真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために

避難の場(シェルター)として「個人の祈り」を守る教会とは

執筆者 仁保裕介(プロフィール)『すべて失望した人の唇に祈りを。』祈りは、生活の現場から誰にでも自由にできるものです。キリストは呼び求めるすべての人と共に居る方です。清い人や会堂や神殿にしか現れない方ではありません。むしろ、自分はふさわしくないと思う人のそばに居るのがキリストです。
  受洗して教会員になった教会が、「この教会で信仰生活を続けられなければ、救いや信仰の道から外れる」と言うのは、真実ではありません。避難の場(シェルター)としてキリストに求める祈りには、「キリストが共に居る交わり」が必ず与えられています。
  このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。テーマは重いですが、皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。キリスト教の視点で、成長、試練、十字架、悔い改め、聖化の記事になっています。
  ほんの5才から信仰45年のクリスチャン2世として、キリスト教会内の教派主義・人間関係・権威化・カルト化によって傷を受けた皆さんと共に祈り、脱出と自立と今後の信仰について現実的視点で触れていきます。
  元「主の十字架クリスチャンセンター 北九州教会」牧師。


自分の十字架とは?

キリストの御跡を追い、自分の十字架を負いたい

自分の十字架を日々追うことができるよう祈りたい。

今負っているものは、果たして私の心からの願いなのか。負うべき十字架に必要なものなのか。

平安なのは、自分が救われ、隣人が救われるからなのか。

ふと祈って、焦りすぎや気負い過ぎが分かることがあります。
『平安』の源が、隣人を裁き、自分を裁いているところから来ていることさえあります。
裁き裁かれ続け、頑張って疲れ、麻痺した心は、常識を外れ、多くの隣人の救いや愛の意味さえ分からなくなります。

魂に霊に心に納得いっているのか?
腑に落ちているのか?
平安があるのか?

頑張りすぎず、なすべき事を居るべき場で適切に祈り、行いたいのです。

神の目に尊いのは、本当に弱い人、困っている人が生かされることで、私たちの十字架もそのために道が備えられていると思います。(マタイ2425章)

どんな道でも、自分と隣人を生かすためにそこに居ることを忘れずにいましょう。

世の光、地の塩とは、証しとは、
私たち一人ひとりの重荷であり、
自分の十字架を負う人から流れ出るものではないでしょうか。

目に見える教会での奉仕や役ではなく、
一人ひとり人生で関心が向く重荷を負うことで流れ出すのだと思えます。教会はそんな人たちが集うことで成り立つもので、重荷や賜物は教会奉仕よりも日常で現実的にあらわされるもののはずです。

教会ありきの人生ではなく、私たちの日常の祈りや重荷の延長線が互いに交わるところが教会ではないでしょうか。


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口語訳聖書は、 新共同訳、新改訳よりも前に、日本の全てのプロテスタント教会で使われていたものです。





■私たちクリスチャンは二人三人でも集まれば、そこを「キリストのみからだ」とすることができます。
洗礼の意味は「キリストへの信仰を持つ、人生の方向転換(悔い改め・回心)の決意」です。(洗礼は、授けた教会の組織員となる会員制度とは別のものです。)
牧師を上位に戴かずに、水平の交わりを心がけ、共に祈り神様を見つめて御声に聞き従うことを望み進む、この決心を共有する交わり・ネットワークを目標とする「キリストのみからだの教会」のあり方を求めます。
現状では「頼れる人として誰か教師を自分の上に置きたがる人の弱さ」を認め、私たちは日々そこから脱出して神様に祈り、主にある交わりをいただきます。同時に、助けを求める人の祈りに、あらゆる形で呼応するクリスチャンであることを決意し、自立への助けが必ずある「みからだのネットワーク」であることを目指しています。(CFF小倉福音センターの祈り・信仰指標から)

■福音派・聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)・聖書主義の人が内包する「カルト化問題」をこの世代で終息できますように。教会が牧師の誤り・マインドコントロール・権威主義・独裁を指摘できずに多くの人を従わせ、モラルや常識など、どの人にもある心の引っかかりや良心をなおざりにして、聖書信仰やリバイバル信仰に熱くなって人を裁き、自分と家族に負担をかけ、2世や若いクリスチャンの離反を招いていることを克服できますように。
また、脱会後の「脱マインドコントロール」のリハビリ・回復と、その実生活の困難さを理解できますように。
これを信仰的姿勢と現実的姿勢で正面から捉えて祈ります。
時に辛らつに人の内面を見ることが必要かもしれませんが、自分の中にも確かにあるものとして心の整理をすることで、問題の本質が見えるのかもしれません。
試練は、神に真に祈り出会うための神の摂理と言えますが、それを認める強さが欲しいですし、求めていく中で見えるものがあります。

■教会のカルト化や縛りに巻き込まれないための3つの知恵
1.祈りと聖書読み−−日々必要な神様との交わりと悔い改めをする、教えの風に翻弄(ほんろう)されない避け所として、各々個人の祈りと聖書読みのシェルターを確立しましょう。
2.二つ以上の教会に安心できる交わりを確保しましょう。−−今の所属教会に並行して、さらに避け所となる他の教会を必ず把握しておき、日ごろから広く他教会・他教派のクリスチャンと親しくし深い信頼関係を築きましょう。安心し信頼できる他教会や他教派の話題を所属教会で積極的に話しましょう。しかし、拒否や非難を受けはじめたら、他の信頼できる教会の交わりにそのことを伝え教会のカルト化の危険について話し合い、転会の準備を始めましょう。そのためにも、信頼あるクリスチャンの友情を日々拡げて大切にしましょう。
3. 教会以外の関わりを大切にしましょう。−−友人、家族、職場などで、ご自分を理解してくれる方々がいらっしゃると思います。その方の何気ない助言や世間話に、思いやりを感じることは、とても大切です。私たちが、信仰に対する外からの目を持つことにもなります。正しい「証し」は、一方的な押し付けではないことも分かります。

−−−真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために−−−
−− 避難の場(シェルター)としての「個人の祈り」を守るために −−
執筆者 仁保裕介(プロフィール
『すべて失望した人の唇に祈りを。』
祈りは、生活の現場から誰にでも自由にできるものです。
キリストは呼び求めるすべての人と共に居る方です。清い人や会堂や神殿にしか現れない方ではありません。むしろ、自分はふさわしくないと思う人のそばに居るのがキリストです。
受洗して教会員になった教会が、「この教会で信仰生活を続けられなければ、救いや信仰の道から外れる」と言うのは、真実ではありません。
 避難の場(シェルター)としてキリストに求める祈りには、「キリストが共に居る交わり」が必ず与えられています。
このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。テーマは重いですが、皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。キリスト教の視点で、成長、試練、十字架、悔い改め、聖化の記事になっています。
ほんの5才から信仰45年のクリスチャン2世として、キリスト教会内の教派主義・人間関係・権威化・カルト化によって傷を受けた皆さんと共に祈り、脱出と自立と今後の信仰について現実的視点で触れていきます。
元「主の十字架クリスチャンセンター 鎌倉教会、北九州教会」牧師・脱会者


自由な心で神様に祈っていますか?

祈りの言葉が何かに縛られていませんか?



私たちは神様に向いて自由であり、それぞれの心の思い、叫びがあります。
その自由に聖霊がおられ、必ずとりなされています。
多様な祈りがあってこそ、みからだの一致ではないでしょうか。

祈りが、誰か人から強いられたものではなく、
「自由に神様に向かう私たち自身の心」であることを神様は喜ばれます。

自然な心のことばこそ、神様との交わりに必要です。

そう考えるクリスチャンの交わりと、多様な一人一人の祈りの拡がりが求められます。祈りが現実とリンクすることは、人生に必要な知識です。

このブログは、その自由な祈りの拡がりのために書いています。
知らないうちに祈りと信仰が誰かに縛られていないかを、様々な視点で考えようとしています。

■教会で疲弊して燃え尽きてしまう問題…

現代の教会は礼拝や組織の形を定めていますが、聖書から「教会がすべきこと」の要素を凝縮したものを日曜の2時間で触れるようにしています。

新約聖書を読むと、2000年前の教会の集い交わりは毎日のものでした。
日曜礼拝のプログラムは、聖書に書かれている教会の毎日の交わりの「短縮版」、「あらすじ」のストーリーになっています。

今の短縮版の日曜礼拝だけでキリストへの信仰を養おうとすれば、断片化した教えの詰め込みになってしまうのは当然かもしれません。

その中でも問題のある教会では、独自の詰め込み教育をして縛ったり、聖書の一部だけを切り取り強調して「信仰の間違いない形」と言います。
そこに空しさを感じ疲弊することは当然かもしれません。

信仰は日曜が本番ではなく、日常で働いてこそです。
信仰者同士の交わりは日々の信仰の励みになるはずなのに、もし教会が息苦しく、日曜のたびにストレスがたまるなら、無理してその教会に行く必要はないのではないでしょうか。奉仕のためにだけ身を削る思いで必死で行くような教会は、聖書に照らして健全とは言えません。
救いと信仰を教えている福音のことばには心の深いところで同意するけれども、
たとえば、祈りや証しまで教会の全員が同じような言葉を使っているのはどうなのでしょうか。
それで、神様とのつながりが太くなり、個人的な悩みや痛みに救いが確かになるでしょうか。
それとも教会のみんなとのつながりが強くして、心の葛藤を忘れようとするのでしょうか。

なぜ、福音が多くの日本人に伝わらないのでしょうか。
クリスチャンの世界は特異なのか、教会の敷居は高いのか。
教会だけが清く、教会の外は悪魔に支配されて危険なのでしょうか。

今の形式化した教会独特の教えは外からどう見えているでしょうか。
教会の外の隣人との間に壁を感じるようになるのは、果たして健全なのでしょうか。

■自分が知る困難や痛みからの本音を神様にぶつけることができる心の部屋がありますか?

