祈りと生活に真実を求めて

真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために
避難の場(シェルター)として「個人の祈り」を守る教会とは

執筆者 仁保裕介(プロフィール)『すべて失望した人の唇に祈りを。』祈りは、生活の現場から誰にでも自由にできるものです。キリストは呼び求めるすべての人と共に居る方です。清い人や会堂や神殿にしか現れない方ではありません。むしろ、自分はふさわしくないと思う人のそばに居るのがキリストです。
  受洗して教会員になった教会が、「この教会で信仰生活を続けられなければ、救いや信仰の道から外れる」と言うのは、真実ではありません。避難の場(シェルター)としてキリストに求める祈りには、「キリストが共に居る交わり」が必ず与えられています。
  このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。テーマは重いですが、皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。キリスト教の視点で、成長、試練、十字架、悔い改め、聖化の記事になっています。
  ほんの5才から信仰45年のクリスチャン2世として、キリスト教会内の教派主義・人間関係・権威化・カルト化によって傷を受けた皆さんと共に祈り、脱出と自立と今後の信仰について現実的視点で触れていきます。
  元「主の十字架クリスチャンセンター 北九州教会」牧師。

キリスト教の優れた所は、
キリストが地上で生き、人々と語り合い、共に歩む神の姿であることで、
人に分かりやすく神が人格的な交わりを喜び、共に居て住み、言葉を語り、人の思いの変化を人の理解できるペースで導き促すことを、福音書で示していることです。

ところが聖霊派ではないクリスチャンから見て違和感を持たれるのが、
「キリストに祈り、交わり、絶えず語りかけを受けること」

福音派・聖霊派ではないクリスチャンから見て違和感を持たれるのが、
「神キリストが二千年前にローマに支配された今のイスラエル・パレスチナの地に人として生まれて人生を送り、神の御心を説き、癒やしと奇跡を行い、殺されたが復活して、今も人と共にいること」福音派でも聖霊派でもない聖書批評の立場では、これを事実だと思えていないことがあります。

『信仰のあり方を説く偉人として活動したイエスを弟子たちが神として、癒し・奇跡・復活の物語をイエスの死後に描き、イエス教団を作った』と言う牧師がいるキリスト教会があります。

キリストが今も生き、人のそばにいることが、現実として体験して分かることが、新約聖書に書かれているクリスチャンと教会のあり様です。
福音派、聖霊派はそれを事実としていますが、今現在、現実に新約聖書に描かれた通りの教会は存在していません。

個人が祈りによって神を恋い慕い交わりを求めるのを、『牧師・教会の指導なしでするのは危険だ』と言って止めるのが福音派・聖霊派では普通です。

福音派聖霊派は「個人の神との交わり」よりも、
教会組織の形を聖書の字面から読み解いてどうにかしてそれらしく見せようとして牧師は説教しますが、
結果は牧師個人が信じていること(福音派の聖書神学や聖霊の働きとされる現象)による人間的な思いを信仰だと言う要素が多くて、字面の学習と決められた悔い改めと証しで(聖霊派では『聖霊の満たし』を加えて)支配し縛り、カルト化する教会が出ています。常識や人間性や配慮の無い、法を無視するような教会運営が、聖書と聖霊の名で行われていたりします。

立派な言葉や目に見える証しよりも、心で内側でキリストと交わっていることが証しのはずです。

キリスト教の肝は人格を持った神が天地創造し、人と語り交わる存在だということでしょう。キリストの生誕がその証しです。
神が人と人格的に交わる様子が旧約聖書にもあり、
子なるキリストが現実に肉体を持って生きたので、人が現実に生きる現場を神は理解していると、人は信じることができます。
それは神秘というより現実として人が分かるように、キリストは目に見える隣人のような確かさで、どの人のそばにも居ます。
その淡々とした神の臨在の日常の現実を、宗教的霊的な神秘性として祭り上げて人の思いから遠ざけて有り難がらせる宗教者は、人と神の間に割って入って邪魔して立場を得たり、稼いだりしています。

福音派の聖書信仰(律法主義)のために、
聖霊派の聖霊の満たしの条件としての清さのために、
毎週何度も心を刺されて引き込まれ、何年も主日礼拝第一優先、教会奉仕第一優先を続けると、マインドコントロールが効いて毎日心を刺されて支配されるようになり、クリスチャンホームなら互いに心を刺し合って、これが罪であり、赦しは神のあわれみだと確認し合う。
心が血だらけなのに、外見からは分からないDV、
これが「『信仰』と言う名の虐待」です。
『これが愛です!』とやさしい表情で言いながら、お互いの心臓を刺し合い、『罪に死に、自我に死ぬことで、霊が生きて神のしもべになる』と教える教会はカルト化しています。

父なる神、子なる神キリスト、聖霊なる神は、人が思うほど無機質な裁きはしない方です。
人が持つ感情や事情や背景を一緒に理解しながら導きます。
人が思う以上に、神は現実に即して事情に精通していて、
人それぞれが通ってきた道で得た価値観や心持ちに沿って共に歩いていきます。
神はその人がわかるように道を導きます。
理解不能で苦痛なことを無理強いすることは決してなく、生きるために必要な動きも休みも与えます。

キリストに出会って救われたなら、祈りや休む時間を奪う奉仕と主日厳守をさせるクリスチャンたちから、教えたがる牧師や教会従者たちから、心も体も離すしかありません。
その痛みの祈りから、導きを求めて道を見つけましょう。


主はエルサレムを築き、イスラエルの追いやられた者を集められる。 主は心の打ち砕かれた者をいやし、その傷を包まれる。 主はもろもろの星の数を定め、すべてそれに名を与えられる。 われらの主は大いなる神、力も豊かであって、その知恵ははかりがたい。 主はしえたげられた者をささえ、悪しき者を地に投げ捨てられる。 主に感謝して歌え、琴にあわせてわれらの神をほめうたえ。 主は雲をもって天をおおい、地のために雨を備え、もろもろの山に草をはえさせ、 食物を獣に与え、また鳴く小がらすに与えられる。 主は馬の力を喜ばれず、人の足をよみせられない。 主はおのれを恐れる者とそのいつくしみを望む者とをよみせられる。 エルサレムよ、主をほめたたえよ。シオンよ、あなたの神をほめたたえよ。 主はあなたの門の貫の木を堅くし、あなたのうちにいる子らを祝福されるからである。 主はあなたの国境を安らかにし、最も良い麦をもってあなたを飽かせられる。 主はその戒めを地に下される。そのみ言葉はすみやかに走る。 主は雪を羊の毛のように降らせ、霜を灰のようにまかれる。 主は氷をパンくずのように投げうたれる。だれがその寒さに耐えることができましょうか。 主はみ言葉を下してこれを溶かし、その風を吹かせられると、もろもろの水は流れる。
詩篇 147:2‭-‬18 JA1955
https://bible.com/bible/81/psa.147.2-18.JA1955


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  新改訳聖書を使う福音派、聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)、聖書主義、終末携挙信仰、リバイバル信仰、潜在意識など心理的背景、牧師・教会のカルト化問題、クリスチャン2世問題を扱います。その当事者として信仰的姿勢と現実的姿勢で原因考察とお勧めをしております。
  教派信仰問題の経験者の今後のあり方、信仰と救い、社会性、人生の背景、自立した生き方を探求します。内容が辛らつすぎると思われる方は、自己批判・内部告発とお考えいただきたいと思います。
  NCC日本キリスト教協議会に属さず、JEA日本福音同盟やJPC日本ペンテコステネットワークに加わっている福音派聖霊派教派の自浄作用を期待して記事を書き20年になります。
  他教会の問題であっても福音派を名のることを躊躇するような事がずっと起き続けて終わらないのは、『クリスチャンも罪人』という言い訳で済む問題なのでしょうか?『聖書的』『聖書信仰』と言うだけで、すべて許されるのでしょうか。

この世を支配したい人間と教会は他人の心を殺しますが、
キリストは人の中に住み、傷んだ心に寄り添い、人の心を守ろうとします。
キリストは現実を生きる神なので、そのやり方も現実的です。私達が普段触れるものから、思うこと感じること体験することから、心の自由を得て解放されていくように気づきを与えます。

信仰とはそれぞれの心の動き。
その心が気づき湧き出すものによって生きる力が出てきて、行い、愛する。
小さい日常のことからも感じ気づき、世界や宇宙に現実に見えることも、人の内側の霊と魂のことからも、自分の存在のことや思いを得られる。
過去のトラウマがひどくても、今の気づきで救われる部分が出てくる。
がんばり焦り動くことよりも、自分の心にいつも「今の自分は大丈夫?」と問いかけて心の声を聴く。

