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安倉儀たたた

文章系同人の未来はどっちだ!?第四夜 稀人舎に突撃の巻-安倉義たたた

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(「週刊メルマガクリルタイ」Vol.79(2011/03/09 配信分) の原稿を再掲)

連載第四夜は、個人版元「稀人舎」が放つ同人誌『稀人舎通信』の執筆者であり、某大学で教鞭をとる金井景子先生と稀人舎代表小宮山裕氏を交えてのクロスインタビューを実施!!
小さな出版社稀人舎
20代や30代の若手の動向が注目されがちな文学フリマだけれど、ナイスミドルもシニアな方も、みんながんばっているのです! 大学教授から詩人、漫画家まで幅広く参加する稀人舎の同人誌の秘密を探るべく、早速我らが梅田君にインタビューに行ってきてもらったのですが、あれあれ、なんだか雰囲気がドス黒……っ?!

■インタビュアーに物もうすっ!!

☆金井景子:私が、今回梅田さんのインタビューの要旨、「なんで文学フリマに大学教授が出すのですか?」というのを受け取ったときにこちらも「え、なんで?」って思ったんですよね。私が同人誌に関わったのは、友人の小宮山が誘ってくれたからで、「大学教授、文学フリマに潜入!」みたいな話じゃなかったんですよね。友人がそこで面白そうなことをやってる。だからそこで自分もなんかやってみようということですね。情報としてはいろんなことが入ってきてはいましたけど、一番は友達がやっていたということ。で、行ってみてただぶらぶらするよりも、どうせならやってみようかなーっていう気持ちになったんです。そこがスタートなんですが、やっぱり「大学教授云々カンヌン」になるんだなってちょっと思いましたね。いまのところの路線としては、友達に加えて、社会人や現役の教え子たちに協力してもらって、自分の父親まで引っ張り出して(※近代文学研究者の紅野敏郎氏)、やらしてもらってます。ただ、それが「自分が圧力をかけて、学生たちに「書けい!」みたいな感じに見えるのかなー」とか、「88歳になる親父を脅して(笑)引っ張り出してえらいめに合わせてる(爆笑)人に、見えてんだー」と思うと……。自分が責任を負える範囲の、親しい人達と、しっかりテーマ設定してとことんやってみたいというだけなんですが。
私は20代のおしまいから30代にかけてライターやってたこともあるので、刊行の時期がいつなら、どういう進行になって・・・とか、がつんと書きたいけどオトナの事情がそこには・・・みたいなこともそれなりに経てきました。もう一方で、わたしたちの世代はネットで発信という手段がなかったので、書きたいことは活字の同人雑誌でやるしかないという現実がありました。私は仲間と『媒』という、日本近代文学の研究同人誌をやってましたが、北海道の連中は小森陽一さんが中心になって『異徒』っていうのをやってたし、それこそ、全国津々浦々でいろんな同人誌が出てましたよね。学会誌や商業誌に書く場がなかったということはあったけれど、それだけじゃなくて、一番いいものを自分らがやってる同人誌に書くんだ、みたいな気負いもありました。
だって、いまから25年前くらいって、DTPとか一切ないから、300部くらいしか作らなくても1冊雑誌出したら40~50万円ぐらい借金できちゃうんですよ。5人くらいの仲間とやってたんだけど、年に2回出すと、郵送費含めて一人、20万円くらい持ち出しになる。私、ずっと非常勤講師とライター仕事でしのいでいましたから、その年に2回襲って来る借金を返すために、季節労働の仕事を増やすっていう繰返しでした。だから久々に『稀人舎通信』で同人誌やらせてもらったら、小宮山裕というプロの編集さんはいるは、同人誌を格安で印刷するシステムは完備してるは、もう、嬉しい事だらけです(笑)。小宮山さんも語って、語って。

■さらに物申す!

★小宮山裕:「稀人舎」の小宮山です。まず言いたいのは、「梅田からおばさん呼ばわりされて、腹立つ」ということです(一同爆笑)。文学フリマに行くと、みんな若いじゃないですか。まぁ、年齢がかなり上の方もいらっしゃいますけれども、そういう年嵩の方達と我々はちょっと違う。年は近いけれども、昔から淡々と「文学」をやってきましたというような、彼らおじさまがやっていることと、私がやりたいこととはなんか違うんですね。若い方のことはよくわからないのですが、どっちかといえば、若い人寄りに私達のやりたいことはあると思っているんですよ。今興味のあることを掘り下げてみよう、みたいな感じで。それが、やっぱり我々みたいのがやってると「大学教授が~」「詩人が~」「プロが~」っていう、ある意味仰ぎ見られるような感じになっちゃうのか、とちょっと寂しい気持ちになりますね。
文学フリマに行ってると、なんていうかな、「若いっていいわよね」っていうのがあって(爆笑)。
本を売ってる時に、学生とかが、なんとか大学サークルみたいなので店を出してると、みんなそこで足をとめるじゃないですか。文学好きのおじさんが、青田買いじゃないけど、中身を見ないでも「君たちがんばれよーっ」て言って買っていくっていうのがあるなあと思って、我々みたいな面の皮の厚そうなのが売り場にいると「別にあの人達は自分が買わなくとも大丈夫だろ」みたいに思われてんのかも、とかね(笑)。
そんな中で、何回か売れないなぁって言いながらやってきたんだけど、金井さんとか、川口さんとか他にも何人かの仲間と協力してやってるうちに、楽しくなってきちゃって。「次なにやろうかー」とか盛り上がったり。そうしたら、若者と比べてどうこうってんじゃなくて、自分達が楽しいことをやろうって思うようになったんです。

■稀人舎通信創設の経緯

★小宮山:私は個人版元の「稀人舎」というのをやっていて、単行本を二冊発行しているんですが、個人ですから出版取次会社(本の問屋さん)と契約できるわけはなく、そうすると普通の本屋には置いてももらえないので、本当に本を売る場がないんですね。そんな中で、売る場所を探していたときに文学フリマにたどり着いたんです。だから、最初は同人誌を作るつもりじゃなかったんですが、文学フリマでまわりを見ると、みんな同人誌を作って売っているから、一冊ぐらい同人誌みたいなものも作ろうかなという感じで、『稀人舎通信』を始めました。だから、私の中で『稀人舎通信』っていうのは、「稀人舎」の宣伝ツールだったんですよ、ずっと。「稀人舎」の広報誌ですね。だから「稀人舎」発行の本の広告も入れるし、「稀人舎」っていう名前も書名に入れるっていうことにしていた。
なので、金井さんが最初に私に「同人に加えてください」っておっしゃったときには、「『稀人舎通信』は同人じゃありません」って答えたんです。稀人舎の宣伝ツールとして作ってるから、本当は私が原稿料を出してお願いしたいぐらいだったんです。実際、金井さんが関わってくれる前の『稀人舎通信』の二号までは、原稿を書いてくれた人に原稿料を出していたんですよ。分量に応じてどんぶり勘定だったんですけどね。
でも、なんとなくみんな「面白かったからまたなんか書くよ」って言ってくれたり、金井さんが「面白そうだから仲間に入れてよ」って言ったりしてくれて、「じゃあ原稿料出さなくてもいいでしょうか?」って聞いたんです(笑)。

■同人誌と原稿料

☆金井:で、わたしが、その時に彼女にいったのは「大人が遊ぶのにテラ銭払わないって法はないよ」ってこと。

★小宮山:それを聞いて「そうなんだー」って思いました。金井さんには三号から関わってもらったんですが、三、四、五号は、「原稿料は出さないけれど、希望の冊数を現物支給いたします」ってことにしていたんです。ところがですね。金井先生は百冊単位でご注文なさるので「すみません、それはちょっと」って(笑)。

☆金井:座談会に出てもらったり、書いてもらったりした学生さんたち、親父さんに、私は原稿料払えないから。その人たち、きっと友達に「ここでこんな風にしゃべったのよ」って言いたいだろうし。それが読まれたら稀人舎の広告にもなるじゃないですか。そうすると、ほら、配らにゃ、ならんじゃないですか。

★小宮山:本来の私の趣旨からいえば、百冊でも二百冊でも、ほしいと言われたらはいと渡すべきなんですけどね。でも、すみません。お金はありません(笑)とね。
そんな中で、金井さんに「テラ銭払わないなんて、大人なんだから」って言ってもらって、百冊分のお金をいただき、印刷費に当てさせてもらってたんですよ。で、その「テラ銭払わなきゃ」っていうのはすごく私の心に残っていて、だんだん金銭的に厳しくなってきたこともあり、ちょっと、六号からは他の人たちにもお金を出してもらうことにしていいでしょうか、同人ってことでいいでしょうか、っていう軌道修正をしました。なので、『稀人舎通信』は、五号までは同人誌じゃなかったんですが、六号からは同人誌になりました(笑)。

☆金井:でも、それでみんなほっとしてると思いますよ。だって、気を遣うもの。

★小宮山:その、妙な気を遣わせてしまっていたんだなっていうのがようやくわかったんですよ。今までは、私一人の道楽のためにみんなを参加させてしまって申し訳ないっていうふうに思っていたんだけれども、「いや、なんか楽しいから、次はどうするの?」みたいなことを言ってくれたりするんで「じゃあ、みんなでやるってことでいいかしら」って、みんなにもお金を負担してもらいましょうってなったんです。

☆金井:みんなもう、アラフォーどころか、しっかりオーバー・フォーティですから、表現したいことがあっても、全くお金がなくて表現できなかった時のことやら、少しお金は余裕があるんだけど、家族のこととか仕事のことが忙しくてっていう時期があったりとか。みんないろんな背景があるんだけど、ここで、少しずつお金を持ち寄って、人脈をたどれば結構なこともできるっていうことをどう生かすかっていうことを考えるときには、若いも年もなくて、同人誌を通じて表現したいっていう存在になってるだけなんですよ。
で、そうやって考えると、梅田さんの「おばさんが~、大学教授が~」っていうのは、私たちにとってのゆさぶりだなーっていうのは感じていて、それは言おう、と。

■自由な誌面と、大人の楽しみ

★小宮山:おばさんって言われるのはいやだけど、私は「若い人達っていいわよね」っていう一方で、「若い人達って大変ね」とも思うの。自分達が若かったころに、同人誌作ったり、表現しようと思っていたころって、いろんなこと考えちゃって、こうしなきゃああしなきゃとか、将来はどうしようとか、こうしたいから、こっちのステップじゃなくてこっちの道にいかなくちゃとか、選択肢もいっぱいあって、どれを選ぶかで迷ったりとか、大変な目にもあったり。同じように、今の若い人も大変なんだろうなと。まぁ、それが原動力になったりするんだろうけど。
でも、半世紀ぐらい生きてきて、今のままでもいいかなと思えるということは、そんなに間違った選択を自分はしてこなかったということだろうから、今楽しくてやっているこのことっていうのも間違ってはいないんじゃないかなって思えるのね。そういう意味では、おばさんになってよかったなって(笑)。文学フリマに出している若い人達って、「これをやったら、次はどうなの」とかってやっぱり考えちゃうと思うんだけど、私達はそういうのにあんまり縛られないで「今」楽しいことをやれ
ている。
最新号の特集は、「腐女子」なんですけれども……。

☆金井:すっごいよね。特集。やりたい放題ですからね(笑)

★小宮山:今回、座談会二本立てということで。一回目は「腐女子座談会」というのを20代の女性たちにやってもらって、二回目は金井さんを含む40代以上の大人たちが、それを見ながら好き勝手にしゃべるという。

☆金井:メタレベルを導入したつもりが、私を含め大人女子が次々に自身の腐女子性に目覚めて行く過程は……。これは、やっぱり普通の雑誌じゃできないと思うの。でも、こんなふうに実験動物みたいに眺められてるってなったら、腐女子たちが逆襲してきちゃったりするかもね。

★小宮山:この「腐女子特集」を掲載した『稀人舎通信』の六号は、第十一回文学フリマで、おかげさまで七五部売れました。

☆金井:かと思えば、「次は、介護をテーマに座談会しようよ」とかいうわけ。「そしたらまた、おばさんって言われるかなー」って思うけど、「50代の人が介護で座談会やったら、梅田さん、『またおばさんが……』って言いますかい?」と問いたい(笑)。

★小宮山:その「介護」からちょっと広げて、次号では「親子」をテーマにした特集にする予定で、六月の第十二回文学フリマに向けてただ今絶賛準備中です。

■言い訳あれこれ

◎梅田:うかつなポジショントークで傷つけてしまったということには、反省しきりでございます。おばさん、だなんて思ってない、美しいアッパーミドルのおねえさまたちであると思っていました(笑)。
でも、ちょっと言い訳だけさせてもらえれば、媒体を作るときって、取れる選択肢が年齢や状況によって全然違うわけですよね。同人誌を作りたくても、人脈や原稿や入稿方法やなんかで躓いて作れない人たちもいるんです。潜在的な作者たち、サイレント作者ですよ(笑)。 でも、そうした障害を楽々と越えてしまう人もいるわけです。「同人」と言ったって、それぞれ持っているバックグラウンドだって違うし、ノウハウも違う。それをお互いに交通できればいいなとは思うけれど、それを望まない人もいます。僕にできるのは、そういう交通をする前の段階で、誰がどういうリージョンに居るのかをマッピングして、道しるべを立てられたら、ちょっとは文フリに参加してくれる人がふえるかなって思うんです。文フリだけじゃなくて、何かを作ってほしい。その呼称は、文章系同人でも、同人文芸でも何でもいいですけれども。
ただ、断片的に個人的な付き合いだけが増えていくんじゃ蓄積がないから、まずはいくつかの観点から、リージョンを見定めようというのが僕の考えで、その際にそれが「不当なレッテルだ」というのであれば、それは謝罪します。それに、もう一回言いますけど「おばさん呼ばわり」なんて絶対してません(笑)。こんな美しく気持ちが若い素敵なおねえさまたちがやってることじゃないですか(爆笑)。

★金井:おばはんと大学教授が、タッグくんでむりくり嫌がる学生たちになんかやらせてるって感じですかぁ?(笑)

◎梅田:嫌がっている学生を無理やり、なんて思ってませんよっ。一度参加する機会が与えられて、それでまた参加したいって人は多いだろうな、とは思っていますし、そうなればいいなーって思いますけれど。