クリスチャンが皆、自分らしい自由な関心を持って、
今居る自分の場所から、自由な視点で気づくことを、自分のことばで熱心に祈る、
そんな祈りの多様化が多くの罪を覆い、自分と隣人の救いにつながるのではないでしょうか。

キリストがもう一度来られるまで、教会とクリスチャンは隣人の救いのために存在しています。罪の裁きが使命なのではありません。

生きる場で皆がそれぞれ困難や試練を味わう時代になってきましたが、
それはただ罪の世の結果として存在するのではなく、信仰者が自分と隣人のために祈る場です。
それぞれの問題を教会に持ち寄っても、すべてが受容され癒されるわけではありません。それぞれ置かれた場の痛みからの祈りが、その場の救いや脱出につながるのではないしょうか。その場に置かれた意味を考えたいのです。
これはキリストに導かれていても、教会の人にすべてが理解されるわけではありません。個人的にキリストに伴われ、ただキリストにすがって負える重荷です。

まずは、キリストの十字架による救い・あがないの恵みを、自分の視点で改めて聖書を読んで味わい、キリストご自身と御跡を、自分の心で追い求めましょう。
置かれている場から、自分と世の救いと現実の全体像、自分と教会への主の召しについて求め、自分の関心がどこに向くか考えましょう。
自分と隣人と世にある現実の課題をよく知り、痛みを痛みとして、喜びを喜びとして共感して、目には見えないけれども確かにある多くの人の祈りに連なる心で祈りたいのです。

■キリストの御体としての教会

キリストのみからだの教会は、共に居られる御子キリストの恵みと、聖霊の交わり導き、父の愛の支配を求め、天と地にみこころが成るのを望む、祈りの家です。

恵み、導き、愛のみこころは、私たちの心に語りかけられ、出会う現実と心の霊の中で納得があるものです。
各々ひとりの祈りの納得が集まって証ししあい励ましあうのが、教会の交わりです。

明文化された「教会戒規」や「教理」は、「教会を守る」というよりも人の身勝手な肉の過度の暴走を止める役割です。
信仰の命は、個人的な祈りによるキリストとの出会い交わりです。
教会の活動はこれを促進するものでなければなりません。

そして、各々が置かれた生活の場から皆さんが独自に重荷を見つけて自主的に祈ることで、人生と本来の教会の姿であるキリストの御体全体の歩みが実現されていくのが本来です。

一人ひとりの信仰のお証しが、横に連なってそれぞれの場から流れ出しますように。

あらわれ方は違うけれども賜物に従って一つの聖霊の働きが保たれますように。そうしてみからだの交わりが愛の聖霊の結び目によってつながっていくことを願っております。
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   執筆者 仁保裕介
            連絡はプロフィールのメールアドレスまで、お願いいたします。


■ご奉仕・面談について
現在、私は北九州市に居ります。勤務の関係で集会奉仕、面談はお受けできない状況です。
ご相談はメールでお願いいたします。返信は1〜2週間猶予をいただきたいと思います。

CFF小倉福音センターの目的・活動



■コメント・トラックバックをお送りくださる皆様
ありがたく拝見しておりますが、内容によっては掲載を見合わせることがあります。
・私信のようにプライバシーを含むこと
・同じ内容で複数の配信先があったり(マルチポスト)、他サイトへの勧誘目的だけのもの
・他からの引用だけで投稿者の言葉が無いもの
(常識の範囲のことですが私の基準はhttp://cffexodos.main.jp/exodospost0.htmに詳しく記しました。)

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■教会カルト化記事の姿勢

このブログでは、問題のある教会で不当な扱いを被った経験者の方々と、指摘を受けている教会、双方に向けて記事を書いております。
問題の無い教会の方、また問題のある教会の方には受け取れないことが書かれているかもしれません。
その場合は、私が管理する「EXODOS〜カルト化した教会や信仰という名の虐待からの脱出支援ページ」や、検索で「信仰 虐待」の結果をご覧いただければと思います。

記事を書く背景と動機は、自分も含めた福音派・聖霊派・聖書主義を採る教会と牧師に内包されているものを明らかにし、カルト的な信仰を生み出す原因を探るためです。
犯人探しが主旨ではありませんが、感情的な問題や整理には、誰かを恨み続けるよりも、それまでの影響を一端切り離す方が客観化しやすいため、切り離す発端となるように批判的な内容も心に描いて良いのだとアピールする目的があります。
また、一般的社会的に認められない問題を明確にするつもりです。
内容が辛らつすぎると思われる方は、自己批判・内部告発だとお考えいただければと思います。
 このブログ内の記事:
 教会の虐待問題−フラッシュバック、PTSD症状からのリハビリの困難と対応

 確信が押し付けられて、うつになる問題 リハビリ

 教会での精神的虐待・中傷による障害が脱会後に顕著になること−Yahoo!ブログ

 私は感動をあまり信じすぎないようにしています。

 正統教会で経験したカルト信仰からの脱出

 各々の事情を神様はすべてご存知であること。地上の教会にはマニュアル化できない神との交わり

 祈りとは神様との対話です。−私たちは自分の真の姿を認めているでしょうか。

 お勧めする「自立」について

 自由のために十字架を負う時代

 「信仰という名の虐待」によって植えつけられた信仰の子の「三つ子の魂」の執着に、誰が責任を取るのか
 

■閲覧が多い記事
教会で苦しみを味わうこともあります
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52277581.html

不健康な教会の兆候 カルト化の前ぶれ
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/51458318.html

聖書信仰が、「聖書絶対の律法主義」にならないように、ちゃんと聖書を読もう
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52178268.html

みんな、自分を正しいと思っている。
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52272274.html

教会が引き起こし続ける信仰上の「冤罪」
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52138245.html

地上の教会の神秘性。リバイバルへの道。「完全」への勘違いがカルト化へ。
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52161558.html

信仰と献身は、人それぞれの多様な「信仰の真実」を認め求め続けることではないでしょうか。
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52206089.html

社会に出れば「信仰」が試されるのは避けられない現実です。それも霊的成長の時として神様にあって自分を受け入れましょう。
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52181153.html

キリスト教会のカルト化・危険ワード「聖書と神の法則に従え」
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52120271.html

経験の少ないクリスチャンが囚われやすい「感情の問題メモ」
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52204905.html

教会のカルト化を避けるための最低限の指針
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52184080.html

苦しいときの祈り求めが、信仰の基盤や知恵に
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52180692.html

『試練』の意味は成長のため…その「勘違いあるある」としての『神と悪魔の戦い』
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52163557.html

伝道とは
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52125006.html

守るべき信仰の基本と実生活に伴うキリストの助け
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52127413.html

教会に何を求めるか 教会へのイメージを再考すべき時
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52078530.html

質問へのお答え:教会籍と交わり・御体なる教会
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/50037482.html

教会のカルト化・虐待を止めるために
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/50641653.html

十字架を負うとは
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/50037410.html

ヨブ記38章
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/50677939.html

真の祈り、礼拝
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/50707198.html

聖書の記録と神との出会い
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/50117943.html



「CFF小倉福音センター」について
教会の問題で弱さを覚えている方々に奉仕し、主イエス・キリストのみからだの教会に奉仕したいと願っています。「この小さき者を、神様の御用のために用いてください」と祈り、神様が召されている自分の小さき働きに自分の人生をささげていきたいと思います。

CFF小倉福音センターは、会員制度は無く、定期集会もありません。
このブログを通じてメッセージを伝え、メールのやり取りでご相談を受ける、そのような交わりが主です。
集会奉仕も承りますが、テーマとして、このブログの記事の通り、強制のない自立した信仰と、祈りの自由、内から湧くキリストの証しを共に求めるものでありたいと思います。
また、出会いと交わりの中から、必要に応じてその都度協力共働して、問題を共有します。

この働きと交わりは、互いの祈り無しには進むことはありません。
私たちの信仰の態度として、それぞれ生きる場で問題の防止・脱出のための知恵や助言を伝えることで、問題の防止・対策につながります。

この働きのために、仁保に経済的ご支援が許される場合、お送りいただいたものを、記事執筆、ご相談、教会に傷があって触れられない方への助けになるアプローチ、 各地の教会への防止・対策の奉仕に用いさせていただきます。
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■一部記事は下のブログに重複して掲載しています。
キリストの助けを求めて〜クリスチャンライフと教会
Sクリスチャンセンター問題の資料 管理人の雑記

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■おしらせ
このブログは以前のブログhttp://blogs.dion.ne.jp/j_1/の機能が不調だったため、2006年6月以前の記事やコメント、TBをここに書き写しています。
また、KDDIdionのホームページサービスが終わるため、一部記事を作成年の日付にして移動しています。

運命を信じる。

運命に縛られる。

このふたつの言い方では、運命のとらえ方が違います。

人生に無くてはならない出会いを見つけ、信じられるなら、
厳しい現実に必死に祈りながら愛や導きを信じられ、そこに留まる意思を保てるなら、
たとえ恐れ不安があっても「信じる結果」や「信仰の実」をすでに受けていると思います。
目に見えるものや、教会や牧師に頼れなくても、
この時の私たちの祈りは、泣き叫ぶだけの祈りかもしれませんが、それでも良いはずです。

しかし、
『自分の意思では人生はどうにもならない』からと『人や教会に従うしかない』と思ってしまっているなら『運命に縛られている』状態なのでしょう。

人は弱く、何かに縛られ、依存したいものなので、現実には『縛り』と『信仰』の間を行ったり来たりかもしれません。
教会や牧師のあり方が、自由を奪う縛りになっていることはよくあることです。

