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ミニコミ『奇刊クリルタイ』の公式ページ。お知らせやメルマガ「週刊メルマガクリルタイ」の過去記事を掲載していきます。

エッセイ

ぼくわたしがかんがえたせんしんてきなはたらきかた

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あの、マリッサ・メイヤー(google20番目の社員にして、元同社副社長、現YAHOO!CEO)が「在宅勤務者に出社勤務にするかもしくは退職するよう通達」したとしてニュースになっている。
「はてなブックマーク」などを見てみると社畜がどうしたとか言ってる人がいたが、そういう人はスティーブン・レヴィ『グーグル ネット覇者の真実』(阪急コミュニケーションズ)を読んでからコメント書き込めよと言いたい。

グーグル ネット覇者の真実 追われる立場から追う立場へグーグル ネット覇者の真実 追われる立場から追う立場へ [単行本]
著者:スティーブン・レヴィ
出版: 阪急コミュニケーションズ
(2011-12-16)


そもそもgoogleとは極めて「大学」的な組織であり、今回のニュースは単に「(授業にでるかどうかはさておき)大学ぐらい来いよ」という程度の意味しかないと思われる。それはさておき、YAHOO!でこうした決定がなされたのは、その大前提として、在宅勤務という制度自体に意味がない(少なくともコストに見合わない)という事になるのではないだろうか。
そう、我々はいい加減認めるべきなのだ。少し前から「せんしんてきなはたらきかた」だと言われていたもののほとんどは、実は、メリットよりもデメリットの方が大きいのかもしれない、ということに。別に、こんなことはgoogleがどうだとか遠く離れたところにいるエリートさん達の事例を引く必要はない。我々の隣を見てみればこうした事例は枚挙にいとまがないのだ。

例えば、フレックスタイム制が単なる遅刻の言い訳になっていることに。
例えば、ワークライフバランスが単なる既得権の言い換えになっていることに。
例えば、原稿を書くのがwifi完備のカフェでも自宅でも、進捗に大して変わりはないことに(私は、ライターとしての原稿は毎回自宅で書いているが、それで困ったことなど一度もない。考えてみたら当たり前だけど)
例えば、CSRを声高に叫び、CSR経営を標榜する会社に限って社員を酷使し、赤字が出たらすぐ社員を無理矢理リストラしていることに。
例えば、イケダハヤトや安藤美冬が単なるヒモやプラチナディストリビューターでしかないことに。


結局「せんしんてきなはたらきかた」の多くは極めて高度な自己コントロール能力を求められるのだ。それをコントロールできる人はよいが、そんなことできないから我々は会社勤めをしているわけで。ほっとけばCIVでもGTAでもやってしまうからこそ、我々は今日も満員電車に揺られて会社に向かう。だけど、自分がコントロールできないのに「できる」と勘違いするよりはマシだ。

キモメンスゴレンVol.3「エア仕事論」にイラっとくる5パターン

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皆さんは「竜退治にはもう飽きた!」というキャッチコピーをご存知でしょうか。TVゲーム『メタルマックス』のTVCMにて、「元ジャイアン」ことたてかべ和也氏のが叫んだこのフレーズは「戦車と人のRPG」である同シリーズを象徴する名キャッチコピーとしてファンの間では語り草となっています。



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ですが、広大な世界にはたてかべ和也氏ならずとも「もう飽きた!」と叫びたくなるような様々な事象が存在することは論をまたないでしょう。今回はそんな中から、仕事における「もう飽きた!」の好事例、「エア仕事論」を
紹介します。「エア仕事論」とはその名の通り、「本人はドヤ顔で語るも、現実には何の意味もない仕事論」「仕事論のフリした自慢・アピール」の総称です。今回は数多くの「エア仕事論」の中から5つを紹介する事で現代社会に対する警鐘とさせていただきたいと思います。

1.コミットメントなき仕事論

コミットメント。様々な人によって指摘されていますが、ビジネスを進めていく上で基本中の基本となる能力です。ビジネス上のある事柄にコミットメント(責任を伴う約束)する以上、責任をもってその業務を遂行する必要があります。ところが、エア仕事論ではこうしたコミットメントは無視され、「自分が気持ちいいか」「自分が有利なポジションにつけるか」「PVが稼げるか」が優先されます。簡単に言えば、全てのエア仕事論はコミットメントなき仕事論だと言えます。
「あの人が気に入らないから俺は仕事しないよ」という人や、「前の会社では○○だった」「googleでは云々」「アップルでは云々」「ワークライフバランスが」「ダイバーシティが」などなど。「エア仕事論をぶつ前に事務員と不倫するのやめろ」(愛知・フレキシブルコンテナバック)「そんなこと言うならとっとと転職しろよ」(尖閣諸島・官房長官)、「あんたが勤めてるのは何の変哲もない日本の中小企業なんですが・・・」(岐阜県・童貞)といわれても仕方がないでしょう。

2.ノマド

「ノマド」とは遊牧民の事ですが、転じて「オフィスのない会社」「働く場所を自由に選択する会社員」といったワークスタイルの事を指します。当初はモバイルやクラウドを使った仕事術やツールの紹介であったはずのノマドですが、フリーランス礼賛と結びつき、現在ではノマドなんだかノ○ソなんだかエア仕事論なんだかよくわからないことになっております。それに伴い、「年収150万円で僕らは自由に生きていく 」(それ単に嫁さんが理解と稼ぎのある人ってだけだろ)とか「月5,000円でサバイバルキットを買えば大丈夫」(新手のネットワークビジネスか)などなど「ノマド的エア仕事論」も増殖傾向です。安易にノマドを信奉する皆さんには「歴史上ほとんどのノマド(遊牧民)は安定した収穫を目指して農耕民族に侵攻、征服後、農耕民族に逆制服(農耕民族化)された」という事実に思いを馳せてほしいものです。


3.「カンブリア宮殿は見ろよ」

『カンブリア宮殿』といえば、各業界の社長を招いての企業PR研究番組です。村上龍と小池栄子の名コンビもすっかり板に付き、テレビ東京の看板番組とも言えるこの番組。あなたは、放送翌日の会議などでやたらとどこかで聞いたような、もっといえば、昨日の夜中に両胸にスイカをつけたねーちゃんとドヤ顔のおっさんから聞いたのと全く同じ内容を話す上司に遭遇する光景に遭遇したことはないのでしょうか。「部長がドヤ顔で「カンブリア宮殿」の話をするのでますます見たくなくなる」(埼玉県・団体職員)「紹介されている事例を1つでも実行してほしい」(ユタ州・NPO)など、彼らの存在は若手社員からの評判が非常に悪いです。番組そのものよりも、「唯一の情報源」「単なる広報番組を先進事例の紹介だと勘違いする」上司の存在が「カンブリア宮殿を見てる人はイタい」という逆効果を生んでいる事実は我々の胸に刻まれるべきです。

