バレンタインデーが終われば、2月15日は普通の日。
今日は本当に色々なことがあった日で、リリアン女学園の乙女たちは各々の自室で、それぞれの感情に浸りながら今日1日のことを思い出す。微笑む者もあれば、涙に暮れる者もある。
バレンタインデーは特別な日。
けれど、あと少し時計の針が回れば、もう、普通の日。
そんな日またぎを控えた時間、松平瞳子は全速力で夜の町を走り続けていた。
人通りの多い繁華街を避け、街灯の明かりもまばらな住宅街を選んで走る。もう少し早い時間ならば、ほとんどの家がどこかしらの部屋の明かりをつけているのだろうが、夜11時45分ともなれば、すでに寝静まった家の方が多いほどだ。
事故と事件のどちらの可能性も高いような、そんな状況下で、瞳子は走っている。逃げるようにではなく、多少迷いもしながら、しかし心はまっすぐに、ある一点を目指して。
……と。
「……っ!」
唐突にと瞳子が足を止めた。そして電信柱の陰にさっと身を潜める。
荒い息を押し殺すのはとても苦しいことで、血と空気で頭が弾けそうないやな感じに決死の無言で喘ぎながら、瞳子は手鏡で前方の様子をうかがう。
――どこぞのスパイよ、私ってば――
十字路を横切っていくパトカー。サイレンは鳴らさず、回転灯だけを回して、ゆっくりと姿を消していく。
運転していた警官は、当然瞳子の隠れている方向にも目を向けたが、『不審者』に気づくことはなかった。
やがて、回る赤い光が見えなくなって、瞳子は再び呼吸を始める。
「はあっ、はあっ、はあっ!」
息を止める必要まではなかったのに、そうしていたので、もう、死にそうで。
しかし、瞳子は再び走り出した。
一度足を止めてしまったせいで、スピードは先ほどくらいには出ない。苦しさも2倍、3倍に感じられる。
だが、それでも決して脚を止めることはできなかった。
時計を見て、ますます顔を焦りの色に染める。
少しでも速く走ろうとして、軽くつんのめりながらも、前へ、前へ――!
――もう少し! ……たぶん、もう少しだったはず……――
品行方正なリリアンの乙女が、なぜそのイメージに真っ向から反するようなことをしているのかといえば……そんなこと、瞳子自身にだって完璧には説明がつかなかった。
ただただ、瞳子はそうするより他なくて、死にモノ狂いでそれをしているのだ。
そうせずには、いられなくて。
ポケットの中に、瞳子が届けようとしているものが入っている。
それを届けるのは、あと10分以内でなければならない。
だから、瞳子はひたすら走るしかないのだ。
――滑稽すぎるわよ、瞳子ったら……――
自分はいったい何をやっているのだろうと思うと、もう、呆れ果てて、呆れ果てて。このまま目的地を外れ、どこかに逃げ出してしまいたくなる。
乃梨子が聴いたら、不甲斐ない瞳子を怒るだろうか。
可南子さんが聴いたら、愚かな私を笑うだろうか。
祥子お姉さまが聴いたら……
「くうっ!」
瞳子は歯を食いしばり、悲鳴を上げる脚に鞭を打ち、走る速さを、上げた。
誰に何を思われるかを考えていたら、ますます足が動かなくなってしまいそうで、瞳子にはそれが、怖かった。
何しろ、瞳子はもう、ここまで来てしまったのだから。
――今さら、何もしないで帰れないもの……――
瞳子は、決意して家を出たのだ。自分がそれをしたいと、そう思ったからだ。
最後までやり遂げずに、帰れないのだ。
どうせ怒られるなら、できなかったことに対してではなく、やってしまったことに対して怒られたい。
どうせ笑われるなら、やり遂げたことの顛末を話して聞かせ、最後は一緒に笑いあいたい。
そうだ。もう少しなのだ。
やがて、見たことのある景色が瞳子の目に飛び込んでくる。
あの日、瞳子がこの場所に辿り着いた日、瞳子はこの辺りで呼び止められたのだ。
『君、松平…瞳子さん……? 祐巳に、何か用かな』
――そう……だから、あの曲がり角を曲がれば……!――
瞳子は、もうすぐそばあるゴールに向けて、最後の全力疾走。
こっそりと抜け出した家からここまで、約1時間の行程も、もう、あと少しだ。
「はあっ! はあっ! ……はぁ……はぁ……」
瞳子は、足を止めた。
目の前に、目指していた建物は、あった。
インターホンは、押せない。瞳子が来たことを、彼女に知られるわけにはいかないのだ……とは言っても、その理由は決して深いものではない。
