こんにちは!佐渡の本間です。

 前回は「佐渡の鉱山」では金銀銅鉛について触れたので、今回は製鉄を取り上げた。

 世界史の区分では、人間がどんな道具を用いたかによって石器時代→青銅器時代→鉄器時代に移ったと説明されている。日本の場合・佐渡の場合、いつ・何処で鉄器が使われるようになったか、元となる製鉄はどうか、それは何処から伝わったか、がわかれば、鉄を通じて古代における佐渡は、何処と密接な交流があったかの一端がつかめる。その事が、関心事であった。

 資料としては「たたらの話」http://www.hitachi-metals.co.jp/tatara/が、記述展開のすべてにわたって参考になり、個々の事例についてはそれぞれのネット・サイトと佐渡に関しては『佐渡金井町史』(1979刊)と『台ヶ鼻古墳調査』(佐渡市教育委員会。2007年)などが参考になった。

1.日本の鉄器文明

 流れからいえば、製鉄→鉄の加工(鍛冶)→鉄器の使用であるが、日本の場合 伝来によるものであるから、逆の流れでまとめた。

(1)鉄器の使用

‘本で見つかった現時点最古の鉄器は鉄斧(おの)

 1)縄文時代晩期=紀元前4〜同3世紀。

 2)石崎曲り田遺跡(福岡県二丈町)の住居跡。玄界灘(海を渡れば朝鮮半島)に比較的近い。

 3)出土品:板状鉄斧(鍛造品)の頭部。大陸系磨製土器(稲作の始まりを示す)。竪穴住居30基など。

 4)紀元前3世紀には、稲作が行われた可能性が高いとされる。

 《参考》紀元直前の日本の様子(『後漢書』紀元前32〜92年)

 「それ楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国となる。歳時を以って来り献じ見ゆと云う」(倭人=日本人は、当時朝鮮半島の楽浪郡(後漢の植民地)を通じて中国と交流)

⊇戸遏淵爛蕁坊狙→技術者集落・コンビナート形成事例

 1)弥生前期末〜中期初め(紀元1世紀末〜2世紀初め)

 2)扇谷遺跡(京都府京丹後市。旧峰山町)丹後半島の付け根に位置。

 3)出土品:鉄斧(砂鉄系原料による鋳造品)・鍛造の鉄・鍛冶くず、碧玉(へきぎょく)・瑪瑙(めのう)・鉄石英・ガラスの塊(ガラス製作に1400〜1500℃の高温が必要)等の玉つくり遺物、紡錘車(土製)、土笛(中国が源流とされる。日本海沿岸地域で出土されているのが特徴)

 4)土地をめぐる争いが激しくなり、周りに堀を廻(めぐ)らした環濠(かんごう)集落が各地に形成されるようになった。ここの場合、「秘密工場(工房)」とされる。

 a.二重の環濠(かんごう)で厳重に囲み、よそ者の侵入を遮断し防衛。

 b.V字形の内濠は、延長850m、最大幅6m、最大深4m。50度の急傾斜面。(資料:「扇谷遺跡」http://inoues.net/tango/ohgidani.html

E幹錣蓮¬鐇源代中期中葉から後半(西暦1世紀)に九州北部で普及し、全国的には弥生時代後期後半(3世紀)に鉄器への転換が完了。

(2)鉄の加工(鍛冶)

‥瓦硫湛は、弥生時代中期(紀元前・後)に始ったとされる。但し、炉のほかに吹子(ふいご)、鉄片、製鉄くず、鍛冶道具の揃った遺跡はない。鉄製鍛冶道具が現れるのは、古墳時代中期(5世紀)になってから。

 『古事記』に、応神天皇の時代(在位:270〜310年) 百済(くだら)より韓鍛冶(からかぬち)卓素が来朝、敏達天皇12年(583) 新羅(しらぎ)より優れた鍛冶工を招き、刃金の鍛冶技術の伝授を受けたとある。