4.ぼくがかんがえたさいきょうのますこみぎょうかい

あなたのフォロワーの中にはマスコミ業界の人間でもないのにやたらと「マスメディアの未来」や「マスコミ論」を語りたがる人がいないでしょうか。で、意外とそうした発言がリツイートされてたりします。
「マスコミに入ってから言え」(インターネット・こじらせ女子)「他にやることないのか」(樺太・製麺業)などなど、こちらも評判は悪いです。よくよく考えてみると、業界のインサイダーでもない人が考えた理論がそこまで正しいと言えるのでしょうか。自分の業界に置き換えてみれば、そうした現状が如何にバカバカしい事かよくわかります。しかもタチの悪い事に、そうした発言は就職活動の裏返しのルサンチマンである可能性が多く注意が必要です。ですが、よくよく考えてみると、我々の周りには「ぼくがかんがえたさいきょうのかちょう」や「さいきょうのしんきじぎょう」「さいきょうのえいぎょう」を開陳する人にあふれています。
「さいきょうのかいしゃ」トークはせめて飲み屋での泥酔時ぐらいにとどめておきたいものです。


5.中二病にいつまでも罹患

中二病。本来であれば「中学2年生程度の屁理屈で社会を否定し、結果何の行動も起こさなくなる「病」」の事を総称していますが、世の中には困ったことにこの病にかかったまま大人になって就職……はおろか、管理職になろうが50になろうが中二病がいまだに完治しない人がいます。いい年こいて「俺が中心にならない飲み会には参加しない」という人や、もう50にもなるのに、「俺に従わない後輩とは口もきかない」という人。いつまでたっても「ぼくにはもっとふさわしい仕事がある」と夢想する人。「ぼくはゆうのうなんだい!」というアピールに余念のない人……。
「ほんとに迷惑。早く魔眼に目覚めてダークフレイムマスターに転生してほしい」(岐阜・文化系童貞)「そんなに中二病がいいならアーカム財団にでも入ってろ」(梁山泊・ミニコミ編集)など、中二病を批判する前に自らを省みてほしいと思う事しきりです。


そもそも、エア仕事論とは全ての会社において、全ての安居酒屋で必須の概念でした。ただ、それらは翌日には酒とともにきれいさっぱり忘れ去られていたという意味で、大変健康的なものでした。ですが、今日では全てのエア仕事論はアーカイブ化され「痛い言動」として保存される一方、「事故物件」扱いを恐れない一部の人たちは、エア仕事論を語ることを仕事とするようになりました。我々にできる事は、彼らの発言の不備をあげつらうことではなく、彼らの発言をしっかりとアーカイブ化し、後世の人々に残すことなのではないのでしょうか。2010年代の日本に咲いたあだ花として……。




「地方サブカル」というジレンマ―republic1963

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(「週刊メルマガクリルタイ」Vol.112(2012/04/25 配信分)の原稿を再掲)

5月6日の文学フリマで頒布される「奇刊クリルタイ増刊『dorjVol.3』」にて「二〇一二年サブカル滅亡」という原稿を書いた。今回はその原稿において主に射程に入れていた「地方サブカル」というものについて少し考えてみたい。

奇刊クリルタイ増刊「dorj」Vol.3奇刊クリルタイ増刊「dorj」Vol.3
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「地方サブカル」とは、言葉の通り、「地方でサブカルやってる人」である。そもそもこの「地方サブカル」、少し前までは絶滅危惧種であった。それは、以下のような困難があるためである。

・友達がいない:同じ趣味を持つ友達・知り合いが地方にはいない
・コンテンツがない:東京には多くあるような巨大本屋も、小粋な本屋も地方では超レアな存在である
・イベントがない:面白そうな博物館の展示も、ロフトプラスワンも地方にはない

この「地方サブカル三重苦」によって、サブカルにハマった人達はほぼ確実に地方に愛想をつかして「上京」する事になり、結果として地方にはサブカルがいなくなってしまうわけだ。
だが、最近は少し様子が違ってきている。まずは、経済的な理由やその他によって、大学入学時の上京という選択肢が困難になっている点がある。だが、それ以上に重要なのが以下のような地方でもサブカルができる代替手段が成立しているからである。

・友達がいない:twitterやSNSで(ある程度)代替可能
・コンテンツがない:amazonで(ほぼ)代替可能
・イベントがない:Ustreamやニコニコ動画で(少しは)代替可能

こうした代替手段によって、地方でサブカルを行う事が以前より簡単になってきた。特に大きかったのがamazonの存在である。amazonによって、消費するコンテンツのレベルでは、日本中どこにいてもある程度のものが消費できる環境が整った。友達や同じ趣味を語りあう人達はtwitterやSNSである程度探す事ができる。そして、こうした関係性は「リアル」の関係よりもよほど心地いいものなのだ。
もはや、サブカルにおける東京の比較優位は「現場」の集積=映画や博物館、ロフトプラスワンのようなその場でしか体験できない「現場」が数多くあること以外にはない。そしてそれすら動画配信サイトや「その時だけ東京に行く(※1)」ということで解決しつつある、というのが今日の状況なのだ。
だが、こうして地方でもサブカルができてよかったね、という話では残念ながら、ない。そもそもサブカルとは一体なんだろうか。サブカルとはコンテンツのカテゴリー名ではない。およそ全ての「オタク/サブカル分類」が無意味なのは、この部分を勘違いしているからであり、「ももいろクローバーZはサブカルか否か」なんてカテゴライズする事は基本的には無意味なのだ。では、サブカルとは何かというと、サブカルとは「ロック」のような、スタンス、ないし信仰告白なのだ。「サブカル」がスタンスであるとして、そのスタンスとは具体的には何をさすのだろうか。端的に言えば、サブカルとは差異化ゲームである。

「他人よりも優れた感性を持っている」
「他人が知らないこんなマニアックなアーティストを知ってる」

このような発言によって他人との差異を強調し、それによって勝敗を決めるゲーム、それが差異化ゲームであり、それによって駆動されるのがサブカルなのだ(※2)。
地方でもサブカルができるだけのインフラが整えられたとしても、これらのサブカルのスタンスまで共有できているのかというと、極めて怪しいのだ。今の地方の若者たち(笑)はとにかく「自意識の投影として」コンテンツを消費する事をしない。サブカル的コンテンツを消費する事はあっても、自意識の投影としてのサブカル的スタンスまで共有しているとは限らない。そんな時に取り残された我々オールドサブカルは一体何ができるのだろうか。

※1 今や、東京⇔名古屋間は新幹線で2時間、高速バスであれば片道3,000円の時代である。もっとも、四六時中それをやるわけにもいかないので、完璧に差異をなくした、というわけではないが。

