2019年09月17日

学知の限界

私が大学に入った頃は学生運動、特に全共闘の運動が盛んな時で、大学の授業もままならない状態が続いていた。昭和43年頃である。その時出会った本が『危機における人間と学問 -理論とヴェーバー像の変貌』(折原 浩東大名誉教授著)である。
この本の内容は、彼の文章を引用すると、次のようになる:
「小生は、ヴェーバー著作の読解をとおして学知として修得するとともに、自分の現場実践 -1960年「安保闘争」や1962~63年「大管法闘争」を前史とする、1968年以降の「東大紛争、-闘争-」に持ち込み、応用して、現場問題の実践的解決に活かそうとつとめました」
つまり、マックス・ヴェーバー研究に取り組み、そこから修得した思考法や思念内容をどう現場実践に活かしたかの報告である。当時、大学1年生の私は、その本の内容を1-2割程度しか理解できなかったが、説得力がある論理展開、特に、短縮された明快な言葉に魅了されたことを覚えている。また、こんな素晴らしい先生がいる大学に入れてよかったと正直思った。この時の「言葉の魅力」「言葉の力」が、その後の研究者人生において論文を書くとき、会社の資料を書くときに助けになったことは言うまでもない。さらに、格好つけていうと、私の研究者としての論文や資料、引いては人間を観る美意識にも影響を与えたといっても過言ではない。

最近、その折原氏(84歳)が、2019年の1月に『東大闘争総括』という本を上梓した。50年ぶりの邂逅である。その本を早速買い、彼の書く文章にいまだに魅せられている。次の様な文章はいかがでしょうか。
「…1930年にオルテガ・イ・ガセがいち早く警鐘を鳴らし、1968~69年大学闘争で覆いがたく暴露されたように、既成の専門家はおおかた、自分の生きる現場の状況に、自分の理性をはたらかせては対応できない、その意味で非合理な専門バカであり、そのうえ、少なくとも一部はバカ専門でもあって、自分の専門領域でも、データを改竄したり原理知に反する所見を発表したりして、学問以外の神に仕える御用学者、あるいは不都合を予感すると似而非(エセ)プロフェッショナルであることは抗いがたく暴露されたとおりでしょう」
折原氏がヴェーバー研究から学んだことは、多くあるが、最も重要な問題は、「学知と現場実践の乖離」の命題である。いくら高邁のこと(学知)をいっても行動(実践)が伴わない学者が多いことを嘆いている。この問題は、今でも考えなければならない「言行不一致」の課題である。東大闘争の時に問題になった「学知の巨人」は、丸山真男(政治学)、大塚久雄(社会学)、等々、挙げれば切りがないが、折原氏は彼らの現場実践(実存的行動)のなさを糾弾したのである。

福島の原発事故の時も、今まで、クリーンエネルギーとしての原発の必要性を喧伝していた原子力の専門家集団(御用学者)は事故が起こった以降、責任を逃れるため、蜘蛛の子を散らすように雲散霧消していったことは記憶に新しい。
また、少し古くなるが、太平洋戦争が始まる頃、当代きっての京大の哲学者は、やがて学徒出陣により死地に赴く当時のエリートに、「死を自ら引き受けることによって死を超越せよ」と説いた。彼自身は安全地帯に身を置いて(戦争や死に対峙せずに)、この様な哲学的美辞を弄したのである。誰に忖度しているのか!まさに、「学問以外の神に仕える御用学者」に堕したのであった。これらの事例は枚挙に暇がない。
学問的知識の権威を借り、自分の行動を正当化するだけでなく、むしろ「学知の鎧」を被り、それに沿った行動・実践はしない。何故か。行動すれば自分の身が危険にさらされる確率が増えるからである。行動するのは、自分ではないと考え、自分は安全地帯に逃げ込むやり方である。そこには、底なしの偽善と盲目的な残忍性、不潔性を感じる。
この様な人を、折原氏は、別の角度から、「この人たちは変わり身の速さが身上で、新制度には素早く適応しましたが、魂は旧制度の鋳型に嵌ったままの職歴-立身出世主義者」と断罪する。「学知主義的自己疎外」(学知の偏愛とその枠内への自己完結的・自己満足的の閉じこもり、眠り込み)に甘んじてはいけないと彼は述べている。多くの学者(学者だけでなく、一般人も含めて)は学知を持っていても、自分の欲(自分ファースト)には勝てない。学知ではなく、損得勘定で本能的に行動する。

この「言行不一致」の問題は深い意味を持つ。この問題には、「他人の権威を借りて小人、凡人を威嚇し、自分の身の丈に合った実践の回避を正当化する、フェアでない学知主義的権威主義」の匂いがプンプンである。どんなに言葉を弄しても、自分ファーストの自己正当化の詐欺師である。我々は生身の人間であるので、すぐには解決できないが、相手ファーストの精神で、一歩一歩、自己変革を進めていかなければならないことを示している。 
また、この学知においても、欧米の巨人の文献を紹介するだけでなく、実践を通じて、自分の言葉として述べなければならないことはもちろんのことである。実存主義の研究者も「実存文献読みの実存知らず」であってはいけない。
今月の日経の『私の履歴書』に野中郁次郎一橋大学名誉教授の次の様な文章が気になった。「近年ではROE(自己資本利益率)経営が典型例で、最近は内容をよく理解しないままにSDGs(持続可能な開発目標)とみんなが口にする。もう海外の模倣はやめよう」と。
欧米で流行っている言葉を金科玉条のようにありがたがり、その権威を借りて、権威主義に堕する学者が今でも多い。100年以上前にヴェーバーが提起した問題、50年前にヴェーバー研究の泰斗、折原浩氏が糾弾した命題「学知と現場実践の乖離」の問題が今でも続いていることは驚くべきことである。


2019年09月02日

V・E・フランクルの『夜と霧』を「再」読む

精神科医V・E・フランクルの著書『夜と霧』を知らない人はいないと思う。ナチスの強制収容所に収容されたフランクルが、自ら味わった過酷な経験を赤裸々につづった本である。
しかし、フランクルが伝えたかったことは、そうしたジャーナリスティックな悲惨な運命の描写ではない。むしろ、人間が死という極限状態に置かれたときに現われる精神の変化である。「自分の未来に希望を抱くことが出来るかどうか否か」が人々の生死を分けるという事実である。そこから、フランクルが導きだした結論に改めて感嘆するとともに、私がこの「知謝塾ブログ」で今まで述べてきたものと通底している部分が多いことに気付いたことである。

