祈りと生活に真実を求めて

真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために
避難の場(シェルター)として「個人の祈り」を守る教会とは

執筆者 仁保裕介(プロフィール)『すべて失望した人の唇に祈りを。』祈りは、生活の現場から誰にでも自由にできるものです。キリストは呼び求めるすべての人と共に居る方です。清い人や会堂や神殿にしか現れない方ではありません。むしろ、自分はふさわしくないと思う人のそばに居るのがキリストです。
  受洗して教会員になった教会が、「この教会で信仰生活を続けられなければ、救いや信仰の道から外れる」と言うのは、真実ではありません。避難の場(シェルター)としてキリストに求める祈りには、「キリストが共に居る交わり」が必ず与えられています。
  このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。テーマは重いですが、皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。キリスト教の視点で、成長、試練、十字架、悔い改め、聖化の記事になっています。
  ほんの5才から信仰45年のクリスチャン2世として、キリスト教会内の教派主義・人間関係・権威化・カルト化によって傷を受けた皆さんと共に祈り、脱出と自立と今後の信仰について現実的視点で触れていきます。
  元「主の十字架クリスチャンセンター 北九州教会」牧師。


神が導こうとする長く安定した心の平和・平安は、
特別感は無く、日常の感覚としてあります

心が活発に理想を追う時には、勘違いで万能感に酔う時がありますが、それとは違うものです

淘汰の過程は、やる気の挫折、渇望する求め、何も起きない無力感、意外な出会い、脱力、休息、静まり、内側から出る素直で押し付けがましくないものの発見、自分にも他人にとっても自然な流れの良いものを信じ発見する自己肯定、
このサイクルが回るようです

これは誰かが意図して組む人生のプログラムではなく
ましてや教会や牧師の教えや『証し』でコントロールするものではないので
いくら信頼している相手であっても他人任せで自分の人生を変えるのは間違いです
(牧師は『特別な神の器』などではない「ただの人」と思うべきです)

私たちが神の真実を求めつつ日常を送れば
誰でもが多少葛藤しながら壁にぶつかりながら
自分の内側で理解し悟っていくものです

我を忘れた頑張りの先にあるものではなく
教会や牧師のことを理想的な愛と寛容の人格の目標のように見るのではなく

静まって自分の中から湧く心の願いから動き、必然として平和・平安になる
その積み重ねで自分も周りも変化が出てくる
そんなものとしてあるもののようです
これが透けて見えるような祈りや証しがあるクリスチャンとなら励まし合えます

ひどい経験やトラウマからの恐れやゆるせない思いや恨みや厳しい支配や葛藤の感情や自己肯定感の低さが抑えられないことも、そのありのままの自分と神との時間を長く何年も続けることで、我慢というより、自分の中にどうしても忘れられずあるものとして段々と受け流せます
完璧ではないありのままで静まって現実の自分の本音を神にそのまま語り、「イエス様どうですか?」と聞くこと
その繰り返しから心が段々と静まる方へ向かいます
この期間を支えるものは、教会の理想や牧師の教えではなく、それぞれ個人が心の奥から欲する真実なものです


詩篇 37:4-11 JA1955
[4] 主によって喜びをなせ。主はあなたの心の願いをかなえられる。
[5] あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ、主はそれをなしとげ、 [6] あなたの義を光のように明らかにし、あなたの正しいことを真昼のように明らかにされる。 [7] 主の前にもだし、耐え忍びて主を待ち望め。おのが道を歩んで栄える者のゆえに、悪いはかりごとを遂げる人のゆえに、心を悩ますな。
[8] 怒りをやめ、憤りを捨てよ。心を悩ますな、これはただ悪を行うに至るのみだ。 [9] 悪を行う者は断ち滅ぼされ、主を待ち望む者は国を継ぐからである。 [10] 悪しき者はただしばらくで、うせ去る。あなたは彼の所をつぶさに尋ねても彼はいない。
[11] しかし柔和な者は国を継ぎ、豊かな繁栄をたのしむことができる。

https://bible.com/bible/81/psa.37.4-11.JA1955


このブログの関連記事:
日記:赦しと受容の安心感 2004年12月22日



福音派聖霊派の教会に今あること、すぐ起こり得ることを訴えるためキリスト教ブログランキングに参加しています。
ブログランキング・にほんブログ村へ 





真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために
  新改訳聖書を使う福音派、聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)、聖書主義、終末携挙信仰、リバイバル信仰、潜在意識など心理的背景、牧師・教会のカルト化問題、クリスチャン2世問題を扱います。その当事者として信仰的姿勢と現実的姿勢で原因考察とお勧めをしております。
  教派信仰問題の経験者の今後のあり方、信仰と救い、社会性、人生の背景、自立した生き方を探求します。内容が辛らつすぎると思われる方は、自己批判・内部告発とお考えいただきたいと思います。
  NCC日本キリスト教協議会に属さず、JEA日本福音同盟やJPC日本ペンテコステネットワークに加わっている福音派聖霊派教派の自浄作用を期待して記事を書き20年になります。
  他教会の問題であっても福音派を名のることを躊躇するような事がずっと起き続けて終わらないのは、『クリスチャンも罪人』という言い訳で済む問題なのでしょうか?『聖書的』『聖書信仰』と言うだけで、すべて許されるのでしょうか。

教会ではだれかの感情の『ありのまま』『正直』が暴走しても
『愛』『ゆるし』でその人を受け容れて
理想や期待や無理が重なって
負担を強いられ
もつれます
受け容れる側の感情も暴走したり

感情は現実社会の生活や客観性で評価したり制御しなければいけないもの
自分の感情との距離の取り方があり
邪魔をする感情を、素直さや自然体と区別していくと
様々な発見があります
自分の発見、神との飾らない気軽な対話の発見です

でも教会で感情のままそのままで居られる環境は人をダメにします

現実の日常生活するために妥当か
人間関係で妥当か
身勝手か
思い込みか

その思いは誰かを現実に幸せにしている?