※2 こう書くと怒る人が中にはいるが、差異化ゲームそれ自体は「ゲーム」という以上の意味はない。差異化ゲームによってサブカルをたしなむ事は、「ある日突然、運命的に好きなる」というのと全く当価値である。

republic1963

童貞をこじらせて 高校~大学編-小野和哉

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 我が輩は素人童貞である。
 24歳くらいまで価値のあるものでもない男の操を守り通し、人生の一大失恋を経て、風俗で童貞をかなぐり捨て、26歳の現在に至る。3年ほど前から「恋と童貞」という童貞をテーマにしたアホ雑誌を作っており、そこで名ばかり編集長をつとめている。
 そんな雑誌を率いているもんだから、お察しの通り彼女がいたことはないし、ましてやチューをしたことも、手をつないだこともない。あ、チューは風俗のオバチャンとあるか。しかし風俗経験も件の脱童の際の一回限りである。一ヶ月に一回くらいの頻度で無性に行きたくなることもあるが、どうしても踏ん切りがつかないというか、土壇場でビビっちゃって行けないわけだ。一度、目当てのお店を見つけ出し、実家の千葉から池袋まで遠征したものの、店の近くで怖じけずいて帰っちゃったことがある。なんか、落語に出てくる若旦那みたいな。そんな我が輩のことだから、ただ、ぼんやり風俗店のホームページを見ているだけでも満足してしまう。
 童貞であるのは生まれてこの方であるが、はっきりと自分を「童貞である」と自覚しはじめたのは、おそらく性に目覚めはじめた中学生の頃だろう。とにかく異性が遠い存在であるように思えた。それでも中学校では女子もまだイモ臭くてまだ親近感は持てたが、高校に入って急に色気づきだすと、急に差をつけられた。当時は、もう今思い出しても随分に頭がおかしいと思うのだが、女性のことを雲の上の存在かなにかと思っていた。そんな神聖な存在に自分みたいな汚れが近づいたり話しかけたりしてはいけないと、けっこうオオマジで思っていたからたちがわるい。当然、同い年の女の子と話す時は敬語である。痛い、痛い!
 高校二年生の頃だったか、そんな天然モノ童貞の我が輩にフランクに接してくれた女子がいた。Hさんという子はなんというか不思議な存在で、クラスの上位にいるオシャレモテでもないけど、ましてや地味グループでもなくて、とにかく明るくて誰とも平等に接することができるような希有な存在であった。お世辞にも可愛いとは言えないが、とにかく明るくて下ネタもオッケー。我が輩のことを勝手にムッツリスケベと認定し、深夜のオススメエロ番組の情報を頼んでもいないのに教えてくれたりした。人生で初めてケータイに登録した異性もHさんだったなあ……。そんな大洋のごとく器のでかいHさんであったが、先述の通り極端に女子が苦手であった我が輩は、Hさんが善意で送ってくれたやたら長文のメールにもわずか一行で返信という暴挙を犯し、翌日本人から「アレはショックだった……」と言われる始末。
 高校を卒業。晴れて大学入りで夢のキャンパスライフかと思いきや、暗黒の高校時代で培われた強靭なロンリーウルフ精神が邪魔し、入ったサークルを一ヶ月でフェイドアウト、クラスも何だか周囲の雰囲気にとけ込めず孤立、華々しく大学デビュー失敗をかざった。さらに悪いことに、大学はあまりに自由すぎた。高校は共学制だったため周囲1メートルには必ず異性がいるような環境、息苦しさすら感じていたが、大学は当人さえその気になれば異性はおろか、同性とすら顔を合わせずにやり過ごすことができた。それで、我が輩は異性という存在から完全に目を背けてしまった。ビックリなことに、大学四年間で本気で女性を好きになったことがなかった。やりたい盛りの20歳前後の男子がピチピチの女子大生にうんともすんともならないって、本当に病気だ。そう、もう何か当時の我が輩は解脱に域に達していたと思う。風俗に行くなんて発想もマジで微塵もなかったのだ。
 ただ何も考えていないわけではなかった。むしろ悩み過ぎて、悩み過ぎて、「孤独」と名のつく本を図書館で検索して片っ端から読むという、狂気の領域に達していた。「どうやったら女の子と付き合えるか」というベクトルだったら健康的だった。違う。「何で俺はモテないんだ」「なんでモテないことは苦しいんだ」なんてのを堂々巡りで延々と考えていた。そしてすべての思考は自分の中で完結していた。ただ、頭が悪いことが幸いして、哲学とかそういう面倒な方にはいかなかった。いや、どっちにしろ面倒か。
 まあ、先に結論を行っておくと、童貞は自分で問題を解決しようとしちゃいけないのだ。きっと。人との交流の中から自ずと救いの道が見えてくるのだろうと、今は思う。今も素人童貞の我が輩は言うのもなんだけど。
 とにかく、この苦しみを解決してくれるのは本だ、とそういう頭でっかちな考えにとらわれていた当時のオノ青年(童貞)。行き着いた究極の選択は、「ゼミで童貞研究をする」であった。とんでもないアホである。まあ、呆れずに話を聞いて欲しい。当時、我が輩は文学部の社会学を選考していたのだが、どうもジェンダーとか家族社会学とか、そういうのがこの「童貞問題」を解決してくれそうだと思い、取りあえずレズビアン研究をしている女先生のゼミに入った。3年から卒業まで所属することになるのだが、卒論のテーマは3年で決めることになっている。はっきり童貞を研究しようと決めたのは、テーマ発表の課題の時だ。そこで我が輩は「モテなくて童貞だから童貞をテーマに研究します」と高らかに宣言。理解のある先生だからできたことだが、ゼミ生はみんな、ドン引きだったろう。レズビアン研究の先生とはいえ、性の問題に特化したゼミというわけでもなかった。
 しかし我が輩は、変な話だが、この童貞カミングアウトで随分気持ちが楽になったのも事実である。とにかくこの3年で肥大化した「童貞」という問題、自意識を自分だけの中でとどめておくのが、とんでもない苦痛だったのだ。誰かに言いたい、誰かにこの悩みを伝えたい、そんな潜在的欲求がずっとあったのかもしれない。もちろん自分から「童貞でーす」と告白するのは羞恥の極みであるが、この重荷を少しでも軽くすることができるなら何でもなかった。しかし、ただ何の脈略もなく童貞カミングアウトするのも難しい。だから「研究で童貞をテーマにします、ちなみに俺童貞です」という文脈は我が輩にとってとっても都合が良かったのである。ああ、いま色々書いてみたけど、とんでもなく面倒くさい人間だな、自分。これがこじらせというヤツか。
 さらに都合がいいことに、我が輩がこのテーマに取りかかる数年前に渋谷知美という社会学者の『日本の童貞』(2003)が出版され、これが先行研究としてあった。かなりかいつまんで説明すると、戦前~現在に至るまでのメディアにおける「童貞」という言葉の使われ方を調べ、その変遷を探るという研究である。元々「童貞マリア様」というように女性に対しても使われていた言葉(しかも好意的に)が現在のようにネガティブな意味合いになったのはなぜか。それを膨大な資料を収集して明らかにするというものである。我が輩はこの方法論を完全に踏襲し(パクリ)、渋谷知美の研究からさらに現在に至るまでの数年の童貞の価値の変遷について調べた。基本的には雑誌の資料をたくさん取り寄せてひたすら記事とにらめっこするという作業であるが、これが随分楽しく、結局できあがった卒論も総計4万字くらいの無駄に大げさなものに仕上がった。
 大したものではない。卒論は教授に「ま、頑張ってね」と一蹴され、終わった。が、個人的には満足であった。童貞を研究対象としてメタ視点で童貞をカッコ付きで見られるようになった分、随分気持ちは楽になった。我が輩が社会人になって、まあ結果的に失恋するのではるが、女性を神(笑)ではなく、人間として見られるようになったのも、この研究があったおかげであろう。
 文字数がもう足りないので急速にここらで話をまとめようとするが、どうも最近、あまりにもモテなさすぎて、我が輩、また童貞をこじらせそうな様相である。ああ、随分前に解決したと思ったのに……。こんな文章を書こうと思ったのも、こじらせを発症している証かもしれない。本当にどうしたらいいものか、また童貞研究に手をつけようかと、この文章を書きながらボンヤリ思い悩んでいるのだ。