彼は大きく言って二つのことを繰返し述べている。
一つ目は次の様な事である。
我々は、災難や失敗が降りかかった時に、「いったい、何故、私がこんな目に遭わなければならないのか」と、「人生の意味」について考え、問い求める。しかし、フランクルは、人生の意味は、私たちが問い求めるのに先立って、常に、そして既に人生の方から送り届けられている。したがって、人間にできることは、その都度、状況から発せられる「問い」に全力で答えていき、その状況に潜んでいる真の「意味」を発見し、それに全力で答えていくことであるという。
つまり、「人生の意味」を我々側から問うのではなく(問うことが出来なく)、人生(=超越者)から問われているという「コペルニクス的転回」である。フランクルの心理学は、「自分の欲望や願望中心の生き方」から、「人生の呼びかけに応えていくやり方」「意味と使命中心の生き方」の転換の提示である。出された問いかけに一つ一つ答えていく、これが人生だと。
これは私の経験からいっても首肯する命題である。
 
幸福は自分から求めることができない、求めれば求めるほど逃げていく(幸福のパラドックス)。「自分探し」「自己実現」を必死に追い求めても、求めれば、求めれば逃げていく。「自分の幸福」を追い求める「自己中心の生き方(自分ファースト)」ではなく、「意味と使命中心の生き方」への転換を求めている。
この逆説性(パラドックス)は注目すべきだろう。何かのため、誰かの為と思って、自分を無くして(忘我)、はじめて、真の自分を発見する
このことを日本トランスパーソナル学会会長、千葉大学教授の諸富祥彦氏は「人間精神の自己超越性」と云い、「人間はもともと、自己自身を忘れ、自己自身を無視する程度に応じてのみ、自己自身を実現することができる」と解説している。

人生からの問いに真面目に向き合って、出来事の意味を発見出来た時、「神の恩寵」であったと、「人生に無駄はない」と、真摯に思えるようになる。また、酒井雄哉(天台宗大阿闍梨)の「仏様に論文を書かされている」という言葉も、「人生からの問い」と同じである。
つまり、「人はみな役目を与えられて生まれてくる」、「それぞれの役目に応じて人生の論文を書かされる」。生きていると、自分の意思では避けられない困難に遭う。困難への対処は自分で選ぶ(論文の書き方重要)。 
どんな困難に遭遇しても、どんなに辛くても、逃げない、避けない、否定しない、そして、その苦悩の「意味」を発見し、決断を下し、歩んでいくことが人生だとフランクルは言う。「自分を越えた大きなもの」に生かされている自分に気付く。人生とは「学び」や「気付き」を得ていく魂の成長の場、試練の場と捉えることが重要になる。

フランクルが述べている二つ目は、人生から与えられている「意味や使命」を見つけるための手がかりとしての三つの価値領域の提示、「創造価値」「体験価値」「態度価値」である。

「創造価値」とは、創造活動や仕事を通じて実現される価値で、先ずは目の前の仕事を夢中でやることが重要。その時は「忘我」「無我」の状態である。
「体験的価値」は、自然とのふれあいや、人とのつながりの中で実現される価値のことである。フランクル自身、このような過酷な運命の状態でも、自分の中に持っている、愛する人間(妻)の精神的な像を想像して自らを充たすことができたと述べている。「自分が本当に大切だと思う人と深く触れ合うことができたという、その一瞬の思い出があれば人間は救われる」(『カラマーゾフの兄弟』)
「態度価値」は、強制収容所という同じ体験をしても、人が取る態度は悪魔にも天使にもなりうる。変えることができない運命に際して、どのような態度をとるかで、その人の精神性が現われてくる。ここで現われる高い精神性(利他性)、肯定的な態度こそ、「創造価値」や「体験価値」が奪われても、人間が示す最後に残された価値であるとフランクルはいう。

これらの価値を実現するには全て、「自分ファースト」の精神では達成できない点に気付いて欲しい。「無我」「大我」の状態で、ひたすら努力すれば、私を越えた向こうからこれらの価値がやってくることを忘れてはならない(幸福のパラドックス)。これらのパラドックスは、次の様な言葉にも表れている。

「人間が歴史を解釈するのではない。 歴史が人に自らの姿を開示する」(小林秀雄)
「(仏像の)眉や鼻が木の中に埋まっている。それを鑿の力で掘り出すまでだ」(『夢十夜』夏目漱石)。

このように、見えない世界を観る力、いわば「霊性」という力を一流を極めた人は持っている感じがする。 「私」を無くしてこそ、全てが開けていく「真実」(パラドックス)にそろそろ気がつく時代が来ているように思われるが、如何でしょうか。



2019年08月20日

アドラーの心理学

前回のブログでは17世紀の科学革命によって確立された近代合理主義の思想、還元主義について説明した。近代合理主義の時代(精神)はデカルトやF・ベーコンによって始まり300年位続き、戦後はポストモダンの時代に入っていく。近代合理主義の思想には還元主義の他に「原因論」と「客観主義」がある。

「原因論」とは、何によってこうなったかと、物事を「原因」で捉えるやり方である。因果を追求する方法論で現代の科学技術の基本になっている。「客観主義」とは全てのものは客観的に把握できるという考え方で、客観的でないものは認めない、見えるものしか認識しない、観念的なものは認めない、といった科学思想になっていく。
これに対して、精神医のアドラー(1870-1937年)はまったく逆のことを云っている。例えば、「原因論」ではなく、「目的論」が重要であると考える。人間の行動には必ず目的がある。だから、変えられない過去や原因に拘泥せずに、これから何に向かって、何を目標に努力するかが大切で、未来志向が重要であると。精神医ならではの現実的な発想である。
また、「客観主義」ではなく、「認知論」であると。客観的に全てを把握し、理解することは無理で、むしろ、その人の主観や独自のバイアスを通して物事を見ることが重要だ。だから、その人にとっての真実は、別の人の真実と全然違ってよいと。特に社会・政治・経済等の分野では、人それぞれに見方、考え方があり、それによって客観的と思われていることが主観になり、逆もまた真なりである。歴史の真実はそれぞれの個人により、異なってくる。それが独自の史観となる。歴史の事実と真実は違う(小林秀雄)。
 
