こんにちは!佐渡の本間です。

和船22 3月5日に廻船の村 宿根木(しゅくねぎ)訪問。小木からタクシーで宿根木にある小木民俗博物館へ行き 当時の設計図を元に復元された千石船などを見学。その後宿根木の集落に行って散歩して回った。帰りは小木でバス停前に幸丸展示館があり、バスの発車まで15分あった。従来は全く関心がなかったのが急に関心が湧き出し、佐渡海峡最後の和船かつ日本に残る唯一の本物・和船とされるのを初めて見て来た。

 テーマは、「佐渡・廻船業と千石船」という一般的なものであるが、モデルとして「沢根の廻船問屋・浜田屋」と「廻船産業の村・宿根木」の2項目に絞り込んだ。

 参考として、当時の先人たちの生き様をイメージに残すため 小木民族博物館で撮った千石船などの写真を掲載した。当博物館には、国の重要民俗資料に指定された船大工道具・和船資料1,034点・南佐渡の漁撈用具1,293点が所蔵されている。

 上の画像は、『時代に帆を揚げてー白山丸復原の足跡』(発行:白山丸友の会(石塚輝行)、編集:高橋好幸、2004年刊)による。

1.沢根の廻船問屋・浜田屋 笹井家 

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 1500年後期石見(島根県)浜田より川上権左衛門(浜田屋本家初代)、川上伊左衛門、久保新右衛門ら3人が佐渡・相川庄右衛門町へ渡来。1596年に笹井家の先祖 佐々井九之助が越前(福井県)より渡来。(いずれも、金銀稼ぎが目的に決まっている)

沢根に居を移し商売

 1)1663年佐々井九之助の子が浜田屋の娘婿となり沢根へ出て浜田屋権左衛門という商人になり、小船1隻を持った。相川や沢根・鶴子の金銀稼ぎは景気変動が大きく、相川にも近くて優れた港をもち、背後には米どころ国仲平野のある沢根でお客のニーズを聞きながら商売した方が、資金を投下しても一攫(いっかく)千金の夢はあるが回収に確実性がない事業に投資するより安全で、発展が期待できる好立地と見たのであろう。

 2)1677年、佐渡の廻船業として既に名高い船渡源兵衛と鮭・筋子・粗鉄・千割鉄などの取引が始まり、その後も米・大豆・鉄などの取引を続けている。

 a.本家は鉄の産地石見の出身、分家・新屋は日本海物流の中心地で鉄などが集まる敦賀がある越前の出身。浜田屋が鉄屋といわれていたのは、そういった関係からである。

 b.沢根には鶴子銀山、隣は相川金銀山があって鉄製品の需要は高く、背後は米どころ国仲平野で農工具作りや修理など鉄の需要が高い。自然、近くに鍛冶町が形成された。現に沢根に鍛冶町があり、鍛冶とは仕事上不可分な関係にある炭屋町の町名がある。

 3)1696年、新潟で船渡源兵衛より75両借りるとある。

 当時佐渡は、人口増で米不足のため米が高騰、他国への佐渡産物資の販売は物不足・物価上昇を抑えるため禁止で米・大豆などは新潟から移入。

 浜田屋は当時、まだ小資本のため江戸初期に先行して稼いだ船渡源兵衛に金融を頼み、船は持っても島外へ乗り出す程のものでないため源兵衛船に依存した。

 4)元禄年中(1688〜1703)に、沢根・上町から沢根・下町に移転、やがて沢根町名主となる。川上から佐々井(笹井)に名前が変わる(浜田屋新屋)。1717年三代浜田屋権左衛門没。(三代の時に、浜田屋が町を代表するまでの繁昌を次第に築き上げていった)

K楹陛に廻船業に乗り出す。(中古船→新造船→大型船→複数船持ち)