生きようと思う心に必ずキリストは答え、
死を考える心にもキリストは答える。
そこに心の真実があるから。

ただ、他人に理解されようとする、他人を理解しようとすると、難しくなって私たちは悩みがちに。

だから悪い教会や宗教は、組織と教義を守り依存することで人間理解や平和を実現したい心理を利用していて、
それでも人として避けられない願望、かくれた野心で絶えず偏向し、自分たちを世を裁く神として『隣人に仕えて神の証しをする』と称して世の覇権を求め、
人の心の自由を奪い、それぞれの小さな祈り願いからキリストを引き剥がし取り上げて、神を歪めて伝えていることを自覚できずに歴史を重ね続けています。
『信仰の正義』を思い込み確信して、人をどこまでも支配しょうとするのを、どの教会でも誰かが意識・無意識に教会組織存続の目的として持ちます。牧師が良くても、役員が支配し、逆もあり、誰かが良くても、他の誰かが支配しようとします。カルト性が濃い教会ほど多くの人が教会の支配を受け入れて他人をそこに入れようとします。

ところが父・キリスト・聖霊は生きてどんな人にも隔てなく接していてすべての人間の側に居るので、そんな教会とは対極です。

だから権威と地位が欲しい教会と教職者は、どの人にも共に居るキリストを、人から引きはがそうとします。今でも典型的なのが福音派の聖書と終末信仰、聖霊派基準の聖霊の満たし聖霊充満です。もちろん、カトリック、プロテスタント、多くの派生宗教にも、教会・役職者・国によって色濃くあることで、深刻な非人道的問題が多い。

これは些細なことですが、35年ほど前に東京のお茶ノ水学生キリスト教会館(福音派の拠点の一つ、現在のOCC)で私が信徒向けのカウンセリング研修を受けていた時、階段ですれ違ったスーツ姿の中年男性が、
『聖書があればカウンセリングなんか必要ない』
と大声で参加者に聞こえるように言っているのを聞きました。その日は日曜ではありませんし、そんな態度のスーツ姿の中年男性は牧師だろうと思いました。視野が狭く横暴な感じだと思いました。

祈れば、父・キリスト・聖霊が人の事情に寄り添うカウンセラーだと分かるはずですが、その男性はそんなキリストには出会っておらず、教会や神学校で教わったことの字面に頼っていたのでしょう。そんな牧師は普通に存在するので、関わるなら自分を守る心構えが必要になります。

神や信仰や愛や聖書の名で、他人の行動を縛るのは不当です。
増してそれが宗教法人や教会・団体ならカルトです。
福音派聖霊派の教会が『赦し』を自分たちだけに都合よく『確信』して、自分たちに甘く、教会や聖書信仰の外を『滅ぶべき肉的な世』だと断じるのは、避けられない人間的願望です。

教条主義、律法主義で
ずっと自分と他人を『罪だダメな奴だ』と非難することが気持ちの安定になってしまう。
なぜなら皆が教会で装っている『罪でダメな人間だと自覚しないと救われない』と信じてしまったから。
それで自分と他人の感性や人間性まで否定して、頑なな聖書主義者になることで居場所を得て『救われた』と言う。

自分が責められている感覚は、教会に限らず、家庭が原因のことも多いです。
他人を非難するのが口癖の親だと子も洗脳されて価値観がそうなり、親がキリスト教と無関係でも、その子が教会に行ったら『原罪』の教義にハメられて囚われ『その通り』と思ってしまいます。一生、自分も他人も罪人だと非難して、時によって自分を責めたり他人を責めたり、悔い改めたり神の赦しを信じたりの繰り返しで、悪いマッチポンプで無限のループです。

「虐待」が信仰の形をして、世代間で受け継がれている教会が確かに存在していて、敬虔を装っています。

子の心や体の自由を奪い、教育や将来のためムチ打つことが聖書的信仰の表れで愛だと信じ、
悪いもの、非難すべき相手を見つけてやっつけ滅ぼしたい願望が巣食い、自分に対しても他人にも懲罰的な発想が普通になり、もう後戻りできません。年月を重ねるほど頭も心もむしばまれ、親は麻痺し、子は心を失います。

地方の事情として、法律・常識・多様性よりもローカルルールが強くて住民が地域性や家系・慣習に心酔しているような場合、そこでは教会もそうなりやすいのでしょうか? あるいは、そのような地方出身者が強力な教会メンバーになることもあるでしょう。会社勤めでやり手と呼ばれたり、地位がある人もそうかもしれません。
地域やグループ内で地位があり我があり自信を持ち発言権がある人ほど危うくて、好ましくないことが起きると、解決を求めるよりも他人に原因と責任をかぶせます。

福音書に出てくる祭司と律法学者のあり様で、そのような宗教者たちが、弱い小さい人に寄り添い癒し希望となっていたキリストを引きはがし、憎悪して会衆と為政者を懐柔して救いであるキリストを十字架につけて殺す。

今、私たちがすがりたい真の友、理解者のイエスは、
教会によって私たちの中で殺され続けていないでしょうか?

こんな現実に置かれて心を何年も支配されたら、抜け出して自由になるのは難しい。
でも、その嘆きや一生の痛みや受けた洗脳を理解して責めず、話しを聞いてくれる、一緒にいて安心できる存在を、
完全で揺るがない愛と寛容と赦しを与える存在を必死に祈り求めると、
教会には居ないキリストがそこには居ます。

責めと義務の縛りが心にあっても、
本来求めた愛を手放さず祈る時に、キリストは居て、人はその存在を感じ、自分の心の願いがこの愛だったこと、本当に願いしたいことがあることを思い出します。

律法的で心の無い罪責感のループよりも、
激しい痛みを感じ、愛と霊のいのちに飢えて祈る繰り返しは、価値があると思います。
まさにキリストが通られて、深く理解している道です。

他人や律法に責められて、他人への答えや態度や行動をする前に、

心に聞いて、段々自分を取り戻すことを。

そこから、自分の外のことを考えるようにする順番を身につける。

キリストが居る場所は、まずは人の内側です。外側だけでなく、まずキリスト共に内側から外をみるようにしたい。


主はナタンをダビデにつかわされたので、彼はダビデの所にきて言った、「ある町にふたりの人があって、ひとりは富み、ひとりは貧しかった。 富んでいる人は非常に多くの羊と牛を持っていたが、 貧しい人は自分が買った一頭の小さい雌の小羊のほかは何も持っていなかった。彼がそれを育てたので、その小羊は彼および彼の子供たちと共に成長し、彼の食物を食べ、彼のわんから飲み、彼のふところで寝て、彼にとっては娘のようであった。 時に、ひとりの旅びとが、その富んでいる人のもとにきたが、自分の羊または牛のうちから一頭を取って、自分の所にきた旅びとのために調理することを惜しみ、その貧しい人の小羊を取って、これを自分の所にきた人のために調理した」。 ダビデはその人の事をひじょうに怒ってナタンに言った、「主は生きておられる。この事をしたその人は死ぬべきである。 かつその人はこの事をしたため、またあわれまなかったため、その小羊を四倍にして償わなければならない」。 ナタンはダビデに言った、「あなたがその人です。イスラエルの神、主はこう仰せられる、『わたしはあなたに油を注いでイスラエルの王とし、あなたをサウルの手から救いだし、 あなたに主人の家を与え、主人の妻たちをあなたのふところに与え、またイスラエルとユダの家をあなたに与えた。もし少なかったならば、わたしはもっと多くのものをあなたに増し加えたであろう。 どうしてあなたは主の言葉を軽んじ、その目の前に悪事をおこなったのですか。あなたはつるぎをもってヘテびとウリヤを殺し、その妻をとって自分の妻とした。すなわちアンモンの人々のつるぎをもって彼を殺した。 あなたがわたしを軽んじてヘテびとウリヤの妻をとり、自分の妻としたので、つるぎはいつまでもあなたの家を離れないであろう』。 主はこう仰せられる、『見よ、わたしはあなたの家からあなたの上に災を起すであろう。わたしはあなたの目の前であなたの妻たちを取って、隣びとに与えるであろう。その人はこの太陽の前で妻たちと一緒に寝るであろう。 あなたはひそかにそれをしたが、わたしは全イスラエルの前と、太陽の前にこの事をするのである』」。
サムエル記下 12:1‭-‬12 JA1955
https://bible.com/bible/81/2sa.12.1-12.JA1955


そして、あなたがたは自分自身が、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれたものであることを、はっきりとあらわしている。 こうした確信を、わたしたちはキリストにより神に対していだいている。 もちろん、自分自身で事を定める力が自分にある、と言うのではない。わたしたちのこうした力は、神からきている。 神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。
コリント人への第二の手紙 3:3‭-‬6 JA1955
https://bible.com/bible/81/2co.3.3-6.JA1955


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  NCC日本キリスト教協議会に属さず、JEA日本福音同盟やJPC日本ペンテコステネットワークに加わっている福音派聖霊派教派の自浄作用を期待して記事を書き20年になります。
  他教会の問題であっても福音派を名のることを躊躇するような事がずっと起き続けて終わらないのは、『クリスチャンも罪人』という言い訳で済む問題なのでしょうか?『聖書的』『聖書信仰』と言うだけで、すべて許されるのでしょうか。

福音派聖霊派の言う『聖書通りの価値観』を持とうとするため、
終末観と罪責感に支えられた『我を忘れ自我を殺す忠実な信仰の型』が信徒の心に大なり小なり存在するので、それを断ち切り、

