183・欧州子会社上期決算予想・ハイデルベルク滞在記(HD1992年8月その1)

HD滞在記183・ラインの野に

  我が住まいは…ハイデルベルク、クレーマーガッセ(小売屋横町)、フィア・ウント・ツヴァンツィッヒ(24番地)・・・
  旧市街の中心のコーンマルクトから、バックパッカー達が零(こぼ)れ落ちてくる、ガッセ(小路)の端に位置している。

  8月になった。

  アテネから帰ったハイデルベルクの工場は、ウアラプの真っ最中。
  経理担当のMO氏が家族と共に日本に引き上げ、又、工場は寂しくなった。


  7月1日、日本に出張していた欧州総支配人が帰国し、久しぶりに工場に顔を出した。
  早速、スタッフミーティングが行われた。

  欧州にある我社の子会社の赤字は、日経に掲載されるまでに膨張していた。
  本年度(1992年度)の赤字は18億円以下に、来年度は6億円以下に収めるように…との話であった。
  どうやら、対策案として、そのような内容の話を、記者発表したらしいのである。

  不要不急のKR御殿は、すでに完成してしまった…現在の我社には不似合いの大枚を投じて…当初の予算をはるかにオーバーしながら…
  この不景気で、減らさなければならないはずの人員を、大幅に雇用してしまった…なんの成算もなく…ただドイツ人マネージャーの言うがままに…

  さて…すでに膨れ上がってしまった必要経費を、どのようにすれば減らせるのか?
  本来であれば、仕事を合理化することにより人員を減らし、不必要な建屋は他社に貸すなり、売却するなりして、必要経費を減らすのが経営の常識である。
  ところが…この会社は総てに置いて、逆のことをやり続けてきたのである。

  えつ!…「お前も、開発責任者だろう! 無責任なことを言うな!」…って?
  そう、私も開発をまかされた責任者の一人である。
  新機種が開発されても、それによって会社が儲からなければ何の意味もない。
  だからこそ、なんとかしたかったのだ!

  旧機種の在庫を生産するにあたって、在庫は最小限におさえるべきだと私は主張した。
  だが、在庫は営業部と製造部の問題であり、設計はできるだけ早く新機種を開発するように…と言われただけであった。
  私の予想通り、旧機種の在庫は、そのときから、ほとんど減ってはいない。
  日々、その金利を払い続けなければならないのである。

  設計人員を増やせ…とのドイツ人マネージャーの申し入れを、私は徹底的に断わり続けた。
  毎日、激論を交わして、日本人の設計者が、心配して私に忠告したくらいである。
  だが、KR社長は、私に一言の相談もなく、総ての設計人員の雇用契約書に、サインをしてしまったのである。
  私は、開発責任者ではあるが、量産はドイツ人マネージャーの責任であるから…ということらしい。

  KR御殿の建設にいたっては、話さえもなかったのである。
  ある時のスタッフミーティングで、KR御殿を発注したから…と事後報告があっただけであった。

  えつ!…「KR御殿って何だ?」…って?
  「097・穴の開いた水袋・ハイデルベルク滞在記(HD1990年12月その1)」を参照してもらえばわかる。
  工場には空き部屋がいくらでもあるのに、新しく建てた部品庫兼事務所である。
  噂によると、120万ドイツマルク(約8400万円)近くの予算で着工して、予算をはるかに超えて、1億円をはるかに越えた価格で完成したものであった。

  このような状況になる前であれば、なんとかなったかもしれぬ。
  だが、人員も建屋も膨れ上がってしまった現状では、打つ手はない。
  膨れ上がった必要経費の金利だけでも、無視できない額なのである。
  ましてや、毎月の増加する赤字によって、銀行からの借り入れ金利は上がる一方なのだ。

  大型機種の開発は、止めた方が良いのではないか?
  この大型機種の開発には、3億円近くの開発費がかかるであろう。
  この開発は、ますます、欧州の会社の足を引っ張る結果にならないだろうか?

  工場のドイツ人はすべて…現在敵対し始めた組合員を含めて…この大型機の開発に期待している。
  このハイデルベルクの工場は、大型機主体のユーザーが多いからであった。
  だが…この7月8日、大型機を主体に販売していたスペインの代理店が販売不振で破綻した。
  この会社の今年度における販売予測は大型機が大きな割合を占めていたのである。

  そう、ここは女神アテネが見守るハイデルベルクの工場…
  知恵、信仰、正義、農商業、天文、建築、美術工芸、音楽、そして城と街の守り神…アテネが守る工場である。

  えつ!…「機械工業はその守る域の中に入っていない」…って?

  そういえば…この工場は…初期の貨車の工場以来、3社の機械工業の会社が撤退し、我社は4社目の機械工業の会社である…けれど…

     ラインの野に 陽は未だ落ちず 古都を歩く(いく)       昶
  

182・さらばアテネ・ハイデルベルク滞在記(HD1992年7月その16)

HD滞在記182・アテネ市街

  我が住まいは…ハイデルベルク、クレーマーガッセ(小売屋横町)、フィア・ウント・ツヴァンツィッヒ(24番地)・・・
  真夏でも、ケーニッヒスツールからの吹き降ろしの風が涼しい旧市街の中心にある。  

  7月31日、夏季休暇で行ったアテネ旅行の最終日。
  ホテルは午前10時にチェックアウトしなければならない。
  だが空港行きのリムジンバスがホテルから空港へ出発するのは…なんと午後7時30分であった。
  9時間と30分…何処で過ごそうか?
  両替したドラクマを皆使っちゃおうか?

