こんにちは、あっこ です。
今回も不思議な偶然で、100分de名著に
取り上げられている松尾芭蕉の俳句の解説を
先生が書いて下さいましたので載せました。
「 閑さや 岩にしみ入る蝉の声 」
奥の細道、道中記、
芭蕉が初夏のある暑い日の夕暮時に、
岩山の上にある山寺にたどり着いたところ、
その周辺の木々や岩はだに無数の蝉が張り付くようにびっしりとへばり付いていました。
その数の凄さもさることながら、
その蝉の鳴き声ときたら物凄い圧迫感を放ちながら、
また、共鳴現象を起こしながら、
自分以外の他の蝉たちに負けてはなるまいと、
競い合うように鳴いていたのです。
もう、普通に蝉が鳴いていると云うより、
うるさいと云うくらいの鳴き方だったのです。
怒濤のごとくの勢いを感じました。
そのうるさい鳴き方は今までいろいろな場所を
巡り歩いて来た芭蕉でも、
これほどうるさい鳴き方の蝉の鳴き声は
聞いたことは有りませんでした。
あまりの凄さに、
その鳴き声は岩山をつらぬくように、
また、岩に直接しみ込むような
感じに聞こえたのです。
数分の間、我を忘れ、
その蝉の鳴き声に圧倒されながらじっと動きを止め、
その場にぼう然と立すくんで聞いていました。
と、ちょうどその時、山寺の鐘つき堂から、
( ぼーん。ぼーん。ぼーん。
あう~ん。あう~ん。あう~ん。 )と
夕暮れ時をつげる梵鐘が鳴ったのでした。
このとき、芭蕉の全身を奇妙で驚きの
感覚の響きと振動が貫いたのです。
その蝉の鳴き声と山寺の梵鐘が相俟って、
共振共鳴現象をおこしたバイブレーションが、
芭蕉の身体の細胞の核
(人間の身体に60兆個も有る
と云われている細胞の核、)
を貫いて振動していたのです。
その瞬間、芭蕉は恍惚として仏の慈愛と
癒しに満ちた閑寂な次元に存在していたのです。
不思議なことに、
あれほどうるさく聞こえていた蝉の鳴き声が
むしろ静かに気持ち良く聞こえてきていました。
驚くことは、
「芭蕉本人は(無)の深々とした閑寂さに」
つつまれていたのです。
このような状態を仏道では
( 法の声 ) と云われています。
ミクロの蝉の鳴き声とマクロの梵鐘の音が、
法 ( 宇宙のバイブレーション ) となり、
芭蕉は宇宙の始まりのビッグバンの
振動と一つになって、
芭蕉の全身は仏の光明に包まれて
輝いていたのです。
それどころかあたり一帯を観わたしてみましたが、
どこもここも、
山も川も草木も、
石ころや暗がりでさえも、
それは閑寂に満ちて輝いていたのです。
この時芭蕉の身体には、
煩悩が消え六根清浄が起きて、
眼耳鼻舌身意が清められ、
全ての生命は阿弥陀仏の
慈悲に満ちた光明をいただき
命が育まれていることを悟ったのです。
( 山川草木悉皆成仏 )
( 宇宙との無二一体観 )
( 動静一如 )
色即是空、空即是色、
( 色空一如 )
そのとき、芭蕉はハッとして我に返り、
思わず筆をとり一句、
「 閑さや 岩にしみ入る蝉の声 」
と記したのでした。
伊賀の国から江戸深川に来て、
今までの俳諧の創作に
限界を感じはじめていた芭蕉は、
日々座禅を行い新しい精神性を高めるとともに、
新境地の俳諧を目指していたのです。
やがて自分自身の意識の変容が起きて
奥の細道の俳諧紀行となったのです。
その事実をこの山寺で初めて
芭蕉が体感することができたのです。
それが、芭蕉の云う
「 不易流行・変化するものと変化しないもの 」
「 仏道では、
有の世界と無の世界との、無二一体観 」
の体験なのです。
芭蕉の高弟の(去来)は
このような句を書いています。
「 蕉門に千載不易の句、一時流行の句といふあり、
是を二つに分けて教え給へども、
その元は一つなり 」。と云っています。