2009年07月

2009年07月31日

画家になりたかった円地文子

平凡社の『兎の挽歌』で森茉莉と比較になりそうな点いくつか。

「東京の秋・上野公園」では、小学校の頃父親の上田万年
に連れられて大正時代の文展(後の帝展、日展)や院展を見に
上野公園へ行ったときのことを回想している。

私はそこで、鏑木清方の「黒髪」や「試さるゝ日」上村松園の
「炎」「月食の宵」のような美人画を見てその優雅さに心酔
したし、院展で横山大観の「生々流転」や下村観山の「弱法師」
を見たときにも美人画とは違う種類の強い感動を受けた。
そうして自分も画家になりたいと願ったことがあった。


森茉莉も画家になりたいと父鴎外に言ったけど許されなかった
という話がなかったっけと探したら『贅沢貧乏暮らし』の
53ページの左下にその話が出ていた。

「失われた季節の味」より。

私は過去を振り返ることの嫌いな性質である。昔はよかった、
昔はこうだったといくら言ってみたところで、取返しのつく
ものではないし、そんな愚痴を並べているうちに、生きて行く
先に目を向けて、歩いていたいと思う。


ドッキリチャンネルで「昔はああだったこうだった」「パリでは」
「パッパなら」と過去の話ばかりしていた森茉莉とは対照的です。

「思い出の耐乏生活」より。

ご飯の「おこげ」も大好きだし、「梅干」も好きだから、
貧乏しても食物には一向飢えない。その代り戦争の酷かった時々
には絶対に、買出しに行く気がないので、あきれるほど物資に
事欠いた。(中略)
 自慢になる話ではないが、不自由な暮らしになると、その
不自由さを打開するために積極的に動くのがひたすらいやで、
どこまでも「ものぐさ太郎」になって行くのは、私には斜陽的
性格が多分にあるらしい。


露伴に新鮮な魚を食べさせようと市場へ出向いてプロと渡り
合ってた幸田文とはすごい違いだ。
森茉莉は戦時中に魔法瓶持参で風月にアイス買いに行っていたな。
疎開先では「ものぐさ太郎」的に過ごしてたようだけど。

森茉莉は自分で料理するのが好きだったけど、円地は本当に料理が
全然出来なかったと娘が回想本で記してます。
幸田文は『台所帖』という本が最近出たし、森茉莉の作品も料理の
話が多いけど、円地文子の人気のなさは料理や台所の話しが少ない
のも一因なのか?

娘の冨家素子による母親の回想録は2冊。私は図書館で借りた。
『母・円地文子』(新潮社 1989年03月)
『童女のごとく―母円地文子のあしあと 』(海竜社 1989年12月)

他に円地について書いているものは
小島千加子『作家の風景』(毎日新聞社 1990年6月)
講談社の担当編集者松本道子の著書にはまとまったものは
ありませんが円地と親しかったからか、エピソードがいくつか。
『風の道―編集者40年の思い出』(ノラブックス 1985年6月)
『きのうの空』(牧羊社 1989年9月)

あと、瀬戸内寂聴の『奇縁まんだら』の続編にも円地のことを
書いた文章があります。他の作家の回でも円地が結構出てきます。


円地文子関係はひとまず終わり。今後は森茉莉との比較で参考に
なりそうなところを発見したときにこのカテゴリで更新します。


chiwami403 at 21:14|PermalinkComments(0)円地文子と「廃園」 

2009年07月29日

円地文子が抱いていた森茉莉のイメージ

「廃園」における美子像を考える上で参考になるかもしれません。

昭和62年3月『夢うつつの記』(円地は前年の11月に死去。最後の作品)に

英語のほかには漢文を習いたいと言ったので、父の友人であった
岡田正之博士のところへうかがった。おうちは駒込の千駄木町に
あって森鴎外の家の近くであった。私はそこへ行った帰りによく
鴎外荘の前を通ってなんとなく羨ましいような気持ちで眺めていた
ようなことがある。鴎外が亡くなったのは丁度その頃であったし、
私は漱石よりも鴎外の方を多く読んでいたので、その人の家が格別
なつかしく思われたのであろう。
(98頁)

