「イエス・キリストは、罪のために死ぬべき私のために十字架につけられ、私の罪の代価として自らが犠牲となってくださいました。三日後に復活されたのは、キリストが信じる者の初穂として死に打ち勝ったからでした。これらは、私が新しい命に豊かに生きるため、キリストが私に永遠の命をあたえるためでした。神様は、主キリストを代価としてしてくださり、私を罪の報酬である死から買い取り、死から命へと移し、永遠に子としてくださり、神の御国の住民として受け入れてくださいました。聖霊様が今私の内に生き、私を霊的に清く傷のないものにしようと、私の人生を導いておられます。」

この私の信仰告白を掲げ、私の45年の信仰暦をふり返りつつ、信仰・献身・伝道の立ち位置を改めてお分かちしたいと思います。


【幼少期〜思春期のこと】

福音派は戦後に伝道をはじめたところが多いのですが、私も終戦の20年後から開拓をはじめた小さな教会で3才から信仰を教えられました。そこで価値観に大きな影響を受けました。私の信仰告白を導いたのはこの教会の教会学校と、子供伝道団体による家庭集会と、中高生時代の超教派キャンプでした。この信仰告白は今も私の中で生きているものですが、当時はこの告白と同時に、ある縛りが私の内面を蝕んでいました。

私は聖書を誤りの無い神の言葉と教えられ親しみました。しかし、聖書をまずは解釈を加えずに「直接命じられる神の言葉」として一句一句を文字通り深刻にとらえる教会の姿勢があり、信仰に関して私なりの疑問や感じ方や納得が封じ込められ、パーソナリティが窒息寸前の状態になるのも普通であるかように慣らされていきました。幼い時から長い時間をかけて慣らされたので、教えに支配されていることに疑問を感じませんでした。
教会の誰かが支配するのではなく、「誤りのない聖書主義の教理」の字面に皆が支配されてたと思います。教会や教派の誰もこの危険を口にせず、警告をしていませんでした。普通の人間的な感想は封印して、ただ「聖書のことばが命じる通りをシンプルに行い、その通り思うこと」を目指しました。教会が若く、誰もその「聖書どおり」の実体がどんなものかは分からなかったのだと今は思えます。ただ字面に縛られており、神と人に向き合うような探求すべき信仰の深みの存在など誰も口にしません。当時の私は先輩信徒を見ていて、そこから信仰を教えられず、感じもできず、洞察もできませんでした。福音派が出している新改訳聖書と信仰書籍の言い回しから外れないような言葉を、ただ自然に口から出るようにすることが信仰の成長のように感じられました。
それから20年以上経ち、一緒にその教会で過ごしていた当時の若手信徒は、今だれもその教会に行っていません。牧師が交代しても厳しく「聖書のみことば通り」を教えているとのことです。

私は小学生時分に「全人類を待つ裁き」「罪人の永遠の滅び」を事実として信じて背負い、伝道の使命感を持って同級生を誘いました。高校時代には自分では原因がわからない無気力なウツ状態になりました。
社会人になっても自分の心が何かで塞がっているのを自覚できないまま、信仰者のプライドの殻だけを支えにして生きており、人の日常の弱さに共感しないような接し方で隣人に対していました。聖書によってすべてを裁き、因果応報や正義不義の主張をするような、教条主義に服従する優等生タイプになっていました。そして、自分を棚に上げ世の中のことを聖書によってすべて分かったように評論をしていました。
しかし、その実、自由な人間的感覚や自意識が子供の頃から抑え込まれていたので、自分の思いではなく外側からの評価を非常に気にしていました。他人の評価を神様からの評価かように感じており、細かい言葉さえ重大に思い、大きく喜んだり落胆したりしていまいした。いつも「自分への評価だけは周りが正しい」と感じてしまい、振り回されて内面はいつもヘトヘトでした。アダルト・チルドレンと呼ばれるような不健全な精神だと徐々に気づいていきますが、自分はダメな「罪びと」という意識が教会と家族からの教育で徹底しており、簡単には抜け出せませんでした。

親兄弟が熱心だったので、私も「教会を第一に」と首を突っ込みすぎており、程々に関わるようなやり方はできませんでした。それが災いしました。
信仰を持った初めの頃に、教会との関わりを程々にして自立心や客観性を持つことは大事です。見本になる大人が教会や周りに見つからないなら、特にそうすべきでした。