さらに、ポストモダンでは、「還元主義」は「全体論」になる。還元したものを集めても全体を現すことはできない。特に生命を持つものは、「全体」は「部分」の集合ではない。だから、最初から「全体」の立場から論じなければならない。近代科学を牽引した方法論である「原因論」「客観主義」「要素還元主義」の考え方から、「目的論」「認知論」「全体論」に変わり、ポストモダンの考え方に繋がっていく。視点が変われば新しい考えが生まれてくる例である。

精神分析の創始者のフロイトとの確執もあったアドラーの凄さは早い時期にポストモダンの世界観や手法を展開している点である。詳細は避けるが、フロイトが、「リピドー(性的衝動)」が人間のパーソナリティの基礎であると考えたのに対して、アドラーは「劣等感」を「リピドー」に代わるものとして提唱したのである。心の苦しみの原因を過去と客観的な事実にみるフロイトの理論とは違い、アドラーは「目的論」的に論じている。

ここで、アドラーの箴言について紹介したい。
アドラーは、この世界、人生、自分についての意味づけを「ライフスタイル」と呼んでいる。自分のことを自分がどう見ているか(自己概念)、他者を含む世界の現状をどう見ているか(世界像)、自分および世界についてどんな理想を抱いているのか(自己理想)、この三つをひっくるめた信念体系がライフスタイルであるとアドラーは考えていた。このライフスタイルを決定する影響因を「遺伝」と考える人が多いが、アドラーは、「大切なものは何が与えられているかではなく、与えられているものをどう使うか」だと考える。人間は「何が与えられているか」に注目し、自分の能力に限界があると考える。そして、課題に取り組まなくなると警鐘を鳴らす。
アドラー自身、子供の頃にくる病を患って、大人になっても身長が154センチしかなかった。その為、「器官劣等性」から生じる他者との比較による劣等感に悩む時期があったが、やがて他者との比較ではなく、自分の目標と現実とのギャップによる「劣等感」に転換していく。この自分との比較(現状と未来)による劣等感は進歩向上のモチベーションになると力説する。競争する相手は他人ではなく自分であると。
さらに、人間の本能的欲求である「優越性の追求」を、多くの人は誤解しているとアドラーは云う。我々は競争社会で暮らしているため、「優越性に追求」を「他者より優れていようとすること、他者を蹴落としてまで上に上ろうとすること」と考えがちである。アドラーが説く「優越性の追求」とは他人を押しのけて上へ上へと向かっていくようなものではなく、平らな地平を皆が先へ進もうとすることである。自分が、ただ前を向いて確実に一歩前に足を運ぼうと意識している限り、全ての基準は自分である。自分が今いる場所から少しでも前に進むことができれば、それが「優越性の追求」になると考える。人生の課題に直面し、それを克服するこが優越性の追求であると。
また、課題に直面して、真にそれを克服できる人は、ただ自分の為にだけ優越性を追求するのではなく、「他の全ての人を幸福にすること、つまり『他の人を利する』仕方で前進する人である」と云われている。他者に貢献する意識や視点を持つようになると自ずと誰かと競い合おうという意識はなくなってくる。 
「個人の心理学」を確立したアドラーならではの言葉である。このように、人間として幸せに生きる要諦は、(1)他人との比較しない、(2)自分の内面の成長、(3)利他の心であることが分かる。




2019年07月31日

還元とは

還元(reduction) とは、「物事の元の形・性質・状態に戻すこと」を意味する。複雑な状態で現われている現象を、それを成り立たせている元の要素に分解(還元)して解釈することを意味する。ここで、思い出すのはデカルトが唱えた要素還元主義である。大きな全体は、小さな要素に分割することにより、よりよく理解できるという考え方であり、小さな要素に分割しても本質は変わらないという意味を含んでいる。

17世紀の「科学革命」を先導したデカルト、F・ベーコン等は自然を機械と考え、生命的なものを失った単なる「延長」と見なすことにより自然を理解しようとした。これが「機械論的自然観」である。自然を機械と考え、細かく刻むことにより、全体を理解しようとする方法論は「進歩の思想」、「科学・技術万能主義」、そして「経済至上主義」に繋がり、産業革命も実現し、今なお、情報革命やAI革命の思想的、方法論的バックボーンに成っている。また、ノーベル賞を数多く出している英国キャベンディッシュ研究所の第四代所長のラザフォードは中性子や陽子を物質に高エネルギーで衝突させ、出てきた素粒子を解析することにより、その物質を解明する方法論を編み出している。この方法は、高エネルギー物理学として、今でも使われており、最近のヒッグス粒子(物質の質量の起源)の存在を証明したことでも有名である。

しかし、この還元主義には重大な問題点(限界)がある。分解した要素を集めても全体を構成することができないということである。生物のような有機物では、小さな断片に分割すると全体として変質してしまう。だから、生物や人間が営む組織や社会も有機物なので細かい要素にバラバラにしても、元の全体が抱えていた問題は要素の問題に還元できないのである。特に、自然は機械(無機物)ではなく生きている。宇宙は今でも膨張している。よって、自然を要素に分割して解明できたと思っても、環境問題のようなものが還元の隙間から落ちていく。化学がいくら進んでも、簡単な生物すら合成できない。生命の神秘である。全体は部分の集合体ではないのである。ここに、常に全体から観る東洋思想の重要さがある。

還元主義は、上記のように我々がその恩恵に浴している近代科学を産み出したことは事実である(生命論的な議論を捨象した問題(環境革命)はあるが……)。それには以下に示すように大きな魅力がある。それは複雑な現象を数個の変数に還元し、本質を射る(正鵠を射る)という方法論である。

例えばニュートン力学では、多様な物質を速度と質量以外は持たないと定義し、さまざまな質的な差異を速度と質量に還元するやり方をとる。そして、F(力)=m(質量)× a(加速度)、a=dV/dt (速度の時間微分が加速度)という有名な式を生み出した。この考え方が上記の科学革命を可能にする世界観に繋がっていく。

アインシュタインはエネルギ-(E)を質量(m)と光の速度(C)に還元し、E=mc2 という式を導き出す。これは「エネルギーも質量も同じものでどちらにも変化しうるもの」と言い換えられる。これが原爆の製造にもつながっていくが、「相対性理論」に出てくる重力も「時間」と「空間」に還元し、見事に解明したのである。例を挙げれば切りがないが、20世紀のエレクトロニクス産業を作った半導体デバイス(バイポーラトランジスタ)の発明者W・ショックレーは、そのデバイスの動作原理を電子(エレクトロン)と正孔(ホール)に還元し、説明した。