そして、イエス・キリストに出会い信じ、救いを信じることは、決して縛られることではありません。
過去の罪から解放された自由の中で新たな命を創造され、毎日新しく変えられる、困難な中でも発見と成長の日々です。
牧師が発見や成長を決め付けたり管理するようなものとは違います。それぞれの内側で確かに実を結ぶもののはずです。
困難や苦痛の中でさえ、
信じるがゆえに、
キリストが共に居られるがゆえに、立ち続けることができるものです。
耐えられない時に叫び祈ると、助けや聖書の言葉、平安、諭し、慰めを与えられ、ある時は休ませ、ある時は進み、出会いや鍛練を与えられます。

試練は私たちに学びと成長を与えます。
見分けさせ、必要なもの良いものを得させ、悪いものについて悔い改めや警戒を教え、私たちの人生を導きます。
私たちは依存や思い込みや傷のこだわりから脱出し、自由にされる道に居ます。

一般的に、
「物事に関心を持ち、よく気がつくには、想像力が必要」と言われますが、
新たな発想力、創造を楽しむことで、周りに興味を持ち、発見を楽しみたいと思うのです。

私たちは、過去の傷や絶望にこだわると、自分の未来まで希望や可能性が無いものと思いがちです。
過去をすべて捨て去るのは難しくても、同時に新しい道や可能性を考え、心を開くことは大事です。心を開く相手を見分けましょう。教会が必ず正解を持っているということではなく、祈り求める人に神が人生の道を開きます。
過去や傷から逃げたいばかりに、狭い世界にとどまり引きこもり、様々な出会いや愛に心を閉ざしていまうことがありますから、そんな自分の縛りからの脱出を意識しましょう。

新たな歩みに創造と出会いがあり、発想が湧き、新たな興味として様々な物事を見聞きすることができます。チャレンジを迫られてやってみると、解放や生きる実感を見つけたりします。

救いや人生に教会組織の教えを受け入れた時、自由になるか、縛りになるかをいつも見分けるべきです。
救いの命の創造は、目に見える教会の中だけに留まるものではなく、当然、あらゆる所に流れ出します。
教会の集いに行くことで励まされるのはいいのですが、人の教えや規定に従うことは救いではありません。
救いは私たちの中に神によって日々行われていることです。
どこかに留まらせて縛る『信仰』なら、そこを後にして新たな祈り求めの道に進むべきです。
イエス・キリストも、弟子たちも、土地や会堂に信仰や証しを否まれ、逃げるように避けつつ、巡る日々だったのではないでしょうか。


わが子よ、わたしの言葉に心をとめ、わたしの語ることに耳を傾けよ。 それを、あなたの目から離さず、あなたの心のうちに守れ。 それは、これを得る者の命であり、またその全身を健やかにするからである。 油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである。
箴言 4:20‭-‬23 JA1955
https://bible.com/bible/81/pro.4.20-23.JA1955


もしあなたがたを迎えもせず、またあなたがたの言葉を聞きもしない人があれば、その家や町を立ち去る時に、足のちりを払い落しなさい。
人々に注意しなさい。彼らはあなたがたを衆議所に引き渡し、会堂でむち打つであろう。

またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。 一つの町で迫害されたなら、他の町へ逃げなさい。よく言っておく。あなたがたがイスラエルの町々を回り終らないうちに、人の子は来るであろう。 弟子はその師以上のものではなく、僕はその主人以上の者ではない。 弟子がその師のようであり、僕がその主人のようであれば、それで十分である。もし家の主人がベルゼブルと言われるならば、その家の者どもはなおさら、どんなにか悪く言われることであろう。 だから彼らを恐れるな。おおわれたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。 また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。 二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない。 またあなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。 それだから、恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。
マタイによる福音書 10:14‭, ‬17‭-‬17‭, ‬22‭-‬26‭, ‬28‭-‬31 JA1955
https://bible.com/bible/81/mat.10.14-31.JA1955




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祈り、悔い改めを縛られないで 2018/04/15





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口語訳聖書は、 新共同訳、新改訳よりも前に、日本の全てのプロテスタント教会で使われていたものです。





■私たちクリスチャンは二人三人でも集まれば、そこを「キリストのみからだ」とすることができます。
洗礼の意味は「キリストへの信仰を持つ、人生の方向転換(悔い改め・回心)の決意」です。(洗礼は、授けた教会の組織員となる会員制度とは別のものです。)
牧師を上位に戴かずに、水平の交わりを心がけ、共に祈り神様を見つめて御声に聞き従うことを望み進む、この決心を共有する交わり・ネットワークを目標とする「キリストのみからだの教会」のあり方を求めます。
現状では「頼れる人として誰か教師を自分の上に置きたがる人の弱さ」を認め、私たちは日々そこから脱出して神様に祈り、主にある交わりをいただきます。同時に、助けを求める人の祈りに、あらゆる形で呼応するクリスチャンであることを決意し、自立への助けが必ずある「みからだのネットワーク」であることを目指しています。(CFF小倉福音センターの祈り・信仰指標から)

■福音派・聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)・聖書主義の人が内包する「カルト化問題」をこの世代で終息できますように。教会が牧師の誤り・マインドコントロール・権威主義・独裁を指摘できずに多くの人を従わせ、モラルや常識など、どの人にもある心の引っかかりや良心をなおざりにして、聖書信仰やリバイバル信仰に熱くなって人を裁き、自分と家族に負担をかけ、2世や若いクリスチャンの離反を招いていることを克服できますように。
また、脱会後の「脱マインドコントロール」のリハビリ・回復と、その実生活の困難さを理解できますように。
これを信仰的姿勢と現実的姿勢で正面から捉えて祈ります。
時に辛らつに人の内面を見ることが必要かもしれませんが、自分の中にも確かにあるものとして心の整理をすることで、問題の本質が見えるのかもしれません。
試練は、神に真に祈り出会うための神の摂理と言えますが、それを認める強さが欲しいですし、求めていく中で見えるものがあります。

■教会のカルト化や縛りに巻き込まれないための3つの知恵
1.祈りと聖書読み−−日々必要な神様との交わりと悔い改めをする、教えの風に翻弄(ほんろう)されない避け所として、各々個人の祈りと聖書読みのシェルターを確立しましょう。
2.二つ以上の教会に安心できる交わりを確保しましょう。−−今の所属教会に並行して、さらに避け所となる他の教会を必ず把握しておき、日ごろから広く他教会・他教派のクリスチャンと親しくし深い信頼関係を築きましょう。安心し信頼できる他教会や他教派の話題を所属教会で積極的に話しましょう。しかし、拒否や非難を受けはじめたら、他の信頼できる教会の交わりにそのことを伝え教会のカルト化の危険について話し合い、転会の準備を始めましょう。そのためにも、信頼あるクリスチャンの友情を日々拡げて大切にしましょう。
3. 教会以外の関わりを大切にしましょう。−−友人、家族、職場などで、ご自分を理解してくれる方々がいらっしゃると思います。その方の何気ない助言や世間話に、思いやりを感じることは、とても大切です。私たちが、信仰に対する外からの目を持つことにもなります。正しい「証し」は、一方的な押し付けではないことも分かります。

−−−真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために−−−
−− 避難の場(シェルター)としての「個人の祈り」を守るために −−
執筆者 仁保裕介(プロフィール
『すべて失望した人の唇に祈りを。』
祈りは、生活の現場から誰にでも自由にできるものです。
キリストは呼び求めるすべての人と共に居る方です。清い人や会堂や神殿にしか現れない方ではありません。むしろ、自分はふさわしくないと思う人のそばに居るのがキリストです。
受洗して教会員になった教会が、「この教会で信仰生活を続けられなければ、救いや信仰の道から外れる」と言うのは、真実ではありません。
 避難の場(シェルター)としてキリストに求める祈りには、「キリストが共に居る交わり」が必ず与えられています。
このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。テーマは重いですが、皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。キリスト教の視点で、成長、試練、十字架、悔い改め、聖化の記事になっています。
ほんの5才から信仰45年のクリスチャン2世として、キリスト教会内の教派主義・人間関係・権威化・カルト化によって傷を受けた皆さんと共に祈り、脱出と自立と今後の信仰について現実的視点で触れていきます。
元「主の十字架クリスチャンセンター 鎌倉教会、北九州教会」牧師・脱会者

永遠の命が与えられ、その恵みは、泉から溢れる水のように注がれます。

その恵みの水が私たちの心に入り込む入口は、
実は、みっともないところ、隠したいところ、誇れない、罪と失敗の破れ目であったりします。

他人には言えない、その破れの穴から入ってきた恵みは、他人にはよく見えない部分で、それぞれ「私の内面」を癒しますが、
そこからの感謝や神への愛、罪や試練にある人への共感やとりなしの祈りは、周りに広がり流れ出すのではないでしょうか。

私たちは、流れ出すものを自分の中に止めないようにしたいのです。

赦された部分、情けないが受け容れてもらった部分、隠したい高ぶりや傷の癒しなど、受けた恵みを、周りの人への愛に変換したいのです。
恥ずかしく隠したいものをあえてさらす必要はありませんが、隣人の困難の助けになれる時に、共感的に伴いたいのです。