自分の中に人生の支えを得る必要があります。それが神である父・キリスト・聖霊の導きであり、祈りと交わりで導かれる内容です。

地獄行と終末の裁きと日常の律法主義が混合して刷り込まれ過大な危機意識を子供が持たされ、日常に影響する中でトラウマが増幅される、その『十字架』を抱える宗教1世、宗教2世。主の十字架でななく、人為的に心を殺す死の十字架です。

福音派聖霊派の人たちの人間的な聖書信仰聖霊充満の下にある聖書解釈では、父・キリスト・聖霊との心の自由な交わりができません。

自分が冷静に落ち着ける材料を増やしていく毎日の習慣が必要です。

解放には、トラウマが雪だるま式に増幅される刷り込みを分断し、小さく切り刻める常識と冷静さが毎日必要です。

教会の人間関係の中で飲まされてきた「人の理屈と解釈」のことを『絶対の真理でこれが信仰だ』と言われ強迫され、それがただのローカルルールだったこと、大人たちの思い込みに過ぎなかったこと。

人類の滅びへの大きな危機感は、様々な悲劇の痛みへの共感や関心を生むようにもなりますが、

冷静さと現実感を取り戻して対応しないと具体的に解決しない問題ばかりです。

取り戻すためには、
「自分のほんとうの喜び、人として心に響くもの、やすらぐもの、隣人にも容易く伝わるもの、常識的な感じ方や生活、緊張を忘れるもの」を見つけます。そこにキリストが居られて、そこから導きを始めます。

忠実で真面目な人は、自分の喜びや心に響くものを『福音派聖霊派に言われた福音や聖霊やリバイバルや聖書』に置き換えているかもしれませんが、
それを一旦どこかに置いておいて、自分を客観視できるようになることを目指します。

その切り替えのために大ナタを振るう勇気も必要です。

何を断ち切るべきか?

『罪を断ち切る』『不信仰を断ち切る』とか、『悪魔の誘惑を断ち切る』『世の誘いを断ち切る』とずっと教えられてきた、その教会や牧師の言葉を断ち切る必要があります。

罪責感によって不必要に否定されている常識的な自分を呼び戻して、まずは心の真ん中に据えるのです。それで祈ると、罪の意識で自分はダメだと刷り込まれているのを、段々スルーするように導かれます。

教会の信仰とは関係ない、自分の好み喜び、趣味や楽しみも「恐れずに」安定して心に持っておく必要があります。
行き過ぎてしまった『裁きからの罪責感と過剰な使命感』を、自分から引きはがすためです。
厳しい教会や牧師から止められていたもの、自分で止めていた、自分のための時間や好みのものをあえて取り戻すのです。
日曜に教会に行かないこと、自分を休ませることが第一歩かもしれません。
真面目さゆえにあえてやっていた苦手なものも避けた方が良いです。
『自分を甘やかしている』と思ってしまう責めも、どこかに放り投げましょう。

今まであえて頑張って負っていたものを手放した後に見えてくる、
本来の自分の心が生きることで、
責めや使命や教会牧師の言葉から来ていた動機から、
自分の思う心が満たされる自由に出てくる動機に替えるのです。その方がより以上の動きができます。
悪い福音派聖霊派では『教会が人に負えない行き過ぎた責めや使命感を与えていた』から動けなかったのです。

縛られ囚われていた考え方を捨てようとしても、自動的に感じ考えてしまう過去の使命感や罪責感や感動の感覚が追いすがってくるようにあります。
それは
聖書主義後遺症、弟子訓練後遺症、牧師に服従した後遺症、聖日厳守後遺症、過剰奉仕後遺症、律法主義後遺症、伝道後遺症、大宣教命令後遺症、霊の戦い後遺症、
それらが合併したカルト後遺症であり、
自信喪失、対人不信と対人恐怖、強迫感に脅迫感、罪責感、無力感を福音派聖霊派が世と人に与えるものです。

悪い教会では、心の行き場がなく暴発しているのを隠して細かい感情的な指摘を繰り返す牧師と親と大人たちに追い詰められた子供がいて、心理はさらに深刻な一生の後遺症に。

自分を責め、鞭打ち、罰することを生きる動機にしてしまう悲しい道は、神からではなく、身勝手に道連れを探して引込みたい人間からのものです。


主は言われる、「わが牧場の羊を滅ぼし散らす牧者はわざわいである」。 それゆえイスラエルの神、主はわが民を養う牧者についてこう言われる、「あなたがたはわたしの群れを散らし、これを追いやって顧みなかった。見よ、わたしはあなたがたの悪しき行いによってあなたがたに報いると、主は言われる。 わたしの群れの残った者を、追いやったすべての地から集め、再びこれをそのおりに帰らせよう。彼らは子を産んでその数が多くなる。 わたしはこれを養う牧者をその上に立てる、彼らは再び恐れることなく、またおののくことなく、いなくなることもないと、主は言われる。 主は仰せられる、見よ、わたしがダビデのために一つの正しい枝を起す日がくる。彼は王となって世を治め、栄えて、公平と正義を世に行う。 その日ユダは救を得、イスラエルは安らかにおる。その名は『主はわれわれの正義』ととなえられる。 主は言われる、それゆえ見よ、人々は『イスラエルの民をエジプトの地から導き出された主は生きておられる』とまた言わないで、 『イスラエルの家の子孫を北の地と、そのすべて追いやられた地から導き出された神は生きておられる』という日がくる。その時、彼らは自分の地に住んでいる」。
エレミヤ書 23:1‭-‬8 JA1955
https://bible.com/ja/bible/81/jer.23.1-8.JA1955


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  新改訳聖書を使う福音派、聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)、聖書主義、終末携挙信仰、リバイバル信仰、潜在意識など心理的背景、牧師・教会のカルト化問題、クリスチャン2世問題を扱います。その当事者として信仰的姿勢と現実的姿勢で原因考察とお勧めをしております。
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  NCC日本キリスト教協議会に属さず、JEA日本福音同盟やJPC日本ペンテコステネットワークに加わっている福音派聖霊派教派の自浄作用を期待して記事を書き20年になります。
  他教会の問題であっても福音派を名のることを躊躇するような事がずっと起き続けて終わらないのは、『クリスチャンも罪人』という言い訳で済む問題なのでしょうか?『聖書的』『聖書信仰』と言うだけで、すべて許されるのでしょうか。


今と将来のクリスチャンと社会に資するために、片隅の小さな記録として残しています。
もう、福音派・聖霊派・聖書信仰を標榜するのをやめた方が良いと思っています。

今知っていることから言えば、
もし十代に戻れたら、選ばなかったもの、信じなかったもの、考えずに済んだものがあります。
福音派の教会はうそを信じさせている、と言えます。

心の健康をどん底まで落として、ここまで自分を打ちのめしたもの、
それは福音派・聖霊派・聖書信仰からの
隣人・人類救済の使命感と
自分を責めて否定して
『聖書のみことば通り(福音派・聖霊派の解釈による真理通り)にすれば救われる』
という勝手な条件を付け足された福音・信仰の道です。

「キリストの名を呼び求めれば誰でも救われる」のに。

『罪による永遠の死が神の裁き』と言われて、
自己否定が人間関係の中で刷り込まれていると、自分以外は皆正しく思えて些細な言葉に過剰に反応したり焦ったり、
牧師と教会の言いなりなったり、依存したり、単純に信じてしまいます。

聖書通りの教会、聖書を信じる教会、と標榜しているのに、実現しているかのようにふるまうことがウソと言えるところです。
『世のやり方から離れた、みことばと神の愛による教会運営』『唯一の救いに伴う聖霊のわざ・癒し』『神に選ばれた教会の使命』など、うたい文句通りを実現している教会は一つも無く、
証しといってもかなり部分的で明暗があってまだら模様に見え、
『悔い改めと信仰によって』という言い訳でごまかしているように見えます。

『信仰によって』『聖書的』
と言葉を使って毎日ルーティンの決められた悔い改めと聖書通読と祈りのやり方を欠かさず、日曜には教会に行けば、永遠の命が約束され死後天国に行くか、生きたままでキリストに空中へ携挙される。

こんな日常と、教えの繰り返しで段々自我を殺されて洗脳が効くことで人生が行き詰まり、
悩んで『自分の罪』『不信仰』のせいだと、自虐マッチポンプのルーティンの繰り返しです。そのくせ教会でどんなことが起きても『キリストが罪の身代わりに死んで赦した愛によって、互いに赦して寛容になることが聖書的』と言って服従させ、教会や社会生活について常識的な思考を停止させます。

カルト化を起こした牧師や原因について
『信仰的聖書的熱心が過ぎた』という言い訳で終わらせているのに、

信徒には、『本来罪人なので愛も一致も自由も無い』と自覚させて、
罪意識を植え付け、社会と非信者を断罪し敵視させ、
愛の名の下に回復・挽回を果たしたい心に使命感を与えて悔い改めを習慣化して繰り返させて、さらに奴隷化します。
その使命感の教えは牧師・教会の勝手な聖書的信仰的愛・一致・自由の妄想です。その教会が与えた希望は空しくかなわず、焦りとなり、更なる根性論・精神論に落ち込みます。
これはカルト化で、心の支配・虐待です。教会とは言えないことをしています。

