キリスト教の優れた所は、
キリストが地上で生き、人々と語り合い、共に歩む神の姿であることで、
人に分かりやすく神が人格的な交わりを喜び、共に居て住み、言葉を語り、人の思いの変化を人の理解できるペースで導き促すことを、福音書で示していることです。
ところが聖霊派ではないクリスチャンから見て違和感を持たれるのが、
「キリストに祈り、交わり、絶えず語りかけを受けること」
福音派・聖霊派ではないクリスチャンから見て違和感を持たれるのが、
「神キリストが二千年前にローマに支配された今のイスラエル・パレスチナの地に人として生まれて人生を送り、神の御心を説き、癒やしと奇跡を行い、殺されたが復活して、今も人と共にいること」福音派でも聖霊派でもない聖書批評の立場では、これを事実だと思えていないことがあります。
『信仰のあり方を説く偉人として活動したイエスを弟子たちが神として、癒し・奇跡・復活の物語をイエスの死後に描き、イエス教団を作った』と言う牧師がいるキリスト教会があります。
キリストが今も生き、人のそばにいることが、現実として体験して分かることが、新約聖書に書かれているクリスチャンと教会のあり様です。
福音派、聖霊派はそれを事実としていますが、今現在、現実に新約聖書に描かれた通りの教会は存在していません。
個人が祈りによって神を恋い慕い交わりを求めるのを、『牧師・教会の指導なしでするのは危険だ』と言って止めるのが福音派・聖霊派では普通です。
福音派聖霊派は「個人の神との交わり」よりも、
教会組織の形を聖書の字面から読み解いてどうにかしてそれらしく見せようとして牧師は説教しますが、
結果は牧師個人が信じていること(福音派の聖書神学や聖霊の働きとされる現象)による人間的な思いを信仰だと言う要素が多くて、字面の学習と決められた悔い改めと証しで(聖霊派では『聖霊の満たし』を加えて)支配し縛り、カルト化する教会が出ています。常識や人間性や配慮の無い、法を無視するような教会運営が、聖書と聖霊の名で行われていたりします。
立派な言葉や目に見える証しよりも、心で内側でキリストと交わっていることが証しのはずです。
キリスト教の肝は人格を持った神が天地創造し、人と語り交わる存在だということでしょう。キリストの生誕がその証しです。
神が人と人格的に交わる様子が旧約聖書にもあり、
子なるキリストが現実に肉体を持って生きたので、人が現実に生きる現場を神は理解していると、人は信じることができます。
それは神秘というより現実として人が分かるように、キリストは目に見える隣人のような確かさで、どの人のそばにも居ます。
その淡々とした神の臨在の日常の現実を、宗教的霊的な神秘性として祭り上げて人の思いから遠ざけて有り難がらせる宗教者は、人と神の間に割って入って邪魔して立場を得たり、稼いだりしています。
福音派の聖書信仰(律法主義)のために、
聖霊派の聖霊の満たしの条件としての清さのために、
毎週何度も心を刺されて引き込まれ、何年も主日礼拝第一優先、教会奉仕第一優先を続けると、マインドコントロールが効いて毎日心を刺されて支配されるようになり、クリスチャンホームなら互いに心を刺し合って、これが罪であり、赦しは神のあわれみだと確認し合う。
心が血だらけなのに、外見からは分からないDV、
これが「『信仰』と言う名の虐待」です。
『これが愛です!』とやさしい表情で言いながら、お互いの心臓を刺し合い、『罪に死に、自我に死ぬことで、霊が生きて神のしもべになる』と教える教会はカルト化しています。
父なる神、子なる神キリスト、聖霊なる神は、人が思うほど無機質な裁きはしない方です。
人が持つ感情や事情や背景を一緒に理解しながら導きます。
人が思う以上に、神は現実に即して事情に精通していて、
人それぞれが通ってきた道で得た価値観や心持ちに沿って共に歩いていきます。
神はその人がわかるように道を導きます。
理解不能で苦痛なことを無理強いすることは決してなく、生きるために必要な動きも休みも与えます。
キリストに出会って救われたなら、祈りや休む時間を奪う奉仕と主日厳守をさせるクリスチャンたちから、教えたがる牧師や教会従者たちから、心も体も離すしかありません。
その痛みの祈りから、導きを求めて道を見つけましょう。
