祈りと生活に真実を求めて

真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために
避難の場(シェルター)として「個人の祈り」を守る教会とは

執筆者 仁保裕介(プロフィール)『すべて失望した人の唇に祈りを。』祈りは、生活の現場から誰にでも自由にできるものです。キリストは呼び求めるすべての人と共に居る方です。清い人や会堂や神殿にしか現れない方ではありません。むしろ、自分はふさわしくないと思う人のそばに居るのがキリストです。
  受洗して教会員になった教会が、「この教会で信仰生活を続けられなければ、救いや信仰の道から外れる」と言うのは、真実ではありません。避難の場(シェルター)としてキリストに求める祈りには、「キリストが共に居る交わり」が必ず与えられています。
  このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。テーマは重いですが、皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。キリスト教の視点で、成長、試練、十字架、悔い改め、聖化の記事になっています。
  ほんの5才から信仰45年のクリスチャン2世として、キリスト教会内の教派主義・人間関係・権威化・カルト化によって傷を受けた皆さんと共に祈り、脱出と自立と今後の信仰について現実的視点で触れていきます。
  元「主の十字架クリスチャンセンター 北九州教会」牧師。

”『自分は罪人』と意識して祈り悔い改め、キリストの十字架を信じて『救われた』と、すぐに平安を得られるのが『信仰』”

これは愛され信頼を育まれた経験のある人には、抵抗なくできるのかもしれません。
でも、存在を否定され続け、激しく非難し合う酷い争いに巻き込まれて傷つき、おまえはダメだ罪深いとけなされ続けた人、生きるために必死で跳ね返せやり返せと頑張るに人には簡単に信じられません。

また、宗教1世の親と、
2世3世、子供時代に否定され価値観を支配され虐待された人では見える世界が違い過ぎることがあります。

一見普通そうな大人でも、その人の過去の経験によって、外から見えない心理と自己肯定感には人によって大きな違いと隔たりがあります。

あたりまえに無意識に疑いなく自分を肯定できるのと、
自分を肯定できないのとでは、天国と地獄ほどの差があります。

だから
罪の裁きや地獄や終末の話、
神に喜ばれる、喜ばれない、
神を選べば愛される、
神は心を見て小さい者に敵する者を退けると聞いて、
「自分は大丈夫」と平気な人が居て、思いを強化したいために赦しと救いを宣べ伝えるようでいて実は『人を裁き選ぶ神』を言い広め、

それを聞いて本当に恐ろしくなって心も体も凍り付く人がおり、
また、そんなに宗教側にだけ都合の良い話は無いし、騙しで詐欺だと判断する人が居ます。

誰でも、心の拠り所、オアシスとして身を寄せる場が欲しいので、いくらかマシな所はないかと探し、出会いや裏切りに遭いながら、誰かと信頼関係を長い年月をかけていろいろ苦労しても築きたいと無意識にでも思っているものです。

その普通に生きる努力に対して
『もう世界は終わる。終末の滅びが来る。今だすぐだ』と深刻に言い、
それを動機に集わせて使命感をみなぎらせて懸命に皆で努めて教会で魂を燃やすよう説得します。

自己肯定感が強くて何を聞いても教会でなにをしても揺るがず平気な人と、
傷ついた心の隙間に少しでも肯定できる仲間意識や使命感があれば生きられると思えて怖くても受け取る人もいます。

世の成り立ちとして気づき注意すべきことですが、
自分が生きるために当然だと
人の上に立とうとして
何が何でも何を犠牲にしても自分を肯定するために人と付き合い、立場を死守する人がいて、
『他人の救いのため』と言って感動話をいくつも並べて、仲間にして服従させて人権意識・順法意識を超えるような感情論をぶち上げて、
自分が空っぽなのに他人の言葉や証しや実績を都合よく引用して扇動しようとします

意図していなくても自分の仲間を増やしたいからと説得する結果として
他人の善意、繊細な親切心などを餌食にして、自分を良く見せるために自分の人間関係の宣伝に使います

正直で誠実な人の心をその人自身のために使わせないようにするために、未熟さ知識の無さに罪悪感や使命感を扇動者が与え、平気でその場限りの矛盾のある嘘や虚構で煽り、集団のために全身全霊を使わせようとします

巧妙な説得の中で
『組織やトップの人は笑顔で余裕があって人生を乗り越えていて素敵、彼らと居ればその方が楽だし、簡単だし、結果が出せそう』と思わせようと表面を良くふるまったり暗に親切を匂わせて相手が自分で頭に良い印象を描くようにします

楽しさ、気安さ、適度なゆるさ、居心地の良さ、親しみを感じさせつつ、
同時に時々緊張感を挟んで、
交互に繰り返させるのが縛るコツであり、
利用されるキーワードが『自我の砕き』『終末の滅び』『人生の使命』『家族・隣人のため』『将来のための今の忍耐』『安息』『永遠の命』です。

刺激や苦痛に敏感繊細になって逃れたくて、守ってくれそうな何かや誰かを理想化して信じたくなりますし、
共感性や正義感も強いので義務や奉仕も怠らず、自分の心や思いを他人のために浪費してしまいます
ターゲットになる人は少しの信頼や余裕や安らぎを感じられれば更に頑張ってしまえる人です

優しさや繊細さ共感を使う相手を間違えて耐え続けると、知らないうちにすり減り消耗して
空っぽになり、与えられた身勝手な理屈に埋め込まれた悪いものが心に潜在的に積み重なっていき、怒りや恨みの衝動が止められなくなったりしますが、それを『正義』だと思い込まされます。
悪ければ他人に連鎖させ外面の良いカルト化ブラック集団を拡大させてしまいます。
教会に限らず、国でも会社でも、どのサークルでも危機感を煽り、嘘でも人生や希望や愛について『理想』を言えば引き起こせます。
福音派聖霊派では滅びを煽り永遠の命を人質にして簡単にそれができてしまうのです。

絶対に信じ切れる相手として完璧な人間は居ません

集団に自分を差出させるような説得から

自分と隣人を守り、
完璧でない人同士の許し合いという人生の現実の中で
適度に境界を守り、
可能な限りは親切にし、どの人にも見えるオープンで公平な付き合いをし、裏切られてもダメージを少なくできる心構えと多様な人間関係はどうしても必要です。

これが処世術で、社会生活では最重要です。
でも小さい子供ほどできない愛の執着、三つ子の魂があります。

聖書的に言えば
罪を犯した報いをお互いに受けて生きる世には、肉体としての死や終末まで罪の法則に縛られつつ、その中で愛の神が創造した霊と魂の交わりを直接心に感じて、時に信じ、それでもまた人として裏切り裏切られる不完全さがあります。

キリストは不完全な世を完全にするのではなく、
キリストが人の内に住んで発見する愛や湧き出る命について個人的経験でまず教え、その結果の人為的でない神の国を言っています。
内側にキリストを持たなければ神の国を見ることはできないと。

ところが完全な赦しや永遠に生きる霊的命について、
世で現実化したいと人間的肉体的に努力する教会の歴史として
権威的に他者を裁き戦って殺し、間違っていても平然と清い顔をするという結果を積み重ねて、不信感を買っています。

完全な赦し、霊的命、清さや赦しや交わりは内に住むキリスト、聖霊が、かつて地上で肉体となった時に天の父と交わっていたように、今私たち人間の内側でされようとしていることです。

