どの人もキリストに知られ、心も命も痛みも喜びも、その人が感じる以上にキリストが共にいて感じていること。
自分で「おかしい、変だ、罪かも」否定して抑えて捨てようとしてきた様々な思いや感じ方を、その当時からキリストはどんな思いも感情も含めてあなたを100%受け入れ、愛しいつくしんで来たことを知ります。キリストの十字架の死と復活はまさにそのためです。
自分でも意識できないししたくない潜在的なトラウマは、うまく生きられない足かせですが、キリストはそこも理解しています。
だから普通の人には理解できないことも、一つ一つのトラウマに応じて、一つ一つ丁寧に紐解き、時には気づかないうちに薬が塗られています。
これを発見する旅をキリストを認めて共に。
生きたくない人生の底、心の底、トラウマの底に、たとえ行けなくてもキリストはすでに底にいてケアしてくれています。
これからを期待していいのでは。
優れるためではなく、弱い自分、そのままの自分を認めて。
愚かなままで、会うキリストは、絶対優しいしよく説明してくれます。
この日、ふたりの弟子が、エルサレムから七マイルばかり離れたエマオという村へ行きながら、 このいっさいの出来事について互に語り合っていた。 語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。 しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった。 イエスは彼らに言われた、「歩きながら互に語り合っているその話は、なんのことなのか」。彼らは悲しそうな顔をして立ちどまった。 そのひとりのクレオパという者が、答えて言った、「あなたはエルサレムに泊まっていながら、あなただけが、この都でこのごろ起ったことをご存じないのですか」。
そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。 キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。 こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。
一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、 彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。 彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。
ルカによる福音書 24:13-18, 25-27, 30-32 JA1955
https://bible.com/bible/81/luk.24.13-32.JA1955
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福音派、聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)、聖書主義、終末携挙信仰、リバイバル信仰、潜在意識など心理的背景、牧師・教会のカルト化問題、クリスチャン2世問題を扱います。その当事者として信仰的姿勢と現実的姿勢で原因考察とお勧めをしております。
教派信仰問題の経験者の今後のあり方、信仰と救い、社会性、人生の背景、自立した生き方を探求します。内容が辛らつすぎると思われる方は、自己批判・内部告発とお考えいただきたいと思います。