 1)1750年浜田屋四代目が100石積の中古船を購入し、雇い船頭で運航。1753年羽茂・赤岩の五郎兵衛船・長久丸150石の中古船を20余両で購入。1764年赤泊・腰細の弥右衛門船(150石積・5人乗り・15反帆)を購入、大黒丸と称す。船頭は宿根木の武兵衛。

 2)1768年宿根木で2代目大黒丸(200石積)を179両で新造(前年沢根の火事で、大黒丸が類焼したため)。弁財船。船大工は小木町の徳兵衛、船頭は宿根木の権兵衛。船底材にケヤキ、重木(おもき)などはヒョウガ松といった脂ののった上物を使い修理などして1807年までの41年間使ったという。3代目大黒丸の新造には、縁起をかついで2代目の船材を使用。

ぢ膩秦イ旅愼・廻船で商圏を瀬戸内・上方に拡大

 1)1791年、相川の覚左衛門より500石船の明神丸を購入。「佐渡路を放つより否や、風よろしければ直ぐに沖梶にて下関へ4日目あるいは5日目に着して、大坂・堺・瀬戸内を掛け回った」。

 2))1792年宿根木の200石船5人乗りの有田久四郎船を購入して改造し、大乗丸(表石131石、5人乗り)と改名。1798年他に譲り、宿根木の石塚権兵衛船を購入し200石から250石に改造し幸徳丸と改称。2年後相川の葛野六郎右衛門へ譲り、宿根木の佐藤穴口家より320石積船を買い入れ、改装して幸徳丸300石船とした。1803年、赤泊の葛野伝右衛門に譲り、翌年相川の葛野家所有の400石船を買い大徳丸と名付けた。

 3)寛政〜化政(1789〜1829)にかけ家業の隆盛期は、大乗丸・幸徳丸・大徳丸が活躍。大乗丸は1794年宿根木の弁財船を改造した200石積、1799年売却、翌年宿根木の穴口家の高砂丸320石積を購入し幸徳丸と改称。1804年本家の大徳丸を手船とした。1813年時点の浜田屋の本家・分家の船は、大黒丸(1762年中古船・諸道具付きで購入、1822年再び沢根・七場で造作し510石積・9人乗り・21反帆にした)・大徳丸(308石積・9人乗り)・明神丸の3隻。

ゲ船の航海実績と損益勘定例

 1)1805年(文化2)幸徳丸

 2月18日新潟県寺泊より村松米・金納米・地廻米を購入、3月19日広島県竹原で村松米・金納米を販売、三田尻塩を購入、4月10日島根県安来で三田尻塩一部販売、鉄を購入、4月26日寺泊で村上米・長岡米を購入、6月27日広島で村上米・長岡米を販売、同地で7月6日三田尻塩を購入、7月24日新潟で三田尻塩を販売、10月広島で米子繰綿を購入し、新潟で販売。

  粗利74両、諸払い差引純益32貫。

 2)1808年(文化5年)大徳丸 

  2月佐渡より佐渡米・冬干しイカ・干し鰯(イワシ)を購入、3月兵庫(神戸)へ佐渡米・冬干イカ・干し鰯販売、3月25日石川県小松より小松塩を購入し、4月酒田で塩を販売、その後安来で鉄を購入、4月28日酒田で米沢米・最上米を購入し、6月12日兵庫で米を販売、?で三田尻塩を購入し、6月15日酒田で多くを販売、閏(うるう)6月1日酒田で庄内上御蔵米を購入、また沢根で土用干しイカを購入し、8月兵庫で米・イカを販売、閏8月16日三田尻塩、その後香川県丸亀で備中繰綿、島根県出雲で米子繰綿を購入し、10月沢根で塩を 11月備中繰綿の約半分を販売、翌年2月寺泊で残った繰綿全てを販売。

  粗利150両、諸払い86両、差引純益63両。

 3)『海陸道順達日記』編者の佐藤利夫氏は、船の年間損益の分岐点は諸勘定記録から50両と見る。粗利74両で純益32貫、粗利49両で損失45貫の実績例などあり。享和元年幸徳丸の諸経費の実例内訳は、次のとおり。

