真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために

避難の場(シェルター)として「個人の祈り」を守る教会とは

執筆者 仁保裕介(プロフィール)『すべて失望した人の唇に祈りを。』祈りは、生活の現場から誰にでも自由にできるものです。キリストは呼び求めるすべての人と共に居る方です。清い人や会堂や神殿にしか現れない方ではありません。むしろ、自分はふさわしくないと思う人のそばに居るのがキリストです。
  受洗して教会員になった教会が、「この教会で信仰生活を続けられなければ、救いや信仰の道から外れる」と言うのは、真実ではありません。避難の場(シェルター)としてキリストに求める祈りには、「キリストが共に居る交わり」が必ず与えられています。
  このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。テーマは重いですが、皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。キリスト教の視点で、成長、試練、十字架、悔い改め、聖化の記事になっています。
  ほんの5才から信仰45年のクリスチャン2世として、キリスト教会内の教派主義・人間関係・権威化・カルト化によって傷を受けた皆さんと共に祈り、脱出と自立と今後の信仰について現実的視点で触れていきます。
  元「主の十字架クリスチャンセンター 北九州教会」牧師。

『神の国とその義を第一に』したら…
神様が機械的に反応して必ずすべてが与えられ、現実に必要が満たされる?

罪を告白してたら、自動的に真っ白になる?

常識で考えて、人格や心の問題が、機械的で自動的なのは胡散臭く、カルト宗教や詐欺みたいです。

神様との人格の交わりがあり、
人生で知り学ぶことがあります。

救いのため、生きるためのすべてが与えられ、真っ白にされるには、
『キリストの十字架は私のため、と告白することだ』と教えられます。

その告白が形式ではなく、
心の真実にするため、
深い思慮のため、
キリストに飢え渇きキリストを求める心の貧しさの価値を知る、
そのための祈りが心の真実になるのでは。
人との出会いにも助けと愛の真実、
不十分不完全な人同士にある求めと渇きと愛を学ぶ導きがあるのでは。

真実な求めは、人生がそのための道筋になっていくように感じます。

祈りと心が変わっていきます。
教会・牧師・年長の信徒が言う簡単に脈絡もないような理想形や悟りや興奮状態で盛り上る決まり文句とは違う、
貧しく渇く現実の中で祈ることには、人としてとても現実的に生きる苦しみも喜びもありますし、継続した聖霊の働きと聖化がその現実にはあります。それは神秘的と言うより、淡々と現実としてあるのです。

だから、神秘の霊の法則を装う機械的自動的な決まりや伝説ではなく、
人の心と現実にすべて必要な神様の配慮が満ち、その上でいつのまにか意識されずに清く白くされていくもの、それが聖霊の働きであり聖化ではないでしょうか。
清さはがんばりや世間体ではなく、
気になることを気にすること、その素直な祈りによると思います。

「人としてどうか、
私の心はどうか、
赦せない愛せない、
その本音があって、ふさわしくないと思っても、
赦し愛し愛されていく現実を許せるか、
クリスチャンの心は実際どこにあるのか」など、
葛藤は大切な祈りの入口の渇きとふさわしい貧しさだと思います。

でも教会の教義に縛られてしまった葛藤はやっかいです。
人としての必然や個性や素直さ、ヒューマニズムを否定しがちです。

心からの本音の祈りでなければ、どうして信仰告白や悔い改めと言えるのでしょう。

キリストの十字架の救いは、口先だけ形だけの祈りにどう関わるでしょうか。

そんな知識に関係なく、
ただ、助けて!という叫びが真実で、まっすぐ神様に届きます
この計算の無いまっすぐな真実さには、どんな有名牧師でも神学者でも、誰もかないません。

私たちの罪は利己的な計算高さがあるので、まっすぐさは続かず、

だから信仰の先輩ほど冷たくさめていて、それを隠すために残酷に、"まっすぐで素直な年下信徒"を律法で縛るのかもしれません。牧師も初めの愛を失い、教理や知識を優先して、若く幼いまっすぐな愛やただ神にすがる思いを否定したりします。

聖書のキリストは、子どもたちをみもとに集める方です。
知識もなく、若く、愛や求め叫ぶことを、キリストは決して否定しません。
教理の知識というより、人生でキリストに伴われて学ぶことはたくさんあります。教理の知識はあってもいいですが、その知識に邪魔されずに人生でキリストに教えられることで分かることの方が、心に真実として実ります。そして、知識の意味を本当に悟ります。

信仰と愛の実をあきらめた牧師と先輩が教会をダメにして支配します。
年を重ねた悟りという名のあきらめの境地は固着していて、誰にもくつがえせません。キリストも当時の宗教者たちの利己的で形式的な信仰の冷たいかたくなさによって、残酷に十字架にかけられたのです。キリストに何の罪も無いのに、真っ当な指摘に逆上してキリストを殺しました。

教会のカルト化で、私たちも心を殺されかけ、
キリストはそれを理解して伴われていますが、
心の傷が深いほど、キリストのことさえ恨みたくなったりしてしまいます。
その時は、他の助けを得て良いのです。

