真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために

避難の場(シェルター)としての「個人の祈り」を守るために

執筆者 仁保裕介(プロフィール)『すべて失望した人の唇に祈りを。』祈りは、生活の現場から誰にでも自由にできるものです。キリストは呼び求めるすべての人と共に居る方です。清い人や会堂や神殿にしか現れない方ではありません。むしろ、自分はふさわしくないと思う人のそばに居るのがキリストです。
  受洗して教会員になった教会が、「この教会で信仰生活を続けられなければ、救いや信仰の道から外れる」と言うのは、真実ではありません。避難の場(シェルター)としてキリストに求める祈りには、「キリストが共に居る交わり」が必ず与えられています。
  このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。テーマは重いですが、皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。キリスト教の視点で、成長、試練、十字架、悔い改め、聖化の記事になっています。
  ほんの5才から信仰45年のクリスチャン2世として、キリスト教会内の教派主義・人間関係・権威化・カルト化によって傷を受けた皆さんと共に祈り、脱出と自立と今後の信仰について現実的視点で触れていきます。
  元「主の十字架クリスチャンセンター 北九州教会」牧師。

あなたがたは生めよ。ふえよ。地に群がり、地にふえよ。

創世記9章で、神は洪水からノアたち家族を救い、新たな歩みをするように祝福し、肉なるものを一斉に滅ぼすことはしないと約束されました。
「人が罪を犯さないなら」という条件つきなのではなく、神からの一方的な契約です。

そうして、イエス・キリストが人と神との交わりを回復する懸け橋として地上に来られ、人類の罪の犠牲・いけにえとして十字架にかかり、神の人への愛と御心がどんなに大きいかを示し、目に見える形で神の側から人に手が差し出されました。
神様を愛し御心を行う応答が、人に委ねられています。

クリスチャンは洗礼を受けて新たな決意を表します。新しく生まれる経験をするわけですが、それ以後、具体的に何をすればよいのでしょうか。教会に通い、牧師の教えを忠実に守ることでしょうか。

私は福音派の教えが基本にありつつ、聖霊派の信仰に心を開いたことよって、「普遍的霊的なキリストのみからだの教会の恵み」をより広く考えることができ、たくさん見えてきたものがあります。

イエスは「人々をすわらせなさい」と言われた。
その場所には草が多かった。そこにすわった男の数は五千人ほどであった。
そこで、イエスはパンを取り、感謝してから、すわっている人々に分け与え、また、さかなをも同様にして、彼らの望むだけ分け与えられた。
ヨハネによる福音書 6:10‭-‬11 口語訳
http://bible.com/81/jhn.6.10-11.JA1955

求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。 すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。 あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。 魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。 だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。
マタイによる福音書 7:7‭-‬12 口語訳
http://bible.com/81/mat.7.7-12.JA1955

神様は御言葉を今も語られ、私たちの霊を生かし満たされます。今は聖書によって啓示が完結していますから、人間への御心は完全に啓示されています。
キリストが十字架にかかり私たちの罪のための犠牲になられた、そこに神の愛が示され、人が受け入れると聖霊が内に住み、罪について義について教え、またイエス・キリストの御言葉の意味を悟らせます。
聖書の啓示が何を意味し何を受け取るべきなのか分かるためには、神様に祈り求める必要があります。
私たちが救いを体験した結果である信仰の証しは、必ずキリストご自身を指し示すものです。
キリスト以外を差す証しは、信仰の証しとは言えません。

弟子たちはイエスに尋ねて言った、
「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。
イエスは答えられた、
「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。 わたしたちは、わたしをつかわされたかたのわざを、昼の間にしなければならない。夜が来る。すると、だれも働けなくなる。 わたしは、この世にいる間は、世の光である」。

イエスがどろをつくって彼の目をあけたのは、安息日であった。
パリサイ人たちもまた、「どうして見えるようになったのか」、と彼に尋ねた。
彼は答えた、
「あのかたがわたしの目にどろを塗り、わたしがそれを洗い、そして見えるようになりました」。
そこで、あるパリサイ人たちが言った、
「その人は神からきた人ではない。安息日を守っていないのだから」。
しかし、ほかの人々は言った、
「罪のある人が、どうしてそのようなしるしを行うことができようか」。
そして彼らの間に分争が生じた。
すると彼は言った、
「あのかたが罪人であるかどうか、わたしは知りません。ただ一つのことだけ知っています。わたしは盲であったが、今は見えるということです」。

「わたしたちはこのことを知っています。神は罪人の言うことはお聞きいれになりませんが、神を敬い、そのみこころを行う人の言うことは、聞きいれて下さいます。 生れつき盲であった者の目をあけた人があるということは、世界が始まって以来、聞いたことがありません。 もしあのかたが神からきた人でなかったら、何一つできなかったはずです」。

イエスは、その人が外へ追い出されたことを聞かれた。そして彼に会って言われた、
「あなたは人の子を信じるか」。
彼は答えて言った、「主よ、それはどなたですか。そのかたを信じたいのですが」。
イエスは彼に言われた、
「あなたは、もうその人に会っている。今あなたと話しているのが、その人である」。すると彼は、「主よ、信じます」と言って、イエスを拝した。
そこでイエスは言われた、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」。
ヨハネによる福音書 9:2‭-39 口語訳
http://bible.com/81/jhn.9.2-39.JA1955

私たち教会は、キリストに出会っている証しを持つ者同士の交わりであり、求める人には個人的にキリストを紹介できなければなりません。
自分をクリスチャンと思う人は、個人的なキリストとの出会いがあるはずなのです。
私たちは皆、キリストご自身によって目を開けられていなければ、キリストを知っているとは言えないのではないでしょうか。

さて、この町からきた多くのサマリヤ人は、「この人は、わたしのしたことを何もかも言いあてた」とあかしした女の言葉によって、イエスを信じた。
そこで、サマリヤ人たちはイエスのもとにきて、自分たちのところに滞在していただきたいと願ったので、イエスはそこにふつか滞在された。 そしてなお多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。
彼らは女に言った、
「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。自分自身で親しく聞いて、この人こそまことに世の救主であることが、わかったからである」。
ヨハネによる福音書 4:39-42 口語訳
http://bible.com/81/jhn.4.39-42.JA1955

現代、キリストに会うには、どこにいてもキリストを求め、主と認め、どんなことも委ねること、そのために祈り、聖書を読むことです。
教会に行くのも、キリストとの個人的な出会いのためであるはずです。
どこかの教会の会員であることが、クリスチャンである条件なのではなく、
しっかりしたキリストとの出会いを持つ人たちとの交わりが聖書にある教会であり、
そのような人たちとの交わりを見分けつつ選ぶことは信仰の大切な条件なんだと思います。

弟子たちはエルサレム神殿に目を奪われましたが、
キリストはご自身を指して三日で建て上げ死から復活すると言われ、
そして私たちを指して、聖霊の宮だと言われました。

私たちは絵に描いた餅を伝えるのではなく、現代の世にキリストご自身を伝えなければなりませんが、それを可能にするのは聖霊です。
5000人の給食の記事が、ただの見世物ではなく、
私たち自身のものとして、一人一人の中でしっかりと霊の飢え渇きを満たすキリストとの出会いとして心に書き記されていなければ、伝道にも証しにもなりません。
誰か他人に起きた素晴らしい奇跡によって救われるわけではなく、一人一人の信仰によって内にキリストが住むという奇跡の体験によります。
聖書や信仰を論じる牧師や神学者や聖人はキリストではありませんから、彼らの信仰姿勢や体験に各々自分の永遠の救いを賭けるなど、確かな信仰とは言えません。
キリストの名ではなく、聖書でもなく、人の名で論じる信仰ほど無駄なものはありません。
見分けるべきは、焦点が十字架にかかられたキリストにしっかり合っているか、ということです。
教会の名に、キリストや聖書や福音や十字架を掲げていても、中身が人の主張であることが今は普通です。それを段々と空しいと思うようになる切なるキリストご自身への求めは、真の救いのための神の聖霊の働きだと思います。

そしてイエスが家にはいられると、…彼らに「わたしにそれができると信じるか」と言われた。彼らは言った、「主よ、信じます」。 そこで、イエスは彼らの目にさわって言われた、「あなたがたの信仰どおり、あなたがたの身になるように」。 すると彼らの目が開かれた。
マタイによる福音書 9:28‭-‬30 口語訳
http://bible.com/81/mat.9.28-30.JA1955

私たちは終わりに霊の体に一瞬にして変えられますが、
地上では、毎日少しずつ目を開かれ、試練と祈りと聖書と日常生活で学ぶ積み重ねによって変えられていきます。
人は「信じます」と叫んでも、そのすぐ後に違うものに目を奪われます。
たとえそうでも焦らず、着実に一つ一つ少しずつ主に委ねるために、しっかりとしたキリストご自身への出会いと信頼と求めのための祈りが毎日なければなりません。そうして、やっとのことで徐々に悟る救いの真実があって、成長と実があります。
どんなに熱心に求めても一進一退であったりもします。ふり返る時に、苦労に共に歩まれたキリストの足跡を見ますが、自分のその頃の実態を思い出すと、「よくぞこんな私に忍耐して愛してくださった」と思えることです。
この葛藤ある積み重ねが長い分だけ、必ず実を結ぶ証しになります。

その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。
あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。
ヨハネの福音書16:23,24 新改訳



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目を覚まして(6) 『信仰によるならすべてが許される』と思う過ちと「赦し」の本質 (2016年11月15日)
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口語訳聖書は、 新共同訳、新改訳よりも前に、日本の全てのプロテスタント教会で使われていたものです。






■私たちクリスチャンは二人三人でも集まれば、そこを「キリストのみからだ」とすることができます。
洗礼の意味は「キリストへの信仰を持つ、人生の方向転換(悔い改め・回心)の決意」です。(洗礼は、授けた教会の組織員となる会員制度とは別のものです。)
牧師を上位に戴かずに、水平の交わりを心がけ、共に祈り神様を見つめて進む、この決心を共有する交わり・ネットワークを目標とする「キリストのみからだの教会」を求めます。
現状では「頼れる人として誰か教師を自分の上に置きたがる人の弱さ」を認め、私たちは日々そこから脱出して神様に祈り、主にある交わりをいただきます。同時に、助けを求める人の祈りに、あらゆる形で呼応するクリスチャンであることを決意し、自立への助けが必ずある「みからだのネットワーク」であることを目指しています。(CFF小倉福音センターの祈り・信仰指標から)

■福音派・聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)・聖書主義の人が内包する「カルト化問題」をこの世代で終息できますように。どの人にもある心の引っかかりや良心をなおざりにして、聖書信仰やリバイバル信仰に熱くなって人を裁き、自分と家族に負担をかけ、2世や若いクリスチャンの離反を招いていることを克服できますように。
これを信仰的姿勢と現実的姿勢で正面から捉えて祈ります。
時に辛らつに人の内面を見ることが必要かもしれませんが、自分の中にもあるものとして考えることで、問題の本質が見えるのかもしれません。

■教会のカルト化や縛りに巻き込まれないための3つの知恵
1.祈りと聖書読み−−日々必要な神様との交わりと悔い改めをする、教えの風に翻弄(ほんろう)されない避け所として、各々個人の祈りと聖書読みのシェルターを確立しましょう。
2.二つ以上の教会に安心できる交わりを確保しましょう。−−今の所属教会に並行して、さらに避け所となる他の教会を必ず把握しておき、日ごろから広く他教会・他教派のクリスチャンと親しくし深い信頼関係を築きましょう。安心し信頼できる他教会や他教派の話題を所属教会で積極的に話しましょう。しかし、拒否や非難を受けはじめたら、他の信頼できる教会の交わりにそのことを伝え教会のカルト化の危険について話し合い、転会の準備を始めましょう。そのためにも、信頼あるクリスチャンの友情を日々拡げて大切にしましょう。
3. 教会以外の関わりを大切にしましょう。−−友人、家族、職場などで、ご自分を理解してくれる方々がいらっしゃると思います。その方の何気ない助言や世間話に、思いやりを感じることは、とても大切です。私たちが、信仰に対する外からの目を持つことにもなります。正しい「証し」は、一方的な押し付けではないことも分かります。