お互いの親切や思いやりのためを思って心を砕こうとしても
相手にも自分にも妥当でないことがあります

思いやりにも距離感は大事
「自分にも他人にも妥当なこと」を心がけるには
感情に支配された教会や人間関係の環境はかなり負担になります
感情の奴隷、感情モンスターや感情おばけになっている環境からは距離を置き冷静になりましょう

「妥当」とは
自分と隣人の身近な生活が成り立つ現実や距離があること
心に負担にならない自然さ
その両立ができること

自分の中で生きるために妥当な理想を持つことは大切です

それは誰か他人が語る高邁な理想というよりも
自分の中に納得ができる公平さ
許容できる他人の個性の尊重
その自分の中の平安平和など
人として「普通」のことですし
その「普通」を神は喜び、共にいてそうあるように語りかけています

理想が高すぎて神が分からない人が教会には多いと思います
牧師でさえ自分の信仰が見分けられずに感情のまま教理や解釈を振りかざします


列王紀下 5:10-11 JA1955
[10] するとエリシャは彼に使者をつかわして言った、「あなたはヨルダンへ行って七たび身を洗いなさい。そうすれば、あなたの肉はもとにかえって清くなるでしょう」。 [11] しかしナアマンは怒って去り、そして言った、「わたしは、彼がきっとわたしのもとに出てきて立ち、その神、主の名を呼んで、その箇所の上に手を動かして、らい病をいやすのだろうと思った。

https://bible.com/bible/81/2ki.5.10-11.JA1955

ヨハネによる福音書 9:5-7 JA1955
[5] わたしは、この世にいる間は、世の光である」。
[6] イエスはそう言って、地につばきをし、そのつばきで、どろをつくり、そのどろを盲人の目に塗って言われた、 [7] 「シロアム(つかわされた者、の意)の池に行って洗いなさい」。そこで彼は行って洗った。そして見えるようになって、帰って行った。

https://bible.com/bible/81/jhn.9.5-7.JA1955


このブログの関連記事:
身構えない信仰で自然にキリストと居ること、交わること 2025年05月16日

生きるために…本当に話は単純で 2024年11月02日

福音派聖霊派の教会に今あること、すぐ起こり得ることを訴えるためキリスト教ブログランキングに参加しています。
ブログランキング・にほんブログ村へ 





真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために
  新改訳聖書を使う福音派、聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)、聖書主義、終末携挙信仰、リバイバル信仰、潜在意識など心理的背景、牧師・教会のカルト化問題、クリスチャン2世問題を扱います。その当事者として信仰的姿勢と現実的姿勢で原因考察とお勧めをしております。
  教派信仰問題の経験者の今後のあり方、信仰と救い、社会性、人生の背景、自立した生き方を探求します。内容が辛らつすぎると思われる方は、自己批判・内部告発とお考えいただきたいと思います。
  NCC日本キリスト教協議会に属さず、JEA日本福音同盟やJPC日本ペンテコステネットワークに加わっている福音派聖霊派教派の自浄作用を期待して記事を書き20年になります。
  他教会の問題であっても福音派を名のることを躊躇するような事がずっと起き続けて終わらないのは、『クリスチャンも罪人』という言い訳で済む問題なのでしょうか?『聖書的』『聖書信仰』と言うだけで、すべて許されるのでしょうか。

カルト化問題や傷のせいで
教会から出る人のこと
教会組織への問題意識をもつこと
その相談になら私は乗ることができます。
まずはいったん教会から離れるように助言します。

でも、教会の問題を改善して教会や牧師を変えようとしつつ、
今まで福音派聖霊派教会が求めてきた表面上の『聖書信仰(無謬信仰)』『罪の悔い改め』『信仰告白』を改善の根拠にする方には助言はできません。

今の福音派聖霊派の教会の体制が、
健全な信仰や個人の領域である人間性や時間や金銭を犠牲にした上に成り立っていると思うからです。
これは、牧師が信徒に求めたり、信徒が牧師に求めたり、双方でやりあっている問題です。

『悔い改めと信仰を公に証しすること』『神学・教理に基づいた信仰』『牧師の権威に従うこと』『日曜礼拝絶対出席』『牧師の説教が教会や信仰の要になる』『伝道』『終末の裁き』などが教会に集う人の信仰の態度とされ、それが健全な教会だとされてきましたが、
教会や牧師に従順に見えるような形式的なものにすり替わっていると思います。

そもそも、『健全な信仰』を判断する聖書解釈が身勝手なものになり、聖書やキリストを持ち出し利用して教会らしくしているだけだから、カルト化が起きていると考えます。
たとえば、伝道の情熱や使命感や教会組織への従順さがあるように見えれば他人や家族を厳しく支配し虐待的な責めをしても、
許容されて、逆に『よくやってきた』などと熱心な教会として認められてしまうという重大な問題があります。
これは教会が歴史上ずっと重ねてきた誤りをさらに繰り返しているだけに見えます。

そうした問題が証しするのは、間違いのない『聖書信仰』が存在しているなどとは今現在証明できていない状態だと言うことです。
現実に福音派聖霊派のカルト化撲滅も健全化も過去数十年かかって何もできていません。

「今の『聖書信仰』と福音派の中に間違いと問題が巣食っている」
という立場で考えることが健全さの第一歩と言えるのではないでしょうか。それを各教会の中で日常的にしっかりと宣言・告白する必要があると思います。

