2017年10月18日

もしかしたら大物なのかもしれないと先買いする感じ

日本ではワケもなく行政トップが下院を解散できるんだってさ。

なんだそれ?

ドナルド・トランプ? テレーザ・メイ? ロドリゴ・ドゥテルテ?

誰がどう正統派で、誰が異端なのか。

シンゾー・アベ? 保守本流? 戦後レジームからの脱却? 憲法改正?

国際情勢はちょっとおかしな感じになっているけれど、文在寅はよくやっているのかもしれない。

日本との関係では、それは韓国なのでいろいろと問題があるのは仕方ない。

でも、ちょっとおかしなことになってる国際情勢の中で、この韓国の大統領だけ、少し周りとは違い色合いを出しているような気がする。

私が生きているうちに、この大統領について歴史的評価が定まるかどうかはわからない。でも、随分と近視眼的になってしまった現在の日本の政治状況を顧みると、この時期に韓国で文在寅政権ができたことは、何かの意味があるように思える。

ただの直観だし実証的な根拠は今のところない。「なんとなく」としか言いようがないのは、私が鈍ったからなのだろう。

さて、世界は平和になるだろうか。



chitenchishin at 02:36|PermalinkComments(0)

2017年08月22日

「あれよあれよ」も好きのうち

甲子園で行われている高校野球の全国大会を、大新聞社やNHKが大々的に支援して「国民的」なものにしようという営みを、そろそろやめてもらえないかと考え始めてから20年くらい経つ。学生の活動は他にもたくさんあるのに、なぜ「男子高校生の硬式野球」だけを取り上げてこれほどのマーケティング支援をするのかわからない。

それでも、メディアで下手なコンテンツを垂れ流しされるより、高校野球でも見ていた方がマシだという説には説得力がある。今や、無料で見られる地上波のテレビ番組にはろくなコンテンツがなく、せいぜい高校野球くらいは見せてくれという側面もある。

今年の夏の高校野球3回戦では、春夏連覇を目指す大阪桐蔭高校と仙台育英高校が対戦した。1-0で大阪桐蔭がリードして迎えた9回裏、仙台育英は2死から単打、二盗、四球で一、二塁の好機を得た。しかし、次の打者は簡単な遊ゴロ。誰もが試合終了と思った。

ところが、一塁手の足が塁から離れていて、打者はセーフになった。これで満塁。

甲子園の魔物とやらが蠢くのがわかる場面である。

一塁手はこの試合中に、仙台育英の選手の足と接触して負傷していた(故意に蹴られたものかはわからないが、私は映像を見て、個人的には故意に蹴られたものと感じた)。しかしこの一塁手は、この日の大阪桐蔭の1点を生んだ適時打を打った選手でもあり、勝利してヒーローになるところだった。

しかし魔物は、それを阻んだ。

9回裏2死満塁という漫画のような場面で、仙台育英の打者は左中間を抜ける打球を放ち、逆転サヨナラで大阪桐蔭を破った。

大阪桐蔭の西谷監督は、9回裏に2回、タイムを取って流れを引き戻そうとした。特に、遊ゴロに打ち取ったと思われた後の満塁になった場面では、伝令を走らせて、魔物の働きを止めようと試みた。さすが百戦錬磨のチームを率いる監督は、流れがおかしくなった時に何をすればいいかわかっている。間を取って勝負の大きな流れが自軍から離れかけているのを食い止めようとしたのだろう。

しかし、映像を見る限り、伝令が走ってタイムを取っていた時間は、短すぎたように感じた。それくらい、「打ち取った、勝ったと思ったら、セーフになってしまった」ことは、流れを大きく変える出来事だった。

監督は、大きな流れの変化を読み取り、できる限りの対処としてタイムを取った。しかしそれでも、負けたことについて、試合後の談話で「監督の責任」と繰り返し述べたという。

勝負事にタラレバを言っても仕方ないが、あの場面では、一塁手に「(前に蹴られた)足の具合が悪い」とでも言わせて、一旦ベンチで治療するために長めのタイムを取らせることはできなかっただろうか。

