真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために

避難の場(シェルター)としての「個人の祈り」を守るために

執筆者 仁保裕介(プロフィール)『すべて失望した人の唇に祈りを。』祈りは、生活の現場から誰にでも自由にできるものです。キリストは呼び求めるすべての人と共に居る方です。清い人や会堂や神殿にしか現れない方ではありません。むしろ、自分はふさわしくないと思う人のそばに居るのがキリストです。
  受洗して教会員になった教会が、「この教会で信仰生活を続けられなければ、救いや信仰の道から外れる」と言うのは、真実ではありません。避難の場(シェルター)としてキリストに求める祈りには、「キリストが共に居る交わり」が必ず与えられています。
  このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。テーマは重いですが、皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。キリスト教の視点で、成長、試練、十字架、悔い改め、聖化の記事になっています。
  ほんの5才から信仰45年のクリスチャン2世として、キリスト教会内の教派主義・人間関係・権威化・カルト化によって傷を受けた皆さんと共に祈り、脱出と自立と今後の信仰について現実的視点で触れていきます。
  元「主の十字架クリスチャンセンター 北九州教会」牧師。

前回(2)はこちら(1) はこちら

日曜礼拝翌日の社会生活は、牧師のメッセージの結論よりも必ずもっと複雑で困難なものです。
それで皆が癒しを欲していて、逃避したいし、それで自分に都合の良い手近で単純な結論をつかんで安心を求めてしまいます。それが迷う人間の姿です。

しかし福音派は、自分たちの神学を強調すればするほど、生活に適用はできない結論になりがちです。
他派の神学論まで研究していて知的情報量はすごいのですが、
批判するばかりで、
自分の神学以外の神学にも、社会に学ぶことも無く、必然、視野が狭まっています。

聖霊派は、牧師個人の体験や確信が、教会の色や特徴になりやすく、聴く人の内面まで牧師の色に染めて強烈に波及することがあります。

恐らくどこの教派でも、牧師の説教通りにしようとするほど、現実社会で信仰を健全に適用できず、個人の成長がなく、内面が養われていきません。
自分の教会の理論を学ぶこと、それだけを守って囲い込むことに精一杯で、
それぞれの人の境遇を見て、深い聖書のみことばの適用まで行かず、人生の決断や選択を養う所まで到達できていません。

私たちも牧師も同じく、分かりやすく単純な人生の結論が欲しいのです。
困難で追い詰められるほど単純な解決が欲しいですし、また逆に豊かで充実しているほど複雑さを嫌います。

人の身勝手が連鎖して痛みがあるのがこの世の現実であるのに、皆が視線を逸らし、
どんなに影響力のある人でも自分の限界の中だけ、生きている間だけ熱心に働いて見せるだけで、
「自分は精いっぱいやった」と言って後の世代への責任から逃げるしかないのが人間の現実です。

「神の永遠の救いと裁き」を口にする牧師も、実際に「永遠」を見てはいません。この世に生きて理解している人は一人もいません。
『口先だけの説得』が牧師の説教の実態かもしれないのです。

自分も、教会も、世の偉人有名人も、皆、今が良ければ良いしそれしかできない、という思いからは逃れられません。

神が一人ひとりに与えた永遠への思いを生かすためには、

人が出す結論に迎合せず見分け、切り分けて、

受け取らない部分が必ずあることに慣れることが、神への信仰の必然である気がします。

自分を捨て自分の十字架を負うのは、ただ神に従うためであって、人に従うためではありませんから。

(4) へつづきます


このブログの関連記事:
神の国はあらゆる人の間に。信仰者は生ける神の宮、聖霊の宮 (2014年05月06日)

使命感の危うさ。成長の実はどこに? (2014年08月11日)

信仰の意味、聖書の意味を悟る。そのためにこその「自我の死」 (2015年03月03日)

神の声を聴く信仰 (2017年03月19日)



※スマホ画面に表示される誘導広告は、ライブドアとグーグルによるもので、このブログの記事とは一切関係ありません。

※このブログはにほんブログ村に参加しています。 よろしければ一日一回のクリックで上位表示にご協力ください。

ブログランキング・にほんブログ村へ


口語訳聖書は、 新共同訳、新改訳よりも前に、日本の全てのプロテスタント教会で使われていたものです。





■私たちクリスチャンは二人三人でも集まれば、そこを「キリストのみからだ」とすることができます。
洗礼の意味は「キリストへの信仰を持つ、人生の方向転換(悔い改め・回心)の決意」です。(洗礼は、授けた教会の組織員となる会員制度とは別のものです。)
牧師を上位に戴かずに、水平の交わりを心がけ、共に祈り神様を見つめて進む、この決心を共有する交わり・ネットワークを目標とする「キリストのみからだの教会」を求めます。
現状では「頼れる人として誰か教師を自分の上に置きたがる人の弱さ」を認め、私たちは日々そこから脱出して神様に祈り、主にある交わりをいただきます。同時に、助けを求める人の祈りに、あらゆる形で呼応するクリスチャンであることを決意し、自立への助けが必ずある「みからだのネットワーク」であることを目指しています。(CFF小倉福音センターの祈り・信仰指標から)

■福音派・聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)・聖書主義の人が内包する「カルト化問題」をこの世代で終息できますように。どの人にもある心の引っかかりや良心をなおざりにして、聖書信仰やリバイバル信仰に熱くなって人を裁き、自分と家族に負担をかけ、2世や若いクリスチャンの離反を招いていることを克服できますように。
これを信仰的姿勢と現実的姿勢で正面から捉えて祈ります。
時に辛らつに人の内面を見ることが必要かもしれませんが、自分の中にもあるものとして考えることで、問題の本質が見えるのかもしれません。

■教会のカルト化や縛りに巻き込まれないための3つの知恵
1.祈りと聖書読み−−日々必要な神様との交わりと悔い改めをする、教えの風に翻弄(ほんろう)されない避け所として、各々個人の祈りと聖書読みのシェルターを確立しましょう。
2.二つ以上の教会に安心できる交わりを確保しましょう。−−今の所属教会に並行して、さらに避け所となる他の教会を必ず把握しておき、日ごろから広く他教会・他教派のクリスチャンと親しくし深い信頼関係を築きましょう。安心し信頼できる他教会や他教派の話題を所属教会で積極的に話しましょう。しかし、拒否や非難を受けはじめたら、他の信頼できる教会の交わりにそのことを伝え教会のカルト化の危険について話し合い、転会の準備を始めましょう。そのためにも、信頼あるクリスチャンの友情を日々拡げて大切にしましょう。
3. 教会以外の関わりを大切にしましょう。−−友人、家族、職場などで、ご自分を理解してくれる方々がいらっしゃると思います。その方の何気ない助言や世間話に、思いやりを感じることは、とても大切です。私たちが、信仰に対する外からの目を持つことにもなります。正しい「証し」は、一方的な押し付けではないことも分かります。

−−−真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために−−−
−− 避難の場(シェルター)としての「個人の祈り」を守るために −−
執筆者 仁保裕介(プロフィール
『すべて失望した人の唇に祈りを。』
祈りは、生活の現場から誰にでも自由にできるものです。
キリストは呼び求めるすべての人と共に居る方です。清い人や会堂や神殿にしか現れない方ではありません。むしろ、自分はふさわしくないと思う人のそばに居るのがキリストです。
受洗して教会員になった教会が、「この教会で信仰生活を続けられなければ、救いや信仰の道から外れる」と言うのは、真実ではありません。
 避難の場(シェルター)としてキリストに求める祈りには、「キリストが共に居る交わり」が必ず与えられています。
このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。テーマは重いですが、皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。キリスト教の視点で、成長、試練、十字架、悔い改め、聖化の記事になっています。
ほんの5才から信仰45年のクリスチャン2世として、キリスト教会内の教派主義・人間関係・権威化・カルト化によって傷を受けた皆さんと共に祈り、脱出と自立と今後の信仰について現実的視点で触れていきます。
元「主の十字架クリスチャンセンター 鎌倉教会、北九州教会」牧師・脱会者

前回 (1) はこちら

私たちは、目の前にいる完成されたように見える人からの、
単純な信仰や、心地よい結論に頼ってしまいがちです。

情熱や知識がある人は魅力的ですが、実はそんな人ほど、気づかない内に支配的になっていたりします。
それを自覚できずに、自制することなく使命感に燃え、他人を支配して一生を終えることが多くあります。

情熱、使命であっても、自覚と自制があったとしても、聖書的には肉と口は制御できないものです。
自分に都合よく思い通りに人を縛り囲い込み、自分に心地よく仕えさせて報いもせず、人の心や命に死を与えます。
私たちは互いにそんな性分を持つ人間で、牧師も例外ではないです。

牧師の神学知識が確かで、説教に聖書箇所や神学の引用がたくさんあっても、
優しさや慰めの言葉があっても、
『聖霊に燃やされ押し出される』という情熱があっても、
結論が牧師の思いであり、主観的で単純過ぎる場合がかなり多くあります。
彼らも人生の道半ばの人間であり、まだ完成を見ずに途上に居るからです。

しかし、そんな説教の途中のごく一部分からでも、神の語りかけはあります。
日ごろから祈り求めている人ほど、聖書を読んで意味をわかろうとするほど、
ふと触れたみことばから語りかけをよく受けます。
それは牧師の意図しないところであり、多少変な説教からでも、 どんな状況ででも、 そんな風に 一部分で 神が語り働くことに神の知恵があります。
だから、牧師は自分の説教や知識を誇らず、 大仰に見せたがる自我を自覚して自制する知恵を主に求め 、
ただどんな形ででも用いられるように身を低くして仕える姿を求めるべきです。
同じように私たちも、周りを自分の色に染めたり、牧師の色に染まったりするのではなく、 自分が 知らない内に どこででも誰かに良い実を結んでいるように祈りたいのです。

目に見える結果を欲しがり、
人に向かってがんばり、
達成感を追い求めることで、
実際は主が結ばせる実を押しのけていたりします。
良い実を結べなくなることを恐れつつ、ゲッセマネで祈られたキリストに助けを求めて切に祈りたいのです。

(3) へつづきます


このブログの関連記事:
神の国はあらゆる人の間に。信仰者は生ける神の宮、聖霊の宮 (2014年05月06日)

使命感の危うさ。成長の実はどこに? (2014年08月11日)

信仰の意味、聖書の意味を悟る。そのためにこその「自我の死」 (2015年03月03日)

神の声を聴く信仰 (2017年03月19日)



※スマホ画面に表示される誘導広告は、ライブドアとグーグルによるもので、このブログの記事とは一切関係ありません。

※このブログはにほんブログ村に参加しています。 よろしければ一日一回のクリックで上位表示にご協力ください。

ブログランキング・にほんブログ村へ


口語訳聖書は、 新共同訳、新改訳よりも前に、日本の全てのプロテスタント教会で使われていたものです。





■私たちクリスチャンは二人三人でも集まれば、そこを「キリストのみからだ」とすることができます。
洗礼の意味は「キリストへの信仰を持つ、人生の方向転換(悔い改め・回心)の決意」です。(洗礼は、授けた教会の組織員となる会員制度とは別のものです。)
牧師を上位に戴かずに、水平の交わりを心がけ、共に祈り神様を見つめて進む、この決心を共有する交わり・ネットワークを目標とする「キリストのみからだの教会」を求めます。
現状では「頼れる人として誰か教師を自分の上に置きたがる人の弱さ」を認め、私たちは日々そこから脱出して神様に祈り、主にある交わりをいただきます。同時に、助けを求める人の祈りに、あらゆる形で呼応するクリスチャンであることを決意し、自立への助けが必ずある「みからだのネットワーク」であることを目指しています。(CFF小倉福音センターの祈り・信仰指標から)

■福音派・聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)・聖書主義の人が内包する「カルト化問題」をこの世代で終息できますように。どの人にもある心の引っかかりや良心をなおざりにして、聖書信仰やリバイバル信仰に熱くなって人を裁き、自分と家族に負担をかけ、2世や若いクリスチャンの離反を招いていることを克服できますように。
これを信仰的姿勢と現実的姿勢で正面から捉えて祈ります。
時に辛らつに人の内面を見ることが必要かもしれませんが、自分の中にもあるものとして考えることで、問題の本質が見えるのかもしれません。

■教会のカルト化や縛りに巻き込まれないための3つの知恵
1.祈りと聖書読み−−日々必要な神様との交わりと悔い改めをする、教えの風に翻弄(ほんろう)されない避け所として、各々個人の祈りと聖書読みのシェルターを確立しましょう。
2.二つ以上の教会に安心できる交わりを確保しましょう。−−今の所属教会に並行して、さらに避け所となる他の教会を必ず把握しておき、日ごろから広く他教会・他教派のクリスチャンと親しくし深い信頼関係を築きましょう。安心し信頼できる他教会や他教派の話題を所属教会で積極的に話しましょう。しかし、拒否や非難を受けはじめたら、他の信頼できる教会の交わりにそのことを伝え教会のカルト化の危険について話し合い、転会の準備を始めましょう。そのためにも、信頼あるクリスチャンの友情を日々拡げて大切にしましょう。
3. 教会以外の関わりを大切にしましょう。−−友人、家族、職場などで、ご自分を理解してくれる方々がいらっしゃると思います。その方の何気ない助言や世間話に、思いやりを感じることは、とても大切です。私たちが、信仰に対する外からの目を持つことにもなります。正しい「証し」は、一方的な押し付けではないことも分かります。

