森茉莉

2009年11月07日

「森茉莉全集未収録?」カテゴリを作ってみた

新たにカテゴリーを作ってみました「森茉莉全集未収録?」です。
これまでも未収録のものはいくつか紹介してきましたが、今回
まとめていくつか紹介するつもりなので。
「?」がついているのは私が6、7巻しか森茉莉全集を持ってなくて、
一応収録作品索引のコピーは手元にあるけど、文章見ただけでは本当に
未収録かどうか分からないから。

「森茉莉」で検索したことある人なら見たことある人多いと思いますが、

古雑誌&古本Re-Make/Re-Model ファッション 音楽 インテリア
デザイン アート など雑誌バックナンバーの古本屋


というネット古書店があって、以前「森茉莉+誰か作家名」で検索してたら
この店のサイトにヒットして森茉莉の名前の横に見慣れないタイトルがあった。
トップページにはありがたいことに検索窓があり、森茉莉で検索したら
森茉莉が執筆してる雑誌が意外とあり、全集の作品名索引と照らし合わせ、
未収録っぽいものをリストアップし、お茶の水図書館で閲覧・複写して
きました。本当はこのネット古書店で買うのがいいんだろうけど、私には
買える値段ではないので……すみませんお店の人。

索引に同じタイトルがなかったので喜々としてコピーとってきたけど、
単行本「私の美の世界」収録時にタイトルが変わっていた、というのもあった。

お茶の水図書館は入館料を払えば一般の人でも利用できるのですが、複写の際
所属や目的を用紙に記入する必要があります。どこにも所属せず、研究者でも
学生でも仕事でもなく単なる個人的な趣味で、と言ったら微妙な反応だった。
そういうケースは少ないのだろうか。複写断られなくてよかったけど。

個人でやってるブログなので全文掲載するわけにはいきませんが、
雑誌名と発行年月、タイトル、冒頭の文章や興味深い点など最低限の
データだけでもネット上にあればちょっとは役立つかもしれない。
もし森茉莉の全集未収録作品を集めたものが出版される計画があるなら
ここのデータはいくらでも利用してほしいものです。
ユリイカの森茉莉特集で全集未収録作品として掲載されたのは、どれもネット
で読めるものばかりだった。探せばまだ未収録作品はあるのに何故。


chiwami403 at 21:34|PermalinkComments(0)

2009年08月29日

「桜田本郷町の靴」の店は内田靴店

『明治百話』下巻には森茉莉の作品に出てきた店がもう一軒。

「山の手胸黒下町エリ黒」より。

桜田本郷町の南角にある靴店内田。今はビルデング(ママ)
となって立派な店になったものの、その初めは、今のとこより、
モット新橋寄りのとこに、主人はガラス戸の中で、白いという
よりは汚れた腹掛をかけて、古靴直しをコツ/\、金槌で
叩いていたものです。ソレが新聞広告から、信用販売の基礎を
開き、とう/\あすこまで築きあげたという、努力奮闘は、
通行人の著者も、よく感心させられたものです


(ご参考)2004年06月12日 桜田本郷町の靴で巴里へ
森茉莉はパリに行く前に、桜田本郷町で靴を買ったと
『記憶の絵』に書いているのですが、この内田で買ったものでしょう。

「靴 内田」などで検索したら
靴の歴史散歩79(皮革産業資料館 副館長 稲川實)※PDF
で内田靴店のことをとりあげていた。

それから「明舟町の家」に出てくるマルボオル、

2005年12月10日 村井弦斎『食道楽』に東京産マルボーロ

では早稲田で作っているという話でしたが、
千代田区の麹町にある栄陽堂は、創業者が鍋島出身で、
明治19年からマルボウロ(丸房露)を作ってるのだそうだ。
森茉莉の祖父も鍋島出身だし、早稲田よりは麹町のほうが
明舟町の家から近いからここの店のを食べたかも?