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福音派聖霊派の教会に今あること、すぐ起こり得ることを訴えるためキリスト教ブログランキングに参加しています。
真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために
新改訳聖書を使う福音派、聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)、聖書主義、終末携挙信仰、リバイバル信仰、潜在意識など心理的背景、牧師・教会のカルト化問題、クリスチャン2世問題を扱います。その当事者として信仰的姿勢と現実的姿勢で原因考察とお勧めをしております。
教派信仰問題の経験者の今後のあり方、信仰と救い、社会性、人生の背景、自立した生き方を探求します。内容が辛らつすぎると思われる方は、自己批判・内部告発とお考えいただきたいと思います。
NCC日本キリスト教協議会に属さず、JEA日本福音同盟やJPC日本ペンテコステネットワークに加わっている福音派聖霊派教派の自浄作用を期待して記事を書き20年になります。
他教会の問題であっても福音派を名のることを躊躇するような事がずっと起き続けて終わらないのは、『クリスチャンも罪人』という言い訳で済む問題なのでしょうか?『聖書的』『聖書信仰』と言うだけで、すべて許されるのでしょうか。
キリストが地上で生き、人々と語り合い、共に歩む神の姿であることで、
人に分かりやすく神が人格的な交わりを喜び、共に居て住み、言葉を語り、人の思いの変化を人の理解できるペースで導き促すことを、福音書で示していることです。
ところが聖霊派ではないクリスチャンから見て違和感を持たれるのが、
「キリストに祈り、交わり、絶えず語りかけを受けること」
福音派・聖霊派ではないクリスチャンから見て違和感を持たれるのが、
「神キリストが二千年前にローマに支配された今のイスラエル・パレスチナの地に人として生まれて人生を送り、神の御心を説き、癒やしと奇跡を行い、殺されたが復活して、今も人と共にいること」福音派でも聖霊派でもない聖書批評の立場では、これを事実だと思えていないことがあります。
『信仰のあり方を説く偉人として活動したイエスを弟子たちが神として、癒し・奇跡・復活の物語をイエスの死後に描き、イエス教団を作った』と言う牧師がいるキリスト教会があります。
キリストが今も生き、人のそばにいることが、現実として体験して分かることが、新約聖書に書かれているクリスチャンと教会のあり様です。
福音派、聖霊派はそれを事実としていますが、今現在、現実に新約聖書に描かれた通りの教会は存在していません。
個人が祈りによって神を恋い慕い交わりを求めるのを、『牧師・教会の指導なしでするのは危険だ』と言って止めるのが福音派・聖霊派では普通です。
福音派聖霊派は「個人の神との交わり」よりも、
教会組織の形を聖書の字面から読み解いてどうにかしてそれらしく見せようとして牧師は説教しますが、
結果は牧師個人が信じていること(福音派の聖書神学や聖霊の働きとされる現象)による人間的な思いを信仰だと言う要素が多くて、字面の学習と決められた悔い改めと証しで(聖霊派では『聖霊の満たし』を加えて)支配し縛り、カルト化する教会が出ています。常識や人間性や配慮の無い、法を無視するような教会運営が、聖書と聖霊の名で行われていたりします。
立派な言葉や目に見える証しよりも、心で内側でキリストと交わっていることが証しのはずです。
キリスト教の肝は人格を持った神が天地創造し、人と語り交わる存在だということでしょう。キリストの生誕がその証しです。
神が人と人格的に交わる様子が旧約聖書にもあり、
子なるキリストが現実に肉体を持って生きたので、人が現実に生きる現場を神は理解していると、人は信じることができます。
それは神秘というより現実として人が分かるように、キリストは目に見える隣人のような確かさで、どの人のそばにも居ます。
その淡々とした神の臨在の日常の現実を、宗教的霊的な神秘性として祭り上げて人の思いから遠ざけて有り難がらせる宗教者は、人と神の間に割って入って邪魔して立場を得たり、稼いだりしています。
