの陣中で病に倒れ、開封へ引き返し、間もなく死去した。享年39。
契丹(きったん、キタン、キタイ、拼音: Qidān)は、
4世紀から14世紀にかけて、満州から中央アジアの地域に存在した半農半牧の民族10世紀初頭に現在の中国の北部に帝国を建国し、国号をと号した。しかし12世紀に入り次第に勢力を強める女真と結び南下し、挟撃された遼は1125年に滅ぼされた。契丹人の多くは女真に取り込まれ、一部は中央アジアに逃れて西遼(カラ・キタイ)を建てた。

 


 b.建国当初より太祖の方針もあり文治主義。このため常に周辺諸国の軍事的脅威に晒され財物を下賜し平和を買った(朝貢貿易)。
 ァ.1004年軍を率い南下を始めた遼〔契丹]と盟約〔澶淵の盟〕。内容:国境の現状維持(宋から遼に年間20万匹・10万両を送ること〔遼は初め、領土割譲を求めたが強い宋の拒否で金品で妥協]
  「この条約による平和は1世紀以上続き、宋の経済や文化の発展の基礎になった」

 ィ.1042年宋が、たびたび西夏に手を焼いているのを見た遼は、宋に対して再び領土割譲を求め、絹・銀双方を10万ずつ上乗せすることで妥協した。
 ゥ.1038年李元昊が中国北西部に建国した

西夏は、たびたび宋の領内に侵入を繰り返し、撃退に手を焼いた宋は1044年、西夏と慶暦の和約を結ぶ。これにより宋を君、西夏を臣と位置付け、宋は毎年銀5万両、絹13万匹、茶2万斤を贈ることなどが約され、和議が成立した。 また宋と西夏との争いに乗じて遼が宋に領土の割譲を求めたが、支払う財貨の増額により両国は妥結した。
 エ、 海上の盟は、1120年北宋の間で(契丹)を挟撃するために締結された軍事同盟。
 

 現在の内モンゴル自治区の東南部、遼河の上流域にいた契丹族の耶律阿保機(太祖)が907年、契丹可汗の位について勢力を蓄え、916年に天皇帝と称し年号を神冊と定めたのが遼の起こりである。太祖耶律阿保機は西はモンゴル高原東部のモンゴル族を攻め、926年東は渤海を滅ぼして東丹国を建て、満州からモンゴル高原東部までに及ぶ帝国を作り上げた。

さらに2代耶律徳光五代後晋から華北北京大同近辺(燕雲十六州)の割譲を受ける。この時に渤海旧領とあわせて多くの農耕を主とする定住民を抱えることになった。このため、遼はモンゴル高原の遊牧民統治機構(北面官)と南朝式の定住民統治機構(南面官)を持つ二元的な国制を発展させ、最初の征服王朝と評価されている。

太宗は燕雲十六州の奪還をもくろんで、北伐軍を起こしたが、遼は撃退した。しかし遼の側でも、この時期には皇帝の擁立合戦が起きて内部での争いに忙しく、宋に介入する余力はなかった。6代聖宗は内部抗争を収めて、中央集権を進めた。1004年、再び宋へ遠征軍を送り淵の盟を結んで、遼を弟・宋を兄とするものの、毎年大量の絹と銀を宋から遼に送ることを約束させ、和平条約を結んだ。これにより、遼と宋の間には100年以上平和が保たれた。

その後は宋から入る収入により経済力をつけたことで、国力を増大させ、西の西夏を服属させることに成功し、北アジアの最強国となった。また、豊かな財政を背景に文化を発展させ、中国から様々な文物を取り入れて、繁栄は頂点に達した。しかし遼の貴族層の中では贅沢が募るようになり、建国の時の強大な武力は弱まっていった。また服属させている女真族などの民族に対しての収奪も激しくなり、恨みを買った。

女真は次第に強大になり、1115年には自らの王朝を立て、遼に対して反旗を翻した。遼は大軍を送って鎮圧しようとするが逆に大敗し、遼弱しと見た宋は金と盟約を結んで遼を挟撃し、最後は1125年に金に滅ぼされた。このとき、一部の契丹人は王族の耶律大石に率いられて中央アジアに移住し、西遼(カラ・キタイ)を立てた(他に王族の耶律淳北遼13世紀に成立した旧王族耶律留哥東遼などもある)


 
2)平氏政権が滅亡し鎌倉幕府が樹立した後も日宋間に正式な国交は開かれていなかったが、私的な貿易や僧侶・商人の往来など、両国の通交は盛んに行われていた。


 a.日宋貿易は、10〜13世紀(平安中期〜鎌倉中期)朝鮮半島高麗を含めた三国間で行われた。
 b.

1158年平清盛(1118〜1181)は、日本で最初の人工港を博多に築き貿易を本格化させ、1173年に大輪田泊(現在の神戸港の一部)を拡張し、正式に国交を開いて貿易振興策を行った。
 【これは、同じwiki(この場合「孝宗(宋)」)の「日本との関係では平氏政権の平清盛との日宋貿易を行なっている時期に相当するが、あくまで民間交流・貿易であり、正式な国交は無かった」と矛盾。「正式な国交は無かった」の解説は、本質的に間違い。解説者は「正式な国交」を難しく考えているようであるが、国が相手国と自国の民間人から何の税金も取らず取引を自由にさせるはずはない。当時宋銭が後述の通り日本で通用していたことは事実】 
 c.鎌倉時代博多は多くの宋人が住み国際都市となり、宋の商人は越前敦賀へも来航した。一方、宋銭(銅銭)の大量流入で日本に貨幣経済が発達し、物価が乱高下するようになった。
 〔北宋時代に鋳造された「宋銭は、や西夏、東南アジア、遠くはペルシア・アフリカ方面にも及んだ」【銅貨は消滅するものでなく、流通にはモンゴル帝国・後の元も絡んだに相違ない】。南宋時代になると「経費が嵩む銅銭の鋳造が減り、紙幣〔「会子」〕

を発行し銀と共に取引に使用されるようになった」。「最古の紙幣は1023年から北宋の政府紙幣として流通した「交子」で一種の証書・手形」。(wiki) 「係わりの地85東京(日本橋・金座・銀座)(その2)まとめ」。
3)勢力を中国に伸ばしてきたモンゴル帝国と対立。
 a.1233年モンゴル帝国は金の首都開封〔かっての北宋時代の首都]を陥落、南に逃げた金の最後の皇帝を宋軍と協力して追い詰め、1234年金は滅びた。

 b.1235年宋軍は北上して洛陽・開封を回復したが、これはモンゴルとの和約違反でモンゴル軍と戦闘状態に入る(モンゴル・南宋戦争)。長江流域を挟み一進一退を40年余り繰り返した。
 c.1235年、宋軍は北上して洛陽開封を回復したが、これはモンゴルとの和約違反であり、モンゴル軍と戦闘状態に入る(モンゴル・南宋戦争)。暫くは長江流域を挟み一進一退を繰り返すが、クビライ襄陽を陥落させる頃には最早内部崩壊により抵抗する力は無く、1276年、モンゴルのバヤン臨安を占領されて事実上宋は滅亡した。南走して徹底抗戦を続けた一部の皇族・官僚・軍人らも1279年広州湾の兒海埜儀海坊睫任気譟∩廚牢袷瓦北任咾拭兒海寮錣)。クビライが襄陽を陥落させる頃には抵抗力は無く、1276年モンゴルに臨安を占領され事実上滅亡。

モンゴル帝国勃興と世界侵攻
1)モンゴル高原(モンゴリア)〔「草原」の方が本質表現〕は、モンゴルからトルキスタンまで広く勢力を張っていたウイグル可汗国〔遊牧民族の君主国]が840年キルギスによって崩壊されて以降 統一国家が存在せず、南モンゴリアは遼〔契丹人(キタイ人:半農半牧民族)の耶律氏(ヤリュート氏)の征服王朝]と金〔女真族の完顔部から出た阿骨打が1115年遼に反乱を起こして独立王朝を建国〕が支配し、北モンゴリアは遊牧民の諸部族〔モンゴル部族はその一つ〕が連合を形成し 互いに抗争していた。

  チンギス・ハン誕生前の東・中央アジア主要部族・国家の勢力図 


 
        〔バイカル湖・東南にブルカン山〕      
               モンゴル      タタール 
      ナイマン    ケレイト     オングート
〔カスピ海〕   カラ・キタイ(西遼)   西夏    金   高麗
                              (北宋)
         ホラズム    吐蕃(チベット)   南宋   日本(鎌倉幕府)
           〃      ゴール朝(インド)   大理(東南アジア)
〔アラビア海〕                 〔ベンガル湾〕


  「モンゴル系民族」モンゴル部」(wiki) 
 「モンゴル」名の初出は『唐書』列伝で室韋」(しつい:610世紀まで中国東北部黒竜江流域に存在していた民族モンゴル系民族の源流と考えられている)の一部族として「蒙兀室韋」「蒙瓦部」の漢字名で表示。11世紀には「萌古国」で『遼史』に登場し遼に朝貢していた。〔遼は、内モンゴルを中心に中国北辺を支配した契丹人(キタイ人)征服王朝(916〜1125年)]このころのモンゴル部族はバイカル湖畔に住んでおり、1125年女真族のが遼を滅ぼした頃、モンゴル国の初代カン(王)となったのはカブル・カン。彼は金に朝貢した際に罪を犯したり、タタル部族と抗争したりした事を次代のアンバガイ・カンが罪に帰せられ、処刑された。後継のクトラ・カンは、その仇を討つべくモンゴル諸氏族を率いて金に攻め入り、多数の略奪品を持ち帰ったという。その後モンゴルのカンは空位となったが、代わってクトラ・カンの甥にあるイェスゲイ・バアトル〔チンギス・ハンの父〕が、キャト氏族とニルン諸氏族をとりまとめた。
 (イェスゲイは、12世紀中頃にモンゴル高原の北東部で活動したモンゴル部のうちボルジギン氏〔12世紀頃モンゴル高原北東部で一大勢力を築いたモンゴル部の有力氏族で全モンゴル部族を初めて支配したとされるカブル・カン輩出以来モンゴル部のカンを独占〕系キヤト氏の首長のひとり)

1)チンギス・ハン(幼名:テムジン)によるモンゴル部族・モンゴリア地域の統一
 a.モンゴル部族のボルジギン氏系キヤト氏の首長の一人イェスゲイを父、モンゴル部族の一
つコンギラト部族のオルクヌウト氏族の娘ホエルンを母とする長男のテムジン=チンギス・ハンは、幼い時父がタタール族に毒殺され苦労するが、成人するにつれ指導者として頭角を現した。

  【参考】チンギスの同母(ホエルン)兄弟一覧
   長男:チンギス(1162〜1227年)
   次男:ジョチ・カサル(1164?〜1213?) 
     三男:カウチン(1166?〜?)
    四男:テムゲ・オッチギン(1168?〜1246)
      長女:テムルン(1171?〜?) 
 b.東方のタタール、ケレイトなどモンゴル系部族を制圧し、1204年モンゴル高原の西南部を支配していたナイマン王国〔モンゴル部族と同系統のナイマン部族国家]を討ち、モンゴル高原の覇権を確立。
 c.モンゴル帝国の樹立


  モンゴル系部族を統一したテムジンは、1206年クリルタイ(部族長会議)で全モンゴルの君主としてハン(カンとも表記する)に推戴され、チンギス=ハン(チンギス=カン)と称することになった。モンゴル民族の統一国家が成立。

 d.帝国化の推進
 ァ.1206年チンギス・カンは西南の西夏に親征〔君主自ら軍を率いて遠征・征伐に出る〕。1209年まで3次に亘り西夏出兵し、服属。〔西夏は1216年チンギス・カンの出兵要請に拒否したため第4次西夏遠征]。1211年西ウイグル王国がモンゴルに帰順、その後モンゴリア西方のオイラトトメトカルルク西遼などの周辺諸国に遠征軍を送り帰順か征服を遂げ、南シベリア・中央アジアまで勢力を広げた。

 ィ.1211年から東南の金朝に遠征。中国東北地区(満州)と華北を席捲。金朝皇帝宣宗は先代衛紹王主〔皇帝の娘〕をチンギスに嫁がせ和睦を結んだ。金は、1214年河南開封へ遷都し河南のみを支配する小国に転落。

 ゥ.1218年から中央アジアのオアシス農業地帯に対する大規模な遠征軍を発し、中央アジアから西アジアまで広がる大帝ホラズム・シャー朝に侵攻、サマルカンド・ブハラ・ウルゲンチなど中央アジアの名だたる大都市に甚大な被害を与え、壊滅させた。
 顱縫船鵐ス・カンの本隊は、ホラズム・シャー朝の王子ジャラールッディーンを討伐するためアフガニスタン方面へ進軍。だが、バーミヤーンでチャガタイの長男が戦死、アフガニスタン中南部パルワーンでは駐留していたボルテの養子の軍が壊滅させられた(パルワーンの戦いは、チンギス・カンの西征でモンゴル軍が唯一敗れた戦い)
 髻縫船鵐スは
トルイを殿軍としてホラーサーンに駐留させ自らの本軍とジョチ、チャガタイ、オゴデイ率いる諸軍を引き連れ、ジャラールッディーンをインダス川のほとりまで追い落とし捕縛出来なかったが撃退に成功(インダス河畔の戦い)。

 鵝縫スピ海まで逃げた君主アラーウッディーンを追ったジェベスベエテイ率いる別働隊はアラーウッディーンの捜索を続けアゼルバイジャンからカフカスを抜けロシアに至り、ルーシ諸公(キエフ大公国の分列期から、ロシア・ツァーリ国(1547年イヴァン4世がツァーリの称号を帯びて以後1721年ピョートル1世がロシア帝国建国を宣言するまで用いられていたロシア国家の公称)、ポーランド共和国の成立までの期間に誕生したルーシの諸公国をまとめたもので、各公国は主としてロシア・ウクライナ・ベラルーシ、一部はポーランド、ラトビア等に存在)を破った(1223年カルカ河畔の戦い)。

 ェ.チンギスのモンゴリアへ帰還後、
 顱帽大になった領地を分割し、長男ジョチには南西シベリアから南ロシアの地まで将来征服しうる全ての土地、次男チャガタイには中央アジアの西遼の故地、三男オゴデイには西モンゴルおよびジュンガリアの支配権を与えた。四男末子トルイにはその時点では何も与えられないが、チンギスの死後に末子相続により本拠地モンゴル高原が与えられる事になっていた。

    《参考》末子相続
 相続は、農耕民族をはじめとして長子相続が一般であるが、遊牧民族では末子相続。息子が成人すれば親は、順次馬や羊を与えて(一般の遊牧民に財産としての土地はない)独立支援、最後に残った財産は末子が受け継ぐ。支配階級では、領民・領地が財産として分与。なお、家督相続は末子相続と一致しない。
 【wikiに、「モンゴル内部では末子相続の慣習に従ってオゴデイの弟でチンギスの末子に当たるトルイを後継者に求める声があった」とあるが、伝承でよいからその事をより詳しく知りたいものだ。食うか食われるか・服従するか抵抗するかの油断ならない時代や国柄で、末子ということだけで末子を皇帝にする=末子に国を託すことは、常識からしてあり得ない。「末子相続」という言葉からの思い込み・勘違いであろう】
 c.
 チンギスの後継は第3子のオゴタイ。中央アジアから北西インド・南ロシアまでにまたがる大帝国をつくりあげた。
 

1)オゴデイは、父に引き続いて積極的な領土拡大を行なった。
 a.1229年大ハーン就任後オゴデイは、トルイと協力して金遠征を図る。1232年金を滅ぼした。

 b.モンゴル帝国は定まった都を持たず天幕で移動していたが、1235年モンゴル高原の中の豊かな草原地帯に宮殿・城壁を築き首都カラコルムを建設。
 ァ.ここを中心に帝国各領内に通じる幹線道路網の建設が進められ、街道10里ごとに駅伝(ジャムチ:人馬提供可能な宿駅)が設けられた。
 ィ.同地でクリルタイ開催。南宋方面とキプチャク草原からルーシ・東欧に至る西方遠征の二大遠征、朝鮮半島の高麗、インド北部・パキスタン北東部の国境付近にひろがる山岳地域のカシミールへの遠征計画を決議。
 顱貌酳遠征(モンゴル・南宋戦争1235〜1279)。時期によって、第1次(オゴデイ治下のクチュの南征:1235〜1241)、第2次(モンケ治下のクビライの南征:1253〜1259)、第3次(南宋滅亡:1268〜1279)に分けられる)。
  
総司令として中央軍を三男クチュに任じ、次男コデン率いる西路軍を陝西・四川方面へ派遣し、征服させた。しかし、南宋に送り出した遠征軍はクチュが陣中で没し、指揮命令系統が混乱し泥沼戦争に陥った。
 髻1236年から西方遠征。チンギスの長男ジョチの次男・ジョチ家当主のバトゥを総司令官とし、功臣スブタイを宿将としつつ長男グユクやトルイ家の当主モンケなど各モンゴル王家の後継者クラスの王族たちを派遣し、ヴォルガ・ブルガール、キプチャク、アラン諸部族、カフカス北部、ルーシ諸国、ポーランド王国、ハンガリー王国など東欧の大半を制圧。
 ゥ.首都建設以降オゴデイはカラコルム周辺の草原に留まり、遠征は配下の軍隊に委ねられた。
  カラコルムには第3代グユク・第4代モンケまでハン(皇帝)が住み、モンゴル人・中国人・イスラム教徒の他、ヨーロッパ人も住んでいたという。またヨーロッパのローマ教皇から派遣されたプラノ=カルピニ、フランス王ルイ9世の派遣したルブルックが来訪。
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  1241年モンゴル帝国の征西軍とヨーロッパ遠征軍とポーランドドイツ連合軍が激突したワールシュタット(ドイツ語で「死体の山」)の戦いを契機に東欧・西欧にモンゴル軍の脅威が忍び寄ると1245年の第1リヨン公会議(カトリック教会の公会議で教皇が召集で議題となり、モンゴルへの使節派遣が決定。モンゴルとの交渉役としてヴェネツィア共和国のカルピニらの修道士が指名され、東欧に勢力を拡大していたモンゴル帝国のバトゥの元に派遣。派遣団は、通過する諸侯達に護衛や召使を数名つけてもらう程度で、教皇使節としては少規模。面会したバトゥはグユクの元へゆくよう命じた。カルピニはバトゥが建都していたサライの状況などを見て、バトゥのことを部下に対する思いやりがあり同時に大変恐れられているとして「サイン・ハン」(偉大なる賢君)と賞賛の一方でバトゥほど残酷なものはなくまた抜け目なく狡猾と言っており、バトゥの侵略によって徹底的に破壊されたキエフの状況を見て、「バトゥは偉大なる君主であるが、都市を容赦なく破壊する暴君でもある」と評価。さらにモンゴル帝国の首都であるカラコルムにまで交渉に赴き、到着直後の1246年8月24日モンゴル帝国のハーンとなるグユクの即位式のクリルタイに列席。この時、カルピニ一行はグユクに会見してローマ教皇の親書を手渡して和睦交渉を行なったが、グユクは和睦ではなく教皇をはじめとする西欧諸国の臣従を望んだため、果たすことはできなかった。そのため帰国後は一時教皇の怒りを買ったが、彼が記した『モンゴル人の歴史』という史書・報告書が高く評価され、怒りを解かれてダルマチア大司教に任じられた。

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 フランスのフランシスコ会修道士。1253年フランス国王ルイ9世の命を受けモンゴル帝国に派遣された。使命は、十字軍への協力要請とキリスト教の布教。翌年カラコルムを訪れ、第4代モンケに謁見。その時の見聞にもとづき、モンゴル・中央アジア各地の地理・風俗・宗教・言語などを伝える旅行記「東方諸国旅行記」を書いた。
 〔wikiの「ルブルック」の解説は一貫性に欠け曖昧性を残し物事を不明にさせるが、次の文は出典が知りたいところだが真偽はともかく 参考にはなる。

 「これに(十字軍への協力要請)ついては、以下のな逸話が残っている。1248年、キプロス島に上陸した十字軍のもとに、モンゴル軍司令官イルチガタイからの使者がやってきた。熱心なネストリウス派信者であったイルチガタイは、「協力して聖地を奪還せん」とルイ9世に提案したのである。この話に惹かれたルイ9世はグユク・ハン宛てに返答の使者を派遣し、ルイ9世はさらにルブルックを派遣した。ルブルックと会見したモンケはイルチガタイの使者の正当性を否定し、モンゴルによる世界制覇の野望を伝えたというものである。
 しかし実際にはこの逸話の使者はルブルックではなくドミニコ会修道士アンドルーである。アンドルー修道士は、1249年2〔月〕にアンドルー他総勢7名で出発したが、グユクが既に死去していた為、グユク妃である
オグルガイミシュバルハシ湖南東イミル河畔で謁見し1251年に帰国した。使節はオグルガイミシュの返書を携えて帰国した。その返書には同盟どころか貢納を条件とした和平が高飛車に記載されていてルイ9世を失望させたというものである。ルブルックの派遣は十字軍の協力要請ではなく、バトゥの息子サルタクがキリスト教徒である噂が広まっていたことと、モンゴルから帰国したカルピニがパリでルイ9世に面会した際、ルブルックも同席していて、ルブルック自身がモンゴルへの布教に興味を持ったことにある。

そこでルイ9世はサルタクへ書簡を送ることとし、使節にルブルックを派遣した」【文面からは、ルブルックの場合自発的なモンゴル布教旅行で、wikiの記す公的な「派遣」ではない。ルイ9世が一国の元首でもないバトゥのしかも息子のサルタクへの書簡を送る事自体不自然。但し、モンケに会えたことは事実。

 『東方諸国旅行記』は、ベニスの商人マルコポーロの『東方見聞録』や修道士オドリコの旅行記の先がけとなった】〕 

2)内政の充実
 a.書記官僚(ビチクチ)の重用。
  背景:武官だけでなく有能な文官の充実が必要となった。
  父の時代からの功臣・ウイグル
人財務総監チンカイ(文書行政機構(中国史料の中書省)の最高責任者)、ホラズム出身でムスリム(イスラム)系財政官僚マフムード・ヤラワチ、金の元官僚で出自は契丹人の耶律楚材らを重用。
  例:耶律楚材は、華北の大平原を無人にすれば遊牧に適した土地になるから捕虜(漢人)を皆殺しにするというモンゴル軍人の進言を押し止め、捕虜たちを「万戸」と呼ばれる3つの集団に分け、万戸ごとに農民・職人など職業によって大別した戸籍を作って課税する中国式税制を導入。それによりモンゴル帝国は定住民から安定した税収を得ることができるようになり、オゴデイはこれに感嘆し楚材を賞賛した。
 b.1229年に制度化したモンゴル帝国(および元)の交通通信網。ジャムチという駅伝制を導入し、領土が拡大した帝国内の連絡密度を高めた。主要道路に10里ごとにおかれる宿駅には人馬を提供する100戸が配置。
 c.農耕地、都市部の管轄のために中書省を設けた。〔「中書省は、中国で魏代から明代初期まで存在した中央官庁の名称。主に詔勅の立案・起草を司った」とあるが、オゴデイ時代の場合は地方行政のことのようで役割の説明がない。ハッキリしないが、「代では、中書省は、中央政府の統治機関となり、また、各地方にも同様の行中書省(行省)が設置された。そして、この行省が、今日みられる地方行政区画としての各省の起源となった」〕
 d.貨幣制度では、金の制度を引き継ぎ紙幣の交鈔を発行し銅不足に対応。
 中国の紙幣は、北宋の交子に始まり、南宋でも発行され、金で交鈔と言われて発展。モンゴル帝国は、金を滅ぼした後、金の貨幣制度を引き1236年交鈔を発行。金の領土を引き継いだがその領内には銅山がなく銅銭の原料に不足したため、と言われている。耶律楚材は、金の先例をふまえて交鈔の発行量を調整するよう提言、当初は1万錠(50万貫)が上限と定めらた。
3)内政・内政の不均衡・不統一が露呈
 a.「相次ぐ対外遠征や新首都建設などからの財政悪化、さらには急激に拡大しすぎた領土間の連絡が密に取れず、次第に帝国の一族間における分裂などが顕著になったこと、そして何よりも長男・グユクと「ジョチ家の2代目〕バトゥの対立が決定的となって一族間に不和が生まれた」(wiki)

 ァ.「財政悪化」はどういうことか?収入と支出、債権と債務の主な項目とそれがどのように変わったか知りたいところだが、「相次ぐ遠征」「首都建設」の資産科目だけで済ませては学の進歩はない(「財務」を云々するからには、何で資金調達したかが不可欠)。
 髻法嶇⇒蹐密に取れず」は、理由を「急激に拡大しすぎた領土」に求めるのでなく(そのため画期的な駅伝が設けられた)、本質は統率・統制・統治の欠如にあるはずが、そのモデル事例が欲しいところ。
 鵝飽貘牡嵒塹臓κ裂」は、「何よりも長男グユク〔オゴデイの長男〕とバトゥ〔チンギスの長男ジョチの次男でジョチ家の当主〕の対立が決定的」とあるが、具体的には次のとおり。
 a)「『集史』などによれば、〔オゴデイの〕後継者の最有力候補であった三男クチュが早世したため、オゴデイは父チンギスのように自分の息子から後継者を指名せず、クチュの長男のシレムンを後継者としていたという。しかし、シレムンは未だ若年であり、壮年の王族はオゴデイの息子たちはもとより、ジョチ家やトルイ家、チャガタイ家にも大勢いた。オゴデイは即位の時にオゴデイ裔に皇位継承権が固定されるよう各王家に誓詞を提出させていたという。

 1241年陣営深夜まで飲酒に興じ翌朝寝床で急死。『集史』や『元史』では過度の酒色で健康を害していたと述べられている。「生前、オゴデイはシレムン、あるいは甥にあたるトルイ家のモンケを後継者として考えていたらしい。しかしオゴデイの死後、皇后のドレゲネによる巧みな政治工作でグユクが第3代ハーンに選出された。」


オゴデイの第6夫人ドレゲネ(以下、「皇后」)は、オゴデイが後継者に指名していたオゴデイの三男クチュ〔早世〕の子シレムンを成人に達していないとの理由で後継候補から除外し、オゴデイ家で皇后の長男グユクを後継者に推した。

 b)これに反対のバトゥは、皇后の後継皇帝を決めるクリルタイ召集に応じず、以後5年モンゴル帝国は大ハーン空位のまま皇后による監国(摂政政治)時代が続いた。

 c)彼女の工作で1246年クリルタイが招集、グユクを大ハーンに即〔つ}けることに成功。チンギスを祖とする有力王家(例:オッチギン家、トルイ家チャガタイ家)代表らの参加・決議による。
 

 d)「ドレゲネの政治工作による強行的なグユク擁立は、特に東欧遠征中に反目を起こしていたバトゥやモンケなど、多くの人物から不満があがり、その後のモンゴル帝国分裂の一因になった。1248年4月、グユクも遠征途上で急死」 オゴデイ、それに続くチャガタイの急死に、オッチギン関与の疑惑存在。

 〔オゴデイが没すると、オッチギンはハーンの位を求め軍隊を率いてオゴデイのオルド〔宮廷〕に向かったがドレゲネに意図的を見抜かれ非難され、皇子グユクが征西から帰国した報告を聞くと、彼女にオゴデイの弔問に訪れた旨を伝え、軍を引き返した〕

グユクは帝位をうかがっていたテムゲ・オッチギンの審問を従兄弟のモンケとオルダに命じ、オッチギンの部下たちを処刑〔判決直後オッチギンも没〕。ドレゲネが摂政を務めていた間に乱発されたヤルリク(特許状)を廃止して諸王の権力の乱用を抑え、母の寵愛を得て専権を振るっていた重臣アブドゥッラフマーンを処刑した。父時代の功臣であるマフムード・ヤラワチチンカイチャガタイ家イェス・モンケチャガタイの五男)などを重用した。グユクの政策は父オゴ。

軍事面では南宋イラン諸地方・高麗に兵を送り、引き続き勢力の拡大に努めた。 また、ルーム・セルジューク朝の使節の告発を受けてスルターンカイカーウス2世に代えて王弟クルチ・アルスラーン4世を新たなスルターンに任命し[16]、王位の継承問題が起きていたグルジア王国を2つに分割した[17]

グユクはリウマチに冒されていた上、過度の酒色のために政務を執ることができず、大臣のチンカイとカダクに政務を委任していた[18]。グユクの家庭教師でもあったカダクはネストリウス派キリスト教徒であり、彼の影響もあってグユクの統治下のモンゴル帝国ではキリスト教は厚遇を受けた[18]

グユクは征西再開のため、1247年8月にイルジギデイを指揮官としたペルシア遠征軍先発隊をイランに派遣した。続いてグユク自身も私領(ウルス)であるエミル・コボク地方への巡幸を名目として、一軍を率いて西征へ出発した[19]。しかしグユクは1248年4月、遠征途上で自らの旧領であるビシュバリク方面で急死した[18]。この死は、かねてからの酒色で健康を害したための病死といわれている。しかし『集史』などでは、トルイ家のソルコクタニ・ベキ(モンケの生母)が、この巡幸はグユクによるバトゥへの討伐軍ではないかと危惧し、あらかじめバトゥに警戒するよう知らせていたことも記録されており[18]、犬猿の仲であるバトゥによる暗殺の可能性を示唆する説もある[20]

グユクの死後、その皇后であったオグルガイミシュ英語版が摂政監国として国政を代行した。しかし、バトゥとモンケらトルイ家の王族たちはオグルガイミシュの招請を拒否し、約4年の間モンゴル皇帝位は空席のまま決まらず、帝国全体の統治はまたしても混乱する事となった。

バトゥは独自にクリルタイを開催し、オゴデイ家の王侯はこの動きに抵抗したが[21]ジョチ・カサル家、カチウン家、テムゲ・オッチギン家の当主たちがバトゥとモンケの集会に参集したことに加え[22]、シレムンやグユクの子であるホージャ・オグルやナグの兄弟も参加を表明するに及び、モンケがバトゥの支持を得て第4代モンゴル皇帝として即位
犬猿の仲・バトゥによる暗殺説あり。
 ィ)


 c.チンギスの後継
 ァ.モンゴル帝国の統治者大ハンの地位は、チンギス=ハンの血を引く一族の優れた者が、クリルタイ全員一致の推戴によって就任することとなっていた。1227年にチンギス=ハンが亡くなると、その地位をめぐって息子間で争いが起こり、1229年には第2代にオゴタイが選出されたが、その後も内紛が絶えなかった。
 ィ.第3代はオゴタイの子グュクが継いだがすぐに死去(毒殺の疑いもある)。
 ゥ.1251年第4代にはトルイの子
モンケが即位した。
 モンゴルの国家はモンゴルでは
ウルスと言われ、全体のモンゴル国家は「大モンゴル=ウルス」と言われたが、分立した国家もそれぞれウルスといわれた。
  


1235年に開催されたクリルタイにおいてヨーロッパ遠征が決定されると、スブタイは軍事能力と長年にわたる従軍経験を評価され、遠征の総司令官を務めるバトゥの副官に任じられた。

1236年春にスブタイはブルガール地方を攻撃し、ブルガールの族長たちを屈服。1237年から1238年にかけ、遠征軍はリャザン旧リャザン)、ウラジーミルスーズダリトヴェリなどのルーシの都市を陥落させた。スブタイは略奪によって食糧を集めながら南下し、ドン河畔で兵士に休息を取らせた。モンゴルへの服従を拒むカフカスの民族が制圧された後に遠征軍は行軍を再開し、1240年キエフを破壊する。スブタイの軍はモルダヴィアを抜け、1241年ハンガリーに侵入したバトゥの本隊と合流した。モヒの戦いにおいて、スブタイはハンガリー王ベーラ4世が率いるハンガリー軍に勝利を収めた。同年にオゴデイが没するとヨーロッパ遠征は中止され、スブタイは東方に帰還した。

スブタイは帰国後にオゴデイ没後に開催されたクリルタイに参加した後、トゥラ河畔に与えられた遊牧地に居住し、1,100の封戸を有した。死後、河南王に追封された。


 チンギス・カンは、腹心の僚友(ノコル)に征服した遊牧民を領民として分け与え、これとオングトやコンギラトのようにチンギスと同盟して服属した諸部族の指導者を加えた領主階層を貴族(ノヤン)と呼ばれる階層に編成した。最上級のノヤン88人は千人隊長(千戸長)という官職に任命され、その配下の遊牧民は95の千人隊(千戸)と呼ばれる集団に編成された。また、千人隊の下には百人隊(百戸)、十人隊(十戸)が十進法に従って置かれ、それぞれの長にもノヤンたちが任命された。


テュルク・モンゴル系の騎馬軍同士の会戦(『集史』)

戦時においては、千人隊は1,000人、百人隊は100人、十人隊は10人の兵士を動員することのできる軍事単位として扱われ、その隊長たちは戦時にはモンゴル帝国軍の将軍となるよう定められた。各隊の兵士は遠征においても家族と馬とを伴って移動し、一人の乗り手に対して3 - 4頭の馬がいるために常に消耗していない馬を移動の手段として利用できる態勢になっていた。そのため、大陸における機動力は当時の世界最大級となり、爆発的な行動力をモンゴル軍に与えていたとみられる。千人隊は高原の中央に遊牧するチンギス・カン直営の領民集団を中央として左右両翼の大集団に分けられ、左翼と右翼には高原統一の功臣ムカリとボオルチュがそれぞれの万人隊長に任命されて、統括の任を委ねられた。

このような左右両翼構造のさらに東西では、東部の大興安嶺方面にチンギスの3人の弟ジョチ・カサルカチウンテムゲ・オッチギンを、西部のアルタイ山脈方面にはチンギスの3人の息子ジョチチャガタイオゴデイにそれぞれの遊牧領民集団(ウルス)を分与し、高原の東西に広がる広大な領土を分封した。チンギスの築き上げたモンゴル帝国の左右対称の軍政一致構造は、モンゴルに恒常的に征服戦争を続けることを可能とし、その後のモンゴル帝国の拡大路線を決定付けた。



 チンギス・カンに優秀な8人の最側近がいた。(『元朝秘史』に、「四駿四狗(ししゅんしく)=4頭の駿馬・4匹の狗」(dorben kulu'ud, dorben noγas)と讃えられた)
 四駿
.爛リ

 ジャライル部の人。1206年、モンゴルの左翼(東部)の万人隊長(万戸長)に任命され、チンギス・カンの金遠征でも活躍した。モンゴル高原東南部の5部族(ジャライル部、コンギラト部、ウルウト部、モンクト部、イキレス部)を配下につけられて中国の攻略を担当した。
▲椒ルチュ
 
アルラト部の人。チンギス・カンの最初の側近。『元朝秘史』によれば、少年時代のチンギスが馬泥棒にあったとき、チンギスに馬を貸して追跡を助けたとき以来の友人。チンギス・カンのモンゴル高原統一に功績をあげ、右翼(西部)の万人隊長に任命された。
チラウン
 
スルドス部の人。父ソルカン・シラは少年時代のテムジン(チンギス・カン)がタイチウトに捕えられたとき、チラウン父子は彼をかくまって逃がしてやったとされる。ソルカン・シラはタイチウト部がモンゴル部に滅ぼされた後チンギス・カンに迎えられ、千人隊(千戸)を与えられた。チラウンは数々の戦役に従軍して功をあげ、父の死後千人隊を引き継いだが、外征にあまり活躍することなく早くに没した。
ぅ椒蹈ル

 フウシン部の人。若くして数々の戦功をあげたが、1217年にモンゴル高原北東の森林地帯に住む狩猟民トマト部の討伐において戦死した。
四狗
.献Д

 ベスト部の人。はじめタイチウト部に属していたが、タイチウトがチンギス・カンに滅ぼされた後チンギス・カンに投降して仕えた。チンギス・カンの遠征において先鋒を務めて戦功を重ね、1218年には西遼を乗っ取ったナイマン部のクチュルクを討つ功績をあげた。ホラズム遠征ではモンゴルの侵攻を受けたホラズム・シャー朝第7代皇帝を追撃してイランに入り、そこからグルジアに出てカフカスを抜け、ルーシ(ロシア)まで達し、ルーシ諸侯の連合軍を破ったが、モンゴルに戻る途上で病死。
▲献Д襯
 
ウリヤンカイ部の人。弟のボオルチュとともにチンギス・カンに早くから仕え、側近として活躍した。タイチウトとの戦いでチンギス・カンが毒矢を受けたときは、毒を吸い出して看病したという逸話が伝わる。
スブタイ
 ウリヤンカイ部の人。ジェルメの弟で兄に続いてチンギス・カンに仕えた。兵数10分の1の完顔陳和尚の金軍に負けたこともあるが、数々の戦功をあげて勇士として知られ、ホラズム遠征ではジェベ(チンギス・カンの長男ジョチの次男。キプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)の実質的な創設者)とともにルーシまで達する別働隊を率いた。のちにバトゥのヨーロッパ遠征にも従軍した。