時計が指す時刻は、23時58分。こんな時間になっては、さすがに図々しく人の家に上がり込むわけにもいかない。
瞳子は家の中の人々に気づかれないよう、呼吸が少し落ち着くのを待ってから、門の前に立った。
門の前に立って、彼女の部屋の窓を見上げる。
さすがにもう、明かりは消えていた。今日はいろいろなことがあったから、当然、疲れているだろうから。
……逆に、そんな日にこんなことをしている瞳子が、異常なのだ。
瞳子は情けなくて笑い、目の端にたまった涙を、人差し指ですくった。
さあ、もう時間がない。瞳子はポケットから取り出した小さな箱を、郵便受けに投函した。
名前は、書いていない。だから、これを投函したのが瞳子であることは、わかってもらえないかもしれない。
とりあえず、渡したい相手の名前だけは、書いてある。
これで、ようやく瞳子の『今日』が終わる。
瞳子は、今日学校で起きたことを思い返した。
そして、これから起きるであろうことに、思いを馳せる。
瞳子は今日、大変なことをしでかした。
きっと、明日も大変な1日になることと思う。
しかしもう、後戻りはできないし。
瞳子はすでに決意を固めているから、怖くはなかった。
踵を返す刹那、瞳子は小さく声をかける。
届くはずのない声で、大切なその宣言を。
「こうなったら、絶対に『お姉さま』と呼んでみせますから」
そして、笑った。
とりあえず、ハッピー・バレンタイン。
それが瞳子の、あの日の最後の思いで――
今年最初のSSが、2月になってしまってすみません、シオンケイです。
『クリスクロス』に関するSSは、非常に書くのが難しかったです。何となく、カンタンにSSのアイデアを思い浮かべることができない。それは単にスランプであるということもあるのでしょうが、それと同様に、いつも以上に二次創作を書くことに慎重になっている自分がいるということも大きいのであります。
どうしても自信のある予想が出来ません。瞳子がなぜあそこで、祐巳に対してあんなことを言ったのか。いつもなら、間違っていることを覚悟の上で、何となく大胆な予想をやってしまうこともあるのですが……てゆ〜か、それでこれまでSSをやってきたということもあるのですが、今回はどうしても、そういうことができなかったのです。
何というか、いよいよ私の夢が適うその日が近づいていることに対して、今さらながらに弱気になっている自分がいるようです。
いけませんな、こんなことじゃ。
ちょっと、1〜2本くらい、瞳子の周りから離れてみようかな……?
とりあえず、3月はじめくらいまでには何か書きたいな、と思います。
バレンタインデーは特別な日。
けれど、あと少し時計の針が回れば、もう、普通の日。
そんな日またぎを控えた時間、松平瞳子は全速力で夜の町を走り続けていた。
人通りの多い繁華街を避け、街灯の明かりもまばらな住宅街を選んで走る。もう少し早い時間ならば、ほとんどの家がどこかしらの部屋の明かりをつけているのだろうが、夜11時45分ともなれば、すでに寝静まった家の方が多いほどだ。
事故と事件のどちらの可能性も高いような、そんな状況下で、瞳子は走っている。逃げるようにではなく、多少迷いもしながら、しかし心はまっすぐに、ある一点を目指して。
……と。
「……っ!」
唐突にと瞳子が足を止めた。そして電信柱の陰にさっと身を潜める。
荒い息を押し殺すのはとても苦しいことで、血と空気で頭が弾けそうないやな感じに決死の無言で喘ぎながら、瞳子は手鏡で前方の様子をうかがう。
――どこぞのスパイよ、私ってば――
十字路を横切っていくパトカー。サイレンは鳴らさず、回転灯だけを回して、ゆっくりと姿を消していく。
運転していた警官は、当然瞳子の隠れている方向にも目を向けたが、『不審者』に気づくことはなかった。
やがて、回る赤い光が見えなくなって、瞳子は再び呼吸を始める。
「はあっ、はあっ、はあっ!」
息を止める必要まではなかったのに、そうしていたので、もう、死にそうで。
しかし、瞳子は再び走り出した。
一度足を止めてしまったせいで、スピードは先ほどくらいには出ない。苦しさも2倍、3倍に感じられる。
だが、それでも決して脚を止めることはできなかった。
時計を見て、ますます顔を焦りの色に染める。
少しでも速く走ろうとして、軽くつんのめりながらも、前へ、前へ――!
