真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために

避難の場(シェルター)として「個人の祈り」を守る教会とは

執筆者 仁保裕介(プロフィール)『すべて失望した人の唇に祈りを。』祈りは、生活の現場から誰にでも自由にできるものです。キリストは呼び求めるすべての人と共に居る方です。清い人や会堂や神殿にしか現れない方ではありません。むしろ、自分はふさわしくないと思う人のそばに居るのがキリストです。
  受洗して教会員になった教会が、「この教会で信仰生活を続けられなければ、救いや信仰の道から外れる」と言うのは、真実ではありません。避難の場(シェルター)としてキリストに求める祈りには、「キリストが共に居る交わり」が必ず与えられています。
  このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。テーマは重いですが、皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。キリスト教の視点で、成長、試練、十字架、悔い改め、聖化の記事になっています。
  ほんの5才から信仰45年のクリスチャン2世として、キリスト教会内の教派主義・人間関係・権威化・カルト化によって傷を受けた皆さんと共に祈り、脱出と自立と今後の信仰について現実的視点で触れていきます。
  元「主の十字架クリスチャンセンター 北九州教会」牧師。

皆が間違っている中でなんとか必死に生きている、それが現実です。
誰一人、神の義に対する正解者はいない世の中に、私たちは生きています。私たちは答えを持つ頼れるヒーローを探し続けていますが、人間にそんな人はいません。

キリストの十字架に見える真実とは、

人間は、正しい答えに満足せず、自分に都合の良い答えのために、他人を殺すこと、

神の愛は、人を裁かずに救おうとして犠牲を払う、

ということです。

たとえクリスチャンであっても、
神の愛の正しさのすべては分からず、
ただ赦しとあわれみにすがるしかないことを知るだけです。
クリスチャンは正しさを隣人に教えるのではなく、ただ愛とあわれみを宣べ伝えるのです。

私たちは、正しさを教えようとする人を警戒し、その人の行く末に恐れを持ち、見分け、とりなして祈るべきでしょう。

人は誰一人、正しくはなく、
ただイエス・キリストだけが、十字架によって、神の愛とあわれみと赦しを人に示しました。

信仰の人は、自分の能力でなく、行いや言葉の正しさではなく、神に赦されている身分を誇ります。

私たちの人生は、目の見える出来事に左右されているようでいて、
実際には、私たちは神の許容と導きの中で祈らされ悟らされるように、世に置かれています。
このことには大きな価値があります。

人生や救いの計画の全体像はまだわかりませんが、
人生をキリストに委ねる中で、心の平安と希望だけが確かなものだと、段々と知らされていきます。


次のように書いてある、
「義人はいない、ひとりもいない。
悟りのある人はいない、神を求める人はいない。
すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。
善を行う者はいない、ひとりもいない。
彼らののどは、開いた墓であり、彼らは、その舌で人を欺き、彼らのくちびるには、まむしの毒があり、 彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。
彼らの足は、血を流すのに速く、 彼らの道には、破壊と悲惨とがある。
そして、彼らは平和の道を知らない。
彼らの目の前には、神に対する恐れがない」。
さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法のもとにある者たちに対して語られている。
それは、すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服するためである。 なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。
しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。 それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。
すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、 彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。 神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。
すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、 それは、今の時に、神の義を示すためであった。
こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。
すると、どこにわたしたちの誇があるのか。全くない。
なんの法則によってか。行いの法則によってか。そうではなく、信仰の法則によってである。
わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。

ローマ人への手紙 3:10‭-‬28 JA1955
http://bible.com/81/rom.3.10-28.JA1955


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このブログの関連記事:
キリストにある復活の命は、肉を削ぎ練りきよめられて永遠に生きる命  2017年10月07日



※スマホ画面に表示される誘導広告は、ライブドアとグーグルによるもので、このブログの記事とは一切関係ありません。

口語訳聖書は、 新共同訳、新改訳よりも前に、日本の全てのプロテスタント教会で使われていたものです。





■私たちクリスチャンは二人三人でも集まれば、そこを「キリストのみからだ」とすることができます。
洗礼の意味は「キリストへの信仰を持つ、人生の方向転換(悔い改め・回心)の決意」です。(洗礼は、授けた教会の組織員となる会員制度とは別のものです。)
牧師を上位に戴かずに、水平の交わりを心がけ、共に祈り神様を見つめて御声に聞き従うことを望み進む、この決心を共有する交わり・ネットワークを目標とする「キリストのみからだの教会」のあり方を求めます。
現状では「頼れる人として誰か教師を自分の上に置きたがる人の弱さ」を認め、私たちは日々そこから脱出して神様に祈り、主にある交わりをいただきます。同時に、助けを求める人の祈りに、あらゆる形で呼応するクリスチャンであることを決意し、自立への助けが必ずある「みからだのネットワーク」であることを目指しています。(CFF小倉福音センターの祈り・信仰指標から)

■福音派・聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)・聖書主義の人が内包する「カルト化問題」をこの世代で終息できますように。教会が牧師の誤り・マインドコントロール・権威主義・独裁を指摘できずに多くの人を従わせ、モラルや常識など、どの人にもある心の引っかかりや良心をなおざりにして、聖書信仰やリバイバル信仰に熱くなって人を裁き、自分と家族に負担をかけ、2世や若いクリスチャンの離反を招いていることを克服できますように。
また、脱会後の「脱マインドコントロール」のリハビリ・回復と、その実生活の困難さを理解できますように。
これを信仰的姿勢と現実的姿勢で正面から捉えて祈ります。
時に辛らつに人の内面を見ることが必要かもしれませんが、自分の中にも確かにあるものとして心の整理をすることで、問題の本質が見えるのかもしれません。
試練は、神に真に祈り出会うための神の摂理と言えますが、それを認める強さが欲しいですし、求めていく中で見えるものがあります。

■教会のカルト化や縛りに巻き込まれないための3つの知恵
1.祈りと聖書読み−−日々必要な神様との交わりと悔い改めをする、教えの風に翻弄(ほんろう)されない避け所として、各々個人の祈りと聖書読みのシェルターを確立しましょう。
2.二つ以上の教会に安心できる交わりを確保しましょう。−−今の所属教会に並行して、さらに避け所となる他の教会を必ず把握しておき、日ごろから広く他教会・他教派のクリスチャンと親しくし深い信頼関係を築きましょう。安心し信頼できる他教会や他教派の話題を所属教会で積極的に話しましょう。しかし、拒否や非難を受けはじめたら、他の信頼できる教会の交わりにそのことを伝え教会のカルト化の危険について話し合い、転会の準備を始めましょう。そのためにも、信頼あるクリスチャンの友情を日々拡げて大切にしましょう。
3. 教会以外の関わりを大切にしましょう。−−友人、家族、職場などで、ご自分を理解してくれる方々がいらっしゃると思います。その方の何気ない助言や世間話に、思いやりを感じることは、とても大切です。私たちが、信仰に対する外からの目を持つことにもなります。正しい「証し」は、一方的な押し付けではないことも分かります。

−−−真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために−−−
−− 避難の場(シェルター)としての「個人の祈り」を守るために −−
執筆者 仁保裕介(プロフィール
『すべて失望した人の唇に祈りを。』
祈りは、生活の現場から誰にでも自由にできるものです。
キリストは呼び求めるすべての人と共に居る方です。清い人や会堂や神殿にしか現れない方ではありません。むしろ、自分はふさわしくないと思う人のそばに居るのがキリストです。
受洗して教会員になった教会が、「この教会で信仰生活を続けられなければ、救いや信仰の道から外れる」と言うのは、真実ではありません。
 避難の場(シェルター)としてキリストに求める祈りには、「キリストが共に居る交わり」が必ず与えられています。
このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。テーマは重いですが、皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。キリスト教の視点で、成長、試練、十字架、悔い改め、聖化の記事になっています。
ほんの5才から信仰45年のクリスチャン2世として、キリスト教会内の教派主義・人間関係・権威化・カルト化によって傷を受けた皆さんと共に祈り、脱出と自立と今後の信仰について現実的視点で触れていきます。
元「主の十字架クリスチャンセンター 鎌倉教会、北九州教会」牧師・脱会者

キリストの救いは、私たちが神の子となり、霊が神と共にあって永遠に生かされる命です。
キリストの復活、よみがえりにあずかる命です。

この命は、人の努力によらず、ひたすら神から子への、一方的な愛と赦しによります。

「人の努力によらない義」、「ただ赦しを受けるしかない身」という部分が、人には受け入れづらいところで、それこそ信仰が試されます。

世の剣や争いとは、義について、守るべき自分の責任についての争いだと、互いに思っているのではないでしょうか。

しかし、キリストの与える義は、義を争う人の手でイエスが十字架につけられ殺されることによって人をあがなったものです。
誰でも、神によって生まれさせられたことを知り、信仰によって、ただで赦しと愛を受けて神につながること、ただただ神の子であることを知るもので、
日々与えられる赦しと愛によって霊が新たにされ、へりくだらされ、ただ生かされている感謝と共に家族や隣人とのつながりに新鮮な発見があります。

私たちが神の子であることは、
唯一の長子であるキリストが、一度だけ地上に来て、
人を赦し、救うために、愛ゆえに人の罪の犠牲になる杯を受け取り、死からよみがえったことにあずかる身分であり、
霊において今から永遠に地上でも天でも 神と共にあって生かされる命です。
この世の肉体の発想、罪の発想や法則からではなく、
ただ上から神である主から受けたものだけを救いとして、
家族や隣人にも、ただで与える者、また赦しを受ける者となることです。
「与える愛を持つ人」「キリストに似た者」になるには、人の発想や努力によらず、ただ赦された子である身分を日々受け取って生きる以外ありません。

肉の思いは地上だけのものなのに、神にある霊によって削がれることに肉は敵対し、
肉が満足する手応えが欲しくて、目に見える物に答えを求めて地上をさまよいます。
無意識のプライドは、キリストによってただで与えられた神の子である霊的身分に抵抗し、
真の永遠の命を育みへりくだりに向かう内なる霊の語りかけに我慢ならず、見栄のために自分で成し遂げようと焦りがんばります。
このプライドと焦りが、牧師やクリスチャンの肉にも、地上では例外なく働いています。

キリストの導きに従う霊に敵対し戦いを挑む肉の願望を、他人にだけ見つけるのではなく、まず自分の中に見つけることで、

霊の人は知恵を持って、自分と他の人の中の霊を見分け生かすように、言葉と行動を気をつけ、地の塩となります。

望む幸せの中身が、霊によるのか肉によるのか、私たちは自分をわきまえる必要があります。自分の中の戦いを知り、肉の欲を知ると、確かなものは赦しと愛だけだと知るようになります。

悪い牧師やクリスチャンは、 信仰年数が長いにもかかわらず、自分の中身を甘く見て罪との戦いをあまり認めたがりません。『信仰』と称して「棚上げ」や「忘れる」ことをもっぱら教えたりします。または 『愛の鞭』と偽り 他人を ひたすら 責め立てたりします。
しかし、人の言葉に惑わされず自分に正直に「内にいつも葛藤がある」と神に向かって祈り、人に頼らずに神に委ねて弱さを告白する人には、キリストが伴い、肉の支配に打ち勝つための経験と知恵が積まれていきます。これは金よりも価値ある真の練りきよめによります。

恵みをただ受け取ること、受けたものをただで与えることは、簡単そうなのに、肉なる人の思いが内からも外からも必ず邪魔をしてきます。逸らしたり、誰にも負えない厳しい裁きを重荷として負わせようとします。これを見分けるために、今、地上の教会の問題が許されているのかもしれません。

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キリストについていく人が負う十字架は、その人の負える分  2017年10月04日


地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。 わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。 そして家の者が、その人の敵となるであろう。
わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。 また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。 自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。 あなたがたを受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。わたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。 預言者の名のゆえに預言者を受けいれる者は、預言者の報いを受け、義人の名のゆえに義人を受けいれる者は、義人の報いを受けるであろう。 わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない」。
イエスは十二弟子にこのように命じ終えてから、町々で教えまた宣べ伝えるために、そこを立ち去られた。

マタイによる福音書 10:34‭-‬42 JA1955
http://bible.com/81/mat.10.34-42.JA1955
マタイによる福音書 11:1 JA1955
http://bible.com/81/mat.11.1.JA1955

それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。 すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。 もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。 わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。 それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。 もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。 キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。 なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。 このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。 だから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従わせることをせず、 また、あなたがたの肢体を不義の武器として罪にささげてはならない。むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい。 なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。

ローマ人への手紙 6:3‭-‬14 JA1955
http://bible.com/81/rom.6.3-14.JA1955

わたしたちは、律法は霊的なものであると知っている。
しかし、わたしは肉につける者であって、罪の下に売られているのである。 わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。 もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる。 そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。 わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。 すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。 もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。 そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。 すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、 わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。
わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。 わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。

ローマ人への手紙 7:14‭-‬25 JA1955
http://bible.com/81/rom.7.14-25.JA1955

こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。
なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。 律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。 これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。 なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。 肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。 なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。 また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。 しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。
もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。 もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。
それゆえに、兄弟たちよ。わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。 なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。 すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。 あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。 御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。 もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。 わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。 被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。 なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、 かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。 実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。 それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。 わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。 もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである。 御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。 そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。 神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。 神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。 そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである。 それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。 ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。 だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。 だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。 だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。 「わたしたちはあなたのために終日、死に定められており、ほふられる羊のように見られている」と書いてあるとおりである。 しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。 わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、 高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。

ローマ人への手紙 8:1‭-‬39 JA1955
http://bible.com/81/rom.8.1-39.JA1955

たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。 たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。 たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。 愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、 不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。 不義を喜ばないで真理を喜ぶ。 そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。 愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。 なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。 全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。 わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。しかし、おとなとなった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。 わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。 このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。

コリント人への第一の手紙 13:1‭-‬13 JA1955
http://bible.com/81/1co.13.1-13.JA1955

信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。 あなたがたは、弱り果てて意気そそうしないために、罪人らのこのような反抗を耐え忍んだかたのことを、思いみるべきである。 あなたがたは、罪と取り組んで戦う時、まだ血を流すほどの抵抗をしたことがない。 また子たちに対するように、あなたがたに語られたこの勧めの言葉を忘れている、「わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。 主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」。 あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。 だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。 その上、肉親の父はわたしたちを訓練するのに、なお彼をうやまうとすれば、なおさら、わたしたちは、たましいの父に服従して、真に生きるべきではないか。 肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである。 すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。 それだから、あなたがたのなえた手と、弱くなっているひざとを、まっすぐにしなさい。 また、足のなえている者が踏みはずすことなく、むしろいやされるように、あなたがたの足のために、まっすぐな道をつくりなさい。 すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。

ヘブル人への手紙 12:2‭-‬14 JA1955
http://bible.com/81/heb.12.2-14.JA1955

宮殿は捨てられ、にぎわった町は荒れすたれ、丘と、やぐらとは、とこしえにほら穴となり、野のろばの楽しむ所、羊の群れの牧場となるからである。
しかし、ついには霊が上からわれわれの上にそそがれて、荒野は良き畑となり、良き畑は林のごとく見られるようになる。 その時、公平は荒野に住み、正義は良き畑にやどる。 正義は平和を生じ、正義の結ぶ実はとこしえの平安と信頼である。 わが民は平和の家におり、安らかなすみかにおり、静かな休み所におる。

イザヤ書 32:14‭-‬18 JA1955
http://bible.com/81/isa.32.14-18.JA1955


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キリストについていく人が負う十字架は、その人の負える分  2017年10月04日




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口語訳聖書は、 新共同訳、新改訳よりも前に、日本の全てのプロテスタント教会で使われていたものです。





■私たちクリスチャンは二人三人でも集まれば、そこを「キリストのみからだ」とすることができます。
洗礼の意味は「キリストへの信仰を持つ、人生の方向転換(悔い改め・回心)の決意」です。(洗礼は、授けた教会の組織員となる会員制度とは別のものです。)
牧師を上位に戴かずに、水平の交わりを心がけ、共に祈り神様を見つめて御声に聞き従うことを望み進む、この決心を共有する交わり・ネットワークを目標とする「キリストのみからだの教会」のあり方を求めます。
現状では「頼れる人として誰か教師を自分の上に置きたがる人の弱さ」を認め、私たちは日々そこから脱出して神様に祈り、主にある交わりをいただきます。同時に、助けを求める人の祈りに、あらゆる形で呼応するクリスチャンであることを決意し、自立への助けが必ずある「みからだのネットワーク」であることを目指しています。(CFF小倉福音センターの祈り・信仰指標から)

