真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために

避難の場(シェルター)としての「個人の祈り」を守るために

執筆者 仁保裕介(プロフィール)『すべて失望した人の唇に祈りを。』祈りは、生活の現場から誰にでも自由にできるものです。キリストは呼び求めるすべての人と共に居る方です。清い人や会堂や神殿にしか現れない方ではありません。むしろ、自分はふさわしくないと思う人のそばに居るのがキリストです。
  受洗して教会員になった教会が、「この教会で信仰生活を続けられなければ、救いや信仰の道から外れる」と言うのは、真実ではありません。避難の場(シェルター)としてキリストに求める祈りには、「キリストが共に居る交わり」が必ず与えられています。
  このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。テーマは重いですが、皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。キリスト教の視点で、成長、試練、十字架、悔い改め、聖化の記事になっています。
  ほんの5才から信仰45年のクリスチャン2世として、キリスト教会内の教派主義・人間関係・権威化・カルト化によって傷を受けた皆さんと共に祈り、脱出と自立と今後の信仰について現実的視点で触れていきます。
  元「主の十字架クリスチャンセンター 北九州教会」牧師。

人として自然な生活の流れと心の思いになる、

ここにまで回復することが、まずは目標になります。

カルト化した教会では、時間的金銭的精神的浪費、支配、奉仕の現場で、『福音』『伝道・宣教』『信仰』の名の下に様々な常識を捨てて捧げています。

人間味や、愛や、憩いや、趣味、友情、つながり、仕事、などを犠牲にして、教会・牧師・リーダーのビジョンが成るように、誠心誠意努力し献身したのです。
普通の生活を送ることに罪悪感を持ってしまうほどにです。

普通の境遇と、人間らしい感情に慣れ、
赦し、普通さを受け入れるところから、
本来のキリストとの出会い交わりが始まります。

もちろん、「普通」にも困難はつきものですが、
ここで言う「普通」は、「個人の常識的自由意思を尊重される」という意味です。

カルト化ブラック化は、情熱的な使命感と目標達成だけを要求されて、常識を捨てさせられ暴走するもので、人を生かすのではなく、燃え尽きるまで犠牲を引き出そうとします。
リーダーは、燃える理想や使命感をあつく語りますが、
共感を利用してメンバーを走らせ、自分たちに都合よく従うように焚き付けるだけです。
使命・目標のビジョンを描かせますが、 自立した心の豊かさを与えずに、 異口同音に身内で同じことを発表させられます。
休息を与えられず、人生の豊かさを養えず、疲弊するだけになります。

人を生かし成長させるのは、それぞれの人の中から湧き出すものが洗練されることです。
私たちの中から出てくるものは、すべてが良いものではありませんが、生かすべきものがあり、成長とともに自ら捨てるものがあります。
良いものを自分でも周りからも見つけられて認め生かし、その点で愛される存在になることが「幸せ」と言えるでしょう。

カルトやブラックな集団は、都合のよい部分だけを利用します。
個人の幸せを犠牲にして、人間的に目先の目標達成に向かわせ、将来ビジョンはほぼ現実味が無く夢物語で具体的ではありません。
これは、教会の中でも起こっており、世間と全く変わりありません。

本来、人を豊かにするために、国や集団をつくり、協力して共存共栄を目指すはずでしたが、儲かるため勝つための論理で価値が決まり、法をかいくぐり征服や搾取が横行するのが、人の世です。今の幸せの多くは、仕方なくその上に成り立ってしまっています。どうあがいても、抜け出せません。 ある程度のルールはありますが、成功に見える儲けと勝敗に個人も国もこだわっています。

教会は、「儲け」などは目標になり得ませんが、伝道人数や会堂建設、教勢発展拡大は、『信仰の目標』になります。福音派聖霊派では、そのための個人の犠牲を『信仰の証し』として求められ、家庭や人生を犠牲にすることがあります。

キリストと共に居て、生かすべきものを見極めるためには、確かに自分の肉の欲求を他人に認めさせたい自我を削いでいく必要があります。
カルト化やブラック化は、そこを利用して言い成りにしようとするところがあります。

自立と回復は、集団的な要求を注意して見分け、不当に犠牲的な縛りや献身を避け、本来の自分、普通の人間味を取り戻すためです。

キリストの救いと福音伝道宣教は、目に見える集団的組織的なものが上位ではなく、個々人の心の内に来る聖霊の働きから拡がるものです。
人間的な力によらず、神に向かう人に、ただ与えられるものです。
それは、成長拡大の目的ありきではなく、真の幸せを望むどの人にも共感される、自然に湧き出す泉のようなものです。

福音宣教の戦いとは、それを各々個人が発見し、共に守る戦いだと思います。

個人へ尊重なくコントロールしようとする者への戦いは、世界でも人生の中でも多く、普通に存在しています。
そのための戦いが実は最も大切かもしれませんし、多くの人が気づかずに戦っているのだと思います。

そして、自分の身勝手な欲ある自我にも直面して、気づかなかった罪の加害性にも気づき、悔い改め祈るのです。
これは、決して組織や集団のためではなく、自分と家族、隣人への愛のためです。

このブログの関連記事:
『教会批判、牧師批判は罪』と長い間封じられてきた石ころの叫び~神学よりやはり愛が大事 (2017年02月23日)

「この世にあって艱難のときに勇敢な信仰者であれ」その教会の誤解 (2014/06/07)
 ()



ブログランキング・にほんブログ村へ  
※このブログはにほんブログ村に参加しています。
よろしければ一日一回のクリックで上位表示にご協力ください。


※スマホ画面に表示される誘導広告は、ライブドアとグーグルによるもので、このブログの記事とは一切関係ありません。

口語訳聖書は、 新共同訳、新改訳よりも前に、日本の全てのプロテスタント教会で使われていたものです。





■私たちクリスチャンは二人三人でも集まれば、そこを「キリストのみからだ」とすることができます。
洗礼の意味は「キリストへの信仰を持つ、人生の方向転換(悔い改め・回心)の決意」です。(洗礼は、授けた教会の組織員となる会員制度とは別のものです。)
牧師を上位に戴かずに、水平の交わりを心がけ、共に祈り神様を見つめて御声に聞き従うことを望み進む、この決心を共有する交わり・ネットワークを目標とする「キリストのみからだの教会」のあり方を求めます。
現状では「頼れる人として誰か教師を自分の上に置きたがる人の弱さ」を認め、私たちは日々そこから脱出して神様に祈り、主にある交わりをいただきます。同時に、助けを求める人の祈りに、あらゆる形で呼応するクリスチャンであることを決意し、自立への助けが必ずある「みからだのネットワーク」であることを目指しています。(CFF小倉福音センターの祈り・信仰指標から)

■福音派・聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)・聖書主義の人が内包する「カルト化問題」をこの世代で終息できますように。教会が牧師の誤り・マインドコントロール・権威主義・独裁を指摘できずに多くの人を従わせ、モラルや常識など、どの人にもある心の引っかかりや良心をなおざりにして、聖書信仰やリバイバル信仰に熱くなって人を裁き、自分と家族に負担をかけ、2世や若いクリスチャンの離反を招いていることを克服できますように。
また、脱会後の「脱マインドコントロール」のリハビリ・回復と、その実生活の困難さを理解できますように。
これを信仰的姿勢と現実的姿勢で正面から捉えて祈ります。
時に辛らつに人の内面を見ることが必要かもしれませんが、自分の中にも確かにあるものとして心の整理をすることで、問題の本質が見えるのかもしれません。
試練は、神に真に祈り出会うための神の摂理と言えますが、それを認める強さが欲しいですし、求めていく中で見えるものがあります。

■教会のカルト化や縛りに巻き込まれないための3つの知恵
1.祈りと聖書読み−−日々必要な神様との交わりと悔い改めをする、教えの風に翻弄(ほんろう)されない避け所として、各々個人の祈りと聖書読みのシェルターを確立しましょう。
2.二つ以上の教会に安心できる交わりを確保しましょう。−−今の所属教会に並行して、さらに避け所となる他の教会を必ず把握しておき、日ごろから広く他教会・他教派のクリスチャンと親しくし深い信頼関係を築きましょう。安心し信頼できる他教会や他教派の話題を所属教会で積極的に話しましょう。しかし、拒否や非難を受けはじめたら、他の信頼できる教会の交わりにそのことを伝え教会のカルト化の危険について話し合い、転会の準備を始めましょう。そのためにも、信頼あるクリスチャンの友情を日々拡げて大切にしましょう。
3. 教会以外の関わりを大切にしましょう。−−友人、家族、職場などで、ご自分を理解してくれる方々がいらっしゃると思います。その方の何気ない助言や世間話に、思いやりを感じることは、とても大切です。私たちが、信仰に対する外からの目を持つことにもなります。正しい「証し」は、一方的な押し付けではないことも分かります。

−−−真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために−−−
−− 避難の場(シェルター)としての「個人の祈り」を守るために −−
執筆者 仁保裕介(プロフィール
『すべて失望した人の唇に祈りを。』
祈りは、生活の現場から誰にでも自由にできるものです。
キリストは呼び求めるすべての人と共に居る方です。清い人や会堂や神殿にしか現れない方ではありません。むしろ、自分はふさわしくないと思う人のそばに居るのがキリストです。
受洗して教会員になった教会が、「この教会で信仰生活を続けられなければ、救いや信仰の道から外れる」と言うのは、真実ではありません。
 避難の場(シェルター)としてキリストに求める祈りには、「キリストが共に居る交わり」が必ず与えられています。
このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。テーマは重いですが、皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。キリスト教の視点で、成長、試練、十字架、悔い改め、聖化の記事になっています。
ほんの5才から信仰45年のクリスチャン2世として、キリスト教会内の教派主義・人間関係・権威化・カルト化によって傷を受けた皆さんと共に祈り、脱出と自立と今後の信仰について現実的視点で触れていきます。
元「主の十字架クリスチャンセンター 鎌倉教会、北九州教会」牧師・脱会者

このブログは、信仰に名を借りた支配や欲や願望の応酬を取り上げ、
そんなことがまかり通っている世界や、教会の人間関係からの自立をお勧めしています。

どちらかといえば、組織の正常化よりも、
個人について、
人生、自立、主が召しているその人らしさ、祈り、心の願い、本音の発見、キリストの個人的伴い交わりの発見による回復を願うものになっています。

ご自分の真の姿の発見と、キリストとの出会い発見はセットであり、
キリストに日々、本音や奥底の問題に伴われ触れられ、十字架、罪の赦しの実際を知り、
それが源になって、人生となり、証しとなり、
それを通して主が隣人に、隣人が主に触れる機会にもなります。
ご自分の真の回復は、隣人の回復にもつながるはずのものです。

組織の問題、隣人との関係性は、トラブル、傷、痛みも含めて 益と変えられるよう、
個人の日々の発見や回復、成長、証しの基になるキリストを求めること、
その祈りのあるところには、キリストが必ず居られ共に担われていることを記しております。

これが、このブログの使命であり、私仁保の重荷です。

そして、その実際の道は、それぞれ読者の皆さま自身とキリストだけのもので、
経験と発見は証しとなり、
それぞれの方の隣人の方々が触れられるようになると思います。

私がそれぞれのご事情についてお助けできるのは、
一方的徹底的な価値観の支配や強制のある教会の問題の共感であり、
脱出や心の転換の実際は、それぞれの方の求め方行き方の道筋や出会いがあると思っています。
聖書や祈りによらずに、誰かに言われた道筋をずっと守っているだけでは、キリストとの霊的出会いや発見にならないことがほとんどです。

支配からの脱出、キリストとの出会い伴い、人生の痛みの意味など、そこから湧き出す福音の命の泉の証しがそれぞれの方の現場にあることに、キリストのみからだと神の国を見ます。
ただ、あかりを 暗い心の部屋で 隠さず、燭台に灯せば、必然として自分自身も見えるようになり、そこを照らすキリストの光は証しとなって人の目にとまるようになります。

