”『自分は罪人』と意識して祈り悔い改め、キリストの十字架を信じて『救われた』と、すぐに平安を得られるのが『信仰』”
これは愛され信頼を育まれた経験のある人には、抵抗なくできるのかもしれません。
でも、存在を否定され続け、激しく非難し合う酷い争いに巻き込まれて傷つき、おまえはダメだ罪深いとけなされ続けた人、生きるために必死で跳ね返せやり返せと頑張るに人には簡単に信じられません。
また、宗教1世の親と、
2世3世、子供時代に否定され価値観を支配され虐待された人では見える世界が違い過ぎることがあります。
一見普通そうな大人でも、その人の過去の経験によって、外から見えない心理と自己肯定感には人によって大きな違いと隔たりがあります。
あたりまえに無意識に疑いなく自分を肯定できるのと、
自分を肯定できないのとでは、天国と地獄ほどの差があります。
だから
罪の裁きや地獄や終末の話、
神に喜ばれる、喜ばれない、
神を選べば愛される、
神は心を見て小さい者に敵する者を退けると聞いて、
「自分は大丈夫」と平気な人が居て、思いを強化したいために赦しと救いを宣べ伝えるようでいて実は『人を裁き選ぶ神』を言い広め、
それを聞いて本当に恐ろしくなって心も体も凍り付く人がおり、
また、そんなに宗教側にだけ都合の良い話は無いし、騙しで詐欺だと判断する人が居ます。
誰でも、心の拠り所、オアシスとして身を寄せる場が欲しいので、いくらかマシな所はないかと探し、出会いや裏切りに遭いながら、誰かと信頼関係を長い年月をかけていろいろ苦労しても築きたいと無意識にでも思っているものです。
その普通に生きる努力に対して
『もう世界は終わる。終末の滅びが来る。今だすぐだ』と深刻に言い、
それを動機に集わせて使命感をみなぎらせて懸命に皆で努めて教会で魂を燃やすよう説得します。
自己肯定感が強くて何を聞いても教会でなにをしても揺るがず平気な人と、
傷ついた心の隙間に少しでも肯定できる仲間意識や使命感があれば生きられると思えて怖くても受け取る人もいます。
世の成り立ちとして気づき注意すべきことですが、
自分が生きるために当然だと
人の上に立とうとして
何が何でも何を犠牲にしても自分を肯定するために人と付き合い、立場を死守する人がいて、
『他人の救いのため』と言って感動話をいくつも並べて、仲間にして服従させて人権意識・順法意識を超えるような感情論をぶち上げて、
自分が空っぽなのに他人の言葉や証しや実績を都合よく引用して扇動しようとします
意図していなくても自分の仲間を増やしたいからと説得する結果として
他人の善意、繊細な親切心などを餌食にして、自分を良く見せるために自分の人間関係の宣伝に使います
正直で誠実な人の心をその人自身のために使わせないようにするために、未熟さ知識の無さに罪悪感や使命感を扇動者が与え、平気でその場限りの矛盾のある嘘や虚構で煽り、集団のために全身全霊を使わせようとします
巧妙な説得の中で
『組織やトップの人は笑顔で余裕があって人生を乗り越えていて素敵、彼らと居ればその方が楽だし、簡単だし、結果が出せそう』と思わせようと表面を良くふるまったり暗に親切を匂わせて相手が自分で頭に良い印象を描くようにします
楽しさ、気安さ、適度なゆるさ、居心地の良さ、親しみを感じさせつつ、
同時に時々緊張感を挟んで、
交互に繰り返させるのが縛るコツであり、
利用されるキーワードが『自我の砕き』『終末の滅び』『人生の使命』『家族・隣人のため』『将来のための今の忍耐』『安息』『永遠の命』です。
刺激や苦痛に敏感繊細になって逃れたくて、守ってくれそうな何かや誰かを理想化して信じたくなりますし、
共感性や正義感も強いので義務や奉仕も怠らず、自分の心や思いを他人のために浪費してしまいます
ターゲットになる人は少しの信頼や余裕や安らぎを感じられれば更に頑張ってしまえる人です
優しさや繊細さ共感を使う相手を間違えて耐え続けると、知らないうちにすり減り消耗して
空っぽになり、与えられた身勝手な理屈に埋め込まれた悪いものが心に潜在的に積み重なっていき、怒りや恨みの衝動が止められなくなったりしますが、それを『正義』だと思い込まされます。
悪ければ他人に連鎖させ外面の良いカルト化ブラック集団を拡大させてしまいます。
教会に限らず、国でも会社でも、どのサークルでも危機感を煽り、嘘でも人生や希望や愛について『理想』を言えば引き起こせます。
福音派聖霊派では滅びを煽り永遠の命を人質にして簡単にそれができてしまうのです。
絶対に信じ切れる相手として完璧な人間は居ません
集団に自分を差出させるような説得から
自分と隣人を守り、
完璧でない人同士の許し合いという人生の現実の中で
適度に境界を守り、
可能な限りは親切にし、どの人にも見えるオープンで公平な付き合いをし、裏切られてもダメージを少なくできる心構えと多様な人間関係はどうしても必要です。
これが処世術で、社会生活では最重要です。
