2007年11月

2007年11月29日

森茉莉主要作品解題「私は文学者だよ」について

月曜にユリイカを買った本屋に再度行ったら、ユリイカ1部しか
残ってなかった。売れてるのでしょうか、森茉莉特集号。

さて、ユリイカ12月号の「森茉莉主要作品解題」について。
木村カナさんのはてなダイアリーにて訂正・補足がありました。
2007-11-27 - Kuchinashi/magic memo

10月下旬〜11月上旬の、ユリイカ特集の原稿に取り組んでいる日記を
リアルタイムで拝見してましたが、締切りまであまり日数がなかった
のに読んで調べて書いては大変だったでありましょう。

2007-11-28 - pêle-mêle
に、ジイプ夫人についてのWikiを仏→和訳したものがあります。
主要作品解題の資料として訳したそうですが、ユリイカには字数の
関係で載せられなかったそうです。

また、文中で触れていた須永朝彦の文章はこちら↓
【須永朝彦バックナンバー】 森茉莉譯著『マドモアゼル ルウルウ』奇談

それから、『濃灰色の魚』の巻頭に掲載されているという平福百穂
の絵はありがたいことにネットで見られます。
早稲田大学図書館 WEB展覧会 館蔵[肖像画」展 - 忘れがたき風貌 - 
(上から6つ目。クリックすると拡大表示できます)

・木村カナさんのサイト→ Kuchinashi
森茉莉と幸田文について書いた  「父の娘」たち―森茉莉と幸田文 もあります。
「文庫で読み比べる森茉莉と幸田文」、並べてみると余りに対照的すぎてすごい。

ユリイカ 2007年12月号 特集=森茉莉


chiwami403 at 20:16|PermalinkComments(0)森茉莉 

2007年11月27日

ユリイカ12月号 森茉莉特集を読んだ

青土社サイトの森茉莉特集案内 :森茉莉 - 青土社

読んでて気になった点。

萩原朔美・熊井明子・伊藤文學の3人が森茉莉の部屋目撃話を書いている。

白石かずこ「森茉莉の、内宇宙、鴎外と世田谷の、「甘い蜜の部屋」 に住んでいた日のこと」
・白石かずこの料理「人参トロトロ」は森茉莉が好きだったらしい
・森茉莉の誕生日に矢川澄子と白石かずこがお祝い(茉莉さん孝行)すると
 「パリのコックさん」「ラ・ドンナ・エモビレ」などを森茉莉が唄う

熊井明子「夢を見ることが私の人生」
・「一方的な森茉莉の『語り』に終始した」という、森茉莉との電話メモ
・”夢の回り灯籠電話”が年に数度、十年以上続いた後、森茉莉に直接会った
・菫の石鹸は渋谷の東横の地下(東急東横店? しぶちか?)で買っていた
・森茉莉がモデルの小説を書いて、最近本になった。早川さんのブログで紹介有
森茉莉雑記帖 ─ 森茉莉とその周辺雑記─:森茉莉──何ものにもとらわれずに生きる、という奇跡をおこなっていた女性 - livedoor Blog(ブログ)

伊藤文學『薔薇族』 的森茉莉考 
・『薔薇の小部屋』で森茉莉に原稿を依頼したのは文學氏
・内藤ルネがデザインした鍋を森茉莉にあげたら大変喜ばれた

早川さんインタビュー
・新しい森茉莉の本を作っているところ、らしい
・「ファン向けでも文学案内的な本でもなく、森茉莉の言葉の世界を
 味わうスクラップ・ブックのような一冊」

木村カナ 森茉莉主要作品解題「私は文学者だよ」
河出夢ムックの早川さんによるブックガイドは文庫本中心ですが
こちらは生前の単行本作品九冊をじっくり解説。

マドゥモアゼル・ルゥルゥの翻訳に協力したという東大仏文出身の
前川堅市の件、初めて知った。1902年生まれというと、渡辺一夫と
今日出海の間の年齢。辰野隆の評伝『辰野隆 日仏の円形広場』や
東大仏文学者の文章に名前が出ているだろうか。

