Ukiyo - E

2007年12月11日

Latin American Leaders Form Regional Bank, Seeking Independence

Latin American Leaders Form Regional Bank, Seeking Independence

By Bill Faries and Christopher Swann

Dec. 10 (Bloomberg) -- South American presidents said the creation of a regional development bank was the first step in lessening the continent's dependence on existing international financial institutions and the U.S.

Leaders from six nations --- including Venezuela's Hugo Chavez, Brazil's Luiz Inacio Lula da Silva and Argentina's Nestor Kirchner -- inaugurated the Bank of the South last night in Buenos Aires. The bank, which Venezuelan officials say will have about $7 billion in capital, will fund development projects in Latin America.

``The signing of the Bank of the South agreement is going to help us establish our financial independence,'' Ecuador's President Rafael Correa said to reporters upon arriving in Buenos Aires. ``We should also create a fund, backed by our reserves, to help during financial crises and we should have our own currency.''

The new bank represents a victory for Chavez, who campaigned for the institution by arguing that decades of U.S.- backed economic policies failed to lower poverty and improve the economies of the region. The inauguration came one week after Chavez's plans for a new constitution in Venezuela were defeated, his first electoral loss in nine years.

``Today we have taken the first step toward the integration of South America,'' Brazil's Lula said after the ceremony at the presidential palace. ``We have the conviction that our futures are linked.''

Brazilian Finance Minister Guido Mantega said before the ceremony that the by-laws for the new institution, which will be based in Caracas and have offices in La Paz, Bolivia and Buenos Aires, will be completed in 2008. Founding members include Venezuela, Argentina, Brazil, Bolivia, Paraguay, Uruguay and Ecuador. Chile, the country with the region's best credit rating, declined to join.

Regional Development Funds

The signing of the Bank of the South accord was one of the last official acts for Kirchner, who leaves office today and will be replaced by his wife, Cristina Fernandez de Kirchner.

The new bank will struggle to compete with existing regional development funds should it fail to secure a strong credit rating, analysts said. This year, the Inter-American Development Bank, based in Washington, is on course to lend around $8 billion, according to the Bank Information Center, a Washington-based research organization that monitors international lenders.

``Their capital will quickly disappear if they do not leverage their funds like other banks,'' said Vince McElhinny, a Latin American analyst at the Bank Information Center.

Credit Ratings

None of the bank's supporters have an investment grade credit rating. Both the World Bank and Inter-American Development Bank enjoy AAA credit ratings because of the backing of the U.S. The Corporacion Andina de Fomento has an A+ credit rating from Standard & Poor's.

The rating of any new multilateral lender would also hinge on the commitment of its member countries, said John Chambers, managing director of sovereign ratings at Standard & Poor's.

``It's important that the member countries provide strong backing for the institution and that they support its priorities,'' Chambers said.

To contact the reporters on this story: Bill Faries in Buenos Aires at wfaries@bloomberg.net ; Christopher Swann in Washington at cswann1@bloomberg.net

Last Updated: December 9, 2007 22:01 EST

cheelend at 03:16|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2006年06月24日

日本の労働市場

b0094a5e.jpg日本の労働市場

日本の労働市場は、この10年で大きく変化したように見える。60年代以降、定着した年功序列と終身雇用は、非主流となり、企業が必要なときに人を雇うアルバイトや派遣で雇用をまかなっている。核となる経営陣や技術者を除いて、人件費は固定費から変動費とされ、企業の経営に柔軟性をもたらせた。また、そうした動きが広がることで一度企業を退職した労働者が、派遣やアルバイトという形態で、次の仕事を見つけることが出来るようになった。また、派遣やアルバイトを試用期間のように利用して、紹介予定派遣などの形で長期雇用につなげることも見られるようになってきた。その意味では、硬直的であった日本の労働市場は流動性を持つようになってきたと言えるのではないだろうか。アルバイトや派遣では、収入が不足すると言うのであれば、掛け持ちで仕事をしたり、スキルアップして将来の収入向上を図ればよい。つまり、時間をお金に変えればよい。また、起業という選択肢や、投資家という選択肢も現実味を持ち始めている。その意味では、労働者にとっての選択肢は、増えたと言ってよい。