【教会が犯しやすい問題について】

人間の罪は罪として教えるのは良いとしても、その他に人の衝動や心理的動きも理解しないで、どこまでも一方的に大人や教職者が罪意識を詰め込む宗教教育やしつけが後に問題化します。このクリスチャン家庭による行き過ぎた罪意識の植え付けは、牧師家庭や欧米の保守派聖霊派教会の家庭にもよくある事例のようです。後に子供と親が自覚的に反省し、和解や赦しが行われない場合、大きな問題につながる心理が育つことがあります。他人に懲罰を与えたくなる心理や服従を要求すること、些細なことからの恨みの増幅、過度の報復的加害行為などが起こります。大量殺人やレイプ事件を平気で起こす背景として報道がされたり、教職者自身がその罠にはまる事例も最近は特に多く報告されるようになっています。無自覚な心理的衝動によって支配や強要をし、当然で正義だとまで思い込み、罪の意識がありません。

教会は人生で傷ついた人や、人生や世の成り立ちを考える人が集う場所ですが、実は誰もその完璧な答えを持ってはいません。ただ、誰も完璧ではなく、罪的な衝動を抱えて生きている自覚をして我が身を省み、人を傷つけないように思いやることが健全な人間性の一歩です。これを理屈抜きではっきり言える人が常識人ですよね。しかし、これを言えない人は、自分に言い訳をしつつ思う通りに物事を押し通します。その言い訳の中に「信仰」の文字が入るのは、非常に滑稽であり、教会にとって重大で深刻な問題です。


【信仰と救いの実相について】

問題のあるところに、常識と隣人愛を持って居ることができること、これが信仰による前向きな忍耐力です。地上での救いのあり方で、これが神の国だ、とも言えます。誰もが完璧な答えを追い求めますが、救いの完成と完全な知識は、神が定めた時に全てはっきりするものだと、聖書にあります。天国の入り口で自分の人生を振り返ると、私たちの足跡はきっと綺麗で完璧なものではありません。様々な失敗や努力や葛藤や祈りや痛みが見えるはずです。そこにキリストが伴われているのが見えるなら、私たちが信仰者として生活していたことがわかります。それが聖書が示す地上の人生です。

救いのしるしとして明確に存在することは、主イエス・キリストの十字架刑と復活であり、信じる人には三位一体の神の「聖霊」が宿り、この世のものとは違う平安が与えられます。それは、キリストと聖霊が伴われているから痛みのある人生に平安があるという奇跡であり、神の国です。

神様のキリストにある十字架の「赦し」を知り、罪があって全く完璧でない自分さえ受け入れられることを知り、そこから来る寛容を学び、信仰による遜り(へりくだり)によって救いを理解し始めることが、信仰の決心の最初にはまず必要なことです。自分を省みないでひたすら聖書や伝説的信仰の世界に陶酔する人生など、実は救いとは言えません。
救いとは、死んで天に行くこと、また神の定めた時に、全世界の救いが完成するもので、この世にあっては現実に艱難がある、と聖書に書いてあります。ただ、人生の間に「わたしは決してあなたを離れず、またあなたを捨てない」というキリストの約束にすがるのが信仰です。このことを、冷静に聖書を読んで受け入れることが難しい人も居ます。私もこれまでの人生をかけてやっと受け入れつつあるのだと思います。これを恵みとして受け取れるか、それともただの苦い杯だけとしか思えないか。おそらく正解は、その両方です。神様は私たちが耐えられるように配慮し、恵みを与え、人生を導かれます。

救いの平安と確信はあっても、今はおぼろげながらに見える神の国と救いの深い意味について、聖霊に助けられ、祈りと、自分の罪に照らした聖書理解の深化によって、信仰が成長していきます。教会は本来そのような信仰を持つ人の集いであって、人にはっきりした答えを与えるというより、誰もが成長と完成に向かう人生の中でキリストが示した救いを追い求めています。教会で語られている救いの証言は、成長の途上で得ている途中経過とも言えますよね。


【「教会が教える型」と「個人の求道」の葛藤について】

福音派の中には、私が子供のころから通っていた教会のように「信仰の型」がある教会と、普通の人間的感想を尊重して聖書を探求する教会があった、と思います。
聖書や信仰に対してさまざまに感じ、疑問や意見を持つことで、より心に印象付けられ、無意識に反芻したりしているうちに時として思いがけず納得がやってきたりします。これこそ聖霊の働きだと思います。
しかし、それを最初から「答えの型」や「当然の服従」など硬直して決め付けつづけると、生き生きした命ある信仰が失われて義務感と脅迫感になります。これが勘違いした罪意識や使命感につながるものです。

