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2011年08月

「文章系同人の未来はどっちだ!」 第一夜 「文章系同人残酷物語」

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(「週刊メルマガクリルタイ」Vol.39(2010/04/28 配信分) の原稿を再掲)

■はじめに

記念すべき連載第一回は、同人のキャリアパスについて述べていきます。多くの人にとっては基本的に趣味の領域である、同人のキャリアパスを論じるということには奇妙な感じがする人もいるかもしれません。
しかし文章系同人の希望を論じるにあたって外すことのできない論点です。作り手からすれば「同人文芸をやって何になるのか」、「同人をなんのためにやるのか」に関わる環境の問題として、そして、社会の側からは同人の文化的/経済的な配置がどこにあるのかをめぐって、キャリアパスの論点は存在しています。

■「コミティア」と希望

ご存知の向きも多いでしょうが「コミティア」の話を枕にしましょう。東京ビックサイトで年四回開かれるオリジナル創作オンリーとしては国内最大級のイベントで、イラストや漫画を中心に、音楽CD、同人ゲーム、小物やポストカードもあり、もちろん文章系同人の人たちもいます(中でも、文芸創作を中心とする並びを「コミティア文芸島」といいます)。アマチュアもプロも参加しており、強い影響力をもつグループが「壁サークル」として配置され、非常に大きな存在感を示す人たちもたく
さんおります。「コミティア」には企業もブースを出展しております。目立つところでは、ジュンク堂と、各種出版社の持ち込み用ブースでしょうか。彼らが出店しているのは、未来の漫画家/イラスト
レーターを発掘するのが目的です。実際に『パンドラ』(講談社)には、コミティア出身の漫画家が寄稿していましたし、前回も取り上げた『聖誕祭』もコミティアを中心に頒布を重ねてきた作品であります。
こうした企業ブースや持ち込みブース目当てにコミティアに参加する人たちも少なくありません。「コミティア」では、ファンの「サークル内固定化」も懸念されているものの、そこに出し続けることでプロフェッショナルになる、というチャンネルが開かれているのです。あるいは実際にプロになれなくても、プロの編集者に作品を見てもらえる、という点だけでも大きなメリットがあり、多くの参加者が多数の持ち込みを行っています。こうしたプロ作家を指向のマンガ家やイラストレーターたちにとっては、同人に参加するということがデメリットになることは基本的にありません。持ち込みの多くがアドバイスをもとに新人賞への参加を促されますし、イラストの場合は、うまければその場で連絡先を聞かれるということもあります。

一方で文学系、とりわけ小説書きにとって、プロを目指す上で同人活動は自己の修練以上の何者でもないと言えるでしょう。文芸各紙の怠慢だとは思います。『文學界』は「熊野大学」のくっだらないアホ編集の読書感想文にもならないレビュー載せる紙面があるなら、もっと模索舎にでも足を運べ、と思います。
しかし、ジャンル小説をはじめ、ライトノベルや携帯小説、その他新人賞の爆発的な増加は、「新人賞」に投稿する人たち以外のキャリアパスをほとんど完全に封殺しています。
もっとも、同人活動をしている小説家に目をつけて……というケースもごくごく少数あるようですし、ミステリやライトノベルに関してはこのキャリアパスを経過した人もいないわけではありませんが。

■同人文芸のキャリアパスと、同人文芸誌の戻らない可能性

しかし、たとえば津本陽が同人誌『VIKING』の掲載作「丘の家」で第五六回直木賞の候補になり、和歌山を舞台にした『深重の海』で第七九回直木賞を受賞するというような同人活動からのキャリアパスは現在ほとんど絶望的な状況だと思います。かろうじて、『文學界』に残っていた同人誌評で、優れた作品がまれに掲載されるということはありました。が、今はそれも『三田文学』に「都落ち」しています。
それは、同人活動と新人賞の間にまず大きな溝があること。それから、文章系界隈、というより「同人活動そのものの価値」が社会的に異常に低いということもあげられます。この社会との距離については第四夜で論じようと思っています。

こうした状況に、東浩紀の「ゼロアカ道場」の第五関門が一つの大きな画期を作りました。そこで登場した優れた批評家の「卵」たちは、現在でも旺盛な評論活動を続けています。それが「キャリアパス」というところまでうまくいったのは、現在のところ坂上秋成氏だけという印象ももちますが、近日、『ゴーストの条件』を上梓するであろうゼロアカ道場突破者、村上裕一氏にも注目が集まります。来月に書きますが、峰尾氏の「3M」も重要視すべきサークル。それに「形而上学女郎館」も個人的にはとても好きなサークルの一つです。
もちろん、それ以前にも第二次惑星開発委員会『PLANETS』を代表とするミニコミはありましたが、それは新人賞とは全く別のキャリアパスでしたし、そのような道がまったく存在していないわけではありません。ありませんが、おそらく「そこ」を目指して走れる人々は文章系同人ではメジャーなキャリアパス志向ではないでしょう。多くの人にとって、同人活動はフラットな同人たちによる趣味の共同体として存在しています。

重要な問題として、プロ作家――ここではとりわけ、小説などのフィクションを書く人たちを想定していますが――を目指す人たちにとって、同人活動がフラットなインフラになりつつあるということと、それが故にフラットなインフラであり続けることを同人文芸に参加する人々が内面化しているのではないか、ということです。
少し抽象的な言い方をしましたが、これはつまり、同人活動の希望の問題です。

かつて……というよりも、文芸同人に(もしかしたら文学に!)今なお失われていない機能の一つとして、政治的なアクションという側面があります。古くは「戦旗」「ナップ」などのプロレタリア文学、「新日本文学会」や「芦牙の会」のような左翼系の市民文学の系譜で同人文芸活動を行っているところはいまだ数多くあります。また、別のレイヤーでの政治性として(文芸ではありませんが)『フリーターズフリー』や『葬』のようなミニコミがあります。あるいは大澤信亮さんや杉田俊介さんが《文学》をそのフィールドとすることは無関係ではないように思いますし、ウイグル自治区におけるウイグル人たちを取り巻く状況をしったのは、暴動よりも前に、文学フリマで配布されていたあるフリーペーパーでした。

しかし、プロレタリア文学の昔に戻らなくとも、そうした主張を発信する/受け取るレイヤーとしての文芸同人は、残念ながら急激にその影響力を失っています。文学フリマに出すよりもブログを立ち上げた方が早い――事実、そうしたブログは星の数ほどあります――。そこで「あえて紙」にこだわる多くの文芸同人は活動の理由を「趣味」に求めることになってはいないでしょうか。
 
■趣味から、多様なメディアと共闘するカルチャーへ

文芸同人という趣味が、何かに比べて高尚だったり低俗だったりはしないだろうと思います。問題なのは動機の「趣味」をあまりにも内面化しすぎてしまうことで、それが他の可能性まで通じてしまうことに否定的になっていくことです。あるタイプの批評家や、出版通の方々には「趣味としての同人」を「そういうのもあっていい」と肯定しながら「それはしかし内輪の狭い領域のものでしかない」とする言説が広まっています。そのような「内輪」のカルチャーで二万枚のCDを売り上げるサークルも存在することをどう考えているのかわかりませんが、「同人はあくまでも趣味である」とする言説を内面化してしまうことで、上に書いたようなキャリアパスの不在や、政治性への回帰を否定してしまうということが起きているように思います。それは個々人の信念の問題にすぎませんが、しかし、キャリアパスとしての同人も、趣味としての同人も対立する信念ではないはずです。
活動を行うこと、その活動がさまざまな希望につながっていること、その希望に肯定的であること、が重要なのです。それは、ひとえに文章系同人をどのような想像力で捉え、どのような言説を構築していくのか、という問題でもあるはずです。

もちろん、情報環境や文章系環境の激変とも関係しています。ネットワーク環境下以前の時代に、「文章」が特権にもっていた情報伝達/通信の機能はパソコンやUstream、あるいはTwitterやmixiボイスでもアメーバなうでもいいですけれど、そうしたネットワーク環境下のライブメディアにその地位を明け渡しつつあります。しかしそれは、逆に云うならば「文章系」がそのようなライブメディアとも共闘出来る可能性が開かれてきたということでもあるのでしょう。

■「.review」と『界遊』

そのような意味で、今もっともアクチュアルな可能性を秘めているプロジェクトは「.review」であると評価してもよいように思っています。「.review」は社会学者の西田亮介氏が展開するクラウド・ソーシングメディアです。Twitterから発生し、数名のスタッフと共に、若手の書き手たちの発表の場を作り出
し、インフラそのものが意見やツイートを反映して動的に整備されていく様は、まさに「動く」同人誌といってもいいでしょう。

※「.review

実際には、アブストラクトの数に比例して、提出論文の数が大幅に下回るという状況である意味では「苦戦」を強いられてもいるものの、明確に「上」を目指すというコンセプトを持ち、マネタイズまで含めた状況の変革を目指すインフラとして、とても強い希望を放っているように、僕には感じられます。(っていうか、僕も出すといっておきながらまだ出せてません。すみませんほんとうにすみません)

もう一つの強い可能性を感じるサークルというか、グループとして「KAI-YOU」があります。歌人の武田俊氏を代表として、約六名のスタッフを抱え、新進気鋭のミニコミ雑誌『界遊』を制作しています。
彼らの雑誌がコンセプトとして「世界と遊ぶ文芸誌」を掲げるように、文芸を主旋律としてそこに様々な総合的なカルチャーを紹介するという体裁になっています。メジャーシーンで活躍する評論家、ライターをも起用しながら、現代詩なども積極的に掲載しており、非常にレベルの高い誌面になっています。
その一方で、メンバーの小説や掲載される創作が非常に見劣りするように感じられ、プロライターや企画物のユニークさと、同人誌的な文章との間にある種の乖離があるように見えるわけです。でも、『界遊』の可能性はむしろ、そのような乖離にこそあると言えるでしょう。『界遊』が、商業雑誌のクオリティを目指しながらその劣化版にならないでいる最大の要因は、まさしくそのような創作を積極的に掲載していくところにあります。もちろん『界遊』の創作は同人誌としては非常に高いレベルにありますが、その比較対象が商業雑誌の、しかも高いキャリアを持つ作家たちとなると分が悪い、ということです。(このあたりは実は、文芸誌に掲載されている文章は面白いはずだ、という僕の先入観も関係しているでしょうね。同人文芸の比較の対象が大作家になりがち、ということは、とてもおもしろい現象だと思っているのですが、本論から外れるので指摘だけにとどめておきます)。

■一緒に!