――もう少し! ……たぶん、もう少しだったはず……――
品行方正なリリアンの乙女が、なぜそのイメージに真っ向から反するようなことをしているのかといえば……そんなこと、瞳子自身にだって完璧には説明がつかなかった。
ただただ、瞳子はそうするより他なくて、死にモノ狂いでそれをしているのだ。
そうせずには、いられなくて。
ポケットの中に、瞳子が届けようとしているものが入っている。
それを届けるのは、あと10分以内でなければならない。
だから、瞳子はひたすら走るしかないのだ。
――滑稽すぎるわよ、瞳子ったら……――
自分はいったい何をやっているのだろうと思うと、もう、呆れ果てて、呆れ果てて。このまま目的地を外れ、どこかに逃げ出してしまいたくなる。
乃梨子が聴いたら、不甲斐ない瞳子を怒るだろうか。
可南子さんが聴いたら、愚かな私を笑うだろうか。
祥子お姉さまが聴いたら……
「くうっ!」
瞳子は歯を食いしばり、悲鳴を上げる脚に鞭を打ち、走る速さを、上げた。
誰に何を思われるかを考えていたら、ますます足が動かなくなってしまいそうで、瞳子にはそれが、怖かった。
何しろ、瞳子はもう、ここまで来てしまったのだから。
――今さら、何もしないで帰れないもの……――
瞳子は、決意して家を出たのだ。自分がそれをしたいと、そう思ったからだ。
最後までやり遂げずに、帰れないのだ。
どうせ怒られるなら、できなかったことに対してではなく、やってしまったことに対して怒られたい。
どうせ笑われるなら、やり遂げたことの顛末を話して聞かせ、最後は一緒に笑いあいたい。
そうだ。もう少しなのだ。
やがて、見たことのある景色が瞳子の目に飛び込んでくる。
あの日、瞳子がこの場所に辿り着いた日、瞳子はこの辺りで呼び止められたのだ。
『君、松平…瞳子さん……? 祐巳に、何か用かな』
――そう……だから、あの曲がり角を曲がれば……!――
瞳子は、もうすぐそばあるゴールに向けて、最後の全力疾走。
こっそりと抜け出した家からここまで、約1時間の行程も、もう、あと少しだ。
「はあっ! はあっ! ……はぁ……はぁ……」
瞳子は、足を止めた。
目の前に、目指していた建物は、あった。
インターホンは、押せない。瞳子が来たことを、彼女に知られるわけにはいかないのだ……とは言っても、その理由は決して深いものではない。
時計が指す時刻は、23時58分。こんな時間になっては、さすがに図々しく人の家に上がり込むわけにもいかない。
瞳子は家の中の人々に気づかれないよう、呼吸が少し落ち着くのを待ってから、門の前に立った。
門の前に立って、彼女の部屋の窓を見上げる。
さすがにもう、明かりは消えていた。今日はいろいろなことがあったから、当然、疲れているだろうから。
……逆に、そんな日にこんなことをしている瞳子が、異常なのだ。
瞳子は情けなくて笑い、目の端にたまった涙を、人差し指ですくった。
さあ、もう時間がない。瞳子はポケットから取り出した小さな箱を、郵便受けに投函した。
名前は、書いていない。だから、これを投函したのが瞳子であることは、わかってもらえないかもしれない。
とりあえず、渡したい相手の名前だけは、書いてある。
これで、ようやく瞳子の『今日』が終わる。
瞳子は、今日学校で起きたことを思い返した。
そして、これから起きるであろうことに、思いを馳せる。
瞳子は今日、大変なことをしでかした。
きっと、明日も大変な1日になることと思う。
しかしもう、後戻りはできないし。
瞳子はすでに決意を固めているから、怖くはなかった。
踵を返す刹那、瞳子は小さく声をかける。
届くはずのない声で、大切なその宣言を。
「こうなったら、絶対に『お姉さま』と呼んでみせますから」
そして、笑った。
とりあえず、ハッピー・バレンタイン。
それが瞳子の、あの日の最後の思いで――
今年最初のSSが、2月になってしまってすみません、シオンケイです。
『クリスクロス』に関するSSは、非常に書くのが難しかったです。何となく、カンタンにSSのアイデアを思い浮かべることができない。それは単にスランプであるということもあるのでしょうが、それと同様に、いつも以上に二次創作を書くことに慎重になっている自分がいるということも大きいのであります。
どうしても自信のある予想が出来ません。瞳子がなぜあそこで、祐巳に対してあんなことを言ったのか。いつもなら、間違っていることを覚悟の上で、何となく大胆な予想をやってしまうこともあるのですが……てゆ〜か、それでこれまでSSをやってきたということもあるのですが、今回はどうしても、そういうことができなかったのです。
何というか、いよいよ私の夢が適うその日が近づいていることに対して、今さらながらに弱気になっている自分がいるようです。
いけませんな、こんなことじゃ。
ちょっと、1〜2本くらい、瞳子の周りから離れてみようかな……?
とりあえず、3月はじめくらいまでには何か書きたいな、と思います。