教会を健全化するには、今の教理と解釈を絶対化した人間的な無謬の意識を捨てて、
個人それぞれで直接キリストとの関わり・交わりをし、個人の人生と内面の独立と探求を促す、そういうクリスチャンの会にしなければならないと考えています。
その健全さを測る基準は、
常識や社会性、
人としての親切や配慮など
一般的常識的な誰にでも明らかな愛、
互いの不完全さや間違いを認める節度など、
キリストの十字架と復活以降の歴史で人類が学び取った、現代では当たり前の人間性です。


エペソ人への手紙 3:16-19 JA1955
[16] どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように、
[17] また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、
[18] すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、
[19] また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。
https://bible.com/bible/81/eph.3.16-19.JA1955

ヨハネによる福音書 15:11-12 JA1955
[11] わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。
[12] わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。
https://bible.com/bible/81/jhn.15.11-12.JA1955


このブログの関連記事:
私たちの心にある十字架は、「教会の十字架」ではない 2016年03月23日

心の深い傷をどうする? 誰かの言いなりではない一心な関係は神や友人を身近にする 2022年11月27日

福音派聖霊派の教会に今あること、すぐ起こり得ることを訴えるためキリスト教ブログランキングに参加しています。
ブログランキング・にほんブログ村へ 





真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために
  新改訳聖書を使う福音派、聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)、聖書主義、終末携挙信仰、リバイバル信仰、潜在意識など心理的背景、牧師・教会のカルト化問題、クリスチャン2世問題を扱います。その当事者として信仰的姿勢と現実的姿勢で原因考察とお勧めをしております。
  教派信仰問題の経験者の今後のあり方、信仰と救い、社会性、人生の背景、自立した生き方を探求します。内容が辛らつすぎると思われる方は、自己批判・内部告発とお考えいただきたいと思います。
  NCC日本キリスト教協議会に属さず、JEA日本福音同盟やJPC日本ペンテコステネットワークに加わっている福音派聖霊派教派の自浄作用を期待して記事を書き20年になります。
  他教会の問題であっても福音派を名のることを躊躇するような事がずっと起き続けて終わらないのは、『クリスチャンも罪人』という言い訳で済む問題なのでしょうか?『聖書的』『聖書信仰』と言うだけで、すべて許されるのでしょうか。

あまり頭を使いすぎないという選択肢をいつも持つこと

自然体が信仰の到達点
自然体で神を愛し信頼し
自然体で人を愛し信頼について見分ける

考えすぎると道をそれる
感情にとらわれすぎて道をそれる

信仰も確信も人間関係も
やる気や感動や使命感を持ち過ぎたらおかしくなる

内側から湧いている人間的で自然な思いの中に
生きる動機付けや行動の動機付けがあるし
そこに、キリスト、聖霊が働いていること

体と心を休めることで
心を研ぎ澄ますこと

祈りのために断食※をした人なら分かる感覚
(※断食はしっかりした指導を受けた方法に従って行うものです)

本当の祈りは内から出てくるもので
やる気や使命感で燃えてするものではなく
信仰の確信も静かな自然体から出てくるものが本物です

牧師の顔色を見るより、
心で交わることができる神、キリスト、聖霊といつも語り合いましょう。

自然体でいられない教会からは、すぐ出ましょう。


ピリピ人への手紙 4:6-7 JA1955

[6] 何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。 [7] そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。

https://bible.com/bible/81/php.4.6-7.JA1955


このブログの関連記事:
重荷をおろし、安息をゆっくり受け取る 2021年09月11日

日々新たにされること、それが教会のいのち〜こだわりや妥協や偏りで一部が失われる現実 2014年09月11日

福音派聖霊派の教会に今あること、すぐ起こり得ることを訴えるためキリスト教ブログランキングに参加しています。
ブログランキング・にほんブログ村へ 





真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために
  新改訳聖書を使う福音派、聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)、聖書主義、終末携挙信仰、リバイバル信仰、潜在意識など心理的背景、牧師・教会のカルト化問題、クリスチャン2世問題を扱います。その当事者として信仰的姿勢と現実的姿勢で原因考察とお勧めをしております。
  教派信仰問題の経験者の今後のあり方、信仰と救い、社会性、人生の背景、自立した生き方を探求します。内容が辛らつすぎると思われる方は、自己批判・内部告発とお考えいただきたいと思います。
  NCC日本キリスト教協議会に属さず、JEA日本福音同盟やJPC日本ペンテコステネットワークに加わっている福音派聖霊派教派の自浄作用を期待して記事を書き20年になります。
  他教会の問題であっても福音派を名のることを躊躇するような事がずっと起き続けて終わらないのは、『クリスチャンも罪人』という言い訳で済む問題なのでしょうか?『聖書的』『聖書信仰』と言うだけで、すべて許されるのでしょうか。

