その日の夜、瞳子の家に1本の電話がかかってきた。
 いちばん近くにいた母が受話器に手を伸ばしたが、それを取ったのは瞳子のが先だった。
 何となく、予感がした。
「……はい、松平です」
 瞳子が逸る心を抑えて名乗ると、果たして。

《ああ、瞳子ちゃん?》

「祥子お姉さまっ!」
 声が瞳子の耳に届いた瞬間、視界が一気に滲んだ。
 祥子お姉さまの第一声で、すべてがわかった。
「元気になられたんですね。よかった……」
《ええ、おかげさまで》
 祥子お姉さまが、少しバツが悪そうに笑う声がする。
 しかしそれはやがて収まって、替わりに優しい言葉をかけてくれる。
《瞳子ちゃんには、本当に心配をかけてしまったわ。いろいろと、ごめんなさいね》
「いえ。……そんなことありませんから!」
 こうして、元気な声を聴かせてくれたのだから。
 それだけで、瞳子は満たされた。救われたような想いだった。

 だからもう、充分。

「瞳子は何もしていません。むしろ、祥子お姉さまを困らせてしまいましたもの」
 すると祥子お姉さまも、何のことか思い当たったようで、
《困らせた、なんて……》
 と、小さく息をついた。
 でもそれは、決して重苦しいものではなかった。
「ねえ、祥子お姉さま?」
《なに?》
 瞳子は、勇気を出して訊いてみた。
 答えを聞いて、打ちのめされるかもしれないけれど、訊くなら今しかないと思った。

 瞳子がどうしてもわからなかったこと。

 これを訊かなければ、瞳子は、ここから一歩も前に進めないと思ったから。
「改めて、質問させてください」
《……ええ》
「どうして、祐巳さまなんですか?」
 祥子お姉さまが、小さく息を呑んだ。
 瞳子は、辛抱強く待つ。
《それは……》
 祥子お姉さまはそして、慎重に言葉を選んでから、一言だけ口にしたのである。

《祐巳が好きで、どうしても必要だから》

「祥子お姉さま……」
 それは――
 何の飾りっ気もないし、全然具体的でもない言葉だ。
 この言葉を他の誰かに言われたとしても、絶対に納得はできなかったに違いない――そんな答えだった。
 けれど今、瞳子はその言葉を、祥子お姉さま自らの口から発せられた声で受け止めた。
 それが、瞳子には大切なことだった。
「そうですか」
 だから瞳子は、素直にうなずくことができる。
 それは、とても単純な言葉であったけれど、あまりにも決定的な一言でもあったのだ。
 祥子お姉さまにそこま言わせてしまう祐巳さまに、瞳子は嫉妬の気持ちを隠せない。
 しかし、それとは逆に、自分の中で新たな感情が生まれたことに、瞳子は気づいた。
「すごい方……なんですのね、祐巳さまは」
《えっ?》
「だって、祥子お姉さまがそこまで言い切るような方を、私は他に存じ上げませんもの」
《そ、そう……だった、かしら……?》
 受話器の向こうで、祥子お姉さまがあわてている。
 瞳子は思わず、クスッと笑った。
《笑ったわね、瞳子ちゃん》
 笑いながら抗議する祥子お姉さまの声に、瞳子は改めて喜びを感じた。

 祥子お姉さまが、帰ってきたのだ!


 やがて、祥子お姉さまは彩子お祖母さまの家からリリアンに登校し始めた。実に、2週間以上ぶりの登校である。
 本当は病み上がりも同然の体だったので、清子小母さまはもう少し休みを取らせたかったようだ。瞳子もその辺は確かに心配だったので、登校前、清子小母さまに電話を入れたのだが。
 祥子お姉さまは、それまでの落ち込みようが嘘のような晴れ晴れとした顔で、元気に家を出て行ったようだ。

 そして、祥子お姉さまがめでたく現場復帰するため、瞳子が急遽(やむなく)引き受けた祐巳さまのアシスタント役も、今日でお役御免となる。
「今前本当にありがとう。助かったよ、瞳子ちゃん」
 祐巳さまはそういって、瞳子に右手を差し出した。
 瞳子も、その手を握り返す。
 これくらいは、素直に……
「私は、約束したことはちゃんとやりますから」
 ……素直に?
 おかしい。祐巳さまを相手に話すと、素直に話そうとしたときですら、こんな憎まれ口が先行してしまうのは、何故だろう?
 本当は別に、言おうと思っていた言葉があるのに。
 でも、祐巳さまはこんな生意気な後輩に対して、気分を害することもなく、ただ苦笑いするだけだった。
 瞳子のお小言にも、慣れてしまったのかもしれない。
「また、ここにも遊びにおいでよ。お姉さま目当てでもいいから」
「それは……まぁ、気が向いたら」
 瞳子は祐巳さまの言葉に、ぎこちなく目を逸らした。

 あ、あれ……?

