私の思い通りにならなかった白地図。
 無数にあると思っていた色鉛筆の色が、実は限られていると知ったときの絶望。
 12色、24色、36色……
 私は両親に駄々をこねて、60色の色鉛筆を買ってもらったけれど。
 けれど、実際に塗ることのできる色は、限られていて。

『米の収穫量が1〜5位までの都道府県を青で塗りなさい』
『沖縄県内の米軍基地を黄色で塗りなさい』
『関東大震災で家屋倒壊率が50%を超えた地域を赤で塗りなさい』

 白地図には、必ず何色で塗るかの指示が書いてあった。
 使えない色は、全然減っていかなかった。
 せめてもの抵抗は、緑で塗るべきところをエメラルドに塗ることくらい。
 それはとても、虚しいことだった。

 自分の好きになったわけではないから。
 それで、私だけの世界を作れるわけではないから。

 そう、わかっていたから――



「……えっ?」
 私は一瞬、自分の目が見えなくなってしまったのかと思った。

 目の前は真っ白。
 右を向いても白で、左を向いても白。
 上を向いても白で、下を向いても……

 あ、足だ。

 私は念のため、自分の両手を顔の前まで持ってくる。
 ちゃんと見える。
 私は、自分の目が正常であることを理解する。

 ならば、ここはどこだろう?

 自分の足は、地面についている……はずだ。
 少なくとも、足は地面らしき平たいものを踏んでいる。
 けれど、足元に影がない。
 自分の周りの全部が白。
 どこまでが地面で、どこからが壁なのかがわからない。
 どこまでが壁で、どこからが天井なのかもわからない。

 私は今、私がどんなところにいるかがわからない?

 ここは、部屋の中?
 ここは、外?

 ここは、どこ?

「ここは、夢だ」

 私はそれだけを理解する。
 こんな場所が、地球上にあるわけがないから。
 宇宙は黒いし、星だって見えるはずだから。
 現実には存在しないなら、ここは現実ではない。

 他に考えられるのは夢か、天国かのどちらかだろう。
 ならば、ここは夢だ。
 だって、私は、死んではいない。

 死んでなど、いないはず。

 もしここが天国なのだとしたら、それはなんて最悪の世界なのだろう。
 だってここには、誰もいないし、何もない。
 天使のひとりやふたりはいるはずなのに。
 ここには神さまもイエス様も、マリア様もいない。
 大好きだったお祖母さまにくらい、逢わせてくれたっていいものだ。
 けれどここには、何もない。

 なら、ここは地獄か?
 地獄とは、こんな場所なのか……?

 確かに、こんな何もない場所は、ある意味地獄なのかもしれない。
 私独りが、置き去られた場所。
 何もないから、何もできない場所。

 もしもここが地獄だというなら、私は何故、ここに連れて来られたのだろう?
 私の犯した過ちとは、いったい何だというのだろう?

――……の……にならない?――

 私の胸に、微かに声がよみがえる。
 私は、その声が耳から入ったものではないのに、耳をふさいだ。
 無駄なことであることは、明白であるのに。

――私の妹にならない?――

 拒絶しようとすればするほど、私の胸に響く声は、大きなものになる。
 私はその場に、膝をついた。

 私はやがて、自分に対して嘲笑する。

――祐巳さまは何てご親切な方なのでしょう?――

 私は、祐巳さまの申し出を断った。
 祐巳さまがなぜそう言ったのか、わからなかったから。

――聖夜の施しをなさりたいなら、余所でなさってください――

 それが、罪?
 だから私は、地獄落ち?

 そんな、馬鹿な話が……!

「そんな……」

 白一色の世界では、無色透明な水分ですら色を持つ。
 白一色の世界に、にじんだ色が混じる。

「私……」

 泣いている自分が、少しだけ可笑しかった。
 私はそう、泣いたのだ。
 祐巳さまから離れたあと、泣いたのだ。
 泣きながら、自分の気持ちを理解したのだ。

 ロザリオ、素直に受け取ればよかったかもしれない。
 けれど……



 私はとりあえず、歩き出す。
 目指すことができそうな場所があるかなんて、わからないけれど。
 ずっと歩いていれば、そのうち何か見えるだろうか?
 そんな希望は、まったくこの胸には浮かんでこなかった。
 単に、その場にい続けることに耐え切れなくなっただけだ。