キリストは、
彼ら宗教者教職者が伝える聖書のみことばは守り、
でも彼ら自身の行いを決して見習わないように、
と警告します。

聖書の中で、キリストにまっすぐ助けを求めに来た人たちは、教会で嫌われた人たちでしたから教職者の説教も聞けなかったでしょうし、祈りでさえ会堂ではあまりできなかったでしょう。
知識もなく教会を追い出され、ただキリストに助けを求めました。その人たちが先に救われるのが神の国です。

キリストの説教会場に喜んで表立って参加できた会衆は、会堂に行けて教えと律法を知っていた人たちなので、
キリストは、ほんとうは何が大事か、第一にすべきかを教えました。
宗教的知識を持つ会衆より、汚れているとか罪を犯したと嫌われた人たちの方がまっすぐに助けを求めた結果、キリストがすでに理解しいて優しく寄り添い、友となり、疎外された彼らが先に神の国に入ったのです。

試され、練られ、清められる、という聖書の箇所はどうなるのでしょうか。

試練は、救いと助けを求めるまっすぐさを取り戻すために、余計な知識のこだわりを削がれて、ただキリストに触れるためのものだと、少しずつ感じるはずです。

そして、キリストの伴いと語り合い、交わりさえあれば、他は要らないと思うようになります。

福音派聖霊派のおかしなところは、
ゆるし、救いを、その人の形式的な口先の告白だけに頼り、すぐ教会員にして献金をつのり、
教会に参加して教えに従い奉仕して献金することが、神様の守りと恵みの範囲に居るための脅迫的義務にしてしまうことです。

その教会や牧師こそが口先だけで聖書解釈や教理を言っています。

牧師に心は有るのか無いのか、

「牧師の教えを疑う余地はゼロだ」と、いったい誰が保証してくれますか?

人は例外なく罪びとですが。キリストは見分けなさいと警告しています。
「献身しています、神学校を出て任職されています」と言うだけで正統の看板だけを名乗り、
十字架や聖霊やみことばの実質を認めていない牧師は確実に存在します。彼らはキリストよりも教団教派や牧師の肩書きの看板と自分の教義や奇跡体験や証しに確信と誇りを持っています。

簡単に教会や牧師を信じ、神聖視しすぎるので、教会も牧師も反省しません。
だから、試練や問題を「あなたの罪のせい、祈り不足、教会・牧師への服従不足」などと平気で言って、独りよがりの勝手な主導権で信徒をコントロールするのでは。
実際にカルト化が起きていますし、どの教会もカルト化する可能性と隣り合わせです。

これは、カルト化の外側から見れば、誰でもがこの状態をあぶない、おかしいと思うような、常識的で当然の疑問です。
私たちがもしこんな疑念をどの牧師や教会に対しても持たないなら、カルト化に無防備です。または、すでにカルト化の影響を受けている可能性すらあります。
この指摘を一切拒み、逆ギレや半笑いや無視をし、
または、当たっている指摘を悪魔とかサタン呼ばわりするなら、
どうぞ、すぐ脱出してください。

そしてキリストが友として愛で触れようとする、肌感覚を求めてください。

自分を大切にできないと、誰かに愛されても分かりませんし、人を愛することもできません。
カルト化状態の教会にとどまると、自分と周りを愛や救いから遠ざけていまいます。


汽灰螢鵐8:1
しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。

汽灰螢鵐13:1
…愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。

汽謄皀1:5
この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を、目標としています。



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■私たちクリスチャンは二人三人でも集まれば、そこを「キリストのみからだ」とすることができます。
洗礼の意味は「キリストへの信仰を持つ、人生の方向転換(悔い改め・回心)の決意」です。(洗礼は、授けた教会の組織員となる会員制度とは別のものです。)
牧師を上位に置かずに、水平の交わりを心がけ、共に祈り神様を見つめて御声に聞き従うことを望み進みます。

福音派聖霊派の教会では、牧師の誤り・マインドコントロール・権威主義・独裁を指摘できずに多くの人を従わせ、モラルや常識など、どの人にもある心の引っかかりや良心をなおざりにして、聖書信仰やリバイバル信仰に熱くなって人を裁き、自分と家族に負担をかけ、2世や若いクリスチャンの離反を招くことが起きます。

時に辛らつに人の内面を見て、支配・虐待の実態を知る必要があります。
自分の中にも確かにあるものとして心の整理をすることで、問題の本質が見えるのかもしれません。

■教会のカルト化や縛りに巻き込まれないための知恵
日々必要なキリストとの交わり、
教えの風に翻弄(ほんろう)されない避け所として、本音を探り隠さない祈りと聖書読みのシェルターを確立しましょう。
ありのままで安心できる交わりを確保しましょう。避け所となる他の交わりを必ず把握しておき、日ごろから広く親しく深い信頼関係を築きましょう。
安心し信頼できる交わりでカルト化の危険について話し合い、脱出を始めましょう。
教会以外の関わりを大切にしましょう。友人、家族、職場などで理解してくれる方々がいらっしゃると思います。その方の何気ない助言や世間話に、思いやりを感じることは、とても大切です。私たちが、信仰に対する外からの目を持つことにもなります。正しい「証し」は、一方的な押し付けではないことも分かります。

