キリストが人に与えるものは、赦しと愛と自由です。
この赦しと愛と自由とは、罪を犯さない人はいないので、「罪からの解放のこと」だと聖書で言われています。
しかし、教会に行くと、日曜礼拝や献金の義務を言われます。教会に長く通うと「信仰の成長」「伝道」をするように言われ、同時に教会の管理運営の役割を言われるようになります。
キリストが赦しと愛と自由を与える条件は単純です。ただ祈り、キリストの名を呼び、助けや救いや平安を求めればよいのです。それだけで、助けがはじまり、祈りの継続と真実さに従って、実感を持つようになります。
教会に行くことは条件ではありません。
教会は本来、神様への祈り求めを助ける場所ですが、必要以上に個人の心に介入することが起きる場所でもあります。それは、親切心の行き過ぎもあれば、支配欲や自己顕示欲・承認欲もあり、属する組織の維持を信仰だと勘違いしたり、極端なものは「教会の外は悪の巣窟」と言ったりです。
人は一人では生きられませんから、必ず交流が要ります。でも、行き過ぎた縛りになると、互いを生かす交流にはなりにくくなります。どこにでもある人同士の問題であり、社会にも仲間にも家族にも教会にも起こります。
ぜひ、おすすめしたいのは、キリストを求めながら孤立せずに自立することを目指すことです。
人同士には、様々な情が動くので難しく、巻き込まれてから気づくことが多いのが現実の実感です。そこから、もう一度仕切り直して立ち上がることを、あきらめずに繰り返しましょう。
人によって環境が違い、ある人は酷く巻き込み巻き込まれ、傷を負い負わせてしまいます。傷が深いほど、立ち直る求めが強くなることは事実です。
キリストに求める信仰に必要なことは、人や教会に言われたことよりも、それ以上に強く自分自身でキリストに期待することです。
キリストは私たちが理解できるような愛の人格を地上で表しに降りてきてくださった神なので、私たちのすべての困り事を実感を持って分かってくれています。キリストの愛は、孤高ではなく、今も人の悲劇の場所場所に伴って居てくださいます。私たちは誰に言われなくても、それを信じて期待することができるのです。それは、父なる神様とキリストが、信じる人に聖霊を与えるので可能になると、新約聖書に書いてありますから。
私たちは、日常でも、信仰でも、人や時の風や流れに影響受けて、支配されやすいものです。
その痛みから学び、何が正しい本質かを見極めるのは、自由を得るためです。だれでもが、人生でその十字架を負っていますが、行き先である目的地は「自由」であって、「もっと重い縛り」では決してありません。
誰でも、自由に、助けと救いを求めるあて先を、何の迷いもなく、キリストに向けて良いのです。
教会の教えや思い込みによって、「自分は救いにふさわしくない」とせず、誰でも自由にどこでも、キリストに助けを求めることができるために、キリストの十字架はあります。
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■福音派・聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)・聖書主義の人が内包する「カルト化問題」をこの世代で終息できますように。どの人にもある心の引っかかりや良心をなおざりにして、聖書信仰やリバイバル信仰に熱くなって人を裁き、自分と家族に負担をかけ、信徒2世や若いクリスチャンの離反を招いていることを克服できますように。その当事者として信仰的姿勢と現実的姿勢で課題に触れていきます。
時に内容が辛らつすぎると思われるかもしれませんが、自己批判とお考えいただきたいと思います。
■教会のカルト化や縛りに巻き込まれないための2つの知恵
1.祈りと聖書読み−日々必要な神様との交わりと悔い改めをする、教えの風に翻弄(ほんろう)されない避け所として、各々個人の祈りと聖書読みのシェルターを確立しましょう。
2.二つ以上の教会に安心できる交わりを確保しましょう。−今の所属教会に並行して、さらに避け所となる他の教会を必ず把握しておき、日ごろから広く他教会・他教派のクリスチャンと親しくし深い信頼関係を築きましょう。安心し信頼できる他教会や他教派の話題を所属教会で積極的に話しましょう。しかし、拒否や非難を受けはじめたら、他の信頼できる教会の交わりにそのことを伝えカルト化の危険について話し合い、転会の準備を始めましょう。そのためにも、信頼あるクリスチャンの友情を日々拡げて大切にしましょう。
主の十字架クリスチャンセンターに関わった方、教会で傷を負った方には、その時の信仰を切り分けることで困惑から脱する一助になればと願っております。
カルト化問題解決まで、問題に取り組まれている教会・サークル・グループとの連繋を強めていきたいと思います。