でも小さい子供ほどできない愛の執着、三つ子の魂があります。
聖書的に言えば
罪を犯した報いをお互いに受けて生きる世には、肉体としての死や終末まで罪の法則に縛られつつ、その中で愛の神が創造した霊と魂の交わりを直接心に感じて、時に信じ、それでもまた人として裏切り裏切られる不完全さがあります。
キリストは不完全な世を完全にするのではなく、
キリストが人の内に住んで発見する愛や湧き出る命について個人的経験でまず教え、その結果の人為的でない神の国を言っています。
内側にキリストを持たなければ神の国を見ることはできないと。
ところが完全な赦しや永遠に生きる霊的命について、
世で現実化したいと人間的肉体的に努力する教会の歴史として
権威的に他者を裁き戦って殺し、間違っていても平然と清い顔をするという結果を積み重ねて、不信感を買っています。
完全な赦し、霊的命、清さや赦しや交わりは内に住むキリスト、聖霊が、かつて地上で肉体となった時に天の父と交わっていたように、今私たち人間の内側でされようとしていることです。
それを『証し』と称して他人に見せようと『善人を装う』のには無理があり、詐欺的な理想論で嘘をつく結果になります。
人の理解や努力では決して証しはできません。
人間の現実の中でキリストが十字架で犠牲を払い清算し人の命の復活を完成し、
今は人の内側で赦し清くし生かそうと命を育む泉を与えようと導いています。
結局は世の現実で人はやる気を出しつつ間違えて
同時に内側でキリストに会って正気や霊を取り戻すことを積み重ねます
この信仰をすべて外面的に現実として見せることには無理があるのに、
無理やり形あるものとして祭り上げ証ししようとするところに地上の人間的教会の間違いがあり愚かさがあります。
内側から流れ出る命のものを
外面ばかりに気を取られ忘れて他人を裁き殺すまでになる人間は狂っていますが、平然と今も他人を巻き込もうと狙っています。
そういう人間を見分けて、できれば正気に戻すには、内側にある命の泉を守る自覚しかないのです。
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福音派聖霊派の教会に今あること、すぐ起こり得ることを訴えるためキリスト教ブログランキングに参加しています。
真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために
新改訳聖書を使う福音派、聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)、聖書主義、終末携挙信仰、リバイバル信仰、潜在意識など心理的背景、牧師・教会のカルト化問題、クリスチャン2世問題を扱います。その当事者として信仰的姿勢と現実的姿勢で原因考察とお勧めをしております。
教派信仰問題の経験者の今後のあり方、信仰と救い、社会性、人生の背景、自立した生き方を探求します。内容が辛らつすぎると思われる方は、自己批判・内部告発とお考えいただきたいと思います。
NCC日本キリスト教協議会に属さず、JEA日本福音同盟やJPC日本ペンテコステネットワークに加わっている福音派聖霊派教派の自浄作用を期待して記事を書き20年になります。
他教会の問題であっても福音派を名のることを躊躇するような事がずっと起き続けて終わらないのは、『クリスチャンも罪人』という言い訳で済む問題なのでしょうか?『聖書的』『聖書信仰』と言うだけで、すべて許されるのでしょうか。
これは愛され信頼を育まれた経験のある人には、抵抗なくできるのかもしれません。
でも、存在を否定され続け、激しく非難し合う酷い争いに巻き込まれて傷つき、おまえはダメだ罪深いとけなされ続けた人、生きるために必死で跳ね返せやり返せと頑張るに人には簡単に信じられません。
また、宗教1世の親と、
2世3世、子供時代に否定され価値観を支配され虐待された人では見える世界が違い過ぎることがあります。
一見普通そうな大人でも、その人の過去の経験によって、外から見えない心理と自己肯定感には人によって大きな違いと隔たりがあります。
あたりまえに無意識に疑いなく自分を肯定できるのと、
自分を肯定できないのとでは、天国と地獄ほどの差があります。
だから
罪の裁きや地獄や終末の話、
神に喜ばれる、喜ばれない、
神を選べば愛される、
神は心を見て小さい者に敵する者を退けると聞いて、
「自分は大丈夫」と平気な人が居て、思いを強化したいために赦しと救いを宣べ伝えるようでいて実は『人を裁き選ぶ神』を言い広め、
それを聞いて本当に恐ろしくなって心も体も凍り付く人がおり、
また、そんなに宗教側にだけ都合の良い話は無いし、騙しで詐欺だと判断する人が居ます。
誰でも、心の拠り所、オアシスとして身を寄せる場が欲しいので、いくらかマシな所はないかと探し、出会いや裏切りに遭いながら、誰かと信頼関係を長い年月をかけていろいろ苦労しても築きたいと無意識にでも思っているものです。