ぅビライ
 
バルラス部の人で、早くにチンギス・カンに仕えた。モンゴル統一に貢献して「四匹の狗」に数えられ、中央アジアのカルルクを討ち、オアシス諸国を帰順させる功をあげた。


チンギスの皇后のうち、大ハトゥンは5人いたとし、ボルテを第1位、クランを第2位、イェスゲンを第3位、公主ハトゥン (كونجو خاتون Kūnjū Khātūn) こと岐国公主を第4位、イェスルン(イェスイ)を第5位とする。一方、『元史』「后妃表」によると、ボルテ、クラン、イェスイ(イェスルン)、イェスゲンはそれぞれ大オルド、第二オルド、第三オルド、第四オルドを管轄していたという。

 ハトゥンは、中央ユーラシアにおいて主に遊牧国家の君主の后妃が名のる称号。同じく中央ユーラシアの遊牧国家の君主が用いるハーンの女性形に当たる。

  【参考】チンギスの4人の息子
 …甲縫献腑繊複隠隠牽粥〜1225)
  西方遠征で働きは抜群で優秀で1211年よりチンギスが金への遠征を開始したときは、同じく帝国の西部にウルスを持つ二人の弟チャガタイ、オゴデイとともに全体の右翼軍(西部軍)を率いる将領として参加し、数々の戦果を上げた。ただ後継についてチンギスの嫡子であるか疑念を与えた。諸史料によれば、チンギス・カンはこの頃(1219年からのホラズム・シャー朝遠征)、4人の嫡子のうちから後継者を選び、温和な3男のオゴデイを後継者に指名。このとき、チンギス・カンは諸子を集め自分の後継者に誰がふさわしいか意見させたが、ジョチとチャガタイが口論、二人がお互いをカンにふさわしくないと言い合ったので、次の弟で人望のあるオゴデイが立てられた。なお、ジョチは1225年父に先立って病没した。 
 ⊆|縫船礇タイ(1186?〜1223)は、長兄ジョチとは、ジョチの出生の疑惑などをめぐり険悪な仲であった。また、激しい気性気性の持ち主であったため、一族の和を重んじる父から後継者候補としては除外されていたという。法に対して厳格な一面があったため、それを父に見込まれ、モンゴル帝国の法律の管理を任され「ヤサの番人」の異名を取った。弟・オゴデイと仲が良く、父の死後はその遺言に従ってオゴデイの即位を支持。
  父に従って金討伐や大西征(1219〜1223)に従軍し戦功を挙げたことから、西遼の旧領を与えられ、後のチャガタイ・ハン国の祖となった。
 三男オゴデイ(1186〜1241)は、父・チンギスの金遠征と西域遠征に従った。その大西征においてホラズム・シャー朝の討伐で戦功を挙げ、ナイマン部の所領を与えられた。オゴデイにはジョチとチャガタイという2人の有能な兄がいたが、オゴデイは温厚で一族の和をよくまとめる人物として父から後継者として指名されていた。クリルタイでチャガタイやトルイの協力のもと、1229年第2代モンゴル皇帝に即位。


 せ傭縫肇襯ぁ 1192〜1232)
 「幼少時から英邁〔えいまい:特別な才知〕で武勇に優れ、人望も厚かったという」。1212年からの第一次金遠征で1219年に始まるホラズム・シャー朝遠征チンギス・カンの西征)、1226年第5次西夏遠征で諸戦役で父とともに各地を転戦して軍功を挙げ、その名を轟かせた。「1227年チンギスが没すると父の所有していた家産と直轄ウルスの101個千人隊に相当する部民、軍隊のすべてを相続」、「後継の大ハーン選出まで帝国の政務を代行する監国の地位についた。そして2年後、後継の大ハーンの選出にあたっては自身の即位を固辞し、父チンギスが生前に後継者に定める意向を示していたという兄オゴデイを第二代大ハーンに推し、即位させた。」

 オゴデイの即位に際し、4個千人隊のウルスしか所有しない兄オゴディに自身のウルスの大部分の指揮権を譲り一将軍に甘んじた。オゴデイを中心に金に対する作戦が再開されると、右翼軍の司令官として参戦し、1232年完顔陳和尚率いる金軍を破り金の主力を壊滅させる戦功をあげた。しかし、オゴデイの本軍と合流して帰還する途上、モンゴル高原に至ったところで急死。深酒のためとされるが、弟の人望と功績を恐れた兄オゴデイによる謀殺とみる説もある。
  《参考は、以上》


 「世界史の窓」
第4代モンケ=ハンの死後はハイドゥの乱が起こり、乱後は宗家フビライ=ハンが統治しモンゴルと中国を領土とする元帝国と、フラグの建国したイル=ハン国、バトゥの建国したキプチャク=ハン国、チャガタイを祖とするチャガタイ=ハン国の3ハン国(ウルス)とに分かれることとなった。しかし、あくまで元の皇帝が大元ウルスハン(カアンとも称した)は宗主権をもっており、モンゴル帝国としての一体性は維持されていた。
現在は「4ハン国に分裂」とは言わない かつてはイル=ハン国、キプチャク=ハン国、チャガタイ=ハン国と共に、オゴタイを祖とするオゴタイ=ハン国があり、「4ハン国」と言われ、またそれぞれが独立性が高くモンゴル帝国は分裂した、と説明されていたが、現在はオゴタイ=ハン国の実体は無かったとされ、3ハン国とする説が有力である。山川出版社の『詳説世界史』も06年度改訂版から、「4ハン国」と「オゴタイ=ハン国」の記述が消滅した。また、3ハン国は互いに対立したが、いずれも元を宗主国としているので、モンゴル帝国としての一体性は維持されており、これをもってモンゴル帝国の分裂とは言わなくなっている。 → モンゴル帝国(ウルス)の分立

「wiki」ブリヤート人

ブリヤート人はモンゴル族の一部であり、モンゴル先祖はバイカル湖から形成し始めてから草原地代へ進行する、モンゴル秘史に記載する蒼き狼と白い鹿がバイカル湖を横断して草原へ移動されモンゴル民族が発足する。バイカル湖周辺が人類文明の一原点であり、アルタイ諸民族の発祥地だとされる。

ブリヤート人も、バイカル湖の東に住む者と、西に住む者とでは、かなりの違いがある。東に住む者は、固有の文化を維持し、ロシア人との混血が進んでいないのに対し、西に住む者は、生活がロシア化され、ロシア人との混血が進んでいる。弥生人、もしくは縄文人の遺伝子に近い特徴を持つといわれ[1][2][3][4][出典不十分]、日本において、日本人のルーツの一つとして近年注目を集めている(「日本人バイカル湖畔起源説」を参照)。


話題・出来事2:入院体験

 こんにちは!自在業の櫻井です。
(追記:12月16日(金):
 表題の「入院体験」は、当初「歴史スポット62:文永の役と日蓮」の序文として記すつもりであったが、書き込んでいるうち記録として残すべき事柄が多くなって、「Δ泙箸瓠廚貌るほぼ直前記事として独立させることに決めた。結果、分類上「話題・出来事」が入って「歴史スポット」が3連続ならず。そのため11年3月11日「東日本大震災」を初とする2つ目のテーマとなって、記事としては9本目となった。
 文章構成は、気泙任播初通り。兇麓々譱りのため無し)

機テ院体験
 9月23日(金)9時半からの入院は、12月7日(水)午後2時で退院。数えると入院期間は約2ケ月半の76日間。(現在70.5歳の今、振り返ると入院は学生時代交通事故で頭をぶつけ3週間近く入院した以外1日たりともなかった)
 ブログはその間 書き込みした日は無くても文章や構想は練っていた。なお、病室に持ちこんだタブレットはある時変な所をタッチして修正出来ず1週間もウェブから完全に遠ざかったことがあった。
 タブレットでの記事の完成は不本意ながら初めて、1本目が9月23日の着手で入院した日。直前にパソコンで記事の表題を登録し、取りあえず撮った写真だけ貼り付けただけ。後日病床で書き込み。期間中病院で3本の記事をタブレットで書いたことになる。(もっとも、細かくは退院後、パソコンによる文字・記号・加筆修正している)
 タブレットはサムスン製GALAXY Tab4。今年8月Galaxy Note7の新発売後世界各地で発火・爆発事故があり、米・日での航空機内持ち込み禁止などにより製造販売中止・全品回収に追い込まれたものとは違う。 Tab4は14年製で古く、だから安全・安心ということになってしまう。背広の内ポケットに入る大きさという事で選んだが、文字入力はパソコンのようなボタン式でなく、慣れない・知らない・指が大きい・少しでも意図しない文字パネルに触れるとそれが現れ 意図した文字でも違う文字であったり、一発で決まら何度も直したりする。また、参考文章をコピー・貼付する際 書き込んだページを一旦保存して 閉じ、参考サイトを再び開いて紙に書き写し、元のサイトに戻って入力しまければならない。従って5倍、以上の時間を要すと思うが、やむを得ない。9月23日号などは、「まとめ」に近づいたところで、それまでの書きかけ記事をすべてをうっかり削除してしまった。嫌になったが、他にする事もないからやり直した。
 さて、前々号からの記述のとおり県立新潟がんセンター新潟病院で入院生活を送り、大変貴重な勉強と経験をさせてもらった。勿論、これで完治したわけでなく毎月1回の検査・通院があり、順調にいけば3か月後人工肛門を外す手術があり、その間自宅で自身による3日に1度の人工肛門袋(パウチ)の交換があり、1日4回(毎食後と寝る前)各1袋の下痢止め用薬(アドソルビン原末 タンナルビン)の服用がある。
  このタンナルビンは10月18日(火)からの開始で1日3回、2日後の18日(火)には寝る前が追加で1日4回となり、一番長く続いている。
 これまで一度に飲んだ最も多い薬の数は3種類(食前1種・食後2種)で10月5日(水)から。腸内の細菌を殺すバンコマイシン塩酸塩0.5g「MEEK」、腸内細菌のバランスを整える耐性乳酸菌散10%「JG」(エントモール)、熱を下げたり痛みを和らげるカロナール錠300咫頁髻法△修靴董崢砲せ 頓用」とあり「1回1錠・10回分・4時間以上時間をあける」と書いてある「とんぷく」。持ち帰った袋の中に6錠残っていることは、5日目の10月9日(日)には痛みもなくなり、必要なくなったということだ。
  なお、10月3日付け「輸血及び血漿分画製剤(特定生物由来製品)使用に関する説明書と同同意書の写しが手元にあった。輸血療法でヒトの血液や組織などを原料として製造した治療薬を使うともので、輸血療法
は、血液中の成分(赤血球、血小板、タンパク成分、血液凝固因子など)が不足した時や機能低下の時などに、その成分を補充するものとされる。
 一般に何でもそうであるが使用した場合は危険性もあるので(使用しない場合も同様)、使用には説明と同意が必要で、そのようになったと理解。手術も通常は同じで同意書が必要。
 私の場合は、アルブミン製剤(血漿中に最も多く含まれるたんぱく質で、血管中に水を保持する作用や薬物などと結合して運搬する働きがあり、低下すると血管から水分が漏れ出して血圧が低下したり、浮腫(むくみ)や腹水が出てくることがある)で、アルブミナー25%12.5/50ml。
 10月は体調が悪くなったと感じた時があったが、薬の種類の多さで示されて、快方に向かうに従い、少なくなっていく。
 11月19日(土)肛門周囲膿瘍に効.くレボフロキサシン錠500mg「DSEP」が7日分出された。当時、肛門から何か出そうな・出ている感じがすると頻りに医師に言っていた。実際は、気のせいか紙おむつのパット部分を見ても、看護師に見てもらっても出ていない。11月26日(土)以降飲む薬はタンナルビンだけとなった。
 
 今回のテーマに入る前に、忘れないように先ずその「貴重」であった入院生活についてこれまで記していなかった事柄及びその後の新たな経験を書き加える。
仝凝
 4時間以上にわたった手術から全身麻酔の中で目が覚めたとき、医師や看護師から口々に「頑張ったですね」と言われた。手術した翌日の事。ちょっと歩いて見ますかと看護師に言われ 看護師の注意を聞きながら、注射針が刺さった点滴のチューブに何かを引っかけないようそろっとベッドから起き上がり、ゆっくり両足を下ろししっかりと側の浅い靴のようなスリッパを履き、薬剤バックが吊り下がった点滴スタンド(キャスター付き)の真ん中にある取っ手を両手でしっかり握って身体のバランスをとって立ち上がり、足元・前方・左右をよく見ながら、ゆっくりと一足ずつ歩く。部屋から出れますかというので 看護師さんの見守る中で部屋から出て廊下を4〜5mくらい歩き、体力の限度と思われるところで引き返しベッドで休んだ。翌朝医師が回診にきて、「昨日は外の景色が見えるところまで歩いたようですね」と感心したように言った。それを聞いて オヤッと思った。
 どうしてそんな事まで知っているのか、どうしてそんな当たり前のことを言うのか、それを伝えたのは看護師に決まっており外の景色が見えるとろまでと具体的に伝えているが、それほど珍しい事で重要なのか。更に驚いたのは、見回りに来た他の担当医師や翌日担当の看護師まで知っていたこと。
 これが、同院の原点。
看護体制
 1)担当看護師は、患者ごとに昼間担当2人・夜間担当1人(この場合、昼・夜共担当は固定していない)がそれぞれ挨拶に来て、普通サイズの3倍ある名刺が入ったカードケースをテーブルに置いて、仕事に就く。
 〔上記は患者から見た場合で、同院ホームページでは日勤(8:30〜)・準夜(16:30〜)・深夜(0:45〜)7時間45分勤務の3交替制。そうでないと24時間体制は難しい〕
 2)受持ち看護師制度があり、1人の看護師が数人の患者を受け持ち、その勤務時間帯に予定されている患者の看護業務を全て担当する方式の看護体制をいい、作業効率は悪いが患者を総合的に把握しケアすることが出来るという利点があるとされる。
 a.入院中はそれほどの認識はなかったが、3日ごとに1回のストーマ(人工肛門)器具=パウチの貼り換え時には必ず付いて指導してもらった看護師がYさん。
 ァ.初めの頃は、浴場に一緒に入りパジャマ・シャツ・紙パンツ(中にパットあり)を脱いでパウチ・ベルトを外し、浴室に入ってシャワーを浴び、身体や髪を洗って、パウチを新しいものと交換に入る。
 (ある程度慣れて来るとここまでは看護師無しで自分で行う。古いパウチを剝す前に浴室内にあるナースコール・ボタンを押し看護師に来てもらう)
 ィ.皮膚とパウチの面板の間に指を入れ、皮膚を引っ張らないよう逆に皮膚を身体に押しながらすき間部分を作りって周りに広げ、そこに剥離剤(石鹸やお湯だけで間に合う場合も多い)をかけながら皮膚を傷つけないように優しく剝す。剝したパウチは、ビニール袋に入れる。ストーマと全身を洗い、ビニール袋を持って浴室から出る。そして、着替える。
 (そこまでが大きな一つのステップで、慣れてくれば一人でも出来、パウチ交換へのステップで看護師に見てもらう。
 ゥ.パウチの交換は、パウチ、パウチ用ベルト、パウチ用ハサミ、ストーマゲージないしモデル型紙、油性ペン、アダプト皮膚保護シール、剥離剤、ブラバ・パウダー、ガーゼ又はペーパータオル、鏡・屑入を準備、それぞれに扱い手順があり、熟練を要す。
 (退院後自分だけで行うことになり、一人でできないことないが万が一もあり、家族で手伝いできる人(一般に配偶者)が必要とされる。身内の人がパウチ交換をしている現場を数回見て、ある程度流れや必要器具などを知っていることが必要とされる)
 b.技術面の指導は、患者ごとに担当が決まっている受持ち看護師さんが行うから効果的。紙パンツのはき方・パットのつけ方、その処分の仕方、ウォッシュレットの効果的な使い方など何でも教えてくれた。なお、入浴時間は30分ごとの予約制で、交換日は決まっているから、希望があれば早目にその日担当の看護師さんに言っておけば、受持ち看護師さんの都合にも合わせ、時間を決めてくれる仕組みになっている。
 c.11月16日にトータルケア病棟に移る際もYさんが来て、私がまとめておいた荷物を持ってきた台車に載せ新しい病室まで運んでくれた。
 3)下記のような研修制度あり。
がん看護実務研修生の研修に協力:11月下旬〜12月初旬。
 この制度は看護師さんが、普段の専門的な看護業務とは別に私のような患者の心配事(退院後の家族の協力・在宅ケア等を含む)・困っている事・要望したい事などを聴いて何らかの対処・解決に当たることでより高いがん看護の実務向上に資すことが目的と理解。
 係わった期間は2週間、延べにして10日、患者の都合に合わせ実施。パウチ交換の日はシャワーから始末、交換まで付き添う。私のもとへH看護師が来た。
1)何でも相談では、分野が違い関係がない事と思っていたが、最近手の甲が荒れ少し痛みと痒みがあったが放っておけば治ると思ってそのままにしていたが、Hさんが手を見てこれはひどいということでいろいろ聞いてきた。よくよく考えれば、今までそういうことは無かったことで入院してからトイレを使うたびに石鹸水を使うようになったということを話すと、クリーニング業では洗浄で薬品を多量に使うから 水で手をしっかり洗わないと手が痛むとのことで、先生に話をしてよい薬をお願いしてみますとのことであった。
 その時内心、ここは消化器外科だから皮膚のことが分かる先生はおらず、そんな薬が置いてあるはずない・がんセンターに皮膚科はあっても日常的な病気への薬まではないに違いない・薬があったにしても専門医が他所の科の看護師から症状を聴いて薬を選定し承認印を押すのに時間要し、そこは薬剤師も同様で今日の午後に言って今日のうちというわけにいかないと思っていた。ところが、夕方病床にいるとHさんが薬を持ってきてくれた。「ヒルロイドソフト軟膏0.3%25g」という軟膏剤で、指示通りに塗っていたら4〜5日で治った。放っておいたら1ヶ月経っても治らなかったであろう。とんでもない勝手な間違った見方をしていた。
 消化器外科といっても皮膚の知識や処方を知らなければ専門医になれない。消化器官は皮膚で成っているではないか。そういえばパウチを剝す際ストーマ周辺の皮膚を傷つけ赤く腫れあがったことがあった。その時、私はたいしたことではないと思っていたが、看護師さんが心配し同科の先生に来てもらい見てもらった。結果、薬で治るということで、その日のうちに錠剤を出してもらい指示どおり毎夕食後に1錠飲んだところ1週間経たないうちに赤い腫れ物が消えた。
 〔追記:17年1月5日〕
 1ヶ月余り経つが、手のかぶれは完全に無くなったわけではなく、気にならない程度に僅かな部分残っている。昨日何を思ったのか、残っていた軟膏があるので寝る前患部に塗ってみた(軟膏は1日2回で、寝る前はコッテリとが記憶にあった)。翌朝その効果ははっきりした。ウェブで使用した薬を調べると、
 ・使われる疾患は、血栓性静脈炎・捻挫」・痔核・接触性皮膚炎・乾皮症・ケロイド・打撲傷など、
 ・「接触性皮膚炎」は「かぶれ」のことで、症状として、皮膚が赤くなる・ 熱を持ちほてる・ 腫れる・水疱ができる・ 膿む とあってピッタリ、
 ・接触性皮膚炎には2種あり、 「一次刺激性接触性皮膚炎」は、「物質に直接的に触れることで起こる皮膚炎」で、
 ・物質(例)は台所用洗剤・髪にパーマをかけるとき用いるパーマ液漂白剤など、また下着や衣服が肌に擦れたりすることで湿疹・赤みが出る場合も該当。原因も思った通りで納得。完全に治ってない状態で今後洗剤で手を洗う場合しっかり水で洗い落とせば治ると考えるのが普通であるが、薬を塗って治さなければいつまでも治らないというのが実感。
 〔追記は以上〕
2)ある時、私の体格測定・血液検査から見る(年齢・男女・身長・活動量で異なる)と、理想の体重は69.5圈蛋白質濃度は何%で標準値に比べ低く蛋白質摂取が必要と指摘。
 a.蛋白質は細胞を作るのに必要な養分で、不足していると傷口がなかなか塞〔ふさ〕がらないとの説明にピンと来るものがあった。この10月下旬尻から黒い血や白い膿のようなものが出たリ高熱が出たりしたのはそのためかも。当時担当医師は、一時的に傷口に炎症が起こることがあり、身体に悪いものを体外に出しているので、それが頻繁であったり多量であったりすれば別だが、心配いらないとは言われた。
 b.一般には、次のように解説されている。蛋白質は、筋肉や臓器を作る成分として重要。不足すれば体力・免疫力が低下し、老化を早める。過剰は腎臓によくない。なるほど、体力ということで思い当たることがある。朝食後や昼食後、ブログに30分ほど打ち込むと急に疲れが出てベッドにグダッと横になることが普通にある。体温や体重や血圧や酸素濃度のバランスはとれていても、これからの課題は体力の回復・増進。
 ァ.主食は、一時お粥からご飯になった時があり、その後体調悪くて食事が進まず、10月初め頃か吐き出した事があって以来食欲は11月に入って次第に回復したとはいえ11月中旬まで三食全てお粥。その方がよいのだと思っていた。話の中でご飯がよければ可能とのことで 退院も間近で普段の生活に慣れるためにもご飯に変えてもらった。「大」もできますと言われたが、まずは胃や腸を慣らすためにも普通盛りのご飯にした。同院では、流動食、3分粥〔米1対水20〕、5分粥〔米1対水10〕、全粥〔米1対水5〕、そして常食・ご飯がある。
 ィ.Hさんの栄養士さんへの働きであろうが、肉や魚の内容量が増えてきたように感じた。三度の食事は、個人の名前と食事の種類が印刷された小さな用紙の入ったトレーに載せてベッドに備えられたミニ・テーブルに運ばれる。おかずは同じでも、主食は個人の要望に対応。
 ゥ.同室の人がご飯に梅干し付きなのを知り、その点も尋ねてみると希望者に梅干が追加料金無しで付くとのこと。これまで歩くとふらつく感じがあり、貧血気味で塩分不足が原因のような気がしたのでお願いしてみた。すると早速夕食に梅干しが付いてきた。翌朝も付いてきた。個人名の入った、ミニ用紙に、「朝・梅干 夕・梅干」と印刷され該当部分にマークがされているから、間違えないように工夫されている。
 ェ.さらに驚き。
 顱忙前予約により昼の主食は、うどんか素麺ー暖かい・冷たいーができる。私は冷やし素麺の大を頼んだ。料金は同じ。大きな丼に開ければ食器台になる赤い蓋がしてあり、汁とネギの刻みで素麺一式。ミニ用紙に汁は薄味にしましたと印刷されている。非常に簡素で美味く味わい深く、出来るものなら退院しても食べに来たいと思ったものだ。
 髻烹隠卸遑憩(水)から11日(日)の5日間は、通常料金のメニューの他に希望者に+20円の特別メニューがある。毎月、特別期間が設定。私は、試しに特別メニューの温かい天ぷうどんにした。
  患者に食べる楽しみを与える病院食となっている。
 c.いくら栄養を摂っても、「リハビリ」=機能回復のための運動をしなかったら 体力がつくはずなく機能は衰える一方になることを痛感。11月28日だったと思うが、Hさんに付き添いで実施。その後も行った。
 ァ.リハビリというのはおこがましいが、記録を拾うと次のとおり。
 11月3日初めて病室のある5階から独りでエレベーターで他の階(2階)へ行き、レンタル・パソコンを40分位立って操作。手術後立ちっぱなしはこれまでせいぜい10分。背の高い椅子はあったが、尻に管があり痛くて座れないため。
 11月10日階段を初めて独りで上った。1F→2F(売店)26段=(13+0(踊り場))×2。売店に行くのに5Fからエレベーターに乗ったが、2Fボタンを押すのを忘れ1Fまで行ったため。手すりはしっかり握り、ややふらつき気味の中ゆっくり上がった。
 11月28日1F⇌6F。往復計240段=120段×2(但し、手すり依存)
  1ー2F:26段、2−3F:26段、3ー4F:24段、4−5F:22段、5−6F:22段。1−6F:120段
 11月30日 往復120段(但し、手すり依存)
 12月X日 6F⇌̠地下1F(1ー地下1F約20段)および3Fプロムナード往復。
3)患者=お客の一人として苦情も申し述べた。
 a.9月末頃〜10月初め頃病室内は真夏のような暑さの日があった。勿論、外の気温も38℃くらいの日もあったからだろう。汗かきのせいか汗を相当かいていた。看護師さんが汗に気付きシャツを替え、敷布まで汗で濡れているということで取り替えてもらった。(そのこと自体は非常に有り難かった。看護師女性2人で85圓竜霏痢覆修了は75圓妨困辰燭もしてないが)を動かし敷布の取り換え。終わった後に腰が非常に痛いと言っているのが聞こえた。まさに重労働。家内も以前から私が動けなくなったら(重い体を動かしたりの)世話はできないから飲酒はほどほどにして下さいと言っていたのを、その時思い出した)
 ァ.空調設備が利いていないと感じた。設備屋さんが来て音を立てながら工事して帰っていったが、少しも空調が効いている感じがしなかった。翌日か翌々日も来ていったが、変化が感じられなかった。古い設備のため」どうにもならなくなったのかと思ったものだ。暑いので家内から団扇・扇子を家から持ってきてもらい、頻りに扇いだものだ。特に暑がりでもないのだが、その時は非常に必要と思ったからだ。病院にいる入院患者が団扇を扇ぐとは、考えて見れば前代未聞かもしれない。非常に貴重な経験をした。
 ィ.暑いので上半身部分は毛布を外してベッドにいたところ ある看護師さんが来て、毛布を首の近くまで掛けそのままじっとしていてくださいとのことだった。暑くて汗を流しているのに変な感じがしたが、プロが言うのだからそれが正しいのだろうと思っていた。すると次第に苦痛ではなくなってきたのだから不思議である。脱水症の懸念があると言われたのはその後のことで、感覚が麻痺したのか私には自覚はなかった。
 (食欲が進まず吐いたことがあったり、夢でオランダへ行きオランダ人と話をし、ホテルで泊まった。。夜中起きた時オランダにいる自分が他人の部屋のベッドにいると思い 自分の部屋を探しに廊下を歩いた(点滴が付いている状態)。その際各部屋の表示はオランダ語ばかりかとヒヤヒヤした。なぜオランダかは、今年に入りそれほど本気でないが海外旅行するならオランダと思った時期が 今もそうだがあった。きっかけは、この6月YouTubeで偶然アムステルダム・バロック管弦楽団の演奏‐バッハの管弦楽組曲第3番とカンタータBWV140・147‐を聴いたこと。演奏はさることながらオランダ人の顔付き‐彫りが深く角張った‐に魅かれるものがあった。江戸時代から日本と縁がある。佐渡金山では、「天明2年(1782)には、フランカスホイという天秤式手押しポンプがオランダから導入された」(09年12月29日号「歴史スポット55:佐渡金銀山絵巻」)。明治には大規模な河川・港湾工事はオランダ人が来て指導にあたり、昭和に入っても八郎潟の干拓にもオランダの技術を借りている。
 明治時代オランダ人技術者デ・レイケは、淀川改修・・新大阪築港、三国港改修、木曽三川改修、吉野川改修、筑後川改修など、一方エッシャーは河川・港湾改修だけでなく道路・鉄道・橋梁などの土木技術の指導に携わった。
 (三国港:14年12月18日号「歴史スポット係わりの地55:三国湊(福井県坂井市三国町)」)
 【「脱水症状」を調べると、「軽度」は眩暈〔めまい〕、「中度」は嘔吐、「重度」は幻覚、認知症は脱水症の自覚なくなるとのことで、全く同じ!であった】 
 ゥ.ある看護師さんに病室には温度計がないのですかと問うと、きっぱりと「有りません」とのこと。余りにきっぱりなので、「必要ありません」という風に聞こえた。
 b.どの患者にとっても手術後絶対必要なことは百も承知しているが 嫌なのが注射。
 ァ.点滴は2日目に新しい注射針と替え(左右両手の場合もある)、また必要に応じて血液検査で採血が行われる。私の場合、更にあり得てなかったが輸血。
 ィ.嫌でも仕方ないのだが、もっと嫌なのが注射に失敗し繰り返すこと。2回で終わればこういうこともあり得るで辛抱できるが、3〜4回になると全くやりきれず最悪。怒鳴る患者もいて当たり前だが、私の場合それによってますます萎縮させ間違いが起こるのを恐れるから大人しくしており、これも運命と思いうまくいくよう念じている。
 ゥ.私の腕の血管は、細くて難しいというのを特定の看護師さんから聞いたことがある。看護師さんによっては、血管を大きくするため温めたタオルをしばらく腕に巻いてから注射したり、手首にある血管でもよいですかと聞いて行う看護師さんもいた。
 患者にとって注射が最も苦手で嫌いとするから 特に経験の浅い人の更なるレベルアップに期待したい。
た軍秬栂預膤愆埜邀愽瑤粒慇犬気鵤蛙佑亮唾聾学に協力
 12月6日朝 リーダー格の看護師さんがやってきて上記について依頼された。時間にして30分の質疑応答と明日の私のパウチ交換の実際見学で、当然快諾。
 なお、質問に対する回答について、これまで記事に載せている事柄以外について記述する。
1)看護師とは?
  病院で一番頼りとする人。
 a.いつ何時何かがあっても、必ず誰かがいて何らかの対応をしてくれる。特に点滴していて自由に動いたり歩けない状態の時、異常を知らせるナースコールが命綱で、必ずどこにあるか確認してから寝たものだ。
 (初めの頃は 痛くて体を動かせない、起き上がれない、歩けない。大きい声を出そうにも出ない。ただ、手の指は動かせる)
 b.11月24日夜中23:20頃に目が覚めた。再現すると次のとおり。
 ァ.お腹の辺りが濡れている。パジャマやシャツや僅かであるが敷布にもかかっているようだ。2日前私がほぼ独力で装着したパウチで明日は交換の日というのにここに至って便が漏れたとはショック。
 ィ.これは大変ということで電気を点け、起き上がり、ナース・コールを探して押した。しばらくして、「どうかしましたか」の声。「便が漏れました」。「おトイレでですか」「いや、袋からです」「そのまま待っててください」
 ゥ.やって来て確認。「そのまま横になって待ってて下さい」
 ェ.2人でやって来た(見てないが、パウチ交換に必要な道具は用意)。「パウチ雄ありか?」「今日納品されて来たパウチが、ここにあります。道具箱はこれです」「ストーマの型ありますか?」「サインペンありますか?」「大丈夫ですから、休んでいて下さい」で、共同作業でまたたく間に着けていたパウチを剝し、新しいパウチに交換。
 ォ.替えのパジャマ・シャツ・敷布を持ってきてくれて、復旧完了。0:40頃消灯し、安心して眠りについた。
 c.漏れの原因と教訓
 ァ.夜珍しくテレビを見ようとベッドで仰向けになっている状態でイヤフォンを取り出すため手を無理に伸ばした。腹の筋肉や皮膚もそれと同時に動き、同時にパウチの面板に歪み、ゆっくりとすき間ができ、やがてそれが広がり漏れ出した。と、最初思った。
 ィ.前に交換した時のことを振り返ると、幅の狭いアダプトで皮膚とストーマ面板を接着した時、細くて少し不安であったが僅かな部分でそのくらいいけると思い補填せずそのままにした所があった。問題はそこに改めた。翌朝、看護師さんにその話をすると、原因は接着幅の狭い箇所があってそこから漏れたのだろうと言っていたとのことで、私の考えと一致。
 ゥ.その時にもし漏れがなかったとしたら、これくらい大丈夫だったがまかり通り、いつか取り返しのつかない事が起きる。こういった大事に至らない経験をして非常に運が良く、教訓としてこれからも活かせる。熟練看護師さんがいたこと、私に合ったパウチを初めて注文し納品日がその日だったことも運というしかない。
2)手術後の痛みは?
 a.麻酔が効いているいるうちは痛みは全くないがきれると痛み出す。そんな経験はないのだが昔なら刀や鉄砲で内蔵が傷ついたようないろいろな所に痛みがあって、身体を動かしたくても痛くてできない状態となるのは想像できる。また、痛くて寝れないことが起こる。
 b.私の場合、痛みは幸いそれほどでもなかった。眼が冴えて夜寝れないことはあるが、痛くて夜寝れないという経験はなかった。当初は痛み止めの「とんぷく」を飲んでいたが、間もなく飲まなくてよいことになった。
3)入院生活で何もすることない等困ったことは?
 a.タブレットをも持ち込んでブログをやっていたので、退屈せずに過ごせた。
 b.環境をより快適にするために空調設備などの改善が必要では。(受講生は、頷いていた。但し、病院経営ということになる)
 c.集団生活なのでやむを得ないが、夜9時(部屋の天井の蛍光灯)消灯というのは、不自由。21時頃寝て23時頃起き、夜中1〜2時頃起きてもその後なかなか寝付けないこと多く、うつろの状態で病院は白山駅に近いから5時過ぎになるとJR越後越後線の電車の音を聞くことあった(新潟から吉田行きが5:05着・吉田から新潟行きが5:42着)。これは誰が・どこが悪いということでなく、あえて「困った」ということ挙げればということで、誰にもどこに居てもある。白山駅に比較的近いことでうるさいと思ったことは一度もなく早朝聞こえて来た方が時間を知らせてくれてよく(ブログできる時刻が近付いた)、またそんなことより便利の方がはるかに重要。
テ院生活での断面
1)大きな声で言えないが、ブログ生活を満喫。
 a.普段から手帳には、タブレットから時々の及び前日のアクセス数を記すのが、暇つぶしで趣味でもあった。
 9月23日(金)入院日は、次の通り。
  9:32‐41、13:03‐67、15:50‐80、17:00‐90、18:00‐102。日計145。ちなみに日計は、前日22日‐155、前々日21日‐142、3日前20日165。24日(土)の日計126。
 25日(手術は26日)から29日まで無記入。30日は13:30‐65、15‐81記入のみで。以降10月4日の11:46‐52(日計149は退院後記入)まで無し。10月7日「Pは断念」とあり14日14:18‐70まで無し(日計152は退院後記入)。16日からは、ほぼ毎日記入。
  【手術後体調不良やタブレット・トラブルがあり、本格稼働は10月17日から。概ね1日午前と午後の2回アクセス数を記入】
b.10月16日からはベッドでの8時の朝食、12時の昼食後はブログに打ち込むのが日課となってきた。
 ァ、ベッド上では、付属のテーブルは高くないし足を伸ばした状態での書き込みは不自由だが、電動リクライニング式で75度まで上げることができるので、何とかなる。
 ィ.朝回診に来られる5人の主治医からも注目。若い紅一点の主治医から「アッ!タブレットですね。どこの製品ですか?」と問われたので「サムスン」と答えると、「爆発しませんか、心配ですねえ」との言。「佐渡広場というブログに興じています」と説明。翌日、「見ましたよ。クラス会の事が書いてありました」。「この病院についての事も書いてありますからよく読んでください。いい事が書いてありますよ。余りいいことばかり書くとグルになっているのではないかと疑われますから、そこはほどほどに。ブログは、どんどん微妙に更新しますから、余裕の時に開いて見てください」
 c.11月3日手持ちのタブレットではPDF(Portable Document Format)が開けないので、2Fへ下りてコイン投入レンタル固定パソコンを50分活用(10分100円)
 d.病床では窮屈だから、談話室数基のテーブルと椅子・テレビ・図書・各種資料・電話ボックス・自動販売機や冷蔵庫・テレビ利用の千円券自動販売機・お知らせ・アンケート箱等あり)へ行き、テーブルの椅子に腰かけて行うことが普通になった。談話室は、オープンスペースで廊下からは屏風のような衝立(ついたて)があるくらいで、ほぼ丸見え。4人収容の病室の一室を公共空間にしたものだろう。
 ァ.概ね11月下旬以降の標準パターンは
 顱烹供В械虻談話室の蛍光灯が点くのでタブレットとケータイと手帳と大学ノートを持って談話室内へ入り8:00前までブログ書き込み。
 髻烹后В娃芦瓩〜12:00前までブログ。途中疲れて部屋に戻り横になる。
 鵝烹隠機В娃虻◆腺隠掘В娃芦瓩までブログが多い。11月から日没が早く12月は17時には部屋が暗くなる。テレビで大相撲九州場所をやっていた。
 イ、私が病室にいないと、看護婦は体温や血圧などの測定のため、主治医は回診のため談話室まで来ることがあった。
 顱紡定は部屋に戻って行う。看護師さんは、作業を中断させることになるため、申し訳なさそうに言ったのに対し、「測定の方が大事、ブログは遊びでそれに比べたらどうでもいいこと。そうでないと罰が当たる」と言ったものだ。当然のことかもしれないが、看護に係わる仕事は何より優先と言えるのは、実際を見ているからだ。
 髻紡牘ヾ峩瓩覆△詁、先生方がお揃いで回診に来たられた時、「悪いところないですね」に対し、「お陰様です。新しい記事のブログに書きましたからご覧になってください」と言ったところ、あるベテラン主治医が、同院のコミュニケーションについて記したのを覚えていて、「上下、左右、先後、斜めからのクイックレスポンス、クイックアクション」と言ってくれたのには驚き。
 書き込みしているところを女性主治医から「今、お仕事中ですね」と声をかけられることがたびたびあったが、そのたびに「価値あることは何もしてなく、単なる個人の趣味・遊び」と断固否定し笑わせた。
 e.特記事項
 ァ.『佐渡広場』の印刷会社からケータイ留守番電話が入っていることに気付き電話すると、佐渡の人から電話で 図書館で『佐渡広場』を閲覧したが1巻から3巻までの本を購入したいとの問い合わせがあり当社は印刷会社なので販売できないことを伝え、私の連絡先を聞かれたがそれはお断りしたとのこと。その事については今入院中で何も回答できない旨を伝えた。
 ィ.筑波大学の学生さんからコメントがあり、卒論のテーマが佐渡の鬼太鼓に関することで、知りたいことがあるのでメールを聞かせてもらいたいとのこと。
  【退院後、ご両人連絡とは連絡が取れている。入院時の偶然の出来事でどうでもよい事柄であるが、個人にとって捨てたものではない事となるのが面白い】
2)入院男性患者の振る舞いから 男は、弱くてだらしない。
 この2ケ月半に2つ病室に寝泊りしたが、驚いたりあきれたリしたことがあった。
 a.腰が90度近くに曲がったお婆さんが、毎日10時から15時くらいまで、80歳に近いお爺さんのお見舞いに 遠くからバスに乗ってやって来た。足は不自由そうであったが、杖を突いているのは見たことなかった。私が居てから2ケ月 子供さんは見舞いに来た様子がないから二人暮しに違いない。いつもナースセンターに元気な声で挨拶し(病室に近く且つ廊下側の部屋にいたから声が聞こえる)、そして時宜を述べて帰って行くから看護師さんには一目置かれていた。ご主人への気遣いが当然ながら声を通しして伝わってくるが、一方ご主人と言えば普段は静かに大人しくしているのに 「それ解ってない」、「もっとああせよ・こうせよ」、「この不器用目が」などなどいつも悪態の数々。その言葉にお婆さんはおそらく当然我慢・辛抱し言いたいように言わせ、応じず。そこは知らない看護師さんは、「お母さんが来るとお顔が(元気に)変わりますね」とからかい元気づけていた。
 その患者は、医師の回診から聞こえてきた事であるが、もう1ヶ月して体力が回復すれば次の手術が受けられることになっている。
 b.同院には」、リハビリテーション科があり理学療法士・作業療法士・言語聴覚士の専門技師がいて、各診療科を横断して 早期離床と社会復帰への支援から終末期患者の残存機能維持と不安や苦痛の改善まで行っている。一般に先生が付いて病室からに出て行うのがリハビリであるが、患者による自主リハビリがあり、また患者の病床でのリハビリ体操がある。現場は見てないが先生が掛け声を出してリズムをとっているのがカーテンで仕切った隣から聞こえたものだ。リハビリのカギは自主トレと言われるように、個々の体力に合った自主トレが奨励されている。
 同室にいるリハビリ中の50代と思われる男性患者の奥さんが、いつもの見舞いに来た時のことである。ある時、「リハビリをした方がいいですよ。一緒に出ませんか」と言ったところ、患者が「お前が外へ出たいから、そう言っているのだろう」との返事。奥さん「早く良くなってもらいたいから言ったのに、何を言うんですか。これじゃあ、病院に来た甲斐がありません」。「普段のお前の行動を見ていると、そう言えるから言ったまでだ」。「人の気持ちも知らないで勝手なことばかり言って、・・・」。
 【ちょっとした言葉から、病室内で夫婦喧嘩。言葉で傷つけあう不幸な夫婦もいる。そもそもの原因は、全く思いやりのない言葉。男は病気になると妻に対し妙に傲慢になる性質があるようだ。トルストイの言葉「幸福な家庭はすべて似ているが、不幸な家庭は皆それぞれに不幸である」を思い出した。そのトルストイ自身82歳になって家出、奥さんは未遂に終わったが自殺を図ろうとした。
 c.60後半と思われる男性患者が入ってきた。手術したばかりのようで、奥さんが付き添い。盛んに尿意がありトイレへ行きたいと盛んに言っている。それは私も経験済で、看護師にそのことを訴えたものだ。トイレが不要な訳は、尿道にカテーテルが全身麻酔中に挿入されていて膀胱に尿は溜まらず、カテーテルを通って排泄され蓄尿バッグに溜まる様になっており、尿をもよおしても膀胱が刺激されているだけで、真の尿意では無いとのこと。我慢するしかないのだが、当人はトイレへ盛んに行きたがり、奥さんに何とかならんか剣幕で、なだめるがやっと。看護師も来て説明したが、その時は大人しく聞いている。いないと、奥さんにあれこれ当りちらした。家へ帰らなければならないと言うと、「帰って何をするんだ。ここに泊まって看病せよ」と文句。「私だって帰ってやるべき事がたくさんあり、ここに泊まってばかりいては身体がもたなくなる」と言っていたがそれに従った。夕食前も夕食後も奥さんに向かって何やら不満をぶつけていた。夜に入って看護師さんが来て主人に向かって、「奥さんが泊まるんですか。私たちが夜中でも看護することになっているのに」と言って戻って行った。その後主人の小言が消え、静かになった。翌日から奥さんの病院泊りはなくなった。