この還元と同じ方法論が文系的領域にも適用されている。カール・マルクスは、『資本論』の冒頭で次のように述べている。「資本主義的生産様式が支配的に行われている社会の富は、一つの『巨大な商品の集まり』として現われ、一つ一つの商品は、その富の基本形態としてあらわれる」。つまり、その社会の中にあるものは、ことごとく商品だ、というわけである。社会の富とは商品であり、全てのものが商品になるということは、全ては具体的な使用価値があり、抽象的な「交換価値」に還元できることになる。マルクスは商品の中に「使用価値/交換価値」という二重性が宿ることを発見し、全ての富が商品の集積として現われる社会を使用価値と交換価値という視点で分析したのである。少し難しい話になったが、18~19世紀のカントが人間の内的な主観の中に見出したもの(超越論的主観)を、マルクスは商品世界の中に見出し、重要な要素に還元して解明したと言ってもいい。これらは全て、近代科学が提示する世界観(還元主義)に普遍的な妥当性を見出している。

この様に、17世紀以降の世界的発見や発明の場合には、必ず、重要となる変数、またはそれを構成している要素に還元して、解明する方法論を用いるのが常である。複雑な現象を数個の要素に還元して説明するやり方では、要素の選び方が最も重要になる。しかし、上記で述べたように全体を要素の集合体では完全に説明し切れない。公害や環境問題、遺伝子組み換え問題等、がムクムクと顔を出し、人類を反撃してくる。これが還元主義の限界である。

この還元されないものに光を当てることが今世紀の課題ではなかろうか。20世紀を席捲した価値観(拝金主義)は、地位、金、名誉に還元されるであろう。これだけの要素では人間を評価できない時代が到来している。もっと大切なもの、「利他(人間が持つ特異な資質)」がその人間を還元する要素に加わってくるような、加わるべき時代が来ているような気もする。「利他」という要素を加えることにより、21世紀という時代の姿が重層的に見えてくる感じがするが、如何であろうか。

2019年06月24日

「正解」のコモディティ化

先日、『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』等のベストセラーで注目を集めている山口周氏の講演を聴いた。

その中で「正解のコモディティ化」という言葉が気になった。この意味は論理的な分析思考を突き詰めていくと、誰もが決まった「正解」に行きつく。創造的な「解」を得るには感性や直観(sense making)が必要だという考え方である。直観力や深い思考から新しい考えが創発するという意味であろう。

実は論理的思考の極地は今、流行のAIの最も得意な領域である。特にルールとゴールが決まっている分野、例えば囲碁や将棋ではコンピュータが高スピードになればなるほど人間は敵わなくなる。合理的で合目的的な「解」を求めるには、過去の膨大なデータから学習するAIは最強のマシーンであろう。

しかし、そうやって得られた解は創造的なものになるであろうか。膠着した問題を解決する答えを提供するのであろうか。
合理的に考えられた解は一見よさそうに見えても気が付いてみると平凡な解であることが多い。
何故であろうか。

創造的な「解」を得るには一つのルール(思考形態)に従った方法ではなかなか到達できない。ではどうすればよいのであろうか。創造の瞬間は本人しか分からないが、結果論から云えば次のようなことが考えられる。

1.一つの考え方ではなく、多面的、重層的に考える(ダイバーシィテイ)
2.種々考えながら熟成するまで安易に結論をださない(ネガティブ・ケイパビリティ)
3.悩んだ末にさらに考えていると思わぬところから解がでてくる(セレンディピィティ)

時間をかけて色々な角度から検討するといっても、なかなか出来るものではない。普通は結論を早く出そうとして中途半端な解で満足する。これでは創造的な解は得られない。それは合理的に考えた結果の解だからだ。このレベルでは学校の試験の解としては合格するだろうが、誰でも考えられる解であろう。

将来はAIに任せれば良い。人間の思考の素晴らしさは、考える時に寄り道したり、時には元に戻ったり、不合理な道に入ったり、不効率な迷い道に入ったりしながら、考えられる点である。色々な道を歩いている時に今までの経験が役に立ち、熟成され、論理的でない、ジャンプした直観的な考えが浮かんでくる。これが創造的な考えになってくる。そして後から論理がついてくる。これがコモディティ化されていない「正解」になってくるのだろう。

論理を無視することは出来ないが、それだけでは本当(創造的)の「正解」には辿りつかいないし、また、難しい問題、特に社会的な問題は「正解」は一つではない場合が多い。条件が少し違えば異なった解になる。そこには論理だけでは越えられない壁がある。その壁を突破するのは直観力である。

私は物事を判断する時に、合理性、効率性、の軸以外に「利他」という軸を加えている。利他というのは不合理的な考えである。当然、AIは合理的思考であるから、この軸は持っていないだろう。この不合理、不効率、損をする軸を加えることにより、物事が立体的、俯瞰的に見えてくることがある。このようなことができるのは人間だけであろう。自分にとって得する、プラスのことばかり考えるのではなく、敢えてマイナス、「相手ファースト」の考えを導入することにより、飛躍したバランスの取れた考えに行きつくのではないだろうか。判断に困った時にはより難しい道を選択すべきという箴言があるが、一見合理的で損をしないように見える道は、単調で、退屈で人間を精神的に成長させるものではないかもしれない。

コモディティ化された「正解」は試験で100点を取れても、人生の難問を解く答えにはなっていない可能性が大である。コモディティ化された解は鉛筆や消しゴムと同じで、一般論的作文は書けても、創造的で個性的な小説は書けない。直観力による思考の飛躍や熟成された深みがないからである。アインシュタインをはじめとする人類にとって偉大な宇宙の真理を発見した物理学者たちもいろいろと悩んだ末に直観によって従来の考え方の壁を乗り越えたと聞く。この直観力を磨くことは論理的思考以上に大切だと思われる。

2019年06月02日

ルサンチマン

19世紀の哲学者、ニーチェによる「ルサンチマン」や「永劫回帰」の考え方をご存知だろうか。彼が生涯にわたって問うてきた「如何に力強く創造的に生きるか」という命題は、現代に生きる我々に示唆を与えている。