それを『証し』と称して他人に見せようと『善人を装う』のには無理があり、詐欺的な理想論で嘘をつく結果になります。
人の理解や努力では決して証しはできません。

人間の現実の中でキリストが十字架で犠牲を払い清算し人の命の復活を完成し、
今は人の内側で赦し清くし生かそうと命を育む泉を与えようと導いています。

結局は世の現実で人はやる気を出しつつ間違えて
同時に内側でキリストに会って正気や霊を取り戻すことを積み重ねます

この信仰をすべて外面的に現実として見せることには無理があるのに、
無理やり形あるものとして祭り上げ証ししようとするところに地上の人間的教会の間違いがあり愚かさがあります。

内側から流れ出る命のものを
外面ばかりに気を取られ忘れて他人を裁き殺すまでになる人間は狂っていますが、平然と今も他人を巻き込もうと狙っています。
そういう人間を見分けて、できれば正気に戻すには、内側にある命の泉を守る自覚しかないのです。


イエスは女に答えて言われた、「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。 しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。 イエスは女に言われた、「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。 神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。
ヨハネによる福音書 4:13‭-‬14‭, ‬21‭, ‬23‭-‬24 JA1955
https://bible.com/bible/81/jhn.4.13-24.JA1955


偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。それもしなければならないが、これも見のがしてはならない。 盲目な案内者たちよ。あなたがたは、ぶよはこしているが、らくだはのみこんでいる。 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。杯と皿との外側はきよめるが、内側は貪欲と放縦とで満ちている。 盲目なパリサイ人よ。まず、杯の内側をきよめるがよい。そうすれば、外側も清くなるであろう。 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。 このようにあなたがたも、外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである。 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは預言者の墓を建て、義人の碑を飾り立てて、こう言っている、 『もしわたしたちが先祖の時代に生きていたなら、預言者の血を流すことに加わってはいなかっただろう』と。 このようにして、あなたがたは預言者を殺した者の子孫であることを、自分で証明している。
マタイによる福音書 23:23‭-‬31 JA1955
https://bible.com/bible/81/mat.23.23-31.JA1955


サムエルは言った、「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、聞くことは雄羊の脂肪にまさる。
サムエル記上 15:22 JA1955
https://bible.com/bible/81/1sa.15.22.JA1955

わたしがこれらのことを語ったのは、あなたがたがつまずくことのないためである。 人々はあなたがたを会堂から追い出すであろう。更にあなたがたを殺す者がみな、それによって自分たちは神に仕えているのだと思う時が来るであろう。 彼らがそのようなことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。 わたしがあなたがたにこれらのことを言ったのは、彼らの時がきた場合、わたしが彼らについて言ったことを、思い起させるためである。これらのことを初めから言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである。 けれども今わたしは、わたしをつかわされたかたのところに行こうとしている。しかし、あなたがたのうち、だれも『どこへ行くのか』と尋ねる者はない。 かえって、わたしがこれらのことを言ったために、あなたがたの心は憂いで満たされている。 しかし、わたしはほんとうのことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。 それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。 罪についてと言ったのは、彼らがわたしを信じないからである。 義についてと言ったのは、わたしが父のみもとに行き、あなたがたは、もはやわたしを見なくなるからである。 さばきについてと言ったのは、この世の君がさばかれるからである。 わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。 けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。 御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。 父がお持ちになっているものはみな、わたしのものである。御霊はわたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるのだと、わたしが言ったのは、そのためである。 しばらくすれば、あなたがたはもうわたしを見なくなる。しかし、またしばらくすれば、わたしに会えるであろう」。 そこで、弟子たちのうちのある者は互に言い合った、「『しばらくすれば、わたしを見なくなる。またしばらくすれば、わたしに会えるであろう』と言われ、『わたしの父のところに行く』と言われたのは、いったい、どういうことなのであろう」。 彼らはまた言った、「『しばらくすれば』と言われるのは、どういうことか。わたしたちには、その言葉の意味がわからない」。 イエスは、彼らが尋ねたがっていることに気がついて、彼らに言われた、「しばらくすればわたしを見なくなる、またしばらくすればわたしに会えるであろうと、わたしが言ったことで、互に論じ合っているのか。 よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたは泣き悲しむが、この世は喜ぶであろう。あなたがたは憂えているが、その憂いは喜びに変るであろう。 女が子を産む場合には、その時がきたというので、不安を感じる。しかし、子を産んでしまえば、もはやその苦しみをおぼえてはいない。ひとりの人がこの世に生れた、という喜びがあるためである。 このように、あなたがたにも今は不安がある。しかし、わたしは再びあなたがたと会うであろう。そして、あなたがたの心は喜びに満たされるであろう。その喜びをあなたがたから取り去る者はいない。 その日には、あなたがたがわたしに問うことは、何もないであろう。よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたが父に求めるものはなんでも、わたしの名によって下さるであろう。 今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう。 わたしはこれらのことを比喩で話したが、もはや比喩では話さないで、あからさまに、父のことをあなたがたに話してきかせる時が来るであろう。 その日には、あなたがたは、わたしの名によって求めるであろう。わたしは、あなたがたのために父に願ってあげようとは言うまい。 父ご自身があなたがたを愛しておいでになるからである。それは、あなたがたがわたしを愛したため、また、わたしが神のみもとからきたことを信じたためである。 わたしは父から出てこの世にきたが、またこの世を去って、父のみもとに行くのである」。 弟子たちは言った、「今はあからさまにお話しになって、少しも比喩ではお話しになりません。 あなたはすべてのことをご存じであり、だれもあなたにお尋ねする必要のないことが、今わかりました。このことによって、わたしたちはあなたが神からこられたかたであると信じます」。 イエスは答えられた、「あなたがたは今信じているのか。 見よ、あなたがたは散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとりだけ残す時が来るであろう。いや、すでにきている。しかし、わたしはひとりでいるのではない。父がわたしと一緒におられるのである。 これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。
ヨハネによる福音書 16:1‭-‬33 JA1955
https://bible.com/bible/81/jhn.16.1-33.JA1955



このブログの関連記事:




福音派聖霊派の教会に今あること、すぐ起こり得ることを訴えるためキリスト教ブログランキングに参加しています。
ブログランキング・にほんブログ村へ 





真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために
  新改訳聖書を使う福音派、聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)、聖書主義、終末携挙信仰、リバイバル信仰、潜在意識など心理的背景、牧師・教会のカルト化問題、クリスチャン2世問題を扱います。その当事者として信仰的姿勢と現実的姿勢で原因考察とお勧めをしております。
  教派信仰問題の経験者の今後のあり方、信仰と救い、社会性、人生の背景、自立した生き方を探求します。内容が辛らつすぎると思われる方は、自己批判・内部告発とお考えいただきたいと思います。
  NCC日本キリスト教協議会に属さず、JEA日本福音同盟やJPC日本ペンテコステネットワークに加わっている福音派聖霊派教派の自浄作用を期待して記事を書き20年になります。
  他教会の問題であっても福音派を名のることを躊躇するような事がずっと起き続けて終わらないのは、『クリスチャンも罪人』という言い訳で済む問題なのでしょうか?『聖書的』『聖書信仰』と言うだけで、すべて許されるのでしょうか。

優れること、優位に立つことが自我ではなく
いつも自分のために選択することが健全な自我であり、自分らしい自分をつくることになります

どんな自分でも、それがその時の無理のないありのままの自分なら受け容れる選択をする
そこへとキリストはどの人の内にも住んで導きますし、そこから始まるキリストとの出会いと伴いの人生があります

