コラム

2014年01月30日

インドに帰ろう

  子供たちの表情

「まいった魚は目を見りゃ判る」魚屋さんで良く聞くせりふです。子供たちの目や表情を見るとその国の雰囲気をうかがい知ることができます。

日本の子供たちの表情は、ゲームに夢中か決まった友達としか目を合わせません、知らない大人の人とは、目を合わさないように学校や家庭で教育されているのでしょう。

 

2013年12月天皇・皇后両陛下がインドを訪問され、インドの子供たちが日の丸を振って歓迎している模様がテレビで報道されていました。また、2014年1月には安部首相がインドを訪問され、地下鉄などをセールスされているホテル内の映像が報道されていました。

インドは人口約13億人、近々世界一の人口国になると云われています。
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【 写真1:印象的な子供の表情 】
2013年11月、インドを少し旅行しました、帰国後、テレビ映像とは違うインドの子供たちの表情をよく思い出します。
 

  興味津々の子供たち

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【 写真2:日本語の説明を熱心に聞く学生 】
子供達は、外国の情報にも興味津々、向学心旺盛です。

日本人観光ツアーも興味の対象です、たぶん、日本語は解らないと思われますが、熱心にツアーガイドの日本語での説明を聞いています。自分の目でしっかり見ています。

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【 写真3:日本人観光ツアーグループを見学する子供たち 】

  選挙の投票を呼びかけをする学生たち

町の選挙が近いようです、学生たちは、投票に行くようプラカードを掲げて通行する車などに訴えているとガイドさんが教えてくれました。学校からの指示のようです。
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【 写真4:投票に行くようプラカードで訴えています 】

  子供たちは勉強します
 

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【 写真5:すこし郊外の通学の風景 】
少し郊外では、学校に行く公共交通機関が整備されていません。知り合いのおじさんが車で運んでくれるのでしょう。

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【 写真6:遠足の風景・・裕福な家庭の子供たちでしょうか 】

  大人たちは

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【 写真7:ニューデリーの通勤風景 】
ニューデリーの街中も、公共交通機関が充分に整備されている訳ではありません、数年後には、日本のODA地下鉄が出来るのでしょう。

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【 写真8:ニューデリーの通勤風景 列車から人があふれています 】

  街中では
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【 写真9:観光タクシー 】
街中の雑踏は、日本では想像出来ません。
 

道路には、高級車から人力車まであらゆる種類の車が走っています。車だけではありません、牛、象、猿、犬、ラクダなども闊歩しています。

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【 写真10:街中の雑踏 】

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【 写真11:街中は象も通ります 】

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【 写真12:街の散髪屋さん 】

 

  タージ・マハルは美しい

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【 写真13:街道の風景 】
タージ・マハルがあるアグラは、ニューデリーから約200km南にあります。写真13は、途中の街道の風景です、乗車人数の制限はありません。写真14は、車窓からみた道路脇の牛、写真15は、水牛のフンを乾燥させています、燃料として売るのでしょう。

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【 写真14:街中の風景 】

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【 写真15:水牛のフン 】

こうした風景を見ながら、タージ・マハルに着きました、入場料だけでなく、損傷防止のため、厳しい持ち物検査がありました。 

徳川家康大納言のお墓「日光東照宮」も世界遺産ですが、マハル妃のお墓も、「美しい」の一言です。

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【 写真16:タージ・マハル 】

  日本人、インドに帰る

インドは、「空気を吸っただけでお腹が痛くなる」とよく云われます、街中には動物のフンだけでなく様々な臭いがします。 

こうした臭いや人間臭さは、昭和の日本にはあったのでしょう、インドにはまり何度もインドを旅行する日本人が多くいると聞きます、現在の日本にない郷愁のようなもの求め、「インド帰って」いるのかも知れません。
      
                   (By:M.Nakao)





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2013年11月26日

モンゴル・・じぇじぇじぇ(下)

  JJ 8  ウランバートルのアパートメント地区とゲル地区

ウランバートル市内は、国会議事堂を中心とした電気、水道、下水、道路等インフラが有る程度整備されたアパートメント地区とその外周に水道や下水が整備されていないゲル地区で構成されています。
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[ 写真20 ウランバートル市内の風景 ]


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[ 写真21 ウランバートル郊外のゲル地区の風景 ]


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[ 写真22 ウランバートル郊外のゲル地区の風景 ]


 ゲル地区には、電気は供給されていますが、水道は供給されていません。

住民は、上下水道公社が営業する給水拠点(キオスク)まで20〜30箸離織鵐をもって買いに行く必要があります。

モンゴルの公務員の平均月給は、約3万円だそうです。

キオスクの水の値段は、30般鵤憶澆汎本の水道の値段と遜色有りませんが、給料水準を考慮すると、高額です。
水キオスク2
[ 写真23 給水拠点(水キオスク)の写真 ]


 ゲル地区のトイレは、共同トイレが多く、定期的に上下水道公社のバキュームカーで汲み取り下水処理場まで運んでいます。

郊外のゲル住民は、近くに穴を掘りトイレとしています。

トイレ トリミング
[ 写真24 草原のトイレ ]

一人あたり使用量
[ 図4 アパートメント地区一人当たり一日の水道使用量(上下水道公社資料より) ]

一人あたり使用量 ゲル地区
[ 図5 ゲル地区一人当たり一日の水道使用量(上下水道公社資料より) ]


水キオスク ガイドさん説明
[ 写真28 キオスクで水を買う人 左はツアーガイドさん ]


 
JJ 9  アパートメント地区とゲル地区 水道の使用量

 

アパートメント地区とゲル地区では、水道の使用量が大きく異なります。

図4は、アパートメント地区の水道使用量の推移のグラフです。

アパートメント地区の一人当たり一日の水道使用量は、日本とほぼ同じ約300伴紊任后⊃羯、洗濯、風呂、水洗トイレと日本人には理解し易い使用量です。

 

 

 一方、図5は、ゲル地区の水道使用量です。

赤いグラフは、水キオスクまで送水管で水道水が供給されている場合で、青いグラフは、給水車(トラック)が水キオスクまで運んでいる場合の使用量です。

ゲル地区の一人当たり一日の水道使用量が、約6〜10箸箸覆辰討泙后

水道普及率97.6%(2011年)の日本人から見ると、相当不便な生活をしているのではと心配になります。

 

 

  JJ 9  ウランバートル市民の水道に関する意識調査

 

JICAは、資金協力援助を行っている関係から、モンゴル・ウランバートル市民の水道に関する意識調査を2011年に行いました。

図6は、アパート地区とゲル地区の水道についての意識調査です、ゲル地区の方が良いが約93%、悪いがありません、ゲル地区では不平・不満があまり感じられません。

一方、アパート地区では、良いが70%いますが、悪いが6%もいます。

ゲル地区の住民は、水道に対して相当不満があると思っていた私の心配は間違っていました。むしろ、アパートメント地区の住民の不平不満が感じられます。


給水サービスに対する満足度
[ 図6 水道についての意識調査(JICA報告書より) ]

 

次に、水道についての、住民の要望の調査結果では、ゲル地区住民は、水キオスクまでの距離や運搬する時間、給水車の時間などの要望が強く、水量の要望も34%あります。

一方、アパート地区の住民は、時々減圧給水となるのか水圧や安定性を求めています。
市民の苦情や要望

[ 図7 水道についての要望(JICA報告書より) ]

 

 

  JJ 10  幸福な国民とは?

