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ヤンキー

ビッグダディに見るDQNコミュニケーション-republic1963

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2012年末。年末の改編期には我々が心待ちにしている「アレ」が放送さた。
そう、「痛快!ビッグダディ(BD)」である。
何はなくともBDである!
BDとは整骨院を営む林下清志(通称ビッグダディ)一家、夫婦と子5男8女の合計16人(男6人・女9人)のどたばた劇や家族の絆を描いたいわゆる「大家族モノ」である。最初岩手に住んでいたビッグダディ達も奄美大島から愛知県豊田市、香川県小豆島へと移り、その間に妻(前嫁)と離婚→よりを戻して再婚→やっぱり離婚→18歳下の妻(現嫁)と結婚という波乱万丈な人生を送っている。
今回のBD18、ここしばらく封印されてきていた「バトル」が復活し、久々に見応えのある内容であった。だが今回、強調されていたのはBDが繰り出すDQNに特有のコミュニケーション技法、いわば「DQNコミュニケーション」とでもいえるものである。そこで今回は改めてBDにみるDQNのコミュニケーションの特徴について考えてみたいと思う。

  • DQNコミュニケーションの特徴1:怒る

今回放送分でBDが子供たちに対して大爆発した。理由はキノコ狩り時に子供たちが挨拶をしなかった、というのが理由だが、「怒る」というのは広く知られているDQNの行動様式である。さらに、BDの場合、子供に「笑ってた」等のいちゃもんをつけることで怒る事を正当化していた。こうした怒る理由をでっちあげることで自分を正当化するのはDQNの常とう手段である。さらに、こうした理由としてしばしば使われるのが「笑っていた」等の態度(=客観的な事実ではなく、恣意的に判断できるもの)である点には注意しておきたい。

  • DQNコミュニケーションの特徴2:子供

今回放送分で初めて明らかになった事実として「BDは子供のために現嫁との別居を決断した」というものがある。つまり、現嫁との同居では前嫁や前嫁との間の子供の話題がタブー化したため、子供の成長に悪影響を及ぼすというBDの考えが番組内で説明されたのだが、これはうそではないだろうが、本当にそうなのだろうか。そもそも、それが本当なら最初から説明しろよという気にもなる。というか、BDは現嫁との間にできた子供もいるのに、その子の事は心配しなくていいのだろうか。このように「子供」を錦の御旗とし、子供をダシにつかって一点突破を図るのはDQNの様式美と言っても良い。

  • DQNコミュニケーションの特徴3:疑う

今回の放送で主題となったのは、BDの二女の学校問題である。簡単に言って不登校になりかけているのだが、その解消のため、豊田にいる前嫁のところに遊びに行かせる→その時の写真を入れてた写真立てが破損という展開を辿るのだが、その後、写真立てを割ったのは現嫁ではないかとBDが疑い出すという超展開を見せる。そこまでこだわらなくても新しく入れればよくね?というツッコミも聞こえず、BDは別居先の元嫁の元に突撃したわけだが、こうした些細な理由で人を疑い、疑心暗鬼に陥るのはDQNに非常に特徴的な行動様式である。しかも、それを本人に言ったところで何が変わるとおもっているのだろうか。

  • DQNコミュニケーションの特徴4:ほのめかす

BDのDQNコミュニケーションの真骨頂は番組最後の現嫁とのドライブである。この番組上最大の山場において、BDは現嫁からの執拗な同居要請をのらりくらりとかわしていくのだが、この2人の会話がとても面白かった。何が面白いって、現嫁が「どうしても同居してほしい」と言った時にBDは同居するともしないともなんともいわないあいまいな態度を取り続けていた。こうしたBDのほのめかしメソッドは番組内で頻出しており、これが別居の理由なんじゃないの?と疑いたくなるが、基本的にこうした明確に答えを言わない、ほのめかす態度はDQNに極めて特徴的なものである。

こうしてみてきたBDシリーズ。「3月以降の契約は更新しない」というBDの意向もあるという噂もあり、今後もBDのシリーズが続くかどうかは不透明だ。だが、BDというコンテンツが今後どうなろうと、この世紀のDQN番組が成し遂げてきた事がなかったことになることはないであろう。

撤収に向かうビッグダディ-republic1963

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秋も深まった2012年10月。番組改編期とくれば我々には心待ちにしているコンテンツがある。
食欲の秋、読書の秋、スポーツの秋、とくれば「痛快!ビッグダディ(BD)」の秋である。

何はなくともBDである!
BDとは整骨院を営む林下清志(通称ビッグダディ)一家、夫婦と子5男8女の合計16人(男6人・女9人)のどたばた劇や家族の絆を描いたいわゆる「大家族モノ」である。最初岩手に住んでいたビッグダディ達も奄美大島から愛知県豊田市、香川県小豆島へと移り、その間に妻と離婚→よりを戻して再婚→やっぱり離婚→18歳下の妻と結婚という波乱万丈な人生を送っている。

というわけで続いてきたBDも今回で第17弾。BD17は2週連続放送(都合により私が見たのは後編のみ)18歳年下妻との別居と別居後の生活がメインの話題であった。だが、結論から言うとBD17は前回指摘したBDの弱点が見事に露呈した内容となっていた。
前回の指摘したBDの物語構造と弱点についてもう一度まとめておこう。

・BDシリーズにおいて物語を主に駆動させているのがBD対妻、もしくは元妻との「バトル」である。
・よって、本来、大家族モノで物語を推進させるべき「子供たちの成長」「親対子供」といった要素は極めて弱くなっている
・だが、数々のやらせ疑惑等によって「バトル」を封印したBDは無理矢理「本来の大家族」方面に話を展開させているため、現状、物語を駆動する力が極めて弱くなっている(要するにつまらない)
・しかも、現在BDはテレ朝の屋台骨を担うほどのドル箱コンテンツになっており、3カ月に1度の改編期には必ず放送される結果、ひたすら冗長な子供たちの日常生活しかコンテンツがなくなっており、極めて「薄く」なっている。


