真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために

避難の場(シェルター)として「個人の祈り」を守る教会とは

執筆者 仁保裕介(プロフィール)『すべて失望した人の唇に祈りを。』祈りは、生活の現場から誰にでも自由にできるものです。キリストは呼び求めるすべての人と共に居る方です。清い人や会堂や神殿にしか現れない方ではありません。むしろ、自分はふさわしくないと思う人のそばに居るのがキリストです。
  受洗して教会員になった教会が、「この教会で信仰生活を続けられなければ、救いや信仰の道から外れる」と言うのは、真実ではありません。避難の場(シェルター)としてキリストに求める祈りには、「キリストが共に居る交わり」が必ず与えられています。
  このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。テーマは重いですが、皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。キリスト教の視点で、成長、試練、十字架、悔い改め、聖化の記事になっています。
  ほんの5才から信仰45年のクリスチャン2世として、キリスト教会内の教派主義・人間関係・権威化・カルト化によって傷を受けた皆さんと共に祈り、脱出と自立と今後の信仰について現実的視点で触れていきます。
  元「主の十字架クリスチャンセンター 北九州教会」牧師。


日本人は同胞という意識がほとんどないかもしれません。東京近郊では特にそうです。
同胞という意味も、この文の意味も分からない人も居るでしょう。

道を歩くお互いにもあまり信頼がなく、隣人の良心に期待できないよそよそしさは、街中では普通です。

子供時代やその後の人生で毎日裏切りや暴力暴言で傷を受けた人は特によそよそしさや自己責任論を過敏に恐れています。

私も、たとえ安心できる関係があっても常に恐れがあります。
何気ない言葉にも過剰に恐れを抱き、不必要に反発したり落ち込んだりの毎日で、絶えずストレスがあります。
教会と家庭で人間不信が増幅されました。
常識や暖かみが無視され、先鋭的な教条主義、伝道、裁き、終末思想、律法主義があり、その価値観は非常識で、学校や社会生活に苦労しました。
まるでカルト宗教です。


さて、私が今住む地域は東京から離れた地方で地元愛や仲間意識が強い土地なのですが、
激しい気性もあって、他の地域から来ると馴染めない部分が初めはありました。
この土地では、激しい気性で無理を通せてしまい、道理や冷静さは二の次という場面があります。
しかし、これは考えより行動や結果を重んじる習慣と言え、とても刺激になっています。
間違えても気にせず、すぐに軌道修正できるフットワークの軽さがあります。
反省は、走りながらします。
それがくよくよ考え込む私には刺激になっています。
ただ、この地域の中でも、気性が激しいだけで、思い込みを曲げない場合は、弾かれます。
すぐに軌道修正すれば、とても寛容に「それは普通だ」と受け入れられます。
このテンポはとても速く、日々に次々あります。走らねば置いていかれます。

この社会では何が正しいかは理屈ではなく結果でとらえられています。
理解するのは当然とされ、同時にすぐに行動を求められます。せっかちとも言え、頭の理解など結果が出なければ価値は無いとまで言われます。
動きながら理解して、すぐに結果を出さねばなりません。
この地では、共感とは、現実の結果にのみ与えられるもので、感情や感覚的なものだけではあまり見向きされないようです。


心の動きだけでも価値があると思いたい場面は人生にありますが、
何かの表現や結果がなければ理解されないのが現実かもしれません。

理解されたり共感されることが先ではなく、少なくとも理解されるだけのこれまでの結果と言葉があること、また言葉が足りなくても結果を見せられることが、生きるには必要なことのようです。

聖書には、「神は行いより心を見る」と書かれています。これは心の無い上辺だけの行いを戒めた言葉です。また「心の結果として行いがあり、心の通りに良いもの、悪いものが表に出る」とあります。

神は心を見、理解してくださいますが、その実質は行いにも現れてるはず、というのです。
ありのままを認められたい願望がありますが、神を愛し信じる者の心は神にふさわしく変えられ、隣人を愛し、助け、救うようになる、というのが聖書の信仰者の姿です。

神を愛する私たちの心には神のことばが理解でき、キリストが留まると書いてあります。

心の傷の問題はこの世に生きる者の現実であり、すべてが人の持つ罪の結果です。
キリストはその私たち人にいたぶられ、十字架で見せ物にされ殺されました。そして復活しました。
そして神に敵対していた私たちに、今そのキリストが居られます。
これが神の愛の実質です。

私たちは恐れ、忌まわしい記憶に苛まれていますし、自信がなく、心が責められて、自由に自信を持って行動できず、罪に侵された深い痛みや恨みを自分の中にも他人の中にも同じように見ます。他人にも自分にも同じように深い罪があります。

自分がもっとましな人間だと思いたいために、誰かの歓心や愛を欲しがりますが、
自分はどれだけのものを返せているか、ただ隣人の想いを浪費しているだけではないのか、と瞬間瞬間に恐れ、疲れ、逆恨みや攻撃復讐まで心に思い、さらに疲れています。
声を発するたび、行動するたびに、私は恐れ、心が萎え、自信を無くしてしまいます。

その罪と不信のある心でも、キリストを受け入れるなら、キリストは愛し、赦し、喜んで入ってくださいます。
そのキリストの手と脇には人に激しく傷つけられた痕が残っています。それが慰めになり励みになります。

この自覚とキリストの姿を求め、受け入れる日々こそを、私は愛したいと思います。

だから、私の自己イメージは、いつも自分の悲惨さにキリストが伴われている、というものです。頭で考える理解ではなく、これを実質としたいのです。
付け焼き刃の信仰は脆いものです。
深く深く人の奥底にある黒い淀みまでキリストは降りて来られ、理解され、受け入れ、共に道行きを担われます。
その実質が現されることを、望み求めます。




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自己イメージの元が『自己否定で他者肯定』だと、

毎日が緊張の連続です。

家族的な愛や受容がどうしても必要ですから、それを満たそうとするのは普通のことです。

ほんの小さいこと、初歩的なことから、人は肯定される感覚が必要です。
親が子に与えることには人生に大きな影響があります。

自己否定の刷り込みは、仕事や勉強や対人関係など社会的なことに対して、どうしようもない嫌気を起こすことがあり、根拠も無いのに支配されることがあります。
集中できない時があり、大事なことさえミスします。
普通の電話や、自分のための日常のことさえ時に大きな重圧で、嫌になったりします。

毎日、心で泣きながら仕事をする
悪い評価や結果ばかり想像してしまい、心が折れる
そして、成果を出すのは本当に大変です。
また、普通のことになかなか共感できていないから、「本気度が足りない」と他人に思われてしまいますし、
実際、自己否定への対応で大変で「本気」がどこに向いているか、他人に疑われても仕方ない状態であったりします。
他人からすれば普通は何でもないことで大きなプレッシャーや悪い結果を想像してしまい、日常的に普通にパニックに陥ったりしています。

その中で、「自分は今、パニックだ」と客観化して自分に語りかけ、自分を外から見て、なすべきことを冷静に思えるように、心の向きを変えなければなりません。
また、重圧でも恐くても人とのかかわりを避けないで、コミュニケーションから学ぶことで、自己否定をしなくても良いことがわかってきたりします。
ただし、同じような自己否定を抱えている人でも他人を否定することで自己肯定を得ようとする人たちもいます。
他人を否定する度合いも深いもの浅いものがありますが、そういう隣人を見分けて適切に信頼の心を開かなければなりません。

人生の現実に起こる出来事は、決して肯定的な良いものばかりではなく、悲惨があります。
聖書では、その原因は「すべての人にある罪」にあるとされ、
神が人のすべての罪を赦すために御子キリストを罰して十字架につけ、
人に命を与え回復させるために、キリストをよみがえらせ、罪と死に打ち勝った復活をすべての人に与えるように導きます。
私たちはその導きの中にいます。
十字架上で父なる神から引き離されて死と孤独を味わい、悲しみの人で病を知っていた神は、キリスト一人です。
そのキリストが歩んだ道を、自分も行っているんだと納得でき、キリストはこの道から決して離れず共に居ると信じるには、
キリストが本当の痛みを知っていると信じなければなりません。


わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。 主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。 乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように この人は主の前に育った。 見るべき面影はなく 輝かしい風格も、好ましい容姿もない。 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。 彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。 彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。 彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。 彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。 わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。 そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた。 苦役を課せられて、かがみ込み 彼は口を開かなかった。 屠り場に引かれる小羊のように 毛を刈る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かなかった。 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。 彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり 命ある者の地から断たれたことを。 彼は不法を働かず その口に偽りもなかったのに その墓は神に逆らう者と共にされ 富める者と共に葬られた。 病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ 彼は自らを償いの献げ物とした。 彼は、子孫が末永く続くのを見る。 主の望まれることは 彼の手によって成し遂げられる。 彼は自らの苦しみの実りを見 それを知って満足する。 わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために 彼らの罪を自ら負った。 それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし 彼は戦利品としておびただしい人を受ける。 彼が自らをなげうち、死んで 罪人のひとりに数えられたからだ。 多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのは この人であった。
イザヤ書 53:1‭-‬12 新共同訳
https://bible.com/bible/1819/isa.53.1-12.新共同訳