−−−真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために−−−
−− 避難の場(シェルター)としての「個人の祈り」を守るために −−
執筆者 仁保裕介(プロフィール
『すべて失望した人の唇に祈りを。』
祈りは、生活の現場から誰にでも自由にできるものです。
キリストは呼び求めるすべての人と共に居る方です。清い人や会堂や神殿にしか現れない方ではありません。むしろ、自分はふさわしくないと思う人のそばに居るのがキリストです。
受洗して教会員になった教会が、「この教会で信仰生活を続けられなければ、救いや信仰の道から外れる」と言うのは、真実ではありません。
 避難の場(シェルター)としてキリストに求める祈りには、「キリストが共に居る交わり」が必ず与えられています。
このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。テーマは重いですが、皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。キリスト教の視点で、成長、試練、十字架、悔い改め、聖化の記事になっています。
ほんの5才から信仰45年のクリスチャン2世として、キリスト教会内の教派主義・人間関係・権威化・カルト化によって傷を受けた皆さんと共に祈り、脱出と自立と今後の信仰について現実的視点で触れていきます。
元「主の十字架クリスチャンセンター 鎌倉教会、北九州教会」牧師・脱会者

牧師の持つ結論に合わせる必要は、まったくありません。

この世にいる間は誰も、牧師も、救いの完成の全貌を知らないからです。

教会に真面目で忠実すぎて、
「牧師の意図をなぞることで神と同じ思いになりたい、そういう人生を送りたい」
とまで思いました。
それで週に一度の礼拝に、その飢え渇いた心を満たされたいと期待して、しっかり祈って臨みました。
牧師と教会を信じすぎていたのでしょう。
牧師と教会は、神のことをすべて教えてくれる、と思いたかったのです。

神を知り救いを得たいなら、牧師に聞こうとするのではなく、
そこに居るキリストに心の目と耳を向ける必要があったのです。

キリストが、日々知って欲しいと思っていることは何か。私たちの前の週の葛藤や祈りへの答えを、キリストが直接私たちの心に注がれることに期待したいのです。

目に見える教会の中で、特に気を付けて目に見えない神を求め、
キリストの愛、十字架の深い意味を知るためにだけ、教会や牧師の教えの中から中身を選ふ必要があります。それ以外のために教会で人を求めると、視線が神とは違うものに傾きます。

何を求めるかをはっきりさせるために、
キリストご自身をまず第一に心から慕い求める、その一心な祈りが要ります。

「自分にしてほしいことをする」
それが愛だと教わりますが、

私たちの理想や欲しいものが間違っていたら、どうなるでしょう。

私たちは本当に必要なキリストのことばや命を心で望んでいるでしょうか。
実際に求めているものは本音では違っていたりします。

「自分にも人にもそれがあるように」と私たちが願って、教えたり勧めたりしているものは、果たして健全なものなのかどうか。
私は、いつも自分を疑っています。
そして、だからこそ神の愛に期待して、求め続けています。

(2) へつづきます


このブログの関連記事:
神の国はあらゆる人の間に。信仰者は生ける神の宮、聖霊の宮 (2014年05月06日)

使命感の危うさ。成長の実はどこに? (2014年08月11日)

信仰の意味、聖書の意味を悟る。そのためにこその「自我の死」 (2015年03月03日)

神の声を聴く信仰 (2017年03月19日)




※スマホ画面に表示される誘導広告は、ライブドアとグーグルによるもので、このブログの記事とは一切関係ありません。

※このブログはにほんブログ村に参加しています。 よろしければ一日一回のクリックで上位表示にご協力ください。

ブログランキング・にほんブログ村へ


口語訳聖書は、 新共同訳、新改訳よりも前に、日本の全てのプロテスタント教会で使われていたものです。





■私たちクリスチャンは二人三人でも集まれば、そこを「キリストのみからだ」とすることができます。
洗礼の意味は「キリストへの信仰を持つ、人生の方向転換(悔い改め・回心)の決意」です。(洗礼は、授けた教会の組織員となる会員制度とは別のものです。)
牧師を上位に戴かずに、水平の交わりを心がけ、共に祈り神様を見つめて進む、この決心を共有する交わり・ネットワークを目標とする「キリストのみからだの教会」を求めます。
現状では「頼れる人として誰か教師を自分の上に置きたがる人の弱さ」を認め、私たちは日々そこから脱出して神様に祈り、主にある交わりをいただきます。同時に、助けを求める人の祈りに、あらゆる形で呼応するクリスチャンであることを決意し、自立への助けが必ずある「みからだのネットワーク」であることを目指しています。(CFF小倉福音センターの祈り・信仰指標から)

■福音派・聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)・聖書主義の人が内包する「カルト化問題」をこの世代で終息できますように。どの人にもある心の引っかかりや良心をなおざりにして、聖書信仰やリバイバル信仰に熱くなって人を裁き、自分と家族に負担をかけ、2世や若いクリスチャンの離反を招いていることを克服できますように。
これを信仰的姿勢と現実的姿勢で正面から捉えて祈ります。
時に辛らつに人の内面を見ることが必要かもしれませんが、自分の中にもあるものとして考えることで、問題の本質が見えるのかもしれません。

■教会のカルト化や縛りに巻き込まれないための3つの知恵
1.祈りと聖書読み−−日々必要な神様との交わりと悔い改めをする、教えの風に翻弄(ほんろう)されない避け所として、各々個人の祈りと聖書読みのシェルターを確立しましょう。
2.二つ以上の教会に安心できる交わりを確保しましょう。−−今の所属教会に並行して、さらに避け所となる他の教会を必ず把握しておき、日ごろから広く他教会・他教派のクリスチャンと親しくし深い信頼関係を築きましょう。安心し信頼できる他教会や他教派の話題を所属教会で積極的に話しましょう。しかし、拒否や非難を受けはじめたら、他の信頼できる教会の交わりにそのことを伝え教会のカルト化の危険について話し合い、転会の準備を始めましょう。そのためにも、信頼あるクリスチャンの友情を日々拡げて大切にしましょう。
3. 教会以外の関わりを大切にしましょう。−−友人、家族、職場などで、ご自分を理解してくれる方々がいらっしゃると思います。その方の何気ない助言や世間話に、思いやりを感じることは、とても大切です。私たちが、信仰に対する外からの目を持つことにもなります。正しい「証し」は、一方的な押し付けではないことも分かります。

−−−真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために−−−
−− 避難の場(シェルター)としての「個人の祈り」を守るために −−
執筆者 仁保裕介(プロフィール
『すべて失望した人の唇に祈りを。』
祈りは、生活の現場から誰にでも自由にできるものです。
キリストは呼び求めるすべての人と共に居る方です。清い人や会堂や神殿にしか現れない方ではありません。むしろ、自分はふさわしくないと思う人のそばに居るのがキリストです。
受洗して教会員になった教会が、「この教会で信仰生活を続けられなければ、救いや信仰の道から外れる」と言うのは、真実ではありません。
 避難の場(シェルター)としてキリストに求める祈りには、「キリストが共に居る交わり」が必ず与えられています。
このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。テーマは重いですが、皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。キリスト教の視点で、成長、試練、十字架、悔い改め、聖化の記事になっています。
ほんの5才から信仰45年のクリスチャン2世として、キリスト教会内の教派主義・人間関係・権威化・カルト化によって傷を受けた皆さんと共に祈り、脱出と自立と今後の信仰について現実的視点で触れていきます。
元「主の十字架クリスチャンセンター 鎌倉教会、北九州教会」牧師・脱会者


あなたがたも、主の来臨が近づいているから、耐え忍びなさい。心を強くしていなさい。
ヤコブの手紙 5:8 口語訳
http://bible.com/81/jas.5.8.JA1955


どう心を強くするか。
世の価値観では「他人より優れた完全な姿を見せること」になりがちです。

キリストは、「人に負えないもの」を負ってくださいました。
それで私たちには「もう負わなくて良い重荷がある」のです。

聖書によれば、耐えきれない苦難は、負うべき重荷ではなく、脱出すべきものです。

置かれた場所でどうやっても咲けないなら、もっと自由に根を伸ばせる場所を探しましょう。
本当に耐えきれない場合には、脱出の道を真剣に祈り求めましょう。
ご自分や家族や隣人を守るためです。

こんな当たり前の「解放」が、福音派聖霊派の教会に深く関わった者には、『すぐには手に入いらないもの』と思えてしまいます。
教会の伝道や奉仕の重荷、縛りや責めが『後に栄光をもたらすための今だけの軽い艱難』と教えられたりするからです。

「自由のための義務」という言葉がありますが、それが曲解されて『使命』になり、国でも会社でも教会でも、縛りやマインドコントロールに使われることがよくあります。
そんな人間的に負わされた使命感の実態は、誰にも担えない無理な要求の押し付け合いに過ぎないので、人にあるべき赦しと愛が渇れていきます。その問題に敏感に気づいて、解放を求めて向きを変え動き出しましょう。

弱い器官こそ「無理」には敏感なはずです。それこそキリストのみからだの器官になくてはならないのです。
答えは、ありのままの弱さをできるだけ素直に認めて、互いに重荷を負い合い、ありのままで愛し合うことです。それが私たちが負える十字架でしょう。

バプテスマのヨハネは、正しい指摘をしたことで首をはねられましたが、預言者として彼は自覚した使命を全うしました。旧約最後の預言者としての信仰から出たことでした。
私たちが恐れを心に持ちながら 無理矢理負えるような働きでは決してありません。

しかし、目的のために手段を選ばず他人に負わせ、咎めを感じない人たちは、
自分の気分や思いつきで、できもしないヒロイズムに酔ってストーリーを語って他人を焚きつけ、狭い範囲の同意の中で自分勝手に人や社会を裁いたりします。キリストを十字架につけた祭司長・律法学者たちがそうでしたが、現代の牧師が『聖書から受け感動した教えだ』と語る説教の中にも、よく入り込んでいます。燃えて感動して語る牧師が、ついてくる人と共に、これこそが『神のリーダーシップ』だと、狭い範囲の同意だけで勘違いします。
『今まで誰も知らない真理』『人を救う唯一の道』にヒーロー的使命の魅力を感じてしまい、その説教には実はゴールなどどこにもないのに、目に見える救いの目的達成のために時間もお金もささげようとする、自己犠牲をいとわない陶酔感へと進みます。
時々矛盾を感じて無理だと思っても抜け出せず、いつのまにか何年も経って、その努力の成果を取り戻したいために後戻りできずに、「毒食わば皿まで」と投げやりな態度になっていたりします。

ここからの正しい選択は、自分のため家族のために自覚して人間的縛りから脱出し、すべてを生かし益にされる神に頼る決意を持つことが必要です。
「人が与える感動」から「他の誰かの助け」に流されて移り変わるというのではなく、自分で父であり救い主であり助け主である愛の神に出会うことを求め、阻害する自分の問題、社会の問題、教会の問題を見分ける決意と視点が要ります。

負えない重荷を余計に負ってしまいやすい人は、恐らく子どもの頃から、大人でも誰もできないような実は理不尽な要求を満たそうと頑張っていたのではないでしょうか。
できもしないことを『できるはず』と言ってしまう無責任な人はいますし、偽者を「他人を自分より優れた人」とすべて見分けずに信じてしまうことがあります。
親や他人が語るビジョンや理想を満たせない自分を責め続けて、気がつけば子どもらしくない大人びた良い人の顔になっていたかもしれません。
しかし、子どもであれば誰でも必要な愛や承認欲求で感情が激しく動き、些細な他人の言葉や冗談にさえ自分への評価を感じ取ってしまい動揺してきました。
真面目で切実であるほど、周りの人の言葉すべてに非難が込められているように感じる「認知の歪み」が、 その人の内側に 生まれてきてしまいます。『完全に見えなければならない』『完全であれば、もう誰からも責められないはず』という思いが多くの時間を支配するようになります。
『神にふさわしい清さと完全さ』を自分が持つべきで、それこそが『解放』であり『赦されて変えられた証し』だと思い込み、実は 神の赦しに張り合ってしまっています。

完全を勘違いして自分を責める思いを、自分から取り外したいと願い、現実生活の中で自分を解放する作業が必要です。
実際その作業は、ただじっとして、
普通に人が家族や仲間内でしているように「不完全でも赦し赦される生活をする」というだけなのですが、
そんな赦し合える家族も仲間意識も知らなかったり、忘れたり否定したり、経験が少ない状態では、時に不安が襲い、『こんなんじゃ自分はだめだ』と思い込み、また幻の完全さを追う認知の歪みに取り込まれてしまいます。

そんな自分をどんな形でも祈りに持ち込んで、神と自分で心を取扱い、
普通で良いところ、
これまでにがんばって得た優れたところ、
余計な負担のところ、
過剰に評価を欲しがり優越感や裁きをしてしまうところ、
などを見分けていくのです。

「不完全で良い。このままの自分でキリストに祈り信頼し委ねることで、神は完全だと見て下さる」
「人はお互い不完全で、皆で助け合い、赦し合って生きている」
この確信が自然に身につくように祈り、聖書を読み、神様と語り合いましょう。
これが解放の大きな一歩です。
ただ、神ご自身を求め、生まれたばかりの赤ん坊のように、無力でありながら愛し合うことだけを求めましょう。
キリストが負った「すべての人のための十字架」を負う使命は、一人の人には無いのです。
ただ、弱さに留まる器として互いに必要とされ補い合う機能を果たすことで、キリストのみからだが建て上げられ、誰も誇ることのない証しがそれぞれの場から流れ出ることで、キリストを世に証しできるのです。

無理なのに、みことばの命令だからと、拒む心に服従を無理に押し込もうとするのは、キリストの福音を信じる信仰の形ではありません。
心が「無理だ」と叫ぶなら、そのままを祈ってキリストに来ていただくことこそが、福音です。
無理なことに執着する原因について、固く閉ざす心をひも解いて、ゆっくりいつのまにか聖書の赦しのみことばの真理が入って来るように、キリストは導き、聖霊は働きます。

耐えきれない苦難は、負える重荷ではなく、脱出すべきものです。
「『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい」とキリストは言いました。
神様は私たちが耐えられるように、「 試練とともに脱出の道も備えてくださいます。 」
キリストが備えている負うべき重荷は「負いやすく軽い」ものです。