鍛冶工房の遺跡事例

 1)小原下遺跡(長崎県島原市)

 a.縄文晩期の遺跡から、製鉄くずを含む炉状遺構が出土し、考古学界に問題を投げかけている。

 b.07年2月の島原新聞によれば、このほど土偶5個と竪穴住居跡28基が出土。土偶は、従来東日本に多く見られたが、九州北部にも見つかった。

 2)赤井手遺跡(福岡県春日市)

 a.弥生時代中期中頃(紀元前100年前後)

 b.鉄斧や鏃(やじり)などの鉄器・半製品を伴う最古クラスの鉄器工房で、鉄片には加熱により溶融した形跡の認められるものがあり、かなりの高温が得られていたとされる。

 c.鉄の外に、ガラス勾玉・青銅器の鋳型・鏡・武具・工具・須恵器など出土。

 3)沖塚遺跡(千葉県八千代市)

 a.古墳時代前期初頭(3世紀)

 b.火窪型炉跡が検出。各種鉄関連遺物と多量の砂鉄(2圈砲出土。

製鉄は、弥生時代にはなく古墳時代に入ってからというのが定説(弥生時代の遺跡に確実な製鉄炉が発見されていない)。それまで、鉄の素材は、朝鮮半島から輸入とされる。

 『魏志』(西暦280〜290年に書かれた)東夷伝弁辰条:「国、鉄を出す。韓、ワイ(サンズイに歳)、倭みな従てこれを取る。諸市買うにみな鉄を用い、中国の銭を用いるが如し」

(3)製鉄

 日本最古級とされる製鉄跡

‖臑池南遺跡(岡山県久米町)

 1)6世紀後半〜7世紀初めの製鉄炉(鉄の溶解に1150℃の高温が必要)

 2)7層の作業面と作業面にともなう6基の製鉄炉

 3)この遺跡のあるスクモヤマ地区には、製鉄くずを副葬した古墳や鉄穴(カンナ)流しの遺構もある。

丹後半島にある遠所遺跡(京都府弥栄町)

 1)発見された製鉄炉のうち2基が6世紀後半と判明、5基は奈良時代の製鉄炉。このほか、原料の砂鉄、炭窯(5世紀のもの)、精錬・鍛錬鍛冶炉、鍛冶炉12基(奈良時代のもの)

 2)原料から製品まで一貫して工場で見つかったことは、珍しいとされる。なお、砂鉄は丹後のものではなく、外から持って来たもので他にもっと古い所があるとされている。

カナクロ谷製鉄遺跡(広島県世羅町)

 1)6世紀後半〜7世紀前半。

 2)丘陵斜面を平坦にした場所に2基の製鉄炉(地下施設)がある。

 3)斜面の下手は、製鉄くず・炉壁などの捨て場。製鉄原料として、砂鉄と鉄鉱石が混用されたこ推察されている。

ず佐屋山製鉄遺跡(島根県奥石見瑞穂町市木字生家

 1)丘陵地斜面の平坦部に正方形の箱型炉と見なされるもの1基。原料は、砂鉄。

 2)谷筋には、100ヶ所をこえる踏鞴(たたら)製鉄跡が点在。

 3)地名「生家(うぶや)」の由来

 たたらの神=「金屋子神」は、子どもが生まれるのが嫌いなため、たたら衆のお産の時は谷を降りて産屋を作りお産をした。そのため、今でもその地を生家(うぶや)と呼んでいる。

ケ出雲 羽森契重完篝廖陛膾県雲南市)

 1)6世紀の竪型炉が出土したが、詳細はまだわかっていない。

 2)出雲には、ヤマタノオロチや金屋子神の伝承がある。

 a.ヤマタノオロチは、スサノオがオロチ(大蛇)を退治する話である。オロチが毎年娘を奪ったというのは揖斐(いび)川の氾濫を指していることで、それはたたら製鉄(木炭・水・砂鉄を大量に使う)によって大量の木が枯渇したことによるとされる解釈が一部にあり、スサノオがオロチを討った天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)は出雲が古代から鉄の産地(江戸時代は日本刀の産地として全国に広がり、中国・明に輸出)であること、流れ出たオロチの腹の血は砂鉄が混じった赤色の川、スサノオがアマテラスのその剣を捧げたのは出雲国の大和国への恭順(きょうじゅん)を示しているという鉄に結びつけた解釈がある。

 b.金屋子神は、鍛冶師に信仰されている神で、次の伝説がある。

 ・高天原から雨乞いしている村人に応えるため播磨国(兵庫県千種町)に天降りたが、西方に縁のある神であるとの理由で出雲国の山林に着き、それを当地(現在の総本山 金屋子神社の社地)のある人が、そこに神殿を建てた。途中吉備国中山にも立ち寄ったという伝説もある。金屋子神は、自ら村下(むがげ:鍛冶の技師長)となり、鍛冶の指導を行った。