■福音派・聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)・聖書主義の人が内包する「カルト化問題」をこの世代で終息できますように。教会が牧師の誤り・マインドコントロール・権威主義・独裁を指摘できずに多くの人を従わせ、モラルや常識など、どの人にもある心の引っかかりや良心をなおざりにして、聖書信仰やリバイバル信仰に熱くなって人を裁き、自分と家族に負担をかけ、2世や若いクリスチャンの離反を招いていることを克服できますように。
また、脱会後の「脱マインドコントロール」のリハビリ・回復と、その実生活の困難さを理解できますように。
これを信仰的姿勢と現実的姿勢で正面から捉えて祈ります。
時に辛らつに人の内面を見ることが必要かもしれませんが、自分の中にも確かにあるものとして心の整理をすることで、問題の本質が見えるのかもしれません。
試練は、神に真に祈り出会うための神の摂理と言えますが、それを認める強さが欲しいですし、求めていく中で見えるものがあります。

■教会のカルト化や縛りに巻き込まれないための3つの知恵
1.祈りと聖書読み−−日々必要な神様との交わりと悔い改めをする、教えの風に翻弄(ほんろう)されない避け所として、各々個人の祈りと聖書読みのシェルターを確立しましょう。
2.二つ以上の教会に安心できる交わりを確保しましょう。−−今の所属教会に並行して、さらに避け所となる他の教会を必ず把握しておき、日ごろから広く他教会・他教派のクリスチャンと親しくし深い信頼関係を築きましょう。安心し信頼できる他教会や他教派の話題を所属教会で積極的に話しましょう。しかし、拒否や非難を受けはじめたら、他の信頼できる教会の交わりにそのことを伝え教会のカルト化の危険について話し合い、転会の準備を始めましょう。そのためにも、信頼あるクリスチャンの友情を日々拡げて大切にしましょう。
3. 教会以外の関わりを大切にしましょう。−−友人、家族、職場などで、ご自分を理解してくれる方々がいらっしゃると思います。その方の何気ない助言や世間話に、思いやりを感じることは、とても大切です。私たちが、信仰に対する外からの目を持つことにもなります。正しい「証し」は、一方的な押し付けではないことも分かります。

−−−真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために−−−
−− 避難の場(シェルター)としての「個人の祈り」を守るために −−
執筆者 仁保裕介(プロフィール
『すべて失望した人の唇に祈りを。』
祈りは、生活の現場から誰にでも自由にできるものです。
キリストは呼び求めるすべての人と共に居る方です。清い人や会堂や神殿にしか現れない方ではありません。むしろ、自分はふさわしくないと思う人のそばに居るのがキリストです。
受洗して教会員になった教会が、「この教会で信仰生活を続けられなければ、救いや信仰の道から外れる」と言うのは、真実ではありません。
 避難の場(シェルター)としてキリストに求める祈りには、「キリストが共に居る交わり」が必ず与えられています。
このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。テーマは重いですが、皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。キリスト教の視点で、成長、試練、十字架、悔い改め、聖化の記事になっています。
ほんの5才から信仰45年のクリスチャン2世として、キリスト教会内の教派主義・人間関係・権威化・カルト化によって傷を受けた皆さんと共に祈り、脱出と自立と今後の信仰について現実的視点で触れていきます。
元「主の十字架クリスチャンセンター 鎌倉教会、北九州教会」牧師・脱会者


自由な心で神様に祈っていますか?

祈りの言葉が何かに縛られていませんか?



私たちは神様に向いて自由であり、それぞれの心の思い、叫びがあります。
その自由に聖霊がおられ、必ずとりなされています。
多様な祈りがあってこそ、みからだの一致ではないでしょうか。

祈りが、誰か人から強いられたものではなく、
「自由に神様に向かう私たち自身の心」であることを神様は喜ばれます。

自然な心のことばこそ、神様との交わりに必要です。

そう考えるクリスチャンの交わりと、多様な一人一人の祈りの拡がりが求められます。祈りが現実とリンクすることは、人生に必要な知識です。

このブログは、その自由な祈りの拡がりのために書いています。
知らないうちに祈りと信仰が誰かに縛られていないかを、様々な視点で考えようとしています。

■教会で疲弊して燃え尽きてしまう問題…

現代の教会は礼拝や組織の形を定めていますが、聖書から「教会がすべきこと」の要素を凝縮したものを日曜の2時間で触れるようにしています。

新約聖書を読むと、2000年前の教会の集い交わりは毎日のものでした。
日曜礼拝のプログラムは、聖書に書かれている教会の毎日の交わりの「短縮版」、「あらすじ」のストーリーになっています。

今の短縮版の日曜礼拝だけでキリストへの信仰を養おうとすれば、断片化した教えの詰め込みになってしまうのは当然かもしれません。

その中でも問題のある教会では、独自の詰め込み教育をして縛ったり、聖書の一部だけを切り取り強調して「信仰の間違いない形」と言います。
そこに空しさを感じ疲弊することは当然かもしれません。

信仰は日曜が本番ではなく、日常で働いてこそです。
信仰者同士の交わりは日々の信仰の励みになるはずなのに、もし教会が息苦しく、日曜のたびにストレスがたまるなら、無理してその教会に行く必要はないのではないでしょうか。奉仕のためにだけ身を削る思いで必死で行くような教会は、聖書に照らして健全とは言えません。
救いと信仰を教えている福音のことばには心の深いところで同意するけれども、
たとえば、祈りや証しまで教会の全員が同じような言葉を使っているのはどうなのでしょうか。
それで、神様とのつながりが太くなり、個人的な悩みや痛みに救いが確かになるでしょうか。
それとも教会のみんなとのつながりが強くして、心の葛藤を忘れようとするのでしょうか。

なぜ、福音が多くの日本人に伝わらないのでしょうか。
クリスチャンの世界は特異なのか、教会の敷居は高いのか。
教会だけが清く、教会の外は悪魔に支配されて危険なのでしょうか。

今の形式化した教会独特の教えは外からどう見えているでしょうか。
教会の外の隣人との間に壁を感じるようになるのは、果たして健全なのでしょうか。

■自分が知る困難や痛みからの本音を神様にぶつけることができる心の部屋がありますか?

クリスチャンが皆、自分らしい自由な関心を持って、
今居る自分の場所から、自由な視点で気づくことを、自分のことばで熱心に祈る、
そんな祈りの多様化が多くの罪を覆い、自分と隣人の救いにつながるのではないでしょうか。

キリストがもう一度来られるまで、教会とクリスチャンは隣人の救いのために存在しています。罪の裁きが使命なのではありません。

生きる場で皆がそれぞれ困難や試練を味わう時代になってきましたが、
それはただ罪の世の結果として存在するのではなく、信仰者が自分と隣人のために祈る場です。
それぞれの問題を教会に持ち寄っても、すべてが受容され癒されるわけではありません。それぞれ置かれた場の痛みからの祈りが、その場の救いや脱出につながるのではないしょうか。その場に置かれた意味を考えたいのです。
これはキリストに導かれていても、教会の人にすべてが理解されるわけではありません。個人的にキリストに伴われ、ただキリストにすがって負える重荷です。

まずは、キリストの十字架による救い・あがないの恵みを、自分の視点で改めて聖書を読んで味わい、キリストご自身と御跡を、自分の心で追い求めましょう。
置かれている場から、自分と世の救いと現実の全体像、自分と教会への主の召しについて求め、自分の関心がどこに向くか考えましょう。
自分と隣人と世にある現実の課題をよく知り、痛みを痛みとして、喜びを喜びとして共感して、目には見えないけれども確かにある多くの人の祈りに連なる心で祈りたいのです。

■キリストの御体としての教会

キリストのみからだの教会は、共に居られる御子キリストの恵みと、聖霊の交わり導き、父の愛の支配を求め、天と地にみこころが成るのを望む、祈りの家です。

恵み、導き、愛のみこころは、私たちの心に語りかけられ、出会う現実と心の霊の中で納得があるものです。
各々ひとりの祈りの納得が集まって証ししあい励ましあうのが、教会の交わりです。

明文化された「教会戒規」や「教理」は、「教会を守る」というよりも人の身勝手な肉の過度の暴走を止める役割です。
信仰の命は、個人的な祈りによるキリストとの出会い交わりです。
教会の活動はこれを促進するものでなければなりません。

そして、各々が置かれた生活の場から皆さんが独自に重荷を見つけて自主的に祈ることで、人生と本来の教会の姿であるキリストの御体全体の歩みが実現されていくのが本来です。

一人ひとりの信仰のお証しが、横に連なってそれぞれの場から流れ出しますように。

あらわれ方は違うけれども賜物に従って一つの聖霊の働きが保たれますように。そうしてみからだの交わりが愛の聖霊の結び目によってつながっていくことを願っております。
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   執筆者 仁保裕介
            連絡はプロフィールのメールアドレスまで、お願いいたします。


■ご奉仕・面談について
現在、私は北九州市に居ります。
・家庭集会/説教/講演/セミナー:
伝道メッセージ、教会の祈り、神様との交わり、教会カルト化の原因と問題点整理、世界のリバイバルと救いについて。
・教会による制約・圧迫の悩み相談
・このブログへのご賛同、祈りの繋がり、カルト化問題の連携・脱出のお手伝いなど
求めていらっしゃる集いや個人があれば、ご連絡いただきたいと思います。
CFF小倉福音センターの目的・活動

現在、月〜金の昼間は北九州小倉で勤めをしておりますが、一週間前のご連絡でしたら、平日昼間の奉仕もさせていただきます。平日夜間や土日には、前日までのご連絡でご奉仕をさせていただきます。面談は、小倉に来ていただければ、平日昼間でもできる時間があります。お問い合わせください。奉仕のない日曜日は地元教会に集い礼拝にあずかっています。

まずは関係づくりからと思います。北九州のお近くの方は費用などご心配なさらずに、どうぞお気軽にお声がけください。

申し訳ありませんが、遠方の場合は、時間的経済的理由でご期待に添えないこともあります。メール・電話でご相談させていただければと思います。


「CFF小倉福音センター」について
教会の問題で弱さを覚えている方々に奉仕し、主イエス・キリストのみからだの教会に奉仕したいと願っています。「この小さき者を、神様の御用のために用いてください」と祈り、神様が召されている自分の小さき働きに自分の人生をささげていきたいと思います。

CFF小倉福音センターは、会員制度は無く、定期集会もありません。
このブログを通じてメッセージを伝え、メールのやり取りでご相談を受ける、そのような交わりが主です。
集会奉仕も承りますが、テーマとして、このブログの記事の通り、強制のない自立した信仰と、祈りの自由、内から湧くキリストの証しを共に求めるものでありたいと思います。
また、出会いと交わりの中から、必要に応じてその都度協力共働して、問題を共有します。

この働きと交わりは、互いの祈り無しには進むことはありません。
私たちの信仰の態度として、それぞれ生きる場で問題の防止・脱出のための知恵や助言を伝えることで、問題の防止・対策につながります。

この働きのために、仁保に経済的ご支援が許される場合、お送りいただいたものを、記事執筆、ご相談、教会に傷があって触れられない方への助けになるアプローチ、 各地の教会への防止・対策の奉仕に用いさせていただきます。

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■コメント・トラックバックをお送りくださる皆様
ありがたく拝見しておりますが、内容によっては掲載を見合わせることがあります。
・私信のようにプライバシーを含むこと
・同じ内容で複数の配信先があったり(マルチポスト)、他サイトへの勧誘目的だけのもの
・他からの引用だけで投稿者の言葉が無いもの
(常識の範囲のことですが私の基準はhttp://www.h5.dion.ne.jp/~j.1/exodospost0.htmに詳しく記しました。)

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■教会カルト化記事の姿勢

このブログでは、問題のある教会で不当な扱いを被った経験者の方々と、指摘を受けている教会、双方に向けて記事を書いております。
問題の無い教会の方、また問題のある教会の方には受け取れないことが書かれているかもしれません。
その場合は、私が管理する「EXODOS〜カルト化した教会や信仰という名の虐待からの脱出支援ページ」や、検索で「信仰 虐待」の結果をご覧いただければと思います。

記事を書く背景と動機は、自分も含めた福音派・聖霊派・聖書主義を採る教会と牧師に内包されているものを明らかにし、カルト的な信仰を生み出す原因を探るためです。
犯人探しが主旨ではありませんが、感情的な問題や整理には、誰かを恨み続けるよりも、それまでの影響を一端切り離す方が客観化しやすいため、切り離す発端となるように批判的な内容も心に描いて良いのだとアピールする目的があります。
また、一般的社会的に認められない問題を明確にするつもりです。
内容が辛らつすぎると思われる方は、自己批判・内部告発だとお考えいただければと思います。
 このブログ内の記事:
 教会の虐待問題−フラッシュバック、PTSD症状からのリハビリの困難と対応

 確信が押し付けられて、うつになる問題 リハビリ

 教会での精神的虐待・中傷による障害が脱会後に顕著になること−Yahoo!ブログ

 私は感動をあまり信じすぎないようにしています。

 正統教会で経験したカルト信仰からの脱出

 各々の事情を神様はすべてご存知であること。地上の教会にはマニュアル化できない神との交わり

 祈りとは神様との対話です。−私たちは自分の真の姿を認めているでしょうか。

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 自由のために十字架を負う時代
 

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キリスト教会のカルト化・危険ワード「聖書と神の法則に従え」
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経験の少ないクリスチャンが囚われやすい「感情の問題メモ」
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52204905.html

教会のカルト化を避けるための最低限の指針
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52184080.html

苦しいときの祈り求めが、信仰の基盤や知恵に
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52180692.html

『試練』の意味は成長のため…その「勘違いあるある」としての『神と悪魔の戦い』
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52163557.html

伝道とは
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52125006.html

守るべき信仰の基本と実生活に伴うキリストの助け
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52127413.html

教会に何を求めるか 教会へのイメージを再考すべき時
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52078530.html

質問へのお答え:教会籍と交わり・御体なる教会
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/50037482.html

教会のカルト化・虐待を止めるために
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/50641653.html

十字架を負うとは
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/50037410.html

ヨブ記38章
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真の祈り、礼拝
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聖書の記録と神との出会い
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/50117943.html

■一部記事は下のブログに重複して掲載しています。
キリストの助けを求めて〜クリスチャンライフと教会
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■おしらせ
このブログは以前のブログhttp://blogs.dion.ne.jp/j_1/の機能が不調だったため、2006年6月以前の記事やコメント、TBをここに書き写しています。
また、KDDIdionのホームページサービスが終わるため、記事を作成年の日付にして移動しています。

キリストの救いを受ける信仰は、
ありのままそのまま、神に赦されているのを受け入れ、
永遠に神にあがなわれ愛され救われた神の子どもになります。

「ありのままそのまま、子どもとして」、
これは、クリスチャンどの人にも負える、共通、基本の部分です。

実は、この部分だけでも受け入れるのが難しく、
『もっと優れて、有利な条件で神や人に認められたい』、と私たちは意識せずに潜在的に願っています。

キリストの福音は、
ありのまま以上を望む人のプライドや願望に向かって、
「泣く者と一緒に泣き、悲しむ者と一緒に悲しみなさい」と説いています。

「ありのまま」の人には、悲しみや自信のなさ、恐れ不安があっても、
「その人は幸いだ」と、イエスは語りかけます。
キリストが友となるからです。
求める人には、キリストが伴う道がひらけます。

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このブログの関連記事:
限界とは、無意識の中に潜むもの。逃げるのではなく、認め受け入れてこそ信仰  2017年09月30日


「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。 悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。 柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。 あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。 心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。 義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。 わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。 喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。 あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。 あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。 また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。 わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。

マタイによる福音書 5:3‭-‬17 JA1955
http://bible.com/81/mat.5.3-17.JA1955

そのとき、イエスに手をおいて祈っていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちは彼らをたしなめた。 するとイエスは言われた、「幼な子らをそのままにしておきなさい。わたしのところに来るのをとめてはならない。天国はこのような者の国である」。 そして手を彼らの上においてから、そこを去って行かれた。 すると、ひとりの人がイエスに近寄ってきて言った、「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」。 イエスは言われた、「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」。 彼は言った、「どのいましめですか」。イエスは言われた、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。 父と母とを敬え』。また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』」。 この青年はイエスに言った、「それはみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう」。 イエスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。 この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。

マタイによる福音書 19:13‭-‬22 JA1955
http://bible.com/81/mat.19.13-22.JA1955

『あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、 裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。
そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、
『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。 いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。 また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。
すると、王は答えて言うであろう、
『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。