父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。
ヤコブの手紙1:27 新改訳

ここで、初めに、「あなたは、いけにえとささげ物と燔祭と罪祭と(すなわち、律法に従ってささげられるもの)を望まれず、好まれもしなかった」とあり、
次に、「見よ、わたしは御旨を行うためにまいりました」とある。
すなわち、彼は、後のものを立てるために、初めのものを廃止されたのである。
この御旨に基きただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによって、わたしたちはきよめられたのである。
こうして、すべての祭司は立って日ごとに儀式を行い、たびたび同じようないけにえをささげるが、それらは決して罪を除き去ることはできない。
しかるに、キリストは多くの罪のために一つの永遠のいけにえをささげた後、神の右に座し、 それから、敵をその足台とするときまで、待っておられる。 彼は一つのささげ物によって、きよめられた者たちを永遠に全うされたのである。
聖霊もまた、わたしたちにあかしをして、 「わたしが、それらの日の後、彼らに対して立てようとする契約はこれであると、主が言われる。わたしの律法を彼らの心に与え、彼らの思いのうちに書きつけよう」と言い、 さらに、「もはや、彼らの罪と彼らの不法とを、思い出すことはしない」と述べている。
ヘブル人への手紙 10:8‭-‬17 口語訳
http://bible.com/81/heb.10.8-17.JA1955


『牧師が禁じることを守り、牧師が教える何かに従って行えば、救いの真理を得られる』と言う教会や教師は、聖書的ではありません。
肉や口は禁じるほど燃え上がる欲をはらんでいること、良い行いによって救われるのではないことを聖書が指摘しているからです。
必要なのは、ただふさわしくない者に与えられる信仰のみによる救いと、耐えられる試練と忍耐に留り、葛藤してなお祈り続ける人の中にいつのまにか生み出されている品性や自制です。
なぜだか、教会や牧師はクリスチャンに向かって『禁止や命令』を繰り返して、選択を狭めて縛り支配することを『神のみこころだ』と簡単に勘違いしてしまいます。教会や牧師が、クリスチャンを奉仕でも社会生活でも家庭生活でも困難に追い込み、試練に遭わせて限界を越えて忍耐させている状況があります。

キリストはシンプルに言われています。「自分の十字架を負い、そしてわたしに従って来なさい」と。
私たちの十字架とは、私たちをキリストに似た者に成長させて、私たちが出会う誰かにとって救いになるものだと思います。
教会の組織維持のための犠牲が、実際は救いや成長を阻害していることがしばしばです。
キリストが言う「まことに命のために負うべき十字架」よりも、 教会に背負わされている奉仕や献金の迫りの方が負担になっている、
今の教会組織の現状を見ると、そう思える方もいるのではないでしょうか。


彼らがイエスをひいてゆく途中、シモンというクレネ人が郊外から出てきたのを捕えて十字架を負わせ、それをになってイエスのあとから行かせた。
ルカによる福音書 23:26 JA1955
http://bible.com/81/luk.23.26.JA1955


私たちが負っている十字架は、キリストが言われた負うべき十字架でしょうか。それとも教会や牧師に言われた十字架でしょうか。
依存的な誰かが無理にあなたに重荷を押し付けようとしていませんか?それを伝道や奉仕としてあなたが他の誰かに負わせようとしているかもしれません。

正義を装う偽者は、他人に十字架を負わせて自分は指一本触れません。
また、自分の感情や状況に左右されて、人生の荷を負ったり下ろしたりが頻繁な気分屋さんもいます。

負えるものと負えないものを見分けるべきです。
本人が悟り、まずは欠点ある自分自身の人生を負う真剣な決意をできないなら、一般の社会でも他人が助けてくれたり、一緒に担ってくれることはないでしょう。それは家族でさえ難しいものです。
教会は、教会や信仰の見た目のための重荷を負わせるのではなく、
「それぞれの自分の十字架の負い方」を教えるべきです。

キリストの十字架は、私たちが罪びとで、まだ罪を自覚していない時にも、私たちの担うべきすべての罪の罰を負い、罪の報いを身代わりになって払うものです。
キリストの十字架の恵みを本当に理解するには、赦されてもなお残る自分の負うべき十字架を知るべきです。キリストが私たちの負うべき十字架を負われたように、私たちも隣人のものを負うのです。それが赦された者にあるべき愛です。
つまり、自分がキリストに負われ赦された自覚がなければ、負うべき十字架も分からないのではないでしょうか。

キリストに従って負う十字架は命をもたらし、
人に従い人に目を奪われて負う十字架は担いきれず心や人生を破たんさせます。
それぞれの置かれた人生で備えられた自分の十字架を探し、見分け、主の導きを求めて担いましょう。


愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。
すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている。
愛さない者は、神を知らない。
神は愛である。 神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。
愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。
神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。
神が御霊をわたしたちに賜わったことによって、わたしたちが神におり、神がわたしたちにいますことを知る。
わたしたちは、父が御子を世の救主としておつかわしになったのを見て、そのあかしをするのである。 もし人が、イエスを神の子と告白すれば、神はその人のうちにいまし、その人は神のうちにいるのである。
わたしたちは、神がわたしたちに対して持っておられる愛を知り、かつ信じている。
神は愛である。愛のうちにいる者は、神におり、神も彼にいます。 わたしたちもこの世にあって彼のように生きているので、さばきの日に確信を持って立つことができる。そのことによって、愛がわたしたちに全うされているのである。 愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである。 わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである。
ヨハネの手紙第一4.7-19 口語訳
http://bible.com/81/1jn.4.7-19.JA1955

神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。
なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。
世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。
ヨハネの手紙第一5.3-5 新改訳

「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。
マタイによる福音書11.28-30 口語訳
http://bible.com/81/mat.11.28-30.JA1955


「神の国とその義を第一に求める」とは、それぞれにキリストが導く十字架を負うことでもあります。
社会や教会で負えないものを負わされて疲れ果てているなら、キリストご自身に祈り、彼の導く私たちの居るべき場所へ行き、休み、キリストが与える「負える軽い荷」を知りたいのです。
信仰と救いは教会で人任せにするものではなく、キリストに導かれ自分の心で真実を選び、負える担うべきものがあります。
自分が負うべき重荷を悟れずに、気分次第で誰かに頼って言いなりになったり、嫌なものを周りに負わせたりで、
余計な思い込みの使命感・征服欲ばかりでは、愛から離れるばかりです。
私たちの発想はいつもそうなってしまいます。
だから、「求めなさい」「目を覚ましていなさい」「絶えず祈りなさい」と、キリストと使徒は命じたのでしょう。

信仰の勝利、世に勝つ、とは、罪が支配する世のあり方に勝つことです。
信仰には、世に認められる勝利とは別の目的があります。
神を愛し、神の赦しを自分の罪のためと認め、隣人・兄弟を赦し、その自分を神に認められるためです。
神の義は、人の内にはなく、キリストの内にあり、世で十字架を負うことです。
聖書が言う「世に打ち勝った勝利」の本質は、世で目に見える名声のことではなく、この世にいる間は目に見えず心と身を低して仕える姿のことです。

私たちは、信仰によって求め受け取る罪への神の勝利と、この世で目に見える人生の勝利の成果を、すぐ混同してしまいます。
何のために、何を負うのか、これを絶えず問われています。

このブログの関連記事:
隠れた問題が見えずに目に見える実績に依存すると、影響を受けてしまう。脱出と自立を求める旅を続けよう (2017年04月18日)

タグ:十字架を負う



※スマホ画面に表示される誘導広告は、ライブドアとグーグルによるもので、このブログの記事とは一切関係ありません。

※このブログはにほんブログ村に参加しています。 よろしければ一日一回のクリックで上位表示にご協力ください。

ブログランキング・にほんブログ村へ


口語訳聖書は、 新共同訳、新改訳よりも前に、日本の全てのプロテスタント教会で使われていたものです。





■私たちクリスチャンは二人三人でも集まれば、そこを「キリストのみからだ」とすることができます。
洗礼の意味は「キリストへの信仰を持つ、人生の方向転換(悔い改め・回心)の決意」です。(洗礼は、授けた教会の組織員となる会員制度とは別のものです。)
牧師を上位に戴かずに、水平の交わりを心がけ、共に祈り神様を見つめて進む、この決心を共有する交わり・ネットワークを目標とする「キリストのみからだの教会」を求めます。
現状では「頼れる人として誰か教師を自分の上に置きたがる人の弱さ」を認め、私たちは日々そこから脱出して神様に祈り、主にある交わりをいただきます。同時に、助けを求める人の祈りに、あらゆる形で呼応するクリスチャンであることを決意し、自立への助けが必ずある「みからだのネットワーク」であることを目指しています。(CFF小倉福音センターの祈り・信仰指標から)

■福音派・聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)・聖書主義の人が内包する「カルト化問題」をこの世代で終息できますように。どの人にもある心の引っかかりや良心をなおざりにして、聖書信仰やリバイバル信仰に熱くなって人を裁き、自分と家族に負担をかけ、2世や若いクリスチャンの離反を招いていることを克服できますように。
これを信仰的姿勢と現実的姿勢で正面から捉えて祈ります。
時に辛らつに人の内面を見ることが必要かもしれませんが、自分の中にもあるものとして考えることで、問題の本質が見えるのかもしれません。

■教会のカルト化や縛りに巻き込まれないための3つの知恵
1.祈りと聖書読み−−日々必要な神様との交わりと悔い改めをする、教えの風に翻弄(ほんろう)されない避け所として、各々個人の祈りと聖書読みのシェルターを確立しましょう。
2.二つ以上の教会に安心できる交わりを確保しましょう。−−今の所属教会に並行して、さらに避け所となる他の教会を必ず把握しておき、日ごろから広く他教会・他教派のクリスチャンと親しくし深い信頼関係を築きましょう。安心し信頼できる他教会や他教派の話題を所属教会で積極的に話しましょう。しかし、拒否や非難を受けはじめたら、他の信頼できる教会の交わりにそのことを伝え教会のカルト化の危険について話し合い、転会の準備を始めましょう。そのためにも、信頼あるクリスチャンの友情を日々拡げて大切にしましょう。
3. 教会以外の関わりを大切にしましょう。−−友人、家族、職場などで、ご自分を理解してくれる方々がいらっしゃると思います。その方の何気ない助言や世間話に、思いやりを感じることは、とても大切です。私たちが、信仰に対する外からの目を持つことにもなります。正しい「証し」は、一方的な押し付けではないことも分かります。

−−−真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために−−−
−− 避難の場(シェルター)としての「個人の祈り」を守るために −−
執筆者 仁保裕介(プロフィール
『すべて失望した人の唇に祈りを。』
祈りは、生活の現場から誰にでも自由にできるものです。
キリストは呼び求めるすべての人と共に居る方です。清い人や会堂や神殿にしか現れない方ではありません。むしろ、自分はふさわしくないと思う人のそばに居るのがキリストです。
受洗して教会員になった教会が、「この教会で信仰生活を続けられなければ、救いや信仰の道から外れる」と言うのは、真実ではありません。
 避難の場(シェルター)としてキリストに求める祈りには、「キリストが共に居る交わり」が必ず与えられています。
このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。テーマは重いですが、皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。キリスト教の視点で、成長、試練、十字架、悔い改め、聖化の記事になっています。
ほんの5才から信仰45年のクリスチャン2世として、キリスト教会内の教派主義・人間関係・権威化・カルト化によって傷を受けた皆さんと共に祈り、脱出と自立と今後の信仰について現実的視点で触れていきます。
元「主の十字架クリスチャンセンター 鎌倉教会、北九州教会」牧師・脱会者


自由な心で神様に祈っていますか?

祈りの言葉が何かに縛られていませんか?



私たち各々が神様向いて自由であり、各々がそれぞれに聖霊から与えられる多様な祈りがあってこそ、みからだの一致ではないでしょうか。

祈りが、誰か人から強いられたものではなく、「自由に神様に向かう私たち自身の心」であることを神様は喜ばれますよね。その自然な心のことばこそ、神様との交わりに必要です。そう考えるみからだの交わりと、一人一人の重荷による多様な祈りの拡がりが求められます。祈りが現実とリンクすることは、人生に必要な知識です。



このブログは、その自由な祈りの拡がりのために書いています。
知らないうちに祈りと信仰が誰かに縛られていないかを、様々な視点で考えようとしています。


■教会で疲弊して燃え尽きてしまう問題…

現代の教会は礼拝や組織の形を定めていますが、その主な活動としては、2000年前の初代教会が記した聖書の記録から「教会がすべきこと」の要素を凝縮したものを日曜の2時間で触れるようにしています。それで、日曜礼拝のプログラムは、聖書に書かれている教会の交わりの「短縮版」、「あらすじ」のストーリーになっています。

新約聖書を読むと、クリスチャンが集う2000年前の教会の集い交わりは毎日のものでした。

今の短縮版の日曜礼拝だけでキリストへの信仰を養おうとすれば、断片化した教えの詰め込みになってしまうのは当然かもしれません。

問題のある教会では、独自の詰め込み教育をして縛ったり、聖書の一部だけを強調してそれを「信仰の間違いない形」と言います。それで空しさを感じたり疲弊することは当然かもしれません。
信仰は日曜が本番ではなく、日常で働いてこそです。
信仰者同士の交わりは信仰の励みになりますから、励ましが無いなら教会の意味がありません。
もし教会が息苦しく、日曜のたびにストレスがたまるなら、無理して行く必要はないのではないでしょうか。

なぜ、福音が多くの日本人に伝わらないのでしょうか。
クリスチャンの世界は特異なのか、教会の敷居は高いのか、教会だけが清く、それ以外は悪魔に支配されて危険なのか。
今の形式化した教会独特の教えは外からどう見えているでしょうか。信仰を持つことで隣人との間に壁を感じるようになるのは果たして健全なのでしょうか?