頭が整理されてすっきりして心が軽くなることが信仰ではありません。一時のそんなことで『これが本物の信仰だ』と執着すると罠にかかり、出られない穴に落とされます。
狭いコミュニティの小さい会社、家族でもよく起きています。
悪い教会は勝手な聖書解釈に従い『霊魂の永遠の居場所が天国か地獄かの選択が信仰だ』と脅して人の運命を縛り支配し、
人生の自由な選択や経験からの学びの芽をつみ取り、さらに教会と牧師の支配が一生続けば学びと成長はありません。
自由を奪われ、罪意識と教会への服従に縛られた自分のために、深い葛藤の感情の長城ができてしまい、周りの他人に不自由と傷を分かってほしい思いが深層にありつつ、当然の回復願望があり、長く続けば復讐心や恨みや攻撃的な感情さえ芽生える。
それは神に裁かれる罪などでは決してなく、
聖書を用いた暴力と言える支配と虐待の副作用で、全く不必要な経験です。
忍耐とか寛容を求められたり試練だとか言われる筋合いの全く無いものです。
厳しい教会では1世も宗教2世もそうです。

自分のための自由な選択と経験は、キリストにあっては豊かで確かな学びの実になります。学びや実になる試練とか忍耐とか寛容は、体験でこそ意味があり、外からではなくキリストが住む内から湧くものです。

聖書は神の言葉が書かれていますが、
それは聖書の中で、その時を生き祈り選択している人間に対して言われている言葉であり、
今も生きる神の意図は、今の私たちにも語りかけられ、内側に思いを与えられます。
聖書はそのような「人間のための記録」とも言えます。

悪い教会では、
表面的な言葉で思いやりばかりを求められた

機嫌をとるために共感してきた

思いやりとか親切とか寛容赦しにだけ門が開かれて、そこでしか生きられず、
他人のことを感じ過ぎている、という位、愛を目指していた

それは強みというより、心が引っ張られ、教会の理想像に憑依したようでもあり、乗っ取られているかのようで

他人の問題を何でも受け容れ、
赦そうと心が走り、
愛だと思ってがんばっている、
それで相手が言っていないことまで考えて感じて、自分のことより外からの情報ばかり溢れて心に負担をかけ過ぎている

【依存的で他責の悪い大人が、支配的な牧師や信徒たちであり、そこに迎合するのが果たして信仰なのか】

実態は身勝手な大人の甘え、妥協、劣情であり、

そんなものでできている教会は淡々と切り離すべきで、心に負担をかけてはいけないのです。

私たちの本来の強みは忍耐なのか?…そうではないので、それを止める。
目の前の事実だけを見て、愛や受容や赦しや本来の豊かな感情をそんな教会では使わないようにする。

感情は自分のために取って置き、自分のために使うことで心が強くされます。それはただの甘やかしではなく。

与える愛アガペの愛は、神が人を立たせようとして導くための愛。
絶望した人が人生を求めて神を求めると、神はその人の中のその人らしさを良く見て、その人の心が生きるように導きます。
それで私たちに真の愛が分かります。
それぞれの人に分かるように、それぞれの生活と言葉と思いを、それぞれに導くのが神、父・キリスト・聖霊です。


わたしの兄弟たちよ。このように、あなたがたも、キリストのからだをとおして、律法に対して死んだのである。それは、あなたがたが他の人、すなわち、死人の中からよみがえられたかたのものとなり、こうして、わたしたちが神のために実を結ぶに至るためなのである。

しかし今は、わたしたちをつないでいたものに対して死んだので、わたしたちは律法から解放され、その結果、古い文字によってではなく、新しい霊によって仕えているのである。
ローマ人への手紙 7:4‭, ‬6 JA1955
https://bible.com/bible/81/rom.7.4-6.JA1955


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真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために
  新改訳聖書を使う福音派、聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)、聖書主義、終末携挙信仰、リバイバル信仰、潜在意識など心理的背景、牧師・教会のカルト化問題、クリスチャン2世問題を扱います。その当事者として信仰的姿勢と現実的姿勢で原因考察とお勧めをしております。
  教派信仰問題の経験者の今後のあり方、信仰と救い、社会性、人生の背景、自立した生き方を探求します。内容が辛らつすぎると思われる方は、自己批判・内部告発とお考えいただきたいと思います。
  NCC日本キリスト教協議会に属さず、JEA日本福音同盟やJPC日本ペンテコステネットワークに加わっている福音派聖霊派教派の自浄作用を期待して記事を書き20年になります。
  他教会の問題であっても福音派を名のることを躊躇するような事がずっと起き続けて終わらないのは、『クリスチャンも罪人』という言い訳で済む問題なのでしょうか?『聖書的』『聖書信仰』と言うだけで、すべて許されるのでしょうか。

キリストがありのままの人の心に手を入れて支えるから、人はその平安のある変化を感じ、現実にキリストが伴う愛を感じて、悔い改められるし、生きられます。

自分に共感して心配して寄り添って助言してケアしてくれるキリストに共感して、自分に自分で寄り添い静まって自分をよく見ることで、受け入れられる愛と導きです。

「信仰の悔い改め」の意味は神に向くこと。
行いを改めるのは、人が神と人格同士として出会って向き合った結果の心と発想の必然。人間的努力だけの結果ではなく、どんな悪い部分も良い部分もキリストと共有する決意で祈る結果だと思います。
結果は一生で変化していって出てくるもので、
神に向いていなければ重荷を一人で背負うことに。

自分をクリスチャンだと思っても、心がキリストに向いているかどうか分からず考えず意識していないと…

教会に行くことが悔い改めや信仰の表れではないこと。

教会は神に向く人の集い。

『教会に行くこと』で神に心が向いている証拠にはならない。

神に向くとは、自分を認めて個人的に委ね、どう生きたら良いかキリストに聞き、導きを乞うこと。

無意識の感情の反応で悪い何かに引っ張られる自覚があればそこから離れられます。

でも自覚できずに流されると、原因より感情、もっと悪いと正義感や使命感に転嫁されて行き過ぎ、苦しさと行き詰まりの処理が難しい。これで認知の歪みを起こすパターンがあります。

神の正義と他人の救いのために、自己犠牲と自己否定を教えられ何年もずっと繰り返され、自分を労ることが一生できず、自分も他人も責め続ける悪いパターンの熱心な信仰の姿です。

人によっては、罪意識と救いからもれる恐怖から細かいことが気になって、意識・関心が引っ張られることが、心の大きな負担になります。
いろいろ気になって気が散って事が進まないことも多く、それも2世は子供の頃からずっと苦しんでいます。

様々な感情が起こり邪魔されるのもその一つかもしれません。
実は感情の問題に気を取られ過ぎると、出口が分からなくなって何を思っていたかも分からなくなって。
感情が過去と今の何に対してスイッチが入って、何のきっかけによって無意識に恐れがフラッシュバックするのか、感情的になると判断できず、他人のせいにしたりもあります。

でも細かいことが気になるのを、焦って否定せず、大きな目標事を進ませる方向に利用するように意思を持つことで力になることも。

すべてを一気に解決するのは難しいので、大まかな常識的なこと、だいたい妥当な目標が見えれば良しとして、
細かいことに引っ張られる自分の中でも、
結局大きな望みは何なのかを見つけること、奥底の平安がある信じられるものかの方が大事で、そこに集中すべきと分かれば、

感情の暴走は、大きな原因を大まかにつかめて納得して、今と切り離せれば楽になります。


自分の内面に正直に、胸を張って正面から望める価値ある関係、共有できる信じられるもの。
人の本来的な希望を叶えるものをいつも見抜いて、そのためにできること、アイデア、妥協してなくても手に入るものを見つけるように。

自分の本望と、どの人にも価値ある信じられるものを見分けること。傷の反応というより心の奥底の本来の願いを見つけて自分を満たしてあげられるものを探して。

祈りの導きはそういうもの。
本来的に欲しいものは、
目に見えるものそのものではなくて、
代わりに満たされそうなものに振り回されることも多いから、
正面から向き合う。
自分にも、他人にも。

神に向き合おうとして、うまく行かないのは、本来の自分や今の本当の自分を知らないからか、逃げようとしたり、見ないようにしているからかもしれない。痛みも希望も、自分だけの感じ方で他人に言えないものがあるものだから。

生きるために心が本当に欲していることを直視できるように求める。

それが祈り。

祈りでキリストと対話し自分と対話して、
本来の自分を見つけて、
自分のために、回り道、迷い道にいることを見抜いて、
見た目だけの良さや的外れな願望と周りに合わせて曲げている心の正義を、自分のために自分を、
取り戻す気づきがあるはず。