神を人格として愛すること

愛し愛される喜びを
人と同じように神も持つ事実

たった一つその意識だけで祈りが劇的に変わります
神を信頼できます


神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。

創世記 1:27 JA1955
https://bible.com/bible/81/gen.1.27.JA1955


このブログの関連記事:
「祈り」の記事一覧

雅歌「揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。」2013/02/11

福音派聖霊派の教会に今あること、すぐ起こり得ることを訴えるためキリスト教ブログランキングに参加しています。
ブログランキング・にほんブログ村へ 





真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために
  新改訳聖書を使う福音派、聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)、聖書主義、終末携挙信仰、リバイバル信仰、潜在意識など心理的背景、牧師・教会のカルト化問題、クリスチャン2世問題を扱います。その当事者として信仰的姿勢と現実的姿勢で原因考察とお勧めをしております。
  教派信仰問題の経験者の今後のあり方、信仰と救い、社会性、人生の背景、自立した生き方を探求します。内容が辛らつすぎると思われる方は、自己批判・内部告発とお考えいただきたいと思います。
  NCC日本キリスト教協議会に属さず、JEA日本福音同盟やJPC日本ペンテコステネットワークに加わっている福音派聖霊派教派の自浄作用を期待して記事を書き20年になります。
  他教会の問題であっても福音派を名のることを躊躇するような事がずっと起き続けて終わらないのは、『クリスチャンも罪人』という言い訳で済む問題なのでしょうか?『聖書的』『聖書信仰』と言うだけで、すべて許されるのでしょうか。

人の外側から来る悪は人格の境界を越えて入り込み健全な自我まで破壊します
人の内側の身勝手な悪が他人を人と思わない扱いをし支配したり破壊したりします
ブラック企業やカルト、カルト化したキリスト教会によくある特徴です
教会といっても人間的な教えの悪いものはゼロにできず
人格を破壊することが起こります
牧師を名乗って聖書や神や証しを盾に異次元の無神経さ鈍感さで他人の人格に干渉しかき乱します
上に立つ人の鈍感さは誰にも正せません

対策として
教会や牧師を含めて周囲の人間に境界なく心を開くことをやめ
誰にでもある悪いものの流れ込みを意識して止めたり受け流すこと
癒しというより整理と把握と本来の自分の発見、
生かすことと排することを分けること

周りの期待に応えようとするより
健全な自我ある自分の着実な積み重ねを継続して、祈りと選択の主体としての自分自身を強化し
ひとつひとつ自分のために良いものを選び積み重ねて、日々自分を確かなものにすること

上に立つ人、心無い大人や牧師などにおとしめられた自分像、神像、社会観、人生観
その傷と傷の影響は残るけれども受け流し
なんでも乗り越えるキャタピラを得るために

周りに流された思いよりも
心の奥底で期待する根源的な願いや愛
神への期待や人への思い
しかし、いくら愛する人でも境界は必要で
自分自身をいつも保ち、自分を譲ることがあっても「自分のため」であること

素直な心の自分の内側に外から入った悪い人間的な強制や教えや裁きによる恐怖は
それを避けられる境遇で人生を送る他人には理解できません
悪い人間的なものは教会にも当然に蔓延しているのに
『救われた身分』を言い訳にして上に立ち、上から目線で他人を裁くだけで問題を見ないようにして回避する人たちがいます

他人との環境の違いも意識しつつ
本来の素の自分の願いと、傷のある自分を知り、整理して区分けして
心の中に様々なもののありかを棲み分けさせましょう

傷が、真の願いを侵害しないように、流し排出する方向に分けて
責めや否定や嘆きや悔しさをあるものとして、排出口に向けて流し捨て続ける

それぞれの教会や牧師が人間的に自分で持つ『救い』の教えにとらわれて
既存の教会や牧師がなかなか教えることができていないことですが
痛みを知る真の神、生きているキリストは私たちの心とともにあり
私たちの心を生かそうとします。
心に必要なもの不要なものを見分けさせて
自分でどうにか立ち上がって物事を見分けるように導き
心にある自分自身の真の願いを私たちに分からせて共有し
表面上のものではない深い思いから祈りで
どんなことでも本音を語り合い
その思い願いについて理解するのがキリストです。

その心の思いの深いところで神に共有され理解されたものは
私個人の孤独な叫びからキリストという友人に理解されたものに変わり
ありのままで癒しが始まり
自分を認めて前に進むための滑り出しになっていることに気づきます。

ピリピ人への手紙 2:13-15 JA1955
[13] あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。
[14] すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい。
[15] それは、あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである。あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。

https://bible.com/bible/81/php.2.13-15.JA1955 


このブログの関連記事:
選ぶことが自分をつくります 2024年09月10日



福音派聖霊派の教会に今あること、すぐ起こり得ることを訴えるためキリスト教ブログランキングに参加しています。
ブログランキング・にほんブログ村へ 





真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために
  新改訳聖書を使う福音派、聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)、聖書主義、終末携挙信仰、リバイバル信仰、潜在意識など心理的背景、牧師・教会のカルト化問題、クリスチャン2世問題を扱います。その当事者として信仰的姿勢と現実的姿勢で原因考察とお勧めをしております。
  教派信仰問題の経験者の今後のあり方、信仰と救い、社会性、人生の背景、自立した生き方を探求します。内容が辛らつすぎると思われる方は、自己批判・内部告発とお考えいただきたいと思います。
  NCC日本キリスト教協議会に属さず、JEA日本福音同盟やJPC日本ペンテコステネットワークに加わっている福音派聖霊派教派の自浄作用を期待して記事を書き20年になります。
  他教会の問題であっても福音派を名のることを躊躇するような事がずっと起き続けて終わらないのは、『クリスチャンも罪人』という言い訳で済む問題なのでしょうか?『聖書的』『聖書信仰』と言うだけで、すべて許されるのでしょうか。

すべての人の願いを、人が口にする前に神はすべて知っているので、
誰でも祈ることができ
誰でもすぐに神につながることができます

迫害者サウロは悔い改める前にキリストのアプローチを受けました
サウロも彼なりに祈っていたはずでキリストに会うことで変わっていきました

このキリストと個人の出会いを否定するのは、神の全能を否定することにならないでしょうか
教会が提示する形式的なもの
罪の意識からの悔い改めや聖霊の満たし
それが無いと祈りが聞かれない
罪があるから良い行いができない
この条件をのんで教会に属さないと神に出会えない…
こういう教会独自の順番付け条件付けでは
神を否定することになりかねないのでは