 ・石見・出雲・吉備・播磨の中国山地は、鉄の山地。中国山地に続くに日本海側の丹後も、神話伝説にはないが同じ。中国山地の頂上が剥(は)げたのは、たたら製鉄によるという説がある。

Χ眤地区製鉄遺跡群(福島県南相馬市)

 1)7〜9世紀。

 2)確認されている製鉄炉は123基、木炭釜152基、竪穴住居133棟で、日本最大規模。

 3)海岸の豊富な砂鉄を原料とし、作った鉄は陸奥国府(宮城県多賀城市)で使われた。

 a.当時大和朝廷に従わない蝦夷(えみし)との戦いに鏃(やじり)など鉄製武器が必要で、大量に生産され使われた。

 b.蝦夷との戦いは802年に決着し、巨大な製鉄群は役割を終えた。

 6世紀半ばに九州・中国地方から始った製鉄は、東日本へ進み「南東北」の福島に7世紀に入り、岩手・山形・秋田に普及し、10世紀までに青森へ広がった。

2.佐渡の製鉄と鍛冶

(1)製鉄跡

^騨椹穴釜遺跡(佐渡市安養寺字穴釜。鍛冶が沢)

 1)穴釜から出土した木炭から放射性炭素14の年代測定結果は、710〜890年。佐渡で初めて見つかった古代の砂鉄精錬跡。

 2)大和田の山中にある鍛冶が沢。鍛冶が沢には、沢一面に製鉄くずや木炭が分布あい、沢に向かって右側の傾斜面に、数m離れて2ヶ所の横穴があった。

 そのうち1基は山の傾斜面に幅1.2m、高さ1.5m、奥行1.2mの横穴。

 a.奥の壁には煤(すす)が付着し、焼けた径20cmのエントツの孔(あな)がある。

 b.天井部は焼けているが煤が付いていない径30cmの径が、それぞれ山の上面に抜けている。

 c.横穴の前部は天井が残っていないが、床面は前方へ傾斜し横穴前部へ側壁とともにつづき、さらに奥壁部をまわって左右側壁ぎわには幅10cmの溝が設けられている。

 d.横穴前部の左右壁には、1ヶ所ずつ位置をすらして縦に幅30cm位の凹部がある。

 e.横穴前部から奥壁までの全長は4m。

 f.横穴内外に、製鉄くずと木炭が多量に出土。

 調査は1963年6月。「エントツ状の孔が数本もある構造の横穴は、日本のどこにもまだ発見例がない」「佐渡における『穴釜』の大きな特徴は、送風装置としてのタタラ(鞴)がなく、燃焼によって自然に風が吸い込まれる自然通風路であることと、炉が横穴状構造を持っている」(『金井町史』1979年刊)

 3)安養寺穴釜遺跡近くに安養寺古墳がある。

 a.出土品は盗掘をうけているが、刀子(とうし:鉄の小刀)2点・鉄鏃(やじり)・金環(イヤリング)1点、土師器(はじき)高盃4点、土師器マリ1点、須恵器片、人骨。

  土師器の盃や高杯はどは死者への供え物をかざるのに使用したもので、型式・年代は佐渡各地の古墳出土品とほぼ同じ7世紀のもの。

 b.穴釜同様山中にあることから、農耕民でない製鉄・鍛冶の専門集団がいて、その長の墓であるかもしれないとの見解もある。

 4)金峯神社(佐渡市上横山)は、安養寺穴釜遺跡からは比較的近い。上横山に対し隣同士の下横山にも、似た名前の金峰神社がある。

 a.祭神:金山彦守(製鉄の神)、菅原道真

 b.由緒:上横山地区の産土神(うぶすながみ)で、天平年間(729〜748年)に勧請。

△修梁召寮重汗

 大和田の鍛冶ヶ沢穴釜、野坂穴釜の野坂穴釜、加茂歌代の井戸沢穴釜、同じく加茂歌代の穴釜山穴釜など。

(2)鍛冶の名残り

 その昔 鍛冶師の集積した地には、それに係わる地名が残っている。

|談蠶(佐渡市鍛冶町)