  そのような訳で、我が家族はプラカへ行って時間を費やすことにした。
  10時、ホテルのフロントに大荷物を預け、サイフを入れたショルダーバック(昨日プラカで買った)だけを持って出かける。
  我々が宿泊していたスタンレーホテルのあるカライスカキ広場から、プラカのあるモナスティラキ広場まで…
  いつも歩いていた、オモニア広場からシンタグマ広場を経由して行く道は3000メートルであった。
  地図を調べると、なんと、最短距離では約1300メートルしかなかったのである。

  最短コースの細い寂れた裏路地を進むと、前方に人だかりが見えてくる。
  寂れた裏路地はMiaouli通り、人が大勢往来しているのはErmou通りである。
  このMiaouli通りとErmou通りとが交差した所がモナスティラキ広場である。
  
  モナスティラキとは「小さな修道院」と言う意味で、かつては、この場所に、小さな修道院があったそうである。
  今でもこの広場の片隅に、ビザンチン時代の教会パナギア・パダナサの一部が残っている。
  
  この見落としそうな小さな教会と対照的に、アクロポリスを背にして聳えている異様な建築物があった。
  アテネの総督であったツィスタラキスの名を冠して、ツィスタラキス・モスクと呼ばれているモスクである。

  ツィスタラキスは、18世紀半ばに、オリンピアにあるゼウス神殿の円柱を破壊して、このモスクの建築に使おうとした。
  当時のアテネを支配していたオスマントルコの法は、スルタンの許可なしに古代の建造物を破壊することを禁じていたのである。
  このため、ツィスタラキスは重い罰金刑を科され、職を追われたそうである。
  このモスクは、一時、牢獄や兵舎として使われていたそうであるが、現在では民俗博物館の別館になっている。

  このモナスティラキ広場に通ずる路地に、土産物屋がひしめいていた。
  ここには、ハードロックやパンク系の服・靴を売る店が軒を連ねており、我が家族の趣味に合わず通り過ぎる。

  ハドリアヌスの図書館の横を抜けると、そこはもう、プラカである。
  もう何度も足を運んだプラカで、お土産にする小物を買い揃えた。

  プラカのレストラン(喫茶店と言う方が似合っているが)で昼食を摂る。
  当時の手帳には、「プラカで昼食」と書いてあるのみで、何を食べて、いくらしたかは書かれていない。

  さて、時間ぎりぎりで急ぐと、汗をかく。
  チェックアウトした我々は、もう、シャワーを浴びることはできない。
  だから充分な余裕を持ってホテルに帰ったのである。

  午後7時30分…アテネにしては珍しく、時間通りにバスはホテルを出発した。
  来たときと異なり、バスは大きな観光バスであった。
  各ホテルを回って、客を乗せながら、バスは空港に到着した。
  
  搭乗手続き一切を終えて、我が家族は無事飛行機に乗り込んだのである。
  飛行機が何時に飛び立ったかは、当時の手帳にも、記憶にも残っていない。
  だが、フランクフルト空港に到着した時間は手帳に書いてあった。
  翌日(8月1日)の 午前1時30分であった。
  出国手続きで、大荷物を引っ掻き回され…空港の駐車場に着いたのは午前2時であった。

  そう、ここは午前2時のフランクフルト空港の駐車場…
  7月24日から、8日ぶりに我が愛車と出会ったフランクフルト空港の駐車場…
  9日間の駐車料金が182DM(ドイツマルク)であったフランクフルト空港の駐車場である。
  
  えつ!…「182DMって、日本円にしたらいくらか?」…って?
  当時の通貨換算率から計算すると、日本円で約12,740円であった。
 
  
     夏旅の プラカで終わる 文月尽(ふづきじん)       昶

181・スニオン岬・ハイデルベルク滞在記(HD1992年7月その15)

HD滞在記181・夕日(遠別にて)

  我が住まいは…ハイデルベルク、クレーマーガッセ(小売屋横町)、フィア・ウント・ツヴァンツィッヒ(24番地)・・・
  真夏でも、ケーニッヒスツールからの吹き降ろしの風が涼しい旧市街の中心にある。  

  夏季休暇で行ったアテネ旅行も7日目、余すところ、あと一日となった。

  今日はギリシャのアッチカ半島最南端のスニオン岬にでかけることにしていた。
  もちろん、ホテルのオプションツアーを利用して、予約したのである。
  出発は午後2時50分であった。
  それまで、プラカにお土産を買いに行くことにした。
  最短距離のコースを通って、家族でプラカへお土産物を買い込みに行く。

  えつ!…「何を買ったのか?」…って?
  当時の手帳を見ると…
  金の指輪(17000Dr)、革鞄(9000Dr)、革のショルダーバック(6000Dr)、紅茶(3950Dr)、装飾品(2000Dr)、革バンド(1500Dr)、Tシャツ(1000Dr)…等々その他諸々。
  「Drって何だ?」…って?
  「ドラクマ」のことで、ユーロが使用される前の、当時のギリシャの通貨の単位である。
  