こうしたBDの弱点はBD17においても見事なまでに踏襲されていた。なんせ、夫婦が別居したのにその理由が「よくわからない」のだ(未視聴の前編でも明らかにされなかったらしい)。いや、それっておかしいでしょ、と思うだろうが本当にそうなのだ。なぜか夫婦が突然別居してその理由が明示されないまま、ひたすらにBD一家の日常生活のみが2時間半放送されるという謎すぎる展開。意味がわからなさすぎる。そもそも、BDの表アングル(TVで放送される内容)では妻が折れる形で夫婦のケンカは起こっておらず、平穏無事だったはずだ。それがいったいなぜ?という大きな疑問は全く解消されないままだ(そもそも結婚して1年で別居する夫婦ってどうなんだよ、というもっともなツッコミはこの際封印しておいてほしい)。
ここから導き出される答えは一つ。つまり、「妻は別に折れていなかった」という事だ。そもそも、表アングルでもたびたび明らかにされている通り、妻はまごうことなきDQNであり、彼女の言動も非常に汚いものであった。そんな人間が、一度離婚するかしないかで揉めただけであそこまで豹変して「良い妻」になれるなど考えづらい。それよりは、あれはTV向けのポーズであると理解した方が自然だ。つまり、TVカメラの回ってないところでは妻は相変わらずDQNで吠えまくっていて結果別居、という筋書きだ。だが、その割に妻が復縁を求めまくって努力しているのは解せない。
もうひとつの回答は別居自体がブック、つまり制作側の仕込みだったということだ。別居などする必要はないけれど、番組側の筋書き通りにして別居→次回以降の放送で妻の努力により和解、再び同居という筋書きが織り込み済みの別居、という事になる。それって子供の精神衛生上どうなんだよと思うが、そういう筋書きの可能性はある。BDというストーリーラインの推進力を取り戻すにはこうした方法が簡単だということはよくわかる。「別居」なら別に経歴等に傷がつくわけでもないし。しかも、現在番組構成の主導権を握っているといわれる妻の株が一番上がるのは想像に難くないわけだから一石二鳥である。もしかしてこのブック作ったの妻じゃね?と思いたくもなる。

だが、こうしたアングルは2つの点で問題を抱えている。まず1つ目はこんなアングル何度も何度も続けられない、続ければ続けるほど「ああ、いつものだろ」と飽きられることと、もう1つは、ストーリーライン上、理由もなく別居して理由もなく復縁してもストーリーとしてのカタルシスは全くない。つまり、ストーリーとして破たんしているのだ。そして、そんな破たんしたストーリーを何度も放送することができるのだろうか。かといって、日常を映す「だけ」の番組としてBDは大きくなりすぎてしまった。
つまり、BDはもう、コンテンツとしては飽和してしまっており、今後よほどのことがない限り、以後は緩やかな撤退戦を戦うことになるだろう。全てのコンテンツには始まりと終わりがある。だが、BDのそれはあまりにも短かった。こうした見立てが私の妄想として笑い飛ばされる事を切に願う。

republic1963

臨界点を迎えたビッグダディ

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梅雨のうっとおしいこの時期。今日も今日とて『痛快!ビッグダディ(以下、BDと略)』が放送された。
だが、結論から言うと、今回の『BD16』は非常につまらない放送だった。
なぜBD16はつまらなかったのか、今回は改めてBDというコンテンツのありようについて考えたい。

何はなくともBDである!
BDとは整骨院を営む林下清志(通称ビッグダディ)一家、夫婦と子5男8女の合計16人(男6人・女9人)のどたばた劇や家族の絆を描いたいわゆる「大家族モノ」である。最初岩手に住んでいたビッグダディ達も奄美大島から愛知県豊田市、香川県小豆島へと移り、その間に妻と離婚→よりを戻して再婚→やっぱり離婚→18歳下の妻と結婚という波乱万丈な人生を送っている。

BD16がつまらない理由、それは端的に言って、バトルがない単なる大家族モノになってしまっていることだ。
BDというコンテンツの魅力、それは「バトル」である。普通の「大家族モノ」といえば、明るく、家族の強い絆とドタバタ劇、ファミリー層向けのほんわかした番組と相場は決まっており、(半ばお約束的に)反抗する子供たちがいてもそれはお約束的に「家族」に収斂していくものだった。だが、BDは違う。子供たちの成長がメインというよりも、元嫁・ビッチマミィとのバトルや現嫁とのバトルがBDという物語を駆動させていた。BD前半シリーズではビッチマミィのトンデモ発言・行動に怒るBDという、善のBD対悪の元嫁というアングルが作られ、その内容はまさに「BD劇場」と呼ぶしかない、大変素晴らしいものだった。再婚した現嫁にしてもアングル自体は変わらず、現嫁対BDのガチバトルであった。だが、そこで描写されるBDは絶対的な善ではなかった。要するにBDは「こいつもなんかおかしくないか?」という人間として初めて描かれだしたのだ。そしてそれを象徴するのが小豆島移住直後のBDの音速土下座である。
こうしたアングルは必要なアクセント、というよりむしろメインのコンテンツであった。だが、BD15~16にかけて、さまざまな理由があり現嫁はBDとのバトルを封印。変わって押し出されてきたのは子供たちの「苦労」と「成長」であり、今回も2時間半の間子供たちの成長のごり押しであった(余談だが、BDで頻出する単語に「急成長」というものがある。そんなにすぐ人って成長するもんかと強く思う)。こうしたオーソドックスな「大家族モノ」のフォーマットに落としこまれた時、BDは非常につまらない番組になってしまう。それは、ブラウン管ごしに見えるBD家の家族関係が「BD家」というよりも「BD軍」における上官と下士官のような関係なのだ。そして、そうした関係はBD16においても奄美大島に残った3男の態度(BDに電話するときにビビり具合っていったらない)にも見て取れる。こうした軍隊的なありようもあるにはあるだろう。だが、こうした関係のもとで、大人と子供の対立など起きるはずがない。
つまり、「バトル」がなくなったBDは「物語」を推進する力がきわめて弱くなっているのだ。それゆえ視聴者である我々はひたすら冗長なBD軍の軍事教練を見させられる羽目になる。しかも、もうひとつの問題として、それなりにメジャーなコンテンツになったBDはこのところ、3か月に1回、スペシャル番組で放送されている。だが、普通に考えて、たかだか3カ月のインターバルでそんな大きな事件が何度も起こるはずもなく、どんどん番組として薄味なものになっているのだ。野菜の収穫や柔道の練習なんて1回見たら飽きる。ましてや上官に従順な子供たちが外泊や恋愛といった他の「大家族モノ」ではメインのストーリーになりそうな行動を起こすとも考えづらく、なおさらBDの「その先」が見えづらい状況にある。