3)備忘
 a.夜11時過ぎまで尻に管を通した治療の翌朝、N医師が早朝回診に来て、「昨夜は遅くまですみませんでした」と言った。別に医師チームの手術ミスからそうなったわけでは何でもないのであるが。
 b.医師は入院患者との接触は、通常は朝の回診のみ。私が最初に検診から始まり手術を決定したⅯ医師は、夕方も診に来ることがよくある。11月23日の17:30頃誰もいない談話室でブログ書きに興じていた時、回診にきた。その日は「勤労感謝の日」なのに。私の病状はここまで来れば特に悪いところはないと思うが、油断せず念のための確認目的もあろう。その頃の第一声は、私を見て「お元気そうですね」。
 それと関連して同室の患者にリハビリに毎日来ている先生が、ある時患者に「明日から一週間休み(多分「遅ればせながら、夏休み」と言っていた)を頂いていまして暫くいなくなりますが、代わりの者が来て同じように行いますので、よろしくお願いします」と言っているのが聞こえた。その時、勤労感謝の日とかけてゆっくり休まれると思った。
 c.痛みとの闘い
  (資料:「痛み止めの薬の知識Q&A」(国立がん研究センター「がん情報サービス」サイト)
  病室は消化器外科の病棟にあり、入った部屋は4人部屋。カーテンで仕切られ、真ん中にベッド・付属」テーブル、一方のサイドは、冷蔵庫、その上に引出し・テレビ、くくり付けの背の高い衣類・履物等収納ケース。消化器外科 といっても 食道、胃、大腸、肝臓・胆嚢〔たんのう〕・膵臓〔すいぞう〕に分かれるが部屋もそれぞれに分かれているのでなく、消化器外科として患者を収容。例えば大腸がんの患者ばかりの部屋でなく、あえて消化器科内のいろいろ分野の患者に分散させているのでないかと推測される。      
  【ある部門のチーム(どの分野か不詳)】

  毎朝 朝食時の8時前後に特定患者の回診に4,5人で訪れる。看護師の定時測定もそうだが、その場合決まって「痛みはどうですか?」と声をかける。「通じは?」「食事は?」「吐き気は?」もあり、具合を聞き元気づけて帰る。
 ァ.痛みを数値で表現している。患者は、2くらいとか、5とか、7〜8とかと数字で答える。
  顱烹亜腺隠阿泙任△蝓■亜痛み無し、1〜3:軽い痛み、4〜6:中程度・かなり痛い、7〜9:非常に痛い、10:耐えられないくらい痛い。
 ィ.痛みが下がれば喜び、中程度以上に上れば箇所・症状の程度・急にか徐々にであったかかをより具体的に聞き、また中程度以上がいつまでも変わらなければ対策を考え出さなければならないだろう。
 ゥ.どんな薬もそうだが副作用がある。痛みの段階に応じた薬があり、しかし患者によって適量・適不適があり、そこを間違えれば病状を悪化させる。
   第1段階‐弱い痛みの薬:代表例アスピリン
   第2段階‐強い痛みの薬: 〃  コデイン
   第3段階‐耐えられない痛み〃 : 〃 モルヒネ
 顱膨砲濟澆疚瑤良作用:第1段階の薬は胃腸障害、第2段階の薬は便秘、第3段階な薬は、便秘(使っているほとんどの患者がなる)・吐き気・眠気が起こりやすい。
 髻防村爾如崢未犬蓮」と聞いていたのは、「大腸」患者へは当然だが、大腸に限らず他の分野第で第大2・第3段階の薬の患者にも必須。
 鵝某事中食べ物を吐くのは普通の人でもあるが、食事とは違う時間帯にも吐く人が人がいた。必ずしも胃の中の食べ物を吐き出すのとは違うようだ。その場合は連続音。そういった表現があるかどうかわからないが、「咳き込む」ならぬ「吐き込む」。何も吐き出していない。また、食べ物だけでなく、薬を飲んで吐き出したり吐き込んだような音も聞こえた。
 ェ.ある時医師が、患者が飲みやすいよう飴玉のように舐(な)めれば効く薬を選んで与えた。ところが、「舐める」と言ったのに当人はうっかり飲み込んでしまった。しばらくすると激しく吐き込む音が聞こえた。その際、薬を吐き出したかもしれない。
 顱亡慙△靴銅,里茲Δ別瑤發△襦「オキシコンチン錠は体に入ってから腸の中で徐々に溶ける徐放剤です。かみ砕いたり、つぶしたりしてのむと薬が急激に吸収され、思わぬ副作用が出ることがあります。危険ですので絶対におやめください」。必ず服用法を確認してから飲む。

 髻忙温諭第3段階強い薬の形・効き始め時間等一覧
薬の成分   薬の形  薬の名前     効き始め迄時間 効き目継続時間
モルヒネ   粉薬   モルヒネ粉薬      10分        約4時間
         水薬   オゾン内服液       〃           〃
         錠剤   MSコンチン錠    1.5〜2時間    8〜12時間
        カプセル  MSツロイスロン錠    〃           〃    
         細粒   モルペス細粒       〃           〃 
         顆粒  カディアンスティック  1〜2時間       24時間
         坐剤   マンベック坐剤     約30分       8〜12時間
オキシコドン 錠剤  オキシコンチン錠    1時間以内      12時間
フェンタニル 貼り薬 デュロテップパッチ  12〜48時間      72時間
  a)痛みを止める「飲み薬」が使えなければ、尻から入れる「坐剤」、それが使えなければ「貼り薬」、更には「持続皮下注射」という方法がある。「これは細い注射用の針を体の表面に刺し、その針と細い管でつないだ携帯用のポンプから24時間、少しずつ痛み止めの薬を体の中に入れる方法です」

  b)痛み止め薬には、効き目が早く現れるが短時間しかもたないものと、効き始めに長時間要すが、効き出せば3日も続くものがある。
  c)モルヒネについて、「医師が決めた量と時間を守ってモルヒネを使っていれば、中毒になったり、癖になったりすることはありません」「覚せい剤、ヘロイン、マリファナ(大麻)やLSDを使うと、幻覚や妄想があらわれたり、依存性が強いためにやめることができなくなるだけでなく、人格が変わってしまうなどの精神障害を引き起こします。やめることができた場合にも、精神や体に障害が残ることがあります。これらの乱用薬物は医薬品ではなく、痛みの治療に用いられるモルヒネとはまったく関係のないものです」
  【私の全身麻酔の手術には、当然モルヒネが使われていたことだろう】

  【坐剤については、退院後に知った。同室に坐剤の患者さんがいたと思う。声だけであるが、ある時看護師さんが確か「お尻の中に注射します」(あるいは、「お尻に薬を入れます」だったかもしれない)と言っていたので、おやっと思った。「お尻に注射します」ならば何でもないのに 聞き耳を立てたほど刺激を受けたから間違いない】

 ォ.痛みがいつまで経っても下がらなかったり、ひどくなったりした場合、担当医は対策・処方を考え出さなければならない。
  顱北瑤領未鯀やす、服用法を変える、薬を変える等。目標を決め、実施する。
  第1目標:夜間ぐっすり眠ることができるようになる(痛くて目が覚めることがない状態)
  第2目標:静かにしていれば、痛くないようになる(テレビを見ていて笑ったりできるし、クシャミや咳をしたとき、大して痛くない状態)
  第3目標:歩いたり、体を動かしたりしても、痛くない(痛みがなく、普通の社会生活ができる状態)
  髻紡慮魁О綮佞、患者に薬に関しいろいろ話をし了解を求めているのが聞こえて来た。間違った表現をしているかもしれないが、例えばこんなふうであった。
  a)「Aさん、薬を増量しましたので痛みはとれるでしょう。それで変わらないようでしたらいつでも看護師に伝えてください」
  b)「今日からもっと強い薬で試してみます。副作用は多少あっても今のBさんの体力なら大丈夫。4〜5日それでやってみましょう」
  c)「薬をもう1種増やします。飲みにくい薬ですが、Cさんと同じ症状の患者さんに効果があることが実証されています」
  d)「D先生とも相談し、Eさんにはこれの方がいいという薬の調合を新たに決めました。明日からそれに変えてみます。痛みは、改善されるでしょう」
  e)「Fさん、ここ3日が勝負どころです。その間辛抱し頑張ってください」
 d.印象に残る医師・看護師の言葉・行為
 ァ.「おはようございます。昨日の血液検査結果はすべて良好でした。明日から点滴を外します。退院は近いうちにできそうです」(患者の知りたい・聞きたいことをタイミングよく、関連づけて伝えている)
 ィ.(人口肛門から下痢による)水便が続けて出ていることに対して、「心配いりません。このところ体温がずっと安定して低い状態ですから」(心配無用より常に患者の体温の動きを診ていること)
 ゥ.(夜になって体温・血圧を測りに来た看護師に尻から何か漏れている気がするとの問いかけに対し)「お尻から先に看ましょう。反対側に向かって真横になって下さい。お尻の中が見えるようにぐっと上げるようにして下さい。特に異常はありません。(尿取り)パットと紙おむつにも特に汚れはありませんし、取替の必要もありません。気のせいでよかったですね。どうぞ安心してお休みください」
 ェ.(3日に一度の人工肛門の交換実習訓練にて)「器用ですね(パウチの剝し・円型ハサミの使い方・アダプトの切り方等」「知恵がありますね(ストーマの下部へのパウダーのつけ方:他の看護師から教えてもらっていた。そういうことも知っていたはずだが)」「すごい自主性のある方ですね(基本的には家族を手かけず自分ひとりで全てできることを目指すとは言っていた)」。
 【誰が見ても器用でも知恵者でもなくその反対で家族はじめ当人自体そのように思っているのだが。「ダメね」「足りないね」「無理かもね」等のマイナス言葉は一切なかった。これも技術のうちと言えば、実は大変重要な技術。おだてに乗せられながら徐々に熟練を要す作業ができるようになってきたというのが実態。】
 ォ.私が試みたパウチが交換日の前日夜に漏れ後日再挑戦で交換した日の夜、当日夜担当の看護師が最後の体温・血圧の測定に来た。
 「今日は交換の日だったようですね。お腹見せて下さい。(いつものように外から見えないようにカーテンを閉め、パウチの中に入っている便を見て)便が硬く色もよく いい便してますね。(パウチ)周辺、しっかり貼られています。上手ですね。これなら、安心してお休みになれます」
 【当人は、パウチ交換に立ち会っていないのに今迄の件を知り、定例業務だけにすませず、そこまでの点検・看護を自主的に実施】

Δ泙箸
 まだ完治したわけでないのに結論づけるのは早計としても、世に多く宣伝・紹介されている最高の医療とは何かは知る由もなく論じてもはじまらないが(いろいろ調べはしたが、あっても月並みな抽象表現が目に付き、具体的にこれというものは見当たらなかった)、一患者から見て多分最高に近い治療・看護の医療現場に触れたことは貴重な経験であった。最高の医療設備・技術が、最高の医療でないと間違いなく断言できる。個々の患者・その家族にとってそれはどうでもよいことである。言葉・日常的行為が、治療以上の効果を及ぼすことは大いにある。
 以上


   



歴史スポット61:承久の乱と順徳上皇

 こんにちは!自在業の櫻井です。
 この9月26日新潟県立がんセンター新潟病院で大腸ガンの手術(結腸と直腸の悪い箇所を正常部分も合わせて50兩攴し接合)から2ヶ月経過、退院間近。
 人工肛門は6ヶ月要すとのことで順調であればあと4か月(来年3月)中に外れる。朝夕の回診に単独あるいはペアあるいは5人全員お揃いで来られる消化器外科・瀧井チームの先生方(事前に個々の患者の体温・血圧・食事量、血液検査あればその結果を知った上での応対、問診だけでなく必要に応じ医療用手袋をすぐに着けての要所の目視に敬意、担当専門医が1人でなく5人というのは心強い)、一方24時間体制で患者に合わせ例えば夜8時と夜中12時の薬投与や点滴交換、深夜の緊急ナースコールにすぐに応答し来てくれるクイック・レスポンス、クイック・アクション、上下・左右・斜め・先後の連携プレーの行き届いた同科看護師チーム・スタッフに感謝。
 10月28日朝の体温がいままでになく37.4 ℃、昼は37.8 ℃、夕方38℃を越えた。看護師さんか体のに具合が悪いところは?と聞かれたが、別段悪いところは感じなかった。夜7時過ぎに先生方が来られて尻を検査し、中に管(くだ)2本入れる治療。終わったのは、10時半近く。その間どうにも言えない痛さをこらえた。治療が済み、原因は腸内の傷口の炎症で、これで体温は元通りに下がりますと言われた。その1時間後看護師さんが体温を測ると、36、5 ℃に下がっていた。体温での異常の早期発見ー自覚症状ではじめて動くのでないーの重要性を実感。なお管が全て取れたのは11月7日。座ったり歩くときの痛みや違和感はなくなった。これは、10月21日に1ヶ月近く着けていた点滴(始めは左右両手、途中から片手「のみ)が外れた時と同じような解放感を味わった日である。
 体格について2ヶ月で身長は177僂ら変わるはずないが、体重・血圧等は次のとおり。
  手術前(概ね)    1ヶ月後   2ヶ月後   備   考
  (9月26日前)  (10月27日)  (11月26日) 
身長  177僉   177僉  177 僉  /板垢って180〜181
体重 85〜88圈  73圈   72      体重20〜30代は68堊宛
血圧 150強-130強  121-56  113-89  1日の中で変化(会話中140〜150あり)
 他:10月30日70圈31日106-61、11月1日120-75・36.3℃・尻の管2本のうち1本抜く、7日125‐70・36.5℃、9日122‐88・体重69.5圈β硫36.2℃、追記:30日125-70・体重72、7圈β硫36、5℃。12月7日123‐74・36.6℃・98.8%
体温   ー        36、8℃   36、1℃  朝・昼・夕測定。概ね36、5℃。
酸素濃度  ー    98%    98%    96%以上が健康。100%の経験あり。
 【健康面で異常を感じたことは今まで余りない。手術前10年間より手術後の方が、若い時のようなスマートな体型に戻って身長・体重・血圧のバランスは良く、心臓への負担や脳内血管への影響等を考えれば、その方がはるかに健康的!?】 
 〔12月8日追記:昨日12月7日14時退院〕

 さて、今回のテーマは、表記のとおり。
 テーマは、前号『太平記』日野資朝との関連で必然の成り行き。
 これまで順徳上皇(以下「順徳院」)について部分的に載せていたが、主人公でなかった。今回は中心。ただ、新しい史実(口承も構わない)が、これを機に多く収集できるとは思えず、内容充実面で気掛かりな面あるが、より体系的なものにまとめることを狙いとする。これまでの主な掲載記事 (単なる言い伝え含む)は次のとおりで、ベースとなる。
 06年3月15日号「吉田松陰と佐渡(その2)」
 06年10月13日号「与謝野晶子と佐渡(1)」
 06年10月16日号「与謝野鉄幹と佐渡」
 06年10月17日号「田山花袋と佐渡」
 06年10月21日号「尾崎紅葉と佐渡(3)北の国仲」
 06年10月27日号「幸田露伴と佐渡(4)」
 07年1月13日号「佐渡の寺院2多聞寺」
 08年7月28日号「佐渡の神社1日吉神社」
 08年8月2日号「佐渡の生物10羽吉の老木」(真法院の苔梅)
 09年1月22日号「歴史スポット41佐渡百話(1)尾崎紅葉」
 09年5月9日号「佐渡の風景57田植え」
 09年5月12日号「佐渡の神社16ニ宮神社」
 10年5月15日号「佐渡の神社21一宮神社」
 14年11月25日号「係わりの地72萩(山口県)
 〔追記12 /8:上記の外に記事を2つ見つけた。後述〕

1、承久の乱の背景、結果と影響
 承久の乱について前号に触れているが、メインは後醍醐天皇の側近日野資朝で、乱の104年後の正中の変であった。佐渡流罪のきっかけは正中の変、その7年後佐渡で死罪に処せられたきっかけが元弘の乱。ここでは、まずそれら事変の先駆けである承久の乱の本質について詳述する。
(1)背景
 北条高時〔1304〰1333年。鎌倉時代末期の執権〕の世の乱れの始まりは、「禍ひ一朝一夕の故にあらず。元暦年中(1184〜85)に右大将頼朝卿、平家を討倒して功ありし時、後白河院、御感(ぎょかん-感心)の余りに、66カ国の惣追捕使(そうついぶし)に補(ふ)せらる。これより、武家始めて立って、諸国に守護を置き、荘園に地頭を補す」(『太平記』)。
1)後白河院〔1127〜1192。天皇→上皇→出家し法皇〕が、頼朝に守護地頭の設置を承認したのは弱味があった。
 a、平家の方が源氏より強いと見れば源氏追討の院宣、源義仲が強いと見れば都から平家追放の宣旨及び1184年1月義仲に「征東大将軍」宣下、義仲が邪魔になると頼朝に義仲追放の宣旨、1185年平家滅亡。頼朝より義経の方が期待できるとなると義経の要望に応じ10月頼朝追討の宣旨、だが翌月義経没落し苦しい立場になった。
 b、1185年11月頼朝の命を受け、北条時政は千騎の兵を率い上洛、頼朝の憤怒を告げて交渉し、義経らの追捕のために守護地頭の設置等を認めさせることに成功。警察・軍事だけでなく、所領・荘園の所有権・納税管理と追捕使の全国・地域配置に及んだ。
2)頼朝の征夷大将軍への希望に応じなかったが(近年見直し再検討。後述)、全国の惣追捕使は承認。武家政権樹立。但し、朝廷政権との二頭政治。
 《参考》用語 (ウィキペディア)
 a「追捕使・惣追捕使」
 ア、追捕使の最初の設置は932年。当初南海道で頻繁に出没していた海賊を掃討する目的で設置。「追捕」は、「追い捕らえる」で元々は、軍事的役割は含んでいなかったが、海賊・反乱など鎮圧する目的から軍事に当たることが重要となった。その後諸国に常設されるようになると国司を追捕使に兼任させたり、地方の豪族を任命したりするケースが多かった。
 イ、12世紀末頃になると惣追捕使として一国の警察・軍事的役割を担う官職が現れた。さらに、1190年に源頼朝が日本惣追捕使に任命され、諸国の惣追捕使の任免権が鎌倉殿〔頼朝〕に移り、守護と名を変え、後に発展していった。
 b「征夷大将軍」
 ア、朝廷の令外官の一つ。「征夷」は、東夷を征討する意で、「東夷」は中国に帰順しない四方周辺に居住する異民族の蔑称(他に、西戎・南蛮・北狄ありで「四夷という」)で古代中国の中華思想から来ている。
 イ、征夷大将軍は、「征夷」行為に関して現地の軍の最高司令官であり、天皇の代理人という機能を有していることから武人すべての司令官としての力が備わるようになっていった。
 ウ、鎌倉中期〜明治維新まで武士が政権を握っていくことで武士の棟梁としての征夷大将軍は、事実上日本の最高権力者であった。また、天皇によって任命されることが、天皇に実力はなくても権威は維持するようになった。
 エ、1192年源頼朝が征夷大将軍の位を得て鎌倉幕府を開いて後、江戸末期まで675年間武家政権が続いた。1867年(慶応3)徳川慶喜による大政奉還で江戸幕府が消滅し、更に王政復古の大号令を発令した明治新政府によって征夷大将軍の官職も廃止された。
3)後白河院は、他は妥協しても頼朝を当人の望む征夷大将軍にしなかったという説が通説。
 a、近年これを覆す史料が発見され、専門家は見直しを迫られている旨のことがウィキペデアに見える。
 ア、「近年これら通説を覆す新史料が発見された。『三かい荒涼抜重要』所収の『山かい記』1192年7月9日条および12日条に頼朝の征夷大将軍の既述、、、によると頼朝が望んだのに『大将軍』があり、それを受けた朝廷で『惣菅』『征東大将軍』『征夷大将軍』『上将軍』の四つの候補が提案された結果、平宗盛の任官した『惣菅』や義仲の『征東大将軍』は凶例であるとして斥けられ、また『上将軍』は日本では先例がないとして斥けられ、坂上田村麿の任官した『征夷大将軍』が吉例であるとして頼朝を『征服夷大将軍』に任官したという」。
 イ、さらに頼朝が望んだ「征夷大将軍」を後白河院が拒んでいたという通説をひっくり返す事実が、古典の文面から発見されたとある。
 b、「征夷大将軍」をめぐる歴史ポイント
 ア、源氏
 a)源頼朝にとって平家を滅ぼし天下を取った以上、義経及びその残党を捕縛すれば、それに呼応する豪族(総括して「謀反集団」)はいなくなり世の混乱は収まる。当初「東夷=東国」征伐の「征夷大将軍」の官位が欲しかったが、義経の脅威もなくなった今、朝廷から東国レベルでなく全国レベル「大将軍」の官位・お墨付きが欲しくなる。
 b)後白河院の場合、義経捕縛と国の治安のため全国に守護・地頭の設置は承認しても、「征夷大将軍」は軍事の権限を与えることを意味し、やがては西国に拡大解釈されることを懸念か。
 c)『太平記』では1185年「惣追捕使」を後白河院承認。ウィキペディアでは後白河院崩御後の1190年「日本惣追捕使」、1192年「征夷大将軍」に任官。
 イ、北条氏
  a)鎌倉幕府の執権職で充分、源氏3代のように朝廷からの官職・位階「征夷大将軍」は不要。
  b)それでも源氏滅亡後の政権安定引き継ぎのため、一応藤原一族からの摂家将軍や天皇の皇子など宮将軍で繋いだ。
 c)朝廷からの借りがないため、上皇・貴族などが計画したクーデターに対し流罪などの刑の執行ができた。
 ウ、足利氏
 a)政権を取るため天皇及び「征夷大将軍」を必要とした。それによって天皇が2つに分かれる発端となった。
 b)おそらく南北朝時代の出現によって「征夷」の意味が東国でなく西国をも含む「全国区」を意味するようになった。
 ア)世は、東・西の争いでなく、南朝・北朝の争いで全国共通。
 イ)当時佐渡国においても、守護代として鎌倉から来て佐渡に定住した本間氏が佐渡の各地で分家した佐渡の地頭の間でもー例-羽茂本間と吉岡本間ー領地争いから南北朝の争いに発展。
 「1336年は日本で北朝と南朝とに朝廷の分裂が始まった年で羽茂は南朝、吉岡は北朝についた」
 エ、織田信長
  自ら天下を布武するkーおーおのだから不要、但し、朝廷が官位を授けることは拒まない。例-権大納言、右近衛大将、右大臣、内大臣、m正二位等々。朝廷が官職を乱発する狙い・苦心が窺える。
 オ、豊臣秀吉
  太政大臣・関白・征夷大将軍のうち、関白となった。百姓出身だったから・清和源氏の系統でないから征夷大臣になれないは俗説。
  ヵ、徳川家康(1543〜1616)
 a)1600年関ヶ原勝利後幕府を築くのに武士の棟梁の象徴としての「征夷大将軍」は重要と認識。そのためか 徳川の系図に改姓〔松平→徳川〕。1603年征夷大将軍宣下。先祖が「清和源氏」であることが条件と言うのは俗説とされる。1605年征夷大将軍辞退。長男・秀忠に繋ぐ。
 b)1607年駿府城へ移っても当分の間実権を掌握し、「大御所政治」を行った。
 駿府でのブレーン-本田正純(側近)、松平正綱・板倉重昌(武将)、角倉了以・茶屋四郎次郎・後藤庄三郎(豪商)、天海(僧侶)、林羅山(学者)、ヤン・ヨーステン(外国人)など。
 c)その他の主な官位
  1617年(死後)贈正一位、1616年太政大臣、1年右大臣、1603年源氏長者、1602年従一位
 (以上、「征夷大将軍」をめぐる歴史ポイント)
(2)変化・機会・戦闘
1)頼朝の長男頼家、次男実朝(さねとも)とも征夷大将軍となった。「しかるに、頼家卿は、実朝公のために討たれ、実朝公は、頼家の子悪禅師公暁のために討たれて、源氏の世、わづかに42年〔?34年〕にして尽きぬ」(『太平記』)
《参考》「源氏の世、わずか34年-1185〜1219」史実 
a、源頼朝(1147〜1199)
 1180年配所の伊豆で挙兵。1185年平家滅亡、惣追捕使・守護地頭制。1192年征夷大将軍宣下。1199年落馬がもとで死亡。
b、源頼家(1182〜1204)嫡男-第2代将軍(諸国守護)宣下。
 18歳で家督相続。だが、従来の慣例を無視した独りよがりな判断で多くの御家人の反発を招き(『吾妻鏡』。真偽は不明)、北条氏を中心とした十三人の合議制が敷かれ、3年後頼家が重病に陥ると頼家の後ろ盾の比企氏(源頼朝乳母・比企尼に連なる一族)と実朝を担ぐ北条氏が対立。北条氏は比企氏を攻撃し、滅亡させた。頼家は権威を剥奪され、伊豆修善寺に幽閉、北条氏により暗殺された。
 北条氏が鎌倉幕府の実権を握る。初代執権は北条時政(1138〜1215。頼朝の妻北条政子の父)、2代目は北条義時(1163〜1224)。
 (注)頼家の子の命運、男子4人は、20歳代までに変死。
 ア、一幡(長男。1182〜1203)20歳で刺殺される。
 イ、公暁(次男。1200〜1219)実朝暗殺後、討死。
 ウ、栄実(三男。1201〜1215)六波羅襲撃計画露見し自殺。
 エ、禅暁(四男。  ?   〜1220)誅殺。
 オ、竹御所(娘。1202〜1234)28歳で13歳の第4代将軍藤原頼経に嫁ぐ。難産で男児の死産と共に死亡。
  藤原定家の『明月記』には、その訃報を聞いた鎌倉武士たちは源氏の血筋が絶えたことに激しく動揺し、京都にいる御家人はこぞって鎌倉に下ったこと、これに関し「平家の遺児をことごとく葬った報い」とある。
c、源実朝(1192〜1219)四男-第3代将軍
 ア、兄の頼家追放後12歳で征夷大将軍に就く。28歳の時頼家の子公暁に暗殺される。
 イ、実子なし。猶子-公暁、竹御所。
 【源頼朝の直系男子6人は、全て20代までに変死】
 (参考は、以上)
2)機会
 a、北条氏にとっては、源氏に替わり政権獲得
  頼朝の舅(しゅうと)北条時政の子息義時は、「自然に天下の権柄を執(と)って勢ひ漸く四海に覆はんとす」
    b、朝廷にとっては、源氏滅亡で後継・権力争いによる内部分裂を機に武家からの政権奪回
 「この時の太上天皇(上皇)は後鳥羽院、武威下(しも)に振るはば、朝憲(朝廷の法規)上に廃れん事を嘆き思し召して、義時を亡ぼさんとし給ひし」
 c、後鳥羽院の性格・事情。
 ア、多芸多才。 
  a)『新古今和歌集』を自ら撰するほどの歌人。(子の順徳院も歌人)
  b)弓馬の武芸(流鏑馬-やぶさめ)に通じる。
  c)軍の重要性を認識。
  朝廷に以前からある北面の武士に加え、1200年頃西面の武士を設置。その財源は、自己の領地。
  イ、広大な荘園領主。   
  a)長講堂領(42ヵ国89ヶ所の荘園)、八条女院領(220ヵ所以上の荘園)など諸国に置かれた荘園群。
  b) これら荘園の多くに幕府の地頭が置かれるようになると、年貢の未納などが起こり、領主である上皇や近臣と紛争をおこすようになる。
 ウ、鎌倉幕府打倒の意思が強い。   
  a)1199年源実朝の暗殺で幕府は、新しい鎌倉殿として上皇の皇子の雅成親王を迎えることで上皇に申し出たが、ある西面武士の処罰(些細な罪による所領の一部没収)の撤回と愛妾所有の荘園の地頭職の撤去を条件として提示したので破談。以降、北条義時は、宮将軍を諦め藤原家などの摂関家から将軍を迎えることにした。
  b)1200年倒幕に消極的な土御門天皇を退位させ、積極的な第3皇子の守成親王を順徳天皇に据えた。
3)戦闘
 a、1221年(承久32)5月14日後鳥羽院は、流鏑馬揃えを口実に諸国の兵を1,700騎集めた(北面・西面武士、大番役の在京の武士、近国の武士)。
 同日、三浦・小山・武田など有力御家人及び朝廷からも同日付で不特定の諸国の御家人・守護地頭を対象に義時追討の院宣を発す。
 翌15日の伊賀光季邸襲撃に遭って生き延びた下人が、変事を鎌倉に知らせた。
 b、鎌倉で軍議 
 ア、義時・泰時・時房・大江広元・三浦義村らのメンバー。
 イ、箱根・足利での徹底抗戦案にア対し大江の京への積極出撃案が政子の最終判断で採用。
    ウ、5月22日京へ向け三方から出陣。(  )の数値は最終で、合計19万騎(『吾妻鏡』)。
  a)東海道軍10万騎-北条泰時・時房
  b)北陸道軍 4万騎-北条朝時
     c)東山道軍  5万騎-武田信之
 幕府方の軍勢は道々次々に増え19万騎に達したのに対し、朝廷方は大方の予想に反して増えず2万騎とされる。
4)結果
 a、朝廷軍完敗
 ア、「後鳥羽上皇は、幕府軍に使者を送り、この度の乱は謀臣の企てであったとして義時追討の院宣を取消し、藤原秀康、三浦胤義らの逮捕を命じる院宣を下す」(ウィキペディア。出典は『承久記』かの)
 イ、「官軍忽ちに敗北せしかば、後鳥羽院は、隠岐国へ遷されさせ給ひて、義時、いよいよ八荒(はっこう-天下)を掌(たなごころ)の内に握る」(『太平記』
 b、処分
 ア、乱の首謀者 後鳥羽上皇は隠岐へ、順徳上皇は佐渡へ、首謀者でんなくむしろ反対した土御門上皇は本人の希望で土佐へ配流。
 後鳥羽上皇の皇子 六条宮は但馬、冷泉宮は備前へ配流、仲恭天皇(順徳上皇の第四皇子)は天皇廃位など。
 イ、領地の没収
  a)後鳥羽院の膨大な荘園
  b)朝廷方についた公家や武士の所領約3,000ヶ所。
 幕府方の御家人に分け与えられ、新補地頭が大量に補任された。
  c、影響
  ア、朝廷と武家の二頭政治から武家が政治の主導権を握る社会になった。
  a)鎌倉幕府の勢力範囲が、東国から西国へ及んだ。
  b)朝廷を監視する六波羅探題の設置。
  c)皇位継承について幕府が関与。
  イ、1232年御成敗式目の制定
  a)地頭の西国への任地拡張により、旧来の荘園領主・国司・現地民との土地をめぐるいざこざが多くなった。
  b)武家政権の成文法が必要となった。後の時代ー室町時代・戦国時代・江戸時代ーにも。適用
 例-第16条「承久の乱の時に没収した領地のこと」
 承久の乱の時に領地を没収された領主のうち、後で謀反人でなかったこよが証明された者の領地は返還される。既に返還する領地に入っていた新たな領主には替わりの領地を与える。それらは合戦の時によく働き戦功のあった者たちだからである。
 御家人であったにもかかわらず幕府に謀反した者の罪は重く、死罪のうえ財産は没収する。ただし、今より以後朝廷の味方になっていたことが分かった者については、特別に許し財産の五分の一を没収する。御家人以外の下司や荘官の場合は今後財産を没収することはしない。なお、本領主として称した財産を没収されたときの領主を違法な領主とし、真の領主に没収地を返して欲しいなどの訴えが多いが、当時の領主をさしおいて今になってから調べることは筋違いでこのような訴えは受け入れない。
 
