黒の慧眼

あの頃、あの夏の日、空は青く雲は白く蝉時雨は激しくて、俺は小学三年で叔父は大学に入ったばかりで夏休みで暇だった。

――よう、久しぶりだな、化け物。

俺の叔父への純粋だった憧憬が畏怖じみたものへ変わっていくのはこの時からだ。
そして叔父は誰もが見惚れる笑顔で俺にこう言った。

「叔父さんはやめろよ、千早って呼べ」

16 了

         *



これは、十年前の夏の話である。



俺の叔父への純粋だった憧憬が畏怖じみたものへ変わっていくのはこの時からだ。

この衝撃的な事件から今に至るまでのこの十年の間に、身の毛のよだつおぞましいことばかりを嫌という程味わわせられることになるとは、この時の俺は露とも思っていない。そしてこれからも味わっていくことになるのだろう。

俺の剣呑症が未だに治らないのは、一重にこの叔父のせいである。

今でも俺はお清めの塩ならぬ、お清めの土を風呂場に盛っている。俺の場合清めの役割を担うのは塩でも酒でもなく、土なのだ。




 あの後、住吉家に智也を叔父と一緒に送り届けた。

家に着いても意識を失ったままだったため、迎えに出たおばさんが驚いて叔父に訳を尋ねたが、叔父は毫も動揺するような素振りをみせず「川で遊び疲れて、少し一休みしている間に眠ってしまったようですよ」などと平気でのたまっていた。

叔父は自分の顔がいいのをよく理解している。おばさんの瞳をじっと見つめながら、唇にほんのりと上品に笑みを乗せると、おばさんは「それはそれは、ごめんなさいねぇ」と、まるで少女のように面映ゆげに笑って叔父の背から智也を受け取った。

俺はそんな爽やかな叔父の横顔をじっと見ながら末恐ろしいと思わずにいられなかった。

ぐったりとした智也を正面から抱きかかえて背中をとんとんと叩きあやしながら、玄関先で叔父と俺をにこやかに見送るおばさんを見て、大変申し訳ない気持ちになったのを覚えている。


 家で目を覚ました智也が叫び声を上げて、俺の名をしきりに繰り返しながら暴れていたということを知ったのは、夏休みが終わり、帰省した俺が叔父と電話で話した時だった。

川に化け物が出た、あいつのせいだと喚き散らしていたとか。

内容が内容であるし、家の者も、小学生の言うことだ、夢か何かだ、と言って取り合わなかったらしく、智也が騒ぐことで、逆に住吉家に気まずい思いをさせていたみたいだった。



あれ以来、智也とは一度として顔を合せていない。

齋藤家で過ごした夏休みの残りの期間も、彼に会うことはなかった。住吉夫妻の配慮もあったかもしれない。叔父や祖母たちも智也が騒いでいたことを知っていただろうから、彼らも気をつけていたのかもしれない。

しかし、おそらく九割、智也自身が俺と関わりたくなかったからだろうと思う。……せっかく遊び相手になってくれたのに悪いことをしたな、と今でもたまに思い出す。


 とにかく、この一件で俺の中における叔父のスタンスが変わったことは言うまでもないことであった。俺の頭の中の人物ヒエラルキーから、一人だけずれて横に突出してしまったような感じだ。

ピラミッドの中ではなく、俺の中の、他のどこかで、あの瞳を輝かせている。他の誰よりも圧倒的な存在感で。

ただ、自分をこんな目に合わせた叔父を恐ろしいとは不思議と思わなかった。

それどころか、どこか謎めいた雰囲気を纏っていた叔父の素を垣間見れた気がして、少し嬉しいような、妙な気分だった。


 叔父の背中を追うのは今も昔も結局変わらない。


 それは、この世に間違いなくあると確信した、不思議な世界へと惹きつけられてしまったからなのか……。


――――あるいは、今でも胸に焼き付いて離れない、あの言葉と、あの笑顔のせいかもしれない。


「ねぇ、叔父さんは、海にまで行ったの?」




――――すっかり泥だらけになってしまった手を払いながら、快晴の空を見上げた。




 俺たちが九死に一生を得るか否かの綱渡りをしていた最中でも、太陽は変わらず地を照らしていたのだ。智也を背負う叔父と帰路につきながら顔を上げて両腕を広げる。随分光が目に痛いが、不浄なものを全て払拭してくれそうな暖かさには救われる心地がする。太陽は偉大だ。


