祈りと生活に真実を求めて

真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために
避難の場(シェルター)として「個人の祈り」を守る教会とは

執筆者 仁保裕介(プロフィール)『すべて失望した人の唇に祈りを。』祈りは、生活の現場から誰にでも自由にできるものです。キリストは呼び求めるすべての人と共に居る方です。清い人や会堂や神殿にしか現れない方ではありません。むしろ、自分はふさわしくないと思う人のそばに居るのがキリストです。
  受洗して教会員になった教会が、「この教会で信仰生活を続けられなければ、救いや信仰の道から外れる」と言うのは、真実ではありません。避難の場(シェルター)としてキリストに求める祈りには、「キリストが共に居る交わり」が必ず与えられています。
  このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。テーマは重いですが、皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。キリスト教の視点で、成長、試練、十字架、悔い改め、聖化の記事になっています。
  ほんの5才から信仰45年のクリスチャン2世として、キリスト教会内の教派主義・人間関係・権威化・カルト化によって傷を受けた皆さんと共に祈り、脱出と自立と今後の信仰について現実的視点で触れていきます。
  元「主の十字架クリスチャンセンター 北九州教会」牧師。

そのために教会をすべて忘れて
自分を認めてあげて肯定して心に上書きをしつづけたいのです


福音派聖霊派でカルト化している教会に長期間多くの時間を献身的に関わり

牧師や大人たちから
訓練・試練・砕きに素直に応じて
悔い改め・へりくだり・従順こそクリスチャンの証しと聞かされて
永遠の命と地獄の火を一緒くたに詰め込まれ
信仰告白しても自己否定と罪意識に支配され

『救われた者』として自分と世を裁き
実は上から目線で世を見下して

その過去に今も無意識に依存し支配されている潜在的なものを見つけてしまったりします。

教会こそ『唯一の真理がある』場所だからと洗脳され
感情的で不当な非難や罪の指摘が日常なのに
これが普通の教会であり家庭であると思わされていました

自分ではなく他人の感情と要求を優先するのが当り前になっていて
自分の感情や欲求もすべて他人の気に入るようにやってきた
すべての判断を「他人フィルター」「教会の大人や親の歪んだ認知フィルター」を通してしていた。

だからいま自分軸で生きてみると
直に環境や他人の刺激が来て
皆が普通10代から積み重ねていることを
いま処理することに戸惑い疲れてしまい
力の入れ加減、抜き加減も分からない状態に。

人の心には、確実に限界点があって

子どもや若者のような無限の信頼と回復は続かず

心は擦り切れて小さなことにも悲鳴を上げるようになります。

自己肯定感を持っている人には理解できない「過剰反応」と思われてしまうようなことがカルト化教会の宗教2世や虐待家庭の子どもの心に起きています

それを切り離すにはどんな手を使っても良いと思っています!!
それは当り前のことです!

日によって変えても良いですし
逃げても嘆いても恨んでも達観俯瞰しても気晴らししても別のものに没頭しても
過去の自分と環境とは全く違う自分と今の環境に心を置く作業です。


過去に無意識が支配されていることを自分で意識して表に出すことで客観化できる面があります。

でも自分の意思で分離できずに執着が大きくなることもあり、
自分にしっかりした別の立ち位置や自信が多少でも持っていないと
厳しい作業になるかもしれません

だから
完全に問題教会や問題家族と距離的心理的に関わっていない方が良いのです!

やり方は、心が願うものに従って何でも試してみて
復讐心や恨みの感情が顔を出しても当然だから良しとして
自分を良く頑張ったとほめて笑い
自分の笑顔の奥に何かがあっても
普通の隣人が怖がったり嫌がったりしなければ良いと思います。

心の中の願望としてはっきり意識して
また夢や希望として前向きに隣人に語ったり

「あの家の子じゃない」「あの教会で育っていない」と
他の家で育ったかのように自分の過去を切り離すようなストーリーづくりも良いと思います

ドラマや映画の良い家族を自分の家としたり

SFの並行世界の別次元に生きるイメージを持ったり

頭をスッキリさせて別世界の自分を愛おしみ慈しみ
自分の才能や好みを知りしっかり褒める、
また隣人からの褒めを受け入れる
そうして自分を社会の中で真っ当に認めていくのです!

自己肯定ができて愛を信じて自己完結している子どもとして
自分の意識を子どもの頃に戻して今の行動のひとつひとつに意識して良いイメージの体験として上書きする

同時に、毎日、他の会社で働いているかのように考えて毎日過去を切り離しつつ。

教会については良い見本などほとんど見つけることはできない現状です

私の場合、教会の外の超教派と呼ばれるCSKやHi.b.aのキャンプに参加して新生や解放や希望を感じたが、しばらくすれば教会の現実の中に戻り
キリストよりも人の発想や現実に支配されます

1世はまったく理解せずに喜んで教会と牧師に従っているのでカルト化しても被害に拍車をかけるしかできません!

自己否定からの発想では、短絡的なその場限りの保身や責任逃れの発想しか出てこない
罪責感からは他者のための奉仕や義務

1世親からは『バカで無知で罪人だから努力しろ』と言われて動機づけられ
それでは自分の本質の発見や変化や成長に至らない

家や教会の大人の感情爆発、支配で
アンテナが否定評価への自己防衛のために研ぎ澄まされて、使い方を間違う
アンテナは本来、友情信頼のある関係性による安心、他人への思いやりのためなのに


自分を知る友、造り主、カウンセラー、アドバイザー、導き手である良き教師と出会い
一緒に探し求めて見つけようと心に願うこと

教会では、弱さを見せると、つけ入れられて罪の意識や神の国の使命感を焚きつけられる
やる気や使命感が罪の意識からの動機にされるのは非常に厄介で心の問題を複雑化する
解放を願って祈っても教会に縛られる限りどんどん解放から遠のきます。



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真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために
  新改訳聖書を使う福音派、聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)、聖書主義、終末携挙信仰、リバイバル信仰、潜在意識など心理的背景、牧師・教会のカルト化問題、クリスチャン2世問題を扱います。その当事者として信仰的姿勢と現実的姿勢で原因考察とお勧めをしております。
  教派信仰問題の経験者の今後のあり方、信仰と救い、社会性、人生の背景、自立した生き方を探求します。内容が辛らつすぎると思われる方は、自己批判・内部告発とお考えいただきたいと思います。
  NCC日本キリスト教協議会に属さず、JEA日本福音同盟やJPC日本ペンテコステネットワークに加わっている福音派聖霊派教派の自浄作用を期待して記事を書き20年になります。
  他教会の問題であっても福音派を名のることを躊躇するような事がずっと起き続けて終わらないのは、『クリスチャンも罪人』という言い訳で済む問題なのでしょうか?『聖書的』『聖書信仰』と言うだけで、すべて許されるのでしょうか。

キリスト教会のカルト化虐待被害があり
脱出、回復、リハビリのために

潜在意識や他人からの虐待的で自己否定をさせるメッセージに縛られず左右されず違う場所で生きる
そして自分発信の自己肯定感をしっかり持てるようにすること

カルト化した教会での年月が長いほどその回復が大変で
毎日瞬間毎に解放のためにやらなくてはいけない取捨選択があります。
教会や他人の評価に左右されない自分を大切にできる関わりを大切にして、悪い教会の影響を断ち切りましょう。

福音派・聖霊派(ペンテコステ派・カリスマ派)・リバイバル運動・新使徒運動の教会の中には
『聖書通りにやっている』『聖霊の働き』と口で言うだけで
信仰のカルト化や家庭内虐待が常態化しているところがあります。
これを意識せずにいると、
「救い」が
『自分だけは特別だ』という思いに取って代わるという異常さがあります。

常識的な価値観を持つ人には異世界であり、
外からこれを『信仰』だと判断されてしまうと教勢は当然に伸びません。

思い込んだ『罪意識』や『信仰』に飛び込む本人は良くても、
普通の人には伝わらない。
それなのに、子どもに強制してきます。

『罪意識』と『悔い改め』を教会で公然の信仰告白の条件としていて、
教会で個人の内面に入り込んで感情的に裁き合う本音が言葉の端々に出ます
そんな環境に『信仰』『救い』のために長く身を置くと
自ら裁き裁かれるのを心に積み重ねて『信仰の確信』の中に入って蝕まれていきます。

この下に書くことを「自分にはまったく関係ない」と思う人ほど危険で近づきたくありません。誰にでも感情の行き過ぎはあるから、自分にもあると認めることが健全です。

ーーーー自分の感覚や感情を特別な正義だと思い込んで
相手が誰でも構わず
キレて当り散らすことを正当化してしまう。

そして無意識の傷の報復感情が湧いて
自分が特別扱いされないと気に入らない
目の前の無関係な他人さえ気に入らなくなり悪感情を投影・転嫁して
我慢できない感情のまま、
キレて当たり散らす気分を自分が満足するまで優先して
その気分の発散の快感を『当然の正義』として習慣にするように。
自分は楽になりますが
それが他人には大きな傷になり、また他の人に連鎖していきます。

『悔い改め』という名の『罪の意識』を互いに境界なく過剰に共有して、
卑下し合うことに慣れきって、
それを心が通じ会う事で『愛だ』『義だ』と勘違いする一生が、どの教会にも十分あり得るのです。

教会で良い顔をしている親が家に帰って子供と一対一になった途端に豹変、
『私はあんたのために忍耐している』
『あんたはダメな子だ』
『そんななら、あんたは捨て子だ、拾ってきてやった』
『あんたは罪人だ』『罪だね』
『お父さんお母さんも頭がいいのに頭悪いね』
『神の子なのに』『神様を信じてるんでしょう?』『なんでダメ(な人間)なの?』
悪感情が乗って、教会で体面を良くするために子供を巻き込む時に、こんな言葉で接している親は存在しますし、子にしっかり伝わっています。ーーーー

本当にピュアな幼少期や求道者時代に酷く刷り込まれた内側の傷になります。

そこから逃げるために
頭だけでも
他の世界に行ける映画やテレビやラジオや音楽や漫画や本や趣味へ
タレントや作品やキャラクターやものたち
それが、どれだけ「救い」だったことか
それさえ酷評して『それは悪魔だ』と責める

まったく悪気もなくあれだけの仕打ちができる人間の方が「悪魔よりもよほど酷い」と思って良いし、
そうして親や他人との境界を持つことと仕分けが脱出リハビリの重要なカギです。

トラウマや自己否定の刷り込みは強い感情・衝動の時に表に出やすいです。
しかも無意識・無自覚で酷いことをしておいて「自分が正しい」と思い込めてしまう。
特にストレスがあって理性や常識で抑えられない時にはどうしても出やすいのです。

トラウマ・自己否定・刷り込みを客観化して
感情・衝動が刺激されて反応が出てしまう今のことと過去のことの中身を切り分けて、正気を探す
そのために触れるべき健全な人や社会の成り立ち・法律や医療・カウンセラーの存在

今のことで妥当なもの不当なもの
過去のことで妥当なもの不当なもの
それらを4つにまず切り分ける
1)執着があったとしても自分を疲弊させ心を侵して悪くするものなら捨てる覚悟をする
2)フラッシュバックする追体験を自分と関係ないものとして心の距離をとり見えないように彼方に置く
3)自分に正当・妥当な評価をいつもする、自分の味方になる
4)これらを内側外側でしようとする自分は、健全な人や社会に十分に認められていると思えるようにする