わたしは常に主をほめまつる。そのさんびはわたしの口に絶えない。 わが魂は主によって誇る。苦しむ者はこれを聞いて喜ぶであろう。 わたしと共に主をあがめよ、われらは共にみ名をほめたたえよう。 わたしが主に求めたとき、主はわたしに答え、すべての恐れからわたしを助け出された。 主を仰ぎ見て、光を得よ、そうすれば、あなたがたは、恥じて顔を赤くすることはない。 この苦しむ者が呼ばわったとき、主は聞いて、すべての悩みから救い出された。 主の使は主を恐れる者のまわりに陣をしいて彼らを助けられる。 主の恵みふかきことを味わい知れ、主に寄り頼む人はさいわいである。 主の聖徒よ、主を恐れよ、主を恐れる者には乏しいことがないからである。 若きししは乏しくなって飢えることがある。しかし主を求める者は良き物に欠けることはない。 子らよ、来てわたしに聞け、わたしは主を恐るべきことをあなたがたに教えよう。 さいわいを見ようとして、いのちを慕い、ながらえることを好む人はだれか。 あなたの舌をおさえて悪を言わせず、あなたのくちびるをおさえて偽りを言わすな。 悪を離れて善をおこない、やわらぎを求めて、これを努めよ。 主の目は正しい人をかえりみ、その耳は彼らの叫びに傾く。 主のみ顔は悪を行う者にむかい、その記憶を地から断ち滅ぼされる。 正しい者が助けを叫び求めるとき、主は聞いて、彼らをそのすべての悩みから助け出される。 主は心の砕けた者に近く、たましいの悔いくずおれた者を救われる。 正しい者には災が多い。しかし、主はすべてその中から彼を助け出される。 主は彼の骨をことごとく守られる。その一つだに折られることはない。 悪は悪しき者を殺す。正しい者を憎む者は罪に定められる。 主はそのしもべらの命をあがなわれる。主に寄り頼む者はひとりだに罪に定められることはない。
詩篇 34:1‭-‬22 JA1955
https://bible.com/ja/bible/81/psa.34.1-22.JA1955

地よ、主のみ前におののけ、ヤコブの神のみ前におののけ。 主は岩を池に変らせ、石を泉に変らせられた。
詩篇 114:7‭-‬8 JA1955
https://bible.com/ja/bible/81/psa.114.7-8.JA1955

そしてナザレを去り、ゼブルンとナフタリとの地方にある海べの町カペナウムに行って住まわれた。 これは預言者イザヤによって言われた言が、成就するためである。 「ゼブルンの地、ナフタリの地、海に沿う地方、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤ、 暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、死の地、死の陰に住んでいる人々に、光がのぼった」。
マタイによる福音書 4:13‭-‬16 JA1955
https://bible.com/ja/bible/81/mat.4.13-16.JA1955


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真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために
  新改訳聖書を使う福音派、聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)、聖書主義、終末携挙信仰、リバイバル信仰、潜在意識など心理的背景、牧師・教会のカルト化問題、クリスチャン2世問題を扱います。その当事者として信仰的姿勢と現実的姿勢で原因考察とお勧めをしております。
  教派信仰問題の経験者の今後のあり方、信仰と救い、社会性、人生の背景、自立した生き方を探求します。内容が辛らつすぎると思われる方は、自己批判・内部告発とお考えいただきたいと思います。
  NCC日本キリスト教協議会に属さず、JEA日本福音同盟やJPC日本ペンテコステネットワークに加わっている福音派聖霊派教派の自浄作用を期待して記事を書き20年になります。
  他教会の問題であっても福音派を名のることを躊躇するような事がずっと起き続けて終わらないのは、『クリスチャンも罪人』という言い訳で済む問題なのでしょうか?『聖書的』『聖書信仰』と言うだけで、すべて許されるのでしょうか。


一緒に暮らすことで相手のことが分かるとよく言われます。
犬や猫も飼い主と暮らして人を知り、人への愛情と欲求の素直な反応を喜び飼い主は世話をします。

私の中に素直さが絶えず出ていれば、と思います。キリストの愛と癒しが満たされて溢れるのはいつだろうと。
人生への恐れが心を塞ぎ、みんな頑張って張り合って戦って働くのが世の中

愛とか優しさとか素直さは後回しにしがちだから、いつも回り道に

クリスチャンとして良い証をしよう、罪から離れようと頑張っていると、それも回り道

キリストが優しく包み赦し癒そうとしていても、
遠くまで頑張って回っていると、キリストのところに戻るのは大変。

心がキリストのところに行く前に、傷つき、戻る道が見えなくなることは多い。

愛と優しさを第一にしたことで現実に裏切られて深く傷ついて立ち直れないこともある

そんな現実は大変。

フットプリントの話のように、回り道で傷ついてキリストが見えず孤独でも、実際はキリストは離れず共にいて私たちを背負っています。
ただ、キリストが分からない見えないという苦痛の真っ只中は、地獄のように感じて。

クリスチャンでも、献身しても、2世の困難を負っても、現実に世に出ればただ頑張るしかない場面があります。

そこで痛みや聖書的と称した律法的洗脳で逃避的だった盲目になってしまっていた目を開いて、現実の世界でもみんな痛みの中でお互いを赦し、自分の現状でなんとか自分を認めて動かして生きているのを知る。

その時時の痛みに応じて耐えられる分、また耐えられるか分からない恐怖の現実に、キリストは降りてきて一緒に走ってくれる。

痛みの只中でキリストが見えるようになれば、そこは回り道ではなく、力の源泉になります。
私たちは、キリストのようにこの世に産まれて、現実の中で、キリストと共にいて、生きる。

痛みから逃れるためにと、『信仰』『聖書』の名で非現実的に飛躍しすぎて、ずっと現実から逃れ続ける選択を促す教会は、人を教理に縛りがち。

キリストに会うための教会は、現実に生きて現実に伴うキリストのあり方を、祈りの中で見つける手助けをする、と思います。

『自我に死ぬ』よりも、「自我を自認する聖化成長と内に与えられ起こされた思いと賜物の調和」を目指し促す。
というのは、罪は地上でも人の中でも決して無くならず、その現実と限界をキリストは知っていて共に居てそれを見ていて、その中で発揮される愛や賜物や発想・行動の気づきとその部分の肯定と成長を促している、と思うのです。


わたしの兄弟たちよ。このように、あなたがたも、キリストのからだをとおして、律法に対して死んだのである。それは、あなたがたが他の人、すなわち、死人の中からよみがえられたかたのものとなり、こうして、わたしたちが神のために実を結ぶに至るためなのである。 というのは、わたしたちが肉にあった時には、律法による罪の欲情が、死のために実を結ばせようとして、わたしたちの肢体のうちに働いていた。 しかし今は、わたしたちをつないでいたものに対して死んだので、わたしたちは律法から解放され、その結果、古い文字によってではなく、新しい霊によって仕えているのである。 それでは、わたしたちは、なんと言おうか。律法は罪なのか。断じてそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。すなわち、もし律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう。 しかるに、罪は戒めによって機会を捕え、わたしの内に働いて、あらゆるむさぼりを起させた。すなわち、律法がなかったら、罪は死んでいるのである。 わたしはかつては、律法なしに生きていたが、戒めが来るに及んで、罪は生き返り、 わたしは死んだ。そして、いのちに導くべき戒めそのものが、かえってわたしを死に導いて行くことがわかった。 なぜなら、罪は戒めによって機会を捕え、わたしを欺き、戒めによってわたしを殺したからである。 このようなわけで、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである。 では、善なるものが、わたしにとって死となったのか。断じてそうではない。それはむしろ、罪の罪たることが現れるための、罪のしわざである。すなわち、罪は、戒めによって、はなはだしく悪性なものとなるために、善なるものによってわたしを死に至らせたのである。 わたしたちは、律法は霊的なものであると知っている。しかし、わたしは肉につける者であって、罪の下に売られているのである。 わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。 もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる。 そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。 わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。 すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。 もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。 そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。 すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、 わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。 わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。 わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。
ローマ人への手紙 7:4‭-‬25 JA1955
https://bible.com/bible/81/rom.7.4-25.JA1955


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  教派信仰問題の経験者の今後のあり方、信仰と救い、社会性、人生の背景、自立した生き方を探求します。内容が辛らつすぎると思われる方は、自己批判・内部告発とお考えいただきたいと思います。
  NCC日本キリスト教協議会に属さず、JEA日本福音同盟やJPC日本ペンテコステネットワークに加わっている福音派聖霊派教派の自浄作用を期待して記事を書き20年になります。
  他教会の問題であっても福音派を名のることを躊躇するような事がずっと起き続けて終わらないのは、『クリスチャンも罪人』という言い訳で済む問題なのでしょうか?『聖書的』『聖書信仰』と言うだけで、すべて許されるのでしょうか。


キリストにどんな時も会えるのを楽しみにする、これを忘れずに過ごしたいですね。

キリストがトラウマになるような教会にいると、
会えない、話せない、遠いと思ってしまうことがあります。
心で気を張って頑張って生きていると、心の休ませ方が分からなくなることもあって余計に。

キリストが「癒されたいか?」と聞かれ、「休ませてあげよう」と言われているように、

「いまあなたは回り道にいて、焦り頑張り過ぎて心が迷っていませんか?」
とキリストはすべての人に言っているのでは、と思います。

聖書によれば、誰でも直接キリストを呼べば、自然に信頼できるように聖霊の風は吹きます。
もう自分の中にキリストは居て、応えて、「あなたを包もうとして待っている」と。

教会に何を期待する?
そもそもキリストに会いたくて教会に来る人の方が稀なんでしょうか?
キリストに会えるなんて、おかしいですか?