その普通に生きる努力に対して
『もう世界は終わる。終末の滅びが来る。今だすぐだ』と深刻に言い、
それを動機に集わせて使命感をみなぎらせて懸命に皆で努めて教会で魂を燃やすよう説得します。
自己肯定感が強くて何を聞いても教会でなにをしても揺るがず平気な人と、
傷ついた心の隙間に少しでも肯定できる仲間意識や使命感があれば生きられると思えて怖くても受け取る人もいます。
世の成り立ちとして気づき注意すべきことですが、
自分が生きるために当然だと
人の上に立とうとして
何が何でも何を犠牲にしても自分を肯定するために人と付き合い、立場を死守する人がいて、
『他人の救いのため』と言って感動話をいくつも並べて、仲間にして服従させて人権意識・順法意識を超えるような感情論をぶち上げて、
自分が空っぽなのに他人の言葉や証しや実績を都合よく引用して扇動しようとします
意図していなくても自分の仲間を増やしたいからと説得する結果として
他人の善意、繊細な親切心などを餌食にして、自分を良く見せるために自分の人間関係の宣伝に使います
正直で誠実な人の心をその人自身のために使わせないようにするために、未熟さ知識の無さに罪悪感や使命感を扇動者が与え、平気でその場限りの矛盾のある嘘や虚構で煽り、集団のために全身全霊を使わせようとします
巧妙な説得の中で
『組織やトップの人は笑顔で余裕があって人生を乗り越えていて素敵、彼らと居ればその方が楽だし、簡単だし、結果が出せそう』と思わせようと表面を良くふるまったり暗に親切を匂わせて相手が自分で頭に良い印象を描くようにします
楽しさ、気安さ、適度なゆるさ、居心地の良さ、親しみを感じさせつつ、
同時に時々緊張感を挟んで、
交互に繰り返させるのが縛るコツであり、
利用されるキーワードが『自我の砕き』『終末の滅び』『人生の使命』『家族・隣人のため』『将来のための今の忍耐』『安息』『永遠の命』です。
刺激や苦痛に敏感繊細になって逃れたくて、守ってくれそうな何かや誰かを理想化して信じたくなりますし、
共感性や正義感も強いので義務や奉仕も怠らず、自分の心や思いを他人のために浪費してしまいます
ターゲットになる人は少しの信頼や余裕や安らぎを感じられれば更に頑張ってしまえる人です
優しさや繊細さ共感を使う相手を間違えて耐え続けると、知らないうちにすり減り消耗して
空っぽになり、与えられた身勝手な理屈に埋め込まれた悪いものが心に潜在的に積み重なっていき、怒りや恨みの衝動が止められなくなったりしますが、それを『正義』だと思い込まされます。
悪ければ他人に連鎖させ外面の良いカルト化ブラック集団を拡大させてしまいます。
教会に限らず、国でも会社でも、どのサークルでも危機感を煽り、嘘でも人生や希望や愛について『理想』を言えば引き起こせます。
福音派聖霊派では滅びを煽り永遠の命を人質にして簡単にそれができてしまうのです。
絶対に信じ切れる相手として完璧な人間は居ません
集団に自分を差出させるような説得から
自分と隣人を守り、
完璧でない人同士の許し合いという人生の現実の中で
適度に境界を守り、
可能な限りは親切にし、どの人にも見えるオープンで公平な付き合いをし、裏切られてもダメージを少なくできる心構えと多様な人間関係はどうしても必要です。
これが処世術で、社会生活では最重要です。
でも小さい子供ほどできない愛の執着、三つ子の魂があります。
聖書的に言えば
罪を犯した報いをお互いに受けて生きる世には、肉体としての死や終末まで罪の法則に縛られつつ、その中で愛の神が創造した霊と魂の交わりを直接心に感じて、時に信じ、それでもまた人として裏切り裏切られる不完全さがあります。
キリストは不完全な世を完全にするのではなく、
キリストが人の内に住んで発見する愛や湧き出る命について個人的経験でまず教え、その結果の人為的でない神の国を言っています。
内側にキリストを持たなければ神の国を見ることはできないと。
ところが完全な赦しや永遠に生きる霊的命について、
世で現実化したいと人間的肉体的に努力する教会の歴史として
権威的に他者を裁き戦って殺し、間違っていても平然と清い顔をするという結果を積み重ねて、不信感を買っています。
完全な赦し、霊的命、清さや赦しや交わりは内に住むキリスト、聖霊が、かつて地上で肉体となった時に天の父と交わっていたように、今私たち人間の内側でされようとしていることです。
それを『証し』と称して他人に見せようと『善人を装う』のには無理があり、詐欺的な理想論で嘘をつく結果になります。
人の理解や努力では決して証しはできません。
人間の現実の中でキリストが十字架で犠牲を払い清算し人の命の復活を完成し、
今は人の内側で赦し清くし生かそうと命を育む泉を与えようと導いています。
結局は世の現実で人はやる気を出しつつ間違えて
同時に内側でキリストに会って正気や霊を取り戻すことを積み重ねます
