chikumaonline

ミニコミ『奇刊クリルタイ』の公式ページ。お知らせやメルマガ「週刊メルマガクリルタイ」の過去記事を掲載していきます。

中二病

中二病の誤読誌-republic1963

Clip to Evernote このエントリーをはてなブックマークに追加
中二病が今、アツい。

詳しくはこちらを参考にしてほしいが、Zeebra v.s. 伊集院光のビーフ(牛肉?)が勃発したとのことで、あらゆるメディアで「中二病」花盛りである。だが、正直、これら取り上げるメディアが本当に中二病について理解して話題にしているか?といわれるとはなはだ疑問だ。そもそも、Zeebra対伊集院の批判合戦とか、どっちが悪いとかそういう問題なのだろうか。今回は、この騒動を通して、改めて「中二病とは何なのか?」という事について考えてみたい。

そもそも事の発端は、(恐らく捨てアカウントと思われる)twitterアカウントから中二病呼ばわりされた事に対して、Zeebraが反応した事から始まる。で、中二病という概念を発見したのが伊集院光だということで、伊集院への批判→周りが諌める→本人が登場という流れとなる。

そもそも、中二病とはなんだろうか。その最も基本的な定義とは
中学2年生程度の屁理屈で社会を否定し、結果何の行動も起こさなくなる「病」※1

ようするに「中二ぐらいの時分にありがちな「イタい」行動」ということだが、これだと少しわかりづらいので、具体的な「症例」を3つに分類する。

1:自意識系
社会や大人の価値観に迎合することを拒否する事。 例:「サラリーマンにはなりたくねぇなぁ」、「大人は汚い 」等の発言
2:センス競争系
「他人とは一味違った(が、比較的ありふれている)」センスを自慢する事 例:洋楽を聴き始める、ハリウッドの超大作映画を否定してミニシアター系映画を観る 等
3:邪気眼系
ゲームや漫画の影響で「自分には秘められた力(=邪気眼)をもっている」などと妄想し、かつそれを「リアル」で実践してしまう言動。 例:怪我もしてないのに包帯、自分が考えた珍設定 等

さらに、こうした「中二病の「症状」があり、それが「イタい」」事を前提として作られた「メタ中二病」もあり、話はややこしいのだが、今回はそれは置いておく。基本的に最初期(伊集院が話題にしていたぐらいの頃)の中二病理解とは、これら3つの概念がいっしょくたに「中学校時代ぐらいのあるあるネタ」として「中二病」扱いされていた。そして、Zeebraにコメントしていた人達がいう通り、この時点では、一種の自虐ネタ、つまりネタ投稿者自身が「患者」であった。だが、こうした当初の解釈通り、中二病という言葉が使われる事は現在では少ない。現在では中二病の3つの症例のうちの「邪気眼」の意味として使われる事が圧倒的に多いのだ。例えば、「中二病マンガ」としてよく例として挙げられる『BLEACH』などはより正確を期すなら「邪気眼マンガ」と呼ぶべきはずだ(黒崎一護は別に大人を否定したり、ミニシアター映画を観に行ったりしてない)。だが、「中二病マンガ」と言って普通に通用している。もう一方で、中二病に加わった新しい使い方として、単に「イタい人」「行動が幼い人」を指す罵倒語としても使われている。これは、ネットスラングにおける「厨房」とほぼ同じ用法として使われているのだ。中二病は、「厨二病」と表記される事もあり、両者の関係の近さが伺える。だが、これはいままでの中二病にはなかった新しい意味である。さらに、この「中(厨)二病」の用法において、仕様者とそれが指し示す人(患者)が分離された。つまり、どこかにいる「イタい人」を指して「中(厨)二病」と認定してバカする、という今のネットにおいて一般的な用法が確立したのだ。

翻って、今回の騒動についてもう一度振り返ってみよう。
最初にZeebraに対して向けられた「中二病」という攻撃。これは、恐らく「中(厨)二病」という意味で使われていると思われる※2。簡単に言えば「Zeebraはイタい」ぐらいの意味で使われているのだ。これまで見てきた通り、この「中(厨)二病」の用法は伊集院光の手から離れたところで作られた(合成された?)意味であり、その意味で伊集院光に責任をとれ、というのは一見無理矢理なように思える。
だが、話はこれで終わらない。Zeebraが中二病という概念に対して怒っているのは、単に「イタい人」呼ばわりされたから、というわけではない。再三Zeebraがツイートで表明している通り、中二病という概念に「他人の揚げ足を取ってなんか言った気になる」「なんもしてないのに努力を否定する」、という嫌味というか、冷笑的な部分を感じ取って批判しているのではないか。だとすると、これは単なるZeebraの勘違い乙、上手く和解できてよかったね、という話にはならないのではないか。なぜなら、確かにこうした冷笑的な部分が中二病概念には存在していた、というか、リスナーの末席に座っている人間から言わせると、こうした「毒」の部分が伊集院光のラジオの面白さの根幹だったのではないか。こうなると、どちらが正しいという問題ではなく、各人で「どちらにつくか」を決めるしかない問題になる。だとすると、「和解不可能」として対話を打ち切った伊集院の態度は全く正しかった、という事になる。

ここまで原稿を書いて、ある種の感慨に浸っている。
そもそもクラスのはじっこの方でクラスの人間に対する皮肉を脳内に再生させ続けていた人間が月曜深夜に集まるオアシス、それが伊集院のラジオだったはずだ。それが我々のオアシスとして機能していたのは、あくまでそれが「否定される理屈」だったからではなかったのだろうか。中二病だって、幼稚な理屈で社会を否定していた過去の我々にむけた、今の我々からの投稿ハガキだったはずなのだ。社会から否定され、本音をひた隠しにしながら狭いサブカルの、さらにはじっこにいるのが我々だったはずだ。
でも、今、気がつけば、伊集院的な皮肉と冷笑はインターネットの中に満ち満ちている。それなのに、なぜか全く気分は晴れない。否定されるはずの理屈だけがもてはやされ、本来は正論だったはずの理屈はつまらない理由で揚げ足をとられる。こんな事を我々は望んでいたのだろうか。意味を書き変えられつづける「中二病」の姿は、漂流する我々の姿その者なのかもしれない。

奇刊クリルタイ増刊「dorj」奇刊クリルタイ増刊「dorj」
著者:クリルタイ
販売元:クリルタイ
(2010-09-01)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る


※1 ここでは、比喩的に「病」と称しているだけで、本当に病気なわけではない。
※2 もっとも、発端となったツイートに関しては何をもって批判しているのかさっぱりわからないが