「これからは山百合会もさらに忙しくなるし、そのときはまた、いろいろと手伝ってくれると助かるんだけど」
「お断りしますっ」
 そこはキチント突っぱねておかないと。
「そんなー」
「そんなー、じゃありません! 私には演劇部の活動もあるんです。そろそろ台本も上がるようですし、これからは学園祭に向けて、女優業に専念いたします」
「そっか。じゃ、本番のときは私も見に行くよ」
 祐巳さまはそう言って、瞳子に笑いかけた。
 瞳子はその、裏表ない笑顔に思う。

――祥子お姉さまは、この笑顔にやられたんだ――

「ん? どうして赤くなっているの?」
「なっ、なんでもありません!」
 瞳子の顔をのぞき込もうとする祐巳さまから、瞳子はあわてて顔を隠す。
 自分の顔が赤い理由は、瞳子にもよくわからない。
「そ、それじゃ。私は部活がありますので」
「うん」
 瞳子はサロンの扉に手をかけ、そこで改めて祐巳さまを見た。
「なぁに?」
「いえ……」
 まっすぐに見つめられて、やっぱり顔を逸らしてしまう。

 けれど、これだけは言わなければいけないと思って……

「祐巳さま」
「うん」
 うなずいたその声は、とても優しかった。

――祐巳さま、そんな声も出せるんだ……って、何!?――

 いきなり湧き上がってきた妙な感想に、瞳子はわけがわからなくなった。
  ここにこれ以上いちゃいけない、と思った。
 だから、やろうと思っていたことをやって、一刻も早くこの部屋から脱出しなければ!
 瞳子はクルッと勢いのままに振り返り、祐巳さまに向かって素早く深く、頭を下げた。
「祐巳さまっ!」
「はい!?」
「祥子お姉さまのこと、どうもありがとうございましたっ!」
 瞳子はもう、顔から火が出そうで。
 ポカンと大きく口を開けて立ち尽くす祐巳さまを残して、そのままダッシュで部屋から飛び出した。



「ところで……瞳子ちゃん?」
「……なんですか?」
「これからは女優業に専念するんじゃなかったの?」
「……っ、……」

 祐巳さまがニコニコしながら入れたツッコミに対して、学園祭の資料を整理していた瞳子は、反論の言葉がとっさに思い浮かばなかった。
「……き、気が向いたら遊びに来ると、言ったはずですが」
 どうにかひねり出した言葉も、乃梨子さんの、
「その『気が向いたら』が、3日連続ねえ?」
 という一言に、あえなく撃沈した。
 しかも、今日の乃梨子さんはいつになく意地悪だ。
「おまけに今日は、紅薔薇さまがいらっしゃらない。そのことは瞳子もわかっていたはずよね? 昨日、私たち全員の前で予告してくれたし、その理由は瞳子も知ってて当然なことだし」
「うーっ」
 言い返せない自分が、何か嫌だ。
 確かに、自分でも『何やってんだか』という気持ちはある。連日の稽古で疲れているというのに、練習後になぜか薔薇の館に足を運ぼうと思ってしまう自分が、瞳子にはよくわからない。
 実際、ここに来る頻度は、アシスタントを仰せつかっていた頃よりも増えているのではないだろうか?
 これまでは、『祥子お姉さまに会いにきたんです!』と言えばよかったのだが、乃梨子さんの言うとおり、祥子お姉さまは授業終了とともに、迎えの車に乗って彩子お祖母さまの家に帰ってしまった。
 本当は瞳子も参加したかったのだが、初めての台本の読みあわせを主役が休むわけにもいかず、泣く泣くあきらめたのである。
 欠席理由を知っているばかりか、祥子お姉さまをお見送りしている。よって、祥子お姉さまが薔薇の館にいないことはわかっているのに……ついつい、ここに来てしまった。
「乃梨子ったら、あんまり瞳子ちゃんをいじめないの」
 追い詰められた瞳子を見かねたらしい白薔薇さまが、そう言って乃梨子さんをたしなめた。
 でも乃梨子さんときたら、ぺろりと舌を出しながら「はぁい」とか謝っているのだけど、その顔はまったく懲りてはいないではないか!
 そもそも、白薔薇さまの言葉も笑いながらだったし……
「まあまあ、瞳子ちゃんも落ち着いて」
 と、祐巳さまが瞳子の空になったカップに麦茶を注いだ。
 瞳子は恨めしげに祐巳さまを見上げる。
「祐巳さまが、変なツッコミを入れるからいけないんです」
「そう?」
 とぼけたように、祐巳さまは小首をかしげた。