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不当な支配や虐待を受け、自己否定と確信に揺らぐ日々とリハビリ…『信仰という名の虐待』の主因





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■私たちクリスチャンは二人三人でも集まれば、そこを「キリストのみからだ」とすることができます。
洗礼の意味は「キリストへの信仰を持つ、人生の方向転換(悔い改め・回心)の決意」です。(洗礼は、授けた教会の組織員となる会員制度とは別のものです。)
牧師を上位に戴かずに、水平の交わりを心がけ、共に祈り神様を見つめて御声に聞き従うことを望み進む、この決心を共有する交わり・ネットワークを目標とする「キリストのみからだの教会」のあり方を求めます。
現状では「頼れる人として誰か教師を自分の上に置きたがる人の弱さ」を認め、私たちは日々そこから脱出して神様に祈り、主にある交わりをいただきます。同時に、助けを求める人の祈りに、あらゆる形で呼応するクリスチャンであることを決意し、自立への助けが必ずある「みからだのネットワーク」であることを目指しています。(CFF小倉福音センターの祈り・信仰指標から)

■福音派・聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)・聖書主義の人が内包する「カルト化問題」をこの世代で終息できますように。教会が牧師の誤り・マインドコントロール・権威主義・独裁を指摘できずに多くの人を従わせ、モラルや常識など、どの人にもある心の引っかかりや良心をなおざりにして、聖書信仰やリバイバル信仰に熱くなって人を裁き、自分と家族に負担をかけ、2世や若いクリスチャンの離反を招いていることを克服できますように。
また、脱会後の「脱マインドコントロール」のリハビリ・回復と、その実生活の困難さを理解できますように。
これを信仰的姿勢と現実的姿勢で正面から捉えて祈ります。
時に辛らつに人の内面を見ることが必要かもしれませんが、自分の中にも確かにあるものとして心の整理をすることで、問題の本質が見えるのかもしれません。
試練は、神に真に祈り出会うための神の摂理と言えますが、それを認める強さが欲しいですし、求めていく中で見えるものがあります。

■教会のカルト化や縛りに巻き込まれないための3つの知恵
1.祈りと聖書読み−−日々必要な神様との交わりと悔い改めをする、教えの風に翻弄(ほんろう)されない避け所として、各々個人の祈りと聖書読みのシェルターを確立しましょう。
2.二つ以上の教会に安心できる交わりを確保しましょう。−−今の所属教会に並行して、さらに避け所となる他の教会を必ず把握しておき、日ごろから広く他教会・他教派のクリスチャンと親しくし深い信頼関係を築きましょう。安心し信頼できる他教会や他教派の話題を所属教会で積極的に話しましょう。しかし、拒否や非難を受けはじめたら、他の信頼できる教会の交わりにそのことを伝え教会のカルト化の危険について話し合い、転会の準備を始めましょう。そのためにも、信頼あるクリスチャンの友情を日々拡げて大切にしましょう。
3. 教会以外の関わりを大切にしましょう。−−友人、家族、職場などで、ご自分を理解してくれる方々がいらっしゃると思います。その方の何気ない助言や世間話に、思いやりを感じることは、とても大切です。私たちが、信仰に対する外からの目を持つことにもなります。正しい「証し」は、一方的な押し付けではないことも分かります。

−−−真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために−−−
−− 避難の場(シェルター)としての「個人の祈り」を守るために −−
執筆者 仁保裕介(プロフィール
『すべて失望した人の唇に祈りを。』
祈りは、生活の現場から誰にでも自由にできるものです。
キリストは呼び求めるすべての人と共に居る方です。清い人や会堂や神殿にしか現れない方ではありません。むしろ、自分はふさわしくないと思う人のそばに居るのがキリストです。
受洗して教会員になった教会が、「この教会で信仰生活を続けられなければ、救いや信仰の道から外れる」と言うのは、真実ではありません。
 避難の場(シェルター)としてキリストに求める祈りには、「キリストが共に居る交わり」が必ず与えられています。
このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。テーマは重いですが、皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。キリスト教の視点で、成長、試練、十字架、悔い改め、聖化の記事になっています。
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元「主の十字架クリスチャンセンター 鎌倉教会、北九州教会」牧師・脱会者


信頼したい人に日々裏切られていても、なお信頼したい思いを持ってしまうやむにやまれぬ境遇や狭いコミュニティが、確かに存在してきました。
そこから、自分が何かを信頼して分かったように思えてしまい、『確信』を持ちたがってしまい、時に根拠もなく思い込みの『確信』にしがみついてしまいます。
自信がないことの裏返しで、回復願望の一つのあらわれです。他人に翻弄され自己否定され支配者に依存させられた傷が深いほどに。

思い込みであるのに『確信』を実践し証明したい、自信を持ちたい、という願望で行動し推し進め、人を巻き込んでしまう問題があります。
虐待や支配の間に頼り植え付けられた『確信』は、社会生活で試され、通用しないことも多くあります。しかし、押し通してしまい連鎖的に他人を支配してしまったりすることもあります。
それがカルト的なピラミッドの幹にもなり、ブラック企業にもなります。

親から子どもらしいところを否定され、大人の基準を求められたり、感情で怒られつづけたりする虐待や支配があると、よく問題が起きます。
また、この世の「原理主義信仰」の負の面として、とてもよく起きています。

この傷から卒業するには内面の痛みや戦う決意が必要になって、人生に余計に負荷がかかります。
虐待の中でも、その後のリハビリと脱出の期間でも、安心感がほしくて、傷ついて満たされない願望を満たそうとして時間を費やしてしまうのがとてもやっかいです。
閉じていた価値観から外に出て、新たな出会いによって心を開かれていくことには大きい助けになりますが、その時点から新たに学ぶことにも苦労があります。

また、「健全な関係やあり方がどんなものか、経験が少なくてあまり分からない」という、そんなことが続く期間や程度によっては苦労が増してしまいます。

教会内では、
信仰の価値観を『世と違うもの』『今までの経験は罪に汚されているので否定すべき』などと教育して、自己否定させる問題があります。
信仰者の親が子に同じことをしてしまう「二世問題」があります。
これは不当な支配と虐待です。『信仰という名の虐待』の主因はここにあると思います。

私自身、他者から蔑まれているという無意識の自己イメージを持ち、その逆転を狙う意識無意識の願望の沸き上がりにとまどい、抑制するために引っ込み思案になったり、気疲れが日々あり、それに何十年も付き合っています。
上書きされた経験によってできつつある社会性や仕事の能力の隙間にあらわれるそんな感情の処理も、必要な日々の作業です。共感できる記事やテレビやドラマを、読んだり見たり、このブログやサイトで連絡をくださる方々とのメールのやりとり、深い事情も聞かずにただ私を引き上げてくれるその方々や我が家、職場の方々の存在、その中でようやく立っています。




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本気・本音の祈りをして、聞かれた人生の願い



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■私たちクリスチャンは二人三人でも集まれば、そこを「キリストのみからだ」とすることができます。
洗礼の意味は「キリストへの信仰を持つ、人生の方向転換(悔い改め・回心)の決意」です。(洗礼は、授けた教会の組織員となる会員制度とは別のものです。)
牧師を上位に戴かずに、水平の交わりを心がけ、共に祈り神様を見つめて御声に聞き従うことを望み進む、この決心を共有する交わり・ネットワークを目標とする「キリストのみからだの教会」のあり方を求めます。
現状では「頼れる人として誰か教師を自分の上に置きたがる人の弱さ」を認め、私たちは日々そこから脱出して神様に祈り、主にある交わりをいただきます。同時に、助けを求める人の祈りに、あらゆる形で呼応するクリスチャンであることを決意し、自立への助けが必ずある「みからだのネットワーク」であることを目指しています。(CFF小倉福音センターの祈り・信仰指標から)