教会の人間的な教えでは、
『救いにふさわしく』と言って
無理な矯正や奉仕や学びや清さを強調します

自分らしさを選ばせないのは虐待です

日常の困難について『成長のための試練』と言ったり
『神にふさわしく』『清く罪から離れ』とか言うのはすべて的外れでミスリードであり、キリストから人を遠ざけます
きびしい言葉の蓄積はその教会サークルのローカルな連帯感だけを生むだけで世界を狭くして実際不寛容で多様さや変化や発見を認めないものです

「愛され心が無理なく平穏に安らかになる」

”他人に『これが愛だ』と言われて自分の納得を待たずに恐ろしくて言いなりになること”
無意識にどちらかを選んでいる人生を積み重ねることで結果は大きく変わります

いつも自分のために選ぶことをキリストと共に考えましょう
キリストが与えるものは必ず無理なく安心・平安があります
清さや愛のやる気を他人に見せる必要は全くありません
キリストが内に居て無理なく湧くものがあって自然な証しになっていきます

そのために
自分と他人の間に境界があることは大切です
境界が無い時に、甘えが互いに許されてしまい我慢を重ねて軋轢とストレスを生じます
教会で罪があるからお互い様だから『赦し合いましょう』などと言うのは共依存させるローカルルールの罠です
実際は上からコントロールしやすくする抑圧、支配、虐待です

見分けて取捨選択しましょう
境界をつくり
社会でも教会でも同じように
取り込もうとする悪い影響のあるものを捨て

必要なものを大切にして
心軽くシンプルに行動できて結果を出す自由
その積み重ね
それが愛せる安心できる自分をつくります

脅され抑圧され支配されると動けなくなります
言いなりにやっても結果は出ません
口だけ格好だけ合わせて狭い社会や教会にいても
経験にも蓄積にもなりません

物事の要所を押さえるコツもなく
ただ自分と他人を責めて『でも赦された』と感謝する繰り返しだけで
要らぬ愛の使命感をあおられて、徒労と疲労だけになります

父・キリスト・聖霊は、ほんとうに人を生かす方のはずです
心が責められ恐れや焦りがあるなら、その教会を出て行ってその偽りの信仰から脱出しましょう

もし人が、イエスを神の子と告白すれば、神はその人のうちにいまし、その人は神のうちにいるのである。 わたしたちは、神がわたしたちに対して持っておられる愛を知り、かつ信じている。神は愛である。愛のうちにいる者は、神におり、神も彼にいます。 わたしたちもこの世にあって彼のように生きているので、さばきの日に確信を持って立つことができる。そのことによって、愛がわたしたちに全うされているのである。 愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである。 わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである。
ヨハネの第一の手紙 4:15‭-‬19 JA1955
https://bible.com/bible/81/1jn.4.15-19.JA1955


このブログの関連記事:
福音派宗教2世…『私は自分のことが嫌い』『自分を憎んでいる』『自分なんかダメ』悔い改めという名の自己否定すると落ち着く 2022年08月04日



福音派聖霊派の教会に今あること、すぐ起こり得ることを訴えるためキリスト教ブログランキングに参加しています。
ブログランキング・にほんブログ村へ 





真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために
  新改訳聖書を使う福音派、聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)、聖書主義、終末携挙信仰、リバイバル信仰、潜在意識など心理的背景、牧師・教会のカルト化問題、クリスチャン2世問題を扱います。その当事者として信仰的姿勢と現実的姿勢で原因考察とお勧めをしております。
  教派信仰問題の経験者の今後のあり方、信仰と救い、社会性、人生の背景、自立した生き方を探求します。内容が辛らつすぎると思われる方は、自己批判・内部告発とお考えいただきたいと思います。
  NCC日本キリスト教協議会に属さず、JEA日本福音同盟やJPC日本ペンテコステネットワークに加わっている福音派聖霊派教派の自浄作用を期待して記事を書き20年になります。
  他教会の問題であっても福音派を名のることを躊躇するような事がずっと起き続けて終わらないのは、『クリスチャンも罪人』という言い訳で済む問題なのでしょうか?『聖書的』『聖書信仰』と言うだけで、すべて許されるのでしょうか。

私たちの人格のすべての領域の救いのために
誰でも信頼できるキリストの内住、聖霊の満たしを自分の奥深くに意識すればすぐに与えられたと信じてよいのです。

聖書は内住のキリスト、聖霊の導きによって理解できるものです。

キリストとの歩みは、おおらかに赦されている自分を理解し向き合い、必要なものと捨てるものを発見して本来の愛される自分を見つけることです。
「あなたと共にいて楽しいよ」と言う存在です。

それに対して
教会の教えは人間的な頭の理解の押し付けで、キリストとは真逆のことは当然ありえます。教えようとするのが人間だからです。
もし個人と内住のキリストと聖霊の照明を身近で現実的なものと言わず重んじないような牧師や教会なら
そこからすぐに離れることが必要です。
人間の知識に頼る『聖書信仰』『聖霊の満たし』が素直な信頼を邪魔するという構図がはっきり存在しています
知識と形式的祈りに頼って様々な人生や他者との出会いに学ばない教会生活は縛りで何世代も連鎖します

教理や他人の証を頭に詰め込んで自分の行動や考えを合わせると
形だけ口だけの『クリスチャン』『教会員』『新生』『永遠の命』の身分を与えられて、実際は聖書も神も分からなくなり、一生その教会と牧師に縛られます

『全的堕落の罪を認めて自分を全否定しないとキリストが来ないし聖霊に満たされない』などと言う人の教えが最も悪いものです

自分を知るのも罪を悟るのも聖書を理解するのも、
すべては最初に素直にキリストという方を知って信じ、どの人にも例外なく内側にすぐに来られるキリスト、聖霊によります

誰もあなたを責めず、罪は赦されている
福音書のキリストはそう語りかけています
まず最初は「共にいて、すでに赦しているキリスト」が入口で
キリストが私たちの目に映るもの感じるものを共に見ていくこと、
キリストがどう人の心を休ませてどう赦しどう見ているかを知っていくことが健全でまっとうな道筋です
悪い教会には存在しないキリストの伴い赦し心の安息です

最初に私たちが罪を悔い改めたから救われるのではなく
キリストが最初に私たちを愛し赦したことからすべてが始まります

聖書信仰の名をかたって人間的な罪の悔い改めの強要を絶対条件にする福音派聖霊派の救いで心を固めてしまうと、
自分で自分をその中に入れないと平安でいられなくなり、
それを喜びと平安と天国の国籍だと一生信じ込み、
檻の中に自分を閉じ込めて自分の自由を奪うことに。
そこに熱心に真剣に長く留まるほど、そこからの脱出は苦痛と不安の時間を長くすることになります
私の場合は信じるに足りる他人の善意を信じられないようになり、自分をさえ信じられない状態が何十年も続き、無意識に心が自分と他人を裁き責めていて硬直していました
外面では対人関係のスキルでカバーしようと必死で
それに加えて教理や牧師や聖書信仰やCS教師の教えに心が侵されて子どもの頃から心に非常に大きな負担をかけ続けた状態でした
「あなたはよくここまで生き続けていた」とキリストに言われているかのようです。

他人の善意を信じるられることは人格や心の平安にどうしても必要な事ですが
教会の教える愛や寛容や親切の形は表面的で、意識の下では互いに罪を責め合っている場面があり
それが長い間意識に蓄積すると人間不信になります
また、「自分を責めることが救いにつながる」と無意識に深く刻まれます

