アフリカ理解プロジェクトのスタッフが2つの質問を受けました。「 三秒に一人!?本当かな、そんなに子どもたちが死んでるの?なら生まなければいいじゃん。貧しさに苦しむと分かってるのに、自分たちでさえ食べれてない のに、死なせるだけなのに、なぜ生み続けるの?」「 彼ら、自分たちでがんばらず、我々の助けを待ってるだけじゃないの?だって、うちらだって、働いて、給料いただいて、生きてるんだよ。あいつらは、私たち先進国の助けに、甘えてんじゃないの?生かせてもらうなんて、そんな甘くねーよ。本当は彼らも「努力」すれば、メシぐらい作れるんじゃないの?」これに対する私の考えを、今日は書きます。
率直なご意見をありがとうございます。おそらくこのような疑問を持つ方は、多いのではないかと思います。二つの質問にお答えする前に、まず「貧困(poverty)とは、何か?」ということを考えてみたいと思います。キャンペーンのポスターなどでは、「1日1ドル以下で生活する人たち」というように、「貧困」を誰が読んでも分かりやすい形で表現しています。このため多くの人は、貧困=「お金がない」「物がない」「衣食住が足りない」「仕事がない」など、物質的な欠乏と捉えています。物質的な欠乏なら、自分たちも同じ、「努力が足りないんじゃないの」と思われるのは、自然なことだろうと思います。
もし、貧困を「社会のしくみによって、人間らしさが奪われている状態」というふうに捉えてみたらどうでしょう。「働きたくても学校に行けなかったため知識や技能がないので雇ってもらえない」「字が読めないので適正な情報が得られない」「病気になっても治療が受けられない」貧しい状態から抜け出そうと相当の努力をしても、「権力者による不公正な社会ルールがつくられている」という状態では、やる気も、生きる気力も失ってしまうのではないでしょうか。「努力」をすれば、ご飯くらい食べられるというのは、少なくとも公正なルールが敷かれている国において、ということになるでしょう。
ちなみに、このような不公正な社会ルールは、国家や地域の独裁的な権力者によるものだけではなく、世界貿易の不公正な構造、その不公正なルールで得た先進国による富の集中など、日本が関わっていることも多くあります。
「貧しさに苦しむ」と分かっているのに子どもを産むことも、またその子どもが「死んでしまって悲しむ」ことも、人間だからです。「途上国だから」という理由で子どもが産めないことは、人間らしさが奪われていることに他なりません。「子どもを減らす」「努力が必要」ということは、貧しい人たちが実は一番よく分かっていることなのではないでしょうか。
貧困が社会のしくみによってつくられたものであるならば、そういうしくみを変えることによって貧困の解決が実現されます。ホワイトバンドを支援する、身につけるといういうことは、そういう不公正なしくみを変えたいという意志をあらわす手段であり、貧困を自らの手で抜け出したいと思う人たちを側面から支援することであると、私は思っています。
率直なご意見をありがとうございます。おそらくこのような疑問を持つ方は、多いのではないかと思います。二つの質問にお答えする前に、まず「貧困(poverty)とは、何か?」ということを考えてみたいと思います。キャンペーンのポスターなどでは、「1日1ドル以下で生活する人たち」というように、「貧困」を誰が読んでも分かりやすい形で表現しています。このため多くの人は、貧困=「お金がない」「物がない」「衣食住が足りない」「仕事がない」など、物質的な欠乏と捉えています。物質的な欠乏なら、自分たちも同じ、「努力が足りないんじゃないの」と思われるのは、自然なことだろうと思います。
もし、貧困を「社会のしくみによって、人間らしさが奪われている状態」というふうに捉えてみたらどうでしょう。「働きたくても学校に行けなかったため知識や技能がないので雇ってもらえない」「字が読めないので適正な情報が得られない」「病気になっても治療が受けられない」貧しい状態から抜け出そうと相当の努力をしても、「権力者による不公正な社会ルールがつくられている」という状態では、やる気も、生きる気力も失ってしまうのではないでしょうか。「努力」をすれば、ご飯くらい食べられるというのは、少なくとも公正なルールが敷かれている国において、ということになるでしょう。
ちなみに、このような不公正な社会ルールは、国家や地域の独裁的な権力者によるものだけではなく、世界貿易の不公正な構造、その不公正なルールで得た先進国による富の集中など、日本が関わっていることも多くあります。
「貧しさに苦しむ」と分かっているのに子どもを産むことも、またその子どもが「死んでしまって悲しむ」ことも、人間だからです。「途上国だから」という理由で子どもが産めないことは、人間らしさが奪われていることに他なりません。「子どもを減らす」「努力が必要」ということは、貧しい人たちが実は一番よく分かっていることなのではないでしょうか。
貧困が社会のしくみによってつくられたものであるならば、そういうしくみを変えることによって貧困の解決が実現されます。ホワイトバンドを支援する、身につけるといういうことは、そういう不公正なしくみを変えたいという意志をあらわす手段であり、貧困を自らの手で抜け出したいと思う人たちを側面から支援することであると、私は思っています。