参考:http://bunfree.hatenablog.com/entry/2012/02/21/151559

republic1963

中二病の文化誌(番外編)永遠の中二病のための作品ガイド

Clip to Evernote このエントリーをはてなブックマークに追加
「中二病の文化誌」完結記念として、今回は「中二病」をより理解するための作品、「中二病作品」を紹介していきたいと思う。ここで取り上げられる作品は中身が中二病という以上に、「中二病」というとらえどころのない概念を理解するために適した作品を紹介したいと思う。
なお、『奇刊クリルタイ増刊 dorjVol.1』には中二病作品を100本(!)取り上げた『中二病100本ノック』も収録されているので、是非そちらも参照していただければ幸いである。
また、ここで言う「中二病」とは褒め言葉以外の何物でもないという事は改めて表明させていただく。

■スプリガン(たかしげ宙、皆川亮二 2006年(文庫版) 小学館)

スプリガン (1) (小学館文庫 (みD-1))スプリガン (1) (小学館文庫 (みD-1))
著者:たかしげ 宙
販売元:小学館
(2006-06)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る


「我々の残した遺産を、悪しき者より守れ」
ある遺跡から発掘された金属板に現代を遥かに上回る科学力を持つ超古代文明の人々からと思われる警告が記されていた。そのメッセージに従い、設立されたアーカム財団は、彼らの遺産(オーパーツ)をあらゆる権力から守り、封印、破壊する組織を結成した。アーカム財団のトップエージェント達は遺跡を守る最強の妖精「スプリガン」と呼ばれた御神苗優はその最強のエージェントとして今日も世界を駆けまわる…。スピード感あふれる展開に数々の謎のオーパーツ、交錯する各組織の思惑、後半のシリアスな展開、そしてAMスーツ(アーマード・マッスル・スーツ)!オリハルコンに感応して銃弾をはじき、筋力をパワーアップする最強の武器を駆使した御神苗優のけれんみのないアクションは最高の見せ場の一つである。
あまりにも素晴らしすぎるこの設定。その物語の熱量も含めて邪鬼眼系中二病のお手本のような作品である。だが、より注目するべきなのは、主人公・御神苗優は世界最高のエージェントでありながら高校生としては日々の単位取得を目指し、修学旅行における最高のワンダーランド=女湯を目指すというどうしょうもない高校生なのだ。そして、彼はそのストーリーの最後においてすら普通の高校生として振る舞うのだ。そして、この日常⇔非日常の往復運動こそが極めて中二病的なのだ。

■ファイナルファンタジー7(スクウェア・エニックス)

ファイナルファンタジーVII アドベントチルドレン コンプリート(限定版:PS3版「ファイナルファンタジーXIII」体験版同梱) Blu-ray DiscファイナルファンタジーVII アドベントチルドレン コンプリート(限定版:PS3版「ファイナルファンタジーXIII」体験版同梱) Blu-ray Disc
販売元:スクウェア・エニックス
(2009-04-16)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る


言わずと知れたゲーム史上に残る名作PRGだが、「中二病」という意味でもエポックメイキングな作品。スチームパンク的な世界観と崩壊する世界は邪気眼系中二病ど真ん中の概念である事は言うまでもない。だがそれにもまして我々を熱狂させたのはクラウド、セフィロスという主要キャラの中二病度合いである。そもそもクラウドという人物自体が一種のワナビー的中二病なのだが、寡黙な主人公が大剣しょって世界を救う。これこそが我々が求めていた未来!現に二人はシリーズ屈指の人気キャラとなる。とともに、数多くの「発症患者」を生み出した、90年代の邪気眼系中二病黄金時代を象徴する作品。


■phyren-サイレン-(岩代敏明 2008年~2010年 集英社)

PSYREN-サイレン- another call2 未来は君の手の中に (JUMP j BOOKS)PSYREN-サイレン- another call2 未来は君の手の中に (JUMP j BOOKS)
著者:岩代 俊明
販売元:集英社
(2011-03-04)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る


我々が生きるこの時代は中二病が極めて生きづらい世の中だ。ちょっと中二病的モチーフを出したら即「中二病(笑)」の大合唱。「(笑)」によってあらゆるコンテンツは相対化される。そんな中二病受難の時代における「あえて」の超ド直球中二病マンガ!能力バトル+練られたプロット+極めて明解なキャラ造形という新たなバトルマンガのスタンダードたらんという意気込みが感じられる。ドルキ様やヒリュー等いろんな意味で最高な登場キャラも多数登場。打ち切り気味に終わったマンガ版と合わせて是非小説版も一緒に読んでほしい。唸れ暴王の月!

■山月記 (中島敦 1942年 岩波書店 他)

山月記・李陵 他九篇 (岩波文庫)山月記・李陵 他九篇 (岩波文庫)
著者:中島 敦
販売元:岩波書店
(1994-07-18)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る


唐代、隴西の李徴はかつての郷里の秀才だったが中二病で非モテな性格の彼は役人の身分には満足しなかった。彼は詩人として名を成そうとするが挫折。小役人となって屈辱的な生活を強いられたが、その後、発狂し山へ消え、行方知れずとなった。翌年、彼の旧友は、山中で虎になった李徴と再会する。李徴は虎になってまで、彼は詩人として名を成した自分を妄想していたのだ!そんな自分に李徴は、
「己の珠に非ざることを惧れるが故に、敢て刻苦して磨こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった。」
と自嘲気味に語るのであった。
高校の国語の教科書にも収録されている誰もが知ってる超有名作品だが、全ての非モテ・中二病・ワナビーが一度は読むべき基本文献。「自分に才能がないかもしれないので努力したくないけど、自分が才能ある事をしってるのでどうでもいい仕事はしたくない。」この自意識と中二病!山月記に共感できる人は信頼できる!

■水滸伝(1999年~2005年 北方謙三 集英社)

水滸伝完結BOX (集英社文庫)水滸伝完結BOX (集英社文庫)
著者:北方 謙三
販売元:集英社
(2008-04-23)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る


作中における「替天行道」とは中二病的妄想に他ならない。なんのことはない、「サラリーマンにだけはなりたくねぇなぁ」が「宋の役人にだけはなりたくねぇなぁ」に変わっただけなのだから。それを笑う事は簡単だが、北方水滸伝の元ネタはキューバ革命であり、全共闘世代である北方自身の経験を反映させたものである。つまり、水滸伝の中二病性とはそのまま革命(ないしそれに付随した物語)そのものの「イタさ」を象徴しているのだ。

■AURA-魔龍院光牙最後の戦い- (田中ロミオ 2008年 小学館)

AURA ~魔竜院光牙最後の闘い~ (ガガガ文庫)AURA ~魔竜院光牙最後の闘い~ (ガガガ文庫)
著者:田中 ロミオ
販売元:小学館
(2008-07-19)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る