マタイによる福音書 25:35‭-‬40 JA1955
http://bible.com/81/mat.25.35-40.JA1955

旅人をもてなすことを忘れてはならない。このようにして、ある人々は、気づかないで御使たちをもてなした。 獄につながれている人たちを、自分も一緒につながれている心持で思いやりなさい。また、自分も同じ肉体にある者だから、苦しめられている人たちのことを、心にとめなさい。

金銭を愛することをしないで、自分の持っているもので満足しなさい。主は、「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と言われた。 だから、わたしたちは、はばからずに言おう、「主はわたしの助け主である。わたしには恐れはない。人は、わたしに何ができようか」。

イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。
さまざまな違った教によって、迷わされてはならない。食物によらず、恵みによって、心を強くするがよい。食物によって歩いた者は、益を得ることがなかった。

だから、わたしたちはイエスによって、さんびのいけにえ、すなわち、彼の御名をたたえるくちびるの実を、たえず神にささげようではないか。 そして、善を行うことと施しをすることとを、忘れてはいけない。神は、このようないけにえを喜ばれる。

ヘブル人への手紙 13:2‭-‬3‭, ‬5‭-‬6‭, ‬8‭-‬9‭, ‬15‭-‬16 JA1955
http://bible.com/81/heb.13.2-16.JA1955

そこで、わたしが切実な思いで待ち望むことは、わたしが、どんなことがあっても恥じることなく、かえって、いつものように今も、大胆に語ることによって、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられることである。 わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。

ピリピ人への手紙 1:20‭-‬21 JA1955
http://bible.com/81/php.1.20-21.JA1955

わたしたちも数は多いが、キリストにあって一つのからだであり、また各自は互に肢体だからである。 このように、わたしたちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っているので、もし、それが預言であれば、信仰の程度に応じて預言をし、 奉仕であれば奉仕をし、また教える者であれば教え、 勧めをする者であれば勧め、寄附する者は惜しみなく寄附し、指導する者は熱心に指導し、慈善をする者は快く慈善をすべきである。 愛には偽りがあってはならない。悪は憎み退け、善には親しみ結び、 兄弟の愛をもって互にいつくしみ、進んで互に尊敬し合いなさい。 熱心で、うむことなく、霊に燃え、主に仕え、 望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい。 貧しい聖徒を助け、努めて旅人をもてなしなさい。 あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福して、のろってはならない。 喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。 互に思うことをひとつにし、高ぶった思いをいだかず、かえって低い者たちと交わるがよい。自分が知者だと思いあがってはならない。

ローマ人への手紙 12:5‭-‬16 JA1955
http://bible.com/81/rom.12.5-16.JA1955

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口語訳聖書は、 新共同訳、新改訳よりも前に、日本の全てのプロテスタント教会で使われていたものです。





■私たちクリスチャンは二人三人でも集まれば、そこを「キリストのみからだ」とすることができます。
洗礼の意味は「キリストへの信仰を持つ、人生の方向転換(悔い改め・回心)の決意」です。(洗礼は、授けた教会の組織員となる会員制度とは別のものです。)
牧師を上位に戴かずに、水平の交わりを心がけ、共に祈り神様を見つめて御声に聞き従うことを望み進む、この決心を共有する交わり・ネットワークを目標とする「キリストのみからだの教会」のあり方を求めます。
現状では「頼れる人として誰か教師を自分の上に置きたがる人の弱さ」を認め、私たちは日々そこから脱出して神様に祈り、主にある交わりをいただきます。同時に、助けを求める人の祈りに、あらゆる形で呼応するクリスチャンであることを決意し、自立への助けが必ずある「みからだのネットワーク」であることを目指しています。(CFF小倉福音センターの祈り・信仰指標から)

■福音派・聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)・聖書主義の人が内包する「カルト化問題」をこの世代で終息できますように。教会が牧師の誤り・マインドコントロール・権威主義・独裁を指摘できずに多くの人を従わせ、モラルや常識など、どの人にもある心の引っかかりや良心をなおざりにして、聖書信仰やリバイバル信仰に熱くなって人を裁き、自分と家族に負担をかけ、2世や若いクリスチャンの離反を招いていることを克服できますように。
また、脱会後の「脱マインドコントロール」のリハビリ・回復と、その実生活の困難さを理解できますように。
これを信仰的姿勢と現実的姿勢で正面から捉えて祈ります。
時に辛らつに人の内面を見ることが必要かもしれませんが、自分の中にも確かにあるものとして心の整理をすることで、問題の本質が見えるのかもしれません。
試練は、神に真に祈り出会うための神の摂理と言えますが、それを認める強さが欲しいですし、求めていく中で見えるものがあります。

■教会のカルト化や縛りに巻き込まれないための3つの知恵
1.祈りと聖書読み−−日々必要な神様との交わりと悔い改めをする、教えの風に翻弄(ほんろう)されない避け所として、各々個人の祈りと聖書読みのシェルターを確立しましょう。
2.二つ以上の教会に安心できる交わりを確保しましょう。−−今の所属教会に並行して、さらに避け所となる他の教会を必ず把握しておき、日ごろから広く他教会・他教派のクリスチャンと親しくし深い信頼関係を築きましょう。安心し信頼できる他教会や他教派の話題を所属教会で積極的に話しましょう。しかし、拒否や非難を受けはじめたら、他の信頼できる教会の交わりにそのことを伝え教会のカルト化の危険について話し合い、転会の準備を始めましょう。そのためにも、信頼あるクリスチャンの友情を日々拡げて大切にしましょう。
3. 教会以外の関わりを大切にしましょう。−−友人、家族、職場などで、ご自分を理解してくれる方々がいらっしゃると思います。その方の何気ない助言や世間話に、思いやりを感じることは、とても大切です。私たちが、信仰に対する外からの目を持つことにもなります。正しい「証し」は、一方的な押し付けではないことも分かります。

−−−真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために−−−
−− 避難の場(シェルター)としての「個人の祈り」を守るために −−
執筆者 仁保裕介(プロフィール
『すべて失望した人の唇に祈りを。』
祈りは、生活の現場から誰にでも自由にできるものです。
キリストは呼び求めるすべての人と共に居る方です。清い人や会堂や神殿にしか現れない方ではありません。むしろ、自分はふさわしくないと思う人のそばに居るのがキリストです。
受洗して教会員になった教会が、「この教会で信仰生活を続けられなければ、救いや信仰の道から外れる」と言うのは、真実ではありません。
 避難の場(シェルター)としてキリストに求める祈りには、「キリストが共に居る交わり」が必ず与えられています。
このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。テーマは重いですが、皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。キリスト教の視点で、成長、試練、十字架、悔い改め、聖化の記事になっています。
ほんの5才から信仰45年のクリスチャン2世として、キリスト教会内の教派主義・人間関係・権威化・カルト化によって傷を受けた皆さんと共に祈り、脱出と自立と今後の信仰について現実的視点で触れていきます。
元「主の十字架クリスチャンセンター 鎌倉教会、北九州教会」牧師・脱会者


『どの人も気付かないリミッターに支配され、人は本来の能力を使っていない』と、
自己啓発セミナーや新興宗教で言われたりします。
『蚤が蓋つきの瓶に閉じ込められると、最初は跳ぶが、何度やっても出られないので跳ばなくなり、蓋を開けてももう何も試みなくなる。
人も同じで、自分で可能性や能力をとどめている。だから、思い切って自分を解放しよう。』と言うのです。

しかし、その解放のセミナーも、実は瓶の中です。すべての人を、同じ型に閉じ込めるものだからです。

本来の解放は、それぞれ違うもので、それぞれが内なる限界をよく知ることで、道筋が見えてきます。

あるセミナーでは、『親や先祖から受け継いだものがあるから』と、その抑圧からの解放を説きます。

しかし、真の解放は、
様々な限界を認め、受け入れて、
その痛みや葛藤や恨みや憎しみがあってもそのままで、
淡々と自分が信じられる愛や赦しや助けを受け入れて、人の間で行い合うことです。

キリストの道と教えがそうなっています。
神はまず人が罪あるままそのままに、その上で愛と赦しを説き、
神である御子キリストを世に送って、劣った人の姿をとって生まれさせ、 人の好意を受け、 人の子として人に教え、人によって十字架につけられるために、人の罪のあがないとして、御子を人にただで一方的にお与えになりました。

救いは私たちの方が最初に罪に気づいて悔い改めたからではなく、
私たちが まだ 罪に隷属して全く無知な時に、
神の方がはじめに赦しと愛の行動を起こしたから、救われるのです。

ですから、「救いに必要な条件」は、
まず私たちが罪をすべて調べ上げて無くしたり罪から離れることではなく、
罪あるところにすでに働いている神の愛と赦しをただ信じて受け入れることです。


わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。
正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。
しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。 わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。
もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。

律法がはいり込んできたのは、罪過の増し加わるためである。しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。

ローマ人への手紙 5:6‭-‬10‭, ‬20 JA1955
http://bible.com/81/rom.5.6-20.JA1955


もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。 もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。 もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない。

ヨハネの第一の手紙 1:8‭-‬10 JA1955
http://bible.com/81/1jn.1.8-10.JA1955


神に一方的に赦されることを良しとしないで、
神の犠牲と愛に『お返しする』と告白する信仰が存在しますが、
『神に、奉仕や献金や伝道や清い努力でお返しする』と言う場合、
「救いが100%神の恵みだ」という告白になっていないことがあります。

日本には『お返し』の習慣があって、贈り物や好意に、同じ位のお返しを心掛けたりしますから、信仰上もこんな無意識の自我が働きます。日本の社会生活に必要な儀礼になっていますが、これを神に対しても同じようにするなら間違った信仰になってしまいます。
旧約の律法の束縛のように、 この儀礼を神に行うなら信仰上では自由がなくなる束縛であり、日本人としてどうしても葛藤してしまう問題であり、人の限界の一つかもしれません。
これを手放すなど、人としてのプライドを捨てるのと同じだと感じる部分であり、

このどうしても手放せないプライドや自我の問題は、無意識の領域のことで、信仰上の大きな障害です。

もし、信仰の知恵を働かせることができるなら、そんな自分のありのままを意識して認めた上で、神様に祈って、ナアマン将軍のようにへりくだる道もあります。 列王記第二5章のように、 人に報いるのを諦め、お返しとしてではない、ただ神を認め崇める自分だけの礼拝をする道です。
http://bible.com/81/2ki.5.1-27.JA1955


行って、『天国が近づいた』と宣べ伝えよ。 病人をいやし、死人をよみがえらせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出せ。ただで受けたのだから、ただで与えるがよい。

マタイによる福音書 10:7‭-‬8 JA1955
http://bible.com/81/mat.10.7-8.JA1955


ただで受けた救いをお返しするのではなく、ただで誰かに与えることが、神に救われている人の道です。
そこに強引に自分の存在感や納得を挟もうとする限界を私たちは持っています。

私たちは、神様にただ愛されているのです。その愛と恵みを単純に信じるのが、本来の親と子の関係であり、子どものような信仰は、お返しをせずひたすら受け取る信仰です。
神に対して子であることは永遠のことです。どこまで行っても、人は神にお返しするような存在になることはありません。

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口語訳聖書は、 新共同訳、新改訳よりも前に、日本の全てのプロテスタント教会で使われていたものです。





■私たちクリスチャンは二人三人でも集まれば、そこを「キリストのみからだ」とすることができます。
洗礼の意味は「キリストへの信仰を持つ、人生の方向転換(悔い改め・回心)の決意」です。(洗礼は、授けた教会の組織員となる会員制度とは別のものです。)
牧師を上位に戴かずに、水平の交わりを心がけ、共に祈り神様を見つめて御声に聞き従うことを望み進む、この決心を共有する交わり・ネットワークを目標とする「キリストのみからだの教会」のあり方を求めます。
現状では「頼れる人として誰か教師を自分の上に置きたがる人の弱さ」を認め、私たちは日々そこから脱出して神様に祈り、主にある交わりをいただきます。同時に、助けを求める人の祈りに、あらゆる形で呼応するクリスチャンであることを決意し、自立への助けが必ずある「みからだのネットワーク」であることを目指しています。(CFF小倉福音センターの祈り・信仰指標から)

■福音派・聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)・聖書主義の人が内包する「カルト化問題」をこの世代で終息できますように。教会が牧師の誤り・マインドコントロール・権威主義・独裁を指摘できずに多くの人を従わせ、モラルや常識など、どの人にもある心の引っかかりや良心をなおざりにして、聖書信仰やリバイバル信仰に熱くなって人を裁き、自分と家族に負担をかけ、2世や若いクリスチャンの離反を招いていることを克服できますように。
また、脱会後の「脱マインドコントロール」のリハビリ・回復と、その実生活の困難さを理解できますように。
これを信仰的姿勢と現実的姿勢で正面から捉えて祈ります。
時に辛らつに人の内面を見ることが必要かもしれませんが、自分の中にも確かにあるものとして心の整理をすることで、問題の本質が見えるのかもしれません。
試練は、神に真に祈り出会うための神の摂理と言えますが、それを認める強さが欲しいですし、求めていく中で見えるものがあります。

■教会のカルト化や縛りに巻き込まれないための3つの知恵
1.祈りと聖書読み−−日々必要な神様との交わりと悔い改めをする、教えの風に翻弄(ほんろう)されない避け所として、各々個人の祈りと聖書読みのシェルターを確立しましょう。
2.二つ以上の教会に安心できる交わりを確保しましょう。−−今の所属教会に並行して、さらに避け所となる他の教会を必ず把握しておき、日ごろから広く他教会・他教派のクリスチャンと親しくし深い信頼関係を築きましょう。安心し信頼できる他教会や他教派の話題を所属教会で積極的に話しましょう。しかし、拒否や非難を受けはじめたら、他の信頼できる教会の交わりにそのことを伝え教会のカルト化の危険について話し合い、転会の準備を始めましょう。そのためにも、信頼あるクリスチャンの友情を日々拡げて大切にしましょう。
3. 教会以外の関わりを大切にしましょう。−−友人、家族、職場などで、ご自分を理解してくれる方々がいらっしゃると思います。その方の何気ない助言や世間話に、思いやりを感じることは、とても大切です。私たちが、信仰に対する外からの目を持つことにもなります。正しい「証し」は、一方的な押し付けではないことも分かります。

−−−真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために−−−
−− 避難の場(シェルター)としての「個人の祈り」を守るために −−
執筆者 仁保裕介(プロフィール
『すべて失望した人の唇に祈りを。』
祈りは、生活の現場から誰にでも自由にできるものです。
キリストは呼び求めるすべての人と共に居る方です。清い人や会堂や神殿にしか現れない方ではありません。むしろ、自分はふさわしくないと思う人のそばに居るのがキリストです。
受洗して教会員になった教会が、「この教会で信仰生活を続けられなければ、救いや信仰の道から外れる」と言うのは、真実ではありません。
 避難の場(シェルター)としてキリストに求める祈りには、「キリストが共に居る交わり」が必ず与えられています。
このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。テーマは重いですが、皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。キリスト教の視点で、成長、試練、十字架、悔い改め、聖化の記事になっています。
ほんの5才から信仰45年のクリスチャン2世として、キリスト教会内の教派主義・人間関係・権威化・カルト化によって傷を受けた皆さんと共に祈り、脱出と自立と今後の信仰について現実的視点で触れていきます。
元「主の十字架クリスチャンセンター 鎌倉教会、北九州教会」牧師・脱会者

「救い」にある智恵を尋ね求めて祈る人に、
神はその求めにふさわしく、イエス・キリストを知る道を備え、支え、与え、満たそうとされます。
神共に居ます恵みを知らせ、神の国を悟らせ、代えがたい希望と平安を与えます。

イエス・キリストは神の御子であるのに、地上に来られ、
完全な神でありながら完全な人となり、
罪の無い唯一の人として生まれ、人の肉体に留まり、
すべての人の罪をあがなう犠牲のいけにえとなり、
すべての人に永遠に生きる霊の命を与えるために復活されました。

地上での奉仕や献身は、このために人生を神に委ねることです。
人生と伝道と教会の交わりは、私たちが互いにこれを悟るためです。

但し、地上の人生では、とどまるべき人の弱さの限界は超えられません。

私たちは天を遥かに仰ぎ憧れ、キリストによる救いの約束の完成を待ち望みます。

人は、神の心の思いのすべてを知ることはできません。
祈り、神と交わり、導きを求め、御声を聞きますが、自分の人生さえままなりません。
この戸惑いと不安と、神に反する罪の傷と痛みを、人は皆抱えて地上に居り、愛と赦しをあまり信じられずに居ます。