また、投手に対して、刺すつもりではなく間を取るつもりで、一塁や三塁のランナーに対して牽制球を何度も投げさせることはできなかっただろうか。

私は高校野球のルールもコードも、正確にはよく知らない。だから、大きな流れを食い止めるための方策として、上記のようなことをしていいのかどうかもわからない。

大阪桐蔭に肩入れするつもりもないが、魔物を制御して勝負の流れを引き戻す姿を見たかったと思う。


chitenchishin at 03:07|PermalinkComments(0)

2017年08月11日

映画『この世界の片隅に』後、初めての広島・長崎、終戦の日

このブログを始めて10年経ったらしい。

最近は自分が言いたいことも陳腐化していて、せいぜいfacebookでちょっと感じたことを書いてみたり、自分の日記の中で自分だけわかればいいような表現でテキトーなことを書いたりして、あまりブログ記事を書いていない。

主に外国を居所にして生活していて、もう3年になる。日本語能力がどんどん衰えているのがわかる。

インターネット上のニュースやコラムはお菓子みたいなものだ。カロリーはあっても三度三度の食事で摂るべき栄養素の補給にはならない。しっかりと構成、校正された書籍や新聞記事を習慣的に読まなければ、日本語で高度な議論をするための語彙は維持できないし、ポエティックな表現も生まれない。語彙が少なければ、無限で連続していて混沌としている自己の思いを、限られた数のアウトレットからしか吐き出せなくなってしまうので、時に自分の発する言葉に対して「何か違うんだけど、他に表現が見つからない」というような感覚に陥る。そして、脳の癖で同じ思考回路をたどる、同じ言葉を選ぶという気楽で安易な状態に嵌まって、短絡的で原理主義的な思考に入り込みやすくなる。

このことと、外国、特に途上国にいて「ここは日本とは違う」ということを「日本の優位性」と結びつけて考えたくなる気持ちが融合したとき、「日本信奉者」の海外在住日本人が生まれる。外国にいてその国の人と接する機会が多いはずなのに、いつも上から目線でその国の人や文化を「分析」したような気になって、ごくわずかな期間、ごくわずかな体験をしているに過ぎないことを忘れて、まるでその国についての第一人者、専門家であるかのように語るようになる。
語ること自体は悪いことではない。ただ、それが「日本信奉」と不可分に結合している人と話すと、とても厄介というか面倒な思いをすることになる。そんなに日本がすべての面で優れていてそれが好きだと言うなら、何も外国にいてその国を馬鹿にしながら暮らさなくてもよかろうにと思う。

しかしそんなことを少しでも表現しようものなら、「日本信奉者」からは変人扱いか、下手をすると在日扱い(「在外」なのだが)される。私は日本政府が日本国籍というものを制度的に維持していようがいまいが日本人で、仮に日本国籍を離脱しても日本人なのだが、もし私が日本国籍を離脱などしようものなら、「やっぱりあの人は日本が嫌いだったんだ」と言われるだろう。嫌いもへったくれもない、国籍はただの制度的なものであって、自分が何人であるかは自分だけがわかっているアイデンティティの問題であるだけなのだが。

私は日本人の両親から生まれ、日本で育った日本人で、日本をあえて信奉しなくても私の振舞いそのものが日本人であるはずだ。日本を愛しているかと問われれば、三島由紀夫のように答えるだけだ。現状の日本社会のあり方に憂いを抱き、変革を希求することは、愛国心とやらを阻害するものではない。自分を愛しているとしても、現状に満足せずに自ら「変わらなければ」と考えてその努力することはある。それと同じことだ。

だからこそ、日本人である以上、前の世代の日本人が間違ったことをしたなら、それに正面から向き合う必要があるし、それが世界に迷惑をかける行為だったならしっかりと学んで、繰り返さないようにしなければならない。自分たちの世代の問題ではないというのは逃げ道にならない。前の世代の日本人が築いた日本を誇りに思うなら、間違ったことにも目を向けなければならない。その上で、誇張や過大な要求、姑息なキャンペーンがあるなら、それに対して冷静に反論していくしかない。