 1)河原田本間家は、1300年代相模国(神奈川県)から守護代として佐渡の統治を鎌倉幕府から任された本間家の子孫で数多くの分家で頭角を現わし、戦国時代には佐渡の二大勢力の一つとなった。1589年上杉景勝の佐渡攻めによって滅ぼされるまで河原田城下を統治。

 2)町名に、鍛冶町が今日でもある。

 町名例:鍛冶町、うるし町、塩屋町、大坂町、朱母衣町など。

 3)鍛冶町は、製鉄跡の野坂穴釜、また金山で繁栄した相川からは夷・湊と比べてはるかに近く、湊のある沢根とは近隣。沢根には、石見出身(島根県浜田市)の佐渡有力な廻船問屋 浜田屋(先祖は石見銀山の山師、当初の狙いは鶴子銀山)がいて、石見や出雲から鉄を買って佐渡にも販売した。

鍛冶屋(佐渡市赤泊・徳和)

 1)山間平野部に「鍛冶屋」というバス停があり、この地区の過去帳や鉄くずなどの出土品から、精錬所・鍛冶屋があり鍬や鎌などの農耕具や刀などが作られたとされる。

 2)比較的近くには、砂金で有名な西三川砂金山がある。

 a.砂金といっても砂金ばかりでなく、砂鉄の方が圧倒的に多い。(黒い石が砂鉄で、その中に金がある)

 b.赤泊・徳和の藤井火倉家は、本龍寺(赤泊・莚場)の檀家で、明治の頃まで鍛冶屋をしていた。先祖は、1465年頃に愛知県から河野道場・一向宗徒と一緒に佐渡に来た仲間の一人と伝えている。目的は、西三川砂金山。

  (詳細は、08年7月11日号「佐渡の寺院17:智光坊」)

C鰐召呂覆い、鍛冶職人の多くいた地区が、両津・夷(えびす)町の中にあった。

 1)夷町の鎮守 諏方(すわ)神社の末社に金山彦神社があり、旧称 夷町・夷新町・谷地(やち:春日町)の鍛冶仲間によって建立された。

  (07年5月16日号「佐渡の祭15:両津まつり」)

 2)製鉄遺跡の穴釜が加茂歌代で2件見つかっているが、隣接地は鍛冶屋が多く居た夷と谷地。

3.まとめ

〆甘呂寮重瓦いつ頃から始ったかの文献はない。従って、製鉄遺跡が唯一の手掛かりであることは、日本全国どこも同じ。佐渡の場合、穴釜に残る鉄片や製鉄くずが多量にあることで、それによって土器や塩などを作る釜でないことの見分けがつく。そして、専門家によって年代の推定がされる。

 1)安養寺穴釜遺跡の年代推定は、西暦700〜800年代。

 2)地方豪族の墓=古墳に注目し、佐渡で最も古いとされる古墳の出土品に着目。

 佐渡で見つかっている古墳は現在41基、その中で最も古いとされるのが、古墳が一定地域に集中している二見半島古墳群。

 a.大佐渡の西端の二見半島にある。そのまま西に海を越えて行けば、能登半島、丹後半島、出雲・石見、その先は北部九州か朝鮮半島に向かう。

 b.二見半島古墳群は、6世紀中頃

 佐渡には製塩遺跡が多くあり、西日本との交易によって利を得て富の格差が生じ、豪族が各集落に輩出したと考えられる。

 3)古墳群を構成する主な古墳からの出土品は、次のとおり。

  ・台ヶ鼻古墳:鉄刀・鉄片・須恵器・耳環・人骨。

  ・谷地3号墳(大浦):鉄刀・土師器・須恵器。

  ・橘古墳:刀・鉄鏃(やじり)・鍬・鎌・土師器・須恵器・管玉・切子玉・臼玉。

  ・沢根古墳:刀子・馬具・須恵器

  参考:「刀子(とうす)」は、物を切る・削るなど加工に用いる農工具の一種で、小刀のようなもの。

 4)「6世紀中頃」であるから、西暦550年。

 a.鉄製品の武器も農耕具は、全て島外からの移入品であるとは考えられない。

 b.鉄製品は既に佐渡のどこかで作られ、製鉄はもっと古い西暦500年代の遺跡が発見されていないだけの話。それらの近くにある製鉄遺跡には「野坂穴釜」があった(年代は不明)。

