2008年03月11日

『鴎外の遺産掘擔合莉書簡の日付一覧

鴎外の遺産掘 孱豹合莉の手紙」について。
この章の冒頭に凡例として森茉莉の離婚、戦後の息子との再会を解説。
昭和初年に千駄木の家に10代前半のジャックが来たときの
アンヌのメモ全文(年代不詳)。ジャックの様子や母子の会話など。

森茉莉の手紙はカラー図版を冒頭に掲載、モノクロ図版は
本文の該当する箇所に掲載。カラー図版の中にはのちに「刺」
と改題された原稿の最初のページも。

手紙の文章は全文まるうつし出来ないので気になった部分だけ引用。
これから読むのを楽しみにしたいから、という人にはネタバレになる
ので読まないようにして下さい。

森茉莉の手紙だけでは経緯が分からないこともあり、又まとめづらい
箇所は面倒なので重要事項と思われることでも引用していません。
また、手紙の本筋に関係ないことでも個人的に気になった描写などは
引用しています。単なる事務的な連絡の葉書もあれば、文章を書いて
いくことについて森茉莉の考えを熱く語っている手紙もあります。

二人とも渡仏経験があるからか、手紙の中にフランス語が出てくる。
「今朝ジュルナルに」とカタカナのこともあれば(ジュナル=新聞)、
「きのふも書いたやうにpasgrand-choseだから」
と横文字で名詞以外に形容詞などでも使われていることもある。
本では横文字の後に(大したことではないの)と註が入っています。

森茉莉の書簡本『ぼやきと怒りのマリア』は昭和33年〜の手紙が
掲載されています。私はこの本持っているけどもう内容忘れた。
『鴎外の遺産3』と併読するのも興味深そう(私はまだやってない)。

本文の年月日は漢数字で表示していますが、こちらの引用では
漢数字でなくアラビア数字に変えてます。

#のある行は私のコメント。「」内が書簡からの引用。

■昭和15年1月14日 絵葉書

日本橋の絵葉書。写真部分に「マリ行く所」と絵と文字を入れてる。
三越で杏奴に似合いそうなマフラーを見つけたので買った。

■昭和26年4月頃 封書

ジャックと再会した喜び
「なによりジャックがかへつて来て、ママとアンヌとルイに、
昔になつたのが喜びだ」

■昭和27年3月22日 封書

ご馳走になった寿司の御礼、でも「お腹が空かなかつたので、
残念なことに、大しておいしくなかつた。上等のかまぼこも、
今こヽにあつて御飯とたべたらなあと思ふ」
杏奴の本(?)の感想、二人の悲しみや苦しみについて。

別口(翌日の文章)
税務署の手続きでお金が戻ってきたという報告

■昭和27年10月14日 封書

「「家庭朝日」といふ新聞に二枚感想を書かせていただくことになり」
「時事・社会については、赤ん坊なりに、あらゆる感じがあつて、
いつもしゃべつては類にうるさがられているので、類に話すことを
書けばいくらでもあるのでうれしい。」

#『私の美の世界』の時事関係のエッセイやドッキリチャンネル
#の連載につながるのだろうか。

「併しその方が出来ても、一方、独特の文章ももつと書きたいと思ふ」

#小説以外のエッセイを一くくりに考えていたけれど、時事関係のエッセイと
#「夢」や「幼い日々」のような文章とは別ものと考えていた?