「.reviiew」や「KAI-YOU」は、同人というよりもミニコミに近い位置におり、彼らの活動もイベントを積極的に催しながら、Ustでそれらを配信しています。こうした活動は、もちろんゼロアカ道場で藤田直哉氏が2chに踊らされる形で、あらゆる状況を携帯型ビデオカメラ「ザクティ」でとりまくり、ネットにあげまくった「ザクティ革命」以降の、文章/批評系に近い人たちにとってはある意味見慣れた光景ではあるでしょう。
しかし、彼らは自分たちのPRであること以上に、雑誌以外の場所における自分たちのカルチャーを表出する場としてイベントとライブメディアを使用しているのです。彼らのような活動は、一見すると「同人」というフレームからはみ出るほどのアクティビティとアクチュアリティをもっています。彼らを同人とみなすことに抵抗がある人もいるかもしれません。たとえば、イベント運営を包括化するためにNPOになったり法人格をとったりするサークルも存在します。けれども僕には、彼らのように、多面的かつ多角的な活動を強い運動力と希望をもって行いながら、その基盤として文章を据えること。これが文章系同人の新しいモデリングと想像力の方向を指し示しているようにも感じます。特に「.review」では当初、『未来心理』のような半紀要半同人の紙面を目指していました。

「.review」と「KAI-YOU」は五月の文学フリマに合体ブースとして文学フリマに参加します。
こうした活動を行う人々が、書店での販売だけではなく「文学フリマ」という場に出ることの意味は僕らが考えている以上に大きなものがあるのでしょう。いままでの「文章系」として捉えていた、創造物/コンテンツを中心とする(というよりも、「紙」であることにアイデンティティのほとんどをもつ)サークルだけではなく、「活動のインフラを提供する者」や、「活動の領域を広げていく人々」が、同人たちの集う場所に出現すること。ミニコミと文章系同人は背反するものではなく、言語によって隔てられていただけではないだろうかという気さえ起こさせます。ここ――あえて文学フリマをそう呼びますが――には、まだまだ新しい想像力と文化圏を構築するカルチャーになるための可能性が潜んでいるのです。

キャリアパスがないことでフラットな関係性を取り結んでいる文章系同人に、上を目指すインフラを構築する。それはどうしたらできるのか、僕にはまだわかりません。ただ「破滅派」が法人化に向けて動きはじめていますし、このメルマガクリルタイのようにアッパー指向のメルマガもあります。そのほか、いくつかのインフラが文章系同人のDL販売などに期待をかけているようです。

同時に「趣味としての文章系同人」のレイヤーもより厚い層を作り出していかなければなりません。芸術、クオリティ指向だけではなくコミュニケーションの場や友人たちが集う場所としても同人は存在しています。僕の理想は、そうした多様な思い入れを持つ人たちが重層的に同期しつつ、それぞれの楽しみに合わせて「まるで遊ぶように」動いていく文章書き/文章読みたちが生きていける場なのです。その場を構築するための条件としてキャリアパスへの希望というものが必要になってくるのでしょうし、文学の危機/再生を叫ぶマッチポンプを打破するためにはどうしてもその「希望」が必要です。

独自の想像力と文化圏を構築し、さらにキャリアパスまで作り出した同人文化として、間違いなく同人音楽があります。私たちは、そのモデルを参照することができるでしょうし、その闇と光の両方を見比べることもできます。それも第四夜に行う予定ですが、音楽と違って文章にはもっと低いレイヤーへの介入も必要でしょう。それが「文章に興味をもってもらう」というレベルへの介入です。そこまで文章系同人は撤退を強いられているように思います。このレイヤーに関しては、いままで手薄だった国語/文学教育などからの参戦も期待されるところです。
(「TOLTA」というサークルが、「国語教科書のパロディ」を作ってました)。

■おわりに

これは結局かっこよくいっても同人→商業という回路を強化せよ、といってるだけに聞こえるかもしれません。実はそうなんです。ただし、コンテンツを作る人とそれをお金に変える人はそれぞれ別にいてもいいんじゃないかと思ってます。「商業」といった場合に、実際に『文學界』や『新潮』のようなメディアに掲載される作品を作る、というだけではなく、文章系同人をパッケージして商業に耐えうる形にする、という人や機構がでてきても構わないはずです。電子書籍や出版不況は、その意味で文章系同人のようなローレベルにおける裾野の広がりの起爆剤になる可能性をはらんでいます。
けれども、いまそのような商業に耐えうる=商業化する、ということは文章系同人に関して言えば非常に困難であろうと思います。
その理由を、次号で「アジェンダ・セッティング」として「同人音楽」の状況を参照しつつ、論じてみようと思います。

(安倉儀たたた)

「上京専門学校」としてのクリエイター系専門学校

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(「週刊メルマガクリルタイ」Vol.39(2010/04/28 配信分) の原稿を再掲)

■堀井雄二を知らないゲーム専門学生

先日ネットサーフィンしていたところ、ゲーム専門学校(以下『ゲー専』)の新入生に、講師が「堀井雄二を知っている人?」と聴いたところ、一人も手を挙げなかっということが話題になっていました。

※Togetter - まとめ「専門学校ゲーム科新入生が堀井雄二の名 を一人も知らなかった
 

堀井雄二氏といえば、言わずと知れた国民的RPG「ドラゴンクエスト」シリーズの産みの親。現在20代後半以上の「ドラクエ世代」であれば知っていて当たり前。たとえドラクエ全盛期以降の若者でドラクエををプレイしたことがなかったとしても、ゲーム業界を目指して専門学校に入って来るような「ゲームファン」であれば、名前くらい知っていて当然と思いたくもなる、ゲーム業界の大物です。

Twitterやはてなブックマーク等では、

・これから入ろうとする業界の超有名人も知らないなんて、びっくりした。
・ゲーム業界のこと知らなくても、クリエイターとしての能力とは関係無くね?
・世代的にドラクエがそれ程流行っていない時代の若者だし、知らなくてもおかしくない。
・知っていても周りに合わせて手を挙げなかった生徒が居るのかも。

…などと、賛否両論。

確かに「業界を知っていること」と「製作能力があること」はイコールではないし、いま知らなくても入学後に勉強して知れば良いという意見も解ります。若者特有の同調圧力の下、「空気を読んで」あえて手を挙げなかった生徒も、実際いたのではないでしょうか。

しかし、実際のところ…

真の問題は、そんなところにはないのです。この記事についたコメントの多くは、

「ゲーム専門学校をわざわざ選ぶくらいだから、ゲームが好きで、将来はそれを仕事にしたいという人間が集まっているのだろう」

ということを前提にしているように見えます。

しかし、これは前提からして大きく間違えています。ゲー専を進学先として選ぶ生徒のほとんどは、ゲームクリエイターになりたいという強い意欲を持っているわけでもないし、オタク的に消費者として「ゲーム大好き!」なわけでもありません。ましてや卒業後に実際にゲーム業界で働く人間など、5%もいればいいところです。

彼/彼女等の最大の目的は、「なんとかして地方から上京すること」、そして「東京で学生として青春を謳歌すること」にあります。ゲー専は、そのための方便に過ぎません。これが、ゲー専学生マジョリティの本音なのです。

そんな彼/彼女等が、堀井雄二氏の名前を知らなかったとしても何ら不思議ではありませんし、そもそも何の不都合もありません。彼/彼女等は「ゲームクリエイター志望者」ではなく、「上京志望者」なのですから。

なぜ、そんなことが解るのかって?

それは十数年前、僕自身がゲー専に2年間通い、その「実態」を目の当たりにしてきたからです。今日は、そんなゲー専の「実態」を、元生徒である僕の視点から語ってみようと思います。


■別にゲームクリエイターなんて目指していませんが、何か?w

ここまで読んだ読者のみなさんは、「な、なんだってー!」と叫びたくなったかも知れません。

実際、入学したてでウブだった僕も同じように叫び、そして絶望しました。当時の僕は極度のゲーオタで、「ゲームしか取り得がない自分は、ゲーム業界に入るしか生き延びる術は無い!」とまで思い悩み、決死の覚悟でゲー専の門を叩いたという、みなさんが想定する「絵に描いたようなゲーオタのゲーム専門学生」だったので(*1)。

しかし、考えてもみてください。高校生だった頃のあなたは、そこまで将来の職業や自分の適正に結び付けて、自分の進路を決めていたでしょうか? 違うと思います。多くの高校生は、まずは自分の偏差値を基準に行けそうな大学を何校か選び、その中から興味のありそうな分野の学科を「なんとなく」選んでいたハズです。

そして地方の高校生であれば、「できれば東京の大学で華やかな青春を…」という本音を隠し持っていた方も、多かったのではないでしょうか。中にはもっと露骨に、親から「勉強を頑張ったら東京の大学に行かせてやる」と「ニンジン」をぶら下げられ、受験勉強の励みにしていたという方もいるかも知れません。

メディアを通じ、東京の華やかな若者文化は、地方にも喧伝されまくっています。しかし、地方の若者は指をくわえてこの祭りを遠巻きに眺めることしかできません。実際に触れることができないからこそどこまでも膨らむ、東京への幻想…。

進学は、地方の若者がこの憧れを現実のモノにする、唯一無二のチャンスです。彼/彼女等が若い好奇心をもてあまし、勉強するためではなく東京で遊ぶために上京したいと願ったとして、誰が咎められましょう?

ゲー専を進路に選ぶ学生も、同じです。ただ、彼/彼女等は勉強が得意ではなかったので大学へ行けず、結果として試験の無い専門学校を選んだ。それだけのことです。

これは、ゲー専の専売特許ではありません。音楽、ファッション、アニメ、声優、etc…これら若者が憧れを抱きがちな「クリエイター系」専門学校は、どこもこうした「上京志望者」溢れかえっています。

「大学行けるほど頭よくない!でも上京はしたい!!」

こうした学生は、これらクリエイター系の専門学校の中から、それまで自分が親しんできた文化に一番近そうな学校を「なんとなく」選んで上京していきます。そこには、クリエイターになろうという強い決意などハナからありません。

それどころか彼/彼女等は、就職のことすらどうでも良いと思っているフシが見受けられます。彼/彼女等の多くは、卒業年度になっても就活など行いません。遊び続けます。2年間なり3年間なり、学生として東京で青春を謳歌できればそれで良いのです。その後のことなど知りません。

実際、中部地方に住む僕の親戚は、「高校でギターを少しいじくっていたから」という理由だけで、上京目的で音楽系の専門学校を選び上京。2年間遊びまくった後、半年ほどのフリーター生活を経たところで親から地元への強制帰還を命じられ帰郷。親のコネで、地元の土木関連会社に就職していきました。これと全く同じような事例を、僕はゲー専で数多く目撃しています。

「ただなんとなく、何の役にも立たない勉強をしている大学生の俺たちと違って、やりたいことがハッキリしていて将来に繋がる勉強をしている専門学生が羨ましい」

専門学校にこのような幻想を抱いている現役大学生を、ときどき見かけます。しかし、大学生のこうしたボヤキを見かける度に、実際に専門学生だった僕は思うのです。「専門学生も同じだよ。ただ、彼/彼女等は、頭が悪くて大学に行けなかっただけなんだよ」と。

「大学生と異なり、専門学生は専門的で社会の役に立つ『実学』を勉強をしている」などという考えは、専門学校の実態を知らない人間の幻想です。

専門学生も大学生も、モラトリアムの延長として「なんとなく」入学し、「なんとなく」卒業していくという点は同じです。しかし、専門学生が大学生とは決定的に異なる点が1つだけあります。それは、「専門学校を出ても、社会から認められる学歴にはならない」という、身も蓋も無い事実です。

卒業歴が何の役にも立たず、学校では遊び呆けて技能のひとつも身につけずに卒業していく専門学生がその後どうなってしまうのか?それは、推して知るべきでしょう(*2)。

(*1) 当時の僕のごらんの有様については下記URLを参照。
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.nextftp.com/140014daiquiri/html_side/hpfiles/otaken/case02_1.htm

(*2) もっとハッキリ言えば、卒業生の進路は概ね「ニート/フリーター/地方の実家に帰る」の3択です。

■上京希望学生と専門学校の共犯関係

さて、こうした「上京志望者」が学生の多くを占めていることは、専門学校側も気付いています。

しかし、専門学校がこのことを咎めることは、一切ありません。入学して金さえ払っていただければ、やる気のある生徒も無い生徒も、学校にとっては平等に「金ヅル」に過ぎません。完全営利団体である私設専門学校にとって重要なのは「入学していただくこと」であり、その理由ではないのです。

それどころか専門学校は、上客である「上京志望者様」に入学していただくために、あの手この手で手の込んだアピールを行っています。

たとえば、校舎の設立場所。僕が通っていたゲー専は恵比寿にありましたが、実は恵比寿はいくつものクリエイター系専門学校が乱立する「専門学校激戦区」なのです(特に○○○○グループ)。

なぜ、恵比寿にはクリエイター系専門学校が多いのか?