それでも、労働市場は稼げる人と稼げない人の二極化が進んでいると言う議論がある。概して専門職(医者、弁護士、公認会計士など)や、外資系の金融は高給を受け取るというのは事実である。その一方で給料が年収で300万円に満たない職種も数多い。ただ、両方に関して言えることは、もはや安定して生涯にわたって高給を受け取り続けることはない、といえる点である。特化した技術や知識を持ち、営業力を備え、技術革新や企画力を備えた企業及び人材は成長し、その結果として高給を得られるかもしれない。また、それがひとつや二つの企業の話でなく、しかも長期的に成長が続く場合、その周辺分野にも成長の恩恵が伝わる。

現実的には、核となる技術革新を行う人材や企業よりも、それを応用したり、販売したりする周辺事業で高給を得る機会をつかむ人が多いと思う。誰もがサッカーの中田やプロ野球の松井にはなれないが、彼らの通訳やマネージメント会社経営を出来る人たちには、なれるチャンスがより多く開けている。IT事業の技術革新を行える技術力を有する人は限られていても、新たな技術をチャンスに出来る人はもっと多いはずである。

そのように輝く技術・人・事業に対して労働力が敏感になって動くことは、迅速な労働力の適正配分につながり、望ましい。もっとも、だからといってそうした労働者が「儲かるだろう」と受け取るシグナルが、信頼性のおけるものか、というとはなはだ怪しい。たとえば、「ITは、儲かる」と一頃、喧伝されたが、それではあまりにも大まか過ぎるし、そもそもそうした情報が伝わった時点で、遅きに失することが多い。

インターネットは情報の伝達コストを著しく引き下げたが、皮肉にも誰でも情報を得ることが出来るようになったために、その情報の意味は決定的でないことが多い。逆に本当に重要な情報は、表ではなく裏、サイバーワールドでなく人の中にある。そうした隠された情報が、どこにどのように存在するのか、を推定するためにインターネットの情報を利用することが効果的なのだと思う。

また、労働市場での市場価値は常に移ろう。自分の中で時間軸を据えて将来へのキャリア・プランと言う絵を描かないと、市場のスキル要求に振り回されるだろう。そして、そのキャリア・プランを定期的に3カ月おきくらいに見直さないと自分のプランと市場の要求との間のギャップを見極め、将来の予定を修正することが必要である。

たとえば、自分の中で長期的に会社の中の役職をあげていくことが目標であるのなら、オフィスワーカーとしてのスキルをあげることもそうであるが、マネージメント・スキルや簿記の能力を上げることに比重を徐々に移すべきであろう。そうでないと、次々に発表されるマイクロソフトの新作ソフトを覚えたり、コンピューター言語を覚えることで時間を取られ、優秀な平社員としては評価されるかもしれないが、将来は大いに運任せになってしまうだろう。

ビジョンを持ち、社会の動きを自分なりに見極め、儲かる(=より多い付加価値を生み出し、多くの需要を生む)事業を見つける。そして、その事業において自分の果たす役割を見つける。それは、ある意味合理的な仕事の見つけ方である。ただ、人間が面白いのは、儲かるということは、決定要因のひとつではあっても、すべてではないことである。遣り甲斐、適正、人間関係など他の要因が影響するからである。そうであれば、やはり流動的な労働市場というのは、労働者にとって望ましいのではないだろうか。やり直しが利きやすい上に、長期的な計画を自分本位で立てられるのだから。



cheelend at 23:30|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2005年06月30日

浮世絵III(北斎と廣重)

e6483f7a.jpg浮世絵III(北斎と廣重)

今回は、浮世絵絵師の中でも殊によく世に知られた北斎と廣重について語ろうと思う。この二人は、画風も性格も運命もまったく異なる道をたどった。廣重が、まさに時代の寵児として、版元との関係もよく商業的に華々しく成功したのに対し、北斎が売れっ子になったのは、富嶽三十六景を描いた71歳の頃からである。廣重が、61歳で生涯を閉じたのに対し、北斎は、89歳まで生き、しかも、晩年まで絵を描き続け、その題材や画風も変わり続けた。年上の北斎と年下の廣重の間で年齢差が37歳もあったにも関わらず、二人が売れた時期は重なる。温和でそれが、商才にもつながった廣重と武勇伝に事欠かない波乱万丈であった北斎。この二人の対比は、浮世絵を深く知る手がかりにもなると思う。