■昭和28年元旦 葉書

「今年もミネルヴァなぞで仲よくしませう」フランス語で挨拶と署名

■昭和28年頃 封書(未郵送)

「類氏の描写の恐怖」は今も鮮烈だ。
「哀しみのある日々」の原稿、素晴らしいと自惚れている。
「森鴎外傍題」の原稿のほうも自信がある

■昭和28年2月25日 封書

類の書いた原稿の件その後。
室生犀星の「女ひと」の解説を書いたこと、原稿料が送られてきたこと
追伸で、雑誌の「映画の友」にジェームスディーンの写真が出てるから
杏奴の娘に伝えてほしい。

■昭和28年4月30日 封書

「初対面だけはあまり変つた印象をあたへたくないので、杏奴の言ふ通り
のパーマネントに地味な着物で、このところ一寸ましに見えて歩いてゐる。」

# 暮しの手帖社で働くことになったのだろうか?

# 追伸に「ダミアだけはきヽたいので」とあるが、検索するとダミアという
# シャンソン歌手がいて、昭和28年に来日している。(ダミア - Wikipedia

■昭和28年5月3日 封書

「原稿を読んで戴いただけで十分有難くて」
「このところ「西生田の家」に夢中だ」
「幼い日々」が活字になるのは完全に嬉しいが、秋長(記憶の書物)の方は
恐怖がある。出来損ないかもしれないという恐怖とジャックの苦しみ。
「私は家事や交際に馬鹿といはれても恥かしくないやうになつたが、文章で
恥かしい思ひをするのは最も苦しい」

■昭和28年5月9日 封書

エンドカーラーというので髪をセットしたので
「前のやうにバラバラ女史ではありません」
買ってきた古雑誌に載っていた永井荷風の自炊生活の訪問記事のこと、
「先生は、しんから、そこから、昔の東京の人なのだね」

■昭和28年6月27日 封書

2007年04月05日 鴎外の遺産掘,凌合莉書簡で転載した暮しの手帖社のこと。同じく客員として働く富本一枝のこと。

■昭和28年9月18日 封書 

類の書いた原稿の問題について。
「類にひどく甘すぎた」「杏にはすまなかった。詫びる」と書いているが
「全然出ないことになつては気の毒であり、亡母も亡父も悲しむだらう」

■昭和28年12月12日 封書 

「類のしたことは悪い。またアブノルマルだが、小林勇氏が一時代前の
壮士的な態度で罵つたことは、行き過ぎも甚だしい」
「今度のことではアンヌにも類にも失望した」
「茉莉姉さんは真実、茉莉姉さんを描いたあのひどい部分の他の部分はいいと
信じてゐる。さうしてあの中に出てくる杏奴はいいと思つてゐる」
「茉莉姉さんは杏奴がもつとほんとうにマリ姉さんに親しんでくれると
うれしいと思ふし、桃子もしたしむのを望んでゐるし、又五百とも遭へるやうな
心境になれるのを望んでゐるが」

#桃子は杏奴の娘、五百は類の娘の名前。

手紙の後半はジャックが訪ねてきたときのこと、暮しの手帖社で自分の机も
でき、文章を花森氏が褒めてくれる、と喜びの報告。月給の一部で
「アメリカの上等のボンボンを買つて行つて皆に分けるやうにしてゐる」
と森茉莉なりに気遣っているのだった。

■昭和29年1月25日 封書

27日は正子さんの家に行くという連絡。

#「明舟町の家」を見ると正子という従姉妹がいるがこの人?
#(講談社文芸文庫76ページ後半)

■昭和30年12月16日 封書 ★

歯痛と感冒で体調が悪く困っている。
杏奴が森茉莉の本の出版の相談に行ったのか(?)
「マリ姉さんが自惚れや生意気で父のことをいやがるのでなく、
才能の少ないマリ姉さんとして出来のいいのをやう/\選んだら、
パッパのことは全体の半分量になつてしまつて、「夢」が大部分に
なつてしまつた(後略)」

# 「夢」を本に入れるよう杏奴に交渉してほしかったようだ。

「拙いなりにマリ姉さんだけがかんじた世界、マリ姉さんだけが描く
かきかたでなくては仕方がないと思ふ」

この手紙、森茉莉は自分のことを
「結婚も文学も殆どだめで」
「ごく/\少しの書きたいものを充分書いてゐないといふ悲観」
「才能の少ないマリ姉さん」
「下手な自分は自分なりに」など何回も卑下して
一方、杏奴には
「文学を認められ」
「生活のために、あまり気が乗らずに書かなくてはならないといふたつた一つの悲観」
「どこへ行つても(中略)親しまれ敬愛され」
「文壇のいろ/\をしりぬいている」と比較するように書いている。
最後に、日夏耿之介に「よく私の心持ちを書いて丁寧におねがひする手紙」
を出したと書いている。