2、順徳上皇
(1) 略歴(1197〜1242年) (資料-ウィキペディア)
a、天皇在位-1210〜1221年5月13日 
b、追号-順徳院(1249年追号勅定)。別称-佐渡院
父-後鳥羽天皇、 母-藤原重子(修明門院) 第3皇子。
c、子女 
 ア、中宮  藤原(九条)立子
  皇女-諦子内親王(明寿門院1217〜1243) 
  皇子-懐成親王(仲恭天皇1218〜1234) 
 イ 、典待(督典侍)藤原範光女
  皇子-彦成王(1219〜1286?)。佐渡勝興寺を開基した善空房信受が彦成王にあたるという伝承がある。  
   (勝興寺、順徳上皇に関し、
  10年12月3日号「係わりの地55-伏木〔富山県高岡市〕」
   彦成親王、順徳上皇に関し、
  09年10月18日号「歴史スポット51-西三川砂金山(1)史跡めぐり」)
 ゥ.皇子-善統〔よしむね〕親王(1233〜1377) 。順徳天皇第六皇子。「善統親王は、順徳天皇が佐渡島に流刑になった後の天福元年(1233年)に生まれた皇子である。彼は時期ははっきりしないが上洛して祖母・修明門院のもとで成長し、祖母の養子となり、親王宣下を受けた」上皇が佐渡に流された後の1233年に生まれた皇子。時期はっきりしないが上洛して祖母・修明門院の元で成長し祖母の養子となり、 親王宣下を受けた」。1314年後醍醐天皇から祖母から相続した七条院領の一部(17ヶ所)を還付される。1291年出家し以後は四辻入道親王と称された。「子孫は源氏賜姓され順徳源氏となった」
 ウ、後宮 
 a) 藤原位子-坊門信清女
  皇女(1216〜1279) 
 b) 藤原清季女-1221年順徳上皇の配流先佐渡へ供奉。
   皇子(1215〜1264)
   〃 (1217〜1300) 
   〃 (1222〜1279)-岩倉宮忠成王。出生-佐渡。順徳上皇の第五皇子。経緯は不詳ながら上洛し活躍したとされる。なお、宮内庁は忠成王を公式には宮家と認めていない。
 c) 源氏(宰相局)
   皇子(1217〜1300年) 
 エ、生母不詳-佐渡で生まれた子女
  皇女 -慶子女王(1225?〜1267?) 一宮(いっくう)
   〃 - 忠子女王(1232?〜1249?) 二宮(にくう)
  皇子-千歳宮     (1237?〜1254?) 三宮(さんぐう)
 【皇女・皇子について揃えた記事は、
  09年5月9日号「佐渡の風景57田植え」。
 この時は、国仲平野の田植え風景がテーマであったが、序でに順徳上皇の子女の墓地巡りをしようと思いつき、国仲平野を縦断したもの】
(2)特記事項
1)1200年土御門天皇(1196〜1231。後鳥羽天皇(1180〜1239)の第一皇子)の皇太弟〔次の天皇は子でなく弟の意〕)となる。「順和な土御門天皇とは対照的に激しい気性の持ち主と言われて、後鳥羽上皇から大きな期待を寄せられていた」
2)1210年後鳥羽上皇の強い意思により14歳で即位
 (上皇による院政(在位する天皇の直系尊属である太上天皇(上皇)が、天皇に代わって政務を直接行う政治)が継続。後鳥羽上皇は1198年土御門天皇に譲位して以後、土御門、順徳、仲恭と承久3年(1221年)まで3代23年間に亘り上皇として院政を敷いた)
3)院政・父帝の影響とされる。
 a.有職故実(朝廷や公家の行事・制度・習慣・儀式・装束など)の研究に傾倒。『禁秘抄』(1221年成立)を著す。鎌倉幕府への対抗ともされるが、幕府によって反古にされるのでなく誇れる文化を残さなければならないという情熱からだろう。
 b.父の影響で
和歌や詩に熱心。藤原定家に師事して歌才を磨く。
 
家集として『順徳院御集』(紫禁和歌草)、歌論書として当時の歌論を集大成した『八雲御抄』(著者の序文に「夫和歌者起自八雲出雲之古風(中略)名曰八雲抄」とあり)は、「承久の乱以前から書き始められ一度まとめられた(草稿本)が、乱後に配流先の佐渡で書き続けられ、都の藤原定家に送付された(精撰本または再撰本)」。
 在島中の詠歌として、『順徳院御百首』(1232年が残されている。
 藤原定家撰『小倉百人一首にある歌(20歳の時の作とされる)
   ももしきや古き軒端のしのぶにもなほ余りある昔なりけり (順徳院)
4)父である上皇の討幕計画に参画。承久3年後鳥羽1221年)4月に子で3歳の懐成親王(仲恭天皇)に譲位、上皇の立場に退いた。
  「父上皇以上に
鎌倉幕府打倒に積極的」「5月に承久の乱を引き起こしたものの倒幕は失敗」。
5)承久の乱後の7月、後鳥羽上皇は隠岐へ、順徳上皇は
御年24歳で佐渡配流
 a.上皇に豊田の人が温かい稗の粥を献上したところ即座に詠まれたという歌
   これほどに身の温まる草の実を ひえの粥とは誰かいふらむ
 b.佐渡で父を思っての歌
    いざさらば 磯打つ波にこと問はむ おき(隠岐)のかたには何事かある
6)1242年9月12日崩御
 a.辞世の歌
   思いきや 雲の上をば他所に見て 真野の入り江に朽ち果てんとは
 (「雲の上をば他所に見て」は、「『雲の果てまで流れ来て・・・』との御製さへ胸に浮びて・・・」と幸田露伴の真野御陵での紀行文にある。06年10月27日号「幸田露伴と佐渡(3)」) 
 b.崩御の翌日佐渡真野山にて火葬。1243年4月遺骨は都に持ち帰られ、翌月後鳥羽上皇の大原法華堂〔京都市左京区大原勝林院町〕に安置された。現在の後鳥羽天皇大原御陵〔みささぎ〕と順徳天皇大原御陵。
  c.
新潟県佐渡市真野にある真野御陵(まののみささぎ)は正式には火葬塚であるが、古来地元から御陵として崇敬されてきたもので、延宝7年(1679年)に佐渡奉行曽根吉正が修補を加え、明治7年(1874年)から政府の管理下にある。」
7)建長元年(1249年)7月20日順徳院諡〔おくり(贈り)名〕された(配流後それまでは佐渡院


3.まとめ
‘本の歴史上鎌倉時代の画期的な事は武家政権の樹立。要因は国衙領や荘園を守り謀反人・犯罪者を追捕する目的のため主に東国における守護地頭の設置、決定的には朝廷と幕府が争った承久の乱で上皇の宣旨に拘らず幕府側につく武士が圧倒的に多く、幕府軍が朝廷軍に圧勝、当初の東国だけの支配が全国に及んだ。3人の上皇の流罪を含め武士革命が起こった。
∈甘呂砲いても鎌倉時代というより、同じく承久の乱後は画期的で、鎌倉から守護代と地頭が来て全島を統治、それと関連して京都から順徳上皇が配流になった。その後、佐渡への政治犯としての流罪者は日蓮、大納言京極為兼、中納言日野資朝(前号)、頼朝急死後の文覚(07年1月12日号「佐渡の寺院1真禅寺」に記述)を含めると鎌倉時代に集中。
佐渡の守護・地頭の設置年代は明確でないが、手掛りとなる資料はあった。それは、『吾潟郷土史』(平成12年(2000)2月28日発行)で、一集落の郷土史というものの現時点最新の集落史に該当し、且つ特定分野において数多くの佐渡の歴史文献から取捨選択して記述されたであろうからである。その特定分野とは、守護地頭で、吾潟は昔は潟上村の一部でそこには佐度でもそこそこの勢力を有していた潟上地頭が存在した。現在、山形県米沢市にその末裔(苗字は潟上)がいるということを数年前同書から知り、取材している。内容については、以下「潟上家文書」(写真撮影)とする。なお、当時「潟上」姓をついて電話帳で調べと、佐渡に「潟上」の地名はあっても「潟上姓」はなかった。米沢には3軒あった。
 (12年11月7日号「係わりの地63:米沢」〜同22日号「米沢(続・続き))」)
1)創元社「日本史辞典」に、佐渡国の守護として最初に比企氏〔前号:北条氏との権力闘争で滅亡〕か、として建久2年(1191)6月以前とあり、大仏(おさらき)北条宣時が1271〜1285年となっている。
2)佐渡本間の系図に本間能久が出てくる(「辞典」にはない)。能久について吉田東伍博士は、「佐衛門尉能久の佐渡守護となりしは承久の頃とす」と述べている。「かくて、承久の変以後、守護又は守護代が遥任ではなしに、実際赴任の形で着任したことになる」
  【参考 曄嵳敘ぁ廖淵Εキペディア)
 日本の奈良時代・平安時代などに、国司が任国へ赴任しなかったことを指す。遥任国司は、目代と呼ばれる代理人を現地へ派遣するなどして俸禄・租税などの収入を得た。
  【参考◆曄崑臺北条氏( 〃 )
3)1271年執権北時宗は日蓮を佐渡流罪に決定。そして一門の大仏北条宣時を佐渡守護に任命し、宣時の預かりとした。宣時は御家人の本間六郎佐衛門尉重連を佐渡の守護代兼地頭地頭として任命し、日蓮を預からせた。
4)1271年・1281年の2度に渡って蒙古が来襲したが、退けることができた。「〔蒙古相手では土地など奪えない」幕府は戦後の論功行賞に困った。この時、佐渡は僻遠〔へきおん〕の地ではあるが、これを割譲して恩賞として与え、地頭に任命したのである。これが本間一族であり,同じく相模から来た藍原・渋谷・土屋ら〔名古屋と阿部」」の地頭である」。
 この論によれば、佐渡の地頭はいずれも承久の乱で功績のあった武士で新補地頭に成りあがった者であるということで説得力がある。なお、それぞれ相模国依知本間、相模川上流の藍原、同流域の渋谷荘、同下流の土屋の出身(資料:『佐渡 安照寺史』)。
 【以上の「まとめ」部分を「米沢」の事以外は昨日12月8日に書き上げた終わったと思ったが、今朝になって念のため「米沢」記事を調べると、まとめを変更せざるを得なくなった。潟上家文書に、次のように記されていたからである。撮った写真からのもので判らない文字等がある。
 信高:本間弥太郎 住相模ノ国〇〇 近頼朝卿先テ父ニ卒。

 義忠:本間右馬久征伐泰衡之時候ス頼朝卿ニ為千騎之列〇〇住シテ佐渡国羽茂ノ郡ニ為地頭職ト建久4年(1193)5月武衡狩ス富士野時義忠率テ370騎為供奉之列。

   義高;本間源太近侍頼家卿南佐渡羽茂之祖

   季高:本間源四郎北佐渡沢根之祖
 季行:海老名五郎住ス相模国致テ子孫ニ来住佐州 海老名之祖 忠行:海老名太夫。

 参考 В娃固4月26日号「鬼太鼓14:祭での鬼の位置(2):佐渡本間家」より。

  「「・・・本間氏の来歴を鎌倉幕府の記録「吾妻鏡」を中心に見ていくと・・・」(佐渡金井町史」1979年発行)

 1)佐渡本間家遠祖 本間能忠は、1189(文治5)年源頼朝の奥州征伐〔奥州合戦〕に従い、1190(建久元)年には頼朝の京都入りに随兵を務めた。

  a.能忠には、5男いて、長男忠家は左大臣関東下向の随兵、次男能久は競馬の騎手、三男基忠は五馬をひき、四男忠は流鏑馬(やぶさめ)の射手(いて)を務めた。

  b.佐渡の守護の代官としての来島は、長男忠家の六男六郎左衛門重連・・・・

  参考◆А」は「よし」と呼ぶことができ、その意味では「」と同じ。

 潟上氏系図(以下、『系図』)にある「義忠」を「能忠」と書き替えれば、『金井町史』で記されている「佐渡本間家の遠祖」その人。『系図』には「佐渡国羽茂郡に住し地頭となる」とある。それが事実とすれば、これまでの通説「本間家の佐渡での直接統治は承久の乱(1221年)以後」が覆る。」

上記は、次のとおり修正する。
佐渡の守護・地頭の設置年代は、1189年7〜9月の奥州合戦(源頼朝の鎌倉政権奥州藤原氏との間で東北地方での一連の戦いの戦役で源頼朝による武士政権が確立)で勲功を挙げた相模国(神奈川県)の本間能忠が大仏北条氏の守護代として佐渡の守護兼地頭に任命され、同じく佐渡の地頭に任命された同国の藍原・渋谷・土屋・名古屋・阿部と共に鎌倉から赴任・定住。1190〜1192年頃か。1589年の上杉景勝の佐渡攻略まで佐渡本間氏が佐渡を統治した。
 歴史上の問題解決の手掛り・決め手となる資料は、現地だけでなく思わぬ・僅かな関係地(例:富山県伏木、山形県米沢)からも発見できる可能性はある。
 以上

歴史スポット60:正中の変と日野資朝

こんにちは!自在業の櫻井です。 

 通常ならblogカテゴリーは、単発でなく3回以上続けるのがこれまでの暗黙の私的原則。前回「係わりの地」が1回で終わった。入院がなければ、「松ヶ崎」→「多田」と「松前稼ぎ」の関心の流れから関山(妙高市)の次は北海道江差(10年前にも訪問)、ついでに日本の最北端・稚内に比較的近い苫前(明治期佐渡衆が多く居住し、村長も輩出、。鬼太鼓は昭和30年代まで行われていた)となったであろうが、訪問は無理。 

 1ヶ月はかかるらしい入院生活の退屈しのぎにはタブレットだけでは足りないと思い(家内の場合1か月余の入院で本10冊以上読み、入院時の必需品と推奨。しかし、新聞やパソコンの字は読めるが文庫本は目が疲れ長続きしない(追記-前回記事から不馴れで不自由な面あるが、タブレットで書き込み中)。それでも背に腹は代えられず文庫本を購入するすることにした。この機にドストエフスキーの若いとき牢獄に入れられた体験を基に書いたという何とかという小説を読もうと古町の書店へ行ったがなく、バスで万代の書店へ行ったがそこにもなかった。そのため古町へ戻って3冊購入。
 機愨席慎(一)』(岩波文庫。兵藤裕己校注)
 供愿盟柿陝(岩波文庫。西尾 実・安良岡康作校注)
 掘悒織拭璽訖佑虜叔』 (岩波文庫。ブッツアーティ作、脇 功訳)

選定理由は、
 気、開いて見たところ 文字が大きく読みやすそうが第一で鎌倉末期から南北時代の歴史物語、
 兇、「つれずれなるままに」への共感、短い話集で区切って読めること、
 靴、 20世紀幻想文学の古典とされ、350頁ほどの小説で読めないものでないこと、
で、 いずれも単純。
 気、日野資朝(ひのすけとも)の事が載っているという認識はなかった。ページをめくっていくと第1巻6番目に「俊基資朝朝臣の事」とあり、日野資朝(以下、「資朝」)のことでないかと驚いた。ならば、佐渡広場の記事になる。
 資朝について今簡単に紹介すれば、次のような人である。
 貴族で、鎌倉末期後醍醐天皇の下での鎌倉幕府到幕計画が事前に漏れ、首謀者の一人として幕府に捕らえられ(1325年(正中2)正中の変)佐渡に流され、在島7年後元弘の乱(変ともいう)(1331年(元弘元))が起こり、翌年佐渡で処刑された。享年42歳。
  《参考》元弘の乱(変) 
 1331年(元弘元)後醍醐天皇を中心に再び倒幕を推進。天皇は、正中の変の処分を免れた側近の日野俊基や真言密教の僧文観らと結び倒幕計画を進めたが、側近の吉田定房の六波羅探題(1221年承久の乱後朝廷監視のため京都に設けられた鎌倉幕府の出先機関運用)への密告で計画は再び事前に発覚。
 翌年日野俊基や北畠具行や先に流罪となった日野資朝らを斬首し、後醍醐天皇は隠岐へ配流(元弘の乱)。これで倒幕勢力は衰退したかに見えたが、楠木正成や赤松則村、さらに足利高氏などが倒幕に加わり情勢が変化。1333年鎌倉幕府滅亡。
 兇、「資朝卿」の話がいくつか載っているのを発見。そこから資朝は、当時相当な有名人であったことが
わかる。こkれで資朝のコンテンツが豊富になることで、「歴史スポット、日野資料朝公」というテーマで記事にできる自信が出て来た。なお、『徒然草』の成立は、定説はなく異説が多いが、1330年8月〜1331年9月頃が、作者の吉田兼好の生没は1283年?〜1352年?。
 さらに、テーマの記述構想を考えていうち、阿新丸(くまわかまる)の父の仇討ち話があるのに気づき、フィクションであっても話には添えられるとコンテンツ(内容)の充実に多少でもなると感じた。
 佐渡の文弥人形(国の無形民俗文化財)=人形浄瑠璃にも、仇討ちして山伏の助け得て追っ手から逃れ、船にかろうじて乗り移って都へ向かったという演目があり、鑑賞している。
 (07年8月22日号「佐渡の祭り18、野浦芸能の里フェ2スティバル」。この時、地元の文弥人形グーループ「双葉座」により「太平記 誉の仇討ち 阿新丸船出の場」などの演目が上演された)
 気砲△襪を探すと、『太平記』全40巻の第2巻の中に「阿新殿の事」とあり、第一分冊=気砲△辰。フィクションか実話かを見極めるため、資朝の子を調べると朝光、邦光、光俊がいて、それぞれについて調べると、邦光が佐渡へ渡り父の仇をとったとあるから、作り話でなく、実話であることが判明。いよいよ面白くなLってきた。テーマも「日野資朝公」では足りず、「日野資朝・日野邦光」として、コンテンツが広がった。
  あとは、歴史的背景や日野父子の人となりと行為などをさらに調べ、どうまとめるかにある。(追記-記事書き込み完了後、テーマを「正中の変と日野資朝」に変更)

1. 鎌倉幕府倒幕の背景と結末
(1) 承久の乱1221年
1) 1219年3代将軍源実朝の暗殺と殺した公暁(源頼家の子)が殺害され源氏の血筋が途絶え、2代目執権として鎌倉幕府の権力の頂点に立った北条義時に対し1221年後後鳥羽上皇が義時討伐の院宣を発し兵を挙げたが、朝廷側が幕府に破れた兵乱。
2)遠因は、1285年源頼朝が後白河法皇の承認を得た「守護・地頭の設置」。頼朝のブレーン大江広元の建議とされる。趣旨は、これから末法の世となり無法者・反逆者が勢いを増し、各地に反乱が絶えない世となる。頼朝公の統治する東国では安寧を保つも、他所を鎮めるために各地に兵を派遣していたのでは、武士に負担をかけるだけでなく国費の無駄ともなる。治安と公領・荘園を守るため、全国に武士たる守護・地頭を置き、彼らに管理させれば、安全安心この上無い。ついては、兵糧米(管理費)として反当たり5俵を徴収することを認めることで実行あるものにする。真の狙いは、守護・地頭を全国に配置することで政権を強固にすることで、そのための「兵糧米の徴収」(本質は、公領所有の朝廷・荘園所有の貴族から収入を得る)で、反逆者「義経・行家(源義盛)の捜索・逮捕」は、本命の政権強固に比べたら言い掛かりに過ぎない。
 朝廷は、守護・地頭の権力が強まるにつれ国司による土地・年貢管理の弱体が目立ち、公領・荘園からの収入が減少、朝廷側には不満と将来への不安がつのり、何とかしなければ鎌倉幕府に牛耳られてしまうおそれがあり、皇権回復が急務であった。そのような時,源氏の血統が途絶え、チャンスとみた。そして、執権義時追討の院宣を後鳥羽上皇が発した。l
3)朝廷側に兵が集まるとの予想が外れ、幕府軍に集まり圧勝。『吾妻鏡』に、後家人を前に進み出た頼朝の妻の政子の傍で安達景盛が、政子の声明文を代読したとある。
「皆心一にして奉るべし。今こそ最期の詞なり。故右大将軍朝敵を制覇し、関東を草創してより以降、官位と云ひ俸禄と云ひ其の恩既に山嶽よりも高く、冥渤よりも深し。報謝の志これ浅からず。
 而るに今逆臣の讒に依り非義の綸旨を下さる。名を惜しむの族は早く秀康、 義等を討取り三代将軍の遺蹟を全うすべし。但し、院中に参らんと欲する者は、只今申し切るべし」
 この声明文が、鎌倉武士の心の中にある迷いー朝廷に逆らってよいものかーを払拭し、幕府軍を圧勝に導く決定要因となった。
 朝廷には出来ない将軍と個々の後家人との密接な絆の仕組みを守護・地頭制、度で築き上げてきたのが功を奏した。
4)幕府側が勝利し、これまでの東国中心から全国制覇をものにした。
 a、朝廷方の公家や武士の所領3,000ヵ所が没収された。
  それを軍功のあった後家人に分け与えられ、新補地頭が補任された。
  これによってこれまでの朝廷と幕府の二頭政治が、幕府の力が朝廷を凌駕することが確実となった。
 b、3人の上皇が配流となった。
  後鳥羽上皇は隠岐、 
  土御門上皇は土佐、その後阿波へ
  順徳上皇は、佐渡。天皇時代は倒幕積極派で、それに専念するため24歳で天皇の地位を譲り、上皇に退いた。
 c、京都に朝廷監視のため六波羅探題設置。
  また、皇位継承について幕府が影響力を持つようになった。
(2)正中の変1324年
1)後醍醐天皇による倒幕のため、側近の日野資朝や日野俊基が地方を密かに巡り有力者や武士に倒幕を呼び掛けて賛同者を増やし、謀議を重ね、襲撃地・実行日まで決めたものの直前になって決行当事者の一人が妻に計画を漏らしたことで六波羅探題に知られることになり失敗。
2)背景
 a、遠因に蒙古襲来=元寇1274年文永の役、1281年弘安の役)がある。(「事件の日本史」サイト)
 九州北部蒙古襲来→幕府の御家人への戦闘要請→個々の御家人武具調達→商人に所有地を質入し借金→神風台風で勝利するも「元』から土地や賠償金が入るわけでなく御家人への褒賞金なし→御家人は当てにしていた借金返済の原資なく生活苦に陥る→1297年幕府は「永仁の徳政令」(御家人が質入した土地は無条件に返す)を出し御家人救済にあたる→経済混乱(御家人への貸し渋り・貸し剥がしで御家人も苦境)→ 61年で廃止令→御家人の鎌倉幕府への信頼喪失
       《参考》元寇データ(ウィキペディア)
  文永の役               弘安の役
 1274年11月11〜26         1281年6月16〜8月29日
場所 九州北部            同左
交戦 九州地頭・御家人 元・高麗王国 主に九州地頭・御家人 元・高麗王国
指揮 北条時宗     フビライ             同左
戦力 不明     27,000〜39,700人 不明。25万人説あり  14万〜15、7万人
 軍船  300余艘    726〜900艘            4,400艘         
 b、近因には、執権北条高時の悪政。政治は側近に任せ、自身は田楽や闘犬に興じ、酒や女に狂い、その中において各地で治安悪化。畿内をはじめ各地に悪党の動きが活発化、奥州では安藤氏が乱を起こすなど政情不安。
 c、後醍醐天皇は、こうした乱れた世を建て直すべくかっての「延喜・天暦の治」と呼ばれる天皇親政の時代を実現すべく側近を巻き込み倒幕を謀った。
3)結果は、同志の不手際から計画が事前に探題に知られてしまい失敗した。後醍醐天皇は、鎌倉幕府の怒りを大変心配したが側近の助言で告文(偽りないことを神仏に誓い相手に表明する文書。詫び状)を幕府に提出しため「御治世の御事は、朝儀に任せ奉る上は、武家綺(いろ)ひ(干渉)申すべきにあらず」と咎めを受けず、一方鎌倉へ連行された資朝と俊基のうち俊基は赦免され京都へ帰り、資朝は佐渡へ流罪となった。
 (『太平記』第2巻-4「俊基朝臣重ねて関東下向の事」より、「(正中の変の時は)召し取られて、鎌倉まで下りたりしかども、様々に陳じ申されし趣、げにもとて赦免せられたりける」とあり)
(3) 元弘の乱1331年
1)正中の変後も後醍醐天皇は倒幕を諦めず、正中の変で刑を免れた日野俊基や真言密教の僧の文観(幕府調伏の祈祷実施)らと再び倒幕計画を進めた。だが、側近の吉田定房がこの動きを幕府に密告し計画が発覚、後醍醐天皇や資朝や俊基など多くの処分者が出た。
 なお、元弘の乱を1333年鎌倉幕府滅亡までとする見解あり。
2)背景
a、鎌倉時代後期幕府では北条得宗(総領)家が権勢を高めていた。北条家一門の知行国が著しく増加する一方、御家人層で元寇後も続けられた異国警固番役の負担(西国ばかりでなく東国でも同様)、元寇の恩賞や訴訟の停滞、貨幣経済の普及、所領分割などによって没落する者も増加。社会的混乱から諸国では悪党の活動が活発化し、幕府は御家人などの支持を失っていった。
b、13世紀後半以降後深草天皇の子孫(持明院統)と亀山天皇の子孫(大覚寺統)の天皇が交互に即位する両統迭立(りょうとうてつりつ)が行われ、公家社会に派閥が生じていた。1318年即位した後醍醐天皇は、大覚寺統だが天皇親政を理想とする上は邪魔な慣例で、鎌倉幕府に継承にいちいち支持を仰ぐ慣例ができたのも許せなかった。
3)倒幕計画の内容が密告によって幕府に知らされたことで日野俊基は捕らえられ、さらに佐渡に流罪となっていた日野資朝も共に斬首の刑に処せられた。後醍醐天皇は、隠岐へ配流。幕府は、持明院統の光厳天皇を即位させ元号を建武から正慶と改めた。
4)これで幕府は安泰かと思われたが、河内の悪党楠木正成や後醍醐天皇の第3子・護良親王が倒幕で挙兵、播磨の赤松則村も挙兵、足利高(尊)氏は幕府に反旗、新田義貞は東国・上野(あがの)で挙兵、後醍醐天皇は名和長年の働きで隠岐を脱出するなど倒幕勢力が勢いをつけ、鎌倉幕府を滅亡させた。
5)後醍醐天皇の倒幕運動が成功し、元弘の年号を復活させ、念願の天皇親政の建武の新政(建武の中興)を開始。
 だが、論功行賞で側近を優遇し赤松則村はじめ多くの武士を冷遇。
 こうした措置が親政に対する武士層の忠誠心や支持を失い、足利尊氏らの離反を招き室町幕府の成立へと結びついた。
《参考》『太平記』第1巻 1「後醍醐天皇武臣を亡ぼすべき御企ての事」(抜粋)
 「後醍醐天皇の御宇(ぎょう)に、武臣相模守平(北条)高時と云ふ者ありて、上には君の徳に違ひ、下には臣の礼失ふ。これによって、四海大いに乱れて、一日も未だ安らかならず」
 「禍ひ一朝一夕の故にあらず。元暦年中(1184〜85年)に、鎌倉の右大将頼朝卿、平家を滅ぼして功ありし時、後白河院、御感(ぎょかん)の余りに、66ヶ国の惣追捕使(そうついぶし)」に補(ふ)せらる。これより武家始めて立って、諸国に守護を置き、荘園に地頭を補す」
 「頼家卿は、実朝公のために討たれ、実朝公は、頼家の子悪禅師公卿のために討たれて、源氏の世、わづかに42年にして尽きぬ」 
 「頼朝卿の舅(しゅうと)遠江守平(北条)時政が子息前陸奥守義時朝臣(あそん)、自然に天下の権柄(けんぺい)えを執(と)って、勢い漸く四海に覆はんとす」 
 「この時の太上天皇は後鳥羽院、武威(ぶい)下に振るはば、朝憲(朝廷の法規)上に廃れん事を嘆き思し召して、義時を亡ぼさんとし給ひしに、承久の乱出で来て、天下暫くも静かならず」 「闘ひ未だ一日を終へざるに、官軍忽ちに敗北せしかば、後鳥羽院は、隠岐国へ遷されさせ給ひて、義時、いよいよ八荒(はっこう。天下)を掌(たなごころ)の内に握る。それより後、、、、相続いて7代、政(まつりごと)武家より出でて、徳窮民をl慰するに足れり。」
 「(承久)3年に、始めて洛中に両人(2人の北条家)の一族を(北と南に)置いて、六波羅と号して、西国の沙汰を執り行わせ、永仁元年(1293)より、鎮西に一人の探題を下して、九州の成敗を司るらしめ、異国襲来の備へを堅うす。されば、天下普(あまね)くかの下知(げじ。命令)に順(したが)はずと云ふ所なく、四海の外も斉(ひとし)くその権勢に服せずと云ふ者なかりけり。」
 「朝陽(ちょうよう)犯さざれども、残星(ざんせい)光を奪はるる習ひなれば、、、、所(荘園)には、地頭強くして領家は弱く、国には、守護重くして国司は軽し。この故に、朝廷は年々に衰へて、武家は日々に昌(さか)んなり。」 
 「代々の聖主、遠くは承久の宸襟(しんきん。恨み)を休めんがため、近くは朝儀(朝廷の儀礼)の廃れぬる事を嘆き思し召して、東夷(東国武士の蔑称、鎌倉幕府)を亡ぼさやと、常に叡慮を廻らされしかども、或いは勢ひ微にして叶わず、、、、、」 
 「(北条高時の)時に至って、行跡甚だ軽くして人の嘲(あざけ)りを顧みず、政道正しからずして民の弊(ついえ)を思わず、ただ日夜に逸遊を事として、先列(先祖の偉業)を地下に辱し、朝暮に奇物を玩(もてあそ)んで、傾廃(権勢の衰退)を生前に致さんとす。」 
 「この時の帝、後醍醐天皇と申しは、、、相模守(北条高時)が計らひとして、御年31の時、始めて御位に即(つ)け奉る。御在位の間、うちには、三綱五常の儀(君臣・父子・夫婦の道と仁・義・礼・智・信の徳)を正しうして、周公孔子の道に順ひ、外には、万機百司(すべての政務)の政を怠らせ給はず、延喜天暦の跡を追はれしかば、四海風を臨んで悦び、万民徳に帰して楽しむ。、、、誠に治世安民の政、 もし機巧(才知)についてこれを見れば、命世亜聖(聖人に次ぐ人)とも称しつべし。ただ恨むらくは、斉桓覇を行ひ(斉の名君桓公が覇道(武力)で国を始めたこと)、楚人弓を遺(わす)れし(楚の名君恭王が楚の民のことしか考えず、志が狭小だった故事)に、叡慮少しき似たる事を。これ則ち、草創は一天を並(あわ)すといえども、守文は三載を超えざる所以(ゆえん)なり」 (帝は世を創り改めて天下を制したが、統4治は3年を超えなかった。)
 [創業は易く守成は難し。語源は、中国唐代の『貞観政要』(貞観期は、627〜649年)。真意は、難しさは創業か守成かでなく、創業する前には創業が難しいが、創業したからには守成が難しい。今日でも企業は、創業時のままでの存続は難しいから「第2の創業」などという言葉がある。]

