心の底からの叫び祈り
弱さや困窮からの絞り出す祈り
ただ真実を願いその中で生きたい祈り

祈りは形ではなく心の声
それなら必ず神様に届き聞かれています

福音派牧師の説教の『神に聞かれる祈りには、まず聖書を読み服従することが必要』などという話はまったく当てになりません
教会に来て聖書解釈を教わって従わないと神に何も聞かれないかのように言うのは
キリストと人の間に牧師が立ちふさがり『神に祈る前に牧師の言うことを聞け』と言うに等しく
彼らを信じるとキリストの声はねじ曲げられて人間的で強烈な思い込みの責めや義務に洗脳され、脱出して自由や自己肯定を得るのに一生を費やすことになります。

心の声に忠実にそのまま神に言うようにしましょう

キリストとの交わりや、聖霊の働きが分からなくても、心の祈りをした時点でもうキリストとの歩みが始まっていて、導きや出会いや示唆が日常の所々にあるのを発見します

最初は疑心暗鬼でも、真実な心の祈り求めを続けて、導きや思いの中に来る声に気をつけて、
そこで他にはない平安があり、自分のやる気からではない確信があればそれを信じて動いてみる、その継続と繰り返しでキリストが共にいる確信が自然と揺れなくなります。

個人的に神に出会い対話する、共に歩む

そもそも多くの教会が
『人にはできないし分からないから教える』という目的と態度なので
教会では皆が『できない分からない』ところに留まってしまい
教える人教わる人の立場が固定して一生になるのに
教える牧師は神学校で学んだだけで人生で学ばず、キリストが普通の人に静かに伴い応えることも知らないことがあります

祈り求めればすぐその場にキリストは居て聖霊はすでに働いて、祈り求め顔を向ける人をありのまま肯定して対話の中で繰り返し人が自分を知るようにしていて

真の神ならその人らしい次のステップに向かわせます

『できない分からない罪だから』悔い改めへりくだりのループに居るのは教会や育ってきた環境の枠のせいです

キリストは求め来る人を理解して生きるために導き、対話して励まし、道を共にして共に感じています

キリストをすぐ近くにいていつでも話せる友に思えないのは教会の教えの枠のせいです

牧師と教会の人の言葉による深い傷があるなら、
そこから離れるようにキリストに導かれ、
たとえ教会に行かなくても平安に過ごせるように様々な体験と発見をします。

悔い改め、キリストの愛、聖霊の満たし、救い、永遠の命
これらの言葉を聖書的・聖書通りと言いながら悪い教会は脅迫と洗脳に使い、キリストが糾弾した祭司や律法学者たちよりももっと悪く、会堂に来る人を支配します
その教会が勝手に想像するのは『罪に厳しい神がキリストの犠牲に見合う悔い改めと行いを人に迫る』ということ

教会によって与えられている傷があっても『自分も罪人だから』と我慢してしまい、
自分より他人と教会を優先して第一に大切にして
自分を大切にできず、
自分が傷ついていることに鈍感になって忙しくして放置してしまい、
無理して『与える愛』ばかり、自分を犠牲にすることばかり意識していて、自分を後回しにしていて
そこから
傷みが積もって心から吹き出して、

その底から一人で真実を求めて

命の中心から渇いて、
しっかり自分の素直な心を守り、自由を求める人はキリストを見出します

牧師に言いなりの教会に従うのであればずっとキリストに会えずじまいです

悪い教会に毒されてしまった心や聖書の言葉から這い出すために、
教会の外の良心や常識を自分の中に入れていく必要があります
教会を離れて、良いものと正しさを見つけるのです

会堂に集い教団や牧師のことばに従い『聖なる祭司、神の国民』のステータスに酔わされる人たちは信仰を見誤り
何の問題の解決にもならず
教会に絶望して心の本音を伝えると避けられて捨てられてしまいます


キリストは誰にも知られず貧しく小さい魂の祈りに最大限応えます

この旧新約聖書の普遍的な法則

キリストによる信仰の前提は、
あわれみと赦し、
人の心の純真な、子どものような、生きるための求めであり

それに対してキリストのものではない人の教会は
人の側でまず悔い改めて定型の言葉の信仰告白をして言葉通り従う奉仕を前提としていて
できなければまた悔い改めから繰り返すループ
それは真面目な人ほど大変で、
適当な自分中心の解釈の人ほど教会で幅をきかせて

