こんにちは!佐渡の本間です。

 前回 木食(もくじき)僧 弾誓(たんせい)上人に続いて、今回は木喰行道(もくじき・ぎょうどう)がテーマ。参考資料は、前回同様。

 行道がなぜ佐渡に渡ったかについては、弾誓を慕ってということらしいが、木喰行道を調べた結果、この11月4日光明仏寺を訪れた際 堂内の壁に書かれた落書きを見て驚いたこと、「なぜ、宮崎県日向国(ひゅうがこく)から3人の人が、明治43年佐渡の中でも辺鄙(へんぴ)な山居の地を訪れたのか?」その謎が、ほぼわかってきた。

1.木喰行道(1718〜1810年)

(1)経歴

々箪の丸畑(山梨県・身延町)出身。

⊆磴せから宗教活動をしていたらしいが、転機は45歳の時。常陸国(茨城県)羅漢寺の木食観海上人から木食戒を受けている。

 「日本廻国修行セント大願ヲ ヲコシテ、法心スル事四十五才ノ身ナリ、ソノ節ヒタチノ木喰観海上人ノ弟子トナリ、・・・」(行道の自叙伝とされる『四国堂心願鏡』)

9堝擦蓮廻国(全国を廻る)修行を精力的に行ったのは、木食戒を受けて10年以上経った安永2年(1773年)、56歳の時。

(前掲著者の西海氏は、「廻国遊行」と表現しているが、私自身は「廻国」と「修行」は一体であると思うから、当書にある「遊行」という文字を全て「修行」に変えて解釈している。「遊行」という言葉は、おそらく木食僧自身は使わない言葉だろう。木食僧にとって見れば、修行や布教の意味を含んでいるとしても、とんでもない言葉であると思われるからだ)

す堝擦料換餽垉咫覆△鵑ゃ) 56歳から90歳くらいまで精力的に行う。

 1)1773年 56歳で相模国大山(神奈川県伊勢原市)を出発。ほぼ関東一円の坂東札所を廻る。

 2)1776年頃、58歳で東北地方を廻国し、蝦夷地(北海道)に渡り江差に2年間滞在。

 3)1780年、62歳で再び関東地方を廻国。

 4)その後、信州・越後を経由し1781年63歳で佐渡に渡り、4年間滞在。 

 5)4年間の佐渡滞在後、1785年郷里の甲斐丸畑に戻るが、すぐ中部・近畿・中国地方を経て四国に入ったのち、九州に渡った。

 日向(宮崎県)国分寺に居た3年目に火事に遭い、「ソレヨリ7年ノ間、難行苦行ニテ,伽藍(がらん)建立成就シテ」とある。

 6)1797年 79歳で九州を発ち、中国・四国・近畿・中部をめぐり、故郷の丸畑に帰る。

 7)丸畑の四国堂が完成すると、信州・越後をめぐり、1806年88歳の夏に6度目の帰郷。

 8)88歳の年の秋には、京都府下の清厳寺におもむいたが、その後の足跡は不明。

(2)行道の思想と行動

 木食僧(もくじき・そう)としての共通面と行道固有の面がある。

‘本国中を回って修行する。木食僧の研究家・専門家が既にいながら、専門用語と通俗用語の区別が何らなされていないが、「遊行」ではない。45歳の時に明確に廻国「修行」と決意し、92歳で死ぬまで実践した。

¬攷戒(「戒」=「道」)に徹した。

 1)「木食戒というのは、五穀以外の果実を常食とする厳しい戒律」「行道は観海から木食戒を受け、終生この戒を守ったといわれている」(以上『江戸の漂白聖たち』より)

 2)五穀=米、麦、(あわ)、豆、黍(きび)または稗(ひえ)。行道の日記である御宿帳には、「ソバコ(そば粉)」「アハコメ(米)」などの施しを受けたことが、書かれている。

 3)「五穀を断(た)つ」とも書にあるが、おそらくは「回峰(山の峰々を歩く)という行(ぎょう)の間は断つ」ということで、本質は「食べ物を焼いたり煮たりしては食べない」ということにあるのだろう。回峰行に勤める行者にとって、貴重な携帯食料。それがなければ、木の実や木の皮をとって食べる。

