chikumaonline

ミニコミ『奇刊クリルタイ』の公式ページ。お知らせやメルマガ「週刊メルマガクリルタイ」の過去記事を掲載していきます。

モテでもわかる非モテ教室(後)

Clip to Evernote このエントリーをはてなブックマークに追加
(「週刊メルマガクリルタイ」Vol.17(2010/11/10 配信分) の原稿を再掲)


すでに述べたように、非モテの一側面として、自らの欲望を満たすことがかなわないという問題がありうる。ひるがえって言えば、不満が無いのであれば、問題は何も無いのではないかとも思われる。ならばそもそも、ここで焦点になっているのは、満足か不満か、という対立軸には回収されないものなのではないか。つまずきは、渇きから充足への道程にあるのではなく、それ以前のどこかに、欲望に至るより手前にあるのではないか。何が不満なのか、と問われるとき、まさにその問いを問われる主体が、欲望したりしなかったりするとみなされる主体そのものが、危機に瀕しているのでは。

そのような症状の極端な行き詰まりを、ひきこもりという事象に見ることができる。斎藤環は『社会的ひきこもり 終わらない思春期』の中で、現代の教育システムが「去勢」それ自体を阻害していること、そのことがひきこもりと深く関わっていると指摘している。斎藤の見立てを解釈すれば、次のようになる。人間は成長の途上で、ある種のあきらめを受け入れ万能感を失い「去勢」されることによって、社会に参加し「正常に」欲望することができるようになる。「去勢」は社会や家族から強制的になされるものであって、本人がみずから望んでそれを被ることはできない。オトナになるには挫折が必要なのだ。しかるに、現代の学校システムにおいては、「誰もが無限の可能性を秘めている」などと喧伝され、自分の「やりたいこと」をやること、本当の願望を実現することが奨励される。万能であることをあきらめつつある子どもにとって、これは危険な誘惑である。私見によれば、精神分析学の教える「去勢」とは、不可能性を禁止で置き換え覆い隠すことによって欲望の対象を無限遠へと隔離し、それへと至る欲望の主語として主体を形成する操作である。「どうしてぼくは××できないんだろう?」という疑問の円満な解決が与えられる。「ぼくが××できないのは、父さんがそれを禁止しているからだ。父さんさえ死ねば××できる」。(よく知られているように、父はすでに死んでいるのだが、ともかく)現代の学校教育、あるいは社会が子どもに与える誘惑は、この欺瞞的な置き換えを破綻に追いやってしまう。「いや、きっときみならできる、何にでもなれる」という囁きが、成熟しつつあるはずの主体を隘路へと追い込む。挙げ句、欲望を、自由を享受しそこねた人間の一部は、ひきこもりという症状に陥る。「一切の社会的束縛を免れているという点からみて、きわめて自由な立場とみることもできる」ひきこもり。斎藤はこう述べる。「『自由であること』それ自体が葛藤の原因となるような時代を、『思春期の時代』とかりに呼びうるなら、『社会的ひきこもり』とはまさに、そのような時代を象徴するような病理ではないでしょうか」。非モテは、こうした問題意識に接続されるべきではないのか。

私たちが「やりたいこと」「本当の欲望」へとせき立てられるのは、思春期の学校教育においてのみではない。フリーターやニートというようなタームによって主題化される「若者の労働に関する意識」の問題も、同一の地平にある。速水健朗は『自分探しが止まらない』で、日本の経済的社会的構造の変化と「自分探し」にはまる若者のメンタリティについて論じている。80年代以前には「より上級の学校からより上級の会社へ」というライフコースが一般に存在し、企業はまっさらな新卒を採用することを望んでいたが、90年代になると社会構造が変化し、就職活動では個性的で「やりたいこと」を明確に持った人物像が要求されるようになる。しかし、「やりたいこと」ができる「やりがいのある仕事」が世の中にあふれているわけでもなく、「やりがいたいことをやるべし」と教え込まれてきた若者たちはさまようしかない。このような若者と仕事との関係は、非モテと性愛との関係と相同的である。性愛に対してシニカルな態度をとっているかのようで、その実、非モテの心性にはしばしば、純愛への固執が見てとれる、あるいは純愛への固執を強いるような言説が存在する。恋愛は明らかに、その要素を交換することが可能な形式なのだが、ある種の言説は、「恋に恋する」ことを不純であると否定し、あたかも内面からわき上がってくるかのような神秘的な「恋愛感情」が誰にでも生じうるものだと主張する。