 叔父は、俺にこの儀式を教授したとき、最後に海に行けと言った。

あれは気持ちいい、爽快だ、と確かに言っていた。
 叔父は、海をその手中に収めたことがあるということだ。


 こんな怖い目にあってしまってはもう一度試みて自分で確かめようという度胸は生憎湧きあがってこない。しかし、海という畏怖たるべき広大な彼女を支配下に置いた気分は、想像に絶するものがある。俺の好奇心をこれでもかと煽る。ただ無性に知りたかった。


 前を行く叔父は、少し体を傾けて俺を一瞥すると、そうだなぁ、と、あの時と――この恐ろしくも神秘に満ちた「遊び」を俺に提示した時と――同じような、のんびりとした口調で言った。


「土を忘れたな」

「は?」

「最後の最後で、俺も土を忘れたんだ。持ってすらいなかったんだよ。気付いた時にはもう儀式を始めてしまってたから、どうしようもなく、手を離した」


――は? と俺はもう一度言った。


 今回のようなことを、叔父は以前にも体験したことがあるというのか。今回みたいなことを。


――よう、久しぶりだな、化け物。


 叔父がアレと対峙していたときに言った台詞が、頭を過ぎる。

背筋がぴきぴきと引き攣って固まる。

どんどんと大きさを増していく人の形をしたアレ、轟く唸り声、二つの光る目玉、それらが、脳裏にまざまざと蘇えってくる。

ぞわぞわとまた迫りくる恐怖を、ここで払拭しておかなければならないと思った。


「そ、それで、叔父さんは、どうなったの?」


 思い切って問いかける。


 答えを知らなければ、見えない結末をあれこれ最悪な形で想像してしまうと思ったのだ。そんな恐怖には耐えられない。知らない方がいいこともこの世の中にはあるかもしれない。しかし、知っておかなければならないこともまたあると、幼いながらに確信した。

川でのアレの規模を思うと海では想像するだに恐ろしい。


 
 どんな恐ろしい答えが返ってくるのかと身構えていると、叔父は血の気の引いた俺を露とも気にせず、智也を一度背負い直して、うん、と曖昧に頷いた。


そして問いには答えず振り返り、


「叔父さんはやめろよ。千早って呼べ」


誰もが見惚れる笑顔でそう言ったのだ。


                                                   


 



          *


 


 


 


 


 

15

俺は、喜べばいいのか、それとも謝ればいいのか分からず、引き攣った笑みを浮かべた。


「川に自分の姿がはっきりと映るのを見たと言ったな」


 そうしてひとしきり俺の頭を撫で終えてから、ぽつりと呟いた。

矢庭に声音を低めるから、俺も小さく遠慮気味に頷くと、ふと叔父の笑顔に暗い影が差した気がした。

条件反射的に、ぎくりとする。叔父の笑みが怖い。


 まずい。


 穏やかでない。何かよからぬことを告げられる気がする。いや、告げられるに違いない。こういう予感を外さない人だと知っている。及び腰になって、このまま耳を塞いでしまおうかと逡巡していると、それを許さぬように叔父が矢継ぎ早に述べたて始めた言葉に、俺は愕然とした。


「見えるわけがないんだ」


 ……なんだって?


「自分の姿が、水に映るわけがない。フレネル反射と言ってな、自分の位置から垂直に水面を見下ろしても自分の姿は水面には映らないんだ。そのまま水面の下が見える。自分から遠い位置にあるものでしか水面には映り込めないんだよ。どういうことか分かるか?」


 口元には相変わらず笑みが浮かぶのに、裏にちらと黒い感情が見え隠れする。

出来ることなら、逃げ出したい。


「真理が、水の中に映るお前を許さない」


 いつの間にか、叔父の瞳があの時のように爛々としている。今日何度目か分からない鳥肌が広がった。


「覚えてるか? 俺が最初にお前に水土を教えた時の……洗面器の水を覗いた時のこと。お前、一番最初に洗面器を覗いた時、はっきりと自分の姿が映るのが見えたのか?」


 ゾッとした。


 心臓が締め付けられているように痛んだ。

あの時どうだったのか、いや、俺は、俺は見たはずだ。洗面器の向こうの俺の目が生気を持って揺らめいていたのを確かに覚えている。鏡面反射だかフレネル反射だかの原理は知らないが、確かに、俺は自分の顔を、


「まず無理だ」


 叔父の冷めた声が俺の思考を遮った。


「一番初めに覗いた時、自分の影ですら分かりにくかったはずだ。垂直に見下ろすのでは、水の底しか見えない。つまり洗面器の底しか見えないはずなんだ。その底も、あんなプラスチックの洗面器じゃ対象物が映るわけがない。鏡じゃあるまいし、表面が粗いからな。光は拡散する」