「神の恵み」は、本人や教会にとどまらずに、流れ出すものです。

神の与える水は、私たちの罪や傷を洗い流します。洗われる時は痛いかもしれませんが、私たちが素直に認めるなら、自分を癒し、隣人、家族まで癒すものになるものです。

傷から、意地や復讐心や権利意識で鎧を着てしまうことがありますが、それを脱ぎ去りたいと祈りたいですね。

ナアマン将軍の癒しや、キリストから泥を塗ってもらった癒しもありますが、恵みの水の見た目はきれいではないのかもしれません。

私たちを洗い癒す水は、流れて来た時も、証しとして流れて行く先でも、きれいに見えなくてもいいのではないでしょうか。

見た目に、澄みきったものだけを求めたり、与えようとするから、伝わる証しができず、人の救いにならないのかもしれません。

癒され、愛されている私たちは、自分自身で決して清くはないことを知っています。ただ神がキリストを通して私たちを見た時に「清い」と宣言してくださっているのであって、救いはただキリストを信じる信仰のみによります。
ここに正直になることは大切だと思うのです。
現実的に清くない自分を知っていても、祈ると聖霊によって平安があり、赦しを知り、愛されていることを知ります。

私たちから流れ出る水は、澄んでいなくても清くなくても良いのです。
ありのままの自分を洗ってくださったイエスが与える水は何色でしょうか。私にはパレスチナの埃にまみれたイエス・キリストの汗と血と涙のように思えます。
私たちから流れ出るものも、私たちの涙や汗や血が混じっていて良いのであり、当然だと思えます。

それぞれ方にキリストが近く居て手を触れてくださるのは、最もみっともなくて、弱くて、卑しく、罪にまみれた部分、傷が痛み、絶望のあるところです。
そこからの祈り求めが、キリストがこの世に生き、十字架で痛み苦しみ血を流した、真のキリストの姿を迎える扉を開きます。そうして、キリストが真の友となってくださるのでしょう。復活したキリストには傷や釘のあとがそのままあるのです。

私たちが、多くの隣人が苦労し痛み努力する姿に心動かされるには、痛みを知る真の姿のキリストを私たちの汚れた心に迎えることが必要です。
相手に心を動かされていないなら、私たちの言葉にも共感されるものは無いではないでしょうか。


さて、ひとりの病人がいた。ラザロといい、マリヤとその姉妹マルタの村ベタニヤの人であった。

イエスは、マルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。 ラザロが病気であることを聞いてから、なおふつか、そのおられた所に滞在された。 それから弟子たちに、「もう一度ユダヤに行こう」と言われた。 弟子たちは言った、「先生、ユダヤ人らが、さきほどもあなたを石で殺そうとしていましたのに、またそこに行かれるのですか」。

さて、イエスが行ってごらんになると、ラザロはすでに四日間も墓の中に置かれていた。

イエスはマルタに言われた、「あなたの兄弟はよみがえるであろう」。 マルタは言った、「終りの日のよみがえりの時よみがえることは、存じています」。 イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。 また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。 マルタはイエスに言った、「主よ、信じます。あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の御子であると信じております」。

マリヤは、イエスのおられる所に行ってお目にかかり、その足もとにひれ伏して言った、「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」。 イエスは、彼女が泣き、また、彼女と一緒にきたユダヤ人たちも泣いているのをごらんになり、激しく感動し、また心を騒がせ、そして言われた、 「彼をどこに置いたのか」。彼らはイエスに言った、「主よ、きて、ごらん下さい」。 イエスは涙を流された。 するとユダヤ人たちは言った、「ああ、なんと彼を愛しておられたことか」。 しかし、彼らのある人たちは言った、「あの盲人の目をあけたこの人でも、ラザロを死なせないようには、できなかったのか」。 イエスはまた激しく感動して、墓にはいられた。それは洞穴であって、そこに石がはめてあった。 イエスは言われた、「石を取りのけなさい」。死んだラザロの姉妹マルタが言った、「主よ、もう臭くなっております。四日もたっていますから」。 イエスは彼女に言われた、「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」。 人々は石を取りのけた。すると、イエスは目を天にむけて言われた、「父よ、わたしの願いをお聞き下さったことを感謝します。 あなたがいつでもわたしの願いを聞きいれて下さることを、よく知っています。しかし、こう申しますのは、そばに立っている人々に、あなたがわたしをつかわされたことを、信じさせるためであります」。 こう言いながら、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた。 すると、死人は手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま、出てきた。イエスは人々に言われた、「彼をほどいてやって、帰らせなさい」。 マリヤのところにきて、イエスのなさったことを見た多くのユダヤ人たちは、イエスを信じた。
ヨハネによる福音書 11:1‭, ‬5‭-‬8‭, ‬17‭, ‬23‭-‬27‭, ‬32‭-‬45 JA1955
https://bible.com/bible/81/jhn.11.1-45.JA1955


今の時代を何に比べようか。それは子供たちが広場にすわって、ほかの子供たちに呼びかけ、 『わたしたちが笛を吹いたのに、あなたたちは踊ってくれなかった。弔いの歌を歌ったのに、胸を打ってくれなかった』と言うのに似ている。 なぜなら、ヨハネがきて、食べることも、飲むこともしないと、あれは悪霊につかれているのだ、と言い、 また人の子がきて、食べたり飲んだりしていると、見よ、あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だ、と言う。しかし、知恵の正しいことは、その働きが証明する」。
マタイによる福音書 11:16‭-‬19 JA1955
https://bible.com/bible/81/mat.11.16-19.JA1955

そのときイエスは声をあげて言われた、「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。 父よ、これはまことにみこころにかなった事でした。 すべての事は父からわたしに任せられています。そして、子を知る者は父のほかにはなく、父を知る者は、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほかに、だれもありません。 すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。 わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。
マタイによる福音書 11:25‭-‬30 JA1955
https://bible.com/bible/81/mat.11.25-30.JA1955


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この世の問題はすべて「弱さの裏返し」。人の真実は弱さの中に、神の真実は赦しとあわれみの中に 2016年07月04日





※スマホ画面に表示される誘導広告は、ライブドアとグーグルによるもので、このブログの記事とは一切関係ありません。

口語訳聖書は、 新共同訳、新改訳よりも前に、日本の全てのプロテスタント教会で使われていたものです。





■私たちクリスチャンは二人三人でも集まれば、そこを「キリストのみからだ」とすることができます。
洗礼の意味は「キリストへの信仰を持つ、人生の方向転換(悔い改め・回心)の決意」です。(洗礼は、授けた教会の組織員となる会員制度とは別のものです。)
牧師を上位に戴かずに、水平の交わりを心がけ、共に祈り神様を見つめて御声に聞き従うことを望み進む、この決心を共有する交わり・ネットワークを目標とする「キリストのみからだの教会」のあり方を求めます。
現状では「頼れる人として誰か教師を自分の上に置きたがる人の弱さ」を認め、私たちは日々そこから脱出して神様に祈り、主にある交わりをいただきます。同時に、助けを求める人の祈りに、あらゆる形で呼応するクリスチャンであることを決意し、自立への助けが必ずある「みからだのネットワーク」であることを目指しています。(CFF小倉福音センターの祈り・信仰指標から)

■福音派・聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)・聖書主義の人が内包する「カルト化問題」をこの世代で終息できますように。教会が牧師の誤り・マインドコントロール・権威主義・独裁を指摘できずに多くの人を従わせ、モラルや常識など、どの人にもある心の引っかかりや良心をなおざりにして、聖書信仰やリバイバル信仰に熱くなって人を裁き、自分と家族に負担をかけ、2世や若いクリスチャンの離反を招いていることを克服できますように。
また、脱会後の「脱マインドコントロール」のリハビリ・回復と、その実生活の困難さを理解できますように。
これを信仰的姿勢と現実的姿勢で正面から捉えて祈ります。
時に辛らつに人の内面を見ることが必要かもしれませんが、自分の中にも確かにあるものとして心の整理をすることで、問題の本質が見えるのかもしれません。
試練は、神に真に祈り出会うための神の摂理と言えますが、それを認める強さが欲しいですし、求めていく中で見えるものがあります。

■教会のカルト化や縛りに巻き込まれないための3つの知恵
1.祈りと聖書読み−−日々必要な神様との交わりと悔い改めをする、教えの風に翻弄(ほんろう)されない避け所として、各々個人の祈りと聖書読みのシェルターを確立しましょう。
2.二つ以上の教会に安心できる交わりを確保しましょう。−−今の所属教会に並行して、さらに避け所となる他の教会を必ず把握しておき、日ごろから広く他教会・他教派のクリスチャンと親しくし深い信頼関係を築きましょう。安心し信頼できる他教会や他教派の話題を所属教会で積極的に話しましょう。しかし、拒否や非難を受けはじめたら、他の信頼できる教会の交わりにそのことを伝え教会のカルト化の危険について話し合い、転会の準備を始めましょう。そのためにも、信頼あるクリスチャンの友情を日々拡げて大切にしましょう。
3. 教会以外の関わりを大切にしましょう。−−友人、家族、職場などで、ご自分を理解してくれる方々がいらっしゃると思います。その方の何気ない助言や世間話に、思いやりを感じることは、とても大切です。私たちが、信仰に対する外からの目を持つことにもなります。正しい「証し」は、一方的な押し付けではないことも分かります。

−−−真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために−−−
−− 避難の場(シェルター)としての「個人の祈り」を守るために −−
執筆者 仁保裕介(プロフィール
『すべて失望した人の唇に祈りを。』
祈りは、生活の現場から誰にでも自由にできるものです。
キリストは呼び求めるすべての人と共に居る方です。清い人や会堂や神殿にしか現れない方ではありません。むしろ、自分はふさわしくないと思う人のそばに居るのがキリストです。
受洗して教会員になった教会が、「この教会で信仰生活を続けられなければ、救いや信仰の道から外れる」と言うのは、真実ではありません。
 避難の場(シェルター)としてキリストに求める祈りには、「キリストが共に居る交わり」が必ず与えられています。
このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。テーマは重いですが、皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。キリスト教の視点で、成長、試練、十字架、悔い改め、聖化の記事になっています。
ほんの5才から信仰45年のクリスチャン2世として、キリスト教会内の教派主義・人間関係・権威化・カルト化によって傷を受けた皆さんと共に祈り、脱出と自立と今後の信仰について現実的視点で触れていきます。
元「主の十字架クリスチャンセンター 鎌倉教会、北九州教会」牧師・脱会者

