『神の国とその義を第一に』したら…
神様が機械的に反応して必ずすべてが与えられ、現実に必要が満たされる?

罪を告白してたら、自動的に真っ白になる?

常識で考えて、人格や心の問題が、機械的で自動的なのは胡散臭く、カルト宗教や詐欺みたいです。

神様との人格の交わりがあり、
人生で知り学ぶことがあります。

救いのため、生きるためのすべてが与えられ、真っ白にされるには、
『キリストの十字架は私のため、と告白することだ』と教えられます。

その告白が形式ではなく、
心の真実にするため、
深い思慮のため、
キリストに飢え渇きキリストを求める心の貧しさの価値を知る、
そのための祈りが心の真実になるのでは。
人との出会いにも助けと愛の真実、
不十分不完全な人同士にある求めと渇きと愛を学ぶ導きがあるのでは。

真実な求めは、人生がそのための道筋になっていくように感じます。

祈りと心が変わっていきます。
教会・牧師・年長の信徒が言う簡単に脈絡もないような理想形や悟りや興奮状態で盛り上る決まり文句とは違う、
貧しく渇く現実の中で祈ることには、人としてとても現実的に生きる苦しみも喜びもありますし、継続した聖霊の働きと聖化がその現実にはあります。それは神秘的と言うより、淡々と現実としてあるのです。

だから、神秘の霊の法則を装う機械的自動的な決まりや伝説ではなく、
人の心と現実にすべて必要な神様の配慮が満ち、その上でいつのまにか意識されずに清く白くされていくもの、それが聖霊の働きであり聖化ではないでしょうか。
清さはがんばりや世間体ではなく、
気になることを気にすること、その素直な祈りによると思います。

「人としてどうか、
私の心はどうか、
赦せない愛せない、
その本音があって、ふさわしくないと思っても、
赦し愛し愛されていく現実を許せるか、
クリスチャンの心は実際どこにあるのか」など、
葛藤は大切な祈りの入口の渇きとふさわしい貧しさだと思います。

でも教会の教義に縛られてしまった葛藤はやっかいです。
人としての必然や個性や素直さ、ヒューマニズムを否定しがちです。

心からの本音の祈りでなければ、どうして信仰告白や悔い改めと言えるのでしょう。

キリストの十字架の救いは、口先だけ形だけの祈りにどう関わるでしょうか。

そんな知識に関係なく、
ただ、助けて!という叫びが真実で、まっすぐ神様に届きます
この計算の無いまっすぐな真実さには、どんな有名牧師でも神学者でも、誰もかないません。

私たちの罪は利己的な計算高さがあるので、まっすぐさは続かず、

だから信仰の先輩ほど冷たくさめていて、それを隠すために残酷に、"まっすぐで素直な年下信徒"を律法で縛るのかもしれません。牧師も初めの愛を失い、教理や知識を優先して、若く幼いまっすぐな愛やただ神にすがる思いを否定したりします。

聖書のキリストは、子どもたちをみもとに集める方です。
知識もなく、若く、愛や求め叫ぶことを、キリストは決して否定しません。
教理の知識というより、人生でキリストに伴われて学ぶことはたくさんあります。教理の知識はあってもいいですが、その知識に邪魔されずに人生でキリストに教えられることで分かることの方が、心に真実として実ります。そして、知識の意味を本当に悟ります。

信仰と愛の実をあきらめた牧師と先輩が教会をダメにして支配します。
年を重ねた悟りという名のあきらめの境地は固着していて、誰にもくつがえせません。キリストも当時の宗教者たちの利己的で形式的な信仰の冷たいかたくなさによって、残酷に十字架にかけられたのです。キリストに何の罪も無いのに、真っ当な指摘に逆上してキリストを殺しました。

教会のカルト化で、私たちも心を殺されかけ、
キリストはそれを理解して伴われていますが、
心の傷が深いほど、キリストのことさえ恨みたくなったりしてしまいます。
その時は、他の助けを得て良いのです。

キリストは、
彼ら宗教者教職者が伝える聖書のみことばは守り、
でも彼ら自身の行いを決して見習わないように、
と警告します。

聖書の中で、キリストにまっすぐ助けを求めに来た人たちは、教会で嫌われた人たちでしたから教職者の説教も聞けなかったでしょうし、祈りでさえ会堂ではあまりできなかったでしょう。
知識もなく教会を追い出され、ただキリストに助けを求めました。その人たちが先に救われるのが神の国です。

キリストの説教会場に喜んで表立って参加できた会衆は、会堂に行けて教えと律法を知っていた人たちなので、
キリストは、ほんとうは何が大事か、第一にすべきかを教えました。
宗教的知識を持つ会衆より、汚れているとか罪を犯したと嫌われた人たちの方がまっすぐに助けを求めた結果、キリストがすでに理解していて優しく寄り添い、友となり、疎外された彼らが先に神の国に入ったのです。