救いと信仰を教えている福音のことばには心の深いところで同意するけれども、祈りや証しまで教会の全員が同じような言葉を使っているのはどうなのでしょうか。それで、つながりが太く確かな相手が神様になるでしょうか。それとも教会のみんなとのつながりが強くなるのでしょうか。

■自分が知る困難や痛みからの本音を神様にぶつけることができる心の部屋がありますか?

クリスチャンが皆、自分らしい自由な関心を持って、今居る場所から、自由な視点で各々が気づくことを自分のことばで熱心に祈る、そんな祈りの多様化が世の多くの罪を覆い、世の救いにつながるのではないでしょうか。キリストがもう一度来られるまで、教会とクリスチャンは隣人の救いのために存在しています。罪の裁きが使命なのではありません。
私たち生きる場で皆がそれぞれ困難や試練を味わう時代になってきましたが、それは罪の世の結果として存在するだけでなく、信仰者が祈るためにあるはずです。それぞれの問題を教会に持ち寄っても、すべてが受容され癒されるわけではありません。それぞれの痛みからの祈りが、それぞれの場の救いになるためにあるのではないしょうか。

まずは、キリストの十字架による救い・あがないの恵みを、自分の視点で改めて聖書を読んで味わい、キリストご自身と御跡を、自分の心で追い求めましょう。そうして、それぞれ置かれている場から、世の救い、現実の全体像、自分と教会への主の召しについて、求め、自分の関心がどこに向くか考えましょう。隣人と世界が持っている現実の課題をよく知り、痛みを痛みとして、喜びを喜びとして、共感して、目には見えないけれども確かにある多くの祈りと連なる心で祈りましょう。

■キリストの御体としての教会

みからだの教会は、生けるキリストの恵みと聖霊の導きと父の愛の支配を天と地に求める自由な祈りの家であると思います。

明文化された「教会戒規」や「教理」は、「教会を守る」というよりも、人の身勝手な肉の過度の暴走を止める役割です。
信仰の命は、個人的な祈りによるキリストとの出会い交わりです。
教会の活動はこれを促進するものでなければなりません。

そして、各々が置かれた生活の場から皆さんが独自に重荷を見つけて自主的に祈ることで、人生と本来の教会の姿であるキリストの御体全体の歩みが実現されていくと思います。

一人ひとりの信仰のお証しが、横に連なってそれぞれの場から流れ出しますように。

あらわれ方は違うけれども賜物に従って一つの聖霊の働きが保たれますように。そうしてみからだの交わりが愛の聖霊の結び目によってつながっていくことを願っております。
045r0002

   執筆者 仁保裕介
            連絡はプロフィールのメールアドレスまで、お願いいたします。


■ご奉仕・面談について
現在、私は北九州市に居ります。
・家庭集会/説教/講演/セミナー:
伝道メッセージ、教会の祈り、神様との交わり、教会カルト化の原因と問題点整理、世界のリバイバルと救いについて。
・教会による制約・圧迫の悩み相談
・このブログへのご賛同、祈りの繋がり、カルト化問題の連携・脱出のお手伝いなど
求めていらっしゃる集いや個人があれば、ご連絡いただきたいと思います。
CFF小倉福音センターの目的・活動

現在、月〜金の昼間は北九州小倉で勤めをしておりますが、一週間前のご連絡でしたら、平日昼間の奉仕もさせていただきます。平日夜間や土日には、前日までのご連絡でご奉仕をさせていただきます。面談は、小倉に来ていただければ、平日昼間でもできる時間があります。お問い合わせください。奉仕のない日曜日は地元教会に集い礼拝にあずかっています。

まずは関係づくりからと思います。北九州のお近くの方は費用などご心配なさらずに、どうぞお気軽にお声がけください。

申し訳ありませんが、遠方の場合は、時間的経済的理由でご期待に添えないこともあります。メール・電話でご相談させていただければと思います。


教会の問題で弱さを覚えている方々に奉仕し、主イエス・キリストのみからだの教会に奉仕したいと願っています。「この小さき者を、神様の御用のために用いてください」と祈り、神様が召されている自分の小さき働きに自分の人生をささげていきたいと思います。

このブログの記事の通り、強制のない自立した信仰と、祈りの自由を、共に求めていきたいと思います。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

■コメント・トラックバックをお送りくださる皆様
ありがたく拝見しておりますが、内容によっては掲載を見合わせることがあります。
・私信のようにプライバシーを含むこと
・同じ内容で複数の配信先があったり(マルチポスト)、他サイトへの勧誘目的だけのもの
・他からの引用だけで投稿者の言葉が無いもの
(常識の範囲のことですが私の基準はhttp://www.h5.dion.ne.jp/~j.1/exodospost0.htmに詳しく記しました。)

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

■教会カルト化記事の姿勢

このブログでは、問題のある教会で不当な扱いを被った経験者の方々と、指摘を受けている教会、双方に向けて記事を書いております。
問題の無い教会の方、また問題のある教会の方には受け取れないことが書かれているかもしれません。
その場合は、私が管理する「EXODOS〜カルト化した教会や信仰という名の虐待からの脱出支援ページ」や、検索で「信仰 虐待」の結果をご覧いただければと思います。

記事を書く背景と動機は、自分も含めた福音派・聖霊派・聖書主義を採る教会と牧師に内包されているものを明らかにし、カルト的な信仰を生み出す原因を探るためです。
犯人探しが主旨ではありませんが、感情的な問題や整理には、誰かを恨み続けるよりも、それまでの影響を一端切り離す方が客観化しやすいため、切り離す発端となるように批判的な内容も心に描いて良いのだとアピールする目的があります。
また、一般的社会的に認められない問題を明確にするつもりです。
内容が辛らつすぎると思われる方は、自己批判・内部告発だとお考えいただければと思います。
 このブログ内の記事:
 教会の虐待問題−フラッシュバック、PTSD症状からのリハビリの困難と対応

 確信が押し付けられて、うつになる問題 リハビリ

 教会での精神的虐待・中傷による障害が脱会後に顕著になること−Yahoo!ブログ

 私は感動をあまり信じすぎないようにしています。

 正統教会で経験したカルト信仰からの脱出

 祈りとは神様との対話です。−私たちは自分の真の姿を認めているでしょうか。

■閲覧が多い記事
教会で苦しみを味わうこともあります
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52277581.html

不健康な教会の兆候 カルト化の前ぶれ
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/51458318.html

聖書信仰が、「聖書絶対の律法主義」にならないように、ちゃんと聖書を読もう
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52178268.html

みんな、自分を正しいと思っている。
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52272274.html

教会が引き起こし続ける信仰上の「冤罪」
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52138245.html

地上の教会の神秘性。リバイバルへの道。「完全」への勘違いがカルト化へ。
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52161558.html

信仰と献身は、人それぞれの多様な「信仰の真実」を認め求め続けることではないでしょうか。
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52206089.html

社会に出れば「信仰」が試されるのは避けられない現実です。それも霊的成長の時として神様にあって自分を受け入れましょう。
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52181153.html

キリスト教会のカルト化・危険ワード「聖書と神の法則に従え」
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52120271.html

経験の少ないクリスチャンが囚われやすい「感情の問題メモ」
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52204905.html

教会のカルト化を避けるための最低限の指針
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52184080.html

苦しいときの祈り求めが、信仰の基盤や知恵に
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52180692.html

『試練』の意味は成長のため…その「勘違いあるある」としての『神と悪魔の戦い』
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52163557.html

伝道とは
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52125006.html

守るべき信仰の基本と実生活に伴うキリストの助け
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52127413.html

教会に何を求めるか 教会へのイメージを再考すべき時
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52078530.html

質問へのお答え:教会籍と交わり・御体なる教会
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/50037482.html

教会のカルト化・虐待を止めるために
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/50641653.html

十字架を負うとは
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/50037410.html

ヨブ記38章
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/50677939.html

真の祈り、礼拝
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/50707198.html

聖書の記録と神との出会い
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/50117943.html

■一部記事は下のブログに重複して掲載しています。
キリストの助けを求めて〜クリスチャンライフと教会
Sクリスチャンセンター問題の資料 管理人の雑記



にほんブログ村にクリックでシェア
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ  にほんブログ村 ライフスタイルブログへ  


■おしらせ
このブログは以前のブログhttp://blogs.dion.ne.jp/j_1/の機能が不調だったため、2006年6月以前の記事やコメント、TBをここに書き写しています。
また、KDDIdionのホームページサービスが終わるため、記事を作成年の日付にして移動しています。

依存や甘えが心に根付いている分、依存相手の影響を受けやすくなります。
「共感性」が悪い方向に働いて、悪い部分にまで過剰に同情的になり、
自分の考えや家庭生活まで犠牲にしてまで、相手に尽くすようになったりします。

教会のカルト性が進むと、『自我の砕き』と称して、教えを理解できない理由を『罪ある自我』にあるとして、人の人格を完全に抹殺すべき悪に仕立てて自我の破壊を信徒自ら行うように指導します。そんな教会があるという情報がネットでたくさん報告されています。

カルト被害では、教えや教祖が絶対になり、指示に背いたり、できないことがあると地獄行きなどと言われ、存在を否定され、生きている価値が無いとまで思いつめます。
問題のある会社や親子関係でも、同じようなことが起きます。

しかし、健全な社会は寛容であり、人の限界を認めていて、失敗しても、否定されたり、死ぬ必要はありません。
誰かが他人の生死を決める権利はありませんし、失敗はお互い様です。
間違いの許されない仕事なら、何人かで何重にもチェックするべきで、 個人に責任を負わせるべきではありません。本来、そんな仕事を一人に任せるべきではありません。

しかし、効率や利益や実績増を優先して、間違えてはいけない仕事を個人の責任でやらせてしまったり、責任を負うだけの適性を持たない人が重大な指示をしていたりもあります。大企業・政府・官庁から中小企業や教会まで、誰かが気づいていても対策を怠ったために事故や粉飾、ブラック化カルト化があります。そんな関わりは避けなければなりません。
教会で、牧師個人や役員個人に教えや指示の権威を独占させてはいけないのも全く同じ事情です。

私は1999年にある教団の牧師を辞め、今、本当にやりたいやるべき仕事があります。それは、私と同じように教会に弾き出された方々が共に歩めるためのネットワークづくりです。
牧師個人やどこかの教会の権威や後ろ盾を探して従うのではなく、
教会に問題を感じる個人同士の自由な出会いと祈りを基にしたつながりに平安を感じますし、それで良いのだという思いが教会に痛む人に与えられるためです。
制度的なものや組織的なものをつくるのではなく、ただキリストに導かれた出会いや祈りのつながりに期待して生きられるような価値観の共有だけを目ざしたいと思っています。
社会や教会で理解されるような公の制度というよりも、各々の心のよりどころや祈りが、それぞれ離れた場にいて、違う事情があっても共有でき、同じキリストに導かれている平安と導きを感じるだけの、目には見えないけれどもつながりを感じるものだろうと思います。

それでも、私たちの見えるものへの依存は、恐らく死ぬまでゼロにはならず、人の精神性として負い受容しつつ理解して、葛藤しながら答えを見つけていくことに道がある気がします。

私は、ここ10年、本当にやりたくない仕事を生活のためにやっています。
なぜ、やりたくないのか。
お金を持つターゲット層に消費される企画や、進捗を管理する仕事ですが、会社のあり方に抵抗と虚しさを感じてしまっています。
やりたくない衝動が心に激しく渦巻きながら、それを抑えて過ごしています。
こんなに反応してしまうのは、
教会でさえも繁栄を目指す硬直した地位や序列による支配や搾取があり、そこに献身して自分のすべてをかけた過去に大きな後悔と痛みがあるからでしょう。脱出しても、また同じ繰り返しだと感じ取ってしまう部分があります。どこにでも人の身勝手さがあり、人が人を不当に扱う現実があります。取り込まれずに自分の人生を生きる必要がありますが、どうしても傷がうずくのです。

ともあれ、どうしても納得できないことをして働き、生活しています。
経済活動と言われれば確かにその通りですし、
生活のためだけなら他の仕事もあるはずで、何回か転職もしたのですが、
納得がいかない商売をする所に連れ戻されるようにして置かれています。
この仕事そのものに全く平安がないのですが、ただ、祈る時にキリストが仕事の場に共にいることにはっきり確信と平安があって、また助け合う人間関係もあり、そのほんの少しの合間だけで、今の私は保たれている状態です。

私にとって、この葛藤は必要なもののようです。
したくない嫌な仕事を批判的に見ながら、仕事での役割や人としてのあり方を考えて、決して他人に不当な負担をかけないことに集中しています。仕事に執着が無く、関わる人との関係を気を付ける分だけ、 他人任せにする甘えた気質が壊されて、「お互い様」とか「協力」や「信頼」の意味を教わっています。
下請をお願いしている仕事仲間は誠実に仕上げようと頑張ってくださいます。 私は『仕事だから』仕方なくやる中でも、彼らには誠実であろうと努めてきました。
それで見えてきたのは、現代人の喜びの中に2つ、いや3つのものがあることです。
一つは品物を手に入れて消費する喜び、
一つは何もないところから客の希望を聴いて自分の手で形を造り成し遂げる喜び、
一つはそれらを取りまとめて商売にするお金儲けと名声です。
私はただ誠実に物を造って生きるためだけの報酬を得る喜びを持つ仲間たちにとても心引かれています。働いてみなければ分からない心のあり様を見せられました。

さてしかし、自分については、納得していない仕事をして、自分にも周りにもたぶん良くない負担を掛けがちで、荒んだ感情を今の自分に感じています。本当にそろそろ潮時ではないかと思いますし、その祈りへの何かの応えも感じています。

自分がやりたい仕事に専心するのはダメなことだったのかもしれません。
やりがいや見えるものに依存しないため、頼らないために、したくない仕事をフルタイムでしてきたのかもしれません。