注:『日夏耿之介宛書簡集ー学匠詩人の交友圏』 には森茉莉の手紙が収録されている。
以前図書館で森茉莉書簡の部分だけコピーしてきたのだけど、当時は??
なまま放置していたのだが、見直したら「"夢"を収録するようお願いする手紙」
が確かにあった(昭和30年12月17日付)。

■昭和31年7月23日 封書

問題になった文章のことを思い出し文章の勉強の邪魔になるので
類の顔を見る機会を減らしたい。でも親類としての最小限度のつきあいはする。

■昭和31年9月7日 封書

角川の松原氏にに原稿を見てもらっていたところ、筑摩書房からも
原稿を見てみようという話が持ち上がり、原稿の控えを取って
おけばよかったと後悔している。父鴎外を書いたものでない原稿も
それなりに評価されたようで、
「出版する人が全部センセーショナルでなくてはだめであるとか、
父のこと以外は話にならないとか言ふわけではなかつたと思つて
ほつとしてゐる」
角川の松原氏へ4、5回足を運び、筑摩の竹之内氏のところへも二度
行ったので疲れている。

■昭和32年9月16日 葉書

「女性教養」という雑誌に文章を頼まれた
「私の会に偉い人々がキンキジャクヤクとして集いくるとは思はない」
「クラブからおよびするのは阿部氏一人にしたが」
『父の帽子』の出版・受賞に関して何か集まりの計画があったのか?

# 検索すると、女性教養というのは(財)大日本女子社会教育会
#(現在は(財)日本女性学習財団)が出していた雑誌名のようだ。

■昭和32年9月17日 葉書

明日は行くからという連絡。クラブの会に行った話。
この一枚で終わらずにもう一枚同じ日の葉書がある。

■昭和32年9月17日 葉書

クラブの会(エッセイストクラブ?)の続き。
「秋山ちえ子さんといふ人が来てゐて、隣(女は二人きりなので)
座つて、話した。」

#秋山ちえ子 - Wikipedia によると、
#1954年に第2回日本エッセイスト・クラブ賞
#ラジオ東京(現TBSラジオ)で『昼の話題→秋山ちえ子の談話室』の
#パーソナリティを1957年から45年間毎日担当。

■昭和33年2月4日 葉書

原稿が溜まったら見せるように、と筑摩書房から言われた話を報告。
二冊目は大切だから頁数だけ揃えず練りに練るよう、読書新聞の堤氏
から助言があった。

■昭和33年3月26日 封書

「いたづらがき二つ」杏奴の似顔絵が書いてある

■昭和33年4月頃 封書

杏奴の息子、東大に合格。

■昭和33年4月31日 葉書

しばらく入院していたらしく、退院後来てくれた看護婦の話。
「体がもとにかへり次第二冊目にとりかかる積り」

■昭和33年5月15日 封書

杏奴の小説『春のかぎり』の出版のお祝いの言葉。
風月で二人だけの出版お祝いをしたい、と言っている。
今書いているのは「随筆に小説のきものをきせたやうなもの」。
「理屈で割り切れた文章に、かざりがついてゐるだけで、
小説家にはなれないと思つてゐる。」
「出来る限り早く自分の随筆小説をすませてよんで、感想を送ります」
手紙の最後に「随筆小説の作者より」