和菓子・洋菓子通販|東京麹町の老舗 シャレー栄陽堂|会社紹介

chiwami403 at 20:31|PermalinkComments(0)

2009年08月23日

三井本館の近くの漬物屋

『明治百話』の下巻を読んでいたら「日本橋室町の話」で

この界隈のお話を掻摘んでいッてみると室町の漬物屋
小田原屋、大した老舗だ。


とあった。
森茉莉が三井本館の話をするときに、近くに田原屋という漬物屋が
あって、そこで売ってる大きい梅干が云々という描写がどっかに
あったはずなのだが今探してみても見つからない。
読んだ当時日本橋で働いてたので「どんな店だったんだろう」と
内容だけは覚えてるんだけど。

森茉莉は田原屋と書いているが、これは小田原屋ではないだろうか、
神楽坂の洋食屋田原屋と混同してるかも、と思いついた。

震災後に魚河岸が築地に移転する前、日本橋の魚河岸のどこにどんな店
が入っているかというのを解説した詳しいサイトを以前見たことが
あったので、改めて小田原屋漬物店を探したら、あった。
現在は刃物の木屋があるところで三井本館の斜め前。

魚河岸野郎 再現 日本橋魚河岸地図

「全地区の地図へ行く」→右上の地図「J」を表示で昔の地図が表示されます。
左端に「室町電車通り」があってその通り沿いの北側の角から4軒目がその店。

東北大学附属図書館企画展 展示資料
に、江戸時代の小田原屋主人が書いた漬物の本「四季漬物塩嘉言」の画像が出ています。

四季漬物塩嘉言 - 江戸時代のつけものの作り方
には本文をテキスト化したものが掲載されてます。すごいなー。


chiwami403 at 17:53|PermalinkComments(0)

2009年07月29日

円地文子が抱いていた森茉莉のイメージ

「廃園」における美子像を考える上で参考になるかもしれません。

昭和62年3月『夢うつつの記』(円地は前年の11月に死去。最後の作品)に

英語のほかには漢文を習いたいと言ったので、父の友人であった
岡田正之博士のところへうかがった。おうちは駒込の千駄木町に
あって森鴎外の家の近くであった。私はそこへ行った帰りによく
鴎外荘の前を通ってなんとなく羨ましいような気持ちで眺めていた
ようなことがある。鴎外が亡くなったのは丁度その頃であったし、
私は漱石よりも鴎外の方を多く読んでいたので、その人の家が格別
なつかしく思われたのであろう。
(98頁)

鴎外が亡くなった頃、というと森茉莉はその頃山田珠樹と滞欧している。

平凡社『兎の挽歌』(昭和51年4月発行)に収録の「竹柏園の思い出」。
11歳の頃、竹柏園の集まりに一度だけ連れて行ってもらったそうだ。
上田敏と一緒に来ていた娘の瑠璃子の姿が印象に残っていると書いている。

森鴎外令嬢の茉莉子さんとか瑠璃子さんとかは、その頃の
西洋的な文化の最高の雰囲気を持つ香りの高い花のような印象で、
子供の私にはひどくハイカラに感じられたのである。


その会で森茉莉に会ったとは書いてないので、鴎外令嬢茉莉子のことは
雑誌に掲載された写真などを見たのだろうか。宮本百合子は
「歴史の落穂――鴎外・漱石・荷風の婦人観にふれて――」
雑誌で「まだ幼くておさげの時分」の森茉莉の写真を見たと書いている。
海月書林店主さんの『おんな作家読本』では森茉莉の写真の出ている
昔の婦人雑誌を紹介しています。

こういう印象を抱き続けていたところへ、長谷川時雨の「輝ク」
の活動で森茉莉本人と会って「あのハイカラな香り高い花はどこへ」
とか思っちゃったのだろうか、円地文子。

chiwami403 at 20:29|PermalinkComments(0)

2009年07月28日

『円地文子―ジェンダーで読む作家の生と作品 』の「廃園」解説

小林富久子という人の『円地文子―ジェンダーで読む作家の生と作品 』
(2005年1月 新典社)評伝があり、ジェンダーって好きじゃないんだよね
と思いつつも図書館で借りて読んでみたら円地の生い立ちや同年代の
ほかの女流作家との違いなど、興味深い点が色々。

