こんにちは!佐渡の本間です。

 レゼー神父の布教活動は、前々回 医師との偶然の出会いが機となり夷町の有力者を夕食会に招くことにより人間関係ができ、前回の場合は佐渡に多い眼病者に対し眼病に効くフランスの目薬を持っていたことが幸いし、その効用が認められてたちまち評判となり説教の機会が増えたことが、これまでのストーリーであった。

 結論として、「日本に来て40年 佐渡に3年間いたが、佐渡ほど布教に骨折った所はない」と語っていることから想像すると、一定成果は収めたが大変難しい所ということを示している。

 今回は、レゼー神父の主な布教体験を紹介し、一つの区切りとしたい。

1.空前絶後:神社・寺院でキリスト教を説教

 「余(よ)は佐渡において時々妙な場所、仮にも天主公教の話などなし得べからざるはずの所に説教した。即ち神社や寺院において説教したことがあった。神官も僧侶も、何の故障も称(とな)えず、大きな阿弥陀仏(あみだぶつ)の前に起(た)って滔々(とうとう)と御一体なる天主の話を説き聴かせるなどのことは、当時の佐渡の外(ほか)空前絶後であるだろう」

2.人間の生き方

.譽次漆隻磴了っていた目薬で目が治った神官(前回記述)

 1)2年間説教ごとに聴きに来た。また、自分の村に説教所を設けるほどの尽力をしてくれた。

 2)自分のように天主教を信ずる者は、神道の祈祷など馬鹿げで出来ないとしばしば言うほどであった。

 3)だが、世間を憚(はばか)り、信者が増えて後に入ると言ったが3年後亡くなってしまった。

∈能號れた時一般人の服装であったが、次は法衣を着て訪ねて来た僧侶

 1)初め普通の人の衣服で来たのは、キリスト教師は僧侶を嫌うと思って来たが、会って心が解かって余計な心配は及ばんと考え、今度は僧侶の身なりで来たという。

 2)彼の寺に招かれた時、丁寧に親しい友の如く歓待し仔細に案内してくれた。

 3)立派な種々の仏像について質問すると、彼は冷笑の声と侮蔑(ぶべつ)の手真似、羞辱(しゅうじょく)たる面貌(めんぼう)で、説明。「どうして仏像を尊敬なさらないか」を問うと、「少し物の解かった人の目から見て何千ある仏が信じられようか」と答えた。

 4)これに、衝撃を受けた。「自分が、神と真の宗教を信ずるのは天より与えられた深い恩恵である。そうであるから、天与の恩恵を得なかった彼を憐(あわれ)みこそすれ軽蔑してはならない」

ある村の傲慢な医師

 1)ある晩説教していると背の高い西洋の帽子をかぶった人が帽子も脱がす肩で風を切りながら傲然と入ってきた。座って聴いている人の中を無遠慮に通り、テーブルの前に突っ立って一礼もしない。

 2)彼は、ようやく座ったが帽子を脱がない。説教が終わると、威張りながら軽蔑の声で種々な愚かな質問をした。聴衆が帰った後、伝教士に言った。「彼のような傲慢な人間は、謙遜を守らせる天主公教に入られないから、今後彼に遇っても心配するに及ばない全く捨てるべき人だ」

 3)半月後、医師は夷の我が教会を訪ねた。帽子を脱ぎ丁寧・謙遜で贈物まで持ってきて言った。「何卒、私も救世主教を勉強して信仰したい」と。

 4)医師は、数ヶ月の後、妻子共々洗礼を受け教えをよく守ったばかりでなく、医師だから瀕死の小児に洗礼を授けて霊魂を救うこと毎年何十人であった。なお、その後何十年かの後の明治30年にフォリ神父が北海道の千島に渡った時その医師と遇ったという。当地でも熱心なカトリック教徒となっていた。

3.日本人が怜悧なることに最も驚嘆した海府での説教

 明治6年にマルセイユを出航した日5,6人の日本人に会った時から日本人は怜悧(れいり。賢い、頭の切れる)の民だと感じた。しかし、渡来後40年間に最もそのことに驚嘆したのは海府で説教したときのことである。

 屬海諒佞蠅垢戮討粒ご澆麓造法恐ろしい所で海と山との間に平地がない。田畑は極めて少ない貧しい漁師のみなる寒村が点々としてあるのみだ。今まで随分各地を巡回したが、これほど貧しい哀れな土地を見たことはない」