  このドラクマは昔から使用されており、「掴む(つかむ)」と言う意味の「ドゥラットー (δράττω)」が起源である。
  紀元前11世紀、手のひら一杯に掴んだ金属塊の価値が1ドラクマであった…そうである。
  その肝心の金属塊が、金なのか銀なのか銅なのか…私の見ている資料には書かれていない。
  ただ、ローマ帝国の初期には1ドラクマは労働者の一日の賃金の価値であったという。

  蛇足ながら、ドラクマは重さの単位としても使用されており、1ドラクマは約4.3グラムに相当する。

  えつ!…「1Drは日本円にしていくらなのか?」…って?
  えーと…手帳を見ても、当時の通貨換算率は書いてないし…
  いくらでもいいじゃないか…どうせ、そう高い買い物じゃなかったような気がするから…

  昼食はプラカのレストランで摂り、ホテルには2時前に帰る。
  エーゲ海のターゲスツアーで懲りていたから、50分も前からホテルのロビーで待つ。

  今回は、午後2時50分と言う半端な時間のせいで、込み合う事もなくスムースに観光バスに乗れたのである。
  
  さて、アッチカ半島の海岸沿いの地形はクネクネと曲がる九十九折(つづらおり)…
  片側はどこまでも続くエーゲ海…が断崖絶壁の下に波打っている。
  その片側が断崖絶壁の九十九折の道を、猛スピードで突っ走るのである。
  観光バスの締め切った窓からは、当観光バスのタイヤは見えない。
  すなはち、観光バスの窓際に座っていると、バスは断崖絶壁を踏み外し、空中を走っているように見えるのである。

  首都アテネの南南東約69kmに位置するスニオン岬にたどり着いたときは、さすがに乗り物酔いの一歩手前の状況であった。

  スニオン岬の突端には、海神ポセイドンを祀(まつ)った神殿跡が残っている。
  エーゲ海を背にして、ポセイドンの神殿は、一際感慨を誘う佇まいであった。

  このスニオン岬には、ポセイドンの神殿と共に、世界に誇るもう一つの奇蹟がある。
  えつ!…「それは何だ?」…って?
  夕焼けである!
  ポセイドンの神殿の向こうのエーゲ海に沈む夕陽は、世界一と言われている。
  えつ!…「昨日登ったリカヴィトスの丘から眺めた夕陽が世界一と言ったではないか?」…って?
  「どっちが世界一の夕焼けか、はっきりさせろ!」…って?
  いいだろう!…私だってどっちが世界一かはっきりさせるのに吝(やぶさ)かではない。
  
  ポセイドンの神殿跡をぶらつきながら、太陽が傾くのを待つ。
  ところが…である!
  太陽はまだ中天高く輝いているのに、集合の合図がかかった。
  腕時計を見ると、まだ午後6時である。
  昨日のリカヴィトスの丘の経験からしても、太陽が地平線に隠れるのはまだずっと後のことであろう。
  観光バスは午後6時5分に帰路についた。

  だから私は、スニオン岬の入日を見ていない。
  リカヴィトスの丘から見た夕陽と、スニオン岬から見た夕陽と…
  どちらが綺麗か私に分かるわけがないではないか!

  そう、ここは海神ポセイドンを祀る神殿が残る岬…
  かって、アテネの王アイゲウスが身を投げた岬…
  ここから見た夕陽は世界一美しい夕陽の一つである!(これで文句はあるまい!)
  
     スニオンの 入日も待たず 夏の夕       昶

180・リカヴィトスの丘・ハイデルベルク滞在記(HD1992年7月その14)

HD滞在記180・リカヴィトスの丘

  我が住まいは…ハイデルベルク、クレーマーガッセ(小売屋横町)、フィア・ウント・ツヴァンツィッヒ(24番地)・・・
  真夏でも、ケーニッヒスツールからの吹き降ろしの風が涼しい旧市街の中心にある。  

  夏季休暇で行ったアテネ旅行も6日目となった。
  さすがに、妻は誇りっぽいアテネの真昼の街を歩くのを敬遠し、息子はホテルのプールで泳ぎたがった。
  家族で行動する我が家の決まりを今日だけは無視することにした。
  妻と息子はホテルでノンビリ過ごす事にして、娘と私は真昼の太陽の中へ跳びだした。

  地図を頼りに、ホテルから最短距離を通ってプラカへ行く。
  いつも歩く大通りと異なり、アテネの裏町の裏道りは、ゴミゴミとしてゴミの山で汚れていた。
  ペンキで落書きされた廃屋が連なっており、観光客はおろか、現地に住む人でさえ、人っ子一人見かけない。
  
  不気味な裏町をいくつか過ぎると、前方を多くの人々が横切って行くのが見えた。
  その道に出て見渡すと、すぐそこにアクロポリスが聳えていた。
  思った以上に、プラカは近かったのである。
  
  プラカの宝飾店で、アテネの旅の記念に、9,000ドラクマのペンダントを娘に買う。
  しばらくプラカブラした後で家路につく。
  家族一緒に行動しないと、やっぱり、残してきた妻や息子が気になるのである。

  えつ!…「プラカブラって何だ?」…って?
  「銀ブラ」って知ってるかい?
  銀座をブラつけば「ギンブラ」…プラカをぶらつけば当然のことに「プラカブラ」だろう…
  えつ!…「昭和の匂いがフンプンとする!」…って?
  当たり前だ!
  平成になってまだ4年しかたってないんだぞ!