「廃園」についても考察があるので、気になる部分を引用。

小林氏は「廃園」を「光明皇后の絵」とともに、円地復活の基となる
「ひもじい年月」『女坂』の前段階ないしは過渡的作品と位置づけて
います。廃園のあらすじを紹介し、森茉莉・小堀杏奴姉妹モデル説を
挙げつつも

やはり作者円地文子の心境を映し出したものと見るほうが興味深い

としている。美子(=森茉莉)のような女性は滅びるしかない、
と登場人物に述べさせているが、小林氏によると

美子の抽象的志向自体を非難しているというよりも、
女性の審美主義者や哲学者を認めず、ましてや表現の機会を
許さない世間一般に意義を唱える


ことが真意ではないか、と書いています。廃園の美子はその後子宮がんで
入院して小説から遠ざかる円地本人の問題でもあった。
「廃園」の5年後に発表した「光明皇后の絵」については、私は未読ですが、
こちらにも対照的な姉妹が登場している、というのをこの本で知った。

対照的姉妹の生き方を軸に、現実主義対浪漫主義、日常的世界対美的世界、
現在対過去などの相反する立場や世界観の相克を示す点で、この作品は
明らかに「廃園」に通じている。


「廃園」だけ読んで「森茉莉がモデルだってーへー」とか言ってる場合では
ないのだった。こちらの作品では美的世界を志す主人公は滅びることなく、
芸術の世界が開けるという結末らしい。
さらに小林氏の指摘によると「廃園」「光明皇后の絵」だけでなく、
戦前に発表した戯曲「晩春騒夜」や小説「女の冬」にも対照的な二人の女性が
出てくるそうで、「廃園」は森茉莉をモデルにしたといっても、小説のテーマ
である「対照的な立場の二人」にちょうど良かったということか。

chiwami403 at 21:41|PermalinkComments(0)

2009年07月24日

円地文子「女の書く小説」

円地文子『女の秘密』(昭和34年12月新潮社)に入っている文章。

これは私自身のことだけれど、小説を書く場合に、やつぱり
何か自分が直接触れて経験したことでないと、素材がどうも
うまく筆に乗つて行かないのである。それなら私は私小説作家、
つまり自分の経験を生(なま)で書いて行くといふたちの作家
かといふと、それは違ふ。日本の私小説の伝統にあるやうに
自分の経験をそのまヽ小説の枠に入れて出して行くといふ方法
は、私にはできないので、さういふことをすると、私の場合
には、肘を抑へられて筆を持つやうに大変不自由なものに
なつてしまふのである。
(中略)
そこで私は自分の中でひとつのフィクションを拵へて、
小説の形を作る場合には、全然自分の経験といつたやうな
ものとは別のところで仕事をすることにしてゐる。


この文章の最後には(講演筆記)とあり、いつの講演かは
不明だけど、「廃園」における森茉莉を考えるときに参考に
なるかと思ったので引用してみました。

話は逸れるが、この本には

長谷川時雨関連の文章に、"嵐の「女人藝術」時代" 
"老木の櫻 長谷川時雨女史のこと”がある。
”恋愛ぬきの男友達”では尾崎一雄のこと。
昭和16年に長谷川時雨を団長として南支を慰問したときに
メンバーに尾崎一雄がいて、この二人はその後も仲が良かった。
尾崎一雄も随筆に円地文子のことを何度か書いている。

他に宮本百合子、平林たい子、宇野千代、永井荷風、
徳田秋声、室生犀星、高見順、についても書いている。



chiwami403 at 21:12|PermalinkComments(0)

2009年07月23日

作者の円地文子が語る「廃園」

日本経済新聞での連載「私の履歴書」をまとめた『うそ・まこと七十余年』
では森茉莉・杏奴姉妹をモデルにした「廃園」について書いている。
が、モデルについては特に何も。