それは、立地にあります。恵比寿は、JR山手線渋谷駅の隣、東急東横線代官山駅から歩いて10分程度の場所。日本が誇る若者ファッションの聖地、原宿までも2駅という、若者が憧れる「オサレシティ」です。

東京に憧れる地方の若者が上京を考えたとき、こうした条件を揃えた「恵比寿にある学校」は、とても魅力的に映ることでしょう。学校帰りにふらっと代官山へ立ち寄り、服を見たりカフェで食事をしたりする。あるいは渋谷のクラブへ遊びに行く。嗚呼、憧れのファッショナブルな都市生活が、いまここに!

実際、僕が通っていた学校にもこうした「リア充」的な学生生活を送っていた生徒はいて、最新のファッションに身を包んだオシャレな雰囲気のグループが、学年には一定数存在していました(*3)。

ここから見えてくるものは、「上京志望者」と「専門学校」の共犯関係です。専門学校は、学生に上京の「建前」を提供する。そして学生は、その「建前」を盾に親の金を使って上京。東京で「夢のリア充的青春」を謳歌する。被害者は、生徒・学校の双方に騙され、数100万円の大枚を実際に支払う、生徒の親。

クリエイター系専門学校は、表向きは実務を教える教育機関ということになっています。しかしその裏にある真の役割は、「地方の勉強ができない若者が、上京するために親を説得する建前を与える」ことにあります。

大学のレジャーランド化が叫ばれて久しい昨今ですが、クリエイター系専門学校は、レジャーランド化どころの騒ぎではありません。クリエイター系専門学校こそは、地方の若者の真撃な上京の願いを叶え、輝かしい青春を約束する夢の国…ディズニーランドそのものなのです。

(*3) 当時の僕はファッションやらには一切興味がない、ゲーオタだったので、「学校から歩いて10分の場所に代官山がある」なんてことも知らずに卒業したわけですが。…え?Masaoは放課後とか何して遊んでたのかって?90年代終盤のゲーマーが出没する場所といえば、アキバのトライタワーか新宿西口スポーツランドに決まってんだろjkwww

■『上京専門学校』の機能は必要悪だ!?

ここまで、クリエイター専門学校の実態は「上京専門学校」であり、専門学校側もそのことは充分に承知のうえで「上京志望者」と「専門学校」の間で共犯関係が成立している、と書きました。

こう書くと、クリエイター系専門学校は、本当にどうしようもない詐欺集団だと思われるかも知れません。しかし、クリエイター系専門学校の「上京専門学校」としての役割は、実はこれはこれで重要な機能なのではないかと僕は思うのです。

前述したように、地方の若者はメディアによる東京への憧れを煽られまくっています。しかし、大学へも通えない学力の低い若者には、この憧れを昇華するチャンスは一生与えられません。東京への憧れを抱えたまま地方でモンモンと一生を過ごすよりは、若いうちに思い切り東京を経験し、「こんなものか」と現実を知ることも、一つの大切な人生経験ではないでしょうか。

また、クリエイター系専門学生の大半は、これまで書いたようにまったくやる気の無い「上京志望者」ですが、ほんの一握り、やる気に満ち溢れた学生も居ることは居ます。放課後も遅くまで学校に居残り、授業にも熱心で、作品を作る眼差しは輝きに満ち溢れている、まさに「世間が考える理想の専門学生」といった趣の学生が。

そうした学生の多くは、実際「業界」に就職していくのです。最終学歴が専門学校なので、一部上場しているような大手企業に入社することはまず無理ではあるのですが、小さなソフトハウスなど、業界の片隅で希望した職種につくことができた人間は、僕の周りにも何人かいましたし、僕自身、ゲー専から小さなゲーム開発会社に入社しています(*4)。

専門学校が回収した「上京志望者」が運んでくる大量のマネーは、そうした「やる気のある学生」の教育資金に回されているのだ…などと考えるのは、都合が良すぎる考え方でしょうか?

しかし実際、僕が通っていたゲー専では、卒業近くの授業はほとんどが卒業制作のための自習時間に当てられ、講師は「やる気のある生徒」の質問に答えるためだけにそこに居るという、「やる気のある生徒のためだけの」授業形態になっていました。

こうした視点から見ると、クリエイター系専門学校の「生態系」は、「上京志望者」と「やる気のある学生」、相反するふたつのタイプの生徒の「真のニーズ」に共に応え、かつ学校経営も両立させるという、営利団体としては非常に理想的な循環になっているように思われます。

もっともこの理想郷は、上京志望者の「親のスネ」によって支えられています。クリエイター専門学校は、生徒・学校双方の牙にかけられた親のスネから流れ出る赤い鮮血にまみれた、「血塗られた理想郷」なのです。

さらに、この理想郷を出た後、学歴も技能も持たずに社会へと巣立っていく生徒がどうなるのかについて、専門学校は何も関知しません。

しかし、それら全ては生徒の自己責任ということなのでしょう。クリエイター系専門学校に行くという選択をした因果は、最終的には生徒本人に舞い戻ってくるのです。それがどのようなものであれ…。


(*4) もっとも、過重労働、過小賃金のブラック経営が基本のクリエイター系中小企業に「若気の至り」で入社することが、彼/彼女等の人生においてはたして幸せなことなのかもまた、定かではありません。

(Masao)

星野仙一という既得権

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(『奇刊クリルタイ増刊 「dorj(ドルジ)Vol.2」All About Sports』に寄稿した『「星野本」研究」~「プロ野球監督・星野仙一」とは何者なのか?~』を改題・改稿の上掲載)

■はじめに

「燃える男」星野仙一。現役選手として146勝121敗34セーブ、監督としても920勝(歴代13位)、リーグ制覇3回という立派な成績を挙げ、2011年シーズンからは東北楽天ゴールデンイーグルスの監督として手腕をふるっている。だが、それよりも特筆すべきはその膨大な数の「星野仙一研究本」である。星野は87年の中日(第一期)監督就任時から数十冊の星野仙一関連本が出版されている。だが、野村克也や長嶋茂雄はともかくとして、仰木彬や上田利治といった監督は通算勝利も、リーグ優勝数も星野よりも多く、かつ、両者とも星野にはできなかった日本一を達成しているにも関わらず、「研究本」の数では星野にははるかに及ばない。こうした落差はなぜ生まれるのであろうか。星野の「マネジメント論」の中身となぜ星野仙一が日本社会で必要とされているのかを明らかにするのが本稿の目的である。

■「マネジメント能力」の正体

ここではまず「星野仙一研究本(星野本)」の中身について考えていきたい。星野は通算4度、北京オリンピック日本代表監督(2008年)も含めて5度監督になっている。監督歴は1987年から現在に至るまで、断続的に「星野本」が書かれているが、その多くには星野の次の部分を取り上げている。

1:数々の大トレード・粛清を断行した決断力・・・中日時代(第一期)の落合博満獲得時の5対1のトレードや、阪神時代、2002年オフに24人(全選手の3分の1)を解雇した。
2:球界全体に及ぶ人脈力・・・出身球団である中日内部だけではなくON=王、長嶋を始め川上哲治や根本陸夫、果てはあのナベツネ(渡邉恒雄 読売新聞グループ本社代表取締役会長・主筆。読売巨人軍会長)に至るまでプロ・アマ問わず広範囲に人脈を築いた
3:後援会をバックにした集金力・・・星野の人脈は野球界だけにとどまらず、政財界にも及ぶ。そうした政財界関係者を後援会に組織、潤沢な資金をもって中日時代(第一期)には報奨制度で選手を鼓舞した
4:恨まれるはずの人間からも慕われる人間力・・・中日時代(第一期)には落合の交換要員としてロッテにトレードした牛島和彦にも気配りを忘れず、結果として本来恨まれるはずだが、現在に至るまで関係は良好である

こうしてみてみると星野は野球監督の采配それ自体よりもマネージャー・GMとしての能力を評価されている。事実、「星野本」では第一期中日監督時代に落合を獲得した5対1の世紀の大トレードや、阪神監督時代の24人大粛清は必ず取り上げられるが、「星野本」における星野の「采配」それ自体に関してはは驚くほど印象が薄い。これは星野の野球理論自体は極めてオーソドックスなものであるのと同時に「監督としての日常の実務はほぼすべてといっていいほど」長年の盟友でありヘッドコーチであった故・島野育夫に任せていたためだろう(星野仙一『シンプル・リーダー論』2005年 文藝春秋より)。ただし、こうした「采配をヘッドコーチに任せていた」ことをもって星野には監督としての資質がない、というつもりはない。だが、 一方で疑問に思うのはこうした、星野のマネージャーとしての能力の源泉である。
「マネージャー・星野仙一」の原点は、一つは自身の幅広い交友関係から様々な形で監督としての管理術を学んでいった事があげられる。星野自身の手による『改訂版 星野流』(世界文化社 2011年)ではその過程を以下のように描写している。

監督になる前、NHKの解説者でいた時に、将来はいずれ監督をやるつもりでいたのでNHK仲間である川上(哲治)さんや藤田(元司)さん、広瀬淑功(元南海ホークス内野手)さんといった大先輩からいろいろ勉強するチャンスがあった。