ここ数日、CNNやBBCでは、北朝鮮のミサイルのことと、それに対するトランプ米大統領の反応を大々的に報じている。
日本は、アベノミクスとやらが成功しているのかどうか知らないが、戦争でもしないと経済を浮揚させられない体たらくだ。
武器輸出三原則を緩和し、集団的自衛権を認め、もちろん核兵器禁止条約への署名は拒否し、いつでも朝鮮特需をもらう態勢は整ったということだ。東京でオリンピックもやるらしいし、昭和回帰、20世紀よもう一度ということだろうか。原発事故があっても「原発を動かしてもらわないと地元の経済が成り立たない」という人々と同様、戦争が始まっても、結局それで儲かるなら表立って反対反対とは言わなくなる人もあるだろう。

特定秘密保護法、共謀罪、日本ではいろいろと準備が整ったようだ。今、「グアム付近へのミサイル発射」を喧伝する北朝鮮に対し、トランプ米大統領が決断すれば核攻撃すらありうる状況だ。CNNは8月9日の長崎の平和祈念式典の映像を交えて核兵器使用についての懸念を報じていた。しかし現状は、日本の被爆者の思い、平和希求の思い、核廃絶への思いは、取るに足らない少数派の理想主義にすぎないということなのかもしれない。日本が米大統領の振舞いに左右されて戦争に参加することになるなら、日本人にも大統領選挙の投票権をくれと言いたい。


「あぁ、なんも考えん、ぼーっとしたうちのまま死にたかったなぁ」

映画『この世界の片隅に』の中で主人公が吐露した思いは、私たちがもはや、「なんも考えん」でいることはできず、過去に学び、常に現状を良くしていこうとする不断の営みの中に生きるしかないことを私たちに突き付けている。


chitenchishin at 03:15|PermalinkComments(0)

2017年03月16日

論破リは差別用語ですか

マンスプレイニングだのコンサル病だの、とにかく説明したがり、「解決策」を提示したがり、理詰めで相手に逃げ道を残さないタイプの人がいる。職場でこういう人は、無意識でパワハラコードに引っかかるような言動をとったりする。困ったものだ。

他人にしゃべらせて揚げ足をとるのは簡単だ。口が回るタイプの人なら、相手が言ったことを捉えて理論的に批判し、しかもそこに前向きな「解決策」を付して語るのは容易なことだ。

でも、前向きな「解決策」なんて求めていなくて、ただ愚痴を言いたい、ただ近況を誰かに話したいというだけのこともたくさんある。そんなときに、理詰めでいろいろ説諭されても、うるさいと感じるか圧迫を感じるだけだ。

相手に逃げ道を残さない理詰めの会話、逃げ道どころか、先回りして普通の道さえ「もっと早く歩け」とばかりに畳みかけるような会話は、それ自体がもはや有害だと思う。論理構造を持っていれば正しいわけではない。論理的な悪はたくさんあるし、むしろ害悪は論理構造を持っていることの方が多いかもしれないくらいだ。

論理構造をまとって一方的に話す人は、相手を論破することに快感を覚えているにすぎない。私からすれば、それは自分の欲望の発露とそれを満たそうとする営みとを曝け出している、恥ずかしい人だ。欲望を他人に見せるのは、品がない。

逃げ道のない理詰めの会話に嫌気がしたら、「逃げるは恥だが役に立つ」という言葉を思い出そう。こういうタイトルだったTVドラマはほとんど見ていないが、2016年の話題作だったことは間違いない。ポエティックなタイトルだと思う。

上品に逃げようと思う。

chitenchishin at 02:36|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2017年01月02日

時間が余ってるときに限って時間に追われるんだよね

2016年を締めくくる紅白歌合戦を見た。多くの人と同じように、この番組は定点観測の対象だから、いつもいろいろと思うことがある。しかし今回は、ここ十数年で一番、時間泥棒というか、低レベルなショーを見せられて無駄に数時間を過ごさせられてしまったと感じている。

司会者がどう、SMAPの出演交渉を続けたために時間配分がどう、視聴者審査員と会場審査員の票数がどうといったわかりやすい問題点は当然のこと、個々の歌い手の扱いやカメラワークにもいちいち問題があったように思う。