 プラプラと両手を振って指先で水をはじく様な仕草をした。

 



――――そうだ。



 初めて洗面器の水を覗いた時、自分の姿なんて映ってなかった。


 薄ぼんやりと自分の影が映っていただけだった。何となく形を持ち始めたのは……そう、叔父が針金を入れたときからだ。金と水は相性がいいと言っていた。


「それなのに、なぜお前は水の中のお前と目を合わせることができたのか」


 水の中のもう一人の自分の目が確かに息づくのを見た。あの時から、俺は向こうの世界に繋がっていたのか。その次の洗面台に溜めた水でも、浴槽でも、はっきり自分の姿が映っていた。おかしいなど露とも思わず、叔父から教えてもらったこの遊びを夢中で実践していた。あの生気を宿らせていた瞳や、水面越しに触れ合っていた手の温度が実際に向こうの世界に存在していて、己が己一人でアレに対峙していたと思うと、腰が抜けそうなくらい恐ろしい。鳥肌が先ほどから止まらない。髪際がむずむずと疼いている。「金属にしたって、入れると水が鏡みたいになるとか、そんな魔法じみた性質持っちゃいない。あれは儀式の道具だ」叔父が小馬鹿にしたように笑う。


 なんてこった。


 バカでまだ小学三年生のガキである自分をこれほど悔やんだことはない。まるで魔法のように不可思議なことも、何ら疑問を抱くことなく信じきっていた。水に映る景色を何も不思議に思わなかった。そういうものだと思っていたのだ。


「……なんでこんな危ないことをおれに教えたの」

「はまり込んでたじゃねえか。一味違って面白かったろ? あの快感は滅多に味わえるものじゃないぞ」


 命を危険に晒されるくらいなら例えどんなに面白くても教えて欲しくなどなかった――とは、言えなかった。

確かに手放し難い感覚を味わった。知らない世界を垣間見るどころかそこに足を踏み入れさえした。頭で怖がっていても全身が好奇心で疼く。


 やはり叔父は普通ではない。


 アレを前に怯むどころか、愉快で仕方がないといわんばかりの気概が横溢していた。大人の世界を知っているだけの人物なら周りにいくらでもいるが、彼はまた、そんな大人たちの知り得ない非現実的な世界をも知り、そして影響している。散々な目に遭ったことは確かだが、果てしない未知の世界に関わりたくて仕方のない自分がいた。


 叔父となら。叔父と一緒ならと。


 しかし、今回のスイドについて思い馳せるていると、はたと気が付いた。


 万物のアルケーは水。


 もしかせずとも、これから水に触れる度、俺は必ず今日のことを思い出すに違いない。水を飲むには支障ないかもしれない。顔を洗うのも耐えられる。

しかし、風呂や学校のプールはどうなる?

水に自分の姿を映すどころか、己の体を沈めなきゃならない。あの化け物の巨躯が鮮明に脳裏へ浮かび上がってくる。アレに触れられたら、お陀仏なのではなかったか。


 蒼白になった。一体どうしてくれるのだ。


「おれ……風呂に入れない」


 我ながら絶望的な声音だった。


「風呂? 今まで入ってたじゃん。普通に入ればいいだろ」


 叔父が恬然として言い放った。

どこまで厭らしい性格をしていやがるのか。


「入れないよ! アレがまた出てきたらどうするのさ!」

「鉛が召喚の道具の一つにちゃんとなってるから、あれがないだけでも随分違うよ。そんな気にする程のことでもない」


 人の気も知らないで、何を言うのか。

涙もまだ乾かないまま悲痛な表情を浮かべる俺を見ながら、叔父は何でもないような顔をして、


「自分が見ようと思わなければ見えないもんだよ」


 といけしゃあしゃあとのたまり、俺を唖然とさせたのだった。

14

やがて、夢だったのではないかと思わせるほど、川は元通りの静けさを取り戻した。


 さわさわと穏やかに流れる川のせせらぎが耳に心地よいが、心臓は相変わらず激動したままだった。

頬にはまだ乾かぬ涙の跡、しゃくり上げる喉と、意識のない智也、ずぶ濡れの俺。

そして叔父。


 むしろ夢ならいいと思った。


「あれ、あれなに、なんなの」


 腰が抜けて立てず、尻もちを付いている俺を見ながら、叔父は濡れた前髪を鬱陶しそうに後ろへ撫でつけた。


「知ってるだろ。水の中のお前だよ。これは、水に土と書いてスイドという儀式でな。この辺りじゃ、昔は日照りが続くと雨乞いのためにやったんだ。まぁ本当に気の遠くなるほど昔の話だがな」