−−−真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために−−−
−− 避難の場(シェルター)としての「個人の祈り」を守るために −−
執筆者 仁保裕介(プロフィール
『すべて失望した人の唇に祈りを。』
祈りは、生活の現場から誰にでも自由にできるものです。
キリストは呼び求めるすべての人と共に居る方です。清い人や会堂や神殿にしか現れない方ではありません。むしろ、自分はふさわしくないと思う人のそばに居るのがキリストです。
受洗して教会員になった教会が、「この教会で信仰生活を続けられなければ、救いや信仰の道から外れる」と言うのは、真実ではありません。
 避難の場(シェルター)としてキリストに求める祈りには、「キリストが共に居る交わり」が必ず与えられています。
このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。テーマは重いですが、皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。キリスト教の視点で、成長、試練、十字架、悔い改め、聖化の記事になっています。
ほんの5才から信仰45年のクリスチャン2世として、キリスト教会内の教派主義・人間関係・権威化・カルト化によって傷を受けた皆さんと共に祈り、脱出と自立と今後の信仰について現実的視点で触れていきます。
元「主の十字架クリスチャンセンター 鎌倉教会、北九州教会」牧師・脱会者



はじめに神は天と地とを創造された。
地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
創世記 1:1-3  口語訳
https://www.bible.com/81/GEN.1.1-3

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。
すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
ヨハネの福音書 1:1-5 新改訳

神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません
ヨハネの福音書4:24 新改訳

兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。 あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。
ローマ人への手紙 12:1-2  口語訳
https://www.bible.com/81/ROM.12.1-2

信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。 昔の人々はこの信仰によって称賛されました。
信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。
ヘブル人への手紙 11:1-3  新改訳


「神は霊である」
このことを理解するのに、祈りはもちろん必要ですが、
「見えるものが目に見えるものからできたのではないこと」
これに思いを向ける必要があります。

目に見える事実だけを信じるのは、信仰とは言えません。
しかし、私たちはどうしてもそうなってしまいます。
だから祈りの中で、目に見えない神様の思いや導きに思いを向け、
目の前の課題について、理解できないこと我慢できないことの意味について、静まって聴き、聖霊の語りかけを探るように思いを向ける必要があります。

このような祈りの習慣は、福音派ではごく一部の方しか持っていないかもしれません。
古典的な信仰書には、多くの記事があるのですが。
(別サイト参考リンク…「オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー」

霊的実質に一部分でも触れると、それがない教会には中々満足できなくなります。

子どもの時から20年間福音派だった私の場合は、
信仰10年目 の高校生になった頃に、聖書に書かれているような 神様の霊的な直接の語りかけに飢え渇いて、 必死に祈り始めました。
そして、社会人になって精神的に自立してから、リバイバル信仰を語る聖霊派の教会に行くことで、「神の語りかけを聞くこと」を肯定でき、否定する縛りから解放されました。

現代の教会では、どうしても牧師がキーマンになってしまい、
目に見えない部分より、目の前にいる説教者の言葉にどうしても信仰の重きを置いてしまいます。
霊的なことを否定しない福音派の牧師でも、体面上霊的なことは言いませんし、
聖霊の働きによってどんな人でも触れられる神様ご自身との交わりを、積極的に勧めることは少ないです。
若い私は、目の前の牧師の見える部分にだけ縛られて、牧師の言うとおりにしなければ救われないと、思い込んでしまっていました。
実際は牧師が人の救いを保証することなど、できるはずが無いのにです。

牧師であっても、地上の限界を越えられない、ただの人です。
教会の誰かが地上の人生を終えて天に行っても、そこに牧師は一緒にいません。牧師の教え通りにしていても、キリストを知らなければ、誰も私たちの救いの証明をしてはくれないのです。

牧師であっても皆人間で、清められてはおらず、時に自分勝手に牧会したり、裁いたり、常識がなかったりします。
牧師の実のある奉仕も「一瞬芸」だと考えるべきです。
わざが起きても、牧師が正しい証拠にはなりません。わざは神に属するものであり、受け手の信仰によって起こるもので、決して語る側の牧師のものではないからです。
ある時は圧倒的な説得力ある満たしがあり、その数分後には身勝手な間違いを犯すのが私たちであり、牧師も同じです。

クリスチャンは互いの弱さを知り、受け容れ合うことで、互いの弱さに働く神の力に与り、その恵みを知り、主を賛美するために生きています。

私たちのこの人生の中で出会うあらゆるものを吟味し、主からの良いものに目を留めたいのです。

私たちの人生は教会だけにあるのではなく、世の中で様々な経験をします。
吟味とは、
神からのものかどうか試し、神以外の部分を切り分けることです。
まず、教会のものや信仰的霊的と思えるものを世の日常でも試し吟味し切り分け、
また、世のものを祈りと聖書に照らして吟味し切り分けます。
しかし、一方的な思い込みや直感で性急に裁いたり切り捨てたりはせず、
逆に神があわれみと寛容によって待っている方々が大勢いて、神が許容されている事実の中にこそ、神の愛と忍耐の本質を見ます。
赦しの恵みを最大に受けているのは、罪の最も大きい人ですが、それが自分であると気づくことが、救いの本質であり、
どんな闇の場でも、神の愛の光が届く信仰になります。

目に見える教会的な基準が正しいとは限りません。
私たちが切り分けた世のものの中で働くキリストの姿に気づく時が来るかもしれません。
安心できる所属教会の中から、外に向かうように促されたりします。
教会の中で飢え渇いて自分から外に出ることになったり、
信仰義認と言われても残っている自分の罪に絶望的になったり、

神様は生きており、子どものように素直に慕い求める人を見つめ、手を伸ばし助けます。そこが教会堂でも、絶望の場でも、まったく変わりなく、神様は共に居るのです。
私たちは、目に見えない神様、人の理解を越えた愛の方を、素直に慕い求めているでしょうか。

神様は、正義のある所に姿をあらわすのではなく、罪を知り悔いる人の所に居ます。福音書によれば、まっすぐに聖霊の働きを期待できるのは、自分の正義を主張する人ではなく、悔い嘆きあわれみを願う人です。
たとえ心が責めても大胆に神の御座に近づくこと、それが信仰です。
その信仰から出ていないこと、自分を義とすることは、皆罪です。

"というのは、神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。 そして、神のみまえには、あらわでない被造物はひとつもなく、すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされているのである。この神に対して、わたしたちは言い開きをしなくてはならない。
さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。 この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。
だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。"
ヘブル人への手紙 4:12-16  口語訳
https://www.bible.com/81/HEB.4.12-16


そして、正義を語る人が行う霊的なわざだからといって、みな信用してはいけません。


"愛する者たちよ。すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。多くのにせ預言者が世に出てきているからである。
あなたがたは、こうして神の霊を知るのである。すなわち、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白する霊は、すべて神から出ているものであり、 イエスを告白しない霊は、すべて神から出ているものではない。これは、反キリストの霊である。あなたがたは、それが来るとかねて聞いていたが、今やすでに世にきている。"
ヨハネの第一の手紙 4:1-3  口語訳
https://www.bible.com/81/1JN.4.1-3


「イエス・キリストが肉体をとって来られたことを告白する」という意味は、非常に重要です。
完全な神であり、完全な人であって、罪の無いお方です。人の罪を負いあがないを出来る罪の無いお方は、唯一イエス・キリストだけであって、その他には一人もいないのです。
自分がどんな神を信じているのかを考える必要があります。
天地を創造された神であるのに、人となって罪人の間で人生を送り、あわれみ、教え、わざをなし、ゲッセマネで苦悩し、世の欲で告発され鞭打たれ、人の罪を背負って十字架につかれたのです。
そして罪の刑罰である死に打ち勝って復活し、今も霊において生きて、私たちの中に住み、私たちが住むこの世界のあらゆる人の間で休むことなく働かれています。
キリストは、正しい人ではなく、罪人を救うために今も働かれているのです。


"ただ恐れるのは、エバがへびの悪巧みで誘惑されたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する純情と貞操とを失いはしないかということである。
というのは、もしある人がきて、わたしたちが宣べ伝えもしなかったような異なるイエスを宣べ伝え、あるいは、あなたがたが受けたことのない違った霊を受け、あるいは、受けいれたことのない違った福音を聞く場合に、あなたがたはよくもそれを忍んでいる。"

コリント人への第二の手紙 11:3-4  口語訳
https://www.bible.com/81/2CO.11.3-4

"あなたがたはかつて暗闇であったが、今は主にある光なのだから。
あなたがたは光の子として歩み、
――光の〔もたらす〕実はあらゆる善、義、真実にあるのだから ――
何が主の気に召すことなのかを吟味しなさい。
暗闇の不毛な行ないに加担せず、むしろ逆に、反駁してやりなさい。
彼らによって隠密になされていることは口にすることさえ醜悪なのだから。
しかしすべてのものは反駁されれば、光によってあらわにされる。
事実、すべてあらわにされるものは光である。
それゆえ、こう言われている。
起き上がれ、眠れる者よ。
立ち上がれ、死人たちの中から。
さればキリストが汝に光輝くであろう。"

エペソ人への手紙 5:8-17  岩波翻訳委員会訳


私たちが生きる現実では教会でさえ間違い、牧師も信徒も、世で搾取する者も、国も、互いに相手を思い通りに縛ろうとし、自分の正義を通そうとします。他人を自分の欲の犠牲にする身勝手な人の罪の起こす問題が、例外なくあらゆる場所にあります。
法律や聖書のねじまげて、都合良い解釈で自分の欲を人に認めさせようとします。
これは、ずっと変わらない人の現実です。
ただ、イエス・キリストに向かい、罪に痛み、それをいつも認めて、神の働きを絶えず受け入れようと主を慕い求める人を、この現実の中で神様は必ず救われます。


"試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。
だれでも誘惑に会う場合、「この誘惑は、神からきたものだ」と言ってはならない。神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない。
人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。
欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。
愛する兄弟たちよ。思い違いをしてはいけない。 あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。
父は、わたしたちを、いわば被造物の初穂とするために、真理の言葉によって御旨のままに、生み出して下さったのである。
愛する兄弟たちよ。このことを知っておきなさい。
人はすべて、聞くに早く、語るにおそく、怒るにおそくあるべきである。 人の怒りは、神の義を全うするものではないからである。
だから、すべての汚れや、はなはだしい悪を捨て去って、心に植えつけられている御言を、すなおに受け入れなさい。御言には、あなたがたのたましいを救う力がある。"

ヤコブの手紙 1:12-21  口語訳
https://www.bible.com/81/JAS.1.12-21


主からのものを よく見分けつつ 受け取る。
これが聖書の教えであり、神様の御心です。

私たちは、あまり深く考えなくても、間違いのない良いものを簡単に手に入れられる、と思い勝ちです。
しかし、信仰とは、何が完全で神のみ心か、探求し見分けるものです。
教会が、完全で安全なパッケージにして分かりやすく救いを届けることではありません。

求めることで神に出会う一人一人を通して神が証しされていることを、互いに吟味して、互いに教え戒め合うのが教会のあるべき姿です。

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■私たちクリスチャンは二人三人でも集まれば、そこを「キリストのみからだ」とすることができます。
洗礼の意味は「キリストへの信仰を持つ、人生の方向転換(悔い改め・回心)の決意」です。(洗礼は、授けた教会の組織員となる会員制度とは別のものです。)
牧師を上位に戴かずに、水平の交わりを心がけ、共に祈り神様を見つめて進む、この決心を共有する交わり・ネットワークを目標とする「キリストのみからだの教会」を求めます。
現状では「頼れる人として誰か教師を自分の上に置きたがる人の弱さ」を認め、私たちは日々そこから脱出して神様に祈り、主にある交わりをいただきます。同時に、助けを求める人の祈りに、あらゆる形で呼応するクリスチャンであることを決意し、自立への助けが必ずある「みからだのネットワーク」であることを目指しています。(CFF小倉福音センターの祈り・信仰指標から)

