2006年08月

2006年08月30日

ろざりよの仲間

鈴木信太郎『随筆 虚の焦點』で森茉莉に関係ありそうな話の続き。

「ろざりよの仲間」は、辰野、山田他の仲間で同人誌「ろざりよ」
を発行し、日本橋の鳥屋に度々集まるほど仲が良かったという話。
森茉莉が山田家にいたときは、鴎外も「ろざりよ」に執筆していた。

雑誌の発行と平行して、月に一度「ろざりよ」の会合が開かれた。
いつも日本橋槇町の末広といふ鳥料理に集まつて、雑誌がつぶれてから
も二十数年月々同じ場所で開かれて(中略)この「ろざりよ」の仲間は、
何と言つたらよいのか、全く親身の、兄弟以上のつきあひで山田珠樹の
離婚の相談や病気の世話も、豊島与志雄の印税の管理も(中略)
皆この仲間がやつてくれた。


離婚した森茉莉を社会的に抹殺したのは彼らということなのだろう。
それから『記憶の絵』でパリで能を演じた石本巳四雄もこの会にいて

中学で二年の上級だつたが、中学時代から水泳や謡や
仕舞の稽古で互の家に往来したし


と、鈴木信太郎と昔からの付き合いがあった。ところで、
ろざりよの会の世話役は、久能木慎治という弁護士であった。

「久能木」というと、『東京の「地霊〔ゲニウス・ロキ〕」』で日本橋室町
の土地を頑として三井に譲らず、三井本館の設計まで変えさせた久能木商店
を思い出します。この一族の人だったら面白いんだけど。

久能木商店で扱っていた久能木式コンロとホーロー看板の写真が!
ロンコ油石 戦前の久能木式コンロと格闘する
久能木式石油コンロ  琺瑯看板 燃料等

それから青空文庫に豊島与志雄の「交遊断片」という文章
あって、山田・辰野・鈴木の名前が出てきています。

或るレストーランの二階、辰野隆君と山田珠樹君と鈴木信太郎君
と私と、四人で昼食をしていた。この三人は立派なプロフェッサーで、
私はその中に交ると、一寸変な気がするのである。
「僕は教師が片手間なんだから、少々うしろめたい気がするね。」
と私は、教師というものの本質論が出た時に云った。


それに対する三名の見解はリンク先を参照(一番最後の段)。


東京の「地霊(ゲニウス・ロキ)」


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2006年08月28日

鈴木信太郎『随筆 虚の焦點』にジャックの命名話

鈴木信太郎『随筆 虚の焦點』を買ったのは、下記2点が目的であった。
〇嚇勅郤や辰野隆などフランス文学者の思い出話
∪里療豕下町の商家の暮らしぶりとか思い出話

鈴木信太郎の生家は米問屋で、お正月には親しい人に餅を配ったとある。
配った人の名前に山田珠樹がいたので、奥さん時代の森茉莉はこの餅を
食べていたのだろう。おいしかったんだろな〜

山田珠樹については

珠樹は本を読む速さに特別な技能を持つてゐて、
小説ならどこの国のものでも忽ちに解つてしまつた。


と書いています。図書館司書の仕事は天職だったのだな。
同じことを辰野隆も随筆に書いていて、その代わり会話では
モーパッサンをモーサッパンと言ったり、女性名詞と男性名詞を
間違えたりはしょっちゅうだったらしい。

それから、ジャックが生まれたときの話が出ていて意外だった。
まあこういうのは当事者の山田珠樹や森茉莉は書きづらいだろう。
鴎外がじゃくと命名したが、字が難しすぎると山田珠樹の父が難色を
示したところ、鴎外が怒りの手紙を書いたというもの。以下引用。

森茉莉の初めの亭主だつたから、その長男が生れたときには鴎外先生は
非常に喜ばれたやうであつた。珠樹は息子の名をつけるのに鴎外に相談
したのは当然のことで、先生はじゃく(※)といふ字を選んだ。これは
珠樹から聞いたところによると、爵と同じで、音は雀ジャクで、盃の意
であり、フランスのジャックに通じるのださうである。私は「こいつは
杢四郎とも読めるな」と言つたが、この名前が山田の親父には気に入ら
ない。そこで何かもっと字劃の少ないものが欲しい、と注文したらしい
のだが、それがまた鴎外には気に入らない。鴎外は怒って珠樹に長い手
紙を書いた。巻紙に例の通りの細い字で書かれて、字劃の少ないものな
らこんな字がある、と「一」といふ字から始つて幾行幾字だか解らない
が簡単な文字が澤山に並べられて名目読みが附けられてゐたやうに覚え
てゐる。兎に角、鴎外はかんかんに怒つたらしい。