キリストは救いを求めるすべての人と共に居る方です。清い人や会堂や神殿にしか現れない方ではありません。むしろ、自分はふさわしくないと思う人のそばに居るのがキリストです。

私は、5才から信仰50年のクリスチャン2世として、キリスト教会内の教派主義・人間関係・権威化・カルト化によって傷を受けた皆さんと共に祈り、脱出と自立と今後の信仰について現実的視点で触れていきます。
元「主の十字架クリスチャンセンター 鎌倉教会、北九州教会」牧師・脱会者

キリストが人の内に居り住む
キリストは現実を生きられ、人と交わる神だから私も生きられる
それは教会では教えないキリストの今の姿です。
聖書には生き生きと模写されているのに、講壇からはなぜかあまり言わないのです。

誰と人生を一緒に進むのか、本気で信じられる相手でなければいけません。
他人の評判とか妥協ではなく、そこにこそ自分の確信が必要です。

誰と価値観を同じにするのか、自分の本気がどこにあるのか、しっかり決める必要があります。
それでカルトやトラウマの問題を突き放す客観性が出てきます。やさしさによる傷も、どういうことだったのか淡々と見れるようになって、次に行きましょう。

現実や人を避けずにいると、
どうしても在る困難、試練、傷。

そこをキリストが知り認めていること、キリストが共に居る場所として受け止め、
キリストに嘆きや痛みを問いつづけ、願い祈ること。
新たな人との関わり、そして教えてもらえなかったキリストとの現実の新たな関わりが、過去から離れる良いきっかけになります。

教会の外の現実には、新しい自分が認められるために、
これまでとは別の心の満たしは有りますし、それは必要です。

カルト化した教会の悪影響で『神様が責めている』という感覚がある方は、まずは日常で人に認められることに突破口があります。

逃げではありません。人は助けを受けて誰かと共に生きるものです。
共に生き、共に信じるのがカルト化した教会ではないということです。

生きる苦労はありますから、その現実を生きることで、
人との共感や苦労に伴って、
共に居るキリストを知ることが、
心の整理になります。

心は葛藤しざわつくかも知れませんが、過去に引っ張られないために今を完璧ではなく現実的に生きることは必要です。

縛られた関係ではない人との付き合いや、
牧師や教会に押し付けられたキリストではない、
現実の世界に生きたキリストを心の内に迎えることに向かいましょう。
完璧でない世を知り、なお愛すキリストは、完全な人であり完全な神です。

キリストこそ、地上で教職者・指導者たちに目の敵にされ、見せしめに殺され復活した、私たちの先を進む、現実の痛みを知る神です。

かつては、教会に身を捧げようと、仕事をやめるのが勇気ある信仰で、力強く確信を持って生きられる道と、若さから心に感じました。
心の重荷として、縛りとしての伝道と聖書がのし掛かり、価値が教会の使命に片寄っていました。縛りが神による良いものだと思っていました。

私が、30年前に教会献身者になるために仕事をやめるのは、神様にだけ頼るという理想的な道でそこが自分の居場所で、会社勤めの価値が小さく見えました。無謀だと言われても、神がいるなら生きられると本当に思ったのです。
信仰が幼く不十分で、人間的に教会に片寄っていましたが、人はいつでも不十分です。

でも神を求める思いと祈りは神様に届いていたと思えます。
神を求める思いだけは変わらず、今も生きられていますし、祈りを止めてはいません。

以前の現実や環境や家族の中で非常に動揺し絶望し考えが片寄り、そこから離れるために、目に見えるわかりやすい『救い』が無ければ生きられなかったのは確かです。
実際救いには解放があって、様々なしがらみや支配や恐怖や沈んだ心、染み付いたこだわりから息も絶え絶えだった命がつながりました。

訓練や教えと称した縛りや支配が、その熱心な教会にはありましたが、救われる以前よりはずっと良く思えました。
「語りかけ伴う神」が肯定されるその教会と出会うことで救いや解放は確かにあり、過去の悪感情や悪い支配から解放されました。

しかし、その後はその教会の中で人間の虐待的支配の連鎖が起こり、周りに痛みが増してしまうのを経験し、牧師として脱会しました。
今は、聖書信仰や聖霊運動という名の教会の人間的な支配や思い込みから脱け出しつつあって、現実の社会でなすべきこと思うべきことを見つける日々です。

仕事などで縛られることもありますが、
しかし、今は、自由です。しがらみや支配を命や救いの条件だと思う必要はなく、もう気にする必要はありません。

私たちは他人に押し付けられたこだわりや過去の支配に戻る必要はありません。
自由になすべきことをすれば良いだけです。
もちろんその自由こそ神様に与えられた自由ですが、カルト化した教会を出て人に受け入れられ助けられたによる自由でもあります。

そして、以前の教会で思い描いていた『理想の愛の形』は実際には無く、現実に生きる中で何が愛なのかを探し見つけることになっています。

当たり前ですが、生きることは生易しくはなく、厳しいです。
しかし、救われ信仰に生きる者には、確かにそこに愛はあって、キリストが、私たちがどこにいても共に居られますし、周りの人の心の真実や現実を見させられます。