■福音派・聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)・聖書主義の人が内包する「カルト化問題」をこの世代で終息できますように。どの人にもある心の引っかかりや良心をなおざりにして、聖書信仰やリバイバル信仰に熱くなって人を裁き、自分と家族に負担をかけ、2世や若いクリスチャンの離反を招いていることを克服できますように。
これを信仰的姿勢と現実的姿勢で正面から捉えて祈ります。
時に辛らつに人の内面を見ることが必要かもしれませんが、自分の中にもあるものとして考えることで、問題の本質が見えるのかもしれません。

■教会のカルト化や縛りに巻き込まれないための3つの知恵
1.祈りと聖書読み−−日々必要な神様との交わりと悔い改めをする、教えの風に翻弄(ほんろう)されない避け所として、各々個人の祈りと聖書読みのシェルターを確立しましょう。
2.二つ以上の教会に安心できる交わりを確保しましょう。−−今の所属教会に並行して、さらに避け所となる他の教会を必ず把握しておき、日ごろから広く他教会・他教派のクリスチャンと親しくし深い信頼関係を築きましょう。安心し信頼できる他教会や他教派の話題を所属教会で積極的に話しましょう。しかし、拒否や非難を受けはじめたら、他の信頼できる教会の交わりにそのことを伝え教会のカルト化の危険について話し合い、転会の準備を始めましょう。そのためにも、信頼あるクリスチャンの友情を日々拡げて大切にしましょう。
3. 教会以外の関わりを大切にしましょう。−−友人、家族、職場などで、ご自分を理解してくれる方々がいらっしゃると思います。その方の何気ない助言や世間話に、思いやりを感じることは、とても大切です。私たちが、信仰に対する外からの目を持つことにもなります。正しい「証し」は、一方的な押し付けではないことも分かります。

−−−真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために−−−
−− 避難の場(シェルター)としての「個人の祈り」を守るために −−
執筆者 仁保裕介(プロフィール
『すべて失望した人の唇に祈りを。』
祈りは、生活の現場から誰にでも自由にできるものです。
キリストは呼び求めるすべての人と共に居る方です。清い人や会堂や神殿にしか現れない方ではありません。むしろ、自分はふさわしくないと思う人のそばに居るのがキリストです。
受洗して教会員になった教会が、「この教会で信仰生活を続けられなければ、救いや信仰の道から外れる」と言うのは、真実ではありません。
 避難の場(シェルター)としてキリストに求める祈りには、「キリストが共に居る交わり」が必ず与えられています。
このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。テーマは重いですが、皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。キリスト教の視点で、成長、試練、十字架、悔い改め、聖化の記事になっています。
ほんの5才から信仰45年のクリスチャン2世として、キリスト教会内の教派主義・人間関係・権威化・カルト化によって傷を受けた皆さんと共に祈り、脱出と自立と今後の信仰について現実的視点で触れていきます。
元「主の十字架クリスチャンセンター 鎌倉教会、北九州教会」牧師・脱会者

「罪の赦し」は、
キリストの十字架の犠牲を信じる信仰では、
「神の義」とされることです。

そして、私たちは日常では多くの人と共に生かされ、許容し合って生きています。
気に入らない、自分の基準に合わない、
などと力づくで排除しないし、互いの生存と権利を受容し合います。
これで、身近な平和が保たれています。
社会を大きく見れば、欠点までも赦し合っていて、その中で私たちも共に生きています。

「情がわく」感覚は、相手が正しいからといより、問題があっても受け容れるというもので、家族のようなとても親しい肌感覚を自然に持つものです。
世の中は、正義よりも情から生まれる助け合いで成り立っている部分がかなりあると思います。

この反対側に、律法主義、戒律主義、教条主義、権威主義、権利意識などがあります。
ここに『純粋』に生きようとするのは孤独です。

ヤマト運輸が宅急便の時間指定サービスの一部を取りやめ、配達員がサービス残業しない勤務形態を労使で模索しています。
ヤマトが始めた便利なサービスが働く環境を厳しくしていたわけですが、
荷物の受け取る客側は、もうこのサービスが当たり前だと思っていました。
時間やコストに厳しいサービスの要求をすることで現場が過酷になることも、それが客の当然の権利だと思ってしまっていたのです。
ここ何十年も社会全体で、人を疲弊させ追いつめてまでも、
採算に見合わないような低コストで高いサービスの要求を、『当然のサービスだ』と消費者が普通の感覚で欲っするようになりました。

私たちはそんな高サービス社会に生きる間に、社会で救われるべき弱者を、権利意識や少しの負担感や制度を盾に切り捨ててきたのではないでしょうか。
会社とか役所とか病院とか福祉のサービスで、
互いに相手の顔を見ずに、
制度やサービスだけを要求する習慣が普通になり、
『自分には要求できる権利と拒否できる権利がある』という思いが、この時代の私たちの意識を造ってきたのかもしれません。

クリスチャンは、ただ愛し合いなさいという神の命令を守ることで実を結びます。
しかし、愛と赦しを、内向きな教理の型に合うようにしか教えていない教会は、人を縛ります。

私もそうだったのですが、
反発できず縛られた子供たちは、
聖書や教会からいつも罪を責められている思いを教会の大人たちと共有することで居場所を見つけます。
そして、誰かのために服従して犠牲的に生き、それを『絶対の正しさだ』『信仰的で伝道的だ』と呼んだりします。
そこにしか自分の居場所を見つけられないのは、実際は孤独であり、本音のふれあいがありません。

社会での苦労は皆がするものですが、互いの助け合いも当然にあるものです。
しかし、縛り支配するような親や教会を捨てられないでいると、
親や教会の教えだけで世間を下に見てしまい、隣人と受容し合う「情け」を拒否するような壁を造ってしまうのです。

自立するために、
あらゆる人が直面する世の現実に神様も共に対面しておられる
地上に来られたキリストの愛の真実について追求して、
それまで習っていた教えを見直すべきです。

福音はすべての人に開かれ、
知者ではなく弱さから求める人にこそ分かるもの、
このポイントに注目すべきでしょう。

私たちは、弱さを覚えつつも、
「教会が語る『救い』」に力を受けている部分があります。
それが人を縛り裁く権威主義や、救いを受けて当然という権利意識になっていることが、心の片隅で起きているかもしれません。
そうすると、他人への裁きや共感の無い態度が頭をもたげてきます。
本当に十字架にかかったキリストの福音なら、そうはならないはずなのに。

強い確信のための知識や権威よりも、
助けを求める誰にでもキリストの愛が分かり、
素直に十字架を受け入れられる福音のあり方を探すべきです。

「キリストの伴いと助けがある」
これが聖書探求と日常生活での探求の重要なテーマであるべきです。

私たちは、出会う人の心の願いにできるだけ寄り添いたいわけですが、
私の場合は過去の問題や教会との関係、教理的縛りの葛藤をまだ心の奥底に抱えていて、
まだ毎日脱出の模索が続いている中での出会いになっています。
誰でも何かを抱えており、その中で、互いがそれぞれの道で気づきつつ進んでいるのだと感じます。
過去に痛み葛藤して臆病になり、
恐怖に凝り固まってしまった縛りに心が折れている時に、
勇気のある人の人情に出会うと本当にありがたいと素直に思います。

人との出会いは、
クリスチャンが一方的に上から福音の恵みを与えるのではなく、
誰かに出会う度に互いが発見する福音の真実や人の心の真実があり、
お互いが学んで新たなものに触れられる機会だと思います。

目に見える教会の教えが絶対なのではなく、
私たち一人一人がキリストに出会い祈り、
世に出て様々な出会いや体験をして、
聖書のキリストの言葉、キリストが触れた使徒の証しが、何を示しているのか、
知識によらずに弱い人が強くなるように開かれる福音の真理が実際はどんなものなのか、
地上の人生のすべてを通して教えられ、気づかされ続けるのだと思います。

一見全く価値や意味が分からない出会いや体験もあり、
忌み嫌いたい、目を背けたいような愚かさや偽りや痛みの現実にも出会いますが、
その中で知る葛藤する人の情や現実の弱い姿があり、
キリストが決して目を背けず、救いの道を開こうと伴っているのを見させられます。
そして、自分もその中の一人であって、
自分の愚かさ思い込み押し付けもある中で受け容れてもらっているのを見つけます。

人の現実にキリストが伴い、人が弱さからお互い何かを感じ学び発見する場に、私たちも生きているのだと思います。
「お互い様」というキーワードによって、新たな発見の扉が並ぶ場に留まれます。

無理矢理で一方的な使命感や奉仕の精神で、教会や社会に向かうのは、負えない重荷です。
キリストが伴う発見の場には、何が弱さでありのままの姿か、何が用いられるのか、何が平和で何が愛なのか、いつも意外な気づきがあり、
振り向けば意識していなかった実がなっているのを見ることができます。
どなたもそれを感じることができます。

福音派聖霊派の教会では、神以外、教会以外のすべてのものを否定しがちですが、キリストはどこにでも共におられるのです。
世界のただ中、社会のただ中で、雄々しく強くあるというのは、あわれみ深く弱い人に伴うキリストご自身と共にあってのことです。

ある教会の牧師の一方的な教えを守り行うために頑張るのではなく、
逆に教えを吟味し見分け、何が良いもので神のみこころにかなうのか、私たちの生きる場所で試すべきです。
その上で、祈り、聖書を読みましょう。必ず発見があり、深いみことばの意味が分かります。

このブログの関連記事:
生き方、働き方、与えられた「命」をどうするのか (2016年04月02日)



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口語訳聖書は、 新共同訳、新改訳よりも前に、日本の全てのプロテスタント教会で使われていたものです。





■私たちクリスチャンは二人三人でも集まれば、そこを「キリストのみからだ」とすることができます。
洗礼の意味は「キリストへの信仰を持つ、人生の方向転換(悔い改め・回心)の決意」です。(洗礼は、授けた教会の組織員となる会員制度とは別のものです。)
牧師を上位に戴かずに、水平の交わりを心がけ、共に祈り神様を見つめて進む、この決心を共有する交わり・ネットワークを目標とする「キリストのみからだの教会」を求めます。
現状では「頼れる人として誰か教師を自分の上に置きたがる人の弱さ」を認め、私たちは日々そこから脱出して神様に祈り、主にある交わりをいただきます。同時に、助けを求める人の祈りに、あらゆる形で呼応するクリスチャンであることを決意し、自立への助けが必ずある「みからだのネットワーク」であることを目指しています。(CFF小倉福音センターの祈り・信仰指標から)

■福音派・聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)・聖書主義の人が内包する「カルト化問題」をこの世代で終息できますように。どの人にもある心の引っかかりや良心をなおざりにして、聖書信仰やリバイバル信仰に熱くなって人を裁き、自分と家族に負担をかけ、2世や若いクリスチャンの離反を招いていることを克服できますように。
これを信仰的姿勢と現実的姿勢で正面から捉えて祈ります。
時に辛らつに人の内面を見ることが必要かもしれませんが、自分の中にもあるものとして考えることで、問題の本質が見えるのかもしれません。

■教会のカルト化や縛りに巻き込まれないための3つの知恵
1.祈りと聖書読み−−日々必要な神様との交わりと悔い改めをする、教えの風に翻弄(ほんろう)されない避け所として、各々個人の祈りと聖書読みのシェルターを確立しましょう。
2.二つ以上の教会に安心できる交わりを確保しましょう。−−今の所属教会に並行して、さらに避け所となる他の教会を必ず把握しておき、日ごろから広く他教会・他教派のクリスチャンと親しくし深い信頼関係を築きましょう。安心し信頼できる他教会や他教派の話題を所属教会で積極的に話しましょう。しかし、拒否や非難を受けはじめたら、他の信頼できる教会の交わりにそのことを伝え教会のカルト化の危険について話し合い、転会の準備を始めましょう。そのためにも、信頼あるクリスチャンの友情を日々拡げて大切にしましょう。
3. 教会以外の関わりを大切にしましょう。−−友人、家族、職場などで、ご自分を理解してくれる方々がいらっしゃると思います。その方の何気ない助言や世間話に、思いやりを感じることは、とても大切です。私たちが、信仰に対する外からの目を持つことにもなります。正しい「証し」は、一方的な押し付けではないことも分かります。

