罪は、自己の欲望を満足させようとして、人の中で動き回るものです。
カルト化の原因も、人の中の欲望であることは間違いありません。
教会のカルト化は、見逃された欲望が、その自覚無くカルト化を引き起こしたクリスチャンの内にあったという証です。
悪魔のせいにする人もいますが、悪魔は人の選択に従って動くだけです。悪魔がクリスチャンを支配することは無いと聖書ははっきり指摘していますから、当事者が「欲望に従った結果」だと明確化して、今後の対策を具体的にすべきです。
牧師がやったならその牧師が、役員がやってしまったならその役員が、と特定の人格の特殊な例だと言う人も居ます。もちろん、具体的一方的な加害事件では、その通りで、告発し責任を具体的に追及しなければなりません。
ただ、教会の罪の特殊な例としてでく、クリスチャン全員が、私たちの内にある問題だと自覚して取り組まなければ、今後も世代を跨いでカルト化が続くと思います。
自覚とは、カルト化を起こす罪と欲が、特殊なものではなく、誰にでもある些細なものに関係するという自覚です。
人が生まれながらに持つ原罪には、些細な不満や些細なきっかけで引き起こされるさまざまな欲望があり、人が当然の欲求と思うことの中にさえ人を不当に支配する思いがあります。使徒パウロも、罪から誰も逃れられないことを、自分のこととして告白します。そして、パウロは自分がすでに捕らえたと思っておらず、キリストを追い求める姿勢を書き記しています。このパウロの姿勢をすべてのクリスチャンが持たなければ、カルト化は終わらないと思うのです。
自分の思い通りに支配したい欲求というものは、誰にでもあります。生まれた時、最初から利己的でない人は居ません。
誰でもが、最初は親から、そして社会勉強をしながらやってはいけないことや人との距離感、信頼のあり方を学びます。
しかし、「聖書のみ」「信仰のみ」「聖霊のみ」「教会第一」が行き過ぎて、愛や常識を置いてきてしまうクリスチャンと牧師・教職者が後を絶ちません。もちろん、ポーズだけ信仰者のふりをした関心を引きたい支配欲の確信犯も紛れ込んでいるでしょうが、信仰義認や聖霊のバプテスマなどの信仰の確信をまじめに告白した人の中に、「自分は十字架の犠牲によって清い」と宣言し、愛や清さを履き違えて自分の罪性を見ないようにしていることが起こっています。また、属する教会や牧師に依存し、問題の指摘や非難するものを悪魔呼ばわりしたりします。罪と係わりを絶ちたい一心で、また教会成長を思うあまりに、正しく自分を評価できなくなり、外見だけ良くしようとする罠にはまるのです。
罪へのたたかいは、自らや外の社会にある現実を見ないようにすることではなく、逆に救われたことで罪を自覚して、日々主にすがることです。
教会や私たちクリスチャンは、このように信仰生活への誤解や思い込みがあることを過小評価し、軽く見ているところがあるので、早急に悔い改め、誰にでも例外なくあるカルト化に至るような罪の芽をを自覚しなければならないと思います。
このカルト化への私たちのたたかいは、私たちが救いを確信しても、なお支配しようとする欲望の放縦に対するものだと思います。目に見える特定の犯人に対して糾弾するだけのたたかいではないと認識しています。
日本の教会が、この世代でこのたたかいをなし終えなければ、死んで天の門に行くわけにはいかないと、私は思っています。
関連記事:●問題意識と提言●(仁保)
カルト化した教会や信仰という名の虐待からの脱出支援ページ
Sクリスチャンセンター脱会者による記録
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福音派・聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)・聖書主義の人が内包する「カルト化問題」をこの世代で終息できますように。どの人にもある心の引っかかりや良心をなおざりにして、聖書信仰やリバイバル信仰に熱くなって人を裁き、自分と家族に負担をかけ、信徒2世や若いクリスチャンの離反を招いていることを克服できますように。その当事者として信仰的姿勢と現実的姿勢で原因考察とお勧めを致します。
そのために、今後のあり方、信仰と救い、社会性、人生の背景、自立した生き方を探求します。内容が辛らつすぎると思われる方は、自己批判・内部告発とお考えいただきたいと思います。