2、日野貲朝(1290〜1332年6月25日)
(1)経歴
1314年従五位下に叙舜し、持明院統の花園天皇の蔵人(天皇の秘書役)となる。
1318年j花園上皇の院司。文章博士・記録所寄人如元。
1321年後醍醐天皇に重用され側近に加えられた。倒幕計画の中枢に参画。
1322年正四位上に昇叙。
1323年従三位に昇叙。参議・左兵衞督如元。権非違使(けびいし。京都の治安維持と民政担当が原点。鎌倉幕府の六波羅探題設置で弱体化への強化か)別当を兼任。春鎌倉に起こった大地震の見舞いの勅使として鎌倉に下向。
1324年権中納言に転任。同年辞任。正中の変で日野俊基らとともに捕縛され鎌倉へ送られる。
1325年佐渡に配流。
1332年前年再度の倒幕計画が天皇の老臣吉田定房の密告で露呈し(元弘の乱)、佐渡で処刑。享年42歳。
1876年(明治9)真野宮(佐渡市真野)に祭神として合祀。
1884年(明治17)贈従二位
(2)メモリー
1)墓所-妙宣寺(佐渡市阿佛坊)
  佐渡の寺院10(08年7月4日号)、佐渡の寺院28(10年10月1日号)い
  佐渡の能楽15-日野公忌例祭奉納能(08年7月6日号)、佐渡の能楽41-同(10年7月6日号) 
2)斉祀神社m
 a、大膳神社(佐渡市竹田)
  佐渡の神社12(09年5月29日号)
  佐渡の能楽14(08年7月14日号「能舞台めぐり」)、同28(10年6月13日号大膳神社薪能)〜31[(1)能舞台〜(4)演目「猩々」]、同49(11年9月5日号「金井能楽研鑽会発表会」)、同53「真野能学会-秋の能公演」
 b、真野宮(佐渡市真野)
 c、吉野神宮(奈良県吉野町)
(3)系譜
 父-日野俊光、母・妻-不詳、子-朝光・邦光・慈俊・女子
(4)人となり
1)主観が入らず客観性のある「経歴」分析(但し、表面的で本質を捉えるのは難しい。考え方と行動・成果の事実が必要)から、花園天皇・上皇時代に信頼と実務能力が試される要職に就き、後醍醐天皇になってからは特に重用され、最も信頼された人物。
 a、蔵人(天皇秘書的業務)→院司(上皇の下で院宣など発布)・記録所役人(国司いと荘園領主との訴訟裁判)
 b、極秘の倒幕計画に参画し中枢を担う。
 c、最高位は従三位、参議(朝廷組織の最高機関である太政官の官職の一つで官位四位以上・その他(例、左中弁以上)が必要条件)・左兵衞督如元・検非違使別当を兼務。
  資朝と供に倒幕の中枢にあった日野俊基(?〜1332年6月26日)は、官位の最高位-従四位下・右中弁(=参議になれない)。
 d、明治17年贈従二位は、時の天皇をかばって天皇制維持した貢献度評価が、500年も経って大きく認められたことを意味する。
2)物語・評論・謡曲
 (但し、歴史上の人物は過去の記録が必要であるが、なければ物語等によるしかない。むしろ、その作者の考え方や価値観の方が見えてくる)
 a、『太平記』(但し、佐渡における話は別途)
 ア、武士でも僧侶でもこれはと思う人を見つけては深い関係を築くことができ、企画力に優れ、無礼講で飲んで歌って踊って楽しむ場を設けても、大きな目的は忘れない強い意思の持ち主として描かれている。
 「美濃国の住人に、土岐伯耆(ときほうき)十郎頼時、多治見四郎次郎国長と云ふ者あり。ともに清和源氏の後胤として、武勇の聞こありしかば、資朝、様々の縁、を尋ねてむすび近づかれけり。朋友の交はり、すでに浅からざりけれども、これ程の一大事を左右なく知らせん事、いかがあるべからんと思はれければ、なほもよくよくその心を伺ひ見んために、無礼講と云ふ事を始められける」
 「その交友会の体、見聞耳目を驚かせり。献盃の次第、上下を云はず、男は烏帽子を脱いで髮を放ち、法師は衣を着せずして白衣なり。年17、18なる女の、みめ貌(かたち)好(いつくし)く、膚(はだ)殊に清らかなるを20余人に、はずし(薄い肌着)の単(ひとえ)ばかりを着せて、酌をとらせたれば、、、、山海の珍を尽くし、旨酒泉の如くに湛(たた)へて、遊び戯れ舞ひ歌ふ。その間には、ただ東夷(とうい)を亡ぼすべき企ての外は、他事(たじ)なし」
 「その事となく(用事もなく)常に会合せば、人の思ひ咎むる事もこそあれとて、事を文談(文学の講義)に寄せんがために、その頃、才学無双の聞こえありける玄恵僧都と云ふ文者を請じて、昌黎文集の談義をぞ行はせける。かの僧侶都、謀反の企てとは夢にも知らず」
 イ、幕府の取り調べに対し天皇に責任が及ばないよう自分が一身に受けたというような記述はなく、また倒幕立案・推進に対する幕府への陳謝について何も書かれていない。実際、謝罪や弁明がなかったから、首謀者のうち、資朝だけが流罪。後醍醐天皇は詫び状を北条高時に提出、俊基は謝罪。資朝だけが、自分の行為について正当であることの信念を持ち、詫びる必要はないという強い信念を持っていた。
 正中の変での幕府の裁きは、後醍醐天皇について咎めはなく、「俊基朝臣は、罪の疑わしきを軽くして、赦免せられ、資朝卿は、死罪一等を宥(なだ)められて(死刑となるべきところを一段軽くして)、佐渡国へぞ流されける」
 ウ、その場に応じて自分の都合のよい言い訳・言い逃れはしない性分であった。
 「俊基朝臣は、前年、、、、召し取られて鎌倉まで下りたりしかど、様々に陳じ申されし趣、げにもとて赦免せらりたりけるが、また今度〔元弘の乱〕の(拷問による)白状ども(忠円僧正ら、「ある事をもなき事まで、残る所なく白状一巻に載せらりけり」)に、専ら陰謀の企てかの俊基にありとて、7月11日六波羅へお召し取られて関東へ下り給ふ。再犯許さざるは、則ち法令の定むる所なれば、何と陳謝すとも、この度はよも許されじ、、、、」           
 b、『徒然草』吉田兼好
第152段
 西大寺の静然上人、腰屈まり、眉白く、まことに徳たけたる有様にて、内裏(だいり)へ参られたりたりけるを、西大寺内大臣殿、「あな、尊(たふと)の気色や」とて、信仰(信じ敬う)の気色ありければ、資朝卿、これを見て、「年の寄りたるに候う」と申されけり。
 後日に、むく犬(むく毛の犬)のあさましく老いさらぼひて(やせ衰えて)、毛剥げたるを曳かせて、「この気色尊く見えて候う」とて、内府(内大臣の邸)へ参らせられたりけるとぞ。
 〔物事を先入観をもって見ると単純なことでも間違い起こすので、その性癖を直すため、言葉によらず、身近な物を持ち出して気付かせた。〕
第153段
 為兼(ためかね)大納言入道、召し捕られて、武士どもうち囲みて、六波羅へ率(い)て行きけれ(連行すれ)ば、資朝卿、一条わたり(一条大路辺)にてこれを見て、「あな、羨まし。世にあらん(この世に生きてる)思い出、かくこそあらまほしけれ(あのようでありたいものだ)」とぞ言はれける。
 〔上記の出来事が起こったのは1315年、後醍醐天皇が即位したのは1318年、天皇に重用され倒幕計画の中枢として参画したのは1321年。為兼出来事当時は、公家として今朝廷がどのような立場に立たされているかの意識が低く、同じ事がわが身にふりかかろうとは思ってもみなかったから、「羨ましい」との悠長なことが言えた。諸行無常の理を知れば、悠長なことは言ってはおれない〕
   《参考》大納言京極為兼 (ウィキペディア他)
『新古今和歌集』『新勅撰和歌集』を撰した藤原定家の曾孫。幼少の頃から祖父に和歌をまなぶ。1280年東宮親王(後の伏見天皇)に出仕し、東宮及び側近に和歌を指導して、京極派と称された。
 東宮が践祚(せんそ-天皇を継ぐ)した後は政治家としても活躍したが、持明院統側の公家として皇統の迭立(てつり:交互に即位)に関与したことから1298年佐渡に配流となった。1303年帰京が許された。1312年院宣を得て、『玉葉和歌集』を撰集。1315年得宗身内の東使安東重綱が上洛し、軍勢数百人を率いて毘沙門堂の邸(上京区毘沙門町)で為兼を召し捕り六波羅探題で拘禁。翌年得密が守護、安東氏が守護代であった土佐に配流となり、帰京を許されないまま河内国で没した。
 2度の流罪の背景には、徳政の推進を通じて朝廷の権威を戻そうとしていた伏見上皇と幕府の対立が激化し、為兼が天皇の身代わりとして処分されたとする説がある。
 歌風は、実感を尊び、繊細で感覚的な表現による歌を詠み、停滞していた鎌倉末期9時はの歌壇に新風を吹き込んだ。『玉葉和歌集』『風雅和歌集』に和歌が入集、ぢている。歌論書として『為兼卿和歌抄』が知られている。
 《参考》京極為兼 佐渡ゆかりの地・歌
  1、禅長寺(赤泊)
   6年間この寺に住んでいた。寺の案内板にあり。
  (06年9月18日号「佐渡の風景2、赤泊」)
  2、正光寺(羽黒。明治初期廃寺)
   この辺はいまだ甚寒の体なり。 方丈の庭に杉の木立見事なり。ここは五月雨山(さみだれやま)という。まことか。
    年を経て積りし越の湖(加茂湖)は五月雨山の森の雫(しずく)か
と為兼の詠めるらし。これより梅津村を経て、両津町に至る。
  (08年8月5日号「佐渡の神社2、羽黒神社」。出典-『島根のすさみー(川路)佐渡奉行在勤日記』)
  3、八幡宮(八幡)
   世阿弥『金島書』「時鳥(ほととぎす)」より
  これはいにしへ為兼の卿の御配所なり。あるとき時鳥の鳴くを聞き給いて「鳴けば聞く聞けば都の恋しさにこの里過ぎよ山時鳥」と詠ませ給いしより、音(ね)を停(と)めてさらに鳴くことなしと申す。
  (06年6月9日号「世阿弥と佐渡」)
 (参考は以上)
第154段
 この人、東寺の門に雨宿りせられけるに、かたは者どもの集りいたるが、手も足もねじ歪(ゆが)み、うち反りて、射づくも不具に異様なるを見て、とりどりに類なき曲者(変わり者)なり。尤も愛する(面白がる)に足れりと思ひて、目(ま)守り給へけるほどに、やがてその興尽きて、見にくく、いぶせく(不快に)覚えければ、ただ素直に珍しからぬ物には如かずと思ひて、帰りて後、この間、植木を好みて、異様に曲折あるを求めて、目を喜ばしめつるは、かのかたはを愛するなりけりと、興なく覚えければ、鉢に植えられける木ども、皆掘り捨てられにけり。
 さもありぬべき事なり。
 〔貴族の世間知らずで思いやりのない有り様とそこから来る他愛のない馬鹿げた行為を表現。厳しく言えばこんなことでは、政権を武士から奪回できないであり、婉曲的に言えば食うのに困らないおおらかな身分の考える事と行為の紹介〕
 【資朝についての話を取り上げたが、何歳頃の話か、どこから聞いた話か、書いている筆者自身が真偽についてどう思っているか不明で学術的価値はなく、徒然人の書いた話であることははっきりしている。】
 c、謡曲『壇風(だんぷう』(ここでは、資朝についての人となりはノーコメント。むしろ、今後いろいろ活用できる資料として記述)
  (出所-「宝生流謡曲名寄せのページ(能・謡曲180番)」)
 壇風 外十三巻二(太鼓なし)
  季-夏、所-佐渡国、素謡時間-55分
  曲処-無記入〔世阿弥説あるが根拠なし〕
  登場人物
 シテ-熊野権現、ツレ-壬生大納言資朝、子方-資朝の子梅若、ワキ-師の阿闍梨、ワキズレ-本間三郎、ワキズレ-棹さし
  詞章〔抜粋。〕
 本間「是は佐渡の島の御家人。本間の三郎にて候。さても此の度元弘の合戦公家打ち負け給いて候。中にも壬生の大納言資朝の卿は。囚人となり此の島へ流され給ひて候を。某預かり申して候。
 色々痛はり申す処に。昨日鎌倉より飛脚立って。資朝の卿は大事の囚人にて候。急ぎ誅し申せとの御事にて候程に。痛はしながら明日浜の上野にて誅し申し候。此の由を資朝の卿に申さばやと存じ候。」
 ワキ「かやうに候者は、都今熊野柳の木の坊に師の阿闍梨と申す山伏にて候。又これに御座候御方は、壬生の大納言資朝の卿乃御子息梅若子と申し候。さる仔細あって我等が坊に御座候。資朝の卿は流人の身となり給い、佐渡の島とに流され給ひて候。梅若子未だ父の此の世に御座候を聞こし召し、今一度御対面ありたき間仰せられ候。余り御心中御痛はしく存じ我等御供申し。唯今佐渡の島へと急ぎ候。」
 ワキ子方道行上「名残ある都乃空は遠ざかり、末は遥か乃越の海。今ぞ始めて白真弓敦賀の津より舟出しや海路遥かの旅衣。浦の泊まり重なりて行けば沖にも里見ゆる 佐渡の島にも着きにけり。」
 本間「都よりの客僧はいずくに渡り候ぞ」
 ワキ「資朝も卿乃御子息、、、、今一度御対面求めたき由仰せられる候程に遥々これまで御供申して候にて。引き合わせ申されて賜り候へ」
 本間「委細承り候。総じて対面は堅く禁制にて候へども。幼き人の遥々ここまで御下向にて候程にその由資朝の卿へ申し候べく、暫くそれに御待ち候へ」
 ツレ「本間殿と仰せ候が此方へ仰せ出で候へ」
 本間「唯今参る事余の儀にあらず。昨日鎌倉より飛脚あって。急ぎ誅し申せとの御事にて候程に。明日浜の上野の御供申し。御痛はしながら誅し申し候べし。」
 ツレ「唯今も独言申し候如く。かくてながらへ人に面をさらさんより。あっぱれ疾う斬らばやと望みし事。さては叶えて候よ」
 本間「又御喜びあるべき事の候。都今熊野柳の木の坊に師の阿闍梨と申す山伏の。御子息を伴い遥々御下向候。そと御対面候へ」
 ツレ「これは思いもよらぬ事を承り候ものかな。以前も事の序でに申す如く。某は総じて子を持たぬ者にて候。定めて間違いにて候べし。急いで追い返され候へ」
 本間「さては聊爾(りょうじ。いい加減)な事を申す者にて候。やがて追いかえし候べし」
 ツレ「暫(しばら)く。都の者と聞けばなつかしう候由。そと一目見申し度く候」
 本間「さらば物腰より御覧候へ。あれなる人の事にて候。あれなる人乃事にて候。りぃう
   あらふしぎや。御子息いてはなき候が。何とて御落涙候ぞ」
 ツレ「御不審尤もにて候。彼の者の親も我等如くきの流人流人にて候はん。配所の聞き違へて来たるかと。彼の者の心中不敏に存じ。さて落涙津か仕りて候」
 本間「さあらばおっ帰し申し候べし」 
 ツレ「急いでお御帰し候へ」
 本間「仰せの通り資朝の卿に申し候へば、、、御子は御座なき由仰せられ候。何とて聊爾なる事を承り候」
 ワキ「あらふしぎや。某が申しつけつる仰せは、さようには仰せられ候まじ」
 本間「言語道断。、、、」
 ワキ「なうなう暫く。あら笑止や。いかに梅若殿。唯今本間が申しつる事を聞き召されて候は思いもよらぬ御事にて候」
子方上「悲しいやな。はるばる尋ね下りたる。かひも渚のかたし貝。あわぬ思いをいかにせん」
ツレ上「我も恋しく思い子を最期に見たくは思へども我が子と名のれば敵とて。もしや命を失うはれんと思えば他人と言いつるこそ。なかなか思う心なれ」
地 下「姿見えぬ親と子の。隔ての雲霧、たちそひながらもげに逢はぬ事ぞ悲しき」
 ツレ「いいかに客僧。、、、面目もなき申し事に候へども。誠は某の子にて候。此上は本間殿を頼みし候。未だ
稚き者の事にて候程に。あはれ御心得をもって彼の者を助けて給ひ候へかし」
 本間「かかる傷はしき事こそ候はね、。我等も始めよりさやうに見申して候へども、深く御隠し候程に申さず候。梅若殿の御事は明けなば早舟を拵(こしら)へ。都へ送りつけ申し候べし」
 ツレ「さてはこの世に思い置く事もなく候。はやはや首を討ち給へと」
地 上「西に向かひて手を合わせ南無阿弥陀仏と高らかに。唱へ給へばあへなく。御頸は前に落ちにけり。御首は前に落ちにけり」
 〔その後、本間の善意で2人は本間の私宅に泊めてもらう。梅若は、本間への敵討ちの思いが深く、山伏が誠の敵は相模の守高時で都に帰ってから機会を待った方がよいとの助言を聴かず、命を懸けて実行したいとの強い意志に共鳴し協力。夜本間が寝ているところを襲って目的を果たした。追っ手が迫る中海岸へ逃げ、不思議にも法力が働いて舟を呼び寄せ乗船し。風向きも変わり若狭の浦に着き、無事上洛した〕
  【参考】『太平記』第2巻-6「阿新(くまわか)殿の巻」  
 a、後で創作された『壇風』との主な違い
 ア、主な登場人物ー (  )は『壇風』。bも同じ。
  日野中納言資朝(壬生大納言資朝卿)
  阿新丸13歳(梅若)
  山伏(山伏-師の阿闍梨)
  本間(本間三郎)
  本間の子=本間三郎(登場しない)
  母(登場しない)
  従者=中間(登場しない)
  神-登場しない(シテ=熊野権現)
 イ、佐渡への出港地ー佐渡からの帰港地
   敦賀ー越後の国府〔直江津〕(敦賀ー若狭の浦〔小浜〕)
 ウ、資朝の佐渡へ来た子への対応
  対面期待(表面上 子はないとして対面拒否)
 エ、本間の父子面談への対応
  面談拒否(面談受け入れ。但し、父の拒否で成らず)
 オ、敵討ち
  単独実行(山伏が加勢)
 b、あらすじ
 ア、「宗と(主として)君〔後醍醐天皇〕の御謀反を勧め申しけるは、源中納言具行、右少弁俊基、日野中納言資朝なり。おのおの死罪に行はるべし」と、評定一途に定まって、先ず、去んぬる年流しつる佐渡国の資朝卿を斬り奉るべしと、その国の守護、本間山城入道に下知せらる。
 イ、「この事、京都に聞こえければ、この資朝の子息邦光中納言、その頃は阿新殿とて、未だ13歳にておはしけるが、、、、、、父誅せられさせ給ふべき由を聞いて」母に暇(いとま)を乞う。
 母は、「1日路、2日路の国にてもなし。佐渡とやらんはそ島国にて、万里が澳(おき)にあんなるに、かひがひしき若党(頼りになる若い家来)をも連れずして、ただ独り尋ね下らんに、行き着くまでもあるまじ。道にて、思ひの外なる事あって命を失ふか、また人を売り買ふ所なれば、売られて人の僕になって、習うはぬ業に使うはれん時は、いかに嘆き悲しむとも、叶ふまじ」と言って否認。
 阿新丸が中間(ちゅうげん=従者)に、「われ思ひ立つ仔細(くわだて)あり。父資朝のおはします佐渡島へ尋ね入って、父の御存命の間に御顔色をも見まいらせ、また(自分の姿を)見え奉らんと思ふなり」と言うと従者は、「早や御下向へ。御供仕(つかまつ)り候はん」と賛同。阿新の強い意志に母も認めざるを得なかった。
 ウ、「都を出でては10日余りに、越前国敦賀の津びぞ着き、商人(あきんど)船に乗り、程なく佐。渡国に下着」
 本間の館(やかた)の前にいると、丁度僧がやって来て問いかけたので、阿新丸は涙ぐみ、囚人にされた日野中納言の子で近く斬首されるとの噂が聞こえたので、その前に父に会ってみたいと都より尋ねて来た事を、本間殿に伝えて欲しいとお願いすると僧は哀れんで館に入り本間にその事を語った。
 エ、本間は、あわれに思いお堂に招き入れ足袋・脚絆を脱がせ足洗いなどして置いた。だが、いつまでたっても父に会うことはなく、資朝も子が尋ねて来たことを聞き子との対面を期待したが、叶うことなく刑が執行された。
 オ、先の僧が葬儀し、阿新丸は、遺骨は高野山に納めるべしとして従者に持たせて都に帰らせ、自身は父の敵を討つべく仮病を使って僧に助けを求め、4、5日寝かせてもらった。夜は隙を見て本間kの寝所を調査、父子のいずれか一人を刺し殺して無念を晴らすべく機会を待ち、その時本間は見えなかったが燈の明かりで資朝の首を斬った子の三郎が枕元に太刀をおいて寝ていたところを入り込みその太刀を取って胸を突き通し、返す太刀で喉笛を切った。
 ヵ、阿新丸は港へ向かったが日も明け人目につかぬよう藪の中に隠れていた。案の定追っ手も港の方へやって来たが、引き返した。夜になってまた港に向かうと、一人の山伏に行き合い事情を話すと肩に乗せ、港に着いた。だが、順風で船は皆出ておらず、沖にいる大船を山伏が法力によって念じ寄せ、阿新丸と山伏は船に乗り、その後で、追っ手が140〜50騎来たが、船は帆を挙げ越後の府(こう)に着き、阿新丸は無事都に上った。

3、日野邦光(1320〜1363?) 幼名-阿新丸(くまわかまる)
(1)経歴
建武政権下(1333年6月〜1336年)で後醍醐天皇に仕える。
1336年3月派遣された岩清水臨時祭舞人の中に「左兵衛権左邦光」と見える。
1339年石見国司として新田義氏と共に下向。
1340年豊田城で守護上野頼兼の北軍を退けたが、同年敗れ稲積城に立て籠ったものの翌年再び攻められ落城。
 その後石見を離れて左兵衛督に転じ、後村上天皇綸旨の奏者となる。
1350年勅使として九州に下向。
1352年肥後に在国。
1354年権中納に就任。
1361年四条隆政・細川清氏らと京都に乱入し、将軍足お利義詮を近江へ一時駆遂。以後、史料の所見なし。  
1363年逝去(『南朝公卿補任』)
(2)官位
 従三位権中納言(南朝)、贈正三位
(3)主君
 後醍醐天皇→後村上天皇
(4)家系
 父-日野資朝、母-不詳、子-賀茂
(5)人物評
1)『太平記』「阿新殿の事」での敵討ちの逸話で古来から著名。
2)明治時代の修身教育で忠孝を全うした人物として喧伝された。大正4年(1915)正三位に追贈。

4、 日野父子の佐渡における事蹟
 (資料-前掲佐渡広場、「謡蹟めぐり、謡曲初心者の方のめのガイド」hp「壇風」)
(1)大膳神社(佐渡市竹田)
1)大膳神社縁起(境内案内より)
 御食津大神は、農業食せんの守護神で古来当地のうぶすな神として尊崇敬慕されている。
 その勧請創始については諸説があり、一説には式内社の一つと言われるが、なお詳らかではない。
 正中の変の折日野資朝卿当国に配流され子阿新丸は父子対面を求め、遥々都から下向したにも拘わらず、遂に許されぬ儘、父刑死の無念をはらすべく、城主本間山城守の館に侵入し、その弟三郎を斬って本懐を果たした。この間大膳坊賢栄は真の敵は鎌倉なりと阿新丸を諭したが、その孝心の、巳〔や〕み難きに感動してこれを扶け、更に迫り来る討手窮迫の中に阿新丸を守護し、無事虎の口〔危険。『太平記』では「鰐の口」〕を脱して帰京せしめた。
 山城守は激怒し大膳坊を処刑したが、その後大いに悔い畏れて、日野資朝卿と大膳坊を当社に合祀してその霊を崇め奉ったと伝えられている。
(2)妙宣寺(佐渡市阿仏坊)
1)「雑太〔さわた〕城跡」案内板(佐渡市教育委員会)
 雑太郷地頭本間氏の戦国期の城跡である。築城時期は、永正年間(1504〜20年)頃と考えれる。三郭から成り、現在も土塁や空堀の一部がみられる。天正17年(1589)越後の上杉景勝の佐渡支配により城は廃され、上杉氏代官直江兼継によって城跡は妙宣寺に与えられ現在に至っている。
2)妙宣寺由緒書(真野町教育委員会)
 古くから北陸道七ヶ国法華宗の棟梁で寛文年間(1661〜73)身延・池上・中山三ヶ寺の輪番所となり、明治11年(1878)独立本山と定められた名刹である。
 もと順徳上皇に供 した北面武士遠藤為盛(日得上人)の開基といわれ、はじめ新保(金井町)にあったのが嘉暦元年(1326)雑太城主本間泰昌の居城付近に移り、後に今の地に移ったものである。
 文永8年(1271)日蓮上人佐渡配流の時、 日得は妻千日尼と共にひそかに食物を送ってその危難を救った話は有名である。
 日蓮真筆の曼陀羅、消息文、日野資朝の写経等を蔵するほか、境内にある文政8年(1825)建立の五重塔は県内唯一のものである。
3)日野資朝卿の墓
a、説明書き(旧真野町教育委員会)
 後醍醐天皇の正中2年(1325)12月日野資朝は北条高時のために佐渡に流され、壇風城〔雑太城〕に幽閉されること7年、元弘2年(1332)城主本間氏は高時の命によって、資朝を処刑した。
 遺体はここで荼毘にし、遺骨は従者が高野山へ葬ったとも伝えられる。
 資朝は、明治8年(1875)真野宮に合祀され、同17年に従二位を贈られた。
b、資朝の歌碑
  秋たけし壇の梢〔こずえ〕吹く風に澤田〔雑太〕の里は紅葉しにけり
4)謡曲『壇風』
a、駒札「謡曲「壇風」と雑太城跡」(謡曲史跡保存会)
 謡曲「壇風」は、正中の変に敗れ佐渡に流され本間の館に預けられた大納言日野資朝に熊野の山伏に預けられた一子梅若が一目会いに訪れ再会後資朝は処刑され、梅若は本間を父の仇と思い討った事件を謡っています。
 日野資朝が本間の館雑太城で詠んだ歌から雑太城を壇風城と呼ばれるようになりました。
 本間の館雑太城跡に妙宣寺が建立され、日野資朝の墓と梅若の仇討ちの隠れ松の跡が残り、この地は謡曲『壇風』の舞台となった佐渡市では唯一の謡曲の史蹟です。
 佐渡市は、謡曲の創始者世阿弥や謡曲に登場する日蓮上人も流された由緒深い地です。
 【「謡曲に登場する日蓮上人も、、、」とあるが、謡曲『鵜飼(うかい)』のことを言おうとしているのであろうが、同曲は佐渡と関係なく、法華経の名は出てくるが日蓮宗ばかりでなくそれ以前に天台宗もそうで、聖徳太子の頃からも経典としてあり、『壇風』のツレ=資朝卿とは違ってワキ=安房国(千葉県の一地方)の旅僧で行き先は甲斐国であるが、日蓮上人(生地-甲斐国)と言っていないので、作者でもないのに日蓮のことと決めつける謡曲史跡保存会の解説には無理があり、表現においても誤解を招くおそれがある】
b、日野公忌例祭奉納能
 毎年7月3日(太陽暦)の日野公の命日本堂で能が行われている。
c、阿新丸隠れ松
 本間三郎を刺殺した後、竹を使って濠を越え、しばらく松の後ろに隠れ、追手から逃れたと伝えられる松。
「手々(てんで)に火をとぼし、天井、縁の下まで捜せども、見えざりければ、『こはいかに。堀は広くて水深し。門は高くて鎖子(えび-錠)差したり。鳥にあらざれば、空を翔(かけ)らじ。魚にてなければ、水を潜らじ。さりと云ふとも、門を開けて、方々へ追って見よ』とののしり、、、」(『太平記』)
5)野浦海岸「お腰掛けの石」
 a、野浦集落には、国の無形民俗文化財・文弥人形の座「双葉座」があり、「阿新丸船出の場」など人形芝居のレパートリーが数多くある。
  (07年9月13日号「文弥人形(4)双葉座」)
 毎年地元での芸能フェスティバルで文弥人形の出演ほか、東京での公演が恒例になっている。
 b、野浦には、大膳坊の「お腰掛の石」がある。
 ア、阿新丸を野浦から敦賀へ行く船に便乗させ助けた大膳坊は、その後役人の詮議を逃れて野浦に長く滞在し、この大石に腰を掛けては、都の空を伏し拝んだとされている。
 イ、腰掛け石は、全国にある。例-後鳥羽上皇御腰掛けの石(島根県隠岐)、後醍醐天皇の御腰掛の岩(鳥取県大山町)、蓮如上人のお腰掛けの石(福井県あわら市)、神武天皇の御腰掛石(宮崎県都城市)、宮本武蔵腰掛石(広島県福山市)。

5、まとめ
(1)1221年承久の乱と2016年米国大統領選の意外な結末
 「鎌倉幕府倒幕の背景と結果」の調べと書き込みを行っている時 世界の注目を集めていた米大頭領選挙の結果、民主党のヒラリー・クリントン前国務長官(69)優勢という予想を覆し、公職・軍幹部の経験のない実業家の共和党候補ドナルド・クリントン氏(70)が当選果樹実というニュースを入院中の病院のテレビで知った。丁度、承久の乱などについて『太平記』から学習していた頃で、当時の予想からして圧倒的有利なはずの朝廷軍が、なぜ幕府軍にあっけなく敗れたかを学んだところであった。
1)結論は、当たり前で且つ結果論であるが、政権や選挙の行方は政治的リー御ダー層の支持者をどれだけ多く獲得するかにかかっている。
 a、承久の乱では、幕府側が東国中心に御家人である武士階級である守護・地頭の堅い支持を得る仕組みを作ってきたことに対し、朝廷側には貴族・寺社との間には「いざ鎌倉」というほどの強い絆はなく、所領・荘園の守りは地頭に依存。従って後鳥羽上皇による北条義時追討の院宣も効を奏しなかった。
 ア、一方、鎌倉幕府の滅亡は元寇の役が引き金。元の侵攻を防いだとしても。恩賞として与える土地がなく、御家人の異国人警備負担が重くのし掛かり生活は苦しくなるばかりで幕府への不満が高まり、各地に幕府の言うことをきかない悪党が勢いをつけ、治安が乱れた。こうして幕府に離反し朝廷と与して到幕に乗り出す御家人が各地に現れ幕府は滅亡。
 イ、後醍醐天皇は、1333年朝廷政治(建武の新政)を復権。だが、3年持たず再び武家政権に移行。理由は、貴族優遇に対し武士冷遇、鎌倉幕府成立以来土地の所有権等の慣例を成文化した御成敗式目を無視した唐突な綸旨(りんじ)が次々出され(旧領回復令・寺領没収令・朝敵所領没収令等)、それも解釈や権限所在まちまち・朝令暮改あり・処理体制整わず事務の混乱や裁判停滞で武士の不安や不満を招き、新政に失望して出家した公卿や当時の混乱した政治を風刺した二条河原落書が出現。有力武士の足利尊氏が朝廷政治から離反し、新政はあっけなく瓦解。
 参考1-御成敗式目(1232年制定)全51条より抜粋  
  (資料-現代語訳『御成敗式目』サイト)
第5条「集めた年貢を本所に納めない地頭の処分について」
 年貢を本所に渡さない地頭は本所の要求あれば、すぐそれを納めること。不足分はすぐに補うこと。不足分が多く返し切れない場合は、3年のうちに本所に返すこと。これに従わない場合は、地頭職を解任する。
 【鎌倉幕府政権維持・強化のための式目(法令化)だが、地頭を擁護するばかりでは公平性を欠き秩序が乱れ、長くは続かない。そのための明文化である】
第7条「頼朝公や政子様から与えられた所領の扱いについて」
 頼朝公をはじめ源家三代の将軍の時及び二位殿(北条政子様)の時に御家人に与えられた領地は、本所などの訴えがあっても権利を奪われることはない。
 所領は戦の勲功や役人としての働きによって御家人に拝領されたものであり、きちんとした理由があるものである。にもかかわらず、領主が御家人に配せられた領地を指して「先祖の土地」と言い訴えることは御家人にとっては不満なことである。したがって、このような訴訟は取り合わない。(以下、略)
第8条「御文文を持っていても実際にその土地を支配していなかったいなかった時のこと」
 頼朝公の定めたように御家人が20年間支配した土地は、元の領主(貴族や寺社などに)返す必要はない。しかし、実際に支配していないのに支配していたと偽った者は、証明書を持っていても、その取り決めは、通用されない。
  参考2-二条河原落書 七五調全88節 抜粋
 1334年(建武元)8月建武政権の政庁である二条富小路近くの二条河原に掲げられた落書。
  この頃都にはやる物 夜討 強盗 謀(にせ)綸旨
  召人 早馬 虚軍(そらいくさ)
  本領はなるる 訴訟人 文書入りたる細葛(ほそかずら)
  追従(ついしょう) 讒人(ざんにん) 禅律僧 下克上する成出者
  鎧直垂猶不捨(すてず) 弓をも引えぬ犬追物
  落馬矢数にまさりたり 誰を師匠となけれとも
  遍(あまねく)はやる小笠懸 事新しき風情也
  京鎌倉をこきませて一座そろはぬえせ連歌
  犬田楽は関東の ほろふる物と云なから 田楽はなをはやる也
  茶香十しゅの寄合も 鎌倉釣に有鹿と都はいとと倍増す
  朝に牛馬を飼ながら たに賞ある功臣は 左右におよはぬ事そかし
  させる恩功なけれとも 過分の昇進するもあり
  損そあるらんと仰て信をとるはかり

  天下一統めずらしや 御代に生てさまざまの 事をみきくぞ不思議なる
  京童の口すさみ 十分の一をもらすなり
 b、米国大頭領は、得票数でなく選挙人数で決まる。
  (資料-11月10日(木)号読売新聞、日本経済新聞)
 ア、米ABCテレビや米紙ワシントン・ポストなど主要メディアのほとんどは投開票日の8日朝時点でクリントン氏が過半数(定数538人のうち270人以上)の選挙人を獲得して勝利すると予測。
 米紙ニューヨーク・タイムズは当選確率84%、著名な選挙分析サイト「ファイブ・サーティー・エイト」も71%、米政治専門サイトのリアル・クリア・ポリティックス(RCP)は選挙戦を通じほぼ終始リード・直前支持率(11月1〜7日)は3、2ポイント上回っていた。
  他方、トランプ氏勝利の確率は、20%の予想が大勢を占めていた。
 イ、結果は大逆転
  BBC NEWS JAPAN 
 a)11月16日付け開票速報 選挙人 クリントン氏232人 トランプ氏290人(9、日末明当選確実。ほとんどの州では最も多く得票した候補がその選挙人全員を獲得する。選挙人4人を配分するメーン州では得票率で選挙人4人を配分し、クリントン氏が3人、トランプ氏が1人獲得)
 b)11月24日付け得票数途中経過-敗れたクリントン氏6,420万票と次期大頭領トランプ氏6,220万票に200万票上回り、過半数獲得は確実。  
  各州の選挙人は、12月19日に今月8日の一般投票の結果を踏まえて投票する。なお、一般投票の得票数が少ない方の候補が大統領選に勝つのは、これで5回目。
 ウ、要因
 a)エスタブリッシュメント(既存の支配層)による政治を徹底的に批判し、米国の現状に不満を抱く白人中間層にや無党派層から熱狂的な支持を集めた。(読売新聞)
 b)移民に雇用を奪われ所得格差が広がる政治に対し強い不満・怒りを持つ白人労働者を代弁し変革を訴え、これまで投票に参加しなかった白人労働者層に期待を与え、工場集積州で大勝。(日経新聞)
 c)「トランプ氏は米国政治のすべての規範に挑戦し、まず共和党を、さらに民主党をひっくり返した」(ニューヨーク・タイムズ)
【米国には、自国を犠牲にしてまで他国を利す余裕はない。米国は、高い経済成長を遂げることに集中させ、雇用を守り、所得向上を第一とする主張「米国第一」が、多くの白人労働者の支持を得た】
 エ、懸念-来年1月20日第45代大頭領就任
 a)外交-メキシコ国境「壁」建設、イスラム教徒監視強化、NATO・日本への防衛費負担増か軍撤退。
 b)財政-所得税大幅減、法人税率35→15%、医療保険制度撤廃。
 c)金融-ドツド・フランク法撤廃。金融規制緩和。
 d)通商-TPP離脱。NAFTA(北米自由貿易協定)再交渉。中国を「為替操作国」に認定し中国製品に高い関税示唆、日本が米国産牛肉に38%の関税のままなら日本車に38%の関税をかける。
 e)エネルギー-2020移行の地球温暖化対策「パリ協定」離脱、シェールオイルや天然ガス開発を後押し。
(2)『太平記』に登場する「阿新丸」の話は、実話か作り話か問われば、作り話。だからと言って、歴史文学(ロマン)・読み物としての価値がなくなるわけではない。
 以上 

係わりの地95:関山(妙高市)佐渡奉行帰府道・金の運搬道

 こんにちは 自在業の櫻井です。
1クラス会
 7月23(土)〜24(日)新潟県妙高で高校時代(新潟県立両津高校普通科S組)のクラス会が2年ぶりにあり出席。
(1)今回・前回7
今回会場が妙高であるのは、一昨年の北陸新幹線東京ー金沢間開業で首首都圏だけでなく関西からも行きやすくなったことによる。
  今回監事は、既にもろ手を挙げていた甲斐女史をリーダーとする佐渡女子3人組。前回は東京男子3人組。
      クラス会参加実積(単位。人)
       今回2016年    前回2014年 
メイン会場 新潟県妙高温泉  群馬県伊香保温泉
  宴会後イルミネーション散策 宴会後特になし
 出席   17(男10・女7) 12(男7・女5)
半日ツアー 15(男8・女7) 10(男5・女5)
      上越名所観光  富岡製糸工場(当初計画無し。甲斐女史の提案により当日朝決定。マイカー4台に分乗、私は参加しなかったが、参加者は世界遺産で話題沸騰の思わぬ観光ができ非常によかったはずだ)
 クラス会参加者方面別
    東京 8      7
    大阪 2      1
    新潟 4      1
    佐渡 3      3
 (備考))のものにつかまての
  総員54人、黄泉の人7人・連絡とれず5人、案内通知42人、返信あり36人、出席17人
 会場集合時刻は16時00分。
 行程 新潟市役所前(高速バス)10時20分→高田駅→(電車)→上越妙高駅→(送迎バス)→宿泊ホテル14時30分頃着。その後の送迎が16時30分着のため仲間も同じバスに5〜6人乗り合わせた
(2)今度の監事
 ホテルに着いてロビーでくつろいでいると 監事は明日のことで業者と交渉しているということを耳にした。おやっと思った。ツアーは、最低21人参加が条件。7月初めクラス会申込者の数を参考まで主監事以外に電話で聞いたところ17人とのこと(会の案内には「あ問合せは自分は忙しから他の2人の女子にしてね」とあった。多忙は多分7月の参院選。まさか東京都知事選にまでは及んでいないと思う)。その出席者数ではツアー8おは無いと思っていた。なお、私はツアーには不参加であったからどうでもよかったが、多少気になった。翌日しかも日曜日実施というのにまだ決まっていない。
 私は、仲間とともに早々に温泉に入り、部屋でビールを飲んだりしていた。
 18時00分宴会。恒例のように各自の近況報告から始まり、向かい・隣同士さしつさされつの歓談で盛り上がった。
 宴たけなわのとき突然監事が、みんなの見える位置に立って大きな声で、「皆さん お知らせがあります。聞いてください」どうやら業者との交渉が決着したらしい。
 結論は、明日のツアーは計画とおり実施。但し、コースの一部カットのうえツアー料金の多少アップがあることを了承願いたいこと。全員異義なし。
 今回のクラス会費(以下、若干記憶違いの可能性あり)は、概ね宿泊費(飲食含む)14,000円・ツアー費8,000円の合計22,000円から成り、ツアーに参加しなからその分料金はh(安くて済むことにはなってなl。このい。私はツアーに参加しないが、監事に必要費用は上乗tせして決して自分が損しないよう言ったものだ。
 翌日チェックアウト前に精算。ツアー参加者は+2,000円の24,000円、不参加者は−4,000円の18,000円。見事ズバリの費用計算。また、最低定員未達とはいえ通常の旅行業界でいう団体人員15人はクリア。
 女史が旅行業の実務に精通していることは何となく知っていたが、今回は集団目標達成への執念と交渉力、予算統制力、総じてリーダー力に敬意。関西居住者で帰りまたま別件で近県に来ている奥さんと上越妙高駅で14時半過ぎ待ち合わせることになっており、予定通りの半日ツアー実施で6時間7bpも妙高で独りで過ごすこともなくなり助かったという友がいた。
(3)古稀(70歳)世代
 親は生きていてば90歳以上、子は35〜45歳の壮年で家・家業を支える主、一方自らは隠居(戦前までは50歳)し孫の世話をする世代。
1)老齢化・弱体化
 a、A子君は近年道路を歩いていて足を踏み外し、腰の骨がボ4ロボロになる大怪我をした話を聞いた。老化すれば骨同士はくっつかず、コンクリートのなもので固める処置をして、杖の助けで歩いているらしい。「油断1秒怪我一生」を自身の体験から話をした。(なお、それにも拘わらず)
 私自身ここ5年前から足の骨が脆くなったことを痛感。バスから飛び降りれない。視力が鈍り目の前の遠近・高を咄嗟に判断できず、ものに掴まってしなしな行動することが多くなった。
2)当たり前の話だが年を取るといろいろな病気にかかる。B君は、最近視界が異常になったり、平衡感覚がおかしくなったりしたという。それぞれ医師に診察してもらういずれも簡単な処置で治り、医師いうには年取れば誰でもなると言われたいう。
 私も数年前に今までなかった帯状発疹という病気にかかった。その時医師から60歳以上になると出る1回限りの病気と聞いた。また、この8月下旬と9月初め大腸ガンの検査を受けたところ結腸ガンと直腸ガン2ヵ所発見と診断、9月23日新潟県立ガンセンターに入院、26日手術、そして10月20日時点入院・療養中。今まで病気らしい病気はなかったが、この年になって生まれて初めて大病。4〜50代でなく、また手術できない程の高血圧(1年前何かの機会に血圧を測ってもらったところ152で高いと言われた)や心臓疾患(この度不整脈があることで後日再度心電図をとった)やガンの転移は今のところ見られないということで運がよいと内心思った。
3)C子君は、10年以上毎月首都圏から佐渡へ帰っているという。家に畑があるのでそれを看るためであるが、90歳を過ぎた母親が独りで元気でいるので安否確認が第一。ついでに春・夏・秋の自家用野菜を作っている。1ヶ月も畑を放置すれば、直ぐ雑草に覆われるから草刈機を使っての草刈りが佐渡へ帰った時の重要仕事。佐渡への1回当たり滞在日数は1週間くらいというから半端ではない。本人の話ぶりからは、四季折々の野菜作りは、健康的で結構楽しいようだ。心配のは、母親が元気なのはよいが、万一自分の方が先に逝った場合のことを考えるとである。
 親の健康確認・見舞のための首都圏からの毎月の帰省ではD子君の場合、還暦以前からであろうが父と母について20年以上も続けていたようだ。
4)島外に居住している佐渡人の共通する問題・課題
 a空き家になっている家をどうするか。そのままにしておくと、漏電による火事や水漏れや家屋の倒壊など近隣に迷惑を及ぼす。
 b空き地(田畑・山林を含む)をどうするか。特に田畑の耕作放棄地は、環境破壊につながり、元に戻すには相当の年月と労力を要す。
 cお墓は、自分の代までは歩けるうちはお盆などに帰ってお墓の世話をするとして、果たして子が管理できるか。E君は、お盆と正月には欠かさず帰省しているが、同じように島外に所帯を持つ子が佐渡のお墓の面倒を引き継ぐとは期待していない。
 d長男次男のいる家で兄が島外の人となり、弟が島に残って親の面倒を見てきた場合が多く財産相続の問題は、解決が容易でない。次男であるF君の話を聞くと、どう考えても親の相続人は当人のはずなのに80歳になる兄が頑として判子を押さない。もっとも高齢者は財産についいえ自分で判断はできず、その子夫婦や取り巻きの親類の意見に左右されるのもやむを得ない。この種の問題はどこにもある。
 e最終的には所有権は、国や自治体に入るが民間への払い下げは必要。活用には行政・事業家・地域住民が知恵を出し合いより良い方向へもっていくべき。
5)次回のクラス会をどうするかについて意見なし。
 いつもであれば、会の終了前に次回についての相談あるのだが、今回は提起する者、もろ手をあげる者はいなかった。
 皆古稀を迎えくたびれを暗黙のうちに感じ避けたような不思議な光景であった。但し、そのまま自然消滅するクラスであるまい。これからも起案者・協力者が現れるはすだ。
 