しかし、これは誰か他人が先導できることではなく、マニュアルは無く、キリストが 人生のその場その場で、その方ごとに注がれている御手のわざによる導きです。
これを人間的に実現しようとする具体的な施策ための制度化組織化はできないし、すべきでないと強く感じます。
神の宮は、祈られるお一人お一人であり、それぞれのご事情に伴う課題に神の摂理や導きが隠されていると思うからです。
もし個人の内面を扱おうとするマニュアル・制度・組織の絶対化があるなら、それはカルトに向かう道です。

教会のカルト化問題から、人の知恵で世や人生の問題を把握してコントロールすることはできないことを学ばされています。
聖書のことばをいくら持ち出しても、キリストにある聖霊による解き明かしには、それぞれの心に求めがなければなりません。その求めは、他人の指示ではなく、それぞれの心からのものでなければなりません。そこを、他人がコントロールすべきではなく、それぞれ置かれた道で祈りの課題を見つける視点を持ち、求め発見すべきものです。

教会の交わりは、互いに証しし、吟味し、教え戒め祈り愛し合いますが、
それぞれに自立した心からの渇きキリストへの探求、祈りがあってのものと考えます。

問題の多くは、
自立せずに、世や人生や存在の痛みのある実相に直面しておらず、
依存的で認められたいとの思いがありながらプライドを守りたいという、子どものような願望の応酬から生まれており、
そこに聖書解釈や『正義の主導権争い』をからませていると言えるのではないでしょうか。

教会の回復は、
私たち一人一人のキリストとの出会い、求め、
世や自分への直面、
キリストが願う一匹の羊の発見と救いを知り、キリストと共にいてそれを願うか、
にかかっていると思います。

実を結ぶ良い地とは、耕された私たちの心です。


良い地に落ちたのは、御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである。 だれもあかりをともして、それを何かの器でおおいかぶせたり、寝台の下に置いたりはしない。燭台の上に置いて、はいって来る人たちに光が見えるようにするのである。 隠されているもので、あらわにならないものはなく、秘密にされているもので、ついには知られ、明るみに出されないものはない。 だから、どう聞くかに注意するがよい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は、持っていると思っているものまでも、取り上げられるであろう」。
ルカによる福音書 8:15‭-‬18 JA1955

http://bible.com/81/luk.8.15-18.JA1955

しかし、一タラントを渡された者は、行って地を掘り、主人の金を隠しておいた。
マタイによる福音書 25:18 JA1955

http://bible.com/81/mat.25.18.JA1955


このブログの関連記事:
脱出はキリストにある自立のため−目を覚まして(9) (2016/11/29)

信仰の意味、聖書の意味を悟る。そのためにこその「自我の死」 (2015年03月03日)

語られ方、示され方、受け取り方の理想や型を捨てる (2017年06月13日)
 ()



ブログランキング・にほんブログ村へ  
※このブログはにほんブログ村に参加しています。
よろしければ一日一回のクリックで上位表示にご協力ください。


※スマホ画面に表示される誘導広告は、ライブドアとグーグルによるもので、このブログの記事とは一切関係ありません。

口語訳聖書は、 新共同訳、新改訳よりも前に、日本の全てのプロテスタント教会で使われていたものです。





■私たちクリスチャンは二人三人でも集まれば、そこを「キリストのみからだ」とすることができます。
洗礼の意味は「キリストへの信仰を持つ、人生の方向転換(悔い改め・回心)の決意」です。(洗礼は、授けた教会の組織員となる会員制度とは別のものです。)
牧師を上位に戴かずに、水平の交わりを心がけ、共に祈り神様を見つめて御声に聞き従うことを望み進む、この決心を共有する交わり・ネットワークを目標とする「キリストのみからだの教会」を求めます。
現状では「頼れる人として誰か教師を自分の上に置きたがる人の弱さ」を認め、私たちは日々そこから脱出して神様に祈り、主にある交わりをいただきます。同時に、助けを求める人の祈りに、あらゆる形で呼応するクリスチャンであることを決意し、自立への助けが必ずある「みからだのネットワーク」であることを目指しています。(CFF小倉福音センターの祈り・信仰指標から)

■福音派・聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)・聖書主義の人が内包する「カルト化問題」をこの世代で終息できますように。どの人にもある心の引っかかりや良心をなおざりにして、聖書信仰やリバイバル信仰に熱くなって人を裁き、自分と家族に負担をかけ、2世や若いクリスチャンの離反を招いていることを克服できますように。
これを信仰的姿勢と現実的姿勢で正面から捉えて祈ります。
時に辛らつに人の内面を見ることが必要かもしれませんが、自分の中にも確かにあるものとして心の整理をすることで、問題の本質が見えるのかもしれません。
試練は、神に真に祈り出会うための神の摂理と言えますが、それを認める強さが欲しいですし、求めていく中で見えるものがあります。

■教会のカルト化や縛りに巻き込まれないための3つの知恵
1.祈りと聖書読み−−日々必要な神様との交わりと悔い改めをする、教えの風に翻弄(ほんろう)されない避け所として、各々個人の祈りと聖書読みのシェルターを確立しましょう。
2.二つ以上の教会に安心できる交わりを確保しましょう。−−今の所属教会に並行して、さらに避け所となる他の教会を必ず把握しておき、日ごろから広く他教会・他教派のクリスチャンと親しくし深い信頼関係を築きましょう。安心し信頼できる他教会や他教派の話題を所属教会で積極的に話しましょう。しかし、拒否や非難を受けはじめたら、他の信頼できる教会の交わりにそのことを伝え教会のカルト化の危険について話し合い、転会の準備を始めましょう。そのためにも、信頼あるクリスチャンの友情を日々拡げて大切にしましょう。
3. 教会以外の関わりを大切にしましょう。−−友人、家族、職場などで、ご自分を理解してくれる方々がいらっしゃると思います。その方の何気ない助言や世間話に、思いやりを感じることは、とても大切です。私たちが、信仰に対する外からの目を持つことにもなります。正しい「証し」は、一方的な押し付けではないことも分かります。

−−−真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために−−−
−− 避難の場(シェルター)としての「個人の祈り」を守るために −−
執筆者 仁保裕介(プロフィール
『すべて失望した人の唇に祈りを。』
祈りは、生活の現場から誰にでも自由にできるものです。
キリストは呼び求めるすべての人と共に居る方です。清い人や会堂や神殿にしか現れない方ではありません。むしろ、自分はふさわしくないと思う人のそばに居るのがキリストです。
受洗して教会員になった教会が、「この教会で信仰生活を続けられなければ、救いや信仰の道から外れる」と言うのは、真実ではありません。
 避難の場(シェルター)としてキリストに求める祈りには、「キリストが共に居る交わり」が必ず与えられています。
このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。テーマは重いですが、皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。キリスト教の視点で、成長、試練、十字架、悔い改め、聖化の記事になっています。
ほんの5才から信仰45年のクリスチャン2世として、キリスト教会内の教派主義・人間関係・権威化・カルト化によって傷を受けた皆さんと共に祈り、脱出と自立と今後の信仰について現実的視点で触れていきます。
元「主の十字架クリスチャンセンター 鎌倉教会、北九州教会」牧師・脱会者


そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。
それだから、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。
しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。 すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。
神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。
そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい。 神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。

コリント人への第二の手紙 5:15‭-‬21 JA1955

http://bible.com/81/2co.5.15-21.JA1955


迫害者だったパウロはキリストの御手に捉えられ、
その一方的な救いの恵みに預かり、
同時に地上で福音の和解の務めを委ねられている、
という意識があります。

実際、私たちには、キリストの救いとセットで福音の証しが湧き出るようにされており、
癒しや神との出会い交わりによって、福音の実が私たちが気づかない内に周りからも見えるようにされ、
特に貧しく渇き求める魂に共感されるようになります。

救われた者の運命であり、召しと言えそうです。

しかし、世を楽しむことが中心で、
心地よい救いの話のつまみ食いのようなことには、破たんがある、と聖書は言っています。
そして、教会やクリスチャン社会で、牧師や周りの兄弟姉妹から評価を得たいがために、
人の期待や空気を読み、
忖度(そんたく)して表向きクリスチャンらしく動き回ることは、
霊のことと言うより「世のこと」と言えます。

なぜなら、一方的に救われた私たちの内には、私たちの努力によらずに、キリストの証しが確かにあり、その泉が自ずと湧き出るからです。

私たちのうごめきが認められるのではなく、
キリストが認められるために、
絶えず目を覚まして、キリストに逢う祈りの中に居ることを選らばなければなりません。
人間ですから、 様々な経験や交流があり、
その中に間違いもありますし、
互いに教え、学び、支え合いますが、
キリストに価値を置き、外せない中心軸に据え、
キリストだけが与える福音の深まりを求めて祈り、そのための霊的つながりを心の芯で求めなければなりません。

ペテロとバルナバが律法的なユダヤ人たちに妥協し、福音から離れた愛の無い態度をとったことを、パウロがあからさまに責め、
エルサレムの教会会議ではユダヤ人クリスチャンに配慮はしたものの、
「救いは福音を信じることのみが必要で、他に要求される条件は無い」と会衆が一致してはっきりと宣言され、
救いが人の手によらないことが明確化されました。

ここに、どうしても譲れない、妥協が許されない福音のポイントがあります。
それはイエス・キリスト以外に、救いに付け加える条件は何もない、ということです。

この福音から離れて脱落者にならないために、パウロは自分を打ち叩いて従わせる、と言いました。

私自身、世に妥協的で空気を読んでばかりいる弱く薄っぺらい人間です。教会に絶望し何も確かなものが無く、若い時には人生に行き詰まり、心が飢え渇き、最後の希望として神キリストご自身との人格的交わりを渇望し明確に祈ったことがあります。
「あなたご自身を得られるなら、私の肉の欲求を殺させてください。この人生をささげます」と祈りました。
このままでは私の人生はダメになる、と自分を打ち叩き絞り出した祈りでした。
真実に心の底から祈ったことばでした。

今感じるのは、
この祈りが本気でしたから、
その応えとして、
妥協的で優柔不断なこの身に、現実の厳しさを知らされ、
他の教会の信仰の形に触れ、様々に出会いと別れがあり、
その摂理と試練の中で、誤って霊的と思い込んでいた肉の願望を次々虚しくなって削ぎ、心渇き、
『もう私は何年も信じ知っている』と思っていた福音に、
罪を認めることでさらに恵みや智を見つける機会に置かれ続け、肉の虚しさで力の抜けた日々に慣らされている途上にある、ということです。

これは、牧師や教会に決断させられることではなく、確かに個人の渇き求めによることです。
誰か人に従いたいと動機付けられた祈りは、その人に認められたい願いになり、人の党派心になります。

私にとっては、 子どもの頃から選択肢無く教会やクリスチャン社会に居ても、キリストを得られずに渇いたことによるもので、
信仰の名を使った虐待やカルト化も、時代的背景を含めて私にとっては必然だったかもしれません。

どなたの道も、神はすべてご存じで、どんな状況からでも、キリストが共にいて益とされ招かれる信仰の道があるのだ、と思います。

ただ痛みや絶望は壮絶で、
それを教会で味わい、唯一の真理と思った信仰の道で味わったら余計につらいものです。
そんな道筋を知っていたなら、とても祈って望むことではなかったでしょう。

しかし、私たちはキリストご自身を欲し求めたのですし、
雲のように取り巻く過去の信仰者たちも、キリストの救いを心に欲して望みました。
途中で信仰から外れたり、求めをやめたりすることはありませんでした。
人ですから、あきらめたり疑ったりは、しょっちゅうですが、キリストは居られるし、来られると思えるからです。これは祈りに応えて聖霊が保証して私たちの心に与えてくださいます。
出てきた教会からは、引きこもりで「信仰の破船」と見られるかもしれませんが、
人に聞いたから信じたのではないキリストを、それぞれに見出す道が必ずあるのです。

教会でも、日常でも人間関係に動揺し、空気を読んで引っ張られる気持ちになるのが避けられず、
そこで選ぶべきものは何かをキリストに必死に祈り、信仰の真実を求めることに、信仰のあるべき現実的姿があります。

教会の体裁が良くなることが励みであるのは、誰にでもあるでしょうが、
教会制度には見えない痛みが必ずあることの方が、本当に重要な事実です。
私たちの社会での体裁、学校や勤め先への期待でも同じでしょう。
人として体裁や社会性はとても大事ですが、痛みを無かったことにするのは問題です。
多くの場合、人の願望、理想が、現実に蓋をします。

