カルト化教会の被害の当事者は、尽くした想いと人生を台無しにされる経験をして、
理不尽を訴え、無くしたものを取り戻したいと、心が叫んでいます。

私たちは霊的な回復の権利、悪に勝利する権利を持っているはず、キリストを信じたのだから、と思います。
キリストは確かにそんな私たちを決して見捨てません。

しかし、それを他人が受け止め続けることは困難ですし、
他人に向かって執拗に叫ぶと厄介者扱いされてしまいます。
それが現実です。

他人や社会は、教会に人生や心を捧げるような献身をあまり理解しません。
なぜなら、教会に存在するリスク、被害に遭うような危険や異質さを普通に感じとり、「おかしい」という感覚を持っているからです。

他人には理解できず、他人には負えないような重荷を、教会を信じることで自らが負ってしまう。
しかし、それは子供だったり、心が弱っていたりして、すがらざるを得ない状況でした。

改めてみことばに立ち返ると、私たちの被害や困難、試練はいつもキリストに会うためで、信仰と共にあります。
「もうキリストには会って交わっているし、私の祈りに神様は答えられる」と思っても、まだ知らない神様の御性質や御思いを発見することは、たくさんありますし、そう聖書に書いてあります。

教会に目を塞がれて、まだ知らないこの世の人の思いや生き方があることを知らずいたり、そこに伴うキリストを知らなかったりです。
そこに目を向け、神キリストは世の現実をどう思い、見て、寄り添い、負っているのか、
それを知ることは、教会で受けた悩みから解放され、新たな地平に進むことになります。

現実の社会では、危険や負ける恐れをあらかじめ計算に入れながら、回復の余力を温存しつつ危険や挑戦や開拓に向かうものです。
すべてを出しきって空っぽになるまで行くのは無謀と言われます。
何かに挑戦するのに、何も残さずにすべてをかけて捧げるのは、実際上、既に負けが決まっているやり方と言われても仕方ありません。

すべてをゆだね捧げるとは、空っぽになることではなく、今あるものをそのまま神様にゆだねて、共に居られるキリストの導きの手にすがることです。

カルト教会の牧師は、聖書を身勝手に利用して、「自分を否定して空っぽになる者が勝つ」「空っぽでないと聖霊はあなたを満たせない」などと教えてすべてを捧げさせ、人を使い捨てます。それが事実です。

そうして失った私たちは、それを認めたくありません。

キリストは、そんな私たちを責めず見捨てず、通っていた教会には無い、真の復活の命を直接与えます。

痛んでいる時は、身勝手に夢見る教会の牧師の教えを捨て、現実的なキリストを選びましょう。キリストがどんな人にも寄り添うことを見て信じ、自分と人の現実の真実な姿を受け止めて、これからの人生を踏破する覚悟を決めましょう。

他人を支配する気質は社会生活ではたびたび起きることで、他人にも自分にも、当然牧師にもクリスチャンにも普通に無意識にあります。しっかりた社会的距離感や境界線を意識していき、相手の支配を意識的に断ち切ることも必要です。

私たちが自分の中に受け入れて良いのは、弱い人にやさしく寄り添うキリストの姿であり、彼の語り掛けに耳を傾ける意識が要ります。しかし、それ以外のものが頭の中を支配するなら追い出しましょう。

というのは、神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである。
テモテへの手紙二 1:7
https://bible.com/bible/81/2ti.1.7


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■私たちクリスチャンは二人三人でも集まれば、そこを「キリストのみからだ」とすることができます。
洗礼の意味は「キリストへの信仰を持つ、人生の方向転換(悔い改め・回心)の決意」です。(洗礼は、授けた教会の組織員となる会員制度とは別のものです。)
牧師を上位に戴かずに、水平の交わりを心がけ、共に祈り神様を見つめて御声に聞き従うことを望み進む、この決心を共有する交わり・ネットワークを目標とする「キリストのみからだの教会」のあり方を求めます。
現状では「頼れる人として誰か教師を自分の上に置きたがる人の弱さ」を認め、私たちは日々そこから脱出して神様に祈り、主にある交わりをいただきます。同時に、助けを求める人の祈りに、あらゆる形で呼応するクリスチャンであることを決意し、自立への助けが必ずある「みからだのネットワーク」であることを目指しています。(CFF小倉福音センターの祈り・信仰指標から)

■福音派・聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)・聖書主義の人が内包する「カルト化問題」をこの世代で終息できますように。教会が牧師の誤り・マインドコントロール・権威主義・独裁を指摘できずに多くの人を従わせ、モラルや常識など、どの人にもある心の引っかかりや良心をなおざりにして、聖書信仰やリバイバル信仰に熱くなって人を裁き、自分と家族に負担をかけ、2世や若いクリスチャンの離反を招いていることを克服できますように。
また、脱会後の「脱マインドコントロール」のリハビリ・回復と、その実生活の困難さを理解できますように。
これを信仰的姿勢と現実的姿勢で正面から捉えて祈ります。
時に辛らつに人の内面を見ることが必要かもしれませんが、自分の中にも確かにあるものとして心の整理をすることで、問題の本質が見えるのかもしれません。
試練は、神に真に祈り出会うための神の摂理と言えますが、それを認める強さが欲しいですし、求めていく中で見えるものがあります。

■教会のカルト化や縛りに巻き込まれないための3つの知恵
1.祈りと聖書読み−−日々必要な神様との交わりと悔い改めをする、教えの風に翻弄(ほんろう)されない避け所として、各々個人の祈りと聖書読みのシェルターを確立しましょう。
2.二つ以上の教会に安心できる交わりを確保しましょう。−−今の所属教会に並行して、さらに避け所となる他の教会を必ず把握しておき、日ごろから広く他教会・他教派のクリスチャンと親しくし深い信頼関係を築きましょう。安心し信頼できる他教会や他教派の話題を所属教会で積極的に話しましょう。しかし、拒否や非難を受けはじめたら、他の信頼できる教会の交わりにそのことを伝え教会のカルト化の危険について話し合い、転会の準備を始めましょう。そのためにも、信頼あるクリスチャンの友情を日々拡げて大切にしましょう。
3. 教会以外の関わりを大切にしましょう。−−友人、家族、職場などで、ご自分を理解してくれる方々がいらっしゃると思います。その方の何気ない助言や世間話に、思いやりを感じることは、とても大切です。私たちが、信仰に対する外からの目を持つことにもなります。正しい「証し」は、一方的な押し付けではないことも分かります。

−−−真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために−−−
−− 避難の場(シェルター)としての「個人の祈り」を守るために −−
執筆者 仁保裕介(プロフィール
『すべて失望した人の唇に祈りを。』
祈りは、生活の現場から誰にでも自由にできるものです。
キリストは呼び求めるすべての人と共に居る方です。清い人や会堂や神殿にしか現れない方ではありません。むしろ、自分はふさわしくないと思う人のそばに居るのがキリストです。
受洗して教会員になった教会が、「この教会で信仰生活を続けられなければ、救いや信仰の道から外れる」と言うのは、真実ではありません。
 避難の場(シェルター)としてキリストに求める祈りには、「キリストが共に居る交わり」が必ず与えられています。
このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。テーマは重いですが、皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。キリスト教の視点で、成長、試練、十字架、悔い改め、聖化の記事になっています。
ほんの5才から信仰45年のクリスチャン2世として、キリスト教会内の教派主義・人間関係・権威化・カルト化によって傷を受けた皆さんと共に祈り、脱出と自立と今後の信仰について現実的視点で触れていきます。
元「主の十字架クリスチャンセンター 鎌倉教会、北九州教会」牧師・脱会者