これを読んで思い出したのは
2006-10-14 - 神保町系オタオタ日記 の「森茉莉のために一肌脱いだ吉野作造」。
森茉莉の翻訳を見てもらうため岸田國士を紹介してほしい、と森茉莉の母親が
頼んできたのを吉野作造が日記に書いているのだ。

室生犀星/三島由紀夫/横尾忠則 / 森茉莉 [聞き手=竹田厳道]
森茉莉と雑誌「一枚の絵」創刊号での社長竹田厳道との対談。
『一枚の絵』2004年12月号に再録されたもののコピーが手元にあるが

特別企画 創刊号より再録  森茉莉が語った「私こそフランス人」

というタイトルがついている。
創刊号では「室生犀星/三島由紀夫/横尾忠則」というタイトルだったのだろうか。
手元のコピーには対談の前に竹田社長のコメントと詩のようなものが入っている

むずかしいおばちゃんと聞いていたのでネクタイの幅まで気にして臨んだ次第
ところがどうでしょう こんな愉快なおばちゃんはちょっといまどきない 
珍品である 貴重品である そして感心させられた 
鴎外の娘であるより わたくしこそ「フランス人」であると言われる
 犀星を語り 懐かしみ
 三島を偲び やや涙ぐみ
 横尾忠則のあすを注目する
 歳とらぬ六十七の童女


この社長の言葉で「私こそフランス人」という題になったのだろう。

あと2004年12月号には対談中の写真も出てます(料亭で社長と向かい合い)。
「寒さはもういくつになっても平気なの」という森茉莉は半袖のシャツ(対談は10月)。
3年前のバックナンバーなら、ブックオフや古本屋をよく探せば見つかるかもしれない。

森茉莉エッセイ選
以前も書きましたが、全集未収録作品4点は全部ネットで読めます。
他のものは全集にのみ掲載の作品が多い(と思う)。

日日の中の楽しさ
栄養と料理デジタルアーカイブス(著者名で検索→ま行→森茉莉→タイトルクリック)
漱石のユウモアは暗い小説の中にも
Hugo Strikes Back!: 森茉莉 漱石のユウモアは暗い小説の中にも
シャーロック・ホオムズ 
Hugo Strikes Back!: 森茉莉 シャーロック・ホオムズ
私の聴いた童話
Hugo Strikes Back!: 森茉莉 私の聴いた童話 - 清心丹の香ひの中で -

(執筆者のサイト)
・早川茉莉 Atelier.Sumire. Gingetsu Books
・伊藤文學 月刊『薔薇族』編集長伊藤文學の談話室「祭」
・千野帽子 0007 文藝檸檬
・木村カナ Kuchinashi


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2007年11月26日

ユリイカ12月号 森茉莉特集(写真図版一覧)

ユリイカ12月号、27日発売と聞いていたけど、今日売ってたので買ってきた。

とりあえず、森茉莉写真館に出てた写真と図版の一覧。
他の気になった点はまた明日以降に。

「」内は写真についてたキャプション。※以下は同じ写真の掲載場所。
「河出」はKAWADE夢ムック 総特集の「森茉莉アルバム」です。

1頁目 「日比谷の写真館にて(1915年12歳)」※河出3頁目上部
2頁目 右上 看護婦さんと一緒の写真 ※河出2頁目下部
    左上 「夫・山田珠樹と森茉莉」※河出4頁目
    右下 「父・鴎外」
    左下 「母・志げ」 ※『森茉莉かぶれ』に出てたのと同じ
3頁目 結婚前の写真 ※河出本文49頁と同じ
4頁目 『薔薇の小部屋』掲載「柿の色と柿色」原稿
5頁目 「柿の色と柿色」原稿続き、『薔薇の小部屋』掲載誌面
6頁目 上(解説なし) ※河出1頁目 
    写真横に森茉莉によるオーデコロンの絵「白石かずこ宛 封筒裏のイラスト」
    下 「森茉莉手書きの巴里の地図」
    ※『鴎外の遺産II』に同じのが出てたような?(未確認)
7頁目 右上「下北沢駅周辺の地図」
    左上「下北沢駅から倉運荘への地図」
    左下 ※河出中扉と同じ(写真がぼやけてませんかこれ)
8頁目 上 「熊井明子宛て 金色の鉛筆でのサイン」
    下 特に解説がないので年代不詳。 
      『森茉莉 贅沢貧乏暮らし』表紙写真よりは年とってるように見える。