特に教会が本当にキリストの教会であるためには、
罪赦されたことにふさわしい柔和や寛容が湧き出すことを福音の実とし、キリストの十字架を掲げるにふさわしい証しとすることです。

社会性や体裁は、自分を外から見る機会になり、妥当な人間性を測れます。

しかし、良い評価だけを欲しがるのは、無理な負担になります。

自分の本当の姿を知って、深い所でふり返り、必要な悔い改めや方向転換や、そのままありのままを認めて低くなるべきで、
注がれる恵み、絶えない泉は、掘り下げるほどに キリストが居られる低さを発見する連続で、
深く豊かにあふれている水を得られます。
それが信仰と福音の大切な実になります。

人に裁かれ強制されることだけで悔い改めるのは、人のコントロールになるので、
自ら気づき内面を深く探る祈りがいつも要ります。その決断が聖霊の導きに従っていることになります。
祈りと聖書読みは『義務』でなく、私たちの「求め」ではないでしょうか。
そこには恵みが悔い改めと同時にあります。
『人に見られている』と意識して、奉仕や悔い改めを牧師の指摘や他人の評価にばかり動かされるのではなく、
罪と肉にあっても、祈り主に向かう平安とみことばを心に染ませることに成長があります。

気づくべき本質から引き離す教会奉仕や空気読み、体裁の見栄はほどほどにして、
自分の行動や言葉が隣人にどう影響するかの方に目を向けて、日々省み、悔い改めととりなしをしたいのです。

私たちは人間である以上、必ず人に影響を与えており、
キリスト者である以上、必ず信仰的な証しを無意識にでも放出しています。
私たちが意識的に止めない限りは、良いものも悪いものも外に出て行き、誰かに見られ感じ取られています。

見分け、吟味のポイントは、「その人生、生活の中に福音はあるのか」です。

福音とは、イエス・キリストであり、
罪があってもキリストに向かう人に恵みを満たす方です。

イエス・キリストを心から欲するなら、どんな機会も用いて祈るべきです。
自分が気ままに流されたままでは、成長は望めず、周囲との支え合いでも良いものは望めず、互いに引き下げ合うだけの関係になります。

人生に時々ある痛みや孤独は、それ気付き、祈り求めるために備えられたものかも知れないのです。


すると、彼はいっさいを捨てて立ちあがり、イエスに従ってきた。 それから、レビは自分の家で、イエスのために盛大な宴会を催したが、取税人やそのほか大ぜいの人々が、共に食卓に着いていた。 ところが、パリサイ人やその律法学者たちが、イエスの弟子たちに対してつぶやいて言った、「どうしてあなたがたは、取税人や罪人などと飲食を共にするのか」。
イエスは答えて言われた、「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。 わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」。
ルカによる福音書 5:28‭-‬32 JA1955

http://bible.com/81/luk.5.28-32.JA1955


ザアカイは立って主に言った、「主よ、わたしは誓って自分の財産の半分を貧民に施します。また、もしだれかから不正な取立てをしていましたら、それを四倍にして返します」。
イエスは彼に言われた、「きょう、救がこの家にきた。この人もアブラハムの子なのだから。 人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」。
ルカによる福音書 19:8‭-‬10 JA1955

http://bible.com/81/luk.19.8-10.JA1955



このブログの関連記事:
イエス様と一言つぶやくだけで、私たちは救われます。 (2017年06月26日)

クリスチャンの祈りの生活(2)「聖書のみことばに従う」その中身 (2016年04月26日)

十字架を負う人:使徒パウロ(律法の人サウロ・肉の人パウロ) (2015年02月20日)



ブログランキング・にほんブログ村へ

※このブログはにほんブログ村に参加しています。
よろしければ一日一回のクリックで上位表示にご協力ください。


※スマホ画面に表示される誘導広告は、ライブドアとグーグルによるもので、このブログの記事とは一切関係ありません。

口語訳聖書は、 新共同訳、新改訳よりも前に、日本の全てのプロテスタント教会で使われていたものです。






■私たちクリスチャンは二人三人でも集まれば、そこを「キリストのみからだ」とすることができます。
洗礼の意味は「キリストへの信仰を持つ、人生の方向転換(悔い改め・回心)の決意」です。(洗礼は、授けた教会の組織員となる会員制度とは別のものです。)
牧師を上位に戴かずに、水平の交わりを心がけ、共に祈り神様を見つめて御声に聞き従うことを望み進む、この決心を共有する交わり・ネットワークを目標とする「キリストのみからだの教会」を求めます。
現状では「頼れる人として誰か教師を自分の上に置きたがる人の弱さ」を認め、私たちは日々そこから脱出して神様に祈り、主にある交わりをいただきます。同時に、助けを求める人の祈りに、あらゆる形で呼応するクリスチャンであることを決意し、自立への助けが必ずある「みからだのネットワーク」であることを目指しています。(CFF小倉福音センターの祈り・信仰指標から)

■福音派・聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)・聖書主義の人が内包する「カルト化問題」をこの世代で終息できますように。どの人にもある心の引っかかりや良心をなおざりにして、聖書信仰やリバイバル信仰に熱くなって人を裁き、自分と家族に負担をかけ、2世や若いクリスチャンの離反を招いていることを克服できますように。
これを信仰的姿勢と現実的姿勢で正面から捉えて祈ります。
時に辛らつに人の内面を見ることが必要かもしれませんが、自分の中にも確かにあるものとして心の整理をすることで、問題の本質が見えるのかもしれません。
試練は、神に真に祈り出会うための神の摂理と言えますが、それを認める強さが欲しいですし、求めていく中で見えるものがあります。

■教会のカルト化や縛りに巻き込まれないための3つの知恵
1.祈りと聖書読み−−日々必要な神様との交わりと悔い改めをする、教えの風に翻弄(ほんろう)されない避け所として、各々個人の祈りと聖書読みのシェルターを確立しましょう。
2.二つ以上の教会に安心できる交わりを確保しましょう。−−今の所属教会に並行して、さらに避け所となる他の教会を必ず把握しておき、日ごろから広く他教会・他教派のクリスチャンと親しくし深い信頼関係を築きましょう。安心し信頼できる他教会や他教派の話題を所属教会で積極的に話しましょう。しかし、拒否や非難を受けはじめたら、他の信頼できる教会の交わりにそのことを伝え教会のカルト化の危険について話し合い、転会の準備を始めましょう。そのためにも、信頼あるクリスチャンの友情を日々拡げて大切にしましょう。
3. 教会以外の関わりを大切にしましょう。−−友人、家族、職場などで、ご自分を理解してくれる方々がいらっしゃると思います。その方の何気ない助言や世間話に、思いやりを感じることは、とても大切です。私たちが、信仰に対する外からの目を持つことにもなります。正しい「証し」は、一方的な押し付けではないことも分かります。

−−−真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために−−−
−− 避難の場(シェルター)としての「個人の祈り」を守るために −−
執筆者 仁保裕介(プロフィール
『すべて失望した人の唇に祈りを。』
祈りは、生活の現場から誰にでも自由にできるものです。
キリストは呼び求めるすべての人と共に居る方です。清い人や会堂や神殿にしか現れない方ではありません。むしろ、自分はふさわしくないと思う人のそばに居るのがキリストです。
受洗して教会員になった教会が、「この教会で信仰生活を続けられなければ、救いや信仰の道から外れる」と言うのは、真実ではありません。
 避難の場(シェルター)としてキリストに求める祈りには、「キリストが共に居る交わり」が必ず与えられています。
このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。テーマは重いですが、皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。キリスト教の視点で、成長、試練、十字架、悔い改め、聖化の記事になっています。
ほんの5才から信仰45年のクリスチャン2世として、キリスト教会内の教派主義・人間関係・権威化・カルト化によって傷を受けた皆さんと共に祈り、脱出と自立と今後の信仰について現実的視点で触れていきます。
元「主の十字架クリスチャンセンター 鎌倉教会、北九州教会」牧師・脱会者




自由な心で神様に祈っていますか?

祈りの言葉が何かに縛られていませんか?



私たち各々が神様向いて自由であり、各々がそれぞれに聖霊から与えられる多様な祈りがあってこそ、みからだの一致ではないでしょうか。

祈りが、誰か人から強いられたものではなく、「自由に神様に向かう私たち自身の心」であることを神様は喜ばれますよね。その自然な心のことばこそ、神様との交わりに必要です。そう考えるみからだの交わりと、一人一人の重荷による多様な祈りの拡がりが求められます。祈りが現実とリンクすることは、人生に必要な知識です。



このブログは、その自由な祈りの拡がりのために書いています。
知らないうちに祈りと信仰が誰かに縛られていないかを、様々な視点で考えようとしています。


■教会で疲弊して燃え尽きてしまう問題…

現代の教会は礼拝や組織の形を定めていますが、その主な活動としては、2000年前の初代教会が記した聖書の記録から「教会がすべきこと」の要素を凝縮したものを日曜の2時間で触れるようにしています。それで、日曜礼拝のプログラムは、聖書に書かれている教会の交わりの「短縮版」、「あらすじ」のストーリーになっています。

新約聖書を読むと、クリスチャンが集う2000年前の教会の集い交わりは毎日のものでした。

今の短縮版の日曜礼拝だけでキリストへの信仰を養おうとすれば、断片化した教えの詰め込みになってしまうのは当然かもしれません。

問題のある教会では、独自の詰め込み教育をして縛ったり、聖書の一部だけを強調してそれを「信仰の間違いない形」と言います。それで空しさを感じたり疲弊することは当然かもしれません。
信仰は日曜が本番ではなく、日常で働いてこそです。
信仰者同士の交わりは信仰の励みになりますから、励ましが無いなら教会の意味がありません。
もし教会が息苦しく、日曜のたびにストレスがたまるなら、無理して行く必要はないのではないでしょうか。

なぜ、福音が多くの日本人に伝わらないのでしょうか。
クリスチャンの世界は特異なのか、教会の敷居は高いのか、教会だけが清く、それ以外は悪魔に支配されて危険なのか。
今の形式化した教会独特の教えは外からどう見えているでしょうか。信仰を持つことで隣人との間に壁を感じるようになるのは果たして健全なのでしょうか?

救いと信仰を教えている福音のことばには心の深いところで同意するけれども、祈りや証しまで教会の全員が同じような言葉を使っているのはどうなのでしょうか。それで、つながりが太く確かな相手が神様になるでしょうか。それとも教会のみんなとのつながりが強くなるのでしょうか。

■自分が知る困難や痛みからの本音を神様にぶつけることができる心の部屋がありますか?