すべての人は神の似姿に造られ
互いに親しく語り合い愛し合うようにされていて
人は生まれながらに神を求めるように心に思いを与えられています

心の素直な願いをそのまま祈りにすることがまず大切で
必ず神は聞いていて思いを知っています

かなうかどうかよりも、どう道が開かれるかが大事だと思えることで
自分らしさや、それまでの縛りの気づき、素直な深い愛に留まることに心のありかがあること
隣人に心を開くこと

その道では
自分や他人の身勝手さと傷に葛藤を伴うので
さらに祈ることになります
忘れたい傷や記憶が浮き彫りになり
人にとって良いものと悪いものをはっきり知ります

教会が教える条件付けの縛りから離れることで導きや自分の心のありかを見つけて
要らない重荷をおろし
自分で選び進みましょう



使徒行伝 17:27-29 JA1955
[27] こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった。事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない。 [28] われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。あなたがたのある詩人たちも言ったように、『われわれも、確かにその子孫である』。 [29] このように、われわれは神の子孫なのであるから、神たる者を、人間の技巧や空想で金や銀や石などに彫り付けたものと同じと、見なすべきではない。

https://bible.com/bible/81/act.17.27-29.JA1955


このブログの関連記事:
「祈りのある家を建てたい」と思っていますか?2017/09/04



福音派聖霊派の教会に今あること、すぐ起こり得ることを訴えるためキリスト教ブログランキングに参加しています。
ブログランキング・にほんブログ村へ 





真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために
  新改訳聖書を使う福音派、聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)、聖書主義、終末携挙信仰、リバイバル信仰、潜在意識など心理的背景、牧師・教会のカルト化問題、クリスチャン2世問題を扱います。その当事者として信仰的姿勢と現実的姿勢で原因考察とお勧めをしております。
  教派信仰問題の経験者の今後のあり方、信仰と救い、社会性、人生の背景、自立した生き方を探求します。内容が辛らつすぎると思われる方は、自己批判・内部告発とお考えいただきたいと思います。
  NCC日本キリスト教協議会に属さず、JEA日本福音同盟やJPC日本ペンテコステネットワークに加わっている福音派聖霊派教派の自浄作用を期待して記事を書き20年になります。
  他教会の問題であっても福音派を名のることを躊躇するような事がずっと起き続けて終わらないのは、『クリスチャンも罪人』という言い訳で済む問題なのでしょうか?『聖書的』『聖書信仰』と言うだけで、すべて許されるのでしょうか。

所属教会のために頑張ったり
その教会がないと空しいとか
教会がないと生きられないとか
そんなクリスチャンを生む教会は悪いです

毎日の各々の祈り聞く生活の励みのために教会はあります

すべての福音派教会、ペンテコステ派カリスマ派教会にはカルト化しないための責任があるのに、カルト化要因を取り除けずにいます。
個人の生活や心を尊重せず、あるべき境界を越えてパーソナルな領域に土足で入り込もうとします、悔い改めや決心をさせる伝道のために。

人が考える『自我の砕き』と、
神に委ねて脱力し「自由」になること
その違い。
断食に似た道筋があり
『悟り』 や『無』との違いがあります

ありのままの素の自分の思いを知り
そのままで
条件のない一方的な救いがキリストによる救いです

真理は人を自由にする
人間的な焦りや力みに影響されず自分も他人も自由にするには

聖書の文も
力が抜けて探し求めて聖霊によって意味を理解する人と、
がんばって我が物にしようとする人では、
意味が違ってとらえられることがあります。
間違ってとらえた人は真逆のことをしたりします。

自由にするか、縛るかの違いにあらわれます。
牧師でも信徒でもそうです。

『すべての人は罪を犯し救いに値しない』と言って
キリストの十字架による一方的ゆるしの前提を強調することで
伝道や説教で説得しようとしますが、
「罪」と「ゆるし」
どちらが心に残るのか
罪の強調は人間的な力みで脅迫なのでは?

それで、普通の生活をしている教会に無縁な人を
『地獄行き』『悪魔の策略にとらわれているから』
と言い
それだからと伝道を促す

どちらが悪魔的なのでしょう
教会が悪魔と無縁だと実際誰も言えません

福音の奥義とは
キリストに会い、祈り、導かれて語れるものでしょう

主人たる者よ。僕たちに対して、同様にしなさい。おどすことを、してはならない。あなたがたが知っているとおり、彼らとあなたがたとの主は天にいますのであり、かつ人をかたより見ることをなさらないのである。 最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。 悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。 わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。 それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。 すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、 平和の福音の備えを足にはき、 その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。 また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。 絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。 また、わたしが口を開くときに語るべき言葉を賜わり、大胆に福音の奥義を明らかに示しうるように、わたしのためにも祈ってほしい。 わたしはこの福音のための使節であり、そして鎖につながれているのであるが、つながれていても、語るべき時には大胆に語れるように祈ってほしい。
エペソ人への手紙 6:9‭-‬20 JA1955
https://bible.com/bible/81/eph.6.9-20.JA1955


このブログの関連記事:




福音派聖霊派の教会に今あること、すぐ起こり得ることを訴えるためキリスト教ブログランキングに参加しています。
ブログランキング・にほんブログ村へ 





真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために
  新改訳聖書を使う福音派、聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)、聖書主義、終末携挙信仰、リバイバル信仰、潜在意識など心理的背景、牧師・教会のカルト化問題、クリスチャン2世問題を扱います。その当事者として信仰的姿勢と現実的姿勢で原因考察とお勧めをしております。
  教派信仰問題の経験者の今後のあり方、信仰と救い、社会性、人生の背景、自立した生き方を探求します。内容が辛らつすぎると思われる方は、自己批判・内部告発とお考えいただきたいと思います。
  NCC日本キリスト教協議会に属さず、JEA日本福音同盟やJPC日本ペンテコステネットワークに加わっている福音派聖霊派教派の自浄作用を期待して記事を書き20年になります。
  他教会の問題であっても福音派を名のることを躊躇するような事がずっと起き続けて終わらないのは、『クリスチャンも罪人』という言い訳で済む問題なのでしょうか?『聖書的』『聖書信仰』と言うだけで、すべて許されるのでしょうか。


自由な心で神様に祈っていますか?

祈りの言葉が何かに縛られていませんか?



私たちは神様に向いて自由であり、それぞれの心の思い、叫びがあります。
その自由に聖霊がおられ、必ずとりなされています。
多様な祈りがあってこそ、みからだの一致ではないでしょうか。

祈りが、誰か人から強いられたものではなく、
「自由に神様に向かう私たち自身の心」であることを神様は喜ばれます。

自然な心のことばこそ、神様との交わりに必要です。

そう考えるクリスチャンの交わりと、多様な一人一人の祈りの拡がりが求められます。祈りが現実とリンクすることは、人生に必要な知識です。

このブログは、その自由な祈りの拡がりのために書いています。
知らないうちに祈りと信仰が誰かに縛られていないかを、様々な視点で考えようとしています。

■教会で疲弊して燃え尽きてしまう問題…

現代の教会は礼拝や組織の形を定めていますが、聖書から「教会がすべきこと」の要素を凝縮したものを日曜の2時間で触れるようにしています。

新約聖書を読むと、2000年前の教会の集い交わりは毎日のものでした。
今の日曜礼拝のプログラムは、聖書に書かれている教会の毎日の交わりの「短縮版」、「あらすじ」のストーリーになっています。

今の短縮版の日曜礼拝だけでキリストへの信仰を養おうとすれば、断片化した教えの詰め込みになってしまうのは当然かもしれません。

その中でも問題のある教会では、独自の詰め込み教育をして縛ったり、聖書の一部だけを切り取り強調して『信仰の間違いない形』と言います。
そこに空しさを感じ疲弊することは当然かもしれません。

信仰は日曜が本番ではなく、日常で働いてこそです。
信仰者同士の交わりは日々の信仰の励みになるはずなのに、もし教会が息苦しく、日曜のたびにストレスがたまるなら、無理してその教会に行く必要はないのではないでしょうか。奉仕のためにだけ身を削る思いで必死で行くような教会は、聖書に照らして健全とは言えません。
救いと信仰を教えている福音のことばには心の深いところで同意するけれども、
たとえば、祈りや証しまで教会の全員が同じような言葉を使っているのはどうなのでしょうか。
それで、神様とのつながりが太くなり、個人的な悩みや痛みに救いが確かになるでしょうか。
それとも教会のみんなとのつながりが強くして、心の葛藤を忘れようとするのでしょうか。

なぜ、福音が多くの日本人に伝わらないのでしょうか。
クリスチャンの世界は特異なのか、教会の敷居は高いのか。
教会だけが清く、教会の外は悪魔に支配されて危険なのでしょうか。

今の形式化した教会独特の教えは外からどう見えているでしょうか。
教会の外の隣人との間に壁を感じるようになるのは、果たして健全なのでしょうか。

■自分が知る困難や痛みからの本音を神様にぶつけることができる心の部屋がありますか?

クリスチャンが皆、自分らしい自由な関心を持って、
今居る自分の場所から、自由な視点で気づくことを、自分のことばで熱心に祈る、
そんな祈りの多様化が多くの罪を覆い、自分と隣人の救いにつながるのではないでしょうか。

キリストがもう一度来られるまで、教会とクリスチャンは隣人の救いのために存在しています。罪の裁きが使命なのではありません。

生きる場で皆がそれぞれ困難や試練を味わう時代になってきましたが、
それはただ罪の世の結果として存在するのではなく、信仰者が自分と隣人のために祈る場です。
それぞれの問題を教会に持ち寄っても、すべてが受容され癒されるわけではありません。それぞれ置かれた場の痛みからの祈りが、その場の救いや脱出につながるのではないしょうか。その場に置かれた意味を考えたいのです。
これはキリストに導かれていても、教会の人にすべてが理解されるわけではありません。個人的にキリストに伴われ、ただキリストにすがって負える重荷です。

まずは、キリストの十字架による救い・あがないの恵みを、自分の視点で改めて聖書を読んで味わい、キリストご自身と御跡を、自分の心で追い求めましょう。
置かれている場から、自分と世の救いと現実の全体像、自分と教会への主の召しについて求め、自分の関心がどこに向くか考えましょう。
自分と隣人と世にある現実の課題をよく知り、痛みを痛みとして、喜びを喜びとして共感して、目には見えないけれども確かにある多くの人の祈りに連なる心で祈りたいのです。

■キリストの御体としての教会

キリストのみからだの教会は、共に居られる御子キリストの恵みと、聖霊の交わり導き、父の愛の支配を求め、天と地にみこころが成るのを望む、祈りの家です。

恵み、導き、愛のみこころは、私たちの心に語りかけられ、出会う現実と心の霊の中で納得があるものです。
各々ひとりの祈りの納得が集まって証ししあい励ましあうのが、教会の交わりです。