教会が厳しくて、信仰と不信仰と滅びの裁きを勝手にして、人を区別しているなら、
キリストさえも厳しく思えて苦いなら、
すぐに教会を出て距離をとって関わりを切りましょう。
教会・牧師から『キリストに会いたいなら、ここにいなさい』と言われても、その教会から出ていきましょう。

そんな教会から心も体も離れて聖書を読むと、内に居るキリストの声を聞くことは難しくはないはずなのです。
まず自分の内側からの思い願いに敏感になって、自分を思いやる、喜ぶこと。
それと同じようにキリストが居るを喜ぶ。それだけ。

塩味のきいたことばとかを簡単には真似できませんが、
内側からの声がそれでしょう。
内側からの声には、自分の声とキリストの声があって、違いはあっても、キリストが自分の中の誰にも言えない深い声を理解して共にいると思えることが大事です。
自分の内側の声をキリストは否定せず全部聞いています。私たちが蓋をしようとしていることも、自分を傷つけてきた事実・真実、傷、勘違いや誤解、恨み、喜び、全部、
痛みも重荷も
願いも望みも期待も。
キリストは私たちの心を生かそうとしていて、私たちを形づくろうとしていて、期待が起きている思いの中に、私たちを生かすものがあります。

断食すると祈りやすくなる、神様を近く感じて語りかけがあると言いますが、
でもずっとは断食できません。

神様を感じたいと心から願うと、心の断食や心のデトックスに入るような状況になるのかもしれません。
普通の日常で、自分の中で、自分にも外界にも苦痛と責められる圧迫を常時感じていて、祈らないと一瞬もやっていけないからこそ。
蓄積されたトラウマ、そこからの意識無意識の反応・過敏さ・フラッシュバックがある中で。
この人生を望むか望まないかは自由なんでしょうけど、
カルト化の洗脳がされた人間味のない教会生活と聖書信仰の律法でそもそも心が渇き、それも運命だと思い、苦しくても神様を感じたいと願う。
祈った後の変化の中でも本当に苦しく、心では普通の生活がしたいと叫び、でも深層では神様に会うほうが願いが勝っている。

日常の人間関係も、
教会の礼拝、集会も、
キリストが居る自分の心を満たすのかどうか、そこが見分ける鍵だと思います。
その場に居て、

内なるキリストの喜びと、同時にキリストが導いている学びがあることを感じ取るのか(苦しみはすぐには去らないとしても)。

自分の苦しみに加えて、キリストの沈黙、無や空しさ、厳しい裁き責めを感じるのか。

自分を喜び生かす方向に向かいましょう。


この日、ふたりの弟子が、エルサレムから七マイルばかり離れたエマオという村へ行きながら、 このいっさいの出来事について互に語り合っていた。 語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。 しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった。 イエスは彼らに言われた、「歩きながら互に語り合っているその話は、なんのことなのか」。彼らは悲しそうな顔をして立ちどまった。 そのひとりのクレオパという者が、答えて言った、「あなたはエルサレムに泊まっていながら、あなただけが、この都でこのごろ起ったことをご存じないのですか」。 「それは、どんなことか」と言われると、彼らは言った、「ナザレのイエスのことです。あのかたは、神とすべての民衆との前で、わざにも言葉にも力ある預言者でしたが、 祭司長たちや役人たちが、死刑に処するために引き渡し、十字架につけたのです。 わたしたちは、イスラエルを救うのはこの人であろうと、望みをかけていました。しかもその上に、この事が起ってから、きょうが三日目なのです。 ところが、わたしたちの仲間である数人の女が、わたしたちを驚かせました。というのは、彼らが朝早く墓に行きますと、 イエスのからだが見当らないので、帰ってきましたが、そのとき御使が現れて、『イエスは生きておられる』と告げたと申すのです。 それで、わたしたちの仲間が数人、墓に行って見ますと、果して女たちが言ったとおりで、イエスは見当りませんでした」。 そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。 キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。 こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。 それから、彼らは行こうとしていた村に近づいたが、イエスがなお先へ進み行かれる様子であった。 そこで、しいて引き止めて言った、「わたしたちと一緒にお泊まり下さい。もう夕暮になっており、日もはや傾いています」。イエスは、彼らと共に泊まるために、家にはいられた。 一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、 彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。 彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。 そして、すぐに立ってエルサレムに帰って見ると、十一弟子とその仲間が集まっていて、 「主は、ほんとうによみがえって、シモンに現れなさった」と言っていた。 そこでふたりの者は、途中であったことや、パンをおさきになる様子でイエスだとわかったことなどを話した。 こう話していると、イエスが彼らの中にお立ちになった。〔そして「やすかれ」と言われた。〕 彼らは恐れ驚いて、霊を見ているのだと思った。 そこでイエスが言われた、「なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起すのか。 わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」。〔 こう言って、手と足とをお見せになった。〕
ルカによる福音書 24:13‭-‬40 JA1955
https://bible.com/bible/81/luk.24.13-40.JA1955



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  他教会の問題であっても福音派を名のることを躊躇するような事がずっと起き続けて終わらないのは、『クリスチャンも罪人』という言い訳で済む問題なのでしょうか?『聖書的』『聖書信仰』と言うだけで、すべて許されるのでしょうか。


キリストは、
私たちのひとりひとりが神の宮だと言いましたし、
いつでもどこにいても、
キリスト・聖霊は私たちから離れません。

キリストはこの世に生まれ、人として生きる間も、
十字架上でも、刑場に引かれていく間も、死に黄泉に下る時も、
今の私たちのことをご存じだったはずです。

私たちなら、そのあまりの痛みに神を呪ったはずですし、今抱えている問題でもそうです。
キリストはその痛みにまみれ惨めな姿になり実感し、今の私たちを理解し、赦し、その痛みを覚えていて、今も私たちに寄り添います。
キリストは痛みにまみれ蔑みを実感してなお正義と愛を貫く唯一の人であり神です。彼には罪がありません。しかし人の罪と弱さを理解でき、共にいて離れないのです。そして、永遠に共にいます。それが神の愛です。

私たちは最早、
「今ある教会は人間が考えて組織しているもので、聖書が示すキリストを頭とする霊的な教会とは別のものだ」
と考えた方が良いのでしょう。

聖書、キリストに触れる場として、どんな形でも教会があることは無意味ではありません。
でも、キリストが今も生きて私たちの心に絶えず居て、私たちと語り合う方であることを私たちが実感したいと求めても、
それを教会が教えず、教会堂に来ている人同士がそのことを語り合わず、頭の知識で他人の『証し』奇跡の体験、字面の聖書物語や掟ばかり互いに言い合うだけなら…。
『証し』はその個人の体験の中で他人に言える一部分に過ぎません。
実際、聖書の字面の話と牧師や誰か他人の話が多くて、人の言葉がとにかく目立ちます。

誰にでもあてはまる霊的、普遍的な生けるキリストとの交わりは、内面的なものなので内容を言えることは少ないです。
ただ、キリストと語り合っています、というお互いの認識、共有する喜び、普遍的な黙っていても一致するキリストの伴いのことが分かればいいのでは?
静かな霊の深みは、言葉より、平安や思いに感じるものです。人としての不安や恐れの中でも、確かにどこにも行かない動かない心の光があることが分かれば良いのです。

教会堂に来ている人たちと、来ていない人たちに、
今ある教会組織とは別の、
「キリストの御身体の霊的な教会」を紹介する伝道が必要なのだと思います。

今、2000年前の教会を肉眼で見た人はどこにも居ません。
今、牧師がそれらしく聖霊の働きや霊的一致のことを語っても、実際には牧師は知らない。そんな牧師の方が圧倒的に多いのかもしれない、と伝えなければならない程、来た人は迷うばかりになってしまっていて。


人に住むキリスト・聖霊が、
目に見えるものばかりに囚われている私たちに、
なんとか少しずつでも理解させようとしています。

複雑な事ではなく、単純に心の真実を、痛み悲しみ苦しみ喜び憩いの中身を子どものように訴えれば、キリストがすでにその心を包み癒しはじめる事実を理解させようとしています。

2000年前からキリストは単純にどの人にも寄り添い、人の単純な思いと願いを漏らさず聞いていて、必ずそばに共にずっと寄り添っています。

だからキリストと聖霊は私たちのために的確にとりなしができ、神はキリストの十字架によって赦し、正しい裁きをします。

複雑なことは何もありません。単純に今、心の中をキリストはすべて知っていて離れず居て絶えずとりなし、神は赦し、神と共に居ることが人の正しい生き方だと人生を導くだけです。