クリスチャンが皆、自分らしい自由な関心を持って、今居る場所から、自由な視点で各々が気づくことを自分のことばで熱心に祈る、そんな祈りの多様化が世の多くの罪を覆い、世の救いにつながるのではないでしょうか。キリストがもう一度来られるまで、教会とクリスチャンは隣人の救いのために存在しています。罪の裁きが使命なのではありません。
私たち生きる場で皆がそれぞれ困難や試練を味わう時代になってきましたが、それは罪の世の結果として存在するだけでなく、信仰者が祈るためにあるはずです。それぞれの問題を教会に持ち寄っても、すべてが受容され癒されるわけではありません。それぞれの痛みからの祈りが、それぞれの場の救いになるためにあるのではないしょうか。

まずは、キリストの十字架による救い・あがないの恵みを、自分の視点で改めて聖書を読んで味わい、キリストご自身と御跡を、自分の心で追い求めましょう。そうして、それぞれ置かれている場から、世の救い、現実の全体像、自分と教会への主の召しについて、求め、自分の関心がどこに向くか考えましょう。隣人と世界が持っている現実の課題をよく知り、痛みを痛みとして、喜びを喜びとして、共感して、目には見えないけれども確かにある多くの祈りと連なる心で祈りましょう。

■キリストの御体としての教会

みからだの教会は、生けるキリストの恵みと聖霊の導きと父の愛の支配を天と地に求める自由な祈りの家であると思います。

明文化された「教会戒規」や「教理」は、「教会を守る」というよりも、人の身勝手な肉の過度の暴走を止める役割です。
信仰の命は、個人的な祈りによるキリストとの出会い交わりです。
教会の活動はこれを促進するものでなければなりません。

そして、各々が置かれた生活の場から皆さんが独自に重荷を見つけて自主的に祈ることで、人生と本来の教会の姿であるキリストの御体全体の歩みが実現されていくと思います。

一人ひとりの信仰のお証しが、横に連なってそれぞれの場から流れ出しますように。

あらわれ方は違うけれども賜物に従って一つの聖霊の働きが保たれますように。そうしてみからだの交わりが愛の聖霊の結び目によってつながっていくことを願っております。
045r0002

   執筆者 仁保裕介
            連絡はプロフィールのメールアドレスまで、お願いいたします。


■ご奉仕・面談について
現在、私は北九州市に居ります。
・家庭集会/説教/講演/セミナー:
伝道メッセージ、教会の祈り、神様との交わり、教会カルト化の原因と問題点整理、世界のリバイバルと救いについて。
・教会による制約・圧迫の悩み相談
・このブログへのご賛同、祈りの繋がり、カルト化問題の連携・脱出のお手伝いなど
求めていらっしゃる集いや個人があれば、ご連絡いただきたいと思います。
CFF小倉福音センターの目的・活動

現在、月〜金の昼間は北九州小倉で勤めをしておりますが、一週間前のご連絡でしたら、平日昼間の奉仕もさせていただきます。平日夜間や土日には、前日までのご連絡でご奉仕をさせていただきます。面談は、小倉に来ていただければ、平日昼間でもできる時間があります。お問い合わせください。奉仕のない日曜日は地元教会に集い礼拝にあずかっています。

まずは関係づくりからと思います。北九州のお近くの方は費用などご心配なさらずに、どうぞお気軽にお声がけください。

申し訳ありませんが、遠方の場合は、時間的経済的理由でご期待に添えないこともあります。メール・電話でご相談させていただければと思います。


教会の問題で弱さを覚えている方々に奉仕し、主イエス・キリストのみからだの教会に奉仕したいと願っています。「この小さき者を、神様の御用のために用いてください」と祈り、神様が召されている自分の小さき働きに自分の人生をささげていきたいと思います。

このブログの記事の通り、強制のない自立した信仰と、祈りの自由を、共に求めていきたいと思います。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

■コメント・トラックバックをお送りくださる皆様
ありがたく拝見しておりますが、内容によっては掲載を見合わせることがあります。
・私信のようにプライバシーを含むこと
・同じ内容で複数の配信先があったり(マルチポスト)、他サイトへの勧誘目的だけのもの
・他からの引用だけで投稿者の言葉が無いもの
(常識の範囲のことですが私の基準はhttp://www.h5.dion.ne.jp/~j.1/exodospost0.htmに詳しく記しました。)

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

■教会カルト化記事の姿勢

このブログでは、問題のある教会で不当な扱いを被った経験者の方々と、指摘を受けている教会、双方に向けて記事を書いております。
問題の無い教会の方、また問題のある教会の方には受け取れないことが書かれているかもしれません。
その場合は、私が管理する「EXODOS〜カルト化した教会や信仰という名の虐待からの脱出支援ページ」や、検索で「信仰 虐待」の結果をご覧いただければと思います。

記事を書く背景と動機は、自分も含めた福音派・聖霊派・聖書主義を採る教会と牧師に内包されているものを明らかにし、カルト的な信仰を生み出す原因を探るためです。
犯人探しが主旨ではありませんが、感情的な問題や整理には、誰かを恨み続けるよりも、それまでの影響を一端切り離す方が客観化しやすいため、切り離す発端となるように批判的な内容も心に描いて良いのだとアピールする目的があります。
また、一般的社会的に認められない問題を明確にするつもりです。
内容が辛らつすぎると思われる方は、自己批判・内部告発だとお考えいただければと思います。
 このブログ内の記事:
 教会の虐待問題−フラッシュバック、PTSD症状からのリハビリの困難と対応

 確信が押し付けられて、うつになる問題 リハビリ

 教会での精神的虐待・中傷による障害が脱会後に顕著になること−Yahoo!ブログ

 私は感動をあまり信じすぎないようにしています。

 正統教会で経験したカルト信仰からの脱出

 各々の事情を神様はすべてご存知であること。地上の教会にはマニュアル化できない神との交わり

 祈りとは神様との対話です。−私たちは自分の真の姿を認めているでしょうか。

■閲覧が多い記事
教会で苦しみを味わうこともあります
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52277581.html

不健康な教会の兆候 カルト化の前ぶれ
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/51458318.html

聖書信仰が、「聖書絶対の律法主義」にならないように、ちゃんと聖書を読もう
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52178268.html

みんな、自分を正しいと思っている。
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52272274.html

教会が引き起こし続ける信仰上の「冤罪」
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52138245.html

地上の教会の神秘性。リバイバルへの道。「完全」への勘違いがカルト化へ。
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52161558.html

信仰と献身は、人それぞれの多様な「信仰の真実」を認め求め続けることではないでしょうか。
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52206089.html

社会に出れば「信仰」が試されるのは避けられない現実です。それも霊的成長の時として神様にあって自分を受け入れましょう。
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52181153.html

キリスト教会のカルト化・危険ワード「聖書と神の法則に従え」
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52120271.html

経験の少ないクリスチャンが囚われやすい「感情の問題メモ」
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52204905.html

教会のカルト化を避けるための最低限の指針
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52184080.html

苦しいときの祈り求めが、信仰の基盤や知恵に
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52180692.html

『試練』の意味は成長のため…その「勘違いあるある」としての『神と悪魔の戦い』
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52163557.html

伝道とは
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52125006.html

守るべき信仰の基本と実生活に伴うキリストの助け
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52127413.html

教会に何を求めるか 教会へのイメージを再考すべき時
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52078530.html

質問へのお答え:教会籍と交わり・御体なる教会
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/50037482.html

教会のカルト化・虐待を止めるために
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/50641653.html

十字架を負うとは
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/50037410.html

ヨブ記38章
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/50677939.html

真の祈り、礼拝
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/50707198.html

聖書の記録と神との出会い
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/50117943.html

■一部記事は下のブログに重複して掲載しています。
キリストの助けを求めて〜クリスチャンライフと教会
Sクリスチャンセンター問題の資料 管理人の雑記



にほんブログ村にクリックでシェア
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ  にほんブログ村 ライフスタイルブログへ  


■おしらせ
このブログは以前のブログhttp://blogs.dion.ne.jp/j_1/の機能が不調だったため、2006年6月以前の記事やコメント、TBをここに書き写しています。
また、KDDIdionのホームページサービスが終わるため、記事を作成年の日付にして移動しています。

私たちは、もはやこの世の肉の願いではなく、キリストにある霊的な命に生きたいのですが、

私たちは、いつも神の時を待ち切れず、様々にうごめいています。
実際の行動で、さまよい、心も落ち着かずあれこれと心配します。

現実の仕事の中では、私たちがいろいろ気づくことは業務の必要な対応ですが、
信仰では、主の導きとはほとんど違う発想や期待を持つことが多いです。

キリストが共に居る証しは、
キリストを呼び求める 私たちの 心の叫びが決して絶えず、キリストへの求めが聖霊によって湧き出るところに見えます。

聖霊が居られることで志が起こされ、求める祈りがあり、
その願いが心にあれば、キリストはそこに必ず居られます。
祈りになる「叫び」は、私たちには予想外のことが目の前に展開するから、心からの祈りになるのではないでしょうか。

日本人は恥をかきたくないので、弱さを見せたくないし、できればいつも妥当で正しい結論を持っているように見せたい性です。
クリスチャンでも『信仰によって前向きに!』と言って、自分や教会の現状に蓋をする方がとても多く居ます。

しかし、基本、人は神の前に誰であっても的外れであり、愚かで間違っています。

「私は人に非難などされない、されたくない」と思うプライドは、神の前にとても滑稽なものです。

神には見えないものはなく、すべてがさらけ出され、私たちが知りたがらない私たちの隠れた思いまで、すべてを見透しているからです。

そのすべてがあからさまな神に対して、私たちが祈る中味が本音でなければ、少なくとも本音である努力をしなければ、神も答えることができないし、道を示しようがない、と感じます。
その人自身に自分の姿や本音が見えておらず、他人への見栄やプライド維持を期待するばかりの問いかけだけなら、
それに答えようがないのは、人同士の付き合いでも同じではないでしょうか。

その人が『見栄やプライドこそが人の本音だ』と開き直り、
キリストが十字架の刑場に向かわれたように、その人が罪の内側を探る勇気を持たないなら、
ただ取り成して祈るしかない状況もあります。

人の自意識が人の優劣、成功失敗を即座に評価したがり、自分と比べて安心したり、焦ったり、非難したり、褒めたりしているのが日常です。

それを自己中心と呼ばずに、生きる上で必要な『価値観』や『個性』だとしていたりします。

牧師や年長者や献身者があなたに、誰でも通る道だと『価値判断』を言うだけで、
今助けが要り、今寄り添う慰めが要るのに、答えを見出だせないなら、自ら十字架に向かわれたキリストに祈りましょう。

牧師が誠実に答えようとしても、言えない場合もあります。自分で祈り答えを出すべき問題もあるからです。

人につまずくことは、多くの場合、自立への道です。

自分の平和平穏を死守するために、他人への『価値判断』で自分のプライドを守るために生きるか、

現実の悲惨の中で、キリストが伴われる心の平和平安に生きるか。

祈りによって主を知る信仰から湧き出る心の平和こそが、世の罪や対立を解く鍵なのに、

自分の経験や今の地位を正義の基準にするプライドある『価値判断』で他者批評をしたくなります。

肉は霊に対立し、抵抗します。

聖霊は聞くままを話し、風のようとイエスは言います。どこから来て、いつどのように吹くのか、人には分からない、と。

誰かを救う気づかれない空気や風になりたいですね。
互いを役に立つ人間としてプライドを刺激し合う依存的な付き合いではなく、
互いの罪を認め、そこから救われるために互いの霊を生かすことを心の底で望む者となりたい、と絶えず祈るべきです。

世の現実に生き、自分と他人の肉を認めつつ、日々新たにされる霊に生き、自立して信仰を保つキリストと共にある生活を普通に送ること、これを皆に伝えるのが伝道であり、 地の塩・世の光 と思います。

世や罪や生活や信仰にある不安をすべて含めて祈り、どんな状況でもキリストと共に見て、
様々にキリストの目差しを学ぶことに非常に大きな意味があります。

神の送る聖霊の風、空気を読むために、私たちは絶えず祈るべきと思います。

このブログの関連記事:
「試練」は神を探求する人にとって平和の種に。 (2015/10/03)
 ()
 ()



※スマホ画面に表示される誘導広告は、ライブドアとグーグルによるもので、このブログの記事とは一切関係ありません。

※このブログはにほんブログ村に参加しています。 よろしければ一日一回のクリックで上位表示にご協力ください。

ブログランキング・にほんブログ村へ


口語訳聖書は、 新共同訳、新改訳よりも前に、日本の全てのプロテスタント教会で使われていたものです。





■私たちクリスチャンは二人三人でも集まれば、そこを「キリストのみからだ」とすることができます。
洗礼の意味は「キリストへの信仰を持つ、人生の方向転換(悔い改め・回心)の決意」です。(洗礼は、授けた教会の組織員となる会員制度とは別のものです。)
牧師を上位に戴かずに、水平の交わりを心がけ、共に祈り神様を見つめて御声に聞き従うことを望み進む、この決心を共有する交わり・ネットワークを目標とする「キリストのみからだの教会」を求めます。
現状では「頼れる人として誰か教師を自分の上に置きたがる人の弱さ」を認め、私たちは日々そこから脱出して神様に祈り、主にある交わりをいただきます。同時に、助けを求める人の祈りに、あらゆる形で呼応するクリスチャンであることを決意し、自立への助けが必ずある「みからだのネットワーク」であることを目指しています。(CFF小倉福音センターの祈り・信仰指標から)