  船主小払い:銭76貫904文、金17両1分、道具代:銭646文、水主(水夫)給銭:銭19貫504文、船頭給銭:金2両、船糧米代:銭32貫860文

  合計:金48両860文、銭930文。

 4)新造船の建造費は、200石積船180両として年間平均粗利100両・純益30両とした場合、6年で投下資本の完全回収ができる。投下資本利益率16.6%。なお、利足(利息)は年5厘(5%)が相場(史実の断片からみられる)であるから、金を貸した場合の3倍の利益となる。また、幕府の御用船による米運搬は、7年を超える船は出来ないことになっていた。おそらく、改造船はその時点から起算するものであろう。

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 1)1756年にはじめて畑野・大久保と河内の田を購入し、廻船による利益を土地取得向けていき、幕末までに2万刈(20ヘクタール)を所有する地主となった。

 2)大黒丸と明神丸と大徳丸が記載されているのは、1875年(明治8)能登・福浦の佐渡屋客船帳が最後で、1890年(明治23)庄屋を襲った相川暴動で船問屋をやめている。

2.廻船産業の村・宿根木

地図宿根木―漂木は、佐渡で古くから開けていた。越後や能登に近く 漁業が主体であるが農業もある。男仕事は、漁業・船乗り・船大工など海に係わる仕事、女仕事は、農業・家事一切。屋根へ上っての木羽(こば)の差し替えも、女仕事。

 (06年9月9日号「佐渡の風景9:宿根木」)

 1)縄文遺跡のある岩屋洞窟や長者ヶ原とは、近い距離にある。特に岩屋洞窟には縄文から江戸期にかけての遺物がある。

 2)記録にあるのは鎌倉時代以降。

 a.佐渡の守護代として鎌倉から派遣され定住した本間家はやがて分家に分かれ、1285年には兄の宜定(羽茂本間)と弟の重久(吉岡本間)との間で領有地の帰属をめぐる争いがあり、その時「宿禰宜」(しゅくねぎ)の地名が出て来る。1336年宿根木(弟方の出城がある)・木之浦(兄方の出城がある)合戦が起こった。兄方・羽茂本間が勝利し以後小木半島は羽茂に属することとなり、羽茂の出城は木之浦(元小木)だけとなった。1336年は、日本で北朝と南朝とに朝廷の分裂が始った年で、羽茂は南朝、吉岡は北朝についた。

 b.宿根木の郷社 白山神社の開基は、複数の古文書から1301年・1349年の2説ある。1300年代前半であることに相違ない。

 ・1661年白山神社(石川県白山市が総本社)本殿を建築した棟梁が、若狭・小浜住人 牛田治兵衛。(棟札の発見による)

 ・白山神社の社人高津勘四郎家の先祖は、次郎左衛門家。伝えでは「往古は加賀様へ由緒これあり、船持ちの時分、加賀・能登・越中へ参り候はば、諸役御免(廻船の役銀免除)」とある。

 ・白山神社は、宿根木近隣の強清水や琴浦にもある。

 c.1355年時宗遊行八世渡船が布教のため、直江津から佐渡へ渡った最初の地が宿根木。時宗 称光寺は、寺伝によれば1349年託何上人が開基、弟子の託岸によって開山。

 3)1551年(天文20)には、船宿があった。「舟宿の儀、宿禰宜彦衛門と云うにあつくる者也」

⊇漂木の発展のキッカケは、1672年小木の西廻り航路(年貢米の江戸への安全確実・割安な輸送が最大目的)の寄港地指定。

 1)船の修理・破損船の改造等小木の補助港としての役割が一挙に高まった。

  宿根木の造船に関する古い資料は、1692年(元禄5)の有田久四郎家に残る『釘覚帳』。専門家によれば、200〜300石積ほどの船で、釘の寸法と使用量から新造船でなく修繕であろうとのこと。