★金井:ここでは名前を伏せますが、教え子で学生時代からずーっと小説書いてる子がいます。横浜のシウマイ屋さんに就職したんだけど、仕事が忙しくて、小説を書くヒマはなくなったらしい。でも、文学の空気を吸いたいというので、文学フリマを毎回訪ねてくるんです。最近松茸弁当を開発したそうで。正直、その子は、到底松茸弁当を開発するようなタイプの子じゃないんですよ(笑) 。でも、自分はいま書けないんだけど、また仕事が落ち着いたら書こうとは思ってるんだって。文学フリマとかも、前いたサークルのブースには寄るけれど、他のブースにはあんまり寄らなかったんだけど、見たらなんか先生座ってるから、嬉しくなっちゃったって、声かけて来てくれたんですよ。私も人が悪いから「買っていってよー。売れないんだー。ほら、300円ぐらい持ってるでしょ!?」とかっていって(笑)、 無理やり売りつけてたの(笑)。
で、その後の回も毎度、訪ねてくれる。この間は、松茸弁当の試食金券もくれました(笑)。ありがたいことです。彼女といろいろ話をしたら、彼女もね。文学フリマにきたら少なくとも私がいるだろうっていうのがあったのね。で、お互いに情報交換をしていると、社会人でもこういう楽しみ方があるんだなーって。完全に同窓会状態ですよ。で、その子に余裕ができたときに、作品を引っさげて来て、読ましてもらうのが、いまからうんと楽しみです。シウマイ屋のOL体験、絶対、書くものの下塗りに活きてくるはずだから。文学って、アブクみたいな頼りないものだからこそ、ここにくればブクブクしてるっていう場所、大切ですよ。いままでの文学フリマのイメージって、たぶん同好の士が集まって身銭を切って作った雑誌や書籍のコンテンツを競い合う、というイメージが中心にどんとあったと思う。でも、これからもっと回を重ねて、参加者も増えていく中で、背景の違う人たちが桂馬飛びにそこで新たな馴染みをつくって、手触りのある批評の場を創って行くっていうのも、個々のコンテンツの質をあげていく要因に繋がるんじゃないですかね。

安倉儀たたた

文系大学院残酷物語博士篇

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(「週刊メルマガクリルタイ」Vol.92(2011/08/24 配信分) の原稿を再掲)

☆はしがき

みなさんおひさしぶりです、やっほう!!
日々の生活にお変わりありませんでせうか? お変わりありませんね。よかった~、お変わりなくて。
僕はといえば、去年の四月から大学院(博士後期)に進学いたしました。専攻が日本文学・古典と人文学/非現代とゆう「高学歴フリーター」の道をまっしぐらでございます。
「就職詐欺」「やめろ! そっちの道はがけ崩れだ!」「誰だ! 花園を荒らすものは!」といわれる博士ライフを送ってはや二年目。いや、すごいですね。文系博士課程ライフ。もう何がすごいって……いや、悲しくなるからやめます!

さて、今回は修士残酷物語の続編、博士残酷物語をお届けしようと思います。
※『文系大学院残酷物語修士篇

大学院をめぐる恋愛事情も、以前とはまるきり変わって、『anan』などの一流女性雑誌でも大学院生彼氏がふゅーちゃーされるようになりました。「時間がいっぱいあるからたくさんあってもらえる☆」とか、「彼は物知りでいろいろ教えてくれる!」とか、「社会人スレしてなくて、私のことを純情に考え続けてくれるに違いない☆」とか、巷では院生男子をめぐっていろいろ言われておるそうです。
それで、なんでしたっけね。理系大学院で大学近くの喫茶店でMacBook開いてる眼鏡で白衣で黒髪の天文学者を捕まえるといいんでしたっけね。

そんな雑誌を見るたびに……。

「夢みてんじゃねぇぞメス豚どもぉおおおおおおおおおおお!!!ゴルァァアアァアアアアアアアアアアアアア!!!!」

…と、叫びたくなるのでした。もちろん、叫びません。人を荒涼に難ずるまじき旨1150年ぐらい前から藤原清輔の教えるところでございます。
 
本日は大学院生博士後期課程まであがった私めが、恋愛のなんたるかを伝授するべく筆をとり、世にいる夢みちゃってる俺と彼女のために御文したた目申上致候。しかし、もちろんこの戯文は実証的なデータに導かれた社会の真理を伝えるものでありません。現役の大学院生による卑屈で陰湿で、しかし希望にも満ちた虚実皮膜のファンタジーとして読んでいただければ幸いですの!

☆院生男子の現状

……と、書きだしてはみたものの、はてはてどうしたものやら。実はここ最近、僕には恋愛がらみの話題が降っておらず、壮大なネタ切れを起こしてもいるのです。なんてったって女性とあわないからねぇ。国公立はまた違うでしょうが、私学の博士課程も二年になると、かわいい後輩たちも次々別の道へと去ってしまいます。
「わぁ、せんぱぁーい。これこれ教えてくださいよ~」
「ふふん、これは文治年間の司牒状だねぇ。たぶん翻刻が『鎌倉遺文』に収載されているはずだよ。……ほらあった。あったよ! あったけど、これは、翻刻ミスってる上に重出文書だ! ちくしょう! なんてこった! 竹内理三、てめえは俺を怒らせた、千と四回生まれ変わってもてめえだけは絶対許さない!! ゴゴゴゴ!」
「せ、せぇんぱい……?」

とか……

「せんぱぁーい。みとのまぐわいってなんですか~?」
「ふう、それは君には教えてあげられないな」
「な、なんでですか」
「体験するほうが速いからだよ。ほら、ふくをぬいで」
「せ、せんぱい(スルスル)」

…とか、上記のような話をした記憶はありませんし、文治年間の重出文書も見つけた覚えがありませんが、可愛い後輩はいなくなってしまうのです。 
まあぶちまけますが、男子大学院生の恋愛相手で一番多いのはぶちまけ「後輩」だそうです。進学以前にパートナーがいるケースにおいても、後輩の彼女率は相当高い印象があります。

後輩にも様々なレベル(学部、サークル、研究室など)があります。まあもちろん上はどんどん抜けていきますし、女性と会う、といっても、大学院生でいえば他領域の院生か、他大学の女子院生と学会でお会いする程度、社会人との接点がない領域だと、あとはバイト先/同窓会/オフ会などに限定されてしまうのです。

しかし、他領域の院生はそもそもほとんど会うことがありませんし、他大学の女子は基本的にライバルです(そして、時と大学によっては指導教員が保護者のごとく悪いムシ=僕から守っています)。社会人とオフ会での出会いは、それこそ人によるでしょう。院生だって(いちおう)人間です。社交的な人もいれば、そうじゃない人もいる。
ネットに強い人もいれば弱い人もいるのです。とはいえ、多くの人文系(とくに文化研究系)の大学院生にとって「ある程度のステータスをもった社会人」との恋愛とは、誰もが夢みるファンタジー。女子院生にとってはなおさらで、男子であれば研究をしながら「ヒモる」ことに憧れない人はおりませぬ。社会人との恋愛。院生男子(博士)にとってはそれはまさしくファンタジー。
残念ながら、たとえ社会人のパートナーを見つけることができても、多くは長続きはしないのです。
社会人が「院生男子との恋愛」に誤解をもっており、また、大学のほうも社会人との恋愛に強い幻想を抱いているからなのです。次節では、この不幸なすれ違いについて考えます。

☆四つの誤解

では、まず「大学院生が恋愛の相手として悪くはない」とされる要素を検討しつつ、その誤解について少し解説しておきましょう。

1.『大学院生は時間がある』

たしかに、博士後期課程の大学院生の多くは他の職業についている人たちに比べて自分たちの時間があるように思われます。授業は原則としてありませんし、論文を書くのに「何時から何時まで」という縛りはほとんどありません。他に本業があって院生を副業で行っている人たちもいるので一概にはいえないものの、自由になる時間は社会人よりもあるといえるでしょう。
しかし、自由になるから暇かと思えば大間違いです。それは「人生すべてが就業時間」でもあるということなのです。
特に同年代に近い領域をやっている友人やライバルがいる場合はなおさらです。一分一秒僕が遊んで無駄にしている間に、KOのあいつは僻案抄の伝本再分類に成功しているかもしれないし、帝大にいる彼女は毎月抄の偽書説を裏付ける確かな証拠を見つけているかもしれないのです。
時間があれば本を読みパソコンに向かい、時に息抜き。それ以外の時間は遊んでいる自分を見下している同僚たちの姿を想像して「ぐぉぉぁああう」と悲鳴をあげている。それが大学院生の自由時間なのです。

なるほど、それでも平日の夜、社会人のあなたに院生彼氏は会ってくれるでしょう。疲れ果てて「あー、彼に癒してもらいたいな☆」とか思って会うのでしょう。
しかしながら、あなたと会ったときに彼は無駄な煩悶に悶え苦しんだあと(か、苦しんでいる最中)なのです。疲れ果てた笑顔をさらしながら「お仕事おつかれさま」といってくれる彼氏の笑顔にほこほこすることもできるでしょう。ああっ! ほこほこすればいいさ! でも、きっとそんな彼はあなたと話している間も上の空で、細川藤孝公の書写目録を頭に浮かべて、まだ見ぬライバルが永青文庫を来訪している姿を想像して苦悶しているのです。

あと、意外な点かもしれませんが、土日が休みでない、ということも多くあります。
まず、学会の多くは土日、時に二日間続けての開催となります。あるいは、大学や研究機関の先生方が中心となって活動する研究会などの多くも土日に開催されることになります。社会人彼女がうきうき気分で「ねぇ、土日ひまぁ? 『コクリコ坂』観にいこうよ?」と誘っても、院生彼氏は「ごめん学会」乃至「ごめん疲れてるから」といって断る可能性が高いわけです。時間はあるけど気はそぞろ、それが文系院生男子です。家に帰ればページ数が二万とかまで振ってある謎の叢書を読みながら、謎の笑みを浮かべているときの彼のアヘ顔にあなたは耐えられるでしょうか。。

2.『物知りである』

なるほど、文系院生彼氏を連れていけば、博物館や美術館で出品するものについて解説をしてくれることはありうるでしょう。時に映画や小説を読んでいるときに、面白い小話を聞かせてくれることも大いにあり得ます。また、文系院生彼氏は意外と多趣味で凝り性だったりします。そういうのがお好きな方にはちょっとスパイシーな存在。普段は「ニート同然の腐れ外道がっ☆」とか思っている彼を見直すことがあるかもしれませんね。
でも、彼のお話があなたの興味と合致するかは人生をかけたギャンブルです。博物館について迂闊に「そういえば●●くんの専門ってこれだよね?」なんて言ったら大変です。小一時間ぐらい初めて聞く書名や人名やまだ活字になっていない本の話などをされ、他の展示の個所でも繰返し同じ話をしやがります。もし、あなたが比較的近い領域の研究者であればそこから有益な情報を引き出すことができるかもしれませんが、毎日朝早くから夜遅くまで働くキャリアウーマンであればそれは呪いか狂気かお経に聞こえるかもしれません。そして、万が一あなたが同じ領域の研究者であれば「し、知ったかしやがって……クソがっ!」と叫んで博物館で喧嘩が始まる可能性を考慮しておく必要があります。
しかし、そこで「ま、その話はいいから」と話を遮ってしまうと、あら大変。ガラスのハートをもった院生男子はコートの中でも泣いちゃうかも? 自分の研究が社会の役にも立たず、彼女の興味にも当てはまらないことを自覚させられるのは、覚悟していても辛いものですから。

3.『純情である』

人によります。

4.『落としやすく、駆け引き無用』

人によりますが、ぶっちゃけあなたの「ステータス」次第です。

5.『将来性』

社会科学、法学、広義の経済、経営系などには十分あります。また、意外と文系学科も就職口そのものは少なくありません(中高の先生、僧侶等があります)。しかし、文化研究系の男子院生はとにかく働くことに無駄な嫌悪感と、「好きなことだけやって生きていきたい!」という叶わない夢と、特に誰かが知りたいわけではない情報をたくさん知っておきたいという謎の欲望と、しばしば人間としてダメな部分を抱えており、お給料がもらえるような普通の社会生活に支障があるようです。というより、将来とかないほうがよりよいとすら思っている自暴自棄さ
を持っているケースも散見され、僕がその典型です。そうではなく、広く社会の役に立ちたいとか、「もっとみんなの苦しみを減らしたい!」というような高い志をもっている人がいたら、万が一そんな大学院生を見つけたら、背中を預けてもよいでしょう。ただし、そんな優秀な人はすでに就職をキめている可能性が高いです。

以上のように、魅力に映る院生彼氏のメリットを何一つ持たない文化研究系の大学院博士課程彼氏は恋愛の相手として非常に厄介な存在です。かくいう僕も書いていてだんだん悲しくなってきました。
今はインターネットとデータベースが次々と公開され、文系大学院生でもパソコンは必須アイテムとなっていますが、それでもAirMacをエアバス社の飛行機だと思っているぐらいにITリテラシーの低い院生も数多くいます(実話)。それでも、大学院の果てまでやってきた男子は「自分の価値がいかに低いか」を様々なシーンで体験していて、その辛さ、悲しみと、文系男子にありがちなナイーブな感性と、多くは完全に一方通行の同情をこじらせて、あなたの苦しみを減らしてくれるかもしれません。

☆院生男子の目論見

しかし、大学院生の男子だって、「高収入の女子と結婚したい!」とぶちまけ思っているのです。とはいえ、大学院生にとってはまさに高値の花(高嶺でもあります)。自分の将来的価値を担保にしてキャリア女性と付き合うのは実はちょっとしたゴールのようにも感じているのです!
ですが、この「担保」がいかに薄弱なものかは、当人たちが一番分かっているのではないでしょうか。実際に「将来的価値」を担保に出来るのは、将来弁護士の可能性があるロースクール、あるいは法学、それから就職に比較的有利な経済関係と、理工大学院でありましょう。では「キャリアウーマンではなくても普通のOLじゃだめなのかい!?」と思ったみなさま! もちろん、いいのです。いいのですが、しかし。

☆「支えられるぐらい、あたし……ないもん!」
 
普通の社会人との恋愛について、とある彼女もちの友人(忍者の研究者)に呼び出されて、人生相談をされたことがあります。
 
彼「こないだね。吉祥寺のいせ屋にいったときにさ、お見合いの話になったんですよ」
僕「はあ」
彼「で、彼女に、お見合いでさ、『おれだってオックスフォード大学卒の女子とお見合いしてキャリアアップだぜヒャッハ!』みたいな話になったんだよ」
僕「なにでそうなったのかわかんないけど、そうなんだ」
彼「そしたらさ、彼女が泣き出して」
僕「なんで!?」
彼「よくわかんないんだけど、傷つけたみたい。それで、大泣きされて、『わ、私が、正社員の彼とお見合いするっていったら●●君嫌でしょ!』とか、言われてさ。それで、『なんで怒ってるの? 話してよ』っていったら、すごく、泣き始めてさ」
彼女「あたし、●●君を支えられるぐらい年収ないもん! ●●君、本当は私じゃなくて、もっとお金もってる人に支えてほしいんでしょっ!」

友は、ビールを干しました。

彼「ちょっと図星だった」

……そいつを非難するなんて簡単なことです。人間が小さいとか、バカやろうとか。
でも、その時の「彼女」の苦しみは痛いほどわかるわけです。忍者の研究で大成しても、果たしてそこに『未来』はあるのか。たぶんない。一時期は勉強をやめてしまおうと考えていたそいつに、僕はその時、彼から目を逸らしながら「がんばれよ」なんて、目悲しい慰めをいうことが精一杯でした。

そして、そいつはいま、某女子大の助教です。

ノッキョオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!