人生を最後まで導くような頼りになる人間のリーダーはいませんが、現実に生きる私たちに、キリストは優しく伴われて離れず、私たちの心と体の必要を教え満たし、それぞれの心の成長のために生かそうとします。

現実が悲惨で厳しいことは、神の存在を否定する理由にはなりません。
キリストの十字架の悲惨さに現実の悲惨さそのものがあらわれています。私たちの神様はこの現実に人として来て体験して、今、人に伴われています。

教会が愛や理想を語る程、現実から離れることがよくあります。
神、キリストは現実を知って、そこに伴うのに、教会が現実を知らなければ、真理や愛を語る資格が教会員や牧師にあるのか、よく考え、問い続けなければなりません。
教会や牧師が偉そうに見えるほど、冷めた目で内心で問い、そのままキリストへの祈りとし、教会に疑問を持ちつつキリストへ愛と信頼と期待をいつも持つ道を求め持つことが必要です。

人はみな、厳しい現実を生きています。
家族や隣人が互いを救うために必死です。真剣に生きる人はみなそうでしょう。
しかし、教会は、そんな世の中に学ばず、内に向き、外を排除して罪人だと言います
しかし、教会の言う罪ある現実にこそ、キリストがそこにいて一人一人に伴ってます。

私たちが避けたい現実を味わう程に、キリストに近く、
キリストが向かう現実に私たちが進むほど、神、キリストの愛と真理を知ることになります。
その場所はきっと人間的な教会の信仰像や理想郷とはかけ離れています。

脱出者の私たちが人生を生きる知恵は、キリストが今どこにいるかを知り、共に負うべき現実を知ることではないでしょうか。

自然の脅威や豊かさも、試練も人には全く平等です。そして神様は耐えられるように導きます。

人生や命を価値あるものにする、その決断をする勇気はどこから来るのでしょう。
神様は、その力を与えるため、現実的な愛の道を地上に来て示されまた。それがキリストの地上での生き様、十字架と復活であり、各々が同じように十字架を背負って生きる道に共にいて優しく示しています。厳しい部分をキリストは背負い、生きる道を教えてくれます。

確かに私たちは地の深い所、罪の結果の淀みの底をできれば見たくないし、行こうとはしません。しかし、現実には人の心は底に沈みがちです。
キリストはあらゆる罪と汚れと痛みの深み、その現場を知り、落ち込む人に手を差し伸べる方です。

確かにキリストは人となって地上に生き、今も人の間に住まわれます。

誰も来ないような底にいても、キリストはそこに共に居られ、待っています。


主は心の打ち砕かれた者をいやし、その傷を包まれる。
詩篇 147:3 JA1955
https://bible.com/bible/81/psa.147.3.JA1955

そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。

神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。
ヨハネによる福音書 1:14‭, ‬18 JA1955
https://bible.com/bible/81/jhn.1.14-18.JA1955

それから群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。

邪悪で罪深いこの時代にあって、わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては、人の子もまた、父の栄光のうちに聖なる御使たちと共に来るときに、その者を恥じるであろう」。
マルコによる福音書 8:34‭, ‬38 JA1955
https://bible.com/bible/81/mrk.8.34-38.JA1955

子たちよ、わたしはまだしばらく、あなたがたと一緒にいる。あなたがたはわたしを捜すだろうが、すでにユダヤ人たちに言ったとおり、今あなたがたにも言う、『あなたがたはわたしの行く所に来ることはできない』。 わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。 互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」。 シモン・ペテロがイエスに言った、「主よ、どこへおいでになるのですか」。イエスは答えられた、「あなたはわたしの行くところに、今はついて来ることはできない。しかし、あとになってから、ついて来ることになろう」。
ヨハネによる福音書 13:33‭-‬36 JA1955
https://bible.com/bible/81/jhn.13.33-36.JA1955

主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。
主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。
主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。
たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。
あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。
わたしの生きているかぎりは必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。
詩篇 23:1‭-‬6 JA1955
https://bible.com/bible/81/psa.23.1-6.JA1955



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■私たちクリスチャンは二人三人でも集まれば、そこを「キリストのみからだ」とすることができます。
洗礼の意味は「キリストへの信仰を持つ、人生の方向転換(悔い改め・回心)の決意」です。(洗礼は、授けた教会の組織員となる会員制度とは別のものです。)
牧師を上位に戴かずに、水平の交わりを心がけ、共に祈り神様を見つめて御声に聞き従うことを望み進む、この決心を共有する交わり・ネットワークを目標とする「キリストのみからだの教会」のあり方を求めます。
現状では「頼れる人として誰か教師を自分の上に置きたがる人の弱さ」を認め、私たちは日々そこから脱出して神様に祈り、主にある交わりをいただきます。同時に、助けを求める人の祈りに、あらゆる形で呼応するクリスチャンであることを決意し、自立への助けが必ずある「みからだのネットワーク」であることを目指しています。(CFF小倉福音センターの祈り・信仰指標から)