 

今回出会ったモンゴルの人達や、街中やスーパーマーケットのモンゴル人達を見ると、生活環境に対する不平不満は、あまり感じません、自分は、現在幸福であるといった意識を持っているのでしょう。

国民の幸福度をOECDが発表しています、これは、住居、インフラ、環境、安全性、といったいくつかのカテゴリーを数値化し総合国別ランキングとして発表されています。上位には、オーストラリア、スエーデン等、日本は20位ぐらいとなっています。

また、国民に直接アンケート調査を行い、幸福度を調べたランキングもあります、上位には、バハマ、ブータン、ブルネイなど、モンゴル59位、日本は90位となっています。

のどかな田舎の風景
[ 写真25 のどかな郊外の風景 ]

道路端のお店2
[ 写真26 郊外の店 ]

街中の風景
[ 写真27 街中の風景 ]

 

 

  JJ 11  インフラの整備と国民の幸福度

 

インフラの整備状況と国民が感じる幸福度は異なるようです。

 日本語の達者なツアーガイドさんと何回も食事を一緒しました。

 多くのモンゴル人は、海を見たことがないそうです、海を見てみたいと云う希望はあるが、海を見ることを目標にしている人は少ないそうです。テレビなどで見ることができるのでそれで充分と考えている人が多いようです。

 

 

 

 水道インフラについても、概ね現状で充分と考えている人が多いようです。

Good Enough 」“これで充分”と訳されますが、「 住めば都 」と訳した方が合っているような気がしました。

 近年、水ビジネスと称したプロジェクトの話を聞きます。日本人は食べていくために、或いは、自分達の欲求をとめどなく満足させるために、飽和した国内から海外に展開するビジネスは、当然の成り行きと考えられます。

ただし、グローバルスタンダードやジャパンスタンダードの物差しで、海外展開が推し進められないことを願います。現地の秩序を乱さないような配慮が欲しいと思います。

 また、近年、国際貢献として、日本の自治体の海外進出の話も聞きます。水道事業体も同様です。

水道の水質管理は、健康被害や衛生管理上非常に重要です、日本の水道事業体がビジネスとは切り離し、品質管理や技術指導の観点から国際貢献することの重要性を感じました。

チンギスハーン像(国会議事堂前)
[ 写真29 国会議事堂正面のチンギス・ハーン像 ]


チンギスハーン像(テレルジ公園)
[ 写真30 エルデネ村のチンギス・ハーン像テーマパーク ]

 

最後の写真29、30は、チンギス・ハーン像の写真です。

チンギス・ハーンは、1162年に生まれ1227年に落馬か急病で亡くなったとされています。66才で亡くなった訳ですが、没後、780年以上経ってもモンゴルの象徴として現役であります。


(完)   
(文責、写真:M.Nakao)


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2013年11月12日

モンゴル・・じぇじぇじぇ(中)

  JJ 5  モンゴルの人達の気質と女性労働

私が接したモンゴルの人達の気質は、横綱「白鵬」(白鵬ファンの自分です、成田からの行き帰りが同じフライトでした。)に代表されるように、謙虚、努力家、真面目、我慢強いと云った好印象でした。

特に感じたのは、どこへ行っても女性の働く姿があったことです。

今回、私たちを案内してくれたガイドさんも女性で、大学でロシア語の先生をしていたが学生がいなくなり、日本語を勉強しガイドをしていると云ってました。

女性の社会進出を尋ねると、ほとんどの女性が働き、子供は3〜4人育てており、専業主婦は、ほとんどいないとの事でした。

下水処理場 女性達
[ 写真8 左から、通訳、下水職員2名、
             後ろ向きの人は上下水道公社職員 ]

 

 

上下水道公社職員の案内で、ウランバートル中心から西に2〜3kmのところにある下水処理場を視察しました。
下水処理場の職員も女性で、お昼の12時半過ぎまで丁寧に処理場を案内してくれました、事務所内では、彼女の5〜6才の娘さんが母親にまとわりついていました。

下水 会議室説明

[ 写真9 下水処理場の職員(左)と通訳(右) ]

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[ 写真10 下水処理場 ]

  JJ 6  ウランバートルの水道水源

 

ウランバートル中心から東に約50kmのところにある上水道の水源を視察しました。

幹線道路は、概ね鋪装されていましたが、いたるところに穴が空いていて大変な悪路です。バスのドライバーさんは、右に左にハンドルを切ります。歯を食いしばり、座席にしがみついたままの2時間でした。

広い水源地入り口は、警察のパトカーが厳重に警備していました。事前に顔写真の提出が義務付けられ、入り口では名簿と突き合わせをしていました。


上流水源地3
[ 写真11 上水道水源地 google mapより ]

上流水源池 パトカー 文字入り
[ 写真12 上水道水源地 パトカーが警備 ]

 

写真12の右上に見える小さな白い点々が、取水ポンプ井です。

以前取水ポンプ井戸は、39井ありましたが、供給量不足となり、JICA支援で2006年、新たに16井整備され、現在は55井あります。

写真13は、日本への感謝の碑前での所長説明風景です。

水源地 所長 説明
[ 写真13 上水道水源地 JICA協力の碑前 左は通訳 ]


水源地 ポンプ室
[ 写真14 上水道水源地 ポンプ室 ]

 

水源池 監視盤
[ 写真15 上水道水源地 ポンプ監視盤 ]

 

ここで取水された水道水は、700mmの配管2条で50km先のウランバートル市内に送水されています。配管の埋設深さは、約3.5mのだそうです。

 

 

  JJ 7  観光にも家族全員で手伝います。

 

ウランバートル中心から東に約40〜50kmにテレルジ国立公園があります。ここにくれば、観光ゲルに泊まり乗馬を楽しむことができます。最近、日本人観光客が多く訪れるそうですが、ゲル内でのおもてなしも、お母さんの仕事です、ここでも、ちいさな子供が母親の廻りをまとわりついています。中学生ぐらいのお兄さんとお父さんは、馬の世話や乗馬の指導をします。


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[ 写真16 ゲル内でのおもてなし(自家製のチーズやヨーグルトなど) ]

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[ 写真17 おもてなしを受けたゲルとお嬢さん ]

乗馬の親父と奥さん60
[ 写真18 観光乗馬も家族で手伝います。 ]

観光ゲルの親子 トリ
[ 写真19 観光ゲルの親子 ]
 

 

写真19は、一晩お世話になった観光ゲルのオーナー親子です。
手を振って見送ってくれました。

 

続きは『モンゴル・・じぇじぇじぇ(下)』にて掲載します。


 

(文責、写真:M.Nakao)



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2013年10月18日

モンゴル・・じぇじぇじぇ(上)

2013年、日本では驚いたとき、「じぇじぇ、じぇじぇじぇ(略称JJJ)」と云う言葉が流行しています。

モンゴルに行ってきました、無知なだけですが個人的に感じたJJを紹介しましょう。

モンゴル地図(日本入り)

[ 図1 モンゴルの位置(googlemapより) ]

 


 


 
JJ 1  モンゴルは広いのか、狭いのか?

 

モンゴルの国土面積は、日本の約4倍と広いのですが、人口は日本の1/40約286万人(2012年)です、茨城県の人口が日本の4倍の国土に住んでいます。

首都のウランバートルの人口は日本の川崎市に近い約131万人(2012年)で、国の人口の約50%が首都に集中しています。

国全体では広い草原のイメージですが、ウランバートルは雑踏の街です。

道路渋滞状況

  [ 写真1 ウランバートル市内の交通渋滞 ]


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  [ 写真2 ウランバートル市中心の宮殿(国会議事堂) ]


 

 

  JJ 2  日本大好き

 

ウランバートルのチンギスハーン空港を降りて驚いたのは、日本車の多さです、見た目には80%が日本車です。

その多くは右ハンドル(中古車?)で後ろのバンパー等に**神社、神*川トヨ**トなどステッカーが自慢げに貼られています。

チンギスハーン空港
  [ 写真3 チンギスハーン空港 ]

 

ガイドさんに尋ねると、自動車だけでなく日本製品に大変な信頼とあこがれがあるそうです。「やっぱり韓*製、さすが日本製」との評でした。

ウランバートル中心部にトウキョウストリートの名称の通りがあります、ガイドさんは、「町中の道路状態は非常に悪いが、この通りは痛むことなく町一番の評判の通りです、もっと日本から道路を造りに来て欲しい」、と云ってました。


東京ストリート地図
 [ 写真4 市内の地図(現地パンフレットより) ]


東京ストリート
 [ 写真5 トウキョウストリートの風景 ]

 

 


トウキョウストリート道路標示
 [ 写真6 トウキョウストリートの道路標示 ]

 

ノモンハン事件など過去には、反日のモンゴル人もいたようですが、相撲の影響などもあり、非常に親日と感じます。

トルコやポルトガルの人々も非常に親日と感じましたが、モンゴルの人々はそれ以上に感じました。

 

 


 
JJ 3  ロシア、中国好かれてません?

