自由な心で神様に祈っていますか?
祈りの言葉が何かに縛られていませんか?
私たちは神様に向いて自由であり、それぞれの心の思い、叫びがあります。
その自由に聖霊がおられ、必ずとりなされています。
多様な祈りがあってこそ、みからだの一致ではないでしょうか。
祈りが、誰か人から強いられたものではなく、
「自由に神様に向かう私たち自身の心」であることを神様は喜ばれます。
自然な心のことばこそ、神様との交わりに必要です。
そう考えるクリスチャンの交わりと、多様な一人一人の祈りの拡がりが求められます。祈りが現実とリンクすることは、人生に必要な知識です。
このブログは、その自由な祈りの拡がりのために書いています。
知らないうちに祈りと信仰が誰かに縛られていないかを、様々な視点で考えようとしています。
■教会で疲弊して燃え尽きてしまう問題…
現代の教会は礼拝や組織の形を定めていますが、聖書から「教会がすべきこと」の要素を凝縮したものを日曜の2時間で触れるようにしています。
新約聖書を読むと、2000年前の教会の集い交わりは毎日のものでした。
日曜礼拝のプログラムは、聖書に書かれている教会の毎日の交わりの「短縮版」、「あらすじ」のストーリーになっています。
今の短縮版の日曜礼拝だけでキリストへの信仰を養おうとすれば、断片化した教えの詰め込みになってしまうのは当然かもしれません。
その中でも問題のある教会では、独自の詰め込み教育をして縛ったり、聖書の一部だけを切り取り強調して「信仰の間違いない形」と言います。
そこに空しさを感じ疲弊することは当然かもしれません。
信仰は日曜が本番ではなく、日常で働いてこそです。
信仰者同士の交わりは日々の信仰の励みになるはずなのに、もし教会が息苦しく、日曜のたびにストレスがたまるなら、無理してその教会に行く必要はないのではないでしょうか。奉仕のためにだけ身を削る思いで必死で行くような教会は、聖書に照らして健全とは言えません。
救いと信仰を教えている福音のことばには心の深いところで同意するけれども、
たとえば、祈りや証しまで教会の全員が同じような言葉を使っているのはどうなのでしょうか。
それで、神様とのつながりが太くなり、個人的な悩みや痛みに救いが確かになるでしょうか。
それとも教会のみんなとのつながりが強くして、心の葛藤を忘れようとするのでしょうか。
なぜ、福音が多くの日本人に伝わらないのでしょうか。
クリスチャンの世界は特異なのか、教会の敷居は高いのか。
教会だけが清く、教会の外は悪魔に支配されて危険なのでしょうか。
今の形式化した教会独特の教えは外からどう見えているでしょうか。
教会の外の隣人との間に壁を感じるようになるのは、果たして健全なのでしょうか。
■自分が知る困難や痛みからの本音を神様にぶつけることができる心の部屋がありますか?
クリスチャンが皆、自分らしい自由な関心を持って、
今居る自分の場所から、自由な視点で気づくことを、自分のことばで熱心に祈る、
そんな祈りの多様化が多くの罪を覆い、自分と隣人の救いにつながるのではないでしょうか。
キリストがもう一度来られるまで、教会とクリスチャンは隣人の救いのために存在しています。罪の裁きが使命なのではありません。
生きる場で皆がそれぞれ困難や試練を味わう時代になってきましたが、
それはただ罪の世の結果として存在するのではなく、信仰者が自分と隣人のために祈る場です。
それぞれの問題を教会に持ち寄っても、すべてが受容され癒されるわけではありません。それぞれ置かれた場の痛みからの祈りが、その場の救いや脱出につながるのではないしょうか。その場に置かれた意味を考えたいのです。
これはキリストに導かれていても、教会の人にすべてが理解されるわけではありません。個人的にキリストに伴われ、ただキリストにすがって負える重荷です。
まずは、キリストの十字架による救い・あがないの恵みを、自分の視点で改めて聖書を読んで味わい、キリストご自身と御跡を、自分の心で追い求めましょう。
置かれている場から、自分と世の救いと現実の全体像、自分と教会への主の召しについて求め、自分の関心がどこに向くか考えましょう。
自分と隣人と世にある現実の課題をよく知り、痛みを痛みとして、喜びを喜びとして共感して、目には見えないけれども確かにある多くの人の祈りに連なる心で祈りたいのです。
■キリストの御体としての教会
キリストのみからだの教会は、共に居られる御子キリストの恵みと、聖霊の交わり導き、父の愛の支配を求め、天と地にみこころが成るのを望む、祈りの家です。
恵み、導き、愛のみこころは、私たちの心に語りかけられ、出会う現実と心の霊の中で納得があるものです。
各々ひとりの祈りの納得が集まって証ししあい励ましあうのが、教会の交わりです。
明文化された「教会戒規」や「教理」は、「教会を守る」というよりも人の身勝手な肉の過度の暴走を止める役割です。
信仰の命は、個人的な祈りによるキリストとの出会い交わりです。
教会の活動はこれを促進するものでなければなりません。
そして、各々が置かれた生活の場から皆さんが独自に重荷を見つけて自主的に祈ることで、人生と本来の教会の姿であるキリストの御体全体の歩みが実現されていくのが本来です。
一人ひとりの信仰のお証しが、横に連なってそれぞれの場から流れ出しますように。
あらわれ方は違うけれども賜物に従って一つの聖霊の働きが保たれますように。そうしてみからだの交わりが愛の聖霊の結び目によってつながっていくことを願っております。
執筆者 仁保裕介
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現在、私は北九州市に居ります。勤務の関係で集会奉仕、面談はお受けできない状況です。
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・CFF小倉福音センターの目的・活動
■コメント・トラックバックをお送りくださる皆様
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(常識の範囲のことですが私の基準はhttp://cffexodos.main.jp/exodospost0.htmに詳しく記しました。)
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■教会カルト化記事の姿勢
このブログでは、問題のある教会で不当な扱いを被った経験者の方々と、指摘を受けている教会、双方に向けて記事を書いております。
問題の無い教会の方、また問題のある教会の方には受け取れないことが書かれているかもしれません。
その場合は、私が管理する「EXODOS〜カルト化した教会や信仰という名の虐待からの脱出支援ページ」や、検索で「信仰 虐待」の結果をご覧いただければと思います。
記事を書く背景と動機は、自分も含めた福音派・聖霊派・聖書主義を採る教会と牧師に内包されているものを明らかにし、カルト的な信仰を生み出す原因を探るためです。
犯人探しが主旨ではありませんが、感情的な問題や整理には、誰かを恨み続けるよりも、それまでの影響を一端切り離す方が客観化しやすいため、切り離す発端となるように批判的な内容も心に描いて良いのだとアピールする目的があります。
また、一般的社会的に認められない問題を明確にするつもりです。