■福音派・聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)・聖書主義の人が内包する「カルト化問題」をこの世代で終息できますように。教会が牧師の誤り・マインドコントロール・権威主義・独裁を指摘できずに多くの人を従わせ、モラルや常識など、どの人にもある心の引っかかりや良心をなおざりにして、聖書信仰やリバイバル信仰に熱くなって人を裁き、自分と家族に負担をかけ、2世や若いクリスチャンの離反を招いていることを克服できますように。
また、脱会後の「脱マインドコントロール」のリハビリ・回復と、その実生活の困難さを理解できますように。
これを信仰的姿勢と現実的姿勢で正面から捉えて祈ります。
時に辛らつに人の内面を見ることが必要かもしれませんが、自分の中にも確かにあるものとして心の整理をすることで、問題の本質が見えるのかもしれません。
試練は、神に真に祈り出会うための神の摂理と言えますが、それを認める強さが欲しいですし、求めていく中で見えるものがあります。

■教会のカルト化や縛りに巻き込まれないための3つの知恵
1.祈りと聖書読み−−日々必要な神様との交わりと悔い改めをする、教えの風に翻弄(ほんろう)されない避け所として、各々個人の祈りと聖書読みのシェルターを確立しましょう。
2.二つ以上の教会に安心できる交わりを確保しましょう。−−今の所属教会に並行して、さらに避け所となる他の教会を必ず把握しておき、日ごろから広く他教会・他教派のクリスチャンと親しくし深い信頼関係を築きましょう。安心し信頼できる他教会や他教派の話題を所属教会で積極的に話しましょう。しかし、拒否や非難を受けはじめたら、他の信頼できる教会の交わりにそのことを伝え教会のカルト化の危険について話し合い、転会の準備を始めましょう。そのためにも、信頼あるクリスチャンの友情を日々拡げて大切にしましょう。
3. 教会以外の関わりを大切にしましょう。−−友人、家族、職場などで、ご自分を理解してくれる方々がいらっしゃると思います。その方の何気ない助言や世間話に、思いやりを感じることは、とても大切です。私たちが、信仰に対する外からの目を持つことにもなります。正しい「証し」は、一方的な押し付けではないことも分かります。

−−−真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために−−−
−− 避難の場(シェルター)としての「個人の祈り」を守るために −−
執筆者 仁保裕介(プロフィール
『すべて失望した人の唇に祈りを。』
祈りは、生活の現場から誰にでも自由にできるものです。
キリストは呼び求めるすべての人と共に居る方です。清い人や会堂や神殿にしか現れない方ではありません。むしろ、自分はふさわしくないと思う人のそばに居るのがキリストです。
受洗して教会員になった教会が、「この教会で信仰生活を続けられなければ、救いや信仰の道から外れる」と言うのは、真実ではありません。
 避難の場(シェルター)としてキリストに求める祈りには、「キリストが共に居る交わり」が必ず与えられています。
このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。テーマは重いですが、皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。キリスト教の視点で、成長、試練、十字架、悔い改め、聖化の記事になっています。
ほんの5才から信仰45年のクリスチャン2世として、キリスト教会内の教派主義・人間関係・権威化・カルト化によって傷を受けた皆さんと共に祈り、脱出と自立と今後の信仰について現実的視点で触れていきます。
元「主の十字架クリスチャンセンター 鎌倉教会、北九州教会」牧師・脱会者

キリストはすばらしい方でした。

「自分はもうダメだ」
という意識無意識の支配に屈して、
どうしても脱出できず、
「助けて下さい」と叫ぶばかりでした。

うなだれるばかりの祈りの時、キリストは一言も責めず、共に居てくれます。

そんな無力さが最も神様に近づける時、
無力の底がキリストと顔を合わせる場所ですね。
自我が自由にそこに行ければと思います。
弱さで「助けて」という自分に戻る時です。

でも、社会に出れば、無力のままではつぶされるだけです。
無力の底はあまり誰かに見せるものではありません。
教会に自分を明け渡してしまうのはやめましょう。
教会では、罪人だと意識させられ告白させられ、そのダメージは深いです。
「自分はダメだ」というメッセージとして教会の原罪の教えが完全に心に定着していきました。周りの親や大人も皆そう言うのです。

福音派の基本は、
『ヒューマニズム否定、聖書のみにすべての解決がある』です。
聖書の教えさえ記憶していれば良くて、
他の複雑な問題には実に無頓着です。
「聖書に従えば解決するはずだから、解決しないのは不服従と罪のせい」などと言います。
「心理カウンセリングを受ける」と福音派で言うと「人間的な解決法では根本の(罪の)問題は解決されない」と言う牧師や信徒がいます。でも彼らに相談しても思いつく聖書箇所を並べるだけです。
福音派のアイデンティティは「聖書のみ」。
「救いは全人格のものだから、日常でも聖書に無い他のことは認めない。」
「テレビを見せない。心を悪魔やこの世から守り清く保つ」と言う人までいます。

私は、祈りで叫ぶことでキリストに会えました。

それは福音派では教えられなかったことです。逆に福音派の教えに縛られた不自由さからの叫びがかなり大きいです。

私は今は、キリストはどの人にも共にいると思えます。
「クリスチャン以外にキリストが共にいる」と言うのは福音派では絶対NGワードでしたが、
「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」というキリストのことばは誰にでも約束されています。

