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2013年12月

2013年12月18日15:55「終わらざる夏」と「永遠の0」



浅田次郎さんの「終わらざる夏」と百田尚樹さんの「永遠の0」。今年、文庫化され、再び話題を集めた(ている)2冊の小説です。
両方ともに第二次世界大戦の悲劇を、それぞれの立場から描いたものです。
しかし2つの小説を読み比べてみると、どこか違うことに気がつきました。
それは「戦争のとらえ方」です。

浅田さんは「終わらざる夏」で、戦時下に生きる良心的な人々の人生が太陽光線のように、終戦後始まった占守(シュムシュ)島での戦闘というプリズムのなかに結集し、その後のそれぞれの生や死として展開する様子を淡々と描いています。一方、百田さんは「永遠の0」で、現代を生きる若者が特攻隊として死んだ祖父の足取りをたどり、生きたいにもかかわらず死ぬことを強制された若者の悲しみに共感する様子を描いています。

浅田さんは戦争を「理不尽」の塊として描いています。百田さんは戦争を「悲しみ」の塊として描いています。

どちらが正しいかということは言えませんが、ボクは「終わらざる夏」の中で描かれた戦争の姿に共感します。つまり戦争とは「理不尽」の塊であると思います。
人が亡くなること、さらに誰かの犠牲となって生が途中で断ち切られることは、現代社会、例えば交通事故などに見られます。東京の新大久保駅の事故や横浜の踏切事故のように、誰かを救おうとして亡くなることは現代でも見られます。そこには「悲しみ」はあっても「理不尽さ」はありません。
でも戦争の死の真の姿はそこにはありません。
戦争の死の特徴は、いろいろな局面で、誰かが、正当な理由があるかないかわからないうちに始めたことに、何の罪もない人たちが巻き込まれ、正当な理由なく生を断たれるところにあります。始めた本人たちは合理的な説明をせずに人に死を受けいれるよう強要され、逃れられないところにあります。つまり「理不尽」ばかりがまかりとおるところに戦争の異常さや醜さ、そして本質があると思います。「理不尽」な死を目前にすると、「悲しみ」ではなく「怒り」を覚えます。
「終わらざる夏」を読みを得たとき、ボクの心には「理不尽」さに対する悔しさ、そして怒りが静かに満ちていました。

さすが浅田次郎さんは深いです。

2013年12月18日15:27紹介「持たざる国への道 あの戦争と大日本帝国の破綻」

今年も授業で元特攻隊員の証言ビデオをもとに「戦争というもののいい加減さ」と「戦争にかり出された若者=学生たちの悔しさ」について学生たちに考えていただきました。
そのなかで、学生たちも含め、多くの現代人が「日本がなぜ太平洋戦争の開戦に踏み切ったのか」について誰も知らないのではないか、という話をしました。どうでしょうか?小学校・中学校・高等学校の歴史やその他の授業の中で、合理的な説明をきちんと受けたという学生はほとんどいないと思います。説明を受けたとしても、いまだに欧米諸国の対日禁輸(ABCD包囲陣)によって経済が行き詰まった局面を打開するため、と教えられているのではないでしょうか?
しかしこれは事実ではありません。否、対日禁輸は行われましたが、これは最終局面であり、昭和初期の日本経済が困窮した理由とは言えません。
経済が困窮したことが開戦の理由であれば、なぜ昭和初期の日本経済が困窮したのかを合理的に説明できなければなりません。これを学校では教えられていません。
これについて明快な回答を示したのが、この本です。著者の松元さんは大蔵省・財務省・日本銀行の重要なポストを務められた方ですから、当時の金融システムについて精通されています。その方が導き出した結論が「軍部の独走」と「満蒙植民地経営の失敗」でした。その事実を隠し、アメリカやイギリスの責任にすり替えたことが開戦向けての国民世論を作り上げたと、松元さんは述べています。おもわず、「なるほど!」とつぶやいてしまいました。

最後のところで松元さんは「理解しやすい欺瞞的な説明にとびつき、理解されがたい構造的な真因に耳を傾け」ず、真の犯人である軍部を支持した開戦当時の世論やマスコミを批判しつつ、東アジア諸国との対立を深める昨今の日本の外交のあり方とそれを熱狂的に支持している国民に対し警鐘を鳴らしています。

是非一読されるべき好著です。