そのために教会をすべて忘れて
自分を認めてあげて肯定して心に上書きをしつづけたいのです
福音派聖霊派でカルト化している教会に長期間多くの時間を献身的に関わり
牧師や大人たちから
訓練・試練・砕きに素直に応じて
悔い改め・へりくだり・従順こそクリスチャンの証しと聞かされて
永遠の命と地獄の火を一緒くたに詰め込まれ
信仰告白しても自己否定と罪意識に支配され
『救われた者』として自分と世を裁き
実は上から目線で世を見下して
その過去に今も無意識に依存し支配されている潜在的なものを見つけてしまったりします。
教会こそ『唯一の真理がある』場所だからと洗脳され
感情的で不当な非難や罪の指摘が日常なのに
これが普通の教会であり家庭であると思わされていました
自分ではなく他人の感情と要求を優先するのが当り前になっていて
自分の感情や欲求もすべて他人の気に入るようにやってきた
すべての判断を「他人フィルター」「教会の大人や親の歪んだ認知フィルター」を通してしていた。
だからいま自分軸で生きてみると
直に環境や他人の刺激が来て
皆が普通10代から積み重ねていることを
いま処理することに戸惑い疲れてしまい
力の入れ加減、抜き加減も分からない状態に。
人の心には、確実に限界点があって
子どもや若者のような無限の信頼と回復は続かず
心は擦り切れて小さなことにも悲鳴を上げるようになります。
自己肯定感を持っている人には理解できない「過剰反応」と思われてしまうようなことがカルト化教会の宗教2世や虐待家庭の子どもの心に起きています
それを切り離すにはどんな手を使っても良いと思っています!!
それは当り前のことです!
日によって変えても良いですし
逃げても嘆いても恨んでも達観俯瞰しても気晴らししても別のものに没頭しても
過去の自分と環境とは全く違う自分と今の環境に心を置く作業です。
過去に無意識が支配されていることを自分で意識して表に出すことで客観化できる面があります。
でも自分の意思で分離できずに執着が大きくなることもあり、
自分にしっかりした別の立ち位置や自信が多少でも持っていないと
厳しい作業になるかもしれません
だから
完全に問題教会や問題家族と距離的心理的に関わっていない方が良いのです!
やり方は、心が願うものに従って何でも試してみて
復讐心や恨みの感情が顔を出しても当然だから良しとして
自分を良く頑張ったとほめて笑い
自分の笑顔の奥に何かがあっても
普通の隣人が怖がったり嫌がったりしなければ良いと思います。
心の中の願望としてはっきり意識して
また夢や希望として前向きに隣人に語ったり
「あの家の子じゃない」「あの教会で育っていない」と
他の家で育ったかのように自分の過去を切り離すようなストーリーづくりも良いと思います
ドラマや映画の良い家族を自分の家としたり
SFの並行世界の別次元に生きるイメージを持ったり
頭をスッキリさせて別世界の自分を愛おしみ慈しみ
自分の才能や好みを知りしっかり褒める、
また隣人からの褒めを受け入れる
そうして自分を社会の中で真っ当に認めていくのです!
自己肯定ができて愛を信じて自己完結している子どもとして
自分の意識を子どもの頃に戻して今の行動のひとつひとつに意識して良いイメージの体験として上書きする
同時に、毎日、他の会社で働いているかのように考えて毎日過去を切り離しつつ。
教会については良い見本などほとんど見つけることはできない現状です
私の場合、教会の外の超教派と呼ばれるCSKやHi.b.aのキャンプに参加して新生や解放や希望を感じたが、しばらくすれば教会の現実の中に戻り
キリストよりも人の発想や現実に支配されます
1世はまったく理解せずに喜んで教会と牧師に従っているのでカルト化しても被害に拍車をかけるしかできません!