福音派の聖書信仰(律法主義)のために、
聖霊派の聖霊の満たしの条件としての清さのために、
毎週何度も心を刺されて引き込まれ、何年も主日礼拝第一優先、教会奉仕第一優先を続けると、マインドコントロールが効いて毎日心を刺されて支配されるようになり、クリスチャンホームなら互いに心を刺し合って、これが罪であり、赦しは神のあわれみだと確認し合う。
心が血だらけなのに、外見からは分からないDV、
これが「『信仰』と言う名の虐待」です。
『これが愛です!』とやさしい表情で言いながら、お互いの心臓を刺し合い、『罪に死に、自我に死ぬことで、霊が生きて神のしもべになる』と教える教会はカルト化しています。
父なる神、子なる神キリスト、聖霊なる神は、人が思うほど無機質な裁きはしない方です。
人が持つ感情や事情や背景を一緒に理解しながら導きます。
人が思う以上に、神は現実に即して事情に精通していて、
人それぞれが通ってきた道で得た価値観や心持ちに沿って共に歩いていきます。
神はその人がわかるように道を導きます。
理解不能で苦痛なことを無理強いすることは決してなく、生きるために必要な動きも休みも与えます。
キリストに出会って救われたなら、祈りや休む時間を奪う奉仕と主日厳守をさせるクリスチャンたちから、教えたがる牧師や教会従者たちから、心も体も離すしかありません。
その痛みの祈りから、導きを求めて道を見つけましょう。
主はエルサレムを築き、イスラエルの追いやられた者を集められる。 主は心の打ち砕かれた者をいやし、その傷を包まれる。 主はもろもろの星の数を定め、すべてそれに名を与えられる。 われらの主は大いなる神、力も豊かであって、その知恵ははかりがたい。 主はしえたげられた者をささえ、悪しき者を地に投げ捨てられる。 主に感謝して歌え、琴にあわせてわれらの神をほめうたえ。 主は雲をもって天をおおい、地のために雨を備え、もろもろの山に草をはえさせ、 食物を獣に与え、また鳴く小がらすに与えられる。 主は馬の力を喜ばれず、人の足をよみせられない。 主はおのれを恐れる者とそのいつくしみを望む者とをよみせられる。 エルサレムよ、主をほめたたえよ。シオンよ、あなたの神をほめたたえよ。 主はあなたの門の貫の木を堅くし、あなたのうちにいる子らを祝福されるからである。 主はあなたの国境を安らかにし、最も良い麦をもってあなたを飽かせられる。 主はその戒めを地に下される。そのみ言葉はすみやかに走る。 主は雪を羊の毛のように降らせ、霜を灰のようにまかれる。 主は氷をパンくずのように投げうたれる。だれがその寒さに耐えることができましょうか。 主はみ言葉を下してこれを溶かし、その風を吹かせられると、もろもろの水は流れる。
詩篇 147:2-18 JA1955
https://bible.com/bible/81/psa.147.2-18.JA1955
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真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために
新改訳聖書を使う福音派、聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)、聖書主義、終末携挙信仰、リバイバル信仰、潜在意識など心理的背景、牧師・教会のカルト化問題、クリスチャン2世問題を扱います。その当事者として信仰的姿勢と現実的姿勢で原因考察とお勧めをしております。
教派信仰問題の経験者の今後のあり方、信仰と救い、社会性、人生の背景、自立した生き方を探求します。内容が辛らつすぎると思われる方は、自己批判・内部告発とお考えいただきたいと思います。
NCC日本キリスト教協議会に属さず、JEA日本福音同盟やJPC日本ペンテコステネットワークに加わっている福音派聖霊派教派の自浄作用を期待して記事を書き20年になります。
他教会の問題であっても福音派を名のることを躊躇するような事がずっと起き続けて終わらないのは、『クリスチャンも罪人』という言い訳で済む問題なのでしょうか?『聖書的』『聖書信仰』と言うだけで、すべて許されるのでしょうか。