あまりにもたくさんイライラさせられた点が多すぎて、もはや指摘するのも億劫だ。そういった点は、既にインターネット上でたくさん指摘されているので、ここでは備忘のためにいくつか記しておきたい。

・天童よしみさんには、もっと時間をとってしっかり歌ってもらうべきだった。曲や歌手の背景に迫るトークもろくになく、横で踊ってくれた本田望結さんばかりが目立つ演出になっていたように思う。

・会場の観覧者の様子を映し出す機会が少なかったように思う。「SMAP待望」のうちわを掲げていた人でもいたのだろうか。

・今回のテーマだった「夢を歌おう」ということに絡めたトークはほとんど聞かれず、唯一印象的だったのは市川由紀乃さんという初出場の歌手の母親が娘が紅白出場という夢を叶えたことに言及したことだった。もちろんこの母親は素人なわけだが、歌の前と後に話を振るという手厚い扱いだった。それにしっかり応えて、台本棒読み風ではなく自然な感じで「夢」に言及したのは、今回の紅白で唯一うまくいったトークだったのではないか。

・マツコデラックスさんが「あれ、さっちゃんじゃない?」と言ったのは、ギリギリの線だったのかもしれない。小林幸子さんは出ていないが存在感(というか、ある種の不在感)を示したということだろう。

・数年前に嵐の5人が司会をやったときに、木村君が勝敗にこだわる姿勢を見せたと言われていた。男女の歌手の対戦型という番組のつくりは時代遅れかもしれない。しかしそういう形態でやっている以上、つくりものの合戦でも、木村君のように勝敗について一定以上の熱量を傾けてもらわないと見る側も乗れない。審査員の票数を云々する以前に、司会者も演出の姿勢も、歌合戦という設定であること自体を忘れているようにすら感じられた。こうなると、「夢を歌おう」というテーマにまで気が回らないのも当然とも思える。

・全体的に、すべての出演者が「余計なことは言わないでおこう」というような消極的な姿勢に見えた。リハーサル時の歌手へのインタヴューでは、SMAPに関連する質問は遮られたと聞く。例年、多数の出演者(歌手以外の出演者を含む)が、目立とうとして不規則なアドリブなどを入れ、司会者が時間配分に苦慮するという場面を見てきた番組だ。今回の出演者のカメラ前、マイク前での消極姿勢には、異様な印象を受けた。全員が「余計なことは言わないでおこう」というような、萎縮した感じに見えた。

しかしこれほどひどいものを見せられるとは思わなかった。さまざまな事情があったとはいえ、関係者全員で反省会でもやってほしいと思う。



chitenchishin at 01:58|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2016年12月31日

「国民的」というノスタルジー

SMAPが今日で解散する。クソみたいな2016年を締めくくる、最後のクソみたいなスケジュールだ。

前にこのブログで今年はガッカリな年だったと書いてから、さらにジョージ・マイケルやキャリー・フィッシャーの死というガッカリなニュースを聞かされた。まったく、なんて年なんだ。

今年のレコード大賞は西野カナさんの楽曲に決まった。祝福したい。ただ、この賞が国民的な楽曲・歌手に授与されるものであるというのは20世紀の時点で既に終わっていた。歴史的役割を終えたものが正当な権威を保てるわけもなく、今年はさらに週刊誌が賞の買収疑惑を報じ、権威も建前もなくなった。

SMAPに功労賞のようなものを出すとか出さないとか話題になった時期もあった。しかし、伝統的にジャニーズ事務所がこの賞から距離を置いていること、SMAPが歌番組に出演しなくなったことなど、功労賞を出して出演してもらうための段取りは難しいように見えた。

結局、レコード大賞ではSMAPがなんらかの賞を受賞することはなかった。また、大賞は買収疑惑のあったグループではなく、西野カナさんが大賞に選ばれたということだった。

歴史的役割を終えたレコード大賞が、買収疑惑を大々的に報道された今年、多少でも権威を取り戻すためには、デビュー25周年、『世界に一つだけの花』の300万枚突破などを理由に、SMAPに功労賞でもなんでも賞を出すべきだったと心から思う。