さすが、さすが忍者! これ立てたの絶対忍者だろ・・汚いなさすが忍者きたない! 
僕はこれで忍者きらいになったなあ。卑怯過ぎるでしょう?

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このように、院生の恋は誰かを傷つけてしまうのです。少なくとも、そんな風に思っている高学歴フリーターたちは多いのです。大学院生の恋最大のハードルは、そういう「怯え」を超えることが、たぶんちょっとだけ他の人より難しいこと、なのかも。

でも、そんな感じの院生ライフですが、なんだかんだで楽しく満足してます。好きな本をたくさん読んで、知りたいことをたくさん知って。図書館にはあなたが触ったこともないような本が実はゴマンと収蔵されており、重文や重美にも触れる機会ができました。将来性や時間の余裕や、人格や駆け引きじゃなくて、自分の幸福に満足できる、すてきな大学院ライフを楽しんでいるその姿にこそ、世のOLは惚れてほしいなーと思うのです。

安倉儀たたた

M3にいこう! ~音系の祭典で~

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(「週刊メルマガクリルタイ」Vol.62(2010/10/06配信分) の原稿を再掲)

M3、それは祭典! それは10月31日(当時)に開かれる…! 祭典! 
それは狂乱と惑溺の一日! 祭典! それは幸福と金銭感覚完全麻痺の数時間! 表現衝動と購買意欲の幸福な合体により、自主制作を愛する人々のすべてが東京流通センターに集結するのである!!
M3! それは愛とマルチメディアの祝祭! M3! それは自主制作の音楽/映像作品/音響/サウンドコラージュ/放送劇/同人ソフト等の即売会なのであーーる!

http://www.m3net.jp/ 

……というわけで、僕のこの文章はメルマガクリルタイの読者をM3に誘うために書かれています。10月31日に無理やりでも予定をあけて、M3に遊びにいくよーに。 
いいぞー、M3は楽しいぞー。みんな元気。わいわいしている。お客さんも多いし、みんなすっごく楽しそ楽しそです。文章系同人の人たちにおなじみの「文学フリマ」の主催責任者である望月倫彦氏も、しばしばその開催規模と高い運営能力において「先輩」というほどに安定した運営を行っていることでも有名です。

2009年の春までは蒲田Pioで開催し、一度横浜の大さん橋ホールに行ったものの、サークル参加数が700を越える規模になった現在、TDR(東京流通センター)での開催が恒常化するようです。
同人音楽系サークル参加数がここまで爆発的に上がったのは、すでにこのメルマガの僕の連載でも指摘したとおり、Youtubeやニコニコ動画、Myspaceや各種SNSなどのインターネット上のプラットフォームの存在や、DTMやDTWといったサウンド制作環境の進展(と制作ノウハウの共有)自主制作が全体的に注目されていることとの影響があったことは間違い有りません。
しかし、同時にM3という場の雰囲気や気分の楽しさ(それは安定して信頼される運営や、サークル参加者たちの高いマナーなども含みます)抜きに同人音楽の成長はなかったように思います。目の前で自分が作ったものが売れ、それを楽しそうに買う人がいる。そんな即売会の喜びがぎゅっと詰まった会場でもあるわけです。

M3が「同人音楽のオンリーイベント」であるという理解がありますが、これは間違いで、正確にはマルチメディア同人のオンリーイベントです。(公式は「音系同人」ですが、音は音楽に限らないということでしょう)。
マルチメディアですから、映像や音楽だけではなく本やハードウェアもたくさん売っているわけです。中にはファミコンのソフトからゲフゲフ……。なんてものもあるのです。様々な人や物が集う「楽しいお祭り」であり、そのお祭りに対する参加者たちの愛がM3を作っている。この愛を感じにいくことが、M3の最大の醍醐味でもあるのですよ!
そうした愛のものすごくわかりやすい例が、remofさんが行うメンバー募集方企画「10月31日」でしょうか。

http://remof.net/1031/
 
売り文句が「それぞれにとっての秋M3への想いをつづった愛と情熱と友情のハートフルアルバム」ときたもので、M3が、ただの自主制作の頒布イベントではなく「想いをのせる場」になっているわけです。
しかし、M3がそういう場になるまでにはやっぱり長い年月が必要だったのです。祭りで盛り上がっただけではなく、即売会に出て楽しみ、友人を作り、ファンがいることの感動をかみしめる。そこには悲しい別れがあったりします。けれども、M3はいつもいつでも、あなたを待っているのですよ。歴史の重さではなく今の楽しさを味わいにどうぞ行ってみてください! 朝から並ぶと大変ですが、二時ぐらいにはけっこうまったり入れるはずです。

で、何を買えばいいのかって? んなもの気に入ったもんを順番に買っていけばいいんだよ! というのも無責任なのでひとつだけアドバイス。
何もわからなかったら「壁面にブース出しているサークルを中心に買っていくこと」をおすすめします。あるいは、音楽の趣味であれば移動経路ごとに集合している「島」ごとに見ていくのもいいでしょうね。

とはいえ、実はまだ情報が開示されておらず、おすすめサークルリストとかが作れません。しかし、ここ数年で同人音楽は本当に面白くなってきました。迷ったら買えと悶絶メタルも申しております。どうぞあなたの信じるものとたまたま出逢ったものを信じてみてください。同人音楽は「励ましの文化」(小峰隆弘)です。たまたま買ったCDが、心に抱えるものがある人すべてに勇気を与えてくれるはずですの。

でももしどうしても、どうしていいか迷ってしまったらウ08にある「同人音楽同好会Withひだらす」の本をみてください!あなたがびっくりするコンテンツを用意してお待ちしております! と、最後は、宣伝で自演乙。

(安倉儀たたた)

ダダ漏れ古典籍トーク

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(「週刊メルマガクリルタイ」Vol.59(2010/09/15 配信分) の原稿を再掲)

夜桜を見に行こうよ、という口約束を信じて皇居を二周した事がありました。
東京で桜が一番綺麗に咲くのは千鳥ケ淵だと思っていて、日が落ちてからそこでビールでの飲みながらふらふらとお堀ぞいを歩いていくのがいい。春先だから芝の緑は鮮やかで、ライトアップなんて野暮なことがあるでもないから、うっすらとした暗闇のさなかにひょいと、満開の桜が浮かんでいるのがいいんです。
でもまぁ、結局誘った相手は仕事が終わらずに、僕は皇居大好きな人みたいに歩きまわって疲れはてただけでしたけどね。あ、本当は仕事じゃなかったかもしれませんけど、涙がでるのでそんなことは言わないでおくれやす。
今日はそんな話ではなくて、千鳥ケ淵で夜桜を見るまでの時間を過ごした、国立公文書館内閣文庫等で見ることができる、昔の本――古典籍の話をすることにいたしましょう。

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東京メトロ東西線の竹橋駅を降りてから、道なりに坂を上がっていくと近代美術館、その隣に国立公文書館があります。公文書館の一階は展示スペースになっていて、貴重な史料が展示されています。しかし、多くの研究者にとって一のお目当ては、二階「内閣文庫」であります。

江戸幕府の蔵書でもあった紅葉山文庫もここに吸収されており、『群書類従』の原稿なんてものまで収蔵されているんですよ。

内閣文庫では利用登録すれば即日利用可能です。重文などを除き、ほとんどの書物を見せてもらうことができます。さすがに閉架ではありますが、近世期の写本や江戸幕府の文書なんかも見せてもらえますし、申請すれば紙焼き写真をとってもらうこともできます。

内閣文庫から、お堀を超えた先には皇居に宮内庁書陵部があります。ここにも皇族や禁裏の蔵書が架蔵されており、申請をすれば、ものによっては見せてくれます。専門の研究者を多数擁しており、研究活動も盛んですし、翻刻本文の出版や天皇家実録などの制作も行っています。

日本の古典籍の多くは、個人蔵でも巨大なコレクションを持つ人がいますが、こうした蔵書をもつ「文庫」や研究機関、博物館、大学等に収蔵されています。
例をあげればキリがないのですが、『百人一首』を編んだ藤原定家の流を継ぐ冷泉家には「時雨亭文庫」がありますし、慶応大学には、九州の大富豪(元首相のあの人のあれです)が作った文庫の一部が研究機関「斯道文庫」があります。
こうした史料の複製やコピーを収集する機関もあります。東京大学には歴史学の研究機関であり、日本の基礎史料を編年に集成した『大日本史料』を編纂する「史料編纂所」がありますし、立川には国文学系の「国文学研究機関資料館」がありまして、日本各地の文庫を訪ねて、マイクロフィルムや紙焼き写真が集められています。
こうした文庫/研究機関/個人蔵をすべてあわせて約五十万点、これは『国書総目録』と、それを発展的に継承した『日本古典籍総合目録データベース』の数になります。それと、ほぼ未整理の寺院群蔵書(四十万点とも、九十万点とも拝聞しますが、正確な数はまだ全然わかりません)が、日本古典籍の総数に近い数字となるでしょう。寺院蔵書の研究は近年の中世歴史学/文学研究のホットトピックのひとつです。

こうした古典籍の多くは、作成された当時のままの姿を残していません。
茶掛にするために切断されたり(現在進行で切られてます)、売り物にするために巻子本に変えられたり、糸で綴じられた本がバラバラになって、適当に糸でくくり直したせいで話の順番がめちゃくちゃになることも。この例で有名なのは『更級日記』です。近代なって発見されましたが、伝存伝本の祖本にあたる定家書写本に七ヶ所の錯簡があり、ほとんど意味が通じない箇所があったのです。

こうした古典籍の扱いは、とても緊張しますし、物や状況によってはとても厄介です。とくに巻子本の扱いは慣れも必要ですし、保存が悪くてよれてしまった巻子は傷みやすく、巻けそうになかったら機関の人にお願いしたほうがいいでしょう。
こうした古典籍をデジタルデータにして公開しているものもあります。以前から、コロタイプ複製や影印本(要するに写真です)の出版はありましたが、デジタルデータによるデータベースならば出版が難しいマニアックな写本も掲載できますし、インターネットで簡便に利用できる便利さなどが高く評価されています。図書館の貴重書を公開している、京都大学や早稲田大学のデータベースが比較的有名なものであります。
しかし、こうした高精細デジタルデータでも、の様々な「本を構成する要素」を確認するのは困難ですし、本から受ける印象もかなり変わります。撮影時の光の具合もありますし、写真では隠れてしまうような箇所(綴じ穴の数、糊の具合、紙継、擦消の有無、墨の濃淡)の確認は、やはり原書に触ってみないとわからないことが多いようです。何よりも――こういうとオカルト的に聞こえるかもですが――本の印象が全然違うことがある。この感じをうまくいう言葉を僕はもってませんが、写真でみると書写年代が新しく、白黒で見ると古く見えることが多いようです。
当たり前の話なのですが、こうしたデジタル画像を撮ることと、古典籍を保存、研究することとはまったく別の話であると僕は考えています。
 
こうした古典籍は、いまでも相当点数が市場にでます。一般的な書店では買えませんが、京都の芸林荘や上野の文英堂のような専門に扱う古書店もあります。好事家や収集家だけではなく、大学や研究機関も購入しています。今でも時々信じられないような物が発見されて市場に出回ることがあります。ああ、この間大阪ででた『新古今和歌集』の草稿断簡はどこにいってしまったのでしょうね……。
かつては、投機の対象ともされていましたが、今はそれほどでもありません。
また、茶掛などにするために切断された紙切れを「古筆切」こひつぎれと言って、今はこの研究も盛んです。藤原定家の『明月記』は、自筆本も伝存する日本中世研究の基礎資料ですが、これは自筆に残らなかった箇所が転写された古筆切に伝存するケースもあり、美術品としてだけではなく、歴史/文学研究からも熱い視線が注がれています。
このように膨大な数が残る日本の古典籍は、実態を伴った「物」として、そこにあるのです。そして、そのような物としてあることの意味はとても大きいのだと僕には思える。それは、「物」
が教えてくれることは、文字や情報以上に大きいから、なのです。だから、それはどのような物にも移し替えることはできないし、どのような物にも代えがたい。博物館の展示品になるようなもの一級の美術品だけではなく、そこそこの価値があるかもしれない「物」が大量に残っているのが、日本の古典籍の残存状況なのです。そんな貴重なものをサクっと見せてくれる内閣文庫は本当にありがたい機関なのです。

また、僕たちが今読んでいるもの、書いているものも古典籍になる時代がいつかくるのでしょうね。その時に、電子とデジタル写真だけ残してありました、なんて、ちょっと悲しいとは思いませんか? 