■福音派・聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)・聖書主義の人が内包する「カルト化問題」をこの世代で終息できますように。どの人にもある心の引っかかりや良心をなおざりにして、聖書信仰やリバイバル信仰に熱くなって人を裁き、自分と家族に負担をかけ、2世や若いクリスチャンの離反を招いていることを克服できますように。
これを信仰的姿勢と現実的姿勢で正面から捉えて祈ります。
時に辛らつに人の内面を見ることが必要かもしれませんが、自分の中にも確かにあるものとして心の整理をすることで、問題の本質が見えるのかもしれません。

試練は、神に真に祈り出会うための神の摂理と言えますが、それを認める強さが欲しいですし、求めていく中で見えるものがあります。

■教会のカルト化や縛りに巻き込まれないための3つの知恵
1.祈りと聖書読み−−日々必要な神様との交わりと悔い改めをする、教えの風に翻弄(ほんろう)されない避け所として、各々個人の祈りと聖書読みのシェルターを確立しましょう。
2.二つ以上の教会に安心できる交わりを確保しましょう。−−今の所属教会に並行して、さらに避け所となる他の教会を必ず把握しておき、日ごろから広く他教会・他教派のクリスチャンと親しくし深い信頼関係を築きましょう。安心し信頼できる他教会や他教派の話題を所属教会で積極的に話しましょう。しかし、拒否や非難を受けはじめたら、他の信頼できる教会の交わりにそのことを伝え教会のカルト化の危険について話し合い、転会の準備を始めましょう。そのためにも、信頼あるクリスチャンの友情を日々拡げて大切にしましょう。
3. 教会以外の関わりを大切にしましょう。−−友人、家族、職場などで、ご自分を理解してくれる方々がいらっしゃると思います。その方の何気ない助言や世間話に、思いやりを感じることは、とても大切です。私たちが、信仰に対する外からの目を持つことにもなります。正しい「証し」は、一方的な押し付けではないことも分かります。

−−−真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために−−−
−− 避難の場(シェルター)としての「個人の祈り」を守るために −−
執筆者 仁保裕介(プロフィール
『すべて失望した人の唇に祈りを。』
祈りは、生活の現場から誰にでも自由にできるものです。
キリストは呼び求めるすべての人と共に居る方です。清い人や会堂や神殿にしか現れない方ではありません。むしろ、自分はふさわしくないと思う人のそばに居るのがキリストです。
受洗して教会員になった教会が、「この教会で信仰生活を続けられなければ、救いや信仰の道から外れる」と言うのは、真実ではありません。
 避難の場(シェルター)としてキリストに求める祈りには、「キリストが共に居る交わり」が必ず与えられています。
このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。テーマは重いですが、皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。キリスト教の視点で、成長、試練、十字架、悔い改め、聖化の記事になっています。
ほんの5才から信仰45年のクリスチャン2世として、キリスト教会内の教派主義・人間関係・権威化・カルト化によって傷を受けた皆さんと共に祈り、脱出と自立と今後の信仰について現実的視点で触れていきます。
元「主の十字架クリスチャンセンター 鎌倉教会、北九州教会」牧師・脱会者

献金さえも教会では罠となり、会員として安心できるプライドになったりします。
捧げ方には注意が要ります。
目の前の組織や建物が信仰の証しとなり、意識の中でブランドになります。
自分では無私に思えても、人の間では無意識に芽生えるものがあります。

貧しい者は、目に見える捧げ物は何もなく、人の目に分からずにひたすら祈り、日々の暮らしを主に頼り、 ただ自分を捧げて家族の人生さえ委ねて、 すがるしかありません。
それは確かに、主に会う幸いです。

以前は教会に属するプライドを欲しがり、自分こそが教会の中で役に立つ 認められる 者になりたがり、また外へ向かって誇れる伝道やスマートさを追い求めていました。
仕事をやめて牧師として献身した後は、『神の御声に聞き従う』のみで神に養われる信仰を目指しましたが、
実際は教会の方々の祈りと犠牲に支えられて、牧師の働きと祈りに集中できたわけで、
その愛と支えのある祈りの時は今でも貴重で大きな財産です。
今のこの働きを継続する強い動機になっています。

その後、長い間、特定の教会に属さず、仕事をしながら記事を書き、教会と信仰生活の問題を探求しました。
書く時間をつくるために仕事を生活のすべてにしていないので、貧しく暮らしており、ほとんど献金はできずにいます。
独りよがりかもしれませんが、私にとって、献金とは、
献身であり、自分が神のものであると告白することだと思っています。

今は、ただこの人生を歩んだ身しかなく、それは多くの方に支えられて与えられたものであり、それをどなたかのためにささげたいと神に願い、記事を書く日々です。目に見えないけれども、いくらかでも助けになればと願い、主に委ねる日々です。

貧しさによって主に祈りすがり、肉が削がれる日々が、肉にありながら霊を新たに生かされることになっていると感じます。


わたしたちを、この事にかなう者にして下さったのは、神である。そして、神はその保証として御霊をわたしたちに賜わったのである。 だから、わたしたちはいつも心強い。そして、肉体を宿としている間は主から離れていることを、よく知っている。
わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。 それで、わたしたちは心強い。
そして、むしろ肉体から離れて主と共に住むことが、願わしいと思っている。
そういうわけだから、肉体を宿としているにしても、それから離れているにしても、ただ主に喜ばれる者となるのが、心からの願いである。 なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。

わたしたちは、あなたがたに対して、またもや自己推薦をしようとするのではない。ただわたしたちを誇る機会を、あなたがたに持たせ、心を誇るのではなくうわべだけを誇る人々に答えうるようにさせたいのである。

なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。
わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。
そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。
それだから、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。

コリント人への第二の手紙 5:5‭-‬10‭, ‬12‭, ‬14‭-‬17 JA1955

http://bible.com/81/2co.5.5-17.JA1955


新しくされたというのは、私たちが神のものになったということで、決して肉を満足させるためではない、と教えられます。

キリストを信じる道は、この世にあって神から与えられる霊の命を求め、その新しい霊の命の価値観で様々な判断をしようとすることです。





※スマホ画面に表示される誘導広告は、ライブドアとグーグルによるもので、このブログの記事とは一切関係ありません。

※このブログはにほんブログ村に参加しています。 よろしければ一日一回のクリックで上位表示にご協力ください。

ブログランキング・にほんブログ村へ


口語訳聖書は、 新共同訳、新改訳よりも前に、日本の全てのプロテスタント教会で使われていたものです。





■私たちクリスチャンは二人三人でも集まれば、そこを「キリストのみからだ」とすることができます。
洗礼の意味は「キリストへの信仰を持つ、人生の方向転換(悔い改め・回心)の決意」です。(洗礼は、授けた教会の組織員となる会員制度とは別のものです。)
牧師を上位に戴かずに、水平の交わりを心がけ、共に祈り神様を見つめて御声に聞き従うことを望み進む、この決心を共有する交わり・ネットワークを目標とする「キリストのみからだの教会」を求めます。
現状では「頼れる人として誰か教師を自分の上に置きたがる人の弱さ」を認め、私たちは日々そこから脱出して神様に祈り、主にある交わりをいただきます。同時に、助けを求める人の祈りに、あらゆる形で呼応するクリスチャンであることを決意し、自立への助けが必ずある「みからだのネットワーク」であることを目指しています。(CFF小倉福音センターの祈り・信仰指標から)

■福音派・聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)・聖書主義の人が内包する「カルト化問題」をこの世代で終息できますように。どの人にもある心の引っかかりや良心をなおざりにして、聖書信仰やリバイバル信仰に熱くなって人を裁き、自分と家族に負担をかけ、2世や若いクリスチャンの離反を招いていることを克服できますように。
これを信仰的姿勢と現実的姿勢で正面から捉えて祈ります。
時に辛らつに人の内面を見ることが必要かもしれませんが、自分の中にも確かにあるものとして心の整理をすることで、問題の本質が見えるのかもしれません。

試練は、神に真に祈り出会うための神の摂理と言えますが、それを認める強さが欲しいですし、求めていく中で見えるものがあります。

■教会のカルト化や縛りに巻き込まれないための3つの知恵
1.祈りと聖書読み−−日々必要な神様との交わりと悔い改めをする、教えの風に翻弄(ほんろう)されない避け所として、各々個人の祈りと聖書読みのシェルターを確立しましょう。
2.二つ以上の教会に安心できる交わりを確保しましょう。−−今の所属教会に並行して、さらに避け所となる他の教会を必ず把握しておき、日ごろから広く他教会・他教派のクリスチャンと親しくし深い信頼関係を築きましょう。安心し信頼できる他教会や他教派の話題を所属教会で積極的に話しましょう。しかし、拒否や非難を受けはじめたら、他の信頼できる教会の交わりにそのことを伝え教会のカルト化の危険について話し合い、転会の準備を始めましょう。そのためにも、信頼あるクリスチャンの友情を日々拡げて大切にしましょう。
3. 教会以外の関わりを大切にしましょう。−−友人、家族、職場などで、ご自分を理解してくれる方々がいらっしゃると思います。その方の何気ない助言や世間話に、思いやりを感じることは、とても大切です。私たちが、信仰に対する外からの目を持つことにもなります。正しい「証し」は、一方的な押し付けではないことも分かります。

−−−真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために−−−
−− 避難の場(シェルター)としての「個人の祈り」を守るために −−
執筆者 仁保裕介(プロフィール
『すべて失望した人の唇に祈りを。』
祈りは、生活の現場から誰にでも自由にできるものです。
キリストは呼び求めるすべての人と共に居る方です。清い人や会堂や神殿にしか現れない方ではありません。むしろ、自分はふさわしくないと思う人のそばに居るのがキリストです。
受洗して教会員になった教会が、「この教会で信仰生活を続けられなければ、救いや信仰の道から外れる」と言うのは、真実ではありません。
 避難の場(シェルター)としてキリストに求める祈りには、「キリストが共に居る交わり」が必ず与えられています。
このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。テーマは重いですが、皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。キリスト教の視点で、成長、試練、十字架、悔い改め、聖化の記事になっています。
ほんの5才から信仰45年のクリスチャン2世として、キリスト教会内の教派主義・人間関係・権威化・カルト化によって傷を受けた皆さんと共に祈り、脱出と自立と今後の信仰について現実的視点で触れていきます。
元「主の十字架クリスチャンセンター 鎌倉教会、北九州教会」牧師・脱会者

神に献身する、と言いながら、
実際何に献身しているのか。

『神キリストだけを見つめ追い求めて生きる』と言えば、潔さそうですが、

イエス・キリストは天から降り人の間に住み人に仕え、十字架の傷を残したまま復活し昇天され、今も人と共に居られて人のすべての罪痛みに伴われています。

キリストは呼び求める人の所に、遅れずに確実に来られ、共に居る方です。

私たちが求め知っている神は、果たしてどこにいる神で、
私たちは神の何を知っているのでしょうか。

私たちが属する教会の存在は、キリストが人を救うために向かわれている場所に近い所に居るでしょうか。

今も、キリストを頭とする霊的な教会は、
キリストが人を愛し友なる方であることに希望を持ち、必死にそのキリストに祈り、望みをかけて追い求めて現実を生き、キリストにすがる人が属するものです。

目に見える教会組織は、キリストが居るその場に、いつも居て、
世界大のキリストの霊的な御体のわざの一部を担い、愛とあわれみの実を成すことに用いられているでしょうか?

