こんにちは!佐渡の本間です。

 石名清水寺からは、同じ道を逆戻りで山中にある光明仏寺(こうみょうぶつじ)に向かった。今回は車だが、過去をつなぐと全て歩いている。昨年10月は、河川巡りで岩谷口から石名へ来た(09年10月16日号「佐渡の風景90:河川(13)石名川」)。3年前の11月3日、両津湾沿いの黒姫から山越えして外海府の岩谷口へ入った(07年11月6日号「佐渡の風景29:黒姫越え」)。そして海岸線に沿う高台にある山道のよう坂の多い道を通り、1969年開通の海府大橋を渡り抜け、真更川に着いて1泊(同8日号「佐渡の風景30:真更川」)。翌朝、真更川から山居道を上って山居池と光明仏寺を訪れ、北小浦へ下りた(同9日号「佐渡の風景31「山居道」)。

 前の時は 風景一般であったが、今回は寺院がテーマ。なお、山居池は光明仏寺と不可分の関係にある。

 当寺には、前々から期待があった。個人趣味でしかないが、一つは廃寺境内にある野ざらし状態の石仏。前の記事の感想に、「『また見に来たい』というより、『また逢いに来たい』という感じにさせた」とある。誰が、いつ頃作ったのかに非常な関心を持った。もう一つは、本堂壁板に「宮崎県日向國・・・」と書かれている落書きを写真に撮ること。

 そのいずれも 再び逢えるという期待と、もしかして無くなっているかもしれないという心配があった。 

 (資料:『地蔵の島・木食の島』(田中圭一著。2005年刊)、『佐渡相川郷土史事典』、『両津市誌 町村編下巻』(1983年刊))

1.山居池

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〇概鐫咾蓮⊆囲500m、最大水深12m。周囲に大きな山がないのに、水をたたえている。魚類はいないようだ。

∋概鐫咾らの水は、大ザレ川となって断崖100mもある渓谷を流れ日本海に注ぐ。落差70m以上の大ザレの滝は、川から100mの高さに架かった海府大橋から見えず崖下に下りるか船で海から見るしかないとされる。一般の人は目まいがして橋の下を直視できない。

山居道を上っていくと山居池の案内板の傍に石塔が建っている。

 1)大きな名号塔の正面には浄厳(じょうごん)の六字「南無阿弥陀仏」の名号が彫ってあり、天保8年(1837)10月15日の日付がある。

  《参考》浄厳名号塔 (資料:『佐渡相川の郷土史事典』)

 浄厳の名号を刻んだ塔。浄厳が佐渡を離れた天保年間中頃から建立され、年号の判る塔では、天保8年(1837)から明治33年(1900)までに及んでいる。名号塔は、浄厳が自ら彫ったものではなく、浄厳やその弟子の明聴などから授かった木版刷りの名号符をもとに信者が建立し、発願の内訳は、その家の先祖代々供養と、日課念仏の満願達成である。唯一浄厳が、自ら彫らせたと思われる名号は、岩谷口の岩谷山洞窟の壁面名号だけである。名号の分布は、山居から岩谷口周辺が最も多く8基を数え、現在島内で32基が確認できる。高千地区に講中が多いのは、良質の木材を産出した山居周辺に、高千の木挽きが入って仕事をするうち信仰するようになったと伝えられ、先達三郎平には、巾30cm高さ80cmの名号二幅と、巾30cm高さ70cmの浄厳の描いた「弾誓上人降魔の図」が伝えられている。また小木町光善寺墓地には、字が素晴らしいとのことで、昭和4年某家の墓石に、浄厳名号が使用されている。

 2)側面には、「浄土鎮西白旗一向専修念佛道場」とある。

し陳后複隠毅坑供腺隠僑隠機砲虜◆弾誓(たんぜい)がこの池のほとりで修行したとされる。なお、『佐渡風土記』には、弾誓が佐渡に渡った時を、1590年(天正18)としている。