  帰り道は遠かった〜来〜た時よりも遠かった〜
  帰りはいつもの大通りを帰る。
  オモニア広場の百貨店で、買い物をしなければならない。

  ホテルに帰って、家族で、オモニア広場の百貨店で買い込んだパンや飲み物で昼食を摂る。
  妻や子供達が午睡している間に、私は一人で灼熱の太陽が降り注ぐアテネの町に出る。
  今日は、家族でリカヴィトスの丘に登り、音に聞いたその夕陽を見る予定であった。
  リカヴィトスの丘に登る…ための下見に行ったのである。

  リカヴィトスの丘は白亜紀の石灰岩でできた丘である。
  アテネ市街では最高の、海抜277メートルの高度を有している。
  えつ!…「パルテノン神殿があるアクロポリスの方が高いのではないのか?」…って?
  アテネのアクロポリスの高度は海抜150メートルにすぎない。

  えつ!…「地球の歩き方の本には、リカヴィトスは海抜273メートルと書いてある」…って?
  地図を見ると908フィート(910フィートと書かれているのもあるが…)と書かれている。
  1フィートは0.3048メートルであるから908フィートは276.7584メートル…四捨五入すれば277メートルである。

  このアテネ市街一の高度の丘を歩いて登る。
  炎天下のアテネである。
  丘の上に登りきったときには、大汗をかいていて…息も絶え絶えの有様であった。

  真夏の太陽も傾き始め、さしもの暑さもほんの少しではあるが和らぎだしたころ…
  待ち合わせしたプルタルクウ通りの西北端で、家族と落ち合った。

  下調べしていたケーブルに乗って、リカヴィトスの丘に登る。
  下調べの時は歩いて登ったけれど、家族を、息も絶え絶えになるほど歩かせるわけには行かない。

  そう、ここはアクロポリスを守る城壁をつくるために、女神アテネが持ち込んだ岩の上…
  908フィートの高さを持つ白亜紀の石灰岩の岩の上…
  ここから眺める夕焼けは最高である…と伝えられたリカヴィトスの丘の上…
  待てど暮らせど、真夏の太陽はその高度を保ち、いつまで待っても夕焼け色にそまらないリカヴィトスの丘の上である。
  楽しみは永く続いた方が良いとは思うけれど…
  
     リカヴィトスの 丘に登りぬ 永き夕       昶
  

179・エギナ島・ハイデルベルク滞在記(HD1992年7月その13)

HD滞在記179・パルテノン・アテナ

我が住まいは…ハイデルベルク、クレーマーガッセ(小売屋横町)、フィア・ウント・ツヴァンツィッヒ(24番地)・・・
  真夏でも、ケーニッヒスツールからの吹き降ろしの風が涼しい旧市街の中心にある。  

  夏季休暇で行ったアテネ旅行…5日目の地中海ターゲスクルーズ(1日遊覧船)は…
  まず、ポロス島で時計台に登り、船上で昼食を摂り、イドラ島の岸壁の下で泳ぎ、真夏の太陽が少し穏やかに変わる頃…
  最後の島、エギナ島へ上陸したのである。
  
  エギナ島は、ターゲスクルーズで巡航した3島の内で、最もピレウス港に近い。
  距離にして、約35Km…くらいだろうか。
  島は一辺が約15Kmの正三角形状をしており、面積は約87平方キロメートルである。

  えつ!…「正三角形の面積は一辺の長さをXとすると、Xの二乗かけるルート3割る4だから、Xを15Kmとすると…97.425…平方キロメートルになる。」…って?
  私は正三角形状をしているとは言ったが、正三角形であるとは言っていない。
  状とは、「ありさま」のことで、正三角形のありさまだから、海岸線が微妙にいりくんでいたり…だから面積はあくまでも87平方キロメートルが真実に近い…はずだ!

  約87平方キロメートルのこの島に、約1万3千人の人々が暮らしている。

  島のほぼ中央に、この島の最高峰のオロス山があるが、標高は531mである。
  オロス山は、現在、活火山ではないけれど…ほとんど島全体に火山地形の荒地が広がっている。
  平地は島の北西部のみであるが、ここでは名産のピスタチオをはじめ、ブドウ、オリーブなどが生産されている。
  だから…島の人口の約70%近くがこの地域に集中することになる。
  
  地中海の島の例に漏れずこの島はミノア文明の影響を受けている。
  えつ!…「いつの頃の話だ?」…って?
  物の本によると紀元前2000年頃の話らしい。
  その後、紀元前6世紀から紀元前5世紀にかけて、海上交易の中心地として栄え、アテネと張り合った時期もあったと聞く。
  結局、紀元前5世紀末には、アテネに滅ぼされてしまったけれど…

  当時の遺跡が、港のあるエギナ町から12Kmほど離れた丘の上にある。
  アルカイック期(紀元前5世紀末)の代表的な神殿で、24本のドリス式の石柱が今でも優美に列をなしている。
  この神殿には女神アフェアが祀られており、一般的には、アフェア神殿と呼ばれている。

  この神殿には港からバスが出ており、クルーズの客も観光することができる。
  だが、この島に滞在する時間は、バスを待つ時間も考慮すると、アフェア神殿観光だけでギリギリの時間であった。
  前の2島で海水浴をし損なった子供達は、エギナ島の綺麗な入り江の砂浜で海水浴をしたがった。
  だから、…アフェア神殿は諦めて、子供達と海水浴をしたのである。