※「じゃく」は難しいあの字です

かんかんに怒る鴎外がいかにもだなあ。長い手紙書くのも。
この話は『随筆 虚の焦點』の「仏文新陣容」に出ています。


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2006年08月26日

神田生まれの仏文学者・鈴木信太郎

辰野隆のべらんめえについて の続き。

山の手生まれなのにべらんめえの辰野隆のことが気にかかっていた頃、
文春文庫『巻頭随筆』の2だか3だかを読んでいたら、最初に鈴木信太郎の
「東京のした町」があった。同じ文章が『随筆 虚の焦點』にも掲載されてます。

鈴木信太郎は神田の米問屋の生まれで、ちゃきちゃきの下町っ子なのだが
なぜか小学校は高等師範付属小学校に入れられて、地元の友達とは
「あたい」「おめえ」で遊んでいるのに、学校は山の手の子が多いので
それが通用せず「ぼく」「きみ」と呼んで、言葉を使い分けていたことを
書いています。母親に着せられた赤のネルシャツを級友に笑われたことも。

辰野:山の手生まれだけど、小学校ではべらんめえ
鈴木:下町の生まれだけど、小学校ではお上品言葉


『シラノ・ド・ベルジュラック』を訳した二人は、育ちと学校で使う言葉が
お互いに正反対だったのでした。でも仲良しだったんだよなあ。
鈴木は下町といっても職人の家ではなくて、裕福な商家の生まれだからか?

森茉莉の作品のどこかに「山田珠樹の友人には日本橋の米問屋の息子がいて」
ということが書いてあって、読んだ当時日本橋に勤めていたので、どこの問屋か
と気になっていたが、これは鈴木信太郎のことではないのだろうか。
鈴木信太郎の随筆によると、米問屋と言えば昔の東京では神田佐久間町と深川佐賀町

なのだそうだ。森茉莉がわざと日本橋と書いたのか、思い違いなのかは不明。

中央大学のサイトより、『随筆 虚の焦點』の目次

東大を退官した鈴木は中央大学に勤めました。鈴木の生家が中央大
と同じ神田にあり、中央大とは色々ご縁があったようです。今は
三井住友海上のビルがあるところに中央大学があった。


chiwami403 at 09:28|PermalinkComments(0)森茉莉 | 森茉莉

2006年08月24日

辰野隆のべらんめえについて

戸板康二『あの人この人』に辰野隆が出てる、と
以前記事にしましたが、この本は、松岡正剛の千夜千冊でも
取り上げられていて、辰野の箇所の解説を読んでいて違和感があった。

松岡正剛の千夜千冊『あの人この人』戸板康二
シラノ・ド・ベルジュラックで、シラノが悪態をつく長ゼリフについて

これはそもそも赤坂は氷川の氏子に育った辰野の
べらんめえ口調が下敷きになっていた。


こう解説している部分。
赤坂は昔の東京では山の手だから。辰野隆は東京で生まれたけど、
親は唐津(佐賀)の下級武士出身で帝大教授になった建築家の辰野金吾
だから、親譲りの言葉遣いでもない。獅子文六の『山の手の子』
でも山の手の典型的人物として辰野隆が挙げられている。

辰野隆の『燈前茶後』を読むと、通った幼稚園には上流階級の子しか
いなかったが、小学校は桶屋や車屋の職人の子ばかりが同級の公立で、
べらんめえが身に付いたというようなことが書いてあります。

冒頭の戸板本では、辰野隆が鈴木三重吉に啖呵を切ったときのセリフが
紹介されていてそこに「氷川の氏子」とあるのだけど、それには
「自慢にはならねえが」と前置きがあるのです。
逆に自慢していたのは、日枝神社や神田明神の氏子である日本橋、
神田、京橋の下町の人たちで、江戸城内に祭礼行列が入り 徳川将軍の
上覧にあずかったのは実質この二社だけなのが理由。