 

地勢的にモンゴルは、北にロシア、南に中国という大国に挟まれ、常にプレッシャーを受けています。

歴史的には、12世紀から13世紀にかけ、大モンゴル帝国を築きましたが、その後、清(中国)に征服され、ソビエトの侵攻やペレストロイカの影響等を経て、1986年に社会主義国家から現在の議会制国家に転換しました。

ゲルの事を中国語では、パオ(包)と呼びますが、モンゴルでは絶対にパオとは呼びません。


ゲル図 ゲルゲル図 説明
[ 図2 ゲルの構造(地球の歩き方より) ]

 


博物館など様々な所で最大勢力図のポスターを多く見かけます。現在でもモンゴル人たちの自慢となっています。フビライ・ハーンの時代に日本に2回攻め込んで見ましたが(元寇)、2度とも失敗し日本を勢力下に入れることが出来なかった、このことも、日本を尊敬する理由になっているようです。


モンゴル帝国最大勢力図

[ 図3 モンゴル帝国の最大勢力図(12〜13世紀)(ウキペデイアより) ]

 



 

  JJ 4  KARAOKEには注意しよう

 

看板やネオン広告で、漢字やハングル語は見かけませんが、やたらに「KARAOKE」のネオンは見かけます。韓国人が始めた「いかがわしい店」のようで、このことも韓国人の印象を下げている一つのようです。

最近は、日本人がイメージするカラオケバーも有るようですので、事前調査が欠かせません。


カラオケ
[ 写真7 KARAOKE ネオン広告 ]

 



 続きは『モンゴル・・じぇじぇじぇ(中)』にて掲載します。


(文責、写真:M.Nakao)





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2013年01月30日

サウザーデなタクシードライバー(後編2/2)

  ロカ岬(水道橋ではありませんが、ちょと寄り道)

 

AQUI...ONDE A TERRA SE ACABA  E O MAR COMEçA

「ここに地終わり、海始まる」ユーラシア大陸最西端です。


 地球は丸く、ロカ岬から西へ西へと行くとアメリカ大陸に到達すると
学校で教わった私には、昔のマゼランのような感慨は出てきませんでし
たが、「最西端到達証明書」は、記念に発行してもらいました。

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 【 写真7 ロカ岬に立つ碑文 】

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 【 写真8 ロカ岬 】

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 【 写真9 最西端到達証明書 】



 * リスボンのタクシードライバーさん ありがとう

リスボン地図大ー2 地名・線
 【 図4 リスボンの地図 】 


 

リスボン市内でも、バスの車窓から美しい水道橋を見つけました。

自由時間に少しでも近くで見てみたい衝動にかられました。

事前の計画では、天気が良ければリスボン中心部散策の予定でした。
が、家内にお願いして急遽計画変更です。


 リスボンでは、最も眺望が良いとされている、エドウアルド7世公園
のレストランで昼食を済ませ行動開始、少し話が細かくなります。

リスボン地図ー2 丸数字
 【 図5 リスボンの地図 】

 レストラン(|賄澄砲妊織シーが拾える場所を教えてもらい、近く
のデパートの前まで行く(地点)、なかなかタクシーが来ない。

 やっと来たタクシーに地図を広げ目指す水道橋付近を指し、「アクア
・ブリッジ」と云う。OKとなり、オプショナルツアーが始まりました。
日本では、車検が5回以上クラスの車に見える。

 

 車内で「ベストビューポイント・ストップ」とカメラを見せる、ドラ
イバーは、とまどいを見せながら幹線道路を走らせる。


 目的地近くになり、タクシー車内からばっちり水道橋が見える、
「ストップヒア」と云う、「ノー**#$%&・・(ポルトガル語)」
と返事、「ライトターンヒア」と云い幹線道路から脇道に入りのろのろ
と走りよそ様の駐車場を見つけ、止まってもらう。


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 【 写真10 C賄醒鷦崗譴茲蠍上げる 】

 ドライバーさんは、降りてきて、写真を撮ってあげると云う、1〜2
枚撮ってもらう。


 「アナザーベストプレース、メーターコンティニュー」と云うと、
思案していたが了解してくれ、のろのろと、車は走り出し、水道橋の下
をくぐり抜け、西の方に登っていく。


 美しい光景が見えた、「ストップヒア」今度は路地道で路肩に駐車
出来た。


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 【 写真11 っ賄世ら見た水道橋 】


 写真を撮った後、更に「アップ(登ろう)」と指示、彼は、私の目的
を完全に理解し、もうことばは必要ない。

車は、一方通行の坂道を登った。


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 【 写真12 ッ賄澄/綟算楡澆蕕靴ど住ァ中には入れない 】

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 【 写真13 ッ賄世らの風景 】


 更に「アナザープレース」と云うと、彼は「ディフィカルト・・・
*#$%&・・(ポルトガル語)」とお客様の希望を叶えようとつぶ
やきながら、一方通行の道を走り、先ほどのっ賄世両し高いところ
まで行った。


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 【 写真14 γ賄世らの風景 】

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 【 写真15 γ賄世らの風景 】

ここからは、邪魔な建築物もなく、太陽も左側からで逆光ではな
い、それなりに、満足できる写真が撮れ、これ以上は諦め、突然
思い立った水道橋見学ツアーを終了することにしました。

 

ドライバーさんに、リスボンの地図の市街地中心を示した、彼は
やっと、変なミッションが終わったことを理解しほっとしたよう
な顔をして、車を走らせた。


 しばらく走ると、ドライバーさんが「ベストビューポイント・リ
スボン・・・」と云って車が止まった。

しかしそこは、スタートしたレストラン(地点)のところであ
った。


IMG_4773-1トリ
 【 写真16 地点からのリスボン市内の風景 】

 振り出しに戻ったところで、天気も良いので、市街地中心までタ
クシーで行かずに、ここで車を降りることにした。


 タクシーメーターは、11.6ユーロ位(安い!!)
15ユーロ(1,660円位)を家内が渡すと、彼はお釣りの準備
を始めた、「ノー・チップ」と云うと、驚いたような顔をし、満面
の笑みで「サンキュー」と云った、私は、「ありがとう」と日本語
で云った。


 握手をして別れたが、「ディフィカルト・・・**#$%&・・」
と変なジャポネのために一生懸命、右往左往してくれ、大柄だが人の
良さそうな彼の写真を取り忘れたことに悔いが残ったが、なぜかサウ
ザーデを感じたオプショナルツアーであった。
 

リスボンの街は、1755年マグニチュード8.5〜9の大地震と
巨大津波に見舞われたところである。

 約250年経ち、″なまず″が目を覚まさないか心配である。 
                         (以上)

                          


(By:M.Nakao)

 



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2013年01月21日

サウダーデなタクシードライバー(前編1/2)

格安ツアーも自由時間を有効に活用すれば結構楽しむことが
できます。 今回は、ポルトガルツアーのお話しです。


 日本とポルトガルは、歴史的にも貿易、宗教など付き合いは古く、
ポルトガル人も日本人に対して友好的です。
ポルトガルやポルトガル人をサウザーデとよんでいます。
サウザーデは、
「懐かしさ」「郷愁」「ノスタルジー」「孤愁」などと
日本語に訳されています。


 ポルトガルの地形は、ユーラシア大陸の最も西にあり大西洋とスペイン
に囲まれていますが、陽気なイタリア人、情熱的なスペイン人とは、
相当異なった印象を受けます。


 古来、イベリア半島の最西端ロカ岬から、海の彼方に何かを求めたのでしょう。13世紀のマルコポーロや15世紀のバスコダガマ、16世紀のフランシシコ・ザビエルたちは、どのような気持ちで未知の大海に漕ぎ出して行ったのでしょう。
ポルトガルの地図-4
  【図1 ポルトガルの地図 Google Mapより】


  コインブラ

  話は私自身に変わりますが、40数年前、京都の南禅寺に行った折、
水道橋の美しさに感動しました。
それ以来、水道橋を見ると嬉しくなってしまいます。
ヨーロッパには多くの水道橋が残されています。ポルトガルでも見ることが出来ました。
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  【写真1 京都・南禅寺】


コインブラは、学生の街です。コインブラ大学は、ボローニャ、
オックスフォード、ソルボンヌと並ぶヨーロッパ最古級の大学です。
 
 学生だけが黒マントを着ることが出来るそうです。
日本の鎌倉時代に黒マントの学生がコインブラの街を闊歩していた
ことを想像すると、歴史を感じる街です。

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  【写真2 コインブラの学生】

コインブラ航空写真ー2 地名・線
  【図2 コインブラ航空写真 Google Mapより】


コインブラ大学に向かうバスの車窓から、水道橋が見えました。
ここでチョット止まって欲しいと思いましたが、団体旅行、叶いません。


 大学や博物館の見学の後、ほんの少しの自由時間がありました。
水道橋の位置、距離をイメージし、20分あれば見て来れると判断し、
集合場所で家内と待ち合わせる事にし、坂道をダッシュ、何枚か水道橋
を写真に収めることができました。