御子キリストは唯一の父・御子・御霊の三位一体の神の一位格であり、地上に降りて神でありながら人として産まれ人として生きた神です。
神は人を神に似せて造り、語り合えます。わけのわからない未知の教えを並べてまくし立てるような方ではありません。

福音派は、キリストとの会話というと『霊的に危険』と言ってきました。
福音派は、聖書の逸脱だと言って聖霊派拒絶もしました。

「聖書のみ」が錦の御旗であり、そのために多くの人を否定し、頭で考えて教えた教義で縛り、自分達以外を「救いから落ちたとか、背教者とかサタンにやられた」と言い、
結婚や家庭や子どもたちの進路に圧力をかけたり、非難しました。

福音派は、こんな所業を悔い改めたのでしょうか?
腹の中に隠して、物分かりが良いふりをしているのかもしれない、
と思います。
福音派の問題をずっと書いていますが、
他の場でも、枠組みがあって確信があれば、人は平気で他人を脅迫し縛ることばを善意だと言い張りますし、自由を奪う規則にしてしまいます。信じる未来や発展に必要だと確信しながら。

今の自分がどんな人なのか、いつも問われています。
自分の人としての弱さを認められることが正気であり、キリストに会える場だと思います。
愛と寛容の実は、そこからしか生まれないでしょう。

見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
ヨハネの黙示録3:20


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  福音派・聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)・聖書主義の問題、リバイバル信仰の問題、潜在意識など心理的背景、教会のカルト化問題、クリスチャン2世問題を扱います。その当事者として信仰的姿勢と現実的姿勢で原因考察とお勧めをしております。
  教派信仰問題の経験者の今後のあり方、信仰と救い、社会性、人生の背景、自立した生き方を探求します。内容が辛らつすぎると思われる方は、自己批判・内部告発とお考えいただきたいと思います。

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子供の頃、牧師やクリスチャンは人格者で、人生経験豊富で、よくできた人だと思おうとしていました。依存の対象でした。

その人は『人格者』なのか、それを見極める目が塞がれるのが、宗教者の肩書です。
当たり障りない知識だけ言っていれば、常識感覚がおかしくても認められてしまいます。

キリストが内におられ、人生経験の節々で学びと決断と変化を導かれていることを、
福音派聖霊派の教会や牧師を信じる前に信じたかったです。
そしてこれからはそうしていきます。
様々な経験を通して、教会教派の偏りや毒ある洗脳から、
真っ当な人間に脱して、ちゃんとした人格者、人間であることを探し求め続けます。

神学生の方は、牧師を目指さず、人格者を目指してください。
福音派のヒューマニズム批判など目もくれずにいてください。
聖書知識、神学知識も要りますが、それよりも、
キリストがどう自分を生かしているのか、を知ることが一番大事です。



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  教派信仰問題の経験者の今後のあり方、信仰と救い、社会性、人生の背景、自立した生き方を探求します。内容が辛らつすぎると思われる方は、自己批判・内部告発とお考えいただきたいと思います。

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神様の人への愛と扱いは、完全で繊細ですが、
正直、人の側にはそうは感じられません。

神様は「あの人がかわいそう、どうにかしよう」では決して動いていない気がします。
人の心を根底から変えるようなことをゴールにしていて、でも強引ではなく、一つ一つを確実にステップを踏ませようとします。それは人生経験と言えますが、心地よいことばかりではありません。

そして神様は大胆であり、御子を十字架にかけるという、誰の目にも留まるように分かりやすく、そして罪の悲惨な犠牲の姿を見せ、それを神の愛として示しました。
言葉で細かく決まりを言うより、見た目で人の心に刻まれる形あるメッセージ、今も何よりもインパクトを与えるものです。
これは罪のない神の御子であるキリストだから、人の罪を負えました。
人が真似をすることはできませんが、人が真の愛を学び、他の人に仕える動機になっています。

人にも、繊細な人と、大雑把や大胆さのある人が居ます。
人は不完全ですが、お互い様とか、個性のあらわれ方の違いは面白いです。

ただ、本当の意味でお互いのために何かをしているか、
それとも、自分の居場所のために、自分に都合よく相手を利用するのか。
人を生かすのが愛です。

情が深く尽くす人が「愛」を勘違いして相手をだめにする共依存の話はよく聞きます。

「ゆるし・優しさ」と「心の境界線・自立心」
これを程よく守り、隣人とのお互いの神にある人生を見守ろうと思います。

情が深いように見せて他人を取り込み、利用する話も聞きます。
教会では特に人格の境界を無くすようなことがよくありますし、ブラックでカルトな状態では心まで支配してコントロールします。
はっきりした心の境界線と自立心は、どこででも外せない必要なことです。



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心を失う経験を、『救い』だと信じてきました。

乱暴な指摘や教えや支配で心を失うことは、
教会でも、親子でも、会社でも、今も起きています。
皆がそうしているからと受け入れてきましたが、罠でした。

多くの乱暴な支配は上に立った人間の感情の産物で、自己満足のためです。
悪い支配者は自分の感情を治めず、ぶつける標的を探しています。
彼らに不相応なやさしさや寛容を見せると、隙と見てどこまでも依存し、つけこまれ、はけ口にされます。
やさしい受容的な愛を無意識でも表に出してしまうと、標的にされます。