2.光明仏寺

(1)光景 

 山居池から当寺の案内板のある所へは、車で5分くらいかかる。前歩いた時には、まだかまだかと思いながら進んだ覚えがある。案内版のところで車を降り、寺の方へ歩いていった。道は、雑草が茂り両側は細い木々の葉で包まれ微かに光が差すが、薄暗い。真更川集落から北小浦集落の約10km間には民家は見当たらない。その山の中に寺が建てられた。

 人が訪れるはずのないひっそりとした言わばジャングルの中をほぼ真っ直ぐ7〜8分程歩いて行くと 広いところに出た。ぬかるみがあり、わだちの跡が残っている。知る人が来ている。寺が見えた。 

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 1)お目当ての石仏は、見当たらなかった。手遅れと思ったが、1、2柱は残っている。これでは少な過ぎ、一瞬持って行かれたと思った。だが、胴体部分はあり、よく見ると頭と首の部分は傍にころがっていた。

 2)風で飛ばされたのであろう。大半がそうであった。中には、顔の部分がうつ伏せで地面についたままの状態にあった。持ち上げて起こすと顔が泥で汚れたいた。婦人の像である。泥を拭って綺麗にし 胴体部分にすえて安定したことろで写真に収めた。以下、同じようにして、写真を撮った。

 3)その後、頭の部分をどうするかということになった。結論は、頭の部分は外し顔を上に向け、胴体の傍に置いた。以前は頭と胴体を付けたままの状態にしたと思うが、いずれ風で飛ばされ打ち所悪けれが傷がついたり壊れたりすると考えたからである。ほか利点としては、そうすることによって石仏が目立たないこと。島民や信者の人にそんなことないが、持って行かれる心配がなくなる。自分自身最初気づかないほどであったから、その方がよい。

 4)近くに明治33年(1900)と彫った石塔(画像にあり)があるのを見て、その頃造られた石仏であることがほぼ確定できた。 

 5)3年前拝観したとき、モデルが実際いて顔の皺など精巧な作りのため生きているようで、芸術的価値が非常に高いと見た。そのため無くなったり、風化することを心配し、管理人不在なら、例えば博物館のような公の機関で保管したらよいのではないかとか、受け入れる所がないとしてよければ自分が引き取っておきたい気持ちがあった。また一方では、それらは強風や豪雨や豪雪にさらされようと 今の場所にそのまま居た方がよいと思ったりもした。

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∨榮夏發陵扈颪

 1)本堂内に入ったのは16:00過ぎであった。中は既に真っ暗で、お目当の落書きの所在がわからなかった。これは失敗したと思った。

 2)適当に見当をつけてフラッシュ写真を撮るしかない。3年前と様子が違ったことは、壁に直接書かれた落書きが紙のコピーにうつされた。

 3)前のブログ記事には、「明治、大正、昭和、平成の年号と名前を壁や板などへの書き込みがしてあった」とある。

 a.その時、書き込んだ「昭和22年6月15日東京都麹町区宮内省皇宮警察署警務課皇宮警事 地多次一 参拝記念 時ハ24歳」が、ちょうど写真に入っていた。

 b.さらに次もあった。 

 「昭和18年査閲9月23日査閲官鹿野大佐の御伴をして光明佛迄で来る」「昭和18年9月23日参拝記念 当年21歳 地多次一」(以上2つの文は、文字から見て異なる人が書いた)

 4)今日、重要文化財の寺院などへの落書きが社会問題となっている。当寺には記帳ノートのようなものは、初めからなく寺の住職も住んでいない。

 a.明治43年宮崎県からおそらく行道の没後100周年を記念して訪れた3人は、他には誰もいない中で、何か記念に残そうとした。それが、板に墨書された「宮崎県日向國 〇〇 〇〇 〇〇 三人で同行」。

 それが最初の落書きかは現時点不明だが、それがきっかけで他の参拝者が、真似て壁の空いているところに書くようになった。

 b.普通の落書きと異なるところは、「参拝記念」と書いていることが多く、自分の年齢も書いていること、すべて真面目で変な記入はないところに特徴がある。

 これが、誰が興した訳でもない自然発生的に生まれた光明仏寺参拝者の伝統文化

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(2)概要

 (ここでは、『佐渡相川郷土史事典』の「光明仏寺」解説を番号で区分し、他からの資料を補足して内容の充実を図った) 