日本の童貞 (文春新書)日本の童貞 (文春新書)
著者:渋谷 知美
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小野和哉

「下町人情」という名の獄中で-犬山秋彦

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(「週刊メルマガクリルタイ」Vol.78(2011年4月7日配信分)の原稿を再掲)

◆閉鎖した「お互い様」社会

よくテレビや雑誌などのメディアで「人情味あふれる下町」というフレーズが乱用されるが、実際のまちづくりに参加していると、その「人情味」こそが町の衰退を招いているのではないかと思わずにいられない場面に出くわすことがある。
たとえば僕のお世話になっている某商店街には、昭和30年代頃まで「七夕祭り」があったという。本場仙台にはかなわないまでも、街頭や電柱にロープを渡して無数の七夕飾りを吊るして、空を覆わんばかりの華やかさであった。大勢の客でにぎわい、商店街はにぎわった。しかし小さな商店街だったので人波はあふれ、何もしていない隣の商店街にまで利益が転がり込んでしまった。商店主たちからは「自分たちがこんなに苦労をして人を集めているのに、隣のやつらは楽して儲けやがって!」と怒りの声が挙がった。結果、伝統ある行事は途絶え、現在同じような規模で飾り付けしようとすれば、消防法の関係で許可が下りないという。一般的に「下町人情」というのはポジティブに語られる。しかし人間に嫉妬はつきもので、「他人が得をしていると自分が損をした気になる」というネガティブな感情もまた「人情」である。結局彼らは「自分の得」より「相手の損」を選んでしまったのだ。今にして思えば互いに協力して、最近流行の「Win-Winの関係」を築けば良かったのにと思うのだが、隣は隣で「おこぼれにはあずかりたいが、協力するのは面倒くさい」と強固な態度を取り続けたらしい。結果、仲良く客を失ったわけだ。損得というロジックよりも感情が優先されてしまったという「下町人情」らしいエピソードである。
結局、地域コミュニティに根付いた、昔ながらの「お互い様」は、コミュニティ内の人間だけに優しい閉鎖的な連帯の粋を脱していないのだ。そのコミュニティを一歩出れば相容れない「よそ者」なのである。「下町人情」とは、言い方を変えれば、単に身内だけを贔屓するという「差別」と紙一重なローカル・ルールに過ぎない。かつては「身内相手」の商売だけでも充分に経済が回っていたからそれで良かったかも知れないが、高度経済成長の終焉、バブルの崩壊、止まらないグローバル化、新興国の台頭と、とかく「閉じたサークルからの貨幣流出」が止まらない現在、「外貨」を稼ぐことのできない地域コミュニティが衰退して行くのは当然の成り行きといえる。

◆「物があれば何でも売れた時代」の功罪

個人商店の売り上げは全盛期に比べ数分の一にまで下がり、年商200~300万というワーキングプア並みの店も少なくない。それでも何故やっていけるかといえば持ち家で商売しているからだ。そして彼らのほとんどは奮起するための資金もなければ意欲もない。そもそも一部の成功者を除き、大半の人間は好景気と言う時代に乗じて「順風満帆の人生」をたまたま築けただけなのだから、時代の荒波に抗うすべも持っていない。ただ緩慢な衰退を運命として受け入れざるを得ないのだ。
この無気力さは、何かに似ている。そう、まるで「環境に恵まれているから引きこもっていられるのだ」という中高年が語る俗流若者論そのものなのだ。「無気力」とは一種の学習の結果である。豊かな時代を送った彼らの大半も、自分自身の力で何かを為し遂げたわけではないという意味では、現在の若者と同じくホンモノの「成功体験」を持ち合わせてはいないのだ。「まだ大丈夫」という微かな希望にすがって、茹でガエルのようにゆっくりと煮立っている。
中高年が、あたかも自分の実力によって手に入れたかのように吹聴する「権力・収入・家庭」というものは、実はただ口をあけて自動的に受動したものに過ぎない。就職氷河期だというとすぐに「就職先がないなら起業すればいい」という話になるが、「物があれば何でも売れた」という高度経済成長期と今ではリスクが違いすぎる。「恋愛経験ナシと応えた新成人はおよそ45%」だの「30代未婚女性の4~5人に1人は処女」だの、若い世代の「彼氏・彼女イナイ率」がハンパないというニュースも連日報道されているが、昔はお見合いと言う半強制的にマッチングされるシステムがあった。別に今の若者より恋愛スキルやコミュニケーション能力に長けていたわけではない。
たしかに戦後は焼け野原だったかもしれない、苦労もあっただろう。それでも一度乗ればエスカレーター方式で、仕事も承認も家庭すら獲得できる右肩上がりの仕組みがあった。今の若者には、登った先が当たりかハズレかもわからないハシゴが無数に用意され、それを「自己責任」の名のもとに尻を叩かれながら選ばされているようなものだ。