邪気眼(作品中では「戦士妄想」)なヒロインに冷静にツッコミを入れる元・邪気眼の主人公が面白いライトノベル。主人公はクラス内の序列「スクールカースト」によって邪気眼の「イタさ」を知り、見事高校デビューを図るが、ヒロインはいつまでも中二病のまま・・・よって起こる、「主人公は元ネタを全て「察知」できるが、それを知っているとは言えない」という掛け合いは面白いが、「「邪気眼」はイタい」という前提条件が共有されて初めて100%楽しめるという意味で極めて「メタ中二病」的な色彩の濃い作品である。
「スクールカースト」系作品群は最近の学校モノの小説の中にも度々登場し、その救いがない冷徹さは度々描かれている。だが、本作で提示されるそれへのカウンターについて読者はどう思うだろうか。是非一度読んでみて考えてほしい。

■腑抜けども、悲しみの愛を見せろ(本谷有希子 2005年 講談社)

腑抜けども、悲しみの愛を見せろ [DVD]腑抜けども、悲しみの愛を見せろ [DVD]
出演:佐藤江梨子
販売元:アミューズソフトエンタテインメント
(2008-02-22)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る


両親の訃報を受け、音信不通だった和合澄伽は東京から田舎に戻る。家には、母の連れ子だった兄・宍道と結婚相談所の紹介で嫁いできた兄嫁・待子、内向的な妹・清深がいた。田舎で女優然として振る舞う澄伽。4年前の澄伽の上京をめぐるいざこざのおかげで微妙な空気感の流れる姉妹。ある日、澄伽は新進の映画監督が次回作の主演女優を探していることを知り手紙を書く。それに思いがけずに返事が来て…。
とにかく、澄伽がとんでもなくイタい。全く才能がない上に自尊心だけは超一流という、素晴らしい中二病ぶり。電話もないド田舎で、崩壊する自分のセカイを必死に守ろうとする姿は笑いとともに胸を抉られる。映画版では佐藤江梨子が主演し「いろんな意味で」勘違いぶりが2重に楽しめるところもまたよし。単なるメタ中二病コメディとしてではなく「才能のある人間とない人間の相克」というテーマでも楽しめる作品。

■魔方陣グルグル(衛藤ヒロユキ 1992~2003年 スクウェア・エニックス)

魔法陣グルグル グルグルBOX(2) [DVD]魔法陣グルグル グルグルBOX(2) [DVD]
出演:瀧本富士子
販売元:バンダイビジュアル
(2001-02-25)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る


恐らく最初期の「メタ中二病」作品。「グルグル」のギャグはドラクエ風のRPG的世界をプレイヤー視点で徹底的にパロディ化しつくしている事がポイントだが、これこそがメタ中二病の原点ではないだろうか。作中に登場する「クサい要素(ベタ)に反応する」妖精ギップルはメタ中二病性の象徴だ。そして最もRPG的にストーリーに絡んでくるキタキタおやじは「いい歳こいて冒険に憧れちゃってる」一種の中二病だが、タダの街のオヤジだったりする。

■ゴーマニズム宣言 脱正義論(小林よしのり 1996年 幻冬舎)

新ゴーマニズム宣言スペシャル脱正義論新ゴーマニズム宣言スペシャル脱正義論
著者:小林 よしのり
販売元:幻冬舎
(1996-08)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る


「薬害エイズ運動」の盛り上がりと運動が達成した最高潮の高揚感、そしてその挫折が描かれた傑作。「読んでると学校で一味違ったキャラに見られる」という意味で最高のセンス競争系中二病マンガでありながら、「運動」の超克という意味では中二病克服への処方箋も描かれた。また、「脱正義論」当時、「ゴー宣」を入口に良しにつけ悪しきにつけ、社会や思想というものに関心を持つようになったきっかけになったという意味でもこの本が果たした役割は大きい。思春期に一度は読んでみてほしい一冊。

■RPGツクールシリーズ(エンターブレイン)

RPGツクール VXRPGツクール VX
販売元:エンターブレイン
(2007-12-27)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る


あらゆるワナビーが自分だけの超大作RPGを作ろうとし、結果、あまたの屍を生み出した罪深い作品。筆者はある送別会で「ワナビーといえばやっぱこれですよね!」と言われ手渡された経験を持つ。誰もかれもがFFやドラクエを超える作品を作ろうとするも見事に押し入れで埃をかぶる結果に。この作品の絶望が深いのは、ちゃんとやれば本当にすごい作品が作れるという事だ。RPGツクールのコンテスト入賞作品をみるにつけ、いかに自分の才能がないのか思い知る結果になり、結果としてパッケージをみるだけで深い絶望に包まれること請け合いである。

奇刊クリルタイ増刊「dorj」奇刊クリルタイ増刊「dorj」
著者:クリルタイ
販売元:クリルタイ
(2010-09-01)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

中二病の文化誌(最終回) 中二病と「成長」

Clip to Evernote このエントリーをはてなブックマークに追加
(「週刊メルマガクリルタイ」Vol.42(2010/05/19 配信分) の原稿を再掲)

「中二病の文化誌」、この連載の最後に「中二病」と「成長」について考えてみたい。
まず、この連載で再三取り上げてきたことを再確認したい。それは、

「中学二年生ぐらいの時期に中二病であることは何の問題もない」

ということだ。

賢明なる読者諸賢とともにこれまで確認してきた通り、「中二病」という概念は極めて一般化した概念であり、ありとあらゆるコンテンツにおいてそのモチーフを見ることができる。むしろ、人間の成長にとって「中二病」は必須なのだ。
一方で、「中二病」の存在が許されているのは、その後の人生における「成長」が前提になっているためだ。

「いつか、成長して大人になって中二病を脱する」

からこそ、中二病は「あるあるネタ」「おもしろネタ」として活躍できるのだ。
『AURA 魔王院龍牙最後の戦い』に代表される、「メタ中二病」の作品群は「中二病という病があり、中学校時代それを発症していた自分はイタかった」という前提がなければ、100%面白さを味わえない作品だった。そして、『深夜の馬鹿力』において中二病は「中二だったころの昔を振り返るあるあるネタ」だった。つまり、「中二病」はその誕生の瞬間から「大人からのまなざし」とともに歩んできたのだ。
確かにいつまでたっても成長せず中二病のままいることは「イタい」。中学二年の時期にセフィロスに憧れることは当然だ。だが、二十歳を過ぎても、三十路を過ぎてもセフィロスに憧れつづけ、異世界の冒険者たらんと欲する人間はまごうことなく「イタい」。「中二病」という言葉が罵倒語として機能するとき、それには「いい年こいて」という接頭語が付加されているのだ。

と、ここまでは誰もが考える。

だからこそ、様々なお偉い方々が一斉に「成長しろ」「成熟しろ」の大合唱をするわけだ。今や中二病は「イタさの代名詞」としてネットにおける罵倒語として広く流通している。