 それにしても……
 いつの間にか、瞳子は薔薇の館の空気に馴染んでいた。
 『祥子お姉さまに会いにきたんです!』などといった言い訳をするまでもなく、当たり前のように瞳子を迎えてくれる。

――そういえば、このカップだって……――

 薔薇の館で祐巳さまのアシスタントを始めたとき、瞳子は祐巳さまに言われてコーヒーカップを家から持ってきた。
 以来、薔薇の館ではいつもそのカップに飲み物を注いでいる。
『借り物ではない自分のカップが、薔薇の館においてある』
 祥子お姉さまの復帰で晴れてお役御免になった後も、カップだけは当たり前のように食器棚に残された。
 本当は単に瞳子が持ち帰るのを今の今まで忘れていただけなのだが、これまでその事実を指摘する人は、いなかった。
 今の瞳子は、ただの『お客さま』という立場のはずなのに。
 だいたい、そんな『お客さま』の瞳子がたった今していることと言えば……
「祐巳さま、終わりました」
「あ、ありがとー」
 なんと、山百合会の仕事なのだ。
 祐巳さまたちが忙しそうにしているのを放っておけなかったのは、事実だが……
 瞳子が手伝いを申し出たことに、祐巳さまも何の疑問も抱くことなく、すんなりと仕事を与えたのである。
「瞳子ちゃんのおかげで、予定より早く片付いた」
 黄薔薇さまは呼んでいたファイルを閉じて立ち上がった。
「じゃ、私はそろそろ引き上げるよ。由乃も部活が終わることだろうし。みんなも上がりにしていいからね」
 部外者に仕事を任せたことに対して、年長者である黄薔薇さますら疑問を挟んでいない。
 ただ、祐巳さまに向かって、
「祐巳ちゃん、瞳子ちゃんがいてくれると助かるでしょう?」
 と言って笑うだけである。
 そして、祐巳さまは……
「そうですねー。なんだか手放すのがもったいなくて」
 何てことを言っているし。
 すると、突然乃梨子さんが話に割り込んできて、祐巳さまの顔をのぞきこんだ、
「だったら、手放さなければいいだけの話じゃありませんか」
「えっ?」
 祐巳さまが目を丸くする。
 同時に、瞳子の顔は熱くなる。
 乃梨子さんが瞳子に向かって、してやったりと笑う。
「の、乃梨子さんっ?」
「それって……」
「……あ……」

 まずい。
 祐巳さまと、目が合ってしまった。

――これは、とてつもなくピンチなのでは?――

 瞳子は思わず、後ずさる。
 そんな瞳子に、ポツリとつぶやいた。
 あろうことか、首にかけたロザリオを取り出し、

「ほしい?」

 なんて、とんでもないことを言いながら!
 瞬間、瞳子の頭が真っ白になったのは、言うまでもない。
 薔薇の館が、笑い声に包まれた。
 瞳子は薔薇の館に来たことを、猛烈に後悔した。

 けれど、なぜだろう?
 瞳子は祐巳さまに関わることを、それほど嫌とは思わなくなっていた。

 数日前までは、予想もつかなかったことだが。
 もちろん、『妹になる』なんてことは考えもつかないし、完全に心を許せるようになったというわけでも、まだない (祐巳さまのほうの気持ちは、わからないけれど)。
 しかし、気がつくと祐巳さまに意識が向いている自分がいる。
 祐巳さまの妹にといわれて、なる気はないにしても、そういわれることを『嫌だ』とは思っていない自分がいる。

 これは、どういうことだろう?

「瞳子ちゃん」
「……何です、か?」
「ホント、感謝してる」
「……」
「ありがとう」
「……どう、いたしまして」
 瞳子は、隣を歩く祐巳さまの目を見ることができず。
 逃げるように、目を伏せた。





<あとがき>
 ……というわけで、おっしまい♪
 いやはや、これ書いていた頃は、祐巳と瞳子は学園祭で姉妹になると信じきっていたから……。・゚・(ノД`)・゚・。 まさかそれが、ここまで延びるとは、思いもせず。
 な、泣けるゼ。
 しかし、過去の作品を打ち直して振り返ることによって、スランプ脱出のきっかけになればいいなぁと思っていたことについては、新刊発売によってかなりいい感じになりそうで。まぁ、よかったのかなぁ?と。
 次に書いた『Honestly〜望んだものは、天使さま〜』をいつごろ出すかは、まだ未定であります。でも、できれば早めにできればいいかなぁ?
 それでは、次は新刊ネタです! お楽しみに!!