「あ、遊びじゃなくて、本当に儀式だったの?」

「こんな危険な遊びあるかよ」


 猛然と殴りかかりたくなったが、約束を破り、助けてもらった手前そういうわけにもいかなかった。だが、普通の遊びを普通に一緒に遊んでくれていればこんなことには、という憤りは払拭できない。


「……雨乞いって、あれは神様なの?」


 聞いてみると、叔父は首を振る。


「違う。神とは似ても似つかないもんだ。雨なんか降らせられるわけじゃない。ただ水の中に住み着いてる……ただの実体を持たない生き物くらいに思っておけばいい」

「生きてるの?」

「生きてると言えば生きてるし、実体のない生物なんていないと思うなら死んでるな」


 曖昧なことを言う。


「アレに触られると、水に引き込ずり込まれてそのままお陀仏だ。遺体が見つかるならまだいいが、最悪、そのまま実体がなくなる。身体ごと吸収されるんだ。そうなれば、水の中で獲物を求めながら永遠に彷徨い続けることになる。さっきの奴みたいにな」


 ……なんてものを俺に教えてくれたんだ。

それを今まで一人でやらされていたのか、俺は。

 アレより、叔父に殺されると思った。


「……おじさんが持ってきたのはなに?」

「土人形だ。土は水より強いって言ったろ? 一駅先にある氏神様の祠の傍の土をちょっと拝借した。俺の唾液と髪の毛を混ぜて、濡らした札で崩れないように固めてある。水の災難に関しては厄除けによく使われてたんだよ」


 言っていることは分かるが、破天荒な話だった。

今朝出掛けたのはこのためだったのか。一応、気にかけてくれてはいたようである。恨みが少しは薄まった。


「なんでおれたちが川に来てるって分かったの?」

「さぁ、虫の知らせってやつかな。智也と出かけたって聞いてな、悪い予感がしたんだよ。もともと土人形は作っておこうと思ってたんだが、明日にしなくてよかったな」


 今日できることは今日しないとな、と胸を張った。どのぐうたらの口が言うのか。


「川に、自分の姿は映ったか?」


 叔父が俺に尋ねながら、気を失った智也に歩み寄る。目立った怪我もないようだから、とりあえずは問題なさそうだが、事の顛末を知らない彼が目を覚ました時どんな反応をするのか不安だ。


「うん、はっきり、映ってたよ」


 濡れたシャツの裾を絞る叔父を見て、俺も倣いながら答えた。

あの恐ろしい笑みを思い出して、鳥肌が立った。


「そうか……。土はちゃんと入れたのか?」


 おれは入れたけど、と弁解のように告げた後、アレが現れるに至る経緯を話した。

叔父は聞いているような聞いていないような顔をして、時折相槌を打つ。全部話し終えると、誰にも教えるなって言っただろーが、と呆れたような口調で言われて、項垂れた。


「智也が土を入れ忘れたせいというか……。まぁ……お前がいたから呼応したんだろうな。智也は疎そうだし、初めてなら、川じゃできない」

「どういうこと?」

「アレが現れたのは、智也のあとにお前がこの儀式を始めたからだ」

「おれのせいなの?」

「うん、しかし、こんなに早く川に来れるとは思ってなかった。前も言ったけど、素質あるよお前、自信持ちな」


 てっきり、叱られると思っていた。


 生きて帰ることができるのなら説教くらい甘んじて受けるつもりだったが、目の前の叔父はずぶ濡れになりながらけらけらと笑っていた。俺の頭を乱暴に撫で回して目を細める。喜びを顔中から滲み出させたような笑顔だった。

13

――――取り返しのつかないことになる。

 


 叔父の暗い瞳がフラッシュバックした。


 肌が粟立つ。


 とんでもないことをしでかした、と思った。叔父があれだけ言うからには気をつけようと決めたではないか。きもにめいじます、ともしっかり言った。叔父にどう言い訳をしよう、と無駄なことを考えたが、もう何もかもが手遅れなのは明白だった。


 どうすることもできず、どうしていいかも分からず、俺たちがただ立ち竦んでいる間も水の人型はその大きさを増し、優に俺よりも二倍ほどの大きさになっていた。そして、ついにその重そうな図体を不器用に前へと動かし始めたのだ。