それでも、置かれた場所で、助けるべき人を助け、自分も助けられる。それはクリスチャンに限らずに、人としてあるべき姿です。
やりたくない仕事の出会いにも、拡がる関係や知るべき経験が確かに豊かにありました。
平坦で冷淡だった心に刻まれた、人としての心のひだがあります。
それだからと仕事に打ち込んでも、いつも心には期待もなく、仕事にやりがいを全く感じられずに居ます。
ストレスは、どんな仕事も悪い結果に終わらせたくないからです。
幸いにも、なんとか会社と顧客への成果は出せていますが、見返りは少なく、生活は貧しく、
そんな何も誇れず、見えるものに頼れない境遇は、確実に祈りを生きたものとしてくれます。

クリスチャンに限らず出会い助け合う、納得いかなくても生きて働いて生活する、という意味で今の職場に居る理由があったのかもしれません。
しかし、もう理由が無いなら、他の場所に行きたい思いです。宙ぶらりんでとても耐えられない思いで目覚める朝をもう20年経てきています。
合間に祈りキリストに触れ、一瞬でも深く愛し愛されていることを感じるから、過ごせています。そして、若く燃える理想ではない、決して派手さのない長く地道に目立たない仕事と生活をしてきた悟りにも似た表情を持つ人たちとの様々な出会い交わりが、私の伝道・信仰上の独善や葛藤と不思議とオーバーラップし、彼らに生きる姿勢を学ばされています。
また、共に仕事をし笑い合っていたとしても決して心を許してはいけない人たち、歳を重ねても放縦で利己的な願望を生き甲斐とする我が儘さを悟れず捨てられない人たちがいることも確かに知りました。それが自分の中にあることも。


これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。 そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。 もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。 しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。
ヘブル人への手紙 11:13‭-‬16 口語訳1955
http://bible.com/81/heb.11.13-16.JA1955


このブログの関連記事:
人のものでない神の平安は、世に流されている自覚と決意ある祈りの中に―クリスチャンの祈りの生活(6) (2016年05月18日)

生き方、働き方、与えられた「命」をどうするのか (2016/04/02)
 ()



※スマホ画面に表示される誘導広告は、ライブドアとグーグルによるもので、このブログの記事とは一切関係ありません。

※このブログはにほんブログ村に参加しています。 よろしければ一日一回のクリックで上位表示にご協力ください。

ブログランキング・にほんブログ村へ


口語訳聖書は、 新共同訳、新改訳よりも前に、日本の全てのプロテスタント教会で使われていたものです。





■私たちクリスチャンは二人三人でも集まれば、そこを「キリストのみからだ」とすることができます。
洗礼の意味は「キリストへの信仰を持つ、人生の方向転換(悔い改め・回心)の決意」です。(洗礼は、授けた教会の組織員となる会員制度とは別のものです。)
牧師を上位に戴かずに、水平の交わりを心がけ、共に祈り神様を見つめて進む、この決心を共有する交わり・ネットワークを目標とする「キリストのみからだの教会」を求めます。
現状では「頼れる人として誰か教師を自分の上に置きたがる人の弱さ」を認め、私たちは日々そこから脱出して神様に祈り、主にある交わりをいただきます。同時に、助けを求める人の祈りに、あらゆる形で呼応するクリスチャンであることを決意し、自立への助けが必ずある「みからだのネットワーク」であることを目指しています。(CFF小倉福音センターの祈り・信仰指標から)

■福音派・聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)・聖書主義の人が内包する「カルト化問題」をこの世代で終息できますように。どの人にもある心の引っかかりや良心をなおざりにして、聖書信仰やリバイバル信仰に熱くなって人を裁き、自分と家族に負担をかけ、2世や若いクリスチャンの離反を招いていることを克服できますように。
これを信仰的姿勢と現実的姿勢で正面から捉えて祈ります。
時に辛らつに人の内面を見ることが必要かもしれませんが、自分の中にもあるものとして考えることで、問題の本質が見えるのかもしれません。

■教会のカルト化や縛りに巻き込まれないための3つの知恵
1.祈りと聖書読み−−日々必要な神様との交わりと悔い改めをする、教えの風に翻弄(ほんろう)されない避け所として、各々個人の祈りと聖書読みのシェルターを確立しましょう。
2.二つ以上の教会に安心できる交わりを確保しましょう。−−今の所属教会に並行して、さらに避け所となる他の教会を必ず把握しておき、日ごろから広く他教会・他教派のクリスチャンと親しくし深い信頼関係を築きましょう。安心し信頼できる他教会や他教派の話題を所属教会で積極的に話しましょう。しかし、拒否や非難を受けはじめたら、他の信頼できる教会の交わりにそのことを伝え教会のカルト化の危険について話し合い、転会の準備を始めましょう。そのためにも、信頼あるクリスチャンの友情を日々拡げて大切にしましょう。
3. 教会以外の関わりを大切にしましょう。−−友人、家族、職場などで、ご自分を理解してくれる方々がいらっしゃると思います。その方の何気ない助言や世間話に、思いやりを感じることは、とても大切です。私たちが、信仰に対する外からの目を持つことにもなります。正しい「証し」は、一方的な押し付けではないことも分かります。

−−−真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために−−−
−− 避難の場(シェルター)としての「個人の祈り」を守るために −−
執筆者 仁保裕介(プロフィール
『すべて失望した人の唇に祈りを。』
祈りは、生活の現場から誰にでも自由にできるものです。
キリストは呼び求めるすべての人と共に居る方です。清い人や会堂や神殿にしか現れない方ではありません。むしろ、自分はふさわしくないと思う人のそばに居るのがキリストです。
受洗して教会員になった教会が、「この教会で信仰生活を続けられなければ、救いや信仰の道から外れる」と言うのは、真実ではありません。
 避難の場(シェルター)としてキリストに求める祈りには、「キリストが共に居る交わり」が必ず与えられています。
このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。テーマは重いですが、皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。キリスト教の視点で、成長、試練、十字架、悔い改め、聖化の記事になっています。
ほんの5才から信仰45年のクリスチャン2世として、キリスト教会内の教派主義・人間関係・権威化・カルト化によって傷を受けた皆さんと共に祈り、脱出と自立と今後の信仰について現実的視点で触れていきます。
元「主の十字架クリスチャンセンター 鎌倉教会、北九州教会」牧師・脱会者

自分で自分を背負うのさえ、難しいものです。
だから、互いに助け合い補い合うようにして、一緒に歩むことが人間の知恵であり常識でもあります。
聖書にある信仰、教会、賜物にも通じる話ですが、
聖書を知らず信仰に無縁な多くの人が知っていることです。

その中でも、自分の重荷の重さを知らず、
他人に自分の分まで負わせ、苦労せずに逃げている人もいます。どこにでもいて、信仰者でも牧師であっても例外無くそんな人はいるのです。そんな人は、本当の祈りや悔い改めをするのが難しいかもしれません。
日本人にはそんな甘えの構造が意識無意識に根付いていて、それでキリスト教信仰がなかなか根付かないのだとも思えます。

負うべきものを人に負わせるのが当たり前だと、信仰も赦しも恵みも愛も感謝も中々分かりません。
『私が負っているものを理解して、私と一緒に私の重荷を負って下さい。』と、
「人に縛るタイプの伝道」が、福音派・聖霊派の熱心さには多少なりあります。

私もそうでしたし、伝道する側の牧師やクリスチャンがそれを自覚できず自立できず向き合えていないことがしばしばです。
信徒が牧師に、牧師が信徒に、
『奉仕や負うべき大きな使命があるから、できるだけ多く誰とでも共有して任せて安心したい』と、お互いに相手の伝道や奉仕や献金が当たり前で、
中には「『使命』のある人」に任せるこそが『信仰』だと勘違いしているクリスチャンたちが居り、教会があります。 共依存的で、牧師がその先頭に立っていたりします。

キリスト教信仰は、値しない者が罪を赦される恵みですが、
罪や弱さや狡さを自覚して、神にだけはいつも本心から自分を嘆き委ね祈らなければ、赦しの価値、赦し合う慰めの大きさは、決して分かりません。
教会が、罪や弱さの問題よりも、伝道やイベントに力を注ぐと、罪と弱さの悩みのある人には非常な重荷になります。
祈りたいのに、教会イベントに駆り出され、参加できない場合はイベントリーダーや牧師の視線が気になり、罪責感を負ったりします。それで、神や罪や救いについて心の探求をしている人は余計に教会に行きにくくなります。

最初から、他者への依存や甘えで人生をやり過ごし、信仰を乗り切ろうとするなら、決して神の恵みが分かりません。
信仰は神への甘えではなく、自分の罪への直面とその告白による十字架の赦しの受け取りです。

自己探求や祈りの時間を与えない、奉仕の忙しさのある教会に、何の意味があるのでしょうか。

とりなしの祈りは、まず罪や困難に痛む人に向けられることが多いわけですが、
私たち自身が甘えの依存から脱出して、自分の内側の問題に目を向け、他人に負わせて逃げてきた問題、自己満足な他人任せの依存性の重さを知り、本当の自分を知れるように祈ることが、日本人であれば例外なく必要だと感じます。

私の課題も、子供の頃から教会と信仰抜きでは語れない中で、実はそんな頑なな甘えの構造を根底から解体するためのものだと感じます。

負うべき十字架は誰にでもありますし、主にあって信仰により祈り求めれば、それぞれでギリギリででも負えるようにあらゆる形で満たされます。
どんなに困難でも主が導く自分の負える十字架のあるところ、それが居場所です。
それぞれで重荷や居場所が違うことで、教会に多様性や客観性が生まれますし、
それで自分を客観視しつつ交わることで、自立や励ましや学びや支えを得られます。
キリストのみからだの中で弱さの中に働いてこそ神からの賜物であり、誰も自分の信仰を誇ることのできないという救いの真理を知れます。

いくら世界の学問に精通しても、知識や発想が豊かでも、それぞれ自意識過剰な自尊心の甘えた気質を振り返らなければ、人が無自覚に起こしている問題は解決できません。いくら深刻な問題に気づいても、実は自分の手に負えない問題を他人に押し付けていて、誠実な態度ではありません。

大きな問題を人はどうやったら負え、解決できるのか?
弱い自分の役割は何なのか?
人は問題の原因を良い方に変えられるのか?

信仰と聖書によれば、それぞれの人に与えられたところにとどまり、分を越えないように、誰も誇ることのないように、 互いの重荷を負い合い、 とされています。

それぞれに、居るべき場所、祈るべき課題に心を注ぐことが、みからだの働きとして自分と世に実を結ぶことになるのではないでしょうか。

私の場合は、幸いと言うべきか、学問も神学の道も閉ざされ通しです。社会に出て、人間の裸の姿に触れ、信仰不信仰に揺れ、自分の心を強める肩書きも身分もなく、ただ悩み葛藤する裸の自分を振り返る連続です。
他人任せな無知な豊かさや平和の中で育ち、 ごまかしようのない 無力な自分に向き合うしかありませんでしたし、無力をごまかすための見栄を張れるものも今はすべて失って何も無く、世間的に貧しく虚しい者でしかないので、キリストの十字架の姿だけが希望で、ただありのまま素直に向きあうしかありません。
十字架刑は、美術館や教会の絵画とは違い、腰を隠す布もなく、惨めな姿がすべて晒された、この世の恥の極みでした。
本当の自分を一生かけて見ることで知る、十字架の真実があるはずなのです。

私たちの祈りは、
困難から逃れて、良さそうに楽しそうに見えるものだけを求め勝ちなわけですが、
逃げずに自分と世の見るべきありのままの裸の現実に直面して、
そこから逃げないで祈れるよう神に願うべき時もあるはずです。
それが、キリストが後に従うように見せられたそれぞれが負える負うべき十字架と、救いの完成、神に目と目でお会いできる成長と清さにつながる道でしょう。

神様は、私たちを問題の中で取り扱い、救い、変えようとされます。
私たちが居る場所の現実をよく見て、逃げず、他人任せにせず、弱いながらも気づきの中で自分の中に聖霊が立てられた志に従うように導かれます。
それは、人の理解を越えた、自分にも人にも意識できないような隠れたところで果たす使命であるのかもしれません。
私たちは、どこで実を結んでいるのか全く分からないような無力さを持ちつつ、信仰によって歩み、キリストのみからだの一部として誰も誇ることができない主の恵みに与り、ただ主の導きに従うだけの存在です。

バプテスマのヨハネは、イエス・キリストを世に指し示す預言者でしたが、イエス・キリストが人となって成そうとされていることを理解してはいませんでした。
そして、聖霊は、風のように思いのままに吹き、私たちがはっきり意識できるようなものではありませんが、イエス・キリストのことばを思い起こさせ、求めるものに必要なものを与え、導かれます。

ただ、人間的に共依存的に負わされる、負えない重荷は見分け退けられるように、
本来、神様が私たちにふさわしく備え、深く時間をかけて祈るように導かれる負える重荷を、
弱さの中で神に頼るため、また成長と信仰的霊的分別や自立のある愛の訓練として、
負えるように祈り見分けて選びたいのです。

このブログの関連記事:
人のものでない神の平安は、世に流されている自覚と決意ある祈りの中に―クリスチャンの祈りの生活(6) (2016/05/18)

神の目からは「あなたに、ただ、いてほしい」。教会目線だと… (2017年03月01日)

人の行いは偽善?信仰や知恵よりも、日々迫られる現実でやるべきことはあります。 (2016/10/27)

信仰の意味、聖書の意味を悟る。そのためにこその「自我の死」 (2015年03月03日)