福音派と聖霊派で『信仰』を教えられた私は、伝道のしにくさを30年以上感じていました。

自分の中で、福音、イエス・キリストを喜んで人に伝えたい、と素直に思えるようになるには、と思い、追い求めます。そして、福音、キリスト、神の導きについて、良いと思えるもの、人に伝わり人を救うものが分かってきたのは、教会を離れてからです。

主は生きて、人に伴い、人を生かそうとされています。この神の愛の基本を押さえることは、まず大切です。

そして、福音派では、「聖書の言葉が人を生かす」と言い、すべての人が福音派の解釈を受け入れ従うことを求めます。
聖霊派では、加えて聖霊の臨在や聖霊のバプテスマを条件にします。
しかし、その教えに留まると、人生を先に進められなくなります。

私たちの神様は教会堂にだけ居る神ではありません。

神様は、人生のすべての場面で人に伴い、人を生かすために、助け、導き、教えようとされます。
私たちは、教会にではなく、いつも伴われる神に目を向けるべきです。
それで、学び成長し、人生を進む智があり、現実や自分の実像を知り、行くべき道を見ます。
その学びや道は、教会が教えるような教理ではなく、目の前の現実の中にあり、良いもの、受け入れるべきものを見分けさせ、悟らせます。

しかし、この世の悪い教会では、教会や牧師にとって都合の良い教えで人を従わせようとします。

良いものとは、それぞれの人生に神の導きと学びがあることを受け入れることで、その人を生かすものです。


兄弟たちよ。あなたがたにお勧めする。怠惰な者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。 だれも悪をもって悪に報いないように心がけ、お互に、またみんなに対して、いつも善を追い求めなさい。 いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。 御霊を消してはいけない。 預言を軽んじてはならない。 すべてのものを識別して、良いものを守り、 あらゆる種類の悪から遠ざかりなさい。 どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように。 あなたがたを召されたかたは真実であられるから、このことをして下さるであろう。
テサロニケ人への第一の手紙 5:14‭-‬24 JA1955
https://bible.com/bible/81/1th.5.14-24.JA1955

あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。 あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い。 何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。 そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。 最後に、兄弟たちよ。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい。
ピリピ人への手紙 4:4‭-‬8 JA1955
https://bible.com/bible/81/php.4.4-8.JA1955


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現状では「頼れる人として誰か教師を自分の上に置きたがる人の弱さ」を認め、私たちは日々そこから脱出して神様に祈り、主にある交わりをいただきます。同時に、助けを求める人の祈りに、あらゆる形で呼応するクリスチャンであることを決意し、自立への助けが必ずある「みからだのネットワーク」であることを目指しています。(CFF小倉福音センターの祈り・信仰指標から)

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また、脱会後の「脱マインドコントロール」のリハビリ・回復と、その実生活の困難さを理解できますように。
これを信仰的姿勢と現実的姿勢で正面から捉えて祈ります。
時に辛らつに人の内面を見ることが必要かもしれませんが、自分の中にも確かにあるものとして心の整理をすることで、問題の本質が見えるのかもしれません。
試練は、神に真に祈り出会うための神の摂理と言えますが、それを認める強さが欲しいですし、求めていく中で見えるものがあります。

■教会のカルト化や縛りに巻き込まれないための3つの知恵
1.祈りと聖書読み−−日々必要な神様との交わりと悔い改めをする、教えの風に翻弄(ほんろう)されない避け所として、各々個人の祈りと聖書読みのシェルターを確立しましょう。
2.二つ以上の教会に安心できる交わりを確保しましょう。−−今の所属教会に並行して、さらに避け所となる他の教会を必ず把握しておき、日ごろから広く他教会・他教派のクリスチャンと親しくし深い信頼関係を築きましょう。安心し信頼できる他教会や他教派の話題を所属教会で積極的に話しましょう。しかし、拒否や非難を受けはじめたら、他の信頼できる教会の交わりにそのことを伝え教会のカルト化の危険について話し合い、転会の準備を始めましょう。そのためにも、信頼あるクリスチャンの友情を日々拡げて大切にしましょう。
3. 教会以外の関わりを大切にしましょう。−−友人、家族、職場などで、ご自分を理解してくれる方々がいらっしゃると思います。その方の何気ない助言や世間話に、思いやりを感じることは、とても大切です。私たちが、信仰に対する外からの目を持つことにもなります。正しい「証し」は、一方的な押し付けではないことも分かります。

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執筆者 仁保裕介(プロフィール
『すべて失望した人の唇に祈りを。』
祈りは、生活の現場から誰にでも自由にできるものです。
キリストは呼び求めるすべての人と共に居る方です。清い人や会堂や神殿にしか現れない方ではありません。むしろ、自分はふさわしくないと思う人のそばに居るのがキリストです。
受洗して教会員になった教会が、「この教会で信仰生活を続けられなければ、救いや信仰の道から外れる」と言うのは、真実ではありません。
 避難の場(シェルター)としてキリストに求める祈りには、「キリストが共に居る交わり」が必ず与えられています。
このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。テーマは重いですが、皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。キリスト教の視点で、成長、試練、十字架、悔い改め、聖化の記事になっています。
ほんの5才から信仰45年のクリスチャン2世として、キリスト教会内の教派主義・人間関係・権威化・カルト化によって傷を受けた皆さんと共に祈り、脱出と自立と今後の信仰について現実的視点で触れていきます。
元「主の十字架クリスチャンセンター 鎌倉教会、北九州教会」牧師・脱会者

Nさま

ブログ記事「頼れる『親分肌』や『タレント性』『カリスマ性』『聖書知識』を見分ける」へのコメントをありがとうございます。
(コメントにはプライバシーが含まれますので非公開にしております)
一週間お待たせして申し訳ありません。この記事でお返事をさせていただきたいと思います。


悔い改め、
心の底からの祈り、
イエス様との繋がりの実感、

ということに課題を感じておられるということでよろしいでしょうか。

悔い改め、回心というワードが福音派の教会では強調されますが、
神様は、どの人の心にある願いもご存じと思います。

教会が、個人の祈りの内容に口出しして、感謝・賛美・悔い改め・願いの内容まで決まり文句を教えたり、朝起きてすぐの祈りとか食前の祈りとか、信仰の姿勢を形式的に教えたりしますが、
本来の祈りは、自分の心をそのまま認めて、神に本音から思うことを言い、自分や隣人の命に必要なことを願うことです。

自分が何を願っているのかを、それぞれの人が自覚して神や人の前に出ることで、
ある方は悔い改め、ある方は慰められるのではないかと思います。

悔い改めも、慰めも、癒しも、神様の前ではどれも同じように喜ばれるものです。
悔い改めるべき罪があっても、癒されるべき傷があっても、どちらにも神様はあわれみと慰めを用意されています。私たちのために、代わりに罰と痛みを担ったキリストの十字架の犠牲があるからです。

福音派や聖霊派では、ひどいことに、救いの条件として、悔い改めの文言や内容まで決められていますが、
それよりも大事なことは、人と神に誠実な思いを持って、何でも本音を神に祈り、自分と隣人の心の誠実な思いへの神の答えが必ずあることを期待することだと思います。

どうぞ、教会で要求された祈りの形ではなく、
自由に心の本音を探りながら祈り、日常や長い人生の期間に出会う出来事や人に心を向けて、発見や悔い改めや慰めや前向きな気持ちを分け隔てずに大切にしてください。

私は記事に、
ありのままが許されるのは、罪や弱さを告白する隠れた心の祈りがあればこそです。それがなければ、ただ人に認められたい幼さの発露で、わがままでしかありません。
悔い改めの無いわがままと聖霊の実は共存しません。
と書きましたが、

私自身は、本音として自分が弱く、無自覚に不躾に神と人にいつも罪を犯す者だと自覚しつつ、
嘆かわしいそのままの自分の姿でも、神様はキリストのゆえに、決して捨てずに愛してくださると信じられなければ生きて行けません。

私たちは、自分の力で、自分を変えようと努力しますが、自分のあちらこちらの隙間からわがままな罪が噴出してしまいます。
それをありのまま神に委ね、キリストの犠牲と復活を信じて救いを受け取るのが信仰です。

しかし、教会の細かい条件付けが信仰を阻んだりするのです。

どうか、自由な心で、心の奥底の思いを神の前に差し出してください。形ではなく、神に向かう心の姿勢こそが大事です。


神よ、あなたのいつくしみによって、わたしをあわれみ、あなたの豊かなあわれみによって、わたしのもろもろのとがをぬぐい去ってください。 わたしの不義をことごとく洗い去り、わたしの罪からわたしを清めてください。 わたしは自分のとがを知っています。わたしの罪はいつもわたしの前にあります。

見よ、あなたは真実を心のうちに求められます。それゆえ、わたしの隠れた心に知恵を教えてください。 ヒソプをもって、わたしを清めてください、わたしは清くなるでしょう。わたしを洗ってください、わたしは雪よりも白くなるでしょう。わたしに喜びと楽しみとを満たし、あなたが砕いた骨を喜ばせてください。 み顔をわたしの罪から隠し、わたしの不義をことごとくぬぐい去ってください。 神よ、わたしのために清い心をつくり、わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください。 わたしをみ前から捨てないでください。あなたの聖なる霊をわたしから取らないでください。 あなたの救の喜びをわたしに返し、自由の霊をもって、わたしをささえてください。

