こんにちは!佐渡の本間です。

 尾崎紅葉の2回目は、両津が中心です。前回は、50トンの船で佐渡へ向かったところまででした。それから船は、新潟港を出る際から、日本海と信濃川の交わる所で大きく揺れます。「6時間この波にもまれてさへ耐(たま)らぬと思うに、これよりまだまだ烈しくゆられて、それで可(い)いものであろうか」と正直な気持ちが表現されています。

 「・・・眠りを催(もようお)して、風島の弁天が見えると起こされた。実(まこと)に風島、糯木崎(もちきざき)、水津の燈台、城が鼻、龍王岩や姫崎と・・・。やがて当面に顕(あらわ)れた両津湾は、・・・親鳥の塒(ねぐら)に待つが如く我が度津丸を迎えた」

 しかし、湾内も波荒く桟橋(さんばし)に着けず、艀(はしけ)を出して乗客を迎えますが、途中で「危ない、危ない」の一幕もありました。疲れ果て桟橋で横たわる乗客もいます。同行者が、冬場はそんなものではないと語るのを聞いて、吉田松陰の『東北遊日記』が出てきます。幕末頃、松陰が冬、佐渡に渡った時の文章です。(3月19日号「吉田松陰と佐渡(その1)」ご参照)

 ここで、実は後になって私にとっては非常に不可解なことに気づきました。それは、松陰がその時の心情・有様を記した漢詩・漢文を18行にわたってそのままの形で転記してあることです。自ら創り興すことが本命で、しかも「超」の付く一流の作家が、現代は勿論 当時でも読める人が極限られているはずなのにどうして?ということにあります。私は読めず、解説がないので内容も解りません。

 それとは別に次第に、見えてきたのは、次の点です。紅葉はこの紀行文をまとめる時、松陰の『東北遊日記』を参考にし、従ってその時々に詠んだ歌も記している。松陰自身も、松尾芭蕉の『奥の細道』をモデルにしたに相違なく、その芭蕉自身も(私は読んでいませんが)旅をしながら歌を作った西行をモデルにしているはずです。更に記せば、『佐渡広場』で紅葉の前に取り上げた田山花袋の紀行文には、既に紅葉が佐渡を旅して聞いて書いた話がいくつか載っていました。

 さて、佐渡の両津に着いたのが7月8日。両津での滞在は7月10日午後1時半ほどまで。書かれたことの全ては貴重な文章ですが、ここでも(以下、全てに同じです)絞ってまとめてみました。

 屐弊篤・羽田の)二氏に促されて夷(えびす)町に出て、字(あざ)築地(つきじ)なる裏町に入りて、吉田屋といふ旗亭(きてい)に案内された」

 昼食の間に、宿を捜してもらうと、無い。本間という宿は、鉱山巡視の一行が午後の船に乗る予定にしていたが、欠航でそのまま滞留。斉藤氏の算段であったが、やむを得ない。野村の場合は、徴兵検査官の宿になっていて、無い。一等下の宿は、徴兵検査で召集された者やその付添いで満員。斉藤氏の斡旋で、諏訪神社の宮司 安藤氏に一泊することになる。

風は強いが暑く、両津橋の税関署は涼しいとのことで、町の見物かたがた出かける。

a.「この港は夷町、港町の二箇町から成って、その境に両津橋が架かる。

   港欄干橋は 真ん中から 折れよと 船で通ても 止めりやせぬ

 と、夷甚句(前々からですが、現在の「両津甚句」)に唄ふものすなわち是で。町は南北に長く亘って、東に両津湾、西に加茂湖と、かたちあたかも眼鏡の玉の如く両様の水を湛へて、橋下に通ずる一道の流は、海と湖を結びつくるのである」

b.「▲夷欄干橋の欄干に題す

    湖海(こかい)をつつむ 橋の袂(たもと)よ 汗拭(あぬぐい)    」

c.税関署に来て、「趣(おもむき)のあるのは、ここに一株(いっしゅ)の老松が幾百年の翠(みどり)濃(こまやか)に枝を交えて、税関署をその下におおいつつ、風に狂じ、波に塩たれて立つのである」

d.税関署の署員 鎌原氏がその松の名の命名を求めてきた。

 「佐渡は謡曲の最も行はるる処であるから、村雨(むらさめ)の松など可(よ)かろう。浪の飛沫(しぶき)に濡れぬ日とてもあるまいと、それを村雨に見立てた」 

※今日でも、村雨の松は、税関署跡(現在、第9管区海上保安本部事務所)に生きており、『佐渡百選』の一つとしてあります。

 また、同じ欄干橋に立って記録した紅葉以外の人は?私の知る範囲では、その約50年前での吉田松陰。(3月25日号「吉田松陰と佐渡(その2)」ご参照)「(三月)三日 大風、或は霰(あられ)、雹(ひょう)。道路泥濘(ぬかるみ)にして行歩頗(すこぶ)る困(くる)しむ。先ず湊・夷の橋に上り、湖海を眺望するに煙霧濛々(もうもう)として○尺(しせき。一寸先)も弁ずべからず」

 100年以上前の事とはいえ、港に着いて紅葉が気にしたことが書かれてあるのを、記す必要はないと思っていましたが、記しておきます。

 「恐るるのは、この町筋の何処(いづく)にも名状(めいじょう)すべからざる悪臭を放つのである」の記述です。しかし、次に記しています。「ところが右を見ても左を見ても、軒を連ねる相応の店構、不潔の気の洩れそうな露地が一つ見出されぬ」