 こっちに、近づいてきている。


 訳の分からない光景だった。この世のものではない情景だった。

轟音が、びりびりと肌にまで響く。息遣いが感じられるほど、近い。尋常じゃない量の汗が体中から染み出す。息が荒くなる。米神に鈍痛を感じる。視界が滲んで不鮮明になった。

 覚悟も何もできてなんかいない。

後悔の念でもって自責する余裕などとうに失っている。

 

――――死にたくない。


 
 ただ迫りくる恐怖に身を竦めながら、思わずにはいられなかった。

それだけを必死に思っていた。


 そして、光明は差した。

 


 目の前が水で覆われようとした時、翻然として視界が黒一色に変わったのである。


「下がってろ!」


 叔父だった。


 毎日ちゃんと着替えているのか問いただしたくなるくらい、いつも同じ無地の黒のTシャツを着ていた。目の前の黒は、そのTシャツを着た叔父の背中に相違なかった。

見上げると、逆光の中凛々しい叔父の横顔が見えた。


「……おじ、おじさん」


 かろうじて絞り出した声が情けなくて泣けた。今はどんな神様よりも叔父が神々しい。


「無事か」


 もう少しで皆無事じゃなくなりそうではある、が、今はまだ何とか五体満足だ。

俺を振り返った叔父にかろうじて頷いてみせると、叔父はにっと笑って、威風堂々、巨躯へと向き直った。


「よう、久しぶりだな、化け物」

――そう言った叔父の口が、裂けるのではないかと錯覚しそうなほど吊りあがった。


 この上なく、歓喜に満ち満ちた、悦に入った表情だった。

叔父の手がふるふると震えているが、恐ろしいからではなく、武者震いのそれであることは一目瞭然だった。

 
 際限を知らずに巨大化していく水の人型を睨みつけながら、叔父が手に持っていたコンビニのビニール袋の中から何かを取り出した。目を凝らして見ると、全身が札で包まれている掌大の人形であった。札に包まれた人形なんて禍々しいような畏怖たるようなで、思わずぎょっとして叔父の顔と交互に見遣っていると、叔父が化け物に向かって、その人形を思い切り投げつけたのである。

空を切って一直線に飛んで行った人形が、化け物の頭部を直撃した。

次の瞬間、とんでもない音でもって化け物の頭部がはじけた。轟音。それは悲痛な叫び声に相違なかった。拡散した水飛沫が宙に舞い上がり落ちてきて、強い雨のように強かに俺たちの体を打ち付ける。

 叔父の凄まじい投擲を目の当たりにして、安堵に緩んでいた体がまた強張った。かなりの打撃を与えたようで、頭部のなくなってしまった化け物は体をぐにゃぐにゃと歪ませて、悶えているようだった。強烈な一撃だ。それともあの化け物は見目ほど頑強で恐ろしい存在でもないのか。

と思うが否や、耳にしたことのない、総毛立つような咆哮が全てを食い殺さん勢いで轟いた。


 ……いやいや、それはない、と己の馬鹿な考えを瞬殺した。


 化け物が苦しみ悶えている間に、叔父が袋からまた同じ人形を取り出す。今度は一本の縄で繋げられた二体の人形で、叔父はまたそれを思い切り振りかざし、投げつけた。


「去ねやオラァ!!」


 俺ギャン泣き。
智也は卒倒。


 そして叔父は狂ったように笑っていた。


 それぞれの端に二対の人形を伴う縄が、化け物の頭部のない体に触れるのを見て、またはじけるのかと思い身構える。


 おおおおおおおおおおおお――


 途端、鼓膜が破れるのではないかと思う程の一際大きな咆哮が轟いた。堪らず耳を押さえる。

縄の両端に括り付けられた人形が、化け物をくるりと囲むように互いに交差し、それから何度もくるくると奴の周りを回っているのが見えた。意志を持って動いている人形が、縄で奴を縛っているのだ。追うようにまた咆哮。揺れる大地。ざわめく木々。


 化け物は、一瞬肥大化したと思うと、凄まじい音を立てて破裂した。水が俺たちの体に勢いよく降りかかる。


 数秒後、晴天の中、辺り一面、雨が通り過ぎた後かのように濡れていて、あの化け物も、叔父の投げたあの人形も何処にも見当たらなかった。

 