葛飾 北斎(1760〜1848)
本姓は川村氏、幼名時太郎、俗称鉄蔵。本所割下水川村家に生まれるが、御用鏡磨師中島伊勢の家に養子に入る。住居は生涯に90カ所以上転居。画系は勝川春章に学ぶ。画号は春朗、北斎、卍老人など生涯に30以上使用する。作画期は1779年〜1848年。はじめ役者絵を描くが、のちに和漢洋三体を融合させた画風を完成させ様々な作品を描く。

北斎は、71歳になって富嶽三十六景で才能を開花させるまでは、芸術家としては、苦難の道を歩んだ。51歳の頃に廣重に先んじて、「東海道五十三次」を発表するが、まったく評判とは、ならなかった。

北斎は、売れずに腰の据わらない時期を長く過ごした。師とは喧嘩してばかりで、しょっちゅう、師を変えていたし、引越しは、頻繁にするし、号も30以上、使用していた。絵のテーマも、もっとも北斎に影響を及ぼした勝川春勝の得意とした人物画から始まり、風景画に落ち着くまで、なんとなく安っぽい実験作を多く残している。

それでも、富嶽三十六景の波裏や、赤冨士は素晴らしい。これらの作品は、構図、観察力、表現力ともに群を抜いている。しかも、色彩鮮やかで「北斎ブルー」と評される青色は、シルクロード経由で日本にもたらされた、当時「ベロ藍」と呼ばれた安価なドイツで発明された化学インクを日本の植物性のインクに混ぜたものだった。

売れずに、苦労して様々な表現手段、様式を追求した北斎は、かくして新しい色を作り出したのだった。「北斎漫画」と呼ばれる春画をはじめたり、89歳になって死ぬ晩年は、長野県の小布施で、天井画に挑戦したり、彼の好奇心は、追及してやむことを知らなかった。

歌川 廣重(1797〜1858)
本姓は安藤氏。幼名は徳太郎、名は重右衛門のち鉄蔵、徳兵衛。父は江戸八代洲河岸定火消同心安藤源右衛門。住居は大鋸町、常盤町、中橋狩野新道。画系は歌川豊広に学ぶ。
画号は一幽斎、一立斎、立斎、広重、歌重など。作画期は1818年から1858年。はじめ役者絵、美人画、摺物などを描くが、1833年に描いた「東海道53次」により風景絵師としての礎を築く、その他に「木曽海道69次」「六十余州名所図会」「江戸名所百景」の揃物や「花鳥画」「武者絵」「歴史画」「美人画」なども描く。

一方の廣重は、とても穏やかな性格で知られている。実際、それまで脇役扱いだった摺り師や彫り師の名前をクレジットとして、さりげなく画中の料理屋のメニューに並べて書いたり、細やかな気遣いが感じられる。

彼の「東海道53次」は、北斎のアイディアを完全にパクったものだが、商業的な成功は、北斎とは、比較にならなかった。廣重の「53次」の成功には、数多くの版元が、同シリーズの出版を申し込んだ。そのため、実は、「東海道53次」は、版元ごとに、それぞれ異なったものが、出版されている。そうしたことは、絵に押されている版元の印から、見て取れる。

しかし、すべての版元が成功したわけではない。もっとも初期から、廣重に投資していた保永堂は、全シリーズを出版したものの版元によっては、途中で、打ち切って、53次完成できずに終わってしまった。また、趣のある横長版とは別に、より安っぽいというか、悪い意味で漫画チックな縦長版の「53次」も発刊された。

廣重は、当時、浮世絵の人気トップだった年上の三代目豊国(またの名を国貞)に可愛がられ、二人で双筆と呼ばれる共同作品も多数、出版している。豊国が人物画を描き、廣重が、風景画を担当した。二人の友情は、長く続き、廣重がなくなったときには、三代目豊国が、死絵と呼ばれる、ポートレイトを描いている。