鴎外が亡くなった頃、というと森茉莉はその頃山田珠樹と滞欧している。

平凡社『兎の挽歌』(昭和51年4月発行)に収録の「竹柏園の思い出」。
11歳の頃、竹柏園の集まりに一度だけ連れて行ってもらったそうだ。
上田敏と一緒に来ていた娘の瑠璃子の姿が印象に残っていると書いている。

森鴎外令嬢の茉莉子さんとか瑠璃子さんとかは、その頃の
西洋的な文化の最高の雰囲気を持つ香りの高い花のような印象で、
子供の私にはひどくハイカラに感じられたのである。


その会で森茉莉に会ったとは書いてないので、鴎外令嬢茉莉子のことは
雑誌に掲載された写真などを見たのだろうか。宮本百合子は
「歴史の落穂――鴎外・漱石・荷風の婦人観にふれて――」
雑誌で「まだ幼くておさげの時分」の森茉莉の写真を見たと書いている。
海月書林店主さんの『おんな作家読本』では森茉莉の写真の出ている
昔の婦人雑誌を紹介しています。

こういう印象を抱き続けていたところへ、長谷川時雨の「輝ク」
の活動で森茉莉本人と会って「あのハイカラな香り高い花はどこへ」
とか思っちゃったのだろうか、円地文子。

chiwami403 at 20:29|PermalinkComments(0)円地文子と「廃園」 

2009年07月28日

『円地文子―ジェンダーで読む作家の生と作品 』の「廃園」解説

小林富久子という人の『円地文子―ジェンダーで読む作家の生と作品 』
(2005年1月 新典社)評伝があり、ジェンダーって好きじゃないんだよね
と思いつつも図書館で借りて読んでみたら円地の生い立ちや同年代の
ほかの女流作家との違いなど、興味深い点が色々。

「廃園」についても考察があるので、気になる部分を引用。

小林氏は「廃園」を「光明皇后の絵」とともに、円地復活の基となる
「ひもじい年月」『女坂』の前段階ないしは過渡的作品と位置づけて
います。廃園のあらすじを紹介し、森茉莉・小堀杏奴姉妹モデル説を
挙げつつも

やはり作者円地文子の心境を映し出したものと見るほうが興味深い

としている。美子(=森茉莉)のような女性は滅びるしかない、
と登場人物に述べさせているが、小林氏によると

美子の抽象的志向自体を非難しているというよりも、
女性の審美主義者や哲学者を認めず、ましてや表現の機会を
許さない世間一般に意義を唱える


ことが真意ではないか、と書いています。廃園の美子はその後子宮がんで
入院して小説から遠ざかる円地本人の問題でもあった。
「廃園」の5年後に発表した「光明皇后の絵」については、私は未読ですが、
こちらにも対照的な姉妹が登場している、というのをこの本で知った。

対照的姉妹の生き方を軸に、現実主義対浪漫主義、日常的世界対美的世界、
現在対過去などの相反する立場や世界観の相克を示す点で、この作品は
明らかに「廃園」に通じている。


「廃園」だけ読んで「森茉莉がモデルだってーへー」とか言ってる場合では
ないのだった。こちらの作品では美的世界を志す主人公は滅びることなく、
芸術の世界が開けるという結末らしい。
さらに小林氏の指摘によると「廃園」「光明皇后の絵」だけでなく、
戦前に発表した戯曲「晩春騒夜」や小説「女の冬」にも対照的な二人の女性が
出てくるそうで、「廃園」は森茉莉をモデルにしたといっても、小説のテーマ
である「対照的な立場の二人」にちょうど良かったということか。

