親や家族に否定されて育った人が、教会でまた罪の指摘をされて自分を否定されても、
無意識に「ここが居場所だ」と感じてしまう、
そんな問題があります。

愛や救いにおいて完璧であれと言われても、決して完璧にはなれません。

完璧であれば味方、罪があれば敵。

完璧と同時に否定を突き付けられているというダブルバインドが福音派聖霊派の普通の有り様です。
『恵み』の前提がこのダブルバインドであるなら『恵み』も縛りになってしまうのです。

教会に集まる人は、実は潜在的な自己イメージが低く、律法の縛りに、無意識の内に納得させられやすいのではないでしょうか。

しかし自己否定だけでは身動きがとれなくなるので、
ビジョンが欲しいし、架空の夢物語でも良いから、すがるものが欲しくなります。

それで、自己否定と同時に現実否定して、罪の実態を棚上げして目を塞ぎ、牧師の現実味のない聖書解釈や終末論、カルト的排他的な罪責や裁きに心酔して入り込みます。

しかし、自分を裁く緊張状態は決して続きませんから、赦しを正しく理解する必要があります。しかし、自分に都合よく使ったり、甘やかしたりもあります。

聖書によれば、
罪は一生かけて取り組むものです。
キリストの贖罪、赦しへの信仰によれば、
神と隣人を愛する時に、神や人に赦されたり、人を赦したりして交わり、人格が回復される機会になり、恵みが満ちあふれます。
完璧であれとは、この恵みを受け取ることです。
愛とは完璧を目指すものではなく、人の現実に寄り添うものです。

しかし、長く責められ否定された人格は、何事もうまく行かない前提で動き、誰かの否定や肯定に縛られ、
自分のために生きられず、
誰かのために張り切っても、自分のためには張り切れず、人生が順調と思わないことが普通になっていきます。

むやみに行動すると悪いことが起こりそうで怖い。
そして、悪いことを避けるため追い詰められないと行動が起こせないという矛盾も抱えています。
そんな人が教会に教育され、
『自分に罪があって許される』というサイクルがないと誰にも認められない気がして不安で、いつも消極的になります。

親から自分への否定を受け入れることで子としての居場所があり、
しかし同時に根拠のない不安の根源が、実はその親子の上下関係にあり、無意識、潜在意識に刷り込まれています。

人生で不安が心をいつも支配するので、前もって思い通り段取りできず、順序よく実行することができず、逆に失敗することに安堵を感じたりします。

もうこの前提で、仕事や人生を組み立てるしかないと思いつつ、心は決して軽くなりません。

毎週一時間で解決するドラマや説教に心を癒され動かされても、現実では私たち自身が一人で動く勇気が要ります。
真似事で段取りしても、毎回うまく行かず、張り切っても裏目に出てしまう繰返し。
人の言う通りにしても、時と場面で状況は違うから、目を開いて現実を丁寧に見てひとつひとつ対処しなければなりません。

子供時代からの認知の歪みは底知れないものがあります。
そんな落ち込みの底に横たわる快感よりも、
嘘の救いのビジョンや牧師のことばだけに酔うよりも、
生きる現実で、正直な弱さを神に向かう心の祈りで告白して、
自分と隣人の真実に向き合って、弱さに溺れないようにしたいです。


わたしが喜ぶのは
愛であっていけにえではなく
神を知ることであって
焼き尽くす献げ物ではない。

ホセア書 6:6 新共同訳
https://bible.com/bible/1819/hos.6.6.新共同訳




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■私たちクリスチャンは二人三人でも集まれば、そこを「キリストのみからだ」とすることができます。
洗礼の意味は「キリストへの信仰を持つ、人生の方向転換(悔い改め・回心)の決意」です。(洗礼は、授けた教会の組織員となる会員制度とは別のものです。)
牧師を上位に戴かずに、水平の交わりを心がけ、共に祈り神様を見つめて御声に聞き従うことを望み進む、この決心を共有する交わり・ネットワークを目標とする「キリストのみからだの教会」のあり方を求めます。
現状では「頼れる人として誰か教師を自分の上に置きたがる人の弱さ」を認め、私たちは日々そこから脱出して神様に祈り、主にある交わりをいただきます。同時に、助けを求める人の祈りに、あらゆる形で呼応するクリスチャンであることを決意し、自立への助けが必ずある「みからだのネットワーク」であることを目指しています。(CFF小倉福音センターの祈り・信仰指標から)