とりわけ、当時NHK野球解説の大物にしてV9時代に「悪の管理学」を完成した川上からは大いに学んだとのことである。
もう一つは明治大学時代、御大こと島岡吉郎に鍛えられた事が大きい。島岡とのエピソードはNHK人間講座(2004年8~9月分)『人を動かす 組織を動かす』に詳しいが、ふがいないピッチングをした星野と島岡は「グラウンドの神様に謝る」と称して雨の降る深夜の練習場のグラウンドでパンツ一丁土下座で謝ったという。
このエピソードに象徴されるように、島岡はいわゆる精神論者である。
玉木正之にその点を聞かれた星野は以下のように答えている。

玉木 しかし島岡監督は、典型的な精神野球論者で、野球の理論は全く知らないという声がありますよね。だから星野監督も選手を殴るんだという人もいますが・・・。
星野 それは、島岡さんを知らない人のいう言葉だよ。そりゃ、あの人はバットの出し方とか投球フォームのような、技術論には詳しくない。(中略)野球に賭ける情熱とか、また、野球を通して人の心を掴むこととか、もう、じつに様々な事を学んだ。
『監督論』玉木正之 1988年 NESCO


つまり、星野はここで島岡流の精神論が自分の管理手法の源流にある事を認めている。問題は「星野本」のストーリーラインとして1~4の「力」は星野の「人間力」によって培われたという事になっていることだ。

■素晴らしき哉、人間力

前段で「星野本」のストーリーラインとは「星野のマネジメント論の根底にあるのは実は恩師から受けた教育であり、結果培われた「人間力」によるものである」と述べた。つまり、星野の優れた「人間力」によって、敵であるはずの人間ですら味方につけ、味方を後援会に組織し、豊富な資金をバックに選手を獲得する。これらは全て星野の「人間力」あってのことだ、
「星野本」のストーリーラインを要約するとこうした結論になる。
例えば前段に挙げた川上哲治。川上は巨人のリーグ戦9連覇(V9)を達成した監督だが、その川上をして星野に「全面協力」を申し出させている。中日ドラゴンズという球団は親会社同士が同業種ということもあり、巨人をことさらライバル視している。中日ファンの中には巨人が最下位であれば中日は5位で良いという人間すらいるのだ。そうした環境に身を置きながら、ライバル球団のドンとも呼べる人物に師事する。星野の「人間力」を象徴するエピソードである。
もう一つ。阪神監督だった星野は2002年オフに大補強として金本知憲、伊良部秀輝らを獲得。これが結果として阪神の優勝につながるが、金本獲得について星野は前掲『シンプル・リーダー論』にて次のように語っている。

たとえハダカになってぶつかっていくにしても、カネで釣らない、その場限りの巧いことはいわない。心意気を第一義に、お互い両天秤にかけて腹を探り合うようなことはしないという掟は同じだ。
どんな交渉ごとでも取引でも大事なのはかけ引きではない。誠実さとか、信頼感とか、いうなれば「信義」だ。(中略)だから、わたしが出ていくともう「一緒にやらんか。一緒になってチームを強くしていってくれんか」というだけのことだ。


つまり、星野は選手獲得であっても条件ではなく自分の「人間力」、ここでいうところの「誠実な人柄」によって成功するものだ、としているのだ。

■監督・星野仙一が人気な理由

星野の「マネジメント論」が「人間力」を根底にしたものだとして、では星野はなぜ支持されるのだろうか。一つは、星野の「マネジメント論」が社会が「スポーツ」に対して単なる娯楽以上に期待されている事に合致するからだ。星野の言う「人間力」は「道徳」に容易に転嫁する。前掲『星野流』から星野の「道徳」言説を拾ってみよう。言うまでもなく、星野は体罰肯定論者である。その名も「点火のためには、時には殴る、それがどうした」と題して星野はこう綴っている。

こういう話になるとすぐ星野は体罰容認主義だ、現在の教育制度をりかいしていないんだと誹謗中傷を受けるのだが、逆にわたしは百歩譲っても、ことあるごとに本当の責任がどこにいくのかもわからない、誰もが痛くもかゆくもない、ただ穏当でだらだらした場当たり主義の形式や便法に走って、本来的な厳格性を二の次にしがちな今の風潮なり、考え方なり、そうした制度というものの方が余程、断然苦々しい。(中略)「厳正な態度の周知徹底」という、簡単で誰にでもぽっとわかるような一番大切な「教育の原点」がどこかに行ってしまうと、お互いにもっとどんどん始末の悪い事になっていくのではないかと思っている。


もう一つ。星野が今の若者について語った部分を引用する。

今の若い選手は子どもの時から、人や周囲からあれもこれも全部「答え」を出してもらって育っている。親や先生があれもこれも、手取り足取りして教えてくれる。冷蔵庫を開ければすぐ食べられるものがあり、テレビのスイッチをつければ憶えきれないほどの情報や見たいものが見られる。勉強していてわからないことがあればガイドテキストでも、パソコンでもなんでもすぐに調べれられる。答えも情報も周囲に身近にあり過ぎて、逆に身につかないでいることが多いものだ。「成果」というものは多少の練習や努力ではすぐに出るものではないのだが、すぐに答えなり成果が出てこないとすぐに諦めたり、自分でなかなか本気になってやろうとしたがらない。


こうした発言を例えば石原慎太郎がしたものだと言われても全く違和感がないだろう。つまり、星野の語る人間論とはほとんど「道徳」であり「保守」なのだ。というか、こうした発言をするからこそ星野は人気なのだ。スポーツをする事によって本人の人格形成に役立ち、「良き社会人(そこには多分に「保守主義者である」という意味も含まれる)」として生活する。そうした社会の要請に対して星野の「マネージャー論」は実に巧妙に応えているのだ。
もう一つは、星野が「団塊の世代」である、ということだ。数々の「星野本」に共通する記述として星野を「我ら団塊世代の~」と表現する事からも星野が団塊世代からとりわけ支持される人物であることがわかる。1947年生まれの星野は団塊の世代ど真ん中。この年代も星野を始め、山本浩二、田淵幸一等、数々の名選手を輩出した。だが、名選手が名監督だとは限らない。この中で唯一監督として優勝経験のある山本浩二も優勝回数は1回。しかも、2008年の北京オリンピックには守備走塁コーチとして監督・星野の下にコーチとして入閣している。つまり、事実上、団塊世代が「我らの監督」として唯一思い入れを持って応援できる存在が星野なのだ。
数々の「星野本」を上梓しているライター・永谷脩は、その名も『「団塊の世代」1,000万人への熱きエール 星野仙一の悪を生かす人づくり』と題した「星野本」の内でこう書いている。

昭和十年代生まれのリーダーは、社会でも球界でも長いあいだ君臨してきた。その一方で、昭和三十年代生まれのニューリーダーの突き上げにあい、なんとなく存在感を失い、元気をなくしているのが「団塊の世代だ」。
全国1,000万人ともいわれる団塊の世代は、リストラなどいちばん激しい状況に置かれ、年金などでもワリを食い始めている。そんな世代にとって星野の頑張り、同世代に元気を与えてくれたことは確かだし、不況のなかで関西圏への2,000億円の経済効果は、夢を運ぶ職業の人の手によって可能となってくれているような気もする。


これが、最も本音の部分での星野が支持される最大の理由であると思われる。金と暴力による支配から部下の自主性を重んじ、やる気を引き出すという管理手法の変遷、中日ドラゴンズから阪神タイガース、そして日本代表監督とステップアップしていく星野の姿はそのまま団塊世代の歩んできた道そのものであり、彼らの夢をも象徴しているといえるのではないだろうか。

■星野仙一という既得権

本稿では、監督・星野仙一のマネジメント論には「人間力」教育があり、星野の人気の秘密は、社会の要請としての「人間力」教育に実に巧妙に応えている、ということにあるところを確認した。組織のマネジメントに一定の正解はない。組織の数だけ、それに見合ったマネジメントの形がある。
だが、問題は、あまりにも安易に人間力とマネジメントを結び付けることにある。先に述べた通り、星野の「人間力」とは容易に「道徳」に結び付くのだ。そして、それは島田紳介や和田アキ子に代表される「ヤンキー」や石原慎太郎らの「保守」とパラレルに繋がっているのだ。そうした星野がもてはやされる構図は日本の既得権の構造そのものである。
星野仙一という男はどこに向かうのか。すでにかなりの高齢となったONに続く野球界全体の指導者として星野はうってつけだったはずだ。中日、阪神で優勝した後、北京オリンピックの代表監督に就任。ここでメダルを獲得し、続くWBCでも好成績を残し、野球界においてONと同等かそれ以上の影響力を持つ、これが星野が描いていた青写真であろう。だが、結果はオリンピックで惨敗。猛烈なバッシングを受ける。WBCでは下の世代の原辰徳が監督になり結果は見事優勝。セイバーメトリクス(※1)のような指標に対してそして星野仙一的な「精神論的」マネジメント手法は既に陳腐化しつつある。それでも上下の世代に挟まれて身動きの取れず、監督を続けるしかない星野。「星野仙一物語」としてもこの結末は尻切れトンボであろう。だが、星野はそう遠くない未来に「プロ野球の監督としては」花道を飾ることができる(※2)。だが、真に悲惨なのはその尻切れトンボの物語に付き合わされた組織の人員なのではないか。星野のこうした佇まいは漂流する団塊世代と彼らによって迷惑を被る若者世代の構図そのものだとは言いすぎだろうか。


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著者:クリルタイ
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※1 野球においてデータを統計学的見地から客観的に分析し、選手の評価や戦略を考える分析手法。『マネー・ボール 奇跡のチームをつくった男』(マイケル・ルイス ランダムハウス講談社)などに詳しい。

※2 これは、「それなりに成功したプロ野球監督」として野球人生を終える事を意味しており、明らかに「その先」を目指していたであろう星野にとってはこれは失敗である。だがこうした私の考えが間違っている可能性ももちろんある。それは楽天を率いて日本一を達成した時か、WBCに優勝した時だろう。いち野球ファンとしてその時がやってくる事を(一応)心待ちにしている事はいうまでもない。

参考文献
星野仙一『改訂版 星野流』2011年 世界文化社
星野仙一『シンプル・リーダー論―命を懸けたV達成への647日 (文春文庫) 』2005年 文藝春秋
星野仙一『星野仙一のインターネット熱闘譜』1996年 ごま書房
星野仙一『ハードプレイハード 勝利への道』2000年 文藝春秋
星野仙一『勝利への道』2002年 文藝春秋
星野仙一『人を動かす組織を動かす (NHK人間講座)』2004年 NHK出版
永谷脩『星野仙一 「世界一」への方程式―トップを目指し続ける男の「頭の使い方」』2008年 イーストプレス
永谷脩『星野仙一「戦い」の方程式―「今いちばん期待される男」のリーダー学』2002年 三笠書房
永谷脩『星野仙一の悪を活かす人づくり―「団塊の世代」1000万人への熱きエール 』2003年 二見書房
星野番記者グループ『星野仙一―魅力ある男だけが生き残る 新しい時代の管理学 星野仙一―魅力ある男だけが生き残る 新しい時代の管理学』1988年 学習研究社
玉木正之『監督論―星野仙一の戦略と戦術』1988年 NESCO

電子出版市場と文章系同人の可能性は?