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  【写真3 コインブラ大学前】

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  【写真4 コインブラ大学前】


  オビドス

リスボンから北へ約100kmのところに、オビドスと云う街が
有ります。中世の城壁に囲まれたおとぎの国のような小さな街で
「谷間の真珠」とも云われています。


 ここにも、水道橋が有りました。あいにくの天気で、残念でしたが城壁の上から写真を撮ることができました。

オビドス航空写真ー2 地名・線
  【図3 オビドス航空写真 Google Mapより】

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  【写真5 オビドス】

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  【写真6 オビドス】


 まだ、ポルトガルの水道橋の話は続きます。
 次回後編にて報告します。



(By:M.Nakao)




 



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2012年02月06日

伊風建築

私は、建築については門外漢ですが、コンクリートの家より和風建築の方が好きです、経済的に余裕があれば、檜造りの家に住みたいものです。

民族衣装と同様に、家造りも国によって様々です。イタリアのこの建築をここでは、自分かってに「伊風建築」としました。


 

     アルベロベッロ

 

イタリア南部にアルベロベッロと云う町があります、15世紀末ごろ、この町の人々は、家税を逃れるため、国の役人が来たときすぐに壊せる家造りをしたと云われています。
図1 南イタリアの地図
【 図1 南イタリアの地図 Googie Mapより 】


この地域の地盤では、キアンコレと呼ばれる、層状に圧縮され水平に剥がれやすい石灰石を簡単に掘り出すことができました。

人々は、この石を使って、「一つの部屋に一つの屋根」の家を造り生活をしました。
写真1 アルベロベロの町
【 写真1 アルベロベッロの町 】

 

     トゥルッリ

 

「一つ部屋一つ屋根」のことをトゥルッロと呼び、複数では、トゥルッリとなるそうです。

壁、屋根すべて、石灰岩のキアンコレで造られています、屋根は、黒っぽく変色し白い壁と美しいコントラストを見せています。また、屋根には猫もいました。
写真2 路地
【 写真2 路地 】

写真3 屋根の猫チャン
【 写真3 屋根の猫チャン 】

 

     トゥルッリの構造

 

どう云う風に造られているか興味がわきます。図2は、簡単な断面図です。屋根裏もはしごがあり、有効に使われています。

壁の厚さは、80冂あり、断熱効果抜群だそうですが、明かり取りには多少難があるようです。
図2 トゥルッロの断面図
【 図2 トゥルッロの断面図 】

 

     屋根の頂上のシンボル

 

一軒一軒、屋根の最頂部が異なっています、てっぺんは、「ピンナコロ」と呼ばれ、自分の家を見分けるためと神に見立てて崇めたと云われています。
写真4 トゥルッリの最頂部
【 写真4 トゥルッリの最頂部 】


図3 主なピンナコロ
【 図3 主なピンナコロ 】


 

     屋根に描かれた不思議な紋様

 

一軒一軒、屋根に不思議な紋様が描かれています。「ピンナコロ」と同様に自分の信じる宗教や神を崇めるため描かれているそうです。
写真5 屋根の紋様
【 写真5 屋根の紋様 】

図4 屋根の紋様図
【 図4 屋根の紋様図 】


 

     美しい世界遺産

 

私が訪れた時、観光客はいましたが、残念ながら住民の方々は、ほとんど見かけませんでした。しかしながら、各トゥルッリには小家族が生活されていることは伺えました。

何世紀もこの美しい町並みで生活が営なまれてきたことが、トゥルッリの住み心地の良さの証でしょう。

この先、何世紀もこの美しい「伊風建築」が残されることを願ってやみません。


 


(文責、写真:M.Nakao)


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2010年04月06日

ルーツ

IMGP0163

【 ルーツ 】

 この間、とは言っても3ヶ月ほど前になるが旅に出た。


 私しゃ前からかみさんに、いつか一度ルーツ調べの旅に行くと
言っていたのだ。

そうしたら、かみさんが急に『(いついつ〜)に出掛けるよ。』
と言い出した。

なぜか、かみさんは私しゃの生家が絶家になりそうだと気にして
いたらしい。


 私しゃの旧姓は久留栖と言う。

兄が癌を発病し、余命いくばくとなったのでせめてもと思ったの
だろう。
旅先は和歌山県だ。


 私しゃ、小さい頃に、親父の出は和歌山、お袋は富山と聞いていた。
そんな訳で戸籍を取り寄せ、どの辺に住んでいたかも調べてあった。

親父もお袋も、和歌山生まれでよく和歌山のことを話していた伯母もいない。(もっとも私はあまり近寄らなかったが)雲をも掴むである。


 戸籍を見れば、番地まで判る。当然のことである。

番地はともかく、住所で地図を見れば、この辺らしいという訳だ。


 しかし最近はインターネット、これだよ、かみさんがA4の紙を持って来て、この辺だよときた。まいったね〜。

そういえば、お袋は砺波郡の出、そのお袋が私しゃが小さい頃聞かせてくれた源平の戦いの唄があった。


 
 紙面を拝借し、

 

『♪〜源氏平家の戦いは まず手始めは富士川よ 平家の軍勢
      5万余騎
夜半の目覚めに水鳥の飛び立つ音に驚いて獲物
      捨て逃げ帰る

 

      源氏平家の戦いは 次は越中砺波山 義仲牛をかり集め 
      松明を角に結びつけ
倶利加羅谷に追い落とす

 

      源氏平家の戦いは 次は摂津一の谷 ひよどりごえの
      逆落し 熊谷次郎直実が
敦盛を討ちしはこの時ぞ〜♪』

 である。



 お袋の親父が平家に関係があり(?)、平家物語にも久留栖次郎
左衛門と出てくる(もっとも兄貴は平家物語を調べたが見つから
なかったと言っていたが)とは聞いていたはずなのに、何でこの唄を
聴かせたのか。

ありゃ〜、余程親父に恨みつらみがあったのかな〜。

それとも平家とは関係ないと思っていたのかなと今にして思うね。

唄の『・・・』のところは、屋島・壇ノ浦だから、最後まではと聴かせられなかったか、私しゃよく覚えていない。

そんなこんなを胸に秘め、いざ出発。


 旅行者は私しゃ、かみさん、お袋(万年
80歳:80以上は歳を数えないんだそうだ)、お袋参加の弁は、「なに!? ルーツ調べの旅、そりゃ面白そうだ、行く行く。」であったが計3人。

3人の総年令は206才であった。


 まず手始めに、和歌山の県立図書館に行った。なんせ話は
1180年代の話だからね〜。

敗れて逃げ込んだ先が和歌山の山奥、行ったことがある方もおいでだろうが吉野古道の一角だ。


 まぁ和歌山だから図書館に何かないかと思った訳。

それと学生の頃、京都出身の友人が、「お前と同じ苗字の先生がいたぞ」と言っていたので近隣の電話帳もあるだろうしってな訳。しかしここでは結果得るものは無であった。


 もし友人の話を聞いたときにウロチョロしていたら・・・
まぁあの頃は遊びに忙しく、金も無く、ルーツ調べなんてね〜。

後悔先に立たずであり、その友人も亡くなっていたことが最近判ったし、まぁ手掛かりは無し、だ。


 翌日は菩提寺と思われるところに行くことにして、紀伊白浜の宿へ。

海辺で風が強く、一晩中ヒューヒュー参ったね。だけど景色は良かった。まぁこれが救いだった。


 朝レンタカーを借り、いざとばかりに寺へ電話したら、夜中に雨が降り、スパイクタイヤかチェーンが無ければ無理ときた。
あちゃ〜、なんてこった。


 それじゃ諦めて観光に切り替えようと串本町の大島に行くことにした。・・・そうして事件が発生する。


 3人で「景色いいね〜、お昼は伊勢海老だね〜。」なんて言っているうちは良かった。
小さな港に着いたら奇岩林立、きれいだ。かみさんが真っ先に車から飛び出した。

お袋は降りてもすぐには歩けない。腰を伸ばしてヨッコイショ、
膝を伸ばしてヨッコイショ、という訳だからね〜。
そして2人で車をまわり、いやすごいなんて言いながらふと見ると、かみさんが寝転んでいる。


 なんだいあんなところに寝転んで、デジカメかと思った。
ところがだ、そそうじゃなかった。船溜りの段差につまづいて
転んでいたのだ。

手足をすりむいて歩くのもおぼつかない。こりゃ〜もうダメかと思ったね。

 それでも助かったのは、港の海中に落ちなかったことだ。

本人も言っていたが、『こりゃダメだ、ドボンだ。』と思ったそうだ。
そうなっていたら・・・ぞ〜っ
!!