◆みんなでやらない「まちづくり」

輝かしかった過去への郷愁から伝統を重んじ、「地域コミュニティを守れ、今こそ人と人の絆を取り戻せ」的なことを声高に叫ぶ中高年は多い。確かに守れるものなら守りたい、取り戻せるものなら取り戻したいとは、みんなが思っているだろう。だが、壊死したものを騙し騙し温存することに何の意味があるのか。ましてや国の助成金をドブに捨てるような方法でやる意味はあるのか? 
最近では「国の補助金に頼らないまちづくり」というのが流行のフレーズになりつつある。実際、認識も高まってきた。事業仕分けで助成金は削られ、それをアテにして意味のない箱モノを作り、継続性を無視したまちづくりに邁進してきた詐欺師まがいの人々が去り、今現在、まちづくりの現場にいる人間は貧乏くじを引いてしまった者ばかりだ。かつてバブル世代が成果を求められずに巨額の見返りを得たのと逆に、少ない予算で成果を求められる。シビアだが、これこそ虚飾を排した「まちづくり」の真の姿なのかも知れない。
考えてみれば都市計画や「まちづくり」が一種の特権や既得権を持ち合わせていた時代だったら、僕のようにどこの馬の骨ともわからないニート上がりの若造にチャンスが巡ってくることもなかっただろう。
そして「昔ながらの人情」という曖昧な概念が効力を失い、新たに叫ばれているのが「みんなでやらない、まちづくり」だ。意欲のない人間が集まって意見を出し合っても、革新的な意見も出なければ建設的な合意も得られるわけがない。だったら「やるしかない」という危機感を抱いた一部の人間が、たとえ反対されても、身銭を切る覚悟で行動を起こすしかない。失敗すれば自己責任、成功すれば結果的に周囲の協力も得られるだろう。そして「タダのり(フリーライド)」を寛容しながらスパイラルに活動を拡大していくのだ。少数精鋭・低予算ではじめれば、たとえ失敗しても路線変更や撤退が容易だ。「一度はじめてしまったら後には引けない」という愚かな時間とコストの浪費にも陥らずに済む。そして、そんな新時代のまちづくりに必要とされるモノが3つある。
「若者・よそ者・バカ者」だ。これはまあ、ドン詰まりになった年寄りの苦肉の策ともいえなくはない。「やりがいの搾取」と紙一重な部分もある。しかし、確実に流れが変わってきていることは確かだ。「人情」という名の美名のもとに築かれていた既得権と差別の城壁が崩壊し、新しい風が吹き抜けようとしている。

◆商店街なんていらない!?

これからの時代、もしかすると商店街や地域コミュニティという外殻は必要なくなってしまうのかも知れない。そんな話を商店街の人たちと常にしている。しかし、昔ながらの人情だの景観だのといった漠然とした「まち」という概念ではなく、人が生き続ける場、生活を維持する場としての「まち」が価値を失うのはもうしばらく先の話だろう。シャッター通りと化した街のシャッターを開かせる方法ではなく、シャッター通りでサバイバルする方法こそが求められる時代が来る。
そんな中で、僕個人は伝統行事も人情も、生活を持続させるために有効であれば存続させる意味はあると思っている。ただ「まちづくり」という時に、人情だの伝統だのといった「概念」の保存が自己目的化してしまうことが多々あるのだ。わかりやすい大義名分は、人を思考や模索といった苦悩から解放する媚薬のはたらきを秘めている。そこが怖いのだ。おそらく人間は「感情」という牢獄から逃げ出すことはできない。だから僕たちは常に「感情」という、アテにしてはならないモノに命を預けているのだというリスクを忘れてはならないと思うのだ。

犬山秋彦

中二病の誤読誌-republic1963

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中二病が今、アツい。

詳しくはこちらを参考にしてほしいが、Zeebra v.s. 伊集院光のビーフ(牛肉?)が勃発したとのことで、あらゆるメディアで「中二病」花盛りである。だが、正直、これら取り上げるメディアが本当に中二病について理解して話題にしているか?といわれるとはなはだ疑問だ。そもそも、Zeebra対伊集院の批判合戦とか、どっちが悪いとかそういう問題なのだろうか。今回は、この騒動を通して、改めて「中二病とは何なのか?」という事について考えてみたい。

そもそも事の発端は、(恐らく捨てアカウントと思われる)twitterアカウントから中二病呼ばわりされた事に対して、Zeebraが反応した事から始まる。で、中二病という概念を発見したのが伊集院光だということで、伊集院への批判→周りが諌める→本人が登場という流れとなる。

そもそも、中二病とはなんだろうか。その最も基本的な定義とは
中学2年生程度の屁理屈で社会を否定し、結果何の行動も起こさなくなる「病」※1

ようするに「中二ぐらいの時分にありがちな「イタい」行動」ということだが、これだと少しわかりづらいので、具体的な「症例」を3つに分類する。

1:自意識系
社会や大人の価値観に迎合することを拒否する事。 例:「サラリーマンにはなりたくねぇなぁ」、「大人は汚い 」等の発言
2:センス競争系
「他人とは一味違った(が、比較的ありふれている)」センスを自慢する事 例:洋楽を聴き始める、ハリウッドの超大作映画を否定してミニシアター系映画を観る 等
3:邪気眼系
ゲームや漫画の影響で「自分には秘められた力(=邪気眼)をもっている」などと妄想し、かつそれを「リアル」で実践してしまう言動。 例:怪我もしてないのに包帯、自分が考えた珍設定 等

さらに、こうした「中二病の「症状」があり、それが「イタい」」事を前提として作られた「メタ中二病」もあり、話はややこしいのだが、今回はそれは置いておく。基本的に最初期(伊集院が話題にしていたぐらいの頃)の中二病理解とは、これら3つの概念がいっしょくたに「中学校時代ぐらいのあるあるネタ」として「中二病」扱いされていた。そして、Zeebraにコメントしていた人達がいう通り、この時点では、一種の自虐ネタ、つまりネタ投稿者自身が「患者」であった。だが、こうした当初の解釈通り、中二病という言葉が使われる事は現在では少ない。現在では中二病の3つの症例のうちの「邪気眼」の意味として使われる事が圧倒的に多いのだ。例えば、「中二病マンガ」としてよく例として挙げられる『BLEACH』などはより正確を期すなら「邪気眼マンガ」と呼ぶべきはずだ(黒崎一護は別に大人を否定したり、ミニシアター映画を観に行ったりしてない)。だが、「中二病マンガ」と言って普通に通用している。もう一方で、中二病に加わった新しい使い方として、単に「イタい人」「行動が幼い人」を指す罵倒語としても使われている。これは、ネットスラングにおける「厨房」とほぼ同じ用法として使われているのだ。中二病は、「厨二病」と表記される事もあり、両者の関係の近さが伺える。だが、これはいままでの中二病にはなかった新しい意味である。さらに、この「中(厨)二病」の用法において、仕様者とそれが指し示す人(患者)が分離された。つまり、どこかにいる「イタい人」を指して「中(厨)二病」と認定してバカする、という今のネットにおいて一般的な用法が確立したのだ。

