(「週刊メルマガクリルタイ」Vol.112(2012/04/25 配信分)の原稿を再掲)

5月6日の文学フリマで頒布される「奇刊クリルタイ増刊『dorjVol.3』」にて「二〇一二年サブカル滅亡」という原稿を書いた。今回はその原稿において主に射程に入れていた「地方サブカル」というものについて少し考えてみたい。

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著者:クリルタイ
販売元:クリルタイ
(2012-05-11)
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「地方サブカル」とは、言葉の通り、「地方でサブカルやってる人」である。そもそもこの「地方サブカル」、少し前までは絶滅危惧種であった。それは、以下のような困難があるためである。

・友達がいない:同じ趣味を持つ友達・知り合いが地方にはいない
・コンテンツがない:東京には多くあるような巨大本屋も、小粋な本屋も地方では超レアな存在である
・イベントがない:面白そうな博物館の展示も、ロフトプラスワンも地方にはない

この「地方サブカル三重苦」によって、サブカルにハマった人達はほぼ確実に地方に愛想をつかして「上京」する事になり、結果として地方にはサブカルがいなくなってしまうわけだ。
だが、最近は少し様子が違ってきている。まずは、経済的な理由やその他によって、大学入学時の上京という選択肢が困難になっている点がある。だが、それ以上に重要なのが以下のような地方でもサブカルができる代替手段が成立しているからである。

・友達がいない:twitterやSNSで(ある程度)代替可能
・コンテンツがない:amazonで(ほぼ)代替可能
・イベントがない:Ustreamやニコニコ動画で(少しは)代替可能

こうした代替手段によって、地方でサブカルを行う事が以前より簡単になってきた。特に大きかったのがamazonの存在である。amazonによって、消費するコンテンツのレベルでは、日本中どこにいてもある程度のものが消費できる環境が整った。友達や同じ趣味を語りあう人達はtwitterやSNSである程度探す事ができる。そして、こうした関係性は「リアル」の関係よりもよほど心地いいものなのだ。
もはや、サブカルにおける東京の比較優位は「現場」の集積=映画や博物館、ロフトプラスワンのようなその場でしか体験できない「現場」が数多くあること以外にはない。そしてそれすら動画配信サイトや「その時だけ東京に行く(※1)」ということで解決しつつある、というのが今日の状況なのだ。
だが、こうして地方でもサブカルができてよかったね、という話では残念ながら、ない。そもそもサブカルとは一体なんだろうか。サブカルとはコンテンツのカテゴリー名ではない。およそ全ての「オタク/サブカル分類」が無意味なのは、この部分を勘違いしているからであり、「ももいろクローバーZはサブカルか否か」なんてカテゴライズする事は基本的には無意味なのだ。では、サブカルとは何かというと、サブカルとは「ロック」のような、スタンス、ないし信仰告白なのだ。「サブカル」がスタンスであるとして、そのスタンスとは具体的には何をさすのだろうか。端的に言えば、サブカルとは差異化ゲームである。

「他人よりも優れた感性を持っている」
「他人が知らないこんなマニアックなアーティストを知ってる」

このような発言によって他人との差異を強調し、それによって勝敗を決めるゲーム、それが差異化ゲームであり、それによって駆動されるのがサブカルなのだ(※2)。
地方でもサブカルができるだけのインフラが整えられたとしても、これらのサブカルのスタンスまで共有できているのかというと、極めて怪しいのだ。今の地方の若者たち(笑)はとにかく「自意識の投影として」コンテンツを消費する事をしない。サブカル的コンテンツを消費する事はあっても、自意識の投影としてのサブカル的スタンスまで共有しているとは限らない。そんな時に取り残された我々オールドサブカルは一体何ができるのだろうか。

※1 今や、東京⇔名古屋間は新幹線で2時間、高速バスであれば片道3,000円の時代である。もっとも、四六時中それをやるわけにもいかないので、完璧に差異をなくした、というわけではないが。

※2 こう書くと怒る人が中にはいるが、差異化ゲームそれ自体は「ゲーム」という以上の意味はない。差異化ゲームによってサブカルをたしなむ事は、「ある日突然、運命的に好きなる」というのと全く当価値である。

republic1963