◆崟重瓦蓮■鏡さ半ばに九州・中国地方で始った」という通説からいけば、佐渡の方が、それらより早いと言える。

 1)歴史ロマンになるが、何処の誰が?となると、鉄器文明を東アジアにもたらしたタタール人。                                         

 2)何処から来たか不明だが粛慎人(しゅくしんじん)が、544年に佐渡に来た。                                             渤海国

今日でも、外海府海岸にロシア文字やハングル文字のペットボトルなどが漂着。それ以前に北方系民族が何かの拍子に佐渡に流れ着いても不思議ではない。752年渤海国使節団75人が佐渡に来た。画像は「敦賀の歴史」http://homepage2.nifty.com/tsuruga/bokkaisi.htmlから勝手に借用。

 3)外海府にダッタン塚があるが、ロシア語では「タタール」塚となる。以前、同級生のK女史から、「高千(海府)美人」と「ロシア正教の信者が海府にいた」ことを聞いた。最大といってもよい関心事が、ロシア正教。この正月に会ってその事を確認すべく尋ねると その人は亡くなったが郷土史にあるはずと自信を持って応え、当然といわんばかりであった。

 a.ネット検索と『佐渡相川郷土史事典』で調べたが、無い。しかし、大いに有り得ると思っている。江戸時代キリスト教徒への弾圧の激しかった長崎において、数百年来信者の秘密を代々守り続け、明治維新後信教の自由が認められるようになって名乗りを上げた人がいたほどであるから納得できる。佐渡は徳川の直轄地であり弾圧は厳しく、多数の信者をそこで処刑したというキリシタン塚がある。

 b.海府の人 自らの書き込みに、当地は「海府美人」といわれる美人の産地で、目が青く肌が白いという記事があった。北方系民族の血が混じっていることには肯定的で、DNA遺伝子が何かの機会に稀に発現することもあるのだろうとの見方をしている。

 c.900m級のどんでん高原は、草原でタタラ峰の名があり、タタラ製鉄が行われていた可能性があり、そのようにも伝えられている。タタラ製鉄に必要な木炭を得るために木を伐採、芝など生えているがそれがなければ禿山(はげやま)同然。牛の放牧地として中国山地とは、まったく似ている。

I婬

 1)上横山の金峯神社

  昨年6月頃の関心テーマが能舞台巡りにあったので訪問。小さな鉄製の鳥居が掲げてあったのを記憶している。その時は、鉄のことなど眼中になかった。

 (08年6月28日に訪問。6月30日号「佐渡の能楽12:能舞台巡り(加茂歌代〜安養寺)にあるが、鉄の鳥居については触れていない)

 2)能舞台巡りの中で昨年7月偶然、真野・倉谷の智光坊を訪れその彫刻群に感動し、それ以来神社・仏閣の拝殿にある彫刻作品・彫刻師に関心を持った。

 a.その時初めて、それを彫る鉄製道具は佐渡で作られたかどうかに興味が沸き起こった。(08年7月11日号「佐渡の寺院17:智光坊」)

 b.新穂・根本寺では、二王門の仁王像の足元に先に金峯神社で見た時と同じような鉄製鳥居が立て掛けてあった。今度は鉄製鳥居の入った写真を意識的に撮った。当時は「根本寺はなぜ大きくなったか、それは金山の山師の支援による」ことを知った喜びの方が大きく、関心は鉄に及んでなかった。(08年7月22日号「佐渡の寺院22:根本寺」)

 3)昨年末、ひょんなことで久々に名古屋出身・新進気鋭のコンサルタントT氏と新潟で会い、翌日飲食を共にした。その際名古屋出身であることから書籍『佐渡広場供戮鰺儖佞掘◆岷茂言葉は名古屋弁」(07年11月14日号)の所を開いて見せた。

 a.彼は、佐渡の羽茂弁が名古屋弁と同じことに非常に驚いた。「似ている」次元を越え、「全く名古屋弁そのもの」とのことだ。岐阜の方言に佐渡夷と同じ言葉があるのを知っており、夷のもんが羽茂弁を聞くより、岐阜の方がよく解かるに違いないと冗談に言って笑わせた。魚のフグは、羽茂・小木ではフクであり これは下関・博多と同じだが、夷・湊などではフグである。従って、佐渡弁という一般的なものはなく、地区の事情・歴史でそれぞれ異なり 簡単・単純に捉えられるものではない。むしろ日本の他地域に比べ日本各地との係わりが非常に多くあって複雑ということだ。