廣重は、売れっ子だったし、いろいろな版元との関係もよかったので、出版点数も多い。しかし、その一方で、荒っぽいというか、いかにも駄作という作品も、実は、結構多い。しかし、北斎とことなり、若くして評判を立てた廣重は、駄作でもそれなりに売れ、北斎のように汲々とすることは、なかった。

しかし、彼を若い時期に売れたきり、「53次」以上の作品を作れなかった、と酷評するのは、早計であろう。彼の作品を見たけれど、晩年の「江戸百景」ことにゴッホが模写した「大はしあたけの夕立」は、素晴らしい。構図もいいし、摺りもいい。雨の色を黒とグレーで描きわけ、異なる木版をつかったのも心憎い。(左上写真参照)



cheelend at 07:35|PermalinkComments(1)TrackBack(0)

2005年06月27日

浮世絵II(豊かな文化)

72182c60.jpg浮世絵II(豊かな文化)

浮世絵をまとめて見てみると、いろいろなことが、そこから見て取れる。例えば、浮世絵制作に関わった人たちの力関係。浮世絵版画とは、投資家でもあった版元と呼ばれた出版社のもと、絵師、彫り師および摺り師の三者の協力により、出来上がる。

版元は、財力をもとに、もっとも力があったが、次に力があったのは、絵師であった。絵師の名は、ブランドとして販売力に大きな影響を及ぼした。一方、実質的に版画を制作した彫り師や摺り師の地位は、中期頃(1800年頃)までは、低いものだった。

そうした力関係は、浮世絵の署名と印からも、伺える。1700年ごろからの浮世絵には、絵師の署名と版元の印および、ものによっては、幕府の改印が見られる。しかし、彫り師や摺り師の印や署名は、1800年を過ぎないと、押されないのである。

これは、幕府の士農工商の階級政策とあわせて考えると面白い。財力を持ち、実質的に幕府を脅かす恐れのあった商業階層(版元)は、政策としては末端の階層に置かれたものの事実上、大きな力を持っていた。工人(職人)としての絵師、彫り師、摺り師の中では、更に細かい差異があったものの江戸後期には、彫り師や摺り師の位置づけも向上する。

これは、浮世絵の普及により、それを支えた江戸庶民の目が肥えてきたからとも言えないだろうか。より良い作品を生み出すために、それまで注目されていなかった彫り師や摺り師の技術にまで、批評の目が届くようになり、彼らの浮世絵への貢献の再評価につながったと言えるのでは、ないだろうか。

一概には言えないが、当時、1枚400−500円で売られていた浮世絵。そのような低価格を可能にしたのは、木版画による大量印刷と、江戸の文化的人口の多さがあげられる。登録した町民だけで50万人に達していた江戸の人口は、武士などの登録していない人口を含めると優に100万人に達するものと推定される。

しかも、既に江戸中期以降の識字率は100%近くに達していた。パトロンによらず、広い市民階層が支えた浮世絵は、このように浮世絵政策集団を支えるだけの市場を形成していたのだ。

テーマも、初期は遊女や相撲画など娯楽に直結したテーマが選ばれたが、中期以降になると、旅に関連したものや、過去の古典の主人公が姿を変えて登場する「やつし」や、異なったものを共通の隠しテーマでつなぐ「見立て」などの奥深い作品が出て、洗練の度を増す。
例えば、題には、「在原業平」と言っているのに、絵には、そのような人物が登場しない。その絵を読み解くためには、業平の詠んだ歌を知り、その中で、絵にあった歌を思い起こさねばならない。そうやって、うまくその絵が示唆する歌を当てはめると、絵の随所に隠されたテーマが見えてくる。そんな作者から絵の鑑賞者への問いかけがあるのも、また楽しい。

そうすると、この絵を友人と語ることによって、古典的な作品自体が、議論の的となり、また生命を吹き返すとともに、現代文化も豊にするでは、ないか。文化が豊になっていくとは、こういうことではないだろうか。


cheelend at 08:56|PermalinkComments(0)TrackBack(1)