−−−真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために−−−
−− 避難の場(シェルター)としての「個人の祈り」を守るために −−
執筆者 仁保裕介(プロフィール
『すべて失望した人の唇に祈りを。』
祈りは、生活の現場から誰にでも自由にできるものです。
キリストは呼び求めるすべての人と共に居る方です。清い人や会堂や神殿にしか現れない方ではありません。むしろ、自分はふさわしくないと思う人のそばに居るのがキリストです。
受洗して教会員になった教会が、「この教会で信仰生活を続けられなければ、救いや信仰の道から外れる」と言うのは、真実ではありません。
 避難の場(シェルター)としてキリストに求める祈りには、「キリストが共に居る交わり」が必ず与えられています。
このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。テーマは重いですが、皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。キリスト教の視点で、成長、試練、十字架、悔い改め、聖化の記事になっています。
ほんの5才から信仰45年のクリスチャン2世として、キリスト教会内の教派主義・人間関係・権威化・カルト化によって傷を受けた皆さんと共に祈り、脱出と自立と今後の信仰について現実的視点で触れていきます。
元「主の十字架クリスチャンセンター 鎌倉教会、北九州教会」牧師・脱会者

置かれた場所にただいるだけで、果たしている役割が必ずあります。

無理矢理な理想追求や逃避も無駄ではありません。
追求でも逃避でも、そこに行かなければならなかったなら、それも必然です。

ヨナのようにあっちこっちに行って、自分の居場所と自分がそこにいる価値に気づき、神の声を聞き、神のあわれみと忍耐の広さ深さと大きさを知る、それが人生でしょう。

気を使って、人のため神のため信仰のために良かれと求めていた理想が、
人生の荒波でもまれて余計な自己満足だと分かる場合もあります。
もちろん、意志を持って人に仕えようとするのは大切です。
ただ、自分が様々な事情で居ることになった場には、飾らずにありのままで役割がある。何も加えず色付けせず。それこそが神からの賜物ではないでしょうか。

また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。
しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
マタイによる福音書 6:28,29 JA1955
http://bible.com/81/mat.6.28,29.JA1955

人が神の国を頭に描いて実現するのではなく、
お互いに、居るだけで、他の誰かが生きるための役割を持ちます。

クリスチャンは、そこに居るだけで命の泉がわき出ています。自分では意識しなくても。

人間的使命感の意識と、その働きの報いを求める権利意識は表裏一体で、誰にでもあるものでしょう。もちろん、その中で良い実を結ぶものもあります。

でも、私たちが地上で見て学ぶ神の国は、大勢からは見えないところで神の御手による実を結ぶ部分が本当はかなり多いのではないでしょうか。

各々生かされて居させられている自分を知り、出会わせられているたくさんの人の生を知り、互いが互いを生かしていることを知り学ぶこと。
その中で、キリストが、一人一人をとりなして伴っていることを知り、その一人一人の神の導きに視線を合わせ見て、人知を超えた愛と赦しと導きを学ぶこと。
そのようにして神を知ること。

聖書を読み、祈ることは当然として、様々に関わる世と人との出会いに視線を合わせることも大切だと思います。


そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。
イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。
マタイによる福音書 18:21‭-‬22 口語訳1955
http://bible.com/81/mat.18.21-22.JA1955

スコセッシ監督の映画「沈黙」を見ました。
私は、神様がキチジローを赦すと思います。

神様が見ているのは、
踏み絵を踏む踏まないよりも、
弱さを告白し祈ることの方だと、私は思います。
踏まずに処刑される時の激しい痛みの祈りも、
踏んで心が責められ赦しを乞う祈りも、
神様は同じように真摯に聴かれると思います。

しかし、踏み絵を踏まないのと、踏んで赦しを請う祈りの二つが明確に区別され、この世の教会の交わりで対立してしまうのは、教会・教職者・信徒による体裁へのこだわりが強すぎるのだと思います。
偶像にささげた肉を食べることにつまづく人と、食べても平気な人の話に通じると思います。

どちらが優れているとか、正しいとかいう話は無益で、ただ救いのために、それぞれがどう祈り行うかでしょう。
信仰が強かろうが弱かろうが、お互いに学び合い、愛し合い、弱さを知り赦し合う関係なのではないでしょうか。
神様はただ、どちらの人の霊も大事に思い救おうとされているのですから。

一匹の羊と、99匹の羊の話では、「正しい」と「迷い出た」という区別がありますが、「何が正しいのか」、神が「正しい」とされる信仰を信仰者各個人が完全に理解しているのだろうか、と思います。
私が会ってきた『忠実で正しい クリスチャンたち 』は、今になって思えば皆不完全でした。もちろん私も同じです。理解が至らず、人間的なやる気の中で右往左往してきました。

キリストの十字架であらわされている神の愛とあわれみによれば、神殿の奥に進めずに目も上げられずに胸を打ちたたき罪を嘆き悔いる人を義とされましたが、
これは人の内面のことであり、
公に人前で目立つように祈ると義とされないのですから、
公に正しい人は誰かなど実際には分からないのではないでしょうか。

私たちにはキリストがおられる、
罪を認める人を白くされ義と認め、罪があっても用いてくださる、
ただそれだけで生きていければ、神様が行く先々で用いて下さる、
ただそれだけの人生を、人の目で見て、私たちが受け入れられるかどうか。
一生、信仰は試されます。

このブログの関連記事:
神の目からは「あなたに、ただ、いてほしい」。教会目線だと… (2017-03-01)

神の沈黙には意味がある (2015年06月11日)



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口語訳聖書は、 新共同訳、新改訳よりも前に、日本の全てのプロテスタント教会で使われていたものです。





■私たちクリスチャンは二人三人でも集まれば、そこを「キリストのみからだ」とすることができます。
洗礼の意味は「キリストへの信仰を持つ、人生の方向転換(悔い改め・回心)の決意」です。(洗礼は、授けた教会の組織員となる会員制度とは別のものです。)
牧師を上位に戴かずに、水平の交わりを心がけ、共に祈り神様を見つめて進む、この決心を共有する交わり・ネットワークを目標とする「キリストのみからだの教会」を求めます。
現状では「頼れる人として誰か教師を自分の上に置きたがる人の弱さ」を認め、私たちは日々そこから脱出して神様に祈り、主にある交わりをいただきます。同時に、助けを求める人の祈りに、あらゆる形で呼応するクリスチャンであることを決意し、自立への助けが必ずある「みからだのネットワーク」であることを目指しています。(CFF小倉福音センターの祈り・信仰指標から)

■福音派・聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)・聖書主義の人が内包する「カルト化問題」をこの世代で終息できますように。どの人にもある心の引っかかりや良心をなおざりにして、聖書信仰やリバイバル信仰に熱くなって人を裁き、自分と家族に負担をかけ、2世や若いクリスチャンの離反を招いていることを克服できますように。
これを信仰的姿勢と現実的姿勢で正面から捉えて祈ります。
時に辛らつに人の内面を見ることが必要かもしれませんが、自分の中にもあるものとして考えることで、問題の本質が見えるのかもしれません。

■教会のカルト化や縛りに巻き込まれないための3つの知恵
1.祈りと聖書読み−−日々必要な神様との交わりと悔い改めをする、教えの風に翻弄(ほんろう)されない避け所として、各々個人の祈りと聖書読みのシェルターを確立しましょう。
2.二つ以上の教会に安心できる交わりを確保しましょう。−−今の所属教会に並行して、さらに避け所となる他の教会を必ず把握しておき、日ごろから広く他教会・他教派のクリスチャンと親しくし深い信頼関係を築きましょう。安心し信頼できる他教会や他教派の話題を所属教会で積極的に話しましょう。しかし、拒否や非難を受けはじめたら、他の信頼できる教会の交わりにそのことを伝え教会のカルト化の危険について話し合い、転会の準備を始めましょう。そのためにも、信頼あるクリスチャンの友情を日々拡げて大切にしましょう。
3. 教会以外の関わりを大切にしましょう。−−友人、家族、職場などで、ご自分を理解してくれる方々がいらっしゃると思います。その方の何気ない助言や世間話に、思いやりを感じることは、とても大切です。私たちが、信仰に対する外からの目を持つことにもなります。正しい「証し」は、一方的な押し付けではないことも分かります。

−−−真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために−−−
−− 避難の場(シェルター)としての「個人の祈り」を守るために −−
執筆者 仁保裕介(プロフィール
『すべて失望した人の唇に祈りを。』
祈りは、生活の現場から誰にでも自由にできるものです。
キリストは呼び求めるすべての人と共に居る方です。清い人や会堂や神殿にしか現れない方ではありません。むしろ、自分はふさわしくないと思う人のそばに居るのがキリストです。
受洗して教会員になった教会が、「この教会で信仰生活を続けられなければ、救いや信仰の道から外れる」と言うのは、真実ではありません。
 避難の場(シェルター)としてキリストに求める祈りには、「キリストが共に居る交わり」が必ず与えられています。
このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。テーマは重いですが、皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。キリスト教の視点で、成長、試練、十字架、悔い改め、聖化の記事になっています。
ほんの5才から信仰45年のクリスチャン2世として、キリスト教会内の教派主義・人間関係・権威化・カルト化によって傷を受けた皆さんと共に祈り、脱出と自立と今後の信仰について現実的視点で触れていきます。
元「主の十字架クリスチャンセンター 鎌倉教会、北九州教会」牧師・脱会者

愛は、
「あなたに、ただ、いてほしい」
とだけ言います。

『あなたは、ここにいるべきだ』
と迫るのは、縛りであり、愛ではありません。

具体的な条件をつけて縛りを迫るのは、聖書の福音ではありません。
私たちの存在や命について、まず愛して、ただ生を喜ばれるのが神様です。
私たちは神がまず愛されたことを知り、神を愛し、この真実な愛の神と共に居たいと願うのです。
そしてこの神との関係の中で、私たちが愛され喜ばれる生そのものが、神の証しとなります。

『この教会にいなければ、神の愛と喜びは無い』と縛られる場や状況は、
神からの召しや導きではなく、この世の縛りです。
牧師の教える神が正しいのかどうかは、牧師が実らせている実で見分けるべきです。
そして、地上にいる間は、人間的な縛りを避けられないこともあります。

神様は、この世の評価や判断に縛られることなく、地上のどの人にも、どの場にいる人にも近く居て、助けようとして伴ってます。
それぞれの場所や状況の中で、生きる支えとなられ、その後の道を導きます。
教会に心からの献身をして、人間的な縛りを救いに含まれたものとして受け入れてしまっても、神ご自身に少しでも触れていれば、回復の道を導かれます。

神様の側では、場所や状況にこだわりは無く、ただすべてのことを私たちの益になるようにされます。
困難の中でも語りかけ、聖書を悟らせ、キリストの十字架を理解させ、キリスト・聖霊の内住・伴いを分からせます。

救いを求める私たちの所に、神様は必ず共にいます。

このシンプルなメッセージに、教会は長い間、人間的に解釈を飾り、権威的重みを加えてきており、これが縛りになってきました。
人の集団では必ず起こることです。
人生に尊敬を集める重みを得たい人が居り、救いに感動や権威を演出したい教会や教職者が歴史上も現代もずっと居ます。誰にでもある誘惑でしょう。

そんな余計なものを、教会で教えられた『福音』から切り分けて剥ぎ取るのが可能かどうかは、一人一人の決断によると思います。
神の福音はキリストで完結しており、求める人には必ず聖霊が働きます。
ただし、その中にいても目に見えるものに私たちは心を奪われてしまうのです。

キリストのフットプリントのお話のように、
神の手、キリストの伴いは、気づいていないだけで、
私たちが思う以上に、非常に多くの場面で私たちと共にあり、
家族にあり、隣人にあり、信仰の兄弟姉妹にあるのだと思います。
とても頻繁に、普通の様子として、神は私たちに関心を持ち、見守り、祈りを漏らさず聴き逃さず、心の奥底まで見通し、
その上で御手で導き、すべてを益とする摂理によって人の救いを確かにしようとしています。

ただ、神様のアプローチがどこででも自然で普通で、実は私たちの現実に近すぎて、
私たちが神秘的な重みや使命や意味を人間的な見栄の発想で高く求めすぎるので、見えないことがあるのだと思うのです。