 2)1690年佐渡奉行に就任した荻原重秀による増税策で年貢米に余剰が生まれ(金銀山がピークを越え人口減少と人口増に対応した新田開発効果が加勢)、増米分=佐渡余剰米=他国御払米=大坂廻米を大坂市場で販売するようになった。これを「御蔵米」と呼び、換金化される必要があった。1695年船渡源兵衛船が、買い取った御蔵米を大坂へ運んだ。松ヶ崎の菊地喜兵衛、沢根の浜田屋も同様で発展の機会を得た。

 3)佐渡奉行所により1750年羽茂・大石に大坂へ廻す米蔵ができ大石港が開かれ、1751年には佐渡産物の他国出し解禁となった。

 a.大坂や柏崎からの廻船が米の買積に大石港に来ていたが、1800年以降 遭難・破船という海難事故があり、地元の200石以上の廻船が雇われるようになった。

 b.宿根木廻船は従来は島内輸送にあったが、佐渡奉行所の羽茂・大石にある御蔵米を大坂に廻すことになった。

 c.1840年のデータでは5隻の船が勤めた。内訳:(  )の数値は規程石積数、単位:石数 

  終平(権現丸261石積)但し御城米700石(以下、同様)、久兵衛(天神丸281)550、久兵衛(天満丸161)500、市三郎(幸栄丸211)500、久四郎(栄福丸131)400。

1700年以降の記録

 1)千石船の建造

 a.1768年 沢根・浜田屋の2代目大黒丸(250石積船)を新造(前記)。宿根木で造った最初の弁財船とされる。

 b .1774年 宿根木の高津四郎が374石積船(弁財船=千石船)「白山丸」を26人の船大工により村の囲い場で新造。船大工以下6人は宿根木出身、残りも他の小佐渡出身が主。

 c .宿根木千石船一覧(時代は混在、船主も代替わりがある。単位:石)

  白山丸(373)高津勘四郎、権現丸(640)高津終平、高吉丸(900)佐藤忠次郎、高福丸(400)佐藤忠次郎、天満丸(485)有田久兵衛、天神丸(535)有田久兵衛、高砂丸(1000)佐藤伊左エ門、幸栄丸(465)石塚市三郎、幸福丸(400石)石塚市三郎、住吉丸(649)濱田嘉平治、住徳丸(600)濱田嘉平治、栄徳丸(300)石塚彦右衛門、観音丸(222)石塚権兵衛、永久丸(200)鍵屋三四郎、永福丸(200)有田久四郎、栄久丸(500)有田久四郎、永福丸(700)有田久四郎

  《参考》 千石船

  ァ.千石船は、文字とおり米を千石積めるからであるが、日本海型弁財船の場合、税金を軽減するため幅の広いズングリ型にすることで、税額算定基準で定めた石積数は小さいといっても実際は倍の積み込み可能で、そのように行ってきた。

  ィ.通常ならば「過積載」。佐渡奉行所に願い出てその承認の下に行われた。禁止ということであれば、物流コストが倍に跳ね上がり大坂・堂島へ運んでも、他国との価格競争に負ける。上方商人に売って金に替えなければ奉行所に入金なく、役人に給料を払う金に困るばかりでなく、奉行所自体収入が減り財政に影響する。従って、大目に見なければならない。

  例として「米261石積廻船権現丸 御往来高 但し御城米700石」とある。機械的計算では、373石積船=1000石=千石船になる。

  ゥ.千石船の定義は、ここでは厳密にせず大きな一枚の横帆のズングリ型の船で200〜300石以上積の船であれば千石船とする。白山丸は374石船であるから、計算上千石船に該当する。

 《白山丸の取引例》

 1783年(天明3)白山丸の松前から大坂までの取引が記されている。(宿根木・石塚清九郎家「諸国売買掛物商人重宝記」「天明3年 佐州宿根木 白山丸 高助」)