悪い教会とは教えとはまったく違う、
自分を健全化する癒すものをしっかり選びましょう。

普通の友人関係なら寛容ですし、ほんとうのキリストも聖霊もそうです。
一緒に居て、
どこがスタートでも良いし、教会に行かなくても、
この4つのためにあらゆることを見て体験することも導くし、
自分を許し受容して安らぐことも体験させ上書きのために新しく良い記憶にさせようとします。
同じように、普通の人なら「それは仕方ない」「がんばってるよね」と言ってくれます。

それに対してトラウマ・自己否定の刷り込みを抑えられずに走ってしまうと
ものすごい不安感で
他人を怒ってまぎらわせたり
歪んだ認知で決めつけて深い先入観と思い込みで安心する
でも違う意見が来るとすぐに感情的拒否の反応が表に出る
毎日常にそんな気持ち・心持ちでも、本人は怒りと思い込みと反対者に嫌な感情を持つことが自分らしく当然あることのような顔で
『正義は我にあり』と思う
やりたいようにやってしまう
一度思ったこと信じたことに勘違いでも執着する
固定した何かに安心しておきたい

心に傷があれば、仕方がない時があります
自覚があって解放を求めていて、
今はこの感情は仕方がない、
そういう時はあります
その時も、受け容れてくれる誰かは居ます
傷を持ち一生懸命に回復しようとしている人に


ときに、パリサイ人と律法学者たちとが、エルサレムからイエスのもとにきて言った、 「あなたの弟子たちは、なぜ昔の人々の言伝えを破るのですか。彼らは食事の時に手を洗っていません」。 イエスは答えて言われた、「なぜ、あなたがたも自分たちの言伝えによって、神のいましめを破っているのか。 神は言われた、『父と母とを敬え』、また『父または母をののしる者は、必ず死に定められる』と。 それだのに、あなたがたは『だれでも父または母にむかって、あなたにさしあげるはずのこのものは供え物です、と言えば、 父または母を敬わなくてもよろしい』と言っている。こうしてあなたがたは自分たちの言伝えによって、神の言を無にしている。 偽善者たちよ、イザヤがあなたがたについて、こういう適切な預言をしている、 『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。 人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』」。 それからイエスは群衆を呼び寄せて言われた、「聞いて悟るがよい。 口にはいるものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである」。 そのとき、弟子たちが近寄ってきてイエスに言った、「パリサイ人たちが御言を聞いてつまずいたことを、ご存じですか」。 イエスは答えて言われた、「わたしの天の父がお植えにならなかったものは、みな抜き取られるであろう。 彼らをそのままにしておけ。彼らは盲人を手引きする盲人である。もし盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むであろう」。 ペテロが答えて言った、「その譬を説明してください」。 イエスは言われた、「あなたがたも、まだわからないのか。 口にはいってくるものは、みな腹の中にはいり、そして、外に出て行くことを知らないのか。 しかし、口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである。 というのは、悪い思い、すなわち、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、誹りは、心の中から出てくるのであって、 これらのものが人を汚すのである。しかし、洗わない手で食事することは、人を汚すのではない」。
マタイによる福音書 15:1‭-‬20 JA1955
https://bible.com/bible/81/mat.15.1-20.JA1955


このブログの関連記事:
福音派宗教2世…『私は自分のことが嫌い』『自分を憎んでいる』『自分なんかダメ』悔い改めという名の自己否定すると落ち着く 2022/08/04



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  新改訳聖書を使う福音派、聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)、聖書主義、終末携挙信仰、リバイバル信仰、潜在意識など心理的背景、牧師・教会のカルト化問題、クリスチャン2世問題を扱います。その当事者として信仰的姿勢と現実的姿勢で原因考察とお勧めをしております。
  教派信仰問題の経験者の今後のあり方、信仰と救い、社会性、人生の背景、自立した生き方を探求します。内容が辛らつすぎると思われる方は、自己批判・内部告発とお考えいただきたいと思います。
  NCC日本キリスト教協議会に属さず、JEA日本福音同盟やJPC日本ペンテコステネットワークに加わっている福音派聖霊派教派の自浄作用を期待して記事を書き20年になります。
  他教会の問題であっても福音派を名のることを躊躇するような事がずっと起き続けて終わらないのは、『クリスチャンも罪人』という言い訳で済む問題なのでしょうか?『聖書的』『聖書信仰』と言うだけで、すべて許されるのでしょうか。

誰かに事情を汲んでもらう、よくがんばったと褒めてもらう
少し休もう とねぎらってもらう
人間、苦労があれば皆に必要なことです

カルト化の虐待・受傷・洗脳・支配からの脱出の困難と生きる困難がある福音派聖霊派のクリスチャン宗教2世や脱会後に困難のある人は多く存在します。

教会と親による継続的な酷い傷を負った自分をいくら哀れんでも良いし、
慰めて心を取り戻すために必要のものを求め続ける時間を一生使って良い。

フラッシュバックなどもあるから
社会で追体験したりもあるから
本当に困難で簡単なことではないです。

痛みの果てに結論的に、客観 俯瞰の目を持つ必然が来ます。
「悪魔より人の方が酷いことをできる」と思える現実。
それも教会の牧師や信徒が。社会で時に出会う身勝手な人と同じかそれ以上に。

真面目そうに権威的にしていて実は気ままに愛を語り、
勘違いのまま他人に無理強いする『信仰の確信』。
口だけの信仰告白の中に、生きたキリストの伴う姿や自由がどこにも感じられず、ただ教会に人の圧力があって『最後には信仰的なことを言わないといけない』と刷り込まれ。
「ダメな自分、でも神様が」という孤独な証しがあり、
『神は私を救われ癒された!』と言い合って頑張っている証しがあり
最後にハレルヤと
リバイバルとかムーブメントとか話を次々聞いて次々形だけ皆が真似をして合わせているだけで自分で気分が盛り上がるよう見せる。

そんな風に思い込んで凝り固まった教会を分解して、散らばってそれぞれの経験で見つけるべきものがあります

たとえば愛は様々な現実の中で命を持たなければ意味がありません。
勢いや成功のようなものではなく、どの現実にも静寂にも存在していることを心に信じられなければ「いつも愛がある」「共に居る」とは言えません。
強がって言う愛の言葉に実も力も無く、外面を繕うだけです。

まず自分の現実をどうにかするための愛は

自分のありのままを、闇に沈むままにしないで
手を伸ばし光を求めて
何かを見つけて、次の足場を見つけていくこと。

マニュアルは無く、不完全で良くて、
その人それぞれのその時の自分の発見の道であることが、
自分を自分で認めて愛せる道でありステップです。

底に沈んでも良いのですが、それを客観・俯瞰できる自分が居れば、少し希望が出てきます。

このブログの記事でも重ねて書いている
人の悲惨な現場に寄り添うキリストのことについて

自分の過去をふり返り深く知るほど自分の心の現場が悲惨であり、
どんな悲惨にでもキリストが目を背けず裁かずありままの願いに対話しつつそこに居ること

でもそれを受け取ることさえ大変な心の状態が続くこと
世界のどこにも虐待は普通にあると知ること

人に痛めつけられ、なぶりものにされた神に、ついて行けるか

記憶に刻まれた
醜悪で、教会で普通によくあることとして、

理解のあるそぶりの大人の教会信徒が
諦め気味に『自分はクリスチャンだけれど、私には信仰が無い、ただ哀れみで生きている』などと言い、
『聖書以外は罪だから』と聖書を勝手に鞭にして責めの言葉を言い広め、

若い人や子どもにまで、
虐待的な『信仰的態度』の支配を及ぼそう、仲間を増やそうと、
自分への関心を引いて自分の闇に引き込もうとすることです。

必死さ一所懸命さをアピールして自分勝手に勢いづき
信仰とは言えない単純で極端な短絡思考で自分と弱い立場の他人を責めて優位に立ち、実際は敗北主義に落ち込んでいるのに開き直り、
それを『証し』として披露したり『伝道』と思っていたり。

『聖書以外は罪』は暴言であり、
いくら福音派聖霊派の牧師でもさすがにこんなことを言う人は少なくて、信徒の方が思い込んで吹聴することの方が多いと思います。

教会内がこんなことになっていては教会に集う意味がないのですが、
現実として本当に子どもや求道者の素直な心が蝕まれます。

そんな大人たちの『お祈りしています』の決まり文句は非常に空虚で、子どもや求道者は敏感に空しく感じています。大人の(無)信仰を内心忌避していても、大人の矛盾と理不尽さは心に刻まれます。

牧師も厳しく聖書から説教をしながら、献金者を減らせないからか、
愛のつもりなのか実は無関心なのか、寛容さやさしさを装うも信徒の悩みに向き合っておらず、聖書の引用や次の日曜の説教で威厳ある風に醸すことや自分の涙の祈りに逃げ込みます。
『私たちの不信仰をキリストは悲しんでいます』と涙ながらに告白したところで、牧師自身の中にも嘆きしかない、生み出すものがない状態ということになります。
それで外部説教者に頼っても、教会内に蔓延する絶望的に漂流している感情をどうすることもできません。

被害に遭われた方にとっては、もう福音派聖霊派の神や聖書やキリストは呪いのようであり、二度と近づきたくないものです。

正気を取り戻すためには?

襲って来る過去の狂気の記憶とは別の世界に脱出したことを確認する経験です。
現実でも、過去でも、未来でも、物語でも、技術でも芸術でもファションでも作品でも、どんなものでも自分を取り戻す心が呼応するものを信じることからスタートです。
そこで仲良くなる人がいたら、事情を言えなくても強い支えになるでしょう。教会の外の友人や親しい人は事情の理解ができないのですが、いくらか痛みの経験のある人なら無言の共感もあって、それが確かな力になります。

それらに加えてキリストを取り戻す道もあるはずだと私は考えていました。
キリストを知らないのに『聖書信仰』で義務を煽る教会と、牧師が預言と称して神の言葉を騙る教会を通りました。
幼児時代から教会に通っていたため価値観を乗っ取られました。
キリストだけを安心して委ねて頼れて愛せる人格として信じていて、
隣人は救うために私が奉仕すべき相手でした。
安心して何でも話せる相手としてキリストが必要で、
教会の信徒や牧師が黒いシミでキリスト覆って見えなくしてしまい、
会話も慰めもない会えないキリスト像からの脱出を目指しました。

最初から牧師や教会に期待せず信じなければどんなに良かっただろう、と思います。

本来なら、個人として愛を求め、
神がいるなら、神が愛なら、
親しく個人としての愛を共有して育み、その愛を本質として人を創造した神と交わり、多くの人と愛し合いたいと祈るもの。

そして生きている神のみことばへの信頼は、
心が生きて求めている人と聖霊の照明の中でつくられることが大切

教会の聖書信仰や解釈や牧師の言葉で役に立つものがほんの少しでもあるなら、
「神は生きていて、今も共にいて、犠牲を払うほどあなたを愛し、
その言葉は人の内側で生き、湧き出す泉となり流れ出し自分と隣人を潤し永遠の命を与える」
ここまでです。