■福音派・聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)・聖書主義の人が内包する「カルト化問題」をこの世代で終息できますように。教会が牧師の誤り・マインドコントロール・権威主義・独裁を指摘できずに多くの人を従わせ、モラルや常識など、どの人にもある心の引っかかりや良心をなおざりにして、聖書信仰やリバイバル信仰に熱くなって人を裁き、自分と家族に負担をかけ、2世や若いクリスチャンの離反を招いていることを克服できますように。
また、脱会後の「脱マインドコントロール」のリハビリ・回復と、その実生活の困難さを理解できますように。
これを信仰的姿勢と現実的姿勢で正面から捉えて祈ります。
時に辛らつに人の内面を見ることが必要かもしれませんが、自分の中にも確かにあるものとして心の整理をすることで、問題の本質が見えるのかもしれません。
試練は、神に真に祈り出会うための神の摂理と言えますが、それを認める強さが欲しいですし、求めていく中で見えるものがあります。

■教会のカルト化や縛りに巻き込まれないための3つの知恵
1.祈りと聖書読み−−日々必要な神様との交わりと悔い改めをする、教えの風に翻弄(ほんろう)されない避け所として、各々個人の祈りと聖書読みのシェルターを確立しましょう。
2.二つ以上の教会に安心できる交わりを確保しましょう。−−今の所属教会に並行して、さらに避け所となる他の教会を必ず把握しておき、日ごろから広く他教会・他教派のクリスチャンと親しくし深い信頼関係を築きましょう。安心し信頼できる他教会や他教派の話題を所属教会で積極的に話しましょう。しかし、拒否や非難を受けはじめたら、他の信頼できる教会の交わりにそのことを伝え教会のカルト化の危険について話し合い、転会の準備を始めましょう。そのためにも、信頼あるクリスチャンの友情を日々拡げて大切にしましょう。
3. 教会以外の関わりを大切にしましょう。−−友人、家族、職場などで、ご自分を理解してくれる方々がいらっしゃると思います。その方の何気ない助言や世間話に、思いやりを感じることは、とても大切です。私たちが、信仰に対する外からの目を持つことにもなります。正しい「証し」は、一方的な押し付けではないことも分かります。

−−−真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために−−−
−− 避難の場(シェルター)としての「個人の祈り」を守るために −−
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『すべて失望した人の唇に祈りを。』
祈りは、生活の現場から誰にでも自由にできるものです。
キリストは呼び求めるすべての人と共に居る方です。清い人や会堂や神殿にしか現れない方ではありません。むしろ、自分はふさわしくないと思う人のそばに居るのがキリストです。
受洗して教会員になった教会が、「この教会で信仰生活を続けられなければ、救いや信仰の道から外れる」と言うのは、真実ではありません。
 避難の場(シェルター)としてキリストに求める祈りには、「キリストが共に居る交わり」が必ず与えられています。
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ほんの5才から信仰45年のクリスチャン2世として、キリスト教会内の教派主義・人間関係・権威化・カルト化によって傷を受けた皆さんと共に祈り、脱出と自立と今後の信仰について現実的視点で触れていきます。
元「主の十字架クリスチャンセンター 鎌倉教会、北九州教会」牧師・脱会者

祈っても答えられない、のではなく、
答えは長い期間で悟るもの、ではないかと感じます。

祈りは神様との会話であり、信仰者の呼吸のようなものだと思います。
しかし、私たちは地上にいて、限界ある心と体にとどまって生きさせられています。
私たちは霊において生きていると宣言されていますが、現実は罪ある肉体に引っ張られており、だからこそ祈りが必要です。

発想は肉がベースであり、地上にいる間は、どこまで行っても霊と清さについては理解が及ばず、世と肉が基準になってしまうのは仕方のないことです。
キリストは一人一人のそのような葛藤の場に降りてきてくださる方です。

地上で私たちは使徒パウロのように肉体にも心にも問題を抱え続けますが、その中で「恵みは充分である」というメッセージを受ける場面があります。
すぐに解決する問題と、抱え続ける問題があります。
どちらにしても、私たちが肉体から祈り続けるためにあるものだ、と言えるのではないでしょうか。
そして、人から教えられて身につくものよりも価値あるものを知り、自分の中で納得するのではないでしょうか。
ただ、自分の耐えられる範囲かどうかによって、人からのものか、神から置かれたものかを見分けるのも大切です。神様は私たちに継続する命を与えようとする方だからです。
人からのものも、真実や真理であったりすることも時にありますが、特に神様のとの関係に関しては、自分で深く悟るものです。

祈りには、自分の願いをただ語る祈りもありますが、神様との関係を求める祈りもあります。これは愛の関係を求め確認したいという願いです。神様との関係は永遠のものです。
神様との関係を求める人は、そのまま世のものでない霊的なものを求めることになります。それで、おのずと神様の霊的な証人として召されることになりますし、神様の事、人の事を悟るために、現実に置かれたり、祈りの中で心の奥まったところを探られたりします。

自分の願いだけなら自分の利益しか見ていないこともあります。たとえそれを越えたとしても私たちには見えていないものも必ずあります。
しかし、神様との愛の関係を願うなら、必ず人との愛の関係も求める運命です。なぜなら、神様はすべて人を救おうとされているからです。神様との関係を求める人は、たとえ意図しなくても、この神様の計画の一部として用いられることになります。

「自分の願い」と「神様との関係」が対立せず一致するなら、どんな願い事でもかなうのでしょう。
ただ、とにかく、神様の計画を語る牧師や人を見分ける必要があります。この中に意図的な詐欺師、また意図していないけれども実質詐欺的な人が居るからです。

なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。 その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。 それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。 だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。 これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。 つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。 ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。 罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。
コリントの信徒への手紙二 5:14‭-‬21 新共同訳
https://bible.com/bible/1819/2co.5.14-21.新共同訳




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カルト化やブラック化で張り詰めた糸が解かれた後には



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■私たちクリスチャンは二人三人でも集まれば、そこを「キリストのみからだ」とすることができます。
洗礼の意味は「キリストへの信仰を持つ、人生の方向転換(悔い改め・回心)の決意」です。(洗礼は、授けた教会の組織員となる会員制度とは別のものです。)
牧師を上位に戴かずに、水平の交わりを心がけ、共に祈り神様を見つめて御声に聞き従うことを望み進む、この決心を共有する交わり・ネットワークを目標とする「キリストのみからだの教会」のあり方を求めます。
現状では「頼れる人として誰か教師を自分の上に置きたがる人の弱さ」を認め、私たちは日々そこから脱出して神様に祈り、主にある交わりをいただきます。同時に、助けを求める人の祈りに、あらゆる形で呼応するクリスチャンであることを決意し、自立への助けが必ずある「みからだのネットワーク」であることを目指しています。(CFF小倉福音センターの祈り・信仰指標から)

■福音派・聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)・聖書主義の人が内包する「カルト化問題」をこの世代で終息できますように。教会が牧師の誤り・マインドコントロール・権威主義・独裁を指摘できずに多くの人を従わせ、モラルや常識など、どの人にもある心の引っかかりや良心をなおざりにして、聖書信仰やリバイバル信仰に熱くなって人を裁き、自分と家族に負担をかけ、2世や若いクリスチャンの離反を招いていることを克服できますように。
また、脱会後の「脱マインドコントロール」のリハビリ・回復と、その実生活の困難さを理解できますように。
これを信仰的姿勢と現実的姿勢で正面から捉えて祈ります。
時に辛らつに人の内面を見ることが必要かもしれませんが、自分の中にも確かにあるものとして心の整理をすることで、問題の本質が見えるのかもしれません。
試練は、神に真に祈り出会うための神の摂理と言えますが、それを認める強さが欲しいですし、求めていく中で見えるものがあります。

■教会のカルト化や縛りに巻き込まれないための3つの知恵
1.祈りと聖書読み−−日々必要な神様との交わりと悔い改めをする、教えの風に翻弄(ほんろう)されない避け所として、各々個人の祈りと聖書読みのシェルターを確立しましょう。
2.二つ以上の教会に安心できる交わりを確保しましょう。−−今の所属教会に並行して、さらに避け所となる他の教会を必ず把握しておき、日ごろから広く他教会・他教派のクリスチャンと親しくし深い信頼関係を築きましょう。安心し信頼できる他教会や他教派の話題を所属教会で積極的に話しましょう。しかし、拒否や非難を受けはじめたら、他の信頼できる教会の交わりにそのことを伝え教会のカルト化の危険について話し合い、転会の準備を始めましょう。そのためにも、信頼あるクリスチャンの友情を日々拡げて大切にしましょう。
3. 教会以外の関わりを大切にしましょう。−−友人、家族、職場などで、ご自分を理解してくれる方々がいらっしゃると思います。その方の何気ない助言や世間話に、思いやりを感じることは、とても大切です。私たちが、信仰に対する外からの目を持つことにもなります。正しい「証し」は、一方的な押し付けではないことも分かります。

−−−真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために−−−
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受洗して教会員になった教会が、「この教会で信仰生活を続けられなければ、救いや信仰の道から外れる」と言うのは、真実ではありません。
 避難の場(シェルター)としてキリストに求める祈りには、「キリストが共に居る交わり」が必ず与えられています。
このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。テーマは重いですが、皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。キリスト教の視点で、成長、試練、十字架、悔い改め、聖化の記事になっています。
ほんの5才から信仰45年のクリスチャン2世として、キリスト教会内の教派主義・人間関係・権威化・カルト化によって傷を受けた皆さんと共に祈り、脱出と自立と今後の信仰について現実的視点で触れていきます。
元「主の十字架クリスチャンセンター 鎌倉教会、北九州教会」牧師・脱会者


自由な心で神様に祈っていますか?

