長谷川春子

2014年07月19日

かわじもとたか『序文検索  2箇目』 に長谷川春子

けやき出版の『序文検索 2箇目』を著者のかわじさんから頂戴しました。

191ページの 「47.長谷川春子』のところで、このブログのことが書いてあります。
ここ数年全然更新してないブログですが、見てくれる人もいるんだなあと
嬉しかったです。どうもありがとうございました。

長谷川春子については、2011年にイメージ&ジェンダー研究会の例会で、

研究報告1:「戦時下の長谷川春子――<Harouko HANOI, 1939>の絵を中心に」
報告者:北原 恵


という報告があって、気になっていました。古本屋に春子の油絵があったのか。

あとは2012年の丸木美術館の企画展「発掘:戦時下に描かれた絵画」
長谷川春子の《少婦国防》が出ていて、これも見に行きたかった。



chiwami403 at 23:53|PermalinkComments(0)

2009年04月14日

『東亜あちらこちら』に福田勝治撮影の春子写真

長谷川春子の『東亜あちらこちら』を買いました。
昭和18年1月20日初版発行
東京都神田区神保町三丁目二十九番 発行所 室戸書房

この本に長谷川春子の写真が出ていた。撮影は福田勝治。
最後の「写真を撮る」という文章に撮影のことが書いてあります。
春子の随筆を読んで、突然家に訪ねてきて撮影したいと申し込んだ福田氏。

春子による福田の印象はこんな感じ。旧字は改めてあります。

お互ひに顔を見合すと、この中年男の表情はやさしくはにかんだ
やうで、さて中々しんに一てつなところがありさうで、金もうけや
闇のもうけなんぞには縁のなささうな表情、つまり我々絵描きなど
と同類縁者の顔である。そしてそれが相当の人であるといふことは。
芸の人の風ぼうといふより、空気といつた方のいいものが彼の身体
からかげろふのやうに、眼にさはやかに見えねども発散してゐるのだ。


原文では下線部分に傍点が入っています。来訪時の春子の服装は

絵具のついたブラウスの上へ母親の片身(ママ)の黒びろうど
の肩掛の化けたチョツキ、スカアトは茶色のスフのぶくぶく型、
そしてねづみの古ちりめんでこさへた筒袖の和洋せつちうの
細えりの羽織を着てゐるのだ


春子は「もと/\相当のお多福なのであるから、別に今さら美しき
年増に撮つたつて有難くもない
」ので写真のために身支度するのは
嫌だと、この服装のまま写真におさまってます。

掲載の写真は、撮影が終了しくつろいでいる春子を撮ったもので
福田談「美醜の点ではワルイですが、一番いい写真です」。
『東亜あちらこちら』の長谷川春子写真

chiwami403 at 21:13|PermalinkComments(0)

2008年11月28日

尾崎士郎の娘が見た長谷川春子

尾崎一雄のエピソードを知りたくて買った『ふたりの一枝』。
が、長谷川春子の名前が意外にも。

著者は中村一枝と古川一枝(講談社 2003年9月1日発行)。
中村一枝は尾崎士郎の長女、古川一枝は尾崎一雄の長女。
旧姓は二人とも同じ尾崎で生まれた年も1年違い。

平成13年〜14年に熊本日日新聞に連載したものを加筆修正し、
更に書き下ろしを加えて発行したもの。

尾崎士郎の娘、中村一枝の「汀女の結婚」という文章の冒頭。

もう四十年前になる。結婚したばかりの頃、実家の母と大森駅前
を歩いていると、いきなり声をかけられた。いかつい顔だちの、
声の大きい元気なおばさんだった。
彼女は私に向かって「あんたが汀女さんところに嫁(い)ってる娘さん」
と聞いた。「はい、そうです」「いま、どこに住んでいるの?」
「大森です」「ああ、汀女さんと一緒じゃないのね。そりゃあよかった、
そりゃあよかった」
相好をくずしてそう言われたのには驚いた。
「あの人、だれ?」「画家の長谷川春子さんよ。長谷川時雨さんの妹さんよ」
強そうなおばさんに「よかった、よかった」といわれたのはちょっと
複雑な心境だった。


尾崎士郎の娘は中村汀女の息子と結婚した。
長谷川春子は馬込に住んでいて、尾崎士郎の『空想部落』の表紙
や挿絵を描いているから、尾崎士郎の妻と面識があったのだろうか。

それにしても初対面の娘さんに長谷川春子は豪快だ。
尾崎士郎の娘も「強そう」「いかつい」と正直だけど。

chiwami403 at 21:38|PermalinkComments(5)

2008年11月22日

林芙美子随筆集、市報「とうみ」に長谷川春子  他

長谷川春子の絵が見られるサイトと他の本に出てきた春子ネタ。

■林芙美子随筆に長谷川春子の発言
猫額洞の日々 : 林芙美子+チェスタトン+スタージョン+E・ポール!