教会と生活を切り離さずにいれば、様々な現実に出会い、その経験から見える、祈るべき課題が絶えずあります。

自分だけの世界観価値観では、現実を知らず、必然として練られた信仰の深みもなく、
他人を取り込むことで厚みを出そうとしており、人が人を喰らおうとしているだけの様です。相手が牧師などで自分のために役立つ人なら才能をもてはやしますが、自分に比べて無力に見えれば突き放し、親密にはなりません。

教会では、人に受け入れられるために自分を売り込むことと、人を越えた真理を求めることの2つに分かれる道があります。時はありますが、そのチャレンジはクリスチャンの前に絶えず置かれています。求める心が確かにならなければ、チャレンジに応えようが無い時もあります。

牧師も、継続して真剣な召しへの祈り求めがあるべきですが、怠る牧師も多く居ます。人は誰でも例外なく途上にいるのです。

その人の信じるキリストはどんな方か、愛の姿はどうか、

それは信じる人から湧き出るもので見分けられるのではないでしょうか。
キリストのものか、その人のものかは案外明白です。

もちろん『いつもキリストのように』という理想は論外です。
ありのままの人間らしくありつつ、ふと主に用いられる時にキリストの力が意図せずあるはずなのです。

自分の罪と弱さのある本音に向き合い、その中で召された道を求める人ほど、キリストに向き合い、隣人の本音にも付き合える人ではないでしょうか。

そんな教会の姿を私たちは求めるべきです。属する教会の姿はどうなっているでしょうか。

外側を白く傷なく整えることは、
信仰生活ではなく、教会ではなく、

本音の弱さを互いに認め合い、そこにこそキリストがおられることを信じることが信仰であり、その集いが教会です。

その信仰が見透せる集い交わりのために祈り、自分の周りで実現されるよう求めましょう。

教会の組織や体制が頑なで無理なら、二人三人でも良いのではないでしょうか。
ただ、頑なな状況をも用いて、その中から誰かを救い出すのを主が意図されて、私に導かれているかもしれないなら、時にかなった犠牲を払い、良き隣人になりたいです。

人の限界の中に生きられた キリストは、世を救うための十字架につく時が来るまで、殺そうとする人のところにあえて行きませんでした。
また使徒パウロは、「救いのためにむやみな拳闘はしない、ただ自分を救いの福音、宣教の召しのために従わせる」と言います。他人の救いと、自分の救いのために、と。

私たちは、自分が愛し愛され、信じ、従おうとするものに似て行きますし、
真実な導き手であるキリストは、私たちに与えられた分量に従ってふさわしい場に導きます。その場で用いられ、そのために試練に置かれ、道を悟らされます。

正しい導き手の下に留まるためには、他のものを求める肉の思いを自制し節制し、打ち叩いて従わせる祈りが命に至る道でしょう。そうすれば確かにその道にいつも戻されます。私たちが理解できない試練も、脱出口が開いている方向は、気がつくとそういう道なのです。。私たちの口を突いて出る本音の祈りが、その時には御心にかなって主が答えられ、その後の人生を導くことになります。ヨナの本音のように。

地のちりに等しいことを知ることで、地の塩・世の光として、正にこの世この地で父の愛を証しし、この地この世で律法に裁かれて血を流すキリストの背中が見えてくるのかもしれません。
父の前には、愛する子のいけにえが捧げられたわけですが、人はそれで赦しと慰めと安らぎを得たのです。


わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。 ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。
律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。
律法のない人には-わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが-律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。
弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。
すべての人に対しては、すべての人のようになった。なんとかして幾人かを救うためである。

福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。

あなたがたは知らないのか。競技場で走る者は、みな走りはするが、賞を得る者はひとりだけである。あなたがたも、賞を得るように走りなさい。
しかし、すべて競技をする者は、何ごとにも節制をする。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするが、わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうするのである。
そこで、わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず、空を打つような拳闘はしない。
すなわち、自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。そうしないと、ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になるかも知れない。
コリント人への第一の手紙 9:19‭-‬27 JA1955
http://bible.com/81/1co.9.19-27.JA1955

だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。 あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。
神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。
コリント人への第一の手紙 10:12‭-‬13 JA1955
http://bible.com/81/1co.10.12-13.JA1955



このブログの関連記事:
信仰者の処世術とは、誠実さ、悩み困難への対応、助け手としての重荷。これが人が負う真の十字架だと思います。
2009/11/27
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/51459310.html

守られるための交わり (2015年12月16日)

目を覚まして(4)罪と毒が人の「確信」の中に必ず含まれている現実 (2016年11月2日)

神の国はあらゆる人の間に。信仰者は生ける神の宮、聖霊の宮 (2014年05月06日)



※スマホ画面に表示される誘導広告は、ライブドアとグーグルによるもので、このブログの記事とは一切関係ありません。

※このブログはにほんブログ村に参加しています。 よろしければ一日一回のクリックで上位表示にご協力ください。

ブログランキング・にほんブログ村へ


口語訳聖書は、 新共同訳、新改訳よりも前に、日本の全てのプロテスタント教会で使われていたものです。





■私たちクリスチャンは二人三人でも集まれば、そこを「キリストのみからだ」とすることができます。
洗礼の意味は「キリストへの信仰を持つ、人生の方向転換(悔い改め・回心)の決意」です。(洗礼は、授けた教会の組織員となる会員制度とは別のものです。)
牧師を上位に戴かずに、水平の交わりを心がけ、共に祈り神様を見つめて御声に聞き従うことを望み進む、この決心を共有する交わり・ネットワークを目標とする「キリストのみからだの教会」を求めます。
現状では「頼れる人として誰か教師を自分の上に置きたがる人の弱さ」を認め、私たちは日々そこから脱出して神様に祈り、主にある交わりをいただきます。同時に、助けを求める人の祈りに、あらゆる形で呼応するクリスチャンであることを決意し、自立への助けが必ずある「みからだのネットワーク」であることを目指しています。(CFF小倉福音センターの祈り・信仰指標から)

■福音派・聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)・聖書主義の人が内包する「カルト化問題」をこの世代で終息できますように。どの人にもある心の引っかかりや良心をなおざりにして、聖書信仰やリバイバル信仰に熱くなって人を裁き、自分と家族に負担をかけ、2世や若いクリスチャンの離反を招いていることを克服できますように。
これを信仰的姿勢と現実的姿勢で正面から捉えて祈ります。
時に辛らつに人の内面を見ることが必要かもしれませんが、自分の中にも確かにあるものとして心の整理をすることで、問題の本質が見えるのかもしれません。

試練は、神に真に祈り出会うための神の摂理と言えますが、それを認める強さが欲しいですし、求めていく中で見えるものがあります。

■教会のカルト化や縛りに巻き込まれないための3つの知恵
1.祈りと聖書読み−−日々必要な神様との交わりと悔い改めをする、教えの風に翻弄(ほんろう)されない避け所として、各々個人の祈りと聖書読みのシェルターを確立しましょう。
2.二つ以上の教会に安心できる交わりを確保しましょう。−−今の所属教会に並行して、さらに避け所となる他の教会を必ず把握しておき、日ごろから広く他教会・他教派のクリスチャンと親しくし深い信頼関係を築きましょう。安心し信頼できる他教会や他教派の話題を所属教会で積極的に話しましょう。しかし、拒否や非難を受けはじめたら、他の信頼できる教会の交わりにそのことを伝え教会のカルト化の危険について話し合い、転会の準備を始めましょう。そのためにも、信頼あるクリスチャンの友情を日々拡げて大切にしましょう。
3. 教会以外の関わりを大切にしましょう。−−友人、家族、職場などで、ご自分を理解してくれる方々がいらっしゃると思います。その方の何気ない助言や世間話に、思いやりを感じることは、とても大切です。私たちが、信仰に対する外からの目を持つことにもなります。正しい「証し」は、一方的な押し付けではないことも分かります。

−−−真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために−−−
−− 避難の場(シェルター)としての「個人の祈り」を守るために −−
執筆者 仁保裕介(プロフィール
『すべて失望した人の唇に祈りを。』
祈りは、生活の現場から誰にでも自由にできるものです。
キリストは呼び求めるすべての人と共に居る方です。清い人や会堂や神殿にしか現れない方ではありません。むしろ、自分はふさわしくないと思う人のそばに居るのがキリストです。
受洗して教会員になった教会が、「この教会で信仰生活を続けられなければ、救いや信仰の道から外れる」と言うのは、真実ではありません。
 避難の場(シェルター)としてキリストに求める祈りには、「キリストが共に居る交わり」が必ず与えられています。
このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。テーマは重いですが、皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。キリスト教の視点で、成長、試練、十字架、悔い改め、聖化の記事になっています。
ほんの5才から信仰45年のクリスチャン2世として、キリスト教会内の教派主義・人間関係・権威化・カルト化によって傷を受けた皆さんと共に祈り、脱出と自立と今後の信仰について現実的視点で触れていきます。
元「主の十字架クリスチャンセンター 鎌倉教会、北九州教会」牧師・脱会者

''見えないものを追うよりも、
目の前の問題を見て見ぬふりの方が、神様は悲しむのでは?''

25年前ごろ、私も盛んに『◎◎の霊を縛る!』『勝利を宣言する!』とやっていました。『この霊の戦いでリバイバルが来る』と期待で満たされながら。油こそ撒きませんでしたが…。

悪霊にフォーカスするよりも、
神の支配を信仰として宣言することで、
主が来られ圧倒的な勝利をすでに十字架で収められていることが確かになり、人生や世界の現実に対する姿勢につながりました。

それを試練を通して確かめられたからこそ、
世界のすべての悲惨にある人に、キリストが共に居られなかったことはなく、叫び祈る人と居て『確かに共にパラダイスにいます』と語りかけていることを、信じることができます。

目に見える悲惨には耐えられない思いですが、現実に向き合うおひとりおひとりに、必ずキリストは近くいますし、祈れば心にすでに来ておられます。

私が何ができるのか、真剣に祈り、自分の限界となすべきことを明確に知ること。
出来ない夢物語や空想や、悲しみ痛みへの共感の感情だけではなく、自分のなすべき重荷、祈りをいつも見極めていること。

人には、人に仕えるキリストのみからだの器官として各々、すべての人に仕えるなすべき役割があります。

ある人は自分の弱さを退けずに忍耐し、ありのままに留まって共感して話を聞き慰め、
ある人は実際の援助実行や助言をし、
ある人は人知れず誰かの居場所や環境を整えます。
遠い場所のことを祈る人、何かを送る人がいます。

自分の現実の立ち位置と、できること、できないことを、いつもはっきり自覚することが、何より最優先事です。
無理をするとか、しないとかではなく、
できること、できないこと、ふさわしいこと、置かれた場所での必然を、冷静に判断できるようにいつも備えるべきです。

信仰は、熱狂や突然の奇跡よりも、
どこに居て、どんな隣人が居て、自分の役割としてどう救うか、神が導く現実の自分のあり方、人生を知ることです。それが神からの「召し」とか「示し」とか「御心」です。

自分を棚にあげて、『霊的にああですこうです』と、他人への預言ばかりでは、自分の人生も他人の人生も失わせるかもしれません。

霊の戦いとは、私たちが居るべき場所となすべき事をを知るために、道を外れないためにあります。

霊の戦いの視線は、悪いものよりも神の御声に向いているものです。
相手にすべき問題は自分の中にあって、内面の移り気と無責任な願望と逃避癖なのではないでしょうか。

使命とか解決とは、
人を巻き込むことが主ではなく、
自分がしっかり主なる神の手の導きに留まり、主が、自分を含め誰かを助けようとしている時に、そこに居て主の手に目を留めているかどうかです。

「『見える』と言う人は、見えていない」、と聖書は言い、
「見えるものは、見えないものからできている」、と聖書は言い、
「人それぞれ分を越えず、今立っているところで」、と聖書は言います。

教会の使命を牧師や賜物ある人にかぶせてヒーローに仕立てようとするのは、カルト化の大きな原因の一つです。

リーダーやヒーローにのせられ煽られて、
『悪魔を縛り封じるべき!』とか、
『悪魔を封じなければ、主のわざがとどめられる』とか、
『悪い思いを心にとどめると、神から離れて虜になる』、
などといろいろ聖書をからめて詰め寄って来られると、

おののいたり、
牧師や賜物の人に従って守られたい人、背きたくない人が出てきますが、

それは牧師や教会による、説教を利用した支援者を募るビジネスです。
その説教を聞いて『厳しいチャレンジだが負うべき神からの召しだ』と思ってしまうと、自らマインドコントロールに入るように自分と隣人を説得しはじめてしまうのです。

悪魔を言う前に、
人の愚かさや高慢さ怠惰の方が、恐ろしいことを日々たくさんしでかしています。
『清さや使命を叫ぶ人には悪霊がいない』などと、誰が保証できるのでしょうか。
神の確証保証は、自分の罪の弱さに働くキリストの十字架の赦しだけです。私たちは、罪弱さのゆえに、日々戦いを経験しますが、そこに例外はなく、誰も逃れられないものです。『清い人』も例外ではありません。

誰かの心の奥深く傷を与える暴力の言葉の矢は、いつも私の中にあるし、私自身も言葉に傷つきます。

一心にキリストを見つめねば、必死に祈らねば、私の中の悪魔がいつも顔を出す。
悪魔はあそこいる、ではなく、確かに私の中にやって来るのです。

でも悪魔悪霊への過大評価は、 ゴキブリを怖がる人間の滑稽さのようでもあります。

同時に、自分の罪への過小評価が私たちの特徴なのか、悪魔の策略なのか。

自分たちに邪魔なもの、気に入らないもの、不快なものは避けて、
すぐ容赦なく他人に原因を負わせ悪者のレッテルを貼って、
最悪自己防衛や報復の理由づけで、相手が死ぬのも認めたりです。

自分の罪を負いきれず、キリストにありのままの姿を一生委ねるのが億劫で、すべて悪魔のせいにしたら、心が納得してしまうのでしょうか?