だらだら書いてきましたが、古典籍の研究はモテません。「僕たちの愛は真福寺本古事記よりも長く続いていくんだ」とか、「君とツレ(同じ本の古筆切をこういいます)になりたい!」とかいう奴がいたら、そいつは八万円の古筆切を購入して平然としていたり、カローラ二台分の本を買ったりするのにあんまり抵抗感がないやつかもしれないので、油断は禁物ですよ。少なくとも、コピー代で二万とか使うやつに違いありません。要注意です。

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そろそろ夜の十一時ですか。実は「氷点下ビールを飲みにいこうよ」と誘い「お仕事終わったらぜひ」と言われたので、この猛暑の中新宿のサイゼリアでパチパチ打ってたのですが、そろそろ終電の時間が近づいているようです。今の時間まで働いてるなんて大変だなぁって、信じることにしています。メール打ったけど返事返ってきませんし。
だらだら書いてきたけど、今日はここまでにしましょう。より詳しくは橋本不美男『原典を求めて――古典文学のための書誌』とか藤井隆『日本古典書誌学総説』とか堀川貴司『書誌学入門―古典籍を見る・知る・読む』などを読んでみてください。ただ、何を読むよりも、実際に触ってみるというのが一番ですね。

日本古典書誌学総説日本古典書誌学総説
著者:藤井 隆
販売元:和泉書院
(1991-05)
販売元:Amazon.co.jp
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書誌学入門 古典籍を見る・知る・読む書誌学入門 古典籍を見る・知る・読む
著者:堀川貴司
販売元:勉誠出版
(2010-04-04)
販売元:Amazon.co.jp
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大学生ならばそういう文献学の授業を履修して、社会人ならば土日やってる近くの博物館や史料館のワークショップに参加してみるのもいいかもしれませんね。 

(安倉儀たたた)

「文章系同人の未来はどっちだ!」第三夜「アカデミック・パースペクティブ」

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(「週刊メルマガクリルタイ」Vol.52(2010/07/28 配信分) の原稿を再掲)

今回は同人と学問をテーマに、同人文化への学術的アプローチについて書いておこうと思います。文章系同人だけの問題ではありませんが、少し別の角度から「同人」を見ておきましょう。

さて、同人文芸や同人誌に関する学術的な研究というものがあります。というよりも、日本近代文学の実証主義的研究者においては、一時期それこそが王道的な研究だったこともあるようです。みなさまご存じのあの文芸誌やあの文芸誌もみんな同人雑誌でしたし、近代文学館に架蔵されていない文芸誌はそれだけでも資料的な価値があります。
でも、同人雑誌の過去の頒布物を入手することは極めて極めて困難です。文芸誌に限らず、音楽だってそうです。マルチメディア同人即売会「M3」さえ、初期のころは見本回収はしていませんでしたし、場合によっては頒布者さえ持っていないことが多いのです。

つまり、同人文化は非常に歴史化されにくい特質があるのです。

「歴史化」と言いましたが、別の言い方もできるでしょう。アーカイブ化、資料化、保存。どのような言い方を採用するにせよ、同人とは基本的に「過去を保存しない文化」なのです。昔も、そしてたぶん今も。
こうした状況下において、同人研究は二つのムーブメントの中で行われているように思います。

一つは歴史的事象としての同人をとらえる困難を承知の上であえてそれに挑む「歴史学的/文化史的研究」。もう一つは、そうした歴史性を排除して、現在ある同人文化を的確に切り出そうとする「社会学的研究」です。

同人作品の論評や作品分析を通す解釈的表象論的研究もあってよいような気がしますが、あまり盛んではありません。あとはジェンダー研究が突出して存在していますが、今回は省きます。文化史研究にせよ、社会学的研究にせよ、こうした同人研究の動向は高等教育改革と無縁ではありません。ここ十数年間で表象論やメディア学、あるいはコンテンツ学といった新しい研究領域が爆発的に認知されてきたと同時に、DIGRAやGLOCOMのような学会/研究機関の存在感が爆発的に上がってきたことも関係しているでしょう。また、文科省から経産省へ学術研究のリードが移ってきたことも・・・・ってあんまり書くと面倒ですね。
 
さておき、まず同人の歴史研究について述べておきましょう。この文脈は、深いところでは同人だけではなくコンテンツ産業全体の問題でもあると言えるかも知れません。大塚英志氏が危惧した「オタクとしての教養」の崩壊と同じ地平に存在しています。この危機意識をもった一人の歴史学者がいました。吉田正高先生です。
近世歴史学近辺ではなぜかグラッチェと呼ばれ、いまは東北芸術工科大学准教授で、コンテンツ学研究者でもあります。そして、コンテンツ文化史学会の代表です。

コンテンツ文化史学会はその名通りコンテンツの文化史学を構築することを銘打った学会です。すでに数多くのイベントが開かれ、超領域で各大学の研究者や大学院生らが研究発表を行っています。論集も現在まで三集まで出ており、紙芝居研究からロボットアニメの歴史まで非常にはばひろく展開しています。東京大学の特別研究員である、学会事務も務める玉井健也氏が非常に安定して原稿を出しており、若干玉井氏の同人誌みたいになっているところもあります。

しかし、現状では本当にただのオタクの学会です。なんとかしてください(キリッ

……というのは冗談にしても、その非常に微細な実証主義的な研究に比べて、扱うテーマがあまりにも現代寄り過ぎるとは思います。学会として明言しているわけではないのですが、文化史とコンテンツの乖離をそこに強く感じざるをえません。そもそも、歴史研究や文化史研究は、資料の収集や収集した資料の整理、紹介に膨大な時間と予算がかかります。そして、いまこうしている間にも膨大なコンテンツ文化が葬られているのです(ラノベが店頭から消えるのは店に置かれて二週間とさえ言われています)。
文化史研究が、こうした消費速度の早い文化に対して何ができるのかも問われているようです。

少し駆け足ですが、社会学的研究のほうについて見てみましょう。こちらには優れたプレイヤーが多数います。今ふっと思い出すだけでも、七邊信重、金田淳子、井手口彰典……。大勢の研究者たちがいます。他にも、例えばDIGRAには同人ゲームの研究部会が立ち上がっています。こうした社会学的研究は同人のプラットフォームや《場》や《界》の問題を取り上げたり、定量的な分析を通じて行動原理を分析したりするものが多いようです。また、経済上の研究や出版文化との関わりなども研究されています。
こうした社会学的研究と文化史学的研究は実際には同じ雑誌に乗ることも非常に多いのです。コンテンツ文化史学会の学会誌は二者があいのりしているという意味で非常によい効果を上げているように思います(同時に、現場のクリエイターの声や、若手たちの発表の場も与えています)。

そのなかで、社会学的研究の中で二つの特に注目すべき論文があります。
一つは、前回も少し取り上げましたが、井手口彰典「概念としての「同人音楽」とその射程」(『同人音楽研究』1号、2009.8)。もう一つは、七邊信重「「同人界」の論理―行為者の利害-関心と資本の変換―」(『コンテンツ文化史研究』三号、2010.4)です。
井手口論文は同人音楽という流通している言葉が、概念として非常に多様かつ恣意的に用いられている現状を整理し、その中から作り手の環境によって同人音楽の現在を定位しようとする意欲的な論文です。ここで示される「同人音楽」の定義の困難さは他の同人領域においてもケースは異なれど等しく参考にされるべきものでしょう。
七邊論文は、同人文化における先行研究を大きく整理した上で同人活動を行う人達がもつ文化慣習やその実践を理論的に布置しなおしています。ブルデューの理論を広く応用したものであり、若干難しいところもありますが、膨大なインタビューやデータから導きだされた結論は明快で論理的です。

無論、同人文化を研究するならば読むべき論文はこれだけにとどまりません。しかし、この二論文には研究に必要な知的誠実さや論証だけではなく、同人文化を語る言葉を新しく模索し、よりよき同人の/との関係を模索する試みがあるように思います。
少し嫌な言い方になりますが、かつての(というより今も)同人は、お金の問題や社会学的な問題、あるいはただの趣味として語られてきました。あるいは、メジャーコンテンツの二次/副次的なものとして位置づけられてきました。そうではないのです。しかし重要なことは、「そうではないということを語る言葉をずっともたなかった」ことなのです。いかに実践者たちが自分たちの行為を顕彰しようとも、それを聞き届ける相手は自分たちしかいないというエコーチャンバーの存在。
学術研究による同人文化の表象は、それを乗り越えることができるのかもしれないのです。それは、同人活動のなかに、お金儲けや高い認知度をえられない可能性があるサークルたちが参加することの意義と可能性がどこにあって、その実践はどのような歴史的作法の中に位置づけられるのかを改めて知るのにも役立つはずです。

そう書いておいて思い出すのが、前回の文学フリマにおいて、『界遊』主催のトークイベントです。西田亮介さんと市川真人さんとのトークだったわけですが、市川さんが「文学フリマが友達同士の慰めあい以上のものが生まれていない」と発言したことがありました。
このプロレスを買いそびれてしまったのは今でも残念だったと思います(しかもニコ生で4000人以上にその言葉が届いてしまった)。この「慰めあい」を「実際そうかもしれないのですが、実際にはそうではない」ということどのようにしたら示せるのかは僕の一つの課題です。市川さんの発言は、プロレスの誘発剤であると同時に素直な印象でもあったでしょう。しかし、そうした印象を垂れ流してしまう知的不誠実さというものもあるように僕は思います。
文学の世界では、「批評」と「研究」という二つの言説構成のディシプリンが存在しています。研究は批評であってはいけません。批評は、研究のように冗漫ではいけません。しかし、批評の言葉が先に存在してしまうことで、それが誇大な妄想や被害妄想を肥大化させていくとしたら、それはただ単に皆が不幸になるだけです。それこそ、印象批評だけで児ポ関連法案が成立しそうになる東京都の状況を見たら一目瞭然です(この件に関しては継続的な監視が必要です)。

だから、僕は同人文化がどのようなもので何者であるかを論じる言葉は、もしかしたらそれはクリエイターの中から生まれる発言ではなく、七邊論文のような研究の中から生まれるべきものではないかと思うことがあるのです。「慰めあい」という皮肉ではなくて、より大きな可能性の渦の中に位置づけるよりよき言葉がどこかにあるはずなのですし、自分たちが届かない場所へ届かせる言葉も必ずあるはずなのですから。
学術研究の視点からは、同人文化の実践者たちに二つの視点が提供されています。一つは、自分たちがどのような偏見をもっているのかということ。もう一つは、自分たちが何者であるかを表現する手段を与えること。それはつまり僕たちがどこに立っているのか、ということに尽きるでしょう。
 
ともあれ、同人文化はますます刺激的な研究領域になっていくことは、研究者にとっても実践者にとっても望ましいことであると思います。それは文化史学者と社会学者たちのより深い対話を促していくことにもなるでしょう。また、文学研究者や観光学、図書館学やアーカイブなどについての研究も行われるべきだと思います。また、学術研究の成果をよりよく表彰しなおすことが同人文化の実践者たちに求められてもいます。それについては、また別の機会に課題として残しておくことにしましょう。

内在する外部としての学問がここにあります。安易なキャッチコピーに惑われない、学問の可能性を開く同人文化の面白さは、まだまだ見つけることができるはずです。

(安倉儀たたた)

「文章系同人の未来はどっちだ!」 第二夜「ムダヅモ無き文章系同人」-2

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(「週刊メルマガクリルタイ」Vol.44(2010/06/02 配信分) の原稿を再掲)

part1はこちら

■同人音楽のミームス

さてさて、ではこっからどうするかという話になるわけです。そこで僕らは、ちょっと傍目から見た感じの音系同人の文化を覗いてみましょう。もちろん創作者レベル、あるいはサークルレベルではもっと膨大な「裏の出来事」とかヤなこともあるんでしょうけれど、僕らは文章系同人らしくお客様としてざっくり閲覧してみましょう。同人音楽に触れる《現場》は大きく三つあると思います。即売会、ライブ(イベント)、そしてインターネット空間です。僕個人としてはインターネットを媒介にしてコミュニティ形成やコンテンツの流通を行うボイスドラマやフリー音源にすごく興味があるのですが、ここではむしろ即売会のみなさんを見ておきましょう。ニコニコ動画を中心に、初音ミクや東方アレンジなどのコンテンツ群が「同人音楽ブーム」を引き起こしたことについてはトミーやら『同人音楽を聴こう!』とか、他の多くの論者が述べていることなのでいまさらいいません。しかし、M3のような即
売会にいって一番思うのは、実はM3ではアレンジ曲よりもオリジナルが多く(しかも生演奏や生声もあります。じつは「多く見える」ということもあるのですが・)、インターネット越しに見るよりも実はもっと広い空間が広がっているという印象です。今はまだ品切れですが、『同人音楽研究』一号のM3主催者インタビューで言われていましたが、「同人音楽」と呼ばれるよりも「音系同人」という言葉でM3(マルチメディア系即売会)が定義されていたように、そこには音楽でもなければなんかよくわからないものがかなりの数サークルとして存在していたそうです。今でも「使いにくい効果音」さんとかなんだかよくわからない「総合マルチメディアサークルGOD」さんとかがうようよっとしています。
しかし、同人「音楽」として固定化されてきた時に、そこにはメインストリームを構築する人々が現れました。大手サークルや東方アレンジで存在感を発揮する人、ミク曲のPなどもそうですが、ここではより具体的に『歌姫』。とりわけ「しもちゃみん」について述べておきたいと思います。(そして「しもちゃみん」とかいうと、なんとかかんとか言われて辛いんですが、今でも第一線で活躍している歌い手さんたちです)。しもちゃみんとは、霜月はるか、茶太、片霧烈火の三名が組んだ音系同人のユニット名で、その三人の総称でもあります。彼女たちは歌姫とよばれ(歌姫にはI've系だの非I've系があると
かいろいろうるさいんですが、はしょります)、三人とも自サークル以外でも、依頼をうけて歌っています。歌姫は、彼女たちだけではありません。依頼を受けて楽曲に声を提供する歌姫の歌声が、同人音楽界隈のCDには溢れかえっているわけです。
こうした歌姫の存在は「同人音楽」には欠かせないものとなっていると同時に、彼女たちの存在は商業ベースとは違うカルチャーを生産、再生産しているわけです。