カテゴリ:弱さ・痛みとの共生




※スマホ画面に表示される誘導広告は、ライブドアとグーグルによるもので、このブログの記事とは一切関係ありません。

※このブログはにほんブログ村に参加しています。 よろしければ一日一回のクリックで上位表示にご協力ください。

ブログランキング・にほんブログ村へ


口語訳聖書は、 新共同訳、新改訳よりも前に、日本の全てのプロテスタント教会で使われていたものです。





■私たちクリスチャンは二人三人でも集まれば、そこを「キリストのみからだ」とすることができます。
洗礼の意味は「キリストへの信仰を持つ、人生の方向転換(悔い改め・回心)の決意」です。(洗礼は、授けた教会の組織員となる会員制度とは別のものです。)
牧師を上位に戴かずに、水平の交わりを心がけ、共に祈り神様を見つめて進む、この決心を共有する交わり・ネットワークを目標とする「キリストのみからだの教会」を求めます。
現状では「頼れる人として誰か教師を自分の上に置きたがる人の弱さ」を認め、私たちは日々そこから脱出して神様に祈り、主にある交わりをいただきます。同時に、助けを求める人の祈りに、あらゆる形で呼応するクリスチャンであることを決意し、自立への助けが必ずある「みからだのネットワーク」であることを目指しています。(CFF小倉福音センターの祈り・信仰指標から)

■福音派・聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)・聖書主義の人が内包する「カルト化問題」をこの世代で終息できますように。どの人にもある心の引っかかりや良心をなおざりにして、聖書信仰やリバイバル信仰に熱くなって人を裁き、自分と家族に負担をかけ、2世や若いクリスチャンの離反を招いていることを克服できますように。
これを信仰的姿勢と現実的姿勢で正面から捉えて祈ります。
時に辛らつに人の内面を見ることが必要かもしれませんが、自分の中にもあるものとして考えることで、問題の本質が見えるのかもしれません。

■教会のカルト化や縛りに巻き込まれないための3つの知恵
1.祈りと聖書読み−−日々必要な神様との交わりと悔い改めをする、教えの風に翻弄(ほんろう)されない避け所として、各々個人の祈りと聖書読みのシェルターを確立しましょう。
2.二つ以上の教会に安心できる交わりを確保しましょう。−−今の所属教会に並行して、さらに避け所となる他の教会を必ず把握しておき、日ごろから広く他教会・他教派のクリスチャンと親しくし深い信頼関係を築きましょう。安心し信頼できる他教会や他教派の話題を所属教会で積極的に話しましょう。しかし、拒否や非難を受けはじめたら、他の信頼できる教会の交わりにそのことを伝え教会のカルト化の危険について話し合い、転会の準備を始めましょう。そのためにも、信頼あるクリスチャンの友情を日々拡げて大切にしましょう。
3. 教会以外の関わりを大切にしましょう。−−友人、家族、職場などで、ご自分を理解してくれる方々がいらっしゃると思います。その方の何気ない助言や世間話に、思いやりを感じることは、とても大切です。私たちが、信仰に対する外からの目を持つことにもなります。正しい「証し」は、一方的な押し付けではないことも分かります。

−−−真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために−−−
−− 避難の場(シェルター)としての「個人の祈り」を守るために −−
執筆者 仁保裕介(プロフィール
『すべて失望した人の唇に祈りを。』
祈りは、生活の現場から誰にでも自由にできるものです。
キリストは呼び求めるすべての人と共に居る方です。清い人や会堂や神殿にしか現れない方ではありません。むしろ、自分はふさわしくないと思う人のそばに居るのがキリストです。
受洗して教会員になった教会が、「この教会で信仰生活を続けられなければ、救いや信仰の道から外れる」と言うのは、真実ではありません。
 避難の場(シェルター)としてキリストに求める祈りには、「キリストが共に居る交わり」が必ず与えられています。
このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。テーマは重いですが、皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。キリスト教の視点で、成長、試練、十字架、悔い改め、聖化の記事になっています。
ほんの5才から信仰45年のクリスチャン2世として、キリスト教会内の教派主義・人間関係・権威化・カルト化によって傷を受けた皆さんと共に祈り、脱出と自立と今後の信仰について現実的視点で触れていきます。
元「主の十字架クリスチャンセンター 鎌倉教会、北九州教会」牧師・脱会者

人間は地上に住む限界ある存在です。
天の父なる神との間に大きな距離があるのが事実です。
地上で得た知識では、聖書信仰も含めて、全能の神への知識は実際に限定されています。

私たちは、自分の確信や思いが、聖書の多くの登場人物たちと重なる部分があるでしょうか。
『真理が分かった』という思いよりも、
聖書に書かれている人の弱さや神の恵みあわれみが正に自分の罪のためだといつも感じて、
何も自己正当化できる言葉が無く、ただ赦されるしかない自分を知ることの方が、信仰においてはるかに価値があります。
救いや義や愛に関して、人格的交わりに関して、イエス・キリストによって聖霊によって聖書から知ることができ、
地上の私たちに必要な神とのつながりを得られます。

問題なのは、
地上の限界ある人の身分を越えたこと、聖書の記述を越えることです。

分を越えて重要視されている、その典型は『携挙』です。
新約聖書にある、クリスチャンが空中に引き上げられるという記事を『携挙』と名付けて、さも確定した解釈のように語っていますが、
19-20世紀に福音派・聖霊派の中で拡大したひとつの解釈です。
「レフトビハインド」という本や映画になりました。これは、人の想像のストーリーに過ぎません。
空中に引き上げられるのは、聖書的な終末の描写の一コマだと解釈できても、いつなのか、具体的にどんなことなのかは、起きなければわからないことです。
『艱難前携挙説』は人の想像の産物です。人が解釈したストーリー通りに将来必ず起こると言うのは、人の分を越えています。
終末や携挙の解釈を信じることは、救いの条件ではありません。キリストの十字架の福音のような確かな救いの根拠ではありません。
しかし、こんな終末観を信仰や存立の絶対条件にする教会があるのは事実で、そこでは、救いも福音も、独自の終末の見方を前提に教えます。
本来、終末の解釈は定まらないもので、多様であり、
キリストはただ「目を覚ましていなさい」と言うだけなのに、
『患難前携挙説』を具体的ストーリーで唯一のものとして教えるのは、決して普通ではなく、特異なことです。

人が、聖書や言い伝えを勝手に解釈して、人に救いの条件として強制するのは、新約聖書で警告されている人間的誤りで、それを信じ教える教師や祭司たちがキリストを十字架につけました。

私たち教会は、互いに吟味し、互いに教え戒めあうのが健全です。
キリストの福音よりも、
教師や牧師の主張を受け取って鵜呑みにして、『確信を得た』と一歩もそこから出ない態度は、聖書の教会の姿ではありません。

「見えることは一部」との原則を徹底させる必要があります。

『私は見えている』と思える、大勢が信じやすくビジョン化されたことを簡単に信じてしまいやすいですし、それが迷走の始まりです。

神に祈り聞き従うとは、
信仰のあり方として、簡単に安心できる固定した結論ばかりに頼らず、
神様に人生の中で自分を変えていただくことを持ち望み、
毎日の聖書や祈りの中で印象に残るものなどを通して御声を聴いて、
日常生活や仕事でも、もちろん教会でも、
人を通して、状況を通して、語りかけや示唆を受け、
神様の視線の意外性を知ることです。
忍耐とか、赦しとか、寛容とか、愛とか、決して見捨てず継続する伴いとか、導きとか、人の思いを越えたものがあります。
これらは、人の元の価値観や世の絶望の境遇から見ると意外性に満ちています。
神様が伴われる愛の交わりが私たちの日常の祈りや聖書にあれば、何が重要かが段々心にしみてきます。
それは、神様の人への導きのフォーカスが、人を愛し、寛容に取扱い、命のあり方の気づきを与えようとされているということです。

もちろん、その時の立つべきところ、達したところに留まり、
そこから考えることは必要です。
それまで導かれた人生の道筋で、教えられてきた過程で、ある程度一貫した方向性が見えます。

私の場合は、心で頼れるつてが神に祈ることしかない状態でした。
福音派の縛りで自己否定と教会外否定が徹底され、子供の頃から孤独に自分の境遇を負いました。
今も心の一部を占めるその状態からの導きは、孤独と固定観念への違和感ともがき、渇きからの一歩一歩の求めです。

地上の人の有り様では、
誰かが変革や発見の自己確信を持って上に立つことで人への縛りや支配が始まり、
他者との違いや優位のメッセージばかりで対立や分裂を引き起こし、
世でも教会でもかわりなく、従う人から搾取し、
唯一絶対の正義だと人間的な解釈を主張したりして、主導権争いを繰り返してきました。

カルト的なブラックな愚かさは、『発見』や『確信』から簡単に生まれます。

その確信が正しく、どんな人にも救いになり、人を生かすのか、
誰かの耳新しい主張はすべて試す必要があり、
過去の「良いものも悪いものもある歴史」を見る客観的視点による評価の整理が必ず要ります。
『今まで誰も知らないし、誰も見たことがない』というものは、必ず詐欺的です。

『キリストの代理として私たちは世に遣わされている』という説教の中味には要注意です。
その説教者は伝道させるために、深い話を避けていることがあります。
深く悩まれると、説教でダイレクトに決意して行動に移るような『感動的な力強い説教の価値』が無くなると思っています。

私たちは決意し意識さえすればキリストのように必ず変われる、というわけでは決してありません。
キリストのようになるために、説教で感動して他人に仕え、人の犠牲になり、たとえ死であっても従えるでしょうか?
これは人の力ではできません。
御子キリストが地上でしたことをよく見ると、人の間で生き、人の思いを知り、父に祈り、葛藤し、支えを必要としながら、人としての弱さの中で十字架に向かわされる杯を受け取られました。

私たちも、人として弱くても、心の芯から、良いものも悪いものも神の前に注ぎ出し、何が神の御心か、聖霊の平安か、聖書から、静まった祈り中で、世の日常の中で、その他生きるあらゆる方向から、主の導きを求めるべきです。


第二ぺテロ3.8-9 新改訳
しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。
主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。


隣人の救いを思えるようになることが、キリストに似ることであり、成長であり、主にある清さでしょう。それで証が立てられ、キリストが来られるのを早められるはずです。
主に自分を委ね続けることが信仰であり、目に見える成果や裁きを求めることではありません。

このブログの関連記事:
キリストが共にいる「痛みの神学」と人の手で増し加わる傷 (2014年05月23日)

聖書信仰が、「聖書絶対の律法主義」にならないように、ちゃんと聖書を読もう (2014年10月29日)

確信が押し付けられて、うつになる問題 リハビリ (2014年08月14日)

福音派・聖霊派の信仰で、今、自覚されるべきこと  (2006/01/29)



※スマホ画面に表示される誘導広告は、ライブドアとグーグルによるもので、このブログの記事とは一切関係ありません。

※このブログはにほんブログ村に参加しています。 よろしければ一日一回のクリックで上位表示にご協力ください。

ブログランキング・にほんブログ村へ


口語訳聖書は、 新共同訳、新改訳よりも前に、日本の全てのプロテスタント教会で使われていたものです。





■私たちクリスチャンは二人三人でも集まれば、そこを「キリストのみからだ」とすることができます。
洗礼の意味は「キリストへの信仰を持つ、人生の方向転換(悔い改め・回心)の決意」です。(洗礼は、授けた教会の組織員となる会員制度とは別のものです。)
牧師を上位に戴かずに、水平の交わりを心がけ、共に祈り神様を見つめて進む、この決心を共有する交わり・ネットワークを目標とする「キリストのみからだの教会」を求めます。
現状では「頼れる人として誰か教師を自分の上に置きたがる人の弱さ」を認め、私たちは日々そこから脱出して神様に祈り、主にある交わりをいただきます。同時に、助けを求める人の祈りに、あらゆる形で呼応するクリスチャンであることを決意し、自立への助けが必ずある「みからだのネットワーク」であることを目指しています。(CFF小倉福音センターの祈り・信仰指標から)

■福音派・聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)・聖書主義の人が内包する「カルト化問題」をこの世代で終息できますように。どの人にもある心の引っかかりや良心をなおざりにして、聖書信仰やリバイバル信仰に熱くなって人を裁き、自分と家族に負担をかけ、2世や若いクリスチャンの離反を招いていることを克服できますように。
これを信仰的姿勢と現実的姿勢で正面から捉えて祈ります。
時に辛らつに人の内面を見ることが必要かもしれませんが、自分の中にもあるものとして考えることで、問題の本質が見えるのかもしれません。

■教会のカルト化や縛りに巻き込まれないための3つの知恵
1.祈りと聖書読み−−日々必要な神様との交わりと悔い改めをする、教えの風に翻弄(ほんろう)されない避け所として、各々個人の祈りと聖書読みのシェルターを確立しましょう。
2.二つ以上の教会に安心できる交わりを確保しましょう。−−今の所属教会に並行して、さらに避け所となる他の教会を必ず把握しておき、日ごろから広く他教会・他教派のクリスチャンと親しくし深い信頼関係を築きましょう。安心し信頼できる他教会や他教派の話題を所属教会で積極的に話しましょう。しかし、拒否や非難を受けはじめたら、他の信頼できる教会の交わりにそのことを伝え教会のカルト化の危険について話し合い、転会の準備を始めましょう。そのためにも、信頼あるクリスチャンの友情を日々拡げて大切にしましょう。
3. 教会以外の関わりを大切にしましょう。−−友人、家族、職場などで、ご自分を理解してくれる方々がいらっしゃると思います。その方の何気ない助言や世間話に、思いやりを感じることは、とても大切です。私たちが、信仰に対する外からの目を持つことにもなります。正しい「証し」は、一方的な押し付けではないことも分かります。