祈りの言葉が何かに縛られていませんか?



私たちは神様に向いて自由であり、それぞれの心の思い、叫びがあります。
その自由に聖霊がおられ、必ずとりなされています。
多様な祈りがあってこそ、みからだの一致ではないでしょうか。

祈りが、誰か人から強いられたものではなく、
「自由に神様に向かう私たち自身の心」であることを神様は喜ばれます。

自然な心のことばこそ、神様との交わりに必要です。

そう考えるクリスチャンの交わりと、多様な一人一人の祈りの拡がりが求められます。祈りが現実とリンクすることは、人生に必要な知識です。

このブログは、その自由な祈りの拡がりのために書いています。
知らないうちに祈りと信仰が誰かに縛られていないかを、様々な視点で考えようとしています。

■教会で疲弊して燃え尽きてしまう問題…

現代の教会は礼拝や組織の形を定めていますが、聖書から「教会がすべきこと」の要素を凝縮したものを日曜の2時間で触れるようにしています。

新約聖書を読むと、2000年前の教会の集い交わりは毎日のものでした。
日曜礼拝のプログラムは、聖書に書かれている教会の毎日の交わりの「短縮版」、「あらすじ」のストーリーになっています。

今の短縮版の日曜礼拝だけでキリストへの信仰を養おうとすれば、断片化した教えの詰め込みになってしまうのは当然かもしれません。

その中でも問題のある教会では、独自の詰め込み教育をして縛ったり、聖書の一部だけを切り取り強調して「信仰の間違いない形」と言います。
そこに空しさを感じ疲弊することは当然かもしれません。

信仰は日曜が本番ではなく、日常で働いてこそです。
信仰者同士の交わりは日々の信仰の励みになるはずなのに、もし教会が息苦しく、日曜のたびにストレスがたまるなら、無理してその教会に行く必要はないのではないでしょうか。奉仕のためにだけ身を削る思いで必死で行くような教会は、聖書に照らして健全とは言えません。
救いと信仰を教えている福音のことばには心の深いところで同意するけれども、
たとえば、祈りや証しまで教会の全員が同じような言葉を使っているのはどうなのでしょうか。
それで、神様とのつながりが太くなり、個人的な悩みや痛みに救いが確かになるでしょうか。
それとも教会のみんなとのつながりが強くして、心の葛藤を忘れようとするのでしょうか。

なぜ、福音が多くの日本人に伝わらないのでしょうか。
クリスチャンの世界は特異なのか、教会の敷居は高いのか。
教会だけが清く、教会の外は悪魔に支配されて危険なのでしょうか。

今の形式化した教会独特の教えは外からどう見えているでしょうか。
教会の外の隣人との間に壁を感じるようになるのは、果たして健全なのでしょうか。

■自分が知る困難や痛みからの本音を神様にぶつけることができる心の部屋がありますか?

クリスチャンが皆、自分らしい自由な関心を持って、
今居る自分の場所から、自由な視点で気づくことを、自分のことばで熱心に祈る、
そんな祈りの多様化が多くの罪を覆い、自分と隣人の救いにつながるのではないでしょうか。

キリストがもう一度来られるまで、教会とクリスチャンは隣人の救いのために存在しています。罪の裁きが使命なのではありません。

生きる場で皆がそれぞれ困難や試練を味わう時代になってきましたが、
それはただ罪の世の結果として存在するのではなく、信仰者が自分と隣人のために祈る場です。
それぞれの問題を教会に持ち寄っても、すべてが受容され癒されるわけではありません。それぞれ置かれた場の痛みからの祈りが、その場の救いや脱出につながるのではないしょうか。その場に置かれた意味を考えたいのです。
これはキリストに導かれていても、教会の人にすべてが理解されるわけではありません。個人的にキリストに伴われ、ただキリストにすがって負える重荷です。

まずは、キリストの十字架による救い・あがないの恵みを、自分の視点で改めて聖書を読んで味わい、キリストご自身と御跡を、自分の心で追い求めましょう。
置かれている場から、自分と世の救いと現実の全体像、自分と教会への主の召しについて求め、自分の関心がどこに向くか考えましょう。
自分と隣人と世にある現実の課題をよく知り、痛みを痛みとして、喜びを喜びとして共感して、目には見えないけれども確かにある多くの人の祈りに連なる心で祈りたいのです。

■キリストの御体としての教会

キリストのみからだの教会は、共に居られる御子キリストの恵みと、聖霊の交わり導き、父の愛の支配を求め、天と地にみこころが成るのを望む、祈りの家です。

恵み、導き、愛のみこころは、私たちの心に語りかけられ、出会う現実と心の霊の中で納得があるものです。
各々ひとりの祈りの納得が集まって証ししあい励ましあうのが、教会の交わりです。

明文化された「教会戒規」や「教理」は、「教会を守る」というよりも人の身勝手な肉の過度の暴走を止める役割です。
信仰の命は、個人的な祈りによるキリストとの出会い交わりです。
教会の活動はこれを促進するものでなければなりません。

そして、各々が置かれた生活の場から皆さんが独自に重荷を見つけて自主的に祈ることで、人生と本来の教会の姿であるキリストの御体全体の歩みが実現されていくのが本来です。

一人ひとりの信仰のお証しが、横に連なってそれぞれの場から流れ出しますように。

あらわれ方は違うけれども賜物に従って一つの聖霊の働きが保たれますように。そうしてみからだの交わりが愛の聖霊の結び目によってつながっていくことを願っております。
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   執筆者 仁保裕介
            連絡はプロフィールのメールアドレスまで、お願いいたします。


■ご奉仕・面談について
現在、私は北九州市に居ります。勤務の関係で集会奉仕、面談はお受けできない状況です。
ご相談はメールでお願いいたします。返信は1〜2週間猶予をいただきたいと思います。

CFF小倉福音センターの目的・活動



■コメント・トラックバックをお送りくださる皆様
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・私信のようにプライバシーを含むこと
・同じ内容で複数の配信先があったり(マルチポスト)、他サイトへの勧誘目的だけのもの
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(常識の範囲のことですが私の基準はhttp://cffexodos.main.jp/exodospost0.htmに詳しく記しました。)

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■教会カルト化記事の姿勢

このブログでは、問題のある教会で不当な扱いを被った経験者の方々と、指摘を受けている教会、双方に向けて記事を書いております。
問題の無い教会の方、また問題のある教会の方には受け取れないことが書かれているかもしれません。
その場合は、私が管理する「EXODOS〜カルト化した教会や信仰という名の虐待からの脱出支援ページ」や、検索で「信仰 虐待」の結果をご覧いただければと思います。

記事を書く背景と動機は、自分も含めた福音派・聖霊派・聖書主義を採る教会と牧師に内包されているものを明らかにし、カルト的な信仰を生み出す原因を探るためです。
犯人探しが主旨ではありませんが、感情的な問題や整理には、誰かを恨み続けるよりも、それまでの影響を一端切り離す方が客観化しやすいため、切り離す発端となるように批判的な内容も心に描いて良いのだとアピールする目的があります。
また、一般的社会的に認められない問題を明確にするつもりです。
内容が辛らつすぎると思われる方は、自己批判・内部告発だとお考えいただければと思います。
 このブログ内の記事:
 教会の虐待問題−フラッシュバック、PTSD症状からのリハビリの困難と対応

 確信が押し付けられて、うつになる問題 リハビリ

 教会での精神的虐待・中傷による障害が脱会後に顕著になること−Yahoo!ブログ

 私は感動をあまり信じすぎないようにしています。

 正統教会で経験したカルト信仰からの脱出

 各々の事情を神様はすべてご存知であること。地上の教会にはマニュアル化できない神との交わり

 祈りとは神様との対話です。−私たちは自分の真の姿を認めているでしょうか。

 お勧めする「自立」について

 自由のために十字架を負う時代

 「信仰という名の虐待」によって植えつけられた信仰の子の「三つ子の魂」の執着に、誰が責任を取るのか
 

■閲覧が多い記事
教会で苦しみを味わうこともあります
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52277581.html

不健康な教会の兆候 カルト化の前ぶれ
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/51458318.html