■同人音楽のオリジナリティ

そうした商業ベースとの作品論的な差異を、『同人音楽.book-2009summer-』にのったmahakoyo「音楽について。音楽の話がしたい」を下敷きにして論じてみましょう。『同人音楽研究会』で出会った、ある発表(たぶん、第三回研究会での、『「同人音楽」における志方あきこの実験 : パッケージの流通からファンの受容まで』 松田千慧(愛知教育大)だと思います)に言及しています。志方あきこ(同人音楽出身のアーティスト)が「商業作品では四拍子の曲を多用し、同人音楽では変拍子の曲を作りやすい」というを松田は論じ、四拍子はノリやすいが、変拍子の曲は非常に「ノリ」にくいという性質に注目して「同人音楽らしさ」を、「あえてノリにくい変拍子の曲を生み出す霜月はるかの作曲性」からアプローチするという発表で、この実例を「コミュニケーション指向として捉えられやすい同人音楽」の世界には「むしろコンテンツ/クオリティ指向の実験的な作品も現れる」ことの証左ととらえることができる、とmahakoyoは論じています。mahakoyoのエッセイが面白いところは(わかりにくいところもあるのですが)、同人音楽が商業作品の劣化版ではなく「批評性の高い音楽を作り出す環境」として機能していることを指摘していることです。
つまり同人音楽の《コンテンツ上の独自性》に、商業媒体とは異なる可能性を見出しているということです。これは環境や状況や、インディペンデンスかどうかといった社会学的な問題ではなく、同人音楽が独自のコンテンツ/コンテクストを作っていることを意味しています。『同人音楽』の定義を創作環境からみる井手口彰典「同人音楽研究とその射程」(『同人音楽研究』一号)も優れた論文ですが、そこではコンテンツの独自性には触れられていません。こうした環境の中では、『同人音楽』は『同人音楽』であるという幸福なトートロジーが(かろうじて、かもしれませんが)成立しうるわけです。僕個人の話で言えば、片霧烈火さんが「M3フェスタ」というイベントでトリをとったときのことが忘れられません。そこにはたしかに数十人しかいなかったし、貧弱な音響と音楽向きではない場所でした。でもみんなが片霧烈火の声に聞き惚れていたと思います。最後に片霧さんが「M3フェスタの運営をしてくれたみんなにはくしゅ!」といったときの盛大な拍手は、「お客様のいない/全員が作り手である」同人イベントの中でだけ現れる感動がありました。同人音楽においては、もはや商業作品をアジェンダ・セッティングのベースとする思想はありません。
自分たちの信じるものを自分たちで作り出す/自分たちの問題は自分たちで引き受けることができつつあります。それは逆のアジェンダに引き入れていくかもしれないけれど、ニコニ動画やUstの存在とは全然別にそうした文化は以前からあったわけです。そこらへんの歴史考証については『同人音楽研究』一号の研究ノートと井手口先生の論文に丸投げしますが、いみじくも同雑誌が述べたようなジャック・アタリが『ノイズ』でのべた「作曲の系」として、自らが自らのために生きる/創りだす場所が、そこには実現しつつあるように見えます。

と、同時に同人音楽と商業との関係も深くなりつつあります。もういちいち述べませんが『きみとぼくの壊れた世界』のコンピレーションアルバムですとか、架空のアニソンヒットチャート『空想活劇』を送り出したスーパーレーベル“Voltage of Imagination”や、あるいはメジャーにいながら同人音楽とも関わり続ける「Meridian Rogue」のような人たちもいます。とくに“Voltage of Imagination”は同人と商業(インディーズ)をつなぐ協力なハブとなるレーベルであり、音楽性や世界観の高級さもあって注目されます。

■同人音楽ファンジンズ

このようなところよりも重要なのが、こうした同人音楽を支える「ファン」たちの存在です。ぶっちゃけて言えば、このファンの存在が、他の同人の系よりも同人音楽の存在感を際立たせているのだといっても過言ではないかもしれません。
有名どころでは、同人音楽に関するデータログを収集する『同人音楽.info』をはじめ、同人音楽の守護神と言われる『BLACK ANGEL』さん、ハードコアメタルの古典芸能ながら同人音楽にも目配りするどい『悶絶メタル』さん、松本とむさん、KizKizさんは、ブログ『あの素晴らしき駄文以下の何か』でレビューも盛んにやられております。あるいはラジオをやっているすし~さん、それから、音田楽さん。さっきも名を上げた「同人音楽同好会」さん、それと、ちょっと位相が違いますがボイスドラマニュースサイトの『りもちん』さん(Remofの柚智さんがやってます)などなど、枚挙に暇がありませんし、「同人音楽」の一家言ある人は山ほど存在しています。同人音楽ファンの徹底した買い物っぷりはマジですごいです。
『BLACK ANGEL』さんの買いっぷりはことに有名で、一度に二〇〇枚のCDを買っていくこともあるそうです。(いつも、「今回からはサークル打ちにして減らします!」といっているそうですが、減ってないような気がします)。こうしたファンたちの存在は、けっして動物的に消費しているだけではなく、そうした同人音楽の指向を決めるある種の指数になっていることも間違いありません。彼らのコメントはかなり多くの作り手に届いていますし、そうした作り手たちを動かしてもいます。彼らがファンジンを作っていることも重要です。しかし、その多くはレビューにとどまり、レビューした同人作品も、過去の頒布物が手に入る確率は絶望的に低いという状況もあってうまく回っていないところがあります。それでも、商業雑誌や商業誌にのった歴史観(富田さんや『同人音楽をきこう!』の某誌面への非難ですよ)、例えば「アニソンの一翼に同人音楽を位置づける」といった歴史観に対して中堅のオリジナルサークルを集中的に取り上げつつ、それらをアーカイビングしていく彼らの活動は、カウンターを放ちうる力はもっているように思います。
もう一つ重要なのが、こうしたスーパーなファン(買専)の購買動向は、多くは二次創作やオリジナルというわけかたで買い方を買えません。ここについて論じていきたいのですが、とてもじゃないけど長くなりすぎてしまいます。

■デッドコピーと釘とハンマーとゾンビ」

で、文章系同人の話に戻ります。アジェンダ・セッティングを乗り越える人たちや、ファンたちの存在がいて同人音楽独自の文化を形成している音系に対して、文章系がどれだけ苦戦を強いられているのかはきっとみなさま胸の中にいろいろあるかと思います。「文学フリマ」に限って言えば、メジャーの人たちの同人誌を買いに来た人たちが文章系同人全体のファンになるという例はそれほど多くないようですし、文章系に必要なのは「文章系全体のファン」であって、お祭り騒ぎを見に来るだけの人が何人増えても、それでは「飽きられたらおしまい」ですし「著名人が飽きてもおしまい」。
ただ、これは同人音楽と同じ動向があるところもあります。と思うところは少しだけあって、それは、誰とはいわなくても、「スタープレーヤー」が生まれつつあることでしょうか。最近の文章系同人にもかなり原稿依頼という形が増えてきました。というよりもいままでの文章系同人が、親しい人達との交
流から生まれるものだったと思います。こうした兆候の中で、複数のサークルに名前をみるプレイヤーがすこしずつ増えてきたような気がするのです。そして、絵師さんや写真家などといった人たちとの交流もすこしずつ生まれてきているのではないかと思います。また、電子書籍や文学環境などの議論も展開されるようになり、いままでの文章系とは異なるコンテクストが生成されてきているように思います。しかし、それらが商業雑誌を乗り越えるほどのコンテクストになりうるかどうかは、読者と作者たちの関係、アーキテクチャの関係、また商業との関係の中で決まっていくことでしょう。その点は明るい未来も暗い未来も両方想像ができます。
そしてなにより、ここ数年で爆発的に創作系サークルの技量があがっているように感じます。小説や現代詩、短歌のような創作系の人たちのがんばりもそろそろ実を結んでくるといいなと思います。具体的な作品論みたいなことはもう少し時間が必要かもしれません。実は同人音楽も同じなんですよ。2006年前後から、オリジナルも二次創作も爆発的にレベルがあがったと思っている人が数名います(ここらへんは印象論ですが)。

■アジェンダセッティングの可能性

では、劣化商業という地平を乗り越えるにはではどうしたらいいんでしょうか。それはもう商業雑誌との比較をまずやめること。そしてファンを作っていくこと、だと思います。え、まじで? と思うでしょう。思いますよ、そりゃ。文学フリマのサークルのいくつかは、プロの書き手を目指しているわ
けですから。でも、プロの書き手と文章系同人が比較され続ける現状は、もうそれは劣化版の観点の再強化にしかならないと思います。何故か。それは「同人作家と比較されるプロの書き手」が本当のエース級の作家だからです。文章系同人は「任意の、たまたま買った小説の書き手」と大江健三郎とか青木淳悟とか長嶋有でも柴崎友香でも町田康でもいいけれど、そういうプレイヤーと比較されなきゃいけないんです。そりゃ負けます。でもさぁ、まじもう疲れてるし、いろいろあって、もうやさぐれてて言うけどさ、最近の商業文芸誌超つまんないじゃん? 野性時代はそりゃインタビューが面白いからたまに買うけど、純文学系のやつとか、批評はひどいし(いつの何にのったとか言わないけれど、悪○論とか歴史の人ガチ切れですよ)、小説はつまんないし(名前とかあげたくもないし)、書評は意味わからないし、なんか選考委員とか偉そうだし、たまーに神作がすげえってなるけど、そりゃ。
だからもう、文芸誌さんに「ゴールしていいんだよ」って優しくあるいは「早くゴールしろよ」っていってもいいんじゃないですか? 大手文芸誌にのってるものの、54%ぐらいは読めたもんじゃないんだからさ、文章系同人はそんなのどうでもいいやって、横目に楽しくやってりゃいいじゃないですか。だめなの? それじゃ? っていうのも実はよくわかるんですけど、そういう人は電通でも博報堂でも入ってなんでもすりゃいいし、
新人賞でもなんでもとればいいし、僕は現在の状況をみたらそっちを勧めるしかない。
だから、文章系同人同人は自分たちのアジェンダを構成していくべきでしょう。権利関係はともかく二次創作はその一つだし、もっと独自性のあることをやる人達も注目されてもいい。以下、実は30以上のサークルを列挙してそれらに対する期待を縷々述べたのですが、そういうことをすると傷つく人もいるので今回はやめておきます。ごめん。でも、どうしてこんなふうにある意味では商業と比較され続け
る文化になっているのか、についてはまた別の、同人をめぐる歴史的な問題圏になってくるので今回は取り上げません。ただ、アジェンダセッティングを奪還するには、その受け手のコンテクストや観点を変えなければならないということだけは確実に言えると思う。そうした観点の変更は、特定の天才的個人や一サークルや二サークルがずばっと変えられるものではなくて、(というか、だいたいそんな有力な人はすでに商業雑誌で活動していたりして、商業雑誌的コンテクストを同人に持ち込んでるだけになりがちです)読み手や書き手たちが交流を通じて変えていくもの、創りだしていくものではないでしょうか。この話においては、「文章系」の用語系がほとんど「商業」ベースであるという問題もあります。本当に同人でないと取り扱えないテーマをやっているところ、あるいは、商業ベースに真正面から食らいついていくサークルは実はそれほど多くないのではないかという気もしています。新しい用語系で新しい文化を。その問題は、もちろん僕たちやこのメルマガつくっているクリルタイにとっても他人事ではありません。
だから、その限りにおいては文章系同人の環境うんぬんをいくら話したってまったく全く全く意味がない。コンテンツの、創ってる人たちの作品の話をしなければならない。それを、商業誌でノーベル賞をもうすぐとるかもしれない作家や、陸続と一定以上の水準をもつ新人を送り出せる商業誌とかは異なる手つきと言葉で語っていかなくてはいけない。それを探さなくてはいけない。ただ、これが途方もなく難しいです。
今僕にそれを行う余裕が(あと、資金と本が)ありません。そういうプレーヤーがでてきたらいいなともちろん思っているけれど、そうなるにはまだ時間がかかるかもしれません。

もう一つ最後に、書き手たちが少ないのではないかという話をしましょう。文章系同人に関して言えば、楽しんで文章書いてる人たちが文学フリマに400サークル、というのは文章を書く人たちのパイからすると圧倒的に少ないんじゃないか、という疑念もあります。
すでに書いた東方SSは書き手が3000人以上いますし現在継続中で増えています。書き手/読み手というサイクルはもっとまわる力があるし、本当に才能のある面白い人たちはたくさんいますよ。「文章系同人」なんて言葉におさまらない活動をしている人たちもたくさんいるんです。それと同時に、文章系同人が社会的なコンテクストのなかで生きていくためには、文芸誌とは異なるコンテクストに進出していきたい。文章なんてみんな書けるよ、じゃなくてね。文章系がかける人たちが集まってるところにいくと、こんなものがあって面白くて、だからちょっと、何か書いてって、お願いしたくなるような人たちがいるんだぜって、どこかで《文章》の到来を待っている人たちに言わせてみたくなりませんか?
そして、文章系の人たちは文章系の人らしく、楽しい踊りを踊ってみて、そんな踊りをたくさんの人に踊ってほしくはないですか?

■次号

今回のメルマガクリルタイは「あらゆるところに配慮した結果非常に比喩的且つ抽象的且つ、ほとんど同人音楽の話」だったことをお詫びします。しかも同人音楽プロパーの方からみたら「もっとちゃんとかけやゴルァ!」という内容だったこともお詫びします。お詫びしますが、そりゃ難しいですよ。この時期にこの内容でかくってさ。しかも、みんな幸せにするなんてさ。マネタイズの話やコミュニケーションの話もしたかったけれど、なんだかいい言葉も浮かばないし、悪口いったのいわれないのという話になるのもしんどいので、「自分を信じてあえて日和る」ことにしました。なんでもそうだけど、やっぱり、希望のはなしをしたいと思います。希望のことばで、楽しいことを語り合いたい。ということで、次回は文章系の踊りに誘うためのお話。「大学教授、文章系同人に出逢う」と題しまして、「文学フリマ」にここ数回参加しており、自身の友人知人(それから院生たち)を巻き込んで仲間達と同人誌をばりばりお作りになられている稀人舎同人、早稲田大学教育学部国語国文学科教授、金井景子先生にお話を伺おうと思います。文学フリマに参加した大学教授に、何が待っていたのでしょうか!? 乞うご期待!