この赦しと愛と自由とは、罪を犯さない人はいないので、「罪からの解放のこと」だと聖書で言われています。
しかし、教会に行くと、日曜礼拝や献金の義務を言われます。教会に長く通うと「信仰の成長」「伝道」をするように言われ、同時に教会の管理運営の役割を言われるようになります。
キリストが赦しと愛と自由を与える条件は単純です。ただ祈り、キリストの名を呼び、助けや救いや平安を求めればよいのです。それだけで、助けがはじまり、祈りの継続と真実さに従って、実感を持つようになります。
教会に行くことは条件ではありません。
教会は本来、神様への祈り求めを助ける場所ですが、必要以上に個人の心に介入することが起きる場所でもあります。それは、親切心の行き過ぎもあれば、支配欲や自己顕示欲・承認欲もあり、属する組織の維持を信仰だと勘違いしたり、極端なものは「教会の外は悪の巣窟」と言ったりです。
人は一人では生きられませんから、必ず交流が要ります。でも、行き過ぎた縛りになると、互いを生かす交流にはなりにくくなります。どこにでもある人同士の問題であり、社会にも仲間にも家族にも教会にも起こります。
ぜひ、おすすめしたいのは、キリストを求めながら孤立せずに自立することを目指すことです。
人同士には、様々な情が動くので難しく、巻き込まれてから気づくことが多いのが現実の実感です。そこから、もう一度仕切り直して立ち上がることを、あきらめずに繰り返しましょう。
人によって環境が違い、ある人は酷く巻き込み巻き込まれ、傷を負い負わせてしまいます。傷が深いほど、立ち直る求めが強くなることは事実です。
キリストに求める信仰に必要なことは、人や教会に言われたことよりも、それ以上に強く自分自身でキリストに期待することです。
キリストは私たちが理解できるような愛の人格を地上で表しに降りてきてくださった神なので、私たちのすべての困り事を実感を持って分かってくれています。キリストの愛は、孤高ではなく、今も人の悲劇の場所場所に伴って居てくださいます。私たちは誰に言われなくても、それを信じて期待することができるのです。それは、父なる神様とキリストが、信じる人に聖霊を与えるので可能になると、新約聖書に書いてありますから。
私たちは、日常でも、信仰でも、人や時の風や流れに影響受けて、支配されやすいものです。
その痛みから学び、何が正しい本質かを見極めるのは、自由を得るためです。だれでもが、人生でその十字架を負っていますが、行き先である目的地は「自由」であって、「もっと重い縛り」では決してありません。
誰でも、自由に、助けと救いを求めるあて先を、何の迷いもなく、キリストに向けて良いのです。
教会の教えや思い込みによって、「自分は救いにふさわしくない」とせず、誰でも自由にどこでも、キリストに助けを求めることができるために、キリストの十字架はあります。
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■福音派・聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)・聖書主義の人が内包する「カルト化問題」をこの世代で終息できますように。どの人にもある心の引っかかりや良心をなおざりにして、聖書信仰やリバイバル信仰に熱くなって人を裁き、自分と家族に負担をかけ、信徒2世や若いクリスチャンの離反を招いていることを克服できますように。その当事者として信仰的姿勢と現実的姿勢で課題に触れていきます。
時に内容が辛らつすぎると思われるかもしれませんが、自己批判とお考えいただきたいと思います。
■教会のカルト化や縛りに巻き込まれないための2つの知恵
1.祈りと聖書読み−日々必要な神様との交わりと悔い改めをする、教えの風に翻弄(ほんろう)されない避け所として、各々個人の祈りと聖書読みのシェルターを確立しましょう。
2.二つ以上の教会に安心できる交わりを確保しましょう。−今の所属教会に並行して、さらに避け所となる他の教会を必ず把握しておき、日ごろから広く他教会・他教派のクリスチャンと親しくし深い信頼関係を築きましょう。安心し信頼できる他教会や他教派の話題を所属教会で積極的に話しましょう。しかし、拒否や非難を受けはじめたら、他の信頼できる教会の交わりにそのことを伝えカルト化の危険について話し合い、転会の準備を始めましょう。そのためにも、信頼あるクリスチャンの友情を日々拡げて大切にしましょう。
主の十字架クリスチャンセンターに関わった方、教会で傷を負った方には、その時の信仰を切り分けることで困惑から脱する一助になればと願っております。
カルト化問題解決まで、問題に取り組まれている教会・サークル・グループとの連繋を強めていきたいと思います。