 比叡山延暦寺の千日回峰(7年間がかりで、300箇所以上の聖跡を巡歴)の行の間は、塩でこねた「そば粉」を食料としている。

2拭構,箸の宗派にこだわらず、全て受け入れ尊敬している。仏教ばかりでなく、神道、神社も崇拝。

 民衆に目線を合わせ、日本国の泰平(たいへい)を祈願している。

ち換餝特呂膨刻や揮毫(きごう)を残している。

 1)「日本順国八宗一見之行想  十大願之内本願として  仏を仏師国々因縁ある所にこれをほどこす  みな日本千体の内なり」とある。

  本願は、日本の国々を回って仏像を施す。目標は、1000体を刻む。

 a.彫刻した像の特徴は、微笑みにあった。

 b.この点について、『佐渡の木食上人』「序ー木食上人は生きている―」に小松辰蔵氏が、佐渡に残っている行道の彫刻22体について「すべて上人の個性を映して、嬉しそうなほほ笑みを浮かべたものばかり」とズバリ表現している。

 c.全国で確認されている木食仏は、712体。(1985年現在)

 2)書きもの

 「三界無庵無仏 木食行道」と、記されている。

 a.「三界」を調べると、

 食欲・淫欲の「欲界」、欲界を超越したが物質的条件にとらわれた「色界」、欲望・物質的条件から超越した精神だけの「無色界」。凡夫はその三界を生死を繰り返し輪廻(りんね)し続けるが、仏はその輪廻から解脱(げだつ)。

 b.「無庵」は寺院なし、「無仏」は仏なし。

  あえて解釈すると、

  「三界輪廻の世界に生き、家なく仏もない  木食行道」

2.佐渡における行道の事跡

(1)彫刻22体、揮毫(きごう)100点内外(焼失を除く)の作品を残す 

…刻:全国に712体とあるから、その3%が佐渡に現存

 1)内訳:地蔵菩薩像8体、大黒天像8体、薬師如来像2体、達磨大師像1体、弘法大師像1体、天満天神像1体、釈迦如来像1体

 2)『佐渡の木食上人』(1971年発行)には、すべて写真で掲載されている。なお、揮毫は、数えてないが数々の写真が掲載されている。

揮毫

 1)「三社さまの軸物が最も多い」。(「三社」とは、おそらく神社関係のことであろう)

 「常に、禁常(今上)皇帝、国家安穏、天下泰平と付記し、佐渡の神々の金北山大権現、羽黒山大権現、檀特山大権現などが併記されている」

 2)三社さまの他には、自画像、天満神社、経文辞句、南無阿弥陀仏等の書がある。

(2)神社・仏閣への参拝と納経、寺院再建・再興など

―弍精蠅ら舟で小木へ渡り、島内各地をまわった。

 小木・小比叡山蓮華峰寺、羽茂・佐渡一ノ宮度津神社、真野の真輪寺・国分寺、佐和田・八幡の八幡宮、相川・真如院などなど。(行道自身の日記、御宿帳にある)宿泊は、民家(宿屋もある)で名前が明記)

⊃森浩遏山居

 1)光明仏寺を再興

 弾誓上人のゆかりの地・山居で、光明仏堂の荒廃を見て、再興を思い立ったとされる。「真更川光明佛堂再興 光明佛建立勧化 即」の文章が発見された。

 a.『佐州加茂郡真更川村光明佛建元勤化帳』がある。堂を建てるため施主を募った。

 b.檀特(だんとく)山(907m)、金剛山(962m)、金北山(1172m)3つの山は、佐渡での弾誓上人の厚く慕った霊山であったとされる。

 c.弾誓が、山居と檀特山を回峰して霊所を開いたとされる掛軸が、真更川の三十郎家にあった。

 2)檀特山釈迦堂を再興。

 a.金北山権現別当真光寺、檀特山別当(石名)清水寺、山居の光明佛、(両津・梅津)羽黒山別当正法寺、片野尾別当風嶋権之進(風島弁天)などを訪れ、次々に納経。

 b.檀特山釈迦堂再建 口上は、天明元年(1781)7月とあり、石名・清水寺、同村(真更川)名主 藤次郎、本願主 木食佛(行道)、施主 真光寺の名前と印がある。

 c.5月に佐渡へ来て、2ヶ月足らずでそれらの建立を取りまとめた

E渓寸看(1784)両津・平沢に九品堂を建立。

 1)「九品」とは、極楽浄土に九個の品位(上上・上中・上下・中上・・・下下)があり、これを「九品佛」という。

 2)村人のために九品佛を刻み、仏を祀る九品堂建立の願を立てた。

 3)天明5年5月12日に、行道は九品堂から飄然(ひょうぜん)と姿を消した。その日、夷町宮の前の長兵衛家に宿し、13,4日は大川の藤左衛門に宿泊。5月15日、水津から乗船し新潟に着いた。