に、岩波文庫の『林芙美子随筆集』に林芙美子と長谷川春子二人で
作家や画家に取材したときのことが出ているそうで、該当箇所引用してあります。
 
東御市の広報誌に長谷川春子の絵と解説が出てました。
リンク先はpdfですが、一番最後の24ページに1947年の「春風」。

解説担当が梅野記念絵画館の学芸員なので、この絵画館の所蔵と思われます。
いい絵だなあ。それにしても「とうみ」ってどこなの一体、と思って検索。
「長野県小県郡東部町と北佐久郡北御牧村」が合併して出来た市らしい。

■三岸節子の聞き書き本
上記の市報の解説に引用されていた三岸節子の聞き書き本を図書館から借りてきた。
『三岸節子 修羅の花』長谷川春子についての記述は、引用されていた部分のみ。
三岸節子は戦前に新聞社の紹介で女流作家と会う機会があったそうで、
長谷川時雨、宇野千代、吉屋信子、岡本かの子などの印象をかなり率直に
述べていた箇所が面白かった。宇野千代のおしゃれはまずいのよ、とか。

阿部真之助の『恐妻一代男』の「青春武勇伝」に

わたしが毎日の学芸部長の時代に、女の作家や画家の会をこしらえたことがある。
会の名前は長谷川時雨さんの命名で「東紅会」と決った。毎月一度夕食を食べ、
時には一晩泊りの旅行をした。


というくだりがあったのだけど、この東紅会かな?

■阿部真之助の『恐妻一代男』に長谷川春子の結婚後予想

春子の毒舌にやりこめられてる阿部真之助は同じ本の「恐妻卸問屋の弁」で
こんなことを書いている。

そこで仮りに長谷川春子が、家庭の人となつた場合、現に彼女があるが如く、
とんでもないジャジャ馬になるかといえば、私は必ずしもそうとは思わない。
大宅が完全恐妻であるが如く、こんなのに限り案外、完全恐夫になりきつて
しまう可能性が多分にある。亭主に横つ面の、一つや二つ張りとばされても、
グーともいわず、隅つこでシクシク泣きじやくるような、柄にないしおらしい
ところを、お目にかけるようになるかも知れない。大宅を彼女にかけ合せる
実験をしてみたら、どんな現象を呈するようになるかなど、いたずらの予想も
されるのであつた。


引用中の大宅は大宅壮一のこと。『ニッポンじじい愛すべし』の最初に
大宅と長谷川春子の対談があり、例によって春子は毒舌全開。

chiwami403 at 20:54|PermalinkComments(0)

2008年11月08日

長谷川春子は岡田三郎助「少女像」のモデル?

しばらく長谷川春子関連の記事が続きます。森茉莉は全く出てこない。

日用帳のふじたさんより、資料閲覧していたら長谷川春子の
文章があったので、とコピーをいただいた。ありがとうございます。

タイトルは「芹影女史」。副題に「明治四十年頃のこと」。
掲載誌は、「文学散歩14号 回想の岡田八千代」 昭和37年6月20日発行

長谷川時雨と八千代が連れ立って芝居に出かけたことや、
佃島の家に泊まりに来ていた話など岡田八千代についての回想。
気になったのはこの箇所。

秋の短日のころ文展の出品作に岡田先生は私をモデルに
「少女像」を描いてゐられて、築地の学校から私は渡船へ
のらずに、電車で下渋谷へ行きそこへ泊まることもあつた。


へー長谷川春子をモデルにねえ。と思ってぐぐってみたら
ポーラ美術館が岡田三郎助の「少女像」を所蔵している。 

ありがたいことに画像と解説があります。
ポーラ美術館|コレクション  岡田三郎助 少女像 1908年頃(明治41頃)

長谷川春子の文章の副題「明治四十年頃のこと」と作成年は一致。
時雨関連書籍に子供時代の春子の写真が数枚あるので見直したけど、
写真が小さくてこの絵と似てるかよく分からない。この絵なのか?

その頃の長谷川時雨・春子姉妹の住まいは
「佃島の先きの埋立地の新佃島の海辺」で、長谷川春子は
渡し舟で対岸にある築地の女子外国語学校(後の双葉高女)に通っていた。

岡田三郎助・八千代夫妻の住まいは「下渋谷伊達跡」、
検索すると現在の恵比寿3丁目あたりの旧町名らしい。
宇和島の伊達藩の下屋敷があったことから伊達町と呼ばれていた。
今は住居表示で町名はなくなってしまったけど、町内会の名前として
残ってるようです。

chiwami403 at 21:46|PermalinkComments(0)