聖書信仰が、「聖書絶対の律法主義」にならないように、ちゃんと聖書を読もう
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52178268.html

みんな、自分を正しいと思っている。
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52272274.html

教会が引き起こし続ける信仰上の「冤罪」
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52138245.html

地上の教会の神秘性。リバイバルへの道。「完全」への勘違いがカルト化へ。
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52161558.html

信仰と献身は、人それぞれの多様な「信仰の真実」を認め求め続けることではないでしょうか。
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52206089.html

社会に出れば「信仰」が試されるのは避けられない現実です。それも霊的成長の時として神様にあって自分を受け入れましょう。
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52181153.html

キリスト教会のカルト化・危険ワード「聖書と神の法則に従え」
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経験の少ないクリスチャンが囚われやすい「感情の問題メモ」
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教会のカルト化を避けるための最低限の指針
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苦しいときの祈り求めが、信仰の基盤や知恵に
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『試練』の意味は成長のため…その「勘違いあるある」としての『神と悪魔の戦い』
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伝道とは
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守るべき信仰の基本と実生活に伴うキリストの助け
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教会に何を求めるか 教会へのイメージを再考すべき時
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質問へのお答え:教会籍と交わり・御体なる教会
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/50037482.html

教会のカルト化・虐待を止めるために
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/50641653.html

十字架を負うとは
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/50037410.html

ヨブ記38章
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/50677939.html

真の祈り、礼拝
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/50707198.html

聖書の記録と神との出会い
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/50117943.html



「CFF小倉福音センター」について
教会の問題で弱さを覚えている方々に奉仕し、主イエス・キリストのみからだの教会に奉仕したいと願っています。「この小さき者を、神様の御用のために用いてください」と祈り、神様が召されている自分の小さき働きに自分の人生をささげていきたいと思います。

CFF小倉福音センターは、会員制度は無く、定期集会もありません。
このブログを通じてメッセージを伝え、メールのやり取りでご相談を受ける、そのような交わりが主です。
集会奉仕も承りますが、テーマとして、このブログの記事の通り、強制のない自立した信仰と、祈りの自由、内から湧くキリストの証しを共に求めるものでありたいと思います。
また、出会いと交わりの中から、必要に応じてその都度協力共働して、問題を共有します。

この働きと交わりは、互いの祈り無しには進むことはありません。
私たちの信仰の態度として、それぞれ生きる場で問題の防止・脱出のための知恵や助言を伝えることで、問題の防止・対策につながります。

この働きのために、仁保に経済的ご支援が許される場合、お送りいただいたものを、記事執筆、ご相談、教会に傷があって触れられない方への助けになるアプローチ、 各地の教会への防止・対策の奉仕に用いさせていただきます。
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■一部記事は下のブログに重複して掲載しています。
キリストの助けを求めて〜クリスチャンライフと教会
Sクリスチャンセンター問題の資料 管理人の雑記

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■おしらせ
このブログは以前のブログhttp://blogs.dion.ne.jp/j_1/の機能が不調だったため、2006年6月以前の記事やコメント、TBをここに書き写しています。
また、KDDIdionのホームページサービスが終わるため、一部記事を作成年の日付にして移動しています。


願望に捕らわれ、こだわり、自由になれないことがあります。
自分に対してでだけでなく、家族や友人や社会や教会に対しても、こうあって欲しい、こうあるべきだ、と強く思います。

理想と願望は時々ごちゃ混ぜになり、みんなに良いことと、わがままの違いが分からなくなることがあります。それは人の常です。

自分のためや自分のいる場所で、
良いものを生み出している部分を見つめ、
人を生かし、
自分と隣人が共にしっかりと立ち上がる強さを得ているかどうか。
誰かを犠牲にしたり、混乱させていないかどうか。

人だから間違えますが、
これをちゃんと気にするかどうか、

これで人としての価値が問われるのではないかと思います。

人生の結末がどうなるか、
私たちは何かを残せるのか。
建物や財産を残したら良い人と思われるでしょうか?

私たちが生み出せるものは何か、
私たち一人ひとりが違う何かを持っていて、期待される何かがあります。

そして、私たちが報われないと感じても、神の正義と報いは揺るがず、私たちを行くべき必要な道に置かれます。

本当の出会いを、神とも人ともすることで、愛や真実が見えてきます。




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■私たちクリスチャンは二人三人でも集まれば、そこを「キリストのみからだ」とすることができます。
洗礼の意味は「キリストへの信仰を持つ、人生の方向転換(悔い改め・回心)の決意」です。(洗礼は、授けた教会の組織員となる会員制度とは別のものです。)
牧師を上位に戴かずに、水平の交わりを心がけ、共に祈り神様を見つめて御声に聞き従うことを望み進む、この決心を共有する交わり・ネットワークを目標とする「キリストのみからだの教会」のあり方を求めます。
現状では「頼れる人として誰か教師を自分の上に置きたがる人の弱さ」を認め、私たちは日々そこから脱出して神様に祈り、主にある交わりをいただきます。同時に、助けを求める人の祈りに、あらゆる形で呼応するクリスチャンであることを決意し、自立への助けが必ずある「みからだのネットワーク」であることを目指しています。(CFF小倉福音センターの祈り・信仰指標から)

■福音派・聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)・聖書主義の人が内包する「カルト化問題」をこの世代で終息できますように。教会が牧師の誤り・マインドコントロール・権威主義・独裁を指摘できずに多くの人を従わせ、モラルや常識など、どの人にもある心の引っかかりや良心をなおざりにして、聖書信仰やリバイバル信仰に熱くなって人を裁き、自分と家族に負担をかけ、2世や若いクリスチャンの離反を招いていることを克服できますように。
また、脱会後の「脱マインドコントロール」のリハビリ・回復と、その実生活の困難さを理解できますように。
これを信仰的姿勢と現実的姿勢で正面から捉えて祈ります。
時に辛らつに人の内面を見ることが必要かもしれませんが、自分の中にも確かにあるものとして心の整理をすることで、問題の本質が見えるのかもしれません。
試練は、神に真に祈り出会うための神の摂理と言えますが、それを認める強さが欲しいですし、求めていく中で見えるものがあります。

■教会のカルト化や縛りに巻き込まれないための3つの知恵
1.祈りと聖書読み−−日々必要な神様との交わりと悔い改めをする、教えの風に翻弄(ほんろう)されない避け所として、各々個人の祈りと聖書読みのシェルターを確立しましょう。
2.二つ以上の教会に安心できる交わりを確保しましょう。−−今の所属教会に並行して、さらに避け所となる他の教会を必ず把握しておき、日ごろから広く他教会・他教派のクリスチャンと親しくし深い信頼関係を築きましょう。安心し信頼できる他教会や他教派の話題を所属教会で積極的に話しましょう。しかし、拒否や非難を受けはじめたら、他の信頼できる教会の交わりにそのことを伝え教会のカルト化の危険について話し合い、転会の準備を始めましょう。そのためにも、信頼あるクリスチャンの友情を日々拡げて大切にしましょう。
3. 教会以外の関わりを大切にしましょう。−−友人、家族、職場などで、ご自分を理解してくれる方々がいらっしゃると思います。その方の何気ない助言や世間話に、思いやりを感じることは、とても大切です。私たちが、信仰に対する外からの目を持つことにもなります。正しい「証し」は、一方的な押し付けではないことも分かります。

−−−真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために−−−
−− 避難の場(シェルター)としての「個人の祈り」を守るために −−
執筆者 仁保裕介(プロフィール
『すべて失望した人の唇に祈りを。』
祈りは、生活の現場から誰にでも自由にできるものです。
キリストは呼び求めるすべての人と共に居る方です。清い人や会堂や神殿にしか現れない方ではありません。むしろ、自分はふさわしくないと思う人のそばに居るのがキリストです。
受洗して教会員になった教会が、「この教会で信仰生活を続けられなければ、救いや信仰の道から外れる」と言うのは、真実ではありません。
 避難の場(シェルター)としてキリストに求める祈りには、「キリストが共に居る交わり」が必ず与えられています。
このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。テーマは重いですが、皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。キリスト教の視点で、成長、試練、十字架、悔い改め、聖化の記事になっています。
ほんの5才から信仰45年のクリスチャン2世として、キリスト教会内の教派主義・人間関係・権威化・カルト化によって傷を受けた皆さんと共に祈り、脱出と自立と今後の信仰について現実的視点で触れていきます。
元「主の十字架クリスチャンセンター 鎌倉教会、北九州教会」牧師・脱会者