「下北沢駅周辺の地図」「下北沢駅から倉運荘への地図」出典なしなのはなぜ?

chiwami403 at 22:19|PermalinkComments(0)森茉莉 

2007年11月25日

青土社サイトのユリイカ森茉莉特集予告

27日に更新、と思ってたけど記事になることがあった。

森茉莉街道をゆく(+長谷川時雨):ユリイカ12月号「森茉莉」の特集内容
で、11月号の紙面に出ていた予告を書き写しましたが、青土社のサイトを
見たら特集の内容がより詳しく出ていた。買うかどうか検討中の方はご参考に。

森茉莉 - 青土社 (表紙画像も有)

【森茉莉発言集】の[聞き手=竹田厳道]
雑誌「一枚の絵」創刊号インタビューの再録と思われます。
竹田氏は一枚の絵社長の名前。先日図書館でコピーしてきたので
記事にしようと思っていたけど手間が省けてよかった。

ご参考:『一枚の繪』創刊号で森茉莉が「私こそフランス人」

私がコピーしてきたのは創刊号でなく2004年12月号の再録分。
四谷信濃町の光亭での森茉莉の写真が出ていた。
ちなみにタイトルは「私こそフランス人」だけど、実際の発言では
「私は大変にフランス人なのだ、ってことをパッと感じた」となっている。


chiwami403 at 16:34|PermalinkComments(0)森茉莉 

2007年11月22日

銀座の汁粉屋「十二ヶ月」

次回の更新はユリイカ発売の27日夜の予定。


山田珠樹の文章「パリのお菓子の思ひ出」の冒頭の一部を再度引用。

昔子供の頃銀座にあつた十二ヶ月といふ汁粉やに誘はれて何度も行つたが、
そこで懸賞の十二月を悉く平げて浴衣一反をせしめようなどとは一度も
思つたことはなかつた。


この十二ヶ月という汁粉屋、森茉莉の「幼い日々」にも名前だけ出てくる。

私は母にお化粧をして貰い、軍服を着た父や、美しい母に伴れられて方々へ
行った。佐佐木さんの園遊会や、岩崎さんのお庭、伊予紋や八百善、神田川、
天金に、十二ヶ月。上野の山のお花見。浅草の仲見世、奥山の萬盛庵。

(「幼い日々」講談社文芸文庫『父の帽子』35ページ)


明治20年代〜明治末生まれあたりの人々の随筆を読むと、十二ヶ月の
名前が時々出てくる。これを読んだ明治生まれの人は
「ああ、あの十二ヶ月」と懐かしい思いがしたのではないだろうか。

森茉莉の2歳年下、明治38年生まれで本郷で育った玉川一郎によると、

「お汁粉や」の有名な店は明治時代から、市内のいたるところにあり、ことに
「十二ヶ月」などという店は、一々味や趣向の違う汁粉を十二椀食べ終わると、
反物などの景品をくれる上、汁粉はタダなんていうことが評判だったそうだが、
そのころのことは、私は知らない。
『たべもの世相史・東京』(昭和51年7月発行・毎日新聞社)「蜜豆のこと」


手元にコピーはないけれど、中央区の郷土資料館で見た資料にはあの広瀬中佐が
十二杯食べたという記述があるが本当なのだろうか。十二杯の汁粉の詳細を記述
するところになって頁が切り取られているので、どんな汁粉が出てきたか分からず
残念であった。

関東大震災後の銀座を詳しく書いた『銀座再見』に十二杯の汁粉のことが
少し出てる。それから震災後にお店が移転したことも。

汁粉屋
汁粉はしがらき新道に昔から有名な十二ヶ月がある。この店はもと表通り一丁目に
あったので、それが南金六町へ移り、震災後今のところへ更った。そのころは
十二杯の汁粉を十二ヶ月に割り当てて、全部食べた人には代はとらずに景品に反物を
くれた。ところが、これは月が重なるに従ってだんだんわる甘くなってゆくので、
十二ヶ月みんな食べ了せる人はほとんどなかった。(中略)今ではただの汁粉屋で、
もう反物はくれない。