  ・松前諸掛り  太法両替 7匁2分 1貫600文也  4斗8升に付600文銭何両何匁と売買いたす也

 一、米  御殿様御口 銭1分半、宿口 銭2分、倉敷 2厘8毛8 依之大かい俵にて半分位御断申上処也但升は8升斗にて致申処也

 一、酒

 一、たばこ掛り   米と同然也御断も同断

 一、金引苧(布の加工品。藁製刺し網=金引苧網とあるから、ニシン漁に使う藁縄)

  ・願ひ船入用目録写

  「五人乗御役米」1石3斗5升也 但1人に米2斗7升宛時の相場にて上納仕る、「御役銭」1貫600文、「荷賃並掛け人常燈目銭町持ちん共」349文、「松前宿雑用」1貫200文、「同手代へ被下候分」300文、外に江差より飛脚賃1貫200文の定め也 願船有之候へば割合にて出す也

  ・江差御役並諸入用

  「御樽代」600文、「常燈銭」240文、「御米印是は江差役所より書替出し候 朱印有」120文、「出船面役」900文、「沖口樽代」60文、〆1貫920文

  ・登り物(「上り荷」)

  「鯡(ニシン)、数の子、身欠、目切、笹目、白子の類」御役銀付而1歩、買口口銭2歩

  「昆布出所並売り場の事 昆布1駄は200枚也。50枚1束、4束合1駄」

    「目合昆布」酒田・新潟・敦賀向

    「志の利元」秋田向

    「志茂昆布」「同 赤元」敦賀向

    「吉岡昆布」多くは三国(福井県)・敦賀両所向

    「南部○部万別」津軽・加賀・敦賀向

    「江差黒元」新潟・今町(直江津)向

    「同ほそめ」下関向 之は関にて16〆目付64銭10何両何文と売買仕る。(以下、略)

 2)享保年間(1716〜35年)には8人乗り・640石積の権現丸があり、1786年(天明6)には700石積の大船 栄福丸があった。

 「佐渡国羽茂郡宿根木村船一艘 米576石積 栄福丸 船頭水主 合9人乗

  右相違無御座候 天明6年 船主 (有田)久四郎㊞  

  御奉行所

 表書之通相違無御座候。以上

   佐渡奉行所支配  岩間半左衛門㊞ 宇部野与助㊞  岸本武太夫㊞

  諸国浦々御改所」 

じ与遙隠横宛佑硫船産業村としての宿根木の繁栄

和船24

和船23

(画像は、瀬戸内・九州の有名窯元の徳利。小木民俗博物館蔵)

 

 

 1)廻船の成金

 a.高津庄兵衛家の場合、天明の頃(1781〜88年)から金貸しを始め、文政期(1818〜29年)に入ってからは、10両(今日の100万円)以上の大口貸金先が多くなっている(1件当たり15〜30両。1両=現在価格で10万円)

 小木町の問屋や村山村の窮状打開のために村総代にも貸している。貸出先の地域は、羽茂や赤泊に及ぶ。

 b.佐藤穴口家の場合、余裕資金は国仲の土地購入に向けられ、また諸国の産物・珍品もたくさん購入し蔵にうめこんだ。

 2)1811年(文化8)金銀山再興のため奉行所への献金・貸付

 a.相川中尾間歩(坑道)再稼動のため、崩落した坑道を取り明けて坑道を作る資金として奉行所に必要資金600両のうち宿根木の有志14名が280両を工面する。金利5%。(金銀とは直接関係のない120戸の村で、現在価格にして2800万円が集まった。1戸当たり23万円)

 b.内訳

 42両:久兵衛・忠三郎・勘四郎、16両2分:市三郎・庄兵衛・長五郎・彦兵衛・伊左衛門・惣兵衛・長兵衛、10両:五郎兵衛・武右衛門・佐兵衛、8両2分:権兵衛

 c.1832年(天保3)の覚え書

        覚

  一、金200両 

  右は文政9戌年(1826)銀山御入用の廉(ところ)江出金外繰合次第追て可割返者也

   天保3辰年(1832)7月   地方役所 宿根木村 庄兵衛㊞   

 3)1817年(文化14)船霊頼母子講 発足

 a.当時の廻船業者間には2隻分の造船資材と2隻分の運転資金を蔵せざる者は廻船業を営む要素なしと相戒め、頼母子(たのもし:仲間内で出資して積み立て、必要な仲間に資金を融通する)を起こした。