内容が辛らつすぎると思われる方は、自己批判・内部告発だとお考えいただければと思います。
このブログ内の記事:
牧師が聖霊に示されて問題に気づくか
教会の虐待問題−フラッシュバック、PTSD症状からのリハビリの困難と対応
確信が押し付けられて、うつになる問題 リハビリ
教会での精神的虐待・中傷による障害が脱会後に顕著になること−Yahoo!ブログ
私は感動をあまり信じすぎないようにしています。
正統教会で経験したカルト信仰からの脱出
各々の事情を神様はすべてご存知であること。地上の教会にはマニュアル化できない神との交わり
祈りとは神様との対話です。−私たちは自分の真の姿を認めているでしょうか。
お勧めする「自立」について
自由のために十字架を負う時代
「信仰という名の虐待」によって植えつけられた信仰の子の「三つ子の魂」の執着に、誰が責任を取るのか
■閲覧が多い記事
教会で苦しみを味わうこともあります
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52277581.html
不健康な教会の兆候 カルト化の前ぶれ
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/51458318.html
聖書信仰が、「聖書絶対の律法主義」にならないように、ちゃんと聖書を読もう
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52178268.html
みんな、自分を正しいと思っている。
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52272274.html
教会が引き起こし続ける信仰上の「冤罪」
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52138245.html
地上の教会の神秘性。リバイバルへの道。「完全」への勘違いがカルト化へ。
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52161558.html
信仰と献身は、人それぞれの多様な「信仰の真実」を認め求め続けることではないでしょうか。
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52206089.html
社会に出れば「信仰」が試されるのは避けられない現実です。それも霊的成長の時として神様にあって自分を受け入れましょう。
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52181153.html
キリスト教会のカルト化・危険ワード「聖書と神の法則に従え」
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52120271.html
経験の少ないクリスチャンが囚われやすい「感情の問題メモ」
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52204905.html
教会のカルト化を避けるための最低限の指針
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52184080.html
苦しいときの祈り求めが、信仰の基盤や知恵に
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52180692.html
『試練』の意味は成長のため…その「勘違いあるある」としての『神と悪魔の戦い』
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52163557.html
伝道とは
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52125006.html
守るべき信仰の基本と実生活に伴うキリストの助け
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52127413.html
教会に何を求めるか 教会へのイメージを再考すべき時
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52078530.html
質問へのお答え:教会籍と交わり・御体なる教会
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/50037482.html
教会のカルト化・虐待を止めるために
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/50641653.html
十字架を負うとは
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/50037410.html
ヨブ記38章
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/50677939.html
真の祈り、礼拝
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/50707198.html
聖書の記録と神との出会い
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/50117943.html
「CFF小倉福音センター」について
教会の問題で弱さを覚えている方々に奉仕し、主イエス・キリストのみからだの教会に奉仕したいと願っています。「この小さき者を、神様の御用のために用いてください」と祈り、神様が召されている自分の小さき働きに自分の人生をささげていきたいと思います。
CFF小倉福音センターは、会員制度は無く、定期集会もありません。
このブログを通じてメッセージを伝え、メールのやり取りでご相談を受ける、そのような交わりが主です。
集会奉仕も承りますが、テーマとして、このブログの記事の通り、強制のない自立した信仰と、祈りの自由、内から湧くキリストの証しを共に求めるものでありたいと思います。
また、出会いと交わりの中から、必要に応じてその都度協力共働して、問題を共有します。
この働きと交わりは、互いの祈り無しには進むことはありません。
私たちの信仰の態度として、それぞれ生きる場で問題の防止・脱出のための知恵や助言を伝えることで、問題の防止・対策につながります。
この働きのために、仁保に経済的ご支援が許される場合、お送りいただいたものを、記事執筆、ご相談、教会に傷があって触れられない方への助けになるアプローチ、 各地の教会への防止・対策の奉仕に用いさせていただきます。
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■一部記事は下のブログに重複して掲載しています。
キリストの助けを求めて〜クリスチャンライフと教会
Sクリスチャンセンター問題の資料 管理人の雑記
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