中公文庫『銀座再見』安藤更生(1977年9月発行)


松崎天民の『銀座』(ちくま学芸文庫)も同じく震災後の銀座について書いた本で、
巻末の「銀ブラガイド」には十二ヶ月の広告(?)が出ています。
震災前(森茉莉が行った頃)は南金六町=今の銀座8丁目、中央通東側にあって、
震災後のしがらき新道は、8丁目中央通りの一本東側の道。

銀座のハウスオブシシセイドウの資料コーナーには銀座関連図書を集めた棚があり、
そこで見た『銀座ばやし』には年代ごとの中央通の店を紹介する欄があり、
8丁目の東京三菱UFJ銀行の数軒南側に十二ヶ月はあった。

chiwami403 at 19:43|PermalinkComments(1)森茉莉 

2007年11月17日

山田珠樹「パリのお菓子の思ひ出」

山田珠樹の随筆『小展望』に掲載の文章。
辛党だけど甘いものも出されれば喜んで食べる、でも自分から積極的に食べに
行く程度ではないという山田珠樹。
森茉莉のことは全く書いていないけど、上記のような甘党の山田珠樹は妻と一緒に
お店へ行ったのであろう、というわけで冒頭から原文写します。

 フランスのお菓子をフランスで味はつたのはもう二十年も前のことであるから、今では随分違つてゐるかも知れない。
 私は元来辛党の方で、お酒なら自ら苦心して探し求めもするし、自分から飲みにも出かける。(中略)私は辛党と云つても邪道を辿つてゐるもので、甘いものは出されれば辞退しないばかりでなくおいしいとさへ思ふ。(中略)甘いものはこんなに好きであるが、さてこちらから積極的に食べに行かうといふ気は先づ出ない方なのである。昔子供の頃銀座にあつた十二ヶ月といふ汁粉やに誘はれて何度も行つたが、そこで懸賞の十二月を悉く平げて浴衣一反をせしめようなどとは一度も思つたことはなかつた。パリでも行き当たりばつたりにお菓子やに飛び込んで、お菓子を食べたので、自分で有名なお菓子を調べて、食べくらべをして歩いたりしたのではない。たヾ私の狭い経験内だけの話である。


文章入力するの大変なので全文は諦めて一旦中断します。
以下、中断部分に出てくるお菓子とそのお店。

フランスの地方の名物菓子(コメルシィのマドレイヌ、ランスのビスケット、
ヂジョンのパン・デビスモンテリエルのヌガ)もあるが素朴で大味。
パリの高級な菓子店はリヴォリ通のラムペルメア(学生の貧弱な服装なので
数えるほどしか行かなかったそうだ)はモン・ブランが美味しかった。
白いクリームのしたに日本のあんこに似たものがあるのが、懐かしかった。
他にセヴィニエ公爵夫人(ラ・マルキーズ・ド・セヴィニエ)とか
侯爵(マルキ)というチョコレート菓子専門の店があった。

山田珠樹の食べたモンブランは東京會舘のマロンシャンテリーのようなものだったのだろうか。
マロンシャンテリーについては、東京會舘伝統のお菓子の話 をご覧下さい。

ここで本題というか一番興味ある、住んでいたホテル近辺のお菓子について。
この部分は書き写し。

 私は学校区画であるラテン区に棲んでゐた。従つてよく行つたお菓子やはラテン区のもので、ことにその中心散歩通である、ブール・ミッシュ、詳しく云へばブールヴァール・サン・ミッシェルのお菓子やである。特に二軒によく言つた。一つはリュクザンブルグ公園の角メヂチの噴水に臨んだ通にあつた。たしかデュボアと云ふ名だつたと思ふ。こヽのお菓子は相当上等だつたが、ここのオランジャードはおいしかつた。今一軒は医学校通とラシーヌ通とに挟まれた角店でこれは当り前の喫茶店である。こヽでよく食べたものはババ・オ・ラムである。この菓子は此の頃銀座なぞにもあるから日本には知られているが、その頃は珍しく、私共は大いに旨がつて食べたものだ。
 パンテオンの前にお菓子やがあつて、こヽでよくキャラメルやボンボンを買つて帰つた。之は工業製品であるが、味はなか/\よかつた。そのうち一つ忘れられないのは酸味入りのボンボンで、これをボンボン・アシドュレと云ふ。このアシドュレの意味が解らず、宿の女中にきいたら、アシ(坐ると云ふ意あり)ドュ・レ(牛乳と云ふ意あり)で牛乳入と云ふ意だと云つた。後で字引をひいて大笑ひをしたことがある。アシドュレとは酸味入りの意であつた。
 なほブール・ミッシュ通の乾物やでよくマロン・グラッセを買つて来て食べた。この西洋「栗のふくませ」は既に麹町の青木堂あたりで売つてゐたから知つてゐたので、なつかしかつた。