四月に上京して間もなく、私は同人誌「日暦」の同人であった荒木巍さん
の訪問を受けた。戦争中結核を患っていた荒木さんが全快して小学館が
新たに発刊する「新人」」という文芸雑誌の編集長に就任したとのことで、
「新人」に短編小説を書くようにとの勧めであった。私はもちろんひき受けた。
七月ごろその雑誌が創刊され、私の「廃園」という小説もそれに載った。
当時、別に反響は無かったが、大分後になってから伊藤整氏が良い批評を
して下さったことがある。 (「病院生活」より)


ネット上に出ている「廃園」の感想。その後感想が変わったかもしれませんが。

まずは『森茉莉かぶれ』著者、『貧乏サヴァラン』編者の早川さん
森茉莉雑記帖 (早川さんのサイト2005.5.24の項)

次はユリイカでブックガイドを書いた木村カナさん。
2007-11-01 - Kuchinashi/magic memo

最後に私の。
森茉莉街道をゆく(+長谷川時雨):都立中央図書館で森茉莉資料の閲覧


chiwami403 at 19:55|PermalinkComments(0)

2009年07月17日

円地文子の自伝的著書『うそ・まこと七十余年』

日本経済新聞の「私の履歴書」を本にしたもの。昭和59年2月発行。
連載は昭和58年5月22日〜6月21日(円地の視力が弱いため日経の人が口述筆記)
本人が自分の生い立ちを語ってるので、1冊読むとしたらこれがおすすめです。

2年前に日経ビジネスから女流作家の「私の履歴書」を集めた文庫が
出ていてそれにも同じものが掲載されているようです。
森茉莉と比較になりそうな箇所を引用します。

私の父は容貌のよくないのを自認していて、頭もくりくり坊主にし、
身なりなどもいっこう、構わなかったが、私には、父を醜いと思う感覚は
全くなかった。
(「寂しかった三月」より)

男というものは一にも二にも父であった。父もまた私が自分に似ているといって
喜んでいた。(中略)あんたのお父さん、器量が悪いわねなどといわれたら、
多分私はほんとうに怒ったであろう。
(「寂しかった三月」より)

父は、外ではこわい先生と言われていたらしかったが、家の者にはごく
やさしくて、ことに母や姉や私のような女にはほとんど大きな声を出して
叱るようなことはなかった。
(「やさしい父」より)

森茉莉同様、円地文子も父親に可愛がられている。
森家では嫁姑の仲が悪かったが、上田家はそういうのがなく円満だったそうな。

私は記憶や理解力は割に良かったので成績は上の部であったが、残念なことに
まことに不器用で手工とか裁縫とか体操(絵だけは割に上手だったが)などの
点が悪かったので
(後略) (「好き嫌い」より)

このくだり、森茉莉と似てるな。絵だけは得意とか。

私は父に可愛がられたし、父を好きであったが、宣伝のように父の名
を使われることはいかにも心外であった。(中略)私は別に父の力で世に
出たのではないという意味で、父の名と自分とは無理にも切り離したかった。

(「心情左翼」より)

森茉莉や幸田文のように父親のことを書いてデビューしたわけではないが
有名な学者の娘、という肩書きはついてまわっていたようだ。

恋愛結婚といわれれば嘘であるが、さればといって型の決った見合結婚でも
なかった。つまり内訳をいえば、私が文壇に顔を出すようになり、結婚しない
若い女だというので、何となく華やかな人気があった反面に、両親とすれば、
左翼がかっていてひどく危なっかしく思われたのであろう。
(「結婚」より)

恐らく子供ができなかったら、当時であっても離婚していたと思う。ところが
二年目に娘が生れた。そのことが私の足を重くしたことは確かである。しかし、
子供のために夫と別れなかったというようなことは事実ではない。結局私が何事
にもきっぱりした決心のつかない人間で、夫と別れた後の生活も不安だったの
である。
(「結婚」より)