『世は罪と悪魔に支配されているので、世のものになってはいけない、清くあれ』と言う教会があり、

一方で、人は罪があるゆえ、生きるために労働と苦しみがある、
働かざる者、食うべからず、
という人の現実が聖書に教えられています。

教会組織や牧師は、信仰の名の下に、意識としてはこの世、社会の経済活動に組み込まれずに『清く』居て、
しかし教会員の『世で働く苦しみ』から教会は支えを得ています。

福音派や聖霊派の教会では、特に、労働が評価されず消極的に扱われ、
教会奉仕の方が優先され、
しかし、組織維持のために信徒が世で労働することに依存しています。

普通、人は、夢でも現実でも労働に生き甲斐を見つけたいと思い、喜びを感じたいと願います。そこに居場所、心の在り処があれば、安定します。
ただ、理想を追いすぎて、痛みや苦しみが全く無い世界があるはずだという自分の思いや自分の信仰の形に浸ると、道は拓けません。

現実には、人は労働の苦しみや行き違いや悲しみを負い、そこを越える努力をして喜びを見出し、生きます。

すべての人が意識でも無意識でもそれを感じつつ、逃げずに留まろうと、壊れそうな心を抱えながら立ち向かうように生きることが人生だと悟るのではないでしょうか。
信仰によれば、そう神様に召されている、と言えるのではないでしょうか。そこにキリストの十字架が見えるのではないかと感じます。

世を否定し、世を拒否する潔癖さや痛みを見ない理想への執着は、キリストのように生きてはいないことになりかねません。

私たちは、世に生き、懸命に道を探し、キリストの背中を見つけたいのではないでしょうか?

私は、クリスチャンではない人の背中にも、キリストを見ることができるのではないかと、今の労働の中で感じています。

罪の指摘ではなく、からだの一部として血が通うような、互いを必要と思い、付き合い、現実の体験を隣人と共にすることが、キリストの歩んだ道、キリストのからだとしての証しになるのではないでしょうか。

『人生の重荷や十字架は、神のため教会や伝道のために負うもの』などと言う牧師やクリスチャンからは離れましょう。
『ここにしかキリストはいない。聖霊がここには満ちている。神のみ心はここにある。』と言ったり言わせたりする教会からは出ましょう。



地と、それに満ちるもの、世界と、そのなかに住む者とは主のものである。

詩篇 24:1 JA1955

https://bible.com/bible/81/psa.24.1.JA1955 




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神の沈黙には意味がある
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■私たちクリスチャンは二人三人でも集まれば、そこを「キリストのみからだ」とすることができます。
洗礼の意味は「キリストへの信仰を持つ、人生の方向転換(悔い改め・回心)の決意」です。(洗礼は、授けた教会の組織員となる会員制度とは別のものです。)
牧師を上位に戴かずに、水平の交わりを心がけ、共に祈り神様を見つめて御声に聞き従うことを望み進む、この決心を共有する交わり・ネットワークを目標とする「キリストのみからだの教会」のあり方を求めます。
現状では「頼れる人として誰か教師を自分の上に置きたがる人の弱さ」を認め、私たちは日々そこから脱出して神様に祈り、主にある交わりをいただきます。同時に、助けを求める人の祈りに、あらゆる形で呼応するクリスチャンであることを決意し、自立への助けが必ずある「みからだのネットワーク」であることを目指しています。(CFF小倉福音センターの祈り・信仰指標から)

■福音派・聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)・聖書主義の人が内包する「カルト化問題」をこの世代で終息できますように。教会が牧師の誤り・マインドコントロール・権威主義・独裁を指摘できずに多くの人を従わせ、モラルや常識など、どの人にもある心の引っかかりや良心をなおざりにして、聖書信仰やリバイバル信仰に熱くなって人を裁き、自分と家族に負担をかけ、2世や若いクリスチャンの離反を招いていることを克服できますように。
また、脱会後の「脱マインドコントロール」のリハビリ・回復と、その実生活の困難さを理解できますように。
これを信仰的姿勢と現実的姿勢で正面から捉えて祈ります。
時に辛らつに人の内面を見ることが必要かもしれませんが、自分の中にも確かにあるものとして心の整理をすることで、問題の本質が見えるのかもしれません。
試練は、神に真に祈り出会うための神の摂理と言えますが、それを認める強さが欲しいですし、求めていく中で見えるものがあります。

■教会のカルト化や縛りに巻き込まれないための3つの知恵
1.祈りと聖書読み−−日々必要な神様との交わりと悔い改めをする、教えの風に翻弄(ほんろう)されない避け所として、各々個人の祈りと聖書読みのシェルターを確立しましょう。
2.二つ以上の教会に安心できる交わりを確保しましょう。−−今の所属教会に並行して、さらに避け所となる他の教会を必ず把握しておき、日ごろから広く他教会・他教派のクリスチャンと親しくし深い信頼関係を築きましょう。安心し信頼できる他教会や他教派の話題を所属教会で積極的に話しましょう。しかし、拒否や非難を受けはじめたら、他の信頼できる教会の交わりにそのことを伝え教会のカルト化の危険について話し合い、転会の準備を始めましょう。そのためにも、信頼あるクリスチャンの友情を日々拡げて大切にしましょう。
3. 教会以外の関わりを大切にしましょう。−−友人、家族、職場などで、ご自分を理解してくれる方々がいらっしゃると思います。その方の何気ない助言や世間話に、思いやりを感じることは、とても大切です。私たちが、信仰に対する外からの目を持つことにもなります。正しい「証し」は、一方的な押し付けではないことも分かります。

−−−真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために−−−
−− 避難の場(シェルター)としての「個人の祈り」を守るために −−
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『すべて失望した人の唇に祈りを。』
祈りは、生活の現場から誰にでも自由にできるものです。
キリストは呼び求めるすべての人と共に居る方です。清い人や会堂や神殿にしか現れない方ではありません。むしろ、自分はふさわしくないと思う人のそばに居るのがキリストです。
受洗して教会員になった教会が、「この教会で信仰生活を続けられなければ、救いや信仰の道から外れる」と言うのは、真実ではありません。
 避難の場(シェルター)としてキリストに求める祈りには、「キリストが共に居る交わり」が必ず与えられています。
このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。テーマは重いですが、皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。キリスト教の視点で、成長、試練、十字架、悔い改め、聖化の記事になっています。
ほんの5才から信仰45年のクリスチャン2世として、キリスト教会内の教派主義・人間関係・権威化・カルト化によって傷を受けた皆さんと共に祈り、脱出と自立と今後の信仰について現実的視点で触れていきます。
元「主の十字架クリスチャンセンター 鎌倉教会、北九州教会」牧師・脱会者





親や家族に否定されて育った人が、教会でまた罪の指摘をされて自分を否定されても、
無意識に「ここが居場所だ」と感じてしまう、
そんな問題があります。

愛や救いにおいて完璧であれと言われても、決して完璧にはなれません。

完璧であれば味方、罪があれば敵。

完璧と同時に否定を突き付けられているというダブルバインドが福音派聖霊派の普通の有り様です。
『恵み』の前提がこのダブルバインドであるなら『恵み』も縛りになってしまうのです。

教会に集まる人は、実は潜在的な自己イメージが低く、律法の縛りに、無意識の内に納得させられやすいのではないでしょうか。

しかし自己否定だけでは身動きがとれなくなるので、
ビジョンが欲しいし、架空の夢物語でも良いから、すがるものが欲しくなります。

それで、自己否定と同時に現実否定して、罪の実態を棚上げして目を塞ぎ、牧師の現実味のない聖書解釈や終末論、カルト的排他的な罪責や裁きに心酔して入り込みます。

しかし、自分を裁く緊張状態は決して続きませんから、赦しを正しく理解する必要があります。しかし、自分に都合よく使ったり、甘やかしたりもあります。

聖書によれば、
罪は一生かけて取り組むものです。
キリストの贖罪、赦しへの信仰によれば、
神と隣人を愛する時に、神や人に赦されたり、人を赦したりして交わり、人格が回復される機会になり、恵みが満ちあふれます。
完璧であれとは、この恵みを受け取ることです。
愛とは完璧を目指すものではなく、人の現実に寄り添うものです。

しかし、長く責められ否定された人格は、何事もうまく行かない前提で動き、誰かの否定や肯定に縛られ、
自分のために生きられず、
誰かのために張り切っても、自分のためには張り切れず、人生が順調と思わないことが普通になっていきます。

むやみに行動すると悪いことが起こりそうで怖い。
そして、悪いことを避けるため追い詰められないと行動が起こせないという矛盾も抱えています。
そんな人が教会に教育され、
『自分に罪があって許される』というサイクルがないと誰にも認められない気がして不安で、いつも消極的になります。

親から自分への否定を受け入れることで子としての居場所があり、
しかし同時に根拠のない不安の根源が、実はその親子の上下関係にあり、無意識、潜在意識に刷り込まれています。