  綺麗に澄んだ遠浅の入江で子供達と泳いでいると…浜辺で妻が手を振っているのが見えた。
  私達も手を振って答える。
  妻はなおも手を振って、右手で片方の腕を指差している。
  はっとして腕時計を見る。
  もちろん、泳ぐために腕時計は外していたのである。
  子供達を呼び寄せて、砂浜に急ぐ。

  海から上がり、着替えの服を着て、小走りに港に急ぐ。
  私達が乗船して、5分もしないうちに、船は港を旅立ったのである。

  薄暗くなって辿りついたホテルで、早速シャワーを浴びる。
  子供達が使ったシャワーの後には、エギナ島の白砂が少し落ちていた。

  夕食は、屋上のレストランでコースを頼む。
  海水のべたつきをシャワーで洗い流した後の体に、夕風が爽快であった。    

  そう、ここは私達が住むハイデルベルクの守護神の故郷、アテネ…
  古代には、「栄光ある都市」とよばれた平和と繁栄の都、アテネ…
  今日は、家族全員、気持ちよく、グッスリと眠れるに違いない。

     夏旅は 女神のおわす パルテノン       昶

年賀状・その4(2013年・巳年)

十二支・蛇

  遅ればせながら…皆様、新年おめでとうございます。
  去年、良いお年でありました方々様には、今年も益々良いお年でありますように・・・
  去年、良くなかった方々様には、今年こそ、良いお年を過されますよう・・・
  心からお祈り申し上げます。

  エッ…今頃、何を言っているのか?…って?
  まったく、申し訳ありません。
  エッ…「去年とまったく同じ文面ではないか?」…って?

  これから違ってくるのである。

  一昨年の今頃、福袋で買って、自分で組立てたコンピュータが、丸一年たって動かなくなってしまった話は去年の年賀状に書いた。
  ところが、今年も再び動かなくなってしまったのである。
  突然に…というわけではない。
  予兆はあった。
  去年の暮れ頃から、コンピュータが、作動したり、作動しなかったり…し始めたのである。
  そして、ある日、コンピュータは作動しなくなった。

  自分で組立てたコンピュータである。
  分解するまでもなく、原因は電源である…と判断した。
  一昨年の状態とまったく同じなのだから…

  コンピュータを抱えて、福袋を購入したパソコン工房へ出かけたのである。
  診察料500円也のパソコン診察を依頼した。
  「聞くは一時の恥」…と言うではないか!

  ところが…である。
  一昨年と違うところは、このコンピュータは、パソコン工房でも作動しなかったのである。
  店員が、私が勝手に取り付けたグラッフィックボードを取り外すと…
  パソコンはスムースに作動したのである。

  「グラフィックボードが作動してませんね…4世代前のものだから寿命かな?…」

  さて、そう言った訳で、最新型のグラフィックボードに取り替えた私のお気に入りのコンピュータは、再び新品同様に作動するようになった。
  しばらくご無沙汰していたブログを続けることができる。

  …
  
  今年は巳年である。
  巳とは、十二支の6番目で、本来は「シ」と読む。

  元々は、頭と体ができ始めた胎児をかたどったもの…と言われている。

  漢書・律暦志では、「止む」の意味の「已」としている。
  「已」とは、草木の成長が極限に達し、次の生命が作られ始める時期を意味する。
  
  「だからどうした?」…って?
  ここまで解れば、今年の運勢が書けるのである。

  丑年は、子年に撒いた種が芽を出し成長する時節が来るのを、忍耐強く見守る年であった。
  寅年は、芽が勢いよく伸びはじめる年で、少しずつ活気が出てきて、万事順調に進みはじめる年であった。
  卯年は、すべての植物が若葉に萌え、その若葉を摂取して小動物が増え、その小動物を捕獲して大動物が栄え始める年であった。
  去年の辰年は、草木が盛んに成長し形が整った状態となる年であった。

  そして今年は巳年…
  なにもかもが、成長し、整い…そして、その成長を止める。
  次世代のために、その結果が芽生える年である。

  昨年結婚した人々は、その結果として新しい命を育(はぐく)むことになるであろう!
  昨年しっかりと勉学に励んだ人々は、入試合格の報を受け取ることであろう!
  昨年必死で働いた諸君は、結果として金運に恵まれたであろう!
  昨年苦しいリハビリを続けられた諸氏は、万病から回復し健康を謳歌できるだろう!

  結婚良く、失せ物表れ、万病回復し、金運順調、受験合格・・・ETC、etc、
  但し、今年は、又、新たな時代の幕開けのために、その土台を築く年でもある。
  世相に連れて浮ついて動くと、思わぬ落とし穴に陥る危険あり。
  しっかりと自分と向き合い反省すべきは反省し、謙虚さを持って生活すべし!
  努力を怠らず、些細なことに拘泥すべからず…云々。

  何…文面が去年とほとんど同じではないか?…って?
  いつも言っているように、時空は連続である!
  今年も去年を引きずって動いている…仕方がないではないか。

  前回の巳年は、小泉内閣誕生の年であり、前々回の巳年は、昭和から平成へ移動の年であった。
  このように、巳年とは何かが起きる、社会変革の年であり、先々の見えない時代である。
  世相、いまだ厳しく、しばらくは忍耐が必要なり。
  急がず、騒がず、くねくねと曲がりくねった道をのんびり行くのも一興である。
  