chiwami403 at 21:41|PermalinkComments(0)円地文子と「廃園」 

2009年07月24日

円地文子「女の書く小説」

円地文子『女の秘密』(昭和34年12月新潮社)に入っている文章。

これは私自身のことだけれど、小説を書く場合に、やつぱり
何か自分が直接触れて経験したことでないと、素材がどうも
うまく筆に乗つて行かないのである。それなら私は私小説作家、
つまり自分の経験を生(なま)で書いて行くといふたちの作家
かといふと、それは違ふ。日本の私小説の伝統にあるやうに
自分の経験をそのまヽ小説の枠に入れて出して行くといふ方法
は、私にはできないので、さういふことをすると、私の場合
には、肘を抑へられて筆を持つやうに大変不自由なものに
なつてしまふのである。
(中略)
そこで私は自分の中でひとつのフィクションを拵へて、
小説の形を作る場合には、全然自分の経験といつたやうな
ものとは別のところで仕事をすることにしてゐる。


この文章の最後には(講演筆記)とあり、いつの講演かは
不明だけど、「廃園」における森茉莉を考えるときに参考に
なるかと思ったので引用してみました。

話は逸れるが、この本には

長谷川時雨関連の文章に、"嵐の「女人藝術」時代" 
"老木の櫻 長谷川時雨女史のこと”がある。
”恋愛ぬきの男友達”では尾崎一雄のこと。
昭和16年に長谷川時雨を団長として南支を慰問したときに
メンバーに尾崎一雄がいて、この二人はその後も仲が良かった。
尾崎一雄も随筆に円地文子のことを何度か書いている。

他に宮本百合子、平林たい子、宇野千代、永井荷風、
徳田秋声、室生犀星、高見順、についても書いている。



chiwami403 at 21:12|PermalinkComments(0)円地文子と「廃園」 

2009年07月23日

作者の円地文子が語る「廃園」

日本経済新聞での連載「私の履歴書」をまとめた『うそ・まこと七十余年』
では森茉莉・杏奴姉妹をモデルにした「廃園」について書いている。
が、モデルについては特に何も。

四月に上京して間もなく、私は同人誌「日暦」の同人であった荒木巍さん
の訪問を受けた。戦争中結核を患っていた荒木さんが全快して小学館が
新たに発刊する「新人」」という文芸雑誌の編集長に就任したとのことで、
「新人」に短編小説を書くようにとの勧めであった。私はもちろんひき受けた。
七月ごろその雑誌が創刊され、私の「廃園」という小説もそれに載った。
当時、別に反響は無かったが、大分後になってから伊藤整氏が良い批評を
して下さったことがある。 (「病院生活」より)


ネット上に出ている「廃園」の感想。その後感想が変わったかもしれませんが。

まずは『森茉莉かぶれ』著者、『貧乏サヴァラン』編者の早川さん
森茉莉雑記帖 (早川さんのサイト2005.5.24の項)

次はユリイカでブックガイドを書いた木村カナさん。
2007-11-01 - Kuchinashi/magic memo

最後に私の。
森茉莉街道をゆく(+長谷川時雨):都立中央図書館で森茉莉資料の閲覧


chiwami403 at 19:55|PermalinkComments(0)円地文子と「廃園」 

2009年07月17日

円地文子の自伝的著書『うそ・まこと七十余年』

日本経済新聞の「私の履歴書」を本にしたもの。昭和59年2月発行。
連載は昭和58年5月22日〜6月21日(円地の視力が弱いため日経の人が口述筆記)
本人が自分の生い立ちを語ってるので、1冊読むとしたらこれがおすすめです。

2年前に日経ビジネスから女流作家の「私の履歴書」を集めた文庫が
出ていてそれにも同じものが掲載されているようです。
森茉莉と比較になりそうな箇所を引用します。

私の父は容貌のよくないのを自認していて、頭もくりくり坊主にし、
身なりなどもいっこう、構わなかったが、私には、父を醜いと思う感覚は
全くなかった。
(「寂しかった三月」より)