でも教会の律法主義(聖書信仰、聖霊充満など)にとらわれた人ほど、それが見えなくなってしまい、神が恐怖になります。
子供の頃に真面目に聖書主義(律法主義)に囚われると、現実に大人になるほど複雑に考えて、自分や他人を責めて、いろいろ考えて他人に『自分の正しさは何か』を訴えたり、絶望したりを繰り返します。
教会堂には神ご自身について知識を正したり誤解を解き癒したりする人が少なく、逆に恐怖を利用してコントロールしたり商売したり、欲が凝縮して社会よりもっと悪い支配で人生が奪われるブラック化カルト化さえ起こります。

キリストご自身を紹介してくれるのは、聖書と聖霊ですが、
教会で聖書と聖霊の理解が歪められたらどうするのでしょう。
カルト化教会脱出者なら、よく教会の現実を知っています。

例えば『この世では患難がある』と聖書で読んで、「クリスチャンだから患難がある」と大声で言う。
でもクリスチャンでなくても正しいことをする人に試練はありますし、
悪いこと、常識外のことをしている人に、当然に非難はあります。
クリスチャンが正しいか悪いのか常識外れなのか、よく考える必要は当然あります。聖書を読んでいるからその人が正しいとは限りません。逆に常識的良心から外れていて非難されても、それを受け付けない牧師やクリスチャンがたくさんいます。世の中と全く同じです。
『すべてが新しくなった』と言い、
『教会に来ないと、守られず、信仰は無くなる』と言う。
日本人は規範意識が高いと言われますが、
それを利用して、聖書信仰を笠に着て思い通りコントロールしたりされたりして、非社会的で常識外のことをさせられようとしていませんか?

教会の教えが人をコントロールして、神に会えないなら、
私たち自身で、生けるキリストと会い、
それでキリストに赦され導かれて出会う人や事で励まされ支えられ、自分の内面を様々に発見して問題からの解放が導かれ、他人への助言ができるようになり、教会の外で互いの存在やそれぞれの祈りの道行きによって教えられるようになります。

クリスチャン不信は根強いけれども、本当にキリストと日々交わっている人とは出会いたい。
そんな風に世代を越えて求める続けて、真の教会は見えてくるものかもしれません。
キリストを愛し求める人は皆、真の教会を心の底から求めて、深層で魂がうめいています。


パリサイ人のひとりで、その名をニコデモというユダヤ人の指導者があった。 この人が夜イエスのもとにきて言った、「先生、わたしたちはあなたが神からこられた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、だれにもできはしません」。 イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。 ニコデモは言った、「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」。 イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。 肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。 あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」。 ニコデモはイエスに答えて言った、「どうして、そんなことがあり得ましょうか」。 イエスは彼に答えて言われた、「あなたはイスラエルの教師でありながら、これぐらいのことがわからないのか。 よくよく言っておく。わたしたちは自分の知っていることを語り、また自分の見たことをあかししているのに、あなたがたはわたしたちのあかしを受けいれない。 わたしが地上のことを語っているのに、あなたがたが信じないならば、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか。 天から下ってきた者、すなわち人の子のほかには、だれも天に上った者はない。 そして、ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。 それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」。 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。 神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。 彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。 そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。 悪を行っている者はみな光を憎む。そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない。 しかし、真理を行っている者は光に来る。その人のおこないの、神にあってなされたということが、明らかにされるためである。
ヨハネによる福音書 3:1‭-‬21 JA1955
https://bible.com/bible/81/jhn.3.1-21.JA1955


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真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために
  新改訳聖書を使う福音派、聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)、聖書主義、終末携挙信仰、リバイバル信仰、潜在意識など心理的背景、牧師・教会のカルト化問題、クリスチャン2世問題を扱います。その当事者として信仰的姿勢と現実的姿勢で原因考察とお勧めをしております。
  教派信仰問題の経験者の今後のあり方、信仰と救い、社会性、人生の背景、自立した生き方を探求します。内容が辛らつすぎると思われる方は、自己批判・内部告発とお考えいただきたいと思います。
  NCC日本キリスト教協議会に属さず、JEA日本福音同盟やJPC日本ペンテコステネットワークに加わっている福音派聖霊派教派の自浄作用を期待して記事を書き20年になります。
  他教会の問題であっても福音派を名のることを躊躇するような事がずっと起き続けて終わらないのは、『クリスチャンも罪人』という言い訳で済む問題なのでしょうか?『聖書的』『聖書信仰』と言うだけで、すべて許されるのでしょうか。

孤立、痛み、自己否定、自分を責め続ける心の自傷、
奥底まで他人に手を入れられて干渉され責められた記憶、

子どもから大人へと自立する反抗期もなく
人格批判や人格否定を忠実に受け入れて、他人に左右され失った自分の存在感を
揺るがない自己確立にするには

どこまで行っても自分の存在の肯定ができるまで、
いろんなことに平気になるには

批判や罪責にも動じず、冷静に判断して、
他人主導ではなく、
主導権を取って自分の判断で考えて言葉にして動く、
その当り前の主体性を持って良い、そこから動かず、離れないように

不安耐性を持つために、できるだけ状況をそのまま淡々と俯瞰、客観視して、
不必要に過剰に深刻にとらえず、何でも自分のせいや自分の問題にせず、
自分を保ち、人としてとして妥当なことを考え、

余裕がなければ、抽象的にとらえて記憶し、時を待つ。
余裕がない時には、あれこれ考えこまず、
余裕がない時には、先読みせず対策せず、

他人の言葉を深く重く自分に入れず、
敏感に他人の感情に配慮して自分を深い愛の人として動かすようなことをせず、
すべてが神キリストの手と心の中にあることを知り、
ただ自分を肯定して、外からの要求や情報のすべてを飲み込まない。

やる気スイッチで同時に起動する、義務の強迫モード、失敗の脅迫モード、律法裁きモードを削除して
やる気スイッチを違うものに、自分だけにとって良い希望の成功・肯定イメージのスイッチに交換する(根拠は無くても自分の希望を楽しみに優先する)。
『信仰は目に見えないもの』と言われて、目を閉ざしてきた自分の思いを復活させて、自分を褒めずに頑張った実績を認めて豊かな経験にするスイッチで生きる。

生育歴でけなされ教会の訓練で自己否定を身に着けて、
日常でも、やる気スイッチと一緒に自己否定が起動していた

この異常さの原因は、教会親兄弟が与えてきた罪意識、モラハラ
毎週説教で罪意識を植え付け
心の深層に毎日曜日分、年数分、積もりに積もっています。
見極め、教会ごと牧師ごとにその終焉を願い、自分の行動をするようにしましょう。

バプテスマのヨハネはキリストを指し示して、自分はつなぎに過ぎずキリストが来たら衰え消えゆくもの、と言いました。しかし、キリストよりも前に出てくる牧師は盛んに自分の言葉を指し示します。キリストを知らず上辺の言葉でしか説明できないから、ますますそうなります。

キリストに会うことだけが大事なことです。
会うにはどんな状態からでも、ありのまま祈りで心をキリストに向けるしかありません。分からなくてもキリストと心で会うことを求め続ける以外にありません。キリストが私たちの中身とやってきたことのすべてを知っていて認めてキリストの中に受け入れてくれます。そこからの肯定を受け取っていきましょう。

支配・虐待・否定されて心で血を流し続ける傷の痛みで見る世界で自己否定に押し込められた視点と、

それぞれの存在を肯定的に確かに認められた正常な世界の視点には、

宇宙の距離ほどの隔たりを感じますが、

ふと自己肯定に戻る瞬間を求めて私はキリストに祈ります。

異常な支配の終焉を祈り、頭を切り換えて行動したいと願います。

カルトとは、
他人のあり方を否定し破壊し、
新たな評価や法則を売り込もうとするものです。

カルトは自分たちの価値観だけを押し通し、他人がその価値観を受け入れて自己否定をすれば取り込んで服従させます。他人の人格の境界線を取り払い侵入し支配します。

カルトは一人孤立では存在できず他人を巻き込み依存しあいます。
ブラック企業も毒親も同じことをします。
彼らの価値観は社会の常識を外れています。社会と違う価値観でなければ存在を保てません。それで『社会の方が間違っている』『こちらの価値観の方が本物で本来こうあるべきものだった』と言います。

カルトは他人の人生・経過を全否定し、過去現在未来のすべてを支配しようとします。経験や見方や計画を新たな評価と価値観に取り替えさせ服従させます。その中に含まれる人格破壊の毒が『全人格の否定』であり、自分で『自己否定』させ、普通の思い願いを書き換えて『新しく生まれ変わる』などと納得させていきます。

必死なやる気で走り続けることで、自分を省みる余裕もなく、暇があれば必死の祈りで戦う姿勢を自分に言い聞かせて召命への思いを強めて、
聖書を読んでも滅びゆく魂への愛で他者への使命を燃やして、重荷を心に入れ込み続けるだけ。

詰め込んだ使命感からの解放には、
走っている人には行き詰まりと疑問を、
倒れ傷ついた人にはカルト化した教会以外の癒しと安らぎの期間を、
囚われに苦しむ人には脱出のために、今を生きる他人の心の真実や自分の心が欲しがる物事、好み、憩い落ち着くことへの出会いを