(安倉儀たたた)

「文章系同人の未来はどっちだ!」 第二夜「ムダヅモ無き文章系同人」-1

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(「週刊メルマガクリルタイ」Vol.44(2010/06/02 配信分) の原稿を再掲)

■アジェンダ・セッティングを奪回せよ!

みなさま今晩は、今回のメルマガクリルタイではアジェンダ・セッティングを取り扱いますですよ。「ムダヅモ無き同人」とかいってるけど、元ネタは「ムダヅモ無き改革」という麻雀マンガですよ。
アジェンダ・セッティング。みなさまはお聞きになったことありますか? あんまりないかもしれませんね。「問題設定」とか「問題機制」とかいう言葉のうえにルビ振ってあったら三回に一回はこれです。なんかそういうもんです。詳しく知りたかったらググってください。でもでも、そんな適当な紹介ながら、このアジェンダ・セッティング、実は僕の最大の関心だったりするんでゲスねー。文章系同人における未来とか現在とか現状とか、あるいは出版コンテンツの今とか明日とかについての、中身に関する問題のほとんど全てが、この便利なブラックホール・・・「アジェンダ・セッティング」の問題であるといってもいいんじゃないでしょうか。
以前「メルマガクリルタイ」でこのアジェンダ・セッティングという言葉をつかって文章系同人の諸問題を整理したことがありました。

 その時に指摘したのは、「文章系同人は俺たちのアジェンダ・セッティングがないんじゃないの!? っていう意味では実は商業誌の劣化版じゃねの?」ということが言いたかったんだと思います。というか、今そういうことがちょっとだけいいたい。
で、こういうことをいうといろいろな反応が返ってきて心が荒むので、あんまり言いたくないんですよね。でも、避けて通れないのでこのあたりでとりあえずアジェンダ・セッティングと同人文学のコンテンツメリットについて論じてみます。 

■文章系同人におけるオリジナル

さてさて、基本的には商業の対立項として同人が持ち出されますが、アジェンダセッティングにおいてはそれが「コンテンツメリット」という言葉で現れます。つまり、文章系同人にあって商業雑誌にないものなーんだ。という話になるわけです。僕はこの答えには瞬殺で答えることができると思ってます。
 
 二次創作、です。

『思想地図VOL4』に何かの事故で事故的な二次創作が掲載されてしまったことは黒歴史として闇にほふりさることにして――同意していただける鹿島田真希ファンのみなさまは多いのではないかと愚考いたします――、二次創作作品が商業出版誌に乗ることは基本的に稀なことです。エロまであったら絶望的だと思います。いわゆる「公式」のノベライズを二次創作的だと認定すると若干話が変わってきますが、クライアントチェックを受ける限りではそれらは二次創作とはみなさないことにいたしましょう。(ミクの漫画など、若干この流れは変わりつつありますが)。

さて、僕の目の前には『Wheter Report』というタイトルの同人誌があります。

http://i0-0i.sakura.ne.jp/wr/

東方プロジェクトという同人シューティングゲームの二次創作、とりわけ東方のショートショート(SS)の中でエロを含む作品群を「ネチョSS」といいます。三人の方が書いておられる合同誌ですね。東方ネチョSSについてはそういう掲示板があるのでいろいろワード(夜伽話とか創想話とかジェネリックとか)をいれて試してみましょう。がんばってください。
しかしですね、この『Wheter Report』ですが、普通の文芸誌として、もうめっちゃくちゃレベルが高いのです。残念ながら、ここまでハイレベルな表現力をもつエンターテイメントはそうそう商業誌ではお目にかからないのではないかと僕には思われます。物語がすごいとか、設定が面白い、というのも上げられますが、作品の雰囲気がずば抜けていて、しかも、これは文章系の商業媒体ではなかなか出来ない表現様式を持っている。そういう魅力なんですね。
僕みたいな「東方大好きな人」は東方の世界観やキャラクターを「データベース消費」する訳ですが、そこにはけっこう、消費にうってつけの形に練られた表現が形成されてくるものです。
多くのオタク属性(中→強)をもたれる方は同意していただけれると思いますが、キャラクターや世界観や要素がパーツとしてあるのではなく、それらを消費する形態が練られた絵や文章があったほうがうまく消費できます。
大なり小なり、ミステリやSF、あるいは歴史小説などのジャンル小説においてもこうした「リテラシー」は必要になってくるのではないでしょうか。

こうしたリテラシーをある程度必要とする二次創作界隈においては、さらにメディアミックスが行われるケースもあります。
「涼宮ハルヒの微笑」は元SSでしたが、今ではボイスドラマまで作られていますし、二次創作系ではほとんどの小説本に挿絵が入っていたりして、その絵師さんが小説の方を漫画にする、というケースもあるそうです。こうした他の技能をもつクリエイターとのコラボレーションも二次創作の魅力であります。あ、もちろんそうしたコラボレーションがオリジナルでは行われない、という意味ではありません。「オナニーマスター黒沢」にもボイスドラマで展開されているものがあり、ニコニコ動画な
どで見ることが出来ます。
この問題は「デッドコピー問題」ともつながっています。二次創作の方向に走るとむしろそれはコンテンツメリットとなるわけです。というよりも、消費できるパターンとして商業系のアジェンダを利用しなければ、それは二次創作的なコンテンツとしてさえみなされないわけですね。
漫画の話ですが、超大手サークルが、昔一冊(二冊で)5000円という同人誌を売り出したことがありました。(コードギアス反逆のルルーシュのエロパロです。僕も現物は一度しかみたことなく、サークル名はわかりません。)それは、ルルーシュのエロであることと、エロでかつ二次創作であることによる
同人誌としての存在論と、それを切り結ぶ経済系、そしてなによりも5000円という価格設定。御り函に二冊の箔押し表紙、合計で400ページ近い極めてハイレベルで独創的な表現様式が混じり合った特異な作品なのですが、こうした作品を売り出すことが可能な環境として二次創作の即売会が機能していたのだということができるでしょう。それは、コンテンツの問題であると同時に、コンテンツを見るリテラシーの問題、そして、それらを販売する環境と、そうした環境が生み出される様々なコンテクストの問題が絡まりあっているわけです。

このような「消費するためのコンテクスト」の存在は、オリジナル小説にも底流しています。そのコンテクストの名前を「アジェンダ」というなら、小説のアジェンダセッティングは、今やカテゴリとジャンルに握られており、そうしたカテゴリやジャンルの系譜学の中に同人小説は存在させられている、といえるでしょう。次に詳しく考察します。

■オリジナルはオリジナル?

問い方をかえてみましょう。オリジナル小説として出しているものは本当にオリジナルなのか、と。エディタで文章をかき、印刷所を通して、フリマやコミケで売るという形態をとる以上、それらは結局どこかの時点で形態的に似通ってしまわざるをえない。もちろん文学フリマに参加されるみなさまは、手作りの、藍色表紙の和綴じ本とか表紙その場で作ってるやつとか、ノートに手書きしてその場で10円で売ってるのとか、あるいは写真用紙をつかったフルカラーのすごいやつまでいろいろとあることをご存知なことと思います。
しかし、そういう営為はむしろ「本」を作るために必要なプロセスであって、コンテンツメリットの俎上には乗っていないのだろうと考えます。
僕たちが新しいとか古いとか、あるいはオリジナリティがないとかあるとかは、結局どのようなコンテクストのアジェンダにその作品を載せるのか、という点に重たいウエイトがかかるわけです。文芸サークルでは「ICU」さんとかが非常にユニークな表現形式を模索しています。が、それだって既存の商業作家の一亜流でしかないと見なす人もいるでしょう。言い換えれば、同人文芸における新旧、エッジが効いてる/効いていない問題は、往々にしてそのコンテンツよりも、コンテクストがどのようなものであるか(ミステリなのか、SFなのか、本なのか電子書籍なのか、圧縮新聞なのか食べ物なのか)の問題、すなわち読者の観点とそれにみあったアジェンダ・セッティングの問題なのではないか、というのが僕の疑問です。
しかし、勘違いしてはいけないのは、むしろそれが「同人」においては普通なんです。だって、多くの場合はみんな好きだからやるんでしょ? そしたら、好きになったきっかけや好きなもののコンテクストにそって作品は作るのは/作品が作られてしまうのは当然のことじゃないですか。それがだって、楽しいじゃないですか。そうした楽しさの上の階層に「オリジナリティ」や「独自の文化慣習」。あるいは「商業に対するアンチテーゼ」が作られていくわけで、断じていいますが「そこを責められるいわれは基本的に全くない」。
でも、作品の内容なコンテンツではなくて、環境論や出版オルタナみたいな観点の人の多くは、そうしたコンテクストにのった作品をつまらないというかもしれません。そうして、むしろ「新しいコンテクストを自分たちが作るぜ!」と思うかもしれません。いや、いいんですよ。作ってくださいよ。ただ、それもまた商業的規模から見た場合の「すごさ」なのかもしれません。そういう観点から見た場合に、文章系同人の現状は割と地味に不利な状況ではないのか、というのが僕の立場です。出す物出す物「遊び」「慰め合い」と言われてしまうことは誰も幸せにならないじゃないですか。

そこで、文章系同人は「アジェンダ・セッティング」を商業媒体から奪還しなければなりません。
いままでの消費の系譜とは違う、別の、コンテクストを作りださなければなりません。あるいは、リテラシーを生み出せたらもっといい。
じゃ、どうしましょうか? そこで、文章系同人を遠く離れて音系同人のほうにいきましょう。

<次号に続く>


(安倉儀たたた)

「文章系同人の未来はどっちだ!」 第一夜 「文章系同人残酷物語」

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(「週刊メルマガクリルタイ」Vol.39(2010/04/28 配信分) の原稿を再掲)

■はじめに

記念すべき連載第一回は、同人のキャリアパスについて述べていきます。多くの人にとっては基本的に趣味の領域である、同人のキャリアパスを論じるということには奇妙な感じがする人もいるかもしれません。
しかし文章系同人の希望を論じるにあたって外すことのできない論点です。作り手からすれば「同人文芸をやって何になるのか」、「同人をなんのためにやるのか」に関わる環境の問題として、そして、社会の側からは同人の文化的/経済的な配置がどこにあるのかをめぐって、キャリアパスの論点は存在しています。

■「コミティア」と希望

ご存知の向きも多いでしょうが「コミティア」の話を枕にしましょう。東京ビックサイトで年四回開かれるオリジナル創作オンリーとしては国内最大級のイベントで、イラストや漫画を中心に、音楽CD、同人ゲーム、小物やポストカードもあり、もちろん文章系同人の人たちもいます(中でも、文芸創作を中心とする並びを「コミティア文芸島」といいます)。アマチュアもプロも参加しており、強い影響力をもつグループが「壁サークル」として配置され、非常に大きな存在感を示す人たちもたく
さんおります。「コミティア」には企業もブースを出展しております。目立つところでは、ジュンク堂と、各種出版社の持ち込み用ブースでしょうか。彼らが出店しているのは、未来の漫画家/イラスト
レーターを発掘するのが目的です。実際に『パンドラ』(講談社)には、コミティア出身の漫画家が寄稿していましたし、前回も取り上げた『聖誕祭』もコミティアを中心に頒布を重ねてきた作品であります。
こうした企業ブースや持ち込みブース目当てにコミティアに参加する人たちも少なくありません。「コミティア」では、ファンの「サークル内固定化」も懸念されているものの、そこに出し続けることでプロフェッショナルになる、というチャンネルが開かれているのです。あるいは実際にプロになれなくても、プロの編集者に作品を見てもらえる、という点だけでも大きなメリットがあり、多くの参加者が多数の持ち込みを行っています。こうしたプロ作家を指向のマンガ家やイラストレーターたちにとっては、同人に参加するということがデメリットになることは基本的にありません。持ち込みの多くがアドバイスをもとに新人賞への参加を促されますし、イラストの場合は、うまければその場で連絡先を聞かれるということもあります。

一方で文学系、とりわけ小説書きにとって、プロを目指す上で同人活動は自己の修練以上の何者でもないと言えるでしょう。文芸各紙の怠慢だとは思います。『文學界』は「熊野大学」のくっだらないアホ編集の読書感想文にもならないレビュー載せる紙面があるなら、もっと模索舎にでも足を運べ、と思います。
しかし、ジャンル小説をはじめ、ライトノベルや携帯小説、その他新人賞の爆発的な増加は、「新人賞」に投稿する人たち以外のキャリアパスをほとんど完全に封殺しています。
もっとも、同人活動をしている小説家に目をつけて……というケースもごくごく少数あるようですし、ミステリやライトノベルに関してはこのキャリアパスを経過した人もいないわけではありませんが。

■同人文芸のキャリアパスと、同人文芸誌の戻らない可能性

しかし、たとえば津本陽が同人誌『VIKING』の掲載作「丘の家」で第五六回直木賞の候補になり、和歌山を舞台にした『深重の海』で第七九回直木賞を受賞するというような同人活動からのキャリアパスは現在ほとんど絶望的な状況だと思います。かろうじて、『文學界』に残っていた同人誌評で、優れた作品がまれに掲載されるということはありました。が、今はそれも『三田文学』に「都落ち」しています。
それは、同人活動と新人賞の間にまず大きな溝があること。それから、文章系界隈、というより「同人活動そのものの価値」が社会的に異常に低いということもあげられます。この社会との距離については第四夜で論じようと思っています。

こうした状況に、東浩紀の「ゼロアカ道場」の第五関門が一つの大きな画期を作りました。そこで登場した優れた批評家の「卵」たちは、現在でも旺盛な評論活動を続けています。それが「キャリアパス」というところまでうまくいったのは、現在のところ坂上秋成氏だけという印象ももちますが、近日、『ゴーストの条件』を上梓するであろうゼロアカ道場突破者、村上裕一氏にも注目が集まります。来月に書きますが、峰尾氏の「3M」も重要視すべきサークル。それに「形而上学女郎館」も個人的にはとても好きなサークルの一つです。
もちろん、それ以前にも第二次惑星開発委員会『PLANETS』を代表とするミニコミはありましたが、それは新人賞とは全く別のキャリアパスでしたし、そのような道がまったく存在していないわけではありません。ありませんが、おそらく「そこ」を目指して走れる人々は文章系同人ではメジャーなキャリアパス志向ではないでしょう。多くの人にとって、同人活動はフラットな同人たちによる趣味の共同体として存在しています。