SMAPやジャニーズ事務所が賞を辞退するかどうか、当日テレビに出演するかどうかは、その後の問題だ。大江健三郎が文化勲章を辞退し、ボブ・ディランがノーベル平和賞の受賞式を欠席したように、賞を授与する行為と、受賞者がそれに応えるかという問題は別のことだ。自分たちの賞を授与するだけの「功労」があると思うなら、相手が欲しがろうが欲しがるまいが、授与すればいい。

レコード大賞は、私たちの「最後の国民的な経験」とも言えるSMAPの功労を認めず、自らこの賞が歴史的役割を終えて久しいことを宣言してしまった。買収疑惑が報じられた今年こそ、誰が何を言おうが、本人たちが出演してくれるかどうかにかかわらず、矜持を保ってSMAPに賞を出すと発表すればよかったのだ。「国民的」なものが終わる最後の場面ですら、それを拾うことができなかった、レコード大賞の無力さを改めて見せつけられた。

まったく、クソみたいな年だった。

chitenchishin at 18:34|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2016年12月10日

New Year's Resolution の前に1年を振り返る気力すらない

ハノイで生活するようになってから2年半近く経った。いろいろなことの感覚が鈍り、どんどん頭が悪くなっているのがわかる。年齢的な衰えを凌駕するだけの経験を積んでいるとは思えない自堕落な状態だ。

結局私は、自分の人生について真剣に向き合うことなくごまかして生きてきて、これからもそんな風に生きていき、心も身体も再起できないところまで衰えてもプライドだけは高く根拠のない表面的な自己肯定をしながら、みじめな老後を迎えるのかもしれない。

自営業ゆえ、自分の仕事の値段を決めるのは自分だということはよくわかっている。今日も随分と理不尽な値切り要求があった。仕事そのものよりも値段の交渉の方にエネルギーを割くことになるような取引先は相手にしないのが良い。自営業を始めて数年になるが、いろいろと実践で学んだ。経済新聞は読まないが、日本経済とやらの外縁にあるものを垣間見ている。質の低い会社には質の低い客しか来ない。いや、客でさえない。タカリの方が多い。

これは卵鶏論で、質の低い客めいた連中を相手にしている限り会社の質は上がらないし、会社の質を上げないと質の低い連中しか寄ってこないということだ。私の仕事がうまく行っているとは言えないのなら、それは結局、質の低いサークルの中でふわふわと漂っている自分のせいだとしか言いようがない。

人生や仕事について改善するための努力を怠ったまま、2016年が終わろうとしている。今年はガッカリなことばかりの年だった。安倍政権の下、日本という国の行く末については、とうに諦めた。何にも期待してはいけない。人生の憂さを時に忘れさせてくれるはずの芸能さえも、かえって憂いを増すようなニュースを押し付けてきた。一体これから、何に心を預けていけばいいのだろう。

今年、自分にとって明るい出来事はあっただろうかと振り返っても、何も浮かんでこない。返す返すもガッカリな年だった。



chitenchishin at 02:49|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2016年11月19日

ヒラリー負けたアメリカ死ね

今年の流行語大賞の候補が発表されたというニュースを見た。正確には、「2016ユーキャン新語・流行語大賞」(「現代用語の基礎知識」選)のノミネート30語が発表されたということらしい。

ノミネートされた30語の中に、あのポエティックな一節「保育園落ちた日本死ね」が入っているらしい。

決して上品な表現ではないし、子どもが真似するのはよろしくないとも思う。しかし、これほどパラフレーズしやすくインパクトの強い言葉はない。私は今年、これのパラフレーズを何度も心の中で叫んだ。もちろん世界の中心で。

ヒラリー・クリントンが米大統領選でドナルド・トランプに負けた時、私は「ヒラリー負けたアメリカ死ね」と、心の中でシャウトした。もちろん世界の中心で。

同じく流行語にノミネートされているらしい「SMAP解散」についても、「SMAP解散○○死ね」と何度叫んだことか。もちろん世界の中心で。

まったくもって残念な年だよ、今年は。








chitenchishin at 03:34|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2016年07月29日