それ以外は余計で不要、悪ければ縛りと裁きの精神的地獄になります。
その一線を越えている牧師と教会が福音派と聖霊派ではほんとうに多いです。おのおの自分が不完全だと分かっていながら直面すると都合の悪い見たくないものを見ないようにして、信仰者のつもりで言葉だけで自己満足に浸るのを習慣化して自ら鈍感になり正気が分からなくなって行きます。
見たくないものとは、
自分が様々に毒されていても傷を放置し他人の目や不信や恨みによって達観した自分であり、
体裁からではない本当に子どものような信仰の真っすぐなシンプルさを否定し遠ざけます。

神の伴いは
どの人にもひとり一人の周りに
子どもにそれぞれ天使がついているように
ケルビム・セラフィムを置いて守ってくださるように

でも
自分で心を開いて、酷い教会と牧師に明け渡してしまったら、
一線を越えて人が個人の心に入り込んできて、
思い込みで決め付けた理屈による救いの条件リスト、皆で興奮する集団の短絡思考を植え付けてきます。
「教会と牧師から、私を守ってください」と断ち切りの祈りが必要になります。
正に悪魔を断ち切る祈りのように

そのようなおかしい状態の時の祈りの思いは、
「自分も悪い教会も動けないようにして、おかしな影響に振り回されて自分と誰かに変なことをしないようにさせてください、
無理をしない心の自然な願いを取り戻させてください
おかしな思考で強引に動いてしまうなら結果を試練として学ばせて休みと安息を求めるようにさせてください
私と私を支配しようとする誰かが変な心の状態や行動に向かうのを止めて下さい」

神がいて、教会の愚行を放っておくことに人は不信感を持ちますが、
この愚行は人のやることであり、教会2000年の歴史そのままです。

神が守ろうとするのは、真っすぐに願う心で、
そこに戻ろうと もがく人の願いを決して見捨てません。

それに対して、地上で教会や牧師の栄光や名声を求める形の『信仰』では、
『神への求め』が
「教会や牧師の人間的な思いを『救いの真理』として通すこと」
に重きを持つので、
神から遠く離れることになるのです。

もう自分で求めるしかありません

思いと状況を自分の目と心で俯瞰して
たくさんの命にキリストが必ず伴うこと

常識的な心も、
悪魔的な自己中心・自己都合を押し通す計算がある『信仰』を装う心も、
皆が求め持つ交流、励まし、親切、愛も見て

周りに対して自分で判断します

言うも言わないも
やるやらないも
受け取る受け取らないも

自分の本来を静かに見つめて
自分として積み重ねることを選び続けること
それで土塁をつくり積み上げる

周りに見せようとして判断しないようにする

自分の心の思いや能力を封じ込めない

自分の心が疲れている時は慮らない

慮っても巻き込まれない

焦らない
必死にならず
逆に状況を周囲よく見る

他人に合わせないこと

世の中に合わせないこと

会社に合わせないこと

クリスチャンに合わせないこと

毒を持ちつづける必要は全くありません
削ぎ落した心の芯の願いは自分を活かし他人をも活かすことに喜びを持ちます

感情がすべてになってはいけない
感情は一部に過ぎない
感情のままを甘やかして放置して奴隷はダメ
毒を持ちつづける必要は全くない

フラットで冷めた見方で
頭をスッキリさせること
その上での"愛"をいつも求めて考えてみる

感情を納得させるための
痛みのケアや深い悲しみの受容も
続け過ぎないようにして
時が来たなら
フラットな生活を受け入れることが大事

また噴き出す混乱が来たら
新たに対応する

自分を見つけ救い出すために
信じられる助けもらえる人は必ず居て出会いはあります
それが栄光の光と清さに満ちたものには見えなくても、必然として

その関わりが嫌で納得できない時があっても、それをきっかけに考える内に自分のためだけの答えが出たり


教会が聖書を引用して押し付ける『重荷』と

「救い」「助け」は完全に別のもので、別の場所に存在しています

一緒ではないし同居できない部分は必ずあります
今の教会は完全に人間的なものだから
救いや助けが必ず教会にあるから従えと言うのは虐待者
キリストの与える負える重荷と、降ろすべき過去の人間的な教会の重荷は全く別のものです
負える重荷は解放と助けと導きであり
過去の重荷は自分と他人の罪の縛りと支配の虐待


主なる神、イスラエルの聖者はこう言われた、「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」。しかし、あなたがたはこの事を好まなかった。
イザヤ書 30:15 JA1955
https://bible.com/bible/81/isa.30.15.JA1955


主よ、あなたはわたしを探り、わたしを知りつくされました。 あなたはわがすわるをも、立つをも知り、遠くからわが思いをわきまえられます。 あなたはわが歩むをも、伏すをも探り出し、わがもろもろの道をことごとく知っておられます。 わたしの舌に一言もないのに、主よ、あなたはことごとくそれを知られます。
あなたは後から、前からわたしを囲み、わたしの上にみ手をおかれます。 このような知識はあまりに不思議で、わたしには思いも及びません。これは高くて達することはできません。 わたしはどこへ行って、あなたのみたまを離れましょうか。わたしはどこへ行って、あなたのみ前をのがれましょうか。 わたしが天にのぼっても、あなたはそこにおられます。わたしが陰府に床を設けても、あなたはそこにおられます。 わたしがあけぼのの翼をかって海のはてに住んでも、 あなたのみ手はその所でわたしを導き、あなたの右のみ手はわたしをささえられます。 「やみはわたしをおおい、わたしを囲む光は夜となれ」とわたしが言っても、 あなたには、やみも暗くはなく、夜も昼のように輝きます。あなたには、やみも光も異なることはありません。
あなたはわが内臓をつくり、わが母の胎内でわたしを組み立てられました。 わたしはあなたをほめたたえます。あなたは恐るべく、くすしき方だからです。あなたのみわざはくすしく、あなたは最もよくわたしを知っておられます。 わたしが隠れた所で造られ、地の深い所でつづり合わされたとき、わたしの骨はあなたに隠れることがなかった。 あなたの目は、まだできあがらないわたしのからだを見られた。わたしのためにつくられたわがよわいの日のまだ一日もなかったとき、その日はことごとくあなたの書にしるされた。
神よ、あなたのもろもろのみ思いは、なんとわたしに尊いことでしょう。その全体はなんと広大なことでしょう。 わたしがこれを数えようとすれば、その数は砂よりも多い。わたしが目ざめるとき、わたしはなおあなたと共にいます。
神よ、どうか悪しき者を殺してください。血を流す者をわたしから離れ去らせてください。 彼らは敵意をもってあなたをあなどり、あなたに逆らって高ぶり、悪を行う人々です。 主よ、わたしはあなたを憎む者を憎み、あなたに逆らって起り立つ者をいとうではありませんか。 わたしは全く彼らを憎み、彼らをわたしの敵と思います。
神よ、どうか、わたしを探って、わが心を知り、わたしを試みて、わがもろもろの思いを知ってください。 わたしに悪しき道のあるかないかを見て、わたしをとこしえの道に導いてください。
詩篇 139:1‭-‬24 JA1955
https://bible.com/bible/81/psa.139.1-24.JA1955


『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。

「見よ、わたしが選んだ僕、わたしの心にかなう、愛する者。わたしは彼にわたしの霊を授け、そして彼は正義を異邦人に宣べ伝えるであろう。 彼は争わず、叫ばず、またその声を大路で聞く者はない。 彼が正義に勝ちを得させる時まで、いためられた葦を折ることがなく、煙っている燈心を消すこともない。

だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。 また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。 木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければ、その実も悪いとせよ。木はその実でわかるからである。 まむしの子らよ。あなたがたは悪い者であるのに、どうして良いことを語ることができようか。おおよそ、心からあふれることを、口が語るものである。 善人はよい倉から良い物を取り出し、悪人は悪い倉から悪い物を取り出す。 あなたがたに言うが、審判の日には、人はその語る無益な言葉に対して、言い開きをしなければならないであろう。 あなたは、自分の言葉によって正しいとされ、また自分の言葉によって罪ありとされるからである」。 そのとき、律法学者、パリサイ人のうちのある人々がイエスにむかって言った、「先生、わたしたちはあなたから、しるしを見せていただきとうございます」。 すると、彼らに答えて言われた、「邪悪で不義な時代は、しるしを求める。しかし、預言者ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう。 すなわち、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるであろう。 ニネベの人々が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、ニネベの人々はヨナの宣教によって悔い改めたからである。しかし見よ、ヨナにまさる者がここにいる。 南の女王が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果から、はるばるきたからである。しかし見よ、ソロモンにまさる者がここにいる。 汚れた霊が人から出ると、休み場を求めて水の無い所を歩きまわるが、見つからない。 そこで、出てきた元の家に帰ろうと言って帰って見ると、その家はあいていて、そうじがしてある上、飾りつけがしてあった。 そこでまた出て行って、自分以上に悪い他の七つの霊を一緒に引き連れてきて中にはいり、そこに住み込む。そうすると、その人ののちの状態は初めよりももっと悪くなるのである。よこしまな今の時代も、このようになるであろう」。
マタイによる福音書 12:7‭, ‬18‭-‬20‭, ‬31‭-‬45 JA1955
https://bible.com/bible/81/mat.12.7-45.JA1955


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福音派聖霊派の教会に今あること、すぐ起こり得ることを訴えるためキリスト教ブログランキングに参加しています。
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真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために
  新改訳聖書を使う福音派、聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)、聖書主義、終末携挙信仰、リバイバル信仰、潜在意識など心理的背景、牧師・教会のカルト化問題、クリスチャン2世問題を扱います。その当事者として信仰的姿勢と現実的姿勢で原因考察とお勧めをしております。
  教派信仰問題の経験者の今後のあり方、信仰と救い、社会性、人生の背景、自立した生き方を探求します。内容が辛らつすぎると思われる方は、自己批判・内部告発とお考えいただきたいと思います。
  NCC日本キリスト教協議会に属さず、JEA日本福音同盟やJPC日本ペンテコステネットワークに加わっている福音派聖霊派教派の自浄作用を期待して記事を書き20年になります。
  他教会の問題であっても福音派を名のることを躊躇するような事がずっと起き続けて終わらないのは、『クリスチャンも罪人』という言い訳で済む問題なのでしょうか?『聖書的』『聖書信仰』と言うだけで、すべて許されるのでしょうか。


神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。 神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。

そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。
ヨハネによる福音書 3:16‭-‬17‭, ‬19 JA1955
https://bible.com/ja/bible/81/jhn.3.16-19.JA1955

悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば、人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい。
エペソ人への手紙 4:29 JA1955
https://bible.com/ja/bible/81/eph.4.29.JA1955


今の教会の中で
聖書主義や聖霊のバプテスマによる救いの証明は、
神・キリスト・聖霊から離れて人間的に勝手に走っていることがよくあります。

それらの言葉は悪い言葉であって、熱心とか悔い改めで言い訳できるものではなく、
人をキリストから救いから引き離します。

福音派聖霊派の牧師や信徒で伝道や教育を意識して他人に接するなら虐待の加害者になる可能性が誰にでも必ずあります

被害として
たとえば
教会の『兄弟姉妹の交わり』によって『神の国と神の義を第一に』と生活すべてを教会第一にさせられて
実の家族のあり方を完全に破壊され
会話や思いやりの繊細なやり取りが教会の聖書教育に乗っ取られること