この信仰をすべて外面的に現実として見せることには無理があるのに、
無理やり形あるものとして祭り上げ証ししようとするところに地上の人間的教会の間違いがあり愚かさがあります。
内側から流れ出る命のものを
外面ばかりに気を取られ忘れて他人を裁き殺すまでになる人間は狂っていますが、平然と今も他人を巻き込もうと狙っています。
そういう人間を見分けて、できれば正気に戻すには、内側にある命の泉を守る自覚しかないのです。
イエスは女に答えて言われた、「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。 しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。 イエスは女に言われた、「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。 神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。
ヨハネによる福音書 4:13-14, 21, 23-24 JA1955
https://bible.com/bible/81/jhn.4.13-24.JA1955
偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。それもしなければならないが、これも見のがしてはならない。 盲目な案内者たちよ。あなたがたは、ぶよはこしているが、らくだはのみこんでいる。 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。杯と皿との外側はきよめるが、内側は貪欲と放縦とで満ちている。 盲目なパリサイ人よ。まず、杯の内側をきよめるがよい。そうすれば、外側も清くなるであろう。 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。 このようにあなたがたも、外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである。 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは預言者の墓を建て、義人の碑を飾り立てて、こう言っている、 『もしわたしたちが先祖の時代に生きていたなら、預言者の血を流すことに加わってはいなかっただろう』と。 このようにして、あなたがたは預言者を殺した者の子孫であることを、自分で証明している。
マタイによる福音書 23:23-31 JA1955
https://bible.com/bible/81/mat.23.23-31.JA1955
サムエルは言った、「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、聞くことは雄羊の脂肪にまさる。
サムエル記上 15:22 JA1955
https://bible.com/bible/81/1sa.15.22.JA1955
わたしがこれらのことを語ったのは、あなたがたがつまずくことのないためである。 人々はあなたがたを会堂から追い出すであろう。更にあなたがたを殺す者がみな、それによって自分たちは神に仕えているのだと思う時が来るであろう。 彼らがそのようなことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。 わたしがあなたがたにこれらのことを言ったのは、彼らの時がきた場合、わたしが彼らについて言ったことを、思い起させるためである。これらのことを初めから言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである。 けれども今わたしは、わたしをつかわされたかたのところに行こうとしている。しかし、あなたがたのうち、だれも『どこへ行くのか』と尋ねる者はない。 かえって、わたしがこれらのことを言ったために、あなたがたの心は憂いで満たされている。 しかし、わたしはほんとうのことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。 それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。 罪についてと言ったのは、彼らがわたしを信じないからである。 義についてと言ったのは、わたしが父のみもとに行き、あなたがたは、もはやわたしを見なくなるからである。 さばきについてと言ったのは、この世の君がさばかれるからである。 わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。 けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。 