翻って、今回の騒動についてもう一度振り返ってみよう。
最初にZeebraに対して向けられた「中二病」という攻撃。これは、恐らく「中(厨)二病」という意味で使われていると思われる※2。簡単に言えば「Zeebraはイタい」ぐらいの意味で使われているのだ。これまで見てきた通り、この「中(厨)二病」の用法は伊集院光の手から離れたところで作られた(合成された?)意味であり、その意味で伊集院光に責任をとれ、というのは一見無理矢理なように思える。
だが、話はこれで終わらない。Zeebraが中二病という概念に対して怒っているのは、単に「イタい人」呼ばわりされたから、というわけではない。再三Zeebraがツイートで表明している通り、中二病という概念に「他人の揚げ足を取ってなんか言った気になる」「なんもしてないのに努力を否定する」、という嫌味というか、冷笑的な部分を感じ取って批判しているのではないか。だとすると、これは単なるZeebraの勘違い乙、上手く和解できてよかったね、という話にはならないのではないか。なぜなら、確かにこうした冷笑的な部分が中二病概念には存在していた、というか、リスナーの末席に座っている人間から言わせると、こうした「毒」の部分が伊集院光のラジオの面白さの根幹だったのではないか。こうなると、どちらが正しいという問題ではなく、各人で「どちらにつくか」を決めるしかない問題になる。だとすると、「和解不可能」として対話を打ち切った伊集院の態度は全く正しかった、という事になる。

ここまで原稿を書いて、ある種の感慨に浸っている。
そもそもクラスのはじっこの方でクラスの人間に対する皮肉を脳内に再生させ続けていた人間が月曜深夜に集まるオアシス、それが伊集院のラジオだったはずだ。それが我々のオアシスとして機能していたのは、あくまでそれが「否定される理屈」だったからではなかったのだろうか。中二病だって、幼稚な理屈で社会を否定していた過去の我々にむけた、今の我々からの投稿ハガキだったはずなのだ。社会から否定され、本音をひた隠しにしながら狭いサブカルの、さらにはじっこにいるのが我々だったはずだ。
でも、今、気がつけば、伊集院的な皮肉と冷笑はインターネットの中に満ち満ちている。それなのに、なぜか全く気分は晴れない。否定されるはずの理屈だけがもてはやされ、本来は正論だったはずの理屈はつまらない理由で揚げ足をとられる。こんな事を我々は望んでいたのだろうか。意味を書き変えられつづける「中二病」の姿は、漂流する我々の姿その者なのかもしれない。

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※1 ここでは、比喩的に「病」と称しているだけで、本当に病気なわけではない。
※2 もっとも、発端となったツイートに関しては何をもって批判しているのかさっぱりわからないが

参考:http://bunfree.hatenablog.com/entry/2012/02/21/151559

republic1963

キモメンスゴレン Vol.2「facebookのムカつく光景5つ」-republic1963

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(「週刊メルマガクリルタイ」Vol.108(2012年2月13日配信分)の原稿を再掲)

ここしばらくネット界隈の話題をさらっているサイトが「アメリカからやってきた全く新しい概念」ことfacebookであることは論を待たないでしょう。ところがこのfacebook、実名登録が前提である程度リアルの延長線上にあるSNSのため、そこでは悲喜こもごもが存在します。今回はそうした悲喜こもごもを紹介する事で、現代社会に対する警鐘としたいと思います。

1:会社の同僚から友達リクエスト

SNSサイトにおけるウザい状況の基本中の基本であり、その後の全ての悲劇の元となる出来事です。ですが、この悲しみから我々は皆、のがれることは出来ないでしょう。なぜなら、それを断れば余計にややこしい「なぜ君のリクエストを拒否したのか」を説明しなければならない事態になるに決まっているから。それゆえ、我々は今日も大して好きでもないコミュニケーションしたくもない会社の同僚からの友達リクエストを承認することになります。

2:エア仕事論、エア恋愛論

仕事論や恋愛論。これらは安居酒屋の酒の肴として鉄板の話題です。ですが、世の中には仕事場や安居酒屋でのトークだけに飽き足らず、ネットの世界でまでも自分の仕事論や恋愛論を語らなければ気が済まない人々がいます。顧客に対して自分の営業姿勢どうとか、SLAがどうとか、元彼がどうしたとか、どうでもいいよ!ネットでまでそんな話すんな!と叫びたくなる衝動にかられます。しかも、決まってそれらの理論は総じて「どうでもいい」の局地のような内容。しかも、リアルでの彼らの姿を知ってるだけに余計にたちが悪い。いつも昼休みソリティアやってるお前が何仕事論語ってるんだよ、お前は恋愛論語る前に自分の恵那司みたいな顔をみたことがあるのか、「エア仕事論はもう飽きた!(声:たてかべ和也)」と叫ぶのは家の中だけにしてください。彼らにだってそうしないとやっていけない事情があるのですから…。

3:「いいね!」をつけないと気が済まない

「「いいね!」ボタンってウザくね?」。facebookの草創期から言われ続けている事です。でも、我々は友人(じゃなくても)タイムラインが更新されるたびにボタンをくりっくしなければなりません。なぜならそれが彼の「ご高説」を「読んだ」という証拠になるから。そして、「いいね!」の数だけ彼らが承認された、という事になるのだから。休日に仕事何時間しようが、カフェで英語勉強しようがそんなの知った事じゃねーよ!と叫びたくなる気持ちはぐっとこらえてボタンを押しましょう。でないと、翌日さらにウザいfacebook論を聞かされる事になります。

4:飲もうよ!

大して仲も良くない元同僚からの「元気か?」メッセージ。このメールに返信しようものなら、次に来るメールは「今度飲もうよ」になると相場が決まっています。実際は飲みたくないけど断われないというジレンマに襲われますが、このメールが比較的気楽なのは「今度」が来る時はありえない事がわかりきっている事。実際に連絡しようものなら「仕事」だ「親の事情」だなんだと言って飲み会が開かれる事はありません。でも、そこで怒ってはいけません。facebookのコミュニケーションとは、リアルと同じなのですから。

5:友達の友達が

あなたはfacebook上の友達の友達を見に行った事はありますか?友達の友達にも色々とびっくりするような出会いがあって楽しいものです。ですが、中にはそっとブラウザを閉じてしまいたくなるような出会いもあります。差別だなんだと散々悪口を喚き散らして会社を辞めていった弊社派遣社員。その彼女がしれっと会社の他の部署に戻ってきているらしい事を知った時には飲んでいた牛乳を噴きそうになりました。しかもそれで会社の人達とfacebook上でキャッキャッウフフしているのを見た時は笑いを通り越して、この世に正義はないのかと嘆息せざるをえませんでした。