ヨハネは答えて言った、「人は天から与えられなければ、何ものも受けることはできない。 『わたしはキリストではなく、そのかたよりも先につかわされた者である』と言ったことをあかししてくれるのは、あなたがた自身である。 花嫁をもつ者は花婿である。花婿の友人は立って彼の声を聞き、その声を聞いて大いに喜ぶ。こうして、この喜びはわたしに満ち足りている。 彼は必ず栄え、わたしは衰える。 上から来る者は、すべてのものの上にある。地から出る者は、地に属する者であって、地のことを語る。天から来る者は、すべてのものの上にある。 彼はその見たところ、聞いたところをあかししているが、だれもそのあかしを受けいれない。 しかし、そのあかしを受けいれる者は、神がまことであることを、たしかに認めたのである。 神がおつかわしになったかたは、神の言葉を語る。神は聖霊を限りなく賜うからである。 父は御子を愛して、万物をその手にお与えになった。 御子を信じる者は永遠の命をもつ。御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまるのである」。
ヨハネによる福音書 3:27‭-‬36 JA1955
https://bible.com/bible/81/jhn.3.27-36.JA1955


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  新改訳聖書を使う福音派、聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)、聖書主義、終末携挙信仰、リバイバル信仰、潜在意識など心理的背景、牧師・教会のカルト化問題、クリスチャン2世問題を扱います。その当事者として信仰的姿勢と現実的姿勢で原因考察とお勧めをしております。
  教派信仰問題の経験者の今後のあり方、信仰と救い、社会性、人生の背景、自立した生き方を探求します。内容が辛らつすぎると思われる方は、自己批判・内部告発とお考えいただきたいと思います。
  NCC日本キリスト教協議会に属さず、JEA日本福音同盟やJPC日本ペンテコステネットワークに加わっている福音派聖霊派教派の自浄作用を期待して記事を書き20年になります。
  他教会の問題であっても福音派を名のることを躊躇するような事がずっと起き続けて終わらないのは、『クリスチャンも罪人』という言い訳で済む問題なのでしょうか?『聖書的』『聖書信仰』と言うだけで、すべて許されるのでしょうか。


自分の本音や願いの本当のところを聴きたいのに、
聞こえないところまで心を殺す『自我の死』。それがカルト化した教会のやり方です。


幼稚園児の時から連れて行かれ
小学生からは自分から欠かさず福音派キリスト教会の日曜学校に通い

『人はみな罪だから』と言われて殺してきた心の声
「大人に騙された」という奥底の声があるのに、あまり意識できず深く沈殿している

自分が愛したかったこと、やりたかったこと、願うこと、思いやり、希望、楽しみ、喜び、素直に感じることども

親が『この世のものだから』とあざ笑い否定してきたモノとコト

失われた子ども時代の声。

文句も言えず、ただ愛と歓心と生きるための場が欲しくて。お互いの良い関心や平和や、一緒に心満たされる充実感・共有体験、そんなふうにみんな一緒に喜びが欲しくて。

そんなふうに子どもが持つ思いを、
それを独りよがりの『善意』で滅ぼす大人たち。

紐解くための今の人生は
殺してきた楽しみ喜びを見つけるために

今までしてこなかったこと、考えを否定してきたこと、でも本当は興味のあることを見つけるために、

教会牧師兄弟姉妹親が言い教えた洗脳やマインドコントロールと、
自分の心の願いを分ける作業のために、

何をする?

音楽や美術や食やデザイン・ファッションや映画やテレビやネットやお出かけ
全部見て、して良い
とにかく、今までの逆を行って良い

教会や親の範囲からできるだけ頭と心と体を離して、考えずにいられる時間を作ること

新しい世界で常識を知り、人の持つ普通の友情や赦し、やさしさや常識を知る

善悪の判断の基準を聖書や教会の『律法』から離して行き、自分にも他人にも心があることを知ること。


『罪から来る報酬である死』と『永遠の死・地獄の苦しみ』の教えで心を塞がれて、自分に対しても世の中へも不信感を心のベースにしてしまうマインドコントロール。
それで今も、自分のすることなのに自分に不信感があって、生きる意欲、仕事への意欲を削がれ、毎日が怖く緊張感と疲労感と徒労感。

自分は罪だから、自分を罰し殺し否定しながら生きることで褒められてきたから。
一週間そうやって過ごしてヘトヘト。それでも日曜に教会へ?無理でしょう。余計にストレスと傷とフラッシュバックに。キリスト、聖霊はそんな教会の柵の外にいて失われた魂に寄り添います。

教会や家庭で失われた子どもの真心や好意や善意や関心や興味の数々は膨大。

誰に褒められたい?
その質問も単純に答えられない。
『天国で神様に一生の歩みを褒められたい』などと考える子ども。
それを喜ぶ大人たち。
これの方が地獄絵図では?

恐ろしい『信仰的な大人』が正解を求めてきて、
責められ追い立てられる記憶。
応えられない要求を繰り返され、教会に通う動機が実は信仰より恐怖や義務が動機だった深層の記憶。

トラウマは連鎖するのに無自覚な大人からいらいら発散の感情的な無理難題を浴びせられ
自分の時間と平穏を否定され奪われる恐怖。

見た目だけを繕う底の浅さが、難しさを嫌う単純な信仰心とシンクロしたら、

反省がなくなり、
聖書で覚えている少ない字面の切り取り聖句と勢いで教会で周りを制圧し、立ち位置をゲットする。

そもそも、人数が少なく平和平等主義が建前だから教会に行くだけで認められて多少わがままでも強気に出れば偉そうにできる。

カルトと言われて妥当。
こう今の私なら言えますが、ずっと心のどこかで彼らに愛を持ち擁護しつづけ、そうして人格の境界より内側に入り込まれ蝕まれる人生でした。

悪い信仰に凝り固まった大人はこの様相を理解しません。

信仰という名の虐待というより、
もっと一般化して、
愛という名で支配し虐待する欲望の正当化

そこから自分を取り戻すにはどれだけの苦しみがあるでしょうか

心の中はいつも緊張して自分と他人の命か死か滅びを選ぶ戦場のようで、安らぎはありません
教会に教えられた人の選別、伝道しなければ隣人が滅ぶ恐怖の使命
それで自分の存在感を得てあざむく信仰に平安はありません
本当の殺し合いの戦場からの帰還した兵士が平和になじめず戦いの緊張が続いて心を病むような状況
心が血を流していても、傷口はふさがれずにそこに蓋をしてただ押さえるだけで、血は今も流れ続け、心は朦朧とするだけ
それを不信仰と責める『クリスチャン』たち

福音派と聖霊派で日常より教会を優先した人、そうさせられたクリスチャン2世の方

無意識に自分の心と願い…本来の愛や友情や信頼を、福音派聖霊派の命を選別する『福音と言う名の律法』のために否定して、安らぎを無くしていて

だから自分の心の声・叫びを認めていく
本当に向き合うべきなのは自分の心に対してで、

律法や伝道、他人の命のことで責めてくる教会も牧師も親も家族に対しても、見分ける目を持たないと

だから人権と法と常識を捨ててはいけません。
アガペーの与える愛においてさえ相手を見極め、独裁・ブラック・カルトなら縁を切らねば、自分と自分の周りに確実に悪影響が出ます。人と社会に依存しながら自分の欲だけを追う教会・企業・政治は毒であり関わる人々を殺す現場です。人と世を破壊します。

人の毒を知る人は、有毒性を知らせ毒を制する
社会人としての常識が正気を保たせてくれて軌道修正させ、
欲と思い通りの支配を通そうとする人を警戒し彼らを抑制するために自分を生かす道があるとしても
結果の良し悪しの可能性を見分けて境界線を敷きいつでも分離できる準備も同時に必要

この知恵は多くの小さい子どもには困難であり、不利です。だから、キリストは彼らを特別に扱い、彼らに寄り添い、祈りを聞き、導き、事を動かします。子どもの祈りは聞かれます。

私にとって聖書は時にキリストが語りかけ、示しを与えるものですが、
福音派と聖霊派の教えによって人間的な縛りにも呪いにもなります。多くの教会離脱者にとってもそうでしょう。

人の勝手な解釈への悲しみ痛みを持ちつつ、ただ聖霊の働きに期待して、聖書を引用しています。


わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。
エペソ人への手紙 2:10 JA1955
https://bible.com/bible/81/eph.2.10.JA1955



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  教派信仰問題の経験者の今後のあり方、信仰と救い、社会性、人生の背景、自立した生き方を探求します。内容が辛らつすぎると思われる方は、自己批判・内部告発とお考えいただきたいと思います。
  NCC日本キリスト教協議会に属さず、JEA日本福音同盟やJPC日本ペンテコステネットワークに加わっている福音派聖霊派教派の自浄作用を期待して記事を書き20年になります。
  他教会の問題であっても福音派を名のることを躊躇するような事がずっと起き続けて終わらないのは、『クリスチャンも罪人』という言い訳で済む問題なのでしょうか?『聖書的』『聖書信仰』と言うだけで、すべて許されるのでしょうか。

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