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(「週刊メルマガクリルタイ」Vol.36(2010/04/07 配信分) の原稿を再掲)

2009年12月、第九回文学フリマで頒布した中で、大塚英志『物語の体操』を実践した『bnkr』Vol.2が、Amazon電子書籍リーダーKindle版をリリースしました。

また、『bnkr』で表紙・装丁を担当なさっている『大東京トイボックス』うめ氏が、1月に『青空ファインダーロック』をKindleで発表され、話題騒然となったのも記憶に新しいところです。

http://www.amazon.com/dp/B0035LDN7I

3月には、イラストレーターの安倍吉俊氏が、過去に発表した同人誌『宇宙人ですが質問です01(I am an Alien. I have a Question.01)』のKindle版の販売をはじめました。

http://www.amazon.com/dp/B003B66J50
このように、特にマンガの分野では、出版社・取次を介さずに作者自身がKindle版を発表する、という潮流が出来つつあります。

もともとマンガと電子書籍は非常に相性が良いです。また、ちょっと書店で購入し、本棚に並べるのに躊躇するような、ボーイズラブやアダルトマンガ本なども希求が高くなっています。電子書店パピレスのベストセラーも、BL・アダルトにハーレクインが上位を独占しています。

※参考 
http://www.papy.co.jp/act/static/best/010.htm
http://www.papy.co.jp/act/static/best/045.htm

現在、最新の電子書籍市場の動向を調査したものは、インプレスが毎年発表している『電子書籍ビジネス調査報告書』になります。昨年7月の時点で発表されたものを参照すると、2008年度の電子書籍の市場規模は464億円、そのうち402億円がケータイのものになります。

http://www.impressrd.jp/news/090708/ebook_ecomic2009

前述した理由もあって、ケータイ電子書籍のうちの約8割はBL・レディコミ・アダルトといった分野が占められています。「めちゃコミックス」などといった携帯マンガ配信サイトでの人気作も竹書房などで人気のアダルト系作家の短編が多い印象があります。

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さて、上記のような状況をもとに、文章系同人・ミニコミサークルが電子書籍で出来ることはどのようなことがあるのか、簡単に考えてみたいと思います。

まず、踏まえておきたいのは、報道の加熱や期待の膨張とは裏腹に、Kindleはまだ日本にあまり台数が入ってきていない、ということです。先日、電子出版を勉強する集まりに参加させて頂いたのですが、40名ほどの出席者の中でKindleを持参してきたのはわずか1名の方のみでした。関係者のうちでも、その程度の所有率ということは、現状ではコンシューマのレベルではほどんど市場がないと判断することが妥当でしょう。
また、Kindleは日本語対応しておりませんので、現在先行してリリースする意味が薄い、ということもあるのでは、と考えられます。PDFの読み込みということは可能ですが、そこからリンクを飛ばすなど、紙の本では出来ないようなことを盛り込むのも難しい状況では、面白みもないし、あえて電子出版の道を探る意味もなくなります。
今後、状況は逐次変わってくるでしょうから、タイミングを見計らってリリースできる体制を整えておくことは悪い選択ではないでしょう。が、「その時」はまだ先なのではないのではないでしょうか?

一方で、アップルのiPhoneは全世界で累計3000万台を超えたといわれ、日本でも着実に台数を増やしています。また、4月にはiPadの発売が北米で開始され、本格的な電子出版のデバイスとしても期待されます。また、AppStoreという配布・課金のプラットフォームがあるということも魅力の一つです。
ただ、PDFをそのまま読み込むことが可能で、PCなどでも読む環境が整いつつあるKindleに比べると、アプリケーションの開発が必要になるなど、下手をすると印刷と同程度の費用がかかってしまうことになります。
これを回収するためには、500~1000冊という販売実績が必要になりますが、コグレマサト氏・いしたにまさき氏共著の『ツイッター 140文字が世界を変える』のiPhone版でも、お伺いしたところ数百冊というダウンロード数とのことでした。

個人的には、出版社勤務時代に雑誌電子化・ダウンロード販売という事業に携わった経験から判断するに、電子出版の時代は必ずしも報道や世間で言われているような「バラ色のセカイ」が広がっているとはどうしても思えません。
しかし、それでもマンガに限らず、文章系同人・ミニコミサークルが、KindleやiPhone・iPadといったデバイスに対応していくことはトライする価値があるように考えます。まず、現状では出版社・取次といった流通が介在していない分、作者の意図により沿った作品を世に問うことが出来ること。次に、共通のフォーマットがない分、自由な表現が可能なことがその理由に挙げられます。
例えば、Webサイトとの連動、音楽・映像を盛り込んだコンテンツ化など、これまで紙の本では出来なかった表現の可能性は、無限に広がっています。
KindleやiPhone・iPadの電子出版の市場は、今ならまっさらなフラットな土壌です。そこで勝負してみるのは、チャレンジングですが同時にエキサイティングな試みにもなるでしょう。

私たち『クリルタイ』でも、そういった取り組みに敏感になっていきたいと考えております。現状走りはじめている案件も実はあったりするので、是非ともご期待ください。よろしくお願い申し上げます。

(Parsley)

中二病の文化誌その6 「『メタ中二病』の時代」

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(「週刊メルマガクリルタイ」Vol.36(2010/04/07 配信分) の原稿を再掲)

前回の連載で「中二病マンガ」は「中二愛読マンガ」と「メタ中二病」に分かれると書いた。今回は「メタ中二病」にスポットをあて、その構造を解読していきたい。
「中二愛読」が「ベタ」「ガチ」であるのに対して「メタ中二病」のそれは「メタ」。つまり、「メタ中二病」とは、「中二愛読的な世界観が『イタい』事を前提としてあえてそれを取り上げる」作品群の事を指す。

例えば、田中ロミオ『AURA‐邪王院龍牙最後の事件‐』。『AURA』の主人公は元中二病(作中では「戦士妄想」)患者。色々あって、主人公自体は中二病を克服し、高校で「デビュー」を飾る事に成功する。でも、彼の「勝ち組」としての日々は長続きしない。教科書を取りに帰った学校に「異世界の魔女」がいたその日から。

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『AURA』の物語としての面白さの大部分は「『中二病(邪気眼)という病があり、それがイタい』という前提」のもとでストーリーが語られている、という点に負っている。つまり、『中二病』という「病」に対しての理解が作者と読者の間に共有されていなければ必ずしも面白くはないという点で『AURA』は中二病をメタ視点的に取り扱っている。
もうひとつの「メタ中二病」作品が本谷由希子『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』(2005年 講談社)である。

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『腑抜けども~』の何が面白いのか。それは主人公の澄香のがイタいからだが、彼女の「イタさ」とは、「女優に客観的(才能的にも環境的も)になれそうもない」のに本人は女優になる気マンマンで、ど田舎でも女優として振る舞ってしうまう『イタさ』」で、ある。
つまりこちらも、『中二的病な自意識がイタい』事を前提としたブラックユーモアなのだ。

「メタ中二病」作品の物語の構造を「中二愛読」作品との対比で見てみよう。

・「非バトルマンガ」である事が多い
・主人公は普通の中学・高校生である事が多い。そして、物語中で何も起こらない。
・「何らかの形で「秘められた力」がある」 という設定もしくは、それにあこがれる自意識が問われる事が多い。
・多くは日常のつまらなさや、「非日常にいけないこと」が物語のモチーフとなる。
・「非日常(≒中二病)に憧れることは『イタい』」という前提をもとに書かれている。

では、こうした「メタ中二病」が生まれた原因はなんだろうか。恐らく、中二病直撃世代が作り手側に周るようになった事に尽きるだろう。
中二病直撃世代とは、中二病=邪気眼を誘発するようなコンテンツ群を思春期のまさに「中二」時代に受け取った人々を指す。
思えば、90年代中盤から後半にかけての時代は「中二病=邪気眼」の黄金時代であった。
セフィロス・クラウドのキャラ(大剣含む)がその後の中二病=邪気眼にあまりにも大きな影響を与えた『FF7』が97年発売(『AURA』の主人公はセフィロスのコスプレをしていたのだった)。同じく『ベルセルク』もアニメ化されたのが 97年、私自身も大好きな『スプリガン』が90~96年にかけて連載(大友克弘制作総指揮による映画化は97年)、そして90年代は2D格闘ゲームの黄金時代でもある。SNK『キング・オブ・ファイターズ』が始まったのが94年である。そして、90年代の自意識語りコンテンツの総本山たる『エヴァンゲリオン』が95年から放送開始。これらはその物語構造・キャラ造形の面で大変「邪気眼」を誘発させやすいコンテンツ群であった。
さらに、伊集院光によって中二病が「発見」されたのは1999年であり、それまでそうしたコンテンツを「ベタ」に受け取る事が「イタい」という事は広く概念として一般化していなかった。
これらの理由により、中二病黄金時代を経た作り手たちが2000年代に入り続々とメタ中二病コンテンツを作り始めた。
これが「中二病」という病の隠された歴史の一端ではないだろうか。

(republic1963)

「非実在青少年」問題とゾーニングについての一考察

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(「週刊メルマガクリルタイ」Vol.37(2010/04/13 配信分) の原稿を再掲 なお、本原稿は2010月時点の原稿であり、その後の「非実在青少年」問題の進展については考慮しておりません)

先月末2010年3月のこと、「東京都青少年健全育成条例」の改正における「非実在青少年」の話題がTwitter上でにわかに話題になったことは、このメルマガの読者のほとんどの方は覚えているでしょうか。

非実在青少年とは、「年齢又は服装、所持品、学年、背景その他の人の年齢を想起させる事項の表示又は音声による描写から十八歳未満として表現されていると認識されるもの」を指し、年齢設定が18歳未満であるキャラクターを表すための新造語です。これはキャラクターの設定年齢が成人であっても、外見として18歳未満と判断された場合、同様に非実在青少年として規定されます。

この条例が大多数の反対派によって問題視されたことの理由は、ほとんどが以下の1点に尽きます。
外見が18歳未満のキャラクターを判別する基準は何なのか。それは都の職員ほか、限られた人間による主観によるものであり、簡単に恣意的な判断による創作物への規制を行うことができます。つまり、18歳未満であると判別する明確な基準やルールを作ることなく、「あ、これは駄目ですね」「じゃぁこれもダメですね」という形の規制がまかり通ってしまう可能性を持った条例が作られようとしているわけです。

当然、目的は「ロリエロ漫画の根絶」であるのかもしれませんが、ただそれだけでなく、この条例をきっかけに全ての創作物に対して恣意的な規制をかけるような風潮が出来上がってしまう可能性もあります。
じゃあ基準を作ればええんかいな、というとそれもまた色々とややこしい議論になり、今日書きたい内容からはだいぶズレてしまいますので、機会のある時にでも僕の意見は述べさせていただきます。