明文化された「教会戒規」や「教理」は、「教会を守る」というよりも人の身勝手な肉の過度の暴走を止める役割です。
信仰の命は、個人的な祈りによるキリストとの出会い交わりです。
教会の活動はこれを促進するものでなければなりません。

そして、各々が置かれた生活の場から皆さんが独自に重荷を見つけて自主的に祈ることで、人生と本来の教会の姿であるキリストの御体全体の歩みが実現されていくのが本来です。

一人ひとりの信仰のお証しが、横に連なってそれぞれの場から流れ出しますように。

あらわれ方は違うけれども賜物に従って一つの聖霊の働きが保たれますように。そうしてみからだの交わりが愛の聖霊の結び目によってつながっていくことを願っております。
045r0002

   執筆者 仁保裕介
            連絡はプロフィールのメールアドレスまで、お願いいたします。


■ご奉仕・面談について
現在、私は北九州市に居ります。勤務の関係で集会奉仕、面談はお受けできない状況です。
ご相談はメールでお願いいたします。返信は1〜2週間猶予をいただきたいと思います。

CFF小倉福音センターの目的・活動



■コメント・トラックバックをお送りくださる皆様
ありがたく拝見しておりますが、内容によっては掲載を見合わせることがあります。
・私信のようにプライバシーを含むこと
・同じ内容で複数の配信先があったり(マルチポスト)、他サイトへの勧誘目的だけのもの
・他からの引用だけで投稿者の言葉が無いもの
(常識の範囲のことですが私の基準はhttp://cffexodos.main.jp/exodospost0.htmに詳しく記しました。)

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

■教会カルト化記事の姿勢

このブログでは、問題のある教会で不当な扱いを被った経験者の方々と、指摘を受けている教会、双方に向けて記事を書いております。
問題の無い教会の方、また問題のある教会の方には受け取れないことが書かれているかもしれません。
その場合は、私が管理する「EXODOS〜カルト化した教会や信仰という名の虐待からの脱出支援ページ」や、検索で「信仰 虐待」の結果をご覧いただければと思います。

記事を書く背景と動機は、自分も含めた福音派・聖霊派・聖書主義を採る教会と牧師に内包されているものを明らかにし、カルト的な信仰を生み出す原因を探るためです。
犯人探しが主旨ではありませんが、感情的な問題や整理には、誰かを恨み続けるよりも、それまでの影響を一端切り離す方が客観化しやすいため、切り離す発端となるように批判的な内容も心に描いて良いのだとアピールする目的があります。
また、一般的社会的に認められない問題を明確にするつもりです。
内容が辛らつすぎると思われる方は、自己批判・内部告発だとお考えいただければと思います。
 このブログ内の記事:
 牧師が聖霊に示されて問題に気づくか

 教会の虐待問題−フラッシュバック、PTSD症状からのリハビリの困難と対応

 確信が押し付けられて、うつになる問題 リハビリ

 教会での精神的虐待・中傷による障害が脱会後に顕著になること−Yahoo!ブログ

 私は感動をあまり信じすぎないようにしています。

 正統教会で経験したカルト信仰からの脱出

 各々の事情を神様はすべてご存知であること。地上の教会にはマニュアル化できない神との交わり

 祈りとは神様との対話です。−私たちは自分の真の姿を認めているでしょうか。

 お勧めする「自立」について

 自由のために十字架を負う時代

 「信仰という名の虐待」によって植えつけられた信仰の子の「三つ子の魂」の執着に、誰が責任を取るのか
 

■閲覧が多い記事
教会で苦しみを味わうこともあります
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52277581.html

不健康な教会の兆候 カルト化の前ぶれ
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/51458318.html

聖書信仰が、「聖書絶対の律法主義」にならないように、ちゃんと聖書を読もう
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52178268.html

みんな、自分を正しいと思っている。
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52272274.html

教会が引き起こし続ける信仰上の「冤罪」
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52138245.html

地上の教会の神秘性。リバイバルへの道。「完全」への勘違いがカルト化へ。
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52161558.html

信仰と献身は、人それぞれの多様な「信仰の真実」を認め求め続けることではないでしょうか。
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52206089.html

社会に出れば「信仰」が試されるのは避けられない現実です。それも霊的成長の時として神様にあって自分を受け入れましょう。
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52181153.html

キリスト教会のカルト化・危険ワード「聖書と神の法則に従え」
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52120271.html

経験の少ないクリスチャンが囚われやすい「感情の問題メモ」
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52204905.html

教会のカルト化を避けるための最低限の指針
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52184080.html

苦しいときの祈り求めが、信仰の基盤や知恵に
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52180692.html

『試練』の意味は成長のため…その「勘違いあるある」としての『神と悪魔の戦い』
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52163557.html

伝道とは
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52125006.html

守るべき信仰の基本と実生活に伴うキリストの助け
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52127413.html

教会に何を求めるか 教会へのイメージを再考すべき時
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52078530.html

質問へのお答え:教会籍と交わり・御体なる教会
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/50037482.html

教会のカルト化・虐待を止めるために
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/50641653.html

十字架を負うとは
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/50037410.html

ヨブ記38章
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/50677939.html

真の祈り、礼拝
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/50707198.html

聖書の記録と神との出会い
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/50117943.html



「CFF小倉福音センター」について
教会の問題で弱さを覚えている方々に奉仕し、主イエス・キリストのみからだの教会に奉仕したいと願っています。「この小さき者を、神様の御用のために用いてください」と祈り、神様が召されている自分の小さき働きに自分の人生をささげていきたいと思います。