 かみさんは泳げない → 私しゃ助けに飛び込む → 2人とも仏様 → おふくろが1人残る

あとはどうなるってなことの半歩手前20cm位だった。
いや〜、今でもゾッとする。

そりゃそうだよね、おふくろ1人で後始末だぜ。


 そんな訳で、伊勢海老は逃げてしまい、蕎麦で昼食となった。
そうしたら、【禍福は糾う縄の如】ではないが、寺から今なら大丈夫と連絡があった。

なんだい、スパイクタイヤなんて言っていたのにもう溶けたのかと
ブツブツ言いながら向かった。


 でも、いや〜収穫があった。80才という住職に会う。

最近やはり北海道からルーツ調べに来た人がいたらしい。

なんだかね〜、この辺の人は北海道に行ったのが多いのかね〜
なんて、1人で喋っている。

なかなか本題に入れない。 やっと過去帳を見せてもらう。


 戸籍が整理されたのは明治になってからだけど、親父の親父は嘉永生まれ、そのつれあいは安政生まれで苗字もある。

だから過去帳もと思っていたら、過去帳は、明治より前は名だけだった。屋号らしきものも無い。

もっとも、あったとしても屋号なんて知らなかったが。

しかし、祖父のつれあいの生家は判ったし、祖父の住んでいた場所も判った。


 住職は『よく来てくれましたね〜、戸籍をこんなに調べて大変だったでしょ〜』と話しっぱなし。
それでも、この辺は宮様も落ちて来たがその宮様も苗字が無い(宮様って苗字あったっけ?)、まあ追求が激しかったのでしょう・・・・で、期待はしぼんだ。


 まあ、頼朝が那智大社の石段を寄進しているくらいだから、
御大将自らとなるわけで大変なものだったのだろう。
只、住職は近隣の文化財の載ったパンフレットをくれた。その時は、それを見て近くを流れる小川で年に1回ワラ船を浮かべ火を付けて、無病息災を祈願する行事は平家関係の霊をそれとなく弔う行事かなと思ったくらいだったがこれが大収穫だった。

住職にピーナッツを渡し、入れ歯談義に花を咲かせ、またの逢瀬を語って、一路富里温泉へ。


 お袋の喜ぶまいことか、こんな所に富里だーときた。
・・・そうなんです。まったくの山奥に我が住所と同じ富里だもんね〜。

ところがこちらは過疎化が激しく、私しゃの調べた限りでも和田村、富里村、下川上村、大塔町、田辺市と変わり、合併を繰り返している。


 山の高台によく温泉が、どうせ沸かしだろうと思っていたら、正真正銘身体も温まり、かみさんの傷にもよく効いたようだ。


 ところがだ、この日の宿が住職の檀家の宿だったが、まいった〜。
川釣りの常連宿とのことだが、海辺の風の音ならぬ、温風ヒーターの騒音で寝付けない。
諦めてヒーターを切った。いや〜、寒かった〜である。


 そして帰りの列車の車内で、やっぱりな〜の気持ちで貰ったパンフレットを見ていたら、久留栖屋敷跡なんてのが載っているではないか。
えーっとばかりにかみさんにパンフレットを見せたら、列車を
降りると言い出した。 
お袋の顔を見たら、もういいよ〜っという顔・・・。

どっちを選ぶ!? 私しゃゴマすりだからね降りなかった。 まぁ、世の中の婿養子なんてこんなもんでしょう。


 ・・・ってな訳で多少の収穫のあったルーツ調べの旅であり、
かみさんのスリ傷と洋服のほころびの旅であったが、気分は爽快で
あった。よ〜し、いつの日か捲土重来を期すぞと内心にしまって家に着いた。


 言うと又行くというのは必至だからね。 
しかし、かみさんには飛び込み寸前の無意識にかばう動作で身体上の後遺症が残り、最近やっと回復してきた。 
そして、お袋も良かったのだろう。今でも白浜の旅のこと、檀家の宿のことなど話している。義理の息子にゴマすっているのかな?

 でも、かみさんの飛び込み寸前のことは一言も話しに出ない。 
やはりゾーっとするのだろう。

 


《後日談》

 やっぱりルーツが気になる。パンフレットの監修元に手紙を出した。

そうしたら、屋敷跡は、今は畑になっていますときた。
お墓も整理しました、墓石は明治時代のもので、傷みがひどく文字はよく読み取れませんでしたときた。明治(?)である。
そういえば、住職が近隣の墓を整理して一箇所に集め供養塔を建てたと言っていたっけ。


 ただ、名前は紀州藩が天保
10年に編さんした紀伊縞風土記にありましたとコピーを送ってくれた。

現代用語で編さんしてあり、私しゃにも読めた。足利時代に久留栖二郎左衛門尉に賜へる論旨なるものがあったと書いてある。
やっぱり久留栖はあった!



《ルーツ》

 だけど・・・である。足利の前はどうなっているんだ。
足利時代と屋島・壇ノ浦では
150年くらいの開きがある。

あの山奥に元々住んでいたのか。いやそうじゃない、私だったらあんな山奥はイヤだ。

屋島や壇ノ浦で戦うためにどこか他の地から来て、敗れてあそこに逃げたのだろうか?そうだとしたら何処から来たのだろうか?


 どこかの図書館で家名辞典でも見るか。
1000年も前のこと、わかるもんかである。

だけど私しゃ夢見る老人、どこかの図書館に潜りこむぞ、きっと。


 まぁそれはそれとして、久留栖は2度絶家だ。 
親父の戸籍によれば、久留栖の家を再興するとして久留栖姓を名乗った。親父の親父は羽広という。どうして羽広が久留栖に?


 調べたところによると、久留栖は関東に多かった。
関東なら源氏側だろうに、なんであんな山奥に?
源氏の追及に逃れるのに関東にある姓に変えたのか?
それとも頼朝に付いてきたのが落人らしい者をおさえるのに住み込んだのか?住んでいた位置から見てこれは考えられるが、そうなら足利の時にあんなもの貰えないのではないか?
集落全体が久留栖姓だったって?何軒あったのか知らないけど。

論旨をもらった姓だからみんな久留栖姓になったのか?・・・判らん。


 結局ルーツは何がなんだかさっぱり判らん。
判らないということだけが判って、私しゃがものすごい夢見る老人だという事が判ったし、私しゃが絶家の張本人でもあるということが判った。

ルーツとはなんだ? ・・・以上、尻切れで終わり。


いかがですか皆さん、暇になったら夢を見ませんか? 

これは、厚顔無恥な男の最後の照れ隠しである。


(2010.3月受稿 海宝陽二)

 
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2010年03月25日

南房総・花前線

3月中旬は、冬と春がせめぎ合いながら、桜前線が日本列島を北上し始めます。この時期の南房総を観光してきました。

 

     千倉の花畑

フラワー街道沿いに、多くの農家がたくさんの花畑を営業しています、ハサミを借りて、好きなだけ持ち帰ることができます、ただし、有料です、切り方を教えてもらい、お土産に千倉のみかんまで頂き値段以上の満足でした。

写真を撮ったり、花の香りや太平洋の潮風で満腹になりました。
IMG_1918 

 写真1:花畑(千倉)

 IMG_1884
 
写真2:菜の花(千倉)

 

 IMG_1911
 写真
3:マーガレット(千倉)

 

     館山城のつつじ

想定はしていましたが、河津桜は、すでに葉桜となっていました。しかしながら、つつじが、早くも咲いており、南房総の春の訪れの速さを実感しました。 

 IMG_1943
 
写真4:館山城(館山)

 

 

     花言葉

多くの花を見ると、誕生花や花言葉があるのを思い出し、花言葉を調べてみました。

 

キンセンカ(橙色):静かな想い、  ちなみに、黄色は悲歌、繊細な美 だそうです。

 IMG_1906

 写真5:キンセンカ(千倉)

 

ポピー(ヒナゲシ):幼馴染み、朋友、楽しき思い出 だそうです。

 IMG_1956

 写真6:ポピー(富浦)

花を見たり、香りをかいだり、花言葉を勉強したり、ストレス解消に最適でした。

 

     番外編

 

君津のドライブインで見つけた風景です、まろやかな水でした、近くにおいしい酒蔵があるのではと、水脈を連想してしまう呑み助の自分でした。

 IMG_1866-1
 写真7:天然水(君津)

 

アクアライン「海ほたる」から見た房総半島です、天気がよければ、木更津方面がばっちり見えるはずですが、曇っていて残念でした。

 IMG_1982

 写真8:「海ほたる」から房総半島を望む

 

アクアラインの通行料金が現在は割引されています、これらを追い風に、経済前線も南房総から日本中に北上すればと、つい、考えてしまいました。

 