神が示されることは、人の視点より常に高く、人の思いよりも根本的で、同時に人の罪ゆえに人がとどまるべき弱さ愚かさの限界を定めています。

しかし、それでも神は地上で暮らす人の肉体に必要な糧を与え、満たし、同時に人の愚かさにこそ働く霊の成長に必要な糧を豊かに備えます。

高ぶる肉には、妥当なリミットを教えます。肉の命は脆く、地上の人生は短くされています。
それは、 救いの必要を感じ、 心の本音として真剣に神を求め、信仰の価値、神にある命の価値を知るためです。

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天にも地にも主は満ちている。  2017-09-18
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生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。
しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。
ガラテヤ人への手紙 2:20 JA1955口語訳
http://bible.com/81/gal.2.20.JA1955

私にとって生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。
ヒリピ人への手紙1:20 新改訳

6あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。
7また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。 8だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。
9だから、あなたがたはこう祈りなさい、
マタイによる福音書 6:6-9 JA1955口語訳
https://www.bible.com/ja/bible/81/MAT.6.ja1955

主の祈り

天にまします我らの父よ。
ねがわくは御名〔みな〕をあがめさせたまえ。
御国〔みくに〕を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧〔かて〕を、今日〔きょう〕も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、
悪より救いいだしたまえ。
国と力と栄えとは、
限りなくなんじのものなればなり。
アーメン。

詩篇 139:1‭-‬24 JA1955
主よ、あなたはわたしを探り、わたしを知りつくされました。
あなたはわがすわるをも、立つをも知り、遠くからわが思いをわきまえられます。 あなたはわが歩むをも、伏すをも探り出し、わがもろもろの道をことごとく知っておられます。 わたしの舌に一言もないのに、主よ、あなたはことごとくそれを知られます。 あなたは後から、前からわたしを囲み、わたしの上にみ手をおかれます。
このような知識はあまりに不思議で、わたしには思いも及びません。これは高くて達することはできません。
わたしはどこへ行って、あなたのみたまを離れましょうか。わたしはどこへ行って、あなたのみ前をのがれましょうか。 わたしが天にのぼっても、あなたはそこにおられます。わたしが陰府に床を設けても、あなたはそこにおられます。 わたしがあけぼのの翼をかって海のはてに住んでも、 あなたのみ手はその所でわたしを導き、あなたの右のみ手はわたしをささえられます。
「やみはわたしをおおい、わたしを囲む光は夜となれ」とわたしが言っても、 あなたには、やみも暗くはなく、夜も昼のように輝きます。あなたには、やみも光も異なることはありません。
あなたはわが内臓をつくり、わが母の胎内でわたしを組み立てられました。
わたしはあなたをほめたたえます。あなたは恐るべく、くすしき方だからです。あなたのみわざはくすしく、あなたは最もよくわたしを知っておられます。 わたしが隠れた所で造られ、地の深い所でつづり合わされたとき、わたしの骨はあなたに隠れることがなかった。 あなたの目は、まだできあがらないわたしのからだを見られた。わたしのためにつくられたわがよわいの日のまだ一日もなかったとき、その日はことごとくあなたの書にしるされた。
神よ、あなたのもろもろのみ思いは、なんとわたしに尊いことでしょう。その全体はなんと広大なことでしょう。 わたしがこれを数えようとすれば、その数は砂よりも多い。
わたしが目ざめるとき、わたしはなおあなたと共にいます。
神よ、どうか悪しき者を殺してください。血を流す者をわたしから離れ去らせてください。 彼らは敵意をもってあなたをあなどり、あなたに逆らって高ぶり、悪を行う人々です。 主よ、わたしはあなたを憎む者を憎み、あなたに逆らって起り立つ者をいとうではありませんか。 わたしは全く彼らを憎み、彼らをわたしの敵と思います。
神よ、どうか、わたしを探って、わが心を知り、わたしを試みて、わがもろもろの思いを知ってください。 わたしに悪しき道のあるかないかを見て、わたしをとこしえの道に導いてください。
http://bible.com/81/psa.139.1-24.JA1955

箴言 2章
わが子よ、もしあなたがわたしの言葉を受け、わたしの戒めを、あなたの心におさめ、 あなたの耳を知恵に傾け、あなたの心を悟りに向け、 しかも、もし知識を呼び求め、悟りを得ようと、あなたの声をあげ、銀を求めるように、これを求め、かくれた宝を尋ねるように、これを尋ねるならば、 あなたは、主を恐れることを悟り、神を知ることができるようになる。
これは、主が知恵を与え、知識と悟りとは、み口から出るからである。 彼は正しい人のために、確かな知恵をたくわえ、誠実に歩む者の盾となって、 公正の道を保ち、その聖徒たちの道筋を守られる。 そのとき、あなたは、ついに正義と公正、公平とすべての良い道を悟る。 これは知恵が、あなたの心にはいり、知識があなたの魂に楽しみとなるからである。 慎みはあなたを守り、悟りはあなたを保って、 悪の道からあなたを救い、偽りをいう者から救う。 彼らは正しい道を離れて、暗い道に歩み、悪を行うことを楽しみ、悪人の偽りを喜び、 その道は曲り、その行いは、よこしまである。
https://www.bible.com/ja/bible/81/PRO.2:1-15.ja1955

箴言 3:5-8,11-15
5心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。 6すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。 7自分を見て賢いと思ってはならない、主を恐れて、悪を離れよ。 8そうすれば、あなたの身を健やかにし、あなたの骨に元気を与える。

11わが子よ、主の懲らしめを軽んじてはならない、その戒めをきらってはならない。 12主は、愛する者を、戒められるからである、あたかも父がその愛する子を戒めるように。 13知恵を求めて得る人、悟りを得る人はさいわいである。 14知恵によって得るものは、銀によって得るものにまさり、その利益は精金よりも良いからである。 15知恵は宝石よりも尊く、あなたの望む何物も、これと比べるに足りない。
https://www.bible.com/ja/bible/81/PRO.3:5-8,11-15.ja1955

箴言 8:34-36
34わたしの言うことを聞き、日々わたしの門のかたわらでうかがい、わたしの戸口の柱のわきで待つ人はさいわいである。 35それは、わたしを得る者は命を得、主から恵みを得るからである。 36わたしを失う者は自分の命をそこなう、すべてわたしを憎む者は死を愛する者である」。
https://www.bible.com/ja/bible/81/PRO.8:34-36.ja1955

箴言 12:6-19

6悪しき者の言葉は、人の血を流そうとうかがう、正しい人の口は人を救う。 7悪しき者は倒されて、うせ去る、正しい人の家は堅く立つ。 8人はその悟りにしたがって、ほめられ、心のねじけた者は、卑しめられる。 9身分の低い人でも自分で働く者は、みずから高ぶって食に乏しい者にまさる。
10正しい人はその家畜の命を顧みる、悪しき者は残忍をもって、あわれみとする。 11自分の田地を耕す者は食糧に飽きる、無益な事に従う者は知恵がない。 12悪しき者の堅固なやぐらは崩壊する、正しい人の根は堅く立つ。 13悪人はくちびるのとがによって、わなに陥る、しかし正しい人は悩みをのがれる。 14人はその口の実によって、幸福に満ち足り、人の手のわざは、その人の身に帰る。
15愚かな人の道は、自分の目に正しく見える、しかし知恵ある者は勧めをいれる。 16愚かな人は、すぐに怒りをあらわす、しかし賢い人は、はずかしめをも気にとめない。 17真実を語る人は正しい証言をなし、偽りの証人は偽りを言う。 18つるぎをもって刺すように、みだりに言葉を出す者がある、しかし知恵ある人の舌は人をいやす。 19真実を言うくちびるは、いつまでも保つ、偽りを言う舌は、ただ、まばたきの間だけである。
https://www.bible.com/ja/bible/81/PRO.12:6-19.ja1955

知恵はその家を建て、愚かさは自分の手でそれをこわす。 まっすぐに歩む者は主を恐れる、曲って歩む者は主を侮る。 愚かな者の言葉は自分の背にむちを当てる、知恵ある者のくちびるはその身を守る。 牛がなければ穀物はない、牛の力によって農作物は多くなる。 真実な証人はうそをいわない、偽りの証人はうそをつく。 あざける者は知恵を求めても得られない、さとき者は知識を得ることがたやすい。 愚かな者の前を離れ去れ、そこには知識の言葉がないからである。 さとき者の知恵は自分の道をわきまえることにあり、愚かな者の愚かは、欺くことにある。 神は悪しき者をあざけられる、正しい者は、その恵みを受ける。 心の苦しみは心みずからが知る、その喜びには他人はあずからない。 悪しき者の家は滅ぼされ、正しい者の幕屋は栄える。
人が見て自ら正しいとする道でも、その終りはついに死に至る道となるものがある。
笑う時にも心に悲しみがあり、喜びのはてに憂いがある。 心のもとれる者はそのしわざの実を刈り取り、善良な人もまたその行いの実を刈り取る。 思慮のない者はすべてのことを信じる、さとき者は自分の歩みを慎む。
知恵ある者は用心ぶかく、悪を離れる、愚かな者は高ぶって用心しない。 怒りやすい者は愚かなことを行い、賢い者は忍耐強い。 思慮のない者は愚かなことを自分のものとする、さとき者は知識をもって冠とする。 悪人は善人の前にひれ伏し、悪しき者は正しい者の門にひれ伏す。 貧しい者はその隣にさえも憎まれる、しかし富める者は多くの友をもつ。 隣り人を卑しめる者は罪びとである、貧しい人をあわれむ者はさいわいである。

隣り人を卑しめる者は罪びとである、貧しい人をあわれむ者はさいわいである。 悪を計る者はおのれを誤るではないか、善を計る者にはいつくしみと、まこととがある。 すべての勤労には利益がある、しかし口先だけの言葉は貧乏をきたらせるだけだ。 知恵ある者の冠はその知恵である、愚かな者の花の冠はただ愚かさである。 まことの証人は人の命を救う、偽りを吐く者は裏切者である。 主を恐れることによって人は安心を得、その子らはのがれ場を得る。 主を恐れることは命の泉である、人を死のわなからのがれさせる。 王の栄えは民の多いことにあり、君の滅びは民を失うことにある。 怒りをおそくする者は大いなる悟りがあり、気の短い者は愚かさをあらわす。 穏やかな心は身の命である、しかし興奮は骨を腐らせる。 貧しい者をしえたげる者はその造り主を侮る、乏しい者をあわれむ者は、主をうやまう。 悪しき者はその悪しき行いによって滅ぼされ、正しい者はその正しきによって、のがれ場を得る。 知恵はさとき者の心にとどまり、愚かな者の心に知られない。 正義は国を高くし、罪は民をはずかしめる。 賢いしもべは王の恵みをうけ、恥をきたらす者はその怒りにあう。
箴言 14:1‭-‬35 JA1955
http://bible.com/81/pro.14.1-35.JA1955

柔らかい答は憤りをとどめ、激しい言葉は怒りをひきおこす。
知恵ある者の舌は知識をわかち与え、愚かな者の口は愚かを吐き出す。 主の目はどこにでもあって、悪人と善人とを見張っている。
優しい舌は命の木である、乱暴な言葉は魂を傷つける。

知恵ある者のくちびるは知識をひろめる、愚かな者の心はそうでない。
悪しき者の供え物は主に憎まれ、正しい者の祈は彼に喜ばれる。 悪しき者の道は主に憎まれ、正義を求める者は彼に愛せられる。 道を捨てる者には、きびしい懲らしめがあり、戒めを憎む者は死に至る。 陰府と滅びとは主の目の前にあり、人の心はなおさらである。
あざける者は戒められることを好まない、また知恵ある者に近づかない。

少しの物を所有して主を恐れるのは、多くの宝をもって苦労するのにまさる。 野菜を食べて互に愛するのは、肥えた牛を食べて互に憎むのにまさる。
憤りやすい者は争いをおこし、怒りをおそくする者は争いをとどめる。

人は口から出る好ましい答によって喜びを得る、時にかなった言葉は、いかにも良いものだ。知恵ある人の道は上って命に至る、こうしてその人は下にある陰府を離れる。

主を恐れることは知恵の教訓である、謙遜は、栄誉に先だつ。
箴言 15:1‭-‬4‭, ‬7‭-‬12‭, ‬16‭-‬18‭, ‬23‭-‬24‭, ‬33 JA1955
http://bible.com/81/pro.15.1-33.JA1955

心にはかることは人に属し、舌の答は主から出る。 人の道は自分の目にことごとく潔しと見える、しかし主は人の魂をはかられる。 あなたのなすべき事を主にゆだねよ、そうすれば、あなたの計るところは必ず成る。 主はすべての物をおのおのその用のために造り、悪しき人をも災の日のために造られた。 すべて心に高ぶる者は主に憎まれる、確かに、彼は罰を免れない。 いつくしみとまことによって、とがはあがなわれる、主を恐れることによって、人は悪を免れる。 人の道が主を喜ばせる時、主はその人の敵をもその人と和らがせられる。 正義によって得たわずかなものは、不義によって得た多くの宝にまさる。 人は心に自分の道を考え計る、しかし、その歩みを導く者は主である。

知恵を得るのは金を得るのにまさる、悟りを得るのは銀を得るよりも望ましい。

心に知恵ある者はさとき者ととなえられる、くちびるが甘ければ、その教に人を説きつける力を増す。 知恵はこれを持つ者に命の泉となる、しかし、愚かさは愚かな者の受ける懲らしめである。 知恵ある者の心はその言うところを賢くし、またそのくちびるに人を説きつける力を増す。 ここちよい言葉は蜂蜜のように、魂に甘く、からだを健やかにする。 人が見て自分で正しいとする道があり、その終りはついに死にいたる道となるものがある。

人はくじをひく、しかし事を定めるのは全く主のことである。
箴言 16:1‭-‬9‭, ‬16‭, ‬21‭-‬25‭, ‬33 JA1955
http://bible.com/81/pro.16.1-33.JA1955

平穏であって、ひとかたまりのかわいたパンのあるのは、争いがあって、食物の豊かな家にまさる。

一度の戒めがさとき人に徹するのは、百度の懲らしめが愚かな人に徹するよりも深い。

愚かな者はすでに心がないのに、どうして知恵を買おうとして手にその代金を持っているのか。 友はいずれの時にも愛する、兄弟はなやみの時のために生れる。 知恵のない人は手をうって、その隣り人の前で保証をする。

さとき者はその顔を知恵にむける、しかし、愚かな者は目を地の果にそそぐ。

言葉を少なくする者は知識のある者、心の冷静な人はさとき人である。 愚かな者も黙っているときは、知恵ある者と思われ、そのくちびるを閉じている時は、さとき者と思われる。
箴言 17:1‭, ‬10‭-‬10‭, ‬16‭-‬18‭, ‬24‭, ‬27‭-‬28 JA1955
http://bible.com/81/pro.17.1-28.JA1955

人と交わりをしない者は口実を捜し、すべてのよい考えに激しく反対する。 愚かな者は悟ることを喜ばず、ただ自分の意見を言い表わすことを喜ぶ。 悪しき者が来ると、卑しめもまた来る、不名誉が来ると、はずかしめも共にくる。 人の口の言葉は深い水のようだ、知恵の泉は、わいて流れる川である。 悪しき者をえこひいきすることは良くない、正しい者をさばいて、悪しき者とすることも良くない。 愚かな者のくちびるは争いを起し、その口はむち打たれることを招く。 愚かな者の口は自分の滅びとなり、そのくちびるは自分を捕えるわなとなる。 人のよしあしをいう者の言葉はおいしい食物のようで、腹の奥にしみこむ。 その仕事を怠る者は、滅ぼす者の兄弟である。 主の名は堅固なやぐらのようだ、正しい者はその中に走りこんで救を得る。 富める者の富はその堅き城である、それは高き城壁のように彼を守る。 人の心の高ぶりは滅びにさきだち、謙遜は栄誉にさきだつ。 事をよく聞かないで答える者は、愚かであって恥をこうむる。 人の心は病苦をも忍ぶ、しかし心の痛むときは、だれがそれに耐えようか。 さとき者の心は知識を得、知恵ある者の耳は知識を求める。 人の贈り物は、その人のために道をひらき、また尊い人の前に彼を導く。 先に訴え出る者は正しいように見える、しかしその訴えられた人が来て、それを調べて、事は明らかになる。 人は自分の言葉の結ぶ実によって、満ち足り、そのくちびるの産物によって自ら飽きる。 死と生とは舌に支配される、これを愛する者はその実を食べる。 妻を得る者は、良き物を得る、かつ主から恵みを与えられる。 貧しい者は、あわれみを請い、富める者は、はげしい答をする。 世には友らしい見せかけの友がある、しかし兄弟よりもたのもしい友もある。
箴言 18:1‭-‬17‭, ‬20‭-‬24 JA1955
http://bible.com/81/pro.18.1-24.JA1955