◆崋分は一人の伝教士と山越しに海府の小田村へ行き、この村から相川までの海岸を歩いて所々に説教した」

「至る所に聴者は非常に多かったが、皆極めて従順に聴問した。驚くべきは、文盲の漁師であっても決して無智ではない。却(かえ)って神の性質とか霊魂の不滅とか物質界の元始などという困難な問題についてなかなか深い論を立て形而上(けいじじょう)的の理屈を述べ、一寸(ちょっと)解答に苦しむような質問をされる」

ぁ崋分の如く哲学神学を専門に修めたものが窮するほどのことが時々あった。自分は思った、我が祖国フランスでも田舎の百姓などは斯(かく)ほどに深い質問をするやうなことは決してあるまい。之は実に奇妙なことではあるまいか」

4.出来事

(1)教会

夷教会〆甘呂謀呂辰藤映後(明治11年)、夷町長の御斡旋によって夷湖(加茂湖)の辺りの敷地を借り入れることができた。

△修海棒祥隆曚魴築して移ったから、ようやく先ずは教会らしいものが出来上がった。これは、佐渡においては恐らく最始の西洋館である。

しかし、3年後に夷町大火(明治16年)にあって全焼した。(現在の天主堂は、明治20年(1887)の完成。日本海側最古の木造聖堂としてある。画像は、07年7月21日撮影)

(2)コレラ騒ぎ

〔声12年夏、新潟に恐るべきコレラが流行。幸い佐渡にはまだ侵入しなかった。が、佐渡の人民は非常に恐れて大騒ぎをやった。

 1)どこの国においてもそうだが、人民に何かの恐れが起こった時、流言が生じ愚かなる評判が行われる。

  西洋諸国のように千何百年来の基礎ある開化国でも同じ。例えば、19世紀半ばオーストリアにコレラが流行したとき政府の命令を受けて治療のため田舎に出張した医者等は、人民に疑われ病気を流行(はや)らせるため派遣されたという評判が立ち、そのため騒動が生じ一人の医者が殺された。

 2)佐渡においても、之と同じであった。

  外国人で佐渡に居るのは自分一人。それで、自分がコレラを佐渡に流行らせるようにしているという評判が立った。

 a.夷町の戸長は心配して、外出せぬようにと忠告してくれた。

 b.自分は評判を気に留めず常のように外出した。成る程、自分を憎み視るような者が随分あった。真面目そうな人に話しかけると、その都度 コレラの種子を夷の湖水と河とに播くという答えだった。

 c.世間を恐れて説教所を貸そうというものが無くなった。そのため布教を一時中止して半年余りも待っていた。

 3)人の風評も75日とはよくいったもので、新潟のコレラが下火になるに連れ我が悪評も薄らいで来た。

 それで徐々に布教を始めようと思ったとき、生憎にも転勤を命ぜられた。佐渡の他、越後、越中、加賀、能登、越前の五カ国にも巡回布教するようにとの司教閣下の命令。

 「佐渡に本拠を置くことは出来ない。故にやむなく此の有望な佐渡を出で悲しみながら本土に移ることになった。これは明治13年春のことである」

5.最も嫌だったこと2点

(1)雪の夜の布教帰りの必死の橋渡り

 説教のため毎夜のように夷町の近在1〜1.5里(4〜6km)の村々へ出かけ、帰りはいつも夜中の12時頃になる。途中に1条の随分広い河があり、そこに架けてあるのが2枚の板。並べてでなく、1枚は河端から河の中の岩までという具合。

ヾ中雪の降る時など、往きは昼だから人が通って板橋には雪がない。少しはぐらつくが何とか渡ることが出来る。

帰りは、説教中に大雪になることが往々(おうおう)あった。例の河まで来ると雪は、綿をちぎって投げるように降る。風は吹く、提灯(ちょうちん)は消える。板の上には雪が1尺(30cm)も積もっている。足を置くべき所がない。

仕方がないから、片足を上げて雪を掃(はら)いながら進んで行く。橋は、いよいよ揺ら揺らする。身体の中心を失ったら、河の中へ真っ逆(さか)さま。

 冷汗を流しながら渡る様は、下手な綱渡(つなわたり)が稽古(けいこ)しているようだった。このようなことは、しばしばであった。

(2)冬の航海

‥漾⊃軍磴惺圓辰燭箸のこと

 冬季は北海が荒いため郵便物さえ3ヶ月は滞(とどこお)るという時節、霊父ヴィグルス師が東京から新潟に来られることを前に知っていたので、是非お目にかかりたいと思った。

 1)当時は、郵便船も客船もない。ただ、小さな漁船が時々新潟から来る。これは、新潟の魚問屋が夷に買出しにやるもの。冬になると新潟近海は波が荒く漁が出来ない。そのため夷湾(両津湾)で獲れた魚類を買い入れて市内に供給。