こうして「物語」としての臨界点を迎えたBD、この先のBDがどうなるのか、その行方をしっているものはいない。だがもしかしたら、臨界点を迎えたBDは新たなるアングルでさらなる高みに登るのかもしれない。その時は、我々も全力でそのアングルを読み解くことにしよう。

republic1963

ビッグダディにみる家族

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前回前々回と2回にわたり、TV番組『痛快!ビッグダディ』(以下、BDと略)について取り上げてきた当ブログ。立派な「BDヲチブログ」の一角を占めてるのかしめてないのかわからんが、今回もBDネタである(※1)。
さて、BDとは整骨院を営む林下清志(通称ビッグダディ)一家、夫婦と子5男8女の合計16人(男6人・女9人)のどたばた劇や家族の絆を描いたいわゆる「大家族モノ」である。最初岩手に住んでいたビッグダディ達も奄美大島から愛知県豊田市、香川県小豆島へと移り、その間に妻と離婚→よりを戻して再婚→やっぱり離婚→18歳下の妻と結婚という波乱万丈な人生を送っている。さて、今回のBD15。BD14(4月放送)から間を置かず放送されたため、内容的には非常に薄味であった。BD14にて離婚の危機(放送内では「離婚を決意」となっていた)→やっぱやめた、という茶番劇が繰り広げられたため、BDの持ち味である「バトル」描写は押さえ目で、イマイチ楽しめなかった。それに代わって全面に押し出されたのが子供たちの成長とBDのサバイバル術といういつもの展開だが、これで2時間もたせるのは正直辛かった。

話は変わるが、先日判決が出た力士工こと木嶋佳苗被告。この死刑判決に上野千鶴子がまた噴き上がっているらしい。
「いつもの」メンツに「いつもの」内容で「いつもの」お仕事の回し合いで、噴き上がり自体に対してみるべきところはないが、上野千鶴子よ、日本の社会を斬るならかなえキッチンよりBDだろ!と言いたい。

そう、我々はあれだけヤラセだなんだと文句をたれながらもなぜBDをみてしまうのだろうか。
我々がBDをみる理由、それは、根本的にはBDは好ましいものだからだ。
「あんなDQN一家のどこが好ましいんだよ?」という声が聞こえてきそうだ。事実、2ちゃんねるまとめブログやyahoo!ニュースやmixiニュースのコメント欄に代表される「BD論壇」ではそうした声が圧倒的だ。
だが、ちょっと待ってほしい。確かにBDはDQNだ。「家族計画」という概念もない。BD家の5男・星音(しおん。なんというDQNネームだ!)に対する態度を見れば、BDの人となりがわかるというものだ。今回の放送で明らかになったが、性格だって悪い。BD嫁に至っては子供にDQNネームをつけるぐらい典型的なDQNだ。しかも、子供への言葉遣いの汚い事。だが、彼らは「いいDQN」なのだ。世の中には「いいDQN」と「悪いDQN」がいる。この「いいDQN、悪いDQN」について、故ナンシー関は次のように実に的確に表現している。

「今も昔も、何故か世の中の人は「不良」が好きである。しかし、世の中が好きな不良はあくまで的場浩司や辰吉丈一郎の系統であり、真木蔵人の系譜は拒否されるのだ。ここには、たとえば「いいヤクザ」とか「1本スジの通った不良」といった概念がある。街角で胸ぐらつかみ合ってる不良はいいけど、いきなりピストル出して射っちゃうのはダメ(当たり前か)。シンナーはいいけどドラッグはダメ。要するに、理解の範疇に収まる「不良」が好きなのだ。そしてそれこそ「銀蠅的なもの」に見事重なるのである。」
(ナンシー関『日本人の五割は「銀蠅的なもの」を必要としている』初出は96年(※2)。)


ナンシーが言う「不良」を「DQN」に置き換えれば、この構図は今に至るまで全く変わっていない。
例えば、ケータイ小説、例えば、亀田兄弟。我々が消費するコンテンツにはあらゆるところで「いいDQN」が登場している。さらにBDの場合、「子だくさん」というのは最強のカードまで持っている。「子だくさん」で「いいDQN」。こう考えれば、BDが否定される理由の方が考えづらいのだ。多少ノリがDQNだろうが、ヤラセだろうが、そんなことは一点突破で、BDは誰もが楽しめる痛快娯楽番組への道をひた走っているように見える。事実、『めちゃ×2イケてるッ!』でパロディをされてしまうあたり、もはやBDは一流番組である(※3)。だが、BDがこれまでの「いいDQN」の先輩たちと違う点、それは我々のようなBDに対する「ツッコミ」が多数存在している事だ。放送終了直後から、今まさにこのブログのごとき「ツッコミ」にさらされるBD。これはインターネットの成立前、ニュースサイトやまとめブログが日々様々なネタを配信し、それをさらにろくにソースを検証することすらなくニュースとして配信するするようなコスト意識に優れたサイトが現れ、そうしたサイト群をwitterやfacebookに引用し気軽にツッコミを入れられるような時代には考えられなかった事だ。
そんな時代に、BDは持ち前のサバイバル精神を発揮する事ができるのだろうか。それは誰にもわからない。

【お知らせ】
5月6日(日)の「文学フリマ」にて「奇刊クリルタイ」のブースを出します。これまでに出した原稿や現在では入手困難なレア原稿を集めた「dorj Vol.3」を頒布いたします。GWの最後に是非お立ち寄りください。
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※1 BD13から14の間でBDが写真週刊誌に登場してヤラセを暴露等の事件があった。私自身はこのようにTVに出演して金をもらう事自体は全く問題ないと考えている(自分達のプライベートを切り売りした対価なんだからもらってない方がおかしい)。ヤラセも同様に不可解に車を2台持ってようが、子供たちがi-phoneを持ってようが、TVに移った事が全てなんだからそれを楽しむべき(というか、そういう「ブック」を想像しながら見れば2重に楽しめるのではないだろうか)、だと考えている。
※2 本文は『ヤンキー文化論序説』(五十嵐太郎 編著)内の「ナンシー関 ヤンキーコラム傑作選」より引用している。
※3 コント番組でパロディにされるか、AVでパロディにされればその番組は一流番組だ。

