こんにちは!佐渡の本間です。  

 歌見・浦川・馬首の訪問の翌日4月24日(金)は、岩首・東鵜島・柿野浦の棚田訪問であったが、岩首でつまずき果たせなかった。28日(火)に再度挑戦となり その時は岩首・丸山・小倉にコースを変えた。

1.4月24日(金)晴

[渉堵6:55のバスに乗り、終着の岩首に降りたのは7:55。

 1)辺りに人がいたので、棚田へ出る道を確認した。岩首川に沿って道を上っていくと、川は渓流で岩が多いのに気づいた。岩首は、その岩に由来するかも知れないと思いながら眺めて歩いていると、後ろに農作業に出かけるトラックがいるのに気づき、道をよけることが度々あった。車は警笛を鳴らさない。

 2)途中2つに分かれる道があり、丁度トラックが2台 左の坂道を上って行った。名所・養老の滝が、少し真っ直ぐいった先にあるので折角だから最初に見ることにした。

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1)長さは、29m。

2)案内板

 明治30年過ぎに村上(新潟県)から一人の老石工がやって来て、滝に魅せられ不動尊の信仰に入った。そして滝の下流の川端に小屋を建てて住みつき、川の石で臼や石窯などを造って暮らしを立てていた。ある時、明日の朝炊く米が無いのを気に病んで寝ると、翌朝入口に米が届けられていた。またある時野菜が無いと思いながら寝ると野菜が届けられていた。「これは不動様のおかげ」と信じて益々不動尊の信仰に励んだ。

 3)滝の傍近くに小さな木造の建物があり、展示室になっている。入って見ると、石工の作った石臼や使った道具などが陳列されていた。石工は地元民の墓石彫刻の足跡を残しているが、その後の行方は不明。

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 1)養老の滝周辺の地図を示した看板があり、見れば遊歩道と展望台がある。展望台に登れば、棚田が一望できると思ったので、遊歩道を歩くことにした。

岩首7岩首3 2)道には、木の幹の形をした黒いコンクリート杭が両側と横に設けられているからハッキリわかる。ところが、登って間もなく無くなっていた。替わりに倒木が道をふさいでいる。それで、人がほとんど通っていないことがわかった。

 3)さらに登っていくと急傾斜となり、道がハッキリしなくなった。折角ここまで来たのだから、引き返すことはない・但し、同じ道は帰りに通りたくないと思いながら、目標は棚田が見える所までと希望を抱きつつ進んだ。

岩首6 4)海が見えて来た。下の方からは重機を動かしている音が聞こえてきた。竹藪(やぶ)があり、長く伸びている竹の節が幾つかに裂けて立っている竹も中にあった。不思議な光景で、人が来て割ったとは思われない。おそらく、風で互いにぶつかり合って割れたものであろう。竹藪では、竹同士擦れ合う独得の音がある。

岩首55)少し見晴らしの良いところに来て向こうを眺めると、棚田らきしものは見あたらず、遠くに道路が見えた。その道路に行くには、山の斜面の道なき道を迂回しなければならない。既に10時半を過ぎており、棚田は断念し引き返すことにした。帰りのバス時刻は、13:17、それを逃すと16:22。

 6)戻りは楽かと思った。スイスイと下り ある場所で土の斜面に尻をつけてそのままズルズルと下った。奥は竹藪に入る。元来た道ではない。元に戻ろうとしたが、土のため足場がなく上ると落ちた。支えになるのは草木の枝、そして木の幹の根の部分。上るには枝が必要で、自分の重量を支えきれず途中で折れるとまた落ちてしまう。わずか4〜5m上であるが、戻るのに相当時間と体力を要した。

 7)さらに見上げると建物らしきものがかすかに見えた。そこへ行けば、棚田が見え、しっかりした道があるとも思ったが、そこへの道がハッキリしないので まずは生還することを第一とした。まもなく、先ほどの節が割れた竹と出会った。それで、先ほどの道に間違いないことを確信できた。下りは、安心感も働いて楽であった。

 8)バス停近くに店があり、両替目的で買物した際 棚田へ行く道と遊歩道について店員さんに聞いた。すると、遊歩道・展望台というものはありませんとのことだった。事情を話すと、「すみません、すみません」とわが事のように謝っていたのが、印象的であった。それより、道なき道の独り歩きの方がはるかに問題であった。

2.4月28日(火)晴

〜案の天気予報では曇のち晴とあったため、再度行くことに決めた。早朝から晴、前回と同じ時刻のバスで行った。

∧向はわかった。なだらかな坂を上って行くと農婦がゆっくりと電動三輪車に乗って、追い抜いて上っていった。

 1)多少の荷物も載せられ便利なものがあるものだ・農機具メーカーが農家用に開発したに違いない・自動車メーカーは不振だが農機具メーカーが自動車を作るかもしれない・あるいはその逆も考えられると思いながら歩いた。