それを見て「結局みな他人であり、他人の面倒を見る余裕を誰も持っていない」とその福音派の教会で確信し
誰にも頼れなくなった悲しみの蓄積が何十年分もあり
自分のしてきたこと過去何十年分一挙手一投足まで 親や『兄弟姉妹』の責める言葉=律法主義により何一つ肯定できず
今の一瞬一瞬も自分のすることに 家と教会による自己否定の洗脳が自動で働き自己否定の記憶を重ねる

生きるための自己肯定の積み重ねも自信も皆無
自己肯定感ゼロな問題
こういう被害者を出しておきながら『不信仰な脱落者』として切り捨ててその人の罪(自己責任)にする教会と牧師と長年の信徒たち


NGワードにした方が良い教会用語として
福音派 聖霊派 で特別に救われているという自覚・自意識を持たせるような

聖書信仰 聖霊の満たし
清め 主の与える試練砕き 悔い改め へりくだり
聖書の通りに服従し愛し赦してこそ信仰
みことば・聖霊が支配できるような心の素直さ へりくだり
自分の命を捨てて
与える愛
人の救いのための伝道 責任 誠実 使命…etc

教会がこれらの言葉を一切口に出さなければ
教会の健全化と解決の糸口になるかもしれない、
それほど人間的に勝手に他人に教えている部分がかなりあります。
教会と牧師と教会員が、これらの言葉を理解せずに使って意識的にも無意識的にも虐待をしてきた事実がはっきりあります。


「完全であれ」の意味が本当に違います!

キリストが赦したように自分を赦し受け容れ、同じように他人も受け容れることを、聖書的な「完全」と言うはずです。
証し しるし 祈りが届いているどうか、とか、神に答えられるかとか気にする前に、
キリストを思うときにすでにキリストは住み聖霊は満ちています。人には闇の部分がありますが、キリストに向かう時点で誰でもすでに光に入っています。

なのにクリスチャンが人を分け隔てていて、
自分は あの人は
救われている 救われていない
愛がある 愛がない
聖霊に満たされている 満たされていない
などと語る人のことを『あの人は熱心だ』と評価して役職につけたりします。それで教会がおかしくなっていきます。

キリストの十字架の死と復活で救いのすべては満たされたので、
他に条件を課す必要はまったく無いのです!

「信仰の熱心」とは、キリストを愛し信頼して、その結果、内から湧き出すものに忠実なことです。
キリストに思いが向かえばすでに光の中に居り、聖霊に満たされています。忙しくて教会に行かなくても忘れても、キリストと聖霊は忘れませんし離れません! 心が離れるとか火が消えるとかはデマです。

『私はキリストに会い赦されてキリストを親しく知っている』と言ったら、
その人を異端視し、注意し、無視する教会があり
その教会を出るしかなくなることもあります。
牧師でさえ『私はキリストを知っている』と言えないことは普通です。

そんな矛盾する異常な心理がその教会を支配していて、キリストから人を遠ざけています。

だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。 また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。 木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければ、その実も悪いとせよ。木はその実でわかるからである。 まむしの子らよ。あなたがたは悪い者であるのに、どうして良いことを語ることができようか。おおよそ、心からあふれることを、口が語るものである。 あなたがたに言うが、審判の日には、人はその語る無益な言葉に対して、言い開きをしなければならないであろう。

マタイによる福音書 12:31‭-‬34‭, ‬36 JA1955
https://bible.com/bible/81/mat.12.31-36.JA1955

聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。 それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。
テモテヘの第二の手紙 3:16‭-‬17 JA1955
https://bible.com/bible/81/2ti.3.16-17.JA1955


正しく、義があり、良いわざ、完全に整えられた

これらは実際には今の地上の教会に無いものですし、
地域からの良い評判も関心も無く、伝道が進まず人口の1%に満たない結果が証ししています。

実らせている実を見分けて判断する必要があります。

持ち物を売り払い施すこと献金することで完全になるわけではありません。

教会によって傷や病を与えられた2世と求道者の存在を他人事にする人たちがいる限り、口先だけの信仰は伝道や証しに用いられることはありません。
痛みが分からなければ、キリストを分かるはずがないからです。人間的にいくら努力して教会を維持しょうとしても一生同じ堂々巡りです。

自分をキリストに委ねることが道なのですが、
正統を名乗っている教会や牧師に自分を委ねると遠回りやキリストに行き着けない罠であることもあります。

教会に厳しい条件やこだわりが多く、
感謝と言いながら
嘆くだけになってしまっている先輩信徒がいて、
仲間を増やそうと若い人の前に立ちはだかります。
また、一見、人柄が良くて世話好きで安心でき信頼できそうな牧師でも、その牧師が信徒の自我を徹底して砕き服従させ支配するということが多くあります。

信徒も牧師もやさしくても、ある時に突然厳しい顔に豹変して『あなたのためだ』と『悔い改め』と『信仰告白』を迫ること。
自分で自分を縛り圧迫しているせいで突然キレ始めたり
実際は自分勝手な感情なのに『信仰の情熱』などと言います。『聖書信仰』『聖霊の働き』『神のみわざ』と言い、他人の都合や法や人権は無視して教会に縛ります。
教会で完全に清く奉仕することで救われるのではないのに自分や他人を責めて、本当に世話好きなのに、突然信仰と聖書とキリストの犠牲の話で感情的になって自己中心性が極端になるを見るのは恐怖です。
自分を赦し休ませることがキリストの導きなのに
結局信仰ではなく強引な人間性で他人を支配し引っ張り、それを頼れるリーダーシップとか呼んだりです。その全部がわがままであり聖書や聖霊や牧師やクリスチャンの名を借りた放縦です。


キリストがすべてをありのままに共感してくれて身近に肌に感じるくらいに居て、痛み萎縮した心を委ねて、完璧さではなく共に行く道で満たされ、緊張や焦りから緩くなって良くて、自分を許すことで救われて、
本当にそれを自分に意識的に伝えることでも平和になります。そこから湧き出す水で自分も他人も癒され続けるのが福音であり聖霊です。
キリストは人の現実を生き、すべてを理解し、知っていて、私たちの心と目で同じものを見て感じて、共に生きてくれます!

そんな信仰者がおらず
「信仰らしい形」ために
聖書絶対の律法と終末の裁き、自分の罪や悔い改め、
感謝や賛美を叫びながらキリストを高く掲げ、
キリストと聖霊が清くて自分は相応しくないと涙し、そんな自分でも罪を許されると涙する
へりくだり・悔い改めという名の自己否定・自責の繰り返し。
求道者や子は、その大人たちを、感受性のすべてを使って受け入れ、彼らの話をすべて事実だと想像して信じる

そんな場で子どものような素直さ
聞いたことをそのまま信じる信仰

それは恐ろしい状況です

救いを求めて
おびえている小さな心に
さらに裁きと地獄と罪の責めを植え付けて
恐怖を上塗り

悲しみを共有する人間関係を人質に
『信じます』
と言わせる
本気で信じようと思う子どもや新しい信徒は
与えるアガペーの愛や寛容や赦しについて他人にも無償で与えようと思い
周りのどんな人にも良い人でいようと努力します
地獄の恐怖が伴っているのに大人はそれを褒めそやします
大人になるに連れて教会がいかに他人の心や身の上に無関心で鈍感かが分かって来るならまだ良い方です
悪い教会を見本にして疑いなく育ち、そんな人が増え拡がるなら世界を滅ぼす勢力になるでしょうし、現に福音派の動きは世界を分断し争わせようとする立ち位置です

永遠の拒絶と永遠の地獄を信じさせられてからの服従要求
『愛してくれる』と信じたい相手に
『信じない』時には拒絶され永遠の孤独と滅びという恐怖を与えられて
期待されたように振る舞おうと必死になる子どもや新しい信徒

聖霊派ではさらに悪魔悪霊の存在をしっかり認めなければなりません
日常の『霊の戦い』『悪霊追い出し』を教え実践するためです

地獄や悪魔を信じる真剣さで人生を長く送れば、重荷を負いきれなくなり、自分や他人の痛みに鈍感になっても不思議ではありません

それを『神に委ねておらず不信仰だからだ』と自称クリスチャンたちが追い打ちをかけ、聖書の言葉で裁き合う姿

どこが地獄かといえば、
そんなクリスチャンのサークルが地獄のようですし悪魔のすることのようです

『恐怖の信仰』で
自分と家族と他人の命の責任を負って永遠の運命を決めるような『大宣教命令』の使命の重荷
自分のすべてで伝道して
他人の話を聞いては重荷を負い
クリスチャンとして真理を知り永遠の命に生かされる『証し人』になれるように一瞬一瞬を生きるように説教で言われ弟子訓練で言われる

聖霊派では特に悪魔と地獄を信じることで極限状態になる人も出てきて
極端な切迫感で他人にも接したりします
牧師は焚きつけるだけ焚きつけて平然としていたりですが
その教会では終末の使命や危機感で俄然一体感を持ちます

結果『大宣教命令』は傷と痛みの連鎖と拡大だ、という認識を持つ脱会者たちは非常に多いはずです

福音派聖霊派の極端なクリスチャンたちと牧師たちは、イエス・キリストとは全く別の立ち位置に居ます


にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。 あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか。 そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。 良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。 良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる。 このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである。 わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。 その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。 それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。 雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。
マタイによる福音書 7:15‭-‬25 JA1955
https://bible.com/bible/81/mat.7.15-25.JA1955


しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。 それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。 そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。
ヨハネによる福音書 1:12‭-‬14 JA1955
https://bible.com/ja/bible/81/jhn.1.12-14.JA1955 


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  NCC日本キリスト教協議会に属さず、JEA日本福音同盟やJPC日本ペンテコステネットワークに加わっている福音派聖霊派教派の自浄作用を期待して記事を書き20年になります。
  他教会の問題であっても福音派を名のることを躊躇するような事がずっと起き続けて終わらないのは、『クリスチャンも罪人』という言い訳で済む問題なのでしょうか?『聖書的』『聖書信仰』と言うだけで、すべて許されるのでしょうか。


誰かを好きなるのと同じことで

キリストに「一緒に居て」と願えば
神キリストは誰の中にもすでに共に居て
その交わりには楽しく希望の光があります。
誰一人キリストに知られなていない人はいませんから。

何の条件もいらずただ落ち着いて信頼すれば
キリストは中も外も環境も過去も未来も、その人のすべてをすでに理解していて導き守り
必要な出会いと知識を与えて安定させてくれます。
奪われた自分を取り戻し、
すべての思いも経験も自分本来のものを取り戻して、自分を自分で喜び愛するまで、
どこまでも真のキリストは共にいて目をそらさず、本来の自分のすべてを肯定して導く方です。

『聖書信仰または聖霊のバプテスマが救いの絶対条件で、この条件に味方するイエス・キリスト』っていうものが、もしあなたの中に居るなら追い出すべきです
聖書時代・初代教会の救いや聖霊の働きを
他人が考えて『聖書主義』『聖書信仰』『聖霊異言預言癒やし奇跡が救いの証拠』として
告白や体験を勝手に迫っているからです。
牧師たちそれぞれの本音は
『私には個人的な確信がある(今あるこれしか学んでいないし、初代教会とは違い現代ではこれで仕方がない、それに確信がないと信徒のために牧師はできない)』
『普遍的なもの、真理は神にしか存在しない(自分の中に真理があるとは言えない)』
『人として頑張るしかない』
というものです。

キリストが、
聖書信仰や福音派や聖霊派とかいう言葉を使ったりすると思いますか?