男というものは一にも二にも父であった。父もまた私が自分に似ているといって
喜んでいた。(中略)あんたのお父さん、器量が悪いわねなどといわれたら、
多分私はほんとうに怒ったであろう。
(「寂しかった三月」より)

父は、外ではこわい先生と言われていたらしかったが、家の者にはごく
やさしくて、ことに母や姉や私のような女にはほとんど大きな声を出して
叱るようなことはなかった。
(「やさしい父」より)

森茉莉同様、円地文子も父親に可愛がられている。
森家では嫁姑の仲が悪かったが、上田家はそういうのがなく円満だったそうな。

私は記憶や理解力は割に良かったので成績は上の部であったが、残念なことに
まことに不器用で手工とか裁縫とか体操(絵だけは割に上手だったが)などの
点が悪かったので
(後略) (「好き嫌い」より)

このくだり、森茉莉と似てるな。絵だけは得意とか。

私は父に可愛がられたし、父を好きであったが、宣伝のように父の名
を使われることはいかにも心外であった。(中略)私は別に父の力で世に
出たのではないという意味で、父の名と自分とは無理にも切り離したかった。

(「心情左翼」より)

森茉莉や幸田文のように父親のことを書いてデビューしたわけではないが
有名な学者の娘、という肩書きはついてまわっていたようだ。

恋愛結婚といわれれば嘘であるが、さればといって型の決った見合結婚でも
なかった。つまり内訳をいえば、私が文壇に顔を出すようになり、結婚しない
若い女だというので、何となく華やかな人気があった反面に、両親とすれば、
左翼がかっていてひどく危なっかしく思われたのであろう。
(「結婚」より)

恐らく子供ができなかったら、当時であっても離婚していたと思う。ところが
二年目に娘が生れた。そのことが私の足を重くしたことは確かである。しかし、
子供のために夫と別れなかったというようなことは事実ではない。結局私が何事
にもきっぱりした決心のつかない人間で、夫と別れた後の生活も不安だったの
である。
(「結婚」より)

この離婚話を機に、円地文子は文学を続けることを夫に了解させている。
戯曲が嫌になり、小説を書こうと考え始めていたところだった。

婚期が遅れたことと、生まれたのは娘一人で母子くっつきまくりなのは
森茉莉よりも幸田文と似ている。森茉莉や幸田文と違って離婚はしなかったが。

戦後に円地は子宮がんで入院する。退院するも林芙美子や平林たい子など
同世代の作家が華々しく活躍しているのに、なかなか小説が発表できない
時代が続いた。戦時中の南支行きがきっかけで友人となった尾崎一雄に
「自分はお茶っぴきばかり」とぼやいている。
友人の平林たい子に「(原稿を)持って行けば必ず売れるようになる」と
励まされ、

私はその言葉を信じて、せっせと小説を書いた。しかし、ジャーナリズムは
私が戦中から戦後にかけてご無沙汰している間に、編集者の顔などもすっかり
変ってしまた。原稿は、平林さんも一緒に行ってくれて文芸雑誌に持ち込んだ
が、なかなか採用されなかった。一応は丁寧に挨拶してくれるのだが、
一、二ヶ月すると、どっしり重い響きを持った包みが家に帰ってきた。

(「病院生活」より)

円地文子は森茉莉よりずっとデビューが早かったが、それは戯曲家として
であって、小説が認められるようになるのは戦後の昭和26年頃。
円地文子にも苦労の時代があったのだった。



chiwami403 at 21:33|PermalinkComments(0)円地文子と「廃園」 

2009年07月16日

森茉莉作品における円地文子

森茉莉がロールシャッハ検査を受けたのは円地文子のご推薦であった。

円谷澄子が「牟礼さんなんかやると面白いわよ」と言ったというのを
聞いて見当がついた。冗談からこまが出て、魔利が仲間に入ったのである。
(「黒猫ジュリエットの話」より。講談社文芸文庫『贅沢貧乏』p106)