 2)そんな船だから普通の漁船より多少大型というに過ぎない。そのような船で荒海を20里(80km)も乗り切るのは極めて危険。

 3)夷の町長始め知人は危険を犯すのは止めたらと勧告してくれた。自分は、青年(30歳前後)で客気に駆(か)られ、なあにこれしきと思って忠言を容(い)れなかった。

 4)日が暮れる頃から風は凪(な)ぎ、時分よしと漁船は夷港を出帆した。

 a.夷湾(両津湾)の出鼻を廻って外海(佐渡海峡)に出始めると、逆巻く怒涛(どとう)は船を木葉(このは)の如く翻弄(ほんろう)。船首が天に昇るかとい思うと、たちまちに奈落に向かって墜下する。

 b.船中には魚類が山の如く堆(うずたか)い。自分は片隅に一枚の莚(むしろ)を敷いて座っている。雨蔽(おお)いもなければ防風もない。おりしも飄然(ひょうぜん)たる寒風は霙(みぞれ)交じりの雪を叩きつけても避ける場所がない。船内は魚類に占領されて身動き出来ぬ。たた海中に抛(ほおり)出されぬよう、一生懸命に船にしがみついているばかり。

 c.このような有様で一睡もする間もなく黎明(れいめい)漸(ようや)く信濃河口に着いた。河口には洲のために浅瀬が多く、2、3度は転覆するかと思って肝を冷やした。

 「正直を申せば今老人になった自分だが、いかに急用があってもこんな船には再び乗るまいと決心しておる」

⊇餞覆涼戮

 1)11月初旬に漁船が新潟に行くと聞いて、東京のオズーフ司教閣下宛て書簡を夷郵便局に託した。書簡が届いたのは、翌年3月初旬。

 2)その時のオズーフ閣下の返事はこうであった。

 「あなたは、どんな世界に住んでいるのか、佐渡より東京に達する書簡はフランスより東京に達する時間の2倍余りである」云々。

  参考》佐渡〜越後間の旅客輸送

 a.赤泊が本州(寺泊)に近いことにより、文政10年(1827)の押切設置以来、越佐間の旅客輸送の港として赤泊港は栄えた。

 b.明治13年の汽船高田丸(60.25トン)の多田〜寺泊就航の前までは、旅客は赤泊〜寺泊間を江戸時代以来の押切船(百石積み位の小型帆船)で行き来した。(神父が佐渡に最初に来たのは、寺泊から赤泊行きの押切船に乗船)

 c.両津〜新潟は、汽船利用が始まり、定期航海が行われたのは明治18年から。それまでは、不定期航路であった。

6.失敗談

 我らのごとき外国の宣教師は、何か遊戯するにも娯楽をするにも、先ずそれがその国の習慣風俗に反することでないかいうことを調べた後でなければならない。自分は当時若かった。そんなことには気がつかない。そのためにした失策であった。

[渉渡僂僚亳の丘の岬より何十町の沖合いに海中から突き出た岩が3、4あり、土地の人はこれを胡十(トド)島という。

 1)この岩にはトドが何時も遊んでいるということを聞いて、一度見に行きたいと思っていた。夷に家を借りるとき世話してくれた片目の医者が、トドの上顎(あご)にある硬い髯(ひげ)は○歯の妙薬だそうであるから撃っていただきたいという。自分は、そんな薬は信用しないが、猟銃は素(もと)より好きであるし、医者にも満足させたいと思って、伝道師を伴って、銃を肩にトド猟に出かけた。

 2)船が胡十島に着いた。声を潜め櫂(かい)を静かに岩陰に廻ると、トドが岩の上に眠っているのを見た。大小1頭ずつで、狙い定めて放したら幸い命中した。2発でようやく撃ちとめることが出来た。

 3)すると船夫の顔が見る見る変わってきた。自分は縄をその首に懸けるため手伝いを頼んだが、彼は首を振って応じない。やむを得ず、伝道師と行った。そして船で曳きながら一番近い茂浦(藻浦)という村の海岸に帰り、人を雇って船に載せようと思った。

 a.海岸では銃声を聞いて、全村の婦女子までが見ておった。お金をやるから、どうかトドを海から船に揚げて下さいと頼んだが、誰一人応じてくれるものはない。

 b.伝道師と二人で力限り引っ張ったが、大きな体はビクともしない。村びとに幾らでも銭を出すといっても、彼らは遠巻きに我らを環視するのみで手伝う者はない。私が進めば、彼らは退く。そして睨(にら)み付けている。