CFF小倉福音センターは、会員制度は無く、定期集会もありません。
このブログを通じてメッセージを伝え、メールのやり取りでご相談を受ける、そのような交わりが主です。
集会奉仕も承りますが、テーマとして、このブログの記事の通り、強制のない自立した信仰と、祈りの自由、内から湧くキリストの証しを共に求めるものでありたいと思います。
また、出会いと交わりの中から、必要に応じてその都度協力共働して、問題を共有します。

この働きと交わりは、互いの祈り無しには進むことはありません。
私たちの信仰の態度として、それぞれ生きる場で問題の防止・脱出のための知恵や助言を伝えることで、問題の防止・対策につながります。

この働きのために、仁保に経済的ご支援が許される場合、お送りいただいたものを、記事執筆、ご相談、教会に傷があって触れられない方への助けになるアプローチ、 各地の教会への防止・対策の奉仕に用いさせていただきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

■一部記事は下のブログに重複して掲載しています。
キリストの助けを求めて〜クリスチャンライフと教会
Sクリスチャンセンター問題の資料 管理人の雑記

にほんブログ村にクリックでシェア
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ  にほんブログ村 ライフスタイルブログへ  

■おしらせ
このブログは以前のブログhttp://blogs.dion.ne.jp/j_1/の機能が不調だったため、2006年6月以前の記事やコメント、TBをここに書き写しています。
また、KDDIdionのホームページサービスが終わるため、一部記事を作成年の日付にして移動しています。

『他人を敬い尊重し愛し一方的に赦す』
という十字架は人には背負えません。

その敗北感と罪責感を負うことは信仰ではありません

人には不可能な清さや愛や赦しの実践を説く教会や牧師やクリスチャンが居て
さも実践しているように見えているなら、その人たちを疑うことが良い判断です。

依存したい相手を探すために教会に行き牧師に会うのはやめましょう

存在しない人間的理想を語る危険な教会や牧師やクリスチャンは普通に存在しています
途中から悪く変質することもよくあります
それが人間です

他人を敬うには根拠が必要ですが、敬うに値しない教会や牧師やクリスチャンは存在します

だから表面上の一瞬芸的な理想のメッセージや笑顔や親切で自分から一方的に信じてしまうのではなく、

普通で常識的な判断力を持ってコミュニケーションをとり、

違和感を大事にしましょう

『信仰的決心が救いや成長につながる』という教会の決まり文句には実がありません

教会とは
「つながるべき相手は神」「つながるべき相手は経験で練られてわきまえがある人」
そう求めて
飢え渇いて神に求める祈りを真剣にしている人同士であり
表面的な信仰や真の練られた品性を常に見分けようとしています

その祈りを忘れた教会と牧師とクリスチャンが居るということなのです。


目に見える牧師を教祖のように崇めて盲目に従うのは完全に間違いで信仰とは似ても似つかないもの

見分ける鍵は、自分の心の飢えからの祈り、そして冷めた常識的な目で、それを基準にしたアンテナです

おかしい教会やまともじゃない人間関係で常識外れを受け入れる繰り返しをしてしまうと
価値観が歪み「一般的な常識や良識の方がおかしい」と思ってしまう
それで心は渇いていきます

どんな状況であっても
弱さの告白で良くて、信仰的でなくても本音であること
自分にも他人にもそれを見つけて認めていける心を持つこと

それを求めて冷静な熱意を持つこと

自分の本音や心の願いや平安を持てることを繊細に自分でフォローして
自分に必要な休みと決断を与えてあげること

否定され続けた自分の悲しみを自分でフォローして何とか引き上げるために与え続けるものやことを見つけて実行すること

自分の中と外からの助けになることのバランスもありますが
最後は自分の心の発見と心の尊重に落とし、外から見ても妥当なこと

外からの要求に心を変えること、折れることもあるが
後で必ず自分の心、他人の心を生かすようにフォローを繰り返す

そんな自分の現実や世の現実を見つめて伴う神キリストの存在を冷静に受け取ること

現実は楽ではありません
そこを離れず伴うキリストの存在こそ、信仰の現実です
厳しく裁く権威者としてではなく
求める人のすべての現実を知っていて伴い理解し導く方がキリストです


神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。 神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。 彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。 そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。 悪を行っている者はみな光を憎む。そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない。 しかし、真理を行っている者は光に来る。その人のおこないの、神にあってなされたということが、明らかにされるためである。
ヨハネによる福音書 3:16‭-‬21 JA1955
https://bible.com/bible/81/jhn.3.16-21.JA1955


このブログの関連記事:




福音派聖霊派の教会に今あること、すぐ起こり得ることを訴えるためキリスト教ブログランキングに参加しています。
ブログランキング・にほんブログ村へ 





真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために
  新改訳聖書を使う福音派、聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)、聖書主義、終末携挙信仰、リバイバル信仰、潜在意識など心理的背景、牧師・教会のカルト化問題、クリスチャン2世問題を扱います。その当事者として信仰的姿勢と現実的姿勢で原因考察とお勧めをしております。
  教派信仰問題の経験者の今後のあり方、信仰と救い、社会性、人生の背景、自立した生き方を探求します。内容が辛らつすぎると思われる方は、自己批判・内部告発とお考えいただきたいと思います。
  NCC日本キリスト教協議会に属さず、JEA日本福音同盟やJPC日本ペンテコステネットワークに加わっている福音派聖霊派教派の自浄作用を期待して記事を書き20年になります。
  他教会の問題であっても福音派を名のることを躊躇するような事がずっと起き続けて終わらないのは、『クリスチャンも罪人』という言い訳で済む問題なのでしょうか?『聖書的』『聖書信仰』と言うだけで、すべて許されるのでしょうか。

↑このページのトップヘ