神よ、わが救の神よ、血を流した罪からわたしを助け出してください。わたしの舌は声高らかにあなたの義を歌うでしょう。 主よ、わたしのくちびるを開いてください。わたしの口はあなたの誉をあらわすでしょう。 あなたはいけにえを好まれません。たといわたしが燔祭をささげてもあなたは喜ばれないでしょう。 神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。

詩篇 51:1‭-‬3‭, ‬6‭-‬12‭, ‬14‭-‬17 JA1955
https://bible.com/bible/81/psa.51.1-17.JA1955


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自由な祈りのために 2015年4月2日





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洗礼の意味は「キリストへの信仰を持つ、人生の方向転換(悔い改め・回心)の決意」です。(洗礼は、授けた教会の組織員となる会員制度とは別のものです。)
牧師を上位に戴かずに、水平の交わりを心がけ、共に祈り神様を見つめて御声に聞き従うことを望み進む、この決心を共有する交わり・ネットワークを目標とする「キリストのみからだの教会」のあり方を求めます。
現状では「頼れる人として誰か教師を自分の上に置きたがる人の弱さ」を認め、私たちは日々そこから脱出して神様に祈り、主にある交わりをいただきます。同時に、助けを求める人の祈りに、あらゆる形で呼応するクリスチャンであることを決意し、自立への助けが必ずある「みからだのネットワーク」であることを目指しています。(CFF小倉福音センターの祈り・信仰指標から)

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また、脱会後の「脱マインドコントロール」のリハビリ・回復と、その実生活の困難さを理解できますように。
これを信仰的姿勢と現実的姿勢で正面から捉えて祈ります。
時に辛らつに人の内面を見ることが必要かもしれませんが、自分の中にも確かにあるものとして心の整理をすることで、問題の本質が見えるのかもしれません。
試練は、神に真に祈り出会うための神の摂理と言えますが、それを認める強さが欲しいですし、求めていく中で見えるものがあります。

■教会のカルト化や縛りに巻き込まれないための3つの知恵
1.祈りと聖書読み−−日々必要な神様との交わりと悔い改めをする、教えの風に翻弄(ほんろう)されない避け所として、各々個人の祈りと聖書読みのシェルターを確立しましょう。
2.二つ以上の教会に安心できる交わりを確保しましょう。−−今の所属教会に並行して、さらに避け所となる他の教会を必ず把握しておき、日ごろから広く他教会・他教派のクリスチャンと親しくし深い信頼関係を築きましょう。安心し信頼できる他教会や他教派の話題を所属教会で積極的に話しましょう。しかし、拒否や非難を受けはじめたら、他の信頼できる教会の交わりにそのことを伝え教会のカルト化の危険について話し合い、転会の準備を始めましょう。そのためにも、信頼あるクリスチャンの友情を日々拡げて大切にしましょう。
3. 教会以外の関わりを大切にしましょう。−−友人、家族、職場などで、ご自分を理解してくれる方々がいらっしゃると思います。その方の何気ない助言や世間話に、思いやりを感じることは、とても大切です。私たちが、信仰に対する外からの目を持つことにもなります。正しい「証し」は、一方的な押し付けではないことも分かります。

−−−真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために−−−
−− 避難の場(シェルター)としての「個人の祈り」を守るために −−
執筆者 仁保裕介(プロフィール
『すべて失望した人の唇に祈りを。』
祈りは、生活の現場から誰にでも自由にできるものです。
キリストは呼び求めるすべての人と共に居る方です。清い人や会堂や神殿にしか現れない方ではありません。むしろ、自分はふさわしくないと思う人のそばに居るのがキリストです。
受洗して教会員になった教会が、「この教会で信仰生活を続けられなければ、救いや信仰の道から外れる」と言うのは、真実ではありません。
 避難の場(シェルター)としてキリストに求める祈りには、「キリストが共に居る交わり」が必ず与えられています。
このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。テーマは重いですが、皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。キリスト教の視点で、成長、試練、十字架、悔い改め、聖化の記事になっています。
ほんの5才から信仰45年のクリスチャン2世として、キリスト教会内の教派主義・人間関係・権威化・カルト化によって傷を受けた皆さんと共に祈り、脱出と自立と今後の信仰について現実的視点で触れていきます。
元「主の十字架クリスチャンセンター 鎌倉教会、北九州教会」牧師・脱会者

カルト化被害、隣人の痛みを感じない人との出会いに苦しみ、問題や痛みや孤独、脱出の模索を一生の課題だと思っています。

それをブログを書いているわけですが、

去年から、真っ当に懸命に生きる人たちとの出会いに、正直動揺しています。

世の中、自己中心が当たり前で、矛盾だらけなものばかりだと嘆き、
自分に、自己中心や矛盾があることも分かっていたつもりでしたが。

しかし、今の職場で、現実的に自分の足りなさに直面しています。
考える間もなく真っ当な判断を次々していかなければなりません。
これまでは、時間をかけて様々なことを疑い、じっくり考えることをしてきましたが。

今の職場では、経験不足、技術不足、周りへの配慮不足が問われ、あまり居場所が無い中で、真面目さだけで営業として何かを産み出すことを期待されています。

居場所の無い焦りから現場研修で心の安定を無くし、混乱し、ミスをしてまた自己否定の繰り返しです。

問われているのは、
会社員として、会社への責任、顧客への責任、
人として、仲間として、隣人の心や必要を思いやることです。

経験不足や技術不足をカバーするのには、落ち込むよりも高い意識を持って、ビジョンを持って、顧客と会社の利益を守り伸ばすことだと、自分に言い聞かせています。

今の職場は、私がこれまで経験したどの会社、どの教会よりも仕事に厳しく、そして人を思いやる心に篤く、叱責と同時に深い寛容と赦し、生活の養いに思いやりがあり、私は日々心を動かされています。
これは人をコントロールし支配するためではなく、人を立たせるためであると分かってきました。

様々に感情的に動揺して思い巡らし、落ち込むことに時間を費やすよりも、
問題を心に刻みつつ、自分に必要とされていることを現実的に受け取り、立ち上がることに意義があること。

心を定めて、見るべきものを見、
与えられている愛に対して負うべき責任があることを思います。

これまでの経験とつながるのは、現実的な危機意識です。
カルト化被害がある現実を見定め、
目には見えないけれども、教会を正す神の目の厳しさと働きが確かにあることをしっかり意識することで、
仕事にも確かな危機意識を持つことができると思っています。

私たちは問題を外から指摘されると、プライドや自信を否定され、動揺しますが、
それが現実で誰から見ても妥当なら逃げ場もなく、受け入れるべきで、
変化や成長や脱出になります。


わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。 あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである。 だから、なんら欠点のない、完全な、でき上がった人となるように、その忍耐力を十分に働かせるがよい。 あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。 ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。 そういう人は、主から何かをいただけるもののように思うべきではない。 そんな人間は、二心の者であって、そのすべての行動に安定がない。 低い身分の兄弟は、自分が高くされたことを喜びなさい。
ヤコブの手紙 1:2‭-‬9 JA1955
https://bible.com/bible/81/jas.1.2-9.JA1955


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領域を広げることで、人と世の成り立ちや細部を知ること 2018年04月04日





※スマホ画面に表示される誘導広告は、ライブドアとグーグルによるもので、このブログの記事とは一切関係ありません。

口語訳聖書は、 新共同訳、新改訳よりも前に、日本の全てのプロテスタント教会で使われていたものです。





■私たちクリスチャンは二人三人でも集まれば、そこを「キリストのみからだ」とすることができます。
洗礼の意味は「キリストへの信仰を持つ、人生の方向転換(悔い改め・回心)の決意」です。(洗礼は、授けた教会の組織員となる会員制度とは別のものです。)
牧師を上位に戴かずに、水平の交わりを心がけ、共に祈り神様を見つめて御声に聞き従うことを望み進む、この決心を共有する交わり・ネットワークを目標とする「キリストのみからだの教会」のあり方を求めます。
現状では「頼れる人として誰か教師を自分の上に置きたがる人の弱さ」を認め、私たちは日々そこから脱出して神様に祈り、主にある交わりをいただきます。同時に、助けを求める人の祈りに、あらゆる形で呼応するクリスチャンであることを決意し、自立への助けが必ずある「みからだのネットワーク」であることを目指しています。(CFF小倉福音センターの祈り・信仰指標から)

■福音派・聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)・聖書主義の人が内包する「カルト化問題」をこの世代で終息できますように。教会が牧師の誤り・マインドコントロール・権威主義・独裁を指摘できずに多くの人を従わせ、モラルや常識など、どの人にもある心の引っかかりや良心をなおざりにして、聖書信仰やリバイバル信仰に熱くなって人を裁き、自分と家族に負担をかけ、2世や若いクリスチャンの離反を招いていることを克服できますように。
また、脱会後の「脱マインドコントロール」のリハビリ・回復と、その実生活の困難さを理解できますように。
これを信仰的姿勢と現実的姿勢で正面から捉えて祈ります。
時に辛らつに人の内面を見ることが必要かもしれませんが、自分の中にも確かにあるものとして心の整理をすることで、問題の本質が見えるのかもしれません。
試練は、神に真に祈り出会うための神の摂理と言えますが、それを認める強さが欲しいですし、求めていく中で見えるものがあります。