 けれど、どこまで行っても白以外の何もない世界は、変わりがなく。
 私はすぐに、途方に暮れる。
 ここが地獄なのか、ただの夢なのかはわからない。

 夢なら早く覚めてほしいのに……
 覚めないということは、やっぱりここは……

「地獄なんかじゃないってば」

 その声は胸の中ではなく、耳から入ってきた。
「……っ!?」
 私は足を止め、振り返る。
 望んでいた、白以外のもの。
 私の知っている声。

 私が逢いたくて、遭いたくなかったひと。

「祐巳…さま……」
「はい、ごきげんよう」
 見慣れた制服を着た祐巳さまは、両手に重そうな紙袋をいくつも提げていた。
「……だ、大丈夫ですか?」
「う、うん。重い……」
 祐巳さまは顔中に汗をかいていた。
 無味乾燥の世界の中で、あまりにもその様は滑稽で、異彩を放っている。
「いったい、何なんです? それは」
 脱力しきった声で訊ねると、
「これ? これはね……」
 祐巳さまはそう言いながら紙袋を『地面』に下ろし、その中のひとつに手を入れた。
「これ」
 取り出したものは1冊の本。
「これ? これ…は……」
 祐巳さまから手渡されたそれに、私は目を遣る。
 そして私は、言葉を失った。
 そこには大きな文字で、こう書いてあった。

『白地図帳』

「たくさん持ってきたからね、何度でも書き直していいよ」
 祐巳さまは微笑んで、紙袋の中から何冊もの本を次から次へと取り出す。
 それらのすべてに、『白地図帳』というタイトルがついていた。
「もちろん色鉛筆もね。クーピーと水彩色鉛筆と、それから絵の具も用意してみた」
 水彩色鉛筆や絵の具を白地図に使う人なんて、聞いたことがない。
「でも、これは別に授業じゃないもん。別に何を使ったっていいじゃない?」
「授業じゃ、ない……?」
「そう、瞳子ちゃんの塗りたいように塗ればいいわ」
 祐巳さまが上から下へ、頭を大きく振った。

「さぁ、やってごらん?」

 私はおそるおそる、白地図を開く。
 そこには、線だけの日本地図があった。

 そして同時に、白だけだったはずの世界に、ある変化が起きた。
 地面にいくつかの、黒い線が走った。
 まっすぐではない、複雑に入り組んだ線。
「これは……?」
 ついていけない私に、祐巳さまが説明をくれた。
「これが、今のこの世界のようす」
「はい?」
 祐巳さまが何を言っているのかわからず……

 あっ。

「今の、世界……っ?」
 白い地面に、黒い線。
 私は再びノートに目を向ける。

 白地に、黒い線。
 黒い線は、海岸線だ。

「瞳子ちゃんと私が今いるのは、この辺かな……?」
 祐巳さまがノートをのぞきこみ、指差したのは、東京だった。
 私は地面に描かれた黒い線を見て……わかった。
「これが、東京湾で……」
「これが房総半島。乃梨子ちゃんの実家って、千葉県だったよね?」
「ええ……」
「私の家はこの辺で、リリアン女学園が、この辺り?」
「私の家は……この辺です」
「祥子さまの別荘は……」
「ここ。私の別荘も、すぐ近くですわ」
「そうだね。今年もまた、来られるかしら?」
「来られるといいですね。今度は変な邪魔も入らないでしょう」
「……そうなの?」
「祐巳さまは、西園寺の大祖母さまお気に入りの天使さまですから」
「……そうでした。思い出しちゃった……」
「ええ、私も……」

 あの天使の歌を、思い出した。

 そして、私と祐巳さまの会話が弾んでいくにつれ、世界にさらなる変化が現れる。
 いつの間にか私は、その手に何本もの色鉛筆を手にしていた。
 そして、眼下の白地図に自由に色を足して行く私の手。
 それに従い、私の周りの白地図の世界にも、次々と色が加わるのだ。
 白色の世界が、次第に鮮やかになっていく。

「この辺りに、薔薇園を作りましょう」
「いいね。いろんな色の薔薇を植えようよ」
「ええ!」
「ロサ・キネンシスとロサ・ギガンティア、それからロサ・フェティダ」
「あと、去年の高等部の役員選挙で……」
「ロサ・カニーナね?」
「あれって、何色でしたっけ?」
「あれはね……」

 それはもう、むちゃくちゃな世界だった。
 空の色も海の色も、むちゃくちゃだ。
 勝手に大陸を増やしたりもした。
 大陸同士を橋でつないでみたりもした。
 ピンクの花柄の森。
 白黒の水玉模様の町。
 ありえないことばかりの世界。
 私が好き勝手に塗った世界。
 私が好き勝手に作った世界。

 絶対にかなわない世界。

「……こんな世界なんて……」

「瞳子ちゃん?」
 私は、悲しくなって泣いた。
 こんな世界、絶対にありえないのに。

 こんなの、ただの夢なのに……!