悪い支配者は自分の中の満たされない思いをぶつけます。それを受け続けた人は連鎖的に無意識に同じ攻撃をはじめてしまいます。

それを止められるのは、痛みの連鎖の悲惨さを自覚する人だけです。

救えるのはキリストです。キリストも人の感情のはけ口にされました。それで十字架につけられました。
父・御子・聖霊の神はすべての人を救おうとして御子キリストを復活させ、人に復活の命を与え続けます。
底なしの沼のような無意識の復讐心や攻撃性について、
心を開く人には共に底に下り、痛みを共有します。

しかし、何が起きているか知り、自覚と祈りと警戒や対応を続けないと、
すぐに無意識の攻撃性は顔を出します。

残念ながら、やさしさと寛容では解決しない問題で、
悪い感情を甘やかすと延々と虐待と傷の連鎖は続き、時代を越えて受け継がれてしまいます。

それでも弱さの自覚と求めがある人をキリストは確実に救います。

挫折や孤独や試練は辛いですが、固くこわばった心に少しの穴を開けて、弱さを引き出します。
そこに少しの助けの手、細くても希望の光が入り、少しの感謝や気づきがあれば救いの糸口になります。
その導きをキリストは絶えずしていて、
キリストの促しをとらえて少しでも動ければ、自分や隣人を救う働きにつながります。

私たちの祈りや奉仕は、支配や説き伏せるためではなく、その小さな促しに従うことだと思います。

人が自分から人を助けられるのは、問題が深くない時だけです。

失われた人の救いは、
私たちも自分を見れば分かる通り、
様々な経験と出会いと不思議な導きです。

救いの大きなビションを語る牧師が、
重大な治められない問題を隠していることはとても頻繁にあって、
自分さえ救えない牧師は本当に存在しています。
見極めないと、巻き込まれます。

問題を自覚して、対処している人は誰か。
キリストがその心にいる人なのか。

大事な人生の学びを無視し勝ちな人には、神様の手を期待しとりなす祈りをするしかありません。
他人を思う通りに動かし振り回し傷つけて犠牲を出し続ける人からは、すぐに必ず一旦離れましょう。
声が大きく親切でも、物静かでも、抱えた問題を自覚していない人が上に立つと、虐待・攻撃・支配が起きます。
巻き込まれたら私たちの心が乗っ取られて加害者になってしまうことが起きます。

連鎖を断ち切る意志があるなら関係を切りましょう。
負えない重荷につぶされる前に。

キリストを本当の意味で友として迎えるのは、そこがスタートになります。

人のために立ちあがるには、
一方的に命じることではなく、
互いに自覚と共感と対話があって、押し付けが無く、気づきのために役に立つ動きが必要だと少しでも確かに分かっていなければいけません。
そんな友となり、そんな人を友として生きたいですね。

もちろんキリストが第一に友です。

まずキリストにゆだねる姿勢で導きに従う心がけを守り、決して無理をしてはいけません。



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信仰は無理することではなく、
自分に素直になることです。

心を掘り進んで、どこまで素直さを、
自分の態度や行動や心に落ち着かせるかがカギです。
キリストと居れば、素でも恐くありません。

キリストと共にいれば、
素が、わがままではなく、理解になります。
その中で行動すると、自分を理解し、他人も理解することにつながります。

平和平安のカギはそこにあるのだと思います。

でも、世の中は強面の皮をかぶって、
不安や弱さを隠そうとします。
保身で時に周りに攻撃的になってしまうのが現実でしょう。

キリストは、現実の中でも素のまんまで生きられるようにしてくれて、
守りと導きでカバーしてくれます。
私たちも恐くて攻撃的になりますが、
それでも『あることだよね』と普通に見ていてくれています。



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ナアマン将軍は濁った水で体を洗うのが、意外で、プライドが邪魔して、神のわざっぽくないから嫌でした。

キリストは、目の不自由な人に泥をつけて「後で水で洗うように」とかいう扱いで。

聖書に出てくる神の人は聖画や映画やドラマの主人公のようにきれいでしょうか。
現実は違います。
皆、当時の普通の人のように、
王以外は埃や塵にまみれて、
王でさえひどい罪を犯したただの人で、
預言者も疑われて死の危険や孤独を嘆いてさまよい歩き、
キリストさえ30年間、周りの誰にも神だとわかりませんでした。
そもそも社会が素朴で遅れていました。

現代でも『神がいれば、神が働けば』と大きく輝いた奇跡を考えますが、

罪や傷から回復復活を特別にすごいものだと言って商売にする教会がたくさんあります。人は変わらないようです。

空気や風や水や野山や鳥のように存在し、
普通に人が息をし、お腹がすき、泣いて笑うように、
普通に語り合い、人となって人格として友として居てくれる。

キリストが隣に居ることは、
友が一緒にいて何でも語り合うように、それは空気のように普通ですが、

『特別感』や『牧師や教会の言う自分が知らない何か』を求めると、
焦りや不安、常に何か足りない感じがしてきます。
違う特別なものが実は存在しない偶像になってるかもしれません。