■昭和33年5月20日 封書

杏奴の小説『春のかぎり』の感想(三分の一だけ)。
「紙を前にして書く作者としての杏奴は、愛情に充ちてゐる。だから
杏奴が書くなら、不幸な期間の私が登場してもいいし」
「杏奴のをよんで、自分の随筆小説は理屈だと、思つた。」
自分の小説は「パッパの猿芝居」だが、杏奴の作品は
「パッパのヨーロッパ(ほんたうの)の感覚」だと。

■昭和33年8月6日 封書

「〔六百二十五字削除〕」と全文記載なし。

■昭和33年8月8日 葉書

本の題名が『靴の音』に決まった。
「室生氏訪問の日とその後の二三日」を東京新聞に、
「巴里の二日―新年前夜の接吻」をサンデー毎日に頼んだ。
阿佐ヶ谷の質屋に預けている服のこと

# 質屋の件、鴎外の印税が切れて経済的に厳しかったのか。

■昭和33年8月11日 葉書

竹之内氏に前借するために筑摩書房へ行ったときのこと。

■昭和33年11月23日 葉書

「新潮から「記おく――」のやうなMariとのことをと注文が来た」
「記憶の書物」のことを、「偶然によく出来た(一生に一度は素人でもかけるといふやうな」
「暗い目」が出来るまでのこと。ミネルヴァで執筆したらしい。
「二十日に本の紹介で五分、日本テレビに出た」
「ヘンナカホにうつるからダレニモイワナカツタ」

■昭和34年1月14日 葉書 

「私のこんどの会には出て呉れますか」、会に幸田文を呼ぶ件。
新潮に「離婚とその後」を書いた。杏奴の希望があるからM
(注:娘の桃子)のことにはふれていない、誕生前のことだ、と説明。
「成べく私はMの幸福のためにひそんでゐますが」
「梅ヶ丘の附近をうろ/\することもひかへねばならない」
梅ヶ丘は杏奴夫婦の住む場所。一体姉に何を頼んだんだ、杏奴。

# 昭和28年12月12日の手紙には「桃子の結婚について、アンヌが所謂感心な、
# 非のうち所のない家庭同士の結婚を希んでゐるらしいのを私は始めて知つた」
# とある。森茉莉の文章に自分の娘が描かれることで、娘の生活に何か影響が
# あっては大変、と杏奴が心配したのだろうか。勝手な想像なので根拠は全くなし。

※冒頭の「こんどの会」は『靴の音』出版記念会のことらしい。
2008-01-28 - 神保町系オタオタ日記「森茉莉『靴の音』出版記念会」によると、昭和34年1月18日に会に出たという本間久雄の日記が引用されている。

■昭和34年4月9日 葉書

ハンス(於菟の子)達と会う日程について

■昭和34年4月11日 葉書

ハンス(於菟の子)達と会う日程について(何か行き違いがあったらしい?)

■昭和34年5月7日 封書 

「私の今後の生活は小説を書いて行くよりないことを自覚してゐる」
「いづれはフィクションをかかなくてはならず(中略)もとのずゐひつにかへれば
生活して行かれぬ程度になるのは眼に見えてゐる」
「去年二月の痛い思い出によつて」兄、妹、弟、息子に迷惑はかけられない。
「荷風先生ではないから来てくれる人には悦んで会ふが、こつちから見に行く
といふ気がなくなつた」
(於菟、杏奴の家で誰かが結婚すると)「私といふものはマイナスをあたへる
だけの人間である。さういふことになつて、急に交りを断つのもあまり愉快でない」

室生犀星の家に訪問して、『靴の音』のお祝いに硝子の壜を貰ったこと。
主婦と生活の記事、板垣氏の文章が森茉莉の作品を褒めた?
「世間の中に、理解され、温かみのやうなものが漂ひはじめたのをかんじる」

■昭和34年5月11日 封書

手紙に返事がなかったらしく、その弁解というか追記のような手紙。
7日の手紙に後記を書いたのだが、なくしてしまったので書いたもの。
「「みどり」に三枚半たのまれたのが二十日まで」