 嵶渉纏埒森浩郢鈎罎砲△襦J佞螳貘咾鮖概錣噺世ぁ∋概鐫咾閥Δ北攷弾誓一派の修行地の伝承を伝える。『光明仏』は弾誓の異名であり、弾誓の寺の意味である」

 1)当寺は、「山居のお寺」と呼ばれている。本堂の木札には、「光明山念仏寺蓮華律院本堂」とある。

 2)「山居」という名は、先駆者の弾誓が「山に居て」修行したことに由来。佐渡には、あちこちに「山居」の地名や「夏渡り」の地名が残ると、前掲田中圭一氏は解き明かす。冬は外海府・岩谷口にある洞窟の「岩屋」で生活、「この岩屋の中に山居の池から下りて居ておりぁ、冬でも寒さ知らずですの」という地元民の話を著書に載せてる。山居は、弾誓以降木喰僧の修行場となった。

◆岾基は元和6年(1620)とする説もあるが、光明仏寺縁起による元禄6年(1693)10月、真更川山中に念仏堂屋敷を村中より寄進の記事が、開基と見るのが妥当と思う。『弾誓上人絵詞伝』や『畧伝』が成立し、一般に流布したのは元禄(1688〜1703)の頃からであり、当然それは佐渡にも伝えられ、堂の建立に至ったものである」

  相川の「弾誓寺文書」では、元和6年(1620)。(弾誓寺について、今月8日号「佐渡の寺院30:弾誓寺」に記述)

「本尊の阿弥陀如来座像は、相川弾誓寺三世「音阿」(元禄15年遷化)の作であると伝えられ、慶応4年(1868)まで弾誓寺が管理をしていた。しかし寺院・堂として除地は認められておらず、無住・無人の頃もあって、天明2年(1782)佐渡に滞在した、「木喰行道」によって再興された」

 行道は、弾誓ゆかりの山居で光明仏堂の荒廃を見て、再興を思い立ったとされる。「佐州加茂郡真更川村光明佛建元勤化勧化帳」がある。お堂を建てるため施主を募った。「勧化(かんげ)」とは、僧が仏寺・仏像を造営するため信者から寄付を勧め集めることをいう。

ぁ屬泙拭天保年間(1830〜1843)の初め佐渡に来た「木食浄厳」は、ここを「浄土鎮西白旗流一向専修念仏道場・光明山念仏寺蓮華律院」と改め、日課念仏を広め、賦算・血脈の配布を行い大いに栄えた。その弟子で真更川土屋三十郎家の娘「明聴」は、吉井本郷に「西方庵」を開き、明治期に来た「笠掛澄心」は、山居道を整備して大いに繁栄をもたらした」

ァ峺什澆侶物は、昭和31年(1956)に増改築したものである」

  《参考1》浄厳(じょうごん)について

 a..『佐渡相川郷土史事典』

 木食戒を行った、埼玉県では「じょうげん」と呼んでいる。生国は埼玉県鴻巣ともいわれるが、一切不明。僧になるため修行した場所は、寛文年間佐和田町山田に、宗念堂を開いた「宗念」と同じ、群馬県の大光院(通称太田の呑竜さん)である。浄土宗鎮西白旗流の僧で、名を「精蓮社勇誉進阿瑞巌浄厳」と称した。血脈図によれば、知恩院第六十六世真瑞のもとで得度したようにあるが、真偽は不明。埼玉県児玉町小平陣見山の岩谷洞で木食行の後、弾誓の足跡を訪ねて佐渡に来たと伝えられるが、天保年間の初め頃、児玉の代官との関係が悪くなり、相川町上相川の玄徳寺や、庄右衛門町の源昌寺にいた法類の、浄覚や浄光を頼って来たというのが真実のようである。佐渡に来た浄厳は、50年ほど前に、行道が再興した山居の光明仏寺に入り、ここを「光明山念仏寺蓮華律院」と名付け、日課念仏を勧め、徳本と同じように念仏の数に応じ、大中小の名号符を与え、時には先祖供養をして布施を得ていた。天保8年(1837)ころには、真更川土屋三十郎の娘で弟子の明聴や、相川の法類に後を託し埼玉に帰る。その後、茨城県江戸崎町大念寺、水戸市郊外の常福寺住職を経て、本山知恩院七十二世になったとする説もあるが、佐渡では山居で入定したと伝えられている(『佐渡相川郷土史事典』)。

