キリストはすばらしい方でした。

「自分はもうダメだ」
という意識無意識の支配に屈して、
どうしても脱出できず、
「助けて下さい」と叫ぶばかりでした。

うなだれるばかりの祈りの時、キリストは一言も責めず、共に居てくれます。

そんな無力さが最も神様に近づける時、
無力の底がキリストと顔を合わせる場所ですね。
自我が自由にそこに行ければと思います。
弱さで「助けて」という自分に戻る時です。

でも、社会に出れば、無力のままではつぶされるだけです。
無力の底はあまり誰かに見せるものではありません。
教会に自分を明け渡してしまうのはやめましょう。
教会では、罪人だと意識させられ告白させられ、そのダメージは深いです。
「自分はダメだ」というメッセージとして教会の原罪の教えが完全に心に定着していきました。周りの親や大人も皆そう言うのです。

福音派の基本は、
『ヒューマニズム否定、聖書のみにすべての解決がある』です。
聖書の教えさえ記憶していれば良くて、
他の複雑な問題には実に無頓着です。
「聖書に従えば解決するはずだから、解決しないのは不服従と罪のせい」などと言います。
「心理カウンセリングを受ける」と福音派で言うと「人間的な解決法では根本の(罪の)問題は解決されない」と言う牧師や信徒がいます。でも彼らに相談しても思いつく聖書箇所を並べるだけです。
福音派のアイデンティティは「聖書のみ」。
「救いは全人格のものだから、日常でも聖書に無い他のことは認めない。」
「テレビを見せない。心を悪魔やこの世から守り清く保つ」と言う人までいます。

私は、祈りで叫ぶことでキリストに会えました。

それは福音派では教えられなかったことです。逆に福音派の教えに縛られた不自由さからの叫びがかなり大きいです。

私は今は、キリストはどの人にも共にいると思えます。
「クリスチャン以外にキリストが共にいる」と言うのは福音派では絶対NGワードでしたが、
「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」というキリストのことばは誰にでも約束されています。

御子キリストは唯一の父・御子・御霊の三位一体の神の一位格であり、地上に降りて神でありながら人として産まれ人として生きた神です。
神は人を神に似せて造り、語り合えます。わけのわからない未知の教えを並べてまくし立てるような方ではありません。

福音派は、キリストとの会話というと『霊的に危険』と言ってきました。
福音派は、聖書の逸脱だと言って聖霊派拒絶もしました。

「聖書のみ」が錦の御旗であり、そのために多くの人を否定し、頭で考えて教えた教義で縛り、自分達以外を「救いから落ちたとか、背教者とかサタンにやられた」と言い、
結婚や家庭や子どもたちの進路に圧力をかけたり、非難しました。

福音派は、こんな所業を悔い改めたのでしょうか?
腹の中に隠して、物分かりが良いふりをしているのかもしれない、
と思います。
福音派の問題をずっと書いていますが、
他の場でも、枠組みがあって確信があれば、人は平気で他人を脅迫し縛ることばを善意だと言い張りますし、自由を奪う規則にしてしまいます。信じる未来や発展に必要だと確信しながら。

今の自分がどんな人なのか、いつも問われています。
自分の人としての弱さを認められることが正気であり、キリストに会える場だと思います。
愛と寛容の実は、そこからしか生まれないでしょう。

見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
ヨハネの黙示録3:20


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  福音派・聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)・聖書主義の問題、リバイバル信仰の問題、潜在意識など心理的背景、教会のカルト化問題、クリスチャン2世問題を扱います。その当事者として信仰的姿勢と現実的姿勢で原因考察とお勧めをしております。
  教派信仰問題の経験者の今後のあり方、信仰と救い、社会性、人生の背景、自立した生き方を探求します。内容が辛らつすぎると思われる方は、自己批判・内部告発とお考えいただきたいと思います。

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