人生で不安が心をいつも支配するので、前もって思い通り段取りできず、順序よく実行することができず、逆に失敗することに安堵を感じたりします。

もうこの前提で、仕事や人生を組み立てるしかないと思いつつ、心は決して軽くなりません。

毎週一時間で解決するドラマや説教に心を癒され動かされても、現実では私たち自身が一人で動く勇気が要ります。
真似事で段取りしても、毎回うまく行かず、張り切っても裏目に出てしまう繰返し。
人の言う通りにしても、時と場面で状況は違うから、目を開いて現実を丁寧に見てひとつひとつ対処しなければなりません。

子供時代からの認知の歪みは底知れないものがあります。
そんな落ち込みの底に横たわる快感よりも、
嘘の救いのビジョンや牧師のことばだけに酔うよりも、
生きる現実で、正直な弱さを神に向かう心の祈りで告白して、
自分と隣人の真実に向き合って、弱さに溺れないようにしたいです。


わたしが喜ぶのは
愛であっていけにえではなく
神を知ることであって
焼き尽くす献げ物ではない。

ホセア書 6:6 新共同訳
https://bible.com/bible/1819/hos.6.6.新共同訳




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福音派聖霊派の信仰という名の虐待問題は、被害者が負うべき十字架か
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52378833.html

人が人であるために、私が私であるために
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52421384.html



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■私たちクリスチャンは二人三人でも集まれば、そこを「キリストのみからだ」とすることができます。
洗礼の意味は「キリストへの信仰を持つ、人生の方向転換(悔い改め・回心)の決意」です。(洗礼は、授けた教会の組織員となる会員制度とは別のものです。)
牧師を上位に戴かずに、水平の交わりを心がけ、共に祈り神様を見つめて御声に聞き従うことを望み進む、この決心を共有する交わり・ネットワークを目標とする「キリストのみからだの教会」のあり方を求めます。
現状では「頼れる人として誰か教師を自分の上に置きたがる人の弱さ」を認め、私たちは日々そこから脱出して神様に祈り、主にある交わりをいただきます。同時に、助けを求める人の祈りに、あらゆる形で呼応するクリスチャンであることを決意し、自立への助けが必ずある「みからだのネットワーク」であることを目指しています。(CFF小倉福音センターの祈り・信仰指標から)

■福音派・聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)・聖書主義の人が内包する「カルト化問題」をこの世代で終息できますように。教会が牧師の誤り・マインドコントロール・権威主義・独裁を指摘できずに多くの人を従わせ、モラルや常識など、どの人にもある心の引っかかりや良心をなおざりにして、聖書信仰やリバイバル信仰に熱くなって人を裁き、自分と家族に負担をかけ、2世や若いクリスチャンの離反を招いていることを克服できますように。
また、脱会後の「脱マインドコントロール」のリハビリ・回復と、その実生活の困難さを理解できますように。
これを信仰的姿勢と現実的姿勢で正面から捉えて祈ります。
時に辛らつに人の内面を見ることが必要かもしれませんが、自分の中にも確かにあるものとして心の整理をすることで、問題の本質が見えるのかもしれません。
試練は、神に真に祈り出会うための神の摂理と言えますが、それを認める強さが欲しいですし、求めていく中で見えるものがあります。

■教会のカルト化や縛りに巻き込まれないための3つの知恵
1.祈りと聖書読み−−日々必要な神様との交わりと悔い改めをする、教えの風に翻弄(ほんろう)されない避け所として、各々個人の祈りと聖書読みのシェルターを確立しましょう。
2.二つ以上の教会に安心できる交わりを確保しましょう。−−今の所属教会に並行して、さらに避け所となる他の教会を必ず把握しておき、日ごろから広く他教会・他教派のクリスチャンと親しくし深い信頼関係を築きましょう。安心し信頼できる他教会や他教派の話題を所属教会で積極的に話しましょう。しかし、拒否や非難を受けはじめたら、他の信頼できる教会の交わりにそのことを伝え教会のカルト化の危険について話し合い、転会の準備を始めましょう。そのためにも、信頼あるクリスチャンの友情を日々拡げて大切にしましょう。
3. 教会以外の関わりを大切にしましょう。−−友人、家族、職場などで、ご自分を理解してくれる方々がいらっしゃると思います。その方の何気ない助言や世間話に、思いやりを感じることは、とても大切です。私たちが、信仰に対する外からの目を持つことにもなります。正しい「証し」は、一方的な押し付けではないことも分かります。

−−−真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために−−−
−− 避難の場(シェルター)としての「個人の祈り」を守るために −−
執筆者 仁保裕介(プロフィール
『すべて失望した人の唇に祈りを。』
祈りは、生活の現場から誰にでも自由にできるものです。
キリストは呼び求めるすべての人と共に居る方です。清い人や会堂や神殿にしか現れない方ではありません。むしろ、自分はふさわしくないと思う人のそばに居るのがキリストです。
受洗して教会員になった教会が、「この教会で信仰生活を続けられなければ、救いや信仰の道から外れる」と言うのは、真実ではありません。
 避難の場(シェルター)としてキリストに求める祈りには、「キリストが共に居る交わり」が必ず与えられています。
このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。テーマは重いですが、皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。キリスト教の視点で、成長、試練、十字架、悔い改め、聖化の記事になっています。
ほんの5才から信仰45年のクリスチャン2世として、キリスト教会内の教派主義・人間関係・権威化・カルト化によって傷を受けた皆さんと共に祈り、脱出と自立と今後の信仰について現実的視点で触れていきます。
元「主の十字架クリスチャンセンター 鎌倉教会、北九州教会」牧師・脱会者




罪の指摘は、人を殺すためでなく、生かすためです。
また、罪の指摘や信仰の指導は、人をコントロールするためではありません。
キリストに出会うためです。

キリストは自由を与え、人を生かします。
しかし、人は人を縛りたがります。
教会や牧師が人を縛るのは、まさに地上の教会と牧師に罪があり、人に例外なく罪がある証拠です。

命を与えない罪の指摘も罪の自覚も聖書の引用も、自分や人を縛るだけです。

縛られている状態が自分の居場所になり、それが教会や信仰と呼ばれるなら、
それはキリストや聖書から離れた、人の勝手な思いが支配する教会や信仰です。

人はそこから脱出して、キリストに出会い生かされて自由で自分らしくなる必要がありますが、人生のすべてを使って得るような道でもあるのかと、最近思います。

神にはどんなことでもでき、人が神に向くなら、すべては益になります。
どんなことでも、神は人を生かすことができ、人の益にすることができます。

たとえひどい教会で飢え渇き傷ついていても、本心でキリストを求める動機にすることができます。

神のみこころにより、
私たちの思いや嘆き以上に、私たちの思う限界や時間以上に、神は忍耐と解決を深い心の底から与え、私たちの内からあふれるようにするために、すべてを働かせ益になるよう導きを続けられます。
そのスケールは、私たちの時間や目に見える現実への意識を越えたものだと感じます。


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■私たちクリスチャンは二人三人でも集まれば、そこを「キリストのみからだ」とすることができます。
洗礼の意味は「キリストへの信仰を持つ、人生の方向転換(悔い改め・回心)の決意」です。(洗礼は、授けた教会の組織員となる会員制度とは別のものです。)
牧師を上位に戴かずに、水平の交わりを心がけ、共に祈り神様を見つめて御声に聞き従うことを望み進む、この決心を共有する交わり・ネットワークを目標とする「キリストのみからだの教会」のあり方を求めます。
現状では「頼れる人として誰か教師を自分の上に置きたがる人の弱さ」を認め、私たちは日々そこから脱出して神様に祈り、主にある交わりをいただきます。同時に、助けを求める人の祈りに、あらゆる形で呼応するクリスチャンであることを決意し、自立への助けが必ずある「みからだのネットワーク」であることを目指しています。(CFF小倉福音センターの祈り・信仰指標から)

■福音派・聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)・聖書主義の人が内包する「カルト化問題」をこの世代で終息できますように。教会が牧師の誤り・マインドコントロール・権威主義・独裁を指摘できずに多くの人を従わせ、モラルや常識など、どの人にもある心の引っかかりや良心をなおざりにして、聖書信仰やリバイバル信仰に熱くなって人を裁き、自分と家族に負担をかけ、2世や若いクリスチャンの離反を招いていることを克服できますように。
また、脱会後の「脱マインドコントロール」のリハビリ・回復と、その実生活の困難さを理解できますように。
これを信仰的姿勢と現実的姿勢で正面から捉えて祈ります。
時に辛らつに人の内面を見ることが必要かもしれませんが、自分の中にも確かにあるものとして心の整理をすることで、問題の本質が見えるのかもしれません。
試練は、神に真に祈り出会うための神の摂理と言えますが、それを認める強さが欲しいですし、求めていく中で見えるものがあります。

