さて、一日経って、エヴァのパチンコでボコボコに負けながら、昨日観たあの映画について何となくまとめてみた。どうして「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」はあんなアレにアレしてしまったのだろう?例によって観てない人、観る予定の人は以下読まないで下さい。
 まず、だいたいにして今作の大失敗は、テレビ版を壊そう、反転させようというところばかりに注力してしまったことに問題があった。しかも、なぜかおおまかなプロットも、細かいワンシーンも、非常に中途半端なかたちでテレビ版をそのまま利用してしまっている。そしてそれがことごとく陳腐でうすっぺらな描写になってしまい、すべて失敗に終わってしまった。こんなことならテレビ版なんか全く無視しておけば、まだマシだったかもしれない。

 ちょっと思い出してみよう。(カッコ内は、旧作テレビ版シーン→改悪された劇場版シーン、の順。)

・風呂で温泉ペンギンを見つけ大事なところがビール缶などで隠されるシーン(シンジ→アスカへ)
 こんなのはまあいい。しかし最初に観た時はただの狂言回しで少し笑えた。でも全部観た後で思い出すとむしろ不快感しか無い。失敗のはじまり。

・アスカとレイがエレベーターでの対峙(長い長い沈黙→陳腐なラブコメディみたいな惨状へ)

 これはひどかった。特にレイの「ぽかぽかする」アスカ「それって好きってことじゃん」のくだりは笑止もの。小学生のラブコメディ(死語)レベル。だいたい同じロケーションでテレビ版思い出さずに観るのは無理なうえに、せっかくのテレビ版の放送事故かと思うぐらいの名シーンをここまで愚弄しなくても良いだろう。せめて違うロケーションで、違う台詞回しでやってくれれば、ここまで陳腐にも感じなかったかもしれない。それか、陳腐なくだりでも、陳腐に感じさせない努力があれば、名シーンにもなったかもしれないのに。

・ハイライトの参号機使徒浸食事件(トウジ片足失う→アスカ死亡へ)

 アスカはフィギュアやコスプレなどいわゆるオタク層にも人気がある登場人物なので、そういったモノとの決別の意味も込めて、殺したのだと最初は思った。ついでにあのベッタベタのくっさい対位法又は異化効果の音楽「今日の日はさようなら」をくっつけて。しかし全体見終わって思うことは、ただ単にテレビ版を「破」壊したかっただけで、登場人物をまるで将棋の駒組で金将と銀将の位置を入れ替えるように、ただ配置転換しただけの話だった。で、結局テレビ版の名シーンの表層をなぞっただけの、つまらないカバーバージョンの音楽みたいな結果になってしまったのだった。これは他のいろんなプロットすべてに言えることだが。

・その事件の悲惨さのための弁当のエピソード(ヒカリ→レイ主催の食事会)

 何もこのために、レイやゲンドウにあんな恥ずかしい台詞を言わせて、手紙まで書かせて、レイとアスカの指にマンガみたいな(マンガだが)バンソウコウ貼る必然性があっただろうか?お誕生日会の当日に来られないおはなし、まるでジャニーズの子どもが子ども向けに作ったドラマみたいな陳腐さは、どうしたものか。

・初号機がゼルエルとの戦いで覚醒(ユイの覚醒とシンジの使命感→シンジがレイへの恋情?で助けようとする)

 これがこの映画のラストのハイライト、になるはずだったのだが。ここでまさかちょっと昔の恥ずかしいJポップかくっさいドラマみたいなおはなしを聞かされるとは思ってもみなかった。「あやなみを、かえせ〜」は無いだろう。ミサトの「誰のためでもなく、自分のために戦いなさい」っていう台詞自体や、シンジとレイを融合させて初号機が覚醒、っていうプロット自体はいいんだが、それがこんな「あやなみを、かえせ〜」に結実しなくても良かったのではないか。同じ台詞にしても、もうちょっと普通の知的水準の成人が観ても恥ずかしくないようなレベルの描写とストーリーで言わせれば、こんなに恥ずかしくなかっただろうに。前作の予告編で冬月とゲンドウがシンジとレイを接近させろ、と言っていたあたりでヤバさは漂っていたけどさ。そして何よりもこの音楽「翼を下さい」はいったいどうしたものか。「今日の日はさようなら」1回ならまだ意表をついただけ(それでもくっさい使い古しの対位法だけど)良かったかもしれないが、これは何の意図があってこの曲なのか?本気でシンジがレイへの愛?だので目覚めちゃって翼を下さいなのか?それともまさか、シンジの成長を本気でストレートでこの曲で表現した、そんなわけはないと思うが。もしそうだとしたら大の大人がやることではない。

 まだまだこの映画に感じた残念さ、無念さは、各地各所で見られたのだが、まあ言いたいことは結局同じなので、こんなところだろう。しかし何故こうなってしまったのか?

 思うに、

・前作「序」のラストの予告編が評判だったので、意表をつこう、テレビ版を壊そうというところに注力してしまった。

・注力の方向を誤って、壊すということよりも反転させて意表をつくことばっかりやってしまった。結果、こころというよりアタマや机上で考えたような、必然性の無い配置転換をやって、「ビックリしましたか?」って客に訊いてるような同人誌的な映画もどきしか出来なかった。

・そもそも全体的なプロットを鶴巻氏に任せてしまった。結果、出来た絵は、まるで庵野氏の描いた絵の贋作みたいな、質の悪いカバーバージョンだった。

というのが原因と結果だろう。他にも、よくわからないがこれまた壊すためだけにくっつけたような「マリ」という登場人物、やたらなサービスカット的エロアングルなど、アレっと思うところはあった。UCCやローソンやパナソニックのタイアップがクドいとか。でもまあそんなことは別にいい。そういうメタフィクション的なところもエヴァンゲリオンは先駆者だったのだから。

 だけど、それにしても、という残念な出来の映画でした。残念と言うより悔しいとでも言いたいくらい。でも別にたかが一つのアニメ映画、ほっておけばいいのに、こんなにその悔しい思いを書き連ねたくなるほど、自分と切り離して語れない「新世紀エヴァンゲリオン」って一体何なんだろうね。こんなに必死になってわしは何がどうしたいんだろう?ぼくって何?ぼくがここにいていい理由って?
26アイ19
おめでとう!おめでとう!結局わしもいまだにアタマの中があのいかれた20世紀末のエヴァンゲリオンから何にも変わってないってことかもね。それぐらい、このエヴァンゲリオンは凄かったのだ。それがこんな程度のお子ちゃまドラマになってしまうなんて、まるで愛する愛娘をどうしようもないダサイ男にしかもできちゃった婚で渡さなきゃいけない親の心境だわさ。あーあ。そういって次回作「Q」もたぶん見るんだろうな。おしまい。