 それは、あちこちに干イカや炙(あぶり)魚が干してあり、スルメが積んであり、スルメの割(さ)いたイカの腸(わた)を貯えて、肥料として売っているためでした。

ぃ稿は、天気はよいものの昨日からの風のため、用意していただいた加茂湖の舟遊ができなくなり、たまたま旧暦2日で夷町に市(いち)が立つと聞いたので、散歩に出る。

 大方は野天に店を出し、雑貨、古着、太物、金物、青物、苗類、菓子、陶器、塗物、農具、家具等。中には、家の半分を借りて並べるものもある。芸妓屋に金物店の店を張るのは、面白い。鍬(くわ)の柄を売る男がくわえ煙管(きせる)で刃を着けている前に3,4人の百姓がしゃがんで話をしている様子は、「すこぶる、好い」と評価。市の様子は、「佐渡的の点が有るのでも無かった」が、意外だったのは言語であったらしい。

 「この島にありながら、都会の新潟の如き強い訛(なまり)が無く、又それに似たる処も無くて、多く京弁を雑(まじ)へる」と。

セ圓鮓学して、上(かみ)へ少し行って「谷地(やち)」という漁師町に出る。そこで、蕎麦(そば)屋か何かはっきりしない店に2人が向き合って蕎麦を食っているのを見て、いかにも旨(うま)そうな黒い色をしていたので、ひょろりと入った。

a.食べていた一人が「さあ、お入(はい)んなさいまし。こちらが空いて居ります、どうぞお上(あが)んなさいまし」と箸をおいてそこらを片付ける。入ろうとした処へ駆け出て来たのが女房。「はい、1銭8厘で御座います」。それぞれに面白い。

b.一人が、いきなり持っていた茶碗を自分に差し出して、慇懃(いんぎん)に一盃を勧める。はて面白い!5合入りの口からどくどくと番茶のような地酒を注ぎながら、「何処(いずこ)の旅の衆(しゅう)か」とたずねる。「東京から来た」と答えると、驚いた様子で、「何しに来た」とまたたずね、「見物に来た」というと、二人ともいよいよ呆れた様子で、「東京からわざわざ佐渡を見物にござったのか」と、自分を凝視した。「そりゃまぁ、遠方を好(よ)う御座りました」という傍からもう一人の翁(おやじ)が、「私のも、お一つ」と差し出す。断わるわけにはいかないと思って受けたが、急には飲めない。

c.紅葉自身は、「東京から来たという自分を見て珍らしがるのは怪しいことではない」と。新潟から佐渡まで同行していただいた羽田氏の談話を載せています。ある時列車の中で、「どちらから来られましたか」と聞かれたので「佐渡から」と答えると、妻なる人はビックリして「佐渡の者が日本人と少しも変わらない」のが不思議そうで、愚にもつかないことを散々質問されて困ったとのこと。

d.翁(おやじ)に銚子を贈って出ようとしたとき、「これは、お名残(おなごり)惜しい。我らは又何時(いつ)の世 花の都人と、このように手を取って酌み交わす事のあるべきや、これ今生(こんじょう)の思い出なり」、「是非に是非に」と双方から例の茶碗を突きつけられる始末。はて、面白い。

e.互いに健康を祝して門を出ると、「脚(あし)のひょろつくこと夥(おびただ)しい」。酔うた機嫌で「このまま帰るのも妙ならず」と、買い物もしました。買ったものは、以下のとおり。

 スルメの新しいのを五把(百枚)。おやき(焼餅。うどん粉に塩味を付け、銅鑼焼(どらやき)にしたもの)は13食べて渋茶を飲む。イカ切二挺(ちょう)。のろま人形の手遊び。

 「両の手の荷と共にふらりふらりと宿に帰った」

Σ談亳

a.「加茂湖は古名を越の湖(うみ)と称(とな)へて、周囲四里廿三町、十個村その水をめぐって、南北に長く、東西に窄(すぼま)りて凹凸(おうとつ)し、大佐渡の諸嶺(しょれい)その鑑中(かんちゅう)に入りて、春秋の容(かたち)を粧(よそお)い、朝暮(ちょうぼ)の雲を洗ふのである」

 「金北の山の聳(そび)えたるよりなお目を驚(おどろか)して、ここに漫々(まんまん)たる水の一望の外に溢(あふ)るる碧(みどり)を畳(たた)みて、逢山方得地。見月始知天とも謂(い)わば謂うべき大いなる者を得たる、是(これ)一奇(いっき)」

b.紅葉は、一般に「八景」という名で「一つは・・・、二つは・・・、・・・・・」として限定するのには反対。「八景」などという「粗製濫造は、俗の最も甚だしいもの」と厳しい見解を持っています。「かえって景に対する人をして興(きょう)を冷(さま)させる」「この湖の如きは佐渡一国の面目(めんぼく)であって、又いやしくも北陸の勝(しょう)たるべき者なる」と。

 翌日10日も、風強く舟遊はまた見合わせとなる。佐渡旅行は2週間の予定で、相川、新町、小木、都合によっては松ヶ崎辺までとしており、もう明日というわけにはいかず、「遂にこの湖に浮かばぬのは遺憾であるが、再び帰り来る頃には月も佳し、縁も有らばその節夜(せつや)遊(ゆう)に興(きょう)ぜん、と人々に契(ちぎ)り置いて、午後1時半という程に相川を指して出発した」