■教会のカルト化や縛りに巻き込まれないための3つの知恵
1.祈りと聖書読み−−日々必要な神様との交わりと悔い改めをする、教えの風に翻弄(ほんろう)されない避け所として、各々個人の祈りと聖書読みのシェルターを確立しましょう。
2.二つ以上の教会に安心できる交わりを確保しましょう。−−今の所属教会に並行して、さらに避け所となる他の教会を必ず把握しておき、日ごろから広く他教会・他教派のクリスチャンと親しくし深い信頼関係を築きましょう。安心し信頼できる他教会や他教派の話題を所属教会で積極的に話しましょう。しかし、拒否や非難を受けはじめたら、他の信頼できる教会の交わりにそのことを伝え教会のカルト化の危険について話し合い、転会の準備を始めましょう。そのためにも、信頼あるクリスチャンの友情を日々拡げて大切にしましょう。
3. 教会以外の関わりを大切にしましょう。−−友人、家族、職場などで、ご自分を理解してくれる方々がいらっしゃると思います。その方の何気ない助言や世間話に、思いやりを感じることは、とても大切です。私たちが、信仰に対する外からの目を持つことにもなります。正しい「証し」は、一方的な押し付けではないことも分かります。

−−−真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために−−−
−− 避難の場(シェルター)としての「個人の祈り」を守るために −−
執筆者 仁保裕介(プロフィール
『すべて失望した人の唇に祈りを。』
祈りは、生活の現場から誰にでも自由にできるものです。
キリストは呼び求めるすべての人と共に居る方です。清い人や会堂や神殿にしか現れない方ではありません。むしろ、自分はふさわしくないと思う人のそばに居るのがキリストです。
受洗して教会員になった教会が、「この教会で信仰生活を続けられなければ、救いや信仰の道から外れる」と言うのは、真実ではありません。
 避難の場(シェルター)としてキリストに求める祈りには、「キリストが共に居る交わり」が必ず与えられています。
このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。テーマは重いですが、皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。キリスト教の視点で、成長、試練、十字架、悔い改め、聖化の記事になっています。
ほんの5才から信仰45年のクリスチャン2世として、キリスト教会内の教派主義・人間関係・権威化・カルト化によって傷を受けた皆さんと共に祈り、脱出と自立と今後の信仰について現実的視点で触れていきます。


社会生活や勤めや、教会での悔い改めや奉仕で、しなくても良いことをしていると、本来の自分のあり方の一部を失って心をなくすことがあります。

私たちの心の願いがどこにあるのかだけは、いつもしっかりさせておく必要があります。

支え合い、誰かに頼って生きる部分は必ずあるはずですが、
行き過ぎた激しい自己否定から他者に頼るのでは、翻弄されるだけです。
その裏返しの自己実現の強い欲求も、犠牲を伴います。
私たちの心は、自分を隣人との間で生かし、隣人を生かすことを望んでいるでしょうか。
傷や恐れがあって心を閉ざし、
長い間、自分の傷に注目してしまい、
安心感信頼感のある交流を遠ざけてしまうことがあります。

信仰者はどんなに弱くても、罪深くても、失敗しても、その自分をキリストと共に見て、赦しを受け入れ、キリストと共に負うのです。

人生は一見すると孤独ですが、私たちには祈りがあります。心の願いを祈りとしてそのまま口にすれば、キリストは必ず聞いています。

人生の希望とは何でしょうか。
生きるため、人を愛し生かすため、共に生きるため、
その心の願いがあれば、
その真剣さがあれば、酷しくても道は見えます。

痛みや恐れから、心を失い、流され、何かに頼り、生きる厳しさや現実を避けてきたのも、心の事実です。

私たちは決して100点ではありません。
よくわからないことの方が多いのです。
それでも現実に生きるためになすべきことを日々して生きています。それだけで大変です。癒しや休息も要ります。

これが清いとか正しいとか
これが大事で大切とか
こだわりや求めはあっても、
現実の生活で必要なことを支えるのは、一人ではできず、様々な知恵や知識や働きを誰かに頼りながら生きています。

もし心に余裕を与えなくても一人で人生を走れる環境があるのなら、
優れて前に進むことができるのでしょうが、
それは周りに犠牲を強いたり、
弱さを認めないことで自分や他人を追い込んだりもします。

本当のものは、心の中の深い願いにあるはずです。
外からの期待や要求に応えたり、見せる実績も必要ですが、
心の根底にあるのは、子どもの願いような単純なものなのかもしれません。
永遠に続く価値のある満たされたい思い、安堵感は、毎日過ぎ去って消えていくようなものではありません。
そこにある平和を守りたいと思うものです。

本物とは、
私たちが平安に生きようと思える揺るがない深い心の願い、希望であり、
隣人や家族をも揺るがず生かし、
復讐や傷の繰返しからではなく、他人の受け売りでもない、
天に行っても続く永遠の価値ある安定した愛です。
この愛は義務ではなく、遠い理想ではなく、誰にでもすぐそばにある神の道です。
手に入れるために必要なのは、真実な祈りだけです。


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洗礼の意味は「キリストへの信仰を持つ、人生の方向転換(悔い改め・回心)の決意」です。(洗礼は、授けた教会の組織員となる会員制度とは別のものです。)
牧師を上位に戴かずに、水平の交わりを心がけ、共に祈り神様を見つめて御声に聞き従うことを望み進む、この決心を共有する交わり・ネットワークを目標とする「キリストのみからだの教会」のあり方を求めます。
現状では「頼れる人として誰か教師を自分の上に置きたがる人の弱さ」を認め、私たちは日々そこから脱出して神様に祈り、主にある交わりをいただきます。同時に、助けを求める人の祈りに、あらゆる形で呼応するクリスチャンであることを決意し、自立への助けが必ずある「みからだのネットワーク」であることを目指しています。(CFF小倉福音センターの祈り・信仰指標から)

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これを信仰的姿勢と現実的姿勢で正面から捉えて祈ります。
時に辛らつに人の内面を見ることが必要かもしれませんが、自分の中にも確かにあるものとして心の整理をすることで、問題の本質が見えるのかもしれません。
試練は、神に真に祈り出会うための神の摂理と言えますが、それを認める強さが欲しいですし、求めていく中で見えるものがあります。

■教会のカルト化や縛りに巻き込まれないための3つの知恵
1.祈りと聖書読み−−日々必要な神様との交わりと悔い改めをする、教えの風に翻弄(ほんろう)されない避け所として、各々個人の祈りと聖書読みのシェルターを確立しましょう。
2.二つ以上の教会に安心できる交わりを確保しましょう。−−今の所属教会に並行して、さらに避け所となる他の教会を必ず把握しておき、日ごろから広く他教会・他教派のクリスチャンと親しくし深い信頼関係を築きましょう。安心し信頼できる他教会や他教派の話題を所属教会で積極的に話しましょう。しかし、拒否や非難を受けはじめたら、他の信頼できる教会の交わりにそのことを伝え教会のカルト化の危険について話し合い、転会の準備を始めましょう。そのためにも、信頼あるクリスチャンの友情を日々拡げて大切にしましょう。
3. 教会以外の関わりを大切にしましょう。−−友人、家族、職場などで、ご自分を理解してくれる方々がいらっしゃると思います。その方の何気ない助言や世間話に、思いやりを感じることは、とても大切です。私たちが、信仰に対する外からの目を持つことにもなります。正しい「証し」は、一方的な押し付けではないことも分かります。

−−−真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために−−−
−− 避難の場(シェルター)としての「個人の祈り」を守るために −−
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『すべて失望した人の唇に祈りを。』
祈りは、生活の現場から誰にでも自由にできるものです。
キリストは呼び求めるすべての人と共に居る方です。清い人や会堂や神殿にしか現れない方ではありません。むしろ、自分はふさわしくないと思う人のそばに居るのがキリストです。
受洗して教会員になった教会が、「この教会で信仰生活を続けられなければ、救いや信仰の道から外れる」と言うのは、真実ではありません。
 避難の場(シェルター)としてキリストに求める祈りには、「キリストが共に居る交わり」が必ず与えられています。
このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。テーマは重いですが、皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。キリスト教の視点で、成長、試練、十字架、悔い改め、聖化の記事になっています。
ほんの5才から信仰45年のクリスチャン2世として、キリスト教会内の教派主義・人間関係・権威化・カルト化によって傷を受けた皆さんと共に祈り、脱出と自立と今後の信仰について現実的視点で触れていきます。
元「主の十字架クリスチャンセンター 鎌倉教会、北九州教会」牧師・脱会者

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