みなさん、
おはようございます
こんにちは
こんばんは

こちらイギリス南部、朝9時現在の気温は15度、なんだかさみしい季節がやってまいりました😿

天気が悪く、特に冬は暗~い時間が長~いイギリスでは、 老若男女、昔からボードゲームが大好き。
我が家にもいろいろなところからおさがりがやってきて、 30箱以上のボードゲームがあります。

ボードゲームにつきものなのがサイコロ。
サイコロを振ったとき、日本語では、 ♬何が出るかな、何が出るかな♪ですね。
英語だと、『サイコロで3が出た』と言いたいときは、
I rolled a 3. や  I threw a 3  . といいます。 (『自分が3を出した』感じ)

主語を欠かせない英語は、『誰が』何をしたのかがとても大事です。風景の中に必ず自分がいます。 一方、主語を必要としない日本語は、そうであるという『状況』に着目します。風景の中に自分を入れません。

日『給食に魚がでた』→英『自分が給食で魚を食べた』
日『星が見えた』→英『自分が星を見た』
日『けが人がでた』→英『誰かがケガをした』

同じ状況を話しているはずなのに、実は見えている風景(脳の認知の仕方)は☟これだけ違うんです。

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→日本語で見える風景
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→英語で見える風景






行動の出どこを敢えて言わないようにする日本語に 操られれば、
社会全体で主体性や当事者意識を持たなくなるのは当然のことに思えてきます。
いろいろな社会問題が他人事にしか見えないのも仕方ないのかも?
運と偶然に頼るしかないサイコロでさえ 英語の眼鏡をかけると
♬(あなたは)何を出すかな、(あなたは)何を出すかな♪

ですね(^^;主体性と自主性に満ちている気がしてなりません。

学校ではずーーーと、日本語の眼鏡をかけたまま無理やり英語を見るように訓練されてしまいますが、
英語を見るときは英語の眼鏡をかけると世界は違って見えてきます。

英語を話すということは、

日本語で言えることを
英語でも言えるのではなく、

日本語では言えないことを
英語だから言える


ということだと思うのです。(ちょっと小難しく聞こえますが、これ、ある一定期間私のレッスンを受けてくださった生徒さんの多くからいただく感想ですウレシイ☺)