■教会のカルト化や縛りに巻き込まれないための3つの知恵
1.祈りと聖書読み−−日々必要な神様との交わりと悔い改めをする、教えの風に翻弄(ほんろう)されない避け所として、各々個人の祈りと聖書読みのシェルターを確立しましょう。
2.二つ以上の教会に安心できる交わりを確保しましょう。−−今の所属教会に並行して、さらに避け所となる他の教会を必ず把握しておき、日ごろから広く他教会・他教派のクリスチャンと親しくし深い信頼関係を築きましょう。安心し信頼できる他教会や他教派の話題を所属教会で積極的に話しましょう。しかし、拒否や非難を受けはじめたら、他の信頼できる教会の交わりにそのことを伝え教会のカルト化の危険について話し合い、転会の準備を始めましょう。そのためにも、信頼あるクリスチャンの友情を日々拡げて大切にしましょう。
3. 教会以外の関わりを大切にしましょう。−−友人、家族、職場などで、ご自分を理解してくれる方々がいらっしゃると思います。その方の何気ない助言や世間話に、思いやりを感じることは、とても大切です。私たちが、信仰に対する外からの目を持つことにもなります。正しい「証し」は、一方的な押し付けではないことも分かります。

−−−真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために−−−
−− 避難の場(シェルター)としての「個人の祈り」を守るために −−
執筆者 仁保裕介(プロフィール
『すべて失望した人の唇に祈りを。』
祈りは、生活の現場から誰にでも自由にできるものです。
キリストは呼び求めるすべての人と共に居る方です。清い人や会堂や神殿にしか現れない方ではありません。むしろ、自分はふさわしくないと思う人のそばに居るのがキリストです。
受洗して教会員になった教会が、「この教会で信仰生活を続けられなければ、救いや信仰の道から外れる」と言うのは、真実ではありません。
 避難の場(シェルター)としてキリストに求める祈りには、「キリストが共に居る交わり」が必ず与えられています。
このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。テーマは重いですが、皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。キリスト教の視点で、成長、試練、十字架、悔い改め、聖化の記事になっています。
ほんの5才から信仰45年のクリスチャン2世として、キリスト教会内の教派主義・人間関係・権威化・カルト化によって傷を受けた皆さんと共に祈り、脱出と自立と今後の信仰について現実的視点で触れていきます。
元「主の十字架クリスチャンセンター 鎌倉教会、北九州教会」牧師・脱会者


カルトやブラック被害に気づかず依存している時には、組織や人にばかり注目してしまい、様々な矛盾ある事実を意識・無意識に見逃してしまいます。

しかし、ある時、見逃していた問題について見逃せないと感じ、組織や人、自分の矛盾が耐えられなくなったり受け容れられなくなります。

人の救い、命輝く人生、正義のビジョンに共鳴して生きているのに、目の前の結果や事実が違う場合、何が問題なのかまっすぐ見る必要があります。それは、自分と家族、隣人を守るためです。

悪い組織は、人の従順さや弱みにつけこみ、自分の家族隣人の生活や命を持ち出して、組織のための服従や努力を引き出そうとします。
本来良い勧めは、現実の人生や命のために心を強め、自立して道を切り開く方向を教えるのではないでしょうか。
生活や家族を人質に取って、服従させ、コントロールしようとするなら、カルトでブラックな組織です。

人や組織に励まされ強さを得たいのは、過去の心の傷の癒しが欲しかったり、失ったものの回復のためであったりします。
私たちの心が痛み、自分を失うような経験から復活するために、自分で道を切り開く心のパワーが残っていれば良いのですが、どうしても立ち上がれない時には頼れる何かを探します。

私を含めて、子ども時代、若年時代に心折れてしまう経験をした方は多く、心弱くして教会や組織に期待し頼りたい強い願いを持つことは、当然あることです。それを甘えとか短慮とか呼ばれても、その時には他に選択肢が見えなかったのです。

大切なのは、脱出・脱会や出会いによって少しでも心が回復したら、事実を見ること、気づくことを恐れないことです。

心が、自分と隣人の真実な願いや命を守ろうとする愛に気づくなら、
そこに立たされた自分が切り開く何か、造り出す何かがあるのかもしれません。
その時に、弱さを自覚していても、私たちには切り開き、造り出し、生み出す力が気づかない内に備わっていることがあるのです。
心が「もう限界だ」と叫んでいる時に、事実はどこにあり、何が求められているのかを、倒れながらでも見ることで、確実に次のステップが見えるようになります。


力の限り、 見張って、 あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。
箴言4章23節 新改訳


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「信仰という名の虐待」によって植えつけられた信仰の子の「三つ子の魂」の執着に、誰が責任を取るのか 2014/02/19



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■私たちクリスチャンは二人三人でも集まれば、そこを「キリストのみからだ」とすることができます。
洗礼の意味は「キリストへの信仰を持つ、人生の方向転換(悔い改め・回心)の決意」です。(洗礼は、授けた教会の組織員となる会員制度とは別のものです。)
牧師を上位に戴かずに、水平の交わりを心がけ、共に祈り神様を見つめて御声に聞き従うことを望み進む、この決心を共有する交わり・ネットワークを目標とする「キリストのみからだの教会」のあり方を求めます。
現状では「頼れる人として誰か教師を自分の上に置きたがる人の弱さ」を認め、私たちは日々そこから脱出して神様に祈り、主にある交わりをいただきます。同時に、助けを求める人の祈りに、あらゆる形で呼応するクリスチャンであることを決意し、自立への助けが必ずある「みからだのネットワーク」であることを目指しています。(CFF小倉福音センターの祈り・信仰指標から)

■福音派・聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)・聖書主義の人が内包する「カルト化問題」をこの世代で終息できますように。教会が牧師の誤り・マインドコントロール・権威主義・独裁を指摘できずに多くの人を従わせ、モラルや常識など、どの人にもある心の引っかかりや良心をなおざりにして、聖書信仰やリバイバル信仰に熱くなって人を裁き、自分と家族に負担をかけ、2世や若いクリスチャンの離反を招いていることを克服できますように。
また、脱会後の「脱マインドコントロール」のリハビリ・回復と、その実生活の困難さを理解できますように。
これを信仰的姿勢と現実的姿勢で正面から捉えて祈ります。
時に辛らつに人の内面を見ることが必要かもしれませんが、自分の中にも確かにあるものとして心の整理をすることで、問題の本質が見えるのかもしれません。
試練は、神に真に祈り出会うための神の摂理と言えますが、それを認める強さが欲しいですし、求めていく中で見えるものがあります。

■教会のカルト化や縛りに巻き込まれないための3つの知恵
1.祈りと聖書読み−−日々必要な神様との交わりと悔い改めをする、教えの風に翻弄(ほんろう)されない避け所として、各々個人の祈りと聖書読みのシェルターを確立しましょう。
2.二つ以上の教会に安心できる交わりを確保しましょう。−−今の所属教会に並行して、さらに避け所となる他の教会を必ず把握しておき、日ごろから広く他教会・他教派のクリスチャンと親しくし深い信頼関係を築きましょう。安心し信頼できる他教会や他教派の話題を所属教会で積極的に話しましょう。しかし、拒否や非難を受けはじめたら、他の信頼できる教会の交わりにそのことを伝え教会のカルト化の危険について話し合い、転会の準備を始めましょう。そのためにも、信頼あるクリスチャンの友情を日々拡げて大切にしましょう。
3. 教会以外の関わりを大切にしましょう。−−友人、家族、職場などで、ご自分を理解してくれる方々がいらっしゃると思います。その方の何気ない助言や世間話に、思いやりを感じることは、とても大切です。私たちが、信仰に対する外からの目を持つことにもなります。正しい「証し」は、一方的な押し付けではないことも分かります。

−−−真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために−−−
−− 避難の場(シェルター)としての「個人の祈り」を守るために −−
執筆者 仁保裕介(プロフィール
『すべて失望した人の唇に祈りを。』
祈りは、生活の現場から誰にでも自由にできるものです。
キリストは呼び求めるすべての人と共に居る方です。清い人や会堂や神殿にしか現れない方ではありません。むしろ、自分はふさわしくないと思う人のそばに居るのがキリストです。
受洗して教会員になった教会が、「この教会で信仰生活を続けられなければ、救いや信仰の道から外れる」と言うのは、真実ではありません。
 避難の場(シェルター)としてキリストに求める祈りには、「キリストが共に居る交わり」が必ず与えられています。
このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。テーマは重いですが、皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。キリスト教の視点で、成長、試練、十字架、悔い改め、聖化の記事になっています。
ほんの5才から信仰45年のクリスチャン2世として、キリスト教会内の教派主義・人間関係・権威化・カルト化によって傷を受けた皆さんと共に祈り、脱出と自立と今後の信仰について現実的視点で触れていきます。
元「主の十字架クリスチャンセンター 鎌倉教会、北九州教会」牧師・脱会者

福音派聖霊派が強調する「人には罪があるので神から離れている」という『原罪』の教えは、
その教派に集う人に、教会と世を分断する意識を与えています。
『教会に来ない人は神を知らず、救われず、滅びの道にいる』と。

私は子どもの時から教会学校に毎週日曜欠かさず通い、それを信じていました。
『教会に人を連れて行かないと、人は救われない』この世界観が正しいと思っていました。『聖書と教会の教えこそ唯一の真理』として、私は教会の外の常識や価値観を一歩引いて見てしまい、他人事のように感じるのが普通でした。それどころか、隣人の長年の経験や実績を「『原罪』がある人のもの」だと切り捨て、人の努力の細部、積み重ねにあまり目を向けない心を持って来たのです。社会人としてプロの職業人として探究心が薄く、様々な出会いや気付きを軽んじて来たと思います。