2005年06月26日

浮世絵I

a90b7753.jpg浮世絵I

縁があって、浮世絵に触れる機会に恵まれた。存外、浮世絵は、奥深く面白いのでどんどんのめりこんでいった。以下、浮世絵の基本を覚書としてまとめておく。

類型:浮世絵は、木版画だと決めてかかっていたが、実は、肉筆のものも現存する。有名な浮世絵師、葛飾北斎や歌川広重も、肉筆の浮世絵を残している。古いものは、17世紀中ごろの江戸時代前期に制作されたものが、現存している。

分業:肉筆や、浮世絵初期の紅摺り絵と呼ばれる、白黒版画に色を塗り足した頃の浮世絵は、基本的に個人技である。一品しか作れないため、パトロンか富裕層の依頼に応じて制作したものが、ほとんどである。

しかし、鈴木春信が、錦絵と呼ばれるより鮮やかな多色刷りを開発し、木版浮世絵は、発展していく。これは、色ごとに木版を彫りわけ、木版のはしにマークをつけ、刷る紙の位置をそろえることで、輪郭だけでなく多色刷りの浮世絵を木版画で大量生産することに成功したものである。


絵の具:浮世絵に使用された絵の具の素材は、大きく3種類に分類できる。肉筆に使われた絵の具は、主に鉱物を含んだものである。肉筆画は、主に巻物として編集されたため、日光にさらされず、保存されてきた。しかも、鉱物性のインクは、日光にさらされても退色しにくい。そのため、300余年を経た今でも、ものすごく良い状態で保存されている。肉筆画の現物の色彩の鮮やかさには、ただ驚かされるばかりだ。

次に、浮世絵の主流が肉筆画から木版画に移った時期に木版画で使われたのは、植物性のインクである。つゆくさからとった青や、ベニなどが代表的なものである。問題は、退色がとても早いこと。特に青や紫は、赤系の色に比べ、色が変わりやすく制作当時の色をとどめているものは、ほとんどない。この時代の浮世絵版画は、ほとんど赤系の色しか残っていないが、それは、青系の色が退色または、変色してしまったためである。

19世紀はじめに中国からシルクロード経由で輸入されたドイツ製の化学インク。これを真っ先につかって、日本の植物性インクとあわせ、大作を作ったのが、北斎。有名な「富嶽三十六景:神奈川沖波裏(英題:Big Wave)」は、まさに北斎が、欧州の化学インクを日本の浮世絵に導入した先駆けであった。

化学インクは、色が変わりにくく、現在でも制作当時の色をほとんど変わらず、楽しむことが出来る。また、化学インクは、植物性インクと比べ、安かった。そして、摺り師の技量を問わず、均質な印刷が可能だったことから、出版社である版元に喜ばれ、この後、浮世絵の絵の具の主流となっていく。

改印:幕府による検印。初期の浮世絵版画には見られないが、中期頃から、改め印が、押されるようになる。これによって、制作時代を特定できるので、資料として貴重である。また、幕末になると、絵師の方でも、この印をデザインとして利用するために、あえて、印の部分だけ、丸く白抜きにしてあったりする。

更に傑作なものが、広重の作品に見られる。凧揚げをしている場面で、糸だけ画面上方にのばして、その延長線上にある画面外枠に改印を押させている。そして、その印を凧に見立て、印に線を3本引いて画面の糸とつなげてしまっているのだ。
当時、改印を得た後で、最後の編集をして出版するのが、通常の流れだったので、技術的に出来ないことではない。しかし、あえてお上の改印を遊んでしまうこの心意気が面白い。


cheelend at 06:59|PermalinkComments(0)TrackBack(0)
profile
Cheel
ラテンアメリカ研究者。民間セクター開発専門家。趣味は歌・絵画・小説・旅行・スポーツ全般。5言語(英語、スペイン語、ポルトガル語、フランス語、日本語)を駆使して仕事を行う。現在アンゴラ、ルアンダ市在住。
Recent Comments
Monthly archive
記事検索
livedoor プロフィール