       くねくねと 生(い)くも又良し 野に菫(すみれ)       昶
  

178・イドラ島からエギナ島へ・ハイデルベルク滞在記(HD1992年7月その12)

俳句写真・ピレウス港

  我が住まいは…ハイデルベルク、クレーマーガッセ(小売屋横町)、フィア・ウント・ツヴァンツィッヒ(24番地)・・・
  真夏でも、ケーニッヒスツールからの吹き降ろしの風が涼しい旧市街の中心にある。  

  夏季休暇で行ったアテネ旅行…5日目の地中海ターゲスクルーズ(1日遊覧船)…
  ターゲスクルーズとは、一日のうちにエギナ島、ポロス島、イドラ島の3島を巡るクルーズである。
  
  最初に上陸したのは、二番目にピレウス港から遠い島のポロス島であった。
  ポロス島では、島の高台にある時計台に登り、島全体を眺めただけで船に戻った。
  
  船内で昼食を摂り、ピレウス港から最も遠い島、イドラ島へ向う。
  えつ!…「昼食って、何を食べたの?」…って?
  パン、肉、サラダ、ジュース…と、当時の手帳には書いてある…けれど…
  まったく、思い出せないのだ。
  この食事が、ターゲスクルーズに含まれていたのか、自分らで勝手に船内のレストランで頼んだのか?
  それさえも…私の記憶から抜け落ちている。
  
  ポロス島で食べたアイスクリームの価格も、船内で買ったドーナツやジュース等の価格も逐一記入してある手帳に…昼食の価格は記入されていない。
  恐らく、この昼食は、ターゲスクルーズの料金に、含まれていたのであろう…!?

  船はイドラ島に到着した。
  島の名前の由来となったイドラとは、ギリシア語で水の意で、ローマ字でかくとHydreaとなる。
  古代この島に泉があったそうで、その泉の水が名の起こりである。
  現在、この泉は干上がってしまい、飲料水はボートで本土から運んでいる…そうである。

  島の長さは約18キロメートル、幅4〜5キロメートルで…面積は約50平方キロメートルで、人口は約3000人…
  日本の淡路島と比較すると、面積で12分の1、人口で47分の1くらいである。
  
  えつ!…「ポロス島と人口は同じだ」…って?
  いや、実際に島を歩いた感じからは、ポロス島の方が人口は多いように思う。
  もちろん、観光客は含めずに、住居の数などから考えると…ポロス島は4000人くらいはいるであろう。
  「前回のブログで、ポロス島の人口は3000人…と書いていた!」…って?
  では、ポロス島の人口は4000人…と訂正しよう。

  えつ!…「ちゃんと、検索して書いたらどうだ?」…って?
  スタンフォード大学のジェリー・ヤンとデビッド・ファイロがウェブディレクトリとしてヤフーを始めたのは1994年のことである。
  今は1992年の7月…
  検索なんかできるわけはないだろう!

  さて、このイドラ島は、18世紀末ごろ海運業で飛躍的に発展し、ギリシア独立戦争(1821〜29)では経済的、軍事的に大いに貢献したのである。
  その当時のものかどうかは知らないけれど、海岸の岸壁に石のテラスが造られ、そこに数門の大砲が、海に向けて設置されていた。
  その岸壁の下の岩場は、海水浴場になっている。
  海水浴場と言っても、遠浅の砂浜ではない。
  岩場から、1メートル程の鉄製の梯子が水面まで設置されており、梯子を降りると、そこはいきなり、数メートルの深さの海である。

  息子は、最初から泳ぐつもりで、ズボンの下に水着を着込んでいたのである。
  早速、水着になって、梯子を降りる。
  だが、海は深く、波は思ったより荒い。

  10数名の人々が泳いでいたが、皆大人か高校生くらいで、息子くらいの子供は泳いでいない。
  しかも、皆、梯子の近くから離れないで、バチャバチャやっているのである。

  息子は梯子を降りたり登ったりして、なかなか海に、入れない。
  息子にはちょっと危なそうなので、私も泳ぐことにした。

  そう、ここはエーゲ海東南部のペロポネソス半島東岸に位置するギリシャの島…
  サロニカ湾とアルゴリコス湾の間にあり、サロニカ諸島に属する島…
  息子は最後までとうとう海に入らなかったけれど…
  船が出発するまでの、僅かな時間であったけれど…
  私は、久しぶりの海水浴を楽しめたのである。

     ピレウスの 港より出(い)づ 夏盛り      昶

177・ボロス島・ハイデルベルク滞在記(HD1992年7月その11)

俳句写真・ポロス島・エーゲ海クルーズ

 我が住まいは…ハイデルベルク、クレーマーガッセ(小売屋横町)、フィア・ウント・ツヴァンツィッヒ(24番地)・・・
  真夏でも、ケーニッヒスツールからの吹き降ろしの風が涼しい旧市街の中心にある。  

  夏季休暇で行ったアテネ旅行…5日目は地中海のターゲスクルーズ(1日遊覧船)に出かけた。
  ターゲスクルーズとは、一日のうちに3つの島を巡るクルーズである。
  3つの島とは、アテネに近い順に、エギナ島、ポロス島、イドラ島の3島であった。