 b.なぜ、佐渡の羽茂言葉が名古屋弁であるか、私の歴史ロマンはこうである。

 ・1450年代に西三川砂金山を目当てに、一向宗・河野道場の門弟=技術者集団が愛知から佐渡に渡り、赤泊で道場(現、本龍寺の前身)を開いた。

 ・定住した一部は、鉱山技術を生かして農耕具や建築金物などの鍛冶屋となった(赤泊に「鍛冶屋」のバス停があり、鍛冶屋ヶ沢という地名ある)。また、その鍛冶屋の中に建築金物を通じて宮大工の棟梁になる者が現れた。

 ・羽茂に名門番匠(大工)の「高野」家があり、それは元々も出身地「河野(こうの)」と読み替えることができる。同じく羽茂で名門番匠の鴉田(からすだ)家は本家の姓は「藤井」である。愛知から赤泊に本龍寺とともに来たことがハッキリしている赤泊の藤井火倉家は、明治まで鍛冶屋をやっていた。

 広く羽茂地区には、名門大工が2軒ありいずれも愛知の出身。その地区には、佐渡一の宮・度津神社(わたつ・じんじゃ)があり、小比叡には佐渡一広い寺領を持つ蓮華峰寺がある。

 ・皆、技術者であり一向宗の先生であったから、名古屋弁がその地に普及・定着した。

て本の高炉メーカーの製鉄主要原料である鉄鉱石は、大半が輸入に頼っている。一方、日本で資源豊富なのは、くず鉄。それが、電炉による製鉄原料となる。くず鉄は古紙同様 輸出されている。

 1)5年余り前になるが、新潟県燕市にある電炉の工場を見学した経験がある。今はどうか分からないが、当時は日本一(あるいは、世界一)の最新・巨大設備であると聞いた。

 2)見学して強く感じたこと、

 a.鉄は国家。日本は、廃自動車などの鉄スクラップに関しては資源大国。

 b.電炉業界は、化学反応を利用し鉄スクラップから新たな鉄鋼を生み出すリサイクル産業。

 c.ガラス越しから作業風景を眺めると

 ・数人の作業員が全身防護服に身を固め、棒を持っている。

 ・棒を炉の中へ入れ、灼熱・溶融した鉄をすくい出す。非常に危険な作業で、まさに戦っている雰囲気。

 ・品質などの状況を確認するために行う。最終的には、データなどでなく人間が実物に触れた感覚による判断がものをいう。

 3)佐渡の野山を歩いていると 人の行き来がほとんどない所に、車が捨てられているのを見つけることがある。不法投棄。

 鉄を作るのにどれだけの労力と資金がかかったか、天然資源は有限で 風化した資源は戻って来ないことを考えると非常にもったいない話だ。目先の採算云々では無い。後世に係わり 影響を及ぼす事柄。

 誰がやったか見つかれば、行政は当然罰金を取る。わからなければ、効率的に一斉回収して業者に競売。利益が出れば次の環境予算に組み入れる、損失が出ればその分は住民負担=環境税として上乗せする。他に名案・手立てがなければ、それも止むを得ない。

以上

追記:佐渡における「タタラ」の意味 09年4月8日

 『故里つばき 佐渡椿村落史』(編集発刊 荻野よしゆき 2008年刊)に、次のことが書かれ、非常に参考になったので追記した。

 ・タタラ峰=ドンデン山について、古い地図には「タタラ峰」の名が多い。

  1836年(天保7)の「越湖勝覧鳥瞰図」には、ドンデン山は「多々良嶺」となる。

 ・佐渡の他の地にも「タタラ」の名前がある。

  柿野浦から新穂へ抜ける頂上付近に「タタラ野」というなだらかな草原で松がボツボツ生えている場所があり、「牛タタラ」という場所もあって、ここは平らなカヤ場。豊岡に「牛タタラ」、月布施に「タタラ」という地名がある。

  いずれも、なだらかな平地で牛馬の放牧に適した場所であるという。

 ・これらの諸説を総じてみると、地形を元につけられた地名で、草地になる場所が「タタラ」と呼ばれ、「タタラ峰」の語源になったというのが有力。

 (「タタール(人)→タタラ(製鉄)→タタラ峰(製鉄によって木が生えず草地のみ)」の解釈には、無理があるということだ)  

以上