彼らは静かに心に浸蝕するカルトです
牧師の私見が入る説教は普通にあって、肩の力を抜いて牧師を人間として見られれば、話を無視できれば健全なのですが、
牧師の言葉を聞き逃さず学び信じる、教会にとっての『良心的姿勢』を求め、世間の価値観や常識さえ支配しようとする権威的な牧師と教会にあるからくり、
そんな教会に週一日以上何年も通い続けられるようになる洗脳のからくりがあって、罪と地獄の恐怖で脅されて救われたいから意識にも無意識にも信仰として受け入れてしまうのです

そんな福音派聖霊派の教会に通ってはいけないし、話も聞いてはいけないと今ではちゃんと思えるようになりました
一見人道的でヒューマニズムを持っているように見せても、彼らは無意識に痛みを隠しつつ、責めと救いを行ったり来たりするような説得をしてきます
それを誰でも通る試練などと言いますが間違いであり、兄弟姉妹と言って縛り合い深い痛みの沈殿を共感することが愛だと勘違いさせます
安心できる依存先帰属先を探して
洗脳された感動体験に支配されて
破壊された自我から湧き出る依存先の理想化が起きます

本来、
キリストが与える命の水は内側から癒し新しく創造し流れ出るもので、
強く意識しなくても少しの信頼があれば人の中に命を生み育みます。

それに対して
悪い教会が作り出すものはキリスト・救い・命・愛を装って人間の意識や強い意志を求める感動的な創作です
行ってはいけない正統教派の教会は確かに存在します
もう影響を受けて縛られてしまっているなら
確実に離れて距離を取り
裏の無い正直な人たちと、教会色に染まっていない人間味と常識を持つ人と、付き合いを早く始める必要があります
それも緊急にです

私のように縛りが深く強すぎると、信仰と人間不信が合体して塊になってしまい素直なつもりでも頑なになっていて
解放に時間がかかります

たぶんそのおかげでこのような記事を一生書き続けることができます

三つ子の魂百までです


このふたりのうち、どちらが父の望みどおりにしたのか」。彼らは言った、「あとの者です」。イエスは言われた、「よく聞きなさい。取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる。
マタイによる福音書 21:31 JA1955
https://bible.com/bible/81/mat.21.31.JA1955

主なる神、イスラエルの聖者はこう言われた、「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」。しかし、あなたがたはこの事を好まなかった。 かえって、あなたがたは言った、「否、われわれは馬に乗って、とんで行こう」と。それゆえ、あなたがたはとんで帰る。また言った、「われらは速い馬に乗ろう」と。それゆえ、あなたがたを追う者は速い。
イザヤ書 30:15‭-‬16 JA1955
https://bible.com/bible/81/isa.30.15-16.JA1955


このブログの関連記事:
「信仰という名の虐待」によって植えつけられた信仰の子の「三つ子の魂」の執着に、誰が責任を取るのか 2014/02/19



福音派聖霊派の教会に今あること、すぐ起こり得ることを訴えるためキリスト教ブログランキングに参加しています。
ブログランキング・にほんブログ村へ 





真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために
  新改訳聖書を使う福音派、聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)、聖書主義、終末携挙信仰、リバイバル信仰、潜在意識など心理的背景、牧師・教会のカルト化問題、クリスチャン2世問題を扱います。その当事者として信仰的姿勢と現実的姿勢で原因考察とお勧めをしております。
  教派信仰問題の経験者の今後のあり方、信仰と救い、社会性、人生の背景、自立した生き方を探求します。内容が辛らつすぎると思われる方は、自己批判・内部告発とお考えいただきたいと思います。
  NCC日本キリスト教協議会に属さず、JEA日本福音同盟やJPC日本ペンテコステネットワークに加わっている福音派聖霊派教派の自浄作用を期待して記事を書き20年になります。
  他教会の問題であっても福音派を名のることを躊躇するような事がずっと起き続けて終わらないのは、『クリスチャンも罪人』という言い訳で済む問題なのでしょうか?『聖書的』『聖書信仰』と言うだけで、すべて許されるのでしょうか。

いつでもキリストに会えるというイメージは、どの人が持ってもいいもの。
一緒にいる愛する相手として
大好きなパートナーのように
触れあうと癒される存在として
そんなふうにイメージできる身近な存在を考えてみて、キリストを同じように感じていい。

でもキリストのイメージを『それは聖書的?ヒューマニズムにキリストを引き下げていいの?』などと言って『聖書信仰による新生(ボーンアゲイン)したクリスチャン』という身分を大事にする教会なら脱出した方が良いです。
また、その教会や牧師や過去の証しの言葉をなぞるように言って勧めて、『祈ってます』と言うクリスチャンからも離れましょう。

上から目線の神か、
私たちよりも低い目線で語り、人にとって理解と発見のある交わりをするキリストか。
上から目線で来ない神キリストこそ、知恵であり知識です。
上から来ない神を理解できない人がクリスチャン、宗教者なら、他人に上から教える悪い形の教会をつくり伝道します。
福音とは上下も格差も隔てもないもので、
永遠の昔から神であるのに地に下り人から生まれ、人に殺されて黄泉に下り神の力で復活したキリストそのもので普遍的救いです。これを霊魂心で理解できない牧師やクリスチャン、宗教者が多く存在します。

自分の心に素直であり
良いものも悪いものも正直にありのままに心の声を祈れば
いつでもキリストに会えるということを実現した十字架と復活
キリストは壁を打ち壊し、人の日常に人として降りてこられました
天に昇られてから、いつもすべての人のそばを離れず日常のすべてを人の目線で理解しています。

『新生(ボーンアゲイン)』とは
キリスト教福音派聖霊派の教会で言う
『真に罪から神へ回心し聖霊によって信仰によって生まれたクリスチャンの救い』のことで、
初めは
解放された感激
罪や世に決して囚われない自由
羽が生えたかのように軽くなる
真っ白に清く傷の無い者とされたすがすがしさ
人生の道が広く真っすぐ天にまで伸びているように見えました。

でも『私は特別に選ばれ救われているが、世の人は滅びに向かっている』という思考への支配はどこから?

『救いの喜び』が熱心に変わり、熱心が「必死さ」に取って代わられる時に『神の選び』のイメージの中に実際は恐怖が入り込みます。

例えば
感動した教会研修会から現実に戻る時の違和感ガッカリ感
教会と牧師による人間的な伝道戦略・義務的奉仕の迫り方への違和感
教会の奉仕を一所懸命にやることで救われるわけではないのに牧師やリーダーの言葉に脅迫され恐怖に襲われて必死になること
神の選びが不安で教会に属する意識と活動参加に取って代わる
『神様によろこばれる』『神様は悲しんでいる』『あなたは神に覚えられて祝福されている』牧師や上の大人の言葉に一喜一憂する
不安を訴えると『不信仰』『感情ではなく聖書を学び信じなさい』と言われる
『ハレルヤ』『すべてを感謝します』『実を実らせるのは聖霊の働き』と言って自分を鼓舞して痛みと心をしまい込んで向き合わない年月を過ごす