 b.『両津市誌』

  天保10年(1839)ころ浄厳が浄土宗の布教活動に力を入れ、一山大いに隆盛したということであるから、浄厳が中興したのであろう」「山下八か村といわれる黒姫・虫崎・北小浦・見立・鷲崎・願・北鵜島・真更川の各村々が、この布教活動の範囲に入っていたものであろう。

 c.『地蔵の島・木食の島』

 ァ.(真更川の土屋三十郎家にある浄厳の作成した版画(弾誓降魔図)に記された文)

  佐渡の国加茂郡真更川の山中に浄土宗鎮西派白旗流一向専従念仏の道場があります。ここは光明山念仏寺蓮華院といって、法国光明仏こと弾誓上人が専修念仏したまいし霊場であります。慶長2酉年(1597)10月10日の夜、父子相迎の桜の下に弾誓上人が山居しておりましたとき、魔鬼が現れ鬼形の者が鉄の棒をもって頭を打ち、鉄の足駄をもって眉間に投げ付けたけれども上人は目を瞑(つぶ)りたまうことなく、ひたすら念仏回向しておりました。すると、たちまち上人の御口より光明放ち、十方を照らし魔鬼が退散しました。これはそのときの尊像です。

 ィ.浄厳上人は、ここから数日に一度、岩谷口や真更川の村に托鉢に下って行った。参道入口に明治29年徳島の行者笠掛澄心の建てた石塔があるが、それによると、岩谷口までは38町、真更川までは18町とある。険しい道を上り下りしたのである。修験者はここから金剛山や檀特山や金北山に登って山岳修行をしたのであった。

 ゥ.「山居の御堂は、明治のぎ行者笠掛澄心以後は無主である。お堂前にあった二抱えもある大桑の木は今は存在しない。昔、弾誓上人が座して念仏したと由緒する桜の木も今は伐られて無くなった。その株の根元に古い石塔が一つころがっていた。そこには次の文字があった。

  日本廻国

 文政4年(1821)6月28日

   世話人 京都 幸治良  備中 円心  雲州 宇助  同行中

 ・・・笠掛澄心上人が残したものがもう一つある。山居の池のわきに建つ『龍誉高天』の供養塔である」

 《参考2》笠掛澄心(しょうしん)について

 弘化4年(1847)、徳島県三好郡井内谷村野住に生まれた念仏行者「笠掛澄心」が、山居・光明仏寺への道路を整備し、建立した道標。そのため光明山中興開山法印と呼ばれる。澄心はまた弾誓に、「換骨の秘儀」を行った天照・八幡・春日・住吉・熊野五社の善神塔や、浄厳の名号塔を光明仏寺に建立しており、弾誓に厚く帰依し、浄厳の足跡を訪ねて佐渡に来たことが判る。光明仏寺へ通じる山居道は、岩谷口・真更川・北鵜島・願・鷲崎・見立・北小浦・虫崎などの、山下八か村からあり、相川町では岩谷口からの登山道に道程の石塔があったが、砂防ダム工事後は確認できない。現在は山居の池周辺に2か所と、光明仏寺山門跡に1か所、この他北小浦道などに何か所か確認できる。澄心の墓は、真更川の浄蓮坊川を見下ろす段丘上にあり、明治40年(1907)2月16寂。行年61歳とある。(『佐渡相川郷土史事典』)

