ちづる通信

日本共産党尼崎市会議員 松沢ちづる(松沢千鶴)のブログです。

カテゴリ: ちづる物語

ちづる物語 1
尼崎地区福祉・介護責任者 松沢ちづるのあゆみ

看護婦になろう

 岐阜県の山の中で生まれました。山と谷、山の斜面につくられた田んぼと畑。農業と林業でくらしていました。各家には牛か馬が1頭は飼ってました。
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 小さいときから、ぼーっとしているのがいやで、いつも何かしていました。保育園で必死に練習して連続逆上がりができるようになりました。
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 中学生の時にテレビの看護学生のドラマを見て、看護学校ならお金もかからないし、小児科の看護婦がいいなあ、と思いました。

 高校は卓球部でキャプテンをしていました。免許を取ってバイクで駅まで行きました。

 この村から出て広いところに行きたい、と国立金沢病院附属看護学校に進学、学生寮で3年間過ごしました。金沢大学工学部のうたごえサークルに参加して、楽しんでいました。2年生の時、うたごえの先輩からさそわれて民青(日本民主青年同盟)に入りました。

 民青はお寺で合宿して勉強し、共産党のことも知りました。くらーい感じはしましたが、貧乏人の味方なんだなと思いました。

 看護学校では3年になると公衆衛生の授業や保健所や重度障がい児施設での研修もあり、子どもと関わるのはすごい魅力でした。でも夏休みに、施設にボランティアで行くと、実際は労働条件が悪く、思ったより子どもが大事にされていないなあ、施設よりも地域の保健婦がいいかなぁと思いました。

 保健婦になるなら大阪で学びたいと思っていました。なぜなら昭和30年頃、森永ヒ素ミルク中毒事件があり、14年後に、大阪大学の丸山博先生中心に保健婦さんたちが家庭訪問を重ね、救済されていない事実を明らかにさせ医療保障をさせた、そんな歴史が大阪にあったからです。
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 大阪府立公衆衛生学校の合格めざして勉強しました。自分で学資をつくろうと、「住み込みでバイトさせてください」と頼み、個人医院で、夜の診察の手伝いや検査データの整理などをしながら学校に通い、保健婦になりました。
(注 看護師・保健師への名称変更は2002年)

ちづる物語 2

尼崎地区福祉・介護責任者 松沢ちづるのあゆみ

東大阪で療育センターの立ち上げ

 働くのは保健所より障害者にかかわるところがいいなと思い、すすめられ大阪府立金剛コロニーに保健婦として就職、療育部で働きました。
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 金剛コロニーに来られていた阪大の中新井邦夫医師から、「障害をもつすべての子どもたち・人々が、地域の中でごく当たり前に暮らしていけるよう、その生活と健康を支える、そんな場をつくろう」と誘われ、東大阪市社会福祉事業団準備室に参加、東大阪市療育センターを立ち上げ、19年間、子どもの療育や成人した障害者の健康管理や生活相談をしてきました。
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↑中新井邦夫医師のことを書いた本。向井承子著 新潮社。
↓松沢ちづるの実践も書かれている
松沢千鶴…等の保健グループは、センターのオープン直後から、東大阪市内に飛び出し、在宅の障害児・者の生活状況の調査を始めていた。…一度では不十分で、一軒の家を二度、三度、四度と訪ねる。その作業の中から、想像以上の悲惨な実態が見えてきた。

結婚、学童・育友会などへ

 就職と同時に、共産党本部に電話をして「赤旗しんぶん」を申し込みました。記事を見て参加した山行で夫と出会いました。

 結婚し、戸ノ内に住みました。園田東児童ホームでは父母の会の会長を務め、親も子も楽しい学童にしようとがんばりました。東高校で教員のセクハラが問題になった時、育友会の会長をつとめました

夫が共産党員に

 夫は大阪市役所の職員でした。市民の声を聞かない当局を批判していた職場の先輩らは冷遇され、昇任昇格で差別されていました。夫はそんな当局に腹を立て逆に先輩に近づいていきました。
 夫たちは、全労連に参加する新しい組合を立ち上げ、昇任昇格差別も勝利和解を勝ち取っていました。
 ある日、夫は帰ってくると「先輩に共産党へ誘われた。嫁さんと相談してくると返事してきた」というのです。私は「入ったらええやん」と思ったとおりいいました。夫は共産党員になりました。労働学校にも行くようになり、おもしろいで、と私に話してくれました。

夫のすすめで共産党に

 その1年後、夫が職場の人を連れてきました。その人といっしょに、私に共産党に入れというのです。「入ります」とすぐいいました。何も迷うことはありませんでした。

ちづる物語 3(最終回)

尼崎地区福祉・介護責任者 松沢ちづるのあゆみ

老人ホームの施設長に
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 東大阪で福祉の拠点をつくろうという運動が始まり、声がかかって参加しました。介護保険制度スタートにあわせて老人ホームとデイサービスができる施設(ケアハウス「かわち野里」)を立ち上げました。施設長には資格・経験が必要ということで、私が就任しました。
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 軽費老人ホームは30人の施設です。三度の食事も手作りです。週に1回歌おう会をはじめました。近くの保育所で歌を披露したり、地域の福祉祭りのステージで歌ったりするようになりました。
 入院しても、最期はここで、と希望して退院してこられる方がいました。そんな希望に応える努力をしてきました。

夫が事故に
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 2005年8月、夫が階段から転落、頭を打って意識不明のまま救急車で搬送されました。かけつけると、集中治療室で医者に言われました。「手術をすれば命は助かるかもしれないけれど、植物状態。家族はたいへんになる」「手術してください」私は即答しました。
 一般病棟に移ったのは8か月くらい後でした。
 仕事が終わってから毎日病院へ通いました。車いすに移れるようになってからは、刺激が必要だからと、屋上に行って歌を歌ってあげました。ドレミの歌をたまたま歌ったら、ドーはドーナツのド、で「ドー」と反応。それからはドレミの歌ばっかり歌いました。そのうち、飛行機の音に「ヒコーキ」というようになり何とか希望がもてるなあと思いました。
 病院は看護婦さんはよくやってくれますが、人手が足りません。家で介護しようと思いました。民間の医療保険と職場の共済で医療費と生活の見通しができました。職場の理事会に申し出て、次の人が決まり、2007年の正月は家で迎えることができました。

尼崎で新たな決意

 家庭介護に踏み切るには、エレベーターの設置など家の改造が必要でした。工事にご理解をとご近所に説明。たいへんねぇと声をかけてくださる人もありました。
 家で見るようになって、自分の名前、子どもの名前を言えるようになりました。表情も豊かになりました。家庭で見るという選択をしたのはよかったと思います。
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 共産党の活動も介護の合間を見て地域で活動できるようになりました。
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 市民の代表へとの話がありました。夫の介護に専念してきた身ですが、共産党に入れ、と誘ってくれたのは、その夫です。保健師としての、また家族としての経験や現実を政治に届けることは、夫の期待でもあるだろうと思います。
 みなさんのご支援に支えられながら、共産党員としてがんばりたいと思います。
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