人は自分の愚かさによって道につまずき、かえって心のうちに主をうらむ。

悟りは人に怒りを忍ばせる、あやまちをゆるすのは人の誉である。

人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ。
人に望ましいのは、いつくしみ深いことである、貧しい人は偽りをいう人にまさる。

箴言 19:3‭, ‬11‭-‬11‭, ‬21‭-‬22 JA1955
http://bible.com/81/pro.19.3-22.JA1955

人の心にある計りごとは深い井戸の水のようだ、
しかし、さとき人はこれをくみ出す。 自分は真実だという人が多い、しかし、だれが忠信な人に会うであろうか。

だれが「わたしは自分の心を清めた、わたしの罪は清められた」ということができようか。

歩きまわって人のよしあしをいう者は秘密をもらす、
くちびるを開いて歩く者と交わってはならない。

人の歩みは主によって定められる、
人はどうして自らその道を、明らかにすることができようか。 軽々しく「これは聖なるささげ物だ」と言い、また誓いを立てて後に考えることは、その人のわなとなる。

人の魂は主のともしびであり、人の心の奥を探る。
箴言 20:5‭-‬6‭, ‬9‭, ‬19‭-‬19‭, ‬24‭-‬25‭, ‬27 JA1955
http://bible.com/81/pro.20.5-27.JA1955

人の道は自分の目には正しく見える、しかし主は人の心をはかられる。

悪しき者はひねもす人の物をむさぼる、正しい者は与えて惜しまない。

偽りの証人は滅ぼされる、よく聞く人の言葉はすたることがない。
悪しき者はあつかましくし、正しい人はその道をつつしむ。
主に向かっては知恵も悟りも、計りごとも、なんの役にも立たない。
箴言 21:2‭, ‬26‭-‬26‭, ‬28‭-‬30 JA1955
http://bible.com/81/pro.21.2-30.JA1955

令名は大いなる富にまさり、恩恵は銀や金よりも良い。 富める者と貧しい者とは共に世におる、すべてこれを造られたのは主である。
人を見て恵む者はめぐまれる、自分のパンを貧しい人に与えるからである。 貧しい者をしえたげて自分の富を増そうとする者と、富める者に与える者とは、ついに必ず貧しくなる。 貧しい者を、貧しいゆえに、かすめてはならない、悩む者を、町の門でおさえつけてはならない。 それは主が彼らの訴えをただし、かつ彼らをそこなう者の命を、そこなわれるからである。 怒る者と交わるな、憤る人と共に行くな。 それはあなたがその道にならって、みずから、わなに陥ることのないためである。 あなたは人と手を打つ者となってはならない、人の負債の保証をしてはならない。 あなたが償うものがないとき、あなたの寝ている寝床までも、人が奪い取ってよかろうか。
箴言 22:1‭-‬2‭, ‬9‭, ‬16‭-‬16‭, ‬22‭-‬27 JA1955
http://bible.com/81/pro.22.1-27.JA1955

富を得ようと苦労してはならない、かしこく思いとどまるがよい。 あなたの目をそれにとめると、それはない、富はたちまち自ら翼を生じて、わしのように天に飛び去るからだ。

愚かな者の耳に語ってはならない、彼はあなたの言葉が示す知恵をいやしめるからだ。
古い地境を移してはならない、みなしごの畑を侵してはならない。 彼らのあがない主は強くいらせられ、あなたに逆らって彼らの訴えを弁護されるからだ。
あなたの心を教訓に用い、あなたの耳を知識の言葉に傾けよ。

心に罪びとをうらやんではならない、ただ、ひねもす主を恐れよ。 かならず後のよい報いがあって、あなたの望みは、すたらない。 わが子よ、よく聞いて、知恵を得よ、かつ、あなたの心を道に向けよ。
箴言 23:4‭-‬5‭, ‬9‭-‬12‭, ‬17‭-‬19 JA1955
http://bible.com/81/pro.23.4-19.JA1955

家は知恵によって建てられ、悟りによって堅くせられ、 また、へやは知識によってさまざまの尊く、麗しい宝で満たされる。 知恵ある者は強い人よりも強く、知識ある人は力ある人よりも強い。 良い指揮によって戦いをすることができ、勝利は多くの議する者がいるからである。知恵は高くて愚かな者の及ぶところではない、愚かな者は門で口を開くことができない。

もしあなたが悩みの日に気をくじくならば、あなたの力は弱い。 死地にひかれゆく者を助け出せ、滅びによろめきゆく者を救え。 あなたが、われわれはこれを知らなかったといっても、心をはかる者はそれを悟らないであろうか。あなたの魂を守る者はそれを知らないであろうか。彼はおのおのの行いにより、人に報いないであろうか。 わが子よ、蜜を食べよ、これは良いものである、また、蜂の巣のしたたりはあなたの口に甘い。 知恵もあなたの魂にはそのようであることを知れ。それを得るならば、かならず報いがあって、あなたの望みは、すたらない。

正しい者は七たび倒れても、また起きあがる、しかし、悪しき者は災によって滅びる。 あなたのあだが倒れるとき楽しんではならない、彼のつまずくとき心に喜んではならない。 主はそれを見て悪いこととし、その怒りを彼から転じられる。 悪を行う者のゆえに心を悩ましてはならない、よこしまな者をうらやんではならない。 悪しき者には後の良い報いはない、よこしまな者のともしびは消される。

外で、あなたの仕事を整え、畑で、すべての物をおのれのために備え、その後あなたの家を建てるがよい。 ゆえなく隣り人に敵して、証言をしてはならない、くちびるをもって欺いてはならない。 「彼がわたしにしたように、わたしも彼にしよう、わたしは人がしたところにしたがって、その人に報いよう」と言ってはならない。
箴言 24:3‭-‬7‭, ‬10‭-‬14‭, ‬16‭-‬20‭, ‬27‭-‬29 JA1955
http://bible.com/81/pro.24.3-29.JA1955

あなたが目に見たことを、軽々しく法廷に出してはならない。あとになり、あなたが隣り人にはずかしめられるとき、あなたはどうしようとするのか。 隣り人と争うことがあるならば、ただその人と争え、他人の秘密をもらしてはならない。 そうでないと、聞く者があなたをいやしめ、あなたは、いつまでもそしられる。 おりにかなって語る言葉は、銀の彫り物に金のりんごをはめたようだ。 知恵をもって戒める者は、これをきく者の耳にとって、金の耳輪、精金の飾りのようだ。

もしあなたのあだが飢えているならば、パンを与えて食べさせ、もしかわいているならば水を与えて飲ませよ。 こうするのは、火を彼のこうべに積むのである、主はあなたに報いられる。

自分の心を制しない人は、城壁のない破れた城のようだ。
箴言 25:8‭-‬12‭, ‬21‭-‬22‭, ‬28 JA1955
http://bible.com/81/pro.25.8-28.JA1955



伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。 日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。

すべての事は人をうみ疲れさせる、人はこれを言いつくすことができない。目は見ることに飽きることがなく、耳は聞くことに満足することがない。 先にあったことは、また後にもある、先になされた事は、また後にもなされる。日の下には新しいものはない。 「見よ、これは新しいものだ」と言われるものがあるか、それはわれわれの前にあった世々に、すでにあったものである。 前の者のことは覚えられることがない、また、きたるべき後の者のことも、後に起る者はこれを覚えることがない。 伝道者であるわたしはエルサレムで、イスラエルの王であった。 わたしは心をつくし、知恵を用いて、天が下に行われるすべてのことを尋ね、また調べた。これは神が、人の子らに与えて、ほねおらせられる苦しい仕事である。 わたしは日の下で人が行うすべてのわざを見たが、みな空であって風を捕えるようである。 曲ったものは、まっすぐにすることができない、欠けたものは数えることができない。 わたしは心の中に語って言った、「わたしは、わたしより先にエルサレムを治めたすべての者にまさって、多くの知恵を得た。わたしの心は知恵と知識を多く得た」。 わたしは心をつくして知恵を知り、また狂気と愚痴とを知ろうとしたが、これもまた風を捕えるようなものであると悟った。 それは知恵が多ければ悩みが多く、知識を増す者は憂いを増すからである。
伝道の書 1:2‭-‬3‭, ‬8‭-‬18 JA1955
http://bible.com/81/ecc.1.2-18.JA1955

わたしの心は知恵をもってわたしを導いているが、わたしは酒をもって自分の肉体を元気づけようと試みた。また、人の子は天が下でその短い一生の間、どんな事をしたら良いかを、見きわめるまでは、愚かな事をしようと試みた。 わたしは大きな事業をした。わたしは自分のために家を建て、ぶどう畑を設け、 池をつくって、木のおい茂る林に、そこから水を注がせた。 わたしは男女の奴隷を買った。またわたしの家で生れた奴隷を持っていた。わたしはまた、わたしより先にエルサレムにいただれよりも多くの牛や羊の財産を持っていた。 わたしはまた銀と金を集め、王たちと国々の財宝を集めた。またわたしは歌うたう男、歌うたう女を得た。また人の子の楽しみとするそばめを多く得た。 こうして、わたしは大いなる者となり、わたしより先にエルサレムにいたすべての者よりも、大いなる者となった。わたしの知恵もまた、わたしを離れなかった。 なんでもわたしの目の好むものは遠慮せず、わたしの心の喜ぶものは拒まなかった。わたしの心がわたしのすべての労苦によって、快楽を得たからである。そしてこれはわたしのすべての労苦によって得た報いであった。 そこで、わたしはわが手のなしたすべての事、およびそれをなすに要した労苦を顧みたとき、見よ、皆、空であって、風を捕えるようなものであった。日の下には益となるものはないのである。 わたしはまた、身をめぐらして、知恵と、狂気と、愚痴とを見た。そもそも、王の後に来る人は何をなし得ようか。すでに彼がなした事にすぎないのだ。 光が暗きにまさるように、知恵が愚痴にまさるのを、わたしは見た。 知者の目は、その頭にある。しかし愚者は暗やみを歩む。けれどもわたしはなお同一の運命が彼らのすべてに臨むことを知っている。 わたしは心に言った、「愚者に臨む事はわたしにも臨むのだ。それでどうしてわたしは賢いことがあろう」。わたしはまた心に言った、「これもまた空である」と。 そもそも、知者も愚者も同様に長く覚えられるものではない。きたるべき日には皆忘れられてしまうのである。知者が愚者と同じように死ぬのは、どうしたことであろう。

人は食い飲みし、その労苦によって得たもので心を楽しませるより良い事はない。これもまた神の手から出ることを、わたしは見た。 だれが神を離れて、食い、かつ楽しむことのできる者があろう。 神は、その心にかなう人に、知恵と知識と喜びとをくださる。しかし罪びとには仕事を与えて集めることと、積むことをさせられる。これは神の心にかなう者にそれを賜わるためである。これもまた空であって、風を捕えるようである。
伝道の書 2:3‭-‬4‭, ‬6‭-‬16‭, ‬24‭-‬26 JA1955
http://bible.com/81/ecc.2.3-26.JA1955

天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。 生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、 殺すに時があり、いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり、 泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時があり、 石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、 捜すに時があり、失うに時があり、保つに時があり、捨てるに時があり、 裂くに時があり、縫うに時があり、黙るに時があり、語るに時があり、 愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある。 働く者はその労することにより、なんの益を得るか。 わたしは神が人の子らに与えて、ほねおらせられる仕事を見た。 神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。 わたしは知っている。人にはその生きながらえている間、楽しく愉快に過ごすよりほかに良い事はない。 またすべての人が食い飲みし、そのすべての労苦によって楽しみを得ることは神の賜物である。 わたしは知っている。すべて神がなさる事は永遠に変ることがなく、これに加えることも、これから取ることもできない。神がこのようにされるのは、人々が神の前に恐れをもつようになるためである。 今あるものは、すでにあったものである。後にあるものも、すでにあったものである。神は追いやられたものを尋ね求められる。 わたしはまた、日の下を見たが、さばきを行う所にも不正があり、公義を行う所にも不正がある。 わたしは心に言った、「神は正しい者と悪い者とをさばかれる。神はすべての事と、すべてのわざに、時を定められたからである」と。 わたしはまた、人の子らについて心に言った、「神は彼らをためして、彼らに自分たちが獣にすぎないことを悟らせられるのである」と。 人の子らに臨むところは獣にも臨むからである。すなわち一様に彼らに臨み、これの死ぬように、彼も死ぬのである。彼らはみな同様の息をもっている。人は獣にまさるところがない。すべてのものは空だからである。 みな一つ所に行く。皆ちりから出て、皆ちりに帰る。 だれが知るか、人の子らの霊は上にのぼり、獣の霊は地にくだるかを。 それで、わたしは見た、人はその働きによって楽しむにこした事はない。これが彼の分だからである。だれが彼をつれていって、その後の、どうなるかを見させることができようか。
伝道の書 3:1‭-‬22 JA1955
http://bible.com/81/ecc.3.1-22.JA1955

わたしはまた、日の下に行われるすべてのしえたげを見た。見よ、しえたげられる者の涙を。彼らを慰める者はない。しえたげる者の手には権力がある。しかし彼らを慰める者はいない。 また、わたしはすべての労苦と、すべての巧みなわざを見たが、これは人が互にねたみあってなすものである。これもまた空であって、風を捕えるようである。 愚かなる者は手をつかねて、自分の肉を食う。 片手に物を満たして平穏であるのは、両手に物を満たして労苦し、風を捕えるのにまさる。
伝道の書 4:1‭, ‬4‭-‬6 JA1955
http://bible.com/81/ecc.4.1-6.JA1955

神の宮に行く時には、その足を慎むがよい。近よって聞くのは愚かな者の犠牲をささげるのにまさる。彼らは悪を行っていることを知らないからである。 神の前で軽々しく口をひらき、また言葉を出そうと、心にあせってはならない。神は天にいまし、あなたは地におるからである。それゆえ、あなたは言葉を少なくせよ。 夢は仕事の多いことによってきたり、愚かなる者の声は言葉の多いことによって知られる。 あなたは神に誓いをなすとき、それを果すことを延ばしてはならない。神は愚かな者を喜ばれないからである。あなたの誓ったことを必ず果せ。 あなたが誓いをして、それを果さないよりは、むしろ誓いをしないほうがよい。 あなたの口が、あなたに罪を犯させないようにせよ。また使者の前にそれは誤りであったと言ってはならない。どうして、神があなたの言葉を怒り、あなたの手のわざを滅ぼしてよかろうか。 夢が多ければ空なる言葉も多い。しかし、あなたは神を恐れよ。 あなたは国のうちに貧しい者をしえたげ、公道と正義を曲げることのあるのを見ても、その事を怪しんではならない。それは位の高い人よりも、さらに高い者があって、その人をうかがうからである。そしてそれらよりもなお高い者がある。

働く者は食べることが少なくても多くても、快く眠る。しかし飽き足りるほどの富は、彼に眠ることをゆるさない。 わたしは日の下に悲しむべき悪のあるのを見た。すなわち、富はこれをたくわえるその持ち主に害を及ぼすことである。 またその富は不幸な出来事によってうせ行くことである。それで、その人が子をもうけても、彼の手には何も残らない。 彼は母の胎から出てきたように、すなわち裸で出てきたように帰って行く。彼はその労苦によって得た何物をもその手に携え行くことができない。 人は全くその来たように、また去って行かなければならない。これもまた悲しむべき悪である。風のために労する者になんの益があるか。 人は一生、暗やみと、悲しみと、多くの悩みと、病と、憤りの中にある。 見よ、わたしが見たところの善かつ美なる事は、神から賜わった短い一生の間、食い、飲み、かつ日の下で労するすべての労苦によって、楽しみを得る事である。これがその分だからである。 また神はすべての人に富と宝と、それを楽しむ力を与え、またその分を取らせ、その労苦によって楽しみを得させられる。これが神の賜物である。 このような人は自分の生きる日のことを多く思わない。神は喜びをもって彼の心を満たされるからである。
伝道の書 5:1‭-‬8‭, ‬12‭-‬20 JA1955
http://bible.com/81/ecc.5.1-20.JA1955

すなわち神は富と、財産と、誉とを人に与えて、その心に慕うものを、一つも欠けることのないようにされる。しかし神は、その人にこれを持つことを許されないで、他人がこれを持つようになる。これは空である。悪しき病である。