(By:M.Nakao)

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2010年02月16日

石の旅

【 石の旅 】

イギリスを少し旅してきましたので、紹介しましょう。
(写真は全て拡大できます)


*お祀りの石?(ストーンヘンジ)
イギリス中西部のソーズルベリ近郊は、たおやかな丘陵地が何十キロと広がり、羊達がのんびりと餌をはんでいる心休まる風景です。
北海道の富良野の丘陵を十倍以上にした、気が遠くなる程の風景を想像してみてください。
そんな風景の中に、紀元前3000年以上前に建造された「石の祭壇」が忽然と、ぽつんと、何千年も鎮座しています。
周囲何十キロと原始人の生活の臭いは全くしません。
だれが、どのようにして作ったのか、何に使われていたのか、現在も謎は解明されていません。
羊たちの丘
写真1:羊たちの丘

ストーンヘンジ
写真2:ストーンヘンジ(世界遺産)


*戦利品の石(ロゼッタストーン)
フランス軍のナポレオンがエジプトから強奪し、更にそれを、ネルソン提督が奪い取ったのが、ロゼッタストーンです。
エジプト政府は返還を求めているようですが、グレイトブリテンがそう簡単に返還するとは考えられません。
当分の間は、大英博物館で見ることができるでしょう。
ロゼッタストーン
写真3:ロゼッタストーン(大英博物館)
暗色の花崗閃緑岩で、3段に碑文が刻印されており、上段がエジプトの神聖文字(象形文字、ヒエログリフ)中段が民衆文字(デモティック)、下段がギリシャ文字で同様の内容が記述されているらしい。
(私には チン プン カン です)


他の展示物
写真4:他の展示物(大英博物館)
フランスの学者シャンポリオンにより解読され、古代文明の謎がひも解かれました。


*地産地消の石
イギリスのコッツウォルズ地方では、どこを掘っても、ライムストーンと呼ばれる石灰岩が簡単に採掘でき、壁や屋根の建材として利用されてきました。
その結果、蜂蜜色のロマンチックな町が出来あがったのです。
蜂蜜色の住宅1
写真5:蜂蜜色の住宅1(バイブリー)

蜂蜜色の住宅2
写真6:蜂蜜色の住宅2(バイブリー)

石灰岩の石垣
写真7:石灰岩の石垣(ボートン・オン・ザ・ウォーター)

地産地消の町並みの美しさは、地域のイギリス人たちの文化の賜と思われます。
日本にも白川郷の町並み等世界に誇れる文化、生活が数多くあります、大事に守っていきたいものです。


(文責、写真:M.Nakao)


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2010年01月12日

厚顔無恥の男(後編)

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【厚顔無恥の男・後編】

翌日、なんとか会場へ行った。

そうして、隣の人へ声だけでもと、ふと見ると第3の彼がいた。

よもやま話をして、いざ午前の2時間半。

昨年と同じようなことを書いて終了。なんせAだったからね。

そしてその彼と、偶然同じ中身のコンビニおにぎりを食べ、午後の部の3問3時間半。

・・・なんじゃこりゃ、去年と違うぞ。
設計基準とは関係はあるが、体験文を書けときた。


よ〜し、去年と同じ、ここ何年かと同じ、1問に2枚、なんとか紙面を埋めようと張り切って書いた。読めない字にならないようにと気を使って。


あ〜、なんとか埋めた。

箇条書きだ。終わった。ウキウキ。

3問ともほとんど2枚2枚で埋めたぞ。って訳。
 
ところが、だ。
第3の彼と出口で楽しみのタバコを吸っていたら、「3枚2枚1枚と書くの大変だった、午前と同じこと書いた」と言っている。

午後で3枚、午前と混同しているのかなと返事に窮しながら、1
杯飲みに行った。


実は試験の後のこれを楽しみにしていたんだ。

昨年で味をしめてね。
長時間じゃないし、電車も混まないしね。
かみさんには内緒だぜ。

 

彼はまだ3枚の話をしている。駅の改札を入ってもしている。・・・なんか変だ。


電車は座れたから、3枚ってなんだと言ったら、
「え〜、3問の解答は3枚2枚1
枚と書いてあったでしょ。」ときた。

私しゃ「うそ〜
!?」と調べたら、小さい字(人のせいにしとこ)で3、2、1と書いてある。

おそらく顔面硬直(オーバーか)、酔っているから判らなかったかな。そうあれかし。

 

  彼  :・・・ね!?

  
  私しゃ:・・・うん。ダメだ〜
!!終わったぁ〜!! 
     (まったく、あっけない幕切れなり)
 
  
  彼  :無言
     (そ〜だよね〜、答えようがないよね〜)


  私しゃ:3、2、1で書けというのに2、2、2で書いたんじゃ
      技術士としての素質無しだ。

      ところでさ、箇条書きはダメかい。
      (まだこだわってる、バカだね〜)


  彼  :箇条書きだけじゃ、理論的と言わないでしょ。
      まとめなくっちゃ。

 
  私しゃ:そ〜か、そ〜だよな〜。それだけでもダメだ。

      去年のBはそのせいかな。全然判ってないね。

 

 ってな訳で話題を変えたかったが、彼が話しに乗っていたもんで、お別れする所まで同じような話。

おかげで吹っ切れたが、まぁ、彼にすれば愚痴を聞きたくなかったんだろう。
家に着いた。

 

  かみさん:どうだった?

  
  私しゃ :ダメだ。(なぜダメかは説明しなかった)

  
  かみさん:やっぱりね〜。
       でも、帰ってこれて良かったね。草も待ってるよ。

 

だと。・・・という流れで私しゃの挑戦は終わった。


受かるまでなんて、とんでもないこった。


今年は白髪のハゲは目につかなかったし、もう1杯やる相手もいないだろうし(人のせいにしとこ)、とアイスノンを抱えた。


翌日は、指が痛い。特に、親指が痛い。・・・なんだ、そうか、鉛筆だ。


では草におめもじと行ったらどうだ、今年最高の元気、一面に。


かみさんいわく、「4日くらい前から急に元気になった。待ったんだね〜、熱中症に気をつけて元気出して頑張って。」だと。言うは易しだよ、ニャロメ。

そして、足も痛い。 そ〜だ、昨日彼と別れて電車のホームは何処だと、昇るエスカレーターを降りたんだった。

なんだ、こんなもんかと思ったが、ありゃ危ないね。


下に行って、次は平らと思って足を出すと持ち上がってくる。

高低感覚がズレて、日頃使わない筋肉だか筋だかを使ってしまった。

急がば回れだ。いつまでも若くはないってこった。


それこそ、あんなところで救急車のお世話になったら、かみさんの術中にはまるところだった。危なかった。


そうして、アイスノンとお別れし、技術士ともお別れし、熱中症に気をつけて、草取りに熱中している。

次は何をやろうか!?

1年に何回も試験があるのがいいなとか、かみさんは何て言うかなとか考えながらの草取りも楽しいね。

・・・そんな訳で何で厚顔無恥の男かわかったでしょ。

ナニわかんない!?困ったね〜、でも解説してやんないよ。

(2009.9月受稿 海宝陽二)

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2009年12月15日

厚顔無恥の男 (前編)

     DSC_0042

【厚顔無恥の男】

 

 第3の男ってのも語呂と響きがいいけれど、この厚顔云々もいいね〜、我ながら久々の快挙だ。

今度のは一寸長いぞ。なんせ、4年の時間があるからね〜、こりゃ連載だな。

あ〜、4年じゃない、何年だ!? 私しゃが現役の頃からだから何年だ!?・・・判らん。

今度の話は何だって? 技術士だよ。あ〜恥ずかしい。

 

出だしは前にも書いたことがあるかもしれないが(手元の過去原稿の中に無いから思っただけかな?)、受験を勧められたことからだ。

この第1の彼は、農と河と総を取得しているが、ありがたいことに私しゃのような者にまで声をかけてくれた。

しかしまずいことに、当時の私しゃは早く農土から離れたいという気持ちで一杯だった。

・・・と言う訳で、当時は丁重に辞退申し上げた。それが、だ。

 道人会なる会があって参加したら、あの彼が参加者全員に挑戦を勧めだした。

私しゃに対しては顔を見てニヤニヤしている。 ありがたい、覚えていたか。

私しゃどうしたかって? 軽薄だからね〜、私しゃ。

ほかにやることもないし、どんなものかも知らないで、一緒になって勧めだした。

なんせほとんどが私しゃより若かったからね。


 後で判ったが、ほとんどが一次受かってたんだ。

そんな訳かなんか知らんが、ある人が『あれは我々がやってきたことへの勲章だ』と言った。

なに、勲章!? なに、そんな考え方もあるのかと私しゃの脳に引っかかった。

しかし、私しゃには別離の思いが強かった。

でも、技術的にはろくな仕事もしなかったくせに勲章なるものへの憧れもあったんだろう。

分を知れば、今頃こんな事書いていないのに。

退職して、早く農土から離れたかったのにどうゆう心境の変化か、軽薄さか、やっぱり農土に引っかかった。 


 1年後、今の会社にお世話になり、2年目、まわりで資格の必要性の話が多かったせいか(人のせいにしとこ)、よせばいいのに63才になって勲章を思い出してしまった。

まぁね、名刺を配って歩いているとポスターもあるしね。

ノコノコと受けに行ってしまった。 ・・・落ちた〜!!