■福音派・聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)・聖書主義の人が内包する「カルト化問題」をこの世代で終息できますように。教会が牧師の誤り・マインドコントロール・権威主義・独裁を指摘できずに多くの人を従わせ、モラルや常識など、どの人にもある心の引っかかりや良心をなおざりにして、聖書信仰やリバイバル信仰に熱くなって人を裁き、自分と家族に負担をかけ、2世や若いクリスチャンの離反を招いていることを克服できますように。
また、脱会後の「脱マインドコントロール」のリハビリ・回復と、その実生活の困難さを理解できますように。
これを信仰的姿勢と現実的姿勢で正面から捉えて祈ります。
時に辛らつに人の内面を見ることが必要かもしれませんが、自分の中にも確かにあるものとして心の整理をすることで、問題の本質が見えるのかもしれません。
試練は、神に真に祈り出会うための神の摂理と言えますが、それを認める強さが欲しいですし、求めていく中で見えるものがあります。

■教会のカルト化や縛りに巻き込まれないための3つの知恵
1.祈りと聖書読み−−日々必要な神様との交わりと悔い改めをする、教えの風に翻弄(ほんろう)されない避け所として、各々個人の祈りと聖書読みのシェルターを確立しましょう。
2.二つ以上の教会に安心できる交わりを確保しましょう。−−今の所属教会に並行して、さらに避け所となる他の教会を必ず把握しておき、日ごろから広く他教会・他教派のクリスチャンと親しくし深い信頼関係を築きましょう。安心し信頼できる他教会や他教派の話題を所属教会で積極的に話しましょう。しかし、拒否や非難を受けはじめたら、他の信頼できる教会の交わりにそのことを伝え教会のカルト化の危険について話し合い、転会の準備を始めましょう。そのためにも、信頼あるクリスチャンの友情を日々拡げて大切にしましょう。
3. 教会以外の関わりを大切にしましょう。−−友人、家族、職場などで、ご自分を理解してくれる方々がいらっしゃると思います。その方の何気ない助言や世間話に、思いやりを感じることは、とても大切です。私たちが、信仰に対する外からの目を持つことにもなります。正しい「証し」は、一方的な押し付けではないことも分かります。

−−−真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために−−−
−− 避難の場(シェルター)としての「個人の祈り」を守るために −−
執筆者 仁保裕介(プロフィール
『すべて失望した人の唇に祈りを。』
祈りは、生活の現場から誰にでも自由にできるものです。
キリストは呼び求めるすべての人と共に居る方です。清い人や会堂や神殿にしか現れない方ではありません。むしろ、自分はふさわしくないと思う人のそばに居るのがキリストです。
受洗して教会員になった教会が、「この教会で信仰生活を続けられなければ、救いや信仰の道から外れる」と言うのは、真実ではありません。
 避難の場(シェルター)としてキリストに求める祈りには、「キリストが共に居る交わり」が必ず与えられています。
このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。テーマは重いですが、皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。キリスト教の視点で、成長、試練、十字架、悔い改め、聖化の記事になっています。
ほんの5才から信仰45年のクリスチャン2世として、キリスト教会内の教派主義・人間関係・権威化・カルト化によって傷を受けた皆さんと共に祈り、脱出と自立と今後の信仰について現実的視点で触れていきます。
元「主の十字架クリスチャンセンター 鎌倉教会、北九州教会」牧師・脱会者