たとい彼は千年に倍するほど生きても幸福を見ない。みな一つ所に行くのではないか。 人の労苦は皆、その口のためである。しかしその食欲は満たされない。 賢い者は愚かな者になんのまさるところがあるか。また生ける者の前に歩むことを知る貧しい者もなんのまさるところがあるか。 目に見る事は欲望のさまよい歩くにまさる。これもまた空であって、風を捕えるようなものである。 今あるものは、すでにその名がつけられた。そして人はいかなる者であるかは知られた。それで人は自分よりも力強い者と争うことはできない。 言葉が多ければむなしい事も多い。人になんの益があるか。 人はその短く、むなしい命の日を影のように送るのに、何が人のために善であるかを知ることができよう。だれがその身の後に、日の下に何があるであろうかを人に告げることができるか。
伝道の書 6:2‭, ‬6‭-‬12 JA1955
http://bible.com/81/ecc.6.2-12.JA1955

良き名は良き油にまさり、死ぬる日は生るる日にまさる。 悲しみの家にはいるのは、宴会の家にはいるのにまさる。死はすべての人の終りだからである。生きている者は、これを心にとめる。 悲しみは笑いにまさる。顔に憂いをもつことによって、心は良くなるからである。 賢い者の心は悲しみの家にあり、愚かな者の心は楽しみの家にある。 賢い者の戒めを聞くのは、愚かな者の歌を聞くのにまさる。

知恵が身を守るのは、金銭が身を守るようである。しかし、知恵はこれを持つ者に生命を保たせる。これが知識のすぐれた所である。 神のみわざを考えみよ。神の曲げられたものを、だれがまっすぐにすることができるか。 順境の日には楽しめ、逆境の日には考えよ。神は人に将来どういう事があるかを、知らせないために、彼とこれとを等しく造られたのである。 わたしはこのむなしい人生において、もろもろの事を見た。そこには義人がその義によって滅びることがあり、悪人がその悪によって長生きすることがある。 あなたは義に過ぎてはならない。また賢きに過ぎてはならない。あなたはどうして自分を滅ぼしてよかろうか。 悪に過ぎてはならない。また愚かであってはならない。あなたはどうして、自分の時のこないのに、死んでよかろうか。 あなたがこれを執るのはよい、また彼から手を引いてはならない。神をかしこむ者は、このすべてからのがれ出るのである。 知恵が知者を強くするのは、十人のつかさが町におるのにまさる。 善を行い、罪を犯さない正しい人は世にいない。 人の語るすべての事に心をとめてはならない。これはあなたが、自分のしもべのあなたをのろう言葉を聞かないためである。 あなたもまた、しばしば他人をのろったのを自分の心に知っているからである。 わたしは知恵をもってこのすべての事を試みて、「わたしは知者となろう」と言ったが、遠く及ばなかった。 物事の理は遠く、また、はなはだ深い。だれがこれを見いだすことができよう。
伝道の書 7:1‭-‬5‭, ‬12‭-‬24 JA1955
http://bible.com/81/ecc.7.1-24.JA1955

後に起る事を知る者はない。どんな事が起るかをだれが彼に告げ得よう。 風をとどめる力をもつ人はない。また死の日をつかさどるものはない。戦いには免除はない。また悪はこれを行う者を救うことができない。 わたしはこのすべての事を見た。また日の下に行われるもろもろのわざに心を用いた。時としてはこの人が、かの人を治めて、これに害をこうむらせることがある。 またわたしは悪人の葬られるのを見た。彼らはいつも聖所に出入りし、それを行ったその町でほめられた。これもまた空である。 悪しきわざに対する判決がすみやかに行われないために、人の子らの心はもっぱら悪を行うことに傾いている。 罪びとで百度悪をなして、なお長生きするものがあるけれども、神をかしこみ、み前に恐れをいだく者には幸福があることを、わたしは知っている。

わたしは心をつくして知恵を知ろうとし、また地上に行われるわざを昼も夜も眠らずに窮めようとしたとき、 わたしは神のもろもろのわざを見たが、人は日の下に行われるわざを窮めることはできない。人はこれを尋ねようと労しても、これを窮めることはできない。また、たとい知者があって、これを知ろうと思っても、これを窮めることはできないのである。
伝道の書 8:7‭-‬12‭, ‬16‭-‬17 JA1955
http://bible.com/81/ecc.8.7-17.JA1955

すべての人に臨むところは、みな同様である。正しい者にも正しくない者にも、善良な者にも悪い者にも、清い者にも汚れた者にも、犠牲をささげる者にも、犠牲をささげない者にも、その臨むところは同様である。善良な人も罪びとも異なることはない。誓いをなす者も、誓いをなすことを恐れる者も異なることはない。 すべての人に同一に臨むのは、日の下に行われるすべての事のうちの悪事である。また人の心は悪に満ち、その生きている間は、狂気がその心のうちにあり、その後は死者のもとに行くのである。 すべて生ける者に連なる者には望みがある。生ける犬は、死せるししにまさるからである。 生きている者は死ぬべき事を知っている。しかし死者は何事をも知らない、また、もはや報いを受けることもない。その記憶に残る事がらさえも、ついに忘れられる。 その愛も、憎しみも、ねたみも、すでに消えうせて、彼らはもはや日の下に行われるすべての事に、永久にかかわることがない。 あなたは行って、喜びをもってあなたのパンを食べ、楽しい心をもってあなたの酒を飲むがよい。神はすでに、あなたのわざをよみせられたからである。 あなたの衣を常に白くせよ。あなたの頭に油を絶やすな。 日の下で神から賜わったあなたの空なる命の日の間、あなたはその愛する妻と共に楽しく暮すがよい。これはあなたが世にあってうける分、あなたが日の下で労する労苦によって得るものだからである。 すべてあなたの手のなしうる事は、力をつくしてなせ。あなたの行く陰府には、わざも、計略も、知識も、知恵もないからである。 わたしはまた日の下を見たが、必ずしも速い者が競走に勝つのではなく、強い者が戦いに勝つのでもない。また賢い者がパンを得るのでもなく、さとき者が富を得るのでもない。また知識ある者が恵みを得るのでもない。しかし時と災難はすべての人に臨む。 人はその時を知らない。魚がわざわいの網にかかり、鳥がわなにかかるように、人の子らもわざわいの時が突然彼らに臨む時、それにかかるのである。 またわたしは日の下にこのような知恵の例を見た。これはわたしにとって大きな事である。 ここに一つの小さい町があって、そこに住む人は少なかったが、大いなる王が攻めて来て、これを囲み、これに向かって大きな雲梯を建てた。 しかし、町のうちにひとりの貧しい知恵のある人がいて、その知恵をもって町を救った。ところがだれひとり、その貧しい人を記憶する者がなかった。 そこでわたしは言う、「知恵は力にまさる。しかしかの貧しい人の知恵は軽んぜられ、その言葉は聞かれなかった」。 静かに聞かれる知者の言葉は、愚かな者の中のつかさたる者の叫びにまさる。 知恵は戦いの武器にまさる。しかし、ひとりの罪びとは多くの良きわざを滅ぼす。
伝道の書 9:2‭-‬18 JA1955
http://bible.com/81/ecc.9.2-18.JA1955

つかさたる者があなたに向かって立腹しても、あなたの所を離れてはならない。温順は大いなるとがを和らげるからである。 わたしは日の下に一つの悪のあるのを見た。それはつかさたる者から出るあやまちに似ている。 すなわち愚かなる者が高い地位に置かれ、富める者が卑しい所に座している。 わたしはしもべたる者が馬に乗り、君たる者が奴隷のように徒歩であるくのを見た。

鉄が鈍くなったとき、人がその刃をみがかなければ、力を多くこれに用いねばならない。しかし、知恵は人を助けてなし遂げさせる。
伝道の書 10:4‭-‬7‭, ‬10 JA1955
http://bible.com/81/ecc.10.4-10.JA1955

あなたのパンを水の上に投げよ、多くの日の後、あなたはそれを得るからである。 あなたは一つの分を七つまた八つに分けよ、あなたは、どんな災が地に起るかを知らないからだ。

風を警戒する者は種をまかない、雲を観測する者は刈ることをしない。 あなたは、身ごもった女の胎の中で、どうして霊が骨にはいるかを知らない。そのようにあなたは、すべての事をなされる神のわざを知らない。 朝のうちに種をまけ、夕まで手を休めてはならない。実るのは、これであるか、あれであるか、あるいは二つともに良いのであるか、あなたは知らないからである。 光は快いものである。目に太陽を見るのは楽しいことである。 人が多くの年、生きながらえ、そのすべてにおいて自分を楽しませても、暗い日の多くあるべきことを忘れてはならない。すべて、きたらんとする事は皆空である。 若い者よ、あなたの若い時に楽しめ。あなたの若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心の道に歩み、あなたの目の見るところに歩め。ただし、そのすべての事のために、神はあなたをさばかれることを知れ。
伝道の書 11:1‭-‬2‭, ‬4‭-‬9 JA1955
http://bible.com/81/ecc.11.1-9.JA1955

あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、「わたしにはなんの楽しみもない」と言うようにならない前に、 また日や光や、月や星の暗くならない前に、雨の後にまた雲が帰らないうちに、そのようにせよ。 その日になると、家を守る者は震え、力ある人はかがみ、ひきこなす女は少ないために休み、窓からのぞく者の目はかすみ、 町の門は閉ざされる。その時ひきこなす音は低くなり、人は鳥の声によって起きあがり、歌の娘たちは皆、低くされる。 彼らはまた高いものを恐れる。恐ろしいものが道にあり、あめんどうは花咲き、いなごはその身をひきずり歩き、その欲望は衰え、人が永遠の家に行こうとするので、泣く人が、ちまたを歩きまわる。 その後、銀のひもは切れ、金の皿は砕け、水がめは泉のかたわらで破れ、車は井戸のかたわらで砕ける。 ちりは、もとのように土に帰り、霊はこれを授けた神に帰る。 伝道者は言う、「空の空、いっさいは空である」と。 わが子よ、これら以外の事にも心を用いよ。多くの書を作れば際限がない。多く学べばからだが疲れる。 事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である。 神はすべてのわざ、ならびにすべての隠れた事を善悪ともにさばかれるからである。
伝道の書 12:1‭-‬8‭, ‬12‭-‬14 JA1955
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口語訳聖書は、 新共同訳、新改訳よりも前に、日本の全てのプロテスタント教会で使われていたものです。





■私たちクリスチャンは二人三人でも集まれば、そこを「キリストのみからだ」とすることができます。
洗礼の意味は「キリストへの信仰を持つ、人生の方向転換(悔い改め・回心)の決意」です。(洗礼は、授けた教会の組織員となる会員制度とは別のものです。)
牧師を上位に戴かずに、水平の交わりを心がけ、共に祈り神様を見つめて御声に聞き従うことを望み進む、この決心を共有する交わり・ネットワークを目標とする「キリストのみからだの教会」のあり方を求めます。
現状では「頼れる人として誰か教師を自分の上に置きたがる人の弱さ」を認め、私たちは日々そこから脱出して神様に祈り、主にある交わりをいただきます。同時に、助けを求める人の祈りに、あらゆる形で呼応するクリスチャンであることを決意し、自立への助けが必ずある「みからだのネットワーク」であることを目指しています。(CFF小倉福音センターの祈り・信仰指標から)

■福音派・聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)・聖書主義の人が内包する「カルト化問題」をこの世代で終息できますように。教会が牧師の誤り・マインドコントロール・権威主義・独裁を指摘できずに多くの人を従わせ、モラルや常識など、どの人にもある心の引っかかりや良心をなおざりにして、聖書信仰やリバイバル信仰に熱くなって人を裁き、自分と家族に負担をかけ、2世や若いクリスチャンの離反を招いていることを克服できますように。
また、脱会後の「脱マインドコントロール」のリハビリ・回復と、その実生活の困難さを理解できますように。
これを信仰的姿勢と現実的姿勢で正面から捉えて祈ります。
時に辛らつに人の内面を見ることが必要かもしれませんが、自分の中にも確かにあるものとして心の整理をすることで、問題の本質が見えるのかもしれません。
試練は、神に真に祈り出会うための神の摂理と言えますが、それを認める強さが欲しいですし、求めていく中で見えるものがあります。

■教会のカルト化や縛りに巻き込まれないための3つの知恵
1.祈りと聖書読み−−日々必要な神様との交わりと悔い改めをする、教えの風に翻弄(ほんろう)されない避け所として、各々個人の祈りと聖書読みのシェルターを確立しましょう。
2.二つ以上の教会に安心できる交わりを確保しましょう。−−今の所属教会に並行して、さらに避け所となる他の教会を必ず把握しておき、日ごろから広く他教会・他教派のクリスチャンと親しくし深い信頼関係を築きましょう。安心し信頼できる他教会や他教派の話題を所属教会で積極的に話しましょう。しかし、拒否や非難を受けはじめたら、他の信頼できる教会の交わりにそのことを伝え教会のカルト化の危険について話し合い、転会の準備を始めましょう。そのためにも、信頼あるクリスチャンの友情を日々拡げて大切にしましょう。
3. 教会以外の関わりを大切にしましょう。−−友人、家族、職場などで、ご自分を理解してくれる方々がいらっしゃると思います。その方の何気ない助言や世間話に、思いやりを感じることは、とても大切です。私たちが、信仰に対する外からの目を持つことにもなります。正しい「証し」は、一方的な押し付けではないことも分かります。

−−−真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために−−−
−− 避難の場(シェルター)としての「個人の祈り」を守るために −−
執筆者 仁保裕介(プロフィール
『すべて失望した人の唇に祈りを。』
祈りは、生活の現場から誰にでも自由にできるものです。
キリストは呼び求めるすべての人と共に居る方です。清い人や会堂や神殿にしか現れない方ではありません。むしろ、自分はふさわしくないと思う人のそばに居るのがキリストです。
受洗して教会員になった教会が、「この教会で信仰生活を続けられなければ、救いや信仰の道から外れる」と言うのは、真実ではありません。
 避難の場(シェルター)としてキリストに求める祈りには、「キリストが共に居る交わり」が必ず与えられています。
このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。テーマは重いですが、皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。キリスト教の視点で、成長、試練、十字架、悔い改め、聖化の記事になっています。
ほんの5才から信仰45年のクリスチャン2世として、キリスト教会内の教派主義・人間関係・権威化・カルト化によって傷を受けた皆さんと共に祈り、脱出と自立と今後の信仰について現実的視点で触れていきます。
元「主の十字架クリスチャンセンター 鎌倉教会、北九州教会」牧師・脱会者


わたしはただ近くにいる神なのか、と主は言われる。わたしは遠くからの神ではないのか。
誰かが隠れ場に身を隠したなら
わたしは彼を見つけられないと言うのかと
主は言われる。
天をも地をも、わたしは満たしているではないかと
主は言われる。
エレミヤ書23:23-24 新共同訳 


神の聖さは、
人の悪が満ちている世界にキリストが来て十字架につき、人の犠牲として罪をあがない、人を救うことに現れています。

悪がある世界に、主なる神は満ちていて、決して見捨てず、人を愛し救おうとしています。
その神の栄光に、矛盾も影も闇も一切ありません。ただ、人の救いのための愛とあわれみと赦しがあって、私たち人の心に注がれています。

この主イエス・キリストを受け入れる人には、その人の内にキリストが住み、聖霊が満ち、永遠の命への水が湧き出ます。


イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」
彼女は言った。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。
あなたは、私たちの先祖ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」
イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
ヨハネの福音書 4:10-14 新改訳

律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。
それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。
ローマ人への手紙 5:20-21 新改訳


罪と死の毒に満ちた自分にも、キリストが居られることを信じることが信仰であり、
この信仰に留まることで、人はキリストに似た、愛とあわれみの人に変えられていきます。
人生の良い出来事、苦しい出来事を通して教えられ、悟らされ、悔い改め、隣人と共に生きる命に必要な祈りと聖書の真理を得ます。

祈りとは、キリストの救い、自分の居るべき生けるキリストの居るみこころの場、人生の導きの道を悟り、確認するためで、そこに自分が行き、留まれるように願うことです。
人生には避けたい場や道がありますが、キリストへの祈りは、自分や隣人のために「本当に必要なら行けますように」と願うものです。

天にも地にも主は満ち、主のみこころを行う人の内に働き、矛盾や愚かさや傷や痛みのある場にも道にも主は満ちており、人を決して見離さず、痛みの摂理の中で導き、真に命に必要なものを悟らせ教えます。


試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。

すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。
父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。私たちを、いわば被造物の初穂にするためなのです。
ヤコブの手紙 1:12,17-18 新改訳

わたしたちがイエスから聞いて、あなたがたに伝えるおとずれは、こうである。
神は光であって、神には少しの暗いところもない。
神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。 しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。
もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。 もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。
もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない。
ヨハネの第一の手紙 1:5‭-‬10 JA1955口語訳
http://bible.com/81/1jn.1.5-10.JA1955 