ビッグダディの楽しみ方

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2012年1月4日。

正月気分も抜けきらないこの日。
民放キー局であるテレビ朝日は大変な暴挙に出た。一番の繁忙期であるはずのこの時期に5時間連続での『痛快!ビッグダディ』(以下、BDと略)放映である。1月2日には過去の放送を振り返る4時間SPを放送しているため、正月だけで合計9時間放送。BD漬けである。これはまるでテレ朝が2010年6月19日、FIFAワールドカップ、日本対オランダ戦が始まる15時間以上前から番組テロップ中にTV中継カウントダウンを始めたかのような決然たる姿であった。今回は、前回と同じく、今回の放送におけるBDの雄姿を補助線としてこの混迷する2010年代の状況に対する処方箋としていきたいと思う。

(注意:以降の記述で「BD13」の内容に関する核心部分が明かされています。)

何はなくともBDである!
BDとは、BDとは整骨院を営む林下清志(通称ビッグダディ)一家、夫婦と子5男8女の合計16人(男6人・女9人)のどたばた劇や家族の絆を描いたいわゆる「大家族モノ」である。最初岩手に住んでいたビッグダディ達も奄美大島から愛知県豊田市、香川県小豆島へと移り、その間に妻と離婚→よりを戻して再婚→やっぱり離婚→18歳下の妻と結婚という波乱万丈な人生を送っていう。前回のエントリでは、BDとは視聴者に高度なリテラシーを要求する番組であり、そうした多様な解釈を許容する懐の広さがBDには存在するという事を明らかにした。今回は、もう少し具体的にBDの楽しみ方を見ていきたいと思う(※1)。

今回のBDといえば、新しく引っ越した小豆島の暮らしぶりの紹介と娘(16番目の子供!)の出産と中学、高校生となった子供たちの進路問題がメインであった。さて、ここまで書いたところでBDの何が面白いのか(リテラシーを要求するのか)よくわからない読者諸賢もいることだろう。いわゆる一般的な「大家族モノ」における見どころは「家族の絆」「かわいらしい子供たち」「子供の成長ぶりと親との葛藤」といったところが普通である。ところがBDの場合、そういった一般的な意味での見どころを全てぶっちぎったところに到達しているのだ。要するにBD一家は「変過ぎる」。一番端的にそれがほのめかされるのは子供たちの呼び名である。林下家の男の子供たちはBDの事を「お父さん」でも「ダディ」でも「おっとう」でもなく「清志さん」と呼ぶ。TV画面越しに見えるその関係は家族ではなく、上司と部下、もっといえば軍隊における上官と下級兵のような関係なのだ。しかもBDの元嫁・林下佳美は血の繋がった実の母親でありながら「あいつ」呼ばわりである。一方で女の子供たちは普通に「おっとう」と呼んでいるのだから不思議である。しかも、成長した娘は長女・愛美を筆頭になぜか成長するに従って林下家から離れていく。長女・愛美はBDの子供たちの中で最も影が薄い存在である(というかほとんど登場しない)。今回の放送でも、長男・新志は小豆島に里帰りしているが、愛美だけは豊田にいるままなのだ。こうしたBD一家の「おかしさ(これは「変」という意味でもあるし「可笑しい」という意味でもある)」は、テレ朝側もけして公言しないが、極めて確信犯的にそうしたストーリーラインを作っているのだ。

そしてBDの最大の面白さ、それは「BD対元嫁」の戦いである。BDの元嫁である佳美。いきなり仕事を辞めて愛知県から奄美大島に引っ越したり、子供たちにロクに食事も作れなかったり(※2)。そもそも母である彼女がするべき家事を全て子供たちがやっているが、その間、彼女はぼーっとしているだけなのだ。彼女の破綻した性格と生活感のなさは驚異的であり、2ちゃんねるなどを中心とした「BD論壇」では「ビッチマミィ」という尊称で呼ばれている。BDが放送される度に彼女の破綻した生活とそれにより生まれるとBD(と子供たち)とのバトル。これは一般的な「家族の絆」などというものを完全に凌駕したBD最大の見どころとなっている。というか、佳美 VS BDというアングルがなければBDがここまでコンテンツとして力をもつことはなかっただろう。

すでに離婚しており、テレ朝内のHPからも存在が抹消されつつある佳美だが、今回は「子供たちの引き抜き工作」という手段で存在感を示した。そもそも自分の子供とはいえ、一度は親権を放棄した子供をもう一度引きとろうなどと考える方がどうかしていると思うが、そこで動揺するのがBDの子供たちなのだ。実は、第11弾までの時点ではBD:善、佳美:悪という勧善懲悪の構図が成り立っており、佳美のダメさ加減とたくましく生きるBDと子供たちに焦点が当たりがちであった。だが、佳美と離婚後の第12,13弾の放送における数々の爆笑ポイントと家事をしない新嫁、そして音速の勢いで生まれる子供の存在によってBDもけして誉められた人間ではない(というか、この一家何か「おかしい」)という事が明らかになってきた。そんな時に佳美による引き抜き工作とそれに動揺する子供たち。これは単純な勧善懲悪の物語ではなくBD家に「何か」があると思ってしまうのだ。
「何か」が具体的に何なのか、それが明らかにされるには恐らく多くの時間がかかるだろう(※3)。だが、「何か」を想像する行為、それ自体が「ビッグダディ」という番組を楽しむ正しい試聴態度であり、そうした想像力こそが2010年代という状況をサバイブするための処方箋なのだ(※4)。

republic1963

※1 ちなみに、一部BD論壇内でBDがTV収録時に金をもらっているのではないか、という疑惑(?)があがっていたが、私自身は収録にあたり金をもらう事自体は何の問題もない、というかむしろ当然であると思う。
※2 今回、BDの料理が「家畜のエサレベル」として話題になったが以前佳美の作った料理は「マズそう」どころの騒ぎではなく、ほとんど食えないんじゃないの?というレベルであった。
※3 それは「青木あざみ」氏のように後に他の媒体で断片的に明らかにされるのか、それとも番組内
で明らかにされるのかはわからない。
※4 このエントリを記載するにあたり、BD本編映像のほかにこちらのサイトのエントリを参考にした。なお、過去のBD放送分は「テレ朝動画」内で有料で試聴できる。