「ルサンチマン」とは恨みや憎しみ、嫉妬が心の中にこもった鬱屈した状態をいう言葉である。上司や権力者に対して抱く心の状態で、自分の苦しみやどうすることもできない怒りの「歯ぎしり」であり、「無力感」である。この状態が続くと自分を腐らせ、自分を人生の主役だと感じられなくなる。創造的な生き方が出来なくなる。また、同様に、上司が抱く感情もルサンチマン的になる場合がある。部下が優秀で将来、自分の地位を脅かす恐れがあるときは何かに付けケチをつけ、嘘を云ったりして、若い芽を早めに摘もうとする。これもルサンチマンで、嫉妬や憎しみである。これらの感情は、仏教では「煩悩」であり、忌み嫌う。

特に、下の者(弱者)が権力者(強者)に抱くルサンチマンは、どうしようもない苦悩であり、その苦しみから逃れるために神様や天国を作り出すことになる。権力者に反抗することもできず、無力に喘ぎ、「観念」の中だけで強者になろうとした。そこで生まれたのがキリスト教だとニーチェは喝破する。彼によると、キリスト教の道徳(弱いものへの思いやり、自己犠牲を説く平等主義)やそこから生まれた近代市民社会のヒューマニズムや人権の思想は弱者の強者に対する恨みや復讐から生まれた「奴隷の道徳」「奴隷にとっての復讐の宗教」であると。天国に行けるのは私たち貧しい者の方だ。富者や権力者は悪人であり、地獄に落ちると。自分が気持ちよくなって、自己肯定するのではなく、強い他者を否定することによって自己肯定する。そういう人間は「善いこと」しかしない、「心清く」生きることだけを目指し、チャレンジ精神(創造的生き方)を失った「無難な善人」に堕するという。全面的には首肯できないが一面は鋭くえぐっているといってよいだろう。

ニーチェはキリスト教を全面的に否定している訳ではない。「……その苦悩に耐えて心清く生きた人は天国で幸せになれるというキリスト教には、人間の生きる意欲を守っていた面も確かにあった」と。しかし、自分の力が自発的に発揮される時に感じる自己肯定の時にはじめて、ルサンチマンを抱くことなく、創造性を発揮することができると彼は主張する。ニヒリズム、仏教、キリスト教、民主主義、社会主義、これらの根っこの考え方は安楽を望む、人間の生を凡庸にするだけだと。自発的に発揮する自己肯定の「強者」の代表としてローマ帝国、ルネッサンス、ナポレオン等を彼は考えていた。これらの「強者・弱者」の考えがナチスや優生学に利用されることになる。強者が弱者を支配することを肯定する思想だと誤って解釈された。

自発的に発揮する自己肯定による「創造的生き方」は可能であろうか。「自己肯定」の中に「俺が、俺が」「自己ファースト」といった我執の考えが見え隠れしないだろうか。また、我々が人(特に上司)を責める時に、「彼は利己的で、自分のことだけだ!利他性はないのか!」という言葉を使うことがある。これもルサンチマンであろう。「利他性」という言葉に逃げ込んでいるだけではないだろうか。「利他性」という言葉で、相手を責めることにより、自分は「心清き」安住の場所を確保し、惰眠を貪っているだけではないのか。反省し、熟慮すべき課題だろう。「利他性」を自分に向け、我執に囚われることなく、無我になることにより、「創造性」を発揮すべきだと思うが。

次に、ニーチェが言っているのは「永劫回帰」の思想である。この思想は「現在の世界と同じことが、遠い昔にも存在し、遠い未来にも存在し、この世界は変わらない、同じ世界が永遠に続く(回帰する)という考え方である。この思想は、世界はまったく変わらない、だから、人生はまったく意味がないという思想になる。これがニヒリズムだ。「過去の最悪なこと、悲劇がすべてそのまま蘇ってくる。だから、過去を否定することはできない」と。こうなると「何をやっても無駄だ」と思ってくる(消極的ニヒリズム)。人間はこの様な「永劫回帰」の思想を受け入れることが出来るだろうか。

ニーチェはこの「永劫回帰」を受け入れる人こそが強者であり、「超人」になりうるという。
人生には必ず、苦悩がある。そして苦悩と無力感からは「ルサンチマン」が生まれる。人生への否定、無力感を復讐心で紛らわそうとする。そうではなく、自分の人生を肯定する方向に向かわせる物語が「永劫回帰」の思想である。「たとえ無限に繰り返そうと、決して後悔せずに自分が納得のできる行動をする」「人生の中で一度でも素晴らしいことがあれば、もろもろの苦悩を引き連れてこの人生を何度でも繰り返すことが出来る」と。

マイナスを含めて自分の人生を肯定できる人はその人生を、苦悩を含めてその人生を何度でも繰り返すことを欲することが出来るだろう。「人生は全て生かされている」、「人生で起こること全てが神の恩寵である」「人生は生きるに値する。悲しみや、苦しみも自分の人生に深みを与えてくれている」と。次のある障害者の言葉は胸を打つ。

「障害だけ見れば確かにマイナスだ。でも、この障害とともに自分の人生はあった。苦しみもあったけど悦びもあった。障害のお蔭で、他の障害者や健常者の友達に出会えた。素敵な出会いが沢山あった。この人生全体を私は愛す。」

ここまで前向きに考えられる「超人」をニーチェは理想としていたのだ。人生を肯定的に生き、創造的な仕事ができれば最高である。さあ、皆様、如何であろうか。

2019年04月16日

『言葉の木陰』

詩人 宇佐美英治の著書に『言葉の木陰』というものがある。
その中に「生きるためには言葉の木陰がどうしても必要だ」という言葉がある。また、おそらく宇佐美氏から頂いた本に影響されたと思われるが、美智子皇后の御歌に次の様なものがある。

来し方に本とふ文の林ありてその下陰に幾度いこひし

我々は日々、言葉の林に囲まれ、その下で、悲しい時も嬉しい時も、暫しの安らぎを感じ、今までの生き方を反省する生き物であろう。一日たりとも言葉なしでは生きていられない。その言葉の意味合いは経験や歳によっても感じ方が違うだろう。一言で人を傷つけることができる(ヘイトスピーチのように)。また、一言で勇気を与えることもできる。
 