自分を生かして正しく進むには
自分に正直に
自分をありのまま認めて
自分の芯にある真の願いを見つけて守りそのまま願うことです。

真の願いや本音がどんなものでも"直にキリストに言うこと"が一番大事です。
それを邪魔するものと(それが教会・牧師・親・恩人でも)戦い、意識の外へ追い出し、邪魔するものから離れること。

いったい誰のために誠実にするのか、その都度しっかり選ぶこと。

まず自分の心の中で、
誰かのための義務ややる気ではなく、
自然に無理せず自分の中で願うもの、芯にある思い願いを確かめておくこと、その中にある自分にとって大切なもの、大切な人、つながりをしっかり見極めること

これだけが大事です。

キリストの伴いで心を導かれ本当に自分らしく変わっていくために、自分がキリストとつながり聖霊の交わりに憩い
自分の本音、心根でキリストに心の声を受け取ってもらい、共感してもらい対話すること
キリストは決して離れずに居るのですから!

これに付け加えたり間に入って支配する人や教会は悪いのです
教会がカルト化する意図を持っておかしくなるのではなく、
無自覚の責めや支配や縛りや義務や使命感からカルト化します


無理をしていない自然な自分を愛し、愛する人を守るために、

信仰に介入し義務や責めだけで支配しようとする教会や他人を見分け、
彼らの言う『愛』や『常識』『奉仕』を疑い、いつでも退けられるように境界や距離を置くこと

あとは尊重できる関係を持てる人を見つけて無理せずあわてず少しずつ様々な見方や交流や理解を拡げること

無理をする関係なら距離を保ち線を引くこと

でも教会や聖書に傷つき、
本当に教会の条件がひどすぎて
悔い改め 奉仕 奇跡に執着して自他共互いに責める教えで
教会牧師への服従で救いを得たと思っていても実際は心が安定せず、
落ち着きとか安らぎが分からなくなります。

圧迫や脅しや縛りや非難や卑しめが頭を駆け巡りフラッシュバックするなら、
それを追い出すために、

誰かと会話したりインパクトのある作品や番組や映画を見たり
外へ出てアウトドア体験をしたり

自分を許し緩めて取り戻すために、

無理なく選択し、迷わず変更や移動をし、自分を高みではなく、妥当な場所や立場に置くことです。

すぐに正義や復讐に心を費やすと、それまで張り詰めて極限まで頑張ってきた心も身も持ちません
ムキになって自分に無理をさせてきた
そのことに気づいて、心の声を聴きましょう
まずは休むように促されるはずです

教会に縛られずに、誤った『聖書的』責め・使命感から解放されましょう
教会内で改革を目指すのはやめましょう
彼らの『信仰の確信』は一生ゆるぎませんしもっと酷い傷を負わされます
ブラック企業よりも酷く頑なに非を認めません
社会ではブラックな職場や上司なら、距離を取り知恵を持って対抗するか告発するか離脱ができます
会社は社会的立場が必要ですが、カルト化に気づかない教会には社会性が全くなく、あるように見せていても正論にはすぐに牙をむいてきます

自分の中に勝手に毒を入れられたなら、
気づいた自分の知恵を信じてそれを制し

恨みや報復衝動があり正義を見たいなら
それをありのままキリストにぶつけ叫びましょう
無理もない、その通り、と言われます
そして彼らを放って置くわけにはいかないと神が考えていることがはっきり分かり
今後彼らに成長も発展も無く脅威ではないことが分かります。

キリストは
共に私たちの思い見たこと経験してきたことを一緒にもう一度見て、共感と理解を示します
キリストの性質は、
あの悪い教会の酷い人間性とは真逆であることを徐々に理解できます。

一人ではないことと今後の行き方の導きを心で深く聞きましょう
今後、本当に悪い身勝手な虐待的支配者が受ける報いがあることを知れます

私たちは内側になぐさめを得て
様々に負わされていたものを脱ぎ安息を得るために上書きをされて
縛りや支配を脱出して自立・リセット・フラットな心と場所と関係を目指し守りましょう


主なる神、イスラエルの聖者はこう言われた、「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」。しかし、あなたがたはこの事を好まなかった。 かえって、あなたがたは言った、「否、われわれは馬に乗って、とんで行こう」と。それゆえ、あなたがたはとんで帰る。また言った、「われらは速い馬に乗ろう」と。それゆえ、あなたがたを追う者は速い。
イザヤ書 30:15‭-‬16 JA1955
https://bible.com/bible/81/isa.30.15-16.JA1955

「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。 悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。 柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。 あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。 心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。 義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。 わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。 喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。 あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。 あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。 また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
マタイによる福音書 5:3‭-‬16 JA1955
https://bible.com/ja/bible/81/mat.5.3-16.JA1955

また、自分の頭をさして誓うな。あなたは髪の毛一すじさえ、白くも黒くもすることができない。 あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである。
マタイによる福音書 5:36‭-‬37 JA1955
https://bible.com/ja/bible/81/mat.5.36-37.JA1955

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。 神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。
そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。
ヨハネによる福音書 3:16‭-‬17‭, ‬19 JA1955
https://bible.com/ja/bible/81/jhn.3.16-19.JA1955

わが子よ、わたしの言葉に心をとめ、わたしの語ることに耳を傾けよ。 それを、あなたの目から離さず、あなたの心のうちに守れ。 それは、これを得る者の命であり、またその全身を健やかにするからである。 油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである。
箴言 4:20‭-‬23 JA1955
https://bible.com/ja/bible/81/pro.4.20-23.JA1955

あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている。 わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。

あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい。

わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。
ヨハネによる福音書 15:3‭-‬5‭, ‬7‭, ‬9‭, ‬11 JA1955
https://bible.com/bible/81/jhn.15.3-11.JA1955



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心の声を大切に…傷が裂けていても自分を諦めず 2023年08月17日

下から目線のイエス様と会っていますか 2024/07/23

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  他教会の問題であっても福音派を名のることを躊躇するような事がずっと起き続けて終わらないのは、『クリスチャンも罪人』という言い訳で済む問題なのでしょうか?『聖書的』『聖書信仰』と言うだけで、すべて許されるのでしょうか。

”『自分は罪人』と意識して祈り悔い改め、キリストの十字架を信じて『救われた』と、すぐに平安を得られるのが『信仰』”

これは愛され信頼を育まれた経験のある人には、抵抗なくできるのかもしれません。
でも、存在を否定され続け、激しく非難し合う酷い争いに巻き込まれて傷つき、おまえはダメだ罪深いとけなされ続けた人、生きるために必死で跳ね返せやり返せと頑張るに人には簡単に信じられません。

また、宗教1世の親と、
2世3世、子供時代に否定され価値観を支配され虐待された人では見える世界が違い過ぎることがあります。

一見普通そうな大人でも、その人の過去の経験によって、外から見えない心理と自己肯定感には人によって大きな違いと隔たりがあります。

あたりまえに無意識に疑いなく自分を肯定できるのと、
自分を肯定できないのとでは、天国と地獄ほどの差があります。

だから
罪の裁きや地獄や終末の話、
神に喜ばれる、喜ばれない、
神を選べば愛される、
神は心を見て小さい者に敵する者を退けると聞いて、
「自分は大丈夫」と平気な人が居て、思いを強化したいために赦しと救いを宣べ伝えるようでいて実は『人を裁き選ぶ神』を言い広め、

それを聞いて本当に恐ろしくなって心も体も凍り付く人がおり、
また、そんなに宗教側にだけ都合の良い話は無いし、騙しで詐欺だと判断する人が居ます。

誰でも、心の拠り所、オアシスとして身を寄せる場が欲しいので、いくらかマシな所はないかと探し、出会いや裏切りに遭いながら、誰かと信頼関係を長い年月をかけていろいろ苦労しても築きたいと無意識にでも思っているものです。

その普通に生きる努力に対して
『もう世界は終わる。終末の滅びが来る。今だすぐだ』と深刻に言い、
それを動機に集わせて使命感をみなぎらせて懸命に皆で努めて教会で魂を燃やすよう説得します。

自己肯定感が強くて何を聞いても教会でなにをしても揺るがず平気な人と、
傷ついた心の隙間に少しでも肯定できる仲間意識や使命感があれば生きられると思えて怖くても受け取る人もいます。

世の成り立ちとして気づき注意すべきことですが、
自分が生きるために当然だと
人の上に立とうとして
何が何でも何を犠牲にしても自分を肯定するために人と付き合い、立場を死守する人がいて、
『他人の救いのため』と言って感動話をいくつも並べて、仲間にして服従させて人権意識・順法意識を超えるような感情論をぶち上げて、
自分が空っぽなのに他人の言葉や証しや実績を都合よく引用して扇動しようとします

意図していなくても自分の仲間を増やしたいからと説得する結果として
他人の善意、繊細な親切心などを餌食にして、自分を良く見せるために自分の人間関係の宣伝に使います

正直で誠実な人の心をその人自身のために使わせないようにするために、未熟さ知識の無さに罪悪感や使命感を扇動者が与え、平気でその場限りの矛盾のある嘘や虚構で煽り、集団のために全身全霊を使わせようとします

巧妙な説得の中で
『組織やトップの人は笑顔で余裕があって人生を乗り越えていて素敵、彼らと居ればその方が楽だし、簡単だし、結果が出せそう』と思わせようと表面を良くふるまったり暗に親切を匂わせて相手が自分で頭に良い印象を描くようにします

楽しさ、気安さ、適度なゆるさ、居心地の良さ、親しみを感じさせつつ、
同時に時々緊張感を挟んで、
交互に繰り返させるのが縛るコツであり、
利用されるキーワードが『自我の砕き』『終末の滅び』『人生の使命』『家族・隣人のため』『将来のための今の忍耐』『安息』『永遠の命』です。

刺激や苦痛に敏感繊細になって逃れたくて、守ってくれそうな何かや誰かを理想化して信じたくなりますし、
共感性や正義感も強いので義務や奉仕も怠らず、自分の心や思いを他人のために浪費してしまいます
ターゲットになる人は少しの信頼や余裕や安らぎを感じられれば更に頑張ってしまえる人です