重要な問題として、プロ作家――ここではとりわけ、小説などのフィクションを書く人たちを想定していますが――を目指す人たちにとって、同人活動がフラットなインフラになりつつあるということと、それが故にフラットなインフラであり続けることを同人文芸に参加する人々が内面化しているのではないか、ということです。
少し抽象的な言い方をしましたが、これはつまり、同人活動の希望の問題です。

かつて……というよりも、文芸同人に(もしかしたら文学に!)今なお失われていない機能の一つとして、政治的なアクションという側面があります。古くは「戦旗」「ナップ」などのプロレタリア文学、「新日本文学会」や「芦牙の会」のような左翼系の市民文学の系譜で同人文芸活動を行っているところはいまだ数多くあります。また、別のレイヤーでの政治性として(文芸ではありませんが)『フリーターズフリー』や『葬』のようなミニコミがあります。あるいは大澤信亮さんや杉田俊介さんが《文学》をそのフィールドとすることは無関係ではないように思いますし、ウイグル自治区におけるウイグル人たちを取り巻く状況をしったのは、暴動よりも前に、文学フリマで配布されていたあるフリーペーパーでした。

しかし、プロレタリア文学の昔に戻らなくとも、そうした主張を発信する/受け取るレイヤーとしての文芸同人は、残念ながら急激にその影響力を失っています。文学フリマに出すよりもブログを立ち上げた方が早い――事実、そうしたブログは星の数ほどあります――。そこで「あえて紙」にこだわる多くの文芸同人は活動の理由を「趣味」に求めることになってはいないでしょうか。
 
■趣味から、多様なメディアと共闘するカルチャーへ

文芸同人という趣味が、何かに比べて高尚だったり低俗だったりはしないだろうと思います。問題なのは動機の「趣味」をあまりにも内面化しすぎてしまうことで、それが他の可能性まで通じてしまうことに否定的になっていくことです。あるタイプの批評家や、出版通の方々には「趣味としての同人」を「そういうのもあっていい」と肯定しながら「それはしかし内輪の狭い領域のものでしかない」とする言説が広まっています。そのような「内輪」のカルチャーで二万枚のCDを売り上げるサークルも存在することをどう考えているのかわかりませんが、「同人はあくまでも趣味である」とする言説を内面化してしまうことで、上に書いたようなキャリアパスの不在や、政治性への回帰を否定してしまうということが起きているように思います。それは個々人の信念の問題にすぎませんが、しかし、キャリアパスとしての同人も、趣味としての同人も対立する信念ではないはずです。
活動を行うこと、その活動がさまざまな希望につながっていること、その希望に肯定的であること、が重要なのです。それは、ひとえに文章系同人をどのような想像力で捉え、どのような言説を構築していくのか、という問題でもあるはずです。

もちろん、情報環境や文章系環境の激変とも関係しています。ネットワーク環境下以前の時代に、「文章」が特権にもっていた情報伝達/通信の機能はパソコンやUstream、あるいはTwitterやmixiボイスでもアメーバなうでもいいですけれど、そうしたネットワーク環境下のライブメディアにその地位を明け渡しつつあります。しかしそれは、逆に云うならば「文章系」がそのようなライブメディアとも共闘出来る可能性が開かれてきたということでもあるのでしょう。

■「.review」と『界遊』

そのような意味で、今もっともアクチュアルな可能性を秘めているプロジェクトは「.review」であると評価してもよいように思っています。「.review」は社会学者の西田亮介氏が展開するクラウド・ソーシングメディアです。Twitterから発生し、数名のスタッフと共に、若手の書き手たちの発表の場を作り出
し、インフラそのものが意見やツイートを反映して動的に整備されていく様は、まさに「動く」同人誌といってもいいでしょう。

※「.review

実際には、アブストラクトの数に比例して、提出論文の数が大幅に下回るという状況である意味では「苦戦」を強いられてもいるものの、明確に「上」を目指すというコンセプトを持ち、マネタイズまで含めた状況の変革を目指すインフラとして、とても強い希望を放っているように、僕には感じられます。(っていうか、僕も出すといっておきながらまだ出せてません。すみませんほんとうにすみません)

もう一つの強い可能性を感じるサークルというか、グループとして「KAI-YOU」があります。歌人の武田俊氏を代表として、約六名のスタッフを抱え、新進気鋭のミニコミ雑誌『界遊』を制作しています。
彼らの雑誌がコンセプトとして「世界と遊ぶ文芸誌」を掲げるように、文芸を主旋律としてそこに様々な総合的なカルチャーを紹介するという体裁になっています。メジャーシーンで活躍する評論家、ライターをも起用しながら、現代詩なども積極的に掲載しており、非常にレベルの高い誌面になっています。
その一方で、メンバーの小説や掲載される創作が非常に見劣りするように感じられ、プロライターや企画物のユニークさと、同人誌的な文章との間にある種の乖離があるように見えるわけです。でも、『界遊』の可能性はむしろ、そのような乖離にこそあると言えるでしょう。『界遊』が、商業雑誌のクオリティを目指しながらその劣化版にならないでいる最大の要因は、まさしくそのような創作を積極的に掲載していくところにあります。もちろん『界遊』の創作は同人誌としては非常に高いレベルにありますが、その比較対象が商業雑誌の、しかも高いキャリアを持つ作家たちとなると分が悪い、ということです。(このあたりは実は、文芸誌に掲載されている文章は面白いはずだ、という僕の先入観も関係しているでしょうね。同人文芸の比較の対象が大作家になりがち、ということは、とてもおもしろい現象だと思っているのですが、本論から外れるので指摘だけにとどめておきます)。

■一緒に!

「.reviiew」や「KAI-YOU」は、同人というよりもミニコミに近い位置におり、彼らの活動もイベントを積極的に催しながら、Ustでそれらを配信しています。こうした活動は、もちろんゼロアカ道場で藤田直哉氏が2chに踊らされる形で、あらゆる状況を携帯型ビデオカメラ「ザクティ」でとりまくり、ネットにあげまくった「ザクティ革命」以降の、文章/批評系に近い人たちにとってはある意味見慣れた光景ではあるでしょう。
しかし、彼らは自分たちのPRであること以上に、雑誌以外の場所における自分たちのカルチャーを表出する場としてイベントとライブメディアを使用しているのです。彼らのような活動は、一見すると「同人」というフレームからはみ出るほどのアクティビティとアクチュアリティをもっています。彼らを同人とみなすことに抵抗がある人もいるかもしれません。たとえば、イベント運営を包括化するためにNPOになったり法人格をとったりするサークルも存在します。けれども僕には、彼らのように、多面的かつ多角的な活動を強い運動力と希望をもって行いながら、その基盤として文章を据えること。これが文章系同人の新しいモデリングと想像力の方向を指し示しているようにも感じます。特に「.review」では当初、『未来心理』のような半紀要半同人の紙面を目指していました。

「.review」と「KAI-YOU」は五月の文学フリマに合体ブースとして文学フリマに参加します。
こうした活動を行う人々が、書店での販売だけではなく「文学フリマ」という場に出ることの意味は僕らが考えている以上に大きなものがあるのでしょう。いままでの「文章系」として捉えていた、創造物/コンテンツを中心とする(というよりも、「紙」であることにアイデンティティのほとんどをもつ)サークルだけではなく、「活動のインフラを提供する者」や、「活動の領域を広げていく人々」が、同人たちの集う場所に出現すること。ミニコミと文章系同人は背反するものではなく、言語によって隔てられていただけではないだろうかという気さえ起こさせます。ここ――あえて文学フリマをそう呼びますが――には、まだまだ新しい想像力と文化圏を構築するカルチャーになるための可能性が潜んでいるのです。

キャリアパスがないことでフラットな関係性を取り結んでいる文章系同人に、上を目指すインフラを構築する。それはどうしたらできるのか、僕にはまだわかりません。ただ「破滅派」が法人化に向けて動きはじめていますし、このメルマガクリルタイのようにアッパー指向のメルマガもあります。そのほか、いくつかのインフラが文章系同人のDL販売などに期待をかけているようです。

同時に「趣味としての文章系同人」のレイヤーもより厚い層を作り出していかなければなりません。芸術、クオリティ指向だけではなくコミュニケーションの場や友人たちが集う場所としても同人は存在しています。僕の理想は、そうした多様な思い入れを持つ人たちが重層的に同期しつつ、それぞれの楽しみに合わせて「まるで遊ぶように」動いていく文章書き/文章読みたちが生きていける場なのです。その場を構築するための条件としてキャリアパスへの希望というものが必要になってくるのでしょうし、文学の危機/再生を叫ぶマッチポンプを打破するためにはどうしてもその「希望」が必要です。

独自の想像力と文化圏を構築し、さらにキャリアパスまで作り出した同人文化として、間違いなく同人音楽があります。私たちは、そのモデルを参照することができるでしょうし、その闇と光の両方を見比べることもできます。それも第四夜に行う予定ですが、音楽と違って文章にはもっと低いレイヤーへの介入も必要でしょう。それが「文章に興味をもってもらう」というレベルへの介入です。そこまで文章系同人は撤退を強いられているように思います。このレイヤーに関しては、いままで手薄だった国語/文学教育などからの参戦も期待されるところです。
(「TOLTA」というサークルが、「国語教科書のパロディ」を作ってました)。

■おわりに

これは結局かっこよくいっても同人→商業という回路を強化せよ、といってるだけに聞こえるかもしれません。実はそうなんです。ただし、コンテンツを作る人とそれをお金に変える人はそれぞれ別にいてもいいんじゃないかと思ってます。「商業」といった場合に、実際に『文學界』や『新潮』のようなメディアに掲載される作品を作る、というだけではなく、文章系同人をパッケージして商業に耐えうる形にする、という人や機構がでてきても構わないはずです。電子書籍や出版不況は、その意味で文章系同人のようなローレベルにおける裾野の広がりの起爆剤になる可能性をはらんでいます。
けれども、いまそのような商業に耐えうる=商業化する、ということは文章系同人に関して言えば非常に困難であろうと思います。
その理由を、次号で「アジェンダ・セッティング」として「同人音楽」の状況を参照しつつ、論じてみようと思います。

(安倉儀たたた)

「文章系同人の未来はどっちだ!」ちょっと長い予告篇

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(「週刊メルマガクリルタイ」Vol.35(2010/03/30 配信分) の原稿を再掲)

メルマガクリルタイの愛すべき書痴の皆さまこんばんは!安倉儀たたたでございます。パセリさんからもそっと連絡があったのがつい二週間ほど前、単発かなーと思いきや、なんと週刊メルマガクリルタイで連載を持ってくれ、という依頼ではございませんか。
同人誌をほんの三冊ほどしか出していない若造が「同人」について四の五のいうのは気恥ずかしいものですが、ここは一つ気合を入れて担当させていただきます!

次回から、月一回の全六回「文章系同人の未来はどっちだ!」と題し、同人の未来や文章書きたちの可能性について思うところを順々と書かせていただきます。

さてさて、ではこの連載のアジェンダ・セッティングについて、ちょっと回り道をしながら紹介させていただきましょう。先日、文学フリマ事務局ブログで「文章系同人誌をめぐる言葉」というエントリーが出されました。

 http://d.hatena.ne.jp/jugoya/20100211#p1

要約すると「文章系同人をめぐる言葉が活発化しており、そこにおいて文学フリマ事務局は何ができるんだろう」という思索的なエントリです。
事務局の人たちや文学フリマに携わってきた人たちにとってはちょっと感慨深いエントリだったのではないでしょうか。
文章系に限らず「同人」をめぐる言葉は、ここ十数年で爆発的に、ポジティブな方向へと動いてきました。東浩紀氏の『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)を代表とする一連の理論系オタク評論や、「セカイ系」のような論争的な概念の登場とその限界事例の調査、ツイッターやブログなどの登場もあり、また初音ミクや東方といったムーブメントも後押しして、「同人」というカテゴリが商業作品と陸続きに論じることができる風土が日常化しつつあります。コンテンツ文化史学会やDiGRAといったアカデミズム寄りの文化研究においても、同人に対して様々なアプローチによる研究実績が積み上げられています。

けれども、文章系同人に限って言えば、二次創作を中心とする「同人」と異なり、「文学」をめぐる特殊な言説史とも陸続きであったように思います。
文学研究者の中沢忠臣氏(@sz6)がツイッターで「現代文学は危機と共に消費されてきた」と述べていました。こうした「危機」の歴史と今現在の、「文章系同人をめぐる言葉」は恐らく接続しています。文学/文化の危機を「いかにして乗り切るか」という点と、その危機を回避する方途をみなで考えようというスタンスを取り続けることで、それらは自分たちの存在理由をマッチポンプ的に問いかけながら、自分たちを(時にシニカルに)正当化してもきました。
その危機を乗り切るために様々な「アイドル」が登場し「論争」が行われ、文学賞やジャンルカテゴリ(ライトノベルや携帯小説)が産出されてきました。そういう意味では、「危機を捏造/再生産」し続けてしまうという点において、「文学の危機」と「文学」そのものの二者は双子のような存在でもあると言えるでしょう。

文章系同人に関する盛り上がりをこの言説テンプレートに当てはめてみましょう。「文章/出版/文学」の世界が危機に瀕しており、その危機を回避するために文学は同人まで撤退戦を強いられている、という認識のもと「危機を乗り切るために文章系同人ができること」を創造しようというムーブメントになっている。…と、でもなるでしょうか。
それが悪いわけではないのです。……むしろ「左隣のラスプーチン」という文章系同人の主幹として僕自身がこの危機の再生産と内破に加担していたことは間違いありませんし、この認識と戦略は正面からのアプローチとしては、たぶん正しいんだろうと信じてもいます。しかし、そのモデルケースとして「文学」を選択してしまえば、それは撤退戦ではなく残念ながら殲滅戦となって負けるでしょう。問題意識が同人に限定されてしまうと、商業メディアの縮小版としての「同人」の内輪の揉め事で処理される可能性も高いかもしれません。
その意味では、すでに文章系同人は文学の主導権を握り返す、というミッションに対して既に敗北しています。「文学」の側が持つ、文学に対する主導権をほとんど死に体の文芸雑誌から奪還することができなかったという事実。『文學界』から華麗に都落ちした同人誌評の問題もそうなら芥川賞やその他の文学賞を同人誌初出の作品がとる、という光景はもはや想像することすら困難ですし、2007年のメディア芸術祭で白石弓子『天顕祭』がマンガ部門奨励賞を取るような状況が文学には回帰してくることも期待できません。

そしてなにより、こうした危機の回避を切望するための「危機回避―祭り」という構造は恐らく、すべての人と共有出来るような類の信念ではないのです。
しばしば「生成」という言葉で創作活動を評価するアーキテクチャ論が、pixivやニコニコ動画などの同人活動と親和性の高いメディアで用いられることはインターネットのシステムに関係することだけではありません。「同人」の理念による共生不可能性を端的にしめしてもいるのです。(これはpixivの性善
説についてどこかで書きたいと思っています)。
無数のジャンル・カテゴリそれから参加意図を抱える文章系同人に限っても、事情はほとんど変わりません。実際に2009年度の冬の文学フリマには、小物を扱うサークルが出展していました。
    
今の文章系同人の活発な活動の諸相から、危機消費/再生産のサイクルとは異なる「同人」への想像力を設定しなおせるはずです。そのためには、「同人文芸」、あるいは「文章系同人」と呼び習わされるようになった「文を書く人」たちの活動領域を設定しなおし、かれらの活動領域を拡張しなければなりません。文章系同人の/に対する想像力を拡張することが必要だと思うのです。

しかし、そんなことが果たして可能なのでしょうか? 