だけど、「成長」って本当にそんなに必要かつ素晴らしいものなのだろうか。
そういうことを言う人に限って、「成長」についてよくよく聞いてみると「結婚すること」とか「会社にちゃんと勤めること」とかサラリーマンみたいな事をいう。こちとら「サラリーマンにだけはなりたくねぇ」から中二病やってるのに。

この日本という国は史上まれにみる「大人にならなくてもよい社会」である。
明治以前の日本では12~16歳になれば元服して、「大人」になった。織田信長は15歳で元服、20歳で家督を継いでいる。桶狭間の戦いは彼が27歳=現在でいえば入社5年目の事であった。戦国時代では入社5年目の若造が日本史上のターニングポイントとなるような戦を一方の指揮官として戦う事が普通の社会だったのだ。明治以降であっても、高等教育を受けている人間を除けば、10代で仕事をしているのは極めて普通の光景であった。今日のように大人になる儀式として成人式が行われ、「20歳で大人」という事が決まったのは終戦後である(現在の形での「成人の日」が定められたのは1948年であった)。
つまり、日本においては20歳どころか、10代そこそこで仕事をする(=自分で金を稼ぐ=大人)のはずっと一般的だったのだ。だが、今では「大人になる時期」は少なくとも大学卒業(最短で22歳)までは延長されている。それどころか20歳どころか30になっても40になっても何ら大人らしい責任をとらない=子供のままでいる人はいる。
これはだれが決めたというものではなく、皆の総意としてそうなっているのであろう。というか、「若者である」時期を引き延ばし、「いつまでも子供のままいられる社会」とは、戦後社会の一つの成果だったはずだ。「いつまでも子供でいられる社会」とは、見方を変えれば「とりあえず食うに困らない社会」なのだから。

「若者が早く成熟する(=大人として振る舞う)」社会は「良い社会」とそのままイコールで繋がるわけでは必ずしもないのだ。さらに、成熟する、ということは、われわれの親世代のいつもの言説、すなわち「いいとしこいて○○やってるなんて」という発言に繋がる。そこでは、「○歳過ぎたらゴルフ」「○歳過ぎたらクラシック」というような、「年齢に応じた分相応の趣味・ライフスタイル」があり、それを消費する事を当然とする価値観を肯定することになるのだ。
そうした価値観からすると本来の「成長・成熟」の意味からすれば、マンガ・アニメ・ゲームといった本来子供向けとされているコンテンツを消費していることそれ自体が、「恥ずかしい」のではないだろうか。つまり、「仮面ライダーを現代思想と絡めて解釈してるからOK」とか「『PSYREN -サイレン-』が楽しみすぎて毎週ジャンプ買ってるからNG」とかそういう問題ではなく、大人(22歳以上)なのにマンガやアニメをみてることそれ自体が「未成熟」ということになる。

PSYREN-サイレン- another call2 未来は君の手の中に (JUMP j BOOKS)PSYREN-サイレン- another call2 未来は君の手の中に (JUMP j BOOKS)
著者:岩代 俊明
販売元:集英社
(2011-03-04)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る


「いつまでも『PSYREN』読んでるなんて(笑)」という人には、「それはお前のガンダムのプラモを捨ててから言ってくれ」と是非言いたいところである。今やアニメやマンガ、ゲームを全くやらない人間なんてどこにいるのだろうか。そう考えると、今の「大人」達で厳密な意味で「成熟」している人はかなりの少数派になるのではないだろうか。だからこそ軽々しく「成熟」を称賛する事はできないのではないだろうか。

「10代そこそこで社会に出て、仕事をする社会」と「いつまでも子供のままいられる社会」、どちらが良いのか簡単に答えが出せるものではない。
我々はありとあらゆる「子供向け」コンテンツ、すなわち、あらゆるゲーム・マンガ・アニメをいつまでも消費し続けていられる稀有な時代に生まれた。我々はその事に多少なりとも感謝するべきなのではないのだろうか。
2000年代も10年が過ぎ、「それどころでなくなる」社会がやってきつつある。我々が否応なく大人になることを求められる社会は我々がどれだけそれを拒否しようともいつかやってくるのだろう。中二病の時代が失われた時、我々はどんな思いで今の時代を振り返るのだろうか。

その時にはきっと、我々の前に大剣を背負った剣士が世界を救うべく現れるだろう。願わくば、その時が来たることを。

※この連載を加筆・修正したものを『奇刊クリルタイ増刊 「dorj」』に「特別寄稿:中二病の文化誌」としてまとめて収録してあります。是非こちらも合わせてお読みください。

奇刊クリルタイ増刊「dorj」奇刊クリルタイ増刊「dorj」
著者:クリルタイ
販売元:クリルタイ
(2010-09-01)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る


(republic1963)

中二病の文化誌(8)「自意識」探しがとまらない

Clip to Evernote このエントリーをはてなブックマークに追加
(「週刊メルマガクリルタイ」Vol.41(2010/05/10 配信分) の原稿を再掲)

「中二病」作品のもうひとつの潮流が「自意識系中二病」である。「自意識系中二病」とは、簡単に言えば、「サラリーマンにはなりたくねぇなぁ」という発言だったり、ある種の大人的な価値観に迎合ことを拒否する中二時代特有の自意識のことを指す。
自意識系中二病のもっともわかりやすい例の一つが尾崎豊である。尾崎豊は一環して大人への反抗をし続け、結果「盗んだバイクで走りだし」たりする。

つまり、

大人はわかってない→反抗→盗みなど無軌道な行動

という構図。

このパターンでいけば、飯島愛『プラトニックセックス』なども一種の自意識系中二病だといえる。
ここまで書いて、カンの良い方ならわかると思うが、つまり、「自意識系中二病」とはヤンキーコンテンツの一種なのだ。そして、このパターンは物語の構造として極めてポピュラーなものである。大人の権威を否定すること自体は、青春時代にありがちなことの一種であることは改めていうまでもない。
つまり、ありとあらゆる「青春」を描いたコンテンツとは、中二病的であるとすらいえるのだ。

一方でもうひとつの「自意識系中二病」とは、『ソラニン』や『ゴーストワールド』が典型例である。そこでは、

ソラニン メモリアル・エディション 初回限定生産2枚組 [DVD]ソラニン メモリアル・エディション 初回限定生産2枚組 [DVD]
出演:宮崎あおい
販売元:TCエンタテインメント
(2010-09-03)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る



「大人(もしくは大人に極めて近い状態)であるのにもかかわらず大人になることを拒否すること」

が主題になる事が多い。

前段の尾崎豊型の自意識系中二病があくまでも、若者の大人への反抗という形をとりがちである一方で、ソラニン型は、どちらかというと大人の大人への反抗という形をとる。
つまり、「成長」を拒否しているという意味では、尾崎豊型よりもソラニン型の方がより「イタい」のだ。