優しさや繊細さ共感を使う相手を間違えて耐え続けると、知らないうちにすり減り消耗して
空っぽになり、与えられた身勝手な理屈に埋め込まれた悪いものが心に潜在的に積み重なっていき、怒りや恨みの衝動が止められなくなったりしますが、それを『正義』だと思い込まされます。
悪ければ他人に連鎖させ外面の良いカルト化ブラック集団を拡大させてしまいます。
教会に限らず、国でも会社でも、どのサークルでも危機感を煽り、嘘でも人生や希望や愛について『理想』を言えば引き起こせます。
福音派聖霊派では滅びを煽り永遠の命を人質にして簡単にそれができてしまうのです。

絶対に信じ切れる相手として完璧な人間は居ません

集団に自分を差出させるような説得から

自分と隣人を守り、
完璧でない人同士の許し合いという人生の現実の中で
適度に境界を守り、
可能な限りは親切にし、どの人にも見えるオープンで公平な付き合いをし、裏切られてもダメージを少なくできる心構えと、それをカバーできる多様な人間関係と信頼関係はどうしても必要です。

これが処世術で、社会生活では最重要です。
でも小さい子供ほどできない愛の執着、三つ子の魂があります。

聖書的に言えば
罪を犯した報いをお互いに受けて生きる世には、肉体としての死や終末まで罪の法則に縛られつつ、その中で愛の神が創造した霊と魂の交わりを直接心に感じて、時に信じ、それでもまた人として裏切り裏切られる不完全さがあります。

キリストは不完全な世を完全にするのではなく、
キリストが人の内に住んで発見する愛や湧き出る命について個人的経験でまず教え、その結果の人為的でない神の国を言っています。
内側にキリストを持たなければ神の国を見ることはできないと。

ところが完全な赦しや永遠に生きる霊的命について、
世で現実化したいと人間的肉体的に努力する教会の歴史として
権威的に他者を裁き戦って殺し、間違っていても平然と清い顔をするという結果を積み重ねて、不信感を買っています。

完全な赦し、霊的命、清さや赦しや交わりは内に住むキリスト、聖霊が、かつて地上で肉体となった時に天の父と交わっていたように、今私たち人間の内側でされようとしていることです。

それを『証し』と称して他人に見せようと『善人を装う』のには無理があり、詐欺的な理想論で嘘をつく結果になります。
人の理解や努力では決して証しはできません。

人間の現実の中でキリストが十字架で犠牲を払い清算し人の命の復活を完成し、
今は人の内側で赦し清くし生かそうと命を育む泉を与えようと導いています。

結局は世の現実で人はやる気を出しつつ間違えて
同時に内側でキリストに会って正気や霊を取り戻すことを積み重ねます

この信仰をすべて外面的に現実として見せることには無理があるのに、
無理やり形あるものとして祭り上げ証ししようとするところに地上の人間的教会の間違いがあり愚かさがあります。

内側から流れ出る命のものを
外面ばかりに気を取られ忘れて他人を裁き殺すまでになる人間は狂っていますが、平然と今も他人を巻き込もうと狙っています。
そういう人間を見分けて、できれば正気に戻すには、内側にある命の泉を守る自覚しかないのです。


イエスは女に答えて言われた、「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。 しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。 イエスは女に言われた、「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。 神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。
ヨハネによる福音書 4:13‭-‬14‭, ‬21‭, ‬23‭-‬24 JA1955
https://bible.com/bible/81/jhn.4.13-24.JA1955


偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。それもしなければならないが、これも見のがしてはならない。 盲目な案内者たちよ。あなたがたは、ぶよはこしているが、らくだはのみこんでいる。 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。杯と皿との外側はきよめるが、内側は貪欲と放縦とで満ちている。 盲目なパリサイ人よ。まず、杯の内側をきよめるがよい。そうすれば、外側も清くなるであろう。 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。 このようにあなたがたも、外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである。 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは預言者の墓を建て、義人の碑を飾り立てて、こう言っている、 『もしわたしたちが先祖の時代に生きていたなら、預言者の血を流すことに加わってはいなかっただろう』と。 このようにして、あなたがたは預言者を殺した者の子孫であることを、自分で証明している。
マタイによる福音書 23:23‭-‬31 JA1955
https://bible.com/bible/81/mat.23.23-31.JA1955


サムエルは言った、「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、聞くことは雄羊の脂肪にまさる。
サムエル記上 15:22 JA1955
https://bible.com/bible/81/1sa.15.22.JA1955

わたしがこれらのことを語ったのは、あなたがたがつまずくことのないためである。 人々はあなたがたを会堂から追い出すであろう。更にあなたがたを殺す者がみな、それによって自分たちは神に仕えているのだと思う時が来るであろう。 彼らがそのようなことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。 わたしがあなたがたにこれらのことを言ったのは、彼らの時がきた場合、わたしが彼らについて言ったことを、思い起させるためである。これらのことを初めから言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである。 けれども今わたしは、わたしをつかわされたかたのところに行こうとしている。しかし、あなたがたのうち、だれも『どこへ行くのか』と尋ねる者はない。 かえって、わたしがこれらのことを言ったために、あなたがたの心は憂いで満たされている。 しかし、わたしはほんとうのことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。 それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。 罪についてと言ったのは、彼らがわたしを信じないからである。 義についてと言ったのは、わたしが父のみもとに行き、あなたがたは、もはやわたしを見なくなるからである。 さばきについてと言ったのは、この世の君がさばかれるからである。 わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。 けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。 御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。 父がお持ちになっているものはみな、わたしのものである。御霊はわたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるのだと、わたしが言ったのは、そのためである。 しばらくすれば、あなたがたはもうわたしを見なくなる。しかし、またしばらくすれば、わたしに会えるであろう」。 そこで、弟子たちのうちのある者は互に言い合った、「『しばらくすれば、わたしを見なくなる。またしばらくすれば、わたしに会えるであろう』と言われ、『わたしの父のところに行く』と言われたのは、いったい、どういうことなのであろう」。 彼らはまた言った、「『しばらくすれば』と言われるのは、どういうことか。わたしたちには、その言葉の意味がわからない」。 イエスは、彼らが尋ねたがっていることに気がついて、彼らに言われた、「しばらくすればわたしを見なくなる、またしばらくすればわたしに会えるであろうと、わたしが言ったことで、互に論じ合っているのか。 よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたは泣き悲しむが、この世は喜ぶであろう。あなたがたは憂えているが、その憂いは喜びに変るであろう。 女が子を産む場合には、その時がきたというので、不安を感じる。しかし、子を産んでしまえば、もはやその苦しみをおぼえてはいない。ひとりの人がこの世に生れた、という喜びがあるためである。 このように、あなたがたにも今は不安がある。しかし、わたしは再びあなたがたと会うであろう。そして、あなたがたの心は喜びに満たされるであろう。その喜びをあなたがたから取り去る者はいない。 その日には、あなたがたがわたしに問うことは、何もないであろう。よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたが父に求めるものはなんでも、わたしの名によって下さるであろう。 今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう。 わたしはこれらのことを比喩で話したが、もはや比喩では話さないで、あからさまに、父のことをあなたがたに話してきかせる時が来るであろう。 その日には、あなたがたは、わたしの名によって求めるであろう。わたしは、あなたがたのために父に願ってあげようとは言うまい。 父ご自身があなたがたを愛しておいでになるからである。それは、あなたがたがわたしを愛したため、また、わたしが神のみもとからきたことを信じたためである。 わたしは父から出てこの世にきたが、またこの世を去って、父のみもとに行くのである」。 弟子たちは言った、「今はあからさまにお話しになって、少しも比喩ではお話しになりません。 あなたはすべてのことをご存じであり、だれもあなたにお尋ねする必要のないことが、今わかりました。このことによって、わたしたちはあなたが神からこられたかたであると信じます」。 イエスは答えられた、「あなたがたは今信じているのか。 見よ、あなたがたは散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとりだけ残す時が来るであろう。いや、すでにきている。しかし、わたしはひとりでいるのではない。父がわたしと一緒におられるのである。 これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。
ヨハネによる福音書 16:1‭-‬33 JA1955
https://bible.com/bible/81/jhn.16.1-33.JA1955

ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。

ペテロの第二の手紙 3:9 JA1955

https://bible.com/bible/81/2pe.3.9.JA1955


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真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために
  新改訳聖書を使う福音派、聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)、聖書主義、終末携挙信仰、リバイバル信仰、潜在意識など心理的背景、牧師・教会のカルト化問題、クリスチャン2世問題を扱います。その当事者として信仰的姿勢と現実的姿勢で原因考察とお勧めをしております。
  教派信仰問題の経験者の今後のあり方、信仰と救い、社会性、人生の背景、自立した生き方を探求します。内容が辛らつすぎると思われる方は、自己批判・内部告発とお考えいただきたいと思います。
  NCC日本キリスト教協議会に属さず、JEA日本福音同盟やJPC日本ペンテコステネットワークに加わっている福音派聖霊派教派の自浄作用を期待して記事を書き20年になります。
  他教会の問題であっても福音派を名のることを躊躇するような事がずっと起き続けて終わらないのは、『クリスチャンも罪人』という言い訳で済む問題なのでしょうか?『聖書的』『聖書信仰』と言うだけで、すべて許されるのでしょうか。

優れること、優位に立つことが自我ではなく
いつも自分のために選択することが健全な自我であり、自分らしい自分をつくることになります

どんな自分でも、それがその時の無理のないありのままの自分なら受け容れる選択をする
そこへとキリストはどの人の内にも住んで導きますし、そこから始まるキリストとの出会いと伴いの人生があります

教会の人間的な教えでは、
『救いにふさわしく』と言って
無理な矯正や奉仕や学びや清さを強調します

自分らしさを選ばせないのは虐待です

日常の困難について『成長のための試練』と言ったり
『神にふさわしく』『清く罪から離れ』とか言うのはすべて的外れでミスリードであり、キリストから人を遠ざけます
きびしい言葉の蓄積はその教会サークルのローカルな連帯感だけを生むだけで世界を狭くして実際不寛容で多様さや変化や発見を認めないものです

「愛され心が無理なく平穏に安らかになる」

”他人に『これが愛だ』と言われて自分の納得を待たずに恐ろしくて言いなりになること”
無意識にどちらかを選んでいる人生を積み重ねることで結果は大きく変わります

いつも自分のために選ぶことをキリストと共に考えましょう
キリストが与えるものは必ず無理なく安心・平安があります
清さや愛のやる気を他人に見せる必要は全くありません
キリストが内に居て無理なく湧くものがあって自然な証しになっていきます

そのために
自分と他人の間に境界があることは大切です
境界が無い時に、甘えが互いに許されてしまい我慢を重ねて軋轢とストレスを生じます
教会で罪があるからお互い様だから『赦し合いましょう』などと言うのは共依存させるローカルルールの罠です
実際は上からコントロールしやすくする抑圧、支配、虐待です