  ピレウスの港を出て、船は、南へ進路をとった。
  海も空も青一色…いや青にも様々な青があり…青万色と言うべきか!
  途中、陸地が見えたが、そのまま素通りして、紺碧の地中海をひたすら突き進んだ。
  周囲の観光客の話を漏れ聞くと、素通りしたその島は、今日巡る島のひとつ、エギナ島らしい。

  えつ!…「日本人の観光客が大勢いたのか?」…って?
  いや、日本人は我々家族のみであった。
  アメリカ人が多かったのだ。
  だから、陽気だが聞き取りにくい英語が船上を飛び交っていた。
  だから、少しくらいなら、私の耳でも聞き取れたのである。

  遠くの島から順に巡るのだろうか?…と思っていたら、船は一つの島に近づいた。
  ポロス島である。
  ボロス島の港は、思ったより整備されており、大きな船が停泊していた。

  帰船時間までには、50分程度しかなかった。
  島全体を見渡すには、高いところに登るしかない。
  港の高台に、灯台が見えた。
  同じ船で来た観光客の一団が、灯台目指して登り始めた。
  我が家族もそれに続く。

  高台の頂上に登ってみると、灯台と思っていたのは時計台であった。
  時計台の近くの岩の上に、ギリシャの青地に白十時の大きな旗がひらめいていた。

  ポロス島は人口約3000人、東西10kmにも満たない、小さな島である。
  時計台から見渡すと、西にペロソネス半島のガラタの町が見える。
  東にも、すぐそこに陸地が見える。
  不思議に思って、地図を見る。

  このポロス島は、カラヴリアとスフェリアというさらに小さな2つの島が、小さな橋で結ばれていた。
  その一つの島から、もう片方の島を眺めていたのである。

  時計台で景色を眺め、ひとしきり写真や8mmビデオを取り巻くって…帰路につく。
  
  そう、ここは、サロニコス湾に浮かぶ小さな島…
  約束の時間に少しでも遅れれば、平気で島に置き去りにされそうな、異国のツアーが巡る島…
  
  この小さな島に、紀元前6世紀のポセイドン神殿やゾードホスピギ修道院が残っていると知ったのは…
  そして、そのゾードホスピギ修道院ではビザンチン様式の宗教画が見られるということを知ったのは…
  ドイツに帰国した後のことである。

     空も海も 風さえも碧し 夏ポロス       昶 

176・地中海クルーズ・ハイデルベルク滞在記(HD1992年7月その10)

俳句写真・ギリシャ・地中海クルーズ

  我が住まいは…ハイデルベルク、クレーマーガッセ(小売屋横町)、フィア・ウント・ツヴァンツィッヒ(24番地)・・・
  真夏でも、ケーニッヒスツールからの吹き降ろしの風が涼しい旧市街の中心にある。  

  夏季休暇で行ったアテネ旅行…5日目の朝を迎えた。

  この日、我が家族は、6時30分に起床、7時までに朝食を済ましていた。
  7時10分には、我が家族はホテルのロビーに立っていたのである。
  一昨日に夢と消えた地中海クルーズの再挑戦の日であった。
  先日のドイツ人の若者も、すでにロビーの入口に陣取っていた。

  7時35分…約束の時間から5分遅れで…クルーズツアーの係員が迎えに来た。
  係員が来たのは、神経を集中しなくてもすぐにわかった。
  こんなにわかり易いのだから、先日は、絶対に迎えに来なかったに違いない。
  でも・・・ま、いっか!
  今日は迎えに来たのだから…

  迎えに来たのは、大きくて立派な観光バスであった。
  その観光バスは、各ホテルを回ってクルーズの参加者を乗せていく。

  観光バスは、ピレウス港の広場に停まり、係員の指示で観光船に乗り込む。
  思った以上に、大きな観光船で、デッキにプールまで設置されていた。

  えつ!…「地中海クルーズってどこに行くのか?」…って?
  ピレウス港からイドラ島へ渡り、ポロス島、エイギス島を経てピレウス港へ戻ってくるコースである。
  一日で回遊するコースで、ターゲスクルーズ(日帰りクルーズ)と呼ばれている。
  
  えつ!…「ロードス島やクレタ島には行かないのか?」…って?

  ロードス島もクレタ島も、アテネから遠距離にある。
  さらに、見所が多いため、日帰りのクルーズは無理がある。
  この両島はエーゲ海の南端にあり、「エーゲ海クルーズ」との呼称で2,3日から週単位のクルーズが組まれている。

  「エーゲ海だって地中海の内だろう?」…って?
  そうだけれど、ロードス島やクレタ島はエーゲ海にある。
  だが、ポロス島やイドラ島、エイギス島はサロニク湾からミルトア海にあって、エーゲ海ではないのである。
  
  ロードス島やクレタ島はエーゲ海クルーズでも地中海クルーズでも、好きな呼称を選べる。
  ポロス島やイドラ島、エイギス島のクルーズはサロニク湾クルーズと呼ぶか、地中海クルーズと呼ぶしかないじゃないか。
  イオニア海の島々に行くクルーズだって地中海クルーズと銘打って宣伝している。
  ロードス島やクレタ島は、これら弱小クルーズと差別化するために、地中海クルーズではなく、エーゲ海クルーズと呼称しているのである。
  
  えつ!…「エイギス島って、どこにあるのか?」…って?
  私もいろいろ調べてみたのだけれど、エイギス島なんてどこにもなかった。
  当時の手帳には、たしかにエイギス島と書いてあるけれど…
  地図で、当時の航路をたどってみると…どうやらエギナ島の間違いらしい。

  そう、ここは地中海クルーズの船の中…
  三つの島を巡る、地中海クルーズの船の中…
  最初に上陸した島が、どの島であったか…今から20年後に思い出せるだろうか?