そりゃそうだ。チンプンカンプン。サイコロ解答だ。そうだよ、出た目の数字を解答欄に書くやつ。こりゃよせば良かったと思ったのに2回目で引っかかった。よ〜し、次だとやったら、落ちた〜!!!


 そうして、我が家の畑は草だらけになった。 草のヤロ〜も、主に合わせて遠慮すればいいのに。きれいにするのにひどい目にあった。今でも尾を引いている。


 話は戻って、次だとやるにあたって、色々とアドバイスをくれた第2の彼がいた。

その彼は農を取得して、総に挑戦しているが、その彼がえらく面倒をみてくれたもので、私しゃよせばいいのに受かるまでやると言ってしまった(軽薄だ〜)。


 その時
65歳だぜ。歳も考えず、あ〜いやだ。それまで受けに行くと、私しゃのように白髪のハゲもいたからまだまだと思ってしまったんだね(人のせいにしとこ)。

あの試験は成績を送ってくる。AとBだった。よーし、様子は判った。今度こそと、御歳66歳、8月の第一日曜日、ノコノコと行ったね。でもその前に、最初に進めてくれた彼が、何かの折に会ったら、やるのかいと言った。

 

   私しゃ: やるよ、あの試験は楽しいんだ(その時は本心)

    彼 : 俺はこっち(頭のこと)がついてこないんだ。

   私しゃ: そんなことないだろう。(別の試験に挑戦したの
        知らなかったからね)

    彼 : いやダメだ、歳だよ。

 

 で別れたが、こっち(頭のこと)はやっぱりダメだ。そ〜なんだ、何度やっても思い出せないからね〜。

草取りで疲れているせいだろうくらいに思っていたが、やっぱりすぐ忘れる。彼にあんなこと聞かなきゃ良かった(人のせいにしとこ)。


 そんなこんなしながら、草取りも張り切っていたがどうも変だ。

ある日、現場の帰りに会社の庭木切りに行った。桑の根も掘るぞと張り切ってね。

そうして社長が大事にしていた木を切ってしまった。 社長には申し訳なかったが、

いや〜、広々した〜と思っていたら、祟りがきた。

地面を平らにしてやろうと土を引っかいていたら(供試体の残がいでデコボコしてるんだ)、

足が攣った。なんだ、こんなことでと少し休んだ。 続けたらまた攣った。


 変だな
~、こんなことでどうして足が攣るんだと思っていたら、『そりゃあ、熱中症の始まりだ。休んだほうが良い』と言ってくれた人がいた。 そうして、もっと詳しく教えてくれくれる人がいた。そのまま続けると全身痙攣になって点滴のお世話になるよと。

いや、驚いた。熱中症ね。 草は元気、試験は近いのに、そう言や、去年もこんな感じのことがあったかな。うまく雨が降ったのかねと車を運転しながら家へ。


 家で声を大にして、『熱中症、熱中症。』そしたらおふくろが、『それは2度の段階だ、今日テレビで見たよ。』ときた。 自身も風邪でもないのに鼻水が出てと騒いでいたんだ。私しゃ草取りすればいつも鼻水出るよ、二人とも変だね〜なんて言っていたんだ。


 わかると恐いね、すぐにアイスノンとお友達になった。そんなこんながあって、

 

   私しゃ :明日は東京だ。

   かみさん:やめときな。途中で倒れても迎えに行って
        やらないよ。

   私しゃ :大丈夫。誰か知ってる人がいるだろうから。

   かみさん:どうせダメだよ、年寄は言うことを聞かないんだ
        から。今日は早く寝な。

   私しゃ :うん。じゃあおやすみ。


 と、アイスノンを抱えた。 こんなにダメダメ
言われたんじゃ受かるわけ無いよな・・・。 
(後編へと続く)

(2009.9月受稿 海宝陽二)

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2009年12月01日

“防災夜回り”を通して昔と最近の世相を想う −その6−《最終回》

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(4)現在の世相を反映した事件 

 本件は、昨年6月初旬の出来事である。


 私達のパトロール地区の児童公園に、深夜、怪しい人影が動く?・・・どうも人が住みついているようだとの噂が出始め、防犯隊の知るところとなった。


 早速、昼間防犯隊が調べてみると、児童公園内にある築山の中腹を貫通させて埋めたヒューム管のトンネル施設(直径φ80cmの管の中を、幼児が背を低くしてくぐり抜けて遊ぶもの)の中に、新聞紙や、大きな紙の手提げ袋などがあり、確かに人が寝床として利用しているようだとのことだった。


 築山に生えている大木や、トンネルが長いため奥が身体を屈めないと見えにくい為、好都合な寝所として不審な人が利用しているらしい。

 住民と防犯隊からの通告を受け、早速警察官と千葉市公園課の立合いのもと、トンネル内にあった新聞紙やダンボール紙、ビニール傘など、不法居住者が使用していたらしき品物を撤去、ヒューム管内も清掃し、見通しを悪くしていた植え込み等も刈り込みをして復旧させた。


 その後は、不審な人物の影は出なくなり、付近住民や子供たちの安心を取り戻した事件であった。


 本件について、口の悪い(?)いや、ユーモア豊かな男子隊員仲間で次のような内輪話があった。

 

   Aさん:『不審な人は結局、何日くらい寝泊りしたんだろうね?
        一週間程度は利用したのかね?
        ・・・ところで、男女どっちだろうね?』

 

   Bさん:『5日から1週間程度でしょうよ。
        だって、あまり子供が遊ばない公園っていっても、
        犬を遊ばせる人も来るし、そんなに発見が遅れないと
        思うよ。
        利用者は男だよ、絶対に。
        処分した品物に化粧品など女性のものなど全く無かっ
        たそうだから。』

 

   Cさん:『多分、男だろうけど、現代はある程度の人生を過すと
        男だか女だか判らない生活をする人物も生きている
        んだよ。この世の中、勝手な先入観は間違いの
        もとだよ。ゲイの世界を知らないの?』

 

   Aさん:『ゲイの話は別として、トンネルに泊まった人はどこの
        どなたかわからなかったけど、多分恐妻家の亭主で、
        大分、奥様にご機嫌を損ねる悪いことをして家に
        入れてもらえず、仕方なく深夜こっそり“マイ
        ベット”とばかりトンネル穴を個室としたんじゃ
        ないの
!?
        お互いに、奥さんにイビラれないように気をつけな
        きゃあダメだねぇ・・・。 
        ことによったら、泊まった人は公園近くの気の弱い
        ご主人だったのかもねぇ・・・。』

 

   Bさん:『そんなこと言って、同情しているAさん本人だなんて
        ことはないでしょうね・・・?』

 

   Aさん:『何をおっしゃいます。俺はかみさんに充分な奉仕を
        していますよ。 本当に、申し分ないご主人様で
        すよ・・・。』

 

   Cさん:『それにしても現在の世の中、女性が強くなったねぇ。
        若い夫婦の中には、奥さんのほうが地位も収入も
        上の人が多いそうですよ。
        それに、まぁ現代は男女平等の世の中、どっちが上
        だとか下だとか言っていちゃおしまいですよ、仲良く
        しているほうが利口ですよ。
        私なんか、女房の尻に敷かれているなんて感覚は
        持っていませんよ、その方が家庭の安寧が保たれて
        気楽ですよ。
        だって無駄な抵抗はヤボですもん。』

 

−A,B,Cさん一斉にワハハッハー!と大笑いして終幕しました。−

 

 

〜以上、仲間の会話を聞いての私の感想〜

 A,B,Cさんそれぞれに現職在勤中は、社会で大活躍された面々、それぞれに良い奥様に恵まれたればこその活躍後の現在、現役時の年収の額が高額だった時代と現在の年金生活時代の生活を“平家物語”的に、昔と現在の収入を頭に描き、自分から卑屈になってはいけませんぞ!