試され、練られ、清められる、という聖書の箇所はどうなるのでしょうか。

試練は、救いと助けを求めるまっすぐさを取り戻すために、余計な知識のこだわりを削がれて、ただキリストに触れるためのものだと、少しずつ感じるはずです。

そして、キリストの伴いと語り合い、交わりさえあれば、他は要らないと思うようになります。

福音派聖霊派のおかしなところは、
ゆるし、救いを、その人の形式的な口先の告白だけに頼り、すぐ教会員にして献金をつのり、
教会に参加して教えに従い奉仕して献金することが、神様の守りと恵みの範囲に居るための脅迫的義務にしてしまうことです。

その教会や牧師こそが口先だけで聖書解釈や教理を言っています。

牧師に心は有るのか無いのか、

「牧師の教えを疑う余地はゼロだ」と、いったい誰が保証してくれますか?

人は例外なく罪びとですが。キリストは見分けなさいと警告しています。
「献身しています、神学校を出て任職されています」と言うだけで正統の看板だけを名乗り、
十字架や聖霊やみことばの実質を認めていない牧師は確実に存在します。彼らはキリストよりも教団教派や牧師の肩書きの看板と自分の教義や奇跡体験や証しに確信と誇りを持っています。

簡単に教会や牧師を信じ、神聖視しすぎるので、教会も牧師も反省しません。
だから、試練や問題を「あなたの罪のせい、祈り不足、教会・牧師への服従不足」などと平気で言って、独りよがりの勝手な主導権で信徒をコントロールするのでは。
実際にカルト化が起きていますし、どの教会もカルト化する可能性と隣り合わせです。

これは、カルト化の外側から見れば、誰でもがこの状態をあぶない、おかしいと思うような、常識的で当然の疑問です。
私たちがもしこんな疑念をどの牧師や教会に対しても持たないなら、カルト化に無防備です。または、すでにカルト化の影響を受けている可能性すらあります。
この指摘を一切拒み、逆ギレや半笑いや無視をし、
または、当たっている指摘を悪魔とかサタン呼ばわりするなら、
どうぞ、すぐ脱出してください。

そしてキリストが友として愛で触れようとする、肌感覚を求めてください。

自分を大切にできないと、誰かに愛されても分かりませんし、人を愛することもできません。
カルト化状態の教会にとどまると、自分と周りを愛や救いから遠ざけていまいます。


汽灰螢鵐8:1
しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。

汽灰螢鵐13:1
…愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。

汽謄皀1:5
この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を、目標としています。



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時に辛らつに人の内面を見て、人がどこまで自己中心で他者に残酷にできるかを知ることが必要かもしれません。それが、自分の中にもあるかもしれないものとして心の整理をすることで、問題の本質が見えるのかもしれません。罪びとであることを、あきらめずに、キリストを人の心の罪ある素地に迎え入れられるかどうか、良い顔だけの自分ではないことを知る勇気はいつでも必要です。
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1.祈りと聖書読み−−日々必要な神様との交わりと悔い改めをする、教えの風に翻弄(ほんろう)されない避け所として、各々個人の祈りと聖書読みのシェルターを確立しましょう。
2.二つ以上の安心できる交わりを確保しましょう。−−今、所属教会があれば並行して、さらに避け所となる他の交わりを必ず把握しておき、日ごろから広く穏健なクリスチャンの友人たちと親しくし深い信頼関係を築きましょう。
3. 教会以外の関わりを大切にしましょう。−−友人、家族、職場などで、ご自分を理解してくれる方々がいらっしゃると思います。その方の何気ない助言や世間話に、思いやりを感じることは、とても大切です。私たちが、信仰に対する外からの目を持つことにもなります。正しい「証し」は、一方的な押し付けではないことも分かります。

−−−真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために−−−
−− 避難の場(シェルター)としての「個人の祈り」を守るために −−
執筆者 仁保裕介(プロフィール
『すべて失望した人の唇に祈りを。』
祈りは、生活の現場から誰にでも自由にできるものです。
キリストは呼び求めるすべての人と共に居る方です。清い人や会堂や神殿にしか現れない方ではありません。むしろ、自分はふさわしくないと思う人のそばに居るのがキリストです。
受洗して教会員になった教会が、「この教会で信仰生活を続けられなければ、救いや信仰の道から外れる」と言うのは、真実ではありません。
 避難の場(シェルター)としてキリストに求める祈りには、「キリストが共に居る交わり」が必ず与えられています。
このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。テーマは重いですが、皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。キリスト教の視点で、成長、試練、十字架、悔い改め、聖化の記事になっています。
ほんの5才から信仰45年のクリスチャン2世として、キリスト教会内の教派主義・人間関係・権威化・カルト化によって傷を受けた皆さんと共に祈り、脱出と自立と今後の信仰について現実的視点で触れていきます。
元「主の十字架クリスチャンセンター 鎌倉教会、北九州教会」牧師・脱会者