3.まとめ

|得世ら始まり 行道ー浄厳ー澄心と続く弾誓を慕う心は、非常に根強く根深い。光明仏寺を含む山居は、いわば聖地。

 1)行道は光明仏寺を再興、浄厳はそこで修行すると共に念仏道場を開き、澄心は当寺に至る道を整備し道標を建立した。いずも単なる僧や行者でなく、彫刻や毛筆などに優れ、且つ人脈・貯金ゼロから出発し 穀物は食べず木の実や草しか食べない木喰どころか下手すれば乞食になってしまう境遇下で 資金・人手を集めることのできる社会事業家であった。

 2)根底にあるのは念仏修行。弾誓念仏とも言われる。天台宗弾誓派(総本山は浄発願寺。神奈川県伊勢原市)があり、相川の弾誓寺は天台宗。そこでは今は念仏はやっていないが、1971年(昭和46)に最後の念仏が行われた。「旧の6月15日には大仏の回向がありました。300年も昔から続いたものだと聞いています」(住職代行 内藤菊枝さん)。

光明仏寺での再度にわたる小さな発見

 当寺に限っては、本堂内の「落書き」は的外れで参拝記帳というのが本質を突き、それが正しい。それらを分析するといろいろな発見ができると確信。ここでは、前掲の地多次一なる人にスポットを当てた。

 1)3年前その落書きを見た時、終戦後何でわざわざ東京から当寺へ参拝に来たのか、地元民でしかわからない寺なのにと不思議であった。当人が、地元出身者か関係者があればそれで解決。

 a.島内で当寺を知る人は地元以外に殆どいないと断言できる。夷出身の自分自身が3年前まではそうであったからだ。知り合いに言っても、そんな寺の存在は知らない。山居池も同じ。A2判の佐渡地図を見て大佐渡山脈の北側真ん中に大きな池があるというのが関心の発端。

 b.信者でもなさそうで、何のために東京から来たのか全く考えられなかった。

 2)謎が解けたのは、同じ人がその前にも書いた昭和18年の落書きが写真に写っていたこと。

 a.当初判読できなかった文字を「査閲」で調べると 言葉として確かに存在し、「査閲官」という職名があることがわかった。査閲官とは、軍隊から派遣された人で、戦時中 学校の軍事教練の成績を実地調査する人で複数人で行われたという。また、そのことを通じて学校間での軍事教育の競い合いになり向上につながったとされる。

 b.地多さんは若くして査閲官の助手として来島。内海府の中学校か外海府の中学校かその教練実地調査に回る際、山中にある光明仏寺の前を通り、そこで休憩した。あとはどちらへ向かおうとと下りとなる。(車の通る道はなく北小浦と真更川を結ぶ旧道が寺の前にあった)、そして、お堂に入り誰もいない暗い寺の中で明治期・大正期の参拝記念の落書きを見つけた。当人は何となくひかれ空いている壁板に参拝記念を書き込んだ。ある仲間もそのようにした。

 c.敗戦後、日本は戦争放棄の国に変わった。日本国憲法は1946年11月3日に公布され、翌1947年5月3日に施行された。地多さんは宮内省の皇宮を護るという非常に重要な職務に就いた。これは、品行方正について抜群の評価を認められた人でなければ絶対就くことできない職務だろう。明治13年の改正教育令「品行不正ナルモノハ教員タルコトヲ得ズ」は、戦後においても生きて当然。

 d.おそらく、戦時中たまたま立ち寄った光明仏寺は地多さんに何らかの影響を与え功徳をもたらした。

 だから終戦後 新憲法施行1ヶ月後に東京から佐渡の辺鄙(へんぴ)な山奥にある当寺を再び歩いて訪ね、「昭和22年6月15日東京都麹町区宮内省皇宮警察署警務課皇宮警事 地多次一 参拝記念 時ハ24歳」と堂々と書き上げた。

 昭和18年の「当年21歳」から昭和22年「時ハ24歳」の記述の変化に、「人生これからだ」という気合と躍動感が感じられる。

以上