■昭和34年5月13日 封書

6月号に掲載された小説「禿鷹」のこと。
小説を書くときに「感心」「けなげさ」「常識的」などの一連の道徳的
なものを表面に出したくない。文章の面白みをなくす、と思っている。
書いているうちに妹である百合をもっと悪者にしてみたくなったが、
「フィクションがかけない私にはそれは許されなかつた」
この小説を「弟の長女の五百がよむやうになるだらうといふことは、
私の悲哀だ」弟と会わないようにしたので、姪に会えなくなったのも悲哀だ。

# 11日の手紙で言う「後記」を12日夜に風月で改めて書いたものだと、
# 手紙の最後に書いている。見つからなかったらしい。

■昭和34年8月17日 葉書

秦一郎氏の姪が似顔絵を描いて持ってきてくれた。

■昭和35年2月23日 葉書

「事件後、一寸体の調子が悪く、毎晩ミイチャンに来て貰つて、遊んで外出
しなかつた。部屋を煤払ひし、百度以上ざうきんを絞つて、扉の外側まで
ふいて腰がぬけさうになり、一日よく歩けなかつた」
室生犀星が来た後体調を崩したようだ。訪問は河出ムック見ると同年1月。
「婦人画報のフォトは、全部持つて来て私に見せて」
「(雑誌としては面白い効果を上にし、本人のよくうつつてることは第二に
するのは当然だけれど)」
この葉書では書ききれず、同じ日の葉書に続いている。

# 婦人画報に森茉莉の写真が掲載されてる?

■昭和35年2月23日 葉書 

葉書の続き。
「シブヤの部屋通りで買つたヴェニスの景色のカベカケに、巴里の昔の
ゴブラン織りを見る」など『贅沢貧乏』でお馴染みの描写が続く。
「「オマリ、カナシマズニベンキヨウスルノダ」「マリチャンシツカリオシ」
といふ二人の霊の声が私をはげまし」

■昭和35年10月20日 葉書

「新聞評(きのふ)は情なかつたが」
森茉莉の作品を杏奴が褒めたようだ。ジョバンニという名前のことについて。
小島さんに調べてもらったと書いている。
「去年の夏から一行もかけず十日位で急にかけ出したので、テンテコマイで」
「今生れてはじめて、肉親以外の人の小説で大変だ」

■昭和38年1月8日 葉書

杏奴から誕生日プレゼントがあったようで(バラの造花?とお菓子)
「枝も葉も花もなんとなく鈍い色で(中略)どこかふたしかないろと
存在感を映し出し」
昨日萩原葉子のところへ行って池田満寿夫と富岡多恵子に会った。
富岡多恵子は「曇ったガラス」のファンで、
「恋人の森より、こっけい小説より、曇つたガラスがいいといふので
うれしくなりました」

以上一覧終わり。図書館で借りてきた本なので、本が手元にありません。
なのでこの記事について問い合わせがあった場合、回答するのはかなり
遅れますのでご了承ください。

chiwami403 at 22:12│Comments(2)森茉莉 

この記事へのコメント

1. Posted by オルサ   2008年03月15日 20:28
初めまして。とても細かく熱心に書いていらっしゃるんですね。
最近になってやっと森茉莉さんの随筆の魅力を知り、拙いブログの記事にし、こちらにも伺わせていただきました。
2. Posted by ちわみ   2008年03月17日 19:38
コメントありがとうございます。
何か森茉莉のことを調べるときにお役に立てれば幸いです。

『貧乏サヴァラン』編者の早川さんは、去年『森茉莉かぶれ』という著書を出版されるほど森茉莉のことを熱心に調べていますよ。勿論サイトもお持ちですからどうぞそちらもご覧下さいね。
http://www.geocities.jp/kyoto_gingetsu_apartment/

このブログの読者様へ。森茉莉について書いているのは3月15日の日記です。
http://siccomesiciliana.blog9.fc2.com/blog-entry-480.html

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