この条例の騒動をきっかけに、二次元の創作物の中で過度な性表現、未成年キャラクターへの性表現を許していいのかどうか、ということが多く議論されました。

「犯罪を引き起こすきっかけになる」
「論拠は?数字出してよ」
「さすがに許せない表現もあるのではないか」
「表現の自由の侵害だ」
「現実と妄想をごっちゃにしすぎ」
「僕の生きる活力を奪わないで!!!(僕」

等々、誰が正しいのかは、今後の日本の未来が決めてくれるのでしょうが、最終的に多くの支持を集めていた意見は、「子供への教育の徹底」と「ゾーニングの強化」になります。

親が子に対して「見せない努力」をすることがまず先決なのではないか、現実と妄想を混濁させないような教育を徹底するべきなのではないか。デジタル社会、オタクコンテンツ全盛期における教育の方法を見直すべきではないかという意見。

そして上記においても示した「見せない努力」である、ゾーニング。性的表現の含まれる商品に簡単に子供が触れられる現状、インターネットにおいて苦も無くエロ画像を取得出来るインフラの穴を改善すべきではないかという意見。

確かに、どちらの意見も、現状の社会ではあまり機能していないように思えますが、果たして実際はどうなのでしょうか。

長い前置きとなりましたが、今回僕が話したいのはこの「ゾーニング」の現状がどのように機能しているのかという点になります。

※この話を最後まで読むと、恐らく「秋田書店のあれみたいなのが悪いんだよ!」という意見が持ち上がるかもしれませんが、それはまた別の機会に。

約2年ちょっと前になるでしょうか。僕が某チェーン書店(ここではT店とします)の秋葉原店に勤めていた頃の話です。
T店は主力の商材が一般向け商材、成年向け商材半々というベースであり、ややもすれば成年向けに比重が集まるようなお店であったことからか、当時はゾーニングに対してそこそこ敏感であり、以下のような施策をとっていました。

(1)低階層フロア(1F、2F)には成年向け商材を置かない。
(2)成年向け商材には成年向け商材であると分かる表示をつける。
(3)未成年と思しきお客さんが商品を購入しようとした場合、身分証の提示を義務付け、提示してもらえない場合は販売をお断りする。

これだけでも当時の基準からいえば、それなりに立派なゾーニングを形成していたのですが、大きな問題点が一つありました。それは、フロアに対しての未成年入場禁止を表示していなかった、という点です。

T店はその商材が特殊なものゆえに、一般向け商材と成年向け商材を混濁して販売するケースが多く、18歳未満のお客さんでも成年向け商材が置いてあるフロアに入場することはできたのです。もちろん購入の際に止められるかどうかは別としてですが。
しかも問題はそれだけでなく、フロアに入場した時、目の前に陳列されているのは成年向け商材の山。平積みされた色とりどりの商品がこれでもかと、お客さんにアピールをかけてきます。
しかしながら先にも述べた通り、主力が成年向け商材である以上、このような行為を取るのは当然のことであり、それまでの条例では「18歳未満購入禁止」が分かる表示があれば、規制の対象とはなりませんでした。
「問題」と言いましたが、実は商売をするうえでは当然の行いをしたまでのことなのです。そもそもが18歳以上のお客さんが来店することを見越した作り、というわけですね。

ところが、2007年の夏頃、都の職員の方々が黒服姿で、T店の店長を訪ねてまいりました。

「条例が改正されて、ゾーニングを強化することになりましたので、この日までにこれとこれとこれをやってください」

視察を終えた都の職員の方々はそう言って立ち去っていきました。
都の職員の方々が命じたのは以下の点です。

(1)成年向け商材があるフロアは全て18歳未満立ち入り禁止にすること(ただし、少数置いてある場合は、囲いをつけることで良しとする)
(2)18歳未満立ち入り禁止の表示を、各フロアに大きく分かるように掲示すること
(3)エレベータの階層や店内マップ等に、成年向けフロアの表示を分かりやすく掲示すること

実は都条例の改正はこれまでにも数回に渡って行われており、成年向けエロ本に巻かれている「青テープ」も、条例の改正に先行して自主規制を行った出版社による、回避策だったりします。(当時はコンビニにエロ本がおかれることを規制しようとしている人達がたくさんいたようです)

そして2007年の改正は、販売店のゾーニング強化を盛り込んだものであり、T店も郷に従わないわけにはいかず、対応を行うことになりました。
しかしここで大きな問題がまた一つ発生したのです。
T店の3Fには若い子にも人気の商品が複数販売されており、同時に成年向け商材も複数販売されていました。当然、エリアを分けて、商品を混濁させないようにしてはいたものの、「フロアごと立ち入り禁止にする」ことにより、多くのお客さんの失望を買うことを逃れられないことが予想されました。
どうにかできないかと、都の職員の方に相談したところ、結果は「NO」。若いお客さんへの期待を切ることで、フロア規制は終了してしまいました。

当時のT店の店長は切実に問題に対して取り組んでおり、都の職員からは好感を得ていました。職員が想定していたよりも、遥かに高いレベルのでゾーニングを行ったT店は「模範店になってください」とお墨付きをもらった程なのです。世間からは痛い目を浴びせられることが多いT店は、実はちゃんとしたゾーニングに取り組んでいた、という一面があります。

ところで、秋葉原にあるその他のお店の状況はどうだったでしょうか。当時、MS店さんを僕が調査した所、入り口の目の前は一般向け商材だけを置くように、フロアが改装されていました。
ワンフロア型店舗だったM店は、成年向け商材のエリアに、レンタルビデオ屋によくあるような掛け布?のようなものを垂らし、厳しいゾーニングを行っていました。ここも模範店と言えるのではないでしょうか。

MB店さんを調査したところ、ここもワンフロア一体型であるにも関わらず、レジの目の前に成年向け商材がおかれている構図は変化なく、どのように都の職員からの目をくぐり抜けたのか、正直不思議な状況がありました。もともと一般向け商材が強いという売りのお店にしては、対応が少し甘いのではないか、という状況です。もしかしたら、名目上18歳未満立ち入り禁止店舗、としているのかもしれません。

そう、実はチェーン店であるT店にも18歳未満立ち入り禁止のお店があったりします。これは遠く大阪・梅田のお話になるのですが、府の条例およびテナントの条例に従い、お店自体が18歳未満立ち入り禁止としています。当然一般向け商材も多く販売されてはいますが、苦肉の策と言えるでしょう。どこまで青少年に対応しているのかは、僕もあまり把握していませんが。

このように、「ゾーニングに問題があるんじゃないか?」とよく言われるものの、実際お店は条例に従い、規制側の言い分をしっかりと飲んだうえで営業をしています。当然「未成年に販売をしない」というのは、店員の主観による判断でしかありませんが、現時点で技術的に解決するには難しい問題でもあります。全ての人に身分証明証を出せというのも、色々と問題があるでしょう。取得するのが難しい人も多いはずです。

なので、これ以上のゾーニングを求めるのならば、タスポのような年齢認証用のパスを簡単に発行出来るようにする等の対応が必要になるのでしょうか。入らないでね、買っちゃだめだよ、という訴えかけが「甘い」というのであれば、時代はそのレベルに達してきていると判断すべきでしょう。

事実、携帯においては、端末毎に名義人がフィルタリングをかけることが出来るようになっており、親がちゃんと対応すれば、子供は成人向けコンテンツを見ることが出来ないようになっています。
当然個人サイトに関してまでは防げない仕様ですが、現時点でのインターネットのゾーニングは整備されておらず、おそらく一番のネックになっているものと思われます。携帯は一人に一台という時代であるから成り立つフィルタリングですが、まだPCは一人一台の時代とは言えないでしょう。
解決策としては、個別アカウント設定の義務付け等をして、そこにフィルタリング申請等を施すなどになるのでしょうが、現時点の技術ではまだ難しいものであると言えます。
ですので、現状ネットのゾーニングは「親の教育」の1点に委ねられているのではないか、というのが僕の意見です。また、それだけで解決は簡単ではないですが、できないわけでもない、とも考えています。

ところで、ここまで述べたのは2年前のお話です。その後、T店がどのようになったのかといいますと、2本あったビル内で大幅なフロア改装を行いました。これにより、ほぼ全てのフロアが一般向けと成年向けで分けられるようになり、お客さん的にも利便性が向上してよい方向に向かいつつあります。もちろんそういったゾーニングへの対策だけが目的ではない改装でしたが、結果として今の時代に適応したということは、賞賛すべき点だと言えます。

しかしここまでやってもまだ「エロい商品は別の店に隔離してくれ」「秋葉原の街そのものをどうにかした方が良い」という人もいます。確かにそれも意見の一つだと思います。そうすれば、若い人は安心して一般向け商材を購入することが出来るでしょう。両親も安心して買い物に行かせられるでしょう。リソースがあるのなら、やってみる価値もあるかもしれません。

ただ、あくまで僕の個人的な意見、繊細な問題なので、一個人の傲慢な意見として述べさせてもらうと、成年向け商材があってこその文化、というのも事実あるということは忘れないで欲しいと思います。その店が作り続けてきた文化文脈を一言「ゾーニングなので」と切ってしまうのはあまりにも鈍感です。そしてその先に待っているのは、本当につまらない世界だろうと思います。

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歩行者天国が無くなった。
バスケのコートも、でかいビルにかき消された。
昔の電気街の面影はもうない。

萌えに電気が駆逐されたと嘆く人がいる。
さて。次は。 

(terasuy)

「文章系同人の未来はどっちだ!」ちょっと長い予告篇

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(「週刊メルマガクリルタイ」Vol.35(2010/03/30 配信分) の原稿を再掲)

メルマガクリルタイの愛すべき書痴の皆さまこんばんは!安倉儀たたたでございます。パセリさんからもそっと連絡があったのがつい二週間ほど前、単発かなーと思いきや、なんと週刊メルマガクリルタイで連載を持ってくれ、という依頼ではございませんか。
同人誌をほんの三冊ほどしか出していない若造が「同人」について四の五のいうのは気恥ずかしいものですが、ここは一つ気合を入れて担当させていただきます!