「『モテたい』なんておかしい。誰か好きな人がいて、その人と付き合いたい、というのなら分かるけれど。だって、『誰とでもいいから付き合いたい』なんて人と付き合う人がいる?」。

これはまったく、就職活動にいそしむ学生に向けられるアドバイスそのものではないか。

「『就職したい』なんておかしい。何かやりたい仕事があって、その仕事がしたい、というのなら分かるけれど。だって、『どこでもいいから働きたい』なんて人を採用する企業がある?」。

欠けているのは、真の欲望である。
それは作為的なものであってはならず、あくまでも自然とわき上がってこなければならない。あの人が好きだ、あの仕事がやりたい、というひらめき。だから非モテは、白紙のエントリーシートを前に頭をかきむしる学生のごとく嘆息するのだ、ココロのどこかに「本当の欲望」があるのだろうか、と。なんとか内定を勝ち取り就職できたとしても明るい未来も見えないままに長時間の残業が続くとすれば、人はどのような心理状態にいたるだろうか。鈴木謙介は『カーニヴァル化する社会』の中で、現代の若者は「(比喩的な意味での)不断の『躁鬱状態』に置かれている」と論じる。つまり、かなわない遠い目標へ向けての「ハイテンションな自己啓発」状態と、どうせ自分には夢も希望も無い、という無気力な状態という両極端へと振れる心理。やる気をかきあつめ、自己イメージを書き換え、「本当の自分」を仮構して労働(あるいは他の何か)に没頭するか、沼の底でひっそりと暮らすか。加えて、鈴木は「対人関係のデータベース化」そして人格が複数の「キャラ」へと分裂していることを指摘している。場面や相手に応じて「自分」を演じ分ける統合性に乏しい個人が、「躁鬱状態」の振幅の中で醸成される。根から切り離された再帰的な自己は、瞬発的な盛り上がり、「これが本当の私だ」という高揚と、何もやる気がしないという脱力感の間をさまよう。ウェブの片隅では、「非モテ」キャラをまとったブロガーを観察することができるだろう。

以上、ひきこもりや労働問題と非モテとの関連を議論してきたわけだが、非モテは、それが性愛に直接関わっている問題である点で、後期近代における個人にとって興味深い論点を提示しうるということを付言しておこう。すなわち、恋愛対象への欲望の基礎に「好きになっちゃった」という受動性があるとして、その受動性自体を欲望することは、何を帰結するだろうか。




(草)

モテでもわかる非モテ教室(前)

Clip to Evernote このエントリーをはてなブックマークに追加
(「週刊メルマガクリルタイ」Vol.16(2010/10/26 配信分) の原稿を再掲)

非モテ、という言葉には、明らかにふざけた響きがある。性愛的対象として人気がある、という意味の俗語に、否定の接頭辞を付けて、ひもて。実際、この語はインターネットの歴史において、自虐的なギャグとして使われてきたらしいし、今でも使われている。たとえば「クリスマス中止のお知らせ」というような。しかし私が今から述べようとしているのは、別に笑える話ではない。ただ、このふざけた言葉に固執することで、私たちの「気分」と、社会や現代との関わりについて、考えてみたい。

非モテを真面目に取り扱われるべき問題であると主張する人々がいる。何が問題だというのか。もちろんまっさきに思いつくのは、モテないこと、恋人がいないこと、だろう。とすれば、解決方法は、恋人ができること、である。これへの対策としては、恋人を作る方法を伝授すればよい。そして、恋人ができれば、問題は解決したと言える。ここまでは、わりと単純である。満たされない欲望があり、それが満たされれば、解決、と。ここでは非モテと経済的事象とのアナロジーが有効だ。すなわち、自由恋愛市場において、富める者(ルックスにおいて、経験値において…)は望みの恋愛(対象)を手にすることができるが、一方には競争で蹴落とされた貧者が産まれる。あるいは、資産(コミュニケーションスキル、交友関係…)を持つ者はそれを元手にさらなる財産を得ることもできるが、貧乏人はいつまでたっても泥濘から抜け出せない。