私が言葉の魅力に取り憑かれたのは大学紛争の頃、社会学者で東大教授であった折原浩の『危機における人間と学問』(未来社刊)を読んだ時からである。学生達と一緒に戦う教授というイメージだけでなく、思想的バックボーンに成っていたのがこの本である。
内容的にはマックス・ウエーバー社会学の分析手法を用いた大学紛争と学問への危機意識の発露であり、先輩の大学教授に対する鋭い批判も述べている。言葉では恰好のいいことを云っても、象牙の塔に籠って行動しない教授(含丸山真男東大教授)に対する批判や言行不一致の学者に対する叱責も含まれている。当時、大学一年生の私には半分ぐらいしか理解できなかったが、言葉の持つ迫力や魅力に取り憑かれたことを今でもまざまざと思い出す。
それ以来、言葉の持つ威力に取り憑かれ、自分の論文や報告書等々に力を注ぎ、良い文章ができた時には恥ずかしながら悦に入っていた自分を思い出す。
 
言葉の魔術に取り憑かれた私は「言葉あそび」にも興味を持ち、小噺、俳句、朗読(これは難しくて途中でやめた)にのめり込んでいった。論文を書くこと、俳句を捻ること、小噺をしゃべることもすべて「言葉の木陰」で憩う私自身かもしれない。葉っぱから漏れてくる木洩れ日や、時には雨の雫に越し方行く末を思い浮かべ、歓喜の声をあげたり、涙することもあっただろう。
全てが憩いである。我々はコミュニケーションをする生物であり、言葉が手段である。言葉を操ることは快感もある。
 
今日も次の様な言葉がある雑誌を読んでいるときに目に留まった。

「善人は罪を作ってしまうのです。私は善人になってしまっていました。善人は人を裁いてしまうのですよ」

これは伊勢の合掌園の水野秀法師の言葉である。この言葉を紹介した人は臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺である。水野師が皮膚病を患って痒くて夜も寝られないことを知って、横田氏は、水野師ほど人の為に尽くされた方がどうしてそのような病気に罹るのかと尋ねて、発した言葉が上記である。

横田氏は次のように述べている。
「・・・我々は修業していても、知らず気づかぬうちに、自分はこんな修業したのだと自惚れてしまう。人を見下してしまうこともある。修業したことが、却って自我意識を強くしてしまうことがあるのだ」と。
パラドックスである。
「相手ファースト」と思って尽くしていても、我はこれだけやっているのだと自我意識が強くなって、気が付けば傲慢になっている自分に唖然とするというわけだ。
これは、良いことをしても、それを威張るのではなく、常にへりくだって謙虚でなければならないことを教えている。謙虚とはそれほど難しいのである。学べば学ぶほどへりくだることが大切だ。この言葉も木陰となって私にこれから訪れる「令和」を生きる清涼水を与えてくれているようだ。

(2019年4月)

2019年04月03日

学問は人間を磨き上げるためのものである――伊東俊太郎先生と空間を共有する歓び

この度、記念すべき40回目の知謝塾に東京大学名誉教授・国際比較文明学会終身名誉会長の伊東俊太郎先生をお招きした。
科学史・科学哲学ならびに比較文明学の日本のみならず世界的な第一人者であり、多士済々が活躍した昭和アカデミア最後の泰斗と云うべきLiving Legendだが、米寿を迎えた今もなおギリシア語の原典を通してイエスの生涯の研究に余念がないというから改めて脱帽する。
講演をお願いするのはこれで3度目。知謝塾ファミリー各位が敬愛してやまない伊東先生、今回のテーマは「文明の変遷とその未来」である。

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講演内容は、ほぼ同じテーマの講演記録がネット上にあるので是非、そちらを参考にしていただきたい。

人類の過去と未来 伊東俊太郎 東洋学術研究通巻176号(55巻1号)(2016年)

以下、講演にインスパイアされた個人的な所感にすぎず、あくまで場の雰囲気を感じ取って頂くためにご笑覧いただければ幸いである。

めまぐるしい変化に翻弄されそうになる現代、生きる上での羅針盤を歴史やリベラルアーツに求める人も少なくない。そんな中、『銃・病原菌・鉄』や『ホモデウス』をはじめ、地球史や人類史の大きなスコープから今の自分たちの立ち位置を見つめ直す「ビッグヒストリー」に関心が集まっているのは周知のとおりである。
とはいえ本当のことを言えば、そのような視座は何ら新しい話ではなくて、20世紀においてシュンペーターやトインビーが切り開いた「比較文明学」はまさにその先駆的な学問領域だった。

伊東先生はその「比較文明学」の世界的第一人者の一人なのだが、今、私たちが注目すべきなのは何も「学者としての伊東先生」ばかりではないだろう。本当の学術的業績を垣間見るためには、少なくとも伊東俊太郎著作集全12巻を研鑽しなければならないが、何よりも私たちが学ぶべきなのは、それらに基づいた「知」の魅力、物事の捉え方、人としての生き方、いわば「人間としての伊東先生」だと思うのである。

伊東先生は1960年代の米国留学を契機に科学史・科学哲学から比較文明学へと大きく転身していった。
その中で、人類の長い歩みを「人類革命」「農業革命」「都市革命」「精神革命」「科学革命」「環境革命」という6つの転換期から捉える「伊東史観」を構想し、多くの識者に影響を与えてきた。伊東史観が一つの常識として定着している今となっては教科書的とも感じられるかもしれないが、私たちにとって重要なのは一つ一つの認識よりも、自分自身がそこから何を感じ取って、それぞれの立場でどう行動していくかであろう。伊東史観そのものよりも、それを語る中でほとばしる伊東先生の”熱”に触れるところにこそわが知謝塾の醍醐味がある。

伊東史観は一貫して「“自然”と人間との関わり」を中心に置く。ここがマルクス、ヴェーバー、サンデルに至るまで、西欧の論者との決定的な違いなのである。
彼らの理論は常に人間が中心であり、人間社会の中だけに閉じた議論に終始し、いきおい自然を排除しがちだ。実際の世界には人間以外の動植物、自然があり、人間はそれらの恵みを受け、育まれて生きている。自然は人間の母であり、人間は自然の子であるとする考えであり、両者は一体、一つの生命だと見なす。それが日本を含め、東洋の古来からの自然観であった。もっと言えば、西欧以外ではどこでも共通だった。

対して近代西欧の自然観は大きく異なる。
一方には、自然を機械と見なすデカルトの機械論的自然観。他方が自然を人間の支配・搾取対象として扱うフランシス・ベーコンの「人間王国」である。この考えに基づけば、自然は人間が自在に利用することのできる「資源」ということになる。実はこれは近代という時代、西欧という地域だけで登場した特異な考え方でもあった。