キリストは私たちを知り、
私たちはキリストを知っています。
私たちの中に神キリストを慕う思いが隠れています。
聖霊が心に語ります。
そして聖書が心に語り、そうだと分かります。
物的証拠は無くても、「確かにそうだ」と私たちの霊は納得しています。

教えたがりの教会や牧師や誰かに教えられた未知のすごい何かで満たそうとすると渇いて見えなくなるので、焦ります。
いつも隣りにいるキリストに満たされたいですね。

そこから始まるのではないでしょうか。

人の目には良く映らなくても、私たちの中にはキリストがいます。

『がんばろう』ではなく、
「生きよう」




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『イエス様』と名を呼べば、無条件でイエス様はそばに居ます。

現実に思うためには、邪魔なものを意識から抜き取ります。

親・家族や他人や教会から受けた、
自己否定、自己イメージの卑下、罪の意識、心の乱れ、深い被害と傷、
心を支配している何かを知り、
どんなに心の問題が泥沼のようでも、そこに微笑みながら決して否定せずに来てくれて隣で一緒に見てくれる方としてイエス様を思うのです。
そして、一緒にどんな方法でも良いので、脱出するのです。
悪い攻めてくるような意識が消えている時はどんな時ですか?
現実に代わりになるものにどんどん取り換えていって良いのです。

イエス様は、どんな人にも、どんな状況でも、
名を呼んでいる時にすでにそこに居てくれて、
離れず、必要な助言・促しを思いに与えます。

邪魔するものを掘り下げるのに、イエス様は問題を一緒に負い、人を導きます。
悪いものを取り除いたり、
無意味だと思う、無視する、関わらない、過去のものにする、
心で拒否し、非難し、「もう関わるな!関係ない」と心に決めて宣告し追い出しつづけます、それが親や教会であっても。
それでも残るものは、イエス様が一生一緒に負ってくれます。もう、一人ではありません。
人には限界がありますが、イエス様の愛と一緒にいる伴いに限界はありません。
人ではなく、神なので、迷惑などということは決してありません。

イエス様が人と一緒にいる事実を否定するのが、実は教会や牧師の教えであることもあります。
清さや、天国・軽挙の条件とか、服従とか、
世と関わりを断て、教会に来れない仕事や用事はつくるな、など、
酷く身勝手な教会都合、牧師都合の要求です。
同じように自分都合で犠牲を求める親や上司や家族もいます。

耐えられない状況なら、現実にそこを出て距離をとることが必要です。
その道も、ぜひ祈り、出会いや導きを求め、イエス様が一緒にいることを意識して動きましょう。




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良い友との関係は心が元気になります。神様とも良い友達ですよね 2021年10月13日





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キリストが友として一瞬も離れず一緒にいること。

それを信じ、共にいるキリストご自身を知り愛していることが、
クリスチャンの意味であり信仰の中心です。

今ある教会の集いではどこでも外側から見える救いの証しや条件を教えて、
その感じ方を語り合い、生活に適用を求めますが、
実際、信仰の中身は個人で深めることです。
教会の教えがその人のその時の必要や求めに合っていないことは普通です。

神の御子、救い主キリストが生きて人に住み、語り導くこと。
それ以外は、中心ではありません。

教会はクリスチャンが行くべき建物や組織なのではなく、
教会はクリスチャンが集うことで成り立つキリストの霊的な体です。

だから、キリストに会っていない人が中心の教会は、キリストの教会とは言えません。

外側の知識は、人を生かす命そのものではありません。
キリストご自身が私たちを生かす命そのものです。

私たちは、教会信者、聖書主義信者、聖霊派信者、ではなく、「キリストにあるもの」です。
「キリストにあるもの」が集うとそこが教会になります。

聖書は聖霊の導きで神と救いを人に解き明かします。

聖霊は聖書を語るのではなく、生きている父、御子のことばを語ります。

救いとは、キリストです。

キリストがどんな方か、キリストと一緒に居て知ることが、そのまま救いにつながります。

ほんとうにそのために聖書をちゃんと読み、牧師に聞くのではなくキリストに話しかけましょう。牧師信者でいることを本当にやめましょう。

ヨハネの黙示録 第2章 口語訳
1 エペソにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『右の手に七つの星を持つ者、七つの金の燭台の間を歩く者が、次のように言われる。
2 わたしは、あなたのわざと労苦と忍耐とを知っている。また、あなたが、悪い者たちをゆるしておくことができず、使徒と自称してはいるが、その実、使徒でない者たちをためしてみて、にせ者であると見抜いたことも、知っている。
3 あなたは忍耐をし続け、わたしの名のために忍びとおして、弱り果てることがなかった。
4 しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
5 そこで、あなたはどこから落ちたかを思い起し、悔い改めて初めのわざを行いなさい。もし、そうしないで悔い改めなければ、わたしはあなたのところにきて、あなたの燭台をその場所から取りのけよう。
6 しかし、こういうことはある、あなたはニコライ宗の人々のわざを憎んでおり、わたしもそれを憎んでいる。
7 耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう』。
https://www.bible.com/bible/81/REV.2.JA1955



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