実は尾崎豊型の中二病は、実は大変に「大人」からのウケが良い。多くの人が経験している通り、中学校・高校において、いわゆる不良・ヤンキー的な人間は必ずしも教師達の評価が悪いわけではない。というか、普通の生徒よりもいい場合すらある。
彼らが教師達に反抗しているのは、ひとえにこの中二病的性質によるものなのだが、そうした反抗は大人達にとっては「織り込み済み」の反抗なのではないだろうか。この意味において「3年B組金八先生」は一種の中二病ドラマである、とすらいえるだろう。
尾崎豊型自意識系中二病(長くてすいません)においては、その後の人生における「成長」が前提となっている。つまり、大人になることが前提であるからこそ、今・ここにおいては多少の「やんちゃ」として大人に反抗することが許されるのだ。

一方でソラニン型の自意識が尾崎豊型に比べてより「イタい」のは、つまり、成長を前提としていないことに尽きる。
成長を前提としていない、ということは「いつ中二病を脱するかわからない」ということだ。
いつまでも中二病のままでいて、「成長するかどうか」を思い悩んでしまう。
だからこそ、キモいのだ。

では、「成長」とはなんだろうか。次回、この連載の最後において、「中二病」と「成長」について考えたい。

(republic1963)

中二病の文化誌(7)「終わらない「センス競争」

Clip to Evernote このエントリーをはてなブックマークに追加
(「週刊メルマガクリルタイ」Vol.38(2010/04/21 配信分) の原稿を再掲)

「邪気眼」と並ぶ中二病の症状が「センス競争」である。
「センス競争」とは、「他人とは違うセンスの良い俺」をアピールすることによって差別化しようとする事をさす。

例えば、
EXILEやL'Arc~en~Cielを聞いている人に対して、「俺はそんな低俗なの聞かないぞ」と言ってRADWINPSや相対性理論を聞いていたり。
『ワンピース』や『NARTO』をバカにして『GANTZ』あたりを読んだり。
ハリウッドの超大作映画を否定してミニシアター映画を見に行ったり。

といった行動を他人にアピールする事、「他人とは違うセンス(ただし、客観的にはありふれたセンス)」をもって他人とは違うキャラづくりを行う事である。
だが、ここで、簡単に「センス競争ってイタいよね」とは言えない。
なぜなら、サブカルチャー(ここでは、クラシック以外の音楽、マンガ、アニメ以外の「ハイ・カルチャー」以外の文化全般を指す)とは、基本的には「他人との違うセンスでキャラづくりをしたい」という欲望をもった人々によって成り立っているからだ。誰もが、その「サブカル道」の入り口において、こうしたセンス競争的な欲望を元にサブカル道を突き進んだはずである。っていうか、それがなかったとは言わせない。

誰もが、隣でケータイ小説に熱狂している体育会系たちにいつか鉄槌を下すことを夢見ながら、分厚い外国文学全集やSFを読むことになる(もっとも、我々が夢見た「その日」はついに来ることはないのだが)。つまり、「センス競争のイタさ」を語るとき、その言葉はそのまま我々(っていっちゃうよ、もう)にブーメランのように跳ね返ってくる。
その意味で、センス競争のイタさとは、私自身のイタさなのだ。

一方で「センス競争」の始末が悪いのは、センス競争とは無限ループなのだ。
つまり、
「「「エグザイルに熱狂する人たちをバカにする中二病」を「みっともないなぁ」とバカにする高二病」を「どうでもいいことに熱狂してバカみたい」とバカにする大二病」(以下略)
と、いった具合に「センス競争」は無限にループし続ける。基本的にセンス競争における勝利を目指せば目指すほどあらゆるコンテンツを消費できなくなるのだ。
だから「センス競争」を気にしすぎるのはイタいのだ。

もう一つ、「センス競争」がイタいのは、なにより、「そのコンテンツを本当に好き/理解している」わけではない、という事だ。
つまり、「他人との差別化」だけを目的としてそのコンテンツを消費することが、「センス競争」が極めてイタい最大の理由である。ろくに読みもしない分厚い人文書を本棚に「置くだけ」で悦に入る「サブカル」はかなりイタいのだ(けど極めてありがちな光景ではある)。

ただし、これらの「センス競争」のイタさは「中二に良くありがちな事」として担保されている。
もちろん、「センス競争」の結果手に入れたコンテンツを後日、本当に好きになったり、ちゃんと理解できるのであればそれはそれで良い。
つまり、長年成長せずいつまでも「センス競争」をする事がもっともイタいんであって、「センス競争」自体は大して気にするものではない、というか、気にしすぎて「センス競争」ありきでコンテンツを消費する方がよほど「イタい」。

では、我々にとっての「成長」とはなんだろうか。

(republic1963)

中二病の文化誌その6 「『メタ中二病』の時代」

Clip to Evernote このエントリーをはてなブックマークに追加
(「週刊メルマガクリルタイ」Vol.36(2010/04/07 配信分) の原稿を再掲)

前回の連載で「中二病マンガ」は「中二愛読マンガ」と「メタ中二病」に分かれると書いた。今回は「メタ中二病」にスポットをあて、その構造を解読していきたい。
「中二愛読」が「ベタ」「ガチ」であるのに対して「メタ中二病」のそれは「メタ」。つまり、「メタ中二病」とは、「中二愛読的な世界観が『イタい』事を前提としてあえてそれを取り上げる」作品群の事を指す。

例えば、田中ロミオ『AURA‐邪王院龍牙最後の事件‐』。『AURA』の主人公は元中二病(作中では「戦士妄想」)患者。色々あって、主人公自体は中二病を克服し、高校で「デビュー」を飾る事に成功する。でも、彼の「勝ち組」としての日々は長続きしない。教科書を取りに帰った学校に「異世界の魔女」がいたその日から。

AURA ~魔竜院光牙最後の闘い~ (ガガガ文庫)AURA ~魔竜院光牙最後の闘い~ (ガガガ文庫)
著者:田中 ロミオ
販売元:小学館
(2008-07-19)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る


『AURA』の物語としての面白さの大部分は「『中二病(邪気眼)という病があり、それがイタい』という前提」のもとでストーリーが語られている、という点に負っている。つまり、『中二病』という「病」に対しての理解が作者と読者の間に共有されていなければ必ずしも面白くはないという点で『AURA』は中二病をメタ視点的に取り扱っている。
もうひとつの「メタ中二病」作品が本谷由希子『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』(2005年 講談社)である。

腑抜けども、悲しみの愛を見せろ [DVD]腑抜けども、悲しみの愛を見せろ [DVD]
出演:佐藤江梨子
販売元:アミューズソフトエンタテインメント
(2008-02-22)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る


『腑抜けども~』の何が面白いのか。それは主人公の澄香のがイタいからだが、彼女の「イタさ」とは、「女優に客観的(才能的にも環境的も)になれそうもない」のに本人は女優になる気マンマンで、ど田舎でも女優として振る舞ってしうまう『イタさ』」で、ある。
つまりこちらも、『中二的病な自意識がイタい』事を前提としたブラックユーモアなのだ。

