2017年03月16日

論破リは差別用語ですか

マンスプレイニングだのコンサル病だの、とにかく説明したがり、「解決策」を提示したがり、理詰めで相手に逃げ道を残さないタイプの人がいる。職場でこういう人は、無意識でパワハラコードに引っかかるような言動をとったりする。困ったものだ。

他人にしゃべらせて揚げ足をとるのは簡単だ。口が回るタイプの人なら、相手が言ったことを捉えて理論的に批判し、しかもそこに前向きな「解決策」を付して語るのは容易なことだ。

でも、前向きな「解決策」なんて求めていなくて、ただ愚痴を言いたい、ただ近況を誰かに話したいというだけのこともたくさんある。そんなときに、理詰めでいろいろ説諭されても、うるさいと感じるか圧迫を感じるだけだ。

相手に逃げ道を残さない理詰めの会話、逃げ道どころか、先回りして普通の道さえ「もっと早く歩け」とばかりに畳みかけるような会話は、それ自体がもはや有害だと思う。論理構造を持っていれば正しいわけではない。論理的な悪はたくさんあるし、むしろ害悪は論理構造を持っていることの方が多いかもしれないくらいだ。

論理構造をまとって一方的に話す人は、相手を論破することに快感を覚えているにすぎない。私からすれば、それは自分の欲望の発露とそれを満たそうとする営みとを曝け出している、恥ずかしい人だ。欲望を他人に見せるのは、品がない。

逃げ道のない理詰めの会話に嫌気がしたら、「逃げるは恥だが役に立つ」という言葉を思い出そう。こういうタイトルだったTVドラマはほとんど見ていないが、2016年の話題作だったことは間違いない。ポエティックなタイトルだと思う。

上品に逃げようと思う。

chitenchishin at 02:36|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2017年01月02日

時間が余ってるときに限って時間に追われるんだよね

2016年を締めくくる紅白歌合戦を見た。多くの人と同じように、この番組は定点観測の対象だから、いつもいろいろと思うことがある。しかし今回は、ここ十数年で一番、時間泥棒というか、低レベルなショーを見せられて無駄に数時間を過ごさせられてしまったと感じている。

司会者がどう、SMAPの出演交渉を続けたために時間配分がどう、視聴者審査員と会場審査員の票数がどうといったわかりやすい問題点は当然のこと、個々の歌い手の扱いやカメラワークにもいちいち問題があったように思う。

あまりにもたくさんイライラさせられた点が多すぎて、もはや指摘するのも億劫だ。そういった点は、既にインターネット上でたくさん指摘されているので、ここでは備忘のためにいくつか記しておきたい。

・天童よしみさんには、もっと時間をとってしっかり歌ってもらうべきだった。曲や歌手の背景に迫るトークもろくになく、横で踊ってくれた本田望結さんばかりが目立つ演出になっていたように思う。

・会場の観覧者の様子を映し出す機会が少なかったように思う。「SMAP待望」のうちわを掲げていた人でもいたのだろうか。

・今回のテーマだった「夢を歌おう」ということに絡めたトークはほとんど聞かれず、唯一印象的だったのは市川由紀乃さんという初出場の歌手の母親が娘が紅白出場という夢を叶えたことに言及したことだった。もちろんこの母親は素人なわけだが、歌の前と後に話を振るという手厚い扱いだった。それにしっかり応えて、台本棒読み風ではなく自然な感じで「夢」に言及したのは、今回の紅白で唯一うまくいったトークだったのではないか。

・マツコデラックスさんが「あれ、さっちゃんじゃない?」と言ったのは、ギリギリの線だったのかもしれない。小林幸子さんは出ていないが存在感(というか、ある種の不在感)を示したということだろう。

・数年前に嵐の5人が司会をやったときに、木村君が勝敗にこだわる姿勢を見せたと言われていた。男女の歌手の対戦型という番組のつくりは時代遅れかもしれない。しかしそういう形態でやっている以上、つくりものの合戦でも、木村君のように勝敗について一定以上の熱量を傾けてもらわないと見る側も乗れない。審査員の票数を云々する以前に、司会者も演出の姿勢も、歌合戦という設定であること自体を忘れているようにすら感じられた。こうなると、「夢を歌おう」というテーマにまで気が回らないのも当然とも思える。