次回から、月一回の全六回「文章系同人の未来はどっちだ!」と題し、同人の未来や文章書きたちの可能性について思うところを順々と書かせていただきます。

さてさて、ではこの連載のアジェンダ・セッティングについて、ちょっと回り道をしながら紹介させていただきましょう。先日、文学フリマ事務局ブログで「文章系同人誌をめぐる言葉」というエントリーが出されました。

 http://d.hatena.ne.jp/jugoya/20100211#p1

要約すると「文章系同人をめぐる言葉が活発化しており、そこにおいて文学フリマ事務局は何ができるんだろう」という思索的なエントリです。
事務局の人たちや文学フリマに携わってきた人たちにとってはちょっと感慨深いエントリだったのではないでしょうか。
文章系に限らず「同人」をめぐる言葉は、ここ十数年で爆発的に、ポジティブな方向へと動いてきました。東浩紀氏の『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)を代表とする一連の理論系オタク評論や、「セカイ系」のような論争的な概念の登場とその限界事例の調査、ツイッターやブログなどの登場もあり、また初音ミクや東方といったムーブメントも後押しして、「同人」というカテゴリが商業作品と陸続きに論じることができる風土が日常化しつつあります。コンテンツ文化史学会やDiGRAといったアカデミズム寄りの文化研究においても、同人に対して様々なアプローチによる研究実績が積み上げられています。

けれども、文章系同人に限って言えば、二次創作を中心とする「同人」と異なり、「文学」をめぐる特殊な言説史とも陸続きであったように思います。
文学研究者の中沢忠臣氏(@sz6)がツイッターで「現代文学は危機と共に消費されてきた」と述べていました。こうした「危機」の歴史と今現在の、「文章系同人をめぐる言葉」は恐らく接続しています。文学/文化の危機を「いかにして乗り切るか」という点と、その危機を回避する方途をみなで考えようというスタンスを取り続けることで、それらは自分たちの存在理由をマッチポンプ的に問いかけながら、自分たちを(時にシニカルに)正当化してもきました。
その危機を乗り切るために様々な「アイドル」が登場し「論争」が行われ、文学賞やジャンルカテゴリ(ライトノベルや携帯小説)が産出されてきました。そういう意味では、「危機を捏造/再生産」し続けてしまうという点において、「文学の危機」と「文学」そのものの二者は双子のような存在でもあると言えるでしょう。

文章系同人に関する盛り上がりをこの言説テンプレートに当てはめてみましょう。「文章/出版/文学」の世界が危機に瀕しており、その危機を回避するために文学は同人まで撤退戦を強いられている、という認識のもと「危機を乗り切るために文章系同人ができること」を創造しようというムーブメントになっている。…と、でもなるでしょうか。
それが悪いわけではないのです。……むしろ「左隣のラスプーチン」という文章系同人の主幹として僕自身がこの危機の再生産と内破に加担していたことは間違いありませんし、この認識と戦略は正面からのアプローチとしては、たぶん正しいんだろうと信じてもいます。しかし、そのモデルケースとして「文学」を選択してしまえば、それは撤退戦ではなく残念ながら殲滅戦となって負けるでしょう。問題意識が同人に限定されてしまうと、商業メディアの縮小版としての「同人」の内輪の揉め事で処理される可能性も高いかもしれません。
その意味では、すでに文章系同人は文学の主導権を握り返す、というミッションに対して既に敗北しています。「文学」の側が持つ、文学に対する主導権をほとんど死に体の文芸雑誌から奪還することができなかったという事実。『文學界』から華麗に都落ちした同人誌評の問題もそうなら芥川賞やその他の文学賞を同人誌初出の作品がとる、という光景はもはや想像することすら困難ですし、2007年のメディア芸術祭で白石弓子『天顕祭』がマンガ部門奨励賞を取るような状況が文学には回帰してくることも期待できません。

そしてなにより、こうした危機の回避を切望するための「危機回避―祭り」という構造は恐らく、すべての人と共有出来るような類の信念ではないのです。
しばしば「生成」という言葉で創作活動を評価するアーキテクチャ論が、pixivやニコニコ動画などの同人活動と親和性の高いメディアで用いられることはインターネットのシステムに関係することだけではありません。「同人」の理念による共生不可能性を端的にしめしてもいるのです。(これはpixivの性善
説についてどこかで書きたいと思っています)。
無数のジャンル・カテゴリそれから参加意図を抱える文章系同人に限っても、事情はほとんど変わりません。実際に2009年度の冬の文学フリマには、小物を扱うサークルが出展していました。
    
今の文章系同人の活発な活動の諸相から、危機消費/再生産のサイクルとは異なる「同人」への想像力を設定しなおせるはずです。そのためには、「同人文芸」、あるいは「文章系同人」と呼び習わされるようになった「文を書く人」たちの活動領域を設定しなおし、かれらの活動領域を拡張しなければなりません。文章系同人の/に対する想像力を拡張することが必要だと思うのです。

しかし、そんなことが果たして可能なのでしょうか? 

この連載では、大きく二つのことを論じます。
一つは、文章系同人のリプレリゼンテーション。現状認識と可能性の拡張について、文章系同人のさまざまな活動を切り取ってみます。
もう一つは、「同人」という概念の再設定です。同人文化をコンテンツやマネタイズや、コンテナーや試みの面白さだけで紹介するのではなく、個別に分断されている全領域的なカテゴリを集約しつつ、それらに意義と意味を与える巨大なフォーマットとして「同人」を再設定することです。

いま、文章系同人で何が起きているのか。文章系同人は何を起こそうとしているのか。
 
僕は、無限の可能性が存在するであろう「同人」の、それも数少ないモデルケースによって、ほんの僅かな可能性について言及するに過ぎません。僕の想像力を上回る活動する人たちが、文章系同人にはいます。彼らが羽ばたいていくための土壌を整理し、見晴らしを良くしようと思います。それだけでも文章系同人が戦えるフィールドは劇的に広がるでしょう。また、文章系同人という枠を超えて活動することができる場所だってあるはずです。
例えば、コミティア文芸島との共闘、他のファンジンとの連結、ミニコミとの連絡、出版/本屋との交流、映画演劇音楽との交通、インターネットのフィールド、学術誌とのコラボレーション、そして文学。……まだまだ開拓できるフィールドがあるでしょう。連載では、そうしたフィールドにも想像力を向けてみたい。
 
連載は、具体例に即しながら活動を紹介する回が二回、抽象的に概念的なことを論じる回が二回、一度はインタビューを掲載しようとも思っています。そこではiphoneやキンドル、電子出版やミニコミ、ファンジンについても言及します。同人音楽やボイスドラマ、映画やゲームについても少しだけ話題を提供するでしょう。もちろん、文学フリマやコミックマーケットといった即売会、インターネットとの関係、商業出版との相克についても触れることになります。

文学の/文章系同人の危機は、言説的に捏造されてきた「文学の危機」とは別に、資金/出版/読者数などにおいて、現実の状況でもあったと思います。しかし、それらの状況を動かそうとする営みは無数に存在しているのです。文学がたどりつけなかった〈可能性〉さえ見えてきたといえるでしょう。それから、文章系同人としての同人活動を行うことに誇りと地位を与えることさえも可能ならばやってみたい、と思っています。

さあ、俺の言葉よ、どこかの会社の人事に届け!!(笑)

(安倉儀たたた)

特別寄稿:非モテ化する女性誌

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我々のような非モテ・ボンクラクラスタには無意味極まりない情報ですがこの夏、一番モテるのが「ロールキャベツ男子」らしい。
「ルックスは草食系(=さわやかでメガネとボーダーシャツみたいなルックスという意味か?)だけど、中身は積極的な肉食系」という意味なんですってよ、奥さん。

そもそも、草食系男子は
・性欲の薄い(添い寝してもSEXしない)男子
・極めて平等主義的で女性にガツガツしない男子
の事を指していました。
こうしてみると、この「ロールキャベツ男子」が何の事を言っているのかさっぱりちんぷんかんぷんです。そもそも積極的じゃないのが草食系男子なんだって!「奇刊クリルタイ4.0」で草食系男子の名付け親である森岡正博教授も断言されていましたが、草食系とは内面的なものであって、ルックスやファッションの事ではなかったはずです。そもそも草食系のムーブメントは肉食系の俺様男との恋愛は嫌だからこそだったんじゃないのかい、とツッコミたくなります。。

奇刊クリルタイ4.0奇刊クリルタイ4.0
著者:クリルタイ
販売元:クリルタイ
(2011-01-10)
販売元:Amazon.co.jp
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これだと要するに消極的な草食系男子をゲットするために色々努力するのがめんどくさいから、ロールキャベツがいいとか妄想を言っているのではないか・・・もしくは、勘違いした肉食系モテたい男(ネットスラングでいうところの鯛夫)にボーダーシャツとか着せたいだけなんじゃないの・・・と勘繰りたくもなってしまいます。

ロールキャベツ男子に限らずこのところの女性誌(女性向けニュースメディア)におけるご都合主義のインフレはここに極まれりといった感じです。ご都合主義というのは、ここでは「ロールキャベツ男子」のように元々の言葉の意味を全く考えないほどの極めて都合のいい男子像を提示する事を指します。

女性誌におけるこのご都合主義競争のトップランナーを行くのが『anan』です。少し前の特集でしたが『院生男子』(院生男子がモテるという特集。以下同)、『バツイチ男子』と特集していましたが、院生男子=青田刈り(後から出世する)から買い、バツイチ男子=一度離婚して現実を知っているので買い(ただし、子なしに限る)など、どこからツッコンだらいいのかわからないご都合主義のオンパレード。『バツイチ男子』特集で一番ずっこけたのが「こんなバツイチ男子はNG」というバツイチ男子NG集です。もう、そのNG集がふるっている。

・金遣い粗い
・彼女より仕事を優先する
・夢追い人
・女好き
・マザコン
・暗い(離婚されて自信を失っている)

・・・。お願いだからツッコミを入れさせてほしい。
これ以外の理由で離婚する人っているの?
世のバツイチ男子の全部とは言わないけど多くがこのNG集(の複数)に引っかかっているのでは?

『バツイチ男子』『院生男子』に共通するのが「○○男子の優良物件を探せ」という、お前はジパング探しに行ったマルコポーロかっていうぐらいの勢いの都合のよさ。というか、誤解を恐れずに言えばこれは妄想なのでは?ですが、よくよく考えてみると、電車男(オタク男子)、草食系男子、理系男子、料理男子などなど、2000年代後半から登場した女性誌の「モテる男子像」は大なり小なりこうした妄想というか都合のよさは存在していました。
こうした男性の目からみるとご都合主義的だと思われる男性像がなぜ女性誌に登場するのかというと、それは恐らく「まだマシなクラスター内で優良物件を探せ」という「消去法での後ろ向きな選択」によって男性を選べ、というメッセージによるのではないのでしょうか。
バブル前後から女性誌が提唱してきた男性像というのはルックスから収入、性格その他全てにおいてオールマイティな人間でした。光文社『Very』における「イケダン」などはその系譜でしょう。ですが、当たり前ですがオールマイティ男子は希少種。モンハンよろしくプレイ時間4ケタの熟練のハンターでなければ捕獲は不可能です。プレイ時間2ケタのボンクラハンターがそんなことを言っていたら一生結婚なんかできない、という事に皆が気がついた。その結果、「まだマシなクラスターの中から優良物件を探せ」という例のメッセージになるのではないのでしょうか。確かに、草食系男子は性欲が薄めな事に目をつぶれば優しくていい(かもしれない)し、オタク男子だって着る服を指導すればカッコよくなれる(かもしれない)。だけど、それが草食系男子やオタク全員に適用できるかというとそんな事は全くないわけですが男から見るとその発想がすでに妄想の類に見えるということになるのではないのでしょうか。

もちろん、これらの『○○男子』像をバカにする事は簡単です。ですが、本当に重要なのはそれをバカにすることではありません。彼女らの妄想が恋愛市場において最下層の人間であるとされてきた非モテ、ボンクラ、オタクの人々が考える恋愛妄想とどこが違うのでしょうか。つまり、女性誌を読んで我々はこう思うべきなのです。「俺らの仲間がいた」と。

Masaoのおっさん人生 ~32歳にして『DJごっこ』はじめました~

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(「週刊メルマガクリルタイ」Vol.32(2010/03/09 配信分) の原稿を再掲)

【『DJごっこ』はじめました】

Masaoでございます。1年程前から僕の中でオタ系クラブ活動(*1)ブームが来ていて、暇さえあれば秋葉原の「MOGRA」や川崎の「月明かり夢てらす」などのオタ系イベントに出没していることは既にこのメルマガでも何度も書いていますが、最近クリルタイ周辺メンバーにもブームが飛び火して一緒に遊びに行く機会が増えていて、ありがたいことです。クラブ活動は、やっぱり大勢で遊びに行ったほうが楽しいですからね。嬉しい!