宿近くのお菓子やについては以上。
その後、パリ街角の焼き栗を持って帰りヴァン・ヅー(軽いぶどう酒)と
一緒に食べることや、パリ郊外の森でシードルを飲んだのが美味しかった
という、酒の話で終わっている。

以下本文について色々。が、私はフランス語がよく分からない。
15年近く前の旅行でフランスに寄ったので、そのときの記憶だけが頼り。
とりあえずGoogleMapで「パリ リュクサンブール公園」で検索すると
地図が出ます。フランス語でJardin du Luxembourg。

■「リュクザンブルグ公園の角メヂチの噴水」
は検索すると、公園内の宮殿東側にある「メディシスの泉」?
パリの旅行記などで泉の写真を確認して、GoogleMapで検索すると
確かに宮殿の東側にそれらしき噴水がある。航空写真見ると公園横の
メディチ通り(Rue de Medicis)の交差点に噴水があるけどこっち?

メディシスの泉の写真→ パリ散策「071…メディシスの泉」

山田珠樹が褒めているオランジャード、検索してもよく分からなかった。

■「医学校通とラシーヌ通とに挟まれた角店」
はGoogleMapで見ると、リュクサンブール公園の北東あたりに
Rue de l'Ecole de Medecine と Rue Racine がある。
(地図をかなり大きく表示させてBoulevard Saint-Michelの字の辺り)

ババ・オ・ラムというのはラム酒が染み込んだお菓子で、
ストーレーというパリで一番古い(創業1730年)ケーキ屋が発祥だそうです。

Stohrer  ←一番上にLe BABA AU RHUM の解説(?)と写真
※リンクしたのは違うページだけどトップページは音楽鳴ります

住所で検索すると山田珠樹が褒めた店とは違うみたい。

chiwami403 at 17:22|PermalinkComments(0)森茉莉 

2007年11月12日

森茉莉写真の件、色々メモ

・『森茉莉かぶれ』巻頭掲載の「森於莵の結婚式の写真」

団子坂の本郷図書館鴎外記念室に行った際、係員の方にお伺いした。
この写真、以前見た企画展『私のパッパ』で展示されていたのだけど、
所蔵は津和野の森鴎外記念館で、兄弟一緒に写っているこの写真を
借りてきたのだそうです。

(ご参考)2007年02月19日 企画展「私のパッパ」見てきた

現在入手しやすい本でもう少し大きく写ってる写真はないかと聞いたら、
ちくま文庫の『鴎外の子供たち』に出ているそうです。私が持ってるのは
光文社の新書版の古本なので、写真のトリミングの関係で森茉莉の顔は出てない。
でも文庫本の写真でも表情はあまりよく分からないかな。

・森茉莉の母、志げの写真

『森茉莉かぶれ』にも掲載されていた若い頃の写真、これ以外に志げさんの
写真てないんでしょうか、と伺ったところ
河出ムックの「森茉莉アルバム」2ページ目の上田敏と一緒の写真の中央、
杏奴の後ろにいるのが志げで、鴎外記念室の人がご存知なのはこの2点だけ
だそうです。子供3人が著作で美人と褒めた母親の写真、他にあったら見たいなあ。

鴎外記念室の係の人は、突然の問い合わせにもてきぱきと即答して下さって
いやーすごいと恐縮しつつ感心しました。「私のパッパ」の展示も今回見た
高村光太郎の展示も無料ながら見ごたえありました。それから無料なのに、
展示一覧のコピーを配ってるのが素晴らしいです。