2関山の光景
 ホテルからの送迎バスが、関山駅近くまで通る便に便乗。
 関山といっても特に佐渡と関係する土地でもなかったー高田でも関川でも新井(昔は荒井か)でもよいーが、ホテルから一番近いとこにあって駅もあって帰りに便利、信州長野に信州への道路も他と比べはっきりしているだろう想定から関山を標的とした。
 送迎バスは妙高高原から下って南北に走る幹線道路を左折し跨線橋を渡ったところで関山駅が近くにあるというので一人だけ下車。
 街道らしきものを記憶に残すため戻った。ちょうど、関山支所の建物があった。
(1)妙高市関山支所(旧妙高村役場)前
DSC09560
1)昔の信州への往還道らしい感じがしないわけではない。史跡を訪ねての楽しみというのはこんなものだろう。想像の世界。
 a写真の道をまっすぐ進めば信州に入り、そこから江戸への街道につながる。佐渡奉行帰府の道、金を江戸へ運んだ道、木食上人が佐渡での修行を終え信州信濃へ向かった道。
 なお、写真・支所の向かいの広いわき道をずっと上っていったところが、宿泊した妙高リゾート。
 b写真と反対向きの道路に架かる陸橋の下に2車線の線路が走っている。高崎から長野経由直江津への信越本線で、高崎(上州)ー新潟(越後)の上越線より早くできた(新潟県と群馬県の間の清水トンネルは、建設開始1922年(大正11))、開通1931年(昭和6)。その時までの新潟と東京を結ぶ鉄道は、信越線と1914年開業の磐越西線で、いずれもと遠回りであった。
 1899年(明治32)当時超人気作家・尾崎紅葉が佐渡へ7〜8月滞在したとき、東京から高崎・長野を経由し途中赤倉で泊まり、そして直江津→新潟への列車に乗った。その時関山駅を通過したことは確か(後述参照)。(参考 尾崎紅葉『煙霞療養』、06年10月18日号「尾崎紅葉と佐渡(1)佐渡行き決心」)
 線路の位置は、その後拡幅複線化工事が行われたであろうが、紅葉の通った当時とは大きく変わらないだろう。
2)関山は妙高村関山で、2005年同村と妙高高原町が新井市に編入・合併、同時に妙高市と改称された。
(2)関山駅
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1)一見喫茶店のようなハイカラな建物で、これが田舎の駅とは到底思われなかった。以前の固くて厳めしい日本国有鉄道時代の官有駅舎とは、センスが違う。なお、関山駅は1886年(明治19)の開業で非常に古く、歴史のある駅。
 a「関山駅駅舎サロン」「関山駅舎画廊」の名称で、地元作家のちぎり絵・水彩画・墨彩画などが展示され、まさにユトリ・教養・文化を感じさせる駅舎。1階喫茶室、2階画廊となっているようだが、電車時刻の関係で覗いてなかったのは残念。
 bまた、しゃれた駅舎であるのは、当駅はスキー場で若者が多く集まり、温泉など行楽地として全国的に有名であるからでもあろう。
2)沿革
1886年(明治19)直江津ー関山線開業(直江津・高田・新井・関山駅開業)
1888年(明治21)関山駅ー長野駅間延伸開業
2015年東日本旅客鉄道(JR東日本)信越線駅であったが、北陸新幹線長野駅・金沢駅間延伸開業に際し、並行在来線として経営分離され、えちごトキめき鉄道(株)へ移管。
  参考 トキめき鉄道「妙高はね馬ライン」発着駅
 直江津ー春日山ー高田ー南高田ー上越妙高ー北新井ー新井ー二本木ー関山ー妙高高原

2歴史スポット
(1)関山神社(資料「新潟県・歴史・観光・見所」HP)
a、妙高山は、古くから自然崇拝の霊山として信仰された。706年(和銅元)裸行上人が、妙高山の信仰を広げるため関山神社を創建。さらに大同年間(806〜810)に弘法大師が当地を訪れ、社殿造営と境内の整備が行われたと伝えられている。
 参考『妙高山』標高2,454m、北信五岳の最高峰。成層火山(同じ火口から複数回の噴火によって熔岩が重なってできた火山)。日本百名山、妙高戸隠連峰国立公園に属す。朝ホテルの部屋からその偉容さが身近に見られた。成る程後日知ったのであるが霊山と思わせる雰囲気があった。山の頂上に近い所にスキー場の宿泊施設、リフトが見えた。直江津から長野行きの電車窓や長野県中野市のリンゴ畑から見たものとはそれぞれ姿・形が異なる。
b、早くから神仏習合し、「妙高山関山三社権現」「関山権現」などと称し、別当寺院として関山宝蔵院が
祭祀を司り、極めて仏教色の強い神社であった。
c、戦国時代上杉謙信の戦勝祈念の帰依の篤さによって社は最盛期をむかえ、七堂伽藍70余坊を抱えるほど繁栄、越後第一の霊地とされた。 
d、1578年(天正6)上杉謙信の死去後、景勝と影虎両養子による家督争いによる上杉家の弱体化や織田信長の家臣の越後侵入攻撃による堂宇焼失により社は衰退。
e江戸時代東叡山天海の弟子大僧侶都俊海(謙信の弟)が再興し、幕府から100石の社領を安堵され再び隆盛した。
f、明治初頭の神仏分離令により別当の宝蔵院は廃寺、仏式も廃され社号を関山神社と改称。
 1873年(明治6)村社、1931年(昭和6)県社。
g、社の主要文化財
 ア、銅造菩薩立像(朝鮮三国時代7世紀)国指定重要文化財
 イ、銅造阿弥陀如来立像(鎌倉末期)県指定文化財
 ウ、関山石仏群(35馬区。平安後期)   〃
(2)佐渡奉行帰府道

(3)




 

佐渡の風景135:多田

 こんにちは!自在業の櫻井です。
5月23日(月)最終訪問地は多田(おおた)。当地についてはこれまで松前まつり、丸山の棚田、海洋深層水工場の見学の際に訪れ 触れてはいたがテーマにしたことはなかった。
 (07年5月11日号「佐渡の風景12:松ヶ崎街道」、09年5月3日号「佐渡の風景54:棚田(8)丸山」、11年5月16日号「事業・産業42:海洋深層水製造業」)
 今回は、テーマにするつもりでいた。
 ただ、帰りは乗用車利用のため14:00多田漁港で待ち合わせに間に合わせなければならないが、松ヶ崎の「おけやき」から向かったのは13:20頃で ゆっくりできる時間はない。歩きながらこれはと思う所を写真に撮るだけ。
 記述については、『畑野町史 松ヶ崎編』をベースに、歴史だけでなく現代の特記事項を加え、肝心な事柄は漏らすことなく簡潔に仕上げるつもりである。
  なお、最近の多田・松ヶ崎の人口・世帯数は次のとおり。
     人口・世帯数(3月末住民基本台帳)
             2009 2016
      人口   : 128  105
多 田 :世帯数  :   48   45
     1世帯(人):2.67  2.33
      人口   : 121  104
松ケ崎:世帯数  :  59    50
     1世帯(人):2.05  2.08

1.光景
〜ソ錨港に関係する建物
1)多田の街へ入って目立つ建物が今は空き家になっている船宿。

DSC09552DSC09553
  船宿は、単なる宿屋でなく、航海や出漁に必要な漁具・食糧を世話したり、積荷を地元商人にあっせんしたり、倉庫を持って保管したり、生産状況や商品相場の情報を提供したり、文書を預かったり、港番所に代わって税金を徴収したり等の機能がある。
 (具体例、09年3月19日号「歴史スポット51:廻船の航海と商い」(『海陸道順達日記』)参照 )
2)今は新潟ー小木航路はなくなったが、当時の佐渡汽船(株)多田代理店の木造建物があり、「佐渡汽船」の看板が今でも残っている。(画像は、『松ヶ崎編』からの転載)
多田駅
 a.佐渡汽船が多田に寄港したのは、1939年(昭和14)5月新潟ー(多田〜赤泊〜大石)−小木航路を開始したとき(大石、赤泊も同じ)。第八佐渡丸が片道航海(往と復とが1日置き)した。
 b.1979年(昭和54)10月定期航路打ち切り。
 c.最後の船は、1969年からのカーフェリー「さど丸」650トン。
街並み
DSC09558
1)初めて多田の街を見た感想を次に記している。(07年5月『松ヶ崎街道』)
 「昔の廻船問屋の大きな船宿と倉庫の建物が残っている。また、直角でない道路の状況に合わせるような形状の建物があった」
2)家の形状は普通長方形であるが街路と河内川との関係で敷地の変形に応じ台形になったり、角がいくつもある造りの建物が見られる。
3)一方、「甲信越の街並」サイトには、「古い料理屋・旅館の建物が連なる町並」として多田を評価。根拠は、江戸期には松ヶ崎と共に松前稼をする者が多かったこと、明治初年以後松ヶ崎番所に代わり港改所や通商会所が多田に置かれ旧松ヶ崎四ヶ村の中心となったこと、大正期に味噌・酒の醸造業や船宿から転じた料理屋が栄えたことを挙げている。そして、「どうしてこのような旅館や料理屋の建物ばかりが連なって残ったのかは不思議と思える町並である。是非このまま保存したい町並と思う」とある。
B薪諜港
DSC09555DSC09554
1)対岸の越後の山々は煙っていて見えず。多田漁港の白い防波堤灯台(塔高5m、灯高8m、初点灯1995年(平成7))が微かに見えた。漁船の船揚げ場は、上の右画像に見える港内突堤の奥にある防波堤に囲まれた所にある。
2)新潟県HP:「多田漁港(第1種 佐渡市管理)。
 多田漁港      

 (平成17年11月撮影:転載写真)
「漁村の歴史」より
 a.多田(おおだ)は松ヶ崎湊の補助湊の関係にあった湊(みなと)町と農村部の黒根(くろね)からなる。永享6年(1434)流罪となった世阿弥の「金島集」に「大田のうら」とみえる。
 b.元禄7年(1694)の検地帳では田畑屋敷21町8反余のうち、田は10町8反余、屋敷持は68人。屋敷地の地字に上町、改町、下町、片町がみられる。
 c.「佐州巡村記」に戸口78軒、328人。丸山(まるやま)村・河内村との組合郷蔵がある。天保9年(1838)の村書上帳に漁船28艘、廻船6艘。「佐渡四民風俗」に松ヶ崎村が「浪荒き節は多田村にも船掛り仕候(中略)此辺松前へ稼に参り候もの多く、秋頃帰国の節は、松前物数品売買致し候」とあり、松ヶ崎湊ともに松前稼をする者が多かった。寛政6年(1794)5月に45軒を焼く火災があった。
 d.明治初年以後松ヶ崎番所が廃され、それに代わる港改所や通商会所などが置かれ、旧松ヶ崎四ヶ村の中心となった。大正期には味噌・醤油の醸造業や船宿から転じた料理屋が栄えた。
   (出典:新潟県の地名 平凡社刊)

2.歴史スポット
‖薪直
 1)多田本間家の初代に関する史料は、多田にある菩提寺の曹洞宗崇運寺に月牌〔がっぱい:位牌〕にみえる。
      月牌
 開基 多田城主 本間信濃守 大籏院殿転翁崇運大居士 寛正4年〔1463〕3月3日
 なお、『上杉年譜』〔おそらくは、延宝2年(1674)に着手した『上杉家御年譜』のこと〕天正5年〔1577〕の条に、上杉勢に降伏した佐渡の地頭たちの名を連ねており、その中に「大田城に 本間但馬守秀氏」の名があるという。
 2)「城跡は、多田港の海岸から300mはなれた山頂(標高100m)にある。南北に100m・東西に200mほどの舌状突出部を利用して城はつくられている。城ノ腰の地名をもつ3つの郭〔くるわ:城の囲い〕のうち中央の本丸を中心として、その北西側に土塁があり、井戸址をのこす郭が二の丸、その南側乃本城という地名のところが三の丸である」
   《参考》「多田」と「大田」
 能の大成者世阿弥の『金島書』の中に、次の文がある。(日本の思想8「世阿弥集」(発行:筑摩書房)の中の『金島書』(校訂・訳・注:小西甚一)より)
  「永享6年〔1434〕5月4日都を出で、次の日若州小浜〔福井県小浜市〕と云ふ泊〔とまり:港〕に着きぬ。・・・・ここはと問へば佐渡の海、多田の浦に着きにけり」【注には 多田の浦は低本「大田の浦」とある。底本〔ていほん」とある。底本は原本のこと)
 3)佐渡の本間家の惣領格・雑太本間家信濃守の菩提寺が「大運寺」、羽茂本間家が「大蓮寺」で、多田本間家は「崇運寺」であることから「雑太への指向が感じとられ」、「一国の公津(こうしん:松ヶ崎〔城あり〕、補助としての多田〔城あり〕〕を領下におくこと」、松ヶ崎街道を抑える意味で「河内や丸山の城との関連も生じてくる」
■隠沓毅闇代(宝暦期)の多田村の概要(佐州巡村記)
 「多田村 家数78軒・人数328人
 一、高254石2斗7升6合 此反別22町4反2畝19歩 内
  田高177石4斗7升3合 此反別10町7反5畝10歩〔1軒当り1.38反〕
  畑高76石4斗3合     此反別11町6反3畝歩   〔 〃  1.49反〕
  取米84石4斗8升5合 内:田73石3斗3升2合・畑11石1斗5升3合
   百姓林 49」ヶ所
  諏訪大明神 禅宗崇運寺 真言宗弥勒院 真言宗地蔵院
 一、本間信濃守古城後アリ
 一、郷蔵アリ
 一、御年貢米ハ海上5里相廻大石御蔵納
 一、秣場〔まぐさば〕壱ヶ所
 一、用水ハ多田川の水を引 」
    《参考》松ヶ崎地区4ヶ村別1軒当り田畑面積(単位:反)
      (1750年代「佐州巡村記」)
       松ヶ崎  多田  河内  丸山
    田    :  0.99    1.38     3.79    5.70
 面積(反);  151     108       178      228
    畑      :  0.97    1.49     1.87    2.58
 面積(反):  147     116          88      103
     合   計 : 1.96     2.87   5.66     8.28
 面積(反):   298     224       266       331
 家数(軒):   152    78      47         40
 人数(人):   681     328    268       263
    【1軒当たり田畑面積計は、丸山、河内、多田、松ヶ崎の順に多く、多田は丸山の35%、松ヶ崎は同じく24%の水準。なお、視点は異なるが押さえるどころとして人口は多田は松ヶ崎の45%がある。その0・45といういわば係数は、多田の特徴をつかむのに使える】
3い鮖餮擦箸靴浸業(松前稼ぎ、廻船・地廻り船、港湾荷役、船宿)
 多田は、「1軒当り田畑面積」に見るとおり 田が1.38反。概ね1.38石の米(大人が生きるに必要な米は年間1石)しかとれず(年貢率45%として0.76石)、家族はおろか一人でも生活できない試算となる(松ヶ崎の場合もっとひどい)。
1)松前稼ぎ
 a.前号に触れたが、『佐渡四民風俗』松ヶ崎の項に、「此辺松前へ稼に参り候もの多く、秋頃帰国の節は松前物数品売買致し候」とある。
 b.1819年(文政2)割当て数は、多田は30人と佐渡で松ヶ崎の49人に次いで多い。
 【これを松ヶ崎との人口比45%では49×0.45=22人で実際は430人。多田がいかに松前稼ぎに出る人の割合が多いかを判定できる】
  c.多田・河内・丸山の例
  松ケ崎から50人前後に対し、多田村30人・河内村3人・丸山村2人が定員。
  ァ.明治初年の多田村戸籍簿に松前行荒物と書かれているのが河口庄治郎と佐藤甚八と本間林蔵の3人、明治末頃市山家の明治郎が岩内に店をもち、昭和の初めまで荒物や味噌の商いをしていた。本間孫七の弟・初太郎が、函館の青木長三郎家先々代の娘の婿養子となり、荒物から漁場の仕事まで手広く営んでいた。その後大阪に移住。
  ィ.河内では、計良久仁松の弟・幸太郎が余市で呉服店を、坂野弥五平の梅吉の弟・寅松と浅次が昭和の初め小樽へ行き、戦争で引き揚げてきた。また「橋本家(現在松ヶ崎)」も旭川から引き揚げた。
  ゥ.丸山では、計良甚四郎の弟・松蔵が、明治半ばに函館カネトの番頭となり、その後独立してカネトイチ家を興し成功している。また、計良甚六家の弟が余市でひとはた挙げ、その親戚の稲葉三十郎家の長太郎の兄梅吉や相嘉孫十郎家などからも小樽に移住する者があった。
2)廻船
 a.廻船の草分けは松ヶ崎の菊池喜兵衛で「廻船数十艘所持し」と『佐渡四民風俗』にあるから 無論多田もその恩恵に預かっていることに相違ない。
 b.廻船についてのデータ(『松ヶ崎編』)
 ァ.1838年(天保9)松ヶ崎村8艘 多田村6艘。「これは宿根木村の7艘をこえて島内ではいちばんの船数であった。(『一国騒動書上帳』)その中には木嶋弥惣治持ちの7人乗り弁財船徳米丸(404石積)と勝谷茂左衛門持ちの7人乗り弁財船(453石)などが含まれていた」
 ィ.1846年(弘化4)
   松ヶ崎村4艘:450石・610石・310石・240石積廻船
   多田村4艘:560石・540石2艘・510石積廻船
   (注)「これは御城米を大阪へ廻米するに当って、奉行所が募ったのに応じた者だけの分で、両村の船のすべてではない」
 ゥ.1870年(明治3)の役場(改所)の記録による廻船
 (「廻船」とあるが、一般には廻船は100石以上で、それ未満は遠距離航海は無理で、短距離小量輸送に向く地廻り船・小回り船もある)
   松ヶ崎村6家8艘:渡部太平(大西家)201石・同180石・同101石・幡豆利平(利平)50石・板谷三五郎(三五郎)65石・金田多三郎(カネタ)145石・渡部吉治郎(ヤマ吉)101石・本間吉太郎(マル本)140石積船
   多田村4家6艘:寺島三平(三右衛門)2艘合わせて408石・本間孫七2艘合わせて378石・本間七十郎235石・平野源五郎71石積船
 ェ.1882年(明治15)の船の持ち主と船
   松ヶ崎村3家6艘:大西家4艘・宮本八三郎(八右衛門家)1艘・勝谷松蔵(長蔵家)1艘
   多田村4家6艘:仙田幸吉(小左衛門家)1艘・菊池忠吉(浜ノ内家1艘・本間七十郎(ヤマ七)2艘・寺島棟蔵2艘
  【人口比では、多田の方が松ヶ崎よりも 船の持ち主数・船数が多い。明治に入り絶対数においても多田が優位に立った。】
3)地廻り船・押切船
 a地廻り船
 ァ.特定地域内の漁港との取引を行うことを業とする船で、例えば多田や松ヶ崎で北前船から買い取った商品を国仲や相川に向けるため沢根や真野に運ぶもので、100石以下の中型船や50石前後の小型船が小回り性を発揮。
 ィ.中継ぎをして市場に運ぶことを積み回しと言い、例えば上方からの積み荷を多田港で一旦降ろし越後へ運ぶなど。
 ゥ.乗組員は、ほとんどの船は船頭ほか1人で、まれに3人以上のことがある。またときには乗客を乗せたりもする。
 b.押切船(おしきりせん。押渡船)
 ァ.文政10年(1827)旅客専用の押切船が赤泊ー寺泊間に導入(後に多田ー寺泊間にもあったとされる)、明治初期まで越後佐渡往来の便としてあった。
 ィ.押切船は、漁船の倍くらいの帆掛け船で「押切り早船」と呼ばれるほど早かった。櫓〔ろ〕の数を増やし〔4挺立〕、多少の逆風や無風のときは櫓で押し渡った。
 ゥ.『佐渡四民風俗』追加(1840年)の赤泊村の項:「当国より越後へ渡海いたし候旅人は、重(おも:主)に小木湊え出津いたし来候処、文政の頃より此所に押渡り船出来、寺泊へ手早く渡海いたし、殊に小木と違い在方〔田舎〕風にて雑費も薄く候間、近年重に此所へ旅人出候様に相成申候。但し押渡船の儀春夏平波の節風筋に不構押渡り候までにて、秋冬風波の節は渡海致し得不申候間、不時の御用等のは埒〔らち〕明不申候」
 ェ.新潟県立図書館デジタルライブラリー:「この年〔1827年〕から押渡船(押切船),佐渡赤泊と三島郡寺泊間に就航小木港打撃を受ける
4)港湾荷役は、「他国船往来の節商物の積出し、渡世仕候儀は外入津の場所同様に御座候」(『佐渡四民風俗』)に見える。
5)船宿
 a松ヶ崎には江戸時代中頃から井戸端こと菊地藤三郎が本陣宿(奉行の旅籠)をやり他に林助左衛門と木嶋七左衛門もやったことがあるが、多田には同じ頃船宿が7軒あった。
 b.多田には江戸時代中頃「船宿が7軒あったことになっている。そのうち斎藤八十八・堀野六三郎・牧野重蔵・金子伝蔵は確認できるが、他の3軒は不明」〔多後背地は小佐渡山脈、海岸線は山の斜面で平野は少ないため物資の輸送は船に頼らざる得ず、船問屋としての発展に至らなかった〕
 c.「多田の船宿では、飯盛りという接客婦をおいて、船頭や水手を慰める小木港などの営業法をとりいれた。小木港の色町開拓から女性を集めた。この種の慰安所的船宿や料亭は、のちに廻船がとだえてもなおしばらくは、島内の遊び客を多田に誘致することでつづいた」。
は汰イら汽船への時代
1)明治8年3月相川県参事(知事)鈴木重嶺(最後の佐渡奉行)と同参事磯部最信の名義による触れ書が出された(松ヶ崎支所の記録)。
「大蔵省所管の蒸気船9艘を、三菱会社へ委託の上、貢米運漕の余暇に僻遠の海路往返の便も追々御取り開き相成るべく、差し向き東京・箱根の間、長崎・下ノ関通り開運は、三 通り回漕は両様に致し、運航は当分1ヶ月壱度宛往返の積り、大蔵省より達し之有り、然る処当管下夷港・小木・二見の3港は汽船繋泊積荷便宜の港に付き、商売之輩、蒸気船へ売荷積入れ又は旅客乗組候も、銘々勝手次第許し候条其段兼て相心得、汽船投碇次第時間をたがわず運輸致すべく、尤も運漕費其他来航期限等は追て布達に及ぶべく候」
2)佐渡で初めの民営汽船は60トン級蒸気船「高田丸」で、明治13年多田ー寺泊を就航。
 《参考》
 a.明治11年(1878)年5月パリ外国宣教会のフランス人宣教師ドルワール・ド・レゼー神父が新潟から佐渡へ渡ったのは、寺泊ー赤泊間を行き来していた押切船。赤泊からは陸路両津夷へ行き 住まいを見つけ活動拠点とした(夷は1858年五か国条約で新潟が開港(夷が補助港という条件付き)したことで外国人居留許可地となった)。
 b.高田丸
 ァ.高田丸は、機械・兵器・船舶を取り扱う高田商会と関連。同社は明治から大正にかけ三井物産・大倉商会と並ぶ貿易商社で 創業者は相川出身の高田慎蔵。なお、三井物産の創業者益田孝も相川出身。
 明治の頃前浜地域の盆踊りに、「船は 器械は高田 どうせ乗るなら高田丸」と唄われたという。〔占魁丸(せんかいまる)は赤泊ー寺泊間を就航した48トンの小蒸気船)。明治19年飛島で沈没。
 ィ.高田商会は大正末に経営破綻したが、支援のグループや法人が現れ、経営主体は異なるが現在も機械専門商社として「高田商会」の看板は存続。
 (11年3月29日「事業産業40:総合商社(続き3)」、16年1月26日号「係わりの地83:東京(丸の内界隈)」
 ゥ.越佐丸
  高田丸に替わり多田ー寺泊専用船として明治19年進水。出資者は、多田の本間六十郎・寺島棟吉と寺泊の折敷正当の3人。だが、航海記録はなく新潟を中心にした夷・直江津との往復が主。
 ェ.前佐渡丸 98トン木造船と前佐渡汽船(株)
 顱1922年(大正11)多田に3艘目の汽船の建造を計画。堀越玉作(甚四郎家)が起案、寺島栄吉が賛同。
  a)計画は、前佐渡全域を対象にした小木ー赤泊ー多田ー新潟の隔日定期航路。まず100トン級の快速船をつくり、さらに大型船を建造し沢根ー北海道間運航、そして当時、流行の山形善宝寺詣りや新潟白山祭・住吉祭へのチャーター船としての利用。
  b)株式会社設立の形で進められ、寺島三右衛門宅に創立事務所がおかれた。1株50円、資本金3万円。
  主な発起人と出資額:葛西肇(羽茂本郷)135株、田辺政次(赤泊)95株、山田兼三郎(新潟市)95株、堀越玉作(多田)75株、寺島栄吉(多田)55株、山田新三郎(大阪市)55株、吉井次郎吉(新潟市)20株、松沢鎌蔵(赤泊)20株。その後2人(赤泊)、1人(河内)、1人(松ヶ崎)、2人(丸山)、4人(多田)と出資者が増え18名となった
 髻法1923年〔大正12〕前佐渡汽船株式会社が設立。本土に近い前佐渡(佐渡島南部)を中心に新規航路を開設、先発2社に対抗。同社は1927年「越佐商船」と改称」(ウィキペディア「佐渡汽船」)。
    《参考》先発2社(ウィキペディア)
  a)1885年(明治18)5月 佐渡・本土側双方の資本により「越佐汽船会社」創立。1893年法人成りし「越佐汽船株式会社」設立。本社は当初は両津。同年7月新潟-夷間に新造船「度津丸」による航路開設。早くから新潟本土側資本が多数派となり、本社は新潟に移転。1918年〔大正7〕社名を「新潟汽船(株)」に改称。佐渡や新潟周辺における小規模個人経営の海運業者と競合しつつ、それらを合併するなどで経営を拡大。
  b)1913年2月3日佐渡島側資本の糾合により「佐渡商船株式会社」が創立。登記上における現・佐渡汽船の前身である直系企業。本土側資本である新潟汽船(株)と競合を展開。

  c)1932年4月  佐渡商船株式会社は、新潟汽船株式会社、越佐商船株式会社の両社を買収して合併。商号を「佐渡汽船株式会社」に改称。越佐航路の競争激化による共倒れを防ぐため新潟県の介入・持ち株50%による企業統合・再編であった。
  (参考は、以上)
 鵝鳳超箸六呂瓩凌年間は比較的順調。だが、「昭和2年会社が法規に触れる事件を起し、窮状に陥った。・・・ライバルの佐渡商船が赤泊航路で赤字を出したため、県と国庫の補助金を打ち切られ、その分が大正15年から前佐渡汽船会社に振り向けられる〔県の補助金年額2,000円、国はその倍額支給〕という幸運」も、昭和5年11月前佐渡丸は小木港で難破、同じく会社も閉鎖。

3)佐渡汽船時代の多田港
 a.佐渡汽船の前身は佐渡商船(株)で、大正2年〔1914〕越佐航路を独占していた越佐汽船(株)(明治18年創立)に対抗して創立し、初代社長は土屋六右衛門(佐渡銀行頭取。後に両津町長)。昭和7年両社が統合し、佐渡汽船(株)と改称。
 b.昭和14年〔1939〕4月:多田の林寅蔵と代理店契約を結ぶ。(以下資料は、『佐渡汽船100年史』(2015年刊))
  同年5月新潟ー小木間航路開始。
    往航:小木→大石→赤泊→多田→新潟
    復航:新潟→多田→赤泊→大石→小木
  同年12月現在
 船 舶         航 路         備 考
おけさ丸  :両津―新潟
第二佐渡丸:小木ー赤泊、小木ー新潟
第八佐渡丸:両津ー新潟、小木ー新潟 231トン・11.5ノット、T12〜S29年1月
みゆき丸  :両津ー新潟、沿岸各港  〔66トン余の機帆船。前浜各港運航〕
ゑびす丸  :   〃   、   〃
 他に、自動艇1、艀4、通線1
 c.昭和22年〔1947〕9月:新潟ー小木間航路の寄港地に岩首村豊岡を実施。
 d.昭和44年〔1969〕新潟ー小木航路にカーフェリーさど丸(578トン、12.1ノット、定員573名)就航。
 e.昭和48年〔1973〕新潟ー赤泊ー寺泊間の定期航路事業の免許を受ける。
  f.昭和54年〔1979〕新潟ー小木間航路中止
 g.昭和64年〔1989〕1月新潟ー赤泊ー寺泊航路のうち、新潟ー赤泊の航路を休止し、寺泊ー赤泊間を通年運航とする。
 【現在の佐渡ー新潟間の定期航路は、新潟ー両津、直江津ー小木、寺泊ー赤泊の3航路。内、カーフェリーは、新潟ー両津、直江津ー小木の2航路】、
ッ楼莇修
1)イベント
 a.「いこいの村まつり」
 ァ.1978年6月公的な保養・宿泊施設「いこいの村・佐渡」が多田にオープン。同時に地域活性化の一つとして地元住民による実行委員会が主体となって始めた。
 ィ.しかし、祭のきっかけとなったその施設は経営難のため民営に代わり、それでも業績回復できず休業そして閉館となった。
 ゥ.だが、祭まで無くなったわけでない。今年も祭が多田漁港を会場に開催された。
    第39回いこいの村まつり:2016年8月14日(日曜日)15時30分〜21時
 顱傍澗生檗大獅子、佐渡民謡、歌謡ショー、薪能、花火が披露。
 髻貌檀すべきは日本で他に無く、当然世界でも他に無いのが、多田漁港に浮かべた特設舞台で演じられる「海洋薪能」。
  a)これは、世阿弥が佐渡に流され多田に上陸した故事にちなんで企画されたもので、能の盛んな佐渡ならではの催し。
  b)「14日の祭りでは、島内愛好家でつくる「楽謡游舞の会」が「花月」を上演した。船の上に組み立てられた特設ステージに、地元の新成人3人がかがり火をともした。演者の姿が照らし出され、会場は幻想的な雰囲気に包まれた」「祭りの最後を締めくくる花火大会では、供養の気持ちを込め、長寿を願う約600発の花火が次々に打ち上げられ、夜空に大輪の花を咲かせた」(「新潟日報モア」サイト16.9.21)
  なお、「海洋薪能」の様子は、NHkテレビのローカルニュースに放映された。
 b.「まっさき食の陣」毎年2月開催 会場:多田漁港

 ァ.今年は2月14日(日曜日)10時〜14時で、14回目。「手作りイベントの温かみと安心感、毎年少しの変革でサプライズ」
 ィ.地元の芸能を見ながら、とれたて農産物や魚介類を使用した食材の味わいを楽しめるイベント。
 ゥ.内容:芸能・足湯・雪中宝探し、たら汁無料サービス〔但し、数量に限界〕、たらの刺身・キジそば・新鮮な魚介類・地場産品販売
 c.多田クリスマスナイトマーケット 
 ァ.内容:多田集落のクリスマスイルミネーションを楽しむスタンプラリー、軽食・手作り雑貨の販売など。
  〔松ヶ崎地区(多田も入る)イルミネーションは15年以上の歴史あり〕
 ィ.昨年
 顱貌程案内
   日時 2015年12月19日(土) 17:00〜19:00
    場所 佐渡市多田・多田橋
      ※駐車場は松ケ崎連絡所前、松ケ崎駐在所後ろ
      ※先着20名様に手作り記念品
 髻謀日の様子
  (「一年二時間だけの魔法 クリスマスマーケット」15.12.29「佐渡市地域おこし協力隊」ブログ)
  「多田でクリスマスナイトマーケットを行いました。好天気に恵まれて多くの方々が訪れました」「『まるで魔法かけられたよう』参加してくれた方々が口にする言葉でした」「マーケット開始早々飲食コーナで大行列を作っていました」「食べるのがもったいないぐらいかわいいシュトーレン」「子供の夢ークッキーで飾られたクリスマスツリー」「みなさん思い思いの雑貨を選んでいます」「クリスマスの夜に森へ紛れこんだ黒猫軍団」「子供たちからの呼び声が高い松ヶ崎にちなんだスタンプラリー、今年はボス猫『にゃめタロー多田冒険物語』です」「お客様から送られた一枚、マーケットでの戦利品。また来年が待ち遠しいですね」
〔一言ごとに付いている写真を照らし合わせて見ると、確かに別世界に来ている雰囲気でワクワク感を禁じ得ない〕
2)海洋深層水の関連工場
 地域振興のために誘致したというより、多田の立地が海洋深層水の生産に最も適していたということ、事業を継続し発展させるための参画企業の存在が大きい。
  多田にある次の2社については、訪問取材し記事にしている。
 (11年5月16日号「事業・産業42:海洋深層水製造業」、同年5月25日号「事業・産業43:製塩業(1)塩の歴史スポット」)
  ここでは、詳細割愛。
 a.新潟県佐渡海洋深層水(株)
  多田の沖合3.2km、水深332mの海底に敷設した取水管から海水を取り出す取水装置、砂・泥を取り除くろ過装置、紫外線殺菌装置を通って5種類の水(原水、脱塩水(淡水)、濃縮水(濃縮海水)、高塩水(塩水)、高ミネラル水(脱塩水))に分ける分水施設、そこからパイプラインで送られれて製品化するボトリング工場がある。
 b.佐渡海洋物産(株)
  同社は、ボトリング工場から少し上がった小高い山にあり、濃縮水や高塩水がトラックで運ばれる。海洋深層水(株)とは資本関係ないが、そこで生じた深層水の100%を仕入れて製塩している。

3.まとめ
〇業は人・物・金というが、立地が大きくものを言う。その立地は大きく自然と社会(特に法令と競合)があり、それぞれが変化する。
 1)松ヶ崎は、奈良時代国津に指定され佐渡における交通の要所として繁栄。本州・寺泊に近く、砂浜で海底が浅く、船底が平らな古代船に合っていた。但し弱点は、潮流が強く、またたびたび陸地が変化する。
 2)多田は、松ヶ崎の補助港としてあったが、船の大型化・操船技術の進歩とともに港としての利用は、多田に移っていった。一例に過ぎないが、鎌倉時代日蓮は松ヶ崎に上陸したが、室町時代世阿弥は多田に上陸した。
 3)赤泊は、江戸時代佐渡金山の発見によって佐渡が天領となり金の積出港である小木と共に注目され、佐渡奉行の渡来港となり、寺泊とは最も近い距離にあるとして相川へ至る赤泊街道(殿様道)も整備された。
  赤泊の場合、寺泊は近くても金の安全を含む輸送の面で 「相川→小木→出雲崎→(北国街道又は長岡→三国峠越え)→江戸のルートが選好された。
  なお、赤泊は江戸からは便利で、寺泊→赤泊が佐渡奉行の定番コース(帰府は、小木→出雲崎)となった。
 4)小木は、江戸時代対岸の出雲崎への金の積出港となったことが繁栄へのきっかけで、1672年(寛文10)大坂ー酒田(更には蝦夷松前)を結ぶ西回り航路の寄港地に指定され繁栄。但し、明治に入り和船から汽船、鉄道時代になると北前船の入港が減少し、佐渡の窓口機能は新潟の発展(鉄道による東京と直結)を共にする両津に取って代わった。
 5)佐渡と本州を結ぶ航路は、かって多田ー寺泊・出雲崎や新潟ー多田ー赤泊ー小木、赤泊ー柏崎の航路などいろいろ試み・挑戦されたが長続きせず、現在あるのは、新潟ー両津、寺泊ー赤泊、直江津ー小木の3航路。
多田に全国に他に無い「海洋薪能」があるのは、8年前頃「佐渡の能を識る会」会長 近藤氏からお聞きして知り、これは是非とも観るべきと勧められたことがあった。
 その時、「海辺で薪能が行われるのはおいとして、なぜ多田で?」と不思議に思ったものだが、ここへきてその意味というか意義が判った。世阿弥との関連は、とうに知ってはいてても、その認識・掘り下げが薄かったためと帰りの交通手段のこともあり それほど関心なかったようだ。
 今年は偶然その模様をテレビのニュースでみたこともあり、またブログで多田をテーマとしたことで関心が湧いてきた。
 以上