この連載では、大きく二つのことを論じます。
一つは、文章系同人のリプレリゼンテーション。現状認識と可能性の拡張について、文章系同人のさまざまな活動を切り取ってみます。
もう一つは、「同人」という概念の再設定です。同人文化をコンテンツやマネタイズや、コンテナーや試みの面白さだけで紹介するのではなく、個別に分断されている全領域的なカテゴリを集約しつつ、それらに意義と意味を与える巨大なフォーマットとして「同人」を再設定することです。

いま、文章系同人で何が起きているのか。文章系同人は何を起こそうとしているのか。
 
僕は、無限の可能性が存在するであろう「同人」の、それも数少ないモデルケースによって、ほんの僅かな可能性について言及するに過ぎません。僕の想像力を上回る活動する人たちが、文章系同人にはいます。彼らが羽ばたいていくための土壌を整理し、見晴らしを良くしようと思います。それだけでも文章系同人が戦えるフィールドは劇的に広がるでしょう。また、文章系同人という枠を超えて活動することができる場所だってあるはずです。
例えば、コミティア文芸島との共闘、他のファンジンとの連結、ミニコミとの連絡、出版/本屋との交流、映画演劇音楽との交通、インターネットのフィールド、学術誌とのコラボレーション、そして文学。……まだまだ開拓できるフィールドがあるでしょう。連載では、そうしたフィールドにも想像力を向けてみたい。
 
連載は、具体例に即しながら活動を紹介する回が二回、抽象的に概念的なことを論じる回が二回、一度はインタビューを掲載しようとも思っています。そこではiphoneやキンドル、電子出版やミニコミ、ファンジンについても言及します。同人音楽やボイスドラマ、映画やゲームについても少しだけ話題を提供するでしょう。もちろん、文学フリマやコミックマーケットといった即売会、インターネットとの関係、商業出版との相克についても触れることになります。

文学の/文章系同人の危機は、言説的に捏造されてきた「文学の危機」とは別に、資金/出版/読者数などにおいて、現実の状況でもあったと思います。しかし、それらの状況を動かそうとする営みは無数に存在しているのです。文学がたどりつけなかった〈可能性〉さえ見えてきたといえるでしょう。それから、文章系同人としての同人活動を行うことに誇りと地位を与えることさえも可能ならばやってみたい、と思っています。

さあ、俺の言葉よ、どこかの会社の人事に届け!!(笑)

(安倉儀たたた)

文系大学院残酷物語修士篇

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(「週刊メルマガクリルタイ」Vol.31(2010/03/03 配信分) の原稿を再掲)

博士に進むと死ぬしか無いよ!? なんていうのか言わないのか、いわゆる大学院問題が社会問題と化しているらしい。世界が百人の博士だったら、という創作童話の状況は日を追うごとに悪化して、博士に進ませないことが学生に対する優しさだ、とすら言われるようになってひさしいとかなんとか。そんな状況下におけるマスコミその他の言説は博士号取得者の悲鳴を拾い上げつつ微妙に笑いものにもする「博士いじり」の様相を呈しており、虚実おりまぜた創作博士残酷物語は理系と文系の弁別も薄く、ひたすらみんなかわいそうと動物園の動物扱いとほとんど変わらない。
かくいう筆者も、実は国文学関係の大学院博士後期課程に進むことが決定しており、周囲からはいつ首を吊るのか楽しみにされているらしい。しかし、僕が専攻する「国文学」は、就職に関しては微妙なジャンルで、、多くは国語の先生、他に塾の講師、家庭教師、より専門的には美術館、文学館の学芸員から、研究機関、各種文庫の研究員など、優秀な人であればきちんとした専門職についてもいて、キャリアパスが全くないわけではない(仕事はキツイことが多いし例のごとく年収は低めのようだけれど)。
大学院の様相を、すべてひっくるめて面白おかしく大学院残念の文脈で語られるのは別に心地よくも悪くもないが、一部真実も混じるが故に、強くも言えないのでこっちについては今回黙っておきたい。それに、そもそも就職難やキャリアパスの不在を苦に嘆くような博士は僕の知る限りあんまりいない。内心は不安であっても、心のどこかで身を用なきものとする程の覚悟がなければ、そもそも博士にすらなれない事だってあるのだ。

今回は大学院生の恋愛について、悲喜こもごもの物語を僕の偏見と主観を通じて、つらつら書かせていただくことにしよう。なぜなら、文系大学院の悲劇は、恋愛市場における確実な惨敗において発生するからだ。
そう、文系大学院残酷物語の本当のステージは、就職難でも社会・身分保障でも金銭苦でもなく(というより、それは三十代から四十代にかけて顕在化してくることが多い)恋愛市場なのである。
ここでいう文系大学院とは「文学・文化研究を主とする大学院」に限定される。「研究を主とする」というのがポイントで、デザイナーやクリエイターのような「創作を主とする」領域とは異なる。この区分ではクリエイティブな活動を行う人は含まれない。「え、デザイナーなんですか? カッコイイー」とか言われたり、ある段階で「ブレイク」したりする大学院生はほとんど存在しない。ここ重要。文献を扱う人文研究は、基本的に個人単位の業績である。ここも重要。そしてもう一つ重要なのが博士後期課程に進む男女比は多少男性が多いものの女性も相当するいることだ。大学院残酷物語は、男女等しく訪れる。
普通の非モテ議論では「そもそも出会いが無い」「しまった、なぜか挙動と服装が不審だ」「だめだ、モテない」といった、いわゆる「縁が無い系」の悲惨さが語られる。しかし、文系大学院で味わう恋愛悲劇はまったく異なる種類の悲惨さである。

はっきりいって、文系大学院での出会いは少なくない。女子も男子も、修士にも博士にもけっこう多いし、中には相当な美女もいれば、気立てのよいお姉さんも、運がよければロリボイスのかわいい系も、大きなメガネをした秀才タイプもたくさんいる。しかし残念。そんな院生女子たちの多くは君を見てはいない。もっと安定した大人な男か、でなければ研究対象を見ているのである。そういうことをしているので、六割程度は婚期に乗り遅れるのだが、「大学院生の女子はクリスマスケーキではなくて鏡餅だ。なんとか三一日までは食べられる。」と言われているので安心。うまいこと博士号取得者同士で結婚をして夫婦で大学や高校の教員を務める人たちもいるのだし。
ちなみに、かつては、結婚を気に博士課程を中退して就職し、しばらくしてから教授職を狙うという人も相当いたらしい。今ではそもそも大学で教鞭をとるために博士号がいるというケースがスタンダードになりつつあるのでこれは文系大学院では成立しにくくなっていくかもしれない。ただ、博士号自体は取得しやすくなっているので、同じ状況になっていくかもしれない。ここらへんは今後どう転ぶかわからない。
 
しかし、本当は大学院でも「恋愛ぐらい普通にできる」のだ。どうだ驚いたか。相手だってたくさんいるのだ! とくに学部生にはモテモテである。学科によっては学部の後輩(大体三年生から四年生)ができるに違いない。学部の後輩たちは、勉強会やその他で面白い話と勉強になる意見をたくさん言える大学院生という存在に少しだけ心を奪われるかもしれない。超超うまくいけば、付き合えるかもしれない。
しかし、残念。彼女たちが社会に出て行くと同時に君らへの憧憬はすべて消え失せ、社会にでた後輩たちは会社の先輩である三〇代の働き盛りに魅力を感じ始めるようになるだろう。これを食い止めるには、大学生の娘(少年)を大学院に引きずり込むしかない。しかし、大学院に来た後輩は、君がいかに無能な院生であるかをただちに悟るに違いない。
では、学部時代の同僚はどうだろう。運良く同窓会などで彼女たち(彼ら)に巡り合えたとしても、その時に、君は恐らく恋愛という選択肢を選ばない。なぜならば、君は大学院生という自らの身分の軽さが後ろめたいからだ。
 
同年代の異性は概ね働いており、交わされるのは会社と「上司」と「取引先」の愚痴である。ここでまず院生は軽く首を吊りたくなり、研究室の「先輩」や「教授」といった社会的関係が学生時代から変わっていないことに無駄な後ろめたさを感じることになるのだ。社会人たちの会話はなんだか大人びており、うかつに自分の専門について話せば、学部時代よりさらに専門性が高くなって誰もわからない話に熱弁を振るいかける失態、そんな失態を犯さないことが社会人の当然義務であるかのような目線。飲み会が終わればかつて麻雀を共に打っていた有仁たちが平然と五千円をだすことに驚愕する。バイトや奨学金で稼いだ金も多くは無駄に高い研究書やコピー費や資料集に消える身としては、五千円という金額は喉がカラカラになるほどの大金だ、ということを伝えたら負けかな? と思ってしまう。震える腕で札束を取り出したとき、優しい友達はこういってくれるに違いない。

「いいよ、学生は二千で」

恥ずかしさと嬉しさできゅうんとか鳴いてしまう。
そして、帰り道にすっかりOLらしさを身につけた女の子(あるいは男の子)が、君を流し目でみながら、ちょっと疲れた表情を浮かべてこう言うのだ。

「○○君、何も変わってなくて、よかった。うん、なんか安心した」

この置き去り感。この感じは翌朝になっても消えることはない。発話の意図を考えて夜も眠れない。おそるおそる電話をかけてみる。一言目の「もしもし」に応答したのは男の声で、慌てて携帯の電源をオフにして、ああやっぱり、「安心した」なんて言える人には安心させられる人がそばにいるんだなと、納得する。これを体験するのは大体修士一年の六月。早い人は五月で経験するわけだが、この時の劣等感たるや神レベルである。未だ見ぬ就職についての憧れと学部時代の伸びやかさが懐かしく、五月病にかかる。これがいわゆる大学院五月病。ここから連日の発表発表調査調査実験実験、優秀な人であれば学会に駆り出されペーパーを書き、学術上の、あるいは人間関係のストレスや軽い躁鬱に陥る院生は少なくない。しかしそれを泣き言にはできない。「社会ではもっと厳しい事が起こっているのだ」と思い込むようになっていくからだ。もし、何かの幸運で告白されたとしても、それを静かに頷いて了承することが君にはできない。飲み会で五〇〇〇円も払えない男に恋人を作る資格はないのだ。院生男子の強度草食化現象とでもいうべきか。
しかし安心してほしい、それも修士を修了する直前には全てどうでもよくなっているはずだ。おお、貧乏がなんだ。年金を払う金もねえぜ! と、自己肯定ができたところで、重い腰をあげるわけだが、そこから三次元立体の恋人を探そうとしても無理である。大学院博士後期課程に進んだ君のキャリアパスは、気が遠くなるほど広い高原と、その先にある栄光なのか絶望なのかわからない謎の未来である。院生の未来に賭けてくれるやさしい女性はほとんどいない。(いたとしても、すでにそのときは君を置き去りするほどの業績を上げている男の所にいる)。
謎の未来に怯えてしまうことで、大学院生たちは恋愛市場から自らそっと風のように消えていくのである。
 
いや、暗い話はやめだ。希望の話をしよう。
君があらゆる困難に直面し、挫折の果てに恋愛市場からの完全撤退を選んだとしても、実はそのときこそ一番輝いているときなのかもしれない。
修士、博士課程の院生は、学部生や社会人の趣味とは比べ物にならないほどの研究上のメリットがある。文献研究であれば、世界中の古書貴重書、各機関へのコネや学会を通じての交流、あるいは時にそれらの調査や、管理を任されるかもしれない。
文字通りの「宝物」を目の前にして、それらへの愛情を向ける君の姿は、信じられないかもしれないが、びっくりするほどかっこいいのだ。机のしがみついてカビの生えかけた本を大切にめくり続け、弱い光のもとで読書をすることによる、近眼乱視、猫背やヘルニア、慢性の腱鞘炎を患い、運動不足とストレスで太るかもしれない。けれども、おそらくモテの条件はそんなところにはないのだ。そんな姿に惚れる人だって、なんだかんだで少なくはないのだから。絶望を背にする男ほど輝いている者はいない。
ある大学の、ものすごく優秀で美人な院生がいた。彼女を狙って、数十人の「はかせ」が群がっていたが、彼女が結婚相手に選んだのはうだつのあがらない、少し暗めの目立たない同僚の男だったという。どうしてそんな男を! とみなが愕然とし、相手に選ばれた人も目をしょぼしょぼさせながらその理由を問いただした。彼女はこういっただけだという。

「ただ誰よりも、勉強をしている姿がかっこよかったの」

(安倉儀たたた)
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