 2)例の2つに分かれた左の坂道を登っていくと、先ほどの農婦が畑にいた。棚田はこの道を行けば見れますかと尋ねると、少し戻ったところに砂利道がありその方が良く見えるとのこと。車については、お年寄りが歩行を楽にするために使っているもので それを農作業の移動用に使っているにすぎないこと・バッテリーを食うので頻繁に充電しなければならないこと・1台40万円し2台持っていることなどを聞いた。

6気┐蕕譴親擦鮨覆鵑任い襪函日焼けした男性に出会い挨拶した。棚田は10分も歩けば、よく見える場所に出るとのこと。

っ田岩首11岩首9

1)棚田が下っていく先が、佐渡海峡。船が見える。左画像には現れてないが、対岸の角田山・弥彦山がハッキリと見えた。

2)棚田は、形がいろいろ様々ある。

 人工によるものだが、自然の造形を感じさせる。

 

岩首15

 

3)水を湛(たた)えた棚田の水面に、木の緑が映っている。空が青ければ、青く映える。田植えは、いつでもOKの体制が整えられていた。

 

岩首10

4)棚田を縫って農道が走っている。画像の左端の3枚の棚田はかなり傾斜しているように見えるが、水は水平である。

5)見晴らしの良い所に、秋に刈り取った稲を天日で乾燥させるための竹で組んだハザがあった。通常は、管理の行き届く家の近くにあるものと思っていたが驚いた。人に対する信頼感がなければ、有り得ないことだ。

岩首13

6)1時間半ほどしての帰り道、田んぼの中のビニールハウスに目に止まり、中に苗が育っている。

a.これを苗代(なわしろ)と呼ぶのであろうと思いながら間もなく、先ほどの日焼けした男性がいた。「どうでした?」と問われ、「来た甲斐が、充分あった」と応えた。

 b.苗代について確認すると、その通りだと答えた。苗代という言葉を知っている人は少なくなったとのこと。昔は苗代で育てたものだが、今は自宅の敷地にハウスを造って、そこで育てる。

 少なくても毎日、数回は苗の様子を見ることが必要だろう。水分供給は充分か、温度はどうか、風が強く吹けば・雪や大雨が降れば大丈夫か等々。苗代であれば、近くにあればよいが、中山間地の棚田となれば昔であれば歩いて行かなければならなかった。

 c.苗代に初めて気づいたことは大きい。今の時代、苗代でやっている人もいることに、関心を呼び起した。おそらく、機械で田植えするのでなく手で行なうであろうと考えると益々知りたくなったが、その時はそこまでの考えが及ばなかった。

岩首14

7)歩いていると、田んぼの斜面で何かを採取している女性を見つけた。

a.声を掛けると、先ほどの農婦であった。よく精が出るもんだと感心。何を採っているかを尋ねると、ワラビと言う。左手にいっぱい持っている。

 b.4月になると出てくるらしい。ワラビの枯れ葉の所から新芽が出るので、それが目印とのことだ。

 c.販売目的でなく自家消費と島外の子供・親戚に贈るそうである。前に出合った畑に近かった。野の幸を摘(つ)むのは仕事に来たついで、それによって少しでも生活に役立つ。

3.岩首

。娃糠3月末現在の世帯数59・人口159人。(住民基本台帳)

東鵜島と松ヶ崎の集落に挟まれ、それらを結ぶ海岸沿いの道はすぐに断崖で、海に面した平地は少ない。従って、岩首川(大川)と小川という2つの川に沿って家々がある。

E槌は、山あい・谷あいの開発。

 1)慶長5年(1600):田地は、1700束余の刈り高から3町(推測)。戸数19。

 2)宝暦6年(1756):田17町9反9畝、畑21町1畝。戸数74・人口332人。天保14年(1843)まで、面積・戸数とも大きな増減なし。

  元和9年(1623)〜元禄4年(1691)の69年間の新田開発は、合計152筆・6反2畝余。筆数は多くても1筆当たり開発面積が少ないのは、狭い山地開発のため。

 3)昭和50年(1975):田2782a(27町)、畑791a(8町)。戸数79・人口300人。明治維新からも新田開発が、盛んに行なわれた。この場合は、畑→田への転用であろう。田畑の面積は、1756年の38町に対し1975年は35町と殆ど変化がない。劣悪な畑を田にするため、土地改良を行い水路を築いて良田にした。

す掌祐における副業としての漁業・林業

 1)寛政4年(1792)の年貢皆済目録の課役状況

 烏賊(イカ)役:3000枚 銀16匁5分、干鱈(タラ)役:45枚 銀1匁6分7厘、蛸(タコ)役:3頭 銀8匁1分4厘、山役:銀30匁5分5厘、船役:15隻 銀44匁9分3厘、漆木役:16本 銀1匁2分。