あとはドッキリチャンネルでは「小説を書くこと以外何もできない」
発言の円地に対して妙な対抗心を見せています。
全集の6巻84ページ「小実昌、円地、沢田源氏予想」の最初。

他にも探せばまだあるだろう。

chiwami403 at 19:53|PermalinkComments(0)円地文子と「廃園」 

2009年07月13日

編集者の小島さんが語る森茉莉と円地文子

河出の森茉莉ムックでは、島内裕子氏が円地文子の「廃園」について
森茉莉姉妹がモデルではないかという文章を書いています。

島内さんが聞き手の「インタビュー 編集者から見た不思議な作家の素顔」 
では他の文学者との類似性を強調する見方について、小島さんは
「同時代で面白いのは幸田文との対比」で森茉莉が唯一意識していた
存在だととコメントしている。
聞き手の島内さんが、円地文子に対してどうだったんでしょう、と話をふると
「女の業を書く、ああいうのは嫌いなの。それはハッキリしてるんです。
(中略)でも円地文子も多分意識していた」と。

理由として、円地が戯曲でデビュー、森茉莉も劇評を書くなどお互い芝居に
縁あったこと、それから長谷川時雨とのつながりを挙げています。
長谷川時雨とのつながりというのは「輝ク」の活動に円地も森茉莉も参加
していたことを指しているのではないかと思われます。


若林つやの回想本によると長谷川時雨と一緒に二人は鰻屋に
行ったこともあるようだし、確か「輝ク」で森茉莉がちょっとだけ喋った
座談会では円地文子も確かメンバーだった気がする。

2005年03月10日 長谷川時雨と森茉莉の鰻事件
2005年08月28日 「輝ク」誌面での森茉莉

女の業を描くのは嫌でも、円地の女坂のことは鼎談で褒めている。

Hugo Strikes Back!: 森茉莉×金井美恵子×奥野健男 鼎談
(その5の左側ページに該当箇所)

私ね、女の偉い小説家を尊敬してるけど私の時代の人は女の業にこだわって
よく書いてるのね。自分にあまり業がないものだからうっとおしくてね


その少し後で

女の業を書いても、円地さんのは偉い男の作家が上からみてる
ような感じだからいいのね。「女坂」なんて面白かった。



chiwami403 at 20:22|PermalinkComments(0)円地文子と「廃園」 

2009年07月11日

円地文子年譜

講談社文芸文庫『なまみこ物語/源氏物語私見』巻末の年譜を参照して作成しました。
えーとこれは著作権的にまずいのだろうか。

1905年(明治38年)
 東京市浅草区に父上田萬年、母鶴子の次女として生まれる。本名富美。
 兄寿(8歳)、姉千代(4歳)がいた。

1911年(明治44年)6歳 
下谷区谷中清水町に転居。

1912年(明治45年)7歳 
東京高等師範学校附属小学校に入学

1918年(大正7年)13歳
日本女子大学附属高等女学校に入学

1922年(大正11年)17歳
 女学校を退学。その後は家庭教師に英語、英文学、漢文などを学ぶ。

1924年(大正13年) 19歳
 慶応義塾ホールで小山内薫の講演を聴き、戯曲を書き始める

1926年(大正15・昭和元年)21歳
 演劇雑誌『歌舞伎』の脚本懸賞に「ふるさと」当選。小石川区駕籠町に転居。

1927年(昭和2年)22歳
 小山内薫の演劇講座の聴講生となる

1938年(昭和3年)23歳
 長谷川時雨主宰『女人藝術』発刊披露の会に出席。林芙美子、平林たい子らと知り合う。
『女人藝術』に発表の「晩春騒夜」を築地小劇場で上演。日本橋偕楽園での宴席で小山内薫が狭心症のため急逝。