主の十字架クリスチャンセンターに関わった方、教会で傷を負った方には、その時の信仰を切り分けることで困惑から脱する一助になればと願っております。
カルト化の原因も、人の中の欲望であることは間違いありません。
教会のカルト化は、見逃された欲望が、その自覚無くカルト化を引き起こしたクリスチャンの内にあったという証です。
悪魔のせいにする人もいますが、悪魔は人の選択に従って動くだけです。悪魔がクリスチャンを支配することは無いと聖書ははっきり指摘していますから、当事者が「欲望に従った結果」だと明確化して、今後の対策を具体的にすべきです。
牧師がやったならその牧師が、役員がやってしまったならその役員が、と特定の人格の特殊な例だと言う人も居ます。もちろん、具体的一方的な加害事件では、その通りで、告発し責任を具体的に追及しなければなりません。
ただ、教会の罪の特殊な例としてでく、クリスチャン全員が、私たちの内にある問題だと自覚して取り組まなければ、今後も世代を跨いでカルト化が続くと思います。
自覚とは、カルト化を起こす罪と欲が、特殊なものではなく、誰にでもある些細なものに関係するという自覚です。
人が生まれながらに持つ原罪には、些細な不満や些細なきっかけで引き起こされるさまざまな欲望があり、人が当然の欲求と思うことの中にさえ人を不当に支配する思いがあります。使徒パウロも、罪から誰も逃れられないことを、自分のこととして告白します。そして、パウロは自分がすでに捕らえたと思っておらず、キリストを追い求める姿勢を書き記しています。このパウロの姿勢をすべてのクリスチャンが持たなければ、カルト化は終わらないと思うのです。
自分の思い通りに支配したい欲求というものは、誰にでもあります。生まれた時、最初から利己的でない人は居ません。
誰でもが、最初は親から、そして社会勉強をしながらやってはいけないことや人との距離感、信頼のあり方を学びます。
しかし、「聖書のみ」「信仰のみ」「聖霊のみ」「教会第一」が行き過ぎて、愛や常識を置いてきてしまうクリスチャンと牧師・教職者が後を絶ちません。もちろん、ポーズだけ信仰者のふりをした関心を引きたい支配欲の確信犯も紛れ込んでいるでしょうが、信仰義認や聖霊のバプテスマなどの信仰の確信をまじめに告白した人の中に、「自分は十字架の犠牲によって清い」と宣言し、愛や清さを履き違えて自分の罪性を見ないようにしていることが起こっています。また、属する教会や牧師に依存し、問題の指摘や非難するものを悪魔呼ばわりしたりします。罪と係わりを絶ちたい一心で、また教会成長を思うあまりに、正しく自分を評価できなくなり、外見だけ良くしようとする罠にはまるのです。
罪へのたたかいは、自らや外の社会にある現実を見ないようにすることではなく、逆に救われたことで罪を自覚して、日々主にすがることです。
教会や私たちクリスチャンは、このように信仰生活への誤解や思い込みがあることを過小評価し、軽く見ているところがあるので、早急に悔い改め、誰にでも例外なくあるカルト化に至るような罪の芽をを自覚しなければならないと思います。
このカルト化への私たちのたたかいは、私たちが救いを確信しても、なお支配しようとする欲望の放縦に対するものだと思います。目に見える特定の犯人に対して糾弾するだけのたたかいではないと認識しています。
日本の教会が、この世代でこのたたかいをなし終えなければ、死んで天の門に行くわけにはいかないと、私は思っています。
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福音派・聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)・聖書主義の人が内包する「カルト化問題」をこの世代で終息できますように。どの人にもある心の引っかかりや良心をなおざりにして、聖書信仰やリバイバル信仰に熱くなって人を裁き、自分と家族に負担をかけ、信徒2世や若いクリスチャンの離反を招いていることを克服できますように。その当事者として信仰的姿勢と現実的姿勢で原因考察とお勧めを致します。
そのために、今後のあり方、信仰と救い、社会性、人生の背景、自立した生き方を探求します。内容が辛らつすぎると思われる方は、自己批判・内部告発とお考えいただきたいと思います。
主の十字架クリスチャンセンターに関わった方、教会で傷を負った方には、その時の信仰を切り分けることで困惑から脱する一助になればと願っております。