佐渡の風景134:松ヶ崎

 こんにちは!自在業の櫻井です。
 5月23日(月)岩首集落から松ヶ崎へ向かおうとした時サイレンが鳴った。すぐに11時30分の知らせと分かった。正午30分前を告げるのは農漁村の生活の知恵、12:00では遅い。
 松ヶ崎へは直近では09年4月に岩首から丸山の棚田を見るために訪れたというより通過した(09年5月3日号「佐渡の風景54:棚田(8)丸山」:但し、松ヶ崎街道の記述あり)、その前は07年5月4日の松前まつり見学に訪れた。
 松ヶ崎をはじめ前浜地区は、昨年8月頃当年中にはテーマにして書き込もうと思っていたが、内海府シリーズに予想以上に時間がかかり、それで時期的にもタイミングを失した(冬に行ったのでは描いている雰囲気と合わない)。11月になり松ヶ崎は翌年5月には取材と書き込み着手としていたものの5月には曲りなりにも訪問したが着手は9月にずれた。
 ところで松ヶ崎を取り上げたのは、ご先祖が佐渡の廻船業の草分けで名を成した松ヶ崎の菊池喜兵衛の末裔菊池あき子さん(イタリア・ミラノ在住、出身は愛媛県松山市)から昨年6月「佐渡広場」にコメントをいただいた事が大きい。
 (さらに8月に入って内海府「北松ヶ崎」をテーマに調べていたところ、慶長検地帳(1600年)に村役人の長として菊池清左衛門の名があり〔清左衛門の出身は肥後国〔熊本県〕菊池郡。故あって当地へ来て数十年 家門繁栄。弟は家を離れて松前や十三湊等に住み、松前では佐渡屋清左衛門と称し繁栄したという〕、松ヶ崎の菊池喜兵衛と関係あるかもしれないと思って喜兵衛についていろいろ調べまとめた。(15年8月11日号「佐渡の風景121「北松ヶ崎」))
 そのミラノから送信されたコメントの一部抜粋すると(ブログ・コメント欄に全文あり)、
 「本行寺にゆかりのある菊池喜兵衛の直系の子孫と聞いております。 祖父は生前、よく佐渡へお参りに愛媛県から出かけておりました」。「私は祖父の遺骨を本行寺に納骨しに、約二十年近く前に佐渡を訪れたことがあります。数日前、急にその時のことを懐かしく思い、初めて「佐渡」を検索してみたところ、こちらのサイトを見つけた次第です。これから楽しく読んで勉強させて頂きます! 」「2014年12月の記事に、次回のゼミ旅行は愛媛県に、とありましたが、この様な訳で、佐渡との関係は一応有るんです!」 「今年は、10月末までミラノ万博が開催されていますので、ご旅行を計画されるなら、ぜひうちへご滞在ください。 これから宜しくお願い申し上げます。2015-06-04 」
 あき子さんは気さくな感じでメール交換。同年8月松ヶ崎の本行寺でご先祖のお墓参りをした帰り新潟でご主人(イタリア人)ともお逢いし食事。『佐渡広場』を進呈。後日 無事イタリアへ戻った報告とお祖父さん(菊池九郎氏:『畑野町史松ヶ崎編』に本行寺での写真が掲載)が生前寄進された鐘が安置された祠(ほこら)風の建造物の前でご住職と並んで撮った写真がメールで送られてきた。
 この事自体話題性に富んでいるから、松ヶ崎を是非テーマにしようということで今回となった。
 (資料等:『畑野町史松ヶ崎編 萬都佐木』(1982(昭和57)年刊:以下『松ヶ崎編』)、『赤泊村史・上』(1982年(昭和57)刊、『同・下』(1989年(平成元)刊)、『佐渡四民風俗』(佐渡奉行所地役人高田備寛/著)、川辺聖謨/箸『島根のすさみー佐渡奉行在勤日記』(発行:平凡社、の校注:川田貞夫。以下『川路奉行日記』)、07年5月9日号「佐渡の祭13:松前まつり」、07年5月11日号「佐渡の風景12:松ヶ崎街道」、08年2月27日号「佐渡を記した人23:川路聖謨(7)佐渡巡見◆廖法

1.光景
々礇料禀
 (参考:「鼻」と「崎」は、場所の名前で海に向かって突き出ている陸の先端のことで意味の違いはない。なお、「鼻」は西日本に比較的多く使われるという。
 佐渡の場合、「鼻」は鴻ノ巣鼻(松ヶ崎)の外に、城ヶ鼻(野浦、米郷)、野崎鼻(赤岩)、沢崎鼻(沢崎)、潮掛鼻(高崎)、鉄砲鼻(西三川)、大須鼻(大須)、台ヶ鼻(二見)、大崎鼻(小川)、千本鼻(千本)の11ヶ所。そのうち南北では南の小佐渡7ヶ所・北の大佐渡4カ所、東西でば松ヶ崎は東として東3ヶ所・西8ヶ所
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1)鴻ノ巣鼻は、相当遠くからでも形を変えて見える。
 a.09年4月15日号「佐渡の風景48:棚田(2)赤玉」)両津から7:00前のバスに乗って赤玉で降りたのは、7:30頃。・・・赤玉から9km以上離れた松ヶ崎の鴻ノ瀬鼻灯台が見られるか、バス停から赤玉トンネルの前まで戻った。遠く霞んでいるが肉眼ではかすかながらも見ることができた。
松ヶ崎の灯台は、幼い頃に見たイメージと近年になり奈良時代から佐渡の玄関口としての公津(国指定の港)であった知識が合わさって、「おおらかな飛鳥時代の風景」というイメージが頭の中で勝手に作られていた」
 b.東鵜島の岬からは、岩首の岬の奥に海に突き出た海面すれすれの平地と林が見えた。白亜の灯台は太陽の光りの関係からか写真では見られない。(前々号「東鵜島」)
 c.岩首から松ヶ崎へ向かって右へ折れる手前の道からは、斜面の遮られて灯台や林は見えないが 海に突き出た砂地の部分だけが一部見える(前号「岩首」)。標高601mの東境山(とうきょうざん)の山裾が急に落ち込んだところが角になっていて、小佐渡の海岸線はそこで北北東と南南西に折れ曲がる。
 d.角を曲がうと 上記画像のとおり鴻ノ巣鼻の全容がはっきりしてくる。
  ァ.鴻ノ巣鼻灯台は、越佐海峡を航行する船舶、漁船の安全を確保のため1952(昭和27)年完成。
  ィ.高さは22m、佐渡では沢崎鼻灯台の24mに次いで2番目に高い灯台。
  ゥ.現在灯台の周囲は公園(松ヶ崎ヒストリーパーク)でキャンプ場が整備。
2)701年大宝律令によって「北陸道松埼駅」(=佐渡の国津(公の港))」が定められた。
 a.駅路には、30里(16.5辧当時は1里=550m)ごとに駅家(うまや)が配置。松埼駅には、駅馬5疋・舟2隻が置かれた。なお、大路(山陽道)は20疋、中路(東海道・東山道等)は10疋、小路(北陸道)は5疋。(越後(寺泊)から最短距離・砂嘴(さし。砂が堆積し嘴(くちばし)形になったもの)で船底が平らな古代の船に便利)。認定駅は他に、雑太(真野(国府の地)・吉岡)と三川(赤泊・腰細)。当時の公道は、松ヶ崎から経塚山を経由して雑太へ。
 b.佐渡への渡津(駅)は寺泊、北陸道の終点は佐渡国府のあった雑太が通説。
【「古代北陸道越後佐渡路に関する諸問題」浅井勝利/著(以下、『諸問題』)によれは、
 ァ.越後・佐渡の駅の場所等について松埼の場合松ヶ崎であることは定説になっているが越後から佐渡への渡航駅は諸説があり(直江津近辺に比定され越後国府に一番近い水門駅、越後国北陸道終着点であり蒲原津の推定地である信濃川河口近辺、佐渡への最短距離としての分水寺泊近辺など)、確定してない。
  なお、『諸問題』の筆者自身、「雑多」の場所を「旧佐和田町」としている(例:下表)からはっきりわからない。
      越後と佐渡の駅一覧表
 国 名  駅 名 郡 名  郷 名  比定地
 越後国 滄海駅 頸城郡 沼川郷? 糸魚川市(旧青海町)青海
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
      渡戸駅 蒲原郡?〔多分、古志郡 :古代は広大な郡で、刈羽郡(柏崎)・三島郡(寺泊)を含んだ〕
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 佐渡国 松埼駅 羽茂郡  松前郷  佐渡市(旧畑野町)松ヶ崎
       三川駅  羽茂郡      ?     佐渡市(旧赤泊村・旧小木町)?
              雑太駅 雑太郡  雑太郷   佐渡市(旧佐和田町)
     (佐渡国府)雑太郡        佐渡市(旧真野町)
 ィ.松埼駅から国府へは陸路三川駅を通過して雑太駅というのが従来の大方の見解に対し「試案として三川駅を海岸沿いの港津とし、松埼から陸路を取らず海岸沿いに船で航行を続け、雑太駅を国府前浜=国府川河口〔真野の入江〕近辺とし、ここまで航路とするルートを提案したい」とある。確かに海の状況に影響されるが、越後から渡海した船を国府のある地まで人馬の経費を最小限に抑えて利用できるので合理性がある。
 なお、三川は海岸沿いにある。また、三川郷に属した莚場のバス停近くに江戸時代に建てられたと思われる「一里塚」の風化した石があった。(07年5月8日号「佐渡の風景11:莚場」)
 また、08年4月18日号「鬼太鼓1:三川まつりと腰細鬼太鼓」には次のように記述。
 「莚場の本竜寺は、1465年頃尾張から浄土真宗の門徒がここで道場を開いたことに始まる。一説によれば、目的は布教とともに西三川の金の採取による資金調達。その地域一帯は、その昔は三川郷と言われた。西暦700年代の奈良時代、松ヶ崎(松埼)、雑太と並んで公認の「三川駅」の名が記されている。その後「東三川」と「西三川」となり、さらに莚場・高野・腰細などの村に細かく区分された」
 ゥ.『諸問題』に問題提起・解釈の基となる史書が載っているので転載。
 『令義解』厩牧令 諸道置駅条
  凡諸道須置駅者、毎卅【30】里置一駅、若地勢阻険、及無水草処、随便安置、不限里数、其乗具及蓑笠等、
  各准所置馬数備之、
 『令義解』厩牧令 水駅条
  凡水駅不配馬処、量閑繁、駅別置船四隻以下、二隻以上、随船配丁、駅長准陸路置
 『延喜式』兵部省 諸国駅伝馬条
  北陸道
   (中略)
   越後国駅馬<滄海八疋、鶉石、名立、水門、佐味、三嶋、多太、大家各五疋、伊神二疋、渡戸船二
疋(ママ)、>伝馬<頸城、古志郡各八疋、>
  佐渡国駅馬<松埼、三川、雑太各五疋、通充伝馬、>
 『延喜式』主税上 諸国運漕功条
  北陸道
   (中略)
   越後国陸路<百五束、>海路<自蒲原津湊漕敦賀津船賃、石別二束六把、挾杪七十五束、水手五
束、但水手人別漕八石、自余准越前国、>佐渡国陸路<百八束、>海路<自国津漕敦賀津船賃、石
別一束四把、挾杪八十五束、水手五十束、自余准越前国、>
 『延喜式』主計上
  北陸道
  (中略)
  越後国<行程上四日、下十七日> 海路卅六日
  (中略)
  佐渡国<行程上四日、下十七日> 海路卅九日  
『袖中抄』巻19 、
 陽成天皇元慶四〔880〕年云 弘仁十三〔822〕年国分寺尼法光為救百姓済度之難、於越後国古志郡渡戸浜、建布施屋施懇(墾)田四十余町、渡船二隻令往還之人得其穏便、而年代積久無人労済、屋宇破損
田疇荒廃、望請被充越後国徭五人永令預守云々
 
3)松ヶ崎は古代から中世にかけ「公の津」として番所が置かれ、本州・越後(寺泊)を結ぶ交通の要所(租庸調など納税、官人等異動、文書・物資輸送)で、また流罪者が到着した地であった。例:722年穂積朝臣老、1221年順徳上皇、1271年日蓮、1434年世阿弥(細かくは大田の浦)。但し穂積朝臣老(後に赦免)は松ヶ崎との係わりは不明であるが松埼以外で罪人を受け入れるのは考えられず、在島18年の間に松ヶ崎に近い小佐度の山間に物部氏の先祖を祀る小祠(現、物部神社)を建立、順徳上皇は寺泊からの渡海は明らかとされるが、佐渡のどこに着いたかは不明。

 a.奈良・京都から佐渡へは、琵琶湖北西部の海津→敦賀(敦賀湾)→松ヶ崎、または琵琶湖西部の今津→小浜(若狭湾)→松ヶ崎のコースがあった。世阿弥の場合は、小浜からであった。
 b.日蓮(後に赦免)の場合は、鎌倉⇀三国峠→寺泊→松ヶ崎。
4)街中にあった「松埼駅跡」の案内板より
 「古代の駅は、地方と中央との緊急連絡を図るためのもので、大化の改新(645年)を経て、大宝律令(701年)により30里(古里・現在約16辧砲瓦箸鳳悗鮹屬事が定められました。佐渡国は、北陸道の末端につながり越後の渡戸(わたりべ:現在の寺泊付近)から佐渡の松埼駅(古名・現在松ヶ崎)・三川駅・雑太(さわた)駅の三駅が置かれ、また松埼駅には、駅馬5疋のほか舟2隻が置かれていました。
 佐渡の国津(こくしん:公の港)であった松埼駅からは、公の使者や貢納物が運ばれていました。これは本土との最短距離であるという航海上の利点がありました。さらに、潮流の影響により作られた砂嘴(さし)上で船底の平らな古代の船が岸につきやすいという地理的にも利便性が高かったためと考えられます。明治初期の頃まで番所が置かれ、海上交通の要所としてたいへんにぎわいました。
 現在、この付近は鴻ノ瀬と呼ばれ、「国府ノ瀬(こふのせ)」の当て字であるといい往時が偲ばれています。
 (注:「延喜式」によれば「松埼。三川。雑太各五疋。通充伝馬。」とある。)
  佐渡市教育委員会」 
屋号の里 松ヶ崎
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1)松ヶ崎の街に入ると家々の玄関先には木でこしらえた手作り木製表札・屋号看板が掲げられ、古民具が置かれているのが目立つ。さながら「街なか博物館」といった感じである。
 9年前松ヶ崎の祭の見物のため莚場の民宿で前泊して初めて訪れた時のことを次のように書いている。
「家の玄関先には、各種の祭り提灯が1〜2個吊るしてある。戸の上には各家によって様々な形の比較的大きな古風な感じのする木製看板があり、「○○屋」と屋号で大きく書かれている。どこにでもある標準的な表札は同じく付いている。非常に珍しく、貴重。お年寄りのためであろうか。昔は特に田舎においては、屋号で呼び合った。その事を今日でも大事にしている地域があるということである」(07年5月9日号「佐渡の祭13:松前まつり」)
a.屋号表札看板
 ァ.表札は自然の木の板を利用したもので、木の表面に縞の模様があったり穴があったり、形がいろいろ様々で個性的。芸術作品を思わせるようなものまである。
 ィ.表札は、「かねた」「市十郎」「源太郎」「久兵衛」「いち」「勘九郎」などの屋号が手書きの大きな字で書かれている。
 顱肪罎砲浪姐罎世韻任覆家紋・商標が併記されたものまである。
 髻鵬姐罎ら、昔の職業がある程度推察できる。「紺屋」という屋号は、昔は染め物屋であったに違いない。
 ゥ.屋号看板は「ユニークな町づくりをしよう!」という松夢会(地域活性化グループ)の働き掛けで2004年(平成16)から松ヶ崎地区全域を設置されたものでか各方面に大きな反響を呼んだ。とされる。
b.民具
 ァ.全ての家ではないが玄関やその脇に昔懐かしの民具が展示され、説明もある
 ィ.笊(ざる)や篭(がご)等の生活用具から蓑(みの)やセナコウジ(背中当て)の農作業用具、タモや舷灯
大きなガラス玉の浮きなど漁具等がある。
 ゥ.民具の展示は、街並み検討委員会の活動により2014年(平成26)7月から開始。
2)街中を歩いていると昔ながらの鍛冶屋さんが仕事をしていたのを見て驚いた。 
a.街に今なお鍛冶屋が存在ていること、しかも松ヶ崎。
 ァ.鍛冶屋について、
 顱忘艦妥弔砲話談蠶の名が今でも残っているが、今はやっている所は調べてもないが無いといってよい。
 髻9年前下久知の長安寺を訪れた際、田んぼの中に鉄工所があり、仕事しているのに驚いた。聞けば、スチールからステンレス、アルミまでの建築関連の品物を作り、自動車や農機具の修理もできる「何でも屋の村の鍛冶屋」と言っていたのが印象的(07年3月28日号「のろま人形(16):早春散策」)。但し、近代的装備で炉はなく昔の鍛冶屋の雰囲気とは違う。
 鵝法愡楊栄俗』に 夷・湊について「鍛冶細工も当所は勝れ、包丁を煙管管を張り、印を彫り、又は漁猟の釘鉄を仕出し・・・」とある。今はないが多分昭和20年代までは両津夷の福浦辺に鍛冶屋があり、小さい時その前を通った時よく眺めたものだ。 
  その時と同じような光景を目にした。
 ィ.年配の鍛冶屋さんは脇目も振らず仕事に集中。作業場の奥の壁に存じている会社(本社:新潟県見附市)のカレンダーがあり又驚いた。その会社は砥石が事業の原点で研削・研磨材は今日でも主要分野で、秋田と札幌に支店がある。
  なお、時刻も12時を回っており、鍛冶場と屋号表札の写真も撮り記事にはなるということで過ぎ去ったが、せっかく貴重な現場を見たのでダメ元でよいからと思いすぐ引き返し声を掛けた。タイミングよかったことに昼の休憩に入るため、火を消し道具類を整理し手を洗って寄ってきた。
 ゥ.私の質問には次のように答えた。
  顱肪談蟆阿郎甘呂砲蓮△海海靴残っていない。
 髻砲い弔ら続いているかは分からないが、今で7代目とのこと。(後継者はいないようだ)
 鵝棒宿覆蓮∈艦妥弔覆匹燃催される定期市に出す。また、お客からこれを作って欲しいというと注文が来る。
 堯冒扱撚饉匱勸が、定期的に営業に訪れる。(偶然であるが、明日担当が来ることになっているとのこと。参考まで、私の名刺を鍛冶屋さんと明日来る会社の担当者ということで2枚出した。手に油が付いているということで私から胸ポケットの中へそっと入れた。
3)「手仕事フォーラムブログ」佐渡最後の野鍛冶」サイト(2006.02.20 Monday)より
 「今回の佐渡手仕事調査最後の報告は佐渡市松ヶ崎の野鍛冶「重松」です。柳平さんの裂織グループで使う古布を裂く専門の刃物も最近ここで製作するようになったそうです。従来の鍛冶屋さんが廃業したからです。重松の刃物はちょっと豪快で使いこなすのに苦労してるとのことでした。
 なるほど、製品は野趣あるれるものです。写真は私が買い求めたものです。春になったらこの鉈〔なた〕と鎌を持って山に入りたいと思います。柄も「重松」製でシンプルで握りやすくバランスのいいものです。
 作業場の壁に佐渡野鍛冶組合料金表なるものが貼ってありました。昭和50年代まで使っていたようです。新品の部では山鉈3500円、木切り鎌2500円、菜包丁3000円、魚包丁3000円、ワカメ鎌4000円。修理の部ではマサカリ800円、斧500円となっていました。いかに地元の人々の暮らしに密着した仕事振りであったかが伺えます。
 「重松」は毎月のように島内各地の市(いち)で製品を販売しています。最近はあまり商売がよくないようです。ホームセンターにやられているのです。
 人々の暮らしに山と海の仕事があり、そこで使う道具は鍛冶さんとの対話から地域の実情にあったものが練り上げられていく。いったん買われた道具は修理され長年使われていく。作り手と使い手の共同作業でその地域独特の価値が築き上げられていく。そんな風景が今どんどん崩壊に向かっている厳しい状況を直視した今回の旅でした。」
F蓮宗 松崎山 本行寺〔ほんぎょうじ〕
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1)松ヶ崎から多田への一本道を歩いているとお寺があった。ここが、日蓮ゆかりの本行寺。
 a.案内板(抜粋)
   「 日蓮宗宗門史跡 日蓮聖人佐渡着岸の霊地 松ヶ崎山本行寺と周辺
 松ヶ崎山本行寺とその周辺は、日蓮聖人が佐渡の配流の途上、着岸された記念すべき地です。
  鎌倉で伝道活動をされていた日蓮聖人は、文永8年(1271)9月12日鎌倉幕府の手に捕らえられ、すぐさま佐渡へ配流の途につきました。護送の一団は、10月22日に寺泊に着き、その数日後に船出して佐渡の荒波を渡り、松ヶ崎に着岸しました。松ヶ崎の地に3日3晩留まったのち、背後の小佐渡山脈を越えて国仲の守護所に向かったと伝えられています」
 「松ヶ崎には、山裾を辿る旧道の脇に巨大な欅〔けやき〕の大樹がそびえています。日蓮聖人がその下で一夜を過ごされたと伝える「おけやき」です」
 「2年半にわたって在島された日蓮聖人はさらに深い思索を重ね、『開目抄』『観心本尊抄』を著し、『佐渡始顕大曼荼羅本尊』を揮毫され、法華経信仰をこの世に高く掲げられました。
 日蓮宗」
 b.山門は、緑色の字で「松崎山」と塗られた横長の扁額が掲げられ、左の柱は「日蓮聖人御着岸之霊跡」と墨書された縦長の板が取り付けられていた。
 c.釣鐘を安置している建物
 ァ.山門をくぐるり境内に入ると(前記)あき子氏からのメール写真で見た構築物があった。祠(ほこら)のような形で、高さは2mくらい。
 ィ.戦前まで使っていた釣鐘は戦争で国に供出、失った釣鐘を戦後松山にいる菊池九郎氏(17代喜兵衛)が寄進。だが、寺では既に釣鐘堂が古くなって使うことできず改築工事が必要だが、それには相当の資金を要す。確かに、釣鐘堂はあるが釣鐘はなかった。
 ゥ.寺として取りあえず時期が来るまで釣鐘を大切に保管するため 丈夫な祠を建てたということだろう。「祖父が生前に一生懸命寄付を重ねて造った念願の鐘です。音を聞くまでには、まだまだ道のりが長いと、ご住職が仰っておられました」
 外から見えるようガラス張りしてあるのは、有り難い。
い欅〔ケヤキ〕
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1)本行寺から松前神社、そして真言宗長松寺の前を通って行くと、「おけやき入口」の標柱があり小路に入ると老大木が見えた。
a.太い幹が途中で伐られ、その部分トタンのようなので被せられている。
b.長く伸びた太い枝が倒れないよう細い丸太で支えられている。
c.枝自体 表面の皮が次第に剥げ落ちような様相だが、上部は茎が生え出て若葉が茂っている。
2)「おけやき」のいわれ(「おけやき 平成復興事業記念之碑」)
 「おけやきは文永8年10月28日 この地に着岸された日蓮聖人が 氏神春日明神に導かれて夜を明かされた欅の木である その折 おけやきの所有者である老婆が3日3晩聖人に粥を供養した そのお礼にと聖人は自らの血で書かれた『血曼荼羅』と現在も受け継がれる『お鍋』を老婆に授けたと伝わる
 おけやきはこの老婆を先祖とする 当地『池田四五右衛門』家の所有として代々大切に護持されてきた 代替わりを経たと伝わるが樹令は不明である 昭和63年の環境庁(当時)による巨樹巨木林調査では 幹周5.1m 樹高20mと計測されている しかしこのころから樹勢の衰えを危惧されるようになった こうしたおけやきの回復を願って平成20年1月地元有志が『おけやきを守る会』を結成 おけやきの治療と周辺整備のために募金活動を興した これにご賛同いただいた松ヶ崎地区御在住ならびに御出身の方々を始めとして 全国各地の法華檀信徒様・御寺院様らの御篤志により1年余りという短期間でその目的を成就するに至った ここに御志納いただいた方々に謹んで感謝申し上げるとともに 日蓮上人御逗留依頼 おけやきを 御持丹精された多くの先人の労苦を偲び 日蓮聖人佐渡在島の第一歩を記した霊蹟として松ヶ崎地区自然遺産のシンボルとして構成に護り伝えていくことを誓うものである
          平成21年7月吉日 おけやきを守る会 」

 《参考:おけやき》
 樹高:21m、目通り幹囲:6.8m、推定樹齢:300年以上。
  なお、「松前神社のケヤキ」 も近距離に位置するが、通称の「おけやき」とは異なる。
  樹高:20m、目通り幹囲:5.1m、推定樹齢 200〜299年。
 (資料:環境庁「日本の巨樹・巨木林 甲信越・北陸版」)
 ◆慇醢奉行日記』より
  天保12(1841)年3月14日「・・・松ヶ崎村にいたり。・・・ここには昔、日蓮流罪の時はじめてここ〔松ヶ崎海岸〕に上り、槻(つき:ケヤキの古名〕のうろ〔ほら穴〕の内に三日三夜勤行ありしという。其槻 今にあり。古木はかれて、わか木あり。古木は村内の本行寺の宝蔵の内に納めある也。】

2.歴史スポット
々掌祐の松ヶ崎の記録
1)元禄7年(1694)検地帳では、田15町余・219石余、畑12町余、94石余。
2)松ヶ崎地区部落別戸数(『松ヶ崎編』)
           松ヶ崎 多田 河内 丸山       備 考
元禄 7年(1694):150 70 46 44 
文化13年(1816):141 76 47 43 「多田」文政2、「河内」同4、「丸山」江戸末
明治 2年(1869):145 80 48  43  「河内」明治9
大正10年(1921):121 83 46 45
昭和11年(1936):121113 48 45
 〃 30年(1955):123 111 48 46
 〃 56年(1981): 97 94 42 42
3)元禄7年・10年の検地の「御水帳」より 田畑の上位者と各村平均値
 喜兵衛(菊池))9反1畝5歩、善助(油石)7反13歩、杢兵衛(渡部)7反4歩、善三郎(本間庄左エ門)6反6畝29歩、徳左衛門(木下万吉)6反6畝28歩  
 村別平均:松ヶ崎1反4畝余歩、多田3反歩弱、河内5反7畝歩。丸山村は御水帳が保管されておらず不明。
4)宝暦6年(1756)頃『佐渡四民風俗』成立(佐渡奉行所地役人高田備寛/著)
 「松ヶ崎村は潮荒き港、其上出崎にて澗〔ま:小さな湾〕の処にも無之候へ共、船4、50艘斗〔ばか〕り掛り申候。依て〔よって〕此所浪荒き節は多田村にも船掛り仕〔つかまつり〕候。赤泊と違ひ左右の村方何れも難所を抱え相川への通路は後の大山を越候て小倉村へ掛り候故、雪中は容易に難越候。村柄風俗は赤泊より又人心宜〔よろしき〕方に御座候。此辺松前へ稼〔かせぎ〕に参り候もの多く、秋頃帰国の節は松前物数品売買致し候、此所人心宜しき儀相考候処、・・・」
 【現在でも鴻ノ巣鼻は、潮流が激しく海水浴には危険なためであろうキャンプ場でありながら海水浴場になっておらず、松ヶ崎海水浴場は多田に近いところにある】
 「海猟も有之其外別て〔わけて:とりわけ〕仕出し候産物も無之候へ共、他国船往来の節商物の品積出し、渡世仕候儀は外入津の場所同様に御座候」
5)宝暦年代(1751〜63)『佐州巡村記』:(注)『佐渡叢書第10巻』の解題に『佐州巡村記』は宝暦期の事柄と推定されるとあり。
 「松ヶ崎村 家数152軒・人数681人
 一、高319石1斗1合  此反別29町7反6畝14歩 内
  田高221石7斗3升合 此反別15町5畝10歩〔1軒当り0.99反〕
  畑高98石4斗7升   此反別14町7反1畝4歩〔 〃  0.97反〕
  取米109石3斗1升6合 内:田93石8斗4升9合・畑15石4斗6升7合
   百姓林 63ヶ所
  松前大明神 文永6己巳年社再興棟札アリ
  薬師堂
  法華宗本行寺 文永8年辛卯年開基 此寺ニ日蓮御槻ト云アリ
  真言宗長松寺 松前坊
 一、番所壱ヶ所有 当時勤役 松田平左衛門〔他2名は略〕
 一、湊船5,60艘程掛り東風悪シ
 一、郷蔵アリ 岩首村組合
 一、御年貢米ハ海上5里相廻大石御蔵納
 一、用水ハ多田川松ヶ崎川の水を引 」
6)宝暦10年 (1760)の廻船持ちと船の大きさ(奉行所宛ての申告書)14人・17艘
 藤左衛門372石、吉右衛門358石、茂右衛門346石、太次兵衛316石、久左衛門254石、・・・・長蔵43石、主助36石 計14人(複数持ち主3人)・17艘。
 a.藤左衛門は菊池井戸端本家のことで、菊池喜兵衛とのつながりは見当たらない。
 b.吉右衛門は本間吉右衛門で、宝暦3年(1753)北海道江差に幸吉丸(5人乗り)が入港(江差の問屋「関川家文書」)。
 c。久左衛門はもと後山の住人で254石の廻船を所持したのは1760年。宝暦前の20年くらいの間にかなりの屋敷や田畑を買い集めており、資産はできていた(後山の伊東家に当時の文章が残っている)。
  また、文化2年(1805)に始まる松前神社の祭礼記録は、何代目かの久左衛門が中心人物であったことを伝える。同社の記録でも明和8年(1771)真鍮〔しんちゅう〕の菱形提灯を、天明8年(1788)奥院の銅瓦を寄進、文政5年(1822)は島内第一の石の大鳥居の施主になっている【後記 10)『川路奉行日記』に連動】。なお、「文政2年(1819)の廻船持ちの調べで明治以降でも久左衛門の名は消えている」
7)天保5年(1834)「天保郷帳」では、村高319石余。
8)天保9年(1838)の「村書上帳」では、漁船58艘・廻船8艘。
9)天保12年(1841)「巡村記」では、家数164・人数834、高319石余、田15町余・畑14町余。  
10) 同 『川路奉行日記』
  「五時に水津を出て・・・強清水(こわしみず)にて昼休・・・松ヶ崎村に至りて止宿」「きょうは水津よりここまで、門前より船に乗るがごとき所なり。松ヶ崎は2丁計(ばかり)歩行せり〔1丁=1町=60間(1間=6尺≒1.818m×60)≒109m〕」「此松ヶ崎は、年々に潮陸へうちあげて、御番所もいにしえとは場所かわれり。年々に変地いあす也」「松ヶ崎は300石の村なれ共人別800人余ありて富める村なり」。春日社銅瓦にて、石の鳥居にからかねの額をかけたり。民潤(うる)おわでは、村持(むらもち)の小社をかくはせじ。よき村なり
菊池喜兵衛
A『四民風俗』
 「菊池喜兵衛と申有徳の者住居罷在り、廻船数十艘所持し家作等美々敷修補、其身任有徳多芸の人物にて、其上貧者を救ひ悪敷風俗を誡め候事故、自ら一郷直路に相成候由及承候。尤右菊池没落以後数十年を歴申候へ共、風儀は残居候哉と奉存候」
B『松ヶ崎編』
1)「喜兵衛についての資料には、2代目以後のものがほとんどで、初代喜兵衛についてはかなり伝説的な部分が多い」
 a.伝承では、佐渡から松前(北海道)へ荒物を運んだ最初の船は、松ヶ崎の菊池喜兵衛のものであったとされているが、喜兵衛船が松前に往復していた確証はない。「比較的たしかなのは、本行寺の回向帳(えこうちょう)に、元和元年(1615)12月13日に没した本行院日営居士が、当山開基大旦那ナリとしてあること」「さらに菊池嘉右衛門元祖也と付記である」
 b.喜兵衛は、前浜の廻船業者として立島〔元水津村〕に菊池太郎左衛門がいて、喜兵衛は手代をしていた。立島の菊池一族は久知(旧河崎村)方面からの移住者であったと伝えられ、「対岸の本土仕入れ品を夷方面に運んでいたものらしい。手代の喜兵衛は独立したのち、前述のような松前往きや越後米の仕入れ、大阪廻米などの遠出をするほか小木岬をまわって真野湾を沢根港まで地廻りをしてので、これなども太郎左衛門家の商法を踏襲したといってさしつかえない」「立島部落の段丘上にならぶ太郎左衛門家の墓地をみると、その豪華さと数の多いのに驚かされる」
  立島の菊池太郎左衛門家の系図書きより:
 「松ヶ崎村菊池家ハ、同村木下喜兵衛(弥吉)ト申ス者、荒物商ニテ屡々〔しばしば〕当家ヲ宿トシ、折柄其□荒物ヨリ他二型ハナキヤト尋ネラレシニ、全ハ海岸業トシテハ小廻□モ資ノ薄弱ナルヲ歎キ、然ラバ多少助力致スベシトテ、夫ヨリ船ヲ仕立テ、然ル二ハ自分名前ハ他ヘ通ゼズ、貴家ノ苗字名刺ヲセ度ト言ハレ、其後仕合船玉6、7艘ニ増加、時ニ奉行ヨリ用金ノ沙汰アリ、応分ノ尽力セシヨリ夫□役人ト情厚ク、為ニ其□何ニ上ニ望ハナキヤト尋ネシニ、然ラバ別ノ望モ無之モ、松ヶ崎ニ限り白籏御免アリタシ。其頃ハ貢米船ハ白籏押出テ何国ノ港ニアリトモ権力ヲ有シ、他ノ碇泊船ハ錨〔いかり〕路ヲ開キ安全ナラシム・・・」
2)2代目喜兵衛
は、本行寺建立。妻は相川の奉行所役人辻家の娘
3)3代目直樹の代が、喜兵衛家の全盛とされる。妻は相川役人桑山家の娘。
 a.系図より
 「廻船数艘有之、依テ年々春初出船、当国御城米無賃ニテ大阪表江積登リ或時松前表米穀高値餓死人モ有之ノ時米穀積下リ救之外売船為直売船沖ニ掛リテ菊池船直ニ水上シテ松前諸人救是等之義達 上聞為御褒美船印ニ籏御免許ヲ請諸国津々浦々菊池イロハ船ト称算〔賛〕ス」
 b.3代目の弟たちは3人が独立して治右衛門家与右衛門家・文右兵衛家をたて一人が出家、妹は相川の地役人に嫁ぎ寛文8年〔1668〕に亡くなったとき菊池家から形見金として金50両が遣わされている。
4)4代目直次の時代も廻船業は好調。貞享2年〔1685〕本行寺を再建
5)5代目の重章は、本行寺の梵鐘を寄付した記録あり。
6)6代目康重の享保9年(1724)の時、廻船業不調で破綻し菊池家没落。
 「父康重代廻船不廻り見分多□ニ手代共不宜格別見分有大坂江ノ子嶋船問屋薩摩屋市右衛門方大借財出来
利銀等ニ過分罹取続之処亦腰細村い隠居いたし同村・・・と申す後家に万事世話為致。此者大悪人にて種々難題ヲ申徳和腰細両村田畑山林横領いたし其上多分田畑作り取亦雑用金等年々貧委テ迷惑いたし候・・・亦大坂江ノ子嶋薩摩屋依り当国御奉行所江金銀差引出入等仕掛かれ終身上大半失ひ候・・・。
 一、亦3代目遺命トシテ一門中仕分之規矩〔きく:規則〕アリ。嘉右衛門・治右衛門与右衛門・吉兵衛右4人へ仕分船1艘金子添又者〔または〕田地に添候義も有之是ハ別紙委細記候へとも御公銭拝借大坂借用等□中故左様申し候
 一、寿学妻おきなへ赤玉田畑山林屋敷共譲り外ニ金子200両譲り候訳別紙之候正徳5年〔1715〕 
  以下略」
7)存続している喜兵衛家の一族
 a.島内
  菊池九十郎家(新穂))、菊池惣吉家(北松ヶ崎)、長嶋平兵衛家(矢馳)、伊藤家(椎泊)、寿安家(沢根)
 b.島外
 ァ.「喜兵衛家の中心的な一族である3家はみな島を離れている。けれども本行寺におさめられた先祖の仏の供養にはひんぱんに松ヶ崎を訪れて、墓地の管理などを怠らない」
 ィ.3家の移住先
  顱房安家は、愛媛県松山市
  髻鵬撤Ρ厂膕箸蓮∨務て仕賄膸拂の森町
  鵝房1Ρ厂膕箸蓮函館市
C『赤泊村史・上』
1)初代喜兵衛が廻船商人として活躍」したのは慶長から元和年間。「相川鉱山の開発にともない米や塩をはじめ鉱山資材の移入に活躍して一代で莫大な産をなした」
2)「代々喜兵衛を名乗って、元禄のころまで全盛を誇り、廻船でもうけた金で近隣の田畑を買い集めた」 特に、徳和では田畑屋敷合わせて6町8反。「貞享〔1684〜1688〕から元禄〔1688〜1704〕にかけ最も多く土地を集積」
       喜兵衛が赤泊地域で買った村別土地面積
     (徳和以外は元禄検地帳、徳和はその後の資料も含めた)
        田       畑      屋 敷      合 計
     町・反・畝・歩 町・反・畝・歩 町・反・畝・歩 町・反・畝・歩
徳 和: 5・3・9・07  1・3・1・15   1・1・24  6・8・2・16
腰 細:   8・4・13     0        0       8・4・13
外 山:   4・2・28    2・2・28     3・18    6・8・28
上川茂:   5・7・16     0         0       5・7・16
山 田: 2・2・6・24     5・5・18          1・16   2・8・3・28
莚 場:   6・0・29     0         0      6・0・29 
合 計: 10・1・1・11  2・1・0・01    1・6・28    12・3・8・10
 【松ケ崎村全体の耕地面積(1750〜60年代)が田15.5町・畑4.7町(前述)であるから、他村で当村の田の65%、畑の45%に匹敵する面積を喜兵衛家で所有していたことになる】 
3)「(徳和の旧家たちが)豪商の財力の前に伝来の土地を手放すのは、金の必要な世の中がきていることを示している」「(「舟の木」という一帯を)買いとった喜兵衛は、かねてじっこんの杉野浦村長三郎を地守として管理させた。そして享保9年(1724)、没落した喜兵衛はこのあたり一帯を代金60両で長三郎に譲り渡している」  
松前稼ぎ
 (『松前編』、『赤泊村史』上・下、9年11月9日号「係わりの地44:小樽祝津・ニシン御殿」)
1)「松前稼ぎ」は江戸期からの佐渡用語で、「松前」に限定することなく 広く北海道で収益を得ることをいい、原点はニシン漁場向け佐渡産品を基軸としたビジネス。
 その盛んな様子は、1765年成立の『佐渡四民風俗』に載っている。
 松ケ崎村の項には、「この辺松前へ稼ぎに参り候もの多く、秋頃帰国の節は松前物数売買致し候」とあり、赤泊村の項には、「男は年々松前え稼ぎに参り候者もこれあり、秋頃は近郷の者も松前より帰り候に付き、昆布、鯡、鮭、数の子等の類売買仕り候」とある。
     参考:ニシン(鰊、鯡)漁の始まり・漁網の発展
  (資料:「北海道におけるニシン漁史」(「海洋文化交流のブログ」サイト)
 1.蝦夷地において早くから豊かな水産資源を求め和人が進出。記録では、文安4年(1447)陸奥国の馬之助が松前郡白符でニシン漁を行った
 2.延宝元年(1673)、越後国の者が麻で編んだ刺し網を松前藩内に持ち込んで商売を始めた。宝永年間(1710)には大型の網の使用が広まり始めた。
 3.1700年以降本州において綿花・藍・菜種・ミカンなど商品作物の栽培が広まり、肥料としての栄養効果と時間効率が高い金肥が求められていた。〔対するものは自給肥料:(厩肥(きゅうひ)・糞尿・刈敷〔草木の茎や葉を刈って田畑の地中に敷き込み堆肥としたもの〕・草木灰など〕干鰯の高騰とともに、鰊粕〔ニシンかす〕が注目され、食用より産業用としてニシンの需要が増大、ニシン漁が一段と盛んになった。
 4.天明3年(1783)江差を訪れた紀行家・平秩東作の『東遊記』によれば、江差の町は諸国からの出稼ぎ漁師やニシン製品の売買で喧騒を極め、一般の出稼ぎ者でも数ヶ月の働きで12、13貫、目端の利く者は30、40両を稼ぎ上げていた。  
 ァ.刺し網⇀
笊網(1漁期に30石程度の漁獲高が180石に)行平網(操業時に騒音を発する笊網の欠点解消)角網(明治中頃導入後瞬く間に普及。明治32年(1899年)全道建網利権数約6千統のうち4千統以上が角網)。
 ィ.捕獲したニシンを保存性を保ちつつ確実に陸上に運搬するための網の改良:袋網の開発⇀枠網の開発→枠舟(ニシンが250-300石 (200t) 入る枠網を取り付けた運搬船)の開発
 (参考は以上)
2)松前への出稼ぎ者
 a.佐渡奉行所は、金山経営に影響(人手不足、賃金高騰、資材不足、物価上昇等)がでないよう旅に出る人の人数制限(出判(いではん)制度:役人・神官・僧侶・船乗り・商人・治療に行く人は除く)と佐渡産品の他国出し規制を行ったが、松前への出稼ぎ者にも制限を設けた。
 ァ.1713年(正徳3)は、村高100石につき1人とし、年間759人(町方51人・在方435人・松前行きの者273人)であった。(09年3月3日号「歴史スポット49:江戸期佐渡の対外交易」
 1729年(享保14)佐渡150か村がが奉行へ訴状
 「地米・草履・草鞋・葛籠・莚など百姓手仕事の品や雑穀、木の実の類などの他国出しを許可して下さい。これらの品は、他国出し禁止でしたが、今他国出しをお願いするのは以前は相川鉱山が繁盛していたので、これらの品や、野菜その他の何でも相川へ持って行けば売れその代価で年貢の銀納も心安くできていましたが、近年は鉱山も不況で、なわけにはいかなくなり迷惑していますので、こちらの品の他国出しを認めて下さい」 (『赤泊村史』)
 ィ.1819年(文政2)の割り当て(『松ヶ崎編』)
   加茂郡:岩首・北方・下新穂・夷・湊 5カ村計25人〔1村平均5・0人〕
   雑太郡:新町・四日町・沢根・竹田・八幡・畑方・畑本郷・目黒町・河原田諏訪町・同本町・戸中ほか
20ヵ村計67人〔1村平均3.4人〕
   羽茂郡:松ヶ崎49、多田30、赤泊20、徳和18、真浦10、以下10人未満19ヶ村 24ヶ村計196人〔1村平均8.2人〕
   合計:49ヶ村 288人
 【1819年の松前への出稼ぎ者は、佐渡では松ヶ崎の49人が一番多く全体の17.0%を占め、次いで多田が30人で10.4%。
  なお、『松ヶ崎編』に、1803年(享和3)の『村中人数書上』(『松前夜話』)には「当時松ヶ崎村の総人数725人のうち、老人・子どもを除くと259人が稼動人口であった。そして、そのうち廻船の乗組員と松前稼ぎを合わせると157人を数えた。これは全体の61%にあたる数で、この村は松前稼ぎで生活していたことがよくわかる」とあるが、正しくは「女性・老人・子どもを除く259人が稼動人口 うち60.6%が松前稼ぎと関係した」であろう】
 b.1819年(文政2)「商人・廻船・諸職人名前書上帳」という松ケ崎の区文書に96人中で「松前稼ぎ」は次の49人。なお、(  )内は別の称、実数は2人超過とある。
  半兵衛・伝七・勘十郎倅〔せがれ:又は〕長吉・吉四郎・茂兵衛・治右衛門・弥十郎・藤十郎・覚右衛門(丁字屋)・新蔵倅新八・吉右衛門(浜ノ内)・吉六倅吉之助・弥藤左衛門(弥藤八)・宗右衛門倅・宗右衛門・与三郎・藤三郎(井戸端本家)・藤三郎倅・善兵衛(秦)・甚右衛門弟市之助・伝九郎弟留之助・太次右衛門・善兵衛倅善吉・太左衛門・太左衛門弟太助・三四郎・源太郎・長左衛門・三四郎倅玉三郎・主四郎倅徳蔵・同弟長吉・清吉・清右衛門・弥兵衛・伝九郎・喜十郎弟栄吉・重助倅菊蔵・惣吉・仁左衛門弟彦太郎・権七倅重五郎・庄右衛門倅善蔵‣権造蔵・太郎右衛門・新兵衛倅幸吉・兵吉・清蔵弟竹三郎・亀次郎・覚兵衛・善五郎弟専次郎・嘉右衛門。
 c.1871年(明治5)松ケ崎村松前稼ぎ49人の名簿:(   )内は年齢と在れば屋号。年齢無記入あり。
  勝谷栄太郎(31ふるや)・中楯新吉(41甲州屋)・同長男恒吉(23)・同次男儀平(20)・修理文治郎(16)・同新次郎長男徳太郎(36)・渡部太平治(44)・石塚権七(27)・同金蔵(29)・青木弥藤八(46)・木島七郎(35)・木下勘七〔年齢無記入〕・青木順五郎(22権兵衛)・青木惣三郎(29惣平)・木島豊治(20カネト)・青木長三郎(36記号アリ)・青木庄三郎(44庄右衛門)・同庄藏(23)・菊池太一郎(33)・勝谷茂三郎(53)・同長男仲四郎(24)・同次男奥蔵(16)・宮本忠治郎(60浦ノ川内甚吉)・同長男仁三郎(25〃)・渡部竹五郎(17記号アリ)・渡部覚十郎(50別の記号アリ)・渡部覚十郎(50ヤマジュウ)・同長男仲四郎(24)・坂野伝十郎(25)・渡部太治郎(51太治右衛門)・同長男栄吉(33〃)・同次男栄太郎(31〃)・渡部源治郎(38源右衛門)・渡部藤吉(37)・菊池治平(21治右衛門)・同養子寅蔵(18)・本間平太郎(27平兵衛)・竹本半蔵(27)・榎与六40)・青木鹿次(15萬右衛門)・甚五郎次男青木文四郎(21甚五郎)・勝谷千代松(23清五郎)・福田新蔵(34)・定吉(17)・秦善平(44)・同長男馬吉(20)・渡部三十郎(30)・渡部伝七(48)・渡部太五郎(32)・千代松(22権太郎)・青木宮治郎(49)・同長男延吉〔年齢無記入〕 