す堝擦竜遒辰晋

 1)佐渡では唯一の弟子丹海が法燈を継いだ。木食丹海。その後、何代続いたかは、はっきりしない。

 2)毎年4月21日には平沢の人たちは仕事を休んでこの堂に集まり、盛大に念仏が催されるようになった。(現在の堂は、平沢大火の後建立されたもので、堂に祀られた九品佛も施主札も焼失した)

3.まとめ

〆廼甍賚△痢嵶鮖縫好櫂奪函廚蓮△海裡横監(土)羽茂・大崎へ「大崎そば」を食べに行くため予約したところから、直接スタートした。その前は、9月に大崎活性化センターを訪れてそのことを知った。そのキッカケは5月にカーフェリー船上で大崎座による文弥人形を見たことであった。

 1)「歴史スポット:羽茂」は、羽茂・小泊のところで、石工・石仏に入り、さらに木食僧に行き着いた。

 2)11月初め2泊3日の海府の旅をし、山居池・光明仏寺を訪れた。光明仏寺で、なぜ明治43年(1910)に宮崎県から鄙(ひな)びた所に来たのか非常に不思議であった。

 3)行道を調べて、宮崎県・日向国(ひゅうがのくに)に行き着いた。

 a.行道が、廻国修行で日向国分寺にいた時火災に遭った。そのため、その後7年間(1797年頃まで)滞在し、その再建に尽力した。

 b.明治43年は、行道が国分寺を去ってちょうど100年を過ぎている。

 ・行道を思い起こし、その足跡を訪ねようとする有志がいた。国分寺関係者かどうかはわからない。

 ・おそらく、佐渡ばかりではなく越後の各所(行道の残したものがある)・その他地方も廻ったに違いない。当時は、鉄道は開けていない。と、すれば舟と徒歩。行道と同じ条件で、旅したかもしれない。

 ・さて、光明仏寺を訪れたところ、非常に鬱蒼(うっそう)とし、人気(ひとけ)は全くない。寺の管理者がいるようには見えず、記帳する物もない。その時、3人の中の一人が言った。「書くものが置いてないのだから天井の壁板に記帳し、そのことを残しておこう。決して、罰が当たるものではないだろう。日向国から3人が来たということを示そう」(これが、誰が提唱したわけでもないいわば光明仏寺を訪れた人だけの伝統文化の発端となり、今日に至っている)

 4)このあたりになると、キャノンの内田さんが語ったまさに「(歴史の)未知のロマンに酔う」である(07年11月14日号「歴史スポット羽茂:羽茂言葉は名古屋弁」)。さらに洒落・こじつけを申せば、羽茂の「大崎そばの会」から始まった「歴史スポット」シリーズは、木喰上人が必携とする「そば粉」に行き着き、その間気持ちの上で「修行」ならぬ「遊行」をして独りで楽しんできたことになる。

¬擽道や木食僧といえば、世捨て人・隠遁生活者のようなイメージがあったが、全く逆。

 求道者(ぐどうしゃ)には相違ないが、民衆の中に入り、明るく、年をとっても元気で逞(たくま)しい。行道の場合、56歳から本格的に全国を廻りながら90歳まで生きている。仏教、しかも宗派にこだわらず、神社や諸々の日本の神々を崇拝しているようなスケールの大きい人であった。木喰仏

(画像は、石名清水寺の木喰仏。「佐渡百選」による。http://www.sadokankou.gr.jp/sado100/100/rekishi/pop15.html

今朝のNHKテレビ番組で、中国・重慶のある寺院で若い僧侶たちが、サッカー・チームを作って練習や試合をしているのが放映された。

 来年は、北京オリンピック。中国ではサッカーが盛んらしい。その寺院には、内モンゴルから修行に来ている若者もいた。

 「サッカーも修行の一つ」という見出しが面白い。厳しい仏道修行の中でも、将来の中国を担う若い僧侶たちは、明るく、大らか、喜びに満ちていた。

 その微笑みは、まさに木喰行道の刻んだ像とソックリな感じがした。

以上