世の罪の影響を受けたくないからと、重要な出会いや発見を教会だけに限定すると、視野を広げられず、成長もありません。

人生はそれぞれに違う道を通り、また、仕事もそれぞれに苦労し工夫し努力して自分のものにします。社会生活での出会い交流では、特にそれを見させられ、気づかされ続けます。

しかし、私たちには今も信仰の独善やカルト化の恐怖があるので、脱出を目指し、リハビリを続ける毎日と言えます。

信仰や自分の心にだけ注目すると、どうしても視野が狭くなりがちですから、少し怖くても外に目を向ける努力は必要です。

本来様々な出会いや発見は実際はワクワクするものです。

だから、誰かを信用して騙され取り込まれた経験は忘れず、悪いもの良いものを見分けながら、祈りのうちに進むのです。

神様は私たちの声をひとつも聞き漏らさず、いつも道を用意されます。
私たちが孤独を感じたとしても、決して孤独ではありません。
目の前の現実でも祈りの中でも、必ず支えや助けが用意されています。


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牧師を上位に戴かずに、水平の交わりを心がけ、共に祈り神様を見つめて御声に聞き従うことを望み進む、この決心を共有する交わり・ネットワークを目標とする「キリストのみからだの教会」のあり方を求めます。
現状では「頼れる人として誰か教師を自分の上に置きたがる人の弱さ」を認め、私たちは日々そこから脱出して神様に祈り、主にある交わりをいただきます。同時に、助けを求める人の祈りに、あらゆる形で呼応するクリスチャンであることを決意し、自立への助けが必ずある「みからだのネットワーク」であることを目指しています。(CFF小倉福音センターの祈り・信仰指標から)

■福音派・聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)・聖書主義の人が内包する「カルト化問題」をこの世代で終息できますように。教会が牧師の誤り・マインドコントロール・権威主義・独裁を指摘できずに多くの人を従わせ、モラルや常識など、どの人にもある心の引っかかりや良心をなおざりにして、聖書信仰やリバイバル信仰に熱くなって人を裁き、自分と家族に負担をかけ、2世や若いクリスチャンの離反を招いていることを克服できますように。
また、脱会後の「脱マインドコントロール」のリハビリ・回復と、その実生活の困難さを理解できますように。
これを信仰的姿勢と現実的姿勢で正面から捉えて祈ります。
時に辛らつに人の内面を見ることが必要かもしれませんが、自分の中にも確かにあるものとして心の整理をすることで、問題の本質が見えるのかもしれません。
試練は、神に真に祈り出会うための神の摂理と言えますが、それを認める強さが欲しいですし、求めていく中で見えるものがあります。

■教会のカルト化や縛りに巻き込まれないための3つの知恵
1.祈りと聖書読み−−日々必要な神様との交わりと悔い改めをする、教えの風に翻弄(ほんろう)されない避け所として、各々個人の祈りと聖書読みのシェルターを確立しましょう。
2.二つ以上の教会に安心できる交わりを確保しましょう。−−今の所属教会に並行して、さらに避け所となる他の教会を必ず把握しておき、日ごろから広く他教会・他教派のクリスチャンと親しくし深い信頼関係を築きましょう。安心し信頼できる他教会や他教派の話題を所属教会で積極的に話しましょう。しかし、拒否や非難を受けはじめたら、他の信頼できる教会の交わりにそのことを伝え教会のカルト化の危険について話し合い、転会の準備を始めましょう。そのためにも、信頼あるクリスチャンの友情を日々拡げて大切にしましょう。
3. 教会以外の関わりを大切にしましょう。−−友人、家族、職場などで、ご自分を理解してくれる方々がいらっしゃると思います。その方の何気ない助言や世間話に、思いやりを感じることは、とても大切です。私たちが、信仰に対する外からの目を持つことにもなります。正しい「証し」は、一方的な押し付けではないことも分かります。

−−−真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために−−−
−− 避難の場(シェルター)としての「個人の祈り」を守るために −−
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『すべて失望した人の唇に祈りを。』
祈りは、生活の現場から誰にでも自由にできるものです。
キリストは呼び求めるすべての人と共に居る方です。清い人や会堂や神殿にしか現れない方ではありません。むしろ、自分はふさわしくないと思う人のそばに居るのがキリストです。
受洗して教会員になった教会が、「この教会で信仰生活を続けられなければ、救いや信仰の道から外れる」と言うのは、真実ではありません。
 避難の場(シェルター)としてキリストに求める祈りには、「キリストが共に居る交わり」が必ず与えられています。
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元「主の十字架クリスチャンセンター 鎌倉教会、北九州教会」牧師・脱会者

キリストに出会っていれば、導きを期待できます。
キリストに出会っている人は、委ね、あわてずに待ち、焦りからではない行き方や出会いを落ち着いて待ちます。

キリストを自分の中に本当に欲しい、一生伴い内に共に住んで欲しいと心から願う人には、必ず与えられます。


主なる神は日です、盾です。主は恵みと誉とを与え、直く歩む者に良い物を拒まれることはありません。 万軍の主よ、あなたに信頼する人はさいわいです。
詩篇 84:11‭-‬12 JA1955
http://bible.com/81/psa.84.11-12.JA1955


ふさわしいからではなく、義人で力があるからでもなく、ただ主に信頼するだけです。
そして、ただそれだけを知るための人生なのかもしれません。

共に行き進むというのは、現実を共に生きることということです。
世に居ながら天の御国の心地して、という讃美歌がありますが、それは世の現実が厳しいことを認めた上の告白でしょう。

目の前の現実をありのまま受け容れて、共に考え、学びや選択や変化を受け入れること。
ここで、現実から逃げて他人事のようにものを言ったり、ありもしない空想や言い訳をする人は、自分が前に進んでいるように思えても、前に進めてはいません。しかし人にはそんな時もよくあるものです。

クリスチャンとして、というよりも、人として、私たちは現実の世や人と共に行けるか。
キリストは、どうだったでしょうか。

私たちは生きづらく、人として行き詰まってキリストを求めましたが、
キリストに伴われ、立ち上がれるようになったら、世と社会で優れた愛のある人として期待される立場に置かれることがあります。

救い主キリストと私たちでは立場が違いますが、私たちが行く道は、キリストのように世にあっては意外な道かもしれません。

キリストは十字架につく杯に苦しみ葛藤し懸命に祈りましたが、
私たちも、自分をそんな器があるとは思っていなかったようなことが時に求められ、
祈りドギマギしつつ嫌々でもやってみると、実は居場所として、はまっていたりします。


あなたがた自身が知っているとおり、わたしのこの両手は、自分の生活のためにも、また一緒にいた人たちのためにも、働いてきたのだ。 わたしは、あなたがたもこのように働いて、弱い者を助けなければならないこと、また『受けるよりは与える方が、さいわいである』と言われた主イエスの言葉を記憶しているべきことを、万事について教え示したのである」。
使徒行伝 20:34‭-‬35 JA1955
http://bible.com/81/act.20.34-35.JA1955


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キリスト教 その責任の所在とは 2014/06/25





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現状では「頼れる人として誰か教師を自分の上に置きたがる人の弱さ」を認め、私たちは日々そこから脱出して神様に祈り、主にある交わりをいただきます。同時に、助けを求める人の祈りに、あらゆる形で呼応するクリスチャンであることを決意し、自立への助けが必ずある「みからだのネットワーク」であることを目指しています。(CFF小倉福音センターの祈り・信仰指標から)

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また、脱会後の「脱マインドコントロール」のリハビリ・回復と、その実生活の困難さを理解できますように。
これを信仰的姿勢と現実的姿勢で正面から捉えて祈ります。
時に辛らつに人の内面を見ることが必要かもしれませんが、自分の中にも確かにあるものとして心の整理をすることで、問題の本質が見えるのかもしれません。
試練は、神に真に祈り出会うための神の摂理と言えますが、それを認める強さが欲しいですし、求めていく中で見えるものがあります。

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2.二つ以上の教会に安心できる交わりを確保しましょう。−−今の所属教会に並行して、さらに避け所となる他の教会を必ず把握しておき、日ごろから広く他教会・他教派のクリスチャンと親しくし深い信頼関係を築きましょう。安心し信頼できる他教会や他教派の話題を所属教会で積極的に話しましょう。しかし、拒否や非難を受けはじめたら、他の信頼できる教会の交わりにそのことを伝え教会のカルト化の危険について話し合い、転会の準備を始めましょう。そのためにも、信頼あるクリスチャンの友情を日々拡げて大切にしましょう。
3. 教会以外の関わりを大切にしましょう。−−友人、家族、職場などで、ご自分を理解してくれる方々がいらっしゃると思います。その方の何気ない助言や世間話に、思いやりを感じることは、とても大切です。私たちが、信仰に対する外からの目を持つことにもなります。正しい「証し」は、一方的な押し付けではないことも分かります。

−−−真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために−−−
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キリストは呼び求めるすべての人と共に居る方です。清い人や会堂や神殿にしか現れない方ではありません。むしろ、自分はふさわしくないと思う人のそばに居るのがキリストです。
受洗して教会員になった教会が、「この教会で信仰生活を続けられなければ、救いや信仰の道から外れる」と言うのは、真実ではありません。
 避難の場(シェルター)としてキリストに求める祈りには、「キリストが共に居る交わり」が必ず与えられています。
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ほんの5才から信仰45年のクリスチャン2世として、キリスト教会内の教派主義・人間関係・権威化・カルト化によって傷を受けた皆さんと共に祈り、脱出と自立と今後の信仰について現実的視点で触れていきます。
元「主の十字架クリスチャンセンター 鎌倉教会、北九州教会」牧師・脱会者

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