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「自分を否定すること。」教会で過ごしたこれまでの40年の多くで、これが信仰のステップとして重要だと教えられてきました。

今は、これまでの道程とそれを選んだ自分を肯定するようにしています。また、他の方の経験から是非学びたいと思っています。

もと居た教会では、聖書と聖霊だけから学び、汚れたこの世のあり方から離れるように言われました。
しかし、イエス・キリストは神のあり方を捨ててこの世に来ました。十字架にかかりこの世のすべての罪とわずらいを負い、あがないました。

私は信仰によって、このイエスの救いがすべての人に及んでいて、救いは願いと祈りを持つすべての人とともにあることを信じています。

だから、希望を失いませんし、多くの方に学びたいと思っています。

この希望や交流を阻むのが、教派や教会内でしか通用しないこだわりであり、視野の狭さだと感じます。教派主義・教条主義と言えば当たりなのか、村社会というのか。
文頭に書いた「自己否定」は、救いを受け取るための「心の柔和さ」を得るためだと説明されました。これには矛盾があるように感じます。
教会が集団的こだわりに留まり続けていると、そこには救いの進化や成長はありません。

聖書のパウロ書簡によれば、「信仰の弱い人」は宗教的に食物や日付にこだわってしまうが、「信仰の強い人」はそれらにとらわれない、とあります。

信仰によるなら、多くのものを得、多くの人と交流できると思います。

「互いに裁き合わず、妨げやつまづきを置かないように気をつけなさい」とも言われていますが、どうでしょうか。

私たちは、弱い信仰はそれとして、さらに先に進むことを妨げられていません。
すべての教会が、寛容に外に向かって扉を開いて、人や国を縛らないことが普通になる日を待ち望みます。


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