 
 どんな時代でも、いつも面白く、愉快に暮らす気持ちが、自分と周囲の人達の気分と身体(=健康)に良いことですからね・・・・(終)

 

(追記)ながながとつまらぬ文章、最後までお読みいただきありがとうございました。



(2009.9月受稿 濱田 豊司)

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2009年11月10日

“防災夜回り”を通して昔と最近の世相を想う −その5−

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(4)現在の世相を反映した事件 −その1−

 

 本件は、今年5月の連休中に起きた。

場所は私たちの隣の担当地区にある児童公園である。

 

 幼児の遊戯施設として、コンクリート製の直径80cmのヒューム管を利用して造った“5連結の列車形トンネル”で、重量もあり大人2〜3人以上でないと据え付け台から取り外したり、壊したり出来そうもない重さのヒューム管を、バラバラに解体し散乱させたうえ、ペンキ塗装の化粧面も傷だらけにされてしまった事件で、近くの砂場には吸飲したシンナーの空き缶やタバコの吸殻などが多数散乱していた。

 

 付近の住民の話では、前夜、夜中の1〜3時過ぎ位まで大きな声で騒いでいた少年達が5〜6人居たそうだが、警察への通報は翌朝だったので犯人の少年たちは誰だかわからなかった。
 翌日の朝、犯行現場のひどさを、警官と立ち会った防犯隊長(=自治会長)からの非常召集で知った。
 各地区防犯隊の班長、副班長が現地に集まり前後策を協議、その日から1週間夜
10時から1〜2時間団地全体の全公園、緑地のパトロールを実施することになった。


 するとその翌日、別の地区の公園の身障者用の公衆便所の便器が、花火の火薬(?)を利用して爆破され、便所内の天井から壁や床一面に汚物が飛散して便器が壊される被害が発生した。

 

 いずれの件も、警察署の交番と本署防犯課職員との共同特別警戒パトロール活動の結果、犯行をした少年達が判明したが、少年達の将来の為、あまり詳しく事件の実情を追及、明かせないで欲しいとの温情(?)ある警察署での処置となった。


 どうも現代は、個人情報の守秘義務を重視し尊重するあまり、再犯防止の措置が甘いのではないかと思われる事件であった。

 ただ、幸いなことにその後は現在まで同種の悪戯、事故が発生していないので、適切な処置だったのかな?と思う事件であった。

 

 なお、コンクリート管の遊戯施設も公衆便所も、それぞれ約1ヶ月後には千葉市公園課の方できれいに修理復旧して頂いた。

 

 私の感想として、現代の若者や少年の一部の人の現代社会に対する“憂さ晴らし”の行為だったのかとなと思うと、生命を狙った犯罪じゃなくて良かったなぁ・・・と妙な納得をした事件であった。
 将来を託す少年達の事だ。心からの改心を期待したいと思う次第だ。


 現代は、悪戯かやけくそ行為か、放火事件も多い世の中である。

 少年達との対話や、心の交流の場、健全な運動としてのスポーツなど、楽しい仲間造りの環境と、時間の余裕を社会組織として考えてやる必要があると思う現在の情況だ。


 受験勉強優先で、学校の成績が良ければ将来の生活が安定し保証されるとばかりに勉強一途で塾通い漬けの子供より、健康な心身と仲間との協調性がある人間が、これからの社会に必要な人材なんだと思う。
 
 少しくらい成績が悪くとも人柄、人物として真面目さや協調性のある、心豊かな温かい人物をこの世は求めている筈だ。


 でも、そんな人間は、要領が悪い人間で、労力エネルギーの割に、収入が少ない立場になるだろうが、心の豊かさ、気楽さは、いつも張り詰めて頭を悩ます人よりずーっと人生を楽しめるのではないですか・・・と思う。

 

 またまた我が身の生き方の弁解をしてしまった・・・。
ワハハハハ・・・(独り笑い)


(2009.9月受稿 濱田 豊司)

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2009年10月26日

“防災夜回り”を通して昔と最近の世相を想う −その4−

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                                                              (4)防犯パトロール隊の活動の内幕と世相を反映した事件報告2件

 

 

 私も今までの人生を振り返る年令となり、過去を想い起こすと色々な時代の社会背景の中で随分沢山の人達に出会い、ご指導やらお世話になり、又友達とのお付き合いを通して面白い人生を過ごさせて頂いたものとつくづく感謝している現在である。


 そして、今更ながら昭和の時代は激動の時代だったが面白い時代だったと思う。

 
 戦時、戦後の一時期の食糧難、物資難や生命の危険もあったが、無我夢中の気持ちや、一生懸命とか忍耐と我慢の根性、負けじ魂で切り抜けて生きてきた。


 そんな思いは、家族が一体的に結びついていたことや、隣近所の住民たちとの隣人愛や友達との友情等の連帯意識が強く作用して切り抜けてきたことであったと思う。


 そんな私の人生を顧みながら、改めて現在の不況のもとの社会不安の社会を眺めると私は、現在の社会で最も欠けていることの一つに、人々の心の中に人を信用するとかお互いに信頼し合う協調性が欠け、その上気力が足りないと思う。
 又、社会の仕組みに失望したりあきらめたり、その上自らが己の持つ能力を発揮する積極性やチャレンジ性を失くしてしまっている人達が多くなってきていると見えるのだが、間違っているだろうか?


  いつものこと乍ら、私の論理はバラバラでまわりくどいかな? 独断的偏見かな・・・?


 私は、現在の不況と不安な社会を世直しする為にはみんなの良心、善意を信じ連帯し仲睦まじく共同の力で、身近なささやかな事から改善への行動をすることが大切であると思っています。


 防犯パトロールの活動も、隊員の仲間の考えは皆さんほぼ同じ考えで身の回りの環境を改善したく思い集合し協調して活動しているのだ。

 

 ここで、私達の防犯パトロール隊の活動を紹介します。


 私達の班は団地全体の人口約
6,500人、世帯数2,800世帯の団地の、一部の人口約900人、世帯数約420の住民の地域を担当し、毎月1日と15日の月2回、夜の8時に区域中央にある児童公園に集合し、参加者の出欠確認と事件の発生や、危険箇所の発見などの報告とその処置結果などの確認等を済ませてから、担当地区を南北2班に分かれて約1時間、異常や異変が無いか確認しつつ警句を唱和しながらパトロールするのである。


 そして翌日、防犯隊長(=自治会長)にパトロール結果を日誌にして報告する。


その各班からの報告を受けた隊長または自治会防犯部の判断で重要な案件は警察署や消防署、市役所などへ報告・連絡をして善処するシステムとなっている。


 パトロールの要領は子供の時とほぼ同じだが、用具が良くなっている。


パトロール隊員は、蛍光夜光塗料染めの帯タスキを肩に、腕に防犯隊の腕章を付け、防犯隊帽子をかぶる。


 リーダーである私と副班長の2人は厳めしい蛍光夜光塗料染衣のチョッキを着て歩く。


道案内兼、交通安全確認者が、懐中電灯や赤色点滅灯で先導し、次に拍子木打ちが“カチ
!カチ!”と拍子木を鳴らしその後をハンドマイク役がマイクのボリュームを調節しながらスローガンの『こちらは団地自治会による防犯・防災パトロール隊です。皆さん、戸締り用心!火の用心!地震の時は慌てずに!』などと発声した後で、班員全員でスローガンを復唱して歩くのである。


 班長になって、改めてパトロール中の班員諸氏、諸姉の動作を冷静に観察させていただくと、子育て時代の頼もしかったお身体は随分昔のことだったのだなと思われる身体年齢が感じられ背筋の伸び、足の運び、声の張りなどにやはり時々高齢化現象の陰を感じる時がある。

 事実、パトロール隊発足時からの隊員で体調不良となり隊班する人も居られるが新人はなかなか入ってこないのが実状であります。


 人のため、地域住民のため、社会のためとのボランティア精神は、敬意を表するが、班員自身を含めその家族や地域全体の幸せを求めての防犯・防災パトロール隊ですので、無理をせず出来る範囲の努力の積み重ねを大切に、みんなの協力し合う連帯の和の発展の中から少しずつの変化であっても、着実に犯罪の少ない明るい希望の持てる世の中になって欲しいと防犯隊の仲間と共に精を出して行きたいと思っている現在の心境であります。

 

次回は余談として、私達防犯隊活動の中で見聞きした事件2件を披露して終わりとします。

(2009.9月受稿 濱田 豊司)

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