そんな私たちには『悪魔との直接対決』なんか、100年早い?
問題は私たち自身のことじゃない?
悪い者は、終わりにはイエス様が滅ぼすし。

それで、果たして私たちは良い者なの?

「日々の信仰」と「日々疑う弱さ」が同居するという私たちの課題が見えているでしょうか?

絶えず目を覚まして、
周りにある現実の問題が見えるようにと、
自分を打ち叩いて祈り、
導きにふさわしく対応しなさい、っていうことではないのでしょうか。

奉仕する頑張りや悪魔に対抗する頑張りに目を奪われていると、神様の導きが見えないことが必ず出てきます。

自分と人の限界や弱さを知り、だからこそ祈り聖書を読んで語られる。
神との太いパイプが有るか無いか。その「主にあって」の力こそ、神の武具です。

自分の目で判断して、見える血肉としてだけ立ち向かうのでなく、
救いと信仰を危うくする、私自身と、人間の弱さ愚かさを、親密に神に向かい愛する神のみ手・みことばの中に委ね置くこと。

真理、正義、平和、福音、信仰、救い、御霊、みことば、祈り願い、
これが絶えず神に向かう私たちの中に与えられる状態であり、
それだから、これを保つために祈り目を覚ましみことばに触れて日々確かにすることが私たちの戦いの中身でしょう。
これを保つためだけで、充分にかなりの戦いですし、周りの人間関係の中で役割を果たすことでも重く負い切れない使命を抱えています。悪魔にばかり目をくれている暇など、信仰でも生活でも実際どこにもありません。


最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。

悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。

わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。

それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。 すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、 平和の福音の備えを足にはき、 その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。 また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。 絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。 また、わたしが口を開くときに語るべき言葉を賜わり、大胆に福音の奥義を明らかに示しうるように、わたしのためにも祈ってほしい。
エペソ人への手紙 6:10‭-‬19 JA1955

http://bible.com/81/eph.6.10-19.JA1955




このブログの関連記事:
『試練』の意味は成長のため…その「勘違いあるある」としての『神と悪魔の戦い』 (2014年08月27日)


※このブログはにほんブログ村に参加しています。 よろしければ一日一回のクリックで上位表示にご協力ください。

ブログランキング・にほんブログ村へ

※※※

 いつもお読みいただき、ありがとうございます。

 このブログ内の記事は、基本的に誰か特定の方にだけ向けて書くことはありません。自分にも読者の方にも、自立のための確認や助けになればというのが基本姿勢です。
 様々な他の方との出会いや記事との出会いに刺激されることは、もちろんありますが、私の中にあることをただ書き留めているのが実際です。
 他の方の記事と同調しているように見えることもあるかもしれませんし、共感をいただき、励まし合いになることは大変嬉しいですが、それも偶然(あるいは摂理的不思議?)の巡り合わせと捉えており、党派的になったり中傷にならないように、特定の誰かに宛ててピンポイント的に記事を書かないように気をつけており、どなたにも目を留めていただけるようにしたいと願っています。キリスト教・クリスチャン・人間の「あるある」のようになればいいと思います。
 メールやコメントで私に直接質問されたことへのお答えを、プライバシーに触れずに一般化して記事にすることがありますが、プライバシーのある事を伝える必要がある時は、必ず直接連絡を取るようにしております。
※※※





※スマホ画面に表示される誘導広告は、ライブドアとグーグルによるもので、このブログの記事とは一切関係ありません。



口語訳聖書は、 新共同訳、新改訳よりも前に、日本の全てのプロテスタント教会で使われていたものです。





■私たちクリスチャンは二人三人でも集まれば、そこを「キリストのみからだ」とすることができます。
洗礼の意味は「キリストへの信仰を持つ、人生の方向転換(悔い改め・回心)の決意」です。(洗礼は、授けた教会の組織員となる会員制度とは別のものです。)
牧師を上位に戴かずに、水平の交わりを心がけ、共に祈り神様を見つめて御声に聞き従うことを望み進む、この決心を共有する交わり・ネットワークを目標とする「キリストのみからだの教会」を求めます。
現状では「頼れる人として誰か教師を自分の上に置きたがる人の弱さ」を認め、私たちは日々そこから脱出して神様に祈り、主にある交わりをいただきます。同時に、助けを求める人の祈りに、あらゆる形で呼応するクリスチャンであることを決意し、自立への助けが必ずある「みからだのネットワーク」であることを目指しています。(CFF小倉福音センターの祈り・信仰指標から)

■福音派・聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)・聖書主義の人が内包する「カルト化問題」をこの世代で終息できますように。どの人にもある心の引っかかりや良心をなおざりにして、聖書信仰やリバイバル信仰に熱くなって人を裁き、自分と家族に負担をかけ、2世や若いクリスチャンの離反を招いていることを克服できますように。
これを信仰的姿勢と現実的姿勢で正面から捉えて祈ります。
時に辛らつに人の内面を見ることが必要かもしれませんが、自分の中にも確かにあるものとして心の整理をすることで、問題の本質が見えるのかもしれません。
試練は、神に真に祈り出会うための神の摂理と言えますが、それを認める強さが欲しいですし、求めていく中で見えるものがあります。

■教会のカルト化や縛りに巻き込まれないための3つの知恵
1.祈りと聖書読み−−日々必要な神様との交わりと悔い改めをする、教えの風に翻弄(ほんろう)されない避け所として、各々個人の祈りと聖書読みのシェルターを確立しましょう。
2.二つ以上の教会に安心できる交わりを確保しましょう。−−今の所属教会に並行して、さらに避け所となる他の教会を必ず把握しておき、日ごろから広く他教会・他教派のクリスチャンと親しくし深い信頼関係を築きましょう。安心し信頼できる他教会や他教派の話題を所属教会で積極的に話しましょう。しかし、拒否や非難を受けはじめたら、他の信頼できる教会の交わりにそのことを伝え教会のカルト化の危険について話し合い、転会の準備を始めましょう。そのためにも、信頼あるクリスチャンの友情を日々拡げて大切にしましょう。
3. 教会以外の関わりを大切にしましょう。−−友人、家族、職場などで、ご自分を理解してくれる方々がいらっしゃると思います。その方の何気ない助言や世間話に、思いやりを感じることは、とても大切です。私たちが、信仰に対する外からの目を持つことにもなります。正しい「証し」は、一方的な押し付けではないことも分かります。

−−−真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために−−−
−− 避難の場(シェルター)としての「個人の祈り」を守るために −−
執筆者 仁保裕介(プロフィール
『すべて失望した人の唇に祈りを。』
祈りは、生活の現場から誰にでも自由にできるものです。
キリストは呼び求めるすべての人と共に居る方です。清い人や会堂や神殿にしか現れない方ではありません。むしろ、自分はふさわしくないと思う人のそばに居るのがキリストです。
受洗して教会員になった教会が、「この教会で信仰生活を続けられなければ、救いや信仰の道から外れる」と言うのは、真実ではありません。
 避難の場(シェルター)としてキリストに求める祈りには、「キリストが共に居る交わり」が必ず与えられています。
このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。テーマは重いですが、皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。キリスト教の視点で、成長、試練、十字架、悔い改め、聖化の記事になっています。
ほんの5才から信仰45年のクリスチャン2世として、キリスト教会内の教派主義・人間関係・権威化・カルト化によって傷を受けた皆さんと共に祈り、脱出と自立と今後の信仰について現実的視点で触れていきます。
元「主の十字架クリスチャンセンター 鎌倉教会、北九州教会」牧師・脱会者

イエス様と一言つぶやくだけで、私たちは救われます。

どんなに、悩み深くても、不信仰でも、恵みや救いが見えなくても。

何もできなくても、一言、イエスの名を呼ぶだけで、そこに確実にキリストは居ます。

安心とか、平安とか、分からなくても、共にいるイエス・キリストだけで十分です。

教会や、ネットや、信仰本で与えられる、こうするべき、こう祈るべきといった条件付けは、すべて忘れて良いのです。

ただ、心が助けてほしいと叫ぶだけで、キリストは来るのです。

それだけを信じられれば本当に十分なのです。

イエス・キリストに神と救いのすべてがあるからです。



※スマホ画面に表示される誘導広告は、ライブドアとグーグルによるもので、このブログの記事とは一切関係ありません。

※このブログはにほんブログ村に参加しています。 よろしければ一日一回のクリックで上位表示にご協力ください。

ブログランキング・にほんブログ村へ


口語訳聖書は、 新共同訳、新改訳よりも前に、日本の全てのプロテスタント教会で使われていたものです。





■私たちクリスチャンは二人三人でも集まれば、そこを「キリストのみからだ」とすることができます。
洗礼の意味は「キリストへの信仰を持つ、人生の方向転換(悔い改め・回心)の決意」です。(洗礼は、授けた教会の組織員となる会員制度とは別のものです。)
牧師を上位に戴かずに、水平の交わりを心がけ、共に祈り神様を見つめて御声に聞き従うことを望み進む、この決心を共有する交わり・ネットワークを目標とする「キリストのみからだの教会」を求めます。
現状では「頼れる人として誰か教師を自分の上に置きたがる人の弱さ」を認め、私たちは日々そこから脱出して神様に祈り、主にある交わりをいただきます。同時に、助けを求める人の祈りに、あらゆる形で呼応するクリスチャンであることを決意し、自立への助けが必ずある「みからだのネットワーク」であることを目指しています。(CFF小倉福音センターの祈り・信仰指標から)

■福音派・聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)・聖書主義の人が内包する「カルト化問題」をこの世代で終息できますように。どの人にもある心の引っかかりや良心をなおざりにして、聖書信仰やリバイバル信仰に熱くなって人を裁き、自分と家族に負担をかけ、2世や若いクリスチャンの離反を招いていることを克服できますように。
これを信仰的姿勢と現実的姿勢で正面から捉えて祈ります。
時に辛らつに人の内面を見ることが必要かもしれませんが、自分の中にも確かにあるものとして心の整理をすることで、問題の本質が見えるのかもしれません。

試練は、神に真に祈り出会うための神の摂理と言えますが、それを認める強さが欲しいですし、求めていく中で見えるものがあります。

■教会のカルト化や縛りに巻き込まれないための3つの知恵
1.祈りと聖書読み−−日々必要な神様との交わりと悔い改めをする、教えの風に翻弄(ほんろう)されない避け所として、各々個人の祈りと聖書読みのシェルターを確立しましょう。
2.二つ以上の教会に安心できる交わりを確保しましょう。−−今の所属教会に並行して、さらに避け所となる他の教会を必ず把握しておき、日ごろから広く他教会・他教派のクリスチャンと親しくし深い信頼関係を築きましょう。安心し信頼できる他教会や他教派の話題を所属教会で積極的に話しましょう。しかし、拒否や非難を受けはじめたら、他の信頼できる教会の交わりにそのことを伝え教会のカルト化の危険について話し合い、転会の準備を始めましょう。そのためにも、信頼あるクリスチャンの友情を日々拡げて大切にしましょう。
3. 教会以外の関わりを大切にしましょう。−−友人、家族、職場などで、ご自分を理解してくれる方々がいらっしゃると思います。その方の何気ない助言や世間話に、思いやりを感じることは、とても大切です。私たちが、信仰に対する外からの目を持つことにもなります。正しい「証し」は、一方的な押し付けではないことも分かります。