当然、今日の地球環境問題に対する受け止め方も違ってくるだろう。
近代西欧の自然観で言えば、要するに人間王国=豊かな文明生活を支える資源が枯渇してしまうこと自体が問題、すなわち利害の話なのである。
一方、伝統的な東洋の自然観からしてみれば、子たる人間が親たる自然を支配し、野放図に搾取し続けることは親殺しに等しい行為であり、道義的な問題に他ならない。

今日の世界を見れば、ベーコンの人間王国が現実になりつつある。確かに人類はわずか100年前、否50年前まで、貧困・戦争・疾病という脅威に苦しみ、それらと戦うことにほぼ全力を費やしてきた。それを思えば、21世紀の今日、依然として多くの人たちが飢餓状態にいるものの、世界中の大半は古来からの脅威を克服している。画期的な文明の勝利と言ってよい。『ホモデウス』の著者も、地球上の人間・家畜がいかに多く、それ以外の野生動物がいかに少ないか、その生存数の格差を以って空前の人間王国の証しとしている。
しかし、今の私たちが享受しているまばゆいような繁栄も、基本的には有限な化石燃料に依存したものであることに変わりなく、いよいよその臨界点に達しようとしている。近い将来、際限なき拡大成長に歯止めをかけ、何らかの均衡を得たとしても、その状態がどこまで持続可能であるかは保証の限りではない。

こう考え合わせてみると、今日の人間王国は果たして人間自身に真の幸福をもたらすものなのか。人類が地球の支配者として君臨し続けることが望ましいのかどうか、改めて原点に戻って問い直すべきではないかと思う。

古来、人間はみずからを、何者かによって「生かされる」存在だと捉えてきた。その場合、主は何者かの側にあり、人間はそれに従う受動的な存在と自覚していた。自分を含め、万物を生かしてくれる「強者」は、自然とも、神とも、天とも言われたが、おおよそ人間自身がその座にあると考えたことはなかった。それほど人間は弱い存在だったからだが、今の私たちはどうだろうか。

今の地球上では、人間がすべての頂点に立ち、他を支配し、最高の「強者」として君臨している。このような状態が当たり前とさえ思われているが、個々の人間を見れば、わずか100年足らずしか生きられない、はかなく悲しい存在であることに変わりはない。人間が神に代わって、人間自身を含めて万物を生かす「強者」となるというのは観念の世界だけで成り立つ一種の幻影にすぎない。実態は、ある人間が残りの人間を支配し、搾取するという構図だけなのだが、そんな支配者でさえも100年足らずで死ぬ宿命から逃れることはできないのだ。

科学史・科学哲学、そして比較文明学のプロフェッショナルである伊東先生は、みずからの専門領域を越えて、そうした人間が人間であるための良心を熱く訴えるのだった。学問を究めたからこそ、人間としてどうあるべきか、どう生きるべきかを知り抜いた、そんな境地から「人生の教師」としてのメッセージなのだ。

講演後の質疑応答では、本題であった文明論から脱線し、今の日本ならびに世界の風潮に対して心の底から警鐘を乱打する姿が参加者の感銘を呼んだ。具体的には、アジア諸国で暴走した戦前の軍国主義、その元凶となった幕末志士、さらに平和憲法の下で今日まで続いた非暴力・平和の尊さ、企業経営者が公然と巨万の報酬を得て、それを称賛する拝金主義の世相、機械論から生命尊重へと世界観を転換するための日本の使命など、常に「人類」を基準にした伊東先生の意識の高さと関心の広さを改めて物語っていた。
それら激動の歴史について実体験を通して学んだことは、伊東先生ご自身にとっても、あえて言うならば、学問上のいかなる知見や考察よりもはるかに重要な、切実なものに違いない。後世に伝えずにはおくものかといった気迫に満ちた魂からの叫びに、心揺さぶられるひと時であった。


2019年03月18日

「目標」も「反省」もない美学

『文芸春秋』の今年の4月特別号に「平成31年を作った31人」の特集が組まれている。

その中の一人に、“タモリ”が選ばれている。そのタイトルが「「目標」も「反省」もない美学」である。その文章を書いたのがライターの戸部田誠。彼はその中で、『いいとも』が長く続いたのは、「反省もせず、目標も立てなかったからだ。それは過去の自分にも未来の自分にも縛られず、自由になるということだ。派閥など作らず、自由気ままに趣味を楽しむ。悲観も楽観もせず、「これでいいのだ」と「今」を受けいれ、自由に生きる。それこそがタモリをタモリたらしめているのだ」と述べている。
 
我々昭和世代は、今日を反省し、明日は今日の自分を少しでも越えていること理想とする教育を受けてきた。また、「過去に逃げ込まず、未来にひるまず」の精神で向上を目指すことが大切だということを教えられた気がする。常に前を向き、目標を定め、逆境にも果敢に戦う精神力、向上心を若い時から涵養することが人生だと。

これは、「立派な人間」になるために自分を切磋琢磨するやり方で、ストレスも強くなる。タモリの生き方と真逆と云って良いだろう。過去に捕われたり、未来を妄想したりせずに「今」を生きるやり方は「老荘思想」や「禅」にも通じる考え方である。 

変化が激しい時代は、過去にも未来にも頼ることができないから、とにかく「今」を大切にする生き方に共感さえ覚える。作為をしないある種の「無為的生き方」である。

話は飛ぶが、「笑顔プロジェクト」を行っている人がいる。鶴見大学教授の斎藤一郎氏である。嬉しい、楽しいといった感情が伴わなくても、表情を笑顔にするだけで、幸せを感じた時と同じ反応が脳の「前頭前野」に起こることが分かった。このことが「笑顔の表情」をするプロジェクトを起こした理由である。笑顔の効果として、ストレスを軽減する、笑顔は周囲の人に近づき安さや感じの良い印象を与える等がある。フランスの哲学者アランの「幸せだから笑うのではない。笑うから幸せなのだ」という名言が現実のものになりつつある。このプロジェクトを実践しているのが三越伊勢丹グループである。