   1871年(松ケ崎村)松前稼ぎ年齢別人員
        10代 20代 30代 40代 50代 60代 合計
人員(人):   6  19  12   8   4   1   50
構成(%):  12.0 38.0 24.0 16.0  8.0  2.0 100.0

 【上記abcからの着眼
 (1)松ヶ崎での松前稼ぎを行う男子の割合(試算)
  江戸・明治の1800年代の松ヶ崎村からの松前稼ぎは50人前後いたことから、50/240(=800(平均人口)×50%(男性比率)×60%(生産人口比率)≒20%として、松ケ崎では男5人に1人が松前稼ぎに出たと推測。
 (2)年齢分析

 〆杷少15歳、最高齢60歳。

 年齢層は20代が最も多く全体の38%、30代と合わせると62%。

  a.これは、松前稼ぎが体力を非常に要す商いであることを示している。 
  50歳代では急減。人生50年の時代、50になれば家業を跡継ぎ=倅(長男)に任せ隠居するのが常識の年代。一方、子は15歳で成人。商家の伜は奉公に出される。農家では、農閑期は内職か出稼ぎ。
  b.『赤泊史』に、次の事が記されている。
  ァ.「松前稼ぎで成功した赤泊の田辺九郎平は晩年、商品を背負って売り歩いたためにできた背中のコブを見せ、その苦労を語ったといい、嘉永6(1853)年、松ヶ崎・多田・腰細・徳和・赤泊の松前稼ぎ商人は、海を渡り、雪中200里を売り歩く厳しさを切々と訴えている」
 (田辺九郎平について06年9月18日号佐渡の風景6;赤泊」に記述)
 【「雪中200里を売り歩く」は、「この辺松前へ稼ぎに参り候もの多く秋頃帰国」「秋頃は近郷の者も松前より帰り候」「多くは冬期間は松ヶ崎に帰っており、その時期に島内各地から荒物を仕入れた」と矛盾する。矛盾しないのは、松前に店(荒物店とは限らない)を常設している佐渡商人の場合である】
  ィ.「蝦夷地松前(北海道)への出稼ぎというと、・・・鰊場でのヤン衆つまり漁夫であるが、赤泊をはじめ佐度の松前稼ぎで多かったのは、佐渡産物の販売=商人であった」
 【半農半漁の村(圧倒的多くは百姓)の中で北海道を対象とした商人が松ヶ崎村に50人、赤泊村に20人もいるはずはない。商売は、単なる労務提供と違って確実に収入が得られるものでなく、元手・資金が必要で損する可能性も高い。いずれにせよ根拠が必要。
 同書には「徳和村松前稼ぎ人耕地所有状況」表を作成され、結論は次のとおり。
  「田畑所持のようすをみると、その半数は元禄検地以前に成立した家であり、田畑が少なく、農業だけでは暮らしが立たない家に多いようである。松前稼ぎはもともと平地が少なく耕地条件の悪い赤泊地域の村々にとって、重要な生活手段であった」。要は、売るべき商品を所持している商人でなく、労力しか売るものを持たない労務者の感が強い。これは、言っていることと実際のデータとは違うことを自ら暴露。】

 (3)属性分析(サンプル数はわずかでしかない)

  々掌邑經(1819年資料)は、
  1)単身だけでなく複数(身内関係)も見られる。その場合本人と伜〔せがれ〕で(中に次男も含めたケースあり)、長男をさしおいて次男というのは無い。

  2)単身では、当人以外では倅か弟で倅12人に対し弟8人で 6対4の割合。

  ¬声(1871年資料)では49人、
  1)単身ではたまたまであろうが、弟が見えず子か養子の直系。
  2)屋号のある者(「同長男」等も計上)19人中 「ふるや」「甲州屋」」の屋号又は記号のある者を商人とすると商人は6軒9人。残りは農民40人。当然ながら圧倒的に農民が多い。
 (4)前掲1871年(明治5)松前稼ぎ人名簿の中に、当然ながら「松前稼ぎで名を成した松ヶ崎の商人」(後述)の名が見える。
   木島豊治(20カネト)、青木順五郎(22権兵衛)、修理文治郎(16)・同新次郎長男徳太郎(36)〔この場合、修理新次郎でないが長男と孫 】

3)松前向け商品

a.データ
 ァ.1860年(万延元)江差に移出された佐渡産物
(「万延元年佐渡荷所御口取立調帳」江差関川家文書)

  網羽(端)縄〔あばなわ〕、草履〔ぞうり〕、草鞋〔わらじ〕、小草網、大草網、馬沓〔うまぐつ〕、弐斗叺〔かます:穀物・塩・石炭など2斗入る藁(わら)筵(むしろ)の袋〕、碇〔いかり〕縄、蓙〔ござ〕、串柿、柿渋、升栗、戸棚、仏壇、掛硯、平硯箱、問屋硯箱、文庫、銭箱、米櫃〔こめびつ〕、小間物箱、箪〔たんす〕、茶箪笥、重箪笥、大折板、屏風、唐紙、松臼、松杭、けら、下駄・足駄、杉箸、半戸棚、障子、切竹、のし竹、片荷籠、茶椀籠、輪竹、竹ノ子笠、かや苫、毛苫、石磨(臼)、石地蔵、石塔。

 〔なお、1751年の佐渡産物の他国出し解禁で許可になった藁製品は、次のとおり。
  藁細工、筵〔むしろ〕、草履、草鞋。

  (09年3月3日号「歴史スポット49:江戸期佐渡の対外交易」・『赤泊村史』〕

 【着眼

 ‘賣燹 草鞋 ・馬沓・ 叺・筵・茣蓙など藁〔わら〕製品(稲作の副産物としての藁が素材)や切竹、のし竹、片荷籠、茶椀籠、輪竹、竹ノ子笠などの竹製品は、当時寒冷地の北海道では稲や竹が出来ず、一方佐渡は海に囲まれ対馬暖流が北上しているから日本海側として温暖で、稲作や竹の生育に適し(竹は越後に移出)、漁業も盛んで漁具(縄・網・竹道具)の改良には余念がない。

 ∨椽F睥ι瑤両豺隋⊂樵阿忙妻を運ぶには保存性のあるものに加工し(塩漬け、乾燥、燻製等)、且つ港まで長い距離と時間(港での北前船入港の待機を含む)と費用を要したが、佐渡の場合小木が北前船の公認寄港地で、いくつかの漁村には番所や船問屋(=宿屋)有るとことで北前船は頻繁に立ち寄ることが多く、佐渡物産品の松前への運送には非常に便利で、その点対岸の越後の港に比べ澗(小さな湾)が多く船待ちを含む港の機能として優位性が高い】

 ィ.明治43年(1910)赤泊村副業成績 

  《品目》   生産価額(円)   販売先         備考

   縄     12,575      北海道       仲買人・組合で販売

   木炭     4,726    寺泊町・小木町   同上。鉋台も同じ

   鉋台       183    寺泊町・新潟町   鉋(カンナ)の台

   歯木       540      同上        仲買人・組合で販売

   鍬柄       210     島内各地      島内市場へ持出し販売

 顱棒崘餽舛ら積み出された品目は、縄が圧倒的に多い。それもニシン漁用の藁縄が大部分。

  縄の内訳:12,575円=あば縄10,205+小引縄1,800+双枠縄57

 髻棒崘颪蓮∨務て擦離縫轡鷯譴濃箸μ崔次覆△弌貌譟⊂引(海鼠・ナマコ)縄、双枠(ふたかせ)縄の三ツ子縄生産で知られていた。

 鵝頬務て擦離縫轡鵝Εぅ錺卦の地引網は、最初綿糸製であったが重いため、軽いミコ(実子)縄製に改められた。ミコ縄は、2本子〜6本子位まであり、一番手頃は3本子で1把の値段は、21銭5厘くらいした。このミコ縄は、商人の手で北海道のニシン場に送られ、ニシン漁の垣網〔定置網で魚群を本網などに導くため、水中に垣のように張る網〕に使われた。
b.佐渡では早くから」手綯(な)い網が生産され北海道漁場へ移出。

 ァ.手ない網は、藁の打ち方が柔軟、よりが堅く、色が黄色で、他の地方で作った製品に比べて耐用期間が長く、黄色の光沢を持っているため魚の目をくらませ漁獲高が増すということで大好評を博して、年々増加した。

 ィ.製縄機が発明されほとんどが機械縄となってからも、品質本位に生産を改善したので、永く北海道市場を維持できた
   (08年1月26日号「歴史スポット32:自給自足(8)藁仕事」)

4)松前向け製品作りの担い手;子どもからお年寄りまで

 事例1:大正時代まで縄ないは、すべて手作業。朝暗いうちから子ども総動員で藁仕事。杵や横槌で藁を叩き、綯(な)って細い縄を作りそれを合わせ子綯(な)いをして三ツ子にした。縄ないを休むのは、正月元旦くらいなもの。徳和の古老の話では、「1日に家族で2丸の三ツ子縄をのうた。一冬で100丸くらいになった。これだけのうには、時によっては朝の2時頃からやらなければできなかった」  
 事例2:子どもは、学校の資金ということで休みが終わった時にミコ縄を3把ずつ持って学校に納めた。学校では、まとめて商人に売ってお金にした。なお、ミコ(実子)縄買いの荒物商人は当時大勢いて、集落を廻り廻りして1日おき位に廻ってきた(新穂地区)。
 (08年1月28日号歴史スポット32:自給自足(8)藁仕事」)

 事例3:赤泊では、特に北海道の漁場向けのアバ縄、ミツコ縄、フタカセ縄などの縄ないが盛んであった。大正元年生まれの莚場の野井さんによると、昔は正月も二日ともなれば、朝3時頃にはあちこちの家からワラをたたく横づちの音が聞こえた。
  (06年9月17日号「佐渡の祭り4:莚場まつり(赤泊)」)
 事例4:佐渡産品の他国出しは「宝暦元年許可したものの、幕末に至るまで・・・他国出禁止・解除をくり返し、松前稼ぎ人や農民の不信を招いた。徳和・赤泊両村では、農閑期松前向けの木工品、網端縄を作り松前行き商人に売り込んで、その代銭の前借で生活を支え、諸上納に当たっている状態であるのに、突然それらの品の他国出しが差し止められ、前借もできず、暮らしや諸上納にも差支えが出て困っているので、以前のように他国出しを認めてほしいと訴えている(松ヶ崎・青木家文書)。

5)松前稼ぎの実際(『松ヶ崎編』、『赤泊村史』)
 「天明4(1748)年、江差に来遊した江戸の・・・立松東作は 佐渡・越後から見知りの者を頼って来て借家し、3ヶ月ほどの間に油断なく働く者で30〜40両を稼いで帰国すると記し(『東遊記』)、江差役所規則には、越佐商人は年々夏中、3人から5、6人が組んで店借りし、商売をすることが書かれている」

 a.松前への出稼ぎというと鰊場での3〜5月の主に東北地方からの季節労働者ヤン衆であるが、「赤泊をはじめ佐度の松前稼ぎで多かったのは、佐渡産物の販売=商人であった」(『赤泊村史』)。

 b.各自が都合のよい廻船を頼み荷物(多くは冬期間島内各地から仕入れた荒物など)と共に蝦夷地まで運んでもらう。
 ァ.運賃は、「松前行運賃肩銭争論済口証文」(天保14(1843)年:荒町・喜惣兵衛家文書)によると荷物1駄500文、人は800文。なお、赤泊の武部喜八郎のように廻船持ちで蝦夷に店を持っている場合もあったが、店借りが大半。
 ィ.現地では佐渡からの出稼ぎ者を佐渡衆(さどしゅう)、店を佐渡店(さどみせ)と呼んだ。越後の場合は、越後衆・越後店。

、c.持ちこんだ商品は、現地の問屋商人に一手に売り渡すのではなく、借り店舗での商いのほか、南蛮(なんば)売りといって漁場(そこでの廻船を含む)などを回って行商した。「資本を持たない村の農民にとって、南蛮売りと呼ぶ行商が、松前稼ぎの基本であった」 

 このときは主に鰊粕・昆布等松前物(蝦夷地産物)と物々交換し、入港して来た他国の廻船へ持って行って米・織物等と替え、今度はこうした品物を松前物と交換し、滞在中これをくり返し、手持ち商品・銭金の資産を増やした。
 e.秋になると、湊入役一人 砂金1匁7分と1匁判銭100文を松前藩役所に納め(「江差沖ノ口御定」)、再び廻船に便乗して帰郷。
 f.帰郷後は、昆布・鰊粕・鮭・数の子等松前物を売買。
    参考:莚場の松前物値段(莚場区有文書)
 文政2(1819)年の物価値下げ令を受け、筵場村の「江差行惣代」が、昆布や鰊の佐渡での売り値を奉行所に報告した価格(単位:文)。
筵場の松前稼ぎ商人の江差での購入価格→佐渡での従来価格→(   )は値下価格。

 昆布1駄:130〜180→235〜280→(192〜248)

 肥料ニシン10貫目:750〜900→1000〜1150→(900〜1030)

 身欠ニシン100本:90〜115→160〜190→(140〜170)

 g.佐渡店売り(小売)で稼ぎ、南蛮売り(行商:漁村や入港した他国の廻船)で稼ぎ、佐渡店売り→南蛮売りの繰り返しで稼ぎ、帰国でも稼ぐ。他に無い優れた佐渡産品をベースに蝦夷地産とコラボしながら一定期間継続的な稼ぎを重ねる。
 【以上が、松前稼ぎというビジネスモデル。松前稼ぎに人数制限を設けたことも成功要因】
 h. 一方、「嘉永6(1853)年松ヶ崎・多田・腰細・徳和・赤泊の松前稼ぎ商人は・・・小木町商人が松前向け荒物類を買占め、松前表の値段を無視して、勝手に小木港で他国の廻船などへ売渡ししているので、これを差し留めてほしいと奉行所へ訴え」、また相川の有力商人が、杉野浦・新保村で村重立〔おもだち:有力者〕と結び、前金を渡して小前百姓が作った網端縄を独占購入する例、松前表でも江差問屋の仕込制度(商人がニシン漁の就業資金や漁具・資材・生活費などを漁家に前貸し、商人が獲れたニシンの売上金から前貸金を決済)が確立するなど荒物の南蛮売りは利益が上がらなくなっていった。また、天保9年以降、和人居住地以外の奥地への移住が徐々に許されるようになると、漁業用品より呉服や食料品などの需要が増し、南蛮売り=行商の仕入れ商品も変わらざるを得なくなった。「こうして松前稼ぎは故郷佐渡の商品仕入れから離れていく。幕末期は松前稼ぎが出稼ぎから離村、移住への転換期であった」
 【上記「松前稼ぎは故郷佐渡の商品仕入れから離れていく」とあるが、「1906年〔明治39〕と1940年〔昭和15〕比較で縄類生産は、1925年〔大正15〕をピークに減じているが、数量が倍増金額は150万円で8.5倍であった」(9年11月9日号「係わりの地44:小樽祝津・ニシン御殿」)とあるように(但し、データと出典が必要)1925年まで佐渡の縄類生産は成長を続けた。】
6)松前稼ぎで名を成した松ヶ崎の商人
 a.修理新次郎
   ァ.修理家は、伝説として先祖は福田修理之進なる多田殿の家臣であったとされる。
  ィ.屋号は丁字屋(ちょうじや)覚右衛門、通称「やましょう」。いつ松前へ移ったか不詳だが文政9年(1826)に薬種屋と古着屋を兼業して松ヶ崎にいたことが記録にある。
  ゥ.松前に移住し福山に店を置き佐渡の荒物を商った。店の繁昌に伴い小樽と明治中期に函館に支店を設けた。だが、大正期に入って事業を縮小。 
 b.木島豊治
  ァ.文久3年(1863)豊治13歳のとき、松ヶ崎から北海道福山で手広く荒物商っていた丁字屋に丁稚奉公、10年ほどして丁字屋が函館に支店を出す際支配人に抜擢。
  ィ.明治17年(1884)31歳のとき独立。荒物商人となり、やがて函館の荒物業界で一番の店となった。
  しして荒物で得た資金を水産業と貸住宅建築などに投資し、収益と資産を拡大していった。
  ゥ.郷里の松ヶ崎においては松前神社・長松寺・小学校の建築や設備、島内下水道工事第一号といわれる街路両側の排水溝の寄付はじめ昭和初年まで地域に貢献。
  昭和8年(1933)死去。享年80歳。地元では村葬を行い、松ヶ崎小学校の全校生徒も参列。現在、松前神社の境内に胸像がある。
 c.青木順五郎
  ァ.嘉永4年権兵衛の長男として松ケ崎青木町に生まれ、文久3年13歳のとき父のいた函館に渡った。間もなくして父が亡くなり佐渡へ帰った。明治4年21歳の時再び北海道へ渡り寿都(すっつ)で荒物商いを始め、漁業も兼業。
  ィ.「当時ニシン景気で栄えていた増毛町に明治20年移住し、て酒造業を営んだ。「「寿恵広」と名づけた清酒が好評で売れ行きがよく、たちまちにして千石酒屋となった」
  ゥ.「さらに事業を拡げて、味噌・醤油も造った。これも順調で天塩・北見方面まで販路を得た。のちに増毛町の町会議員に選ばれ、彼地でかずかずの社会奉仕事業に名をのこした」

 【増毛町で酒造業といえば、明治8年増毛で呉服店から始めて同15年「丸一本間」を名乗り同年酒造業(今日でも國稀酒造(株)が存続)を始め その後も漁業・海運業・不動産業などの事業に成功し、同35年「丸一本間合名会社を創立、天塩国(今日の旭川市・留萌市・名寄市・富良野市・士別市を含む)随一の豪商と呼ばれた佐和田出身の本間泰蔵がいる。06年7月9日号「北海道と佐渡(4)増毛」)
 その事と矛盾しないか調べると、「増毛の産業のあゆみー増毛町」PDF(Portable Document Formatに次のように出ていた。
 「酒造業については、明治30年(1897年)頃まで5軒ありましたが、明治40年代には、本間泰蔵と青木順五郎だけになりました」。それは、ニシン漁獲量が明治35年の39,188トンを一つのピークに減少が目立ってきたこと(ニシン場出稼ぎ者(ヤン衆)数・酒の購買消費量と大いに関係する。なお、減少といっても昭和5年・8年は6万トン台、昭和21年は49,305トン(その後傾向として激減)を記録】
 d.木島松蔵
  ァ.明治10年丸山に生まれる。成人して北海道へ行き函館の木島の店に勤めて番頭となり、店主の豊治に認められ豊治の末娘の婿養子となった。
  ィ.分家独立してからはカネトと称し、大町に店を構えた。はじめは佐渡荒物を扱っていたが、漁網・マニラ麻のロープ類を加えて時代の移り変わりに順応。
  やがて新川町に工場を建て、藁縄・マニラロープ・綿糸網などの製造を始め 成功。大正末期から昭和初年の頃には、商売上では本家を凌ぐまでに至った。さらに樺太の木材資源に着目し製材業を営み、製材工場を函館と樺太に建てた。
  ゥ.「戦後は、日本が樺太を失ってから製材業を廃め、函館の吉川町に化繊ロープ類の工場と大町に漁網・漁具類の販売店の2つを経営し成功している」
 e.菊池平太郎
  ァ.江差や福山の繁栄した松前稼ぎの全盛期からやや遅れて、荒物の商いをした。
  ィ.福山に店を開き、はじめ荒物専門だったが ニシン漁の北上でイカ漁に変わったのに対応し、イカ釣りの漁具を主体に佐渡物産を扱った。
  ゥ.福山では、この店は佐渡店と呼ばれて愛され、「当地における松前稼ぎの最終まで残った店の一つである」
た仰
1)神道:松前神社(宝暦佐渡国寺社境内案内帳に基づく「佐渡の社」サイト)
 祭神:松前大明神、社人:弥右衛門、開基:文永6年本間山城守建立、慶長14年大久保長安再建立、社地1反1畝12歩ほか、社人屋敷5畝8歩。元は北西の山上字中ノ平にあったという。最近は神名帳羽茂2座の度津神社とする説が有力と云う。古くは春日大明神と称した。宝暦3年の再建棟札に春日明神とある。
2)仏教
 a.本行寺
 ァ.1271(文永8)年佐渡への第一歩を踏み入れた地に、聖人に帰依した仏寿坊日量によって1279年に建立。
 ィ.開基について貞享2年〔1685〕本行寺再建文によれば、「始往昔此番神勧請者元和3丁巳〔1617〕4月建立開基也星霜年積69年久不加修造者倒扉風朽落葉之下甍被浸雨露社檀更顕也」とある。
 ゥ.喜兵衛家の遺物:「仏壇に初代夫婦と4代目夫婦2組の木像、「庭に八方正面の松という銘木と石灯籠が数基と山門(もと同家の表門であったもの)などがある。また14代目の玄淳(本名正晴)が描いた波題目とお欅の絵が着岸殿の額に掲げられている」
 ェ.『川路奉行日記』
  「文永8年開基にて、本行寺と云う寺あり。則ち巡見所なり。村ゆたか成る故、てらもよろし。日蓮自筆の題目、其外品々あり。信心のものにみせたらんには、みな落涙の品なるべし。其内に池上本門寺のきわめ札ある、日蓮の消息というものあり。3通の内、□という字の書出にて、中字の草書あり。走り書見事にて、竜蛇の勢いある筆跡也。某、読まんとせしがよめず。住職に聞くに、昔よりよみたるものなしという。・・・・ここの尤も大切の霊宝に、春日大明神の日蓮の盃ごと成したるという土器あり。至ての古物、かけたり。様其外盃の台というもの瓦器にて、又古色あり。六角にてわたり7寸計、山水ともいうべき図ありて、其図のあいだあいだに、なみと雷文の如きものをいかにも至極細密にほりたる様、古色愛すべきのみにあらず、凡作とはみえず。・・・・日蓮は、父母の信じ給いけるとおもい出て
  ふる秋の霜もきえぬるあまつ日の 蓮(はちす)の光なおにおう也
  行いを本とさきぬる法(のり)の華(はな) 教をのこす古寺ぞこれ  」
 b.真言宗豊山派 長松寺
  歩いていると格調のある山門(鐘楼門:釣鐘の有無は確認せず)に魅かれ写真に収めた。過去2〜3回は通っているのに、別のテーマに関心が向いていたためか気付かず、ここにも立派なお寺があることに驚いた。
DSC09548
 ァ.案内板
 「 長松寺
  開基は開基は貞応3年(1224)で中興は延享元年(1744)第11世宥典法院となっている。明治元年に廃寺となったが同年(?:「年」不要)3年に復帰した。
 明治30年の水害で全棟を流失し、その後は今の低地におろして明治32年に庫裏と土蔵を同43年に本堂を再建」した。
 鐘桜(?:楼)門は大正13年に建てた。境内には不動明王などを祀る護摩堂、地蔵堂がある。本堂は光明を遍く照らす智を象徴する金剛界の大日如来を安置している」
 ィ.鐘楼門に向かって右の柱に「□動山 長松寺」とあるが、山号は多分「無動山」、同じく左には「佐渡四国八十八ヶ所20番札所」とあるが、現在は「佐渡八十八ヶ所番外霊場」か「旧佐渡四国八十八ヶ所」。
 山門2階は楼閣風で凝った造りとなっている。
 ゥ,『松ヶ崎編』の記述
 顱乏基等の記録は見当たらないが、「天和2年(1684)に松ヶ崎の長松寺の屋根を修理するにあたって、沿岸の村々からカヤを買い集めたときの萓〔カヤ〕取船の帳面によると、菊池喜兵衛家のハセ船14艘をつかったとしてある。
 ェ.1924年(大正13年)に建てられた鐘楼門の建築寄付者名
  必ずしも松ヶ崎地区の出身者とは限らないとして「北海道在住者の抜き書き」から数えると55人。
  地域別では、函館市38人、小樽市12人、旭川市1人、留萌市1人、増毛町1人、利尻富士町鴛泊〔利尻島の北端〕2人。
3.まとめ
  関心・今後の研究課題としては次の2点。
 ‐哨崎についてのなぜか。
  1750年代の『佐渡四民風俗』に「此所人心宜しき儀相考候処」とあり、1840年川路奉行巡村の際、「松ヶ崎は300石の村なれ共人別800人余ありて富める村なり」と評価。春日社〔松前神社〕の神殿瓦・鳥居の立派さから、「民潤(うる)おわでは、村持(むらもち)の小社をかくはせじ」と結論。
 また、個人的にも 小村にしてはの松前祭の盛大さ、鬼太鼓の近隣の集落に比べて優雅なイメージがある。 
  理由がつかめないのは、見落としている大事な何かがあるはずだ。
 (川路は夷湊の巡村では、「夷町・湊町にて高百石ばかりにて、人口3千に余れり。廻船等の入津もなくて、かくの如し。豊かなること、思うべき也」「ここにて夜、按摩(あんま)の笛を聞く。髪ゆい床などあり」。本陣(奉行の宿泊所)は夷にもあって本間という所〔昭和の頃まであった本間旅館〕。
 【川路は豊かさの理由はわからないにせよ、サービス業がいろいろあるのは豊かさの証拠と捉えている。夷・湊は農業は貧弱だが、交通の要所で漁業・商業が盛んであったことによる。】
 ⊂樵芦圓の成立する構造の認識。未来への応用性があると直感。
 郷土史家の現状は、データ無視と無しでの決めつけがまま見られ、松前稼ぎの部分と全体が把握できないためだろう体系だったものが無いので整理する必要がある。
  まずは、松前稼ぎの構造の正確な把握から。
  欠かせない資料は、原始データの豊富な『江差町史』。これは新潟県立図書館にあるが開いたことはない。実際見たのは、北海道の小樽市立図書館であった。7年前のことでブログに次のようにある。
 「(小樽)図書館の存在に気づいたのは8日のこと。小樽能楽堂へ見学に行った時の通り道の角にあった。能楽堂見学後通り過ぎてしまったが、時間が相当あり折角だからと引き返し、入館。一般の図書館ではカバンなどの持ち物は閲覧室に持ち込めないものだが〔なお、今はどこでも異常持出し検知装置が稼動〕、ここでは構わないとのことであった。

 『江差町史』が10巻ほど並んでおり、一部を取り出し閲覧。江差の廻船問屋に残る記録があり、年代は覚えてないが1700年後半〜1800年代中ほどと思う。夷や大川や松ヶ崎など佐渡の港から江差へ入港した回数をまとめたものがあった個人問屋の文書だから結論は出せないが、松ヶ崎からの船の入港が圧倒的に多かった。それらのデータは小樽と関係ないから、さっと目を通しメモはしなかった」
 (09年11月10日号「係わりの地45:小樽・旧磯野商店倉庫」)
 あの時小樽から江差へ行く予定にしていたが、3年前にも行ったと油断し想定外の旅費に懐具合が心配になり江差行きは断念し、小樽にもう1泊ということで行かずじまいとなって『江差町史』の価値をその時認識できたのは大きかった。すぐという訳にいかないが、巡り巡ってテーマが久しぶりに江差に戻って来た。
  以上

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