そんな教会では実は救われないと冷静に判断して
キリストを個人で求めることは必要です。

福音派・聖霊派・聖書信仰の決まり文句の告白に縛られて
素直な自分を出せない人は教会脱出を考えましょう。

キリストは
私たちの意識していない日常の思いと視線に共にいて
私たち自身よりも本音を知る方で
すべての人のどんな現実にも誰よりも早くそこにいる方。

キリストを愛するとは

現実にそこに居るキリストを友人が居るように自然に思える

力を抜いて気軽に一緒に居られて
ちょっとしたこと感じたことを四六時中会話にできて
共感できる。
私たちは一人ではありません。

お互い高い目線、他人を見下ろす所に居ないで

キリストは隠されていることも明らかなこともすべてを、
私と同じ体験の視線ですべて知っていて、
私たちは本当の本音の思いをゆだねて明け渡すことができて安息します。

キリストは宗教者と扇動された人たちに虐殺された神です。

クリスチャンたちも毎週牧師に扇動されていて、
誰かを上から目線で扱って否定していないか、
牧師と説教と証しを疑いましょう。

キリストがどんな方か伝わらないのは聞く側の問題よりも牧師と教会の問題の方が大きいのです。



この福音は、神が、預言者たちにより、聖書の中で、あらかじめ約束されたものであって、 御子に関するものである。御子は、肉によればダビデの子孫から生れ、 聖なる霊によれば、死人からの復活により、御力をもって神の御子と定められた。これがわたしたちの主イエス・キリストである。
ローマ人への手紙 1:2‭-‬4 JA1955
https://bible.com/ja/bible/81/rom.1.2-4.JA1955

キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。
ピリピ人への手紙 2:5 JA1955
https://bible.com/ja/bible/81/php.2.5.JA1955

キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。
ピリピ人への手紙 2:6‭-‬8 JA1955
https://bible.com/ja/bible/81/php.2.6-8.JA1955



このブログの関連記事:
福音派・聖霊派でキリストを知り救われ、いかに福音派・聖霊派の洗脳と支配から逃れるか 2023/11/22

祈りの質の回復 2022/10/28



福音派聖霊派の教会に今あること、すぐ起こり得ることを訴えるためキリスト教ブログランキングに参加しています。
ブログランキング・にほんブログ村へ 





真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために
  新改訳聖書を使う福音派、聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)、聖書主義、終末携挙信仰、リバイバル信仰、潜在意識など心理的背景、牧師・教会のカルト化問題、クリスチャン2世問題を扱います。その当事者として信仰的姿勢と現実的姿勢で原因考察とお勧めをしております。
  教派信仰問題の経験者の今後のあり方、信仰と救い、社会性、人生の背景、自立した生き方を探求します。内容が辛らつすぎると思われる方は、自己批判・内部告発とお考えいただきたいと思います。
  NCC日本キリスト教協議会に属さず、JEA日本福音同盟やJPC日本ペンテコステネットワークに加わっている福音派聖霊派教派の自浄作用を期待して記事を書き20年になります。
  他教会の問題であっても福音派を名のることを躊躇するような事がずっと起き続けて終わらないのは、『クリスチャンも罪人』という言い訳で済む問題なのでしょうか?『聖書的』『聖書信仰』と言うだけで、すべて許されるのでしょうか。

心の底からの叫び祈り
弱さや困窮からの絞り出す祈り
ただ真実を願いその中で生きたい祈り

祈りは形ではなく心の声
それなら必ず神様に届き聞かれています

福音派牧師の説教の『神に聞かれる祈りには、まず聖書を読み服従することが必要』などという話はまったく当てになりません
教会に来て聖書解釈を教わって従わないと神に何も聞かれないかのように言うのは
キリストと人の間に牧師が立ちふさがり『神に祈る前に牧師の言うことを聞け』と言うに等しく
彼らを信じるとキリストの声はねじ曲げられて人間的で強烈な思い込みの責めや義務に洗脳され、脱出して自由や自己肯定を得るのに一生を費やすことになります。

心の声に忠実にそのまま神に言うようにしましょう

キリストとの交わりや、聖霊の働きが分からなくても、心の祈りをした時点でもうキリストとの歩みが始まっていて、導きや出会いや示唆が日常の所々にあるのを発見します

最初は疑心暗鬼でも、真実な心の祈り求めを続けて、導きや思いの中に来る声に気をつけて、
そこで他にはない平安があり、自分のやる気からではない確信があればそれを信じて動いてみる、その継続と繰り返しでキリストが共にいる確信が自然と揺れなくなります。

個人的に神に出会い対話する、共に歩む

そもそも多くの教会が
『人にはできないし分からないから教える』という目的と態度なので
教会では皆が『できない分からない』ところに留まってしまい
教える人教わる人の立場が固定して一生になるのに
教える牧師は神学校で学んだだけで人生で学ばず、キリストが普通の人に静かに伴い応えることも知らないことがあります

祈り求めればすぐその場にキリストは居て聖霊はすでに働いて、祈り求め顔を向ける人をありのまま肯定して対話の中で繰り返し人が自分を知るようにしていて

真の神ならその人らしい次のステップに向かわせます

『できない分からない罪だから』悔い改めへりくだりのループに居るのは教会や育ってきた環境の枠のせいです

キリストは求め来る人を理解して生きるために導き、対話して励まし、道を共にして共に感じています

キリストをすぐ近くにいていつでも話せる友に思えないのは教会の教えの枠のせいです

牧師と教会の人の言葉による深い傷があるなら、
そこから離れるようにキリストに導かれ、
たとえ教会に行かなくても平安に過ごせるように様々な体験と発見をします。

悔い改め、キリストの愛、聖霊の満たし、救い、永遠の命
これらの言葉を聖書的・聖書通りと言いながら悪い教会は脅迫と洗脳に使い、キリストが糾弾した祭司や律法学者たちよりももっと悪く、会堂に来る人を支配します
その教会が勝手に想像するのは『罪に厳しい神がキリストの犠牲に見合う悔い改めと行いを人に迫る』ということ

教会によって与えられている傷があっても『自分も罪人だから』と我慢してしまい、
自分より他人と教会を優先して第一に大切にして
自分を大切にできず、
自分が傷ついていることに鈍感になって忙しくして放置してしまい、
無理して『与える愛』ばかり、自分を犠牲にすることばかり意識していて、自分を後回しにしていて
そこから
傷みが積もって心から吹き出して、

その底から一人で真実を求めて

命の中心から渇いて、
しっかり自分の素直な心を守り、自由を求める人はキリストを見出します

牧師に言いなりの教会に従うのであればずっとキリストに会えずじまいです

悪い教会に毒されてしまった心や聖書の言葉から這い出すために、
教会の外の良心や常識を自分の中に入れていく必要があります
教会を離れて、良いものと正しさを見つけるのです

会堂に集い教団や牧師のことばに従い『聖なる祭司、神の国民』のステータスに酔わされる人たちは信仰を見誤り
何の問題の解決にもならず
教会に絶望して心の本音を伝えると避けられて捨てられてしまいます


キリストは誰にも知られず貧しく小さい魂の祈りに最大限応えます

この旧新約聖書の普遍的な法則

キリストによる信仰の前提は、
あわれみと赦し、
人の心の純真な、子どものような、生きるための求めであり

それに対してキリストのものではない人の教会は
人の側でまず悔い改めて定型の言葉の信仰告白をして言葉通り従う奉仕を前提としていて
できなければまた悔い改めから繰り返すループ
それは真面目な人ほど大変で、
適当な自分中心の解釈の人ほど教会で幅をきかせて

良心や常識をまったく期待できない人物に期待したりあわれみを持って良いものを与えようとしても、引き裂かれて捨てられ心を廃墟のようにされます

良い発想、人を生かし救う発想は、それを本当に心から願う人にしか生まれません

『聖書通りの信仰』と言っても
聖霊によらなければ救われない
それはシンプルな人の心の願いであればすぐ実現します

神、キリストに自分で向き合うと決めて、自分の心の純真で救いと正義を信じることは本当に幸い

他に何も信じられなくても、キリストだけは裏切らないと信じられる幸いがあります

教会からの裁きや縛りから脱して、貧しい者に寄り添い自身を顕すキリストを信じて心の芯に迎えれば
過去の教会の縛り、人からの縛りなど、世の試練は乗り越えられます

キリストを心で求めれば、すでにキリストは共にいます
そうして日々個人的にキリストを近く思って自分の中で会うことが救いです
福音書にある出会いを見れば分かります

キリストだけに真実と正義を一心に求めれば、毎日の生活のリアルに共にキリストが居て、経験や見聞きする中でキリストが導き語りかけ

キリストの関心と導きが今の時を越えて
人間の弱さ、強がって浪費する時間をも前提にしていて、永遠の神の時間の考え方で人間を忍耐強く導くという愛を、人に確かに分からせます