もう少しだけ込み入った話をしよう。恋人がいないこと、ではなく、恋人がいないことによって不利益を受けることが問題である、とする立場がある。これはつまり、「いい歳して童貞/処女の奴は異常だとするような価値観を押し付けないでくれ」とか、「わたしは恋愛以外に優先的にリソースを割り当てたい事がたくさんありますので」とか、「多様な生き方を認めるべき」とか、「ほっといてくれ」とか「勝手に生きさせてくれ」とかいう話である。これはごく普通にリベラルな主張、個人の自由を尊重すべし、という近代的理念にのっとったものであって、それなりに説得的である。よく知られているように非モテを自称する者の多くは男性であり、この点で非モテは(フェミニズムの対応物としての)男性学的なものである。つまり、男性の立場から、「性」にまつわる生きづらさに対して、異議を申し立てること。ここで非モテは、性的少数者として現れている。先程述べたような経済的弱者に類比される意味での非モテであれば、「そこから抜け出すこと」「非モテ(貧困)を減らすこと」が目指されるだろうが、性的少数者としての非モテであれば、「ありのままに非モテたること」「非モテであることで差別されないこと」が望まれるはずだ。

こんなふうに抽象的に言うと、なんだか非モテがフェミニズムと親和的であるかのようだが、バックラッシュと呼ばれるような現象もありつつ、事情はいろいろとややこしい。ネットにおいて、非モテ女性は見えにくい、と言われる。これはすなわち、恋愛におけて弱者であることを自虐的にネタにするコミュニケーションの場に女性が参加することを阻む要因が存在するということであり、一つの性差別構造の現れなのだけれど、しかるに私たちは個別の場面において被害をこうむった者の性別をもって、「これは男性差別」「あれは女性差別」などと論じてしまいがちであり、結果として非モテ男性とフェミニズムはあたかも敵対しているかのように見えてくるのだ。「男がブラックな職場でこき使われる一方で、女はちょっとかわいい顔してれば金持ちと結婚して専業主婦で一生安泰」という現実(があるとして)や「ホームレスには圧倒的に男性が多い」という事実は、男性差別の事例ではなくあくまでも女性差別の一形態として考察されるべきだと私は考えるが、ネットでのカジュアルな議論では「どちらが真に被害者か」という戦いにもつれ込んでいきがちである。

ところで、こんなふうに非モテについてアレコレ語っているのを目にすると、疑問が湧いてきませんか。「結局、本当はモたいんじゃないの?」「いろいろ理屈こねて恋人いない暦=年齢の自分を正当化してるみたいだけど、要するに恋人が欲しいんでしょう?」――こんなツッコミからだいたい次のような論議が発生したりする。「もう一生恋人とかできないです」「せっかく親身になって考えてあげてるんだから、アドバイスを素直に聞けばいいのに」「モテたいなんて言ってない」「恋愛への欲望を不自然に押さえ込んでるから、いつか暴発して犯罪に走るのでは」「脳内恋人でいいです大人しくしてます」「ネットでグチってないでリアルで努力すればいいのに」等々。さて、ここで重要なのは、これらの疑問の答えを探すことではない。彼らは本当はモテたいのか、そうでもないのか、という問いに答えることではない。どうやったら彼らにネットでのくだらない議論をやめさせ、社会的で生産的な人間関係へと向かわせることができるか、考えることではない。(それはそれで重要なのかもしれないけど)。そうではなく、言説の分析がなされるべきである。非モテとは何なのか、という問いから、非モテを巡る語らいは何を示すのか、という高次の問いへ移行しなければならない。

ボクらは非モテ非モテと騒いでキャッキャしている。この言葉の何が私たちを惹き付けるのか。そこには私たちの現在を、とても深いところから規定している何かが隠されているのではないか。たとえば、自分探し、ニート、ひきこもり、といった事象と類縁にあるような何かが。

(草)
記事検索
メールフォーム
facebookページ
twitter
週刊メルマガクリルタイ
メルマガ購読・解除
livedoor プロフィール
奇刊クリルタイ既刊本
奇刊クリルタイ課題図書
お買い得商品










Amazonリンク
マイクロアドBTパートナーでおこづかいゲット!
Links
20120513185125 comic
  • ライブドアブログ