Noise From The Edge Of The Universe』Vol.10 『ONE PEACE』はヤンキーマンガだ

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(「週刊メルマガクリルタイ」Vol.100 (2011/11/16 配信分) の原稿を再掲)

今回は前回に引き続き田舎の「やんちゃな人々」について引き続き考えていきたい。

ここで、「やんちゃな人々」についてもう一度おさらいしておこう。当連載で「やんちゃ」と呼ぶ人々は以下の特徴を有する人々を指す。

・田舎では最大勢力を誇る「田舎の普通の人」である。
・彼らはヤンキー、DQN的なノリをマイルドにインストールしている。だが、彼らは「本当のヤンキー」ではない
・芸能人で言うと品川祐やU-Trun土田
・あらゆる文化を浅く消費する「文化の交差点」である
・地元から出ない
・最も大切なものが「仲間」である

能町みね子の言う「缶ビール男子」に近い存在、それが「やんちゃな人々」だが、彼らが大好きなものがある。それが『ONE PEACE』である。本稿ではこのもはや説明不要のこの国民的マンガ、『ONE PEACE』がなぜ「やんちゃな人々」に人気なのかについて考える事で彼らの価値観について考えてみたいと思う。

内田樹に「現代の聖書」ともなぞらえられた『ONE PEACE』。だが、その物語構造は非常に「ヤンキー的」である。

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ヤンキーマンガの物語構造とは、簡単にいえば「自グループVS他グループ」、「自グループVS秩序」という構造をとる。ここでいう自グループとは、いうまでもなくヤンキーグループにおける自派や自分の学校の事を指す(この自グループは物語の進捗によって範囲が伸縮する)。一方、他グループとは学校内における他派閥や他学校の生徒である。その上で自グループと対立関係になるのが秩序、つまり学校の教師や警察、外敵など。そして、この「自グループVS秩序」の対立は「自グループVS他グループ」の対立に優先する。つまり、学校の教師や警察など「より大きな敵」を前にしてグループ同士の対立を一旦やめてお互い協力する。

こうしたヤンキーマンガの物語構造は『ONE PEACE』においてもそのまま踏襲される。

自グループ:ルフィ海賊団
他グループ:他の海賊団
秩序:海軍本部、世界政府

こうしてみると、『ONE PEACE』の物語構造はほとんどそのままヤンキーマンガにおけるそれに等しい事がよくわかるだろう。舞台設定こそファンタジー世界での冒険活劇だが『ONE PEACE』はまごうことなき「ヤンキーマンガ」なのだ。もう一つ『ONE PACE』のヤンキー的な部分、それは『ONE PEACE』におけるもっとも重要な価値観が「仲間」「友情」である点である。そして、まさにこの点が『ONE PEACE』が「やんちゃな人々」にウケる最大の理由である。

「やんちゃな人々」にとって「仲間」は非常に重要な概念である。だが、彼らにとっての「仲間」は非やんちゃな人々の考えるそれとは大きく違う。非やんちゃな人々にとって、「仲間」とは「友達」に近い概念、つまり、個人同士の繋がりとしてとらえられることが多い。個人同士の繋がりという事は、すなわちその紐帯は「個」の感覚の問題であり、容易に組換え可能という事である。
一方で、「やんちゃな人々」にとってのそれは一種の共同体なのだ。「やんちゃな人々」の謎行動の一つに「「仲間」の行事(草野球やバーベキューなど)に自分の彼女を連れていく」というものがある。これは、仲間を個人同士の繋がりだと思っている人にとってはあり得ないものだ(彼氏にとっても親友でも彼女も気が合うとは限らないのだから)。だが、「草野球チーム=仲間」を一つの共同体だと考えたらどうだろう。共同体に新たに参加するためには、周りの人間から参加するための承認をとらなければならない。その意味で草野球チームに彼女を連れてくるというのは極めて合理的な行動なのだろう。

翻って『ONE PEACE』。この物語において最も重要なのがルフィ海賊団の「仲間」である。ルフィ海賊団の面々は何よりもこの「仲間」を重視し、「仲間」のためには彼らはどんな困難にも立ち向かう。およそ全ての戦いにおけるルフィによる「アツいセリフ」はほとんどが友情についてのものだ。しかも、その「仲間」はまさしく生死を友に乗り越えた仲間達による「共同体」なのだ。『ONE PEACE』において語られる友情物語は「やんちゃな人々」のそれに極めて近い。
だからこそ、『ONE PEACE』は彼らにとって「聖書」たりえるのだ。

(republic1963)

Noise From The Edge Of The Universe」Vol.9品川祐はなぜ「やんちゃ」なのか

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(「週刊メルマガクリルタイ」Vol.93(2011/09/07配信分) の原稿を再掲)

今回は前回も取り上げた「広義のDQN」についてもう少し掘り下げてみたい。
「広義のDQN」とは、文字通り「DQN(≒ヤンキー)ではないがDQN的なライフスタイルを送る人々」の総称であり、地方や郊外の都市に多数存在しており、彼らは地方における「普通の人」の一類型である。本稿では仮に彼らを「やんちゃな人々」と名付けるが、彼らの特徴は以下のとおりである。

・地元が大好き。生活、どころか人生におけるほとんどの時間を地元で過ごす。
・ある程度不良っぽいこともするが、その消費の仕方はあくまでカジュアル的である。
・「ガンダム」や「エヴァンゲリオン」などをカジュアルに消費する。
・愛車は4WD、ミニバン、軽(車高を低く改造)。
・好きなマンガは『ONE PIECE』。
・主な余暇の過ごし方は川べりでのバーベキューやスキー。
・「仲間」が大好き。
・岐阜生まれヒップホップ育ち、レゲエ育ち。

彼らはヤンキーではない。だが、彼らは「DQN的」としか形容しようがない生活を送っている。
そもそも「DQN」の元ネタである『目撃!ドキュン』に登場する人々は、ヤンキー「的」なライフスタイル、価値観を実践している人々であり、純粋な意味でのヤンキーではなかった(参考)。現在の地方都市において、純粋なヤンキーをやっている人間はそれほど多くない。
ヤンキーがダサいという認識は地方でも共有されている。私が子供の頃、公道であれほどかき鳴らされていた「ゴッドファーザー愛のテーマ」を耳にする機会も近年めっきり少なくなった。一方で、彼らはあらゆる文化のハイブリッドの場、いうなれば「文化のサラダボウル」である。つまり、ケンカや改造学生服といったヤンキー的なカルチャーと、オタク的なカルチャー(だとされている)アニメやマンガを同時に消費している人々、それが「やんちゃな人々」なのだ*1。