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※スマホ画面に表示される誘導広告は、ライブドアとグーグルによるもので、このブログの記事とは一切関係ありません。

口語訳聖書は、 新共同訳、新改訳よりも前に、日本の全てのプロテスタント教会で使われていたものです。





■私たちクリスチャンは二人三人でも集まれば、そこを「キリストのみからだ」とすることができます。
洗礼の意味は「キリストへの信仰を持つ、人生の方向転換(悔い改め・回心)の決意」です。(洗礼は、授けた教会の組織員となる会員制度とは別のものです。)
牧師を上位に戴かずに、水平の交わりを心がけ、共に祈り神様を見つめて御声に聞き従うことを望み進む、この決心を共有する交わり・ネットワークを目標とする「キリストのみからだの教会」のあり方を求めます。
現状では「頼れる人として誰か教師を自分の上に置きたがる人の弱さ」を認め、私たちは日々そこから脱出して神様に祈り、主にある交わりをいただきます。同時に、助けを求める人の祈りに、あらゆる形で呼応するクリスチャンであることを決意し、自立への助けが必ずある「みからだのネットワーク」であることを目指しています。(CFF小倉福音センターの祈り・信仰指標から)

■福音派・聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)・聖書主義の人が内包する「カルト化問題」をこの世代で終息できますように。教会が牧師の誤り・マインドコントロール・権威主義・独裁を指摘できずに多くの人を従わせ、モラルや常識など、どの人にもある心の引っかかりや良心をなおざりにして、聖書信仰やリバイバル信仰に熱くなって人を裁き、自分と家族に負担をかけ、2世や若いクリスチャンの離反を招いていることを克服できますように。
また、脱会後の「脱マインドコントロール」のリハビリ・回復と、その実生活の困難さを理解できますように。
これを信仰的姿勢と現実的姿勢で正面から捉えて祈ります。
時に辛らつに人の内面を見ることが必要かもしれませんが、自分の中にも確かにあるものとして心の整理をすることで、問題の本質が見えるのかもしれません。
試練は、神に真に祈り出会うための神の摂理と言えますが、それを認める強さが欲しいですし、求めていく中で見えるものがあります。

■教会のカルト化や縛りに巻き込まれないための3つの知恵
1.祈りと聖書読み−−日々必要な神様との交わりと悔い改めをする、教えの風に翻弄(ほんろう)されない避け所として、各々個人の祈りと聖書読みのシェルターを確立しましょう。
2.二つ以上の教会に安心できる交わりを確保しましょう。−−今の所属教会に並行して、さらに避け所となる他の教会を必ず把握しておき、日ごろから広く他教会・他教派のクリスチャンと親しくし深い信頼関係を築きましょう。安心し信頼できる他教会や他教派の話題を所属教会で積極的に話しましょう。しかし、拒否や非難を受けはじめたら、他の信頼できる教会の交わりにそのことを伝え教会のカルト化の危険について話し合い、転会の準備を始めましょう。そのためにも、信頼あるクリスチャンの友情を日々拡げて大切にしましょう。
3. 教会以外の関わりを大切にしましょう。−−友人、家族、職場などで、ご自分を理解してくれる方々がいらっしゃると思います。その方の何気ない助言や世間話に、思いやりを感じることは、とても大切です。私たちが、信仰に対する外からの目を持つことにもなります。正しい「証し」は、一方的な押し付けではないことも分かります。

−−−真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために−−−
−− 避難の場(シェルター)としての「個人の祈り」を守るために −−
執筆者 仁保裕介(プロフィール
『すべて失望した人の唇に祈りを。』
祈りは、生活の現場から誰にでも自由にできるものです。
キリストは呼び求めるすべての人と共に居る方です。清い人や会堂や神殿にしか現れない方ではありません。むしろ、自分はふさわしくないと思う人のそばに居るのがキリストです。
受洗して教会員になった教会が、「この教会で信仰生活を続けられなければ、救いや信仰の道から外れる」と言うのは、真実ではありません。
 避難の場(シェルター)としてキリストに求める祈りには、「キリストが共に居る交わり」が必ず与えられています。
このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。テーマは重いですが、皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。キリスト教の視点で、成長、試練、十字架、悔い改め、聖化の記事になっています。
ほんの5才から信仰45年のクリスチャン2世として、キリスト教会内の教派主義・人間関係・権威化・カルト化によって傷を受けた皆さんと共に祈り、脱出と自立と今後の信仰について現実的視点で触れていきます。
元「主の十字架クリスチャンセンター 鎌倉教会、北九州教会」牧師・脱会者

自分の罪と弱さを知ってこそ、キリストを知ります。罪と弱さを知るほどに深く。

自分の中身は本当に良くない思いであふれている。
神も人も信じられず、期待せず、落胆し、気ままで、恨み、つぶやき、文句を言い、非難し、悪態をつく。そんな時は一日に何時間もある。日によっては、嘆きの方が信仰の思いよりも長く支配する。

教会の交わりは 、そもそも そんな人の、ありのままの罪の問題を含んでいるもの。
初代教会はそうでした。
ありのままの人たちが、いろいろとありのままやりたいことをして、トラブル続きでした。
律法的に『清い人』、 信仰の強い弱い 、 貧富の差、 わがまま、思いやり無く、食欲旺盛、 霊の賜物を誇る、使徒たちの福音とは違う確信を握りしめ…

神から選ばれ、罪の滅びから隔てられ、清いという中身は、

私たちに罪があるのに、キリストが私たちのただ中に来られ、彼の犠牲によって清くされた、ということで、

私たち自身は、彼の愛によって一生かけて心の向きを変えられつつあるに過ぎず、
決して、中身が良い人間になったわけではなく、
悪いからこそ必死で祈る。

だから、人である自分を良く見せて信仰を良く見せて、良いポーズを保つことを勧めようとするよりも、

「罪人である私たち」のそのただ中に、あわれみと愛によって来られたキリストを証しする集い交わりの中で、悔い改めを日々進め、隣人にも勧めたいのです。

人生を行く勇気と励ましが来るのは、
自分が、今日もいつもこんな自分でも、
キリストが、罪を認める者の内と外に満ちていること、共に居て下さることを知り、
イエスが友でいてくれるという事実だけがあるからです。

それ以外ありません。

生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。
しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。
ガラテヤ人への手紙 2:20 JA1955口語訳
http://bible.com/81/gal.2.20.JA1955

私にとって生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。
ヒリピ人への手紙1:20 新改訳


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組織化は、どうしても形式化する−目を覚まして(8) (2016年11月25日)

『教会批判、牧師批判は罪』と長い間封じられてきた石ころの叫び~神学よりやはり愛が大事 (2017年02月23日)




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試練は、神に真に祈り出会うための神の摂理と言えますが、それを認める強さが欲しいですし、求めていく中で見えるものがあります。

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1.祈りと聖書読み−−日々必要な神様との交わりと悔い改めをする、教えの風に翻弄(ほんろう)されない避け所として、各々個人の祈りと聖書読みのシェルターを確立しましょう。
2.二つ以上の教会に安心できる交わりを確保しましょう。−−今の所属教会に並行して、さらに避け所となる他の教会を必ず把握しておき、日ごろから広く他教会・他教派のクリスチャンと親しくし深い信頼関係を築きましょう。安心し信頼できる他教会や他教派の話題を所属教会で積極的に話しましょう。しかし、拒否や非難を受けはじめたら、他の信頼できる教会の交わりにそのことを伝え教会のカルト化の危険について話し合い、転会の準備を始めましょう。そのためにも、信頼あるクリスチャンの友情を日々拡げて大切にしましょう。
3. 教会以外の関わりを大切にしましょう。−−友人、家族、職場などで、ご自分を理解してくれる方々がいらっしゃると思います。その方の何気ない助言や世間話に、思いやりを感じることは、とても大切です。私たちが、信仰に対する外からの目を持つことにもなります。正しい「証し」は、一方的な押し付けではないことも分かります。

−−−真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために−−−
−− 避難の場(シェルター)としての「個人の祈り」を守るために −−
執筆者 仁保裕介(プロフィール
『すべて失望した人の唇に祈りを。』
祈りは、生活の現場から誰にでも自由にできるものです。
キリストは呼び求めるすべての人と共に居る方です。清い人や会堂や神殿にしか現れない方ではありません。むしろ、自分はふさわしくないと思う人のそばに居るのがキリストです。
受洗して教会員になった教会が、「この教会で信仰生活を続けられなければ、救いや信仰の道から外れる」と言うのは、真実ではありません。
 避難の場(シェルター)としてキリストに求める祈りには、「キリストが共に居る交わり」が必ず与えられています。
このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。テーマは重いですが、皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。キリスト教の視点で、成長、試練、十字架、悔い改め、聖化の記事になっています。
ほんの5才から信仰45年のクリスチャン2世として、キリスト教会内の教派主義・人間関係・権威化・カルト化によって傷を受けた皆さんと共に祈り、脱出と自立と今後の信仰について現実的視点で触れていきます。
元「主の十字架クリスチャンセンター 鎌倉教会、北九州教会」牧師・脱会者

教会の名前に、「キリスト」の名のほかに、
聖書、清め、聖霊、十字架、福音、めぐみ、リバイバル…などと、いろいろ名前を付け加えている教会、

地名の「○○キリスト教会」ではなく、
牧師や教派の主張を名前にし、看板にする教会。
特に、戦後設立した新興のプロテスタント教会なら、「教えに牧師の独自の主張があるかもしれない」と、まず警戒や見分けが必要な教会群です。
もちろん、それ以外にも、すべてのキリスト教の教職者に接する時には、まず彼らのすべてが見分けの対象であるべきです。

その教職者が、キリストを証しするのか、それ以外を証しするのか。その分量やバランス、聖書への姿勢、肉の弱さの告白、あわれみへの信仰告白、へりくだりからの隣人への愛などを分析すべきです。
表面的にキリストの名ばかり強調して告白する偽物もいますし、政治的だったり、計算づくの行動や教えで愛を語る者もいます。時によって良くなったり悪くなったりする教職者の変節も、ほんとうに意外に簡単に現れます。それも有名牧師でも無名牧師でも関係ありません。
ただの人の弱さ、悪さが、教職者の中にしっかり巣食っているのは、当たり前に見えるのに、私たちの期待がそこに自分で蓋をすることが非常に多いのです。
「裁いてはいけない」とのみことばは聖書の一節ですが、それ以外にたくさんの聖書箇所で、偽物出現の警告と見分けの必要性が説かれているはずです。

聖書に出てくる教会にも、パウロ派、アポロ派が居たと書いてありますが、使徒や伝道者、牧師はキリストへ導き手に過ぎず、自分の救いの結果はそれぞれが気をつけなければなりません。「私はあの牧師について行く」と言うなら、信仰ではなく、私たちも政治や計算に陥っています。

『すべてはキリストに行き着くため、キリストを知るため』と言いながら、独自のこだわり、誰かの主張に従うように求めるのは、人間的な教会のあり様です。現代の教職者や教派が、聖書の証しと同じ権威を持って横に並ぶことはあり得ないことです。


コリント人への第一の手紙  口語訳聖書
第3章

1兄弟たちよ。わたしはあなたがたには、霊の人に対するように話すことができず、むしろ、肉に属する者、すなわち、キリストにある幼な子に話すように話した。 2あなたがたに乳を飲ませて、堅い食物は与えなかった。食べる力が、まだあなたがたになかったからである。今になってもその力がない。 3あなたがたはまだ、肉の人だからである。

あなたがたの間に、ねたみや争いがあるのは、あなたがたが肉の人であって、普通の人間のように歩いているためではないか。 4すなわち、ある人は「わたしはパウロに」と言い、ほかの人は「わたしはアポロに」と言っているようでは、あなたがたは普通の人間ではないか。 5アポロは、いったい、何者か。また、パウロは何者か。あなたがたを信仰に導いた人にすぎない。しかもそれぞれ、主から与えられた分に応じて仕えているのである。 6わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である。 7だから、植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは、成長させて下さる神のみである。 8植える者と水をそそぐ者とは一つであって、それぞれその働きに応じて報酬を得るであろう。 9わたしたちは神の同労者である。あなたがたは神の畑であり、神の建物である。 10神から賜わった恵みによって、わたしは熟練した建築師のように、土台をすえた。そして他の人がその上に家を建てるのである。

しかし、どういうふうに建てるか、それぞれ気をつけるがよい。 11なぜなら、すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできない。そして、この土台はイエス・キリストである。 12この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、または、わらを用いて建てるならば、 13それぞれの仕事は、はっきりとわかってくる。すなわち、かの日は火の中に現れて、それを明らかにし、またその火は、それぞれの仕事がどんなものであるかを、ためすであろう。 14もしある人の建てた仕事がそのまま残れば、その人は報酬を受けるが、 15その仕事が焼けてしまえば、損失を被るであろう。しかし彼自身は、火の中をくぐってきた者のようにではあるが、救われるであろう。

16あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。 17もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである。

18だれも自分を欺いてはならない。もしあなたがたのうちに、自分がこの世の知者だと思う人がいるなら、その人は知者になるために愚かになるがよい。 19なぜなら、この世の知恵は、神の前では愚かなものだからである。「神は、知者たちをその悪知恵によって捕える」と書いてあり、 20更にまた、「主は、知者たちの論議のむなしいことをご存じである」と書いてある。 21だから、だれも人間を誇ってはいけない。すべては、あなたがたのものなのである。 22パウロも、アポロも、ケパも、世界も、生も、死も、現在のものも、将来のものも、ことごとく、あなたがたのものである。 23そして、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものである。

https://www.bible.com/ja/bible/81/1CO.3.ja1955

ピリピ人への手紙  口語訳聖書

第2章
3何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。 4おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。 5キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。 6キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、 7かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、 8おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。 9それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。 10それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、 11また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。 12わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。 13あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。 14すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい。 15それは、あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである。あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。 16このようにして、キリストの日に、わたしは自分の走ったことがむだでなく、労したこともむだではなかったと誇ることができる。

20テモテのような心で、親身になってあなたがたのことを心配している者は、ほかにひとりもない。 21人はみな、自分のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことは求めていない。 22しかし、テモテの錬達ぶりは、あなたがたの知っているとおりである。すなわち、子が父に対するようにして、わたしと一緒に福音に仕えてきたのである。

https://www.bible.com/ja/bible/81/PHP.2.3-22.ja1955

第3章

1最後に、わたしの兄弟たちよ。主にあって喜びなさい。さきに書いたのと同じことをここで繰り返すが、それは、わたしには煩わしいことではなく、あなたがたには安全なことになる。 2あの犬どもを警戒しなさい。悪い働き人たちを警戒しなさい。肉に割礼の傷をつけている人たちを警戒しなさい。 3神の霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇とし、肉を頼みとしないわたしたちこそ、割礼の者である。

4もとより、肉の頼みなら、わたしにも無くはない。もし、だれかほかの人が肉を頼みとしていると言うなら、わたしはそれをもっと頼みとしている。
7しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。 8わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。

それは、わたしがキリストを得るためであり、 9律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。 10すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、 11なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。

12わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。
13兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。
ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、 14目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。
15だから、わたしたちの中で全き人たちは、そのように考えるべきである。
しかし、あなたがたが違った考えを持っているなら、神はそのことも示して下さるであろう。
16ただ、わたしたちは、達し得たところに従って進むべきである。

17兄弟たちよ。どうか、わたしにならう者となってほしい。
また、あなたがたの模範にされているわたしたちにならって歩く人たちに、目をとめなさい。
18わたしがそう言うのは、キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いからである。
わたしは、彼らのことをしばしばあなたがたに話したが、今また涙を流して語る。 19彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである。
20しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。 21彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。

https://www.bible.com/ja/bible/81/PHP.3.ja1955


愚かな自分を欺いて、人の知恵を誇ったり称賛を受けるような、現代の自称『神の同労者』に、自分の救いを委ねるべきではありません。
2000年間にキリストを目撃し触れた、直接の証言者である使徒たちの語る福音は聖書にしるされていますが、現代の牧師たちの方が優れていることはあり得ません。
本当の「神の同労者」は、キリストに導く人です。自分の教会や教派に連なるように教える人は偽物です。

私たちは、父、御子、御霊に信頼して、世に現れて聖書を成就し、唯一律法の要求を満たした方、完全な救いを与える福音そのものである方、その方以外にこの世で目に見えて存在する者はいない人類の救い主、唯一の御子キリストご自身だけを追い求めるべきです。