−−−真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために−−−
−− 避難の場(シェルター)としての「個人の祈り」を守るために −−
執筆者 仁保裕介(プロフィール
『すべて失望した人の唇に祈りを。』
祈りは、生活の現場から誰にでも自由にできるものです。
キリストは呼び求めるすべての人と共に居る方です。清い人や会堂や神殿にしか現れない方ではありません。むしろ、自分はふさわしくないと思う人のそばに居るのがキリストです。
受洗して教会員になった教会が、「この教会で信仰生活を続けられなければ、救いや信仰の道から外れる」と言うのは、真実ではありません。
 避難の場(シェルター)としてキリストに求める祈りには、「キリストが共に居る交わり」が必ず与えられています。
このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。テーマは重いですが、皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。キリスト教の視点で、成長、試練、十字架、悔い改め、聖化の記事になっています。
ほんの5才から信仰45年のクリスチャン2世として、キリスト教会内の教派主義・人間関係・権威化・カルト化によって傷を受けた皆さんと共に祈り、脱出と自立と今後の信仰について現実的視点で触れていきます。
元「主の十字架クリスチャンセンター 鎌倉教会、北九州教会」牧師・脱会者

あなたがたは生めよ。ふえよ。地に群がり、地にふえよ。

創世記9章で、神は洪水からノアたち家族を救い、新たな歩みをするように祝福し、肉なるものを一斉に滅ぼすことはしないと約束されました。
「人が罪を犯さないなら」という条件つきなのではなく、神からの一方的な契約です。

そうして、イエス・キリストが人と神との交わりを回復する懸け橋として地上に来られ、人類の罪の犠牲・いけにえとして十字架にかかり、神の人への愛と御心がどんなに大きいかを示し、目に見える形で神の側から人に手が差し出されました。
神様を愛し御心を行う応答が、人に委ねられています。

クリスチャンは洗礼を受けて新たな決意を表します。新しく生まれる経験をするわけですが、それ以後、具体的に何をすればよいのでしょうか。教会に通い、牧師の教えを忠実に守ることでしょうか。

私は福音派の教えが基本にありつつ、聖霊派の信仰に心を開いたことよって、「普遍的霊的なキリストのみからだの教会の恵み」をより広く考えることができ、たくさん見えてきたものがあります。

イエスは「人々をすわらせなさい」と言われた。
その場所には草が多かった。そこにすわった男の数は五千人ほどであった。
そこで、イエスはパンを取り、感謝してから、すわっている人々に分け与え、また、さかなをも同様にして、彼らの望むだけ分け与えられた。
ヨハネによる福音書 6:10‭-‬11 口語訳
http://bible.com/81/jhn.6.10-11.JA1955

求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。 すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。 あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。 魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。 だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。
マタイによる福音書 7:7‭-‬12 口語訳
http://bible.com/81/mat.7.7-12.JA1955

神様は御言葉を今も語られ、私たちの霊を生かし満たされます。今は聖書によって啓示が完結していますから、人間への御心は完全に啓示されています。
キリストが十字架にかかり私たちの罪のための犠牲になられた、そこに神の愛が示され、人が受け入れると聖霊が内に住み、罪について義について教え、またイエス・キリストの御言葉の意味を悟らせます。
聖書の啓示が何を意味し何を受け取るべきなのか分かるためには、神様に祈り求める必要があります。
私たちが救いを体験した結果である信仰の証しは、必ずキリストご自身を指し示すものです。
キリスト以外を差す証しは、信仰の証しとは言えません。

弟子たちはイエスに尋ねて言った、
「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。
イエスは答えられた、
「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。 わたしたちは、わたしをつかわされたかたのわざを、昼の間にしなければならない。夜が来る。すると、だれも働けなくなる。 わたしは、この世にいる間は、世の光である」。

イエスがどろをつくって彼の目をあけたのは、安息日であった。
パリサイ人たちもまた、「どうして見えるようになったのか」、と彼に尋ねた。
彼は答えた、
「あのかたがわたしの目にどろを塗り、わたしがそれを洗い、そして見えるようになりました」。
そこで、あるパリサイ人たちが言った、
「その人は神からきた人ではない。安息日を守っていないのだから」。
しかし、ほかの人々は言った、
「罪のある人が、どうしてそのようなしるしを行うことができようか」。
そして彼らの間に分争が生じた。
すると彼は言った、
「あのかたが罪人であるかどうか、わたしは知りません。ただ一つのことだけ知っています。わたしは盲であったが、今は見えるということです」。

「わたしたちはこのことを知っています。神は罪人の言うことはお聞きいれになりませんが、神を敬い、そのみこころを行う人の言うことは、聞きいれて下さいます。 生れつき盲であった者の目をあけた人があるということは、世界が始まって以来、聞いたことがありません。 もしあのかたが神からきた人でなかったら、何一つできなかったはずです」。

イエスは、その人が外へ追い出されたことを聞かれた。そして彼に会って言われた、
「あなたは人の子を信じるか」。
彼は答えて言った、「主よ、それはどなたですか。そのかたを信じたいのですが」。
イエスは彼に言われた、
「あなたは、もうその人に会っている。今あなたと話しているのが、その人である」。すると彼は、「主よ、信じます」と言って、イエスを拝した。
そこでイエスは言われた、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」。
ヨハネによる福音書 9:2‭-39 口語訳
http://bible.com/81/jhn.9.2-39.JA1955

私たち教会は、キリストに出会っている証しを持つ者同士の交わりであり、求める人には個人的にキリストを紹介できなければなりません。
自分をクリスチャンと思う人は、個人的なキリストとの出会いがあるはずなのです。
私たちは皆、キリストご自身によって目を開けられていなければ、キリストを知っているとは言えないのではないでしょうか。

さて、この町からきた多くのサマリヤ人は、「この人は、わたしのしたことを何もかも言いあてた」とあかしした女の言葉によって、イエスを信じた。
そこで、サマリヤ人たちはイエスのもとにきて、自分たちのところに滞在していただきたいと願ったので、イエスはそこにふつか滞在された。 そしてなお多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。
彼らは女に言った、
「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。自分自身で親しく聞いて、この人こそまことに世の救主であることが、わかったからである」。
ヨハネによる福音書 4:39-42 口語訳
http://bible.com/81/jhn.4.39-42.JA1955

現代、キリストに会うには、どこにいてもキリストを求め、主と認め、どんなことも委ねること、そのために祈り、聖書を読むことです。
教会に行くのも、キリストとの個人的な出会いのためであるはずです。
どこかの教会の会員であることが、クリスチャンである条件なのではなく、
しっかりしたキリストとの出会いを持つ人たちとの交わりが聖書にある教会であり、
そのような人たちとの交わりを見分けつつ選ぶことは信仰の大切な条件なんだと思います。

弟子たちはエルサレム神殿に目を奪われましたが、
キリストはご自身を指して三日で建て上げ死から復活すると言われ、
そして私たちを指して、聖霊の宮だと言われました。

私たちは絵に描いた餅を伝えるのではなく、現代の世にキリストご自身を伝えなければなりませんが、それを可能にするのは聖霊です。
5000人の給食の記事が、ただの見世物ではなく、
私たち自身のものとして、一人一人の中でしっかりと霊の飢え渇きを満たすキリストとの出会いとして心に書き記されていなければ、伝道にも証しにもなりません。
誰か他人に起きた素晴らしい奇跡によって救われるわけではなく、一人一人の信仰によって内にキリストが住むという奇跡の体験によります。
聖書や信仰を論じる牧師や神学者や聖人はキリストではありませんから、彼らの信仰姿勢や体験に各々自分の永遠の救いを賭けるなど、確かな信仰とは言えません。
キリストの名ではなく、聖書でもなく、人の名で論じる信仰ほど無駄なものはありません。
見分けるべきは、焦点が十字架にかかられたキリストにしっかり合っているか、ということです。
教会の名に、キリストや聖書や福音や十字架を掲げていても、中身が人の主張であることが今は普通です。それを段々と空しいと思うようになる切なるキリストご自身への求めは、真の救いのための神の聖霊の働きだと思います。

そしてイエスが家にはいられると、…彼らに「わたしにそれができると信じるか」と言われた。彼らは言った、「主よ、信じます」。 そこで、イエスは彼らの目にさわって言われた、「あなたがたの信仰どおり、あなたがたの身になるように」。 すると彼らの目が開かれた。
マタイによる福音書 9:28‭-‬30 口語訳
http://bible.com/81/mat.9.28-30.JA1955

私たちは終わりに霊の体に一瞬にして変えられますが、
地上では、毎日少しずつ目を開かれ、試練と祈りと聖書と日常生活で学ぶ積み重ねによって変えられていきます。
人は「信じます」と叫んでも、そのすぐ後に違うものに目を奪われます。
たとえそうでも焦らず、着実に一つ一つ少しずつ主に委ねるために、しっかりとしたキリストご自身への出会いと信頼と求めのための祈りが毎日なければなりません。そうして、やっとのことで徐々に悟る救いの真実があって、成長と実があります。
どんなに熱心に求めても一進一退であったりもします。ふり返る時に、苦労に共に歩まれたキリストの足跡を見ますが、自分のその頃の実態を思い出すと、「よくぞこんな私に忍耐して愛してくださった」と思えることです。
この葛藤ある積み重ねが長い分だけ、必ず実を結ぶ証しになります。

その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。
あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。
ヨハネの福音書16:23,24 新改訳



このブログの関連記事:
目を覚まして(6) 『信仰によるならすべてが許される』と思う過ちと「赦し」の本質 (2016年11月15日)
組織化は、どうしても形式化する−目を覚まして(8) (2016年11月25日)



※スマホ画面に表示される誘導広告は、ライブドアとグーグルによるもので、このブログの記事とは一切関係ありません。

※このブログはにほんブログ村に参加しています。 よろしければ一日一回のクリックで上位表示にご協力ください。

ブログランキング・にほんブログ村へ


口語訳聖書は、 新共同訳、新改訳よりも前に、日本の全てのプロテスタント教会で使われていたものです。






■私たちクリスチャンは二人三人でも集まれば、そこを「キリストのみからだ」とすることができます。
洗礼の意味は「キリストへの信仰を持つ、人生の方向転換(悔い改め・回心)の決意」です。(洗礼は、授けた教会の組織員となる会員制度とは別のものです。)
牧師を上位に戴かずに、水平の交わりを心がけ、共に祈り神様を見つめて進む、この決心を共有する交わり・ネットワークを目標とする「キリストのみからだの教会」を求めます。
現状では「頼れる人として誰か教師を自分の上に置きたがる人の弱さ」を認め、私たちは日々そこから脱出して神様に祈り、主にある交わりをいただきます。同時に、助けを求める人の祈りに、あらゆる形で呼応するクリスチャンであることを決意し、自立への助けが必ずある「みからだのネットワーク」であることを目指しています。(CFF小倉福音センターの祈り・信仰指標から)

■福音派・聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)・聖書主義の人が内包する「カルト化問題」をこの世代で終息できますように。どの人にもある心の引っかかりや良心をなおざりにして、聖書信仰やリバイバル信仰に熱くなって人を裁き、自分と家族に負担をかけ、2世や若いクリスチャンの離反を招いていることを克服できますように。
これを信仰的姿勢と現実的姿勢で正面から捉えて祈ります。
時に辛らつに人の内面を見ることが必要かもしれませんが、自分の中にもあるものとして考えることで、問題の本質が見えるのかもしれません。

■教会のカルト化や縛りに巻き込まれないための3つの知恵
1.祈りと聖書読み−−日々必要な神様との交わりと悔い改めをする、教えの風に翻弄(ほんろう)されない避け所として、各々個人の祈りと聖書読みのシェルターを確立しましょう。
2.二つ以上の教会に安心できる交わりを確保しましょう。−−今の所属教会に並行して、さらに避け所となる他の教会を必ず把握しておき、日ごろから広く他教会・他教派のクリスチャンと親しくし深い信頼関係を築きましょう。安心し信頼できる他教会や他教派の話題を所属教会で積極的に話しましょう。しかし、拒否や非難を受けはじめたら、他の信頼できる教会の交わりにそのことを伝え教会のカルト化の危険について話し合い、転会の準備を始めましょう。そのためにも、信頼あるクリスチャンの友情を日々拡げて大切にしましょう。
3. 教会以外の関わりを大切にしましょう。−−友人、家族、職場などで、ご自分を理解してくれる方々がいらっしゃると思います。その方の何気ない助言や世間話に、思いやりを感じることは、とても大切です。私たちが、信仰に対する外からの目を持つことにもなります。正しい「証し」は、一方的な押し付けではないことも分かります。

−−−真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために−−−
−− 避難の場(シェルター)としての「個人の祈り」を守るために −−
執筆者 仁保裕介(プロフィール
『すべて失望した人の唇に祈りを。』
祈りは、生活の現場から誰にでも自由にできるものです。
キリストは呼び求めるすべての人と共に居る方です。清い人や会堂や神殿にしか現れない方ではありません。むしろ、自分はふさわしくないと思う人のそばに居るのがキリストです。
受洗して教会員になった教会が、「この教会で信仰生活を続けられなければ、救いや信仰の道から外れる」と言うのは、真実ではありません。
 避難の場(シェルター)としてキリストに求める祈りには、「キリストが共に居る交わり」が必ず与えられています。
このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。テーマは重いですが、皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。キリスト教の視点で、成長、試練、十字架、悔い改め、聖化の記事になっています。
ほんの5才から信仰45年のクリスチャン2世として、キリスト教会内の教派主義・人間関係・権威化・カルト化によって傷を受けた皆さんと共に祈り、脱出と自立と今後の信仰について現実的視点で触れていきます。
元「主の十字架クリスチャンセンター 鎌倉教会、北九州教会」牧師・脱会者



はじめに神は天と地とを創造された。
地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
創世記 1:1-3  口語訳
https://www.bible.com/81/GEN.1.1-3

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。
すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
ヨハネの福音書 1:1-5 新改訳

神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません
ヨハネの福音書4:24 新改訳

兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。 あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。
ローマ人への手紙 12:1-2  口語訳
https://www.bible.com/81/ROM.12.1-2

信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。 昔の人々はこの信仰によって称賛されました。
信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。
ヘブル人への手紙 11:1-3  新改訳