神の救いのみわざは、キリストが命を投げ打った尊い犠牲によりますが、
その命のみわざは、全人類の一人一人にとても近くあるものだと、私たちたちは思うべきなのではないでしょうか。

また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。
マタイによる福音書 6:28 口語訳1955
http://bible.com/81/mat.6.28.JA1955

二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない。 またあなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。
それだから、恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。
マタイによる福音書 10:29‭-‬31 口語訳1955
http://bible.com/81/mat.10.29-31.JA1955

しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。
人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。
しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。
第一コリント8:1〜3 新改訳

人と救いの距離を拡げ、長い間隔ててきたのは、
教会の内輪意識としての神学や教理や、クリスチャンの間の『私たちは救われている』という自意識かもしれません。
愛の理想や解放が、教会だけの特別なものだと思いすぎるのではないでしょうか。
でも、一羽一羽のすずめの命でさえも神は知っており、神が知らないすずめなど一羽もいないのです。

地上の人は、どの人も愛を知りながら、罪があり、憎しみがあり、痛みがあり、
相手として特に無力で立場の弱い人には忍耐と犠牲を強いたりします。
この問題は、どの家庭にも、会社にも、教会にもあてはまります。

キリストは、すべての人を罪から解放するために十字架で痛まれ、地上の生涯でも十字架上でも、罪や痛みへの無力に沈む人の隣にいました。
神は愛ゆえに、そのひとり子をこの世にお与えになりました。

それで、この世では、キリスト教について「神の愛を信じる宗教」だと皆思っています。世界史の過去では教会が権力を持って政治と戦争にかかわったけれども、今は穏健であると一般には考えられているでしょう。

これは、実際には最近の好戦的なアメリカ的福音派を除いては、という条件付きになります。
教会やクリスチャンが正義の権威的自意識を持つことで、歴史上悲惨な戦争がいくつも起こされましたし、今も、他宗教差別、他民族差別が止みません。
そして、日本の福音派聖霊派でも、信仰と不信仰を独自の教理基準で厳しく分け隔て、
自分の教会に来る人だけを喜んで、
『この教会に対して忠実なら、確実な救いの中に居る』と意識しています。
そこでは、「自分たちの教理通りの『聖書信仰』による『信仰義認』には、すべての人類の救いと滅びを裁く権威がある」と、自覚させられる場面が多くあります。
それでは、愛ではなく、恐れが生じるのです。
子どもの時からそんな特殊な隔離環境の教会漬けの生活では、常識的認知に歪みが生じます。その子どもは横暴な大人を教会員でさえあれば信じます。

扉を広く開けて世間に出て、
私たちが実感する罪があっても、そこになおキリストの伴いと赦しと愛と自由の価値を解き放ち、
その上で多くの交流から学ぶことが必要ではないでしょうか。

私たちが居るどの場所でも、私たちが見る隣人の様々な境遇でも、
そこにイエス様が居て、すべての命に注目して祈りや救いの求めを確実に聴いていると知れば、
かなり視野が拡がります。

私たちは、ただいるだけで、神に愛され、人に愛されていると信じることができる。

これは、生きる上で、とても大切なことです。自分にも他人にも、すべての人が神に愛されていると信じると、大きな視野の拡がりを感じます。

長い間の教会からの縛りや恐れを抱えながら、教会組織や制度に関わり続けるのは、本当に痛みが多いのですが、
キリストの御手は、決して地上の教会組織には縛られてはいません。

使徒パウロはキリストの囚人だと告白しますが、教会の囚人ではありませんでした。事実、ペテロやバルナバのユダヤ人への迎合・妥協を見て、福音への不真実を非難し、教会に福音の真実に立つようにチャレンジしました。

今も、 教会に痛みを持つ方はとても多くいらっしゃいます。
しかし、神様は、地上の人間的教会の限界のある教えに縛られる方ではありません。
聖書の福音の真実によれば、神様は必ず痛み救いを求める真実な祈りに伴われています。

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ただそこにいるだけ…その価値~人の目から見て (2017年03月02日)

もう悩まずに考えるのを止めてホッとしたい。 (2016年01月23日)



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牧師を上位に戴かずに、水平の交わりを心がけ、共に祈り神様を見つめて進む、この決心を共有する交わり・ネットワークを目標とする「キリストのみからだの教会」を求めます。
現状では「頼れる人として誰か教師を自分の上に置きたがる人の弱さ」を認め、私たちは日々そこから脱出して神様に祈り、主にある交わりをいただきます。同時に、助けを求める人の祈りに、あらゆる形で呼応するクリスチャンであることを決意し、自立への助けが必ずある「みからだのネットワーク」であることを目指しています。(CFF小倉福音センターの祈り・信仰指標から)

■福音派・聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)・聖書主義の人が内包する「カルト化問題」をこの世代で終息できますように。どの人にもある心の引っかかりや良心をなおざりにして、聖書信仰やリバイバル信仰に熱くなって人を裁き、自分と家族に負担をかけ、2世や若いクリスチャンの離反を招いていることを克服できますように。
これを信仰的姿勢と現実的姿勢で正面から捉えて祈ります。
時に辛らつに人の内面を見ることが必要かもしれませんが、自分の中にもあるものとして考えることで、問題の本質が見えるのかもしれません。

■教会のカルト化や縛りに巻き込まれないための3つの知恵
1.祈りと聖書読み−−日々必要な神様との交わりと悔い改めをする、教えの風に翻弄(ほんろう)されない避け所として、各々個人の祈りと聖書読みのシェルターを確立しましょう。
2.二つ以上の教会に安心できる交わりを確保しましょう。−−今の所属教会に並行して、さらに避け所となる他の教会を必ず把握しておき、日ごろから広く他教会・他教派のクリスチャンと親しくし深い信頼関係を築きましょう。安心し信頼できる他教会や他教派の話題を所属教会で積極的に話しましょう。しかし、拒否や非難を受けはじめたら、他の信頼できる教会の交わりにそのことを伝え教会のカルト化の危険について話し合い、転会の準備を始めましょう。そのためにも、信頼あるクリスチャンの友情を日々拡げて大切にしましょう。
3. 教会以外の関わりを大切にしましょう。−−友人、家族、職場などで、ご自分を理解してくれる方々がいらっしゃると思います。その方の何気ない助言や世間話に、思いやりを感じることは、とても大切です。私たちが、信仰に対する外からの目を持つことにもなります。正しい「証し」は、一方的な押し付けではないことも分かります。

−−−真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために−−−
−− 避難の場(シェルター)としての「個人の祈り」を守るために −−
執筆者 仁保裕介(プロフィール
『すべて失望した人の唇に祈りを。』
祈りは、生活の現場から誰にでも自由にできるものです。
キリストは呼び求めるすべての人と共に居る方です。清い人や会堂や神殿にしか現れない方ではありません。むしろ、自分はふさわしくないと思う人のそばに居るのがキリストです。
受洗して教会員になった教会が、「この教会で信仰生活を続けられなければ、救いや信仰の道から外れる」と言うのは、真実ではありません。
 避難の場(シェルター)としてキリストに求める祈りには、「キリストが共に居る交わり」が必ず与えられています。
このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。テーマは重いですが、皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。キリスト教の視点で、成長、試練、十字架、悔い改め、聖化の記事になっています。
ほんの5才から信仰45年のクリスチャン2世として、キリスト教会内の教派主義・人間関係・権威化・カルト化によって傷を受けた皆さんと共に祈り、脱出と自立と今後の信仰について現実的視点で触れていきます。
元「主の十字架クリスチャンセンター 鎌倉教会、北九州教会」牧師・脱会者


自由な心で神様に祈っていますか?

祈りの言葉が何かに縛られていませんか?



私たち各々が神様向いて自由であり、各々がそれぞれに聖霊から与えられる多様な祈りがあってこそ、みからだの一致ではないでしょうか。

祈りが、誰か人から強いられたものではなく、「自由に神様に向かう私たち自身の心」であることを神様は喜ばれますよね。その自然な心のことばこそ、神様との交わりに必要です。そう考えるみからだの交わりと、一人一人の重荷による多様な祈りの拡がりが求められます。祈りが現実とリンクすることは、人生に必要な知識です。



このブログは、その自由な祈りの拡がりのために書いています。
知らないうちに祈りと信仰が誰かに縛られていないかを、様々な視点で考えようとしています。


■教会で疲弊して燃え尽きてしまう問題…

現代の教会は礼拝や組織の形を定めていますが、その主な活動としては、2000年前の初代教会が記した聖書の記録から「教会がすべきこと」の要素を凝縮したものを日曜の2時間で触れるようにしています。それで、日曜礼拝のプログラムは、聖書に書かれている教会の交わりの「短縮版」、「あらすじ」のストーリーになっています。

新約聖書を読むと、クリスチャンが集う2000年前の教会の集い交わりは毎日のものでした。

今の短縮版の日曜礼拝だけでキリストへの信仰を養おうとすれば、断片化した教えの詰め込みになってしまうのは当然かもしれません。

問題のある教会では、独自の詰め込み教育をして縛ったり、聖書の一部だけを強調してそれを「信仰の間違いない形」と言います。それで空しさを感じたり疲弊することは当然かもしれません。
信仰は日曜が本番ではなく、日常で働いてこそです。
信仰者同士の交わりは信仰の励みになりますから、励ましが無いなら教会の意味がありません。
もし教会が息苦しく、日曜のたびにストレスがたまるなら、無理して行く必要はないのではないでしょうか。

なぜ、福音が多くの日本人に伝わらないのでしょうか。
クリスチャンの世界は特異なのか、教会の敷居は高いのか、教会だけが清く、それ以外は悪魔に支配されて危険なのか。
今の形式化した教会独特の教えは外からどう見えているでしょうか。信仰を持つことで隣人との間に壁を感じるようになるのは果たして健全なのでしょうか?

救いと信仰を教えている福音のことばには心の深いところで同意するけれども、祈りや証しまで教会の全員が同じような言葉を使っているのはどうなのでしょうか。それで、つながりが太く確かな相手が神様になるでしょうか。それとも教会のみんなとのつながりが強くなるのでしょうか。

■自分が知る困難や痛みからの本音を神様にぶつけることができる心の部屋がありますか?

クリスチャンが皆、自分らしい自由な関心を持って、今居る場所から、自由な視点で各々が気づくことを自分のことばで熱心に祈る、そんな祈りの多様化が世の多くの罪を覆い、世の救いにつながるのではないでしょうか。キリストがもう一度来られるまで、教会とクリスチャンは隣人の救いのために存在しています。罪の裁きが使命なのではありません。
私たち生きる場で皆がそれぞれ困難や試練を味わう時代になってきましたが、それは罪の世の結果として存在するだけでなく、信仰者が祈るためにあるはずです。それぞれの問題を教会に持ち寄っても、すべてが受容され癒されるわけではありません。それぞれの痛みからの祈りが、それぞれの場の救いになるためにあるのではないしょうか。

まずは、キリストの十字架による救い・あがないの恵みを、自分の視点で改めて聖書を読んで味わい、キリストご自身と御跡を、自分の心で追い求めましょう。そうして、それぞれ置かれている場から、世の救い、現実の全体像、自分と教会への主の召しについて、求め、自分の関心がどこに向くか考えましょう。隣人と世界が持っている現実の課題をよく知り、痛みを痛みとして、喜びを喜びとして、共感して、目には見えないけれども確かにある多くの祈りと連なる心で祈りましょう。

■キリストの御体としての教会

みからだの教会は、生けるキリストの恵みと聖霊の導きと父の愛の支配を天と地に求める自由な祈りの家であると思います。

明文化された「教会戒規」や「教理」は、「教会を守る」というよりも、人の身勝手な肉の過度の暴走を止める役割です。
信仰の命は、個人的な祈りによるキリストとの出会い交わりです。
教会の活動はこれを促進するものでなければなりません。

そして、各々が置かれた生活の場から皆さんが独自に重荷を見つけて自主的に祈ることで、人生と本来の教会の姿であるキリストの御体全体の歩みが実現されていくと思います。

一人ひとりの信仰のお証しが、横に連なってそれぞれの場から流れ出しますように。

あらわれ方は違うけれども賜物に従って一つの聖霊の働きが保たれますように。そうしてみからだの交わりが愛の聖霊の結び目によってつながっていくことを願っております。
045r0002