私たちは、互いに教え戒め、心から神に向かっているべきです。

コロサイ人への手紙 口語訳
第3章
12だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。 13互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。 14これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。 15キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。あなたがたが召されて一体となったのは、このためでもある。いつも感謝していなさい。 16キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。 17そして、あなたのすることはすべて、言葉によるとわざによるとを問わず、いっさい主イエスの名によってなし、彼によって父なる神に感謝しなさい。

https://www.bible.com/ja/bible/81/COL.3.12-17.ja1955


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教会の教条主義を越えて次なるステップへ〜現実を受け入れて 2005/09/03
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■教会のカルト化や縛りに巻き込まれないための3つの知恵
1.祈りと聖書読み−−日々必要な神様との交わりと悔い改めをする、教えの風に翻弄(ほんろう)されない避け所として、各々個人の祈りと聖書読みのシェルターを確立しましょう。
2.二つ以上の教会に安心できる交わりを確保しましょう。−−今の所属教会に並行して、さらに避け所となる他の教会を必ず把握しておき、日ごろから広く他教会・他教派のクリスチャンと親しくし深い信頼関係を築きましょう。安心し信頼できる他教会や他教派の話題を所属教会で積極的に話しましょう。しかし、拒否や非難を受けはじめたら、他の信頼できる教会の交わりにそのことを伝え教会のカルト化の危険について話し合い、転会の準備を始めましょう。そのためにも、信頼あるクリスチャンの友情を日々拡げて大切にしましょう。
3. 教会以外の関わりを大切にしましょう。−−友人、家族、職場などで、ご自分を理解してくれる方々がいらっしゃると思います。その方の何気ない助言や世間話に、思いやりを感じることは、とても大切です。私たちが、信仰に対する外からの目を持つことにもなります。正しい「証し」は、一方的な押し付けではないことも分かります。

−−−真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために−−−
−− 避難の場(シェルター)としての「個人の祈り」を守るために −−
執筆者 仁保裕介(プロフィール
『すべて失望した人の唇に祈りを。』
祈りは、生活の現場から誰にでも自由にできるものです。
キリストは呼び求めるすべての人と共に居る方です。清い人や会堂や神殿にしか現れない方ではありません。むしろ、自分はふさわしくないと思う人のそばに居るのがキリストです。
受洗して教会員になった教会が、「この教会で信仰生活を続けられなければ、救いや信仰の道から外れる」と言うのは、真実ではありません。
 避難の場(シェルター)としてキリストに求める祈りには、「キリストが共に居る交わり」が必ず与えられています。
このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。テーマは重いですが、皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。キリスト教の視点で、成長、試練、十字架、悔い改め、聖化の記事になっています。
ほんの5才から信仰45年のクリスチャン2世として、キリスト教会内の教派主義・人間関係・権威化・カルト化によって傷を受けた皆さんと共に祈り、脱出と自立と今後の信仰について現実的視点で触れていきます。
元「主の十字架クリスチャンセンター 鎌倉教会、北九州教会」牧師・脱会者

家は何のために建てるのでしょう。

それぞれの信仰生活と人生を、聖書は家にたとえています。

雨露をしのぎ、安全に健康に楽しく永く住まうことが家の理想でしょう。

聖書は、
揺るがない堅固な基礎、確かな土台を、
キリストご自身と、その教えに据えるように求めています。
砂地に簡単に建てるのではなく、岩の上に建てなさい、と。

さらに建物を、わらで建てるか金で建てるか、と問います。
火で試される時に残るのか、と。

人に教わった簡単な祈りや教理や、初歩のやわらかい期待にいつまでも根差すのではなく、
弱くありのままの姿でキリストご自身に出会い、日々教えられ根差すために、心からの直接の祈りが要ります。

ガリラヤ湖に沈みそうになり怖くて「助けて下さい」と叫ぶペテロのように、
三回イエスを知らないと言って激しく泣いたペテロのように、
イエスの十字架への連行時に裸で逃げ、宣教旅行に挫折して途中で帰ってしまったマルコのように、
神の教会を激しく迫害し、キリストに出会い、10年以上引きこもったパウロのように、

そんな使徒たちが目撃し体験したイエス・キリストの証しが教会の土台だとされています。

私たちが体験できるイエス・キリストとは?

私たちの肉眼に見えなくても、私たちが深く祈り願う、その心にすでに居られ働いているのではないでしょうか。

教会とは?信仰の人生の家とは?

砂に建てるわらの家は手早くできますが、すぐに倒れ流されます。

耳や目に好ましく分りやすく力強く、確信に満ちて受け入れやすい誰かの証し・説教や癒し・奇跡、イスラエルの回復、神の秩序や再臨のストーリーは、感動しますし、目の前にその体現者が居る説得力と安心感は、心踊らされます。
でも、目の前にいる説教者・証し者が与える感動は、どこまでいっても自分自身が深く掘り下げるような証しにはなりません。どこかの牧師の解釈でしかありませんし、証し者自身の神への信仰のであって、私たち自身のものではないのです。

キリストの弟子でさえも、 旧約聖書に基づいた約束と信じていた イエスが王として君臨するストーリーを堅く握り締め、人間的な先入観や期待に邪魔されて 、
イエス・キリストが十字架につき全人類の犠牲となり復活し、永遠に王となること、イスラエルを越えたすべての人の霊的な救いについて、まったく分かりませんでした。
聖書の神の約束の成就、律法の完成について、人の知恵ではなく、聖霊によるしかありません。

本当に今も生きて、多くの人に伴い救おうとされているキリストに会うことは、私たちの内にある願い、求め、祈りの中身にかかっています。
私たちは、本当にキリストに会いたいでしょうか。会ったなら、自分の十字架を負い、聞き従う覚悟ができているでしょうか。
内に住まれる方の御声、志を立てさせてくださる方に従い、目に見える人間の解釈を見分け、個人の召しとして導かれる祈りの言葉を用い、賜物を知り、目に見えないキリストのからだの器官として進むべきです。

教会の2000年の歴史上、イスラエルの霊的救いによる回復や再臨を早めて実現したことは一度もありません。現代でも感動する預言的ストーリーは、過去に繰り返し唱えられた聖書の内容であって、それがいつ、どんな時のことかは誰にも分からない、と言うのは聖書です。

人間はどの時代にも、曲論的預言解釈によって再臨の迫りを語り極端な信仰を煽ってきました。それは、人の期待が、隣人の救いよりも、自分の天の席順、教会での席順である時に高まるのです。

それぞれが、本当に祈り深くキリストにつながることが第一であり、
イエス・キリストお一人だけが神の国と神の義を目に見えて体現するお方です。
それで、父の関心が世の救いであること、そのために時の猶予を与え、キリストが今なお伴い救おうとしている多くの隣人の魂について知り、自分の罪と救いへの一生の探求に導く摂理に従い関心を持つことで、主の御心を知るのです。

そうして孤独に自分と隣人の弱さにありのままに痛み、苦労して得る、岩に根差す祈りとみことば、試練の嵐に鍛えられる祈りとみことばは、
肉眼で見ると弱くみすぼらしくても、霊的に強いものです。

人生の終わりまで人の目に苦労があっても、キリストだけに根差そうとするなら、必ず守られます。その人にはキリストの心があるのですから。

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求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。 すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。 あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。 魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。 狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。 命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。 にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。 あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか。

わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。 その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。 それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。 雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。 また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。 雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである」。

マタイによる福音書 7: 7‭-‬16 ,21‭-‬27 JA1955
http://bible.com/81/mat.7.7-27.JA1955

地は彼らの前におののき、天はふるい、日も月も暗くなり、星はその光を失う。
主はその軍勢の前で声をあげられる。その軍隊は非常に多いからである。
そのみ言葉をなし遂げる者は強い。主の日は大いにして、はなはだ恐ろしいゆえ、だれがこれに耐えることができよう。
主は言われる、
「今からでも、あなたがたは心をつくし、断食と嘆きと、悲しみとをもってわたしに帰れ。 あなたがたは衣服ではなく、心を裂け」。
あなたがたの神、主に帰れ。主は恵みあり、あわれみあり、怒ることがおそく、いつくしみが豊かで、災を思いかえされるからである。

ヨエル書 2:10-13 JA1955
http://bible.com/81/jol.2.10-13.JA1955

そして、彼らに教えて言われた、「『わたしの家は、すべての国民の祈の家ととなえらるべきである』と書いてあるではないか。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしてしまった」。 祭司長、律法学者たちはこれを聞いて、どうかしてイエスを殺そうと計った。彼らは、群衆がみなその教に感動していたので、イエスを恐れていたからである。

マルコによる福音書 11:17-18 JA1955
http://bible.com/81/mrk.11.17-18.JA1955

すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。
あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。
その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。
御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。 もし子であれば、相続人でもある。
神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。

だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。
患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。
「わたしたちはあなたのために終日、死に定められており、ほふられる羊のように見られている」と書いてあるとおりである。
しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。
わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、 高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。

ローマ人への手紙 8:14-17,35-39 JA1955
http://bible.com/81/rom.8.14-39.JA1955

あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。
キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。

コリント人への第一の手紙 1:30 JA1955
http://bible.com/81/1co.1.30.JA1955

わたしたちは神の同労者である。
あなたがたは神の畑であり、神の建物である。
神から賜わった恵みによって、わたしは熟練した建築師のように、土台をすえた。
そして他の人がその上に家を建てるのである。しかし、どういうふうに建てるか、それぞれ気をつけるがよい。 なぜなら、すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできない。そして、この土台はイエス・キリストである。 この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、または、わらを用いて建てるならば、 それぞれの仕事は、はっきりとわかってくる。すなわち、かの日は火の中に現れて、それを明らかにし、またその火は、それぞれの仕事がどんなものであるかを、ためすであろう。 もしある人の建てた仕事がそのまま残れば、その人は報酬を受けるが、 その仕事が焼けてしまえば、損失を被るであろう。しかし彼自身は、火の中をくぐってきた者のようにではあるが、救われるであろう。
あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。

コリント人への第一の手紙 3:9-16 JA1955
http://bible.com/81/1co.3.9-16.JA1955

すなわち、キリストは弱さのゆえに十字架につけられたが、神の力によって生きておられるのである。
このように、わたしたちもキリストにあって弱い者であるが、あなたがたに対しては、神の力によって、キリストと共に生きるのである。
あなたがたは、はたして信仰があるかどうか、自分を反省し、自分を吟味するがよい。それとも、イエス・キリストがあなたがたのうちにおられることを、悟らないのか。もし悟らなければ、あなたがたは、にせものとして見捨てられる。

コリント人への第二の手紙 13:4‭-‬5 JA1955
http://bible.com/81/2co.13.4-5.JA1955

何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。 そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。

ピリピ人への手紙 4:6‭-‬7 JA1955
http://bible.com/81/php.4.6-7.JA1955

キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。あなたがたが召されて一体となったのは、このためでもある。いつも感謝していなさい。

コロサイ人への手紙 3:15 JA1955
http://bible.com/81/col.3.15.JA1955

だから、すべての汚れや、はなはだしい悪を捨て去って、心に植えつけられている御言を、すなおに受け入れなさい。御言には、あなたがたのたましいを救う力がある。

ヤコブの手紙 1:21 JA1955
http://bible.com/81/jas.1.21.JA1955

神が御霊をわたしたちに賜わったことによって、わたしたちが神におり、神がわたしたちにいますことを知る。

もし人が、イエスを神の子と告白すれば、神はその人のうちにいまし、その人は神のうちにいるのである。
わたしたちは、神がわたしたちに対して持っておられる愛を知り、かつ信じている。
神は愛である。愛のうちにいる者は、神におり、神も彼にいます。
わたしたちもこの世にあって彼のように生きているので、さばきの日に確信を持って立つことができる。そのことによって、愛がわたしたちに全うされているのである。

わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである。

ヨハネの第一の手紙 4:13‭, ‬15‭-‬17, 19 JA1955
http://bible.com/81/1jn.4.13-19.JA1955

長老のわたしから、真実に愛している選ばれた婦人とその子たちへ。あなたがたを愛しているのは、わたしだけではなく、真理を知っている者はみなそうである。 それは、わたしたちのうちにあり、また永遠に共にあるべき真理によるのである。
父なる神および父の御子イエス・キリストから、恵みとあわれみと平安とが、真理と愛のうちにあって、わたしたちと共にあるように。

ヨハネの第二の手紙 1:1‭-‬3 JA1955
http://bible.com/81/2jn.1.1-3.JA1955

キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。
キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。
それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。
それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、 また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。
わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。 あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。

ピリピ人への手紙 2:5‭-‬13 JA1955
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口語訳聖書は、 新共同訳、新改訳よりも前に、日本の全てのプロテスタント教会で使われていたものです。





■私たちクリスチャンは二人三人でも集まれば、そこを「キリストのみからだ」とすることができます。
洗礼の意味は「キリストへの信仰を持つ、人生の方向転換(悔い改め・回心)の決意」です。(洗礼は、授けた教会の組織員となる会員制度とは別のものです。)
牧師を上位に戴かずに、水平の交わりを心がけ、共に祈り神様を見つめて御声に聞き従うことを望み進む、この決心を共有する交わり・ネットワークを目標とする「キリストのみからだの教会」のあり方を求めます。
現状では「頼れる人として誰か教師を自分の上に置きたがる人の弱さ」を認め、私たちは日々そこから脱出して神様に祈り、主にある交わりをいただきます。同時に、助けを求める人の祈りに、あらゆる形で呼応するクリスチャンであることを決意し、自立への助けが必ずある「みからだのネットワーク」であることを目指しています。(CFF小倉福音センターの祈り・信仰指標から)

■福音派・聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)・聖書主義の人が内包する「カルト化問題」をこの世代で終息できますように。教会が牧師の誤り・マインドコントロール・権威主義・独裁を指摘できずに多くの人を従わせ、モラルや常識など、どの人にもある心の引っかかりや良心をなおざりにして、聖書信仰やリバイバル信仰に熱くなって人を裁き、自分と家族に負担をかけ、2世や若いクリスチャンの離反を招いていることを克服できますように。
また、脱会後の「脱マインドコントロール」のリハビリ・回復と、その実生活の困難さを理解できますように。
これを信仰的姿勢と現実的姿勢で正面から捉えて祈ります。
時に辛らつに人の内面を見ることが必要かもしれませんが、自分の中にも確かにあるものとして心の整理をすることで、問題の本質が見えるのかもしれません。
試練は、神に真に祈り出会うための神の摂理と言えますが、それを認める強さが欲しいですし、求めていく中で見えるものがあります。

■教会のカルト化や縛りに巻き込まれないための3つの知恵
1.祈りと聖書読み−−日々必要な神様との交わりと悔い改めをする、教えの風に翻弄(ほんろう)されない避け所として、各々個人の祈りと聖書読みのシェルターを確立しましょう。
2.二つ以上の教会に安心できる交わりを確保しましょう。−−今の所属教会に並行して、さらに避け所となる他の教会を必ず把握しておき、日ごろから広く他教会・他教派のクリスチャンと親しくし深い信頼関係を築きましょう。安心し信頼できる他教会や他教派の話題を所属教会で積極的に話しましょう。しかし、拒否や非難を受けはじめたら、他の信頼できる教会の交わりにそのことを伝え教会のカルト化の危険について話し合い、転会の準備を始めましょう。そのためにも、信頼あるクリスチャンの友情を日々拡げて大切にしましょう。
3. 教会以外の関わりを大切にしましょう。−−友人、家族、職場などで、ご自分を理解してくれる方々がいらっしゃると思います。その方の何気ない助言や世間話に、思いやりを感じることは、とても大切です。私たちが、信仰に対する外からの目を持つことにもなります。正しい「証し」は、一方的な押し付けではないことも分かります。

−−−真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために−−−
−− 避難の場(シェルター)としての「個人の祈り」を守るために −−
執筆者 仁保裕介(プロフィール
『すべて失望した人の唇に祈りを。』
祈りは、生活の現場から誰にでも自由にできるものです。
キリストは呼び求めるすべての人と共に居る方です。清い人や会堂や神殿にしか現れない方ではありません。むしろ、自分はふさわしくないと思う人のそばに居るのがキリストです。
受洗して教会員になった教会が、「この教会で信仰生活を続けられなければ、救いや信仰の道から外れる」と言うのは、真実ではありません。
 避難の場(シェルター)としてキリストに求める祈りには、「キリストが共に居る交わり」が必ず与えられています。
このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。テーマは重いですが、皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。キリスト教の視点で、成長、試練、十字架、悔い改め、聖化の記事になっています。
ほんの5才から信仰45年のクリスチャン2世として、キリスト教会内の教派主義・人間関係・権威化・カルト化によって傷を受けた皆さんと共に祈り、脱出と自立と今後の信仰について現実的視点で触れていきます。
元「主の十字架クリスチャンセンター 鎌倉教会、北九州教会」牧師・脱会者

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