 b.内容抜粋

    建金之事

  一 金80両也  利足年5厘の定  但し通用金也

  右之通金高取調之上預り置く所相違無御座候 以上

                     金子預り主  忠三郎 

 4)宿根木廻船の主要貨物は、佐渡奉行所が有す大坂向け御蔵米であった。

 a.1840年(天保11年)御蔵米地雇廻船石割船割運賃割:御米百石に付き御運賃は、夷(港)積み14両、大石(港)積み13両3分。

  権現丸:640石 夷積 運賃89両(単位:「分」以下四捨五入)

  神力丸:243石 大石積 33両

  天神丸:535石  〃   73両

  天満丸:485石  〃   66両

  松尾丸:243石  〃   33両

  永福丸:389石  〃   53両

  幸栄丸:465石  〃   63両

 b.船の規模によって大きく経費は異なるが、1隻当たり概算年間粗利50両が損益分岐点とし、当時大坂へは年間3航海可能であることから、御蔵米廻船は年1回のみとして帰り荷等外で稼ぐことが出来るから、安定収益源で相当大儲けできたとみる。

 奉行所にとって御蔵米船として指定するには船の安全性はもとより、船主や船頭の信用調査を行ってのことであるから、使命された船主・船頭にとって非常に名誉なことであった。

 5)120戸の村に、100石積以上の船持ちが12人・15積、伝馬船以上であれば33隻。

 a.幕末の宿根木村の船持ち数(200石積超の船)9隻。船主は長兵衛、伊左衛門、久四郎(2隻)、忠次郎(2隻)、嘉平次(2隻)、彦左衛門の6人。伊左衛門の船は、千石積。

 なお、本船1隻につき大伝馬船約30石積1隻、小伝馬船1隻がそれらに付属。

 b.その他に100〜200石積船の持ち主は、与次兵衛、長吉、才兵衛、惣四郎、八百屋、武衛門の6人。

 6)幕末当時 造船関係者は、31人

和船26和船25

 

(画像は、船大工道具。小木民俗博物館蔵)

 

 a.棟梁 高津善太郎以下弟子で15人、同 佐藤五郎兵衛8人、同石塚善四郎8人の計31人。

 b.造船実績例:高津善太郎の弟子佐藤音吉の手記よりの拾い出し

 ・島内:佐渡奉行巡観船、神光丸(相川町・萬屋興平)、栄丸(沢根町・金子屋)、天神丸(相川町・秋田屋)、栄丸(多田村・三右衛門)、旭丸(新町・五左衛門)、稲荷丸(小木・傳根屋)

 ・島外:明慶丸(越後宮川(柏崎)・本田東)、亀通丸(越後荒濱(柏崎)・牧口東)、栄正丸(越後寺泊・上林津三郎)、大吉丸(越中岩瀬(富山市))

 《参考》越後荒濱(柏崎)牧口東

 1673年(延宝元)地元で使った魚網を北海道・松前のニシン漁に使って成功し財をなした牧口庄三郎の子孫であろう。あば網作りは、地域の農家の副業として盛んに行われた。佐渡でもそれを知ってか盛んに行われ、北海道との交易の基盤が築かれた。

 c.幕末1849年(嘉永2)の船大工

 ・地区別:宿根木7、小木9、相川9、小川9、夷8、松ヶ崎6、赤泊4、稲鯨4、沢根2、姫津・北狄・北川内・入川・北田野浦・鹿伏・橘・ニ見・河崎・豊岡・片野尾各1。合計69人。