「神は霊である」
このことを理解するのに、祈りはもちろん必要ですが、
「見えるものが目に見えるものからできたのではないこと」
これに思いを向ける必要があります。

目に見える事実だけを信じるのは、信仰とは言えません。
しかし、私たちはどうしてもそうなってしまいます。
だから祈りの中で、目に見えない神様の思いや導きに思いを向け、
目の前の課題について、理解できないこと我慢できないことの意味について、静まって聴き、聖霊の語りかけを探るように思いを向ける必要があります。

このような祈りの習慣は、福音派ではごく一部の方しか持っていないかもしれません。
古典的な信仰書には、多くの記事があるのですが。
(別サイト参考リンク…「オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー」

霊的実質に一部分でも触れると、それがない教会には中々満足できなくなります。

子どもの時から20年間福音派だった私の場合は、
信仰10年目 の高校生になった頃に、聖書に書かれているような 神様の霊的な直接の語りかけに飢え渇いて、 必死に祈り始めました。
そして、社会人になって精神的に自立してから、リバイバル信仰を語る聖霊派の教会に行くことで、「神の語りかけを聞くこと」を肯定でき、否定する縛りから解放されました。

現代の教会では、どうしても牧師がキーマンになってしまい、
目に見えない部分より、目の前にいる説教者の言葉にどうしても信仰の重きを置いてしまいます。
霊的なことを否定しない福音派の牧師でも、体面上霊的なことは言いませんし、
聖霊の働きによってどんな人でも触れられる神様ご自身との交わりを、積極的に勧めることは少ないです。
若い私は、目の前の牧師の見える部分にだけ縛られて、牧師の言うとおりにしなければ救われないと、思い込んでしまっていました。
実際は牧師が人の救いを保証することなど、できるはずが無いのにです。

牧師であっても、地上の限界を越えられない、ただの人です。
教会の誰かが地上の人生を終えて天に行っても、そこに牧師は一緒にいません。牧師の教え通りにしていても、キリストを知らなければ、誰も私たちの救いの証明をしてはくれないのです。

牧師であっても皆人間で、清められてはおらず、時に自分勝手に牧会したり、裁いたり、常識がなかったりします。
牧師の実のある奉仕も「一瞬芸」だと考えるべきです。
わざが起きても、牧師が正しい証拠にはなりません。わざは神に属するものであり、受け手の信仰によって起こるもので、決して語る側の牧師のものではないからです。
ある時は圧倒的な説得力ある満たしがあり、その数分後には身勝手な間違いを犯すのが私たちであり、牧師も同じです。

クリスチャンは互いの弱さを知り、受け容れ合うことで、互いの弱さに働く神の力に与り、その恵みを知り、主を賛美するために生きています。

私たちのこの人生の中で出会うあらゆるものを吟味し、主からの良いものに目を留めたいのです。

私たちの人生は教会だけにあるのではなく、世の中で様々な経験をします。
吟味とは、
神からのものかどうか試し、神以外の部分を切り分けることです。
まず、教会のものや信仰的霊的と思えるものを世の日常でも試し吟味し切り分け、
また、世のものを祈りと聖書に照らして吟味し切り分けます。
しかし、一方的な思い込みや直感で性急に裁いたり切り捨てたりはせず、
逆に神があわれみと寛容によって待っている方々が大勢いて、神が許容されている事実の中にこそ、神の愛と忍耐の本質を見ます。
赦しの恵みを最大に受けているのは、罪の最も大きい人ですが、それが自分であると気づくことが、救いの本質であり、
どんな闇の場でも、神の愛の光が届く信仰になります。

目に見える教会的な基準が正しいとは限りません。
私たちが切り分けて捨てた世のものの中で働くキリストの姿に気づく時が来るかもしれません。
安心できる所属教会の中から、外に向かうように促されたりします。
教会の中で飢え渇いて自分から外に出ることになったり、
信仰義認と言われても残っている自分の罪に絶望的になったり、です。

神様は生きており、子どものように素直に慕い求める人を見つめ、手を伸ばし助けます。そこが教会堂でも、絶望の場でも、まったく変わりなく、神様は共に居るのです。
私たちは、目に見えない神様、人の理解を越えた愛の方を、素直に慕い求めているでしょうか。

神様は、正義のある所に姿をあらわすのではなく、罪を知り悔いる人の所に居ます。福音書によれば、まっすぐに聖霊の働きを期待できるのは、自分の正義を主張する人ではなく、悔い嘆きあわれみを願う人です。
たとえ心が責めても大胆に神の御座に近づくこと、それが信仰です。
その信仰から出ていないこと、自分を義とすることは、皆罪です。

"というのは、神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。 そして、神のみまえには、あらわでない被造物はひとつもなく、すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされているのである。この神に対して、わたしたちは言い開きをしなくてはならない。
さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。 この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。
だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。"
ヘブル人への手紙 4:12-16  口語訳
https://www.bible.com/81/HEB.4.12-16


そして、正義を語る人が行う霊的なわざだからといって、みな信用してはいけません。


"愛する者たちよ。すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。多くのにせ預言者が世に出てきているからである。
あなたがたは、こうして神の霊を知るのである。すなわち、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白する霊は、すべて神から出ているものであり、 イエスを告白しない霊は、すべて神から出ているものではない。これは、反キリストの霊である。あなたがたは、それが来るとかねて聞いていたが、今やすでに世にきている。"
ヨハネの第一の手紙 4:1-3  口語訳
https://www.bible.com/81/1JN.4.1-3


「イエス・キリストが肉体をとって来られたことを告白する」という意味は、非常に重要です。
完全な神であり、完全な人であって、罪の無いお方です。人の罪を負いあがないを出来る罪の無いお方は、唯一イエス・キリストだけであって、その他には一人もいないのです。
自分がどんな神を信じているのかを考える必要があります。
天地を創造された神であるのに、人となって罪人の間で人生を送り、あわれみ、教え、わざをなし、ゲッセマネで苦悩し、世の欲で告発され鞭打たれ、人の罪を背負って十字架につかれたのです。
そして罪の刑罰である死に打ち勝って復活し、今も霊において生きて、私たちの中に住み、私たちが住むこの世界のあらゆる人の間で休むことなく働かれています。
キリストは、正しい人ではなく、罪人を救うために今も働かれているのです。


"ただ恐れるのは、エバがへびの悪巧みで誘惑されたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する純情と貞操とを失いはしないかということである。
というのは、もしある人がきて、わたしたちが宣べ伝えもしなかったような異なるイエスを宣べ伝え、あるいは、あなたがたが受けたことのない違った霊を受け、あるいは、受けいれたことのない違った福音を聞く場合に、あなたがたはよくもそれを忍んでいる。"

コリント人への第二の手紙 11:3-4  口語訳
https://www.bible.com/81/2CO.11.3-4

"あなたがたはかつて暗闇であったが、今は主にある光なのだから。
あなたがたは光の子として歩み、
――光の〔もたらす〕実はあらゆる善、義、真実にあるのだから ――
何が主の気に召すことなのかを吟味しなさい。
暗闇の不毛な行ないに加担せず、むしろ逆に、反駁してやりなさい。
彼らによって隠密になされていることは口にすることさえ醜悪なのだから。
しかしすべてのものは反駁されれば、光によってあらわにされる。
事実、すべてあらわにされるものは光である。
それゆえ、こう言われている。
起き上がれ、眠れる者よ。
立ち上がれ、死人たちの中から。
さればキリストが汝に光輝くであろう。"

エペソ人への手紙 5:8-17  岩波翻訳委員会訳


私たちが生きる現実では教会でさえ間違い、牧師も信徒も、世で搾取する者も、国も、互いに相手を思い通りに縛ろうとし、自分の正義を通そうとします。他人を自分の欲の犠牲にする身勝手な人の罪の起こす問題が、例外なくあらゆる場所にあります。
法律や聖書のねじまげて、都合良い解釈で自分の欲を人に認めさせようとします。
これは、ずっと変わらない人の現実です。
ただ、イエス・キリストに向かい、罪に痛み、それをいつも認めて、神の働きを絶えず受け入れようと主を慕い求める人を、この現実の中で神様は必ず救われます。


"試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。
だれでも誘惑に会う場合、「この誘惑は、神からきたものだ」と言ってはならない。神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない。
人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。
欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。
愛する兄弟たちよ。思い違いをしてはいけない。 あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。
父は、わたしたちを、いわば被造物の初穂とするために、真理の言葉によって御旨のままに、生み出して下さったのである。
愛する兄弟たちよ。このことを知っておきなさい。
人はすべて、聞くに早く、語るにおそく、怒るにおそくあるべきである。 人の怒りは、神の義を全うするものではないからである。
だから、すべての汚れや、はなはだしい悪を捨て去って、心に植えつけられている御言を、すなおに受け入れなさい。御言には、あなたがたのたましいを救う力がある。"

ヤコブの手紙 1:12-21  口語訳
https://www.bible.com/81/JAS.1.12-21


主からのものを よく見分けつつ 受け取る。
これが聖書の教えであり、神様の御心です。

私たちは、あまり深く考えなくても、間違いのない良いものを簡単に手に入れられる、と思い勝ちです。
しかし、信仰とは、何が完全で神のみ心か、探求し見分けるものです。
教会が、完全で安全なパッケージにして分かりやすく救いを届けることではありません。

求めることで神に出会う一人一人を通して神が証しされていることを、互いに吟味して、互いに教え戒め合うのが教会のあるべき姿です。

このブログの関連記事:
神様との会話をしていますか−へりくだりと回復を両立する道のり(その3) (2015年07月01日)

祈り、神の御声に聞き従いたい−目を覚まして(7) (2016年11月21日)

「神の声を聞くため」意欲的だとズレる問題−クリスチャンの祈りの生活(7) (2016年05月26日)

神の沈黙には意味がある (2015年06月11日)



※スマホ画面に表示される誘導広告は、ライブドアとグーグルによるもので、このブログの記事とは一切関係ありません。

※このブログはにほんブログ村に参加しています。 よろしければ一日一回のクリックで上位表示にご協力ください。

ブログランキング・にほんブログ村へ


口語訳聖書は、 新共同訳、新改訳よりも前に、日本の全てのプロテスタント教会で使われていたものです。





■私たちクリスチャンは二人三人でも集まれば、そこを「キリストのみからだ」とすることができます。
洗礼の意味は「キリストへの信仰を持つ、人生の方向転換(悔い改め・回心)の決意」です。(洗礼は、授けた教会の組織員となる会員制度とは別のものです。)
牧師を上位に戴かずに、水平の交わりを心がけ、共に祈り神様を見つめて進む、この決心を共有する交わり・ネットワークを目標とする「キリストのみからだの教会」を求めます。
現状では「頼れる人として誰か教師を自分の上に置きたがる人の弱さ」を認め、私たちは日々そこから脱出して神様に祈り、主にある交わりをいただきます。同時に、助けを求める人の祈りに、あらゆる形で呼応するクリスチャンであることを決意し、自立への助けが必ずある「みからだのネットワーク」であることを目指しています。(CFF小倉福音センターの祈り・信仰指標から)

■福音派・聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)・聖書主義の人が内包する「カルト化問題」をこの世代で終息できますように。どの人にもある心の引っかかりや良心をなおざりにして、聖書信仰やリバイバル信仰に熱くなって人を裁き、自分と家族に負担をかけ、2世や若いクリスチャンの離反を招いていることを克服できますように。
これを信仰的姿勢と現実的姿勢で正面から捉えて祈ります。
時に辛らつに人の内面を見ることが必要かもしれませんが、自分の中にもあるものとして考えることで、問題の本質が見えるのかもしれません。

■教会のカルト化や縛りに巻き込まれないための3つの知恵
1.祈りと聖書読み−−日々必要な神様との交わりと悔い改めをする、教えの風に翻弄(ほんろう)されない避け所として、各々個人の祈りと聖書読みのシェルターを確立しましょう。
2.二つ以上の教会に安心できる交わりを確保しましょう。−−今の所属教会に並行して、さらに避け所となる他の教会を必ず把握しておき、日ごろから広く他教会・他教派のクリスチャンと親しくし深い信頼関係を築きましょう。安心し信頼できる他教会や他教派の話題を所属教会で積極的に話しましょう。しかし、拒否や非難を受けはじめたら、他の信頼できる教会の交わりにそのことを伝え教会のカルト化の危険について話し合い、転会の準備を始めましょう。そのためにも、信頼あるクリスチャンの友情を日々拡げて大切にしましょう。
3. 教会以外の関わりを大切にしましょう。−−友人、家族、職場などで、ご自分を理解してくれる方々がいらっしゃると思います。その方の何気ない助言や世間話に、思いやりを感じることは、とても大切です。私たちが、信仰に対する外からの目を持つことにもなります。正しい「証し」は、一方的な押し付けではないことも分かります。

−−−真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために−−−
−− 避難の場(シェルター)としての「個人の祈り」を守るために −−
執筆者 仁保裕介(プロフィール
『すべて失望した人の唇に祈りを。』
祈りは、生活の現場から誰にでも自由にできるものです。
キリストは呼び求めるすべての人と共に居る方です。清い人や会堂や神殿にしか現れない方ではありません。むしろ、自分はふさわしくないと思う人のそばに居るのがキリストです。
受洗して教会員になった教会が、「この教会で信仰生活を続けられなければ、救いや信仰の道から外れる」と言うのは、真実ではありません。
 避難の場(シェルター)としてキリストに求める祈りには、「キリストが共に居る交わり」が必ず与えられています。
このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。テーマは重いですが、皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。キリスト教の視点で、成長、試練、十字架、悔い改め、聖化の記事になっています。
ほんの5才から信仰45年のクリスチャン2世として、キリスト教会内の教派主義・人間関係・権威化・カルト化によって傷を受けた皆さんと共に祈り、脱出と自立と今後の信仰について現実的視点で触れていきます。
元「主の十字架クリスチャンセンター 鎌倉教会、北九州教会」牧師・脱会者

↑このページのトップヘ