実は「広義のDQN」は色々なところにいる。例えばフジロックで、例えばコミケで、例えばコスプレ会場で。彼らにリーチする力を持ったコンテンツは強い。というかあらゆるヒットしたコンテンツは大なり小なり彼らにリーチし、彼らから支持を受けているのだ。郊外におけるパチンコ屋やTSUTAYA、マンガ喫茶のもつ彼らのコミュニケーションのための社交場、という側面を見逃してはならないだろう。

「やんちゃな人々」に最も近い存在は、お笑い芸人の品川祐である。品川祐の佇まいとは、まごうことなき「やんちゃな人々」のそれである。一時期、品川祐と南海キャンディーズ・山里亮太との確執が話題となったが、それもこれも一重に品川が「いかにも弱い者いじめしてそうな」DQN的人物だと認識されているためであろう。だが、品川は『ガンダム』や『鋼の錬金術師』、『NARUTO』が好きで度々うんちくを垂れている人物でもある。あらゆる文化をカジュアルに消費し、あらゆるクラスタを横断する存在、それが「やんちゃな人々」なのだ。
一方で、品川祐と島田紳介や和田アキ子といった人々とのスタンスの違いにも着目してみよう。よくも悪くも真正ヤンキーで渡辺二郎との仲を断ち切れなかった(とされている)紳介と品川の違い、それが恐らく「ヤンキー」
と「やんちゃ」の違いなのだ。

品川祐の監督作品『ドロップ』はこうした品川の「やんちゃ」感が極めてストレートに表現された作品である。この作品がなぜヒットしたのかというと、結局、彼の「やんちゃ」感が極めてリアルで、主なユーザーである「やんちゃな人々」の感覚に近いためではないだろうか。

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『ドロップ』の主人公≒品川祐はヤンキーに憧れて私立中学から公立中学に転校するような「ヤンキーワナビー」だ。しかし、その転校先でもヤンキー達は「少数精鋭」という事になっている。つまり『ドロップ』の作品世界においてヤンキーとはマジョリティないし「空想の存在」なのだ。こうした側面は『ドロップ』におけるヤンキーのリアリティ欠如に繋がる。「ウィークエンドシャッフル」(TBSラジオ)においてライムスター宇多丸氏が痛烈に批判したように、『ドロップ』に登場する不良達はなんの痛みも感じない超人だし、どんな悪事を起こしても何の罰も受けない。実際、彼らは劇中でどんな凶器で殴られてもピンピンしているし、どれだけとんでもない乱闘事件を起こしても何の御咎めもない。「やんちゃな人々」はあくまでもヤンキーを薄めた存在であり、本当にケンカして人に深刻なダメージを与えたりするような事はありえないのだ。だからこそヤンキーコンテンツにおいては肝心要であるはずのケンカシーンにリアリティが全くないのだ。

一方、劇中においてはやたらと『機動戦士ガンダム』やマンガネタが頻出している。『ドロップ』においてはヤンキーとオタク(的だとされているもの)がクロスオーバーしている場であり、そうしたアニメが「語っても良いもの」として扱われている事に注目しよう。そこに登場するアニメとはあくまで「語っても良いもの」を語るというスタンスであって、オタク・サブカル的センス競争として消費されているわけではない。彼らにとっては「ガンダムとか面白いよね」という、「面白さの再確認」なのだ。だからこそ彼らはあらゆるコンテンツをクロスオーバーさせつつもそれを「掘る」事をしない。仲間うちのコミュニケーションの一環として面白さを確認するためのツール、それが『ガンダム』であり語っても良いアニメなのだ。

そう、仲間である。「リアリティ欠如」というヤンキー映画としては致命的な欠点をかかえつつも、『ドロップ』がヒットしたのは『ドロップ』で中心に据えられているのは空想世界でのケンカではなく、仲間や先輩との「友情」であるためだろう。
そして彼らがいう「友情」とは我々が通常想定しているものとはかなりかけ離れたものだ。
正直、相当な違和感を覚えるものなのだが、次回、そうした「やんちゃな人々」にとっての友情について考えてみたい。

*1 こうしたアニメコンテンツが元からDQN的な人々によって消費されているものなのか、最近消費されるようになったのかは議論の余地がある。

republic1963

Noise From The Edge Of The Universe Vol.8 「車持ってる人間はモテる」論の地平

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(「週刊メルマガクリルタイ」Vol.86(2011/06/29配信分) の原稿を再掲)

前回でも少し触れたが、ある一定年代以上の人間が良く言うセリフに「車持ってる奴はモテる」というものがある。これは本当なのだろうか。
今回は地方における「車とモテ」について考えてみたいと思う。

結論から先に書く。今の時代、車をもっていてもモテない。

カーディーラーに走りだした童貞の皆さん、残念でした。

ゼロ年代において「モテる」どころか、「車」という趣味は警戒の対象ですらある。女性の友人に話を聞くと、タバコ、ギャンブルに続く「嫌いな趣味」に「車」は堂々ランクインする事も多い。これは車をもつこと自体に疑問を持たれているわけではなく、車にコストをかけすぎる事を警戒されているのだ。

・車検切れごとに車を買い換える(ローンの支払いが一向に終わらない)
・分不相応な車種の選定(派遣社員がレクサス など)
・コストパフォーマンス(燃費)の極端に悪い車種や車の改造
・車内での悪態や乱暴な運転

こうした行動は特に敬遠される。それもそのはずで、年間10万単位の維持費と終わらないローン支払い。趣味としての車はおよそ全ての趣味の中で最もコストがかかる趣味の一つだからだ。バブル期のごとく、自動的に給料が上がっていく時代はすでに過ぎ去った。そんなポストバブル期に「見栄」として車を乗り回す人間はパートナーとしてふさわしくない、どころかリスクでしかない、と女性が考えても不思議ではないだろう。
だが、「車」をもつことが「モテ」るのは、まさに車がステイタス、つまり、見栄だからだ。車の重要な機能の一つが「その人のグレード(社会的階層)を表す」、つまり、○○という車をもつ事自体が一種のステイタスになることだ。単に移動手段として優秀というだけであれば車=モテにはならない。車が「見栄」だからこそ「持っていればモテる」のだ。