・全体的に、すべての出演者が「余計なことは言わないでおこう」というような消極的な姿勢に見えた。リハーサル時の歌手へのインタヴューでは、SMAPに関連する質問は遮られたと聞く。例年、多数の出演者(歌手以外の出演者を含む)が、目立とうとして不規則なアドリブなどを入れ、司会者が時間配分に苦慮するという場面を見てきた番組だ。今回の出演者のカメラ前、マイク前での消極姿勢には、異様な印象を受けた。全員が「余計なことは言わないでおこう」というような、萎縮した感じに見えた。

しかしこれほどひどいものを見せられるとは思わなかった。さまざまな事情があったとはいえ、関係者全員で反省会でもやってほしいと思う。



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2016年12月31日

「国民的」というノスタルジー

SMAPが今日で解散する。クソみたいな2016年を締めくくる、最後のクソみたいなスケジュールだ。

前にこのブログで今年はガッカリな年だったと書いてから、さらにジョージ・マイケルやキャリー・フィッシャーの死というガッカリなニュースを聞かされた。まったく、なんて年なんだ。

今年のレコード大賞は西野カナさんの楽曲に決まった。祝福したい。ただ、この賞が国民的な楽曲・歌手に授与されるものであるというのは20世紀の時点で既に終わっていた。歴史的役割を終えたものが正当な権威を保てるわけもなく、今年はさらに週刊誌が賞の買収疑惑を報じ、権威も建前もなくなった。

SMAPに功労賞のようなものを出すとか出さないとか話題になった時期もあった。しかし、伝統的にジャニーズ事務所がこの賞から距離を置いていること、SMAPが歌番組に出演しなくなったことなど、功労賞を出して出演してもらうための段取りは難しいように見えた。

結局、レコード大賞ではSMAPがなんらかの賞を受賞することはなかった。また、大賞は買収疑惑のあったグループではなく、西野カナさんが大賞に選ばれたということだった。

歴史的役割を終えたレコード大賞が、買収疑惑を大々的に報道された今年、多少でも権威を取り戻すためには、デビュー25周年、『世界に一つだけの花』の300万枚突破などを理由に、SMAPに功労賞でもなんでも賞を出すべきだったと心から思う。

SMAPやジャニーズ事務所が賞を辞退するかどうか、当日テレビに出演するかどうかは、その後の問題だ。大江健三郎が文化勲章を辞退し、ボブ・ディランがノーベル平和賞の受賞式を欠席したように、賞を授与する行為と、受賞者がそれに応えるかという問題は別のことだ。自分たちの賞を授与するだけの「功労」があると思うなら、相手が欲しがろうが欲しがるまいが、授与すればいい。

レコード大賞は、私たちの「最後の国民的な経験」とも言えるSMAPの功労を認めず、自らこの賞が歴史的役割を終えて久しいことを宣言してしまった。買収疑惑が報じられた今年こそ、誰が何を言おうが、本人たちが出演してくれるかどうかにかかわらず、矜持を保ってSMAPに賞を出すと発表すればよかったのだ。「国民的」なものが終わる最後の場面ですら、それを拾うことができなかった、レコード大賞の無力さを改めて見せつけられた。

まったく、クソみたいな年だった。

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2016年12月10日

New Year's Resolution の前に1年を振り返る気力すらない

ハノイで生活するようになってから2年半近く経った。いろいろなことの感覚が鈍り、どんどん頭が悪くなっているのがわかる。年齢的な衰えを凌駕するだけの経験を積んでいるとは思えない自堕落な状態だ。

結局私は、自分の人生について真剣に向き合うことなくごまかして生きてきて、これからもそんな風に生きていき、心も身体も再起できないところまで衰えてもプライドだけは高く根拠のない表面的な自己肯定をしながら、みじめな老後を迎えるのかもしれない。