 2)竹

 a.宝暦6年(1756)の明細指出帳によれば、百姓持ちの林71ヶ所、百姓持ちの竹林8ヶ所、仲間持ちの竹林2ヶ所。

 b.昭和元年(1926)の佐渡25町村の竹材の出荷量のうち岩首村は、赤泊に次ぐ2番目で、同9年は金額ベースで羽茂村と並ぶ数値に見るように佐渡での代表的な竹・マダケの産地。

 ・昔から竹は、樽や桶のタガとして、壁のコマダケ・藁(わら)屋根の下地として使われた。だが、時代ともに容器や建築様式が変わり需要は急減。

 ・そのような中で、稲作地域に稲架用にマダケが使われ出した。特に、越後地域では稲の乾燥は田の近くにハンノキの並木に縄を渡してハザを作り、そこに掛ける習慣があったが、乾燥の面で竹が良いとされるようになった。越後は竹林は少なく、新潟県の竹林の大半は佐渡であったから、竹材として越後方面への移出が多くなった。

 c.この3〜4月、加茂湖の畔で太くて長い青々とした竹が何本も並んでいるのを目撃している。牡蠣(カキ)の養殖筏(いかだ)を組むためのものである。筏を1基作るのに20本の長い竹が必要であろう(近年は、樹脂製の長い棒もある)。加茂湖に浮かんだ竹が何年持つかは知らないが、加茂湖には少なくても1,500台のカキ養殖筏があり、単純計算では3万本の竹が使われていることになる。現在でも「地産地活」で地域産業に役立っている。

4.まとめ

’誠緇覆涼田の定義は、「傾斜度が20分の1(水平距離20mに対し1m高の傾斜)以上の水田」。

 1)1993年の現地調査によれば、その定義に基づく棚田は全国に22万1,067ha(全水田面積の8%)で、そのうち12%が耕作放棄となっていた。

 2)棚田の特性としては、

  a.一般に家から遠く離れた山間部にあって、傾斜をなしている。

  b.耕作単位面積が狭い。耕作効率・生産性を高めるには、田が連続している・近くに多くの田を所有し面積を広くする・人や農業機械や肥料などの移動・運搬距離を短くすることなどが条件。 

  先祖代々から所有権・耕作権を受け継いで来たため、一定地域内に複雑に田んぼが分散・散在することも現状止むを得ない。

  c.圃場整備・大規模化が困難。従って、機械化が難しく人手に頼る。

  d.水源は豊かであるが、灌慨(かんがい:水の供給)・排水は他人の田んぼへの影響力が強いから、水利用について決まりを守る必要性が強い。

  ・昨年1月あるテレビ番組に中国の高地に住む少数民族の生活の様子を紹介した放送があった。そこには、数十段にわたる細長い棚田があった。

  ・高地で生活していくには、水が特に重要。飲む水・汚れた物を洗い流す水・稲などの植物や牛などの動物を育てる水。

  ・水は平等に各家の棚田に配給される必要があり、そのための工夫が水路の要所に施されている。我田引水すれば、罰せられる。

  ・棚田は、水源との係わりがあるから勝手に作れない。

  (08年1月8日号「歴史スポット26:自給自足(2)新田開発」)

岩首の棚田

 1)様々な形をした棚田が多い。

 a.これは、それだけ傾斜度が高く、しかも同じ土地でも傾斜が一様でないため、開墾・整地に相当骨を折った末 そのようになったと見ることが出来る。

 b.あるいは、所有地が長年の間に複雑になって交錯しているとも考えられる。互いに境界線をめぐる争いがなく平和に守られてきた姿が、現在ここにある。

 ・各町村の郷土史には隣村との入会権・水利権・漁業権をめぐる争いの記録が見受けられるが、岩首では見当たらない。

 ・天明9年(1789)、「盗人・出火・賭博に対し、処罰方法を村中で申し合わせた」という記録があるくらいだ。

 ・天明9年というのは、浅間山の大噴火に始まる同2〜8年にかけての日本中を襲った天明の大飢饉の翌年にあたる。当期間は全国で多数の餓死者が出て、江戸・大坂では米屋が打ち壊された。庶民が暴徒となって襲撃・破壊・略奪する事件が全国で発生、江戸では5日間無政府状態の時があった。

 2)岩首の棚田には、耕作放棄したような休耕田は殆ど見かけず、皆満々と水を湛(たた)え、生き生きしていた。

 米作りの当事者にとっては どうでもよいことと思われるが、岩首の棚田は眺める人に感動を与える見事な景観をつくっている。

以上

 (資料:『両津市誌 町村編上』、『岩首村史』1973年刊)