ここで「車終了のお知らせ」が出せれば良いのだが、話はそう単純ではない。世の中には「車=リスク」と考える人ばかりではないのだ。それとは正反対に車の持つステイタス表示機能に全乗っかりしている女性だっている。2年ほど前にネットで流行した名作テンプレに「彼氏が軽自動車に乗ってた。別れたい…」というものがある。

ここで「別れたい…」とボヤく女性はそうした全乗っかり女性の代表だといえるだろう。しかも、彼女が「普通乗ってる」と主張するのがエスティマ、ランクル(ランドクルーザー)、エルグランドといったミニバン、4WD系の車種である事に注目しよう。実際彼女が想定している使用シーンが「週末10~20人ぐらいでバーベキューとか」である事からも彼女が属している文化圏が透けて見える。恐らく、そのエスティマだかエルグランドだかのカーステからは浜崎あゆみのユーロミックスやEXILE、ケツメイシあたりがかかっているのではないだろうか。つまり、「別れ
たい…」と言っている彼女は「広義のDQN」なのだ。

地方にいると、まさしく「広義のDQN」としか形容できない人種に出会う事が度々ある。ミニバン(もしくは車高の低い軽自動車)を乗り回し、カーステからはヒップホップやユーロビートが流れ、日頃はショッピングモールやパチンコ屋に出没し、「仲間」と連れだって川べりでバーベキューにいそしむ。そうしたライフスタイルを営む「広義のDQN」とはまさに「田舎の普通の人」の一類型なのだ。そうしたクラスターにいる女性にとって車とはいまだにステイタスシンボルであり続けるだろう。

私はここで「車=リスク」ととらえる人々が立派で「広義のDQN」は情弱だ、という結論を導きたいわけではない。だが、「地方」にはそこに住む人々を分割する活断層が確かに存在し、「車」とはまさにその活断層の一つなのだ。だからこそ車をめぐって我々は価値観の対立を起こし、今日も隣のエルグランドから流れるEXILEにイライラする日々を過ごさねばならないのだ。

(republic1963)

Noise From The Edge Of The Universe Vol.6 「車」と「イナカ」

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(「週刊メルマガクリルタイ」Vol.76(2011/03/09配信分) の原稿を再掲)

各所からやってくる「結婚しろ」プレッシャーにキレ気味の皆さんこんにちは。republic1963です。私が住んでいる岐阜県(東海地方)ではTVで30分に一回は結婚式場のCMをやっており、そのたびに親からの微妙な視線に耐える、という苦行をこなしております。なぜ東海地方の人達はあんなに結婚式が好きなんでしょうか。
さて、私は地獄こと岐阜に住んでいるわけだが、今回から何回かをかけてで車と地方の関わりについて考えていきたいと思う。なぜ、地方を語る上で車が重要なのか、今回はその事について考えてみたいと思う。
「サブカルチャー、学術、ネット等によるマスメディア、評論等の言論空間(以後、「論壇」と総称する)」においてしばしば言われている大いなる勘違いは、「地方にいる人間は全てDQNである」というものだ。地方にいる人間は全員がヤンキー、ギャルでパチンコやってケータイ小説読んで浜崎あゆみやEXILE聞いてオールハッピーという勢いで語られがちな「論壇」における地方像。地方在住者から言わせればいい加減にしろ、と言いたいところではあるが、それは「地方における普通の人」の像が見えづらく、結果としてわかりやすい地方=DQN論が採用されがちだという問題もある(蛇足だが、「論壇」において「ヤンキー」について言及される事はあまりないように思うが「ギャル」についてはやたらと言及されている。この非対称は一体何を意味しているのだろうか?)。

「地方における普通の人」を理解するための補助線の一つが「車」なのではないだろうか。「地方」「田舎」といっしょくたにされがちだが、地方には2種類の人間がいる。前回における「名古屋市岐阜区」と「(狭義の)岐阜市」の区別に近いが、端的には「電車・バス」と「車」のどちらをメインの移動手段に置いているかによって区別できるのではないだろうか。
「電車・バス」型の人々はメインの移動手段は電車である。例えば名古屋市に住んでいる人は結構な確率で車を持っていない。もちろん免許がないというわけではないが、名古屋のような街は車で来る駐車場、道の混み具合その他でめんどくさいだけなのだ。同様に名古屋に通う人々で近隣都市在住の人々も車を持たない。そこでは自明的に、岐阜にとっての名古屋のように通勤先としての都市が存在しており、その都市と自分の家との往復を基本の行動パターンとする。つまり、最低でも1時間に数本レベルで電車が通っている街(最低でもその駅にバス・自転車で通える場所)に住んでいる事が最低限の条件となる。そうした場所は必然的に家賃が高い事が想定されるため、家賃に金をかけられる独身(パラ
サイト)もしくは比較的裕福な人間が実践できるライフスタイルという事になる。また、電車・バスのような公共交通機関によって移動ができるという事で、アルコール前提の深夜に及ぶ活動を可能ということである。つまり、都市・夜型・単身者/富裕層型のライフスタイル、もう少し言うと、東京型のライフスタイルをある程度模倣している人々、それが「電車・バス」型である。本人の気合さえあれば鎌倉や行田から都心に通える関東と違い、そうしたライフスタイルを送れる場所は極めて限定されているため、必然的に地方における「電車・バス」型の人間は少数派になる。