「教会の教えと合わない」
「すぐに変化がない」
「思ったような祈りの応えがない」
これは教会のイメージや宗教のイメージに縛られた信仰の結果です

それとは違い、福音書にあるようにいつどんな時にも人の現実を理解してすべての場面にすでに共に居る現実のキリストのあり方が正しいのです

自分を生かし愛するのは人として当然で、その上で神を愛し隣人を愛する
自我やアイデンティティがあって常識と与える愛を持ち、縛り支配への拒否を持つことは健全です

ただ、キリストと親しく会い、導きを受け入れる道中で自分を変えられる時には、過去の自分をキリストと共に十字架につける、それは仕事や人間関係や家族関係などの日常にあって、
私たちは、キリストと居れば、いつのまにかその試練を通過し、変えられていきます
それは人にはできないことで、増して教会の教えや牧師の意図などで人を変えるなどできません


人を縛る悪い教会と牧師は、永遠の救いと喜びを人質にして、永遠の裁きと滅びの恐怖で脅して、教会に来た人の心を拉致し家族ごと教会と牧師の奴隷にしようとします


正しい救いとは、神を愛するとは、
人を超える正しさ公平さ、配慮、生きるために必要なものを与える存在として、身近に感じ、いつも一緒に物事を見て感じて、同じ目線で共に生きる友であり、自分と他人を生かそうとするキリストを信頼して愛して、発見し気づいて変えられて自由になっていくこと

人は罪も知っており愛も知っていて
誰でも成育の中で意識します
親や家族や環境で歪みも出ます
教会も歪みの一部であることは間違いありません
『聖書を知れば正しい知識を持つ』と思ってしまう時点で間違っています
人間が聖書を知るのは聖霊によるはずなのに、人間が聖書を教えるからです

『神を知らず無視するのは生まれながらの罪』という原罪の教えは
福音派聖霊派の徹底した妥協の無い聖書信仰と教会牧師への服従を静かに教えて
実は人の内面では脅迫的に響いて誘導されていて
聖書や信仰で正義感を持ち自分と他人を裁くようになってまた愛の無い罪の意識に戻るループです



さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。 この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。 だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。
ヘブル人への手紙 4:14‭-‬16 JA1955
https://bible.com/bible/81/heb.4.14-16.JA1955


悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。
エペソ人への手紙 6:11 JA1955
https://bible.com/ja/bible/81/eph.6.11.JA1955


彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。

そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。 女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。〕
ヨハネによる福音書 8:7‭, ‬10‭-‬11 JA1955
https://bible.com/ja/bible/81/jhn.8.7-11.JA1955


人をさばくな。自分がさばかれないためである。 あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。 聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。 求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。 すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。 あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。 魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。 だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。 狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。 命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。 にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。
マタイによる福音書 7:1‭-‬15 JA1955
https://bible.com/bible/81/mat.7.1-15.JA1955



このブログの関連記事:
イエス様は個人の心の声を第一にします 2024/4/30

心の声を大切に…傷が裂けていても自分を諦めず 2023/8/17

福音派聖霊派の教会に今あること、すぐ起こり得ることを訴えるためキリスト教ブログランキングに参加しています。
ブログランキング・にほんブログ村へ 





真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために
  新改訳聖書を使う福音派、聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)、聖書主義、終末携挙信仰、リバイバル信仰、潜在意識など心理的背景、牧師・教会のカルト化問題、クリスチャン2世問題を扱います。その当事者として信仰的姿勢と現実的姿勢で原因考察とお勧めをしております。
  教派信仰問題の経験者の今後のあり方、信仰と救い、社会性、人生の背景、自立した生き方を探求します。内容が辛らつすぎると思われる方は、自己批判・内部告発とお考えいただきたいと思います。
  NCC日本キリスト教協議会に属さず、JEA日本福音同盟やJPC日本ペンテコステネットワークに加わっている福音派聖霊派教派の自浄作用を期待して記事を書き20年になります。
  他教会の問題であっても福音派を名のることを躊躇するような事がずっと起き続けて終わらないのは、『クリスチャンも罪人』という言い訳で済む問題なのでしょうか?『聖書的』『聖書信仰』と言うだけで、すべて許されるのでしょうか。

ただキリストが内に居て語る言葉が力を持つ

キリストが居ることの実感は人の誰からも与えられず、ただ個人として求める祈りでしかキリストご自身は見つけられない。

もし大説教家や奇跡を行う者に感動させられ按手されても、その実感はキリストとは違うことが多くあります。人間的な確信や結論が押し付けられていることが多いのです。

清さだけの人、正しさだけの人など存在しませんし、皆が例外なく混ぜものを内に秘めています。キリストはそれを責めず、人が自ら気づいていくこと、それを見極めるための経験を人生で与えます。
だから、人生のある場面を絶対視してはいけないのです。
絶えず新たな学び気付き悟りを蓄え、
頼りたい思い込みの確信を手放し封じるようにされ、
今ここにいる自分や他人とキリストをありのまま現実として日々気付き認識を改め、リアルで決して離れないキリストを知ることです。

人が語る証しや聖書の引用に感動しても、内なるキリストによるものか、人が切り取ったものなのかを見極めるために、人生の日々の様々な経験があります。



主は重い労働をもって彼らの心を低くされた。彼らはつまずき倒れても、助ける者がなかった。
彼らはその悩みのうちに主に呼ばわったので、主は彼らをその悩みから救い、 暗黒と深いやみから彼らを導き出して、そのかせをこわされた。
どうか、彼らが主のいつくしみと、人の子らになされたくすしきみわざとのために、主に感謝するように。
主は青銅のとびらをこわし、鉄の貫の木を断ち切られたからである。
ある者はその罪に汚れた行いによって病み、その不義のゆえに悩んだ。 彼らはすべての食物をきらって、死の門に近づいた。
彼らはその悩みのうちに主に呼ばわったので、主は彼らをその悩みから救い、 そのみ言葉をつかわして、彼らをいやし、彼らを滅びから助け出された。
詩篇 107:12‭-‬20 JA1955
https://bible.com/bible/81/psa.107.12-20.JA1955


このブログの関連記事:
『絶対にこれだ』と強く信じたいことを心に決めてしまうと楽(らく) 2024年05月21日



福音派聖霊派の教会に今あること、すぐ起こり得ることを訴えるためキリスト教ブログランキングに参加しています。
ブログランキング・にほんブログ村へ 





真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために
  新改訳聖書を使う福音派、聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)、聖書主義、終末携挙信仰、リバイバル信仰、潜在意識など心理的背景、牧師・教会のカルト化問題、クリスチャン2世問題を扱います。その当事者として信仰的姿勢と現実的姿勢で原因考察とお勧めをしております。
  教派信仰問題の経験者の今後のあり方、信仰と救い、社会性、人生の背景、自立した生き方を探求します。内容が辛らつすぎると思われる方は、自己批判・内部告発とお考えいただきたいと思います。
  NCC日本キリスト教協議会に属さず、JEA日本福音同盟やJPC日本ペンテコステネットワークに加わっている福音派聖霊派教派の自浄作用を期待して記事を書き20年になります。
  他教会の問題であっても福音派を名のることを躊躇するような事がずっと起き続けて終わらないのは、『クリスチャンも罪人』という言い訳で済む問題なのでしょうか?『聖書的』『聖書信仰』と言うだけで、すべて許されるのでしょうか。

原っぱで集会したイエス

家に集う聖書に描かれた教会

信じる人を神の宮と言ったイエス

神殿を3日で建てると言ったイエス(十字架刑と3日目の復活のこと)

二人でも三人でも集まればそこは教会

いったい誰が教会堂を造りはじめ、続々どの教団も大金を集めて造り続けるのか(私の実家も父の死後に大金を会堂献金しました)

会堂ありき組織ありきの教会は心を奪う偶像ではないと純粋な心で言い切れるのか?