これまでは、客として踊りに行くだけでしたけど、最近は先月のメルマガクリルタイでMOGRAレンタルブースについて書かれたクラブ仲間terasuyさんの影響で、僕もDJの真似事など始めてみたりしています。まだ始めて1ヶ月半程度なんですけどすっかりハマッてしまい、2月、3月と僕もMOGRAブースレンタルイベントに参加。僕の好きなゲームミュージック中心の選曲でプレイして、下手なりに楽しませていただきました。ブースの中でオタ芸打ったら、みんな合わせてくれたりしてw

まぁ、まだ全然下手で、「DJやってます」なんて口が裂けても言えないですけどね。ジョジョ風にいえば「『DJごっこやってます』なら使ってもいいッ!」ていう感じですw

そんな感じでDJごっこが超楽しい今日この頃の僕ですが、実は最初は、始めるのに踏ん切りつかない部分がありました。僕は3年ほど前、一度DJやろうと思ってアナログ(レコード)で機材を揃えたことがあったんですが、速攻で挫折して機材がヤフオク行きになってしまったという苦い過去がありまして、まぁ自分DJ向いてないなーとか思ってたんですよ…

(*1) クラブで遊ぶこと。


【アナログDJで挫折した、苦い想い出】

そもそも僕がアナログレコードで機材を揃えたのは、当時なんとなくあった「CDDJとかPCDJはカッコ悪い。DJはアナログでやってナンボ」的風潮に乗せられて、ということが理由でした。要するに、何も考えずにカッコつけてファッション的にアナログを選んだわけですね。

ところがこの選択、僕がやりたいプレイには致命的に合っていなかった。僕はゲームミュージックが好きなので、そういう楽曲をプレイしたいわけなんですが、そもそもゲームミュージックは、アナログで音源が全く出ていないし、それまでレコードを1枚も持っていなかったので、0から音源を買わなくてはいけなかった。この時点でもう完全に終わっているわけなんですがwまぁ話を続けましょう。

ゲームミュージックこそプレイできないものの、テクノやハウスも好きではあるので、まぁそういう曲でプレイしてみようと練習開始したのですが、ここでまた難関が。そう、「ピッチ合わせ」と「頭出し」です。

アナログDJは、レコードに回転数を調整して左右の曲のテンポを合わせて曲をMixしていく(これが『ピッチ合わせ』と『頭出し』)んですが、これが僕にはできなかった。まぁこの作業、出来る人に言わせると「コツが分かるまでは確かに難しいけど、要は慣れ」らしいんですが、僕は生来の手先の不器用さに加え、「慣れ」に到達するまでのテクノやハウスへの充分な愛も持ち合わせていなかったため、モチベーション不足から挫折。1台5万円くらい出して購入したTechnics社製ターンテーブルx2はほとんど未使用のまま埃を被って部屋の片隅に放置され、数ヶ月後には哀れヤフオクへと売られていったのでした(BGM:『ドナドナ』)。

【PCDJならこんな問題は起こりません!】

さて、ここまで書いた僕のアナログDJ挫折話から、DJ初心者が学ぶべきと思われる教訓は3つあります。

1.「自分が本当に愛しているジャンル/曲」でプレイしろ!
2.「自分が本当に愛しているジャンル/曲」の音源がたくさん出ているメディアがプレイできる機材を選べ!
3.とにかく愛を優先しろ!カッコつけるな!

要するに、「趣味は自分が好きなことをやるのが一番だし、そうでなきゃ続かない」っていう、当たり前の話ですね。DJごっこは強制されるモノではないので、自分が本当に楽しめるジャンルで遊ぶのが一番!

特にアニソンやゲームミュージックといったオタ系楽曲は、少し前まではクラブでかかる音楽として一般的ではなく、プレイできる場所も限られていたのですが、DENPA!!!以降のオタ系クラブイベントブームの影響でイベントも増え、前述の秋葉原「MOGRA」や川崎「月あかり夢てらす」など、オタ系イベントをメインに興行する箱も登場するようになっています。

特にMOGRAでは、先月terasuyさんのレポートにあったレンタルブースイベントを定期的に開催していて、ある種オタ系DJの登竜門的存在になっており、オタ系DJとして活躍したい方にとって、今は良い時期が来ていると言えます。

さらに、たとえ箱でプレイできなくても、最近はUSTREAMやニコニコ生放送といったネットライブを配信する環境が整備されてきており、自宅にいながら全国のお茶の間やオタの間に、自分のプレイを送り込むことが可能に。

これまでDJが人前でプレイするためには、耐え難きを耐え、忍び難きを忍びながら自宅で孤独に練習を重ねつつ、イベント主催者にコネを作ったり自分でイベントを立ち上げたりしてようやくクラブデビューという流れを踏む必要があったのですが、レンタルブースやネット配信により、初心者がすぐにでも他人に自分のプレイを披露することができるようになりました。

実際、僕は機材を買ってからまだ1ヶ月半ほどですが、MOGRAレンタルブースで2回、USTREAMでは10回ほど、自分のプレイを披露しています。内容は、まぁ…素人のやることなので…っていうことで、大目に見て欲しいところですが(苦笑)。

あと、PCDJはアナログDJに比べ、テクニックがたいして要らないということも重要です。僕が挫折した「ピッチ合わせ」と「頭出し」は、PCDJであればソフトに搭載された「オートシンク機能」により、ボタン1つでこの作業を自動的に行ってくれます。

さらにPCDJでは、「CUE」と呼ばれる機能により、次の曲に切り替えるタイミングを自動設定し、DJが何も操作を行わなくても勝手にmixが始まるよう設定すること可能!こうなるともうDJがやることは音量の調整と、次の曲のセット程度。

で、空いた時間に何をやるのかといえば、パフォーマンス。僕もMOGRAのプレイでは、事前に流す曲を完全に固め、CUEを仕込んでおき、余裕ができたぶんオタ芸やエアギターや振りコピに回し、ブース内で踊って遊んでいましたw。こういったプレイが可能になるのも、PCDJの魅力です。

【まとめ】

・PCDJには、たいしてテクニックが要らない!
・PCDJには、たいして金がかからない!
・箱とネット配信環境が整ってきた今が、オタ系DJを始めるチャンス!

いまは、DJを始めるのに今は好条件が揃っている良い時期だと思います。これまで興味はあったけど、最後の一歩がどうも踏み出せなかったという人などは、これを機会にUST配信あたりから始めてみてはいかがでしょうか。自分の大好きな曲をみんなに聴かせて喜んでもらえるっていうのは、それだけで超楽しい体験ですよ!

(MASAO)

文化系女子研究所(4) 森ガール論争で露わになった女子の自意識過剰

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(「週刊メルマガクリルタイ」Vol.34(2010/03/23 配信分) の原稿を再掲)

本来であれば、今回は『リビドー・ガールズ』(2007年・PARCO出版)について取り上げるつもりだった。「女子のエロ」をテーマにしたこの評論集は、文化系女子を考察する上で、外せない教材であると考えるからだ。筆者のブログでも、本書が出版された時に、簡単な書評を掲載させて頂いた。

リビドー・ガールズ―女子とエロリビドー・ガールズ―女子とエロ
販売元:パルコ
(2007-03)
販売元:Amazon.co.jp
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が、今回は予定を変えて、森ガールについて論考した「ビジスタニュース」(ソフトバンクパブリッシング)の中川大地氏の寄稿に対して、前回紹介した『ユリイカ』文化系女子特集号に登場していた方々を中心に、主にtwitter上で総ツッコミが入った現象を取り上げてみたい。

「森ガール」にできること~「少女」から「女子」への変遷の中で~
twitterの反応のまとめ
※参考:筆者のエントリー

まず、中川氏の森ガール論は水無田気流女史の「無頼化」という概念と強引に接続を試みるなど、論考としてやや雑な点が散見され、批判に晒されるべき箇所が多く見られたことは否めない。
しかしながら、それ以上に瞠目されるのが「文化系女子」ライター達や女流作家の批判の多くが、女子文化を男が語るという行為自体への否定に繋がっていたことだ。
発端となった堀越英美女史は「男の性欲に適合するのが成熟した「女」のあり方で、そこから外れている女たちは「病んでいる」という女性観にある」と述べていて、しまいには「ガンヲタがオシャレさんを上から目線で語ってる!えらそう!なにさま!森ガールとヤレるようになってから言え!」と捨て台詞を吐いていた。これにはショックを受けた。(後に謝罪のツイートされていたが)
吉田アミ女史や平山亜佐子女史などからは「女子はカテゴライズされるのが嫌い」といった発言もあった。
『バルタザールの遍歴』で名高い佐藤亜紀先生などは、ストレートに「野郎が女文化語んな。間違ってるとか何とか以前に、ただもうキモい」とおっしゃっている。筆者はこれらの発言に卒倒しそうになったことをこの場で告白しておこう。

中川氏の記事では、「成熟を忌避する女性」のことを「自虐的」と表現する誤謬があったにしても、成熟していない女性のことを病的だと捉えている箇所は見当たらない。簡単に言えば、堀越女史の自意識が、そう読ませた、といえるのではないか?さらに「女子はラベリングされるのを嫌う」というのも、「自分達が」に訂正する必要があるだろう。実際にmixiの森ガールコミュニティの管理人choco*女史は自称している。また、「草食系男子」を代表されるように、深澤真紀女史などバブル経験世代の女性ライターのラベリング欲に、20~30歳代男性は容赦なく晒されている。逆に、森ガールの中心層である20代前半の男女は、自分達の呼称を屈託なく「消費」している人の方が大多数だ。

つまるところ、twitterで中川氏の記事に噛み付いた「文化系女子」の皆様は、森ガール語りに仮託して自分語りをしていた、とみなさざるを得ないのである。そして、男性からの視線を、「性的」と決めつけ遮断しようという「欲」を、臆面もなく語ってしまっていた。
この過剰な自意識には、目を瞠るほかないのだが、ここには男性の視線には性欲があるという決め付けが強固に存在している。どうしてこういう形で「こじらせて」しまったのだろうか?

その答えは、『リピドー・ガールズ』を再読することなどで、これから明らかにしていこうと考えている。

(parsely)
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