自営業ゆえ、自分の仕事の値段を決めるのは自分だということはよくわかっている。今日も随分と理不尽な値切り要求があった。仕事そのものよりも値段の交渉の方にエネルギーを割くことになるような取引先は相手にしないのが良い。自営業を始めて数年になるが、いろいろと実践で学んだ。経済新聞は読まないが、日本経済とやらの外縁にあるものを垣間見ている。質の低い会社には質の低い客しか来ない。いや、客でさえない。タカリの方が多い。

これは卵鶏論で、質の低い客めいた連中を相手にしている限り会社の質は上がらないし、会社の質を上げないと質の低い連中しか寄ってこないということだ。私の仕事がうまく行っているとは言えないのなら、それは結局、質の低いサークルの中でふわふわと漂っている自分のせいだとしか言いようがない。

人生や仕事について改善するための努力を怠ったまま、2016年が終わろうとしている。今年はガッカリなことばかりの年だった。安倍政権の下、日本という国の行く末については、とうに諦めた。何にも期待してはいけない。人生の憂さを時に忘れさせてくれるはずの芸能さえも、かえって憂いを増すようなニュースを押し付けてきた。一体これから、何に心を預けていけばいいのだろう。

今年、自分にとって明るい出来事はあっただろうかと振り返っても、何も浮かんでこない。返す返すもガッカリな年だった。



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2016年11月19日

ヒラリー負けたアメリカ死ね

今年の流行語大賞の候補が発表されたというニュースを見た。正確には、「2016ユーキャン新語・流行語大賞」(「現代用語の基礎知識」選)のノミネート30語が発表されたということらしい。

ノミネートされた30語の中に、あのポエティックな一節「保育園落ちた日本死ね」が入っているらしい。

決して上品な表現ではないし、子どもが真似するのはよろしくないとも思う。しかし、これほどパラフレーズしやすくインパクトの強い言葉はない。私は今年、これのパラフレーズを何度も心の中で叫んだ。もちろん世界の中心で。

ヒラリー・クリントンが米大統領選でドナルド・トランプに負けた時、私は「ヒラリー負けたアメリカ死ね」と、心の中でシャウトした。もちろん世界の中心で。

同じく流行語にノミネートされているらしい「SMAP解散」についても、「SMAP解散○○死ね」と何度叫んだことか。もちろん世界の中心で。

まったくもって残念な年だよ、今年は。








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2016年07月29日

軽薄に見えて実はポエティックな人というのはいるのです

参議院選挙がまた、もはや絶望を通り越して厭世に走るしかない結果に終わった。かと思えば、都知事選挙がまたあるらしい。

せっかくの野党統一候補なのに鳥越さんの体たらくは何だろう。スキャンダル攻撃をするマスコミに対して圧倒的に魅力的な演説で飲み込んでしまうだけの力がない。統一候補選びに失敗したとしか言いようがない。

小池さんが勝ったら、東京都はそれなりに変わるだろう。しかし、彼女を応援すれば自民党を除名されるというのに、彼女自身は除名されないという珍妙な話がまかり通るのだ。小池さんが勝って、改憲街道まっしぐら、弱者切り捨て、でもオリンピックのスキャンダルを暴露してヒロインを気取るということになるでしょうね。

鳥越さんが勝って国が誤った方向に行かないように一石を投じ、でも東京都はろくに良くならない4年間か、小池が勝って東京都は一面で良くなるものの国が誤った方向に加速度的に進んでいく4年間か。増田さん?マスゾエ? あ、違うか。

もう上杉隆さんでいいよ。いや石田純一さん、出ててくれればなぁ。

まだオリンピックやろうとかリニア新幹線とか寝言言ってるような国は、凋落を重ねて誤った方向に突き進んでいくのでしょう。立て直すだけの役者はいない。石田純一って役者ってよりタレントだし。