     船旅や 巡る島ごとに 島の風       昶

175・プラカの美智子(アテネ散策)・ハイデルベルク滞在記(HD1992年7月その9)

俳句写真・プラカ

   我が住まいは…ハイデルベルク、クレーマーガッセ(小売屋横町)、フィア・ウント・ツヴァンツィッヒ(24番地)・・・
  真夏でも、ケーニッヒスツールからの吹き降ろしの風が涼しい旧市街の中心にある。  

  夏季休暇で行ったアテネ旅行も4日目を迎えた。

  アテネ市街はほとんど歩き回ってしまっていた。
  シュタット・プラン(市街図)を見なくても、ほぼ、どこに何があるかわかるようになった。

  今日は、妻や子供達の要望を入れて、買い物に行くことにした。
  その土地その土地の生活を知るには、その土地のスーパーマーケットや百貨店を回ると良い。
  朝9時に朝食を摂って、10時にホテルを出発する。

  オモニア広場の百貨店「ミニオン」で買い物をする。
  当時の手帳にはそう書いてあるのだが…どのような店だったかまったく思い出せないのである。
  何を買ったか?…私の手帳には記述がない。
  ただ、昼食用に、おいしそうなパンと飲み物とお菓子を買い込んで、リュックに詰め込んだのだけは覚えている。

  オモニア広場からシンタグマ広場へ出る。
  シンタグマ広場から、その西側を南に走るニキス通りを約500メートル行くと、キダシネオン通りが西南方向に通じている。
  このキダシネオン通りがプラカ地区のメイン通りである。

  この通りは細いけれど、正面にアクロポリスとパルテノン神殿が見えるから、間違える心配はない。
  それに、この道は、いつでも観光客で一杯である。

  妻は、愛用の「地球の歩き方」の本を片手に、土産物屋を物色している。
  革のサンダルで有名な店が、プラカにあるはずだ…と妻は言う。
  いろいろ訪ね歩いて、その店を見つけた。

  その昔、ギリシャ人やローマ人が履いていたような革のサンダルが所狭しと並んでいる。
  いろいろ吟味し、あれこれ悩んだ末に…妻は3速のサンダルを買った。
  合計5,000ドラクマ(2000円)…と当時の手帳には書いてあった。
  妻が熱心に捜して、買ってくれたこのサンダルは、ごつごつした頑丈な革で出来ていた。
  この頑丈な革は、履けば履くほど足に馴染み、履き心地が良くなり、随分長い間、履いていた記憶がある。

  さて、目的の革のサンダルを買い、あと何か珍しいものはないかとプラカを歩く。
  「あれが欲しい」…
  息子が指差した先には、真鍮(しんちゅう)に七宝焼きを施(ほどこ)したペーパーナイフが並んでいた。
  
  えつ!…「七宝焼きって何?」…って?
  琺瑯(ほうろう)である。
  えつ!…「琺瑯のほうがもっとわからない」…って?
  琺瑯とは、金属材料表面にシリカ(二酸化ケイ素)を主成分とするガラス質の釉薬を高温(摂氏800度前後)で焼き付けたものである。
  金属材料の機械的な耐久性と、ガラス質の科学的な耐久性を併せ持ったすぐれものである。
  従来、食器、調理器具、浴槽などの家庭用品や、屋外広告看板、道路標識、鉄道設備用品、ホワイトボード、化学反応容器などに用いられてきた。
 
  工芸品の琺瑯を、七宝あるいは七宝焼きと呼ぶ。
  その歴史は古く、琺瑯製品とおぼしき加工品がミコノス島で発見されている。
  この加工品は、紀元前1425年頃の作とされ、現在では、これが世界最古の琺瑯製品であると推測されている。
  また、ツタンカーメンの黄金のマスクの表面にも琺瑯加工が施されている。

  息子の欲しがった七宝焼きのペーパーナイフは鞘までついており、美しく仕上がっていた。
  ペーパーナイフと言っても、紙一枚切れそうにないもので、壁掛けの飾りになりそうなものであった。
  息子が振り回しても、危なくない代物であったから、購入することにした。

  えつ!…ペーパーナイフの値段?…
  750ドラクマ(300円)…と当時の手帳に書いてある。

  プラカを歩いて、おなかが減った。
  時計を見ると、正午を過ぎていた。
  プラカの街並みの中に、「美智子」の看板を見つけた。
  日本食のレストランである。

  そう、ここはプラカの「美智子」…
  日本食が食べられるレストラン…
  私はカツ丼、妻は中華丼、子供達は親子丼とそれぞれ好きなものを注文する。
  久しぶりに食べた丼物はおいしかった。
  えつ!…昼食のお値段?…
  4人分合わせて7,200ドラクマ(2,880円)…と当時の手帳には書いてある。

     プラカ歩く 緑陰風の 涼しさよ       昶 
  
楽天市場
livedoor × FLO:Q
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