・山田珠樹の姉の夫、長尾恒吉の写真

それから、鴎外記念室で発行の出版物を見ていたら、森茉莉の読者なら何回も
見たであろう巴里で撮影した写真が出ていて一番右側の人が長尾常吉と解説あり。
文庫『父の帽子』202ページ、もしくは河出ムックの森茉莉アルバム3ページ目の下。

(ご参考)2007年10月04日 森茉莉の元夫の姉の夫、長尾恒吉
※今日のコメントでデータベースの長尾氏の生没年が明らかになりました

・『森茉莉かぶれ』205頁掲載の「森茉莉4歳の写真」

この写真どこかで見たことがあるような……と思っていたのだけど、
図書館で森茉莉全集の8巻を見たら同じ写真が出ていた(6、7巻以外持ってない)。
以前8巻を見たときには気がつかなかったけど、森茉莉4歳の写真の左隣にある写真、
これは、一緒に写ってるのは両親でもないし、もしや明舟町の祖父母? と勝手に想像。
この写真の森茉莉もかわいい。でもこの写真見たさに全集買うわけには……

chiwami403 at 20:27|PermalinkComments(0)森茉莉 

2007年11月06日

「ちくま」11月号に千野帽子の『森茉莉かぶれ』評

0007 文藝檸檬(11月5日付)によると、『文藝ガーリッシュ』『文学少女の友』
の著者、千野帽子が筑摩書房のPR誌「ちくま」11月号に『森茉莉かぶれ』
について文章を書いたそうで、文章の一部が引用されています。

というわけで、本屋に「ちくま」を貰いに行ってきました。
いつも忘れないようにと思っていても、気がつくと月も半ばを過ぎてたり
することが多いので、久しぶりに読む「ちくま」。

筑摩書房のサイトでの紹介→ 筑摩書房 PR誌ちくま 2007年11月号

表紙と目次だけでも見られるかと思っていたのだが、『森茉莉かぶれ』評は
ありがたいことにネットで全文立ち読み可になってます。
本屋に行ったけど入手できなかったという人はこちらでどうぞ↓

筑摩書房 PR誌ちくま 2007年11月号 「本当の贅沢」と「自分のルール」。 千野帽子

『森茉莉かぶれ』が書簡形式だからか、こちらもお手紙。
冒頭のリンク先で、文章中でふれた本をリストアップしています。

ここからは森茉莉の話じゃないけど、
群ようこの文章、只の愚痴だった。学生の頃何冊か読んだきりだけど。
増田彰久の『西洋館を楽しむ』(ちくまプリマー新書)が気になる。


chiwami403 at 19:26|PermalinkComments(0)森茉莉 

2007年11月05日

「フランス文学に入つた頃」の補足

震災以後(図書館再建) 
東大のサイトから。関東大震災で焼失→再建のあたりの話。写真多数。

森茉莉は『記憶の絵』の「続・大和村の家」で図書館勤めのことを書いている。

彼は帝大の図書館の司のような役らしく、文車が古書を積んでぐるぐる歩いて
いる図書館の一隅に自分の個室を持っていて、そこでも甲野さん的陰欝を
まといつかせて卓(つくえ)に向っていたからだ
(ちくま文庫342頁)

鈴木信太郎『記憶の蜃気楼』の「黄金伝説」に図書館での珠樹の仕事の様子。

震災の直後、姉崎さんが図書館長となり、親友の山田珠樹がその片腕の助教授
となって、図書館を復興した。山田の努力は大変なもので、図書館の目録カード
が洋書でも和書でも必ず一度は山田の机上を通るような仕組にした。山田は如何
なる言葉の如何なる本でも、何の部類函数に入れるか直ちに見分ける勘を持って
いた。十年間司書官として働いて、八十万冊の本を整理したのだから、一年に三
百日出勤して、一日八時間寸暇なく本を見ているとしても、少くとも二分間に
一冊は、表紙を読んで目次を眺めてぱらぱらと中を覗いて、部類を決定しなけ
ればならぬ。こうして、くたくたに体が疲れるので、夜は酒を飲んで、それから
勉強した。これでは病気になるのも当然である。