「メタ中二病」作品の物語の構造を「中二愛読」作品との対比で見てみよう。

・「非バトルマンガ」である事が多い
・主人公は普通の中学・高校生である事が多い。そして、物語中で何も起こらない。
・「何らかの形で「秘められた力」がある」 という設定もしくは、それにあこがれる自意識が問われる事が多い。
・多くは日常のつまらなさや、「非日常にいけないこと」が物語のモチーフとなる。
・「非日常(≒中二病)に憧れることは『イタい』」という前提をもとに書かれている。

では、こうした「メタ中二病」が生まれた原因はなんだろうか。恐らく、中二病直撃世代が作り手側に周るようになった事に尽きるだろう。
中二病直撃世代とは、中二病=邪気眼を誘発するようなコンテンツ群を思春期のまさに「中二」時代に受け取った人々を指す。
思えば、90年代中盤から後半にかけての時代は「中二病=邪気眼」の黄金時代であった。
セフィロス・クラウドのキャラ(大剣含む)がその後の中二病=邪気眼にあまりにも大きな影響を与えた『FF7』が97年発売(『AURA』の主人公はセフィロスのコスプレをしていたのだった)。同じく『ベルセルク』もアニメ化されたのが 97年、私自身も大好きな『スプリガン』が90~96年にかけて連載(大友克弘制作総指揮による映画化は97年)、そして90年代は2D格闘ゲームの黄金時代でもある。SNK『キング・オブ・ファイターズ』が始まったのが94年である。そして、90年代の自意識語りコンテンツの総本山たる『エヴァンゲリオン』が95年から放送開始。これらはその物語構造・キャラ造形の面で大変「邪気眼」を誘発させやすいコンテンツ群であった。
さらに、伊集院光によって中二病が「発見」されたのは1999年であり、それまでそうしたコンテンツを「ベタ」に受け取る事が「イタい」という事は広く概念として一般化していなかった。
これらの理由により、中二病黄金時代を経た作り手たちが2000年代に入り続々とメタ中二病コンテンツを作り始めた。
これが「中二病」という病の隠された歴史の一端ではないだろうか。

(republic1963)

中二病の文化誌その5 或る中二病マンガの群青

Clip to Evernote このエントリーをはてなブックマークに追加
(「週刊メルマガクリルタイ」Vol.30(2010/02/22 配信分) の原稿を再掲)

「中二病マンガ」、このフレーズを聞いた瞬間にあなたは何を思い浮かべるだろうか?巷に溢れる、「○○(作品名)って中二病だよね」と言ってその作品を「批評した」気になっている人々。だが、そうやってバカにされ続ける「中二病マンガ」とは一体なんだろうか?真面目に考えた人はあまりいない。今回は、マンガにおける中二病とは何かを考える事で、「中二病マンガ」へのいわれのない批判に対する、ささやかな弁護を試みたい。
俗に「中二病マンガ」と総称されるマンガには2種類ある。一つは「中二愛読マンガ」で、もう一つは「メタ中二病マンガ」である。
「中二愛読マンガ」とは何か。これは文字通り「中学二年生ぐらいが読みそうな」もしくは、「ドラゴンボールやワンピースを卒業した人が軟着陸しそうな」マンガ群であり、「スプリガン」「PHYREN」などが代表格である。これらの作品には、

・いわゆる「バトルマンガ」である事が多い
・主人公は普通の中学・高校生であるが、何らかの形で「秘められた力」がある
・「スプリガン」におけるオーパーツや「PHYREN」におけるPHY能力のようにSF・オカルト・「社会の真実はこれだ!」的な要素が盛り込まれる事が多い
・多くは日常と非日常との行き来が物語のモチーフとなる。また、ここでの「日常」とは多くの場合、現実世界における「中学・高校での生活」である。

と、いった共通した特徴が挙げられる。
同じバトルマンガでも「ドラゴンボール」や「ワンピース」(これを仮に「王道マンガ」とする)と「スプリガン」や「PHYREN」のような「中二愛読マンガ」とは、物語を駆動させる日常と非日常の取扱いにおいて大きな違いがある。 「スプリガン」の例を見てみよう。

EMOTION the Best スプリガン [DVD]
EMOTION the Best スプリガン [DVD]
クチコミを見る


主人公である御神苗優は世界最強のエージェントである「スプリガン」の一員でもあるが、それ以前に普通の高校生でもある。「スプリガン」の作中世界においては、「スプリガンとしての仕事」=アラトト山でノアの箱舟を見つけたり、失われた「聖櫃(アーク)」を求めて闘うのと、「高校生・御神苗優としての日常」=修学旅行に出かけたり、出席日数が足りなくて苦悩したりする事が並列に進行している。
「中二愛読マンガ」におけるストーリーは現実(具体的には中学・高校の学園風景)に極めて近いところにある「日常」と現実離れした「非日常」との行き来によって物語が駆動する。御神苗優の高校生としての生活の描写は、読者に作品世界が地続きの世界での出来事だと認識させるという意味において、作品のリアルさを担保している。一方で、スプリガンとしての御神苗優は中学二年生の願望(それは恐らく日常からの飛躍である)を投影している。
つまり、両者は相互補完的な存在であり、中二愛読マンガにおいては「日常」なくして「非日常」は存在し得ない。だからこそ、御神苗優は最終的に再び日常に帰還し、普通に高校を卒業し、大学生になる(世界最強の男なのに!)。一方、王道マンガにおいては日常と非日常とは同じ世界において進行する。「ワンピース」での日常描写(ゴーイングメリー号での酒盛りなど)はあくまでも「ワンピース」の作品世界内での出来事であり、当たり前だが、彼らの住む世界と我々の世界とは隔絶されている。そこには現実に近いという意味での「リアルさ」は存在しないのだ。つまり、「中二愛読マンガ」とは「中学二年生なりのリアルと願望」を追求した作品群であるといえる。いわゆる邪気眼は中二愛読マンガやゲームに過剰な思い入れを持った結果、「願望」が現実に存在するかのように、振る舞ってしまう、つまり、「中二愛読マンガ」における「願望」をベタに受け取ってしまったイタさがある。我々は古代遺跡を守るエージェントではないし、秘められたPHY能力があるわけでもない。それが「ある」かのように振る舞えば、それは「イタい」だが、それを全くやっていない、「もし俺が聖闘士だったら」「スプリガンだったら」と夢想したことのない人間などいるのだろうか。だからこそ、そのイタさに我々は昔の自分の姿を見て赤面しながら批判するのだ。