   執筆者 仁保裕介
            連絡はプロフィールのメールアドレスまで、お願いいたします。


■ご奉仕・面談について
現在、私は北九州市に居ります。
・家庭集会/説教/講演/セミナー:
伝道メッセージ、教会の祈り、神様との交わり、教会カルト化の原因と問題点整理、世界のリバイバルと救いについて。
・教会による制約・圧迫の悩み相談
・このブログへのご賛同、祈りの繋がり、カルト化問題の連携・脱出のお手伝いなど
求めていらっしゃる集いや個人があれば、ご連絡いただきたいと思います。
CFF小倉福音センターの目的・活動

現在、月〜金の昼間は北九州小倉で勤めをしておりますが、一週間前のご連絡でしたら、平日昼間の奉仕もさせていただきます。平日夜間や土日には、前日までのご連絡でご奉仕をさせていただきます。面談は、小倉に来ていただければ、平日昼間でもできる時間があります。お問い合わせください。奉仕のない日曜日は地元教会に集い礼拝にあずかっています。

まずは関係づくりからと思います。北九州のお近くの方は費用などご心配なさらずに、どうぞお気軽にお声がけください。

申し訳ありませんが、遠方の場合は、時間的経済的理由でご期待に添えないこともあります。メール・電話でご相談させていただければと思います。


教会の問題で弱さを覚えている方々に奉仕し、主イエス・キリストのみからだの教会に奉仕したいと願っています。「この小さき者を、神様の御用のために用いてください」と祈り、神様が召されている自分の小さき働きに自分の人生をささげていきたいと思います。

このブログの記事の通り、強制のない自立した信仰と、祈りの自由を、共に求めていきたいと思います。

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■コメント・トラックバックをお送りくださる皆様
ありがたく拝見しておりますが、内容によっては掲載を見合わせることがあります。
・私信のようにプライバシーを含むこと
・同じ内容で複数の配信先があったり(マルチポスト)、他サイトへの勧誘目的だけのもの
・他からの引用だけで投稿者の言葉が無いもの
(常識の範囲のことですが私の基準はhttp://www.h5.dion.ne.jp/~j.1/exodospost0.htmに詳しく記しました。)

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■教会カルト化記事の姿勢

このブログでは、問題のある教会で不当な扱いを被った経験者の方々と、指摘を受けている教会、双方に向けて記事を書いております。
問題の無い教会の方、また問題のある教会の方には受け取れないことが書かれているかもしれません。
その場合は、私が管理する「EXODOS〜カルト化した教会や信仰という名の虐待からの脱出支援ページ」や、検索で「信仰 虐待」の結果をご覧いただければと思います。

記事を書く背景と動機は、自分も含めた福音派・聖霊派・聖書主義を採る教会と牧師に内包されているものを明らかにし、カルト的な信仰を生み出す原因を探るためです。
犯人探しが主旨ではありませんが、感情的な問題や整理には、誰かを恨み続けるよりも、それまでの影響を一端切り離す方が客観化しやすいため、切り離す発端となるように批判的な内容も心に描いて良いのだとアピールする目的があります。
また、一般的社会的に認められない問題を明確にするつもりです。
内容が辛らつすぎると思われる方は、自己批判・内部告発だとお考えいただければと思います。
 このブログ内の記事:
 教会の虐待問題−フラッシュバック、PTSD症状からのリハビリの困難と対応

 確信が押し付けられて、うつになる問題 リハビリ

 教会での精神的虐待・中傷による障害が脱会後に顕著になること−Yahoo!ブログ

 私は感動をあまり信じすぎないようにしています。

 正統教会で経験したカルト信仰からの脱出

 祈りとは神様との対話です。−私たちは自分の真の姿を認めているでしょうか。

■閲覧が多い記事
教会で苦しみを味わうこともあります
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52277581.html

不健康な教会の兆候 カルト化の前ぶれ
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/51458318.html

聖書信仰が、「聖書絶対の律法主義」にならないように、ちゃんと聖書を読もう
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52178268.html

みんな、自分を正しいと思っている。
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52272274.html

教会が引き起こし続ける信仰上の「冤罪」
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52138245.html

地上の教会の神秘性。リバイバルへの道。「完全」への勘違いがカルト化へ。
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52161558.html

信仰と献身は、人それぞれの多様な「信仰の真実」を認め求め続けることではないでしょうか。
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52206089.html

社会に出れば「信仰」が試されるのは避けられない現実です。それも霊的成長の時として神様にあって自分を受け入れましょう。
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52181153.html

キリスト教会のカルト化・危険ワード「聖書と神の法則に従え」
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52120271.html

経験の少ないクリスチャンが囚われやすい「感情の問題メモ」
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52204905.html

教会のカルト化を避けるための最低限の指針
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52184080.html

苦しいときの祈り求めが、信仰の基盤や知恵に
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52180692.html

『試練』の意味は成長のため…その「勘違いあるある」としての『神と悪魔の戦い』
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52163557.html

伝道とは
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52125006.html

守るべき信仰の基本と実生活に伴うキリストの助け
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52127413.html

教会に何を求めるか 教会へのイメージを再考すべき時
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52078530.html

質問へのお答え:教会籍と交わり・御体なる教会
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/50037482.html

教会のカルト化・虐待を止めるために
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/50641653.html

十字架を負うとは
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/50037410.html

ヨブ記38章
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/50677939.html

真の祈り、礼拝
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聖書の記録と神との出会い
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/50117943.html

■一部記事は下のブログに重複して掲載しています。
キリストの助けを求めて〜クリスチャンライフと教会
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■おしらせ
このブログは以前のブログhttp://blogs.dion.ne.jp/j_1/の機能が不調だったため、2006年6月以前の記事やコメント、TBをここに書き写しています。
また、KDDIdionのホームページサービスが終わるため、記事を作成年の日付にして移動しています。

牧師は無私だと思われ勝ちですが、実際は無私な牧師など居ないと考えるべきです。そうでないと、必ず信仰がつまずきます。

どの人にも思惑や願望や欲があるように、牧師にもあります。教会堂の講壇の上に立って、清く無私のようでいても、必ず欲や自分の思いがあります。
信徒の方がご自分を省みて分かるように、牧師にも同じく罪や欲は存在します。

牧師に、清さや理想を期待してしまう幻想を持たないにしましょう。
私たちが人に憧れて、自分の願望の通りになるように執着し期待している間は、
神ご自身が私たちに直接語りかけられているのを見過ごす事が多くなります。

神の御心にかなう願いを祈ればかなえられますが、
地上だけの望みは神のはかりで試されます。

地上の人生の使い方として神学・教理研究にばかり目が向く牧師がおり、
自分の信仰にだけ感動する牧師がいます。
会堂で目の前に大勢座っている、キリストと親密に交わっているかもしれない証し人には目をくれず学ばず共感せずに、
その牧師はただ、自分が学んだ神学と自分の信仰を誇らしげに語ります。
でも、その牧師が日常で買い物などする時には、神学的な縛りなど考えもしていないでしょう。

新約聖書によれば、信仰によってたとえ偶像に捧げられた食べ物でも、恐れないで食べることができます。
ただ、周りの人のつまずきにならないように配慮が要るとあります。食べ物のような些細なことで、つまずきを起こしてはならないと。
しかし、その牧師は日曜日に、些細なことで 厳しく 教会の皆を叱り縛っていたりします。日曜日になると、自分の思う『信仰的な姿』を自惚れて見せたい、それが認められたいという願望が抑えられずに暴走する牧師がいるのです。
愛や共に生きる常識としての「配慮」は、現代では神学を持ち出すまでもなく普通のことだと言えるまでになっているのに、『自分の信仰』に照らして誰かの愛や配慮が少しでも欠けたと感じた途端、自分の信じる神学で人を裁き攻撃する牧師がいます。

私は、神学とは、物干し竿のようなものかもしれないと思っています。
私たちが汚れた服をきれいに洗って乾かす時に、シワが寄らないように乾かすガイドのような物です。
真っ白に洗われた衣が整然と並んでいるのを見ると満足できるでしょうし、その様子を外から見られても感心されるでしょう。
でも、物干し竿を杖のように支えにして歩く人は誰もいません。

私たちが歩く支えとする杖と道を照らす光は、共に居られるキリストご自身であり、神の愛であり、赦しの救いであり、聖書の御言葉であり、聖霊のさとしです。

神学や教理や聖書解釈は、救いや信仰や聖書の背景や歴史を整理して理解するのに知識として役立ちますが、
私たちの信仰に必要なものは、ただ、十字架にかかられたキリストの名を自分のためだ、キリストは自分を愛して死なれたと、心から告白できる神への祈りです。
知識で神の壮大な計画を聖書から学んで感動しても、神を友と呼べなければ意味がありません。

わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。 わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。
あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている。
わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。
人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである。
あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。
あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう。
父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい。
もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである。
わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。 わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。 人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。 あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。 わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。
ヨハネによる福音書 15:1‭-‬15 口語訳1955
http://bible.com/81/jhn.15.1-15.JA1955

キリストの十字架の愛に感動し、信仰を持つ時に、
心の傷、わだかまり、こだわり、その他罪の残滓ガラクタ瓦礫はすべて捨てます、悔い改めますと言います。
罪の古い性質を後にして新たな歩みをしたいわけですが、
実際自分の罪や傷は私たちの目に映り続けていて、残っており、
私たちはそれをとりあえず信仰によってキリストに委ねて棚上げにし、キリストと救いを選ぶわけです。

もちろん、この時、神様の目には、信じ祈る私たちの姿が、キリストの十字架の血ですっかり洗われ清くされ真っ白なのです。

真の信仰と救いは、
神様が心からあわれみ愛され、神の目に映っている私たちの救われた姿に、私たちが留まるために、日々祈り、聖書を読み、キリストを追い求めるのです。
そういう信仰の年月を重ねる中で、私たちに見えている現実の自分の姿について、心の整理をさせ、
自分の手から神の手に一つ一つ渡して、改めて深い意味で悔い改め、委ね、用いていただく決心を少しずつ進めさせてくださいます。
いつ成長したのか分かりませんが、私たちは気づかない内に、実を実らせ、隣人を生かすキリストの証しをしているようになるのです。

これについては牧師でも誰でも同じ道を通っているのです。
しかし、牧師だけが先んじて優れていると思いたいので、人間的に期待を込めて『先生』と呼んで、短絡的に牧師の存在に安心してしまいます。
そうして、神の手によって白くされた救いに、牧師のお墨付きを求めてしまいます。
真っ白にされた救い、聖書のみことば、賛美に、人間である牧師からの墨書きを欲しがってしまいます。
それで、神学や流行りの伝道理論にばかり目が奪われ、
本来、神に祈り、赦しを信じ、その上で整理すべき自分の弱さや罪を、人間である牧師の指導に委ねることで解放や解決を欲しがってしまい、牧師の神学や理論で自分を裁いて混乱してしまったりするのです。

しかし、そんな信徒の期待を集める現代の牧師は、神学校を出、神学を知っており、説教ができるというだけで教会から資格が与えられていることもあるのです。

聖書によれば、初代教会の長老・執事・教師の基準は、既に信徒や奉仕者として家族を含めて、長い間実を結んでいる信用のある人がふさわしいとされています。
現代は、その信用と資格の順番が逆になっている牧師もたくさんいて、
ある牧師は神学の勉強や知識、
ある牧師はリバイバル信仰、聖霊の賜物信仰、
ある牧師は自己実現セミナーや弟子訓練でカバーしようとしています。
その道で有名人になって人を集めたり、
律法的になったり、
各々の賜物を強調しながら独裁化カルト化したりもしています。
もちろん、自分の限界を正直に告白して、信徒の皆さんと共に学び進み、へりくだって奉仕する牧師さんも居ます。
しかし、私が深く関わった福音派聖霊派の教会では、牧師は崇めるべき位置に居て、弱い人間として皆に認められてはいませんでした。その教派では、牧師への過剰な期待をする教会がほとんどです。