だから「氷川の氏子に育った辰野のべらんめえ」ではなくて
「山の手のお坊ちゃんなのにべらんめえ」なのが辰野の面白い
ところではないかと思うのです。

回りくどい説明でしたが、『シラノ・ド・ベルジュラック』の共訳者、
鈴木信太郎の話を次に書くための前置き的な記事です。共訳者だけど
辰野と対照的なところがあるので。

この後でちょっとだけ森茉莉に関係ある話も出てきます。

あの人この人―昭和人物誌


chiwami403 at 12:46|PermalinkComments(0)森茉莉 | 森茉莉

2006年08月20日

海月書林と書肆アクセス

荻窪のひなぎく内に開店した「海月書林実店舗」に
行ってきました。料理、洋裁本のほかに佐野繁次郎装丁本
とか、海月書林ぽい本の実物がずらりと並んでて見るのが楽しい。
店主の市川さんとお話しするのにドキドキしましたわさ。

池田満寿夫装丁の『甘い蜜の部屋』など、森茉莉本も置いてあります。

海月書林 ○。くらげしょりん
海月書林INひなぎく

私が買ったのは『金子光晴 下駄ばき対談』(現代書館)
田辺聖子、富岡多恵子、吉行淳之介など豪華メンバーですが
「稲垣足穂・田中小実昌・金子光晴鼎談」がすごい。エロ話
と文壇の悪口がてんこもり。これは金子光晴特集の「太陽」
(光晴画の春画掲載)とともに、Hugo Strikes Back! の人に
差し上げるつもり。

荻窪に行ったら、ブルーベルのオムライスも忘れずにどうぞ!!
以前「ねこそぎ記念」に書いた記事(オムライスの画像入り)

それと書肆アクセスで「modern juice 7」を買いました。
料理本特集です。料理本鑑賞好きなので、紹介読んでるだけでおいしそう。
この特集の中で自分が実際に使いそうなのは、萩原魚雷の文章に出てきた
『ベターホームのスピード料理』じゃないかしら。
2ちゃんねるの料理本スレで婦人之友社の『魔法使いの台所』が評判に
なってたのですが、これと似たような本なのだろうか。魔法使い本は
持ってるけど、読んで満足して何もしていない。

魔法使いの台所―まとめづくりと手早い料理で夕食用意が30分


chiwami403 at 20:46|PermalinkComments(0)脱線 | 脱線

2006年08月17日

長谷川春子の装幀本を発見

東急東横店に行ったついでに催事場の古本市を見た。

小島政二郎の小説や随筆を何冊か見かけたので
「そういえば長谷川春子がこの人の本の装幀やってたな」
と思い出し、表紙の絵も見るようにしていたら、
見覚えのあるタッチの絵が。長谷川春子装幀本だ!

昭和29年 東方社『成熟前後』(小島政二郎)であった。
表紙と扉の絵だけ目当てで買うのはなあ、と迷いつつも
これを逃したら一生……と思い直し、買うことにする。

でも、この書名でGoogleや日本の古書店で検索しても
全然ヒットしない。忘れられた存在なのであろうか。
貧しい家に生まれたケサという少女が嫌々芸者になり、
劇作家の客と知り合ってから女優へ転身し…という戦後
混乱期の長編小説のようなのだが(斜め読みしただけ)。

他に買ったのは、渋谷の飲み屋「とん平」に集まった
作家たちによるアンソロジー集『しぶや酔虎伝』。
限定千部らしいが、私の本には番号がなかった。
とん平の場所は、現在の「のんべい横町」(JR線路脇)
がある辺り。舞台と映画関係の人物はあまり分からないが、
高田敏子、熊井明子、向田邦子の文章も掲載されていて、
熊井明子は店にいた猫のことを書いている。

長谷川春子装幀『成熟前後』表紙

『成熟前後』表紙拡大

chiwami403 at 12:31|PermalinkComments(2)長谷川時雨 | 長谷川時雨

2006年08月11日

鴎外の娘が「街の故郷」を書いたということ

講談社文芸文庫『父の帽子』収録の「街の故郷」は
離婚したとはいえ鴎外の令嬢が、下町暮らしの良さを語った作品である。

神吉町のことをネットで調べていたら、神吉町の隣は万年町といって
唐十郎の出身地。『下谷万年町物語』という作品があります。
昭和15年生まれというから、都電から降りてアパルトマンへ向かう
途中の森茉莉が、幼い唐十郎をすれ違っていたかもしれないな。
戦後は男娼の街だったらしいが(下記リンクの「万年町」参照)
森茉莉の『恋人たちの森』的作品とは……関係ないだろう。