 c.長さを測ってみると、7尺(210cm)もある。仕方なく、首だけを切り離し、体は海中に放棄(ほお)って再び船で夷へ戻った。

 4)夷の人々は、その肉を食べたいから、好物をむざむざ棄ててきたのを遺憾に思った。私が、片目の医者にトドの頭を贈りその状況を語ると、

 「や、それは私が悪かった。あなたがトド猟に行く前にお話ししておけば良かった。かの村民は、トドを海の神として拝んでいる。トドのお陰で漁があると信じているそうです」

 5)反省

 トドは魚類を餌としている動物で、漁に害あって益がなく、これを撃つのはその害を除く。しかし村民の無智より信ずる愚かな考えでも、これに逆らう行為は良いことではない。

7.まとめ

‖慮鈎未虜嚢盞羣遒蓮⊃声劼篁院でのキリスト教の説教。

 1)レゼー神父が40年間を振り返り、「空前絶後」と語ったことが非常に面白い。

 2)キリスト教やイスラム教などの世界で、その聖堂の中に他宗教の伝道師が入って異教の教えを説教することは絶対あり得ない。「節操がない」「いい加減」と言われても仕方ない。

 a.当時は、文明開化。日本人自身、欧米の文化を尊(とうと)び、日本・東洋文化を蔑(さげす)んた。明治新政府の神仏分離令が発端となり、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく。仏像破壊)が行われた。

 b.当時、知識階層である神官や僧侶の場合、キリスト教解禁によってその宗教への関心と西欧人の前では自分の宗教を一面では卑下したことが推察せられる。

  しかし、仮にキリスト教の方が優れていると思っても、代々から地元住民の支持でその職に就いており、ご先祖をはじめ住民を裏切るようなことはできず、キリスト教信者になれない事情もある。

 3)佐渡と全く異なる他県の実例

 a.伝教士が明治15年ある山村の小学校に教員をした時のこと。ロコンド霊父がその村に巡回してきて校舎(と、いっても寺院)に泊まった。山間僻地(へきち)のため師の黒い長い服を見ても住職は、キリスト教師とは知らずこの珍客を歓待した。

 b.師は1泊して行かれたが、後で住職に対して本山から譴責(けんせき)状が来た。先般キリスト教師が当県下に入り込み、その寺に宿泊させたというが何故そういう不都合なことをしたかという厳しい達しだった。

 c.住職は驚き怒って、伝教士に悪口雑言を吐いただけでなく、村中に言い触らし、村人こぞってその伝教士を憎みだし、彼はついに学校に勤めることができなくなった。「当時の状態は、この一例を見ても想像される」とある。

  (それが、正常・普通。佐渡は、異常・特殊)

▲譽次漆隻磴砲弔い討蓮▲魯鵐札麌卒擬圓竜澪僂暴侏萋世觚造蠅領呂鮹蹐い世海函糞潺薀せ業)を抜きにしては語れない。

 ハンセン病は、重症になると顔が崩れて奇怪になり、手の指は抜けていき、脚に包帯をしていても膿がにじみ出て、人から嫌われ死を待つのみという怖い・悲惨な病気である。伝染するということで、重症患者は社会から断絶され強制入院隔離された。

 神父の晩年13年間は、ハンセン病患者を治療する神山復生病院の院長も務め、81歳の生涯を閉じるまでその病院に留まった。

 ある名門家のお嬢さんが20歳前後の時、皮膚に赤い斑点がでてきたのである大学病院で診てもらったところハンセン病と診断された。早速、神山復生病院に入院。なお籍はその時、本人の知らぬ間に外された。

 病院に入ってみると、医者としてレゼー神父がいるだけで、看護婦はいなかった。軽い患者が、重い患者の世話をしていた。そのお嬢さんも、やがて患者の世話をするようになった。

 1年経った時、皮膚の斑点が消えていた。東京の専門病院へ行って精密検査を受けた結果、ハンセン病は誤診であることがわかった。今まで隔離された状態から、社会復帰を果たすことができた。しかし、そのお嬢さんは、病院に留まる決意をし、看護婦の資格を取って戻って来た。

 レゼー神父が笑顔で患者たちに接し、自分が感染するかもしれないのに患者を手でなでたりさすったりして励ましている姿・患者たちの意外な明るい姿から、絶望感に囚われない・屈しない希望の真の世界があることを感じ取っていた。

 そのお嬢さんの名は、井深八重(1897〜1989)。1959年ローマ法王ヨハネ23世から表彰され、1961年国際赤十字社からナイチンゲール記章を受賞された。患者からは、「母にもまさる母」と慕われた。

 レゼー神父は当病院で亡くなり、病院墓地に亡くなった患者と共に眠っておられる。

以上