当時の私は聖書の言葉を「教理の型の根拠」としてたくさん覚えていましたので、他の教会の方との議論に負けることはありませんでした。しかし、それは相手への理解や配慮のない容赦のないもので、文字通り厳しさ一辺倒を決め込めば、実はどんな相手でも黙らせることができるただの「理屈」にすぎませんでした。
それはちょうど会社のワンマンな上司が、仕事仲間の地道な苦労を一切省みず、何の思いやりもなく次なる実績目標への理想論をぶち上げるようなものです。人は、ある理想を強烈に信じ込み脇目もふらず突っ走れば、ある程度それを実現できます。しかし、成長を永く続けるには、多くの人の疑問や考え方を尊重して多くの人と共に深く共感の輪を広げなければなりません。人のアイデアは一時はヒットしても、時代や人の変化に対応しなければすぐに過去のものになります。
信仰についても、自分の内面の罪の現実に痛みを伴う成長や変化もなく、日々深まりがなければ、一時的なものになります。聖書のことばに感動した一時の情熱だけでは、生きた信仰は維持できません。聖書を型として教えて守らせ続けることだけなら、キリスト以前のユダヤにあった誤った信仰である「律法の縛り」と同じものです。聖書を解き明かす牧師の説教が、聖書を「型」としてではなく、その牧師自身の葛藤や深みのある罪の意識があって成長することで徐々に知ることができる聖書の真理の断片について伝えているか。これが問われます。


【これからの伝道と証し・負うべき十字架・立つべき場所】

その意味では、聖書のみことば研究に没頭するより、人間として苦労して人格を磨いたほうが、聖書学習も祈りも良好な人間関係も伝道も、実は進むはずです。部屋にこもって聖書を読むだけで自分なりの理解したストーリーから自分の頭の中で世界観を作るよりも、キリストのように世に出て、私たちそれぞれが自分の十字架を負うことの方が価値があります。「バランス良く」と言うなら、座って聖書の学びを重ねるよりも、出ていって十字架を負う方が人の愛のために価値があります。世に出れば、誰でもが十字架を負っているのですから、具体的な祈りの重荷がたくさん見えてくるはずです。それぞれに負うべき苦労など知らない人は、人それぞれの犠牲が見えずに生きているので、現実的に切迫した祈りが出てきません。

誰もが犠牲を払い合って生きているのが世間です。証しし伝道するなら、しっかりと実感した自分なりの世に対する重荷や十字架がなければ、世の人には説得力がありません。教会の型に従った罪悪感や使命感ではなく、この世にある多くの痛みや犠牲に照らして、自分の罪や重荷を感じ見つけることは大事なことだと、痛感します。

聖書知識やクリスチャン的価値観が分かってもらえないと嘆くのは、人を説得するだけの体験的に深い十字架の裏づけがないのと、相手に対する勝手な決めつけや思い込みがあり、的外れなメッセージになっているからに違いないのです。

自分のしたいことして、行きたい所に行き、言いたいことを言うのではなく、自分の負うべき十字架を負い、祈り遣わされた場所で導かれたことを行い語ることが大事なのだと思います。
私自身、日々置かれた場所、与えられた情報から感じることをきっかけとして、このような文章を書きはじめますが、思い通りに書けたことがありません。いつも違和感や葛藤があって書き直しや書き足しの連続です。このことの目的は、おそらく実体験と聖書知識の中に神様の意図する摂理的で有機的結びつきがあり、それを断片としてでも祈りつつ知りたいからであり、またそれを証ししたいがためです。自分が特別な何かを知っているということではなく、皆さんがそれぞれに自分の境遇で葛藤し、神様との祈りの中で毎日発見するものと同じものだと思います。それぞれ自分の人生で神様によって置かれた場所から、重荷を負って証ししていくことが大事で、それぞれの視点を分かち合うことで互いに多くの学びがあるのだと思います。皆さんが「型」通りの同じ告白をしていることに安心するのではなく、「新しい命の喜び」があり、救いに関する「新しい神様の創造(ガラテヤ6.15)」を聖霊による確信として日々の成長の中で見つけられることが、良い交わりなのだと思います。