軽薄に見えて実はポエティックな人というのはいるのです

参議院選挙がまた、もはや絶望を通り越して厭世に走るしかない結果に終わった。かと思えば、都知事選挙がまたあるらしい。

せっかくの野党統一候補なのに鳥越さんの体たらくは何だろう。スキャンダル攻撃をするマスコミに対して圧倒的に魅力的な演説で飲み込んでしまうだけの力がない。統一候補選びに失敗したとしか言いようがない。

小池さんが勝ったら、東京都はそれなりに変わるだろう。しかし、彼女を応援すれば自民党を除名されるというのに、彼女自身は除名されないという珍妙な話がまかり通るのだ。小池さんが勝って、改憲街道まっしぐら、弱者切り捨て、でもオリンピックのスキャンダルを暴露してヒロインを気取るということになるでしょうね。

鳥越さんが勝って国が誤った方向に行かないように一石を投じ、でも東京都はろくに良くならない4年間か、小池が勝って東京都は一面で良くなるものの国が誤った方向に加速度的に進んでいく4年間か。増田さん?マスゾエ? あ、違うか。

もう上杉隆さんでいいよ。いや石田純一さん、出ててくれればなぁ。

まだオリンピックやろうとかリニア新幹線とか寝言言ってるような国は、凋落を重ねて誤った方向に突き進んでいくのでしょう。立て直すだけの役者はいない。石田純一って役者ってよりタレントだし。

でも石田純一さんの方がまだマシだったかもね。統一候補として。

chitenchishin at 02:00|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2016年05月28日

なんだかんだでこういう大統領を選んでるところがすごいと思うよ

数日前のことだ。大雨の後、夜中にタクシーで帰宅する。ハノイ市内にはまだ冠水しているところがあり、半地下の駐輪場への浸水でバイクがダメになった、自家発電機もおしゃかになったという話があちこちで聞かれる。深夜のタクシーはところどころに残る大きな水溜りを避けることもなく、水を派手にはね上げながら進んだ。

軍事博物館にあるソ連のミグを横目に、セミの声喧しい2kmの直線道を行く。タクシーの運転手は、これまでに出会ったすべての運転手の中で最も英語が達者な男だった。

「昨日はオバマ米大統領の訪越で交通規制があったから、商売がやりにくかったんじゃないか?」と尋ねると、運転手は「規制のおかげでみんなタクシーに乗って移動しようとしたから、商売繁盛だった」という。どこまで本当かわからないが、そんなものかもしれない。

オバマ米大統領は、訪越の後、伊勢志摩サミットと広島訪問のため日本に向かった。英語話者の運転手は教養ある人物で、エージェントオレンジに言及したベトナムでのオバマの演説は良かった、広島訪問も良いことだ、私たちはアメリカと戦争したが、何事も永遠に続くわけではない、私たちは関係を変えていくことができると話した。

ここハノイにいて、国際的な仕事をしているような気になっているが、国際関係について深く考え、誰かと語ることは少ない。在外の狭い日本人社会の中では、それぞれがどういった立場でハノイに来ているのかという無駄な考慮事項が入り込む。もともと日本人どうしで政治の話などはあまりしないものだが、在外だとさらに表層的でそれぞれの採る政治的なポジションを意識した話しかしないように思う。会話のレベルが、どうでもいいようなことばかりになってしまっていて、深い洞察力などは涵養されることなく、単なる「途上国での生活上のコツ」みたいなことにばかり通じた人がもてはやされることになる。

昨日はオバマ米大統領の広島での演説をライブで聴きたかったのだが、テレビを見られる環境になかった。一夜明けて先ほど動画を見た。科学が進歩した以上、道徳も進歩しなければならないという意味のことを言ったくだり涙が出てきた。

ここ二、三十年、8月以外に広島がここまで注目された時期があっただろうか。

オバマ米大統領は、2016年5月27日に、ノーベル平和賞受賞者としての宿題の一つを提出した。人類にとっての大きな一歩だと思う。彼には今後、「元米大統領」としての影響力をもって、もっと自由に自身の理想を追求してもらいたい。

chitenchishin at 15:53|PermalinkComments(0)
livedoor プロフィール
Twitter プロフィール
楽天市場