一方で「車」型の人間は「論壇」で言われているDQNに近い人々が対象となる。つまり、車をメインに移動し、自分の家とその周辺にあるショッピングモール(スーパー)、勤め先、TUTAYA・ビレバン等の「地方にもあるカルチャー施設」をめぐる日々を送る、郊外・昼型・家族型のライフスタイルが「車」型である。彼らにとっては「電車を使う」という選択肢がすっぽり抜け落ちているのだ。近くの街はいうまでもなく、名古屋(とか東京)のような車で行くとめんどくさい街に行くときも、京
都や大阪に行くときもいつでも車なのだ(ちなみに、岐阜⇔京都の電車で行った場合、新幹線で1時間強、鈍行でも2時間程度で着く)。
「電車・バス」型にとっての車とは嗜好品であるのに対して「車」型にとっての単なる移動手段ではない。都会における車とは違い、それは生活必需品でもあるし、行動パターンを決定的に区別するものなのだ。例えば、郊外型のショッピングモールには広い駐車場が必要不可欠だが、それに対して駅前のビルなどは非常に車が止めづらい(第一、駐車料金がかかる)。車をメインに利用している人々にとって、そのうちどちらを利用するかは明らかだろう。地方都市において「駅前に活気がない」という人は多い。だが、駅前の飲み屋に行くとして、そこからの帰り道はどうするのだろうか?「家飲み」の最大のメリットは「帰りの心配をしなくてもいい」ことだ。マーケッターがしたり顔で語る消費論を鵜呑みにする前に、こうした単純な事実に目を向けてみてはどうだろうか。
「論壇」における「田舎ってやーねぇ」型の議論がなされる際に問題になるのはほとんどが「車」型の人間を対象にしているが、本当は「地方」には「車」型と「電車・バス」型両方が混在している。そしてその「電車・バス」型の人々こそが「田舎の普通の人」の一つの類型なのではないだろうか。

(republic1963)

Noise From The Edge Of The Universe Vol.6 「地域再生」は必要なのか?

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(「週刊メルマガクリルタイ」Vol.73(2011/01/19配信分) の原稿を再掲)

実家の親・兄弟・親戚・地域社会のウザい発言・雰囲気・価値観にキレ気味の皆さんこんにちは。republic1963です。私の場合、これが毎日なわけでして、そりゃーまぁtwitter上で発狂するわな、という主張を2011年の始まりにおいても高らかに宣言したいところでございます、本年もよろしくお願いいたします。

さて、私は地獄こと岐阜に住んでいるわけだが、今回は地域再生を論じた久繁哲之介『地域再生の罠 なぜ市民と地方は豊かになれないのか?』(ちくま新書)を取り上げ、地元居住者から見た地域再生について語ってみたいと思う。

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『地域再生の罠 なぜ市民と地方は豊かになれないのか?』(以下『地域再生の罠』と略す)における岐阜市は「コンパクトシティを目指すのに路面電車廃止しちゃった」世にも珍妙な「再生例」として登場する。つまり、街の機能を駅周辺に集約(=コンパクトシティ)したのに、その足(=路面電車)を廃止したという物凄くヘンな・・・もとい、未来を見通した施策を打った街、それが我らが岐阜市である。この施策が物語る事、それは「駅前に来る時には車を使え」ということである(岐阜市にはバスがあるものの、ご多分にもれず非常に使い勝手が悪い)。『地域再生の罠』における一番鋭い指摘が「移動手段を車メインにする街は必ず衰退する」というもので、それは住んでいる人間の実感としても全くもって正しい。街への移動手段を車にした途端に、何をするにも駐車場と帰りの手段の問題が浮上してくるのだ。わざわざ足を廃止してまでこうした施策を打つ岐阜市というのは大変素晴らしい自治体ですね、という思いを新たにするわけ(ちなみに、岐阜市における路面電車排除、車優先の施策は今に始まった事ではない。1967年にはすでに岐阜市議会は路面電車廃止決議を可決させている)だが、恐ろしいのは、私は『地域再生の罠』を読むまでこうした岐阜市の実情を知らなかった事だ。岐阜県には、オピニオンリーダーたる岐阜新聞という新聞があるのだが、そこではこうした事実は一切報じられない。岐阜駅周辺の再開発計画に関しても「とりあえずなんかよさそうな事やってる」風なのだ。

「地域再生」という問題設定自体は一種の既得権なのだ。そして「地域」においては自治体からマスコミまで総出でその既得権を守ろうとしている。
「地域再生」を語る時に関係者やマスコミが必ず行うのが商店街を救えという主張だ。だが、商店街は本当に必要なのだろうか。「商店街を救え」という人は商店街に行った事がないか、もしくは嘘つきだろう。商店街にある商店とは、
1:品揃えが悪い、2:店員(オヤジ)が不親切、3:入りづらいオーラに満ち満ちている、
と相場が決まっている。郊外
に同じような店ができて、そして半年ほどで速やかに市場から淘汰されたとしても誰も文句を言わないだろう。なのに同じ店が駅の近くにあるというだけでそれは「再生されなければならないもの」とされる。おかしな話である。何故か「地域再生」というマジックワードがついた瞬間に商店街の店にも良い店と悪い店があるという当然な事すら省みられずとにかく全てが「救わなければならないもの」になるのはおかしな話ではないだろうか。岐阜市の場合、車で行き、有料駐車場を使わなければいけないのにも関わらずである。
地域社会における「地域再生」とは、予算を引っ張ってきたり、自らの施策の正当化、もしくは「とりあえずやってますよ」というアピールのために使われる。つまり、要するに地域なんて再生しなくてもいいのだ。むしろ本当に再生しちゃったら予算を引っ張ってこれなくなるので困るのだ。

さて、最後に岐阜市におけるコンパクトシティ化の結果と帰結について書いておこう。先に述べたように、岐阜市においてはコンパクトシティ(都市機能の駅周辺への集約化)と路面電車の廃止(車以外の足の廃止)が同時に行われた。その結果は岐阜市の2分化ではないだろうか。つまり、「名古屋市岐阜区」と「(狭義の)岐阜市」への分離である。そもそも、岐阜市には名古屋市のベットタウンという側面がある。ご存知の人もいるかもしれないが、JR岐阜駅から名古屋駅までは急行で20分弱、完全に通勤圏内なのだ。岐阜駅から徒歩(ないし自転車)で移動できる圏内はこの「名古屋市岐阜区」にあたる。一方で、それ以外の「(狭義の)岐阜市」においては移動手段が車になる。「名古屋市岐阜区」に住む人は「観光客として」岐阜市に訪れ、ほとんどの買い物は名古屋ですませる。一方で「(狭義の)岐阜市」に住む人は名古屋にすら全く行かず、生活の全てを車でいける範囲の郊外型の店ですませる。岐阜市の施策によって今後、両者は明確に分離してくるのではないか。そして、そうした現状とは全く関係なく未来永劫「地域再生」は岐阜市の最重要施策として推進され続けるに違いない。なんともはや素晴らしい街である。

(republic1963)
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