良心や常識をまったく期待できない人物に期待したりあわれみを持って良いものを与えようとしても、引き裂かれて捨てられ心を廃墟のようにされます

良い発想、人を生かし救う発想は、それを本当に心から願う人にしか生まれません

『聖書通りの信仰』と言っても
聖霊によらなければ救われない
それはシンプルな人の心の願いであればすぐ実現します

神、キリストに自分で向き合うと決めて、自分の心の純真で救いと正義を信じることは本当に幸い

他に何も信じられなくても、キリストだけは裏切らないと信じられる幸いがあります

教会からの裁きや縛りから脱して、貧しい者に寄り添い自身を顕すキリストを信じて心の芯に迎えれば
過去の教会の縛り、人からの縛りなど、世の試練は乗り越えられます

キリストを心で求めれば、すでにキリストは共にいます
そうして日々個人的にキリストを近く思って自分の中で会うことが救いです
福音書にある出会いを見れば分かります

キリストだけに真実と正義を一心に求めれば、毎日の生活のリアルに共にキリストが居て、経験や見聞きする中でキリストが導き語りかけ

キリストの関心と導きが今の時を越えて
人間の弱さ、強がって浪費する時間をも前提にしていて、永遠の神の時間の考え方で人間を忍耐強く導くという愛を、人に確かに分からせます

「教会の教えと合わない」
「すぐに変化がない」
「思ったような祈りの応えがない」
これは教会のイメージや宗教のイメージに縛られた信仰の結果です

それとは違い、福音書にあるようにいつどんな時にも人の現実を理解してすべての場面にすでに共に居る現実のキリストのあり方が正しいのです

自分を生かし愛するのは人として当然で、その上で神を愛し隣人を愛する
自我やアイデンティティがあって常識と与える愛を持ち、縛り支配への拒否を持つことは健全です

ただ、キリストと親しく会い、導きを受け入れる道中で自分を変えられる時には、過去の自分をキリストと共に十字架につける、それは仕事や人間関係や家族関係などの日常にあって、
私たちは、キリストと居れば、いつのまにかその試練を通過し、変えられていきます
それは人にはできないことで、増して教会の教えや牧師の意図などで人を変えるなどできません


人を縛る悪い教会と牧師は、永遠の救いと喜びを人質にして、永遠の裁きと滅びの恐怖で脅して、教会に来た人の心を拉致し家族ごと教会と牧師の奴隷にしようとします


正しい救いとは、神を愛するとは、
人を超える正しさ公平さ、配慮、生きるために必要なものを与える存在として、身近に感じ、いつも一緒に物事を見て感じて、同じ目線で共に生きる友であり、自分と他人を生かそうとするキリストを信頼して愛して、発見し気づいて変えられて自由になっていくこと

人は罪も知っており愛も知っていて
誰でも成育の中で意識します
親や家族や環境で歪みも出ます
教会も歪みの一部であることは間違いありません
『聖書を知れば正しい知識を持つ』と思ってしまう時点で間違っています
人間が聖書を知るのは聖霊によるはずなのに、人間が聖書を教えるからです

『神を知らず無視するのは生まれながらの罪』という原罪の教えは
福音派聖霊派の徹底した妥協の無い聖書信仰と教会牧師への服従を静かに教えて
実は人の内面では脅迫的に響いて誘導されていて
聖書や信仰で正義感を持ち自分と他人を裁くようになってまた愛の無い罪の意識に戻るループです



さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。 この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。 だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。
ヘブル人への手紙 4:14‭-‬16 JA1955
https://bible.com/bible/81/heb.4.14-16.JA1955


悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。
エペソ人への手紙 6:11 JA1955
https://bible.com/ja/bible/81/eph.6.11.JA1955


彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。

そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。 女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。〕
ヨハネによる福音書 8:7‭, ‬10‭-‬11 JA1955
https://bible.com/ja/bible/81/jhn.8.7-11.JA1955


人をさばくな。自分がさばかれないためである。 あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。 聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。 求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。 すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。 あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。 魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。 だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。 狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。 命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。 にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。
マタイによる福音書 7:1‭-‬15 JA1955
https://bible.com/bible/81/mat.7.1-15.JA1955



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真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのために
  新改訳聖書を使う福音派、聖霊派(カリスマ派・ペンテコステ派)、聖書主義、終末携挙信仰、リバイバル信仰、潜在意識など心理的背景、牧師・教会のカルト化問題、クリスチャン2世問題を扱います。その当事者として信仰的姿勢と現実的姿勢で原因考察とお勧めをしております。
  教派信仰問題の経験者の今後のあり方、信仰と救い、社会性、人生の背景、自立した生き方を探求します。内容が辛らつすぎると思われる方は、自己批判・内部告発とお考えいただきたいと思います。
  NCC日本キリスト教協議会に属さず、JEA日本福音同盟やJPC日本ペンテコステネットワークに加わっている福音派聖霊派教派の自浄作用を期待して記事を書き20年になります。
  他教会の問題であっても福音派を名のることを躊躇するような事がずっと起き続けて終わらないのは、『クリスチャンも罪人』という言い訳で済む問題なのでしょうか?『聖書的』『聖書信仰』と言うだけで、すべて許されるのでしょうか。