この離婚話を機に、円地文子は文学を続けることを夫に了解させている。
戯曲が嫌になり、小説を書こうと考え始めていたところだった。

婚期が遅れたことと、生まれたのは娘一人で母子くっつきまくりなのは
森茉莉よりも幸田文と似ている。森茉莉や幸田文と違って離婚はしなかったが。

戦後に円地は子宮がんで入院する。退院するも林芙美子や平林たい子など
同世代の作家が華々しく活躍しているのに、なかなか小説が発表できない
時代が続いた。戦時中の南支行きがきっかけで友人となった尾崎一雄に
「自分はお茶っぴきばかり」とぼやいている。
友人の平林たい子に「(原稿を)持って行けば必ず売れるようになる」と
励まされ、

私はその言葉を信じて、せっせと小説を書いた。しかし、ジャーナリズムは
私が戦中から戦後にかけてご無沙汰している間に、編集者の顔などもすっかり
変ってしまた。原稿は、平林さんも一緒に行ってくれて文芸雑誌に持ち込んだ
が、なかなか採用されなかった。一応は丁寧に挨拶してくれるのだが、
一、二ヶ月すると、どっしり重い響きを持った包みが家に帰ってきた。

(「病院生活」より)

円地文子は森茉莉よりずっとデビューが早かったが、それは戯曲家として
であって、小説が認められるようになるのは戦後の昭和26年頃。
円地文子にも苦労の時代があったのだった。



chiwami403 at 21:33|PermalinkComments(0)

2009年07月16日

森茉莉作品における円地文子

森茉莉がロールシャッハ検査を受けたのは円地文子のご推薦であった。

円谷澄子が「牟礼さんなんかやると面白いわよ」と言ったというのを
聞いて見当がついた。冗談からこまが出て、魔利が仲間に入ったのである。
(「黒猫ジュリエットの話」より。講談社文芸文庫『贅沢貧乏』p106)


あとはドッキリチャンネルでは「小説を書くこと以外何もできない」
発言の円地に対して妙な対抗心を見せています。
全集の6巻84ページ「小実昌、円地、沢田源氏予想」の最初。

他にも探せばまだあるだろう。

chiwami403 at 19:53|PermalinkComments(0)

2009年07月13日

編集者の小島さんが語る森茉莉と円地文子

河出の森茉莉ムックでは、島内裕子氏が円地文子の「廃園」について
森茉莉姉妹がモデルではないかという文章を書いています。

島内さんが聞き手の「インタビュー 編集者から見た不思議な作家の素顔」 
では他の文学者との類似性を強調する見方について、小島さんは
「同時代で面白いのは幸田文との対比」で森茉莉が唯一意識していた
存在だととコメントしている。
聞き手の島内さんが、円地文子に対してどうだったんでしょう、と話をふると
「女の業を書く、ああいうのは嫌いなの。それはハッキリしてるんです。
(中略)でも円地文子も多分意識していた」と。

理由として、円地が戯曲でデビュー、森茉莉も劇評を書くなどお互い芝居に
縁あったこと、それから長谷川時雨とのつながりを挙げています。
長谷川時雨とのつながりというのは「輝ク」の活動に円地も森茉莉も参加
していたことを指しているのではないかと思われます。


若林つやの回想本によると長谷川時雨と一緒に二人は鰻屋に
行ったこともあるようだし、確か「輝ク」で森茉莉がちょっとだけ喋った
座談会では円地文子も確かメンバーだった気がする。

2005年03月10日 長谷川時雨と森茉莉の鰻事件
2005年08月28日 「輝ク」誌面での森茉莉

女の業を描くのは嫌でも、円地の女坂のことは鼎談で褒めている。

Hugo Strikes Back!: 森茉莉×金井美恵子×奥野健男 鼎談
(その5の左側ページに該当箇所)

私ね、女の偉い小説家を尊敬してるけど私の時代の人は女の業にこだわって
よく書いてるのね。自分にあまり業がないものだからうっとおしくてね


その少し後で

女の業を書いても、円地さんのは偉い男の作家が上からみてる
ような感じだからいいのね。「女坂」なんて面白かった。



chiwami403 at 20:22|PermalinkComments(0)