すべての人の目と心をキリストはそのまま見て読み取り感じ取り、理解し赦し愛する方ですが、
弱さの中にある人の中にあわれみと力をあらわします。

教会に属して、世と自分を分けて安心する信仰
他人を裁き上に立つ人にキリストは力をあらわすことはできません
教会や牧師や信仰の立場がその人に力を与えているから
そんな教会人から裁かれ脅されて、どうあがいても自分の中に恐怖や不安を掻き立てられる大勢の去りゆく来会者と2世

キリストはすべての人の目と心を読み取り、
上から目線でなくその人それぞれの心深くからの見え方感じ方に従って助け、導きます。
それは毎日の生活に溶け込んだものであることが多く、聖書の言葉や聖霊だとわかるものよりもはるかに多いはずです。私たちの普通の中にキリストが生き、隣人友人のようにして私たちの目が見るもの感じるものを理解しているから。

教会堂と教会組織は、キリストに近づけるより、組織を理解する無駄な時間と負担を与え、信仰から遠ざけキリストから遠ざけ、孤独と、より重い荷を背負わせる義務や罪責感を与えるだけなのでは?

人となったキリストが例外なくどの人の事も理解していること
教会を通さずとも
誰にも知られず心から叫ぶ人に共にいること
これだけが福音の中心です

神は天遠くから見下ろす神ではなく
世と黄泉を味わい私たちと永遠を共にする方です


そして、この福音は、世界中いたる所でそうであるように、あなたがたのところでも、これを聞いて神の恵みを知ったとき以来、実を結んで成長しているのである。 あなたがたはこの福音を、わたしたちと同じ僕である、愛するエペフラスから学んだのであった。彼はあなたがたのためのキリストの忠実な奉仕者であって、 あなたがたが御霊によっていだいている愛を、わたしたちに知らせてくれたのである。 そういうわけで、これらの事を耳にして以来、わたしたちも絶えずあなたがたのために祈り求めているのは、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力とをもって、神の御旨を深く知り、 主のみこころにかなった生活をして真に主を喜ばせ、あらゆる良いわざを行って実を結び、神を知る知識をいよいよ増し加えるに至ることである。 更にまた祈るのは、あなたがたが、神の栄光の勢いにしたがって賜わるすべての力によって強くされ、何事も喜んで耐えかつ忍び、 光のうちにある聖徒たちの特権にあずかるに足る者とならせて下さった父なる神に、感謝することである。 神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった。 わたしたちは、この御子によってあがない、すなわち、罪のゆるしを受けているのである。 御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。 万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。 彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている。 そして自らは、そのからだなる教会のかしらである。彼は初めの者であり、死人の中から最初に生れたかたである。それは、ご自身がすべてのことにおいて第一の者となるためである。 神は、御旨によって、御子のうちにすべての満ちみちた徳を宿らせ、 そして、その十字架の血によって平和をつくり、万物、すなわち、地にあるもの、天にあるものを、ことごとく、彼によってご自分と和解させて下さったのである。 あなたがたも、かつては悪い行いをして神から離れ、心の中で神に敵対していた。 しかし今では、御子はその肉のからだにより、その死をとおして、あなたがたを神と和解させ、あなたがたを聖なる、傷のない、責められるところのない者として、みまえに立たせて下さったのである。 ただし、あなたがたは、ゆるぐことがなく、しっかりと信仰にふみとどまり、すでに聞いている福音の望みから移り行くことのないようにすべきである。この福音は、天の下にあるすべての造られたものに対して宣べ伝えられたものであって、それにこのパウロが奉仕しているのである。 今わたしは、あなたがたのための苦難を喜んで受けており、キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている。 わたしは、神の言を告げひろめる務を、あなたがたのために神から与えられているが、そのために教会に奉仕する者になっているのである。 その言の奥義は、代々にわたってこの世から隠されていたが、今や神の聖徒たちに明らかにされたのである。 神は彼らに、異邦人の受くべきこの奥義が、いかに栄光に富んだものであるかを、知らせようとされたのである。この奥義は、あなたがたのうちにいますキリストであり、栄光の望みである。 わたしたちはこのキリストを宣べ伝え、知恵をつくしてすべての人を訓戒し、また、すべての人を教えている。それは、彼らがキリストにあって全き者として立つようになるためである。 わたしはこのために、わたしのうちに力強く働いておられるかたの力により、苦闘しながら努力しているのである。
コロサイ人への手紙 1:6‭-‬29 JA1955
https://bible.com/bible/81/col.1.6-29.JA1955


このブログの関連記事:
組織化した教会を維持する労力が信仰を削ぐことになる事実・現実 2023/05/12




福音派聖霊派の教会に今あること、すぐ起こり得ることを訴えるためキリスト教ブログランキングに参加しています。
ブログランキング・にほんブログ村へ 





真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために
  新改訳聖書を使う福音派、聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)、聖書主義、終末携挙信仰、リバイバル信仰、潜在意識など心理的背景、牧師・教会のカルト化問題、クリスチャン2世問題を扱います。その当事者として信仰的姿勢と現実的姿勢で原因考察とお勧めをしております。
  教派信仰問題の経験者の今後のあり方、信仰と救い、社会性、人生の背景、自立した生き方を探求します。内容が辛らつすぎると思われる方は、自己批判・内部告発とお考えいただきたいと思います。
  NCC日本キリスト教協議会に属さず、JEA日本福音同盟やJPC日本ペンテコステネットワークに加わっている福音派聖霊派教派の自浄作用を期待して記事を書き20年になります。
  他教会の問題であっても福音派を名のることを躊躇するような事がずっと起き続けて終わらないのは、『クリスチャンも罪人』という言い訳で済む問題なのでしょうか?『聖書的』『聖書信仰』と言うだけで、すべて許されるのでしょうか。

確信はどんな確信でも
説得と影響を与える瞬発力になり、同志のつながりは強まる

しかし心を決めて心を閉ざし確信に自信を持つと
成長は鈍化し視野は狭くなっていく
他人は一応話は聞いてくれるがその場限りで離れていくし
些細な行き違いで激しいやりとりになったりもする

自分の確信だけ見ていれば良いと思ってしまうのは恥ずかしい事
そう思わないと、成長も視野の拡がりも無く、平和も共存も多様性も自由も無い
対応力や知恵も育たず生み出すものも無く実を実らせることも無く
突っ立っているだけの傍観者となる
その周りは不毛の地に