「この世界には、私の望みしかない」
 けれど実際の世界には、私以外のすべての人々の望みが、あふれている。
 それらが常にぶつかりあって、生き残るのはほんの一握りしかない。
 世界は、私の望みどおりにはならない。
 私はそれを、イヤというほど実感してきたのだ。

 何を、今さら……!

「こんな世界なんてぇ……ッ!」
 私は白地図を、自分の両手で破り裂こうとする。

 けれど、それは、できなかった……

「うっ、ううっ、うう……!」
 私は白地図を投げ捨て、その場に崩れた。
 もう、泣くしかなかった。
 絶望ばかりが、頭の中を占めていく。

 でも……

「瞳子ちゃん」
 祐巳さまの手が、私の頭に触れた。
「触らないでくださいっ!」
 私は祐巳さまの手を、振り払おうとする。
 しかし、私の手は祐巳さまに掴まれ、そして、包まれた。
 私は祐巳さまの手を、とても暖かいと思った。
「全部が全部望み通りの世界なんて、誰にも作れないわ」
「それくらい、わかっています!」
 私は同意しながら、けれど首は大きく、激しく横に振っていた。
 祐巳さまは「だよね」とつぶやて、瞳子の頭から手を離した。
「だから瞳子ちゃんは、選ばなくちゃならないのよね。未来を」
「……ええ……」
 うなずいた私の顔を、祐巳さまはしゃがんでのぞきこむ。
「だったら、瞳子ちゃんは何を選ぶ?」
「何をって……」
「無数にある望みの中で、瞳子ちゃんがいちばんかなえたいものは、何?」
「それは……」
 言われて私は、即答できない。
 なぜなら、ひとつに絞れないからだ。
 将来のこととか、近々のこととか……

 ひとつでなければ、ならないのだろうか?

「ひとつである必要は、ないよ」
 祐巳さまは、断言した。
「それどころか、ちょっと欲張りなくらいでもいいと思う」
「そう、なんです…か……?」
「ええ。どうしても曲げられない、いくつかの望み」
 祐巳さまの視線を受けて、私は、それらを思い浮かべる。

 私には、それがある。

「そう……」
 祐巳さまは小さく微笑んで、紙袋の中から別の白地図を取り出した。
 そしてそれを、私の胸に押し付ける。
「なら、がんばってね」
「祐巳…さま……?」
 祐巳さまが私に背を向け、離れていく。
 だが、私がその背中に声をかけようとすると、ふいに祐巳さまが足を止めた。
「ああ、そうそう」
 振り返った祐巳さまの手にも、白地図と色鉛筆がある。
「当たり前のことだけど、私にも曲げられない望みがあるの」
 そう言って、首筋に指を入れる。
「……っ!」
 ロザリオの鎖が、チラッと見えた。
 息を呑む私に、祐巳さまには少し珍しい、少し強気な笑みを浮かべてみせた。

「私、負けないから」



「……」
 朝になって、目を覚ました私は、枕の下に置いた宝船を手に取った。
 どんな夢を見たかは、あまりよく覚えていない。
 確か私は、何かを一生懸命に描いていたような気がする。
 たぶん、そんなに悪い夢ではなかったと思う。
 押さえた胸は、苦しくない。
 それどころか、とても心強い何かを感じる。
 私がほしかった何かを、受け取ったような……
 それって、何だろう?
 わからないことが、少しもどかしい。

 けれど、悪い夢でないなら、少しは希望を持っても、いいのかしら?

 私はベッドを降り、カーテンを開けた。
 朝の日差しが、とてもまぶしかった。





(あとがきへ⇒)
 ごきげんよう、シオンケイでございます。
 久しぶりだねぇ、こんなに更新間隔が短いの(汗)。GW中に1本あげるという約束は、何とか果たせたでしょうか?
 今回のSSに関しては、ちょっとだけ躊躇もありました。実は似たようなネタ、同人誌とかで1〜2本読んでいるんですよ。夢の中で何冊もの白地図が……ってやつ。
 ただ、そこから先にあるものは私の考えたネタとは結構別の方向性に向かっているので、まぁ、やってみようかということになりました。
 今回、作品の内容については特に触れません。特に細くできるようなこともない……というか、このSSの中で全部書いちゃいましたので。
 白地図の世界は、どうしても確実にはかなわないけれど、でも、その中でもどうしても譲れない一線だけは、私もできる限り、守り抜きたいものです。
 それでは、次はまた別のネタでお会いいたしましょう。
 たまには祐瞳のまったく絡まないお話も、書きたいかなあっと。