そもそも、ネットが「ナウでヤングな」人たちの遊び場だった時代はすでに過ぎ去りました。そうした時代においてはどんな先進的なサイトであれ、こうしたリアルと接続するような悲喜劇がなくなることはけしてないでしょう。

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キモメンスゴレンVol.1「相変わらず俺非モテだな」と再確認する5つの瞬間

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(「週刊メルマガクリルタイ」Vol.83(2011/05/19配信分)の原稿を再掲)

非モテなんて、ナンパでもして彼女作ればなんとでもなる、そんな妄想を抱いていた時が、私にもありました。彼女ができようが、風俗行こうが、ラブプラスやろうが非モテは非モテ。北斗の拳の「山のフドウ」のごとく我々の「非モテらしさ」はまったくゆるぎもしないのでした…。


1.ネットの「スイーツ(笑)」にマジギレする

ネットにあまた存在する「スイーツ(笑)」と彼女らに向けたニュースサイトの記事の数々。オムライスが食えないのか、女子力アップだかなんだか知りませんが、そうした「スイーツ(笑)提灯持ち記事」や白河桃子の婚活記事を「こやつめ!ハハハ」とネタとして受け流す事ができず、マジギレしてしまう。あまつさえ、「はてなダイアリー」に反論記事でも書こうものなら・・・。「白河桃子だって婚活ネタで一生食っていくのは大変なんだぞ」と広い心で受け流したいものです。

2.居酒屋での「理想の文化系女子」談義

居酒屋。それは男のワンダーランド。居酒屋の醍醐味、それは雑然とした店内で安酒を好敵手(とも)と時を忘れて飲む事。その際の酒の肴はみなが盛り上がれるモノが良いでしょう。通常、「巨人の今シーズン」「会社内のゴシップ」等、当たり障りのないものが選ばれるものですが、そこは非モテ。真正面から「理想の文化系女子」についての考察に入ります。栗山千明なのか、緒川たまきなのか、川上未映子なのか、議論の結末はわかりませんが、ともかく今は、そんな話題を語りあえる好敵手(とも)がいる事を喜びましょう。

3. 会社の「ワークライフバランス」を鼻で笑う

会社勤めしていると最近よく目撃するのが「ワークライフバランス」。「イクメン」「イケダン」だのと仕事とプライベートを両立させているというのが彼らのお題目ですが、彼らの「明日は仕事休んでボランティア」だの「息子を送り迎えする」等の「ワークライフバランス自慢」に「一番のプライベート充実はお前が派遣社員との不倫を辞める事だろ」と心の中で毒づいてはいけません。せいぜい「『Very』でもよんで「ミセスオーガニックさん」でも探してろ!」程度にしてください。彼らだって大変なんですから。たとえ非モテの我々が家族を作る事がないといっても、正論ほど世の中で不要とされているものはないのですから…。

4.DMMからログアウト

TUTAYA。DVDやCD、ゲーム、マンガが山と積まれた我らのワンダーランドです。非モテライフには必要不可欠のライフラインたる我らがTUTAYA。そんなTUTAYAの奥地には暖簾をくぐった先にさらなるワンダーランドが待つことを我々は皆、知っています。最近、そんなTUTAYAに並びかける気鋭のワンダーランドが現れました。その名はDMM。DMMの何がすごいって、あらゆる作品がワンクリックでダウンロードできることです。その品揃えたるや、生まれて初めてTUTAYAの暖簾をくぐった感動に等しいものがあります。あまりに感動しすぎて検索しまくり、サンプル動画の観すぎで、いざダウンロードする段になってみたらログアウトしてしまうことも。一人でいるとはいえ避けたい事態です。

5.「KO-KO-U 孤高」の何が面白いかわからない

TBSラジオで好評放送中の『ライムスター宇多丸 ウィークエンドシャッフル』。番組内の人気コーナーが「アメリカからやってきたまったく新しい概念」こと「KO-KO-U 孤高」です。要は「今年も一人でフジロックへ行き一言も話さなかった」「ひとりでUSJに行った」などの孤高な体験を綴るものですが、これが何が面白いのかわからない! なぜならあまりにも普通の事だから!「え・・・これそんなおかしい事かな・・・俺は毎日やってるけど・・・」と思ったあなた、あなたはまったくおかしくない!

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アンケートは別にやっていませんが、多分賛否両論でハッキリ別れているような気がします。こういった意見を持っている非モテもいるようです。ほかにも、「「相変わらず俺非モテだな」と再確認する瞬間」があれば、ぜひ教えてください。みなさんのご意見をお待ちしております。

republic1963

Masaoのおっさん人生 ~ 生まれてから30年以上たったって、私たちは努力と一緒に生きていくんだ-Masao

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(「週刊メルマガクリルタイ」Vol.027(2010/02/03配信分)の原稿を再掲)

【2010年○月△日の話】
「俺は仕事やる気ないし、でもやらないと生きていけないから金を得る手段として仕方なくやってるだけだし、プログラマやってるのはプログラムを組むこと自体は趣味として好きだからまだ比較的面白く仕事できるからだし、出世すると管理とか部下の世話とか面倒で向いて無さそうなことやらされるから出世欲とかないし、むしろ出世したくないし、承認欲求は心の底からどうでも良い仕事や会社を通してではなく、趣味や身内の仲間を通して得たいので、仕事より趣味を優先させたいと考えています」

…という話を彼女(交際8年目。いい加減結婚を考えるお年頃)にしたところ、「将来が不安になった」とおっしゃり不機嫌になってしまった。

女性にとって「男に就職する」ような面があり、経済面も重要視される行為なので、まぁ当然そうなるよなぁ。要するに、彼女にとって俺のこの発言は、就職予定の会社の社長が「うちはやりたいことだけやりたいので、社員の生活や経営のことに興味ありません。この中に宇宙人、未来人、異世界人(ry」とか挨拶しだしたようなもんで。

人間は「立場」を生きる生き物なので、身内といえどもあまり不安がらせるようなこと言うのはいかんな、と反省。でもまぁ、この「大人の男であり旦那候補である」という立場、結構たいへんです。

【新しいことを始めるのが難しくなってくる話】
「新しいことを始めるのに年齢は関係ない」とは言いますが、実際問題おっさんになってから新しいこと始めるのは、いろいろ厳しいです。好奇心や体力、自由な時間の減退はもちろんですが、人間関係的な側面でもいろいろ厳しくなってきます。

これは要するに、「俺がそのコミュニティで『長老』、かつ『新参者』扱いされることに耐えられるか問題」なのですが、これは結構難しい問題です。特に、「クリルタイ」読者の関心が高そうなオタク/サブカル系カルチャーは、10~20代の若者の比率が高い。たとえ30代以上の人間が居ても、それはその道十数年の歴戦の強者で、その界隈でしっかりしたポジションを持った立場になっている人だったりする。