だが、ここまで読んで多くの人はこう思うだろう。「これって何が問題なの?」と。その感想は全く正しい。そう、「中二愛読マンガ」とは物語における一類型にすぎず、「中二愛読マンガ」と「王道マンガ」、両者にはストーリー展開の基本原理こそ違うが、両者には優劣は存在しない。邪気眼にしろ、懐かしさと共に、ある種のイタさを醸し出しこそすれ、作品を中二病呼ばわりしたところで、それは何も言っていないに等しい。ただ一点、「いい年こいて恥ずかしい」という以外は。この「恥ずかしさ」については連載の最後に再び触れる事とする。

(republic1963)

「中二病の文化誌」第4回【邪気眼と中二病】

Clip to Evernote このエントリーをはてなブックマークに追加
(「週刊メルマガクリルタイ」Vol.24 (2009/12/30 配信分) の原稿を再掲)

「中二病の文化誌」、今回は伊集院光氏のtwitter上の発言から始めたいと思う。


もう僕の作った時の意味と違うから言葉自体に興味無いです。RT @kiku_yarou @HikaruIjuin 伊集院さん、「中二病コミック」という本をご覧になった事がありますか?・・・いや言葉の発案者としてどう思ってるのかなあ…と前々から気になっていたので…。

http://twitter.com/HikaruIjuin/status/6345171658


「中二病」の考案者の発言としては衝撃的な発言である。だが、「中二病」という病を注意深く観察してきた人間にとってみればある程度想定内の発言ともいえる。この伊集院光の発言から窺い知れる事は、伊集院光が当初想定していた「中二病」と、現在一般に流通している「中二病」とは大きく文脈が違っているということだ。この点に関してはこれまでの当連載でも「中二病」という言葉の多義性については触れてきた。

つまり、「中二病」には…、

1:「中学二年生ぐらいの男子がとりがちな行動」
2:「『他人とは違う趣味・嗜好を持っている』ということで無意味なキャラ作りをする人に対しての蔑称」

…という、二つの意味があるという事だ。今回は、改めて「中二病」の文脈を主題としてその変遷を追っていきたい。

まずは、「伊集院光・深夜の馬鹿力」内での「中二病」についてみてみよう。

・「ジャンプなんてもう卒業じゃん?」って言ってヤングジャンプに軟着陸する。1999.1.11 放送 (「深夜の馬鹿力」第170回放送分より。以下同じ)
・少年マガジン『BOYS BE…』地獄。1999.1.25 放送 (第172回)
・赤川次郎あたりを読んで自分は読書家だと思い込む。1999.3.1 放送 (第177回)

これらの「深夜の馬鹿力」内での投稿は、基本的に「過去から振り返ってみた中二ぐらいの時期に取りがちなイタい言動を笑う自虐トーク」である事がわかる。つまり、「ジャンプなんて卒業じゃん?」などとうそぶく事「だけ」が「イタい」わけではなく、そう言いながらヤングジャンプに軟着陸しているところが「イタい(もっと言えば面白い)」のだ。仮にこれを「旧中二病」とする。
一方で、現在ネットなどを中心に語られる「中二病」は「旧中二病」とはいささか趣が異なる。こうした中二病解釈を仮に「新中二病」とする。この「新中二病」の使われ方は「中二病まとめサイト」における「中二病エピソード」に顕著に表れている。

引用は長くなるので、当該サイト内を熟知してほしいのだが、ここで言われている「中二病エピソード」とは「『他人とは違う趣味・嗜好を持っている』ということで無意味なキャラ作りをする人に対しての蔑称」の事を指している。中でもエピソード「邪気眼」に典型的な「架空のイタい設定によって無意味なキャラづくりをする人」の事は「中二病」とは別に「邪気眼」と呼ばれている。確かに、「旧中二病」においても、

・母親に「どこ行くの?」と聞かれて、「外。」1999.3.1 放送 (第177回)
・サラリーマンの事を『歯車』、ポリスマンの事を『権力の犬』、学校を『ダメ人間工場』などと呼び出すようになる。1999.1.25 放送 (第172回)

などのように、無意味なキャラ作りをする中二病患者は症例として報告されていた。だが、現在では本来は「中二病」中の一症例にすぎなかった「邪気眼」がいつの間にか中二病の主な症例とされているのだ。つまり、新旧「中二病」をわけるものは「邪気眼の有無」ということになる。推測だが、「中二病」や「邪気眼」はかなり混同されて使われている。「中二病まとめサイト」で「邪気眼」のエピソードが取り上げられているのもそうだし、「BLEACH」や「PSYREN -サイレン-」といったマンガが「邪気眼マンガ」ではなく「中二病マンガ」と呼ばれているのもその証拠といえる。こうした用法における「中二病」とは「邪気眼」とほぼ同じ意味だ。では、ここで言及されている邪気眼とは一体何だろ
うか。

(republic1963)

中二病の文化誌(3)【インターネットというハガキ職人】

Clip to Evernote このエントリーをはてなブックマークに追加
(「週刊メルマガクリルタイ」Vol.15(2009/10/20 配信分) の原稿を再掲)

今回は押尾学の話の続きである。
確かに押尾学は「面白い」。だが、その「面白さ」はインターネット特有の「キャラ」だ。
言うならば、押尾学とは一種のCGMなのだ。
CGM(コンシューマー・ジェネレイテッド・メディア)とは、口コミサイトやウィキペディアのように、主にインターネットを活用する事で消費者が内容を生成していくメディアを指す。ここで言う、押尾学がCGMだというのは、つまり、押尾学という「キャラ」は消費者によって作成された「キャラ」だという意味だ。

これに一番イメージが近く、かつ分かりやすいのはラジオ番組におけるネタハガキである。

一例として、「伊集院光・深夜の馬鹿力」内のコーナー「平成珍かるた※1」でのネタを上げる。

『く』:クマンバチの巣をそこらへんの石で叩き落す大森玲子とやっちゃいないのに矢印の形のクマンバチの大群に追われている堀越のり。それをのんきに写メールする酒井彩名。

もちろん実際に大森玲子(現:相原玲)がクマンバチの巣を叩き落としているわけではない(仮にそうだとしても全く面白くはない)。このネタが最高に笑えるのは、大森玲子・堀越のり・酒井彩名という3者3様の「キャラ」がなんとなく自分たちが持っているイメージに近い事に尽きる。つまり、「妄想上の大森玲子※2」を如何にして動かすかという一点にこのネタの面白さは左右される。
インターネット上における押尾学というキャラも同じように情報の消費者(この場合は2ちゃんねるなどのスレッドの参加者)によって作られた「キャラ」なのだ。