1930年(昭和5年)25歳
 『東京日日新聞』記者の円地与四松と結婚。鎌倉材木座に住む。その後小石川区表町に転居。

1932年(昭和7年)27歳
 長女素子誕生、中野区江古田に転居。

1935年(昭和10年)30歳
 最初の著書となり戯曲集『惜春』を岩波書店より刊行。『日暦』の同人になり小説の勉強。

1936年(昭和11年)31歳
 『人民文庫』同人となる。1938年に終刊。

1941年(昭和16年)36歳
 海軍文芸慰問団の一員として広州方面より海南島をまわる。

1945年(昭和20年)40歳 
空襲で中野の家が全焼し、軽井沢の別荘に移る。

1946年(昭和21年)41歳
 上京し、母の家に住む。子宮癌のため入院、手術を受ける。

1947年(昭和22年)42歳
 退院後、経済的理由のため少女小説を書き始める。

1949年(昭和24年)44歳
 「紫陽花」(『女坂』第一章の一)を発表。(1957年最終章までほぼ毎年発表)

1954年(昭和29年)49歳
 『ひもじい年月』による第六回女流文学者賞。

1956年(昭和31年)51歳
 『朱を奪うもの』刊行。

1957年(昭和32年)52歳
 『女坂』『妖』刊行。『女坂』により第五回野間文芸賞。

1958年(昭和33年)53歳
 平林たい子と欧米各地を旅行。平林たい子の後任で女流文学者会会長となる。

1959年(昭和34年)54歳
 長女素子結婚。同じ敷地内に住む。

1967年(昭和42年)62歳
『源氏物語』現代語訳のため文京区の目白台アパートを仕事場とする。

1969年(昭和43年)64歳 
三部作『朱を奪うもの』『傷ある翼』『虹と修羅』により第五回谷崎潤一郎賞。

1972年(昭和47年)67歳
 『円地文子訳 源氏物語』を刊行。

1977年(昭和52年)72歳
 『円地文子全集』を刊行。

1986年(昭和61年)81歳
 11月急性心不全のため死去。

chiwami403 at 12:01|PermalinkComments(0)円地文子と「廃園」 

2009年07月08日

円地文子と森茉莉と「廃園」

「文豪の娘」としてよく比較される森茉莉と幸田文ですが、
森茉莉と円地文子はどうだろうということで、しばらく円地文子のことを。
年も近いし、谷中清水町時代はご近所、森茉莉姉妹がモデルの「廃園」もある。

存命中は作家として森茉莉よりかなり本も売れただろうし、
文壇での地位(?)もあって女流文学者会の会長もつとめてたけど、
現在は幸田文や森茉莉と比べて(文学的評価は別問題として)人気が
あまりなさそうな印象。
文庫も講談社文芸文庫に何冊か入っているけど、ブログで円地文子を検索しても、
「源氏物語の現代語訳をやった人」としての扱いがほとんどで、作品や円地文子
本人に関する記述はあまり見ない。

といっても、私も円地文子の小説作品はほとんど読んだことがなく、
日経新聞に連載した「私の履歴書」や随筆、評伝などを何冊か読んだだけ。
作品について論じた本は既にあるし論文もあるようなので、ここでは
円地文子を知ることで見えてくる森茉莉の姿があるんじゃないかな〜と
いうことで、森茉莉と比較できそうな点を引用していきます。

ご参考:昭和41年の時点では円地文子と幸田文が全集の同じ巻に入れられていて、
評論家の対談では二人の家庭環境が作家としての芯になっていると指摘。
「同じ文豪の娘だけど性格も作品も正反対な森茉莉と幸田文」という比較は
なされていない。それどころかこの対談では明治30年代生まれの作家として
森茉莉の名前を挙げていないので、あった。

2008年04月18日 『対談 日本の文学』に森茉莉と三島由紀夫対談 (の後半)


chiwami403 at 21:41|PermalinkComments(0)円地文子と「廃園」