そんな問題ある教会の牧師たちの使命感は滑稽と言えます。
たとえば日曜礼拝について、天皇陛下に皇居に招かれた名誉になぞらえ、
『天皇の招きを断る人がいないように、神の招きを断る人がいてはならない。だから、万難を排して日曜礼拝を絶対優先すべき』、
と説教するのが流行りました。
そんな脅され方をしたら、日曜礼拝を理由があって休んでも、素直な人は心が責められ、牧師の説教に心が重く押し込められます。

しかしキリストは、安息日に、会堂に拒まれるような名も無い人たちの所へ行き、当時の会堂の教えで安息日に禁じられた癒しのわざ、救いのわざを、あえてし続けていました。今もそのようにして、教会に傷つき信仰が弱って進めない人の所に伴われいるはずです。

真の牧者は、神学にも人にも誠実に向き合い、ままならない人生の苦労やどうにもならない悲しみや罪こそに目を向け、小さく弱い人を優先し、どんな場合も共に負って歩もうとします。キリストが弱い人を差し置いて会堂奉仕を優先した記述が一つでもあるでしょうか。

私たちにとっての師は、誰なのか、改めて考えてみましょう。

牧師や教会の人間的な教えの色に染まってしまった救いや聖書や賛美を、
もう一度キリストだけに開け広げて委ねてキリストの光に照らし、
もう一度真っ白にして欲しいと、心渇き願いたいのです。

聖霊によって、
すべての人の心を潤す湧き出でる泉が、
すべてを照らす光が、
偏りも色も無く、私たち自身に、教会堂の外にいる大勢の方々に、曇りなく注がれますように。

石ころの祈りとして。

このブログの関連記事:
教会で苦しみを味わうこともあります (2016年02月10日)

『石ころの叫び』〜「救いを人質に取る教会」の告発は、もはやキリストのからだの器官の働きにあるべきものに (2016年08月17日)

教会がひとつのキリストの御体であるなら、虐待問題に当事者意識を持てないのは、なぜ (2014年03月24日)

牧師の日常。良い牧者とは (2013年10月24日)



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■私たちクリスチャンは二人三人でも集まれば、そこを「キリストのみからだ」とすることができます。
洗礼の意味は「キリストへの信仰を持つ、人生の方向転換(悔い改め・回心)の決意」です。(洗礼は、授けた教会の組織員となる会員制度とは別のものです。)
牧師を上位に戴かずに、水平の交わりを心がけ、共に祈り神様を見つめて進む、この決心を共有する交わり・ネットワークを目標とする「キリストのみからだの教会」を求めます。
現状では「頼れる人として誰か教師を自分の上に置きたがる人の弱さ」を認め、私たちは日々そこから脱出して神様に祈り、主にある交わりをいただきます。同時に、助けを求める人の祈りに、あらゆる形で呼応するクリスチャンであることを決意し、自立への助けが必ずある「みからだのネットワーク」であることを目指しています。(CFF小倉福音センターの祈り・信仰指標から)

■福音派・聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)・聖書主義の人が内包する「カルト化問題」をこの世代で終息できますように。どの人にもある心の引っかかりや良心をなおざりにして、聖書信仰やリバイバル信仰に熱くなって人を裁き、自分と家族に負担をかけ、2世や若いクリスチャンの離反を招いていることを克服できますように。
これを信仰的姿勢と現実的姿勢で正面から捉えて祈ります。
時に辛らつに人の内面を見ることが必要かもしれませんが、自分の中にもあるものとして考えることで、問題の本質が見えるのかもしれません。

■教会のカルト化や縛りに巻き込まれないための3つの知恵
1.祈りと聖書読み−−日々必要な神様との交わりと悔い改めをする、教えの風に翻弄(ほんろう)されない避け所として、各々個人の祈りと聖書読みのシェルターを確立しましょう。
2.二つ以上の教会に安心できる交わりを確保しましょう。−−今の所属教会に並行して、さらに避け所となる他の教会を必ず把握しておき、日ごろから広く他教会・他教派のクリスチャンと親しくし深い信頼関係を築きましょう。安心し信頼できる他教会や他教派の話題を所属教会で積極的に話しましょう。しかし、拒否や非難を受けはじめたら、他の信頼できる教会の交わりにそのことを伝え教会のカルト化の危険について話し合い、転会の準備を始めましょう。そのためにも、信頼あるクリスチャンの友情を日々拡げて大切にしましょう。
3. 教会以外の関わりを大切にしましょう。−−友人、家族、職場などで、ご自分を理解してくれる方々がいらっしゃると思います。その方の何気ない助言や世間話に、思いやりを感じることは、とても大切です。私たちが、信仰に対する外からの目を持つことにもなります。正しい「証し」は、一方的な押し付けではないことも分かります。

−−−真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために−−−
−− 避難の場(シェルター)としての「個人の祈り」を守るために −−
執筆者 仁保裕介(プロフィール
『すべて失望した人の唇に祈りを。』
祈りは、生活の現場から誰にでも自由にできるものです。
キリストは呼び求めるすべての人と共に居る方です。清い人や会堂や神殿にしか現れない方ではありません。むしろ、自分はふさわしくないと思う人のそばに居るのがキリストです。
受洗して教会員になった教会が、「この教会で信仰生活を続けられなければ、救いや信仰の道から外れる」と言うのは、真実ではありません。
 避難の場(シェルター)としてキリストに求める祈りには、「キリストが共に居る交わり」が必ず与えられています。
このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。テーマは重いですが、皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。キリスト教の視点で、成長、試練、十字架、悔い改め、聖化の記事になっています。
ほんの5才から信仰45年のクリスチャン2世として、キリスト教会内の教派主義・人間関係・権威化・カルト化によって傷を受けた皆さんと共に祈り、脱出と自立と今後の信仰について現実的視点で触れていきます。
元「主の十字架クリスチャンセンター 鎌倉教会、北九州教会」牧師・脱会者

期待できる教会や牧師が居なくなると、不安でしょうか。

私たちは、目に見えない神を追い求め、地上に来られたキリストを知り、今、内に住んでくださっていると信じることができます。

そのことを『信仰の確信』として安心したいから、証拠として教会や牧師の教えを求めているところがあるかもしれません。しかしそれは流されるだけの人生の入口であるかもしれないのです。

信仰・救いの根拠は、唯一キリストの十字架であり、聖霊によって証印が押されていると、聖書に書いてあります。
聖書を読み、祈れば、誰でもキリストを信じることができるのです。

教会とは、その信仰を持った者の集いであり、互いに励まし、教え戒め、神への賛美を共に歌う場所です。

教会以外の日常でも、私たちは証しすることができるのであり、また出会うすべての評判の良いことを通して学ぶことができます。

証しとは、福音の教理的内容を伝えるばかりではなく、
私たちの生き方そのものにキリストのご性質があらわされることでもあります。
これは、世の痛みや葛藤を含む深い心からの本音の祈りによる交わり・慰め・導きにより、
神の真理への激しい渇きから聖書を読むことにより、
日常が支えが、そんな祈りと聖書によっていることで起きてくるものではないでしょうか。

逆を言えば、計算高く良いものだけを受け取って、ただ満たされて安心したい思いでは、キリストを証しするのは難しいと思います。立場が牧師でも信徒でも、計算して良い思いを求めたがるのは同じです。

キリストはあえて痛みや葛藤のある場所、そこに居る求めがある人のところへ行って、わざとことばを与えた方です。

自分のために計算している時も人には必ずあります。その中でも、祈りと聖書に依存する分量が多くなり、いざという時に導きを選べることが大事だと思います。

ふり返れば、私たちのまわりにも、痛みや葛藤のある方々が居ます。多くの方が、その痛みを受け容れつつ奮闘して生きておられます。
しかし、私たちは臆病で、声をかけられずにいることがあります。

もし、私たちが、その方々の痛みが自分のこととして分かるようになれば、親しく話ができるようになります。そして、キリストはまさにそのような地上の人生を選ばれました。

若いころの私は、自分の臆病さにおびえ、失敗を恐れていて、強がった態度でした。
しかし、教会や牧師に期待する事で心が渇き切り、自分で聖書をむさぼり読むことで祈りが変わりました。
自分の人生を神様ご自身に委ね、
人生への恐れで満たされた私の弱い心まで、神の御用のために使ってくださいと真剣に祈りました。
そこから、私の人生が変わって行ったと思います。
それは、現実に直面する様々な経験のたびに、自分と世の現実を受け容れる祈りと学びが続いているということです。
信仰のためには、良い方向に変わりました。私にはただ苦いものですが、神様の目には、いくらかきっとかなっていると、ふり返り思えます。

学んでいる現実とは、 信仰の有無に関わらない 自分の欲、人の欲、身勝手さ、人に仕えられず赦せず、 愛を尽くすことができないことです。
そして信仰の現実は、神の赦しとあわれみの中でしか人は生きられないことです。
慰めは、一人で心弱くして悔いている者にキリストが近く居られ声をかけてくださることであり、そこにこそ喜びがあります。

私たちの義は、罪深く赦しを受ける以外に神に近づけないこの身に、ただキリストの犠牲によって認められたものです。
悔い改めたからとか、奉仕したからとか、礼拝に行くから、人に仕えたから、という祈りや行為に義はありません。

強がって誰かより優れたり勝つためにではなく、

弱く葛藤する自分だから、そのままで、ただ人と共に居られるように神様は導かれていると思っています。

このブログの関連記事:
信仰と献身は、人それぞれの多様な「信仰の真実」を認め求め続けることではないでしょうか。 (2014/08/05)

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口語訳聖書は、 新共同訳、新改訳よりも前に、日本の全てのプロテスタント教会で使われていたものです。





■私たちクリスチャンは二人三人でも集まれば、そこを「キリストのみからだ」とすることができます。
洗礼の意味は「キリストへの信仰を持つ、人生の方向転換(悔い改め・回心)の決意」です。(洗礼は、授けた教会の組織員となる会員制度とは別のものです。)
牧師を上位に戴かずに、水平の交わりを心がけ、共に祈り神様を見つめて進む、この決心を共有する交わり・ネットワークを目標とする「キリストのみからだの教会」を求めます。
現状では「頼れる人として誰か教師を自分の上に置きたがる人の弱さ」を認め、私たちは日々そこから脱出して神様に祈り、主にある交わりをいただきます。同時に、助けを求める人の祈りに、あらゆる形で呼応するクリスチャンであることを決意し、自立への助けが必ずある「みからだのネットワーク」であることを目指しています。(CFF小倉福音センターの祈り・信仰指標から)

■福音派・聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)・聖書主義の人が内包する「カルト化問題」をこの世代で終息できますように。どの人にもある心の引っかかりや良心をなおざりにして、聖書信仰やリバイバル信仰に熱くなって人を裁き、自分と家族に負担をかけ、2世や若いクリスチャンの離反を招いていることを克服できますように。
これを信仰的姿勢と現実的姿勢で正面から捉えて祈ります。
時に辛らつに人の内面を見ることが必要かもしれませんが、自分の中にもあるものとして考えることで、問題の本質が見えるのかもしれません。

■教会のカルト化や縛りに巻き込まれないための3つの知恵
1.祈りと聖書読み−−日々必要な神様との交わりと悔い改めをする、教えの風に翻弄(ほんろう)されない避け所として、各々個人の祈りと聖書読みのシェルターを確立しましょう。
2.二つ以上の教会に安心できる交わりを確保しましょう。−−今の所属教会に並行して、さらに避け所となる他の教会を必ず把握しておき、日ごろから広く他教会・他教派のクリスチャンと親しくし深い信頼関係を築きましょう。安心し信頼できる他教会や他教派の話題を所属教会で積極的に話しましょう。しかし、拒否や非難を受けはじめたら、他の信頼できる教会の交わりにそのことを伝え教会のカルト化の危険について話し合い、転会の準備を始めましょう。そのためにも、信頼あるクリスチャンの友情を日々拡げて大切にしましょう。
3. 教会以外の関わりを大切にしましょう。−−友人、家族、職場などで、ご自分を理解してくれる方々がいらっしゃると思います。その方の何気ない助言や世間話に、思いやりを感じることは、とても大切です。私たちが、信仰に対する外からの目を持つことにもなります。正しい「証し」は、一方的な押し付けではないことも分かります。