私は、ただ知っていることを書き連ねるのではなく、祈り求めつつ地上で私が知るべきことを書きとめようとしています。新しい発見や、忘れてしまったもの、過去の知識に新たな光が当たって知ることもあると思います。私たちがすでに知っていることなどごくわずかだという聖書に書いてある知恵に従ってひたすら求めています。日々の体験に連動した知恵知識によって聖書理解の深まりが、遅々としていても進むのだろうと思っています。

教会や牧師の型、また自分が決め込んだ信仰の型にばかり永年従っていると、見えなくなるものがあるのは事実だと思います。日々、自分の何かが問われており、キリストは毎日、私たちの内側のいくつもある閉じた部屋のひとつの前に立ち、扉をたたいているのだと思います。怖くて心を閉ざし、壊されることを恐れている執着心があるのかもしれません。しかし、現実の生活で追い込まれたりして、キリストに叫んで祈り、深く関われば関わるほど、信頼が増して、いつしか委ねられるようになるものです。私たちが弱い時にこそ強いとは、弱っている部分に働くような十字架の赦しによって生かされる神様の力があるからです。

私は、私が置かれた地上の生涯から証ししますし、人にはそれぞれが置かれた場があるのだと思います。自分に与えられたそれぞれの十字架を自覚するのさえ、長い時間がかかりますが、主の細き御声を求め従うなら、自分のなすべき役割が見つかるのだと思います。


【逃げずに遭遇すべき人生の葛藤】

さまざまな気づきを持つように導かれ、問題や困難に遭うことが神様の摂理であると悟るには、確かに大きな葛藤があります。
子供の頃から親しんだ福音派の開拓教会では、教会信徒と牧師が人の弱さを基準にしないし、互いの共感と協働もなく、「聖書の命令」「信仰の型」と「成果」のことだけ議論し続けていたことを見させられました。家族がその教会を第一にして家族の心がバラバラになって、「信仰」によって裁き合う関係もこの身に負いました。
このような子供時分の精神的背景が日本では非常に特殊であり、世間の評価として、「さっさとそんな家族と教会を捨てて、社会で学び働くことが妥当だ」と客観視できる事柄でした。そのことには、孤独を感じてきましたし苦しいことです。働いて忘れようにも心がきしみ、普通の社会生活でも精神的重圧ありますから、支えが欲しいものです。困難に遭えば、乗り越えるための心の強さが欲しくなります。
過去、子供の頃に「教会の型」「聖書の命令」「教義」のために努力した、「人類が向かっている地獄の滅び」を避けるための信仰と伝道。「弱さを認める真の信仰」ではなく、「信仰の形をした人間的努力」を子供時分に埋め込まれた私の心には、満たされぬ大きな穴があります。そこから、噴出す感情が時折あり、その時は耐えられなくなります。しかし、その痛みが私の原動力にもなっています。

※今回は記事を省略しますが、私が26歳の頃この教会を去り、転入会した主の十字架クリスチャンセンター(TLCCC)の問題についてはこちらへhttp://blog.livedoor.jp/chlife/archives/51534622.html



【健全な信仰を守るために、教会の中に戦いがあること】

人は人のあり方を簡単に裁くべきではありません。しかし、愛する人を守るためには、悪いものを強制する人物を警戒し、当然に退ける責任があります。

聖書によれば、イエス・キリストがユダヤの祭司教師たちを会衆の面前で明確に裁いて非難し、神を求める民を古い律法の縛りから解放するため、自らを完全ないけにえとして十字架にかかり「信仰による救い」を明確にすることで律法を完成させました。

その後も、教会に古い「行い主義」の律法を持ち込んだり、霊的と呼ばれる誤った教えで罪や救いの真理を脅かす偽教師が居ますが、それを見分け退ける信仰の命令をイエスと使徒たちは新約聖書に残しています(マタイ24:24、)。もちろん、教会の歴史にあるような信仰を理由にした戦争や殺人は論外です(ヤコブ4.1-12)。新約聖書を読めばそれははっきり分かります。
旧約時代は、正しい信仰を伝えられながらも、どうしても従えない人間の普遍的な歴史の記録と言えます。それとは全く違う「愛」を基準にする信仰が、キリストによってもたらされ、新しい完成された律法として教えられています。
66巻の完成した聖書と、内住の聖霊に従って、私たちはことばと行いにおいて正しい信仰を証し、愛を伝えなければなりません。