でも石田純一さんの方がまだマシだったかもね。統一候補として。

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2016年05月28日

なんだかんだでこういう大統領を選んでるところがすごいと思うよ

数日前のことだ。大雨の後、夜中にタクシーで帰宅する。ハノイ市内にはまだ冠水しているところがあり、半地下の駐輪場への浸水でバイクがダメになった、自家発電機もおしゃかになったという話があちこちで聞かれる。深夜のタクシーはところどころに残る大きな水溜りを避けることもなく、水を派手にはね上げながら進んだ。

軍事博物館にあるソ連のミグを横目に、セミの声喧しい2kmの直線道を行く。タクシーの運転手は、これまでに出会ったすべての運転手の中で最も英語が達者な男だった。

「昨日はオバマ米大統領の訪越で交通規制があったから、商売がやりにくかったんじゃないか?」と尋ねると、運転手は「規制のおかげでみんなタクシーに乗って移動しようとしたから、商売繁盛だった」という。どこまで本当かわからないが、そんなものかもしれなえ。

オバマ米大統領は、訪越の後、伊勢志摩サミットと広島訪問のため日本に向かった。英語話者の運転手は教養ある人物で、エージェントオレンジに言及したベトナムでのオバマの演説は良かった、広島訪問も良いことだ、私たちはアメリカと戦争したが、何事も永遠に続くわけではない、私たちは関係を変えていくことができると話した。

ここハノイにいて、国際的な仕事をしているような気になっているが、国際関係について深く考え、誰かと語ることは少ない。在外の狭い日本人社会の中では、それぞれがどういった立場でハノイに来ているのかという無駄な考慮事項が入り込む。もともと日本人どうしで政治の話などはあまりしないものだが、在外だとさらに表層的でそれぞれの採る政治的なポジションを意識した話しかしないように思う。会話のレベルが、どうでもいいようなことばかりになってしまっていて、深い洞察力などは涵養されることなく、単なる「途上国での生活上のコツ」みたいなことにばかり通じた人がもてはやされることになる。

昨日はオバマ米大統領の広島での演説をライブで聴きたかったのだが、テレビを見られる環境になかった。一夜明けて先ほど動画を見た。科学が進歩した以上、道徳も進歩しなければならないという意味のことを言ったくだり涙が出てきた。

ここ二、三十年、8月以外に広島がここまで注目された時期があっただろうか。

オバマ米大統領は、2016年5月27日に、ノーベル平和賞受賞者としての宿題の一つを提出した。人類にとっての大きな一歩だと思う。彼には今後、「元米大統領」としての影響力をもって、もっと自由に自身の理想を追求してもらいたい。

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2016年04月05日

貧乏くじを引いた後、どうします?

ハノイの空気が変わった。またあの蒸し暑い季節がやってくる。

去年の10月から、なけなしの金を食い潰しながらやってきた。仕事に関して面白い話は出てきているのだが、実現する前に息切れしそうだ。なんとかしなくては。

前は、ブログに書きたいことがたくさんあった。今はなんだか、感受性が摩耗してしまったのか、書きたいと思うことが少なくなっている。

疲れているんだろう。あと、日本社会での義憤みたいなものを忘れている。

日本から離れていて日々の情報に疎くなっているのと、ハノイの生活に対応するため(慣れたとはいえ、まだ「対応」しなければならないのだ)、小さなニュースには頓着しなくったことが大きいと思う。

あとは、日本に対する諦めのようなものもある。

もうこの諦めのようなものは、解消されることなく私の人生の後半ずっとつきまとうのだろう。

相変わらず、商売の上では貧乏くじを引いている。人から信頼され、嫌われてもいないから、オフィスもタダで使わせてもらい、アパートもタダで住ませてもらっているのだが、商売の話になると、私のささやかな要求を「過大」と受け取る人たちがいて困る。ケンカ別れも多いが、そういう相手は本当にろくでもない人だなと思う。

日本の会社もそうだし、日本人、日本社会もそうだが、劣化しているのか、もともとダメなのか知らないが、ガッカリすることが多い。特に、世代的に楽をしてきた人たち、それでいてそれは自分個人の「実力」で勝ち取ったと勘違いしている人たちの態度はヒドイ。
相手のことを考えもせず、無償でものを頼む輩が多すぎる。