ここまでは一般論で

ここから信仰について言えば
上から目線になる信仰の視座が『清さ』『救われた身のふさわしさ』『罪・滅びに無縁になる』として固定してしまうと
『地獄行き』とされる未信者ノンクリスチャンに共感無く無感覚になり
『一方的な愛』と称した押しつけの伝道説得に
共感に見えるように傾聴しても聖書知識を語るだけ
相手の心に響かず
自分に愛が無いのかと罪の悔い改めの要求が聖書読むたび教会行くたび祈るたび頭をもたげて来ます

『救われたクリスチャン』の枠に居ようとして狭量に偏執する人を見本のように讃える教会からは出た方が良いのです
その頑なであわれみを理解しない教会は衰退した方が良いのです


人と交わりをしない者は口実を捜し、すべてのよい考えに激しく反対する。
愚かな者は悟ることを喜ばず、ただ自分の意見を言い表わすことを喜ぶ。
悪しき者が来ると、卑しめもまた来る、不名誉が来ると、はずかしめも共にくる。
人の口の言葉は深い水のようだ、知恵の泉は、わいて流れる川である。
悪しき者をえこひいきすることは良くない、正しい者をさばいて、悪しき者とすることも良くない。
愚かな者のくちびるは争いを起し、その口はむち打たれることを招く。
愚かな者の口は自分の滅びとなり、そのくちびるは自分を捕えるわなとなる。
人のよしあしをいう者の言葉はおいしい食物のようで、腹の奥にしみこむ。
人の心の高ぶりは滅びにさきだち、謙遜は栄誉にさきだつ。
さとき者の心は知識を得、知恵ある者の耳は知識を求める。
先に訴え出る者は正しいように見える、しかしその訴えられた人が来て、それを調べて、事は明らかになる。
助けあう兄弟は堅固な城のようだ、しかし争いは、やぐらの貫の木のようだ。
人は自分の言葉の結ぶ実によって、満ち足り、そのくちびるの産物によって自ら飽きる。
箴言 18:1‭-‬8‭, ‬12‭, ‬15‭, ‬17‭, ‬19‭-‬20 JA1955
https://bible.com/bible/81/pro.18.1-20.JA1955



このブログの関連記事:




福音派聖霊派の教会に今あること、すぐ起こり得ることを訴えるためキリスト教ブログランキングに参加しています。
ブログランキング・にほんブログ村へ 





真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために
  新改訳聖書を使う福音派、聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)、聖書主義、終末携挙信仰、リバイバル信仰、潜在意識など心理的背景、牧師・教会のカルト化問題、クリスチャン2世問題を扱います。その当事者として信仰的姿勢と現実的姿勢で原因考察とお勧めをしております。
  教派信仰問題の経験者の今後のあり方、信仰と救い、社会性、人生の背景、自立した生き方を探求します。内容が辛らつすぎると思われる方は、自己批判・内部告発とお考えいただきたいと思います。
  NCC日本キリスト教協議会に属さず、JEA日本福音同盟やJPC日本ペンテコステネットワークに加わっている福音派聖霊派教派の自浄作用を期待して記事を書き20年になります。
  他教会の問題であっても福音派を名のることを躊躇するような事がずっと起き続けて終わらないのは、『クリスチャンも罪人』という言い訳で済む問題なのでしょうか?『聖書的』『聖書信仰』と言うだけで、すべて許されるのでしょうか。

教会とはキリストに声を聞かれている個人の集まりのはずです

教会の教えで心の声が潰される問題が確かにあります
罪の告白、悔い改め、型にはまった言葉、聖書解釈は教団と牧師の言う通り、
それで教会の知識を持っていてもキリストを個人で知らない人が集まる教会に行っても仕方がありません

ありのままでキリストが共にいると思えることが最も幸いで、最も強い信仰です
何かをする必要はなく、心の思いをキリストが聞いていることをただ思うだけでいい

悪い教会、悪い説教に毒されて厳しい条件付けに縛られてしまうと信仰は難しくなります

正しい信仰は、
けがれふさわしくないと思う自分の身にもキリストが現実に共にいることを
普通に当然に期待している思いです


ニネベの人々が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、ニネベの人々はヨナの宣教によって悔い改めたからである。しかし見よ、ヨナにまさる者がここにいる。
ルカによる福音書 11:32 JA1955
https://bible.com/bible/81/luk.11.32.JA1955


このブログの関連記事:




福音派聖霊派の教会に今あること、すぐ起こり得ることを訴えるためキリスト教ブログランキングに参加しています。
ブログランキング・にほんブログ村へ 





真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために
  新改訳聖書を使う福音派、聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)、聖書主義、終末携挙信仰、リバイバル信仰、潜在意識など心理的背景、牧師・教会のカルト化問題、クリスチャン2世問題を扱います。その当事者として信仰的姿勢と現実的姿勢で原因考察とお勧めをしております。
  教派信仰問題の経験者の今後のあり方、信仰と救い、社会性、人生の背景、自立した生き方を探求します。内容が辛らつすぎると思われる方は、自己批判・内部告発とお考えいただきたいと思います。
  NCC日本キリスト教協議会に属さず、JEA日本福音同盟やJPC日本ペンテコステネットワークに加わっている福音派聖霊派教派の自浄作用を期待して記事を書き20年になります。
  他教会の問題であっても福音派を名のることを躊躇するような事がずっと起き続けて終わらないのは、『クリスチャンも罪人』という言い訳で済む問題なのでしょうか?『聖書的』『聖書信仰』と言うだけで、すべて許されるのでしょうか。

『神に自分の最上のものを捧げましょう』などという煽り文句で教えるキリスト教関係者を警戒すべきです。
彼らが『最上のもの』だと教える内容に決して従ってはいけません。
選民思想で聖書聖霊が特別な意味を持ち従うべき使命を持ち人生をがんばる、という意識になってしまうからです。

「自分の心の内側で最も欲しいもの」を、キリストにだけ打ち明けましょう。

他人から来るものでは無い本音、純粋を探し

愛とは

神がどういう正義の方か

人の弱さを愛し救う方だと

キリストはすべての人の思いを知っており分け隔ての無い世界を実現された方でそのための十字架でした

どの人にも伴い導き顔を上げさせようとしています

聖書や聖霊を教会で受け入れたからではなく
毎日の日常にただキリストが傍にいることが弱さや孤独の時の助けと希望になります


あなたがたは、以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり、以前は、あわれみを受けたことのない者であったが、いまは、あわれみを受けた者となっている。
ペテロの第一の手紙 2:10 JA1955
https://bible.com/ja/bible/81/1pe.2.10.JA1955



このブログの関連記事:




福音派聖霊派の教会に今あること、すぐ起こり得ることを訴えるためキリスト教ブログランキングに参加しています。
ブログランキング・にほんブログ村へ 





真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために
  新改訳聖書を使う福音派、聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)、聖書主義、終末携挙信仰、リバイバル信仰、潜在意識など心理的背景、牧師・教会のカルト化問題、クリスチャン2世問題を扱います。その当事者として信仰的姿勢と現実的姿勢で原因考察とお勧めをしております。
  教派信仰問題の経験者の今後のあり方、信仰と救い、社会性、人生の背景、自立した生き方を探求します。内容が辛らつすぎると思われる方は、自己批判・内部告発とお考えいただきたいと思います。
  NCC日本キリスト教協議会に属さず、JEA日本福音同盟やJPC日本ペンテコステネットワークに加わっている福音派聖霊派教派の自浄作用を期待して記事を書き20年になります。
  他教会の問題であっても福音派を名のることを躊躇するような事がずっと起き続けて終わらないのは、『クリスチャンも罪人』という言い訳で済む問題なのでしょうか?『聖書的』『聖書信仰』と言うだけで、すべて許されるのでしょうか。

↑このページのトップヘ