見分けて取捨選択しましょう
境界をつくり
社会でも教会でも同じように
取り込もうとする悪い影響のあるものを捨て

必要なものを大切にして
心軽くシンプルに行動できて結果を出す自由
その積み重ね
それが愛せる安心できる自分をつくります

脅され抑圧され支配されると動けなくなります
言いなりにやっても結果は出ません
口だけ格好だけ合わせて狭い社会や教会にいても
経験にも蓄積にもなりません

物事の要所を押さえるコツもなく
ただ自分と他人を責めて『でも赦された』と感謝する繰り返しだけで
要らぬ愛の使命感をあおられて、徒労と疲労だけになります

父・キリスト・聖霊は、ほんとうに人を生かす方のはずです
心が責められ恐れや焦りがあるなら、その教会を出て行ってその偽りの信仰から脱出しましょう

もし人が、イエスを神の子と告白すれば、神はその人のうちにいまし、その人は神のうちにいるのである。 わたしたちは、神がわたしたちに対して持っておられる愛を知り、かつ信じている。神は愛である。愛のうちにいる者は、神におり、神も彼にいます。 わたしたちもこの世にあって彼のように生きているので、さばきの日に確信を持って立つことができる。そのことによって、愛がわたしたちに全うされているのである。 愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである。 わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである。
ヨハネの第一の手紙 4:15‭-‬19 JA1955
https://bible.com/bible/81/1jn.4.15-19.JA1955


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  他教会の問題であっても福音派を名のることを躊躇するような事がずっと起き続けて終わらないのは、『クリスチャンも罪人』という言い訳で済む問題なのでしょうか?『聖書的』『聖書信仰』と言うだけで、すべて許されるのでしょうか。

私たちの人格のすべての領域の救いのために
誰でも信頼できるキリストの内住、聖霊の満たしを自分の奥深くに意識すればすぐに与えられたと信じてよいのです。

聖書は内住のキリスト、聖霊の導きによって理解できるものです。

キリストとの歩みは、おおらかに赦されている自分を理解し向き合い、必要なものと捨てるものを発見して本来の愛される自分を見つけることです。
「あなたと共にいて楽しいよ」と言う存在です。

それに対して
教会の教えは人間的な頭の理解の押し付けで、キリストとは真逆のことは当然ありえます。教えようとするのが人間だからです。
もし個人と内住のキリストと聖霊の照明を身近で現実的なものと言わず重んじないような牧師や教会なら
そこからすぐに離れることが必要です。
人間の知識に頼る『聖書信仰』『聖霊の満たし』が素直な信頼を邪魔するという構図がはっきり存在しています
知識と形式的祈りに頼って様々な人生や他者との出会いに学ばない教会生活は縛りで何世代も連鎖します

教理や他人の証を頭に詰め込んで自分の行動や考えを合わせると
形だけ口だけの『クリスチャン』『教会員』『新生』『永遠の命』の身分を与えられて、実際は聖書も神も分からなくなり、一生その教会と牧師に縛られます

『全的堕落の罪を認めて自分を全否定しないとキリストが来ないし聖霊に満たされない』などと言う人の教えが最も悪いものです

自分を知るのも罪を悟るのも聖書を理解するのも、
すべては最初に素直にキリストという方を知って信じ、どの人にも例外なく内側にすぐに来られるキリスト、聖霊によります

誰もあなたを責めず、罪は赦されている
福音書のキリストはそう語りかけています
まず最初は「共にいて、すでに赦しているキリスト」が入口で
キリストが私たちの目に映るもの感じるものを共に見ていくこと、
キリストがどう人の心を休ませてどう赦しどう見ているかを知っていくことが健全でまっとうな道筋です
悪い教会には存在しないキリストの伴い赦し心の安息です

最初に私たちが罪を悔い改めたから救われるのではなく
キリストが最初に私たちを愛し赦したことからすべてが始まります

聖書信仰の名をかたって人間的な罪の悔い改めの強要を絶対条件にする福音派聖霊派の救いで心を固めてしまうと、
自分で自分をその中に入れないと平安でいられなくなり、
それを喜びと平安と天国の国籍だと一生信じ込み、
檻の中に自分を閉じ込めて自分の自由を奪うことに。
そこに熱心に真剣に長く留まるほど、そこからの脱出は苦痛と不安の時間を長くすることになります
私の場合は信じるに足りる他人の善意を信じられないようになり、自分をさえ信じられない状態が何十年も続き、無意識に心が自分と他人を裁き責めていて硬直していました
外面では対人関係のスキルでカバーしようと必死で
それに加えて教理や牧師や聖書信仰やCS教師の教えに心が侵されて子どもの頃から心に非常に大きな負担をかけ続けた状態でした
「あなたはよくここまで生き続けていた」とキリストに言われているかのようです。

他人の善意を信じるられることは人格や心の平安にどうしても必要な事ですが
教会の教える愛や寛容や親切の形は表面的で、意識の下では互いに罪を責め合っている場面があり
それが長い間意識に蓄積すると人間不信になります
また、「自分を責めることが救いにつながる」と無意識に深く刻まれます

彼らは静かに心に浸蝕するカルトです
牧師の私見が入る説教は普通にあって、肩の力を抜いて牧師を人間として見られれば、話を無視できれば健全なのですが、
牧師の言葉を聞き逃さず学び信じる、教会にとっての『良心的姿勢』を求め、世間の価値観や常識さえ支配しようとする権威的な牧師と教会にあるからくり、
そんな教会に週一日以上何年も通い続けられるようになる洗脳のからくりがあって、罪と地獄の恐怖で脅されて救われたいから意識にも無意識にも信仰として受け入れてしまうのです

そんな福音派聖霊派の教会に通ってはいけないし、話も聞いてはいけないと今ではちゃんと思えるようになりました
一見人道的でヒューマニズムを持っているように見せても、彼らは無意識に痛みを隠しつつ、責めと救いを行ったり来たりするような説得をしてきます
それを誰でも通る試練などと言いますが間違いであり、兄弟姉妹と言って縛り合い深い痛みの沈殿を共感することが愛だと勘違いさせます
安心できる依存先帰属先を探して
洗脳された感動体験に支配されて
破壊された自我から湧き出る依存先の理想化が起きます

本来、
キリストが与える命の水は内側から癒し新しく創造し流れ出るもので、
強く意識しなくても少しの信頼があれば人の中に命を生み育みます。

それに対して
悪い教会が作り出すものはキリスト・救い・命・愛を装って人間の意識や強い意志を求める感動的な創作です
行ってはいけない正統教派の教会は確かに存在します
もう影響を受けて縛られてしまっているなら
確実に離れて距離を取り
裏の無い正直な人たちと、教会色に染まっていない人間味と常識を持つ人と、付き合いを早く始める必要があります
それも緊急にです

私のように縛りが深く強すぎると、信仰と人間不信が合体して塊になってしまい素直なつもりでも頑なになっていて
解放に時間がかかります

たぶんそのおかげでこのような記事を一生書き続けることができます

三つ子の魂百までです


このふたりのうち、どちらが父の望みどおりにしたのか」。彼らは言った、「あとの者です」。イエスは言われた、「よく聞きなさい。取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる。
マタイによる福音書 21:31 JA1955
https://bible.com/bible/81/mat.21.31.JA1955

主なる神、イスラエルの聖者はこう言われた、「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」。しかし、あなたがたはこの事を好まなかった。 かえって、あなたがたは言った、「否、われわれは馬に乗って、とんで行こう」と。それゆえ、あなたがたはとんで帰る。また言った、「われらは速い馬に乗ろう」と。それゆえ、あなたがたを追う者は速い。
イザヤ書 30:15‭-‬16 JA1955
https://bible.com/bible/81/isa.30.15-16.JA1955


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  教派信仰問題の経験者の今後のあり方、信仰と救い、社会性、人生の背景、自立した生き方を探求します。内容が辛らつすぎると思われる方は、自己批判・内部告発とお考えいただきたいと思います。
  NCC日本キリスト教協議会に属さず、JEA日本福音同盟やJPC日本ペンテコステネットワークに加わっている福音派聖霊派教派の自浄作用を期待して記事を書き20年になります。
  他教会の問題であっても福音派を名のることを躊躇するような事がずっと起き続けて終わらないのは、『クリスチャンも罪人』という言い訳で済む問題なのでしょうか?『聖書的』『聖書信仰』と言うだけで、すべて許されるのでしょうか。

いつでもキリストに会えるというイメージは、どの人が持ってもいいもの。
一緒にいる愛する相手として
大好きなパートナーのように
触れあうと癒される存在として
そんなふうにイメージできる身近な存在を考えてみて、キリストを同じように感じていい。

でもキリストのイメージを『それは聖書的?ヒューマニズムにキリストを引き下げていいの?』などと言って『聖書信仰による新生(ボーンアゲイン)したクリスチャン』という身分を大事にする教会なら脱出した方が良いです。
また、その教会や牧師や過去の証しの言葉をなぞるように言って勧めて、『祈ってます』と言うクリスチャンからも離れましょう。

上から目線の神か、
私たちよりも低い目線で語り、人にとって理解と発見のある交わりをするキリストか。
上から目線で来ない神キリストこそ、知恵であり知識です。
上から来ない神を理解できない人がクリスチャン、宗教者なら、他人に上から教える悪い形の教会をつくり伝道します。
福音とは上下も格差も隔てもないもので、
永遠の昔から神であるのに地に下り人から生まれ、人に殺されて黄泉に下り神の力で復活したキリストそのもので普遍的救いです。これを霊魂心で理解できない牧師やクリスチャン、宗教者が多く存在します。

自分の心に素直であり
良いものも悪いものも正直にありのままに心の声を祈れば
いつでもキリストに会えるということを実現した十字架と復活
キリストは壁を打ち壊し、人の日常に人として降りてこられました
天に昇られてから、いつもすべての人のそばを離れず日常のすべてを人の目線で理解しています。

『新生(ボーンアゲイン)』とは
キリスト教福音派聖霊派の教会で言う
『真に罪から神へ回心し聖霊によって信仰によって生まれたクリスチャンの救い』のことで、
初めは
解放された感激
罪や世に決して囚われない自由
羽が生えたかのように軽くなる
真っ白に清く傷の無い者とされたすがすがしさ
人生の道が広く真っすぐ天にまで伸びているように見えました。

でも『私は特別に選ばれ救われているが、世の人は滅びに向かっている』という思考への支配はどこから?