−−−真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために−−−
−− 避難の場(シェルター)としての「個人の祈り」を守るために −−
執筆者 仁保裕介(プロフィール
『すべて失望した人の唇に祈りを。』
祈りは、生活の現場から誰にでも自由にできるものです。
キリストは呼び求めるすべての人と共に居る方です。清い人や会堂や神殿にしか現れない方ではありません。むしろ、自分はふさわしくないと思う人のそばに居るのがキリストです。
受洗して教会員になった教会が、「この教会で信仰生活を続けられなければ、救いや信仰の道から外れる」と言うのは、真実ではありません。
 避難の場(シェルター)としてキリストに求める祈りには、「キリストが共に居る交わり」が必ず与えられています。
このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。テーマは重いですが、皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。キリスト教の視点で、成長、試練、十字架、悔い改め、聖化の記事になっています。
ほんの5才から信仰45年のクリスチャン2世として、キリスト教会内の教派主義・人間関係・権威化・カルト化によって傷を受けた皆さんと共に祈り、脱出と自立と今後の信仰について現実的視点で触れていきます。
元「主の十字架クリスチャンセンター 鎌倉教会、北九州教会」牧師・脱会者

神が目を留めて、
被害を受けた信仰の子どもたちの心を見、
子たちに福音を伝えながら子たちの霊を意のままに殺す大人たちを見ている。

福音のためにと、子たちを従わせ、発想を条件付けて自由を縛り、罪を裁き裁かせ、人の間にあるべき信頼感を奪い、自分たちこそ聖書信仰と救いの守護者と自称している。

これは、信仰と人を裏切るものですが、
ただの人間的満足、単なる人の欲求の結果に過ぎません。
しかし、あまりに頑なな今ある『使命感と確信』は、他人にも本人にも解体できません。

被害者や他の大人が彼らを正すことは一生かけても無理なほど、彼らは確信を握りしめ守り酔っています。
向かうべきなのは、彼らが確信を捨てて自分と他人の弱さに向き合い、被害者や世の人と同じ目の高さに来て、痛みの事実を見ることです。

今はただ被害者が訴えることで世間に知らせるしかありません。いのちのことば社の冊子『信仰という名の虐待』が世に出て15年、当事者の福音派聖霊派には何の変化も無いからです。

被害者は、教会の問題を負うだけではなく、脱会後の生活と、常識的生活へのブランクと、教会に行く前にあった悩みを今も抱えています。
ただ生きるだけで精一杯なのに、私たちを取り込んで利用し支配しようとする人たちが世にも教会にもいるのが現実です。

自立は孤独を通り、様々に渇くことの連続ですが、生きていくために、二度と誰かに支配されないように見張り、しかし誰かを助けたり助けられたりする交わりを捨てるべきではない。

人は心が甘やかされれば、必ず他人を犠牲にしたり搾取するものです。自分にも他人にもその前提で対することで、程好い距離感と自立への意思が生まれるのではないでしょうか。

教会の虐待問題は、私の子ども時代だった40年以上前からあったことです。
問題が認知され始めた最初の世代と言えますが、

今の使命は、
福音派聖霊派が揺るがない人間的確信を持つことで起きている虐待問題をあぶり出して、
人体標本のようにパーツを見えるようにして
虐待的支配のすべてをスケルトンに見通せるようにすることだと思っています。

私の世代ではもう解決と回復、リバイバルは無理かもしれませんが、記録を残すことで、後の世代のためになればと願っています。

これは、子ども時代からの自分の心理状態と『信仰』の実態を見分ける心の整理にはなりますが、生きるのに必要な基礎的信頼感に乏しく、厳しく虚しい心の現実に向き合うことになっています。
被害者の皆さんも、多少なりそれは避けられないことかもしれません。

被害は今もあちこちの教会で進行中で、大人も子どもも知らない内に心理的身体的束縛と虐待の支配の中にいます。

これを読んだ福音派聖霊派の方々は、対岸の火事にせず、逃げずに今すぐご自分の心に向き合うことを望みます。
私たちは全員、虐待の当事者で、他人事にはできないのです。
牧師は当然、奉仕の年月が長いほど加害の反省をすべきです。
信徒も、被害だけでなく、『確信』から周りに責めや裁きを行い、家族や隣人の心情を汲まずネグレクトしたかを省みる必要があります。

『信仰という名の虐待』の分析と反省と再発防止のための罪と痛みの強い自覚、自分たちの中の霊の戦いが、リバイバルにつながる祈りになるはずです。悪霊のせいにせず、自分たちの霊の状態をしっかり見極めて、絶えず祈り正したいのです。

悔い改めが無ければ、福音派聖霊派はキリストの教会として存続することはできず、
終末にキリストに知らないと言われる集団になるでしょう。

直視せず悔い改めから逃避していては、いくら自分の『確信』によって人間的にがんばり期待しても、聖書の必然の結果にしか至らない、これが聖書的確信ではないですか。小さい者が痛んでいるのを避けて通ることの結果は、聖書的に明白です。

福音書にあるユダヤ教師への責めを、旧約を信じる律法主義者への指摘に過ぎない、なんてたかをくくっていると、聖書も神の国も分かっていない、とそれこそ叱責されるのではないでしょうか。

福音は、罪人の自己責任という言葉では終わらず、罪人をなんとか救うのが新約であり福音です。

キリストの十字架は、神のあわれみであり、人が『自分のために当然あるべきだ』と要求できる身代わりのいけにえではありません。
あわれみを受け入れるべき意味を人が理解するには、自分の罪の自覚しかありません。

あわれみは好むが、いけにえは好まれない主の愛が、今日も私たちの心に溢れるには、
頑なな岩のような福音派聖霊派の教派的プライドの確信を取り除かなければなりません。

『世の救いのために、聖書のみことばだけを信じて粛々と進むだけです。様々な指摘や批判はこの教会には当たりません。安心してください』
この牧師の一言でキリストの十字架の赦しが保証されると確信できるのでしょうか。いつまででしょうか。


だから、悔改めにふさわしい実を結べ。自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく。神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。 斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ」。
そこで群衆が彼に、「それでは、わたしたちは何をすればよいのですか」と尋ねた。
彼は答えて言った、「下着を二枚もっている者は、持たない者に分けてやりなさい。食物を持っている者も同様にしなさい」。
取税人もバプテスマを受けにきて、彼に言った、「先生、わたしたちは何をすればよいのですか」。
彼らに言った、「きまっているもの以上に取り立ててはいけない」。
兵卒たちもたずねて言った、「では、わたしたちは何をすればよいのですか」。
彼は言った、「人をおどかしたり、だまし取ったりしてはいけない。自分の給与で満足していなさい」。
民衆は救主を待ち望んでいたので、みな心の中でヨハネのことを、もしかしたらこの人がそれではなかろうかと考えていた。 そこでヨハネはみんなの者にむかって言った、
「わたしは水でおまえたちにバプテスマを授けるが、わたしよりも力のあるかたが、おいでになる。わたしには、そのくつのひもを解く値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。 また、箕を手に持って、打ち場の麦をふるい分け、麦は倉に納め、からは消えない火で焼き捨てるであろう」。
ルカによる福音書 3:8‭-‬17 JA1955
http://bible.com/81/luk.3.8-17.JA1955



グーグル検索:「信仰という名の虐待」

このブログの関連記事:
『石ころの叫び』〜「救いを人質に取る教会」の告発は、もはやキリストのからだの器官の働きにあるべきものに (2016年08月17日)

『教会批判、牧師批判は罪』と長い間封じられてきた石ころの叫び~神学よりやはり愛が大事 (2017年02月23日)



※スマホ画面に表示される誘導広告は、ライブドアとグーグルによるもので、このブログの記事とは一切関係ありません。

※このブログはにほんブログ村に参加しています。 よろしければ一日一回のクリックで上位表示にご協力ください。

ブログランキング・にほんブログ村へ


口語訳聖書は、 新共同訳、新改訳よりも前に、日本の全てのプロテスタント教会で使われていたものです。





■私たちクリスチャンは二人三人でも集まれば、そこを「キリストのみからだ」とすることができます。
洗礼の意味は「キリストへの信仰を持つ、人生の方向転換(悔い改め・回心)の決意」です。(洗礼は、授けた教会の組織員となる会員制度とは別のものです。)
牧師を上位に戴かずに、水平の交わりを心がけ、共に祈り神様を見つめて御声に聞き従うことを望み進む、この決心を共有する交わり・ネットワークを目標とする「キリストのみからだの教会」を求めます。
現状では「頼れる人として誰か教師を自分の上に置きたがる人の弱さ」を認め、私たちは日々そこから脱出して神様に祈り、主にある交わりをいただきます。同時に、助けを求める人の祈りに、あらゆる形で呼応するクリスチャンであることを決意し、自立への助けが必ずある「みからだのネットワーク」であることを目指しています。(CFF小倉福音センターの祈り・信仰指標から)

■福音派・聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)・聖書主義の人が内包する「カルト化問題」をこの世代で終息できますように。どの人にもある心の引っかかりや良心をなおざりにして、聖書信仰やリバイバル信仰に熱くなって人を裁き、自分と家族に負担をかけ、2世や若いクリスチャンの離反を招いていることを克服できますように。
これを信仰的姿勢と現実的姿勢で正面から捉えて祈ります。
時に辛らつに人の内面を見ることが必要かもしれませんが、自分の中にも確かにあるものとして心の整理をすることで、問題の本質が見えるのかもしれません。
試練は、神に真に祈り出会うための神の摂理と言えますが、それを認める強さが欲しいですし、求めていく中で見えるものがあります。

■教会のカルト化や縛りに巻き込まれないための3つの知恵
1.祈りと聖書読み−−日々必要な神様との交わりと悔い改めをする、教えの風に翻弄(ほんろう)されない避け所として、各々個人の祈りと聖書読みのシェルターを確立しましょう。
2.二つ以上の教会に安心できる交わりを確保しましょう。−−今の所属教会に並行して、さらに避け所となる他の教会を必ず把握しておき、日ごろから広く他教会・他教派のクリスチャンと親しくし深い信頼関係を築きましょう。安心し信頼できる他教会や他教派の話題を所属教会で積極的に話しましょう。しかし、拒否や非難を受けはじめたら、他の信頼できる教会の交わりにそのことを伝え教会のカルト化の危険について話し合い、転会の準備を始めましょう。そのためにも、信頼あるクリスチャンの友情を日々拡げて大切にしましょう。
3. 教会以外の関わりを大切にしましょう。−−友人、家族、職場などで、ご自分を理解してくれる方々がいらっしゃると思います。その方の何気ない助言や世間話に、思いやりを感じることは、とても大切です。私たちが、信仰に対する外からの目を持つことにもなります。正しい「証し」は、一方的な押し付けではないことも分かります。

−−−真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために−−−
−− 避難の場(シェルター)としての「個人の祈り」を守るために −−
執筆者 仁保裕介(プロフィール
『すべて失望した人の唇に祈りを。』
祈りは、生活の現場から誰にでも自由にできるものです。
キリストは呼び求めるすべての人と共に居る方です。清い人や会堂や神殿にしか現れない方ではありません。むしろ、自分はふさわしくないと思う人のそばに居るのがキリストです。
受洗して教会員になった教会が、「この教会で信仰生活を続けられなければ、救いや信仰の道から外れる」と言うのは、真実ではありません。
 避難の場(シェルター)としてキリストに求める祈りには、「キリストが共に居る交わり」が必ず与えられています。
このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。テーマは重いですが、皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。キリスト教の視点で、成長、試練、十字架、悔い改め、聖化の記事になっています。
ほんの5才から信仰45年のクリスチャン2世として、キリスト教会内の教派主義・人間関係・権威化・カルト化によって傷を受けた皆さんと共に祈り、脱出と自立と今後の信仰について現実的視点で触れていきます。
元「主の十字架クリスチャンセンター 鎌倉教会、北九州教会」牧師・脱会者

↑このページのトップヘ