「お客様満足」をテーマに社内活動を行っている会社は多い。多くの日本企業は過度に「顧客満足度」や「企業業績」を追求するあまり、従業員自身の幸せが見過ごされ、ストレス過多になっている。そこで登場したのが「笑顔プロジェクト」である。自らが笑顔で幸せになることで、そこからお客様の笑顔と幸せを生み出していくやり方だ。従業員一人一人が「笑顔メーカー」になることにより、お客様の笑顔や幸せを引き出す。これは「自分ファースト」ではなく自分が笑顔で幸せになることにより、「他人ファースト」を実現するやり方である。しかも、自分にはストレスがあまりない。「顧客満足度」といった明確な目標を設定するのではなく、自分の幸せがお客に伝搬する仕掛けである。上記のタモリの生き方に通底するものがあるようだ。
 
昭和や平成の時代は明確な目標を設定し、それに向かって強力にプロジェクトを進めるやり方をよしとする時代であった。目標達成のストレスを跳ね除け、勝者になることが推奨され、出世の階段を上っていった。目標と現実の間のギャップを埋めるためにPDCAサイクルを回し、反省し、次の行動につなげる。生き方としては単純で直線的だった。

平成の次の時代はどうなるのであろうか。今まで以上に、AIの発展、保護主義的な「自国ファースト」のイデオロギーにより、格差社会やストレス社会が到来することは間違いない。それを避けるためには、直線的でない、多様性のある生き方に価値を置くことが重要になってくる。

タモリ的生き方(目標も反省もしない、「今」に全力投球する生き方)や自分の笑顔で相手を幸せにするやり方は次の時代の生き方として参考にすべきものかもしれない。

2019年02月03日

ネガティブ・ケイパビリティ

「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉はどういう意味だろうか。
今まで、知らなかったが、FBで村上陽一郎(東大名誉教授)が心に刺さった言葉ということで紹介していた。その中で、精神科医で作家の帚木蓬生の著作『ネガティブ・ケイパビリティ』に言及していたので早速、読んでみた。

ネガティブ・ケイパビリティとは「どうにも答えの出ない、どうにも対処しようのない事態に耐える能力」、また、「性急に証明や理由を求めずに、不確実さや、不思議さ、懐疑の中にいることができる能力」と解説されている。
この言葉は、英国の詩人、ジョン・キーツ(1795年生まれ)から始まり、170年後に、同じ英国の精神科医、ウィルフレッド・R・ビオンによって再発見され、精神分析の分野に応用されたという経緯がある。キーツはシェイクスピアにネガティブ・ケイパビリティを見ている。シェイクスピアの偉大さは、「性急な確実性を求めず、神秘さや未分化の真実に耐えられたからだ」と彼は強調している。帚木氏は「ネガティブ・ケイパビリティは拙速な理解ではなく、謎を謎として興味をいだいたまま、宙ぶらりんの、どうしようもない状態を耐え抜く力です。その先には必ず発展的な深い理解が待ち受けていると確信して、耐えていく持続力を生み出すのです」と述べている。
また、彼は『源氏物語』を書いた紫式部にもネガティブ・ケイパビリティがあると認めている。彼女が味わった充分すぎるほどの人生経験やこの世の浮沈の波が『源氏物語』の尋常ならざる筋書きを生んだのだと。ネガティブ・ケイパビリティとは自分が経験した複雑で、摩訶不思議なことがらが内部で熟成され、多面的な視点や時間をかけてより深い理解につながる能力であろう。

仕事でも、より速く、より効率的にできる人は多いが、その仕事をじっくりと辛抱強く多面的に捉え、より創造的に考察する人は少ない。前者は「ポジティブ・ケイパビリティ」であり、後者は「ネガティブ・ケイパビリティ」である。創造性が特に求められる研究分野でも、長い助走期間があり、それでも成果が上がらない期間が続く。止めようと思う時もあるだろう。しかし、この不安定で宙ぶらりんの状態(思考の熟成期間)が重要で、それに耐えていくと、ある時、思わぬアイデアが閃く(セレンディピィティ)。
一方、「学校秀才」と云われる人は、この宙ぶらりん状態に耐えられず、とりあえず性急に、現在の延長線上の解で満足する。これでは新しいものが生まれない。謎や問題には簡単に答えが見つからない場合がある。「不明のまま抱いていた謎は、それを抱く人の体温によって成長、成熟し、更に豊かな謎へと育っていくのではあるまいか。そして場合によっては、一段と深みを増した謎は、底の浅い答えよりは遙かに貴重なものを内に宿している」と(黒井千次)。
これは、「より速く、より効率的に、より正確に」(ポジティブ・ケイパビリティ)をモットーにしている現在の教育方針に対して痛烈なる批判でもある。
人生の中で、大きな挫折を経験した場合には、必ず、「なぜ私が?」と悶々と悩むであろう。その時、拙速に答えを出すよりは、長い時間をかけてその「意味」を常に考え続ける姿勢から思いもかけない真相、真理に気付く場合がある。何十年もかけて、ジグソーパズルの最後のピースが見つかった時、我々は、奇跡というか、不思議な真相に驚くのである。それこそ「神の恩寵」であったと。挫折は「意味」があったと。自分の人生は捨てたものではないと。しかし、その域に達するには、「ネガティブ・ケイパビリティ」が必要になる。性急な判断では同じことの繰り返しになる可能性がある。まして、他人を怨んで自分の責任を回避するような態度は言語道断である。長年かけて自問自答しながら悩み抜くことによってSomething Great(超越者)の意図に気付く僥倖にあずかるのである。そこから、「感謝」「謙虚」の気持ちが芽生えてくる。

すぐには答えが見つからない問題は年々、増えている。時間をかけ、悩み、考え抜くことにより、その問題の根本的で且、重層的意味が少しずつ明らかになってくる。これが重要であり、その状態を続けていくと問題の方から我々に解を示してくれる場合もある。
小林秀雄は「美しい「花」はあるが、「花」の美しさという様なものはない」と述べている。批評家の若松英輔は、このことを解釈して、「美しい花は実在だが、花の美しさを語るのは観念の遊びに過ぎない」と。観念の遊び、饒舌の言葉の段階では花の実在に迫ることができない。実在は人に存在の根源を垣間見せる。実在の深淵に辿りつくには「ネガティブ・ケイパビリティ」が必須になる。
目的指向的に「より速く、より効率的」に答えを出すAI時代(「ポジティブ・ケイパビリティ」)にあって、ものごとの本質により深く迫るには、「ネガティブ・ケイパビリティ」の重要性を再考すべき時期が来ているような気がする。