貧乏くじを引き続けて、まだハノイにいる。いけるところまでいって、もう無理だと思ったら、諦めた日本社会に帰ろう。人生そのものを諦めることになるが。

chitenchishin at 00:46|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2015年12月19日

なんでもあり、というのがわかる場面は街中にあり

フィリピン・ケソン市からハノイに戻って、すぐに風邪を引いた。エルニーニョだ暖冬だと言っても、この時季のケソン市とハノイとでは15℃くらいの気温差がある。

幸い、丸1日自宅で身体を温めて汗を流しながら過ごすといういつもの療養法をとることができた。葛根湯を飲み、ひたすら汗を書けば回復するのだから、ありがたいことだ。

ハノイで電動自転車に乗るようになって何か月か過ぎた。最近はだいぶ慣れてきたが、やはりハノイでの道路交通の行動規範はおかしい。前を見て動けばよいのではなく、後ろから来る者にも注意しなければならないという点で、人間に不可能を強いる様式になっている。

道が悪いので、車もバイクも穴ぼこを避けるため、真っ直ぐは走らない。前を行くバイクが突然蛇行することも多いし、真横を並走するものがどんどん近づいてきて肘が当たるというのもしょっちゅうだ。逆走は当たり前だし、交通を滞らせる位置で平気で立ち話する駐車係もいる。

私はベトナムの行動規範を否定して日本式を崇拝するものではないし、ましてや日本式をベトナムに押し付けたいとも思わない。それでも、理に適っていないことは、ベトナムでもどこでも、理に適うように改良されるべきだと思う。

私が住んでいる地域には西洋人が多いのだが、この西洋人たちの交通に対する無頓着さも目に付く。バイクや車の駐停車、乗り降りに関しては、西洋人はベトナム人とほぼ同じように行動しているように思う。日本人、韓国人が多い地域で日本人や韓国人がそのようにしていると感じたことは一度もない。

「順番を待つ」ということ、「行列をつくって待つ」ということ、「邪魔にならないようによける」ということについての「気の利き方」の違いだと思う。文化に優劣はなく、あるのは違いだけだとしても、ある場面において合理的か不合理かを考えることはできる。店の前で、歩道にも車道にも多大な迷惑をかけながら停めたバイクにまたがって長い時間立ち話する人たちにはウンザリだ。新しく近所にできたレストランは、店内よりも店の前の歩道を占拠した席に客を集中させていて、歩道を歩くことができない状態にしている。それで渋滞が起きていてもお構いなしだ。これが理に適った行動とは到底思えない。

フィリピンの交通事情もかなりキツイものがあるが、少なくとも歩行者にとっては、ハノイよりは断然歩きやすいと思う。ベトナム人の交通上の行動規範だけでなく、私らを含む外国人の交通に対する意識も含めて、もっとスムーズで事故が起きにくいように変わってくれたらと思う。




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2015年11月15日

すべての言説は遺言である、と。

フードポルノが嫌いだ。
マラソンに大挙して参加するのを見るのは滑稽だ。
来年も見られるはずの自然の景色を撮影するのは怖い。

すべての写真は、遺影である。

写真を撮るという行為は、対象から魂を抜き取る行為と思われていた時代がある。あながち間違ってはいないと思う。撮影した瞬間に、対象は忘れ去られ、あるいは忘れられても構わないという地位に置かれることになる。

たしか川上未映子さんが、図書館の本の背表紙は墓碑のようなものだといったようなことを言っていた。

そうだ。そして私たち読者は墓掘りだ。

すべての言説は、遺言である。

このブログも、私の遺言である。

世界には、無数の遺言が遺されている。誰をも名宛人として想定していない遺言。強いて名宛人を限定するとするなら、私と同時代とそれ以降にインターネット空間を見る日本語を理解する人ということになるか。

せめて美しい遺言を遺したいと思う。





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