御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。 父がお持ちになっているものはみな、わたしのものである。御霊はわたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるのだと、わたしが言ったのは、そのためである。 しばらくすれば、あなたがたはもうわたしを見なくなる。しかし、またしばらくすれば、わたしに会えるであろう」。 そこで、弟子たちのうちのある者は互に言い合った、「『しばらくすれば、わたしを見なくなる。またしばらくすれば、わたしに会えるであろう』と言われ、『わたしの父のところに行く』と言われたのは、いったい、どういうことなのであろう」。 彼らはまた言った、「『しばらくすれば』と言われるのは、どういうことか。わたしたちには、その言葉の意味がわからない」。 イエスは、彼らが尋ねたがっていることに気がついて、彼らに言われた、「しばらくすればわたしを見なくなる、またしばらくすればわたしに会えるであろうと、わたしが言ったことで、互に論じ合っているのか。 よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたは泣き悲しむが、この世は喜ぶであろう。あなたがたは憂えているが、その憂いは喜びに変るであろう。 女が子を産む場合には、その時がきたというので、不安を感じる。しかし、子を産んでしまえば、もはやその苦しみをおぼえてはいない。ひとりの人がこの世に生れた、という喜びがあるためである。 このように、あなたがたにも今は不安がある。しかし、わたしは再びあなたがたと会うであろう。そして、あなたがたの心は喜びに満たされるであろう。その喜びをあなたがたから取り去る者はいない。 その日には、あなたがたがわたしに問うことは、何もないであろう。よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたが父に求めるものはなんでも、わたしの名によって下さるであろう。 今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう。 わたしはこれらのことを比喩で話したが、もはや比喩では話さないで、あからさまに、父のことをあなたがたに話してきかせる時が来るであろう。 その日には、あなたがたは、わたしの名によって求めるであろう。わたしは、あなたがたのために父に願ってあげようとは言うまい。 父ご自身があなたがたを愛しておいでになるからである。それは、あなたがたがわたしを愛したため、また、わたしが神のみもとからきたことを信じたためである。 わたしは父から出てこの世にきたが、またこの世を去って、父のみもとに行くのである」。 弟子たちは言った、「今はあからさまにお話しになって、少しも比喩ではお話しになりません。 あなたはすべてのことをご存じであり、だれもあなたにお尋ねする必要のないことが、今わかりました。このことによって、わたしたちはあなたが神からこられたかたであると信じます」。 イエスは答えられた、「あなたがたは今信じているのか。 見よ、あなたがたは散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとりだけ残す時が来るであろう。いや、すでにきている。しかし、わたしはひとりでいるのではない。父がわたしと一緒におられるのである。 これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。
ヨハネによる福音書 16:1-33 JA1955
https://bible.com/bible/81/jhn.16.1-33.JA1955
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新改訳聖書を使う福音派、聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)、聖書主義、終末携挙信仰、リバイバル信仰、潜在意識など心理的背景、牧師・教会のカルト化問題、クリスチャン2世問題を扱います。その当事者として信仰的姿勢と現実的姿勢で原因考察とお勧めをしております。
教派信仰問題の経験者の今後のあり方、信仰と救い、社会性、人生の背景、自立した生き方を探求します。内容が辛らつすぎると思われる方は、自己批判・内部告発とお考えいただきたいと思います。
NCC日本キリスト教協議会に属さず、JEA日本福音同盟やJPC日本ペンテコステネットワークに加わっている福音派聖霊派教派の自浄作用を期待して記事を書き20年になります。
他教会の問題であっても福音派を名のることを躊躇するような事がずっと起き続けて終わらないのは、『クリスチャンも罪人』という言い訳で済む問題なのでしょうか?『聖書的』『聖書信仰』と言うだけで、すべて許されるのでしょうか。