 ・各地の船大工の棟梁が宿根木の善太郎・赤泊の善左衛門、脇棟梁が宿根木の五郎兵衛・沢根の篤四郎で西国の弁財船技術を習った船大工であった。

 7)幕末〜明治初期にかけ鍛冶屋3軒、桶屋2軒(弟子は、何れも12人有す)。

 それらは、造船にも係わりがある。

 以上の宿根木の繁栄も、明治20年(1887)頃には、帆船よりも蒸気船・汽船が速高安定航行・大量積載の面で主流となり、さらに列車などの陸上交通網が開け地域間の価格差が少なくなり、千石船による廻船の衰退した。

 1913年養蚕組合発足、1916年開墾組合結成と宿根木は農業へ転換をはじめた。

3.まとめ

‖根・浜田屋の発展は、港として発展した沢根に1600年後半立地し廻船業を始めたこと。1750年の佐渡産物他国出荷解禁が、発展の根因となった。宿根木で新造船を造り、海運に明るい宿根木に目を付け 船頭や水夫(水主(かこ))を雇い入れ海難もなく、稼ぎを積んでいった。儲けの分は、中古船の購入・大型への改造、大型船の新造、あるいは田畑購入による賃貸収入と業容・安定収益源を拡大。

⊇漂木は、船の修繕を含め男は海で稼がなければならないという風土があった。1600年前後から沢根が、金銀山用の物資を載せた船が集まり、問屋が軒を並べるなど発展していた。

 1)地元でも廻船はあるが、沢根で働き水夫→船頭→船持ち船頭→廻船事業者への夢は大きい。沢根の方が、発展しているからニーズが強い。あるいは、船乗りよりも船づくりが好きであれば、地元で船大工見習い→船大工→船大工棟梁への道もある。当時から、海上輸送は花形産業であり300年も成長が続いた。

 2)一方宿根木に目を向け人材などを使ったのは、沢根の浜田屋。

「北前船」と「千石船」

 1)「北前船」は、どちからと言えば大坂・兵庫を含め瀬戸内地方の用語である。いろいろ解釈あるが、「北前」とは日本海を指す。

 2)「千石船」は、どちらかと言えば東北・越後・佐渡・北陸地方の用語である。米を積んで大坂方面へ航行したからで、瀬戸内地方では余り使わない用語であろう。

 3)「北前船」は現在も形を変えてあるが、千石船は無い。但し、無くなってしまったのでなく、歴史に名を残していると共に当時の設計図で造られた千石船は現存している。

以上

《参考》

(1)白山丸

。隠牽毅固(安政5)宿根木にて建造された千石船「幸栄丸」を当時の板図(設計図)をもと9に1998年復元(実物大)。

日本初の完全復原 千石船。地元の白山神社にちなんで「白山丸」と名付けた。

Aイ粒詰

 全長:23.8m、最大幅:7.24m、石積数:512石積、帆の大きさ:258屐畚庁隠供ィ娃沓蹇濂16.05m=78坪 

和船35

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(2)幸丸

。隠坑苅闇寺泊で建造された貨物船で寺泊ー小木間を寺泊の長谷川正作氏と父 勘右ェ門氏が荷物を運んでいた。寺泊港からは日用雑貨、小木港からは竹・炭・薪などを運んだ。

 所要時間は、早いときで3時間 遅いときは5時間かかった。

■隠坑僑映9月の第二室戸台風で老朽化のため船体が一部損傷、時代の流れもあり廃船にし自宅で保管。当時小木町の金子町長がそんことを聞いて長谷川氏を訪問し、小木町に建物を建てて幸丸を保管するというので長谷川氏から小木町へ寄贈することになった。

佐渡海峡最後の和船 残されている和船の実物は日本に他に無い。

 全長:19.1m、幅:3.8m、高さ:3.0m、帆の高さ:13.0m、150石積、2人乗り。

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 (資料)

 『時代に帆を揚げて』(前掲)、『海陸道順達日記』(既掲)、『宿根木村誌』、『小木町史』、『佐和田町史』、『現近代の羽茂』、『赤泊村史』