だが、CGMとしての押尾学という「中二病キャラ」を求めるインターネットとはなんだろうか。「中二病」の起源である「伊集院光・深夜の馬鹿力」における「中二病」とは、「中二病患者の中二病患者による」概念だった。そもそも、パーソナリティである伊集院光自身が(自称)中二病患者なのだから。要するに、押尾学がリスペクト(笑)する宇梶剛士は中二病なんて病気を「知りもしない」のだ。当初は小学生の喧嘩における「バカっていった奴がバカ」ならぬ「中二病っていってる奴が中二病」という構図が成立した。
つまり、CGMとしての押尾学は「中二病患者の中二病患者による『ぼくわたしの考えた中二病』」が投影される場だったと言える。もちろん、そこで松岡修造ではなく、押尾学が選ばれたのは押尾学自身のカリスマ性のなせる技としか言いようがないが。

インターネットとは一種の「お約束」の世界だ。「お約束」とは、お笑い用語で「そのフィールドにおける参加者・視聴者側が共通して理解している前提」である。「志村うしろー」や、「ダチョウ倶楽部の熱湯コマーシャル」の例を出すまでもなく、「お約束」はお笑いにおいてなくてはならないものだ。これがインターネットにもほぼ同じ原則が当てはまる。スイーツ(笑)は情弱でなければならないし、押尾学はビックマウスで「イタい」発言をし続けなければならないし、喪男の人生は悲惨でなければならない。あるスレッドや掲示板に参加するものはその「お約束」を守らなければならず、そこから外れた発言というのは、ノイズとして排除されることになる。


※1 平成カルタ…カルタの要領で「あ~ん」までの読み札をリスナーから募集するというもの。童貞カルタ、家族カルタ、動物カルタ、堀越のりカルタが作られた。今回ピックアップしたのは「堀越のりカルタ」2003年3月10日放送分のネタ。
※2 先程から筆者が大森玲子という単語を連発しているのは、大森玲子という単語が「(押尾学的な意味で)面白い」からだ。

(republic1963)

中二病の文化誌(2)

Clip to Evernote このエントリーをはてなブックマークに追加
(「週刊メルマガクリルタイ」Vol.11 (2009/06/11 配信分) の原稿を修正の上再掲)

賢明なる読者諸賢におかれては、押尾学が薬物で逮捕された事はすでにご存じだと思う。
押尾学の事件はその前後の酒井法子等の事案とも相まって、芸能界に大変な衝撃を与えたことは記憶に新しい。

だが、今回の「中二病の文化誌」では薬物問題云々からはいったん離れて、あえて逮捕前の押尾学について触れたいと思う。一般のワイドショー的世間での評価と異なり、インターネットを中心とした文化圏で押尾学は「面白い」とされている(もろん、それはギャグセンスがあるという意味ではなく、「行動・発言がイタい」という意味での「面白さ」だが)。

では、押尾学の一体何が「面白い」のだろうか。まず最初に、押尾学が語ったとされる、所謂「押尾語録」を見てみよう。

http://www.geocities.co.jp/MusicStar/5178/oshio.html

「『何故俺はロックなのか?』それは俺がロックだったからさ」
「俺はカート・コバーンの生まれかわりだ(※ニルヴァーナのボーカルであるカート・コバーンが死亡したのは1994年4月であり、1978年5月生まれの押尾学が15歳の時のことである。筆者註)」
「汚い政治家みたいになりたくない」
「俺、昔、東大受かったんですよ。でも日本の大学なんてウゼーと思って・・・」
「200人でレストラン借り切って食事会したことあります」
「ファッキン、ライト」
「日本のロックは聞くに耐えない。モー娘の方がまだ聞ける」
「ブラーはカスの音楽。ゴリラズを聞くやつは人生終わり」
「宇梶さん、エンペラーっすよね~。おれはK連合の総長だったんすよ~。後輩は渋谷・新宿・世田谷なんかに5~600人はいますね~。今でも街歩いてると見知らぬ不良から挨拶されますよ~。」
「虎舞竜なら13章かかるところも、俺なら2小節だから」
「CD2000枚持ってます」
「最近VINES聴いてます」
「ヒーロー不在のこんな時代だから、俺への負担も自然とデカクなる」

確かに、面白すぎる。

ここで押尾学に与えられている役割は「ビッグマウス」「ヤンキー」といったキャラ付けである。しかも、ここで言う「ヤンキー」というのは純粋な意味でのヤンキー、つまり、暴走族や横浜銀蠅、尾崎豊といった単語から連想される狭義のヤンキーである。

だが、こういった「狭義のヤンキー」はインターネットでは特に「カッコ悪い」「イタい」ものだとされているものだ。恐らく、こうしたイタさが発生しているのは「狭義のヤンキー」の世界観が陳腐化しているからだと思われる。尾崎豊から夜回り先生まで連と続くヤンキー文化圏は「汚い大人⇔純粋な子供(僕ら)」という世界観によって成立している。要するに、暴走行為や薬物乱用も「汚い大人たち」に対抗するためにやっている事なのだ
(だから正当化される)。

だが、そうしたヤンキーの世界観は特にインターネットにおいては否定される傾向にある。「大人や社会への反抗として」「盗んだバイクで走り」出したとしても、「いや、それ窃盗だし」と言われてしまう。それがインターネットという場の特性である。こうして、「陳腐化したヤンキー」は「イタい」として中二病的に消費される。

だが、彼が面白いのはビッグマウスであったりヤンキーであったりする以上に中二病的キャラ付けをされていることだ。

押尾学の発言の中にある、

「汚い政治家みたいになりたくない」
「日本のロックは聞くに耐えない。モー娘の方がまだ聞ける」
「ブラーはカスの音楽。ゴリラズを聞くやつは人生終わり」
「CD2000枚持ってます」
「最近VINES聴いてます」

といった発言の数々はヤンキーというよりも、中二病に特有の発言である。
特にCDの所有枚数や聴いている洋楽のアーティスト(BulrやGorillaz、VINESなど)を誇るあたり、「お塩大先生は本当にいい中二病ですね」と言いたくなる。

もちろん、これらの発言が本当かどうか疑わしい部分もあるし、それを検討することは本稿の目的ではない。
問題はこれらの発言が本当かどうかということよりも、「こういうことを発言しそうな人間」として押尾学が認識されている点だ。

つまり、

「陳腐化したヤンキー≒中二病としての面白さ」+「中二病(前回の中二病の定義でいうところの定義2「『他人とは違う趣味・嗜好を持っている』ということで無意味なキャラ作りをする人に対しての蔑称」)としての面白さ」

という2つの要素が共存している事、それが他の「ヤンキーキャラ」と違い、押尾学をことさら「面白い」人間にしているのだ。

押尾学の面白さについてはわかった。だが、押尾学を笑う「インターネット」とは一体なんだろうか。

(republic1963)
記事検索
メールフォーム
facebookページ
twitter
週刊メルマガクリルタイ
メルマガ購読・解除
livedoor プロフィール
奇刊クリルタイ既刊本
奇刊クリルタイ課題図書
お買い得商品










Amazonリンク
マイクロアドBTパートナーでおこづかいゲット!
Links
20120513185125 comic
  • ライブドアブログ