12


「目をはなしちゃいけないことと、手を沈めないことと、土を入れること、ぜったいに忘れちゃだめだよ」

「うん、わかった」

 
 智也の表情には、疑心が見え隠れしていた。

 当然だ。ただ、水の表面に手を触れさせるだけ。

それなのに守らなければいけない事柄は多い。


 一体これのどこが面白いのか、聞いただけでは全く分からないからである。まして、小学三年のガキが説明するのだから、説得力も面白みにも欠ける。

 
 俺は智也の表情に納得がいかなかった。つまらないと思われているという焦りもあった。智也の気が変わらないうちに、急いで事を行う必要があった。

 
 智也の手を引っ張って山に戻ると、土をできるだけ多くかき集めた。ビニール袋がないから、服の裾を持ち上げてそこに土を乗せると川まで慎重に運ぶ。それぞれ川べりの適当な場所に落ち着くと、そこから手が届く位置に土を置いた。


「智也、準備はいい?」

「うん」


 十メートルほど離れた場所に智也は座っていた。あぐらをかいて、川を覗き込んでいる。


「じゃあ、手のひらをつよく広げて、川につけて」

「……こう?」

「そう」


 俺は説明をしながら、智也の様子を窺うことに徹していた。智也がしっかりやっているのを見届けて、後から自分もする心づもりでいた。智也がきちんと掌を川につけるのを見て、ズボンのポケットから鉛玉を取り出した。蔵のものだ。お守りのように肌身離さず持っていた。少々重いが、ポケットに手を突っ込んで鉛玉を触ると気分が高揚したので、気に入って持ち歩いていたのである。


 その鉛玉を川にぼちゃんと落とした。


 それから、必死にあの時の叔父の言葉を思い起こす。


「智也、智也が触れている水は、いま、智也が自由に変化させることができる個体になってるんだよ。スライムといっしょだ」


 智也は川に見入ったまま黙っている。


「それから、えっと……、水の中に自分が見えるだろ? それは、水の中の世界に住む、もう一人の智也だ」


 言いながら、俺も早く取り掛かりたいと気持ちが逸る。


「智也は、そのもう一人の智也が住む水の世界のてっぺんに立つ、支配者なんだ」


 フィニッシュだ。叔父に比べるとぎこちないが、これでいいはずだ。


 智也は相変わらず、川に見入ったまま動かない。


 その様子から察するに、どうやら儀式は成功しているようだ。あの快感を、まさに今智也も味わっているはず。


 心が急く。

 
 あの時の言い知れぬ悦楽を思い出して、身震いをした。

 
 川に向き直る。掌を水に付けた。目を瞑る。個体。水の世界。支配。大きく深呼吸をする。

 高鳴る鼓動に身を任せ、目を開けた。

 

 水の中の俺が、恐ろしい笑みを浮かべていた。


 

 ぐにゃり、と水面の顔が歪んだ。

 
 心臓が止まりそうになるほど驚いて、思わず水から手を離した。自分の顔を手で触る。どうにもなっていない。歪んだのは、水の中の俺の顔だった。


 気が付けば、穏やかだった川の流れが荒くなっていた。水しぶきをあげ、高い波を作りながらものすごい勢いで流れている。


どういうことだ。何が起こったのか理解できない。俺は何もしていない。普段通り、手を水につけて、目を瞑り、目を開けて……。


 ハッとした。


 智也を見た。


 彼は川から離れて、尻もちを付きながら川の轟音に怯えている。


「智也!」


 あらん限りに叫んだ。

 智也がびくりと肩を揺らして、俺を見た。その俺を見る目までもが、恐怖に満ち満ちていた。瞬時に直感した。駆け寄って、肩を強く掴む。

「智也……何かしたのか!」


 何か失敗をしたのだ。やってはいけないと言われていたことをしてしまったんだ。

 智也がか細く震える声で言った。


「とちゅうで怖くなって、手をはなして逃げた」

「土は!?」

「い、いれてない」


 愕然とした。

川の水が大きく渦を巻き始めた。

おおお、と腹に響く重い音が鼓膜を振動させたかと思うと、渦の中心が持ち上がり、俺と同じ大きさの人が水の中から現れた。


 いや、正確には人の形をした水だった。


 茫然とする俺たちの目の前でおぞましい咆哮を上げ、頭部から水が絶え間なく流れ落ちている。


 いや、違う、頭部へと向かって川から水が逆流していた。


 大きさを増している。その頭部に二つの並んだ光源がある。目玉に違いなかった。



――――取り返しのつかないことになる。



叔父の暗い瞳がフラッシュバックした。

 

 

 

 

最新記事
カテゴリー
ギャラリー
アーカイブ
  • ライブドアブログ