−−−真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために−−−
−− 避難の場(シェルター)としての「個人の祈り」を守るために −−
執筆者 仁保裕介(プロフィール
『すべて失望した人の唇に祈りを。』
祈りは、生活の現場から誰にでも自由にできるものです。
キリストは呼び求めるすべての人と共に居る方です。清い人や会堂や神殿にしか現れない方ではありません。むしろ、自分はふさわしくないと思う人のそばに居るのがキリストです。
受洗して教会員になった教会が、「この教会で信仰生活を続けられなければ、救いや信仰の道から外れる」と言うのは、真実ではありません。
 避難の場(シェルター)としてキリストに求める祈りには、「キリストが共に居る交わり」が必ず与えられています。
このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。テーマは重いですが、皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。キリスト教の視点で、成長、試練、十字架、悔い改め、聖化の記事になっています。
ほんの5才から信仰45年のクリスチャン2世として、キリスト教会内の教派主義・人間関係・権威化・カルト化によって傷を受けた皆さんと共に祈り、脱出と自立と今後の信仰について現実的視点で触れていきます。
元「主の十字架クリスチャンセンター 鎌倉教会、北九州教会」牧師・脱会者

人には誰でも欲があり、欲について表と裏の顔があり、自分だけ豊かで安全でありたい排他的な罪があります。

その欲望をコントロールして、殺人や戦争を抑えることで、現代にある程度の平和や秩序があります。
しかし、エネルギーや民族問題を理由に領土争いや戦争はやみません。
地上の法律は、そのルールを最低限決めようとするものです。

経済発展、技術は、人の欲の面を前提に成長します。
それが行き過ぎると、ルール無視で争い、蹴落とし、独占し、排除し、制裁の応酬になります。
安定した国際的な消費経済ブロックに組み込まれている日本では、小競り合いはあっても 国家間の 戦争はまずありませんが、資源輸出に依存する国は経済大国の思惑次第で不安定になります。

残念ですが、愛や平和によって経済の豊かさが発展する部分は少ないというのが現実かもしれません。

平和は、身近では人の良心や誠意や処世術として守らていますが、
膨張した世界経済や政治の上ではお金と力のバランスであり、経済力や統制が強い国では 表面上 『平和である』として大手マスコミを通して国民に見せている状態です。

そして、聖書の語る平和は、神の前にキリストの犠牲によって罪赦されて、神との間に平和があること、人の間で互いに罪を赦し合うこと、を指します。

聖書の平和について『神の国のあるべき秩序であり、クリスチャンがこの世で実現すべきもの』とする教理があります。
これも行き過ぎて律法的になったり、独善的になる素因になっています。
この独善は、すべてのクリスチャンの心に例外なくあります。
神の平和・平安は、人が罪を認めるところにキリストの十字架の赦しとして働くものが第一義であり、「罪赦された人の平和」です。
つまり、罪を認めないところに神の平和はありません。

罪赦される神の平和は、個人の内側のことであり、
教会で人前であげつらい、または自らの悔い改めを披露して、問題を指摘して裁いて悔い改めを強制し、それで人が義と認めることでは決してありません。

独善と平和は真逆ですが、
牧師や教会員が教会政治のために、誰かを悪者にして問題の原因をすべてかぶせ、排除することで『平和の体裁』を保つことがあります。
また、教会に傷ついた人が、教会と牧師を一方的に悪者にしてキャンペーンにしてしまう場面もあります。
この点で誰でも体面を保つことで自分の正しさを売り込んでおり、世の経済や政治を正当化するのと同じかもしれません。

いくら悔い改めている人でも、こんな現実の欲の支配の一部であることからは逃れられません。

私たちが一番恐れているのは、今の日本の、世界では驚異的レベルの平和な生活が崩れて行くことかもしれません。
アメリカの新自由主義経済に従うことで、日本でも収入の格差が生まれ、子どもの貧困は6人に1人にあります。すでに平和が足元から崩れてきているというのが現実でしょう。

私たちの『平和の体裁』の実は、果たしてどんなものでしょうか。
終わりの日に明らかにされると聖書は語っています。羊は右に、山羊は左に。

人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。 そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、 羊を右に、やぎを左におくであろう。
そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、
『わたしの父に祝福された人たちよ、
さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。
あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、 裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。
そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、
『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。 いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。 また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。
すると、王は答えて言うであろう、
『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。

それから、左にいる人々にも言うであろう、『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ。 あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせず、かわいていたときに飲ませず、 旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを尋ねてくれなかったからである』。
そのとき、彼らもまた答えて言うであろう、『主よ、いつ、あなたが空腹であり、かわいておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、わたしたちはお世話をしませんでしたか』。 そのとき、彼は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである』。 そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう」。
マタイによる福音書 25:31‭-‬46 口語訳1955
http://bible.com/81/mat.25.31-46.JA1955 


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福音派・聖霊派の信仰で、今、自覚されるべきこと (2006年01月29日)



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牧師を上位に戴かずに、水平の交わりを心がけ、共に祈り神様を見つめて進む、この決心を共有する交わり・ネットワークを目標とする「キリストのみからだの教会」を求めます。
現状では「頼れる人として誰か教師を自分の上に置きたがる人の弱さ」を認め、私たちは日々そこから脱出して神様に祈り、主にある交わりをいただきます。同時に、助けを求める人の祈りに、あらゆる形で呼応するクリスチャンであることを決意し、自立への助けが必ずある「みからだのネットワーク」であることを目指しています。(CFF小倉福音センターの祈り・信仰指標から)

■福音派・聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)・聖書主義の人が内包する「カルト化問題」をこの世代で終息できますように。どの人にもある心の引っかかりや良心をなおざりにして、聖書信仰やリバイバル信仰に熱くなって人を裁き、自分と家族に負担をかけ、2世や若いクリスチャンの離反を招いていることを克服できますように。
これを信仰的姿勢と現実的姿勢で正面から捉えて祈ります。
時に辛らつに人の内面を見ることが必要かもしれませんが、自分の中にもあるものとして考えることで、問題の本質が見えるのかもしれません。

■教会のカルト化や縛りに巻き込まれないための3つの知恵
1.祈りと聖書読み−−日々必要な神様との交わりと悔い改めをする、教えの風に翻弄(ほんろう)されない避け所として、各々個人の祈りと聖書読みのシェルターを確立しましょう。
2.二つ以上の教会に安心できる交わりを確保しましょう。−−今の所属教会に並行して、さらに避け所となる他の教会を必ず把握しておき、日ごろから広く他教会・他教派のクリスチャンと親しくし深い信頼関係を築きましょう。安心し信頼できる他教会や他教派の話題を所属教会で積極的に話しましょう。しかし、拒否や非難を受けはじめたら、他の信頼できる教会の交わりにそのことを伝え教会のカルト化の危険について話し合い、転会の準備を始めましょう。そのためにも、信頼あるクリスチャンの友情を日々拡げて大切にしましょう。
3. 教会以外の関わりを大切にしましょう。−−友人、家族、職場などで、ご自分を理解してくれる方々がいらっしゃると思います。その方の何気ない助言や世間話に、思いやりを感じることは、とても大切です。私たちが、信仰に対する外からの目を持つことにもなります。正しい「証し」は、一方的な押し付けではないことも分かります。

−−−真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために−−−
−− 避難の場(シェルター)としての「個人の祈り」を守るために −−
執筆者 仁保裕介(プロフィール
『すべて失望した人の唇に祈りを。』
祈りは、生活の現場から誰にでも自由にできるものです。
キリストは呼び求めるすべての人と共に居る方です。清い人や会堂や神殿にしか現れない方ではありません。むしろ、自分はふさわしくないと思う人のそばに居るのがキリストです。
受洗して教会員になった教会が、「この教会で信仰生活を続けられなければ、救いや信仰の道から外れる」と言うのは、真実ではありません。
 避難の場(シェルター)としてキリストに求める祈りには、「キリストが共に居る交わり」が必ず与えられています。
このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。テーマは重いですが、皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。キリスト教の視点で、成長、試練、十字架、悔い改め、聖化の記事になっています。
ほんの5才から信仰45年のクリスチャン2世として、キリスト教会内の教派主義・人間関係・権威化・カルト化によって傷を受けた皆さんと共に祈り、脱出と自立と今後の信仰について現実的視点で触れていきます。
元「主の十字架クリスチャンセンター 鎌倉教会、北九州教会」牧師・脱会者

イエス・キリストは、
人として地上に生きて、地上の言葉で語り、
人としてあらゆる境遇・地位にある人と会話し、
祈り、いやし、奇跡を行い、喜び、悲しみ、泣き、食べ、賛美の歌を歌い、罪を負われ、打ち叩かれ、死刑になりました。
そして、神の力によって復活し、信じる者にはキリストと同じように死に打ち勝った命が与えられます。
イエス・キリストは今も生きて、キリストを神と信じる者の内に住み、福音の意味をその人の人生の中で深くし、悔い改めとへりくだりと人の弱さ貧しさと神の愛の悟りを与えながら、導きます。

弱さ貧しさは、イエス・キリストを求めることができる境遇です。人にはイエスの形の穴があって、人は満たされたいと願います。

イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。
「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」
マタイによる福音書 5:1‭-‬3 口語訳1955
http://bible.com/81/mat.5.1-3.JA1955 


なぜ満たされないのか。
それに気付かず、ただ嘆いては新しいものに飛びつき、その場その場で虚しいもので満たそうとする。
または、誤った信仰で、無茶な人間的な理想やチャレンジで走り回り、
『隠され見逃されてきた信仰の真理だ』と繁栄や癒しや奇跡や偽りの完全さを追ってしまう。
悪魔は、そんな派手な満たしの噂を聞かせ、盛り上がる様子を次々見せて、「信仰の自転車操業」に誘います。
決して満たされない願いの繰り返しを、絶えず新たな「パン」や「栄華」を目の前で見せて、支配しようとするのです。
それも、教会の中で、牧師や信徒の心の中で。牧師の立派な経歴や組織や建物に安心する中で。

神との会見の天幕と共に進む出エジプトの民は、モーセにこう言わせて、約束の地に入れませんでした。
「われわれがあなたがたのためにこの岩から水を出さなければならないのであろうか」。
民数記 20:10 http://bible.com/81/num.20.1-13.JA1955

さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。
そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。
すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。

それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて言った、「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』と書いてありますから」。

次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて 言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。
マタイによる福音書 4:1‭-‬3‭, ‬5‭, 6,‬8‭-‬9 口語訳1955
http://bible.com/81/mat.4.1-9.JA1955 


イエス様との出会い方は大切です。

私たちとっては、人生の飢え渇きから手を伸ばし、満たされたいと願うのですが、
目に見える豊かさや栄華ではなく、
イエスご自身と、そのみことばに飢え、願い求め続けられるかどうか、です。

地に下られ、貧しさと孤独に居る人に伴われたイエス様ご自身が共に居られると思えるまで、
イエス様の伴いとその言葉が、他の誰にも何にも代えられないもので、正に自分のためである、と思えるまで、
そして、イエス様がなされた愛と救いが、自分の生きる場の関わりで注ぎ出される泉のようになるまで、
この世の見た目の栄華や完成や安心を求めてしまう願望から、この世の支配から解放されるまで。

あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。
ヨハネによる福音書 15:7 口語訳1955
http://bible.com/81/jhn.15.7.JA1955 


キリストの言葉がとどまっている時に望み願うものとは、いったんどんなことなのでしょうか。
イエスの様なあわれみと勧めを、自分と出会う人に望み願えているでしょうか。
今、私たちの内で、聖霊の導きによって神の御心を日々願うことができているのかどうか。
誰も、完ぺきではありません。

正解は、
いつも違うものを求めてしまう私たちの弱さから、手を伸ばして、ただキリストだけを得たいと願うことではないでしょうか。
私たちは地上の一生を、今も日々の生活に共に生きて伴われれるキリストの言葉を時々に味わうために生きているのではないでしょうか。目には見えませんが、それこそが、命のパンです。このパンを心で深くじっくり味わい食することで、私たちは変えられます。

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