『救いの喜び』が熱心に変わり、熱心が「必死さ」に取って代わられる時に『神の選び』のイメージの中に実際は恐怖が入り込みます。

例えば
感動した教会研修会から現実に戻る時の違和感ガッカリ感
教会と牧師による人間的な伝道戦略・義務的奉仕の迫り方への違和感
教会の奉仕を一所懸命にやることで救われるわけではないのに牧師やリーダーの言葉に脅迫され恐怖に襲われて必死になること
神の選びが不安で教会に属する意識と活動参加に取って代わる
『神様によろこばれる』『神様は悲しんでいる』『あなたは神に覚えられて祝福されている』牧師や上の大人の言葉に一喜一憂する
不安を訴えると『不信仰』『感情ではなく聖書を学び信じなさい』と言われる
『ハレルヤ』『すべてを感謝します』『実を実らせるのは聖霊の働き』と言って自分を鼓舞して痛みと心をしまい込んで向き合わない年月を過ごす

そんな教会では実は救われないと冷静に判断して
キリストを個人で求めることは必要です。

福音派・聖霊派・聖書信仰の決まり文句の告白に縛られて
素直な自分を出せない人は教会脱出を考えましょう。

キリストは
私たちの意識していない日常の思いと視線に共にいて
私たち自身よりも本音を知る方で
すべての人のどんな現実にも誰よりも早くそこにいる方。

キリストを愛するとは

現実にそこに居るキリストを友人が居るように自然に思える

力を抜いて気軽に一緒に居られて
ちょっとしたこと感じたことを四六時中会話にできて
共感できる。
私たちは一人ではありません。

お互い高い目線、他人を見下ろす所に居ないで

キリストは隠されていることも明らかなこともすべてを、
私と同じ体験の視線ですべて知っていて、
私たちは本当の本音の思いをゆだねて明け渡すことができて安息します。

キリストは宗教者と扇動された人たちに虐殺された神です。

クリスチャンたちも毎週牧師に扇動されていて、
誰かを上から目線で扱って否定していないか、
牧師と説教と証しを疑いましょう。

キリストがどんな方か伝わらないのは聞く側の問題よりも牧師と教会の問題の方が大きいのです。



この福音は、神が、預言者たちにより、聖書の中で、あらかじめ約束されたものであって、 御子に関するものである。御子は、肉によればダビデの子孫から生れ、 聖なる霊によれば、死人からの復活により、御力をもって神の御子と定められた。これがわたしたちの主イエス・キリストである。
ローマ人への手紙 1:2‭-‬4 JA1955
https://bible.com/ja/bible/81/rom.1.2-4.JA1955

キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。
ピリピ人への手紙 2:5 JA1955
https://bible.com/ja/bible/81/php.2.5.JA1955

キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。
ピリピ人への手紙 2:6‭-‬8 JA1955
https://bible.com/ja/bible/81/php.2.6-8.JA1955



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真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために
  新改訳聖書を使う福音派、聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)、聖書主義、終末携挙信仰、リバイバル信仰、潜在意識など心理的背景、牧師・教会のカルト化問題、クリスチャン2世問題を扱います。その当事者として信仰的姿勢と現実的姿勢で原因考察とお勧めをしております。
  教派信仰問題の経験者の今後のあり方、信仰と救い、社会性、人生の背景、自立した生き方を探求します。内容が辛らつすぎると思われる方は、自己批判・内部告発とお考えいただきたいと思います。
  NCC日本キリスト教協議会に属さず、JEA日本福音同盟やJPC日本ペンテコステネットワークに加わっている福音派聖霊派教派の自浄作用を期待して記事を書き20年になります。
  他教会の問題であっても福音派を名のることを躊躇するような事がずっと起き続けて終わらないのは、『クリスチャンも罪人』という言い訳で済む問題なのでしょうか?『聖書的』『聖書信仰』と言うだけで、すべて許されるのでしょうか。

心の底からの叫び祈り
弱さや困窮からの絞り出す祈り
ただ真実を願いその中で生きたい祈り

祈りは形ではなく心の声
それなら必ず神様に届き聞かれています

福音派牧師の説教の『神に聞かれる祈りには、まず聖書を読み服従することが必要』などという話はまったく当てになりません
教会に来て聖書解釈を教わって従わないと神に何も聞かれないかのように言うのは
キリストと人の間に牧師が立ちふさがり『神に祈る前に牧師の言うことを聞け』と言うに等しく
彼らを信じるとキリストの声はねじ曲げられて人間的で強烈な思い込みの責めや義務に洗脳され、脱出して自由や自己肯定を得るのに一生を費やすことになります。

心の声に忠実にそのまま神に言うようにしましょう

キリストとの交わりや、聖霊の働きが分からなくても、心の祈りをした時点でもうキリストとの歩みが始まっていて、導きや出会いや示唆が日常の所々にあるのを発見します

最初は疑心暗鬼でも、真実な心の祈り求めを続けて、導きや思いの中に来る声に気をつけて、
そこで他にはない平安があり、自分のやる気からではない確信があればそれを信じて動いてみる、その継続と繰り返しでキリストが共にいる確信が自然と揺れなくなります。

個人的に神に出会い対話する、共に歩む

そもそも多くの教会が
『人にはできないし分からないから教える』という目的と態度なので
教会では皆が『できない分からない』ところに留まってしまい
教える人教わる人の立場が固定して一生になるのに
教える牧師は神学校で学んだだけで人生で学ばず、キリストが普通の人に静かに伴い応えることも知らないことがあります

祈り求めればすぐその場にキリストは居て聖霊はすでに働いて、祈り求め顔を向ける人をありのまま肯定して対話の中で繰り返し人が自分を知るようにしていて

真の神ならその人らしい次のステップに向かわせます

『できない分からない罪だから』悔い改めへりくだりのループに居るのは教会や育ってきた環境の枠のせいです

キリストは求め来る人を理解して生きるために導き、対話して励まし、道を共にして共に感じています

キリストをすぐ近くにいていつでも話せる友に思えないのは教会の教えの枠のせいです

牧師と教会の人の言葉による深い傷があるなら、
そこから離れるようにキリストに導かれ、
たとえ教会に行かなくても平安に過ごせるように様々な体験と発見をします。

悔い改め、キリストの愛、聖霊の満たし、救い、永遠の命
これらの言葉を聖書的・聖書通りと言いながら悪い教会は脅迫と洗脳に使い、キリストが糾弾した祭司や律法学者たちよりももっと悪く、会堂に来る人を支配します
その教会が勝手に想像するのは『罪に厳しい神がキリストの犠牲に見合う悔い改めと行いを人に迫る』ということ

教会によって与えられている傷があっても『自分も罪人だから』と我慢してしまい、
自分より他人と教会を優先して第一に大切にして
自分を大切にできず、
自分が傷ついていることに鈍感になって忙しくして放置してしまい、
無理して『与える愛』ばかり、自分を犠牲にすることばかり意識していて、自分を後回しにしていて
そこから
傷みが積もって心から吹き出して、

その底から一人で真実を求めて

命の中心から渇いて、
しっかり自分の素直な心を守り、自由を求める人はキリストを見出します

牧師に言いなりの教会に従うのであればずっとキリストに会えずじまいです

悪い教会に毒されてしまった心や聖書の言葉から這い出すために、
教会の外の良心や常識を自分の中に入れていく必要があります
教会を離れて、良いものと正しさを見つけるのです

会堂に集い教団や牧師のことばに従い『聖なる祭司、神の国民』のステータスに酔わされる人たちは信仰を見誤り
何の問題の解決にもならず
教会に絶望して心の本音を伝えると避けられて捨てられてしまいます


キリストは誰にも知られず貧しく小さい魂の祈りに最大限応えます

この旧新約聖書の普遍的な法則

キリストによる信仰の前提は、
あわれみと赦し、
人の心の純真な、子どものような、生きるための求めであり

それに対してキリストのものではない人の教会は
人の側でまず悔い改めて定型の言葉の信仰告白をして言葉通り従う奉仕を前提としていて
できなければまた悔い改めから繰り返すループ
それは真面目な人ほど大変で、
適当な自分中心の解釈の人ほど教会で幅をきかせて

良心や常識をまったく期待できない人物に期待したりあわれみを持って良いものを与えようとしても、引き裂かれて捨てられ心を廃墟のようにされます

良い発想、人を生かし救う発想は、それを本当に心から願う人にしか生まれません

『聖書通りの信仰』と言っても
聖霊によらなければ救われない
それはシンプルな人の心の願いであればすぐ実現します

神、キリストに自分で向き合うと決めて、自分の心の純真で救いと正義を信じることは本当に幸い

他に何も信じられなくても、キリストだけは裏切らないと信じられる幸いがあります

教会からの裁きや縛りから脱して、貧しい者に寄り添い自身を顕すキリストを信じて心の芯に迎えれば
過去の教会の縛り、人からの縛りなど、世の試練は乗り越えられます

キリストを心で求めれば、すでにキリストは共にいます
そうして日々個人的にキリストを近く思って自分の中で会うことが救いです
福音書にある出会いを見れば分かります

キリストだけに真実と正義を一心に求めれば、毎日の生活のリアルに共にキリストが居て、経験や見聞きする中でキリストが導き語りかけ

キリストの関心と導きが今の時を越えて
人間の弱さ、強がって浪費する時間をも前提にしていて、永遠の神の時間の考え方で人間を忍耐強く導くという愛を、人に確かに分からせます

「教会の教えと合わない」
「すぐに変化がない」
「思ったような祈りの応えがない」
これは教会のイメージや宗教のイメージに縛られた信仰の結果です

それとは違い、福音書にあるようにいつどんな時にも人の現実を理解してすべての場面にすでに共に居る現実のキリストのあり方が正しいのです

自分を生かし愛するのは人として当然で、その上で神を愛し隣人を愛する
自我やアイデンティティがあって常識と与える愛を持ち、縛り支配への拒否を持つことは健全です

ただ、キリストと親しく会い、導きを受け入れる道中で自分を変えられる時には、過去の自分をキリストと共に十字架につける、それは仕事や人間関係や家族関係などの日常にあって、
私たちは、キリストと居れば、いつのまにかその試練を通過し、変えられていきます
それは人にはできないことで、増して教会の教えや牧師の意図などで人を変えるなどできません


人を縛る悪い教会と牧師は、永遠の救いと喜びを人質にして、永遠の裁きと滅びの恐怖で脅して、教会に来た人の心を拉致し家族ごと教会と牧師の奴隷にしようとします


正しい救いとは、神を愛するとは、
人を超える正しさ公平さ、配慮、生きるために必要なものを与える存在として、身近に感じ、いつも一緒に物事を見て感じて、同じ目線で共に生きる友であり、自分と他人を生かそうとするキリストを信頼して愛して、発見し気づいて変えられて自由になっていくこと

人は罪も知っており愛も知っていて
誰でも成育の中で意識します
親や家族や環境で歪みも出ます
教会も歪みの一部であることは間違いありません
『聖書を知れば正しい知識を持つ』と思ってしまう時点で間違っています
人間が聖書を知るのは聖霊によるはずなのに、人間が聖書を教えるからです

『神を知らず無視するのは生まれながらの罪』という原罪の教えは
福音派聖霊派の徹底した妥協の無い聖書信仰と教会牧師への服従を静かに教えて
実は人の内面では脅迫的に響いて誘導されていて
聖書や信仰で正義感を持ち自分と他人を裁くようになってまた愛の無い罪の意識に戻るループです



さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。 この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。 だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。
ヘブル人への手紙 4:14‭-‬16 JA1955
https://bible.com/bible/81/heb.4.14-16.JA1955


悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。
エペソ人への手紙 6:11 JA1955
https://bible.com/ja/bible/81/eph.6.11.JA1955


彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。

そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。 女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。〕
ヨハネによる福音書 8:7‭, ‬10‭-‬11 JA1955
https://bible.com/ja/bible/81/jhn.8.7-11.JA1955


人をさばくな。自分がさばかれないためである。 あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。 聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。 求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。 すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。 あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。 魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。 だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。 狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。 命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。 にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。
マタイによる福音書 7:1‭-‬15 JA1955
https://bible.com/bible/81/mat.7.1-15.JA1955



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  他教会の問題であっても福音派を名のることを躊躇するような事がずっと起き続けて終わらないのは、『クリスチャンも罪人』という言い訳で済む問題なのでしょうか?『聖書的』『聖書信仰』と言うだけで、すべて許されるのでしょうか。

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