神であるキリストを信じる信仰によって義と認められることと、誰でも祈り求めるれば手に入れることができる新しい救いのめぐみ。これを、誰も脅かしてはいけないのです。完成された律法である自由の福音は、人の手によって時代ごとに変形され「型」に陥ることが教会の中で起きてきましたが、今も私たちの確信として守られているのは、神様ご自身を求め、時代ごとにキリストご自身から目を離さない多くの名もない信仰者の確信と祈りによったのだと思います。正しい教職者が一人いても、正しい福音は維持できません。多くの人の心に祈りと確信がなければ、決して今まで維持されなかったはずなのです。その正しさを感じる心はさまざまな境遇からの激しい求めの祈りから起こされ、多くの多様な生活の現場からの証しがあったはずです。多くの多様な証言がなければ、普遍的な「信仰の正しさ」は証明できません。画一化され効率化された信仰と伝道の「型」からは、この世の多様な困難さの真実に対して、救いも解決も説得力もありません。ただ、その「型」に共鳴するようにマーケティングされターゲットにされている一部の成功者しか、「型」のある教会には招待できないのです。全世界の救いのために重荷を持つなら、困難でも多様性を尊重しなければ、次世代にキリストの信仰を引き継げなくなります。この日本や欧米にその信仰が果たしてあるでしょうか。私たちはさまざまな困難を経た小さな火なのかもしれませんが、困難をくぐり抜けなければならなかっただと思います。皆さんの小さな火を絶やさないようにしましょう。


【新約聖書から参考箇所を抜粋 ピリピ書3:7−21 ヘブル書4:14−16】

ピリピ 3:7−11 前田護郎訳1978−−−−−−−
しかしわたしに益であったこんなものを、キリストのゆえに損と思いました。
そして今も、わが主キリスト・イエスを知ることのすばらしさのゆえに、すべてを損と思っています。彼のゆえにすべてを損しましたが、キリストを得、彼に属すると認められるために、それらをごみと思っています。
律法から来るわが義を持たず、キリストのまことによる義、まことに応えて神から来る義を持つのです。
それはキリストを、すなわち彼の復活の力と彼の苦しみを共にすることを知るためであり、彼の死と同じ形にされて、 いかにもして死人たちからの復活に達したいのです。
ピリピ 3:12−16 新改訳1970−−−−−−−
私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。
兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。
ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。もし、あなたがたがどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます。
それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。
ピリピ 3:17−21 前田護郎訳1978−−−−−−−
兄弟よ、共にわたしに倣ってください。あなた方はわれらを模範としますが、事実そのように歩む者に注目してください。
それは、たびたびわたしが言ったし、今は泣いて言いますが、キリストの十字架の敵として歩む者が多いからです。
彼らの終わりは滅びです。彼らの神は腹で、彼らの恥を誇り、地上のことで頭がいっぱいです。
われらの国籍は天にあり、そこから救い主としての主イエス・キリストを待ちうけています。
彼はわれらのいやしい体を変えて、彼の栄光の体と同じ形になさるでしょう。それは彼が万物を彼に従わせえたもうという、その力によってです。


ヘブル4:14−16 前田護郎訳1978−−−−−−−
われらにはもろもろの天をお通りの大祭司である神の子イエスがいますので、われらの告白する信仰に堅く立ちましょう。
彼はわれらの弱さを共に悩みえない大祭司ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべてについてわれらと同じく試みられた方です。
それゆえわれらははばからず恵みのみ座に近づきましょう。そこであわれみを受け、時にかなった助けにあずかるよう恵みをいただきましょう。
−−−−−−−




にほんブログ村 クリックで上位表示にご協力ください。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ  にほんブログ村 ライフスタイルブログへ  


執筆者 仁保裕介(プロフィール

  福音派・聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)・聖書主義の問題、リバイバル信仰の問題、潜在意識など心理的背景、教会のカルト化問題、クリスチャン2世問題を扱います。その当事者として信仰的姿勢と現実的姿勢で原因考察とお勧めをしております。
  教派信仰問題の経験者の今後のあり方、信仰と救い、社会性、人生の背景、自立した生き方を探求します。内容が辛らつすぎると思われる方は、自己批判・内部告発とお考えいただきたいと思います。