この万年町は、

東京市において貧民の最も群をなして族集せるは四谷区の鮫ケ橋。
下谷の万年町、山伏町。 芝新網の右に出づるはなからん。
『横山源之助「浅草の底辺 」』


と言われていたらしく、そういう状態なのは大正の半ばごろまでで、
森茉莉が暮らす頃には普通に長屋が並んでいたそうだが、
戦後になって森茉莉が「街の故郷」を書いた頃でも、明治〜大正生まれの
世代には都電の下車坂で降りる、といえばあるイメージが浮かび上がった
のではないだろうか。

森茉莉が「街の故郷」で描いたのは、いわゆる粋な下町ではなくて、
元は貧民窟で書いた当時は男娼の巣窟のすぐ隣だった、ということを考えると、
それを鴎外の令嬢が全面的に礼賛しているのって相当すごいんでないか。
妹の小堀杏奴の優等生的著作と対照的すぎるという点を考えても。

森茉莉が住んでいた神吉町は漫画家の加太こうじの出身地で、
加太こうじの下町関係の本を読むと、神吉町や周辺の話がよく出てきます。
それから写真家の桑原甲子雄は車坂町の出身で『東京昭和十一年』を
見ると車坂町の写真が何枚かあるので、森茉莉の住んでいた場所の
イメージがなんとなくわかります。

ご参考:「台東区」のサイトより
万年町(唐十郎他書籍からの引用)
大正元年の万年町付近地図 (下車坂の停車場や神吉町の町名も見える)


chiwami403 at 17:42|PermalinkComments(0)森茉莉 | 森茉莉

2006年08月08日

神吉町のアパルトマン

森茉莉は浅草アサクサと戦前住んだ浅草を礼賛しまくりだったので
浅草寺とか仲見世の近くに住んでいるのだと私は思っていた。

浅草は観光程度でしか行ったことがないし、「神吉町のアパルトマン」や
「下車坂の停留所」も今はない地名だから適当に想像していたが、
Googleで検索して昔の地図を見たら、むしろ上野駅に近かったので拍子抜けした
(アパルトマンは上野駅に近いと書いた箇所もその後発見)。

神吉町は現在の東上野4丁目で、上野駅から東側に出て昭和通りを北上して東側に
入ったところ。現在はバイク屋が多い地域で、東京メトロ唯一の踏切も近くにある。

森茉莉が神吉町のことを浅草と言っていたのは、住み始めた
昭和16年頃は神吉町が浅草区に属していたからかもしれません。
その後下谷区に編入されて、戦後は下谷区・浅草区が合併して台東区に。

浅草下谷散歩:神吉町の由来


この場所だと、上野広小路の風月堂でアイスクリイムを魔法瓶に詰めて
もらっても歩いて帰れるなあ(地下鉄で1駅分)と納得。
ご参考:上野風月堂のアイスクリイムと森茉莉

このblogを作るかなり前に、神吉町周辺をうろうろしてきたので、
森茉莉がどの辺に住んでいたかは知らないが、適当に写真を撮ってきました。
神吉町は現在はない地名だけれど、町内会の名前に残っていて、
例によって掲示板を撮影。2003年の写真だけど、今は残ってるだろうか。

『少女座』の「茉莉さんの東京地図」には、勝栄荘が1986年まであったと
記されているが、森茉莉サイトの「黒猫ジュリエットへの手紙」を見ると
「るるぶ 1988.2月号 とっておき東京案内」 にそのことが書いてあるようだ。
当時のるるぶ編集部、よくこんな情報載せたな。

この辺りは昔の面影があまりないけれど、下谷神社周辺の看板建築、
浅草通り沿いの医院などが昔のまま残っています。
あとは上野駅。昔の貴賓室がレカンという店になってます。休みの
日は混んでるけど、お茶だけならそれほど金かけずにレトロに浸れます。

写真は神吉の名前がある町内会掲示板と
銅張りのレトロな建物。

神吉の名前がある町内会看板


神吉町の銅張り建物

chiwami403 at 12:51|PermalinkComments(2)森茉莉 | 森茉莉