若者文化では、「社会人になった」「結婚した」等の節目節目で、多くの人が趣味に時間や労力を割くことが難しくなり「卒業」していくからなのですが、そんな中、自分より10歳離れた若者とスムーズなコミュニケーションがとれるか?というと、「趣味」という共通のプラットフォームがあったとしても、結構大変なんじゃないかと思います。若い方も、おっさんのほうも、お互い。片方が気にしなくても、もう片方がどうしても気を遣ってしまう、とか。

僕は最近オタク系クラブカルチャーにハマっていますけど、まぁそこも↑みたいな感じなので、たまに「自分がこんなトコに居ていいんだろうか…」と、ふとよぎってしまうことはありますね。女装コスして「まつりか」を名乗ったりしても、年齢の壁によりキモ…(ゲフン、ゲフン)

まぁ、自分は20代の頃にネットで知り合った仲間が居るので、そこまで歳を意識しなくて済んでるんですが、ホントに知り合いも居ない場所で完全に新しいこと始めるとか、もう無理ですよね(おっさんの草野球チームとかならいけるかも)。いま20代とかの若い人は、いま居るコミュニティを大切にし
て欲しいもんだと思います。

【ネガティブなことしか言わない友人の話】
会社の友人に、口を開くとネガティブなことしか言わない人が居ます。それも「結婚しても嫁に搾取されるだけ。人生の墓場」「休日は寝てるだけ」とか、2chのネガティブ系板のテンプレみたいなことばっかり言う人が。
でもその人、周囲から浮いてるとか嫌われてるとか、そんな様子は全然ない。まぁそれなりに上手くやっている、という感じ。

ネットでは、ネガティブなことを書くとしばしば格好の炎上の材料になりますが、リアル社会ではネガティブなことは必ずしもマイナスではないようです。逆に、いっつもポジティブ全開!みたいな人のほうが「ウザい」として敬遠されがちなような。

まぁなんていうんですかね。長年生きてると誰だってネガティブなことをたくさん経験してくるし、ポジティブ一辺倒な人よりも、ネガティブさも併せ持っている人のほうが「嘘臭くない」「信頼できる」「安心できる」と、親しみを持ちやすいのかも知れません。

(Masao)

Masaoのおっさん人生 家族の特異性と、他人と孤独-Masao

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(「週刊メルマガクリルタイ 」Vol.9(2009/09/07配信分)の原稿を再掲)

前回僕は、結婚が、孤独で虚しい人生や仕事に価値を与える「モチベーション製造機」として機能する、という話を書きました。今回の記事では、結婚と、それによって得られる「家族」について、もう少し掘り下げてみようと思います。

【『家族』は結婚でしか得られない】

結婚により得られ、また結婚でしか得られないもの……それは「家族」です。
前回も書きましたが、「家族」が「他人」と一番違うのは、「運命共同体」であり、「自分の行動が最もダイレクトに反映される他者」であるという点です。
特に、家族の生活の糧を稼ぐ立場にある「大黒柱」(現行の社会では多くの場合夫)の浮き沈みは、そのまま家族の浮き沈みに直結します。このため「大黒柱」には、重い責任が被せられる反面、他では得られない「意味」と「価値」が人生に与えられるのです。
(ちなみに結婚制度のこの性質は、「『責任』を鎖に搾取を目論むブラック企業」や、「『意味』『価値』の側面を見て『男性は社会で自己実現できるのに女はできないのは差別的だ!』と考える女性」等ともリンクしています)

【『共通体験を持つ他者』としての家族】

また、家族が持つこの性質は、歳を重ねれば誰にでも必然的に訪れる、「孤独」対策としても有益です。おっさんになると分かりますが、人生で他人と同じ体験を共有できる部分は、歳を重ねる毎に少なくなっていきます。
産まれた場所、生い立ち、学校、職歴も、趣味嗜好、価値観…同じ年代に産まれた人間でも、人生を重ねれば重ねるほどに、それぞれの歩んできた道は独自性を増し、お互いの価値観や体験を共有することが難しくなっていきます。社会人ともなれば、それぞれに自分の人生があります。友人のために裂ける時間も極わずか。小中学校の頃のように、同じ地域で育ち、同じ学校で、同じ年代の集団の中で濃密な一体感を感じられるような機会は、最早あり得ないと言ってもいいでしょう。人間は、歳を
重ねる毎に、必然的に孤独になっていくのです。
そんな中、唯一家族だけは、何10年と月日を共にする相手となり得る可能性を秘めた存在です。何10年も前の家族旅行の想い出を共有し、死を迎えるまで共に過ごす。そんな存在は「家族」以外にはあり得ません。大人の孤独に耐えかね、ふと弱音を吐いたとき、そうした存在が居ることは、大きな支えになることでしょう(自己心理学でいうところの、『双子自己対象』って奴ですかね)。
もちろん家族とはいえどこまでいっても他人は他人。他人と付き合うことには、喜びもある反面、必ず煩わしさがつきまといます(ヤマアラシのジレンマです)。給料を押さえているのをいいことに、独裁者のように振舞うブラック企業のような「大黒柱」や、行き過ぎた一体感から、子供を自らの延長のように扱う「毒親」も居るでしょう。
これは、「同じ時間と体験を長く共有する」という特徴をもつ「家族」がもつ、光と影だと思います。「同じ時間と体験」が良い方に傾けば家族は素晴らしいものでしょうが、悪いほうに傾いた場合、家族は地獄になるのでしょう。

【普通におっさんになりました】

……と、今回は満31歳のおっさんであるMasaoがいま考える「家族」について書いてみました。僕自身、数年前までは家族について考えたことって殆ど無かったんですけどね……歳食ったせいか、なぜだか孤独が身に染みるようになるんですよ。
で、いろいろ考えていった結果、最終的に孤独や虚無感に一番効くのは、家族なんじゃないかな、と。家族も「他者」ではあるんだけど、「他人」とはかなり違う性質をもっていて、それは他では代価の効かない貴重なモノなんじゃないかな、と。
この辺の心境の変化はたぶん、もう付き合って8年になる、今の彼女との体験が大きいです。ここ数年、いろいろあって自分が弱ったとき一番支えになったのは、10年近く前の想い出を共有し、すぐに連絡を取れる場所に居る彼女の存在だったので。
僕自身、自分の家族が好きなわけじゃないし、むしろうざったいと感じることが多く、そんなに家族というものに夢見てるつもりはないんですが、こうした経験を通し、それでも家族というものはいろんな意味で人生の支えになる存在なんじゃないかな、とは思えるようになったのです。まぁ、月並みに、人並みに。

Masao
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