自己否定からの発想では、短絡的なその場限りの保身や責任逃れの発想しか出てこない
罪責感からは他者のための奉仕や義務
1世親からは『バカで無知で罪人だから努力しろ』と言われて動機づけられ
それでは自分の本質の発見や変化や成長に至らない
家や教会の大人の感情爆発、支配で
アンテナが否定評価への自己防衛のために研ぎ澄まされて、使い方を間違う
アンテナは本来、友情信頼のある関係性による安心、他人への思いやりのためなのに
自分を知る友、造り主、カウンセラー、アドバイザー、導き手である良き教師と出会い
一緒に探し求めて見つけようと心に願うこと
教会では、弱さを見せると、つけ入れられて罪の意識や神の国の使命感を焚きつけられる
やる気や使命感が罪の意識からの動機にされるのは非常に厄介で心の問題を複雑化する
解放を願って祈っても教会に縛られる限りどんどん解放から遠のきます。
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福音派聖霊派の教会に今あること、すぐ起こり得ることを訴えるためキリスト教ブログランキングに参加しています。
真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために
新改訳聖書を使う福音派、聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)、聖書主義、終末携挙信仰、リバイバル信仰、潜在意識など心理的背景、牧師・教会のカルト化問題、クリスチャン2世問題を扱います。その当事者として信仰的姿勢と現実的姿勢で原因考察とお勧めをしております。
教派信仰問題の経験者の今後のあり方、信仰と救い、社会性、人生の背景、自立した生き方を探求します。内容が辛らつすぎると思われる方は、自己批判・内部告発とお考えいただきたいと思います。
NCC日本キリスト教協議会に属さず、JEA日本福音同盟やJPC日本ペンテコステネットワークに加わっている福音派聖霊派教派の自浄作用を期待して記事を書き20年になります。
他教会の問題であっても福音派を名のることを躊躇するような事がずっと起き続けて終わらないのは、『クリスチャンも罪人』という言い訳で済む問題なのでしょうか?『聖書的』『聖書信仰』と言うだけで、すべて許されるのでしょうか。
自分を認めてあげて肯定して心に上書きをしつづけたいのです
福音派聖霊派でカルト化している教会に長期間多くの時間を献身的に関わり
牧師や大人たちから
訓練・試練・砕きに素直に応じて
悔い改め・へりくだり・従順こそクリスチャンの証しと聞かされて
永遠の命と地獄の火を一緒くたに詰め込まれ
信仰告白しても自己否定と罪意識に支配され
『救われた者』として自分と世を裁き
実は上から目線で世を見下して
その過去に今も無意識に依存し支配されている潜在的なものを見つけてしまったりします。
教会こそ『唯一の真理がある』場所だからと洗脳され
感情的で不当な非難や罪の指摘が日常なのに
これが普通の教会であり家庭であると思わされていました
自分ではなく他人の感情と要求を優先するのが当り前になっていて
自分の感情や欲求もすべて他人の気に入るようにやってきた
すべての判断を「他人フィルター」「教会の大人や親の歪んだ認知フィルター」を通してしていた。
だからいま自分軸で生きてみると
直に環境や他人の刺激が来て
皆が普通10代から積み重ねていることを
いま処理することに戸惑い疲れてしまい
力の入れ加減、抜き加減も分からない状態に。
人の心には、確実に限界点があって
子どもや若者のような無限の信頼と回復は続かず
心は擦り切れて小さなことにも悲鳴を上げるようになります。
自己肯定感を持っている人には理解できない「過剰反応」と思われてしまうようなことがカルト化教会の宗教2世や虐待家庭の子どもの心に起きています
それを切り離すにはどんな手を使っても良いと思っています!!
それは当り前のことです!
日によって変えても良いですし
逃げても嘆いても恨んでも達観俯瞰しても気晴らししても別のものに没頭しても
過去の自分と環境とは全く違う自分と今の環境に心を置く作業です。
過去に無意識が支配されていることを自分で意識して表に出すことで客観化できる面があります。
でも自分の意思で分離できずに執着が大きくなることもあり、
自分にしっかりした別の立ち位置や自信が多少でも持っていないと
厳しい作業になるかもしれません
だから
完全に問題教会や問題家族と距離的心理的に関わっていない方が良いのです!
やり方は、心が願うものに従って何でも試してみて
復讐心や恨みの感情が顔を出しても当然だから良しとして
自分を良く頑張ったとほめて笑い
自分の笑顔の奥に何かがあっても
普通の隣人が怖がったり嫌がったりしなければ良いと思います。
心の中の願望としてはっきり意識して
また夢や希望として前向きに隣人に語ったり
「あの家の子じゃない」「あの教会で育っていない」と
他の家で育ったかのように自分の過去を切り離すようなストーリーづくりも良いと思います
ドラマや映画の良い家族を自分の家としたり
SFの並行世界の別次元に生きるイメージを持ったり
頭をスッキリさせて別世界の自分を愛おしみ慈しみ
自分の才能や好みを知りしっかり褒める、
また隣人からの褒めを受け入れる
そうして自分を社会の中で真っ当に認めていくのです!
自己肯定ができて愛を信じて自己完結している子どもとして
自分の意識を子どもの頃に戻して今の行動のひとつひとつに意識して良いイメージの体験として上書きする
同時に、毎日、他の会社で働いているかのように考えて毎日過去を切り離しつつ。
教会については良い見本などほとんど見つけることはできない現状です
私の場合、教会の外の超教派と呼ばれるCSKやHi.b.aのキャンプに参加して新生や解放や希望を感じたが、しばらくすれば教会の現実の中に戻り
キリストよりも人の発想や現実に支配されます
1世はまったく理解せずに喜んで教会と牧師に従っているのでカルト化しても被害に拍車をかけるしかできません!
自己否定からの発想では、短絡的なその場限りの保身や責任逃れの発想しか出てこない
罪責感からは他者のための奉仕や義務
1世親からは『バカで無知で罪人だから努力しろ』と言われて動機づけられ
それでは自分の本質の発見や変化や成長に至らない
家や教会の大人の感情爆発、支配で
アンテナが否定評価への自己防衛のために研ぎ澄まされて、使い方を間違う
アンテナは本来、友情信頼のある関係性による安心、他人への思いやりのためなのに
自分を知る友、造り主、カウンセラー、アドバイザー、導き手である良き教師と出会い
一緒に探し求めて見つけようと心に願うこと
教会では、弱さを見せると、つけ入れられて罪の意識や神の国の使命感を焚きつけられる
やる気や使命感が罪の意識からの動機にされるのは非常に厄介で心の問題を複雑化する
解放を願って祈っても教会に縛られる限りどんどん解放から遠のきます。
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