神田の米問屋に生まれた鈴木信太郎は、山田珠樹と同じ中学(旧制)で、
文学に進むと親が反対するのは分かっているので、山田珠樹の入れ知恵で
仏法に入学→親に黙って仏文に鞍替えしてます(『記憶の蜃気楼』より)。

東大図書館での山田珠樹については「ジュンク堂書店日記」にも記事あり

ジュンク堂書店日記: 山田珠樹街道をゆく 中島健蔵『疾風怒涛の巻 回想の文学 戮茲螳用
ジュンク堂書店日記: 山田珠樹街道をゆく(その2)『姉崎先生の業績』より引用
ジュンク堂書店日記: 山田珠樹街道をゆく(その3) 
今日出海「森茉莉とその良人」(「新潮」昭和34年2月)より引用

chiwami403 at 21:40|PermalinkComments(0)森茉莉 

2007年11月03日

山田珠樹「フランス文学に入つた頃」(強引な要約)

前の記事から適当に引用()内は私がつけた。



私は元来法科希望で高等学校へ入つたのである。親父は私を将来代議士にするつもりで
 ↓
(高等学校)二年の時に私の心に大きな変動を起こす事件があつた。その結果私は三年
になつた時に凡てが栄達を目的としてゐるやうな法科がなんだか厭になつてゐた。
 ↓
それでも大学に来る時はずる/\”に矢張り法科の入学試験をうけて、法科に入つてしまつた。
 ↓
私は父親や親類の反対を押し切つて文科に転科してしまつた。文科に入る時、
凡ての外面的行動の基となる心を究める心理学こそ自分の行くべき道と思つた
ので、心理学専攻といふことにした。
 ↓
(心理学専攻には高等学校の数学と物理修業の必要があったので)そこで、一時席を
文学科のフランス文学科に置くことにした。講義は哲学科の講義を聴いて居たし、
傍ら高等学校へ行つて物理と数学の講義を聴いてその修業検定を取ることにした。
然し、席が仏文にあつたから、出席した仏文の講義もあつた。(そこに辰野隆がいた)
 ↓
(辰野の)蔵書と例の巧みな話術とによつて、私は急にフランス文学に対する
目を大きく開けられて行つたのである。
 ↓
二年になつてから心理学に籍を移すことが出来たし(中略)辰野君も卒業して
しまつたフランス文学の研究室はいつか足も遠のくに至つた。
 ↓
(三年で鈴木信太郎入学、その後辰野隆も外交官志望から転向、『ろざりよ』発刊)
 ↓
大学の心理学は全く私の予期に反した。(中略)私の語学はフランス語である。
私はフランス流の心理学を窺いて見たいと思つたが、参考書は殆どなし、又その
指導をして呉れる人は一人もいなかつた。(中略)その当時はどう取りついて
いヽか見当がつかなかつた。
 ↓
創作も亦立派な心の研究法ではないかと云ふ考へが起きて(中略)れで卒業の時は
「科学的心理学は成立しない」旨を論文にして出してしまつた。そして、卒業して
から入営する迄の間一心に創作に耽ってゐた
 ↓
私は見習士官を終つて(中略)除隊した私は自分の創作が如何に馬鹿らしいもので
あるかを残念乍らはつきり認めない訳には行かなかつた。私は又心理学に帰つた。
そして日本大学で一ヶ年間社会心理の講義をした。
 ↓
そこへ幸いに親父が外国へ遊学させてくれる福音を伝えたのである。自分は勿論
目的地をフランスにした。
 ↓
(パリに来てみたが)医学的心理学より私を得心させるものはなしと云ふことに
なつた。然しこの医学的心理学は医学の素養のない私には結局手の出しようが
なかつた。
 ↓
(同じ宿に辰野隆も来たので)心理学に望を失つてゐた私は忽ち同君の指導の下に
フランス文学の方に段々入つて行つた。
 ↓
日本に帰つたつて元より職はない。そこへ関東の大震災が起こつた。
(図書館長の姉崎)先生はこのとき私を本番に採用して下さつたのである。
同時に私に文学部でフランス文学の講義をしろと云ふことであつた。
五年程してから、正式に研究員の一員になることに決定されて、こゝで
始(ママ)めてフランス文学とは切つても切れない縁を結んでしまつた


chiwami403 at 19:59|PermalinkComments(0)森茉莉